小澤 征爾
OZAWA, Seiji
(1935年昭和10年9月1日満州国奉天 現在の中国瀋陽市に生まれる)
Birth place:Mukden Manchukuo
Date of Birth:1/9/1935
1.職業
日本の指揮者
クラシック音楽の教育者
2.称号
新日本フィル桂冠名誉指揮者
ウィーン国立歌劇場名誉会員
ウイーン・フィル名誉団員
ベルリン・フィル名誉団員
長野県名誉県民
名誉都民
サンフランシスコ大学芸術博士号
米国ハーバード大学名誉博士号
フランス、ソルボンヌ大学名誉博士号
成城大学名誉博士号
<小澤征爾 家族>
祖父:小澤新作 農業・土木請負業・消防組頭・村議会議員
祖母:
父:小澤開作 東京歯科医学専門学校卒・歯科医師・関東軍政治参謀・中華民国新民会総務部長・華北評論/社主編集長・戦後は川崎で歯科医院開業
母:小澤さくら(旧姓:若松) 母方の高祖父:大津隆三郎は仙台藩伊達家指南役、斎藤秀雄はさくらの(はとこ)にあたる
長兄:小澤克己 東京藝術大学卒/パリ留学・彫刻家・レディヅ・ホテル開業
二兄:小澤俊夫 東北大学卒・ドイツ文学者・筑波大副学長/名誉教授・日本女子大教授・白百合女子大教授・昔話研究者
三男:小澤征爾 指揮者
次弟:小澤幹雄 早稲田大学卒・俳優・エッセイスト・司会・芸能人
妻:入江美樹(小澤ヴェラ・イリイン) ファッションモデル
長女:小澤征良 エッセイスト・演出家
長男:小澤征悦 俳優
3.小澤征爾 歴史年譜
1935年(昭和10年)
9月1日満州の奉天の奉天医大病院で小澤家の三男として生まれた。父開作と親しくしていた軍人・板垣征四郎と同じく軍人の石原莞爾の二人から一字ずつもらって「征爾」と名付けた。のちに兄弟たちは、長兄・克己は彫刻家、次兄・俊夫はドイツ文学者・筑波大副学長を務め弟・幹雄は司会・講師・音楽ジャーナリスト・著作者となった
2000年8月長野県奥志賀高原で大江健三郎は、『小澤さんが西洋の音楽を学び始めた、そしてそれを外国に向かって出していった、そもそものきっかけは、どういうことでしたか』。小澤征爾はこう答えた、『おふくろはキリスト教徒なもんで、教会で賛美歌をうたう。子供たちを日曜学校に無理やり連れてって、そのうちに僕たちはだんだん面白くなってその日曜学校が大好きになった。男の子四人だったものですから、当然四人で賛美歌をうたう。だから音楽の最初はまったく賛美歌です。おふくろや日曜学校で教わった賛美歌。亡くなった一番上の兄貴はすごい音楽的才能のある男で、音楽を本気になって勉強し始めた。本当に物がないときで、ピアノもありませんから、ハーモニカとかアコーディオンとか、いまから思うと木琴のようなもので、名前忘れちゃったんだけど、鉄でできている楽器で叩くと音が出るわけですね(多分=鉄琴のこと編者)。一番手近にあったのがアコーディオンで、それが僕にとっては最初の音楽です。教会へ行ってオルガンを聴いて、下の兄弟三人の中で一番のめり込んでいったのが僕で、結局、長男と三男の僕が最後まで音楽を続けた』
引用文献:小澤征爾・大江健三郎『同じ年に生まれて』、中央公論新社、2001年、P14~15
1936年(昭和11年)
10月一家は奉天から北京に移り北京市東単新開路35号(写真)に住む。
1941年(昭和16年)
3月帰国し立川市柴崎町三丁目の貸家に住む。自宅の前にあった若草幼稚園入園した
1942年(昭和17年)
立川国民学校入学、この頃長兄からアコーディオンの手ほどきを受け、小学校4年頃には習得。小学校の野球部ではエースピッチャーだった。
柴崎町三丁目に家を買い移った
1946年(昭和21年)
4月頃長兄の通う府立二中の許しを得て、音楽室のピアノのを特別に使わせてもらい兄から手ほどきを受ける。その頃、二中の大和先生からピアノを教わる。父と兄2人が横浜の親戚筋からピアノを買い、リヤカーで三日がかりで立川の家まで運んだ
1947年(昭和22年)小学年、卒業式で送辞を読む。
父の白百合ミシン会社設立に伴い一家は、神奈川県足柄上郡金田村に移り、金田村小学校6年転入石黒先生にピアノを教わった
1948年(昭和23年)成城学園中学入学。ピアノを豊増昇に師事。ラグビーに熱中しラグビーの試合で大怪我しピアノを断念。豊増昇に呼ばれて「音楽やめるのか?」といわれ「音楽続けたいけどどうしたらよいのか。ピアノはだめだから」というと「小澤君、日本人の指揮者が少ないから、指揮をやってみないか?」と言われた。小澤はそれまで指揮なんか考えていなかった
1949年(昭和24年)
12月23日兄に連れられ日比谷公会堂の日響コンサートでレオニード・クロイツァーの「弾き振り」を聴き感動、作曲家か指揮者になることを決意。母に話す。親戚に指揮者がいると聞く。親戚の指揮者とは(はとこ)にあたる斉藤秀雄である。斉藤秀雄の祖母の前島久と母さくらの祖父大津義一郎が実の兄妹。斉藤秀雄の父斉藤秀三郎は、正則英語学校創設者で一高の教授、「サイトウ英和大辞典」などを編纂した
1950年(昭和25年)秋、世田谷区代田に転居した
中学三年の時、母の紹介状を持ちひとりで斎藤秀雄から指揮を学ぼうと家に訪れる。斉藤は”来年音楽科が出来るから、それを待って入るように言われ、しばらくは山本直純という人に教えてもらいなさい”、と言われた。
1951年(昭和26年)成城中学卒業、成城学園高校に進学した。
世田谷区経堂に引っ越す
小澤は週に一度ぐらい家に来る山本直純から一年間指揮法を教わった。
1952年(昭和27年)
4月8日高校を中退し新設された桐朋女子高等学校音楽科指揮科に入学。第一期生女子生徒42名、男子生徒4名が入学した。
https://www.tohomusic.ac.jp/about/history.html桐朋学園音楽部門の歴史、第一期新入生の中に若き小澤征爾が写っている(最後列)
渋谷区笹塚に引っ越す
1955年(昭和30年)桐朋学園女子高校付属音楽科指揮科卒業、出来たばかりの桐朋学園短期大学音楽科指揮科入学。
5月中旬頃、小澤の指揮する桐朋学園オーケストラの練習風景を、来日中のシンフォニー・オブ・ジ・エアのメンバーと指揮者ワルター・ヘンドル等数人が見学しに来た。
川崎市幸区戸手町に引っ越す
1957年(昭和32年)22歳
卒業。夏まで桐朋学園音楽短期大学で斎藤秀雄に指揮法を師事し中学三年から始めた指揮の勉強でオ-ケストラを仕込む技術を身につけた。アマチュア合唱団・三友合唱団、群馬交響楽団、設立間もない日本フィル常任指揮者/渡辺暁雄の下で副指揮者となった
1958年(昭和33年)
フランス政府給費留学生試験不合格となる
1959年(昭和34年)23才
2月、水野茂夫等の援助でスクーター、ギターとともに貨物船「淡路山丸」で神戸から単身渡仏した
3月マルセイユに上陸 神戸から一緒のスクーターでパリへ向かう
4月パリ着
9月10日24才。プザンソン国際指揮者コンクールに応募し、ブザンソン市カジノ劇場での第一次予選、第二次予選を通過した。
本選出場の6名は、グランテアトル劇場で行われ課題曲はメンデルスゾーン《春の声》と新作を指揮した。ゲスト審査員にシャルル・ミンシュ、ロリン・マゼールらがいた。成績発表は3位ノルベルトシュール(独)、二位ジョバニネッテイ、小澤征爾は第一位に選ばれた。
その年の暮れ体調を崩し、南フランスのノルマンディの修道院へ静養に行く。
12月チロルにスキーに行った
1960年(昭和35年)24歳
7月2日渡米しボストンのタングルウッドへ。バークシャー音楽祭の指揮コンクールの各種試験を3日~8日済ませ、第1位を獲得した。毎週木曜日の定期コンサートの指揮を5週間行うことになった
8月9日5年振りとなるクーセヴィッキー指揮大賞受賞の決定内定を受ける。ニューヨークタイムズの音楽評論家ハロルド・ショーンバーグに「この指揮者の名前を人々は記憶しておくべきだ」と評された
8月に学生の頃からミュンシュに憧れていた小澤は、タングルウッドでミュンシュ指揮の第九のコーラスにいれてもらって歌っている。
9月25才ベルリンで行われたカラヤン主催「指揮者コンテスト」で第一位となり定期的(10月・12月・1月・4月の全部で16日間)にカラヤンから指導を受けることになる。そしてカラヤンとの親交はこの時から生涯続くことになった
パリで指揮者デビュー。
1961年(昭和36年)25歳
2月20日「日独修交100年記念」する演奏会で「石井眞木」と「入野義郎」の「現代曲」と、モーツァルト「交響曲」を指揮したのがベルリン・フィルとの出会いとなった
4月バーンスタインに招かれてニューヨーク・フィル副指揮者就任。
14日カーネギーホールでニューヨーク・フィルの定期の一部分を指揮してデビュー。バーンスタインとの親交はこの時から生涯続始まった
4月24日ニューヨーク・フィル日本公演に同行し帰国、神戸港を出発して2年3カ月ぶりだった。
5月日本での指揮デビューをした。
バーンスタインが川崎にある小澤家を訪問した
5月5日<1961 東京世界音楽祭> 黛敏郎《バッカナーレ(饗宴)》ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団を指揮 東京文化会館
6月22日 日本フィル / 第34回東京定期演奏会 / 日比谷公会堂で指揮
曲目
ベルリオーズの序曲《ローマの謝肉祭》 op.9
ドビュッシー《牧神の午後への前奏曲》
フォーレの劇付随音楽《ペレアスとメリザンド》組曲 op.80
チャイコフスキー《交響曲第五番 ホ短調》 op.64
7月杉並公会堂における放送録音が、小澤にとってNHK交響楽団との初顔合わせとなった
1962年(昭和37年)26歳
1月ピアニストの江戸京子と結婚。
1月10日サンフランシスコ交響楽団を指揮してアメリカデビュー
5月ニューヨークでのアシスタント指揮者の契約が終わり、6月からのNHK交響楽団指揮のため日本へ向かう。
小澤は6月20日から10月22日までの23の演奏会のすべてと、11、12月の定期公演および《第九》を指揮する予定で、半年間「客演指揮者」としてNHK交響楽団と契約していた
10月30日<日本フィル第51回東京定期演奏会> を指揮 東京文化会館
曲目
プロコフィエフ《交響曲第五番 変ロ長調》 op.100
モーツァルト《ピアノ協奏曲第二十番 ニ短調》 K.466
ラヴェル《ラ・ヴァルス》
江戸京子(Pf.)
11月のN響第434回定期公演が新聞批評に酷評される
11月16日にN響の演奏委員会が「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明し「NHK事件」起こる。小澤とNHKは折衝を重ねたが折り合わず、N響は小澤に内容証明郵便を送り付けた。
12月4日N響定期公演に向けリハーサルを開始するが、楽員のボイコットで練習不能に
12月18日にNHK交響楽団を契約不履行と名誉棄損で訴えるまで発展
12月20日N饗第435回定期公演は中止と発表された。小澤は契約通り上野の東京文化会館の会場に向かった。やがて開演時刻となり指揮台に立ったが、そこには楽員も聴衆もいない。
12月21日新聞は社会面に「天才は独りぽっち」とか「指揮台にポツン」と報道した
のちに小澤は何かのインタビューで『僕は、あのことがあったので、日本にいられなくなり、外国に行き、良かったのだけれど』と、事件を振り返って、現在の結果に結びついたのだと、強く語った。その事件後、「小澤征爾の音楽を聴く会」の発起人に井上靖、三島由紀夫、大江健三郎、黛敏郎、團伊玖磨、武満徹、石原慎太郎、一柳慧、中島健三、浅利慶太等がなり、日本フィルコンサートが行われる
<下、ヤング・ピープルズ・コンサート: Young Performers No. 3 小澤 征爾 / · Bernstein レナード・バーンスタイン · New York Philharmonic>
Original CBS Television Network Broadcast Date: 14 April 1962.
1963年(昭和38年)27歳
1月15日<小澤征爾の音楽を聴く会>が日比谷公会堂で開催され、小澤は日本フィルハーモニー交響楽団を指揮した
発起人には、浅利慶太・石原慎太郎・一柳慧・井上靖・大江健三郎・武満徹・團伊玖磨・中島健蔵・黛敏郎・三島由紀夫等
1月16日朝日新聞朝刊は三島由紀夫の「熱狂にこたえる道ー小澤征爾の音楽を聴いて」を掲載し注目を集めた
1月17日音楽評論家/吉田秀和や黛敏郎等の仲介により、NHK副理事長の阿部真之助と小澤が会談し、NHKと和解成立したが、のちに小澤は胸中を『精神的には滅茶苦茶にやられた。泣いたし、悔しかった。苦境を支えてくれたこの人たちのことを、ぼくは一生忘れない』と述べている
日本フィル首席指揮者就任した。
6月ラビニア音楽祭に参加。
7月シカゴ、ラヴィニア音楽祭でシカゴ交響楽団の指揮が大成功を収めた
10月東京・日生劇場のこけら落としのベルリン・ドイツ・オペラの《フィデリオ》公演でカール・ベームの副指揮者を務めた
<下、What’s My Line? – Seiji Ozawa (1963, TV Show)>
1964年(昭和39年)28歳
1月トロント交響楽団の初指揮をした。ラビニア音楽祭音楽監督就任した
4月24日 日本フィル / 第83回東京定期演奏会 東京文化会館で指揮
曲目
モーツァルト《交響曲第四十一番 ハ長調》 K.551 「ジュピター」
武満 徹《弦楽のためのレクイエム》
チャイコフスキー《交響曲第五番 ホ短調》 op.64
5月15日 日本フィル / 第84回東京定期演奏会 東京文化会館で指揮
曲目
バーンスタイン《キャンディード》序曲
ルーセル《交響曲第三番 ト短調》 op.42
リヴィエ《弦楽のための交響曲第三番》
チャイコフスキーの幻想曲《フランチェスカ・ダ・リミニ》 op.32
9月8日 日本フィル / 第88回東京定期演奏会 / 東京文化会で指揮
曲目
ベルリオーズの序曲《ローマの謝肉祭》 op.9
ショーソン《詩曲》 op.25
サン=サーンス《序奏とロンド・カプリチオーソ》 op.28
フランク《交響曲 ニ短調》
石井志都子(Vn.)
6月(1968年まで)ラヴィニア・フェスティバル音楽監督に就任
9月バーンスタインの長期休暇によりニューヨーク・フィルの指揮を務めた(19649月-1965年4月)
1965年(昭和40年)30歳
3月ロンドン交響楽団を指揮して英国デビュー
9月カナダ、トロント交響楽団常任指揮者・音楽監督に就任(1965-1969年)
12月22-24日ベートーヴェン《交響曲第9番ニ短調》「合唱付」 を指揮
中沢 桂(ソプラノ)
木村 宏子(アルト)
宮原 卓也(テノール)
中山 悌一(バリトン)
合唱:二期会合唱団, 東京混声合唱団
管弦楽:日本フィルハーモニー交響楽団
1966年(昭和41年)31歳
ザルツブルグ音楽祭でウィーン・フィルを指揮してザルツブルグ音楽音楽祭デビューした。
8月京子夫人と離婚
9月ベルリン・フィル定期演奏会に初登場し、ベルリン・フィルを指揮してデビューした
曲目
ベートーヴェン《交響曲第一番》
シューマン《ピアノ協奏曲第一番》
ヒンデミット《画家マチス
12月26日 日本フィル第131回東京定期演奏会で指揮 東京文化会館
曲目
ベルリオーズの死者のための大ミサ曲《レクイエム》 op.5
合唱:東京混声合唱団 合唱:東京放送合唱団 合唱:二期会合唱団 合唱:日本合唱協会 合唱:藤原歌劇団合唱部
1967年(昭和42年)32歳
ザルツブルグ音楽祭でカラヤンのアシスタントを務めオペラを勉強
11月「ニューヨーク・フィル創立125周年記念」で武満徹の《ノヴェンバー・ステップス》を指揮
12月23日日本フィル第151回東京定期演奏会 東京文化会館で指揮
曲目
ブラームス《交響曲第二番 ニ長調》 op.73
武満 徹《樹の曲》(日本フィル・シリーズ第6作)
エルガーの創作主題による変奏曲《エニグマ》 op.36
12月26日成城学園主催のハイドンのオラトリオ《四季》演奏会で日本フィルを指揮 東京厚生年金会館
出演:大熊文子 / 本橋美子 / 木下保 / 秋元雅一郎 / 成城合唱団
1968年(昭和43年)33歳
1月ボストン響定期初登場。
日本フィル首席指揮者就任。
入江美樹と結婚
9月3日日本フィル第164回東京定期演奏会を指揮 東京文化会館で指揮
曲目
ベートーヴェン《ピアノ協奏曲第三番 ハ短調》 op.37
ベートーヴェン《交響曲第四番 変ロ長調》 op.60
ベートーヴェン《合唱幻想曲 ハ短調》 op.80
ピアノ:松浦豊明 ソプラノ:佐野順子 ソプラノ:大川隆子 アルト:宮崎博子 テノール:唐津東流 テノール:山形忠顕 バス:木村俊光 合唱:都民合唱団 合唱:三友合唱団
12月25日日本フィル第171回東京定期演奏会 東京文化会館で指揮
ベートーヴェン《交響曲第九番 ニ短調》 op.125「合唱」
ソプラノ:斎藤江美子 アルト:木村宏子 テノール:鈴木寛一 バリトン:川村英司
合唱:藤原歌劇団合唱部 合唱:東京混声合唱団 合唱:二期会合唱団 合唱:日本合唱協会 合唱:東京カンマー・コーア
1969年(昭和44年)34歳
4月トロント交響楽団を率いて帰国
ザルツブルク音楽祭でモーツァルトのオペラ《コジ・ファン・トゥッテ》を指揮してオペラ・デビューした
5月21日 日本フィル第180回東京定期演奏会 東京文化会館で指揮
曲目
モーツァルトのオペラ《コジ・ファン・トゥッテ》 K.588 (演奏会形式)
ソプラノ:林 康子 メゾソプラノ:木村宏子 バリトン:平野忠彦 テノール:中村 健
ソプラノ:安田祥子 バス:佐藤征一郎 チェンバロ:小林道夫 合唱:東京混声合唱団
12月パリ管弦楽団の定期演奏会を初指揮
5月28日 日本フィル第181回東京定期演奏会 1969年05月28日 東京文化会館で指揮
曲目
G. ガブリエリ《ピアノとフォルテのソナタ》
高橋悠治《オルフィカ》 (日本フィル・シリーズ第21作)
マーラー《交響曲第一番 ニ長調》「巨人」
12月11日 日本フィル第190回東京定期演奏会 東京文化会館で指揮
曲目
武満 徹:《グリーン》
バルトーク《管弦楽のための協奏曲》 Sz.116
チャイコフスキー《交響曲第一番ト短調》 op.13 《冬の日の幻想》
1970年35歳
ボストン交響楽団のバークシャー音楽祭(タングルウッド)音楽監督就任(1970~2002年)
父・開作の死
ニューヨーク・フィルの大阪万博出演でバーンスタインと同行して帰国
9月8日ニューヨーク・フィルを指揮 東京文化会館
曲目
武満 徹《ノヴェンバー・ステップス》第1番
メンデルスゾーン《交響曲第四番イ長調》「イタリア」
ムソルグスキー《展覧会の絵》ラヴェル編曲
管弦楽:ニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団
12月サンフランシスコ交響楽団音楽監督就任(1970年12月~1976年)
1971年(昭和46年))36歳
サンフランシスコ大学から芸術博士名誉学位を贈られる
1972年(昭和47年)37歳
日本芸術院賞受賞
斉藤秀雄、山本直純、旧日本フィルを脱退した楽団員等とともに新日本フィルハーモニー交響楽団を創設し、新日本フィル常任指揮者に就任した
10月1日<オーケストラがやって来た>出演
1973年(昭和48年)38歳
ボストン交響楽団の指揮者・音楽監督に就任(1973~2002年)
2月23日新日本フィルを指揮 東京文化会館
曲目
ベートーヴェン《レオノーレ序曲第3番》 作品72a
モーツァルト《交響曲第41番ハ長調》 K.551「ジュピター」
チャイコフスキー《交響曲第六番ロ短調》 作品74「悲愴」
指揮:小澤征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団
新日本フィルを率いて香港公演
1074年(昭和49年)39歳
新日本フィルを率いてニューヨーク国連本部での「国連デー」で演奏、アメリカおよび欧州で公演
1975年(昭和50年)40歳
サンフランシスコ響を率いて帰国
1976年(昭和51年)41歳
サンフランシスコ響音楽アドヴァイザー就任(1976~77年)
6月14日<新日本フィルハーモニー交響楽団第40回定期演奏会>を指揮 東京文化会館
曲目
ストラヴィンスキ《詩篇交響曲》
モーツァルト《レクイエム》 K.626
中沢 桂(ソプラノ)
春日 成子(アルト)
鈴木 寛一(テノール)
高橋 大海(バス)
合唱:成城合唱団
指揮:小澤 征爾/ 新日本フィルハーモニー交響楽団
9月9日<新日本フィルハーモニー交響楽団 第41回定期演奏会>を指揮 東京文化会館
曲目
ペンデレツキ《広島の犠牲への哀歌》
メノッティ《チェロ協奏曲》 日本初演
チャイコフスキー《交響曲第二番ハ短調》作品17「小ロシア」
チェロ:ローレンス・レッサー
指揮:小澤 征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団
12月25日<新日本フィルハーモニー交響楽団 第44回定期演奏会> を指揮 東京文化会館
曲目
マーラー《交響曲》「大地の歌」
石井 真木《モノプリズム》―日本太鼓群とオーケストラのための― 日本初演
第1部 ―プレリュード「序」―
第2部 ―モノプリズム―
春日 成子(ソプラノ)
五十嵐 喜芳(テノール)
指揮:小澤 征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団, 鬼太鼓座(おんでこざ)
12月27日<ベートーヴェン:第九交響曲演奏会> を指揮 東京文化会館
曲目
ベートーヴェン《交響曲第九番ニ短調》作品125「合唱つき」
平田 恭子(ソプラノ)
大藤 裕子(アルト)
田口 興輔(テノール)
高橋 大海(バス)
指揮:小澤 征爾/合唱:日本プロ合唱団連合/新日本フィルハーモニー交響楽団
1977年(昭和52年)
11月7日<新日本フィルハーモニー交響楽団 第53回定期演奏会> を指揮 東京文化会館
曲目
武満 徹《秋》―琵琶、尺八と管弦楽のための
フォーレ《レクイエム》
琵琶:鶴田 錦史
尺八:横山 勝也
オルガン:志村 拓生
独唱:常森 寿子・木村 俊光
合唱:成城合唱団/合唱指揮:宮本 昭嘉
指揮:小澤 征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団
1978年(昭和53年)43歳
3月ボストン響を率いて帰国
6月1日 新日本フィルハーモニー交響楽団を指揮 東京文化会館
曲目
モーツァルト歌劇《魔笛》序曲
シューベルト《交響曲第八番ロ短調》「未完成」
リムスキー=コルサコフ《交響組曲》「シェエラザード」
ヴァイオリン:瀬戸 瑤子
指揮:小澤 征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団
6月2日 新日本フィルハーモニー交響楽団を指揮 東京文化会館
曲目
湯浅 譲二《オーケストラの時の時》
リムスキー=コルサコフ《交響組曲》「シェエラザード」作品35
独奏:瀬戸 瑤子
指揮:小澤 征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団
6月中国人民対外友好協会の公式な翔太により中国中央楽団と一週間にわたり客演指揮
1979年(昭和54年)44歳
ボストン交響楽団を率いて中国を訪れ演奏、中国音楽人の指導等にあたる
7月21日<新日本フィルハーモニー交響楽団 第71回定期演奏会> を指揮 東京文化会館
曲目
ドヴォルザーク《ノットゥルノロ長調》 作品40
ドヴォルザーク《チェロ協奏曲ロ短調》 作品104
ドヴォルザーク《交響曲第七番二短調》 作品70
チェロ:安田 謙一郎
指揮:小澤 征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団
1980年(昭和55年)45歳
スカラ座オペラ《トスカ》でイタリア・デビューした
1981年(昭和56年)46歳
ボストン交響楽団の楽団創立100年記念の世界ツァーを日本からスタートするため帰国
1982年(昭和57年)47歳
ベルリン・フィル創立百年記念コンサートを指揮した
<下、Martha Argerich and Seiji Ozawa rehearsing Ravel’s concerto on October 14th, 1982.>
1983年(昭和58年)48歳
ベルリン・フィルと初録音する
<下、《春の祭典》Le Sacre>
Seiji Ozawa Conductor / The Bavarian Radio Symphony Orchestra
1983
1984年(昭和59年)49歳
斉藤秀雄没後10周年を記念して「サイトウ・キネン・オーケストラ」を設立する
1985年(昭和60年)50歳
新日本フィルを率いて欧州公演
1986年(昭和61年)51歳
7月長野県山ノ内町で「子供のための音楽会」を開く
10月「サントリーホール杮落とし」でカラヤンの代役でベルリン・フィルを指揮
1987年(昭和62年)52歳
サイトー・キネン・オーケスラを秋山和慶らと活動開始、ヨーロッパ公演を行う
曲目
モーツァルト:ディヴェルティメント K.136
演奏 小澤征爾とサイトウキネンオーケストラ
<下動画、1987年9月11日 ベルリン・フィルハーモニーホール>
下動画<ヨーロッパを行く小澤征爾と仲間たち>
サイトウ・キネン・オーケストラの最初のヨーロッパツアー
1987年11月02日 放送 NHK総合
1988年(昭和63年)53歳
ウィーン国立歌劇場《エフゲニー・オネーギン》で指揮デビュー
1989年(昭和64年‐平成元年)54歳
ロストロポーヴィチと「コンサート・キャラバン」を開始
12月ボストン響と日本公演
ベルリン・フィル「ジルベスターコンサート」指揮
1990年(平成2年)55歳
ウィーン・フィル定期初登場
水戸室内管弦楽団の芸術顧問に就任
1991年(平成3年)56歳
ウィ-ン・フィルと初録音
1992年(平成4年)57歳
「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」開始、総監督就任
「若い人のためのサイトウ・キネン室内楽勉強会」開始
ベルリン・フィルより「ハンス・フォン・ビューローメダル」を授与される
オペラ《エフゲニー・オネーギン》指揮指揮してメトロポリタン歌劇場デビュー
1993年58歳
<”小澤征爾と子供たち” 劇的オラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」ドキュメント(1993年サイトウ・キネン・フェスティバル松本)>
1994年(平成6年)59歳
5月母さくらと中国に里帰りし、旧奉天にあった生家を訪れる
5月6日瀋陽市遼寧人民劇場で中国遼寧交響楽団を指揮
タングルウッドに「セイジ・オザワ・ホール」完成
プライムタイム・エミー賞個人業績賞を受賞した
<下、 R・シュトラウスAlpine Symphony / Hans Gansch on Trumpet(Seiji Ozawa with Vienna Philharmonic Orchestra>
1995年60歳
1月23日小澤は32年ぶりにN響を指揮
曲目
バッハ 組曲第三番から《アリア》
バルトーク《管弦楽のための協奏曲》
下、動画<我が最愛の友へ 小沢征爾とサイトウキネン (1995)>
1996年(平成8年)61歳
プライムタイム・エミー賞音楽監督賞を受賞
5月15日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、 神奈川県民ホール
出演:ガリーナ・ゴルチャコワ、リチャード・リーチ、ジェロルド・シエナ、ブリン・ターフェル、フランチェスカ・ブランチ、合唱:東京オペラ・シンガーズ
5月17日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、 尼崎アルカイックホール
出演:ガリーナ・ゴルチャコワ、リチャード・リーチ、ジェロルド・シエナ、ブリン・ターフェル、フランチェスカ・ブランチ、合唱:東京オペラ・シンガーズ
5月19日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、 尼崎アルカイックホール
出演:横山恵子、リチャード・リーチ、ジェロルド・シエナ、ブリン・ターフェル、フランチェスカ・ブランチ、合唱:東京オペラ・シンガーズ
5月21日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、 東京文化会館
出演:ガリーナ・ゴルチャコワ、リチャード・リーチ、ジェロルド・シエナ、ブリン・ターフェル、フランチェスカ・ブランチ、合唱:東京オペラ・シンガーズ
5月22日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、 東京文化会館
出演:横山恵子、ジョナサン・ウェルチ、牧川修一、ブレント・エリス、郡愛子、合唱:東京オペラ・シンガーズ
5月24日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、 東京文化会館
出演:ガリーナ・ゴルチャコワ、リチャード・リーチ、ジェロルド・シエナ、ブリン・ターフェル、フランチェスカ・ブランチ、合唱:東京オペラ・シンガーズ
1997年(平成9年)62歳
「サイトウ・キネン室内楽」勉強会を始める
1998年(平成10年)63歳
長野冬季オリンピック音楽監督就任。
長野冬季五輪のために世界の国歌を録音。
新日本フィルを率いて故ロストロポーヴィチとの日ロ親善・ロシア公演に向かう
1999年(平成11年)64歳
5月ボストン響日本公演。新日本フィル桂冠名誉指揮者就任
<下、8月31日松本にてインタビュー/小澤征爾64歳の挑戦~>(1.)(2.)
(1.)
(2.)
2000年(平成12年)65歳
若い音楽家の教育を目的に「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト」開始
同年米国ハーバード大学より「名誉博士号」を授与される
2001年(平成13年)66歳
日本政府「文化功労章」を受章
2002年(平成14年)67歳
1月ウィーン・フィル・ニュー・イヤー・コンサート指揮
新日本フィルを率いて日中友好30週周年記念中国公演
オーストリア政府から「勲一等十字勲章」を受章
ウィーン国立歌劇場音楽監督に就任(2002-2010年)
2003年(平成15年)68歳
「毎日芸術賞」と「サントリー音楽賞」を受賞
2004年(平成16年)69歳
10月ウィーン国立歌劇場日本公演を指揮
フランス、ソルボンヌ大学から「名誉博士号」を授与される
2005年(平成17年)70歳
「東京オペラの森」音楽監督(2005-2008年)
白内障の手術をする
ヨーロッパにおける音楽学生を対象に「Seiji Ozawa International Academy Switzerland」をスイスに設立し、教育活動に力を注ぎ始める
2006年(平成18年)71歳
帯状疱疹角膜炎など診断され通院治療を行う
2007年(平成19年)72歳
ウィーン国立歌劇場名誉会員に推挙される
<下、サイトー・キネン松本 ニュース>
2008年(平成20年)73歳
1月「カラヤン生誕100年コンサート」でベルリン・フィルを指揮
10月ウィーン国立歌劇場日本公演を指揮
日本政府より「文化勲章」を受章
フランス政府「レジオン・ドヌール勲章オフィシエ」を授与される
「フランス芸術アカデミー外国人会員」に選出される
イタリア・プレミオ・ガリレオ2000財団金百合賞を受賞
2009年74歳
(下、動画)
「小澤征爾インタビュー+リハーサル風景」
「ブラームス 交響曲第二番 リハーサル風景」
04:47 第四楽章
11:01 第二楽章
16:46 第一楽章
サイトウ・キネン・オーケストラ
2009年 松本
2010年(平成22年)75才。1月7日「食道がん」治療のため6月までの半年間、活動を休止することにした。月末に手術
8月24日「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」に復帰し、チャイコフスキー《弦楽セレナード》第1楽章を指揮
演奏 / サイトウ・キネン・オーケストラ
<下、小澤征爾 76才的執念>
11月、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団により、「ウィーン・フィル名誉団員」の称号を贈られる
11月、『カーネギーホールは、指揮者小澤征爾氏を芸術監督に迎え、日本芸術祭「JapanNYC」を2010年12月と2011年3~4月に開催。カーネギーホールでの公演のほか、国内各所等で開催される』
<NY、カーネギーホール「Japan NYC」のコンサート>
12月14日、ブラームス《交響曲第1番》ハ短調 op.68
12月15日、ベルリオーズ《幻想交響曲》 op.14
12月18日、ブリテン《戦争レクイエム》 作品66 「Japan NYC」のコンサート
小澤征爾 / サイトウ・キネン・オーケストラ
クリスティン・ゴーキー(ソプラノ)
アンソニー・ディーン・グリフィー(テノール)
マティアス・ゲルネ(バリトン)
SKF松本合唱団、栗友会合唱団、SKF松本児童合唱団、ピエール・ヴァレー(合唱指揮)
2011年(平成23年)76才。12月腰の手術受ける
「小澤国際室内楽アカデミー奥志賀」をNPO法人化
「高松宮殿下記念世界文化賞」を受賞した
渡邊暁雄音楽基金特別賞を受賞した
<下、世界的に活躍する指揮者の小澤征爾さん(77)が27日、川崎市立南生田小学校(同市多摩区)を訪れ、児童約340人に合唱を指揮した>
<小澤征爾~76歲的執念>
2012年(平成24年)77才。3月体力回復のため1年間指揮活動中止
<下、小澤総監督と指揮者山田和樹よりメッセージ>
2013年(平成25年)78才。4月水戸芸術館館長・同管弦楽団総監督就任
8月松本で2年ぶりに指揮復帰
2014年(平成26年)79才。モンブラン国際文化賞を受賞
小澤征爾は語る『今でもそうかもしれないが、日本のオーケストラはまだ西洋音楽に何か型があると思っている。日本人は、外からはわかりにくい、内に秘められた意志や感情を大事にしますが、ベートーヴェンやモーツァルトだって同じこと。表面的に音を正しくきれいに出すだけが音楽ではない。それなのに、日本のオーケストラは、いまだにその段階から抜け出せていない。この殻を破るにはうんと時間がかかるでしょう。どれほど演奏がうまくても、音楽することが、その人に対してどういう意味があるのかわからないまま、ただ弾いてしまっている。譜面づらしか弾かない人の多いこと。それでいいなら、ぼくのやっているアカデミーも小澤塾も要りません。芝居だって、役者が台本をただ丸覚えして話すだけでは全然ダメでしょう。セリフを解釈して自分の言葉として話さなきゃ。それと同じです』『その人の芯は何なのかを意識して大事にしている人が、日本にはいなくなっちゃったのかな。いなくなっても、そのことの重大さに気づかないでいるのかな。山本直純さんはその危険性に当時から気がついていて、オーケストラに常に要求していた。彼が真に目指していたのは、日本人にとっての借りものではないクラシック音楽です。』『直純さんを知っている人が少なくなったけど、見てくれが悪いとか(笑)、だらしないとかでごまかされないで、彼が何をしたかったのか、芯がどうだったか見つけ出すということはとても大事です』参考:「考える人」2014年秋季号、「山本直純という音楽家~彼が目指した真の音楽」インタビュアーに応える、92頁引用
2015年(平成27年)80才。2月NHK総合「あさイチ」に初出演
<スイス小澤征爾国際アカデミー・コンサート Concert Seiji Ozawa International Academy Switzerland>2015年7月1日
ベートーヴェン《弦楽四重奏曲第16番》第3楽章
グリーグの組曲《ホルベアの時代から》
9月1日<下、小澤征爾、誕生日に指揮、松本フェスで>
12月6日ケネディ・センター名誉賞受賞(日本人として初めて選ばれ、ワシントンで開かれたケネディ・センター名誉祝賀式に出席した。【ケネディ・センター名誉賞】とは、1978年創設で、芸術分野で米国の文化に大きな功績を残した人に贈られる賞。)
長野県名誉県民栄誉賞を受賞した
2016年(平成28年)81才。米国2月15日第58回グラミー賞受賞。(世界最高峰の音楽の祭であるグラミー賞にオペラ録音部門で『ラヴェル:歌劇《こどもと魔法』がノミネートされていた指揮者、小澤征爾。この作品は、2013年に長野県で開かれた音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本(現セイジ・オザワ松本フェスティバル)」で指揮した歌劇「こどもと魔法」を収めたアルバム。小澤征爾は8度目のノミネートにして初のグラミーの栄冠に輝いた。)
「ベルリン・フィル名誉団員」の称号を贈られた
名誉都民に顕彰された
GR Me of the Year賞を受賞
成城大学名誉博士号を授与された
<下、11月10日ロームシアター京都 竣工式 記念演奏会>
小澤征爾指揮・小澤征爾音楽塾
2017年(平成29年)82才。12月1日女性ファション誌「家庭画報」1月号の特集記事に20ページに及ぶ小澤征爾音楽塾オーケストラによる「子どものための音楽会」および「子どものためのオペラ」が取り上げられ紹介された(https://www.kateigaho.com/magazine/8528/)
英字新聞「Japan Times on Sunday – Time Out」 特集で《小澤征爾が次世代に伝えること》をテーマに、小澤総監督の教育活動の原点となる長野県山ノ内町立山ノ内中学校の《小澤コンサート》をはじめ、小澤国際室内学アカデミー、小澤征爾音楽塾、スイス国際室内学アカデミーが、紹介された(https://www.japantimes.co.jp/culture/2017/12/02/music/master-class-conductor-seiji-ozawa-passes-knowledge-new-generation/#.XTg4HPZuLIV)
2018年(平成30年)83才。1月12日8:15~9:15放送のNHK総合「あさイチ」に生出演(http://www1.nhk.or.jp/asaichi/archive/180112/1.html)
8月大動脈弁狭窄治療のため入院した
2019年(令和元年)84才。3月、京都市内の演奏会で指揮したが、その後、急性気管支炎で一時入院。24日上皇ご夫妻が鑑賞された東京公演で約2カ月ぶりに指揮を務めたが、体力の消耗が激しかったため、静養することになった
5月26日、水戸市の水戸芸術館で水戸室内管弦楽団の定期演奏会で、急遽、降板。7月31日紀尾井ホールで行われた「小澤国際室内楽アカデミー奥志賀ー東京公演」でアンコールで指揮台に上がった小澤征爾は、ベートーヴェン:《弦楽四重奏曲 第16番》 Op.135 第3楽章を指揮した
<下、「小澤国際室内楽アカデミー奥志賀ー東京公演」でアンコールで指揮台に上がった小澤征爾は、ベートーヴェン:《弦楽四重奏曲 第16番》>
【2019OICMA 東京公演映像公開】7月31日に紀尾井ホールで行われた、小澤国際室内楽アカデミー奥志賀 東京公演。アンコールで指揮台に上がった小澤征爾の指揮による、ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第16番 Op.135 第3楽章の映像を一部ご紹介します。この楽曲は、アカデミー奥志賀で長年講師として活躍し、昨年1月に亡くなられたヴァイオリニストのロバート・マン氏が、ジュリアード弦楽四重奏団期より最も愛し、何度も指揮をした曲の一つ。近年、小澤征爾も好んで取り上げている思い入れの深い曲で、7月30日に行われたリハーサルの際にも、しみじみと「良い曲だね」と受講生たちに話していました。ベートーヴェンが完成させた最後の作品としても知られるこの曲は、今年のセイジ・オザワ 松本フェスティバル「ふれあいコンサートI」(8月18日)で、小澤征爾スイス国際アカデミーも演奏する予定です。【2019OICMA Tokyo performance Beethoven video】2019OICMA closed its curtain at Tokyo performance on July 31st at Kioi Hall. Tutor of the academy Seiji Ozawa stood on the podium at the end of the concert and conducted Beethoven: String Quartet No.16 Op.135 3rd movement. This music was loved by one of the great tutors at the academy, late Mr. Robert Mann, and he conducted this piece many times. Seiji Ozawa himself also loves this work and he said to the academy students at the rehearsal "such a wonderful music". Beethoven: String Quartet No.16 will be performed by Seiji Ozawa International Academy Switzerland at the Seiji Ozawa Matsumoto Festival "Chamber Concert I" this summer.
小澤国際室内楽アカデミー 奥志賀さんの投稿 2019年8月2日金曜日
2020年9月1日
<Happy Birthday to Seiji Ozawa from NJP新日本フィル>
9月6日最新情報 – 小澤国際室内楽アカデミー奥志賀
ozawa-academy.com/news-entry-キャッシュ
<“こういう時だからこそ音楽を届けたかったんです。
ぼくは今回は奥志賀に行けなくてとても残念ですが、
今年もまた奥志賀で音楽会ができて嬉しいです。
奥志賀のアカデミーで成長した若い音楽家たちの演奏を皆さん楽しみにしていてください。”
小澤国際室内楽アカデミー奥志賀 理事長>
Seiji Ozawa
2020年9月6日(日)15:30より、これまでのアカデミー受講経験者を主体とした2組のカルテットによる『第35回 森の音楽会』を … https://www.youtube. com/watch?v=yp6KGNjBzoU&feature=youtu.be … 【東京公演 小澤征爾の指揮で終演】
2022年
11月23日<毛利衛さんの初飛行から30年記念企画>全世界に向け同時公開された
ISS・国際宇宙ステーションにいる若田光一宇宙飛行士に~オーケストラの演奏を宇宙へ生中継
ベートーヴェン《エグモント序曲》
指揮:小澤征爾/サイトウ・キネン・オーケストラ
松本市
4.主な作品Recording highlights( Record label )
ラヴェル管弦楽全集(ボストン交響楽団)(ドイツ・グラモフォン)
マーラー交響曲全集(ボストン交響楽団)(DECCA)
ブラームス交響曲全集(サイトウ・キネン・オーケストラ)(フィリップス)
ベートーヴェン交響曲全集+DVD第9番合唱(サイトウ・キネン・オーケストラ)(フィリップス)
春の祭典(シカゴ交響楽団)(RCA)
カルメン全曲(フランス国立管弦楽団)(フィリップス)
プロコフィエフ交響曲全集(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)(ドイツ・グラモフォン)
ドヴォルザーク交響曲第8番、交響曲第9番(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)(フィリップス)
主な出版物
「ボクの音楽武者修行」
「音楽」(武満徹と共著)
「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(村上春樹と共著)
「同じ年に生まれて」(大江健三郎と共著)
「小澤征爾指揮者を語る」(インタビュー有働由美子)
「父を語る」(編)・「父を語る その二」(編)
「おわらない音楽:私の履歴書」
「やわらかな心をもつ」(広中平祐と共著)
5.初演
1.1970年1月16日 日本フィルハーモニー交響楽団 東京文化会館
バーンスタイン《チチェスター詩篇 》(日本初演)
バーンスタイン《交響曲第3番》「カディッシュ」 (日本初演)
メゾソプラノ:成田絵智子ソプラノ:成田絵智子 ソプラノ:大西代志子
合唱:日本合唱団連合 合唱:杉並児童合唱団 ピアノ:高橋悠治
ナビゲーター:渡辺美佐子
2.1971年9月27日 日本フィルハーモニー交響楽団 東京文化会館
ベルリオーズ《レリオ》 op.14b (日本初演)
ナビゲーター:佐藤 功 テノール:中村 健 バリトン:平野忠彦
合唱:日本プロ合唱団連合
3.1972年2月28日 日本フィルハーモニー交響楽団
べルリオーズ《テ・デウム》 op.22 (日本初演)
テノール:宮本正 オルガン:酒井多賀志 合唱:日本プロ合唱連合 合唱:東京放送児童合唱団
4.1972年3月6日 日本フィルハーモニー交響楽団 東京文化会館
チェロ:ピエール・フルニエ
ハイドン《交響曲第47番ト長調》 Hob.I:47 (日本初演)
6.小澤征爾 関連動画
7.小澤征爾 家系
8.その他
➀ 1963年音楽評論家の秋山邦晴は自著「現代音楽をどう聴くか」の「小澤征爾(当時28歳/編者)」の項のなかで次のように述べ、将来を予言した。
『指揮者というものは、いわばアル・カポネの条件をそなえていなければならない。こう定義したのは芥川也寸志である。指揮者は直接に手をくだして音を発することはしない。けれどもその配下にある組織には絶対の力をもっている。そしてかれの大胆にして細心の計画を、命令一下、忠実に実行させる絶大なる腕力と尊敬をかねそなえていることが必要である。これはつまり、かの有名なギャング団のボス的存在であったアル・カポネとおなじだというのである。この論法でいけば、さしずめ小澤征爾はカポネにどれほど近づいたかを書くのが、ここでぼくにあたえられている役割ということになるわけだ。しかし小澤にはおよそそのような親分的な風貌や性格が感じられない。むしろ組織のなかのボス的存在とは逆の魅力がつよい。それはあくまでかれの個人的な魅力といえるものだ。・・ぼくが初めて小澤征爾の指揮を<聴いた>のは、たしか1958年(小澤征爾23歳/編者))、かれが桐朋学園のオーケストラを振った卒業演奏だった。ヨハン・シュトラウスのワルツを指揮したのだが、ぼくはたいへん興味深く感じたのをおぼえている。だいたい型やぶりなのだ。指揮者の卵の演奏には、たいてい大指揮者のレコード演奏の下敷きがどこかに感じられるものだ。ところが小澤の演奏には、それがまったく見当たらない。それもウィンナ・ワルツとなれば、その抑揚の独特のとり方に難しさがあり、それを表現するためにはレコードで勉強するだろう。しかし小澤はそんな型にとらわれず、リズムのてきぱきとした、熱っぽいかれのウィンナ・ワルツを情熱的に演奏した。それはぼくにはたいへんおもしろかったのである。いわばそれはかれの音楽家としての個人的な魅力をはじめてしらされた<表現>であった。その演奏会の帰り道、ぼくは友人の数人の批評家たちにその魅力を論つづけたのをおぼえている。それならば、小澤は他人の表現や個性的なスタイルにまったく無関心かといえば、そうではない。ひといちばいの勉強家なのである。略・・1959年(小澤征爾24歳/編者))の秋のことだった。当時ベルリンにいたぼくは、ひょっこりやってきたかれと一ヶ月ほど同宿することになった。折からベルリン芸術祭が開催中で、世界の名演奏家やオーケストラ、合唱団が連日演奏をくりひろげていた。小澤はまったくまめによく通った。おまけにスコアを買っては各指揮者の表現を細部にわたって研究していた。それが老指揮者であろうと、若手であろうとおなじように究明しつくしながら、あれはいい、あそこはこうあるべきではないかと、ぼくに向かって質問し批評した。ぼくより五つ六つ年下のこの青年が、なかなか適確な批評をもっていることを知らされたものである。そしてなんて無駄のない男だ、とぼくは関心させられもした。ともかく一時間だって無意味にすごさないのだ。楽譜を調べる。演奏会の練習にもぐりこむ。自分に必要とあらば少々強引なまでにおしかけていって、事務的あるいは政治的な交渉を実行する。昨年のあの事件は、棒の振り間違いなどという問題で、小澤がいかにも未熟な青年指揮者だといった印象を悪意的にひろがらせた。しかしかれの指揮棒の技巧はなかな適確なものである。たとえば現代の巨大な、モニュメンタルな壁画といったメシアンの《トゥーランガリラ交響曲》を、昨夏ふったあの名演。複雑に交錯し変化するリズムと音色の饗宴といえるあの難曲を、あれほど適確な把握で、熱っぽくもりあげていったかれの表現。それはかれの指揮棒の技巧の適確さと、多彩な才能を証明してあまりあるものだったとおもう。そこにかれの特徴もはっきりとあらわれていた。かれの表現はリズムとテンポの新鮮さにある。うんとゆったりした表現のなかにも、けっしてだらだらした感覚がない。それに色彩感と抒情性といったものが、明るくブリリアントにうきあがってくる。以下略・・それを裏書きするように、最近のかれの海外演奏についてのいろんな批評は、オザワはロシア音楽やドイツ音楽に若い指揮者とはおもえぬすばらしい表現をみせたと論じている。以下略・・このすぐれた若手指揮者は、こうして大胆にして細心の”かれ”の計画を着々と実行しているのだ。カポネの肖像はすててしまってもかまわない。そのかわり小澤征爾の内部の立派な肖像を段々大きくしていくことだ、そのときさまざまなわが国の雑音がきこえなくなるはずだ。そしてわが国にはユニークな”指揮者”という存在がはっきりと浮かびあがってくることだろう。(1963年)』
引用:秋山邦晴著、「現代音楽をどう聴くか」、発行晶文社、刊行1973年、177-182頁
➁「NHK交響楽団にボイコットされて窮地に立った27歳の小澤征爾を救った仲間たち」
➂「小澤征爾とNHK交響楽団 N響事件 軋轢に至る経緯」
https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E5%B0%8F%E6%BE%A4%E5%BE%81%E7%88%BE_%E5%B0%8F%E6%BE%A4%E5%BE%81%E7%88%BE%E3%81%A8NHK%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%A5%BD%E5%9B%A3