小澤征爾Siji Ozawa,


“音楽は私の人生であり、私の人生は音楽です”
“Music is my life and my life is music”
趣味:小学校の頃から野球、中学生の頃はラグビー、その後スキー、ボストン時代はゴルフ、テニス、ヨガ。ボストン・レッドソックスを応援した
ボストン交響楽団時代の征爾専用の公用車のナンバープレートは数字でなく「OZAWA」と書いてあった
Hobbies: Baseball in elementary school, rugby in middle school, golf when he became a conductor, then skiing, tennis, and yoga. he supported the Boston Red Sox
The license plate of Seiji’s official car during his time with the Boston Symphony Orchestra had “OZAWA” written on it instead of numbers.

【Reason for public domain:『This image is a copyrighted work taken or created by employees of the United States Department of State as part of their official duties. As a work of the United States Federal Government, this image is in the public domain as required by Title 17, United States Code, Sections 101 and 105 and the Department of State Copyright Information.』】
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<2024年2月6日逝去した小澤征爾氏を悼む
We mourn Seiji Ozawa who passed away on February 6, 2024.

追悼記事 (2024年2月6日逝去した小澤征爾氏を悼む)

小澤征爾Seiji OZAWA,
1935年昭和10年9月1日満州国奉天に生まれる (現在の中国瀋陽市)
Born on September 1, 1935 in Mukden, Manchukuo (currently Shenyang City, China)
Birth place:Mukden Manchukuo
Date of Birth:9/1/1935
Date of Death:2/6/2024

1.職業Profession


日本の指揮者Conductor

<プロジェクトProjects>
1. One Earth Mission – Unite with Music
2. Ozawa Matsumoto Festival
3. Seiji Ozawa Music Academy
4. Mito Chamber Orchestra
5. Ozawa International Chamber Music Academy Okushiga
6. Seiji Ozawa International Academy Switzerland

【楽歴Career】
1942年7歳 長兄からアコーディオンの手ほどきをうけはじめる
1942 At the age of 7, he began to learn how to play the accordion from his eldest brother.
1946年11歳 兄からピアノの手ほどきをうけはじめる
1946, 11 years old: Begins piano lessons from older brother
1947年12歳 小田原の石黒先生にピアノを教わる
1948年13歳 豊増昇にピアノを師事
1948, 13 years old: Studied piano with Noboru Toyomasu
1951年16歳 斉藤秀雄の指示により、山本直純から1年間指揮基礎を教わる
1951, 16 years old: Under the direction of Hideo Saito, learned the basics of conducting for one year from Naozumi Yamamoto.
1952年17歳 桐朋女子高等学校音楽科指揮科に入学(第一期生)、指揮を斉藤秀雄に師事
In 1952, at the age of 17, enrolled in the conducting department of Toho Girls’ High School (first class) and studied conducting under Hideo Saito.
1955年20歳 同校卒業
桐朋学園短期大学音楽科指揮科に入学、指揮法を斉藤秀雄に師事
Graduated from the same school in 1955 at the age of 20.
In the same year, he enrolled in the conducting department of Toho Gakuen Junior College, where he studied conducting under Hideo Saito.
1957年22歳 同短期大学卒業
アマチュア合唱団三友合唱団、群馬交響楽団などで指揮を研鑽、日本フィルハーモニー交響楽団指揮者渡邊暁雄の下で副指揮者に就任
Graduated from the same junior college in 1957 at the age of 22.
He studied conducting with the amateur choir Sanyu Choir and the Gunma Symphony Orchestra, and became assistant conductor under Japan Philharmonic Orchestra conductor Akio Watanabe.
1959年24歳 渡仏、ブザンソン国際指揮者コンクールで一位入賞
In 1959, at the age of 24, he moved to France and won first place at the Besancon International Conducting Competition.
1960年25歳 渡米、クーセヴィッキー賞受賞(タングルウッド)。カラヤン主催指揮者コンクールで一位入賞(ベルリン)し、カラヤンから指導を受けはじめる
バーンスタインのオーディションに受かる
パリで放送用録音
In 1960, at the age of 25, moved to the United States and won the Kusewicki Award (Tanglewood). He won first place in the conductor competition sponsored by Karajan (Berlin) and began receiving guidance from Karajan.
Passed the Bernstein audition
Recorded for broadcast in Paris
1961年26歳 ニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任。日本フィルハーモニー交響楽団定期演奏会を指揮
In 1961, at the age of 26, he became assistant conductor of the New York Philharmonic. Conducted regular concerts of the Japan Philharmonic Orchestra
1962年27歳 サンフランシスコ交響楽団を指揮してアメリカデビュー
In 1962, at the age of 27, he made his American debut conducting the San Francisco Symphony Orchestra.
1964年29歳 シカゴ交響楽団夏のラビニア・フェスティバル音楽監督(1964-1968)
1965年30歳 トロント交響楽団音楽監督に就任(1965年‐1969年)
In 1965, at the age of 30, he became music director of the Toronto Symphony Orchestra (1965-1969).
1966年31歳 ザルツブルク音楽祭でウィーンフィルを初指揮してデビュー。
In 1966, at the age of 31, he made his debut conducting the Vienna Philharmonic at the Salzburg Festival.
1967年32歳 ザルツブルク音楽祭でカラヤンのアシスタントを務めオペラを学ぶ。
In 1967, at the age of 32, he worked as Karajan’s assistant at the Salzburg Festival and studied opera.
1970年35歳 サンフランシスコ交響楽団指揮者・音楽監督に就任(1970年-1977年)
タングルウッド音楽祭の芸術監督に就任(1970年-2002年)
In 1970, at the age of 35, he became conductor and music director of the San Francisco Symphony Orchestra (1970-1977).
Appointed artistic director of Tanglewood Music Festival (1970-2002)
1973年38歳 ボストン交響楽団音楽監督に就任(1973-2002年)
In 1973, at the age of 38, he became music director of the Boston Symphony Orchestra (1973-2002).
1984年49歳 齋藤秀雄の門下生による「齋藤秀雄メモリアル・コンサート」運営メンバー(のちの「財団法人サイトウ・キネン財団」設立に参加)。
In 1984, at the age of 49, he became a management member of the “Hideo Saito Memorial Concert” by Hideo Saito’s students (later participated in the establishment of the “Saito Kinen Foundation”).
2002年67歳 ウィーン国立歌劇場音楽監督に就任(2002-2010年)
In 2002, at the age of 67, he became music director of the Vienna State Opera (2002-2010).

2.栄誉・称号honorary title


2022年 日本芸術院会員
2008年 フランス芸術アカデミー本会員
1996年 長野県松本市名誉市民
2016年 東京都名誉都民
2019年 山梨県市川三郷町名誉町民
2015年 長野県県民栄誉賞
1999年 新日本フィルハーモニー交響楽団桂冠名誉指揮者
2007年 ウィーン国立歌劇場名誉会員
2010年 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員
2016年 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員
2015年 ケネディ・センター名誉賞
1971年 サンフランシスコ大学芸術博士名誉学位
2000年 ハーバード大学名誉博士号
2004年 ソルボンヌ大学名誉博士号
2016年 成城大学名誉博士号

<受章>
2008年 日本国文化勲章Cavaliere dell’Ordine della Cultura
2001年 日本国文化功労者Person of Cultural Merit of Japan
1998年 フランス・レジオンドヌール勲章シュヴァリエ
2002年 オーストリア科学芸術一等名誉十字章
2008年 フランス・レジオンドヌール勲章オフィシエ

<受賞>
1960年 クーセヴィツキー賞
1972年 日本芸術院賞
1975年 モービル音楽賞
1985年 朝日賞
1987年 国際文化デザイン大賞
2003年 毎日芸術賞
2003年 サントリー音楽賞
2006年 NHK放送文化賞
2008年 イタリア・プレミオ・ガリレオ2000財団金百合賞
2010年 重光賞(米国のボストン日本協会が
2011年 渡邉暁雄音楽基金特別賞x
2012年 小林秀雄賞
2014年 モンブラン国際文化賞
2016年 グラミー賞
2016年 第11回GQ Men of the Year

<小澤征爾 家族>
祖父:小澤新作 農業・土木請負業・消防組頭・村議会議員
祖母:
父:小澤開作 東京歯科医学専門学校卒・歯科医師・関東軍政治参謀・中華民国新民会総務部長・華北評論/社主編集長・戦後は川崎で歯科医院開業

母:小澤さくら(旧姓:若松) 母方の高祖父:大津隆三郎は仙台藩伊達家指南役、斎藤秀雄はさくらの(はとこ)にあたる

長兄:小澤克己 東京藝術大学卒/パリ留学・彫刻家・レディヅ・ホテル開業
二兄:小澤俊夫 東北大学卒・ドイツ文学者・筑波大副学長/名誉教授・日本女子大教授・白百合女子大教授・昔話研究者
三男:小澤征爾 指揮者
次弟:小澤幹雄 早稲田大学卒・俳優・エッセイスト・司会・芸能人
妻:入江美樹(小澤ヴェラ・イリイン) ファッションモデル
長女:小澤征良 エッセイスト・演出家
長男:小澤征悦 俳優

<小澤征爾プロフィールSeiji-Ozawa-profile>(クリックまたはタップで各項目にジャンプします。)

小澤征爾プロフィール

3.小澤征爾 歴史年譜Seiji Ozawa, Historical Chronology


1935年(昭和10年)誕生 
9月1日満州国奉天、奉天医大病院で小澤家の三男として生まれ、奉天の平安通りの家で育った。
・母さくらが語る『前日の夜おそく産気づいたので、トランクに荷物を入れて、一恵さんといっしょに馬車に乗って医大病院に行きました。生まれたのは明け方でした。一恵さんは病院の廊下でひとり征爾の産声第一声を聞いたのです。お産は難産でなく、安産でした。とても大きくて、一貫目(4キロ)以上でした、大連病院の病院中で一番大きな赤ちゃんで、「大関」と言われました。生まれてからもとても元気に育ちました。一週間ぐらい入院していたと思います。』。
・父開作は、毎日会って親しくしていた関東軍参謀・板垣征四郎と同じく参謀の石原莞爾の二人から一字ずつもらって「征爾」と名付けた。板垣は[少年老い易く学成り難し]の書を書いてくれた。のちに兄弟たちは、長兄・克己は彫刻家、次兄・俊夫はドイツ文学者・筑波大副学長を務め弟・幹雄は司会・講師・音楽ジャーナリスト・著作者となった。
・母さくらが語る『征爾は生まれた時、離乳期にお腹をこわしたりして体調をくずし、あんまり笑わない子でした。のちに征爾が教えていただくことになる斉藤秀雄先生のお母さんの「おとらおばさん」も、私が満州に行く途中、東京で挨拶に行った時に、こう言ってくれました。"若い人は結婚をすごく華やかな、幸せ一杯のものと思っていると思うけど、悲しいことや苦しいことがいっぱい待ち構えているものです。でもそれはみんな神様があなたを試す試練なんだから、それに耐えていかなくてはいけません"この言葉を私は、何か事あるにごとに、いつも思い出して、すごく心の支えにしていました。だから私は母や叔母たちに弱音を言ったことは一度もありません。それは自分でもとてもよかったと思っているんです。だって遠くにいる母たちにぐちを言ったって、心配かけるだけだし……。あとで斉藤秀雄先生がおとらおばさんの写真を送ってくれました。今でも大事に手元に持っています。その写真は征爾たちも小さい時から見ているわけで、征爾が中学三年の時、一人で斉藤先生に弟子入りをお願いしに行った際に"おとらおばさんという親戚がいるらしいけど、先生の何ですか"と聞いて斉藤先生を苦笑させたということです。』
・2000年8月長野県奥志賀高原で大江健三郎は、『小澤さんが西洋の音楽を学び始めた、そしてそれを外国に向かって出していった、そもそものきっかけは、どういうことでしたか』。小澤征爾はこう答えた、『おふくろはキリスト教徒なもんで、教会で賛美歌をうたう。子供たちを日曜学校に無理やり連れてって、そのうちに僕たちはだんだん面白くなってその日曜学校が大好きになった。男の子四人だったものですから、当然四人で賛美歌をうたう。だから音楽の最初はまったく賛美歌です。おふくろや日曜学校で教わった賛美歌。亡くなった一番上の兄貴はすごい音楽的才能のある男で、音楽を本気になって勉強し始めた。本当に物がないときで、ピアノもありませんから、ハーモニカとかアコーディオンとか、いまから思うと木琴のようなもので、名前忘れちゃったんだけど、鉄でできている楽器で叩くと音が出るわけですね(多分=鉄琴のこと編者)。一番手近にあったのがアコーディオンで、それが僕にとっては最初の音楽です。教会へ行ってオルガンを聴いて、下の兄弟三人の中で一番のめり込んでいったのが僕で、結局、長男と三男の僕が最後まで音楽を続けた』
引用文献:小澤征爾・大江健三郎『同じ年に生まれて』、中央公論新社、2001年、P14~15

1936年(昭和11年)1歳
10月一家は奉天から北京に移り北京市東単新開路35号に住む。父開作が北京で協和会と同じものを作ることのなった。
(写真)

1941年(昭和16年)6歳 幼稚園
3月北京から帰国し立川市柴崎町三丁目の貸家に住む。自宅の前にあった若草幼稚園に入園した。

1942年(昭和17年)7歳(9月1日になると) 小学一年
・立川国民学校入学。
・長兄からアコーディオンの手ほどきを受け、小学校4年頃には習得している。
・柴崎町三丁目に家を買い移った。
立川国民学校入学式後列右から七人目

1945年昭和20年10歳 小学四年
・『敗戦から何日かして、おやじが今度は突然"これからは野球だ"と言い出した。おふくろのごわごわした布きれでグローブを作らせ、僕や近所の子供を集めて野球チームを作った。おやじが監督で、僕がピッチャーだった。小学四年生の夏のことだ』。
・『戦時中、上の克己兄貴からアコーディオン教わっていた僕は、だんだん物足りなくなった。小学生の担任の青木キヨ先生はピアノができる人で、ある日講堂で弾いているときに”触ってもいいよ”と言って隣に座らせてくれた。初めてピアノに触れたのはその時だ。小学校四年の終わりごろだった。』。
・克己兄が音楽の先生にピアノを習い始めていた。府立二中(現都立立川高校)に通っていたころで、征爾がピアノに触れた頃とほぼ同じ頃であった。
バイエル教則本で最初に手ほどきをしたのは克己兄からであった。

1946年(昭和21年)11歳 小学五年
4月頃長兄の通う府立二中の許しを得て、音楽室のピアノのを特別に使わせてもらい克己兄からレッスンを受けた。
・兄たちが"征爾にもっと本格的にピアノをやらせたいから家にもピアノが一台あるといいねと話し合っているのを、父開作が聞いた。征爾にピアノを手に入れて本格的にやらせようと小澤家は決めた。
・開作は方々伝手を頼ってピアノを探した。静叔父の妻英子の横浜の実家にあるアップライトピアンを三千円で譲ってもらえることになる。開作は北京で買った愛用のライカを売って工面した。兄たちがリヤカーを借りて運ぶのを開作も途中から手伝う、三日かけて横浜から立川の家まで運んだのだった。途中農家に一晩ピアノを預けたり、親戚の家に泊めて貰ったりの道中だったようだ。
・柴崎小学校の五年生の学芸会でベートーヴェンの《エリーゼのために》を弾いて初めて人前での演奏だった。
・この頃征爾は小学校野球部のエースピッチャーとして活躍していた。上井草球場で東京都大会にも出場した。
・このとき兄からピアノの手ほどきを受けたのが後に征爾に音楽家として大事な縁となった。その頃、二中の大和先生からピアノを教わる。

1947年(昭和22年)12歳 小学六年
・小学校五年、卒業式で送辞を読む。
・父開作はミシン会社製造の白百合ミシン会社を小田原に設立し経営をはじめる。
・家を出て細道を少し行くと流れの急な小川があり、夏は泳いで遊んだ。
4月金田村小学校6年に転入学した。田んぼの中を三十分ぐらい歩くと金田小学校があった。
・征爾は担任の先生に、音楽の授業でオルガン弾きを任されるようになる。
・金田小学校の間、小田原市内の石黒先生にピアノのレッスンを受けた
・兄たちの所属する小田原の合唱団「シグナス」に征爾も時々ピアノ伴奏にかり出されていた

1948年(昭和23年13歳 中学一年
3月、金田小学校を卒業。
どこの中学に通うかだいぶ家族で迷ったすえ、小田急沿線の成城学園中学校に行くことになった。クラスは「柳組」で担任は今井信雄先生、3年間同じだった。隣のクラスには小坂一也がいた。朝6時前、小田急新松田からニ時間半もかかる遠距離通学だった。母のさくらは父兄会や授業参観日があると学校に来た。征爾は母を見つけると「おかあちゃーん、帰りにいっしょに帰ろうねぇー」と言って遠くから大声で呼びかけた。
・中学に入り当初はピアノをやるので危なくない卓球部に入った征爾だが、同級の松尾勝吾に誘われラグビーをはじめるようになった。ポジションはフォワードであった。放課後は連日夕方遅くまでラクビー部の猛練習が続いた。
・松尾勝吾は後年、新日鐵釜石の選手として活躍し、ラクビー日本一の社会人チームの監督になった。征爾はラクビー部の主要メンバーとなっていった。
・征爾は成城に入る頃から、父が豊増昇の兄と親しかったため豊増昇にお願いして世田谷区九品仏までピアノレッスンに通った。豊増先生のピアノのレッスンがある日は、泥まみれの姿で先生宅へ通った。先輩の舘野泉や他の者はリストやショパンを弾いていたが、征爾はバッハばかりを弾かされ課題も多く必死で練習した。この頃の征爾はピアニストを目指していたのだった。見込むがあるからとある時から月謝とらなくなりタダでレッスンを見てくれた。
・家は父の経営するミシン会社がうまくいかず、母さくらが衣類の行商をしたり、「九重織り」という手編みのネクタイ作って売ったりして生計を支えていた。
学校の事務所の前の掲示板には「右の者、授業料滞納につき・・・」という張り紙が出されるといつも征爾の名前が書かれてあった。まだ薄暗い五時半ごろ起きた征爾は、六時には家を出て、田んぼ道を十数分歩いて新松田駅に着き、六時ニ十分くらいの新宿行き急行電車に乗って通った。母は道祖神の石碑が立っている村道のかどおところまで見送っていった。朝もやの中を、征爾は姿が見えなくなるまで、振り返りふり返り大きな声で、「行ってまいりまあッす」と言いながらでかけていった。
・金田村の家に帰ってくるのは夜遅かった。
金田小学校卒業式二列目右から三番目

1949年(昭和24年)14歳 中学二年
・征爾はいたずらなどでは活発だったが、頭もよく勉強もできた。クラス委員や学校全体の常任委員をやったり、ラクビーもレギュラーとして、青山の秩父宮ラクビー場で華々しく対外試合をやったりしていた。
・同学年の安生慶がヴァイオリン、奥田恵ニがフルートで初めて室内楽を演奏したのもこの時期、父の山中湖の別荘で合宿し、村の小学校のピアノを借りてバッハのブランデンブルク協奏曲第五番を練習した。征爾は仲間と音を合わせるという音楽の喜びをこの時初めて知った。
・金田村から成城の学校までの通学はあまりにも遠いため、征爾は自分で決めて成城の酒井広先生の家に半年くらい下宿した時期があった。先生は日本人と結婚したイギリスの婦人で学校で英会話を教えていた。そこにはピアノがなかったので、よるになると成城高校のの音楽室のピアノを使わせてもらって練習をした。
・その後、平出牧師とカナダから来た二世の牧師がいる教会にも下宿してアルバイトでオルガンを弾いていたこともあった。
・成城の学費滞納はしょっちゅうだったが、父開作の会社が失敗しすっからかんになるという事態になった。家計を支えたのが母さくらの内職で、「九重織り」という毛糸を編んだ手編みのネクタイを作り、銀座の「モトキ」に卸して収入を得ていた。これは売れていたという。
母さくらからは"ピアノを弾いているんだから指を大切にしなさい"とラクビーを禁止された。それからは練習が終わると汚れたジャージーを仲間たちにあずけ家に帰るようにした。
・二年生の終わり頃、征爾はラグビーの成蹊中学との試合で両手の人指し指を骨折し、顔を蹴られて鼻の中が口とつながるという大怪我をし、救急車で病院に搬送され、そのま入院することになった。
・両親と兄たちには叱られた。
・退院後包帯姿で豊増先生の家に向かった。"もうピアノを続けられたなくなりました"征爾は言った。"音楽やめるのか?」といわれ「音楽続けたいけどどうしたらよいのか。ピアノはだめだから」と言い、黙った。先生が口を開いて「小澤君、『指揮者』というのがあるよ。日本人の指揮者が少ないから、指揮をやってみないか?"と言われた。
ラグビー部の部員たち、中列でボールを抱えているのが征爾

1950年(昭和25年)15歳 中学三年・弟の幹雄が一年生として成城中学に入学する。
・学校で急に盲腸になり正門前の木下病院に入院。
・秋、世田谷区代田引越
・指の怪我でピアノを弾けなくなった征爾だが、音楽はやりたいと思い、成城に昔からある男性合唱団「ユーロ・カステロ」に行きロシア民謡や黒人霊歌などを歌った。うねるハーモニー、アクセント、リズム、指揮で音楽が変わることを経験し衝撃を受けた征爾は、三年生のはじめ頃、同学年の安生慶と二級下の女子たち男女十人くらいで賛美歌を歌うグループを作った。兄の俊夫や弟の幹雄も加わった。授業が終わると中学の音楽堂に集まって練習をはじめた。征爾が指揮をしたのはこのときが初めてであった。
・12月23日兄に連れられ日比谷公会堂の日響コンサートで、ピアニストのレオニード・クロイツァーがベートーヴェンの《ピアノ協奏曲》「皇帝」を弾きながら指揮しているのを聴き感動した。指がまだ動ない征爾は本当に指揮者を目指すか悩んでいた。
・そんな姿をみた父開作はこっそり担任の今井先生に相談したところ、”彼はピアニストになるより、指揮者の方が向いています”と言った。作曲家か指揮者になることを決意。母に相談したしたところ “うちの親戚に指揮者がいるよ” と教えた。親戚の指揮者とは(はとこ)にあたる斉藤秀雄である。斉藤秀雄の祖母の前島久と母さくらの祖父大津義一郎が実の兄妹。斉藤秀雄の父斉藤秀三郎は、正則英語学校創設者で一高の教授、「サイトウ英和大辞典」などを編纂した
・征爾は母の紹介状を持ち弟子入りしようと、ひとり斎藤秀雄家を訪れた。
・斉藤秀雄は今手いっぱいで教えられないから ” 1年後に創設する普通高校の桐朋に音楽科を設けるから待ってそこに入りなさい ” と征爾に言った。
その間、征爾は柴田南雄に作曲、小林福子に聴音を、斉藤秀雄の弟子の山本直純に指揮の基本を教わり、月二回斉藤秀雄に見てもらった。
・斎藤秀雄は指揮の動作を徹底的に分析し、「たたき」「しゃくい」「せんにゅう」「はねあげ」などにわけ、どの動きもいつ力を抜き、力を入れるかは厳密にきまっている。それを頭で考えながら指揮なんてできないから、筋肉に全部覚えさせなければならない。”歩くときに坂を上がろう、角を曲がろう、といちいち考えないだろう?”と斉藤秀雄は言う。
・征爾は動作を体にたたき込むのに歩いている間も電車に乗っている間も腕を振った。周りの視線にも気づかないぐらい集中していた。
・斎藤秀雄は戦後、吉田秀和、柴田南雄、井口基成、伊藤武雄、井口秋子、井口愛子、畑中良輔、石桁真禮生、別宮貞雄、遠山一行らと市ヶ谷九段の東京家政学院が提供してくれた窓ガラスが割れた戦後のボロ校舎で「子供のための音楽教室」を土曜の午後だけソルフェージュ、音感教育、合唱練習を教室で集団授業として基礎から音楽を教えていた。あとのピアノや弦楽器の個人レッスンは都内各所に散らばった先生たちの家に通ってもらう。弦では鷲見三郎や小野アンナらも加わった。その成長を待ち兼ねるように斉藤は合奏訓練を始めた。後の桐朋学園オーケストラに発展してゆく。同時に指揮者の卵たちのまたとない実践訓練の場となった。その前から斉藤は目白の自由学園にも「斎藤秀雄指揮教室」をやっており両方の教室で多くの門下生を輩出させた。山本直純、小澤征爾、秋山和慶、尾高忠明、井上道義、飯森泰次郎、岩城宏之、紙屋一衛、久山恵子等々、弦では岩崎洸(チェロ)、菅野博文(チェロ)、倉田澄子(チェロ)、塚原みどり(チェロ)、堤剛(チェロ)、徳永兼一郎(チェロ)、林峰男(チェロ)、原田禎夫(チェロ)、平井丈一朗(チェロ)、藤原真理(チェロ)、堀了介(チェロ)、松波恵子(チェロ)、安田謙一郎(チェロ)、山崎伸子(チェロ)ほかにヴァイオリンも教えた。
吉田秀和は語る『それはまだガダルカナルやラバウルの攻防(1942年頃)が激しいころで、ある夜、斎藤秀雄さんに呼ばれていってみると、"戦争がここまで来ると、東京はきっと空襲され、ひどいことになる。いまから日本にある楽譜だとか特別高価な楽器だとか、大切なものはどこか安全なところに移しておかないと、戦後当分何もできなくなる。よく考えて、実行してちょうだい。" といわれてびっくりした。それがどういう事態を意味するのか、考えも及ばないことだった。
戦後終わって、彼が私の家を訪ねて来た"子供のための音楽教育を始めるから、手伝ってほしい。今はろくに食べるものもないけど、そういうことは何とかなるよ。人間は食べないでいられないのだから。大事なのは、次代の教育だ。今度こそ、日本で音楽をやるんだ。それには、今が最適の時"と彼は言った。何日がかりで、しつこく口説かれ私は落城した。彼の基本理念は音楽早教育。"音楽は言葉と同じで、小さい時から始めれば始めるほど、無理なく、そうして、上までのぼってゆかれる。教育は五歳から始めてよいそうだから、われわれの学校は五歳から、おそくとも小学生までとする。"というもの。私は気に入った。』

1951年(昭和26年)16歳 成城学園高校一年  
・家賃が払えなくなって世田谷区経堂の東京農大の校舎に住み着いた。父開作の知り合いに農大の関係者がいて、空き教室を使わせてくれた。
・成城中学卒業後、成城学園高校に進学し、一年間待つことにした。
・東京藝術大学の入試に失敗した山本直純(18歳)は、斉藤に言われ、征爾の家に週一回行き一年間、指揮を教えた。斉藤指揮教室は、Aクラスの生徒がB、Cクラスの生徒の下練習を受け持っていたからそうなったようである。直純は征爾に教えるに「今日はこの曲をやろう」と言って、まず、二人でピアノを弾いて互いに指揮をする。すると直純が「お前の問題点はここだな」とすぐに見抜いて、そこを重点的に練習する。大事な事しか教えないから、レッスン時間が短い。直純は以前斉藤に桐朋に指揮科が出来るから入らないかと言われていた。直純は一浪しておりこれ以上大学を遅らすことは出来ないと思い藝大を選ぶことになる。

1952年(昭和27年)17歳 桐朋女子高等学校音楽科一年  渋谷区笹塚に引っ越す
4月8日成城高校を1年で中退した征爾は、新設された桐朋女子高等学校音楽科指揮科に入学した。第一期生女子生徒42名、男子生徒4名(村上綜/声楽科、林秀光/ピアノ科、堀伝/ヴァイオリン科と征爾/指揮科が入学した。先生一人に生徒一人という教育がはじまる。
・征爾は道を歩きながらでもメロディを口ずさみ両手を振って指揮の練習をしたという。征爾は忙しかった。斉藤秀雄に桐朋の学生オーケストラの雑用を一切任され譜面台や楽譜の手配、椅子並べ、パート譜の印刷校正と次から次にやることがあった。指揮の勉強もあり休む暇がなかった。
・成城中学ではじめた合唱の練習は、桐朋音楽科に入ってからも続いた。征爾は仙川の桐朋音楽科の放課後、神代書店の前から都立神代高校の前を通り、坂を下り入間を通って三十分ほど歩いて成城に通って合唱練習を続けた。
・斉藤秀雄の自宅での「斉藤指揮教室」ではめちゃめちゃ厳しかった。指揮のレッスンはピアノをオーケストラに見立てて行った。久山恵子の時は山本直純と征爾が連弾した。
・土曜日の午後は「子供のための音楽教室」の生徒たちも加わって、オーケストラの練習があった。夏休みになれば北軽井沢で合宿した。地元の小学校を借りて一日中練習し、夜は教室にむしろを敷いて寝た。
https://www.tohomusic.ac.jp/about/history.html桐朋学園音楽部門の歴史、第一期新入生の中に若き小澤征爾が写っている(最後列)

1953年(昭和28年)18歳 桐朋女子高等学校音楽科二年
・征爾は語る『斉藤指揮教室で斉藤先生が直純のレッスンの時に、彼の楽譜を見ながら指導していました。レッスン後、"この楽譜の書き込み、僕も勉強になった。ありがとう”と真剣に直純に礼を言っていたのです。そのくらい、斉藤先生が山本直純をすごく認めているということは、みんなよくわかっていた。一番音楽的な信用があり、そして先生から音楽の才能に対する尊敬を受けていました。』。この年、山本直純は藝大作曲科に入学した。斉藤秀雄と山本直純のレッスンは山本直純が藝大を卒業するまで続いた。
・征爾は仙川の桐朋音楽科の放課後、神代書店の前から都立神代高校の前を通り、坂を下り入間を通って三十分ほど歩いて成城に通って合唱練習を続けた

1954年(昭和29年) 桐朋女子高等学校音楽科三年
・桐朋音楽科学生オーケストラもできたばかりで人手がなく、征爾はひとりでみんなの譜面台や椅子の手配からパート譜の印刷まで一切やっていた。
・毎年夏休みになると、北軽井沢にある斉藤の別荘の近くにある小学校を借りて、オーケストラが合宿練習をやっていた。合宿にはオーケストラのメンバーの母親たちが大勢参加し、征爾の母さくらも行った。練習も寝泊りも村の小学校の教室を使った。合宿の最期にその小学校の生徒たちにお礼の演奏会を開き征爾は指揮をした。
・桐朋オーケストラの練習曲はバッハ《シャコンヌ》、チャイコフスキー《弦楽セレナーデ》、Jシュトラウス《こうもり》序曲が多かった
・征爾は仙川の桐朋音楽科の放課後、神代書店の前から都立神代高校の前を通り、坂を下り入間を通って三十分ほど歩いて成城に通って合唱練習を続けた

1955年(昭和30年)20歳 桐朋学園短期大学音楽科一年
・高校三年の卒業公演で桐朋オーケストラを相手にバッハ《シャコンヌ》を振ることになり、斎藤秀雄はオーケストラ用に編曲した十数分の曲を半年かけて征爾に教えこんだ。征爾は語る『バッハの原典にはテンポの指定がない。音楽記号も書かれていない。でも先生は楽譜を読み尽くし、音楽を細かく構築した。しかも”一番音域が広いここが音楽の頂点”というようにすべて言葉で説明できた。後年、ベルリンでヴァイオリニストのヨゼフ・シゲティの引退公演を効いたとき、《シャコンヌ》が先生のやり方と全く同じで驚いたことがある。』。
・卒業公演の《シャコンヌ》は山本直純、岩城宏之も聴きに来て、終演後に”感動した”と言ってくれたのが征爾には嬉しかった。
桐朋学園女子高校付属音楽科指揮科卒業、出来たばかりの桐朋学園短期大学音楽科指揮科に入学した。男子生徒は四人だけで指揮科は征爾一人だった。
5月中旬頃、小澤の指揮する桐朋学園オーケストラの練習風景を、来日中のシンフォニー・オブ・ジ・エアのメンバーと指揮者ワルター・ヘンドル等数人が見学しに来た。
5月来日中のシンフォニー・オブ・ジ・エアの公開練習を斎藤秀雄に言われて聴きに行き響きの違いに衝撃を受ける。曲目はブラームス《交響曲第一番》ほかのリハーサルであった。
・音楽をやるなら外国へ行って勉強するしかないと征爾は心に決めた。同期の江戸京子や桐朋の仲間たちは次々と留学して行き、征爾はいつも羽田空港で見送った。相変わらず斉藤秀雄のカバン持ちとして雑用に追い立てられる毎日を過ごしていた。征爾はその間、斉藤先生宅の個人レッスンや桐朋の学生オーケストラの指揮練習に明け暮れた。
・川崎市幸区戸手町に引越す

1956年(昭和31年)21歳 短大二年
・桐朋学園短期大学二年の頃、斎藤秀雄の厳しいレッスンと学生オーケストラの激務のため、神経性の十二指腸潰瘍に悩まされ、固いものが何も食べられないことがあった。
・この年日本青年館で征爾は、桐朋学園オーケストラを指揮してチャイコフスキー《弦楽セレナーデ》を振った
・毎年秋の「毎日音楽コンクール」が開かれ、征爾は応募した生徒からコンクール予選でのピアノ伴奏を頼まれていた。その練習は家でも行われた。
・暮れ、中学時代の仲間で作った成城の合唱団「城の音」のクリスマス音楽会のあと、恒例のキャロルに出発した征爾は手にローソクを持って讃美歌を歌いながら歩いた。数日前から風邪気味だった征爾は翌日から高熱を出し肺炎に罹ってしまった。年も明けた1957年になっても起きられず卒業目前に長期間欠席してしまった。そのため卒業試験の幾つかを受けることができなかった。

1957年(昭和32年)22歳 卒業見合わせ
・桐朋学園で指揮と作曲の両方で一等賞を受賞し、NHKと雑誌音楽の友により邦楽の「傑出した才能」に選ばれた。
3月迎えた卒業式でなぜか征爾の名前は呼ばれなかった。あるはずの卒業証書もない。留年していたのだ。しかも誰も教えてくれなかった。
・暮の肺炎ダウンで単位不足となり一人だけ卒業できなかった。そうとは知らず母さくらも着物で晴れやかに卒業式に出席した。母さくらは泣きながら帰って行った。母は卒業式前日に行われた謝恩会の役員を引き受けていた。
・声楽の伊藤武雄先生が『いいんだ、卒業なんかしなくたって』と慰めてくれた。また学費を払うのにアルバイトをしなければいけなくなった。
しばらく伊藤武雄先生の紹介で日本橋の三友会合唱団を指揮者となった。征爾はこの合唱団の常任指揮者を数年勤め、全国合唱コンクールにも出場した。また斎藤秀雄先生に言われて群馬交響楽団へ行き、初めてプロのオーケストラを指揮した。北海道演奏旅行では指揮者を担当した。卒業してからも桐朋の助手として残り、斉藤秀雄のカバン持ちのようにして、いつも先生と行動を共にしていた。
・夏まで桐朋学園音楽短期大学で斎藤秀雄に指揮法を師事し中学三年から始めた指揮の勉強でオ-ケストラを仕込む技術を身につけた。
12月設立間もない日本フィルハーモニー交響楽団第5回定期演奏会のラヴェル《子供と魔法》で、渡邉暁雄の下で副指揮者を務めたあ。アマチュア合唱団・三友合唱団を指揮。

1958年(昭和33年)23歳 渡欧準備
・桐朋学園オーケストラがブリュッセルの万博博覧会青少年音楽コンクール参加する話が持ち上がったが、これは資金不足で断念する羽目になった。
その時、征爾は堅い決意をした。オーケストラの参加がだめならせめて自分一人だけでもヨーロッパに行こうと。その頃から単身渡欧することを計画していた。
多少の金さえ持っていれば、あとはスクーターでも宣伝しながら行けば、自分一人ぐらいの資金は捻出できるのではないかと思うようになった。
・「フランス政府給費留学生」の試験を受けた。征爾と桐朋オーケストラのフルートで征爾の弟分の加藤怒彦が最終審査に残った。結局、語学ができて優秀な加藤が受かりパリ国立音楽院に留学が決まった。征爾が不合格となった。
・桐朋恒例の北北軽井沢での夏合宿の後、征爾は軽井沢駅待合室で成城の同級生水野ルミ子にばったり会った。『征爾、何落ち込んだ顔してるの』という。征爾は外国で音楽を勉強したいが手立ても金もない、と説明した。ルミ子は『うちの父に話してみる?』という。ルミ子の父は水野成夫氏で文化放送やフジテレビの社長だった。その足でルミ子の別荘へ行き、水野に会う。顔を合わせたことはあったが、ちゃんと話すのは初めてだった。征爾の話を聞いて『本気なんだな?』と征爾に念を押すと、すぐに四ツ谷の文化放送へ行け、と言った。向かった先で重役の友田信氏が資金を用意してくれたが、確か50万円だった。
桐朋の同期江戸京子の父で三井不動産社長江戸英雄氏にも随分と助けられた。征爾の父が川崎で歯医者を始め家を建てたから桐朋に通うのが大変だった。江戸はそれを知り、下落合の自宅に征爾を寝泊りできる部屋を用意したり、ご飯を食べさせてくれたりしていた。桐朋の音楽科は江戸や生江義男先生たちと協力して設立したのだった。その江戸氏が話をつけて、日興証券会長の遠山元一氏からも資金を援助してもらえた。

1959年(昭和34年)24歳 私費渡欧~ブザンソン指揮者コンクール優勝
・正月、成城時代の合唱の仲間と信州野沢へスキーに行き四日目に崖から墜落して腰を打ってしまった。その晩から高い熱を出し大変な目にあったがわが家に着くころにはなおっていた。
・家に帰ると前から方々に頼んであったヨーロッパ行きのチャンスが来ていた。江戸氏の手配でフランス行きの貨物船に安く載せてくれるという話だった。
征爾はフランスではスクーターで移動することを思いつき、江戸氏の家によく出入りしていた後の彫刻家藤江隆氏と毎日新聞記者木村氏と手分けして、片っ端から自動車会社に電話してスクーターの提供を頼んだ。が、良い返事はなかった。結局、父の満洲時代の同志で富士重工業の松尾清秀氏がラビットジュニアスクーター125㏄新型スクーターを用意してくれた。
・富士重工の工場でスクーターの分解法や修理法を習った。
<神戸から貨物船淡路山丸でヨーロッパへ出立>
・出航は2月1日に決まった。スクーターは横浜で貨物船に預け、神戸から乗船することにした。
・出発の前日、家族で水入らずの送別会をやってくれ、父は大まじめな顔で「水杯だ」と言い、二人で酒を飲み交わした。
・出発の夜、東京駅に大勢の人がプラットホームまで見送りに来た。桐朋のみんな、成城のラクビー仲間、合唱グループ「城の音」のメンバー、「三友合唱団」のおばさんたちもいて万歳三唱してくれた。その時、夜のホームの向こうから斉藤秀雄先生がトボトボ歩いてきて、コートのポケットから『これ、使えよ』と分厚い封筒を出してきた。あとで確かめたら1000ドルちかく入っていた。征爾には何より来てくれたことが有難く感じた。俊夫兄と三等寝台にに乗り込み、窓からみんなに手を振り続けた。
2月1日、三井船舶の貨物船「淡路丸」の甲板にスクーターを縛りつけ、ギターとともに神戸港から乗船し出港、マルセーユに向かった。見送りは明石にいる友人とその母、仙台から来た兄貴の三人だった。ヨーロッパに着くまで約二ヶ月、六十三日かかる気の長い旅の出発であった。
・四日目フィリピン諸島の港を回った。
<征爾がマニラから投函した船旅の手紙>
・小澤:『~略~一日の生活をザッと書く。六時に起床し体操。出港後ひまなときに教えてもらったコンパスを使って船の位置を確かめる。八時食事、トースト、ハムエッグ、コーヒー、果物。10時ごろからフランス語やスクーターの勉強。昼食はフルコースの洋食だ、スープ、魚料理、肉料理、サラダ、パン、コーヒー、ミルク、アイスクリーム、果物、これだけは必ず出る。昼食後はサロンでお喋り、それから昼寝。三時ごろからマラソン、縄跳び、ゴルフだ。夕方はたいてい機関室か通信室かブリッジで専門的「船学」の個人教授を受ける。五時夕食、今度は日本食だ初めのうちはメシ、メシ、メシで困ったが、だいぶ慣れてきた。夜はレコードを聴いたり、甲板の上を散歩したり、お喋りしたりする。ヴァイオリンやコーラスを教えることもある。寝る前には必ず風呂に入り、九時と十時の間にはベッドに入る。ボーイは何でも好きな物を食わしてくれるしビールもただだ。マニラに着いたとき寒暖計を見たら三十八度あるのに驚いた。暑いはずだ。夕焼けはすごい。見ているこっちの顔にまで反映してくる。戦争で死んだ人のことを思うと胸が痛くなってくる。この辺は激戦地だったそうだ。』
・シンガポールで三日停泊。
<ボンベイからの手紙>
2月28日インドのボンベイに入港。ボンベイからの手紙1959年2月28日小澤:『ボンベイに入港したよ。みんな元気?。今夜演奏会がある。会場のTAJホテルに行き、「ヤァー」といって、いつものように正面入口から堂々とロハ入場した。向こうは少しもいぶかしそうな顔をしなかったぜ。街を行くのはタクシーに乗るのが定石らしいが、ボクはわざと電車とバスで街をひと回りした。その方がその国の生活ぶりがわかっておもしろい、値段も七円ぐらいでまことに安い。』。
3月10日アフリカのポートスーダンに寄港した。『ぼくは街をゆっくり散歩し、そのたびに英語はうまくなるし、物知りにもなる』。スエズでは上陸できなかった。
3月12日アレキサンドリア。手紙を書く『みんな元気?おやじさんは相変わらず忙しいでしょう?。~略~船の風呂は海水に湯気(多分蒸気)を吹きこんで沸かすのだが、五分くらいで沸く。毎日海水をとりかえるから、ボクは太平洋、インド洋、紅海、地中海の風呂に入ったわけだ。~略~スクーターの勉強も進んだが、英語のほうもなかなか捨てたものではない。フランス語は単語カードを作った。ボクの部屋は皆の溜まり場になっている。夜になるとアミダクジを引き、ビールを飲む。もっともボクはビールも菓子も、つまみも、ブドー酒もクリーニング代もただだ。ただでないのは手紙代くらいだよ。マルセイユで日本円をフランに換えてもらえるように、船長が特別に手配してくれた。以下略。』
3月15日次はイタリアの南端、シシリー島のメッシへ。

<フランス マルセイユに着、パリへ>
3月23日マルセイユに上陸 三か月間は旅行者扱いで日本の免許証が使えた。

3月26日スクーターでパリを目指す。まずマルセイユからヴァランスへ向かった。
小澤:『途中の道は「フランスの庭」というだけあり美しい。古い農家の後ろにはアルプスが見え、空が高くまで澄んでいる。ヴァランスのユースホステルは一泊七十円から百円くらい、飯は普通食なら八十円くらいだが、ちょっとおごって百五十円から二百円くらいする。もっともレストランに行けば五百円から六百円はかかる。ホステルでみんなにピアノを聞かせたら大いに喜ばれた。希望曲がほとんどアメリカのジャズなのは意外だった。』
4月8日パリ着。その日はホテルに泊まった。途中はほとんど野宿だった。パリで桐朋学園大学短期同期の江戸京子等に会う。
6月<ブザンソン国際指揮者コンクール締切日間に合わず>
江戸京子からブザンソンで国際指揮者コンクールが行われると知らされた。
・「棒ふりコンクール」、征爾のヨーロッパへ来た目的は棒ふりの修行であった。小澤:『そりゃ一発やってみたいけど、どんなふうになっているのかな』『私の通っているパリ国立音楽院の玄関に、たしかコンクールのポスターが貼ってあったわ』江戸京子に連れられパリ国立音楽院に征爾は行った。
おぼつかないフランス語では征爾には分らない。ポスターの内容を江戸京子に通訳してもらうと征爾にも資格があった。
・半年も指揮していなかった征爾は、指揮をしたくてたまらなかった。わずかな申込金でコンクールを受けることができる。
・フランスのナマのオーケストラを一回でも指揮することができれば、それだけでも十分意義があると征爾は考えた。そう思って応募することに決めた。
ところが手続きの不備で締切日に間に合わなかった。
・このままあきらめる気もしなかった。征爾は最後の綱とばかり日本大使館に駆け込んだが、思わしくない。
まだ諦めることはできず、征爾が友人から聞いていたアメリカ大使館の音楽部のことを思い出しコンコルド広場の近くにあるアメリカ大使館を訪れた。
・そこには昔ニューヨークの弦楽四重奏団の第二ヴァイオリンを弾いていたというマダム・ド・カッサ女史が座っていた。
征爾は今までの事情を説明した。そして『日本へ帰る前に一つの経験としてブザンソンのコンクールを受けたいのだが、今からなんとか便宜をはかってもらえないだろうか』と頼み込んだ。
<あなたはいい指揮者か?>
・するとカッサ女史は『あなたはいい指揮者か?』と聞く。征爾はデカい声で『自分はいい指揮者になるだろう』と答えた。
ケッサ女史はゲラゲラ笑いだし、すぐに長距離電話でブザンソン国際音楽事務所を呼び出して、『遠い日本から来たのだから、特別にはからって受験資格をあたえてやほしい』と頼んでくれた。
向こうの返事は『今すぐは決められないから二週間ほど待ってくれ』だった。
カッサ女史は『コンクールを受けると決まった時に慌てるといけないから、その間にスコアを買って読んでおいた方がよい』と親切に言ってくれた。
このころ征爾は少し栄養失調気味になっていた。長い旅行とパリでの安メシ屋がよいが原因だ。何をやっても体がフラフラする。血が上がったり下がったりした。エレベーターが一番苦手になっていた。
・コンクールの日に一番良いコンディションに持っていかなければならないのに弱ったなと思うようになっていた。
そんな時,見るに見かねた堂本印象氏の甥の堂本尚郎画伯が風光明媚な南仏のニースへ招待してくれた。征爾は喜んで飛びつき体力作りがてらスコアを抱えて行った。体力作りに夢中なあまり、直射日光を浴びすぎ、日射病になるという不覚を取ってしまった。それからはもっぱら半病人のようにニースの山の上で過ごしていた。
・パリのアメリカ大使館から速達が来てコンクール受験の資格を取れることが正式に決まったと言ってきた。
征爾はすぐにパリへ戻った。
・そのころ征爾は大学都市のイギリス館に住んでいた。征爾はそこでオーストラリアから来たピアニストのロジャーと江戸京子が何度も何度も連弾してくれ、それを頼りに実際に指揮するようなつもりで手を振った。これが一番いい勉強になった。
<斉藤指揮メトード>
・小澤:『僕は日本を発つまで斉藤先生のもとで勉強した。斉藤先生の指揮のメトードは、基礎的な訓練ということに関してはまったく完璧で、世界にその類をみないと、僕は思っている。具体的にいうと、斉藤先生は指揮の手を動かす運動を何種類かに分類した。たとえば物を叩く運動からくる「叩き」。手を滑らかに動かす「平均運動」。鳥の首がピクピク動くみたいに動かす「直接運動」。というような具合に分類する。そのすべてについていつ力を抜き、あるいはいつ力を力を入れるかというようなことを教えてくれた。その指揮上のテクニックはまったく尊いもので、一口に言えば、指揮をしながらいつでも自を分の力を自分でコントロールすることができるということを教わった。言い方を変えれば、自分の体から力を抜くということが、いつでも可能になるということなのだ。それと同じようなことを、言葉は変わっているが、シャルルミンシュも言っていたし、カラヤンもベルリンで僕に教えてくれたときに言っていた。自分のことを言うようでおかしいが、ぼくはどんなオーケストラへいっても、そのオーケストラが、あるむずかしい曲で合わなくなったり、アンサンブルがわるくなったりしているときに、ぼくのもっているテクニックを使って、必ずみんなのアンサンブルを整えることができるという自信を持っている。それはすなわち斉藤先生のメトードによるものだ。それがオーケストラのほうからみると、セイジの棒は非常に明瞭だという答えになって表れるので、ぼくとしては、指揮するばあいに非常に有利な立場に立つことができるのだ。指揮の試験を受ける人たちに伝えておきたい。何より、柔軟で鋭敏で、しかもエネルギッシュな体を作っておくこと。また音楽家になるよりスポーツマンになるようなつもりで、スコアに向かうこと。それが、指揮をする動作を作り、これが言葉以上に的確にオーケストラの人たちには通じるのだ。ぼくが外国に行って各国のオーケストラを指揮して得た経験のうちで、一番貴重なものはこれである。』
Seiji Ozawa speaks『I studied under Mr. Saito until I left Japan.Saito Sensei’s method of conducting is absolutely perfect when it comes to basic training, and I believe that there is nothing of its kind anywhere else in the world.Specifically, Mr. Saito classified the movements of the conducting hand into several types.For example, “tapping” comes from the movement of hitting something.“Average movement” that moves the hand smoothly.“Direct movement” that makes the neck of a bird twitch.Classify as follows.』
・征爾がブザンソンのに着いた連日連夜の勉強の後なのでかなり疲れていた。所持金も欠乏し始めていた。征爾は学生向きの安宿に入った。
その夜は各国から集まった若い指揮者の歓迎パーティーがあった。みな自信がありそうに見えた。誰もがおれこそ一等賞だという自信にあふれているような顔をしている。若い指揮者の採用試験」のようなものはいくつかあるが、正式な指揮のコンクールは世界でここだけ、各国の政府が数名の応募者を派遣しているのだ。その中にはオペラ座の指揮者や、ロンドン・フィルのアシスタント指揮者などの優秀な者も混じっていた。
<第一次予選>
9月7日第一次予選、48名が応募した。一人ずつ会場のカジノ劇場に呼び出されてテストを受けた。曲目はメンデルスゾーン《ルイ・ブラス》序曲、征爾はそれを自分の好みの練習でオーケストラを仕込む。わずか八分でメンバーに指示を与えたり、大胆に棒を振って、誰にもわかるように派手な身振り、手振りを見せた。終わってお客ばかりでなくオーケストラの連中からも一斉に「ぶらぼー!」という喝采が上がった。第一次予選パス。17人の中に入った。
嬉しく帰る途中にある花屋に入り一抱えの花を買って帰ると部屋に美しく飾った。
<第二次予選>
9月9日第二次予選。課題曲はサン=サーンス《序奏とロンド・カプリチオーソ》とフォーレ《タンドレス》。サン=サーンスの曲はその場で初めてのソリストに、初めてオーケストラ伴奏をつけるという伴奏テクニックのテスト。フォーレは六十人編成の各パートの譜に赤インクで間違った譜が書き込まれてある。ヴァイオリンが違っていたり、ホルンとトロンボーンの音が入れ替えてあるという具合に都合十二ヶ所の誤りを、五分で発見して、完全なオーケストラに仕上げるという課題。征爾はスコアを見つめ、神経をとがらして聴きながら棒を振った。瞬く間に五分間は過ぎ、征爾は十二の誤りを全部指摘することができた。この分なら受かるぞと思った。真夜中に発表があり、バンザイ!合格だ。この調子だとコンクールに優勝するかもしれない。そうなればいろんな人からインタビューを受けるかもしれない。フランス語の下手な征爾には不安であった。征爾は急ぎパリにいる江戸京子と前田郁子(ヴァイオリニスト)に電話して来てもらえることになった。
・彼女たちは翌日すぐに来てくれた。会場の客の中に彼女らがいると思うとどんなにか力づけられた。
<本選は六人が出場>
9月10日本選はブザンソンのグラン・テアトル。課題曲はドビュッシー《牧神の午後への前奏曲》とヨハン・シュトラウス《春の声》、ビゴーがこの日のために作曲した新曲、出場者六人はボーイスカウトに付き添われて、防音装置で完全に遮断された部屋の中に入る。そこで課題曲のスコアを初めて渡された。初見である。それも五分後に指揮する。
征爾は六人のクジで一番最初に指揮台に上がった。不思議と落ち着いた気分で指揮台に上がった。指揮棒をとると少しも臆せずすらすらと思う存分にやれた。征爾が後で知ったことだが、征爾が演奏している間に、作曲者のビゴーが「ブラボー」と叫んだという。
全部のテストが終わり、一時間後に発表がある。その間、お客さんもオーケストラの人もみな結果を待っている。
発表の時間が来て、一等を呼び出す声が聞こえた。
<ムッシュー・セイジ・オザワ!一位入賞>
・「ムッシュー・セイジ・オザワ!!」するとお客さんやオーケストラの人々が「ブラボー、ブラボー、ブラボー」と歓声を上げ、すごい拍手が起こった。
征爾は一位入賞した。確かに僕なんだと、征爾は何度か自分に向かって言い聞かせた。そうでもしなければ信じられないような気持であった。征爾はいつの間にかステージの中央に押し出されていた。賞金と腕時計とフランス語で書かれた免状をもらった。
・江戸京子と前田郁子もすぐステージに上がって来てくれペラペラフランス語で通訳をしてくれた。征爾はカメラでパチパチやられ新聞記者のインタビュー攻めにあった。
・よかった!! これでもう少しヨーロッパに残れると喜びを噛みしめた。賞をもらった時に最初にわいてきた喜びだった。
優勝の翌日、審査員の一人だった指揮者ロリーン・マゼールの部屋に呼ばれた。何かと思えばにやにやしながらピアノを弾き始めた。本選の《牧神の午後への前奏曲》でオーケストラがうまくできなかったところを、わざとそのままにして征爾に聴かせた。彼は若くして天才と呼ばれていて、その後、作曲家のナディア・プーランジェのサロンであった時も輪の中心にいた。征爾は縮こまってコーヒーを飲むばかりであった。《牧神》を弾かれた時もホテルの部屋にピアノがあるなんてすげえなと思った。
・コンクールが終わって三日ほど水の澄んだブザンソンのホテルの前の川でボーっと魚釣りをして楽しんだ。コンクール入選の知らせは家と斉藤先生に知らせた。
コンクールはブザンソンお音楽祭の一環でほかにもいろいろな音楽会が開かれていた。審査員だったシャルル・ミンシュが指揮する音楽会があると聞いて、征爾は出かけて行った。
<ミンシュのベルリオーズ幻想交響曲>
・その時征爾が聴いたベルリオーズの《幻想交響曲》をどう言い表せばいいか彼は、わからなかった。そんな指揮者がいるなんて信じられなかった。長い指揮棒をもって、魔法をかけられたようだった。どうしたらあんなにみずみずしい音楽が生まれるのだろう。居てもたってもいられなくなった。<>> 
<アメリカの放送局特派員とクレイジーホース> 
・最後のパーティーの時、征爾は思い切って "ミンシュ先生“ と声をかけた。振り返った顔は、さっきまで女の人たちと楽しそうに談笑していた様子とは違って、いかにも気難しそうだった。江戸京子に通訳してもらって伝えた。"弟子にしてください"返事は冷たかった。"私は弟子をとらない。大体、そんな時間はない“ 征爾はがっくりきたが、“もし来年の夏にアメリカのタングルウッドに来るなら教えてもいい“ と付け加えられた。ミンシュはボストン交響楽団の音楽監督だった。ボストン交響楽団が毎夏タングルウッドで開いている音楽祭でなら教えるという事らしい。
<タングルウッド音楽祭参加を目指す>
・征爾らのやりとりをアメリカの放送局、ボイス・オブ・アメリカのヨーロッパ特派員ヘイスケネンが聞いていた。ボストン交響楽団のかっての名指揮者、故セルゲイ・クーセヴィツキーの婦人と知り合いだから、音楽祭に参加できるよう掛け合ってくれるという。それをたよりに征爾はパリへ戻った。
パリに戻ってから、コンクール第一位の新聞記事を読んだパリのコルビュジエが設計したブラジル館の館長が、征爾に無条件で下宿させてくれた。普通は四十人に一人という難関な贅沢な建物、部屋に風呂までついていた。またフランス滞在手帳もすぐに交付してくれた。征爾のように学校も入らず、金の出所もあいまいな者には絶対ありえないことだった。その上パリの音楽会の招待券も送ってくれので、どの指揮者のも聴くことが出来た。
9月末にベルリン音楽祭を聴きに
9月26日征爾は家に手紙を書いた。ベルリン音楽祭に来たこと、前日朝着いたこと、すぐ東ベルリンに入り、国立歌劇場を観たりした。夜はロシア・バレエ《ガヤーヌ》を観たことなど見たこと聞いたこと、ニ三日中にベルリン・フィルのマネージャーに会うこと、などを書き送った。
10月12日パリ
10月16日夜、ドイツのドナウエッシンフに行く。17日-18日現代音楽祭があり非公式な招待があり聴きに行く。
10月18日パリから十二時間かかった。現代音楽祭はヨーロッパ一ということもあり世界各国から著名音楽家が集まって来た。日本人ではパリから戸田邦雄(45歳、外務省パリ日本大使館参事官、作曲家、声楽家で藝大声楽講師戸田敏子の実兄)、篠原真(29歳作曲家)、日本から秋山邦晴(29歳音楽批評)等が来ていた。
10月20日パリに戻る。家に手紙を書いた。”今年いっぱいはパリにいて、来年はベルリン放送局が月給を出すというので
それをもらい、合間に演奏会をやるつもり” だという。
10月放送局のラジオ・フランス主催で征爾のお披露目演奏会と記者会意見が開かれた。毎日新聞パリ支局長の角田明、画家の堂本尚郎が来てくれた。堂本に紹介されたのが有名なナイトクラブ、クレイジーホースの店主アラン・ベルナンダンだった。征爾が安い酒ばかり飲んでいることを聞きつけたか、“これからはうちの店で好きなだけ飲め" という。早速その夜に連れられて以来、時々通った。征爾が行くと門番がふざけて敬礼する。アランの小さな部屋は四方の棚に酒が詰まっていて、どれを飲んでもよかった。アランとはその後30年以上付合いが続いた。ものすごい音楽ファンで、征爾がパリで指揮する時は必ず聴きに来てくれた。審査員だった作曲家ビゴーんもとで指揮のレッスンを受けたりした。
11月はじめにフランス語の進級試験があった。
<ホームシックと体調崩しノルマンディーの修道院で静養>
・その年の暮れホームシックにかかった。畳の匂いや日本語が無性に懐かしく、両親のことや、成城、桐朋の学友、先生のことが思い出された。本場ののブドウ酒を飲んでもうまく感じられない。体調を崩し、それである日医者に行った。”パリの毒気にあてられたらしい。さっそくパリから逃げるんだなぁ” 征爾は"金がねえ” というと、修道院の紹介状を書いてくれた。ただで飯を食わして泊めてくれる。征爾はノルマンディーの一番イギリスに近い出っ張った半島の修道院へパリから汽車とバスに六時間かけ小さな村に着いた。そこからさらに三十分歩いて南フランスのノルマンディの修道院に着いた。部屋は半地下室のような陽の当たらない、全部が石でできている火の気のない部屋だった。修道院には老若四十人ほどが自給自炊していた。消灯は九時、朝は四時半起床。オルガンが鳴り坊さんたちの重量感あるコーラスが始まる。グレゴリオ聖歌だ。征爾もその仲間に入り、四線譜の曲を歌って、帰る頃には坊さんたちと唱和できるようになった。昼間はほとんどの時間が労働で薪を山から馬で下ろしたり、豚のエサ運びなど一生懸命にやった。体を動かしていないと、寒さで凍え死んでしまいそうなのだった。十二時半の昼飯はスープ、豚肉、ウドン、パン、リンゴ酒。このリンゴ酒を飲むと百回ぐらいゲップが出た。夕飯は六時半。スープに卵焼一つにジャガイモ、チーズといった簡単なもの。ここでの静養という生活は征爾にとり、毎食出るチーズの匂いとグレゴリオ聖歌、メシのまずかったこと、これだけはいつまでも忘れられない。
家に近況報告の手紙を書いた・送って欲しい物を書いている。”1.風呂敷数枚、こっちで世話になった先生あげる。2.白い木綿のワイシャツサイズ14インチ二枚。3.靴下ニ三足。4.アルミゲル錠(胃の薬、ボンがよくよく知っている)。5.ドイツ語の文法の本(易しいのがいい、仙台の兄貴に聞いてくれ)。6.漱石の(こころ、明暗)。7.ラビットジュニア用プラグ(点火栓、上の兄貴なら知っている)。8.色紙と和紙(これは誕生日やその他のカードとして小さく切って使うが大きいままでいい)。9.こけし人形(小さくて安いやつでいいから、十カラ二十)。10.その他食料(焼海苔、海苔の佃煮、昆布の佃煮、醤油の缶詰、昆布茶、梅干し、ウニ、味噌、しらたき、削り節、海苔のついた煎餅、わさび粉、七色唐辛子、その他缶詰なら何でも歓迎。なお湿気をうけやすい物はなるべく缶入りか瓶入りかにすること。11.飯櫃、友達を呼ぶときに見せる。12.箸数膳安くていい。12.茶碗と湯呑。こっちに来てめっきり料理の腕が上達した。洗濯もうまくなった。13.靴は十文七分、黒の皮、ズックでは困る。
・修道院から帰るとパリの街では、クリスマス用の品物が売っていた。
12月チロルにスキーに行った。臨時に学生の団体に加えてもらった。仲間はこの年ロン・ティボー・コンクールせ三位となったヴァイオリンの石井志都子、ピアノ江戸京子、ヴァイオリン加藤さんという女性三人と男一人、駅のプラットフォームに四十人が集まり団長を決めた。パリを出発し翌朝インスブルックに着いた。バスに乗りムッタース村の古風なホテルに着いた。征爾らはここでクリスマス、大晦日、正月を迎えた。

1960年(昭和35年)25歳 
1月10日スキーからパリに戻る
1月26日家に手紙を書く。
・その後、急用ができベルリンへ行く。カラヤンのレッスンがテレビで放映されていた。田中路子女史がその放送を見に来て、征爾の背広を見て、音楽家は舞台に出る限り皆の目に触れるのだからと流行りの背広を着た方がいいと言って、デパートへ連れて行き背広をプレゼントしてくれた。
宿舎に帰ると日本から小包が届いていた。
・パリでルービンシュテインらのマネージャーをやっている人とも二月初旬に会う約束があった。
・レッスンは、コンクールの審査員だったパリの長老指揮者ビゴーがオーケストラを使って週一回無料で教えてくれた。またアール先生の友人のレオン・バルザンというアメリカ人にも教えてもらっていた。
・ブラジル館からフランス人の家庭に下宿することにした。
2月16日家に手紙を書く。
10月パリ放送局主催でシャンゼリゼ劇場でリサイタルをやることが決まった。
3月29日家に手紙を書く。
・急にロンドンに来た。
・パリの教習所に行き、日本での運転免許証を持たなかったが、教習所の教師にオレは日本の免許証を持っているから、なんとか簡単にフランスの免許証がもらえるようにとりはからってくれと、頼んでみた。パリでの教習はどんなものでも道路上でやる。四回くらいで試験を受けさせてもらった。受験の通知はハガキで来る。パリの指定の道に行くと男女がたむろしている。それが試験日なのだ。試験は五分ほどで終わり、あっけなくパス。その日に免許証をくれた。
・そのころ征爾はトゥールーズで連続放送演奏会をやることになっていた。スペイン国境に近いところだ。江戸京子の新車を借りて、東京から神戸間くらいの距離を、自動車のハンドルをたいして握ったことがないのに運転して行った。その日は谷間の村境のホテルに宿泊。明日中に目的地に着き、明後日は朝からオーケストラの練習。
・真夜中にトゥールーズに着きパリの放送局から連絡されていたホテルに着いた。翌朝は9時からフランス国内での指揮者としての仕事が始まった。そこでは二週間近く指揮をした。その間、オケの楽員さんが変わりばんこに征爾を夕食に誘ってくれたり、夕方、近くのピレネー山脈の麓までドライブに誘ってくれた。
4月19日、21日、25日と3日間の収録でベートーヴェンの《交響曲第一番》、《エグモント》序曲、モーツァルト《交響曲第41番》「ジュピター」、《ディヴェルティメント》、オペラ《魔笛》序曲、ブラームス《ハンガリー舞曲集》、シューベルト《交響曲未完成》、カバレフスキーの組曲《道化師》などを放送用収録でトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団を指揮して録音。全部の演奏、録音を済ませその場でお金をもらう。八万円である。征爾はそこから旅に出、カルカソンヌへ行き、さらにピレネー山に登り、スキーをやった。わざわざパリからスキー靴を放送局に内緒で持ってきていた。
・ウィーンに来い、と田中路子女史が放送関係の人や劇場主を紹介してくれるという。それからベルリンにも行かねばならない。
パリに戻り、ベルリンの田中路子女史のところに、来シーズンのベルリンでの仕事の打ち合わせにいった。オランダへ行きニホンフィルハーモニーが呼ぶという、パウル・クレッキーというハンガリー人の有名な指揮者に会い、いろいろ音楽的な忠告などを受けた。
<タングルウッド音楽祭>
・ボイス・オブ・アメリカのヘイスケネンから約束通りタングルウッド音楽祭への招待状が届いた。
7月2日渡米しボストン飛行場の税関を通って外に出るとパリで知り合った数学者の広中平祐が出迎えてくれた。その晩は広中氏の家に泊めてもらい、翌日長距離バスでタングルウッドへ向かった。ここでボストン交響楽団が音楽祭を開催している。ここで征爾は六週間過ごす。タングルウッド村に着いたと音楽祭事務所に電話をしたら迎えに来てくれた。宿舎は2人部屋でウルグアイの指揮者と同室である。
7月3日ミンシュのレッスンを受けるにはまず、コンクールを受け合格しなければならない。征爾は三十人近い応募者と第一次試験に臨んだ。オーボエ、ホルン、トロンボーン、クラリネットの四重奏曲の書き取り、これは難なくパスした。
7月4日次にモーツァルト《魔笛》を指揮した。征爾は、バークシャー・ミュージック・センターの指揮コンクールで一位となり、ミンシュのレッスンを受けられる資格を得た。
これでミュンシュのレッスンを受けられる。
宿舎で同室になったのは、ウルグアイ人のホセ・セレブリエールで、彼がマーラーの交響曲のスコアを勉強していたことに驚いた。マーラーがほとんど演奏されていない頃だ。征爾は名前こそ知っていたけどタングルウッドにあるボストン交響楽団の夏季訓練アカデミーであるバークシャー音楽センター(現タングルウッド音楽センター)に到着し、ボストン交響楽団音楽監督シュルル・ミュンシュおよび指揮講師エレアザール・デ・カルヴァーリョと協力する。これがボストン交響楽団との長い付き合いの始まりとなる。バークシャー音楽祭の指揮コンテストの各種試験を3日~8日済ませ、第1位を獲得した。
毎週木曜日の定期コンサートの指揮を5週間行うことになった
・その夏の終わりに、彼は優秀学生指揮者に与えられるクーセヴィツキー賞を受賞しました。
7月ボストン、フェンウェイ・パーク(レッドソックスの本拠地)で初めて野球観戦
7月14日征爾の初の演奏会があった。モーツァルト《ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲》 K. 320d 
ジェシー・レヴィーン(ヴィオラ)/小澤征爾指揮/タングルウッド ミュージック センター オーケストラ
タングルウッド- シェッド・レノックス、マサチューセッツ州に於いて
この演奏会の評判がよく、ボストンでの放送やメキシコ市での演奏会が急に決まった。五回やることになった。
7月17日 ニコラス・カッパビアンカ《サッフォーの詩の歌》小澤征爾指揮
タングルウッド – 室内楽ホール、レノックスに於いて
8月9日五年振りとなる最も優秀な若手指揮者に贈られるクーセヴィッキー指揮大賞受賞第八号の決定内定を受けた。推薦者はミミュンシュ、クーセヴィツキー未亡人、アーロン・コープランド等であった。ニューヨークタイムズの音楽評論家ハロルド・ショーンバーグに「この指揮者の名前を人々は記憶しておくべきだ」と評された。
いろんな人にパーティーや夕食に招待されたが、征爾が嬉しかったのは伊藤ヨシ子、桐朋学園の志賀、河野俊達、二宮等が一堂に会して祝ってくれたことだ。
8月に学生の頃からミュンシュに憧れていた小澤は、タングルウッドでミュンシュ指揮の第九のコーラスにいれてもらって歌っている。
9月25才ベルリンで行われたカラヤン主催「指揮者コンテスト」で第一位となり定期的(10月・12月・1月・4月の全部で16日間)にカラヤンから指導を受けることになる。
・ベルリンにてヘルベルト・フォン・カラヤンのアシスタントを務める。そしてカラヤンとの親交はこの時から生涯続くことになった
12月14日モーツァルト《交響曲第28番》、ヨハン・シュトラウス二世:喜歌劇《こうもり》序曲を、フランス国立フィルハーモニー管弦楽団を指揮して収録。
バーンスタインのオーディションに受かる
↓パリ、放送用初録音CD

1961年(昭和36年)26歳
2月20日「日独修交100年記念」する演奏会で「石井眞木」と「入野義郎」の「現代曲」と、モーツァルト「交響曲」を指揮したのがベルリン・フィルとの出会いとなった
4月バーンスタインに招かれてニューヨーク・フィル副指揮者就任。バーンスタインとの親交はこの時から生涯続始まった
4月13、14、16日(NYP定期演奏会)    カーネギー ホール
黛敏郎《饗宴》を初演をニューヨーク・フィルハーモニックを指揮してデビュー
4月24日ニューヨーク・フィル日本公演に同行し帰国、神戸港を出発して2年3カ月ぶりだった。
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5月5日<NYP日本ツアー>   東京文化会館
黛敏郎《饗宴》の日本公演、ニューヨーク・フィルハーモニッ、を指揮してデビュー
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バーンスタインが川崎にある小澤家を訪問した
10月14日<NYPヤング・ピープルズ・コンサート> カーネギーホールでドビュッシー《サクソフォンと管弦楽のための狂詩曲》などニューヨーク・フィルハーモニックを指揮   
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5月5日<1961 東京世界音楽祭> 黛敏郎《バッカナーレ(饗宴)》ニューヨーク・フィルハーモニックを指揮 東京文化会館
6月22日 日本フィル<第34回東京定期演奏会> 日比谷公会堂で日本フィルハーモニー交響楽団を指揮してチャイコフスキー《交響曲第五番 ホ短調》 ほか演奏     
7月杉並公会堂における放送録音が、小澤にとってNHK交響楽団との初顔合わせとなった

1962年(昭和37年)27歳
1月5日日比谷三井ビルディングで媒酌、井上靖夫妻でピアニストの江戸京子と結婚。
1月10日サンフランシスコ交響楽団を指揮してアメリカデビュー。サンフランシスコ交響楽団の指揮が北米初のプロ指揮者の仕事になった。
2月17日   RPI フィールド ハウス、トロイ、ニューヨーク
<NYPヤング・ピープルズ・コンサート>ドビュッシー《牧神の午後への前奏曲》などニューヨーク・フィルハーモニックを指揮
1962 Feb 17 / Young People’s Concert / Bernstein
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4月7日   カーネギー ホール、マンハッタン、ニューヨーク
<NYPヤング・ピープルズ・コンサート>モーツァルト《フィガロの結婚》序曲、ニューヨーク・フィルハーモニックを指揮
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5月3日4,5,6日  ニューヨーク州マンハッタン、カーネギーホールでニューヨーク・フィルハーモニックを指揮
アイヴス《夕暮れのセントラルパーク》Ives《Central Park in the Dark》
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5月ニューヨークでのアシスタント指揮者の契約が終わり、6月からのNHK交響楽団指揮のため日本へ向かう。
・小澤は6月20日から10月22日までの23の演奏会のすべてと、11、12月の定期公演および《第九》を指揮する予定で、半年間「客演指揮者」としてNHK交響楽団と契約していた。
・サンフランシスコ交響楽団定期演奏会でハチャトリアンの代役でベルリオーズ《幻想交響曲》を指揮して好評を博した。
6‐7月メシアン《トゥランガリラ交響曲》NHK交響楽団を指揮して日本初演演奏
出演:イヴォンヌ・ロリオ(ピアノ)、ジャンヌ・ロリオ(オンド・マルトノ)
この初演にはメシアン自身も立ち会ってみっちり練習し、初演は成功を収めた
10月征爾はN響と東南アジアへ二週間の演奏旅行に出発。
フィリピンでベートーヴェン《ピアノ協奏曲第一番》を現地のピアニストが弾くカデンツァの途中で、征爾はうっかりバトンをあげてしまった。オーケストラが楽器を構えたがカデンツァはまだ続いている。征爾のミスだった。終演後征爾は先輩の楽員から”おまえやめてくれよ、みっともないから"とクソミソに言われ”申し訳ありません”と平謝りするしかなかった。この時のことを征爾は言う『僕には全然経験が足りなかった。ブラームスもチャイコフスキーも交響曲を指揮するのは初めて。必死に勉強したけど、練習でぎこちないこともあっただろう。オーケストラには気の毒だった。』
10月30日<日本フィル第51回東京定期演奏会>を指揮   東京文化会館
プロコフィエフ《交響曲第五番 変ロ長調》 op.100
モーツァルト《ピアノ協奏曲第二十番 ニ短調》 K.466
ラヴェル《ラ・ヴァルス》
江戸京子(Pf.)
11月N響第434回定期公演が新聞批評に酷評される
11月16日にN響の演奏委員会が「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明する。それは新聞に報じられ、征爾はマスコミに追われるようになった。世間の顰蹙を買い、電車に乗っていても変な目で見られた。
事態を収拾するため、征爾をN響指揮者に推薦してくれたNHKの細野プロデューサーが『病気になったことにして、12月の定期演奏会をキャンセルすればいい』と言ってくれた。征爾は嘘をつくのもおかしな話だと考え、今後の演奏会の保証をしてもらうための覚書をNHK会長宛に送ったが、受け入れられず、12月の定期は中止と伝えられた。
12月4日N響定期公演に向けリハーサルを開始するが、楽員のボイコットで練習不能に。
結局、同11日から三日間にわたり東京・上野の東京文化会館で行う予定だった定期演奏会は中止に。征爾は楽団員が来るはずのない会場に一人、足を運んだ。楽屋口は記者で騒然としていたが、舞台にも客席にも人はいなかった。N響の指揮者として契約をしていた征爾の矜持だった。この騒動で征爾は精神的に滅茶苦茶にされ、泣き、悔しかった。
12月18日にNHK交響楽団を契約不履行と名誉棄損で訴えるまで発展
12月20日N饗第435回定期公演は中止と発表された。小澤は契約通り上野の東京文化会館の会場に向かった。やがて開演時刻となり指揮台に立ったが、そこには楽員も聴衆もいない。
内幸町旧NHKホールステージ

12月21日新聞は社会面に「天才は独りぽっち」とか「指揮台にポツン」と報道した
征爾とNHKは折衝を重ねたが折り合わず、N響は征爾に内容証明郵便を送り付けた。世間では「NHK事件」という。
・征爾は日本と"決別"する形で再び海を渡った。その後、米国を軸に海外に活躍の場を求め、その名声を高めていった。N響と「雪解け」したのは三十二年の歳月を経た1995年1月吉田秀和氏たちの仲介でN響と和解が成立した。東京・赤坂のサントリーホールでの演奏会となった。
・その事件後、「小澤征爾の音楽を聴く会」の発起人に井上靖、三島由紀夫、大江健三郎、黛敏郎、團伊玖磨、武満徹、石原慎太郎、一柳慧、中島健三、浅利慶太等、音楽に関係のない人たちも大勢いた。演奏は日本フィルハーモニー交響楽団。ヨーロッパ行きで世話になった水野成夫が作ったオーケストラだった。征爾は言う『苦境を支えてくれたこの人たちのことを、僕は一生忘れない』
・N響とのトラブル後、ニューヨークに戻った征爾は、マネージャーのロナルド・ウィルホードにきっぱり『オレ、もう日本になんか帰らないよ』といった。
のちに征爾は何かのインタビューで『僕は、あのことがあったので、日本にいられなくなり、外国に行き、良かったのだけれど』と、事件を振り返って、現在の結果に結びついたのだと、強く語った。
<下、ヤング・ピープルズ・コンサート: Young Performers No. 3 小澤征爾 / · Bernstein レナード・バーンスタイン · New York Philharmonic>
Original CBS Television Network Broadcast Date: 14 April 1962.

1963年(昭和38年)28歳
1月15日<小澤征爾の音楽を聴く会>が日比谷公会堂で開催され、小澤は日本フィルハーモニー交響楽団を指揮した
発起人には、浅利慶太・石原慎太郎・一柳慧・井上靖・大江健三郎・武満徹・團伊玖磨・中島健蔵・黛敏郎・三島由紀夫等
1月16日朝日新聞朝刊は三島由紀夫の「熱狂にこたえる道ー小澤征爾の音楽を聴いて」を掲載し注目を集めた
1月17日音楽評論家/吉田秀和や黛敏郎等の仲介により、NHK副理事長の阿部真之助と小澤が会談し、NHKと和解成立したが、のちに小澤は胸中を『精神的には滅茶苦茶にやられた。泣いたし、悔しかった。苦境を支えてくれたこの人たちのことを、ぼくは一生忘れない』と述べている
・日本フィル首席指揮者就任した。
6月ラビニア音楽祭に参加。
7月コロンビア・アーティスト・マネジメントとマネジメント契約。
7月シカゴ、ラヴィニア音楽祭で肩を痛めたジョルジュ・プレートルの代役として急遽出演しドボルジャーク《新世界より》をシカゴ交響楽団を指揮し称賛を収めた
7月9日<ニューヨーク・フィル公演>ニューヨーク、ルイソーン・スタジアムでベルリオーズ《幻想交響曲》等を指揮
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7月10日<ニューヨーク・フィル公演>ニューヨーク、ルイソーン・スタジアムでチャイコフスキー《交響曲第四番》を指揮
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8月29日<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)> ハリウッド・ボウル、ハリウッド、カリフォルニアでリスト《ピアノ協奏曲第一番》等を指揮
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9月5日<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)> オーディトリアム・アリーナ、デンバー、コロラド州でストラヴィンスキー《火の鳥》組曲等を指揮
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9月6日<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)>      テンプル オブ ミュージック、ウィスコンシン州ミルウォーキー
ストラヴィンスキー《火の鳥》組曲等を指揮
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9月8日at 2;15PM<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)>      オペラハウス、シカゴ、イリノイ州
リスト《ピアノ協奏曲 第一番》変ホ長調等を指揮
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9月8日at 8;15PM<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)>     オペラハウス、シカゴ、イリノイ州
ストラヴィンスキー《火の鳥》組曲等を指揮
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9月12日<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)>      フリーメーソン オーディトリアム、デトロイト、ミシガン州
ストラヴィンスキー《火の鳥》組曲を指揮ク
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9月15日<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)>      シビック・アリーナ、ピッツバーグ、ペンシルベニア州
ストラヴィンスキー《火の鳥》組曲を指揮
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9月16日<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)>      アカデミー・オブ・ミュージック、ペンシルバニア州フィラデルフィア
シューマン《交響曲第三番》を指揮
1963 Sep 16 / Tour / Bernstein Schuman / Symphony No. 3 Ozawa, Seiji
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9月19日<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)>      ラジャ・シアター、レディング、ペンシルベニア州
ドビュッシー:管弦楽のための映像より《イベリア》 or チャイコフスキー:幻想曲《フランチェスカ・ダ・リミニ》を指揮
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9月20日<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)>      シビック センター、ボルチモア、メリーランド州
ストラヴィンスキー《火の鳥》組曲(1919 version)を指揮
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9月22日<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)>      コンスティテューション・ホール、ワシントン DC
リスト《ピアノ協奏曲 第一番》変ホ長調を指揮
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10月東京・日生劇場のこけら落としのベルリン・ドイツ・オペラの《フィデリオ》公演でカール・ベームの副指揮者を務めた
<下、What’s My Line? – Seiji Ozawa (1963, TV Show)>

1964年(昭和39年)29歳
1月7日客演指揮者としてトロント交響楽団を初指揮
4月24日 日本フィル / 第83回東京定期演奏会 東京文化会館で指揮
モーツァルト《交響曲第四十一番 》「ジュピター」/武満 徹《弦楽のためのレクイエム》/チャイコフスキー《交響曲第五番》
5月15日 日本フィル / 第84回東京定期演奏会 東京文化会館で指揮
チャイコフスキーの幻想曲《フランチェスカ・ダ・リミニ》ほか
6月シカゴ交響楽団(指揮者はジャン・マルティノン)によるラヴィニア音楽祭の指揮者が急病により辞退を受け急遽、ニューヨークにいた征爾が開催数日前に招聘され夏の間、シカゴ交響楽団のラビニア・フェスティバル音楽監督に就任(1968年まで)した。音楽監督として音楽祭を成功に収め、小澤の名声は全米に知れ渡った。
・シカゴ交響楽団とはRCAレーベル、EMIレーベルに複数の録音を残すことになる
8月16日にタングルウッドでボストン交響楽団に初めて客演指揮としてデビューする。プログラムにはビゼー《ハ長調交響曲》、ヒンデミット《マティス・デア・マーラー》、ムソルグスキー《展覧会の絵》。彼は1965年、1966年、1967年の夏のシーズン中に再出演を果たした。
・シカゴ交響楽団ラヴィニア音楽祭の芸術監督に就任(1968年まで)。
9月8日 日本フィル / 第88回東京定期演奏会 / 東京文化会で指揮
ベルリオーズの序曲《ローマの謝肉祭》 op.9/ショーソン《詩曲》/サン=サーンス《序奏とロンド・カプリチオーソ》 /フランク《交響曲 ニ短調》
石井志都子(Vn.)
9月バーンスタインの長期休暇によりニューヨーク・フィルの指揮を務めた(1964年9月-1965年4月)
10月8日~11月28日日本フィルハーモニー交響楽団第1回北米公演。リンカーン・センター(ニューヨーク)をはじめ、31都市で34公演。渡邉曉雄、奥田道昭、江藤俊哉のほか、現地で小澤征爾が合流した。アイザック・スターンも出演。『ニューヨーク・タイムズ』が「世界に通じる専門家のグル一プ」と絶賛。

1965年(昭和40年)30歳
3月ロンドン交響楽団を指揮して英国デビュー
ベートヴェン《交響曲第一番》/ベルリオーズ《幻想交響曲》ほか
9月カナダ、トロント交響楽団常任指揮者・音楽監督に就任(1965-1969年)
・ロンドン、英連邦芸術祭にトロント交響楽団を率いて参加
10月1日ロンドン、ロイヤル・フェスティバルホール(プロムス)
モーツァルト:オペラ《後宮からの誘拐》序曲/チャイコフスキー《交響曲第五番》ホ短調
小澤征爾指揮トロント交響楽団

12月征爾両親をトロントに招んだ。父開作にとっては、昔の中国以来の海外であった。
・母さくらは語る『征爾も初めて私たちを連れて来たので、みんなに紹介したかったんでしょうね。ある日私に、”家でパーティやっていいか"と征爾が言うので"いいわよ"と言うと、征爾はすぐに電話で三十人ほどに声をかけたら、全員が来るという返事。そこで私たち三人で買い物に行き、天ぷらの材料とかお酒などをいろいろ買ってきました。私が和服に割烹着をつけて天ぷらをあげてるところにお客さんがやってきて、"セイジのお母さん!"と派手に抱きついたり大変でした。征爾は一人でお客さんのお酒の注文やおかわりをサービスしてとてもうれしそうでした。』
12月22,23,24日ベートヴェン《交響曲第九番》 東京文化会館大ホール、日本フィルハーモニー交響楽団を指揮
12月25日ベートーヴェン《交響曲第九番》 日本武道館、日本フィルハーモニー交響楽団を指揮

1966年(昭和41年)31歳
4月20日日本フィルハーモニー交響楽団第119回定期。小澤征爾指揮
オネゲル:オラトリオ《火刑台上のジャンヌ・ダルク》  東京文化会館 日本フィルハーモニー交響楽団を指揮
・ウィ-ン交響楽団を指揮して、ウィーンおよぼムジークフェラインにデビュー。
・ザルツブルグ音楽祭でウィーン・フィルを初指揮してザルツブルグ音楽音楽祭デビューした。
8月京子夫人と離婚
9月ベルリン・フィル定期演奏会に初登場し、ヒンデミット《画家マチス》ほか、ベルリン・フィルを指揮してデビュー
12月1-3日ベルリオーズ《幻想交響曲》トロント交響楽団を指揮して録音。トロント、マッセイ・ホール
12月26日日本フィル第131回東京定期演奏会で指揮   東京文化会館
ベルリオーズ《死者のための大ミサ曲/レクイエム》 op.5(日本初演)
合唱:東京混声合唱団 合唱:東京放送合唱団 合唱:二期会合唱団 合唱:日本合唱協会 合唱:藤原歌劇団合唱部
↓レスピーギ:交響詩「ローマの松」Ⅳ:アッピア街道の松
【指揮】小澤征爾 Seiji OZAWA. Canada Toronto Symphony

1967年(昭和42年)32歳
3月9日トロントでトロント交響楽団を指揮、この演奏は後に CBC テレビで放送された。
ザルツブルグ音楽祭でカラヤンのアシスタントを務めオペラを勉強
9月7日<民音定期演奏会>   日比谷公会堂
ベルリオーズ《幻想交響曲》ほか日本フィルハーモニー交響楽団を指揮
11月9日「ニューヨーク・フィル創立125周年記念」で武満徹の《ノヴェンバー・ステップス》をニューヨーク・リンカーン・センターのフィルハーモニック・ホール(デイヴィッド・ゲフィン・ホール)において初演した。鶴田錦史と横山勝也のソロ、ニューヨーク・フィルハーモニックにより演奏された。この初演は大成功を収め、武満の名が世界に知られる契機となった。小澤征爾によると、会場にはレナード・バーンスタインの他に、アーロン・コープランドやクシシュトフ・ペンデレツキらも同席していたという。バーンスタインは涙を流しながら「これは強い生命の音楽だ」と絶賛したという。
12月23日日本フィル第151回東京定期演奏会 東京文化会館
ブラームス《交響曲第二番 ニ長調》 op.73/武満 徹《樹の曲》ほか
12月28日成城学園創立50周年記念音楽会   東京厚生年金会館 
ハイドン《四季》  
指揮:小澤征爾/日本フィルハーモニー
↓Ozawa conducts Berlioz: Symphonie fantastique – First Movement [Part 1/7]
Seiji Ozawa, conductor Toronto Symphony
Recorded in 1967.

1968年(昭和43年)33歳
1月26日シンフォニーホールで初のBSOコンサートを指揮した。プログラムには、グルック《ヨアヒムの音楽》のほか、バーンスタイン《交響曲第2番》「不安の時代」、ラヴェル《ダフニスとクロエ》第2組曲。翌週、彼は同じプログラムをハートフォード、ニューヨーク、ブルックリンで指揮した。
・日本フィル首席指揮者就任。
・入江美樹と結婚
7月ザルツブルク音楽祭でカラヤン指揮のオペラ《ドン・ジョヴァンニ》のアシスタントを務め、シンフォニーとオペラは車の両輪、どちらも必要と助言をうけた。ミレッラ・フレーニからチャイコフスキーのオペラを指揮するよう勧められた。
9月3日日本フィル第164回東京定期演奏会を指揮    東京文化会館で指揮
ベートーヴェン《ピアノ協奏曲第三番 ハ短調》/ベートーヴェン《交響曲第四番 変ロ長調》/ベートーヴェン《合唱幻想曲 ハ短調》
ピアノ:松浦豊明 ソプラノ:佐野順子 ソプラノ:大川隆子 アルト:宮崎博子 テノール:唐津東流 テノール:山形忠顕   バス:木村俊光 合唱:都民合唱団 合唱:三友合唱団
12月25日日本フィル第171回東京定期演奏会 東京文化会館で指揮
ベートーヴェン《交響曲第九番》ニ短調 op.125「合唱」
ソプラノ:斎藤江美子 アルト:木村宏子 テノール:鈴木寛一 バリトン:川村英司
合唱:藤原歌劇団合唱部 合唱:東京混声合唱団 合唱:二期会合唱団 合唱:日本合唱協会 合唱:東京カンマー・コーア

1969年(昭和44年)34歳
・渡邊暁雄の後をうけ日本フィルの首席指揮者兼ミュージカル・アドヴァイザーに就任した征爾は、この年トロント響音楽監督最後の年度であった。征爾は桐朋の後輩秋山和慶をトロント響の副指揮者に呼んでいた。
・メシアン《トゥーランガリラ交響曲》トロント交響楽団のアルバムがグラミー賞のクラシック部門「ベスト・オペラ・レコーディング」にノミネートされた。
・小澤征爾はボストン交響楽団の客演指揮者として、オルフ《カルミナ・ブラーナ》、ストラヴィンスキー《「ペトルーシュカ》、ストラヴィンスキー《火の鳥組曲》をシンフォニーホールでボストン交響楽団とRCAビクター・レーベルに初録音した。
2-3がつニューヨーク・フィルの定期演奏会を四週間にわたり指揮した。
4月トロント交響楽団を率いて帰国
・ザルツブルク音楽祭でモーツァルトのオペラ《コジ・ファン・トゥッテ》を指揮してオペラ・デビューを果たした。
5月21日 日本フィル第180回東京定期演奏会 東京文化会館で指揮
モーツァルトのオペラ《コジ・ファン・トゥッテ》 K.588 (演奏会形式)
ソプラノ:林 康子 メゾソプラノ:木村宏子 バリトン:平野忠彦 テノール:中村 健
ソプラノ:安田祥子 バス:佐藤征一郎 チェンバロ:小林道夫 合唱:東京混声合唱団
5月28日 日本フィル第181回東京定期演奏会 1969年05月28日 東京文化会館で指揮
G. ガブリエリ《ピアノとフォルテのソナタ》
高橋悠治《オルフィカ》 (日本フィル・シリーズ第21作)
マーラー《交響曲第一番 ニ長調》「巨人」
6月シカゴ響と録音。ロンドンでニュー・フィルハーモニア管の客演指揮。
・夏、ザルツブルク音楽祭にカラヤンの推薦を受けオペラ《コジ・ファン・トゥッテ》を指揮するために、ラヴィニア音楽祭の音楽監督ポストを返上したが、首席指揮者としてその後の六公演に登場。
8月末から9月中旬過ぎまでニューヨーク・フィルのアメリカ横断ツアーで十都市で十七公演を指揮した。
9月23日ニューヨーク・フィルのシーズン・オープニング・ナイトを指揮し、その後六週間10月末まで同フィルを振り続けた。
11月クリーヴランド管弦楽団の定期演奏会で指揮。
12月11日 日本フィル第190回東京定期演奏会 東京文化会館で指揮
武満 徹:《グリーン》
バルトーク《管弦楽のための協奏曲》 Sz.116
チャイコフスキー《交響曲第一番ト短調》 op.13 《冬の日の幻想》
12月18日日本フィルハーモニー交響楽団第191回定期。小澤征爾指揮   東京文化会館
ベートーヴェン《ミサ・ソレムニス》
ソプラノ:伊藤京子 アルト:戸田敏子
テノール:藤沼昭彦 バリトン:芳野靖夫
合唱:東京混声合唱団 合唱:東京放送合唱団
合唱:二期会合唱団 合唱:日本合唱協会
12月パリ管弦楽団の定期演奏会を初指揮

1970年35歳
・父小澤開作の急逝(1979年11月21日)
1月16日日本フィルハーモニー交響楽団第192回東京定期演奏会 東京文化会館
バーンスタイン:チチェスター詩篇 (日本初演)/バーンスタイン:交響曲第3番《カディッシュ》(日本初演)ほか指揮
1月27日日本フィルハーモニー交響楽団第193回東京定期演奏会 東京文化会館
ストラヴィンスキー:バレエ音楽《春の祭典》ほかを指揮
5月小澤征爾は、タングルウッド音楽センター所長のギュンター・シュラーと総合顧問のレナード・バーンスタインとともに、ボストン交響楽団のバークシャー音楽祭(タングルウッド)の芸術顧問に任命された(1970~2002年)。以降、ボストン交響楽団との親交が深まる。
・ニューヨーク・フィルの大阪万博出演でバーンスタインと同行して帰国
6月ベルリン・フィル定期演奏会を指揮して、日本へ帰国。
6月11日日本フィルハーモニー交響楽団第202回東京定期演奏会 東京文化会館
篠原 眞:オーケストラのための《ヴィジョンⅡ》 (日本フィル・シリーズ第22作)
ヤナーチェク《シンフォニエッタ》
ブルックナー《交響曲第四番》 変ホ長調 WAB104「ロマンティック」を指揮
6月17日日本フィルハーモニー交響楽団第203回東京定期演奏会 東京文化会館
マーラー《交響曲第八番》変ホ長調 「千人の交響曲」指揮
8月31日<ニューヨーク・フィル日本ツアー>    フェスティバルホール、大阪
メンデルスゾーン《交響曲第四番》op.90「イタリア」
武満徹《ノヴェンバー ステップス》No.1 鶴田錦史(琵琶)、横山 勝也(尺八)
ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲《展覧会の絵》等を指揮
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9月8日<ニューヨーク・フィル/日本ツアー>    東京文化会館
メンデルスゾーン《交響曲第四番》op.90「イタリア」
武満徹《ノヴェンバー ステップス》No.1 鶴田錦史(琵琶)、横山 勝也(尺八)
ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲《展覧会の絵》等を指揮
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9月10日<ニューヨーク・フィル/日本ツアー>    富士学園ホール、札幌
メンデルスゾーン《交響曲第四番》op.90「イタリア」
武満徹《ノヴェンバー ステップス》No.1 鶴田錦史(琵琶)、横山 勝也(尺八)
ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲《展覧会の絵》等を指揮
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9月16,17日    ウィリアム ニール レイノルズ コロシアム、ノースカロライナ州ローリー
メンデルスゾーン《交響曲第四番》op.90「イタリア」
アーロン・コープランド《クラリネット協奏曲》 (スタンリー・ドラッカー)
ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲《展覧会の絵》
指揮:小澤征爾/ニューヨーク・フィルハーモニック
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9月18日    シビック センター、アトランタ、ジョージア州
メンデルスゾーン《交響曲第四番》op.90「イタリア」
アーロン・コープランド《クラリネット協奏曲》 (スタンリー・ドラッカー)
ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲《展覧会の絵》
指揮:小澤征爾/ニューヨーク・フィルハーモニック
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9月19日    グリーンビル・メモリアル・オーディトリアム ・、サウスカロライナ州グリーンビル郡
メンデルスゾーン《交響曲第四番》op.90「イタリア」
アーロン・コープランド《クラリネット協奏曲》 (スタンリー・ドラッカー)
ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲《展覧会の絵》
指揮:小澤征爾/ニューヨーク・フィルハーモニック
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9月20日    オーブンズ・オーディトリアム、ノースカロライナ州シャーロット
メンデルスゾーン《交響曲第四番》op.90「イタリア」
アーロン・コープランド《クラリネット協奏曲》 (スタンリー・ドラッカー)
ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲《展覧会の絵》
指揮:小澤征爾/ニューヨーク・フィルハーモニック
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12月サンフランシスコ交響楽団指揮者・音楽監督就任(1970年12月~1976年)
12月2日サンフランシスコ交響楽団シーズン・オープニング・コンサートをウォー・メモリアル・オペラで指揮。

1971年(昭和46年))36歳
・ヤナーチェク《シンフォニエッ》/ヴィトルト・ルトスワフスキ《管弦楽のための協奏曲》シカゴ交響楽団とオルフ《カルミナ・ブラーナ》ベルリン・フィルのアルバムがグラミー賞のクラシック部門「ベスト・オペラ・レコーディング」にノミネートされた。
・サンフランシスコ大学から芸術博士名誉学位を贈られる
6月9日日本フィルハーモニー交響楽団第222回定期演奏会    日比谷公会堂
ヴェルディ《レクイエム》
ソプラノ:平田恭子 メゾソプラノ:荒 道子
テノール:丹羽勝海 バリトン:芳野靖夫
合唱:成城合唱団 合唱:東京混声合唱団
6月23日日本フィルハーモニー交響楽団<第223回定期演奏会>  日比谷公会堂
石井眞木:雅楽とオーケストラのための《遭遇Ⅱ番》 op.19 (日本フィル・シリーズ第23作)
ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番 ト短調 op.26
ベルリオーズ:交響曲《イタリアのハロルド》 op.16
指揮:小澤征爾
笙:多忠磨、鶴川滋、豊英秋
篳篥:東儀博 竜笛:芝 祐靖
びわ:上近 正 箏:東儀俊美
鞨鼓:東儀信太郎 太鼓・三ノ鼓:林 広一
鉦鼓:大窪永夫
ヴァイオリン:潮田益子
ヴィオラ:イツァーク・ショッテン  
9月10日日本フィルハーモニー交響楽団<第224回定期演奏会>   
小澤征爾指揮でベルリオーズ《ファウストの劫罰》   東京文化会館
指揮:小澤征爾
ソプラノ:大川隆子 テノール:五十嵐喜芳
バリトン:栗林義信 バス:村本和修
合唱:日本プロ合唱団連合
合唱:東京放送児童合唱団
9月27日日本フィルハーモニー交響楽団第225回定期演奏会   東京文化会館
ベルリオーズ:幻想交響曲 op.14
ベルリオーズ:レリオ op.14b (日本初演)
指揮:小澤征爾
ナビゲーター:佐藤 功
テノール:中村 健
バリトン:平野忠彦
合唱:日本プロ合唱団連合

1972年(昭和47年)37歳
・日本芸術院賞受賞
2月小澤征爾、ボストン交響楽団の1972-73シーズンの音楽顧問に任命された。翌1973-74シーズンから音楽監督に就任する。
2月28日日本フィルハーモニー交響楽団<第235回定期演奏会>
モーツァルト《13管楽器のためのセレナード》 変ロ長調 「グラン・パルティータ」 変ロ長調 K.361
ベルリオーズ《テ・デウム》 op.22 (日本初演)
指揮:小澤征爾
テノール:宮本正 オルガン:酒井多賀志
合唱:日本プロ合唱連合
合唱:東京放送児童合唱団
3月6日日本フィルハーモニー交響楽団<第236回定期演奏会>
ハイドン《交響曲第47番 ト長調 Hob.I:47 (日本初演)
ハイドン:チェロ協奏曲第1番 ハ長調 Hob.VIIb:1
チャイコフスキー:ロココ風の主題による変奏曲 イ長調 op.33
バルトーク:バレエ音楽《中国の不思議な役人》 Sz.73
チェロ:ピエール・フルニエ
6月6日日本フィルハーモニー交響楽団第242回定期演奏会   東京文化会館
ベルリオーズ:劇的交響曲《ロメオとジュリエット》 op.17
指揮:小澤征爾
アルト:荒 道子 テノール:鈴木寛一
バリトン:高橋修一
合唱:日本プロ合唱団連合
6月16日日本フィルハーモニー交響楽団<第243回定期演奏会>   東京文化会館
日本フィルハーモニー交響楽団解散のため東京では、ラストコンサートになった
マーラー《交響曲第ニ番》ハ短調「復活」
指揮:小澤征爾
メゾソプラノ:小池容子 アルト:荒 道子
合唱:日本プロ合唱団連合
6月<日本フィルハーモニー交響楽団・ラストコンサート>  川崎産業文化会館
フジ・サンケイグループからの日本フィルハーモニー交響楽団解散と楽員解雇のため、ラストコンサートになった
マーラー《交響曲第ニ番》ハ短調「復活」
メゾソプラノ:小池容子 アルト:荒 道子
合唱:日本プロ合唱団連合
指揮:小澤征爾
7月1日新日本フィルハーモニ交響楽団を創立。斉藤秀雄、山本直純、横山幸雄、手塚幸紀や労組に加わらず旧日本フィルを脱退した楽団員が参加した。指揮者団には斎藤秀雄(顧問)、小沢征爾(首席)、山本直純(団幹事)、横山幸雄、手塚幸紀の顔ぶれとなった。
9月15日新日本フィルハーモニ交響楽団<結成演奏会>出演
ベルリオーズ《ローマの謝肉祭》序曲
ラヴェル《マ・メール・ロア》組曲
ベートーヴェン《交響曲第三番》「英雄」
小澤征爾:指揮
9月22日新日本フィルハーモニ交響楽団<第一回定期演奏会>出演  東京文化会館
ハイドン《交響曲第60番》ハ長調
ハイドン《協奏交響曲》変ロ長調
ハイドン《チェロ協奏曲》ニ長調 岩崎洸(チェロ)
ハイドン《テ・デウム》 日本プロ合唱団連合(合唱)
小澤征爾:指揮
10月1日<オーケストラがやって来た>出演  東京文化会館
72/73シーズン、ボストン交響楽団 音楽顧問を務める
12月22日新日本フィルハーモニ交響楽団<第四回定期演奏会>出演  東京文化会館
ハイドン《オラトリオ》
藤本章子(S.)/田中路子(A.)/田原祥一郎(T.)/齋 求(Bs.)
合唱:成城合唱団/宗教音楽研究会
小澤征爾:指揮
12月27日新日本フィルハーモニ交響楽団<特別演奏会>出演     東京文化会館
ベートーヴェン《第九》
曽我栄子(S.)/荘智世恵(A.)/田口興輔(T.)・岡村喬生(Bs.)/日本プロ合唱団(合唱)
小澤征爾:指揮

註:<日本フィルハーモニー交響楽団解散と新日本フィルハーモニ交響楽団創立までの経緯>
【山本直純や首席指揮者小澤征爾が指揮していた日本フィルハーモニー交響楽団は、三月末を以てフジテレビと文化放送との「雇用契約」を終了することになる。
六月に両社がオーケストラの解散と楽団員の全員解雇を通告をし、財団法人としての日本フィルハーモニー交響楽団は、その年の六月末を以て解散に追い込まれた。
当時の首席指揮者だった小澤征爾は解散阻止のため昭和天皇への直訴までした。日本フィルは二つに分裂した。組合派の団員はとどまって自主的な演奏活動を行い、解雇を不当として裁判所に訴えた。そうして以後十二年間もの裁判闘争が続いた。
当時の事を小澤征爾は語る『 新日本フィルを立ち上げるために、今じゃ信じられないけど、ぼくと直純の二人でお金を集めに行ったんです。ない知恵を絞って、佐藤栄作首相のお宅に直接行った。何であんなことやったんだかわからないんだけど、とにかく必死だったんだね。そうしたらなんと会ってくれた。しかもその場で自転車振興会と船舶振興会の両方に電話してくれて、あっという間に両方からお金が出ることが決まった。それが今の日本交響楽振興財団の出発なんです。そういうお金の集めも、彼はうまかった。佐藤さんの前でも、ぼくは何をしゃべっていいかわからないのに、直純は一生懸命しゃべっていて、すごいなと感心しながら見ていました 』。
一方、ストライキに参加しなかった十数名は山本や征爾と共に新しいオーケストラに参加した。また、山本直純が、征爾に” どうする ”と聞いた時、征爾が” 誰々を押さえてくれ ”と言った、その彼らも団員として新日本に参加した。山本は征爾とともに新日本フィルハーモニー交響楽団の設立に走り斉藤秀雄を顧問に、斉藤の指示で山本は指揮者団幹事に、小澤は首席指揮者に就任した。指揮団には斎藤秀雄(顧問)、小澤征爾(首席)、山本直純(幹事)、横山幸雄、手塚幸紀がなった。山本は語る、『 始めてから三年くらいは、全員が月給五万円だった。みんなでいくつかの仕事をこなしてどうにか食いつないでいたという。その後も山本は、団幹事として新日本フィルの楽団員たちの生活をどう食べさせていくか、四苦八苦していた。とにかくやらねばと、仕事探しに奔走していた。』『 団幹事となったボクは、オーケストラの仕事があまり食えないのに愕然とした。オーケストラはどんなにいっぱいになっても、二千五百人のホールぐらいしか音響効果で使えない。それで入場料が千円だったら二百五十万円。ホールに半分払って百二十五万円。ちょっと大きなオーケストラは百三十人いるから、ひとり一万円の収入にもならない。みんなで、いくつかの仕事をこなしてどうにか食いつないでいた。 』。『 オーケストラの魅力といったものをボクなりに本を書こうと思った。それが「オーケストラがやって来た」という本だ。それと同時にテレビ番組にすることを考え付いた。どんな番組にするかと考え、電電公社の専務理事をされてる遠藤正介(作家の遠藤周作の兄)に相談した。その肝いりで番組が実現した。同年10月1日<オーケストラがやって来た>が始まった。会場は東京文化会館。
オープニングで演奏されていたテーマ音楽の原曲は、ヨハン・シュトラウス2世の「常動曲」(無窮動)。曲終盤のホルンが吹かれる箇所に入るとホルンが吹く「ドーミーレーファーミーソーレーー、ソーミーファーレーミードーレーー」のモチーフが番組タイトルのことばのリズムに似ていることから、その箇所に来ると指揮者が客席を向いて歌詞「オーケスートラーがーやーてーきたーー、オーケスートラーがーやーてーきたーー」をステージと客席とで一緒に合唱し番組が開始された。山本直純が考えたクラシック音楽を初心者でも楽しんでもらえるように、ユーモアを交えた解説を展開したことで、その後日本中で知られるようになって行った。番組には数多くの著名な音楽家たちが出演した。演奏は、主に新日本フィルハーモニー交響楽団が行っていた。番組の演出は、TBS出身の映画監督でオペラ演出やクラシック音楽関連のエッセイも多い実相寺昭雄がしばしば担当していた。
11月新日本フィルハーモニ交響楽団<第三回定期演奏会>の指揮は斉藤秀雄に依頼してあったが、教育最優先と言って断り、斉藤秀雄がナオズミに言った”俺が信用できる奴は、今の日本にお前しかいない。最近の指揮ぶりは見ていないが、山本、お前はその気になれば出来る男だ!”と言ったことでナオズミの指揮により行われた。

1973年(昭和48年)38歳
2月23日新日本フィルを指揮  東京文化会館
チャイコフスキー《交響曲第六番ロ短調》 作品74「悲愴」ほか
指揮:小澤征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団
新日本フィルを率いて香港公演
9月73/74シーズンよりボストン交響楽団第13代指揮者・音楽監督に就任(1973~2002年)
9月28日ボストン交響楽団の第13代音楽監督として初めてベルリオーズ《ファウストの劫罰》を指揮する。2週間後、彼は同じ曲でBSOでカーネギーホールデビューを果たした。同作品はドイツ・グラモフォンに録音されており、小澤征爾にとって音楽監督としての初録音であり、初のグラミー賞ノミネートとなった。
12月14日  大阪フェスティバルホール
R・シュトラウス:交響詩《ドン・キホーテ》/ラヴェル《ダフニスとクロエ》第2組曲
小澤征爾:指揮/桐朋学園オーケストラ

1974年(昭和49年)39歳
・ベルリオーズ:《幻想交響曲》ボストン交響楽団のアルバムがグラミー賞のクラシック部門「ベスト・オペラ・レコーディング」にノミネートされた。
・新日本フィルを率いてニューヨーク国連本部での「国連デー」で演奏、アメリカおよび欧州で公演
・イギリス、ロイヤル・オペラチャイコフスキーのオペラ《エフゲニー・オネーギン》指揮してデビュー。共演はミレッラ・フレーニ。
・WGBH-TVがPBS全国放送向けに制作したオーケストラのテレビコンサートシリーズ「イブニング・アット・シンフォニー」が開始された。このシリーズは、1976 年に小澤征爾に音楽監督における傑出した功績を讃えてエミー賞を受賞することになった。

1975年(昭和50年)40歳
小澤征爾がボストン交響楽団と初の米国ツアーを行い、デトロイト、アナーバー(ミシガン州)、インディアナポリス、ブルーミントン(インディアナ州)、シカゴ、ウィートン(イリノイ州)、アイオワシティで演奏。
・サンフランシスコ響を率いて帰国

1976年(昭和51年)41歳
・ベルリオーズ《ファウストの劫罰》ボストン交響楽団のアルバムがグラミー賞のクラシック部門「ベスト・オペラ・レコーディング」にノミネートされた。
・サンフランシスコ響音楽アドヴァイザー就任(1976~77年)
・小澤征爾がボストン交響楽団と初の海外ツアーを行い、アムステルダム、ブリュッセル、ウィーン、リンツ、ミュンヘン、ベルリン、ハンブルク、ロンドン、ボン、ハノーファー、パリの聴衆の前で演奏する。
・同年、ボストン交響楽団のTV番組がエミー賞を受賞
6月14日<新日本フィルハーモニー交響楽団第40回定期演奏会>を指揮  東京文化会館
ストラヴィンスキ《詩篇交響曲》
モーツァルト《レクイエム》 K.626
中沢 桂(ソプラノ)
春日 成子(アルト)
鈴木 寛一(テノール)
高橋 大海(バス)
合唱:成城合唱団
指揮:小澤 征爾/ 新日本フィルハーモニー交響楽団
9月9日<新日本フィルハーモニー交響楽団 第41回定期演奏会>を指揮  東京文化会館
ペンデレツキ《広島の犠牲への哀歌》
メノッティ《チェロ協奏曲》 日本初演
チャイコフスキー《交響曲第二番ハ短調》作品17「小ロシア」
チェロ:ローレンス・レッサー
指揮:小澤 征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団
サンフランシスコ交響楽団の音楽アドヴァイザーーに就任。
12月25日<新日本フィルハーモニー交響楽団 第44回定期演奏会> を指揮  東京文化会館
マーラー《交響曲》「大地の歌」
石井 真木《モノプリズム》―日本太鼓群とオーケストラのための― 日本初演
第1部 ―プレリュード「序」―
第2部 ―モノプリズム―
春日 成子(ソプラノ)
五十嵐 喜芳(テノール)
指揮:小澤 征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団, 鬼太鼓座(おんでこざ)
12月27日<ベートーヴェン:第九交響曲演奏会> を指揮  東京文化会館
ベートーヴェン《交響曲第九番ニ短調》作品125「合唱つき」
平田 恭子(ソプラノ)
大藤 裕子(アルト)
田口 興輔(テノール)
高橋 大海(バス)
指揮:小澤 征爾/合唱:日本プロ合唱団連合/新日本フィルハーモニー交響楽団

1977年(昭和52年)42歳
小澤征爾とBSOによるドイツ・グラモフォンでのベルリオーズ《ロミオとジュリエット》の録音がグランプリ・デュ・ディスク賞を受賞。
11月5日カトリック東京第司教区主催       東京カテドラル
指揮:小澤征爾
演奏:新日本フィルハーモニ
合唱:成城合唱団メンバー有志
11月7日<新日本フィルハーモニー交響楽団 第53回定期演奏会> を指揮  東京文化会館
武満 徹《秋》―琵琶、尺八と管弦楽のための
フォーレ《レクイエム》
琵琶:鶴田 錦史
尺八:横山 勝也
オルガン:志村 拓生
独唱:常森 寿子・木村 俊光
合唱:成城合唱団/合唱指揮:宮本 昭嘉
指揮:小澤 征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団

1978年(昭和53年)43歳
3月小澤征爾がボストン響を率いて帰国。ボストン交響楽団日本公演開催。福岡、小倉、広島、大阪、京都、穴沢、名古屋、横浜、東京(普門館、東京文化会館)でコンサートを開催する。BSOの日本訪問は1960年にシャルル・ミュンシュが率いて以来2回目となった。
・征爾は中国政府から正式に招待され、中国中央交響楽団と1週間共演した。オーケストラの演奏に加えて、彼は中国の音楽家とのディスカッションや指導セッションを通じて、重要な文化的および音楽的交流を促進しました。以来、同氏は中国との強固な関係を築き続けた。
6月1日<新日本フィルハーモニー交響楽団演奏会>  東京文化会館
モーツァルト歌劇《魔笛》序曲
シューベルト《交響曲第八番ロ短調》「未完成」
リムスキー=コルサコフ《交響組曲》「シェエラザード」
指揮:小澤/征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団/ヴァイオリン:瀬戸 瑤子
6月2日<新日本フィルハーモニー交響楽団演奏会>   東京文化会館
湯浅 譲二《オーケストラの時の時》
リムスキー=コルサコフ《交響組曲》「シェエラザード」作品35
指揮:小澤/征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団/独奏:瀬戸 瑤子
6月中国人民対外友好協会の公式な翔太により中国中央楽団と一週間にわたり客演指揮
6月26日-27日<民音演奏会>  日比谷公会堂
ベルリオーズ《幻想交響曲》ほか 演奏:新日本フィルハーモニ交響楽団
9月18日<新日本フィルハーモニー交響楽団演奏会>   東京厚生年金会館
ベートーヴェン《レオノーレ序曲第ニ番》/ ベートーヴェン《ピアノ協奏曲第四番》/ベートーヴェン/交響曲第7番イ長調
ピアノ:二宮裕子
小澤征爾指揮/新日本フィルハーモニー交響楽団

1979年(昭和54年)44歳
3月ボストン交響楽団を率いて中国を訪れ演奏、中国音楽人の指導等にあたる
小澤征爾とボストン交響楽団は、上海と北京でコンサート、指導、マスタークラスを開催し、国交樹立後に中国で演奏した最初の西洋のオーケストラとして歴史を刻んだ。
6月26日<民音定期演奏会>    東京厚生年金会館
ベルリオーズ《幻想交響曲》ほか
小澤征爾:指揮/新日本フィルハーモニ交響楽団
7月21日<新日本フィルハーモニー交響楽団 第71回定期演奏会> を指揮  東京文化会館
ドヴォルザーク《ノットゥルノロ長調》/ドヴォルザーク《チェロ協奏曲ロ短調》/ドヴォルザーク《交響曲第七番二短調》
チェロ:安田 謙一郎
指揮:小澤 征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団
7月13,14日     大阪フェスティバルホール
プッチーニ:歌劇《トスカ》
小澤征爾:指揮/関西歌劇団/関西二期会
パリオペラ座デビュー、ラヴェル《子供と魔法》/ストラヴィンスキー《エディプス王》

1980年(昭和55年)45歳
・ボストン交響楽団の歴史的な中国訪問に関するCBSドキュメンタリー「The Boston Goes to China」は、エミー賞で最優秀ドキュメンタリー賞、最優秀監督賞、最優秀編集賞、最優秀音響賞の 4 部門を受賞した。
・征爾はタングルウッドでプッチーニ:オペラ《トスカ》の公演を指揮し、タングルウッドとシンフォニー・ホールで彼の指揮の下、一連の半舞台オペラを開始し、その後、シンフォニー・ホールでの25周年記念シーズン中にプッチーニ:オペラ《蝶々夫人》の公演が継続された。
・新日本フィルハーモニー交響楽団名誉芸術監督に就任。
ミラノ・スカラ座でプッチーニ:オペラ《トスカ》でイタリア・デビューした。ルチアーノ・パヴァロッティと共演。

1981年(昭和56年)46歳
・シェーンベルク:《グレの歌》ボストン交響楽団のアルバムがグラミー賞のクラシック部門「ベスト・オペラ・レコーディング」にノミネートされた。
3月ボストン交響楽団の創立100周年を記念してアメリカの14都市をツアーし、その後世界ツアーを実行した。同年の秋には、日本、フランス、ドイツ、オーストリア、イギリスでも開催された。
10月18日小澤征爾とBSOは、ヴァイオリニストのイツァーク・パールマンとアイザック・スターン、ソプラノ歌手のレオンティン・プライス、チェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、ピアニストのルドルフ・ゼルキンをフィーチャーしたガラコンサートでオーケストラ創立100周年を祝った。ベートーベン《第九交響曲》をフィーチャーした無料の「創立100周年コンサート」が10月22日にボストンコモンで行われた。また、この年には2つの100周年ツアーも含まれており、1つは3月に全米を巡り、もう1つは10月と11月に日本とヨーロッパを巡る。
・オーケストラ創立100周年を記念して、BSO、ボストン ポップス、ボストン交響楽団室内奏者、タングルウッド祝祭合唱団のための作品を含む、合計12の作品が委嘱された。このシーズンには、レナード・バーンスタイン《管弦楽のためのディヴェルティメン》(1980年)、ピーター・マクスウェル・デイヴィス《交響曲第2番》、1982年ミュージカル部門のピューリッツァー賞を受賞したロジャー・セッション《管弦楽のための協奏曲》など、これらの作品の多くが世界初演された。

1982年(昭和57年)47歳
ルドルフ・ゼルキンと小澤征爾率いるBSOによるベートーヴェンの皇帝ピアノ協奏曲の録音がTelarcレーベルからリリースされた。
ベルリン・フィル創立百年記念コンサートを指揮した。
<下、Martha Argerich and Seiji Ozawa rehearsing Ravel’s concerto on October 14th, 1982.>

1983年(昭和58年)48歳
・征爾とボストン交響楽団は、ミシガン州アナーバーでの公演を含む米国ツアーで10周年を祝います。クリーブランド、コロンバス、シンシナティ (オハイオ州)。そしてレキシントン(ケンタッキー州)。
・メシアンのオペラ《アッシジの聖フランチェスコ》の世界初演をスコアなしでボストン交響楽団を指揮した(7.小澤征爾 関連動画欄参照)
11月28日,12月1,3,6,9,12,14,18日 パリ オペラ座 (ガルニエ宮)で、メシアン:歌劇《アッシジの聖フランチェスコ》世界初演を指揮 
聖フランシスコSaint François:ジョゼ・ヴァン・ダムJosé van Dam
天使L’Ange:クリスティアーヌ・エダ=ピエールChristiane Eda-Pierre
ハンセン病患者Le Lépreux:ケネス・リーゲルKenneth Riegel
修道僧レオーネFrère Léon:ミシェル・フィリップ Michel Philippe/ミシェル・フィリップMichel Philippe
修道僧ヌッセオFrère Massée:ジョルジュ・ゴーティエ Georges Gautier
修道僧エリFrère Élie:ミシェル・セネシャルMichel Sénéchal
修道僧ベルナルドFrère Bernard:ジャン=フィリップ・クルティスJean-Philippe Courtis/ロベルト・グルニエRobert Grenier
修道僧シルベスターFrère Sylvestre:ルシアン・サルモンLucien Dalmon
修道僧ラフィンFrère Ruffin:ジャン=ジャック・ナドーJean-Jacques Nadaud
指揮:小澤征爾Сonducted by Seiji Ozawa
演出:サンドロ・セキ
舞台・衣装:ジュゼッペ・クリソリーニ=マラテスタ
ベルリン・フィルと初録音する
3月「第544回オーケストラがやって来た」の最終回にハイドン《告別》第一楽章を振る
<下、《春の祭典》Le Sacre>
Seiji Ozawa Conductor / The Bavarian Radio Symphony Orchestra
1983

1984年(昭和59年)49歳
1984年ボストン交響楽団ヨーロッパで公演が行われ大好評を博した。
・小澤征爾とボストン交響楽団は、アルトゥール・オネゲル:劇的オラトリオ《ジャンヌ・ダルク・オ・ブシェ》のシンフォニーホールで初の半舞台オペラを上演した。翌週、同じ作品がカーネギー ホールで上演された。ニューヨーク・タイムズ紙は、これを今年最高の音楽イベントの一つに挙げた。
9月25,26日10月2日<民音制作オペラ>   東京文化会館
オッフェンバック:歌劇《ホフマン物語》
9月、教育者齋藤秀雄の没後10年に、彼の教え子であった指揮者小澤征爾の発案により、秋山和慶ら門下生100余名が、東京と大阪でメモリアルコンサートを開催した。
・サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)は、これが基礎となって生まれた。SKOのメンバーは、ヨーロッパ、アメリカ、日本などの代表的なオーケストラの主要メンバー、ソリスト、室内楽奏者、教育者として世界中で活躍しており、国際的なコンクールの入賞者も多い。それぞれの音楽家が個性豊かな音楽性を持ちながらも、SKOへの参加を通じ、オザワ・スピリットとも言える音楽に対する姿勢、精神が培われ、まるで一つの生き物のようになる。その類稀なる特色は次世代の若手音楽家たちにも受け継がれ、このオーケストラは世界で際立った存在感を示している。

1985年(昭和60年)50歳
・新日本フィルを率いて欧州公演
9月1日BSOは、タングルウッドで小澤征爾の50歳の誕生日を祝い、前日に40歳の誕生日を迎えたイツァーク・パールマンを特別ゲストに迎え、当時の記録となる17,734人の聴衆を集めたオールベートーヴェンのコンサートを開催した。
11月12日ブルックナー《交響曲第二番》(ノヴァーク版) ベルリン・フィルを指揮  フィルハーモニーホール

1986年(昭和61年)51歳
・ボストン交響楽団日本ツアーが公演され大好評を博した。
・小澤征爾はボストンでオリヴィエ・メシアンの記念碑的なオペラ《アッシジの聖フランシスコ》の3場面のアメリカ初演でボストン交響楽団・を率い、続いてニューヨークのカーネギーホールで公演した。バスバリトンのホセ・ヴァン・ダム、テノール歌手のケネス・リーゲル、ソプラノ歌手のキャスリーン・バトルがソリストを務め、タングルウッド・フェスティバル合唱団と指揮者のジョン・オリバーが共演した。
5月12日<民音定期演奏会>   東京厚生年金会館
プロコフィエフ《アレクサンドル・ネフスキー》ほか
小澤征爾:指揮/新日本フィルハーモニ交響楽団
・7月長野県山ノ内町で「子供のための音楽会」を開く
10月「サントリーホール杮落とし」でカラヤンの代役でベルリン・フィルを指揮
<下動画、1987年9月11日 ベルリン・フィルハーモニーホール>

1987年(昭和62年)52歳
4月23日ブルックナー《交響曲第二番》ボストン交響楽団を指揮  ボストン・シンフォニーホール
小澤征爾とBSOは、タイトルロールにヒルデガルト・ベーレンス、クリュテムネストラ役にクリスタ・ルートヴィヒを迎え、シュトラウス《エレクトラ》の絶賛されたパフォーマンスを披露した。この作品は翌年も再演され、フィリップスによって録音され、小沢にとってBSOとの最初のオペラ録音となった。
アメリカを代表する映画製作者のアルバート・メイズルズとデヴィッド・メイズルズ夫妻による1985年の高評価の小沢ドキュメンタリー「オザワ」は、PBSの「グレート・パフォーマンス」で放送され、その後ホームビデオでもリリースされた。
・サイトウキネンオーケストラは第1回ヨーロッパ・ツアーが行われ、ウィーンやベルリンなどの音楽の都で「ウィーン・フィルやベルリン・フィルに並ぶ音を出す、小澤とともにやって来た驚異的なオーケストラ」と絶賛された。
9月11日 ベルリン・フィルハーモニーホール>
モーツァルト:ディヴェルティメント K.136
演奏 小澤征爾とサイトウキネンオーケストラ

1988年(昭和63年)53歳
1988年ボストン交響楽団ヨーロッパで公演が行われ大好評を博した。
6月15日新日本フィルハーモニー交響楽団<第160回定期演奏会>    東京文化会館
オルフ:世俗カンタータ《カルミナ・ブラナ》(舞台上演形式) 台本:大岡 晋   
語り:平 幹二朗
釜洞祐子(S.)/下野 昇(T.)/松本 進(Br.)/
舞踏:田中 泯, フランク・ファン・デ・フェン, 堀川 久子, カテリーナ・バカツァキ, ロクサーヌ・スタインバーグ
合唱:晋友会合唱団, グロリア少年合唱団/合唱指揮:関屋 晋/合唱指導:松村 努
演出:実相寺 昭雄/振付:田中 泯/デザイン:遠見 広/照明:牛場 賢二/舞台監督:小栗 哲家
小澤征爾:指揮/新日本フィルハーモニー交響楽団

8月25日小澤征爾とBSOは、タングルウッドでレナード・バーンスタインの70歳の誕生日を祝う「バーンスタイン・アット・70」のコンサートで小澤征爾は指揮し、スター勢揃いのガラ公演に参加した。翌年3月にPBSの「グレート・パフォーマンス」で放送され、舞台芸術における優れたクラシック番組に贈られるエミー賞を受賞した。
・ウィーン国立歌劇場デビュー。チャイコフスキーのオペラ《エフゲニー・オネーギン》を指揮。ミレッラ・フレーニと共演。

1989年(昭和64年‐平成元年)54歳
・ボストン交響楽団日本ツアーが公演され大好評を博した。
・小澤征爾がボストン交響楽団の50人目となる奏者任命。現在のBSOの約80%は依然として小沢氏が任命した人物で構成されている。
サイトウキネンオーケストラは第2回ヨーロッパ・ツアーが行われ、ウィーンやベルリンなどの音楽の都で「ウィーン・フィルやベルリン・フィルに並ぶ音を出す、小澤とともにやって来た驚異的なオーケストラ」と絶賛された。
・ロストロポーヴィチと「コンサート・キャラバン」を開始
11月5,6日<民音制作オペラ>東京文化センター、11月8日かながわ県民ホール
チャイコフスキー《スペードの女王》
12月11日ボストン響と日本公演
マーラー《交響曲第2番》ハ短調「復活」
ソプラノ:ヘンリエット・シェレンベルク
メゾ・ソプラノ:伊原直子
合唱: 晋友会合唱団
合唱指揮:関屋 晋
指揮:小澤征爾/演奏:
ボストン交響楽団
ベルリン・フィル「ジルベスターコンサート」指揮

1990年(平成2年)55歳
・小澤征爾の指揮によってサイトウキネンオーケストラはザルツブルク・フェスティバルを始めとするヨーロッパ各地のフェスティバルに招かれた。
12月22日<小澤征爾・子供と語る音楽会>   オーチャードホール
出演:成城合唱団ほか
・小澤征爾とボストン交響楽団によるシュトラウスの『エレクトラ』の録音がグラミー賞にノミネートされ、ステレオ・レビュー誌により年間最優秀レコードに選ばれた。
・ウィーン・フィル定期初登場
・水戸室内管弦楽団の芸術顧問に就任

1991年(平成3年)56歳
・ボストン交響楽団ヨーロッパで公演が行われ大好評を博した。
・小澤征爾とサイトウキネンオーケストラは、ロンドン、デュッセルドル フ、アムステルダム、アメリカと世界ツアーを行った。
ボストン交響楽団初のビデオレーザーディスクがソニー・クラシカルからリリースされ、小澤征爾がオーケストラを率いてブラームス《交響曲第1番》とシュトラウス《ツァラトゥストラはこう語った》。この演奏はオーケストラの1986年の日本ツアー中に録音された。
8月16日小澤征爾、タングルウッドで1,000回目のBSOコンサートを指揮した。
小澤とBSOは、シンフォニーホールでソプラノのミレッラ・フレーニ、テノールのウラジーミル・アトラントフ、バリトンのドミトリー・ホロストフスキーとともにチャイコフスキー《スペードの女王》のコンサート演出を行った。パフォーマンスは RCA Victor 向けにライブ録音されており、このレーベルとの新たなコラボレーションが行われた。この録音は1993年のグラミー賞最優秀オペラ録音賞にノミネートされた。
・ウィ-ン・フィルと初録音

1992年(平成4年)57歳
・征爾、ボストン交響楽団を率いて初の南米ツアーを行い、ブラジルのサンパウロ、アルゼンチンのブエノスアイレス、ベネズエラのカラカスで公演を行った。
・征爾、1991年から1992年のシンフォニーホール定期購読シーズン中に1,000回目のコンサートを指揮した。現在までに、彼はシンフォニー ホール、タングルウッド、そして世界中でオーケストラと約 1,400 回のコンサートを指揮してきた。
・征爾とサイトウキネンオーケストラは、長野県松本市をSKOの本拠地とした「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」(旧サイトウ・キネン・フェスティバル松本)が開幕。以降、毎年世界から注目されるオペラ公演やコンサート公演を開催している。
・征爾は芸術的夢である松本でサイトウ・キネン・フェスティバルを創設した。
・SKOは1994年、1997年、2004年に海外公演を含むツアーを続け、2015年からは「セイジ・オザワ・松本フェスティバル」として新たなステージを迎えた。
・「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」開始、総監督就任。

・「若い人のためのサイトウ・キネン室内楽勉強会」開始
・ベルリン・フィルより「ハンス・フォン・ビューローメダル」を授与される
・ニューヨーク、メトロポリタン歌劇場デビュー。オペラ《エフゲニー・オネーギン》指揮指揮、ミレッラ・フレーニと共演。
・ウィ-ン国立歌劇場でチャイコフスキーのオペラ《エフゲニー・オネーギン》指揮、ミレッラ・フレーニと共演。

1993年58歳
・チャイコフスキー:歌劇《スペードの女王》ボストン交響楽団のアルバムがグラミー賞のクラシック部門「ベスト・オペラ・レコーディング」にノミネートされた。
・征爾とボストン交響楽団は、ソプラノ歌手のシルビア・マクネア、メゾソプラノ歌手のフレデリカ・フォン・シュターデ、テノール歌手のジェリー・ハドリー、バリトン歌手のベンジャミン・ルクソンをフィーチャーした特別オープニングナイトのオールベルリオーズプログラムで20周年を祝います。このシーズンには、ロンドン、パリ、マドリッド、ウィーン、ミラノ、ミュンヘン、プラハで公演を行うヨーロッパツアーも含まれていた。
・この年は征爾とボストン交響の委嘱によるハンス・ヴェルナー・ヘンツェ《交響曲第8番》の世界初演でもあった。
↓ 動画<”小澤征爾と子供たち” 劇的オラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」ドキュメント(1993年サイトウ・キネン・フェスティバル松本)>

1994年(平成6年)59歳
・5月母さくらと中国に里帰りし、旧奉天にあった生家を訪れる
・サイトウキネンオーケストラは海外公演を含むツアーを行う。
5月6日瀋陽市遼寧人民劇場で中国遼寧交響楽団を指揮
タングルウッドに「セイジ・オザワ・ホール」完成
・征爾は、PBSテレビ放送「プラハのドヴォルザーク:セレブレーション」の文化番組における個人的功績により、2度目となるプライムタイム・エミー賞個人業績賞を受賞した。この番組は、同オーケストラの1993年のヨーロッパツアー中のプラハ公演で制作された番組である。
・征爾ホールとレナード・バーンスタイン・キャンパスのオープンにより、タングルウッド・ミュージック・センターの新たな時代が始まった。
・征爾は日本初のイノウエ賞受賞者となった。芸術における生涯にわたる功績を表彰するために創設されたこの賞は、今世紀の傑出した日本の小説家、井上靖イノウエ ヤスシにちなんで名付けられた。
12月6日~15日ボストン交響楽団日本公演(東京・大阪)
<下、 R・シュトラウスAlpine Symphony / Hans Gansch on Trumpet(Seiji Ozawa with Vienna Philharmonic Orchestra>

1995年60歳
1月23日小澤は32年ぶりにN響を指揮
バッハ 組曲第三番から《アリア》
バルトーク《管弦楽のための協奏曲》
・小澤征爾とボストン響強楽団によるマーラー《交響曲第3番》と《交響曲第6番》の録音がリリースされ、フィリップス・レーベルからマーラーの交響曲全集が完成した。
・小澤とボストン交響楽団によるバルトーク《管弦楽のための協奏曲》の録音は、作曲家のオリジナルのエンディングを組み込んでおり、この重要なBSOの委嘱作品の初演50周年を記念してフィリップス・レーベルからリリースされた。
・征爾、イツァーク・パールマン、ヨーヨー・マはそれぞれ60歳、50歳、40歳の誕生日をタングルウッドで開催された「スリー・バースデー」と題したガラ・コンサートで祝い、18,709人の聴衆を集めた。
・征爾の60歳の誕生日を記念して、東京のサントリーホールで特別コンサートが開催されました。この機会に、新日本フィルハーモニー交響楽団には、ボストン交響楽団、シカゴ交響楽団、トロント交響楽団、サンフランシスコ交響楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のメンバーが参加しました。ピアニストのマルタ・アルゲリッチとペーター・ゼルキン、チェロ奏者のムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(指揮者としても出演)、ヴィオラ奏者の今井信子、歌手のフレデリカ・フォン・シュターデとベンジャミン・ルクソン、指揮者の秋山和慶ら多くのゲストアーティストが参加した。
・征爾とボストン交響楽団は、サー・マイケル・ティペットの共同委託作品であるサー・マイケル・ティペット《ローズ・レイク》をアメリカ初演し、これがサー・マイケルの最後の作品となった。

1996年(平成8年)61歳
小澤征爾とBSOは、アフリカ系アメリカ人のテノール歌手、故ローランド・ヘイズへの特別な追悼としてBSOから依頼された作品、ジョージ・ウォーカー《ライラック》を世界初演した。ウォーカーはこの作品でピューリッツァー賞作曲賞を受賞した。
5月15日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、  神奈川県民ホール
出演:ガリーナ・ゴルチャコワ、リチャード・リーチ、ジェロルド・シエナ、ブリン・ターフェル、フランチェスカ・ブランチ、合唱:東京オペラ・シンガーズ
5月17日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、  尼崎アルカイックホール
出演:ガリーナ・ゴルチャコワ、リチャード・リーチ、ジェロルド・シエナ、ブリン・ターフェル、フランチェスカ・ブランチ、合唱:東京オペラ・シンガーズ
5月19日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、  尼崎アルカイックホール
出演:横山恵子、リチャード・リーチ、ジェロルド・シエナ、ブリン・ターフェル、フランチェスカ・ブランチ、合唱:東京オペラ・シンガーズ
5月21日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、  東京文化会館
出演:ガリーナ・ゴルチャコワ、リチャード・リーチ、ジェロルド・シエナ、ブリン・ターフェル、フランチェスカ・ブランチ、合唱:東京オペラ・シンガーズ
5月22日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、  東京文化会館
出演:横山恵子、ジョナサン・ウェルチ、牧川修一、ブレント・エリス、郡愛子、合唱:東京オペラ・シンガーズ
5月24日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、  東京文化会館
出演:ガリーナ・ゴルチャコワ、リチャード・リーチ、ジェロルド・シエナ、ブリン・ターフェル、フランチェスカ・ブランチ、合唱:東京オペラ・シンガーズ

1997年(平成9年)62歳
・サイトウキネンオーケストラは1997年海外公演を含むツアーを行う。
・征爾は特に教育に力を入れてきた。室内楽アカデミー奥志賀は、1997年に始まったサイトウ・キネン室内楽研究会に発展させた。
・征爾とボストン交響楽団・が委託した作品、アンリ・デュティユーHenri Dutilleux《The Shadows of Time》を世界初演された。この曲は1998年3月、オーケストラがヨーロッパツアー中だった翌週にBSOがパリでフランス初演する際にヨーロッパでリリースするためにエラートによって録音された。
・「サイトウ・キネン室内楽」勉強会を始める 

1998年(平成10年)63歳
9月3-7日プーランクのオペラ《カルメン会修道女の対話》を「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」で指揮し、高い評価を受けた。
指揮:小澤征爾、国立パリ・オペラ座劇場総監督:ユグ・R・ガル、アーティスティック・アドミニストレーター:ウィリアム・I・バーネル, ポル・クリスチャン・モー(国立パリ・オペラ座)、プロデューサー:森安淳、演出:フランチェスカ・ザンベロ、装置:ヒルデガード・ベクトラー、衣裳:クラウディ・ガスティーヌ、照明:ジャン・カルマン、合唱指揮:岡田司、舞台監督:幸泉浩司
キャスト ド・ラ・フォルス侯爵の娘ブランシュ:パトリシア・ラセット、ド・クロワッシー婦人、カルメル会院長:フェリシティー・パーマー、受肉のマリー上級修道女:デイム・ジョセフィン・バーストウ、リドワーヌ婦人、新院長:クリスティン ゴーキー、聖人ドゥニのコンスタンス修道女:マリー・デヴェレロー、マルチド修道女:ベス・クレイトン、幼いイエズスのジャンヌ上級修道女:シーラ・ナドラー、侯爵の息子・騎士:ウィリアム・バーデン、ド・ラ・フォルス侯爵:ビクター・ブラウン、ティエリ(従僕):ジョルジュ・ゴティエー、修道院つきの指導司祭:ジョルジュ・ゴティエー、士官2:ゲタン・ラペリエール、公吏:ゲタン・ラペリエール、士官1:ジャン=ピエール・トレヴィザニ、獄吏:キム・ジュリアン、ジャヴリーノ:キム・ジュリアン、老女1:シルビー・デュポワ、老女2:キャロル・シャブリー、老紳士:ピーター・ブランシェット、修道女たち:東京オペラ・シンガーズ、カトリーヌ修道女:井上ゆかり、アリス修道女:斉藤紀子、十字架のアンヌ修道女:宮崎晶子、マルタ修道女:堪山貴子、サン・シャルル修道女:三宮美穂、クレール修道女:三谷亜矢、フェリシテ修道女:上田桂子、ジェルトリュード修道女:柴田由香、アントワーヌ修道女:穴澤ゆう子、ヴァランティーヌ修道女:久保田尚子、ジェラール上級修道女:牧野真由美
演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ
合唱:東京オペラ・シンガーズ
・長野冬季オリンピック音楽監督就任。
・長野冬季五輪のために世界の国歌を録音。
・新日本フィルを率いて故ロストロポーヴィチとの日ロ親善・ロシア公演に向かう
1998年に長野で開催された冬季オリンピックの開会式で重要な役割を果たし、北京、ベルリン、ニューヨーク市、シドニー、ケープタウン、南アフリカから衛星で結ばれた世界中の合唱団とともに日本からベートーベンの第九交響曲のフィナーレを指揮した。
9月23日のオープニングナイトコンサートで、小沢はセルジュ・クーセヴィツキーのBSO在職25年を超えることになった。クーセヴィツキーは1924年10月10日に音楽監督として最初のコンサートを指揮し、1949年8月14日にタングルウッドで最後のコンサートを指揮した。
・征爾とボストン交響楽団は、1998年から1999年にかけて特別なシルバーアニバーサリーシーズンとして25周年を祝い、ボストンコモンでのベートーベンの第九交響曲の無料演奏、プッチーニ:オペラ《蝶々夫人》のコンサート演出、そして日本へのツアーを含む。
また、1998年には、指揮者としてだけでなく、フランスの作曲家への支援、フランス国民への献身、そしてパリ・オペラ座での小沢の功績が評価され、フランスのジャック・シラク大統領からレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエに任命された。

1999年(平成11年)64歳
3月26日ハイドン《交響曲第39番》
ブルックナー《交響曲第二番》(ノヴァーク版) 
新日本フィルハーモニを指揮  東京・渋谷 オーチャードホール
5月ボストン響日本公演。新日本フィル桂冠名誉指揮者就任
小澤征爾がウィーン国立歌劇場の音楽監督職を受諾し、2002年シーズンを最後にBSO職を辞任することを発表された。

2000年(平成12年)65歳
ボストン交響楽団の1999年から2000年の定期購読シーズン後の春、小澤征爾はパリとケルンでマーラー《復活交響曲》とメシアン《トゥーランガリラ交響曲》の演奏でオーケストラを指揮した。パリ市ミレニアム・セレブレーションの一環として、小澤征爾はエッフェル塔のふもとでBSOとパリ管弦楽団をフィーチャーし、イタリア人歌手アンドレア・ボチェッリと大人と子供600人の合唱団とともに初の無料コンサートを指揮した。このコンサートは、10万人以上のパリ市民を集め、ヨーロッパでこれまでに開催された最大の無料コンサートの一つであり、フランス全土に生中継された。
・⼩澤征爾とローム株式会社の佐藤研⼀郎社⻑(当時)がオペラを通じて若い⾳楽家を育成することを⽬的に、日本に小澤音楽塾「小澤音楽アカデミー」を設立し、⽴ち上げた教育プロジェクトは、若い音楽家の指導と訓練に対する小沢の強い取り組みがあった。
11月下旬、小澤はジョン・コリリアーノ《交響曲第2番》の世界初演でボストン交響楽団を指揮した。この作品はBSOからの委嘱作品であり、1990年の作曲家の交響曲第1番の大成功以来大いに期待されていた作品であった。この作品は弦楽のみのためのもので、コリリアーノの1995年の弦楽四重奏曲に基づいています。翌年の春、この作品は 2001年ピューリッツァー賞音楽部門を受賞した。
・同年米国ハーバード大学より「名誉博士号」を授与される

2001年(平成13年)66歳
1月2日マーラー《交響曲第9番》 二長調   東京文化会館
指揮:小澤征爾/管弦楽:サイトウ・キネン・オーケストラ
8月征爾はタングルウッドでシュトラウス:オペラ《サロメ》のコンサート公演でボストン交響楽団を指揮し、ソプラノ歌手デボラ・フォークトを含む国際的に評価の高いソリストのキャストが初のタイトルロールの演奏を披露した。このパフォーマンスは2001年のタングルウッドシーズンのハイライトであり、征爾がBSO音楽監督としてタングルウッドでフルシーズンを過ごした最後のシーズンとなった。
・日本アルプスの町、松本で開催されるサイトウ・キネン・フェスティバルの10周年を記念して、小澤は8月下旬から9月上旬にかけて、ヤナーチェクのオペラ《イェヌファ》の4公演と、有名なサイトウ・キネン・オーケストラによるオールベートーヴェンのプログラムを指揮した。このフェスティバルでは、ハーレム少年合唱団がオーケストラとリサイタルで出演したり、サイトウ・キネン・オーケストラのメンバーによるバッハ《ブランデンブルク協奏曲》6曲の演奏も行われた。
10月2日小澤征爾はBSO音楽監督として29回目となる最後のシーズンをシンフォニーホールで開幕し、世界で最も評価の高い2人の歌手、ソプラノ歌手ドーン・アップショーとメゾソプラノ歌手スーザン・グラハムがオーケストラとタングルウッド・フェスティバルの女性陣に参加するプログラムを披露した。メンデルスゾーン《真夏の夜の夢》付随音楽の合唱。トニー賞受賞女優のブライス・ダナーが、BSOの第121シーズンを開幕するこの特別番組のゲストナレーターとして小澤征爾とオーケストラに加わった。
・日本政府から「文化功労章」受章

2002年(平成14年)67歳
1月ウィーン・フィル・ニュー・イヤー・コンサート指揮
・新日本フィルを率いて日中友好30週周年記念中国公演
・オーストリア政府から「勲一等十字勲章」を受章
4月20日小沢がボストン交響楽団・音楽監督として最後にザ・シンフォニー・ホールに出演した。午前中、彼はジョン・ウィリアムズ主催の「征爾より、感謝を込めて」と題された無料コンサートでBSOを率いてベルリオーズ《幻想交響曲》を演奏した。その夜、彼はBSOを率いてマーラー《交響曲第9番》を演奏した。
7月14日、征爾はタングルウッドでBSO音楽監督として最後のパフォーマンスを行った。プログラムにはベルリオーズ《幻想交響曲》が含まれた。メゾソプラノの鄭曹とタングルウッド祝祭合唱団によるピアノ、合唱とオーケストラのためのベートーヴェン《幻想曲ハ短調》。そしてランダル・トンプソン《アレルヤ》(アカペラコーラス)。
・29シーズンに渡り務めたボストン交響楽団音楽監督を退任した(現在はボストン交響楽団桂冠音楽監督)。
2002年秋、小澤はウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任し、2010年春までその職を務めた(2002-2010年)。

2003年(平成15年)68歳
7月28日<小澤征爾音楽塾上越特別演奏会>   上越文化会館大ホール(主催団体/上越市)
オペラ《こうもり》コンサート形式
指揮:小澤征爾
・「毎日芸術賞」と「サントリー音楽賞」を受賞

2004年(平成16年)69歳
・ 「小澤征爾国際アカデミー・スイス」は、日本の指揮者小澤征爾がスイスにカルテットと弦楽アンサンブルに焦点を当てたアカデミーを創設したのが始まりである。ジュリアード弦楽四重奏団の創設者であるロバート・マンとともにこのプログラムの基礎を築いた。原田貞夫氏、今井信子氏、パメラ・フランク氏の3人の教師がアカデミー創設時から参加した。毎年24名の若手ソリストを受け入れている。小澤征爾にとって、弦楽四重奏のレパートリーはクラシック音楽の基礎である。その研究は、若い音楽家がハイレベルの芸術家になるために不可欠なステップであり、教師たちの目標は、ミュージシャンにもっとよく聴いてもらい、共通の音と、小澤征爾の言う「同じ呼吸」を見つけるよう促すことである。ロールでは 12 日間、カルテットは 2 つの楽章に集中する。それは徹底的な仕事であり、自分自身を超えるためのまたとない機会でもある。
10月ウィーン国立歌劇場日本公演を指揮
・フランス、ソルボンヌ大学から「名誉博士号」を授与される

2005年(平成17年)70歳
・「東京オペラの森」音楽監督(2005-2008年)
・暮れに体調を崩し、同年12月に白内障の手術をする。
・ヨーロッパにおける音楽学生を対象に「Seiji Ozawa International Academy Switzerland」をスイスに設立し、教育活動に力を注ぎ始める

2006年(平成18年)71歳
1月半ばには、東京都内の病院で帯状疱疹、慢性上顎洞炎、角膜炎と診断され、通院治療を行いながら静養した。
1月27日にアン・デア・ウィーン劇場で上演される予定であったモーツァルトの歌劇《イドメネオ》の指揮はキャンセル。
2月1日ウィーン国立歌劇場音楽監督としての活動を一時休止。東京のオペラの森で指揮予定であったヴェルディオペラ《オテロ》の公演もキャンセル。
6月スイス西部モントルー近郊ブロネで開催された「スイス国際音楽アカデミーで指揮活動を再開した。
7月20日「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトVII」愛知県芸術劇場コンサートホール公演、マーラー《交響曲第二番》「復活」を指揮し日本国内での指揮活動を再開した。
8月5日小澤征爾はBSOの桂冠音楽監督としてタングルウッドに戻り、のマーラー《復活交響曲》の演奏でBSOを率いた。
8月27日「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」でメンデルスゾーンのオラトリオ《エリア》をオーケストラピットから指揮した

2007年(平成19年)72歳
4月にベルリン・フィルを指揮をしている。
・ウィーン国立歌劇場総監督ホーレンダーの2010年勇退に伴い、音楽監督小澤征爾の同時退任が発表された。2010年シーズンからの総監督はドミニク・マイヤー、音楽監督は、ウェルザー=メストの就任が発表された。
11月ウィーン国立歌劇場名誉会員に推挙される
<下、サイトー・キネン松本 ニュース>

2008年(平成20年)73歳
1月「カラヤン生誕100年コンサート」でベルリン・フィル
5月16日モーツァルト《ディヴェルティメント》ニ長調
モーツァルト《オーボエ協奏曲》ハ長調
チャイコフスキー《交響曲第六番》ロ短調
小澤征爾/新日本フィルハーモニ/オーボエ:古部賢一
サントリー・ホール
5月17日ラフマニノフ《ピアノ協奏曲第三番》
チャイコフスキー《交響曲第六番》
小沢征爾/新日本フィルハーモニ/ピアノ:上原彩子
すみだトリフォニーホール
10月ウィーン国立歌劇場日本公演を指揮
11月28日と29日小澤征爾はシンフォニーホールでBSOとの最後のプログラムを指揮した。彼は全編フランス音楽のプログラムを選択した。
日本政府より「文化勲章」を受章
フランス政府「レジオン・ドヌール勲章オフィシエ」を授与される
「フランス芸術アカデミー外国人会員」に選出される
イタリア・プレミオ・ガリレオ2000財団金百合賞を受賞

2009年74歳
6月パリで椎間板ヘルニアの治療を受けた。
・小澤征爾音楽院オーケストラプロジェクトを設立し、演奏を通じた後進の育成にも積極的に取り組んだ。
・小澤征爾音楽塾オーケストラがサイトウ・キネン・フェスティバルに初出演した。
(下、動画)
「小澤征爾インタビュー+リハーサル風景」
「ブラームス 交響曲第二番 リハーサル風景」
04:47 第四楽章
11:01 第二楽章
16:46 第一楽章
サイトウ・キネン・オーケストラ
2009年 松本

2010年(平成22年)75歳
1月7日人間ドックの検査で「食道がん」が見つかり、治療のため6月までの半年間、活動を休止すると発表した。月末に食道全摘出手術を受ける。
8月24日「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」に復帰し、チャイコフスキー《弦楽セレナード》第1楽章を指揮。
演奏 / サイトウ・キネン・オーケストラ
<下、小澤征爾 76才的執念>

11月ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団により、「ウィーン・フィル名誉団員」の称号を贈られた
11月『カーネギーホールは、指揮者小澤征爾氏を芸術監督に迎え、日本芸術祭「JapanNYC」を2010年12月と2011年3~4月に開催。カーネギーホールでの公演のほか、国内各所等で開催される』
<NY、カーネギーホール「Japan NYC」のコンサート>
12月14日、ブラームス《交響曲第1番》ハ短調 op.68

12月15日、ベルリオーズ《幻想交響曲》 op.14
12月17日米国のボストン日本協会は、国際文化交流に貢献した人物に贈る今年の「重光賞」を受賞
12月18日、ブリテン《戦争レクイエム》 作品66 「Japan NYC」のコンサート
小澤征爾 / サイトウ・キネン・オーケストラ
クリスティン・ゴーキー(ソプラノ)
アンソニー・ディーン・グリフィー(テノール)
マティアス・ゲルネ(バリトン)
SKF松本合唱団、栗友会合唱団、SKF松本児童合唱団、ピエール・ヴァレー(合唱指揮)

2011年(平成23年)76歳
1月悪化した腰の手術を受ける
7月活動をはじめた特定非営利活動法人小澤国際室内楽アカデミー奥志賀(理事長/小澤征爾)は、『クヮルテットは、ソロとオーケストラとを問わず、弦楽器奏者のすべての基本。だから、世界に通用する弦楽器奏者を育てるには、トップレベルの指導者による集中的なクヮルテットの実習が欠かせない。この信念のもとで、奥志賀の大自然の中で学ぶこのアカデミーは、音楽家としてだけではなく人としても大切なことを得られる稀有な機会です。これからも「特定非営利活動法人 小澤国際室内楽アカデミー奥志賀」を通じて、日本のみならず広くアジア圏の才能ある若手音楽家のために開催していきたいと思っています』と述べている。
・サイトウ・キネン・フェスティバルを北京と上海で初開催。
・「高松宮殿下記念世界文化賞」を受賞した
・渡邊暁雄音楽基金特別賞を受賞した
11月悪化した腰痛の手術を受けた。
<下、世界的に活躍する指揮者の小澤征爾さん(77)が27日、川崎市立南生田小学校(同市多摩区)を訪れ、児童約340人に合唱を指揮した>

<小澤征爾~76歲的執念>

2012年(平成24年)77歳
3月7日体力回復め1年間指揮活動を休止することを発表
7月レッドソックス親善大使に就任
8月31日『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(村上春樹との共著、新潮社)で小林秀雄賞受賞。
・サイトウ・キネン・フェスティバル日本開催20周年。
<下、小澤総監督と指揮者山田和樹よりメッセージ>

2013年(平成25年)78歳
小澤征爾指揮 ラヴェル: 歌劇「子どもと魔法」第58回グラミー賞にノミネートされた。
4月1日前年死去した吉田秀和の後任として水戸芸術館の2代目館長・同管弦楽団総監督就任に就任
8月松本で2年ぶりに指揮復帰

2014年(平成26年)79歳
・モンブラン国際文化賞を受賞
・征爾は語る『今でもそうかもしれないが、日本のオーケストラはまだ西洋音楽に何か型があると思っている。日本人は、外からはわかりにくい、内に秘められた意志や感情を大事にしますが、ベートーヴェンやモーツァルトだって同じこと。表面的に音を正しくきれいに出すだけが音楽ではない。それなのに、日本のオーケストラは、いまだにその段階から抜け出せていない。この殻を破るにはうんと時間がかかるでしょう。どれほど演奏がうまくても、音楽することが、その人に対してどういう意味があるのかわからないまま、ただ弾いてしまっている。譜面づらしか弾かない人の多いこと。それでいいなら、ぼくのやっているアカデミーも小澤塾も要りません。芝居だって、役者が台本をただ丸覚えして話すだけでは全然ダメでしょう。セリフを解釈して自分の言葉として話さなきゃ。それと同じです』『その人の芯は何なのかを意識して大事にしている人が、日本にはいなくなっちゃったのかな。いなくなっても、そのことの重大さに気づかないでいるのかな。山本直純さんはその危険性に当時から気がついていて、オーケストラに常に要求していた。彼が真に目指していたのは、日本人にとっての借りものではないクラシック音楽です。』『直純さんを知っている人が少なくなったけど、見てくれが悪いとか(笑)、だらしないとかでごまかされないで、彼が何をしたかったのか、芯がどうだったか見つけ出すということはとても大事です』参考:「考える人」2014年秋季号、「山本直純という音楽家~彼が目指した真の音楽」インタビュアーに応える、92頁引用

2015年(平成27年)80歳
2月NHK総合「あさイチ」に初出演
・サイトウキネンオーケストラは「セイジ・オザワ・松本フェスティバル」として新たなステージを迎えた。
<スイス小澤征爾国際アカデミー・コンサート Concert Seiji Ozawa International Academy Switzerland>2015年7月1日
ベートーヴェン《弦楽四重奏曲第16番》第3楽章
グリーグの組曲《ホルベアの時代から》

2月16日に開催されるアメリカ音楽界最高峰の祭典『第58回グラミー賞』(ロサンゼルス・ステープルズセンター)全83部門のノミネート作品/アーティストが12月7日に発表された
7月アメリカで最も著名な芸術家の生涯にわたる功績と並外れた才能を讃え、ケネディ・センター受賞者に選ばれた。日本人では初の受賞となる
セイジさん80歳を祝う!ガラコンサートに伴い、フェスティバルはセイジ・オザワ松本フェスティバルと改名された。
8月転倒して腰を強く打ち、「腰椎棘突起及び横突起骨折」と診断された。医師からは、3週間の加療が必要と言われ、セイジ・オザワ松本フェスティバル開催のベルリオーズ・オペラ《ベアトリスとベネディクト》を降板した。
9月1日<下、小澤征爾、誕生日に指揮、松本フェスで>

12月5日、ワシントンD.C.の米国国務省で開催されたケネディセンター栄誉晩餐会で、2015年ケネディセンター栄誉賞を受賞した(日本人として初めて選ばれた)
・長野県名誉県民栄誉賞の第1号を受賞

2016年(平成28年)81歳
2月15日米国、小澤がSKOを指揮したオペラ《こどもと魔法》は第58回グラミー賞最優秀オペラ録音賞を受賞した。世界最高峰の音楽の祭であるグラミー賞にオペラ録音部門でラヴェル:歌劇《こどもと魔法》を収めるアルバムがノミネートされていた指揮者、小澤征爾。この作品は、2013年に長野県で開かれた音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本(現セイジ・オザワ松本フェスティバル)」で指揮した歌劇《こどもと魔法》を収めたアルバムである。征爾は8度目のノミネートにして初のグラミーの栄冠に輝いた。
3月成城大学初となる名誉博士号を贈呈された。記念式典ではサイトウ・キネン・オーケストラや水戸室内管弦楽団メンバー、成城学園にゆかりのアーティスト達が集結し、『S.オザワ祝典アンサンブル』を結成した
4月7日小澤征爾総監督 ベルリン・フィル名誉団員の称号を授与された。小澤総監督に称号を授与したベルリン・フィルのチェロ奏者兼役員のクヌート・ウェーバー氏は『日本はベルリン・フィルにとって “第二の故郷です”。小澤さんは我々に、多くの音楽的発見をもたらしてくださいました』とコメント。
小澤総監督もこれに対し、『たいへん光栄です。僕は、このホールでこのオーケストラと、初めて1966年に指揮しています。50年間の長いお付き合いです。本当にうれしいです。』と話しました。130年に及ぶベルリン・フィルの歴史で、日本人で同称号を贈られるのは総監督が初めて。
4月8,10日(日)に、約7年ぶりにベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮を執った小澤総監督は、ベートーベンの「エグモント 序曲」と「合唱幻想曲」を力強く指揮した。
4月ドイツのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で指揮を執って現地を熱狂させたが、翌年のドイツ公演はやむなく辞退した。本格的な療養生活に入っても、体調はなかなか回復しなかったようだ。『女性セブン』(2022年4月7・14日号)では、小澤家の知人が“24時間対応の看護体制”について次ののように語っている。『2018年4月に大動脈弁狭窄症の手術を受けてから、本格的な療養生活に入りました。体重が落ちていて、自分で歩くことも難しい状態。言葉も思うようには発することができないといいます。一時は、都内の大学病院に入院していましたが、本人の強い希望で自宅に戻り、24時間対応の看護体制の下で自宅療養を続けています」』
4月7日、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は「小澤征爾を名誉団員に迎える」と発表した。「ベルリン・フィル名誉団員」の称号を贈られた
8月31日<子どものための音楽会> (県内小学6年生を招待)  松本市総合体育館
ガーシュイン《ラプソディー・イン・ブルー》 他
小澤征爾/サイトウ・キネン・オーケストラ /マーカス・ロバーツ・トリオ
9月6,9日<2016セイジ・オザワ松本フェスティバル>
ラヴェル《子どもと魔法》  まつもと市民芸術館・主ホール
小澤征爾/小澤征爾音楽塾オーケストラ
演出: ディヴィッド・ニース
2016 10月13,15日<水戸室内管弦楽団 第100回定期演奏会>
指揮:ラデク・バボラーク(第1、2楽章)/小澤征爾(第3,4楽章)
・10月名誉都民に顕彰された
・・GR Me of the Year賞を受賞
<下、11月10日ロームシアター京都 竣工式 記念演奏会>
小澤征爾指揮・小澤征爾音楽塾

2017年(平成29年)82歳
1月13,15日水戸室内管弦楽団第98回定期演奏会
小澤征爾(ベートーヴェン作品)/竹澤恭子(ヴァイオリン)川本嘉子(ヴィオラ)
1月17日<水戸室内管弦楽団 川崎公演>
小澤征爾(ベートーヴェン作品)/竹澤恭子(ヴァイオリン)川本嘉子(ヴィオラ)
5月12日<水戸室内管弦楽団・別府アルゲリッチ音楽祭共同制作>
水戸室内管弦楽団 第99回定期演奏会
小澤征爾(ベートーヴェン作品)/マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
5月17日<水戸室内管弦楽団・別府アルゲリッチ音楽祭共同制作>
ベスト・オブ・ベストシリーズVol.5/室内オーケストラ・コンサート
小澤征爾(ベートーヴェン作品)/マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
12月1日女性ファション誌「家庭画報」1月号の特集記事に20ページに及ぶ小澤征爾音楽塾オーケストラによる「子どものための音楽会」および「子どものためのオペラ」が取り上げられ紹介された(https://www.kateigaho.com/magazine/8528/)
英字新聞「Japan Times on Sunday – Time Out」 特集で《小澤征爾が次世代に伝えること》をテーマに、小澤総監督の教育活動の原点となる長野県山ノ内町立山ノ内中学校の《小澤コンサート》をはじめ、小澤国際室内学アカデミー、小澤征爾音楽塾、スイス国際室内学アカデミーが、紹介された(https://www.japantimes.co.jp/culture/2017/12/02/music/master-class-conductor-seiji-ozawa-passes-knowledge-new-generation/#.XTg4HPZuLIV)

2018年(平成30年)83歳
1月12日8:15~9:15放送のNHK総合「あさイチ」に生出演(http://www1.nhk.or.jp/asaichi/archive/180112/1.html)
3月大動脈弁狭窄症と診断されて治療と精密検査で一か月間入院。
4月に大動脈弁狭窄症の手術し、手術後から療養生活に入った。
・予定していた京都、愛知、東京でのオペラ計4公演の指揮を降板した。
8月大動脈弁狭窄治療のため入院したため小澤塾の公演を降板となった

2019年(令和元年)84歳
3月、京都市内の演奏会で指揮したが、その後、急性気管支炎で一時入院。24日上皇ご夫妻が鑑賞された東京公演で約2カ月ぶりに指揮を務めたが、体力の消耗が激しかったため、静養することになった
5月26日、水戸市の水戸芸術館で水戸室内管弦楽団の定期演奏会で、急遽、降板。7月31日紀尾井ホールで行われた「小澤国際室内楽アカデミー奥志賀ー東京公演」でアンコールで指揮台に上がった小澤征爾は、ベートーヴェン:《弦楽四重奏曲 第16番》 Op.135 第3楽章を指揮した
8月に松本で10分ほど指揮を降ったのが最後となる。
体調に関しては以下の状態だったそうです。
<下、「小澤国際室内楽アカデミー奥志賀ー東京公演」でアンコールで指揮台に上がった征爾は、ベートーヴェン:《弦楽四重奏曲 第16番》>

【2019OICMA 東京公演映像公開】

【2019OICMA 東京公演映像公開】7月31日に紀尾井ホールで行われた、小澤国際室内楽アカデミー奥志賀 東京公演。アンコールで指揮台に上がった小澤征爾の指揮による、ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第16番 Op.135 第3楽章の映像を一部ご紹介します。この楽曲は、アカデミー奥志賀で長年講師として活躍し、昨年1月に亡くなられたヴァイオリニストのロバート・マン氏が、ジュリアード弦楽四重奏団期より最も愛し、何度も指揮をした曲の一つ。近年、小澤征爾も好んで取り上げている思い入れの深い曲で、7月30日に行われたリハーサルの際にも、しみじみと「良い曲だね」と受講生たちに話していました。ベートーヴェンが完成させた最後の作品としても知られるこの曲は、今年のセイジ・オザワ 松本フェスティバル「ふれあいコンサートI」(8月18日)で、小澤征爾スイス国際アカデミーも演奏する予定です。【2019OICMA Tokyo performance Beethoven video】2019OICMA closed its curtain at Tokyo performance on July 31st at Kioi Hall. Tutor of the academy Seiji Ozawa stood on the podium at the end of the concert and conducted Beethoven: String Quartet No.16 Op.135 3rd movement. This music was loved by one of the great tutors at the academy, late Mr. Robert Mann, and he conducted this piece many times. Seiji Ozawa himself also loves this work and he said to the academy students at the rehearsal "such a wonderful music". Beethoven: String Quartet No.16 will be performed by Seiji Ozawa International Academy Switzerland at the Seiji Ozawa Matsumoto Festival "Chamber Concert I" this summer.

小澤国際室内楽アカデミー 奥志賀さんの投稿 2019年8月2日金曜日

2020年85歳
9月1日<Happy Birthday to Seiji Ozawa from NJP新日本フィル>

9月1日ボストン市長が2020年9月1日をSeiji Ozawa Day(小澤征爾の日)に制定
9月6日最新情報 – 小澤国際室内楽アカデミー奥志賀
ozawa-academy.com/news-entry-キャッシュ
<“こういう時だからこそ音楽を届けたかったんです。ぼくは今回は奥志賀に行けなくてとても残念ですが、今年もまた奥志賀で音楽会ができて嬉しいです。
奥志賀のアカデミーで成長した若い音楽家たちの演奏を皆さん楽しみにしていてください。”小澤国際室内楽アカデミー奥志賀 理事長>
Seiji Ozawa
9月6日(日)15:30より、これまでのアカデミー受講経験者を主体とした2組のカルテットによる『第35回 森の音楽会』を …
https://www.youtube. com/watch?v=yp6KGNjBzoU&feature=youtu.be … 【東京公演 小澤征爾の指揮で終演】

2022年86歳
3月24日NEWSポストセブンは、小澤征爾氏が24時間の看護体制で自宅療養中だと報じた。
11月23日<毛利衛さんの初飛行から30年記念企画>国際宇宙ステーションに向けて生中継、同時に全世界に向け同時公開された。日本の宇宙航空研究開発機構との共同イニシアチブである「ONE EARTH MISSION」では、小澤征爾は国際宇宙ステーションへのベートーベン《エグモント序曲》の生演奏を指揮し、史上初めて生のオーケストラ・コンサートが宇宙に送信された。
征爾はこの演奏会を指揮した。この演奏会はSKOと宇宙航空研究開発機構が共同で企画して、ライブ配信で宇宙飛行士の若田光一さんが滞在するISS・国際宇宙ステーションに、オーケストラの演奏を宇宙へ生中継された。
長野県松本市のキッセイ文化ホールで、約3年ぶりに総監督を務めるサイトウ・キネン・オーケストラを指揮した。
ベートーヴェン《エグモント序曲》
指揮:小澤征爾/サイトウ・キネン・オーケストラ
11月23日長野県松本市のキッセイ文化ホールにて

<(PR Video) ONE EARTH MISSION – Unite with Music>

2023年87歳
9月2日「2023セイジ・オザワ 松本フェスティバル」に出演するため、来日したジョン・ウィリアムズ氏はサイトウ・キネン・オーケストラを指揮、《スター・ウォーズ》や《インディ・ジョーンズ》など、映画音楽などを演奏した。アンコールの《レイダース・マーチ》の演奏を終えたウィリアムズ氏が舞台袖に目を向け「セイジ!」と呼びかけると、車いすに乗ったマスク姿の小澤征爾氏が姿を見せた。

2024年88歳
1月23日元妻である江戸京子が死去
小澤征爾さん介護については、家族の中では長女の征良さんがずっと寄り添っていたという。
2月6日東京都内の自宅で心不全で逝去、88歳の生涯であった
葬儀・告別式は近親者で営まれ、後日お別れの会を開くことを検討しているという。

・以下https://www.news-postseven.com/archives/20240214_1941158.html/2《小澤征爾さん逝去》実弟が明かした「世界のオザワ」が病室で迎えた“沈黙”の最期「征悦ちゃんも桑子さんも無言で立ち尽くして」から引用
『征爾さんの弟である俳優でエッセイストの小澤幹雄(86)氏が最後に兄に会ったのは、この「セイジ・オザワ松本フェスティバル」だったという。『NEWSポストセブン』の取材に答え、兄を追悼した。
「病気を患ってからは体も動かなくなって指揮もできなくなってしまいましたけど、晩年も『指揮がしたい』と話していました。ステージに上がるのも難しくなり、総監督としてコンサートの陣頭指揮をとっていました。私が最後に征爾と会ったのは、昨年に長野で行われたコンサートです。込み入った会話をする時間はありませんでしたが、こんなに早く別れの日が来てしまうとは思っていませんでした。兄は小さい頃からいろいろなことに気遣いしてくれて、声をかけてくれる優しい人でした。とても感謝しています」(小澤幹雄氏、以下同)
 訃報が届いたのは、2月6日の午前だった。
「征爾の訃報を聞いて急いで病院へ向かいました。静かに息を引き取ったようで、安らかに眠ったような顔をしていました。よしちゃん(小澤征悦)や奥さんの桑子真帆さんもいて、みんな黙って立ち尽くしていました。
大往生だと仰る方もいらっしゃいますが、征爾はまだまだやりたいことがあったんじゃないかと思います。今も兄の指揮する姿が頭から離れません」』

4.初演記録premiere

(クリックまたはタップで各項目にジャンプします。)
小澤征爾初演記録 ‎

5.主なレコーディング記録Main recording records


全集Complete works
・ラヴェル管弦楽全集(ボストン交響楽団)(ドイツ・グラモフォン)
・マーラー交響曲全集(ボストン交響楽団)(フィリップス)
・ブラームス交響曲全集(サイトウ・キネン・オーケストラ)(フィリップス)
・ベートーヴェン交響曲全集(サイトウ・キネン・オーケストラ)(フィリップス)
・春の祭典(シカゴ交響楽団)(RCA)
・カルメン全曲(フランス国立管弦楽団)(フィリップス)
・プロコフィエフ交響曲全集(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)(ドイツ・グラモフォン)
・ドヴォルザーク交響曲第8番、交響曲第9番(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)(フィリップス)
ボックス・セットBox Sets
・コンプリート RCA&コロンビア・アルバム・コレクション (51 CD)
・Seiji Ozawa Anniversary 2010 (Decca, 11 CD)
・The Complete Deutsche Grammophon Recordings (50 CD)
・The Complete Warner Recordings (25 CD)
・小澤征爾コレクション EMIレコーディングス (7 CD)
・The Philips Years (50 CD)
・German Masterworks (Decca, 15 CD)
・小澤征爾70歳記念BOX (71 CD&DVD)
・ムター&小澤征爾 ドイツ・グラモフォン録音集 (10 CD)
主な出版物
・「ボクの音楽武者修行」
・「音楽」(武満徹と共著)
・「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(村上春樹と共著)
・「同じ年に生まれて」(大江健三郎と共著)
・「小澤征爾指揮者を語る」(インタビュー有働由美子)
・「父を語る」(編)・「父を語る その二」(編)
・「おわらない音楽:私の履歴書」
・「やわらかな心をもつ」(広中平祐と共著)
・「斉藤秀雄講義録」(編集委員)

6.小沢征爾 主な指揮記録Archive

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小澤/ニューヨークフィル-全指揮記録(1961年4月13日-1971年2月22日)

小澤/旧・日本フィル-全指揮記録(1961年6月22日-1972年6月16日)

小澤/新日本フィル-指揮記録(1972-2016)記録不明

小澤/N響-指揮記録(1962-2005)記録不明

トロン交響楽団指揮記録の一部(1965-1969)

小澤/ウィ-ン国立歌劇場-全指揮記録(1988年5月16日-2009年10月13日)

小澤/サイトウキネン-指揮記録(1984-2019)記録不明
 
小澤/水戸室内管-指揮記録(1990-2020)記録不明

小澤/ボストン響-全指揮記録-Ⅰ(1960年07月14日‐1976年08月29日)

小澤/ボストン響-全指揮記録-Ⅱ(1976年09月30日‐1979年08月31日)

小澤/ボストン響-全指揮記録-Ⅲ(1979年09月01日‐1983年08月28日)

小澤/ボストン響-全指揮記録-Ⅳ(1983年09月28日‐1987年08月30日)

小澤/ボストン響-全指揮記録-Ⅴ(1987年09月28日‐1991年09月07日)

小澤/ボストン響-全指揮記録-Ⅵ(1991年10月03日‐1995年08月06日)

小澤/ボストン響-全指揮記録-Ⅶ(1995年09月28日‐2008年11月29日)

無断転載禁止:小澤/ボストン響-全指揮記録、小澤/ウィ-ン国立歌劇場-全指揮記録、小澤/ニューヨークフィル-全指揮記録>

<参考>
1. ボストン響のアーカイヴはPerformance History Search (bso.org)
2. Performance History – New York Philharmonic | Digital Archives
https://archives.nyphil.org/performancehistory/#program
ニューヨーク・フィルのアーカイヴはNew York Philharmonic | Digital Archives (nyphil.org)/New York Philharmonic | Digital Archives
3. アメリカでは、カーネギーホールのアーカイヴ(Performance History Search | Carnegie Hall)
4. ウィーン・フィルのアーカイヴ(公演アーカイブ – ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (wienerphilharmoniker.at)
5. サントリーホールのアーカイヴはサントリーホール 公演アーカイブ (suntory.co.jp))
6. 東京都交響楽団のコンサート・アーカイヴ|東京都交響楽団 (tmso.or.jp))が
7. 東京文化会館演奏アーカイブhttps://i.t-bunka.jp/
8. 東京文化会館演奏のみアーカイブ日本フィルハーモニー交響楽団https://i.t-bunka.jp/search/result?q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%83%BC%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%A5%BD%E5%9B%A3&g%5B%5D=concert

7.小澤征爾 関連動画Youtubee

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小澤征爾 関連動画

8.小澤征爾の父小澤開作 年譜Family lineage

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小澤征爾の父小澤開作

9.その他Others


➀ 1963年音楽評論家の秋山邦晴は自著「現代音楽をどう聴くか」の「小澤征爾(当時28歳/編者)」の項のなかで次のように述べ、将来を予言した。
『指揮者というものは、いわばアル・カポネの条件をそなえていなければならない。こう定義したのは芥川也寸志である。指揮者は直接に手をくだして音を発することはしない。けれどもその配下にある組織には絶対の力をもっている。そしてかれの大胆にして細心の計画を、命令一下、忠実に実行させる絶大なる腕力と尊敬をかねそなえていることが必要である。これはつまり、かの有名なギャング団のボス的存在であったアル・カポネとおなじだというのである。この論法でいけば、さしずめ小澤征爾はカポネにどれほど近づいたかを書くのが、ここでぼくにあたえられている役割ということになるわけだ。しかし小澤にはおよそそのような親分的な風貌や性格が感じられない。むしろ組織のなかのボス的存在とは逆の魅力がつよい。それはあくまでかれの個人的な魅力といえるものだ。・・ぼくが初めて小澤征爾の指揮を<聴いた>のは、たしか1958年(小澤征爾23歳/編者))、かれが桐朋学園のオーケストラを振った卒業演奏だった。ヨハン・シュトラウスのワルツを指揮したのだが、ぼくはたいへん興味深く感じたのをおぼえている。だいたい型やぶりなのだ。指揮者の卵の演奏には、たいてい大指揮者のレコード演奏の下敷きがどこかに感じられるものだ。ところが小澤の演奏には、それがまったく見当たらない。それもウィンナ・ワルツとなれば、その抑揚の独特のとり方に難しさがあり、それを表現するためにはレコードで勉強するだろう。しかし小澤はそんな型にとらわれず、リズムのてきぱきとした、熱っぽいかれのウィンナ・ワルツを情熱的に演奏した。それはぼくにはたいへんおもしろかったのである。いわばそれはかれの音楽家としての個人的な魅力をはじめてしらされた<表現>であった。その演奏会の帰り道、ぼくは友人の数人の批評家たちにその魅力を論つづけたのをおぼえている。それならば、小澤は他人の表現や個性的なスタイルにまったく無関心かといえば、そうではない。ひといちばいの勉強家なのである。略・・1959年(小澤征爾24歳/編者))の秋のことだった。当時ベルリンにいたぼくは、ひょっこりやってきたかれと一ヶ月ほど同宿することになった。折からベルリン芸術祭が開催中で、世界の名演奏家やオーケストラ、合唱団が連日演奏をくりひろげていた。小澤はまったくまめによく通った。おまけにスコアを買っては各指揮者の表現を細部にわたって研究していた。それが老指揮者であろうと、若手であろうとおなじように究明しつくしながら、あれはいい、あそこはこうあるべきではないかと、ぼくに向かって質問し批評した。ぼくより五つ六つ年下のこの青年が、なかなか適確な批評をもっていることを知らされたものである。そしてなんて無駄のない男だ、とぼくは関心させられもした。ともかく一時間だって無意味にすごさないのだ。楽譜を調べる。演奏会の練習にもぐりこむ。自分に必要とあらば少々強引なまでにおしかけていって、事務的あるいは政治的な交渉を実行する。昨年のあの事件は、棒の振り間違いなどという問題で、小澤がいかにも未熟な青年指揮者だといった印象を悪意的にひろがらせた。しかしかれの指揮棒の技巧はなかな適確なものである。たとえば現代の巨大な、モニュメンタルな壁画といったメシアンの《トゥーランガリラ交響曲》を、昨夏ふったあの名演。複雑に交錯し変化するリズムと音色の饗宴といえるあの難曲を、あれほど適確な把握で、熱っぽくもりあげていったかれの表現。それはかれの指揮棒の技巧の適確さと、多彩な才能を証明してあまりあるものだったとおもう。そこにかれの特徴もはっきりとあらわれていた。かれの表現はリズムとテンポの新鮮さにある。うんとゆったりした表現のなかにも、けっしてだらだらした感覚がない。それに色彩感と抒情性といったものが、明るくブリリアントにうきあがってくる。以下略・・それを裏書きするように、最近のかれの海外演奏についてのいろんな批評は、オザワはロシア音楽やドイツ音楽に若い指揮者とはおもえぬすばらしい表現をみせたと論じている。以下略・・このすぐれた若手指揮者は、こうして大胆にして細心の”かれ”の計画を着々と実行しているのだ。カポネの肖像はすててしまってもかまわない。そのかわり小澤征爾の内部の立派な肖像を段々大きくしていくことだ、そのときさまざまなわが国の雑音がきこえなくなるはずだ。そしてわが国にはユニークな”指揮者”という存在がはっきりと浮かびあがってくることだろう。(1963年)』
引用:秋山邦晴著、「現代音楽をどう聴くか」、発行晶文社、刊行1973年、177-182頁

➁ ベルリン・フィル関係ニュース/アーティスト・インタビュー
小澤征爾
聞き手:ファーガス・マクウィリアム(ベルリン・フィル、ホルン奏者)
 今号では、5月にメンデルスゾーンの《エリア》で客演した小澤征爾のインタビューをご紹介します。この演奏会は、ベルリンにおける小澤の公演のなかでも特筆すべき出来栄えでしたが、それはベルリン・フィルとの長い友好関係がもたらした成果でしょう。ベテラン団員ファーガス・マクウィリアムによる親愛に満ちた受け答えも、絆の深さを象徴しています(マクウィリアムが心からの愛情をもって接しているので、ぜひ映像をご覧ください)。
マクウィリアム 「セイジ、ちょっと握手させてください」
小澤「ああファーガス、もちろんですよ」
マクウィリアム 「というのは、私たちが一緒に演奏し始めて40年になることに、2年前気がつきましたよね。すごい年月です。40年前、あなたはトロントで指揮されていました。その時私はほんの子供でしたが、あなたの指揮でデビューしたのです(注:マクウィリアムは1967年、15歳の時にトロント交響楽団でソリストとして初舞台を踏んでいる)」
小澤 「あなたは、どうしてトロントにいたんですか」
マクウィリアム 「家族がスコットランドからカナダに移住したのです。トロントで音楽学校に行きまして、ホルンを勉強したのです。今はもう随分長い間ヨーロッパにいるわけですけれども」
小澤 「なるほど」
マクウィリアム 「あなたは今、ベルリン・フィルと共演する音楽家のなかでも、最も関係が長い指揮者のひとりです。ご健康でいてくださり、こうして共演を続けられていられることに、心から感謝しています。42年前にベルリン・フィルを初めて指揮された時、あなたは…」
小澤 「カラヤン先生の弟子でした」
マクウィリアム 「しかしその前に、日本の先生にもついていらっしゃったんですよね」
小澤 「齋藤秀雄先生です」
マクウィリアム 「齋藤氏の名前は、サイトウ・キネン・オーケストラのおかげで欧米でも有名になりました」
小澤 「キネンというのは、メモリアルという意味です。でもメモリアルという英語はちょっと暗い感じがしますよね。ですから“記念”という日本語を使うことにしたのです。“記念”は日本語では暗い感じがしませんし」
マクウィリアム 「キネンと呼ぶ方が、ポジティヴなイメージがあるのですね。齋藤氏は、あなたにとって非常に重要な方のようですが、一体どんなことを教えたのでしょう」
小澤 「日本には当時、クラシック音楽の伝統がありませんでした。齋藤先生はチェリストとしてドイツにやって来て、エマヌエル・フォイアーマンのもとで勉強したのです。フォイアーマンの方が齋藤先生よりも少し若かったのですが……。これはずっと後のことですけれども、私がボストン交響楽団とカーネギー・ホールに客演した時に、ニューヨークにお住いのフォイアーマン夫人が私を訪ねてきたのです。そして齋藤先生のことを語られました」
マクウィリアム 「彼は、様々な人々に強い印象を与えたのですね」
小澤 「齋藤先生は、クラシックの伝統がないアジアの音楽学生に必要なことを、たいへんよく理解していました。彼はパリ音楽院からソルフェージュと聴音の先生を2人招聘し、日本で教えさせたのです。そして非常に理論的な教育法を行いました。彼はどのようにスコアを読むべきかを、完璧にマスターしていたのです。本当に隅々までディティールを読み、知的に解釈していました。しかしレッスンそのものは、アカデミックに硬直したものではありませんでした。感情表現としてのフレージングを重視し、きわめてエスプレッシーヴォ。フレーズがどこからやってきて、どこへ流れて行くのかを、エモーショナルに示したのです。細部の解析と感情的な表現の両方を教えることが、齋藤先生の最も素晴らしい点でした」
マクウィリアム 「当時の日本では、西洋のクラシック音楽はほとんど知られていなかったのですね」
小澤 「ほんの少しのロシア人音楽家、ヨーロッパのユダヤ人音楽家が来たのみで、聴く機会はあまりありませんでした」
マクウィリアム 「素晴らしい先生に出会われたわけですが、あなた自身は、どのようにクラシックに目覚めたのでしょう」
小澤 「子供の頃、私の兄がピアノのレッスンを受け、作曲の勉強をしていました。しかし私自身もピアノが大好きで、ずっと弾いていたのです。しかしオーケストラのスコアや室内楽には関心がありませんでした。少年時代はラグビーもやっていたのですが、ご存知のようにラグビーは荒っぽいですよね。それで2本指を折ってしまい、ピアノが弾けなくなったのです。当時ピアノを習っていたのは、豊増昇先生というバッハの権威だったのですが、この方が突然“君はどうして指揮をやらないの?”と言いました。当時日本で指揮をしていたのはヨーロッパ人、アメリカ人、ロシア人で、日本人は齋藤先生を含めて少ししかいませんでした。そうして私は、14歳で生まれて初めてオーケストラを聴きに行ったのです。演奏したのは、レオニード・クロイツァー。彼はナチスに追われて日本に来ていたのですが、指揮をしながらベートーヴェンの《皇帝》を弾きました。それは私にとって、決定的な瞬間でした。それ以来、スコアを読み、指揮の勉強をするようになったのです。齋藤先生にも教えていただくようになったのですが、先生は当時、指揮の学生をほとんど取っていませんでした。しかし幸運にも弟子の1人に加えていただき、ほとんど毎週末、先生のもとで勉強していました」
マクウィリアム 「彼はあなたを大事にして、集中して教えたのですね」
小澤 「本当に幸運でした。本当に……。その後ベルリンに来て、カラヤン先生にも教えていただきました。これも少数の学生だけだったと思います。ヴィリー・ブラントがベルリン市長だったのですが、あれはカラヤンとブラントのアイデアだったのでしょう」
マクウィリアム 「若い指揮者のワークショップとコンクールのことですね」
小澤 「そうです」
マクウィリアム 「それ以来40年以上にわたってご一緒してきましたが、あなたはカラヤン時代以来、今や我々の伝統の一部となっています。もちろんメンバーは相当変わりましたけれど(笑)」
小澤 「カラヤン時代の伝統は、今でも立派に受け継がれていると思いますよ。素晴らしいです。デビュー当時のことに戻ると、私はカラヤン先生がどうしてあんなに私に目をかけてくれたのか不思議なのです。彼が私をベルリン・フィルに招待してくれた時は、わぁーという感じで気が動転しました」
マクウィリアム 「その感覚は私も知っています(笑)」
小澤 「普通客演指揮者がプログラムを作る時は、オーケストラのマネージメントと話をするものですよね。しかしこの時は、カラヤン先生自身が“お前のプログラムは私が作る”と言ってくれたのです。それでザルツブルクやベルリンに電話して決めました。でも、彼の英語はゴニョゴニョしていて聴き取りにくいでしょう」
マクウィリアム 「ここだけの話ですが、ドイツ語の時もそうですよ(笑)」
小澤 「ああ、そうなんですか(爆笑)。それで何度も聞き返してひどい電話だったんだけれども、彼は多くの新しい曲をやるように求めました。今回演奏する《エリア》も、そのひとつだったと思います。例えばバルトークの《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽》もそう。それで私は一生懸命勉強して、ベルリンにやってきたのです」

2016年4月8日 小澤征爾 with ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
<お気に入りの生徒が帰ってきた>
小澤征爾は半世紀にわたってベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の最も人気のある客演指揮者の一人である。最近病気のため多くのキャンセルを余儀なくされていた80歳の彼の復帰コンサートは嬉しい驚きだ。
昨年80歳の誕生日を迎えた小澤征爾は最近、健康上の理由から多くのコンサートをキャンセルしなければならなかった。これは、この日本人指揮者が1966年のデビュー以来、密接な関係を築いてきたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団にも当てはまります。小沢氏が久しぶりに代役を務め、その間に若手が代役を務めていたことが知られると、驚きはさらに大きかった。ズービン・メータ氏の代わりに小沢氏が再びベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、その管楽器奏者が初めてモーツァルトの曲を演奏したのである。 「グラン・パルティータ」は指揮者の指導なしで独奏的に演奏されました。稀に演奏される「合唱幻想曲」を含む、ベートーベンの印象的な 2 つの作品で、才能豊かなミュージカル俳優小沢の演壇での演奏を聴くことができます。
小澤氏が単なる客演指揮者以上の存在であるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団にとって、これは特別な瞬間である。1935年に現在の中国で生まれたこの音楽家は、ヘルベルト・フォン・カラヤンに師事し、カラヤンの「愛弟子」とみなされ、カラヤンの死後は音楽後継者の役割に成長したが、もちろんカラヤンの演奏家には選ばれなかった。後任: 1989 年にクラウディオ アバドが任命されました。小澤はカラヤンと関わりがあった一方で、独立した立場を保っていた。何十年もほとんど飼い慣らされていないヒッピーのたてがみをした快活な男は、非常に特異な指揮者であり、彼のもう一人の教師はカラヤンの対極であるレナード・バーンスタインだった。
小澤:緻密で高尚な演奏をする人。壮大な作品を好む指揮者で、クラシックのレパートリーに夢遊病のような自信を持ち、パウル・ヒンデミットのオーケストラ作品のような新しくて(今日では)遠いものに対する多大な情熱を持っています。ミュージカル・ベルリンは、同世代最後のグランドマスターの一人に再会することを楽しみにしている。
ベルリン・フィルハーモニーからのライブ
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
管楽器のためのセレナード ロ長調 KV 361「グラン・パルティータ」
午後8時55分頃、コンサート休憩
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの悲劇「エグモント」序曲作品84
合唱、ピアノとオーケストラのための幻想曲 ハ短調 作品80
ペーター・ゼルキン(ピアノ)
ベルリン国立歌劇場
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:小澤征爾(ベートーヴェン)
出典:https://www.deutschlandfunkkultur.de/seiji-ozawa-bei-den-berliner-philharmonikern-der-100.html

➂ 「NHK交響楽団にボイコットされて窮地に立った27歳の小澤征爾を救った仲間たち」

NHK交響楽団にボイコットされて窮地に立った27歳の小澤征爾を救った仲間たち

参考文献:要約参考資料など:斉藤秀雄『斉藤秀雄講義録』、白水社、2004年 / 斉藤秀雄『指揮法教程』、音楽之友社」、昭和54年 / 小澤征爾『ボクの音楽武者修行』、新潮文庫、昭和54年 / 小澤征爾・武満徹『音楽』新潮文庫、昭和59年 / 小澤征爾・広中平祐『やわらかな心をもつ』新潮文庫、昭和59年 / 小澤幹雄『対談と写真小澤征爾』、新潮社、昭和57年 / 小澤幹雄「ヤワラカナ兄 征爾」 芸術現代社、昭和60年 / カール・A・ヴィーゲランド『コンサートは始まる/小澤征爾とボストン交響楽団』木村博江=訳、音楽之友社、1989年 / アルク出版企画「小澤征爾大研究」『セイジの「やわらか年代記」』春秋社、1990年 / 小澤さくら『北京の碧い空を わたしの生きた昭和』、二期出版、1991年 / 小澤征良『おわらない夏』、集英社、2003年 / 小澤征爾・大江健三郎『同じ年に生まれて』中央公論新社、2001年 / 田中秀雄『石原莞爾と小沢開作 民族協和を求めて』、芙蓉書房出版、2008年 / 小澤征爾・村上春樹『小澤征爾さんと、音楽について』、新潮社、2011年 / 小澤征爾:語り/有働由美子:インタビュー『小澤征爾指揮者を語る』PHP研究所、2012年 / 中野 雄『小澤征爾 覇者の法則』文春新書、2014年 / 私の履歴書 小澤征爾、日本経済新聞社、2014年 / 音楽之友社編『指揮者小澤征爾』、音楽之友社、2024年 / 王 強『日中戦争期における新民会の厚生活動をめぐって』、現代社会研究‐№25、2002年11月、最終アクセス2019年5月14日、http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/1018/1/18_0090.pdf / 小澤国際室内楽アカデミー奥志賀『アカデミーについて』、最終アクセス2019年5月14日、 www.ozawa-academy.com / 小澤征爾 - Wikipedia - ウィキペディア、『小澤征爾』、最終アクセス2019年5月14日、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%BE%A4%E5%BE%81%E7%88%BE /  Seiji Ozawa - Wikipedia、『Seiji Ozawa』、 最終アクセス2019年5月14日、https://en.wikipedia.org/wiki/Seiji_Ozawa / Seiji Ozawa - Simple English Wikipedia, the free encyclopedia、『Seiji Ozawa』、 最終アクセス2019年5月14日、 /https://simple.wikipedia.org/wiki/Seiji_Ozawa / 小澤征爾プロフィール | セイジ・オザワ 松本フェスティバル、『 Seiji Ozawa Profile』、最終アクセス2019年5月14日、 https://www.ozawa-festival.com/about/seijiozawa.html/  Seiji Ozawa - Students | Britannica Kids | Homework Help、『Seiji Ozawa』、最終アクセス2019年5月14日、https://www.britannica.com/biography/Seiji-Ozawa / https://archiv.wiener-staatsoper.at/search/person/2145 / https://history-of-music.com/wp-admin/post.php?post=2491&action=edit / https://www.ozawa-festival.com/about/saitokinenorchestra.html / https://www.bso.org/exhibits/a-timeline-of-seiji-ozawa-and-the-bso / 日本フィルハーモニー交響楽団これまでの演奏会https://japanphil.or.jp/orchestra/concerthistory / https://classicalrecordings.blog.fc2.com/blog-entry-49.htmlアイビスのクラシックCDアーカイヴ / http://www.est.hi-ho.ne.jp/soundlodgeibuki/visitor1989a.html/http://www.est.hi-ho.ne.jp/soundlodgeibuki/conproA.html/http://www.est.hi-ho.ne.jp/soundlodgeibuki/vor-55-84.html/サウンド・ロッヂ伊吹 /  初稿肖像画協力:寄川靖宏 様(プロフィール:兵庫県宍粟市出身 1956年生まれ、FBグループ「クラシックを聴こう会」メンバー)

生年代:1935年 昭和10年

日本の元号:昭和~平成~令和

時代:現代

日本の出来事:1935年 小澤征爾誕生

1935 ◎「焼け跡世代~1946年生まれまで」 ◎藤原歌劇団がプッチーニのオペラ「トスカ」を新橋演舞場で上演。 ◎日比谷公会堂でルービンシュタインのピアノ演奏会行う。 ◎忠犬ハチ公死ぬ。 ◎第一回芥川賞・直木賞発表。 ◎東京中央卸売市場完成。 ◎米国映画「ポパイ」上映され人気になる。 ◎東京発声映画製作所設立。 ◎有楽座開場。 ◎歌「平城山」「野崎小唄」「明治一代女」「二人は若い」「大江戸出世小唄」流行る

1936 ◎東京音楽学校に邦楽科設置。 ◎日劇ダンシングチーム初公演。 ◎鉄道記念館が万世橋に移転。 ◎国会議事堂完成。 ◎陸軍皇道派によるクーデター「ニ・ニ六事件」発生し翌日市内に戒厳令出る。 ◎日独防共協定(反ソ反共)締結。 ◎日本、ロンドン軍縮会議から脱退通告。 ◎東京地方54年来の大雪降る。 ◎アルマイト製弁当箱普及。 ◎女性マフラーが流行する。 ◎満州国留日学生会が発会。 ◎歌「東京ラプソディー」「忘れちゃいやよ」「ああそれなのに」「うちの女房に髭がある」「東京娘」「愛の小窓」流行る

1937 ◎東京音楽学校、ウェーバーのオペラ「魔弾の射手」を上野奏楽堂で初演。 ◎日比谷劇場で米映画「オーケストラの少女」公開。 ◎文化勲章制定。 ◎ヘレン・ケラー来日。 ◎朝日新聞社の訪欧機「神風号」出発。 ◎盧溝橋で日中戦争勃発。 ◎後楽園球場開場。 ◎日本軍が南京占領し各地で祝賀行事を行う。 ◎市バスに木炭車が出現。 ◎軍歌「露営の歌」「進軍の歌」「軍国の母」が発表される。 ◎千人袋・慰問袋が作られる。 ◎歌「人世の並木道」「タバコ屋の娘」「もしも月給が上がったら」「青い背広で」「すみだ川」「青春日記」「妻恋道中」流行る

1938 ◎日本政府が国家総動員法公布 ◎東京オリンピック中止。 ◎警視庁が盛り場でサボ学生狩り。 ◎後楽園で第一回全日本選抜スキージャンプ大会。 ◎日本青少年ドイツ派遣団出発。 ◎日比谷公会堂前広場で標準型防空壕展示される。 ◎上野に東京帝室博物館本館開場。 ◎代用品の竹製スプーン・鮫川靴・鮭皮ハンドバッグ・陶製鍋販売。 ◎日劇にエノケン一座初出演。 ◎歌「志那の夜」「雨のブルース」「上海の街角で」「旅姿三人男」流行る

1939 ◎マンフレート・グルリット来日。 ◎1月銀座に戦車が示威行進、2月軍馬行進、5月海軍軍楽隊行進。 ◎初の就職列車秋田から584人上野に到着。 ◎69連勝中の横綱双葉山が安芸の海に敗れる。 ◎NHKがテレビジョン実験放送公開。 ◎NHKで吉川英治の「宮本武蔵」徳川夢声の朗読で放送始まる。 ◎国民徴兵令を公布。 ◎ノモンハン事件発生。 ◎歌「一杯のコーヒーから」「或る雨の午後」「名月赤城山」「上海ブルース」「大利根月夜」流行る

1940 ◎「全共闘世代~1949年生まれまで」。 ◎山田耕筰、演奏家協会を発足。 ◎楽壇新体制促進同盟が結成。 ◎楽壇新体制促進同盟が結成。 ◎交響曲イ長「皇紀2600年奉祝曲」イルデブランド・ピツェッティ作曲、ガエタノ・コメリ指揮で東京初演。 ◎オペラ「夜明け(後に黒船と改題)」3幕。山田耕筰作曲初演11月25日山田耕筰指揮・演出、お吉:辻輝子、領事:藤原義江等で。( 完全版初演、2008年2月22日新国立劇場、若杉弘指揮、お吉:釜洞祐子等 )。 ◎「ゼロ戦」初出陣 ◎日独伊三国同盟締結。 ◎東京~下関間新幹線計画工事中止。 ◎隅田川に勝鬨橋が完成。 ◎国民精神総動員本部が「ぜいたくは出来ない筈だ!」の立て看板市内に配置。 ◎内務省がミス・ワカナ、ディック。ミネ等に改名を指示、カタカナのたばこも改名。 ◎市が外米6割混入の米を配給する。 ◎府が食堂・料理店等で米食使用禁止と販売時間制実施。 ◎世田谷馬事公苑開場。 ◎後楽園球場が炭焼き場、明治神宮が木炭倉庫。 ◎池袋現西武百貨店開店。 ◎ダンスホール閉鎖。 ◎歌「東京の花売り娘」「湖畔の宿」「誰か故郷を想わざる」「暁に祈る」「新妻鏡」「別れ船」「高原の旅愁」「蘇州夜曲」流行る

1941 ◎社団法人日本音楽文化協会発足。 ◎日比谷公会堂でローゼンシュトック指揮でモーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」を演奏会形式で初演、演奏、新交響楽団。 ◎御前会議で対米・英・蘭開戦を決定。 ◎12月8日日本軍は真珠湾を奇襲攻撃、マレー半島に上陸し太平洋戦争始まる。 ◎ソ連のスパイ容疑で検挙、ゾルゲ事件発生 ◎米穀の配給通帳制・外食券制を実施。 ◎防空頭巾・モンペ・ゲートルの服装が増える。 ◎8日と28日肉なし日実施。 ◎歌「めんこい仔馬」「十三夜」「そうだその意気」「先陣訓の歌」流行る

1942 ◎藤原歌劇団が歌舞伎座でグノーのオペラ「ファースト」を上演、同劇団マンフレッド・グルリット指揮でワーグナのオペラ「ローエングリン」歌舞伎座で初演。  ◎東京初空襲。 ◎ミッドウェー海戦で日本海軍大敗し制海権を失う。 ◎関門トンネル竣工。 ◎ガダルカナル島の日本軍全滅。 ◎麹町等に結婚相談所開設される。 ◎標語「欲しがりません勝つまでは」流行る。 ◎府美術館で第一回大東亜戦争美術展開催。 ◎北原白秋没。 ◎歌「朝だ元気で」「月月火水木金金」「空の神兵」「湯島の白梅」「新雪」「鈴影の道」流行る

1943 ◎藤原歌劇団が歌舞伎座でマンフレッド・グルリッド指揮でベートーヴェンのオペラ」フィデリオ」日本初演。 ◎アッツ島サイパン島等等で日本軍「玉砕」相次ぐ。 ◎学徒出陣(兵力不足を補う為在学途中で徴兵出兵した)。 ◎陸軍省が決戦標語「撃ちてし止まむ」ポスター配布。 ◎東京都制施行。 ◎麹町区で初の女子勤労挺身隊結成。 ◎神宮外苑競技場で出陣する学徒壮行大会行う。 ◎英語名の締め出し強化される。 ◎後楽園球場の鉄製椅子供出。 ◎歌「荒鷲の歌」「加藤隼戦闘隊」「お使いは自転車に乗って」「南から南から」「勘太郎月夜唄」流行る

1944 ◎米軍爆撃機による日本本土への本格的空襲が始まる。 ◎東条内閣総辞職。  ◎サイパン島上陸。 ◎初の疎開命令実施する。 ◎レイテ沖海戦。 ◎学童集団疎開第一陣上野を出発。 ◎東条英機内閣総辞職。 ◎都が百貨店等を利用して雑炊食堂開設。 ◎歌「予科練」「ラバウル海軍航空隊」「同期の桜(昭和13年作)」「ラバウル小唄」流行る

1945 ◎3月10日午前0時7分米側第二号作戦でB29爆撃機279機が下町地区大空襲、同0時20分B29爆撃機46機が東京山の手地区に大空襲。一部地域では旋回機関銃による非戦闘員・民間人に機銃掃射もあった。 ◎米軍沖縄に上陸。 ◎広島・長崎に原爆投下。 ◎ソ連が日本に宣戦布告。 ◎日本ボツダム宣言受諾無条件降伏。 ◎昭和天皇ラジオで玉音放送。 ◎連合国軍最高司令官マッカーサー厚木到着。 ◎米軍ジープで東京に進駐 日比谷公会堂第一生命ビルGHQが接収しする。 ◎戦艦ミズリー号上で降伏文書に調印。 ◎都内から買出しに出かける人1日18万人手持ちの衣服を食料にかえる「タケノコ生活」が流行る。 ◎9月9日NHKが戦後初めて歌謡曲と軽音楽放送。 ◎文部省が黒塗り教科書登場。 ◎NHKがニュースの自主取材開始。 ◎「日米会話手帳」刊行。 ◎戦後初の映画「そよ風」封切り。 ◎雑誌「平凡」創刊。 ◎12月31日NHKが「紅白音楽試合」放送。 ◎歌「リンゴの歌」流行る

1946 ◎「天皇人間宣言」出される。 ◎マッカーサーがGHQ民政局に日本憲法草案作成を指示。 ◎極東軍事裁判が開廷する。 ◎農地改革始まる。 ◎第一次吉田内閣成立。 ◎極東軍事裁判首席検事キーナンが昭和天皇を戦争犯罪人にしないと言明。 ◎日本国憲法公布。 ◎アメ横商店街できる。 ◎日刊スポーツ刊行。 ◎「ラジオ体操」放送再開。 ◎日比谷の帝国劇場で東京バレエ団「白鳥の湖」初めて上演。 ◎週刊朝日がベストセラーという文字を使う。 ◎映画「はたちの青春」で初のキスシーン上演。 ◎「サザエさん」夕刊フクニチに連載。 ◎物価「白米2等10㎏20円10銭、塩1貫目2円、ビール6円(配給)、醤油1ℓ1円32銭。 ◎歌「朝はどこから」「東京の花売り娘」「かえり船」「青春のパラダイス」「みかんの花咲く丘」「悲しき竹笛」流行る

1947 ◎「団塊の世代~1949年生まれまで」。 ◎「日本国憲法」施行。 ◎第一回宝くじ発売1枚50円。 ◎都長官を都知事と改称。 ◎都23区となる。 ◎東京の山口良忠判事が栄養失調で死亡(「人を裁く裁判官の身でヤミができるか」といってヤミの商品を口にせずに栄養失調となり死ぬ)。 ◎物価「豆腐一丁1円、カレーライス1食20円。 ◎歌「夢淡き東京」「とんがり帽子」「山小屋の灯」「星の流れに」「夜のプラット・ホーム」「啼くな小鳩よ」「港が見える丘」「三日月娘」「雨のオランダ坂」「夜霧のブルース」「浅草の唄」流行る

1948 ◎極東軍事裁判の判決下る25人に有罪内7人絞首刑。 ◎帝銀事件発生。 ◎昭和電工疑獄事件で芦田内閣総辞職。 ◎隅田川の川開き復活。 ◎神田共立講堂で第一回NHKのど自慢全国コンクール優勝大会開催。 ◎有楽町にロードショー「スバル座」開場。 ◎玉川上水で太宰治心中。 ◎新宿に歌舞伎町が誕生。 ◎物価「ガソリン1L14円、はがき2円、封書3円」。 ◎歌「南の薔薇」「異国の丘」「湯の町エレジー」「憧れのハワイ航路」「東京の屋根の下」「三百六十五夜」「長﨑のザボン売り」「フランチェスカの鐘」「君待てども」「きみ忘れじのブルース」「ハバロフスク小唄」「どじょっこふなっこ」流行る

1949 ◎交響曲第1番イ調 團伊玖麿作曲NHKの懸賞募集に応募し特賞(第1位)、初演翌年日比谷公会堂、近衛秀麿指揮日本交響楽団演奏。 ◎日比谷の野外音楽堂で警視庁音楽隊がデビュー演奏。 ◎国鉄総裁下山定則が登庁中、三越本店で行方不明となり翌日常磐綾瀬駅付近で轢死体で見つかり捜査の結論出ず(下山事件)。 ◎湯川秀樹が日本人初のノーベル賞受賞。 ◎都営戸山ハイツ完成。 ◎一本1500円のサントリー角瓶発売。 ◎ビヤホール復活。 ◎中央線三鷹駅で無人電車暴走死者20人(三鷹事件)。 ◎「お年玉付き年賀はがき」発売。 ◎雑誌「冒険王」など創刊。 ◎盛り場に靴磨き少年や花売り少女が増える。 ◎物価「たばこゴールデンバッド15円、国鉄最低運賃15円、カレーライス1食80円。 ◎歌「青い山脈」「長﨑の鐘」「玄海ブルース」「月よりの使者」「イヨマンテの夜」「さくらが貝の歌」「悲しき口笛」「銀座カンカン娘」「トンコ節」「バラを召しませ」「別れのタンゴ」「夏の思い出」流行る

1950 ◎日本初のテープレコーダー発売。 ◎「しらけ世代~1964年生まれまで」。 ◎朝鮮戦争始まり日本に軍需景気をもたらす。 ◎警察予備隊(自衛隊の前身)誕生。 ◎1000円札(聖徳太子)発行。 ◎警視庁パトカー導入。 ◎後楽園球場で初ナイター。 ◎GHQによるレッドパージ始まる。 ◎新宿駅西口ターミナル完成。 ◎「スポーツニッポン」創刊。 ◎山本富士子第一回ミス日に本。 ◎映画「きけわだつみの声」封切り。 ◎自由党結成総裁吉田茂なる。 ◎黒澤明の映画「羅生門」(主演:三船敏郎)封切り、ヴェネツイア国際映画祭グランプリ受賞・アカデミー賞最優秀外国語映画賞受賞。 ◎物価「床屋60円、タクシー初乗り100円」。 ◎歌「越後獅子の唄」「白い花の咲くころ」「ダンスパーティの夜」「山のかなたに」「東京キッド」「あざみの歌」 「夜来香」「桑港のチャイナタウン」「銀座の雀」「買物ブギ」流行る

1951 ◎オペラ「夕鶴」1幕團伊玖麿作曲初演、1952年大阪・朝日会館で台本・木下順二「鶴女房」(1時間50分)。 ◎日本コロンビアが初のLPレコードを輸入発売。 ◎サンフランシスコ講和条約調印 ◎日米安全保障条約締結。 ◎警視庁に交通機動隊発足。 ◎NHKが第一回紅白歌合戦ラジオ放送。 ◎公文書が左横書きに統一。 ◎手塚治虫「アトム大使(鉄腕アトム)」少年に連載開始。 ◎プロレス力道山初めて登場する。 ◎第一回「NHK歳末たすけあい運動」行う。 ◎ラジオ東京開局「山びこ学校」反響呼ぶ。 ◎ジャズが流行る。 ◎物価「はがき5円、封書10円、国鉄最低運賃10円、アンパン10円 ◎洋画「黄色いリボン」、カラー邦画「カルメン故郷に帰る」。 ◎歌「アルプスの牧場」「私は街の子」「森の水車」「あの丘超えて」「ニコライの鐘」「ひばりの花売娘」「上海帰りのリル」「雪山讃歌」「星影の小道」「めだかの学校」「牧場の花嫁さん」「リラの花咲くころ」「高原の駅よさようなら」「越後獅子の歌」「陽気な渡り鳥」

1952 ◎アメリカによる占領終結。 ◎台湾政府と「日華平和条約」締結。 ◎皇居前広場でデモ隊と警察官衝突(メーデー事件)。 ◎青山に 初のボーリング場開場。 ◎NHKラジオドラマ「君の名は」木曜日夜8時半から放送開始。 ◎白井義雄初の世界チャンピオンになる。 ◎洋画「第三の男」「風と共に去りぬ」。 ◎歌「リンゴ追分」「丘は花ざかり」「赤いランプの終列車」「お祭マンボ」「悲しき小鳩」「芸者ワルツ」「緑の牧場」「ニコライの鐘」「あこがれの郵便馬車」「山のけむり」「あゝモンテンルパの夜は更けて」

1953 ◎吉田茂の「バカヤロー」で衆院解散。 ◎東京駅に赤色の公衆電話設置。 ◎東京駅にコインロッカー設置。 ◎NHK東京地区でテレビの本放送開始。 ◎東京青山に初のスーパー「紀ノ国屋」開店。 ◎街頭テレビ人気集める。 ◎物価「白米10㎏680円、入浴料15円、公衆電話10円」。 ◎歌「津軽のふるさと」「街のサンドイッチマン」「落葉しぐれ」「待ちましょう」「雪の降る町を」「チャペルの鐘」「ギター流し」「雨降る街角」「ぞうさん」「君の名は」「チャペルの鐘」「こんなベッピン見たことない」

1954 ◎日本ビクターがEPレコード発売。 ◎第五福竜丸事件。 ◎地下鉄丸の内線池袋~お茶の水間開通。 ◎日本航空東京~サンフランシスコ国際線開始。 ◎電気冷蔵庫・洗濯機・掃除機が三種の神器と呼ばれる。 ◎日比谷公園で第一回全日本自動車ショー開催。 ◎映画「七人の侍」「ゴジラ」封切り。 ◎歌「哀愁日記」「あなたと共に」「高原列車は行く」「ひばりのマドロスさん」「お富さん」「岸壁の母」「黒百合の歌」「雨の酒場で」「野球けん」

1955 ◎「新人類世代~1964年生まれまで」。 ◎原子力基本法成立。 ◎「広辞苑」出版。 ◎NHKテレビ衆院選開票速報放送。 ◎晴海で第一回東京国際見本市開催。 ◎国技館で戦後初の天覧大相撲。 ◎「トランジスタラジオ」発売。 ◎神武景気始まる。 ◎初の人間国宝30人指定される。 ◎後楽園遊園地開業ジェットコースター初登場。 ◎トヨタが「「クラウン」発売。 ◎ヘレン・ケラー来日。 ◎石原慎太郎「太陽の季節」で芥川賞受賞。 ◎昭和史論争起きる。 ◎ラジオ東京(TBS)がテレビ放送開始。 ◎「サンケイスポーツ」創刊。 ◎日本民主党と自由党が自由民主党を結成、社会党統一され55年体制確立。 ◎三種の神器(洗濯機・冷蔵庫・TV)。 ◎歌「この世の花」「高原の宿」「赤と黒のブルース」「別れの一本杉」「小島通いの郵便船」「ピレネエの山の男」「田舎のバスは」「南国土佐を後にして」「月がとっても青いから」「しあわせの歌」「りんどう峠」「弁天小僧」「ちさい秋見つけた」「東京アンナ」「カスバの女」「ガード下の靴みがき」「おんな船頭唄」「我が家の灯」。 ◎洋画「エデンの東」「裏窓」

1956 ◎原子力委員会設置され、初代委員長に読売新聞社主の正力松太郎就任。 ◎特殊法人日本原子力研究所設立。  ◎猪谷千春スキー回転で五輪銀メタル」。 ◎日本登山隊マナスル初登頂。 ◎メルボルンオリンピック開催。 ◎四谷に初の分譲マンション完成。 ◎売春防止法公布。 ◎「週刊新潮」創刊。 ◎第一次南極観測隊出発。 ◎日本が国際連合に加盟。 ◎NHKカラーテレビの実験局開局。 ◎「太陽族」という言葉が流行る。 ◎週刊誌ブーム起きる。 ◎新宿コマ劇場開場。 ◎大学卒初任給1万2千円。 ◎気象庁、中央気象台から改称。 ◎流行語「太陽族」「深夜喫茶」「神武景気」 ◎流行った「鉄腕アトム」「鉄人28号」「スーパーマン」「プロレスごっこ」「慎太郎刈り」。 ◎流行歌「ここに幸あり」「リンゴ村から」「東京の人」「早く帰ってコ」「若いお巡りさん」「愛ちゃんはお嫁に」「山影の道」「好きだった」「哀愁列車」「哀愁の街に霧が降る」「狂った果実」「公園の手品師」「リンゴ村から」「波止場だよ、お父つぁん」。 ◎邦楽家、宮城道雄没。 ◎歌人・詩人・彫刻家・画家、高村光太郎没。 ◎映画監督、溝口健二没

1957 ◎日本原子力発電株式会社設立。 ◎東海村原子炉点火。 ◎1月29日日本南極観測隊は設営し「昭和基地」と命名。 ◎自然公園法制定。 ◎通産省、グッドデザイン賞創設。 ◎東京の人口世界一になる。 ◎「週刊新潮」創刊。 ◎「週刊女性」創刊。 ◎FM放送実験局開局。 ◎5000円札(聖徳太子肖像)発行。 ◎東京ガスがガス自動炊飯器発売。 ◎初の百円硬貨発行。 ◎ロカビリーブーム」。 ◎流行語「三悪追放」「ストレス」「よろめき」「パートタイム」「なべ底不況」「クシャミ3回、ルル3錠」「ゲタバキ住宅」「姉妹都市」「デラックス」「低姿勢」「ケ・セラ・セラ」。 ◎流行歌「俺は待ってるぜ」「喜びも悲しみも幾歳月」「東京のバスガール」「船方さんよ」「柿の木坂の家」「夜霧の第二国道」「チャンチキおけさ」「東京だよおっ母さん」「港町十三番地」「青春サイクリング」「お月さん今晩は」「錆びたナイフ」「逢いたいなァあの人に」「踊り子」「東京見物」「東京午前三時」「雪の渡り鳥」。◎植物学者、牧野富太郎。 ◎作家、徳富蘇峰没

1958 ◎日本ビクターが国産ステレオ録音レコード発売。 ◎長嶋茂雄選手巨人軍入団。 ◎プロ野球、巨人軍の川上哲司と阪神の藤村冨美男引退。 ◎ビデオテープの国産化成功。 ◎学習指導要領改定。 ◎売春防止法施行。 ◎国民健康保険法公布。 ◎安保闘争激化。 ◎池田勇人内閣「国民所得倍増計画」発表。 ◎東京都学校給食に牛乳。 ◎関門国道トンネル開通。 ◎東京~大阪間に特急「こだま」運転開始。 ◎初の一万円札(聖徳太子)発行。 ◎東京タワー完成。 ◎「女性自身」創刊。 ◎「スバル360」発売。 ◎初のブルートレイン「あさかぜ」登場。◎「ビニール傘」登場。 ◎「粉末ジュース」発売。 ◎「チキンラーメン」発売。 ◎「団地続」「ハイティーン」「ご清潔でご誠実」「イカす」ことば流行る。 ◎フラフープ流行。 ◎ロカビリーブーム起こる。 ◎映画「楢山節考」「私は貝になりたい」 ◎テレビ「事件記者」「バス通り裏」「月光仮面」スタート、「赤胴鈴之助」人気。 ◎吉永小百合デビュー。 「◎歌「夕焼けとんび」「無法松の一生」「おーい中村君」「からたち日記」「嵐を呼ぶ男」「こいさんのラブ・コール」「星は何でも知っている」「母さんの歌」「花笠道中」「有楽町で逢いましょう」「銀座九丁目は水の上」「「泣かないで」「だから言ったじゃないの」「赤い夕陽の故郷」流行る。 ◎日本画家、横山大観没

1959 ◎国民年金法制定。 ◎皇太子明仁親王と正田美智子さんが結婚。 ◎伊勢湾台風潮岬に上陸し愛知県・三重県等に死者4,697名、行方不明401名、負傷者38,921名。 ◎地下鉄丸ノ内線新宿~池袋間全通。 ◎オリンピック東京開催決定。 ◎後楽園で初の天覧試合(巨人・阪神戦)。 ◎NHK教育テレビ開局。 ◎日本教育テレビ(現テレビ朝日)開局。 ◎フジテレビ開局。 ◎学童通学路に緑のおばさん登場。 ◎中央線の車体オレンジ色で登場。 ◎国立西洋美術館開館。 ◎個人タクシー営業許可。 東芝が国産初のカラーテレビ製造。 ◎日産ブルーバード発売。 ◎児島明子、第八回ミスユニバース世界大会で優勝し栄冠を獲得。 ◎王貞治、巨人軍に入団。 ◎週刊文春創刊。 ◎ミッチーブーム。 ◎邦画「人間の条件」。 ◎流行語「消費は美徳」「カミナリ族」「およびでない」「三当四落」「キャリアガール」「タフガイ」「がめつい奴」。 ◎歌「黒い花びら」「人生劇場」「古城」「山の吊橋」「南国土佐を後にして」「僕はないちっち」「がんばろう」「浅草姉妹」「黄色いさくらんぼ」「東京ナイトクラブ」「ギターを持った渡り鳥」「心の窓に灯火を」「雪山讃歌」流行る。 ◎芸術家、北小路魯山人没。 ◎作家、永井荷風没。 ◎俳人、高浜虚子没。 ◎実業家、東京急行電鉄創業者の五島慶太没

1960 ◎安保反対運動全国で580万人参加、全学連国会突入で警官隊と衝突し東大生樺美智子さん死亡。 ◎日米安全保障条約締結。◎ローマオリンピック開催。 ◎カラーテレビ本放送開始。 ◎ソニーが世界初のトランジスタテレビ発売0。 ◎即席ラーメン、インスタントコーヒー登場。 ◎たばこハイライト発売。 ◎アニメCM「カステラ一番」など登場。 ◎社会党委員長浅沼稲次郎演説中に刺殺される。 ◎流行語「声なき声」「所得倍増」「ナンセンス」「「カステラ一番、電話は二番」「ラバイバル」「全学連」「家付き・カー付き・ババ抜き」。 ◎流行「ダッコちゃん人形」。 ◎レジャーブーム。 ◎スキーブーム。 ◎歌「誰よりも君を愛す」「しれとこ旅情」「月の法善寺横丁」「アカシアの雨が止む時」「潮来笠」「達者でナ」「潮来花嫁さん」「再会」「哀愁波止場」「山男の歌」「さすらい」「一本刀土俵入り」「有難や節」流行る

1961 ◎都庁が時差出勤実施。 ◎警視庁に交通情報センター発足。 ◎伊豆急行開業。 ◎多摩テック開園。 ◎大阪環状線全通。 ◎北陸トンネル開通。 ◎全国一斉学力テスト。 コカ・コーラ輸入自由化。 ◎日赤が愛の献血運動スタート。 ◎NHK朝の連続テレビ小説開始。 ◎上野に東京文化会館完成。 ◎「シームレスストッキング」発売。 ◎「アンネナプキン」発売。 ◎NHK「みんなのうた」放送開始。 ◎TBS「七人の刑事」スタート。 ◎うたごえ喫茶が流行る。 ◎流行語9「地球は青かった」「巨人・大鵬・玉子焼き」「不快指数」「トサカにくる」「交通戦争」「現代っ子」「東洋の魔女」「プライバシー」「わかっちゃいるけどやめられない」。 ◎歌「君恋し」「銀座の恋の物語」「上を向いて歩こう」「王将」襟裳岬」「北帰行」「硝子のジョニー」「惜別の歌」「北上夜曲」「武田節」「ソーラン渡り鳥」「湖愁」「恋しているんだもン」「スーダラ節」「川は流れる」「おひまなら来てよね」「惚れたって駄目ヨ」流行る。 ◎赤木圭一郎没

1962 ◎ベルリン・ドイツ・オペラ引越し公演で初来日(コーラス・オーケストラを含む総勢300人以上の大所帯は日本で初めて)。 ◎東京都世界初一千万人都市。 ◎戦後初国産旅客機YS-11誕生。 ◎堀江謙一日本人初小形ヨっと太平洋横断成功。 ◎築地に国立がんセンター開設。 ◎地下鉄日比谷線北千住~人形町間開通。 ◎警備会社登場。 ◎首都高京橋~芝浦間開通。 ◎富士ゼロックス「電子複写機」完成。 ◎サリドマイド児問題。 ◎テレビ「てなもんや三度笠」スタート。 ◎まんが「おそ松くん」週刊少年サンデー連載始まる。◎ビアーガーデン流行る。 ◎P流行語「青田買い」「無責任時代」「スカッとさわやか」「カッコいい」「関係ない」「バッチリ」「総会屋」「流通革命」。 ◎歌「いつでも夢を」「赤いハンカチ」「若いふたり」「ひばりの佐渡情話」「遠くへ行きたい」「下町の太陽」「琵琶湖周航の歌」「山男の歌」「寒い朝」「星屑の街」「あいつ」「恋は神代の昔から」「江梨子」「霧子のタンゴ」「島育ち」流行る。 ◎民俗学者、柳田國男没。 ◎作家、吉川英治没。 ◎詩人、室生犀星没。 ◎映画俳優、大河内傅次郎没

1963 ◎78回転レコードのミッション終了。 ◎ミロのビーナス日本初公開。 ◎東海村で日本初の原子力発電行われる。◎クロヨン・ダム完成。 ◎台東区で幼児誘拐殺人事件発生。 ◎サントリービール発売。 ◎米の新新種「ささにしき」開発。 ◎三菱電機が週休二日制(隔週)導入。 ◎BGからOLへ。 ◎テレビでアニメ「鉄腕アトム」放映。 ◎共働き夫婦増え「カギッコ」登場。 ◎ボーリングブーム。 ◎八丈島で航空機山腹に激突し9人死亡。 ◎洋画「アラビアのロレンス」公開。 ◎アニメ「鉄腕アトム」フジテレビ系で放送。 「エイトマン」TBSで放送。 ◎流行語「バカンス」「シェー」「ハッツスル」「なんであるアイデアル」「かもね」「マイカー」「キビシーイ」「いいからいいから」「ちーとも知らなかった」「鍵っ子」「お呼びでない」「クチコミ」。 ◎歌「こんにちは赤ちゃん」「長崎の女」「見上げてごらん夜の星を」「高校三年生」「恋のバカンス」「島のブルース」「美しい十代」「学園広場」「おもちゃのチャチャチャ」「夕陽の丘」「エリカの花散るとき」「浪曲子守唄」「東京五輪音頭」「星空に両手を」「哀愁出船」「出世街道」。 ◎大相撲力士・プロレスラー、力道山没。 ◎映画監督、小津安二郎没

1964 ◎戦後初の海外渡航自由化。 ◎東京オリンピック開催。 ◎東海道新幹線開業。 ◎新宿ステーションビル完成。 ◎東京モノレール(浜松町~羽田空港間営業開始。 ◎「オバケのQ太郎」少年さンデーに連載開始。 ◎NHKテレビでカラー人形劇「ひょっこりひょうたん島」放映開始。 ◎8月国立代々木木競技場完成。 ◎富士山レーダー完成。 ◎山形空港開港。 ◎9月国立代々木屋内総合競技場完成。 ◎日本武道館開館。 ◎琵琶湖大橋開通。 ◎国産初の電卓登場。 ◎東京12チャンネル(現テレビ東京)開局。 ◎「題名のない音楽会」放送開始。 ◎屋上ビヤガーデン流行る。 ◎公明党発足。 ◎都はるみ「困るのことヨ」で歌手デビュー。 ◎流行語「ウルトラC」「金の卵」「いいと思うよ」「ノースリーブ」「T・P・O」。◎流行「みゆき族」「ワッペンブーム」「レンタカーブーム」◎歌「柔」「愛と死をみつめて」「アンコ椿は恋の花」「あゝ上野駅」「東京の灯よいつまでも」「幸せなら手をたたこう」「お座敷小唄」「明日があるさ」「君だけを」「忘れな草をあなたに」「おんなの宿」「手のひらを太陽に」「新妻に捧げる歌」「東京ブルース」「ウナ・セラ・ディ東京」「まつのき小唄」「夜明けのうた」「アンコ椿は恋の花」。 ◎詩人・作家、佐藤春夫没。 ◎映画俳優、佐田啓二没。 ◎詩人、三好達治没

1965 ◎「バブル世代~1969年生まれまで」。 ◎スモッグ警報開始。◎機動隊誕生。 ◎名神高速道路全線開通。 ◎日本国連安保非常任理事国。 ◎都議会が満場一致で解散議決。 ◎都議会社会党第一党に躍進。 ◎大相撲部屋別総当り制になる。 ◎実業団サッカーリーグ発足。 ◎プロ野球第一回ドラフト会議開催。 ◎朝永振一郎ノーベル物理学賞受賞。 ◎日テレ「11PM」放送開始。 ◎家庭用電子レンジ発売。 ◎2ドア式冷凍冷蔵庫登場。 ◎8ミリカメラ発売。 ◎イリオモテヤマネコの発見。 ◎松下電器完全週休二日制導入。 ◎ボーリング場大盛況。 ◎ミニスカート流行る。 ◎エレキブーム。 ◎TV「青春とはなんだ」。 ◎流行語「公害」「私にも写せます」「「マジメ人間」「よろめきドラマ」「シゴキ」。 ◎歌「君といつまでも」「赤いグラス」「知りたくないの」「愛して愛して愛しちゃったのよ」「涙くんさよなら」「涙の連絡船」「函館の女」」「二人の世界」「女の意地」」「学生時代」「旅人よ」「ふるさとのはなしをしよう」「さよならはダンスの後に」「網走番外地」「女ひとり」「帰ろかな」。 ◎作家、谷崎潤一郎没。 ◎作曲家、山田耕筰没。 ◎作家、高見順没。 ◎作家、江戸川乱歩没。

1966 ◎人口一億人突破。 ◎「建国記念の日2月11日」制定。 ◎「9月15日敬老の日」制定。 ◎日韓国交正常化。 ◎全日空札幌発東京行き便東京湾に墜落し全員死亡。 ◎トヨタカローラ発売。 ◎「日産サニー発売。 ◎テフロン加工鍋やフライパン発売。 ◎百円札廃止。 ◎ザ・ビートルズ来日。 ◎「巨人の星」少年マガジンに連載始まる。 ◎TBSテレビ「ウルトラマンシリーズ」日曜午後7時から放映開始。 ◎国立劇場開場。 ◎TV「おはなはん」「笑点」放送開始。 ◎新三種の神器「カラーTV・クーラー・カー」 ◎流行語「黒い霧」「びっくりしたなぁ、もう」「どったの?」◎歌「霧氷」「君といつまでも」「柳ヶ瀬ブルース」「悲しい酒」「真実一路」「若者たち」「今日の日はさよなら」「星影のワルツ」「お嫁においで」「いっぽんどっこの唄」「骨まで愛して」「ラブユー東京」「こまっちゃうナ」。 ◎元慶應義塾塾長・皇太子明仁親王教育責任者、小泉信三没

1967 ◎大阪で「日本万国博覧会」開催。 ◎モントリオールオリンピック開催。 ◎公害病に対し、公害対策基本法が制定。 ◎東京都知事に社共推薦の美濃部亮吉当選。 ◎中央線東京~高尾間の特別快速運転開始。 ◎都立高校の入試で学校群制度。 ◎ビン・缶入り生ビール製造開始。 ◎新宿にフーテン族登場。 ◎都電、銀座線など廃止。 ◎立食いそばなど人気出る。 ◎ミニスカート流行る。  ◎マンガ「ルパン三世」WEEKLY漫画アクションに連載。 ◎流行語「蒸発」「大きいことはいいことだ」。 ◎歌「ブルー・シャトウ」「夜霧よ今夜も有難う」「真赤な太陽」「芸道一代」「君こそわが命」「三百六十五歩もマーチ」「小指の想い出」「この広い野原いっぱい」。 ◎前首相、吉田茂没。 ◎作家、山本周五郎没。 ◎作家、壺井栄没

1968 ◎超高層ビル「霞が関ビル」完成。 ◎小笠原諸島日本に復帰。 ◎メキシコオリンピック開催。 ◎日本初心臓移植手術◎ポケットベル」サービス開始。 ◎明治100年記念式典開催。 ◎府中市で白バイ警官になりすました男に3億円略奪される。 ◎マラソン円谷幸吉選手自殺。 ◎川端康成ノーベル文学賞受賞。 ◎在日韓国人二世の金嬉老が寸又峡旅館に人質13人をとり籠城。 ◎イタイイタイ病公害認定。 ◎文化庁発足。 ◎東大安田講堂に占拠の学生に機動隊導入。 ◎「交通反則通告制度」スタート。 ◎郵便番号制度実施。 ◎レトルト食品(ボンカレー)登場。 ◎邦画「黒部の太陽」公開。 ◎洋画「俺たちに明日はない」「2001年宇宙の旅」公開。 ◎アニメ「巨人の星」「ゲゲゲの鬼太郎」放送開始。 ◎流行語「昭和元禄」「タレント議員」「ハト派タカ派」。 ◎歌「伊勢佐木町ブルース」「ブルーライト・ヨコハマ」「好きななった人」「亜麻色の髪の乙女」「恋の季節」「小さなスナック」「ゆうべの秘密」「新宿そだち」「小樽のひとよ」。 ◎元横綱、双葉山没。 ◎東京オリンピックマラソン選手・自衛官、円谷幸吉没

1969 ◎宇宙開発事業団発足。 ◎NHKFM放送開始。 ◎八幡製鉄と富士製鉄が合併調印。 ◎東大入試中止。 ◎カネミ油症事件発生。 ◎前年から東大安田講堂を占拠している学生を警視庁機動隊員8500人を出動させ排除。 ◎東名高速大井松田~御殿場間開通により全線開通。 ◎美濃部都知事が公営ギャンブル廃止を声明。 ◎東京駅八重洲地下街完成。 ◎「夕刊フジ」創刊。 ◎自主流通米制度導入。 ◎東京、大阪にプッシュホン登場。 ◎東京国立近代美術館開館。 ◎日本記者クラブ結成。 ◎玉川高島屋開店。 ◎2ドア冷蔵庫登場。 ◎冷凍食品出まわる。 ◎「ニッサン・フェアレディ」発表  ◎「コント55」有名になる。  ◎マンガ「ドラえもん」小学館雑誌に連載始まる。 ◎流行語「あっと驚くタメゴロー」「はっぱふみふみ」 「エコノミック・アニマル」。 ◎山田洋二監督「男はつらいよ」シリーズ第一作公開。 ◎邦画「風林火山」公開。 ◎TBS「水戸黄門」放送開始。 ◎フジTBアニメ「サザエさん」「ムーミン」「ハックション大魔王」「アタックNO。1」放送開始。NET系TV「「秘密のアッコちゃん」放送開始。 ◎TBSドラマ「サインはV」放送開始。 NHK ◎大河ドラマ「天と地と」始まる。 ◎TB放送「8時だヨ!全員集合」。 ◎「鬼平犯科帳」人気番組になる。 ◎歌「いいじゃないの幸せならば」「人形の家」「白いブランコ」「白い色は恋人の色」「真夜中のギター」「夜明けのスキャット」「黒猫のタンゴ」「長﨑は今日も雨だった」「風」。 ◎歌舞伎役者、市川雷蔵没。  ◎実業家・読売新聞社主、正力松太郎没
 
1970 ◎「氷河世代~1982年生まれまで」。  ◎日本の呼称を「ニッポン」統一。 ◎松浦輝夫と植村直己がエベレスト日本人初登頂。 ◎沖縄、本土復帰、沖縄県誕生。 ◎初の人工衛星「おおすみ」打上げ成功。 ◎大阪万国博覧会開催。 ◎日航機ヨド号ハイジャック事件。 ◎杉並区で光化学スモッグ。 ◎三島由紀夫と盾の会、市谷の自衛隊東部方面総監部」に乱入しクーデターを唱えるも失敗し割腹自殺する。 ◎プッシュホン登場。 ◎赤電話料金3分10円。 ◎東京で不幸の手紙流行る。 ◎赤い郵便ポスト製造中止。 ◎人形町「末廣亭」経営難で閉鎖。 ◎FM東京開局。 ◎銀座、新宿、池袋、浅草で日曜歩行者天国実施。 ◎すかいらーく1号店(府中市国立店)開店。  ◎ケンタッキー・フライド・チキン店(名古屋)開店。 ◎電子ジャー発売。 ◎永谷園「さけ茶づけ」発売。 ◎缶コーヒ(UCC)発売。  ◎イザヤ・ベンダサン(山本七平)著作とされる「日本人とユダヤ人」話題になる。 ◎流行語「男は黙って」「スキンシップ」「外食元年」「ハイジャック」。 ◎歌「人生一路」「今日でお別れ」「ドリフのズンドコ節」「長﨑の夜はむらさき」「男と女のお話」。 ◎評論家、大宅壮一没。 ◎映画俳優、月形龍之介没。 ◎喜劇俳優、榎本健一没

1971 ◎「団塊ジュニア世代~1974年生まれまで」。  ◎環境庁発足。 ◎沖縄返還協定調印。 ◎多摩ニュータウン入居開始。 ◎テレビ通販ブーム。 ◎日本マクドナルド銀座三越に1号店オーペン。 ◎ミスタードーナツ1号店開店。  ◎ロイヤルホスト1号店開店。 ◎TB「カメンライダー」放送開始。 ◎TBのボーリング番組人気出る。 ◎大久保清事件。 ◎日清食品カップヌードル発売。  ◎リモコン式TV登場。 ◎「NHKTV総カラー化。  ◎大映倒産。   ◎ホットパンツ流行る。  ◎ボーリングブーム。 TVアニメ「ルパン三世」日本テレビから放送。 ◎流行語「がんばらなくっちゃ」「ニアミス」「フィーリング」「脱サラ」「しらけ」「落ちこぼれ」。 ◎歌「また逢う日まで」「知床旅情」「わたしの城下町」「花嫁」「雨が止んだら」「翼をください」「あの素晴らしい愛をもう一度」「誰もいない海」「おふくろさん」「雨の御堂筋」「よこはま・たそがれ」。  ◎作家、志賀直哉没。  ◎画家、山下清没。  ◎マルチタレント、徳川夢声没。  ◎女性解放運動家、平塚らいてう没。  ◎アイヌ語研究の創始者・民俗学者、金田一京助没

1972 ◎沖縄返還実現、沖縄県誕生。 ◎日中国交正常化。 ◎札幌冬季オリンピック開催。  ◎ミュンヘンオリンピック開催。 ◎第一次オイルショック(中東戦争が勃発し湾岸産油国が原油価格を5.12ドルから11.65ドルへ引上げ決定により発生)。 ◎筑波研究学園都市への移転が始まる。 ◎東京地下駅が完成し総武地下新線の東京~錦糸町間開通。東京~千葉間快速電車運転開始。 ◎グアム島で元日本兵横井正一さん発見、31年ぶりに帰国。 ◎川端康成逗子の自宅でガス自殺を図る。  ◎連合赤軍による軽井沢浅間山荘事件発生。 ◎奈良、高松塚古墳発掘。 ◎大阪千日でパート火災。 ◎田中角栄「日本列島改造論」発売。 ◎東洋一高島平団地誕生。 ◎中国からパンダ2頭が上野公園に。 ◎ロッテリア一号店上野松坂屋にオープン。  ◎「初心者マーク」。 ◎マンガ「マジンガーZ」週刊ジャンプで連載、アニメ動画、フジテレビで放送開始。 ◎アニメ「デビルマン」NET系で放送開始。 ◎流行語「恍惚」「ヘンシーン」「「恥ずかしながら」「あっしにはかかわりのないことでござんす」。 ◎TVドラマ「太陽にほえろ」日本テレビ系で放送開始。 ◎洋画「ゴットファーザー」「死刑台のエレベーター」「フレンチコネクション」公開。 ◎歌「喝采」「瀬戸の花嫁」「学生街の喫茶店」「せんせい」「出発の歌」「おまえに」「そして神戸」「女のみち」。 ◎作家、川端康成没。 ◎歌手、東海林太郎没。 ◎落語家、柳家金語楼没

1973 ◎オペラ「金閣寺」3幕黛 敏郎作曲世界初演1976年6月ベルリン・ドイツ・オペラ。日本初演1991年(1時間50分)。 ◎円」変動相場制に移行。 ◎都営ギャンブル全廃 ◎変動為替相場制へ移行。 ◎第四次中東戦争により第一次石油ショック起こる。 ◎韓国前大統領金大中氏東京のホテルで行方不明。 ◎江崎玲於奈、ノーベル物理学賞受賞。 ◎筑波大学開学。 ◎江東区議会で杉並区のゴミを夢の島へ搬入することを拒否。 ◎築地中央卸売市場に入荷の魚から高濃度の水銀やPCBが検出。 ◎中央線特別快速にシルバーシート登場。 ◎太陽銀行と神戸銀行が合併 京成電鉄が上野~成田空港間に「スカイライナー」運転開始。 ◎石油ショックでガソリン、トイレットペーパ不足が起きスーパーに買いだめ客殺到。 ◎熊本、大洋デパート火災。 ◎NTTファックスの営業開始。 ◎ファミリーマート実験1号店開店。 ◎セブンイレブン設立。 ◎山口百恵デビュー。 ◎洋画「ジャッカルの日」「ポセイドン・アドベンチャー」公開。 ◎流行語「日本沈没」「3分間待つのだぞー」「じっとがまんの子であった」「ちょっとだけよ」「オイルショック」。 ◎歌「夜空」「あなた(16歳の小坂明子作詞・作曲のこの歌が世界歌謡祭で最優秀賞・グランプリ獲得)」「赤い風船」「神田川」「みずいろの手紙(あべ静江)」「心の旅(チューリップ)」「てんとう虫のサンバ」。 ◎サトウハチロー没。 作家、大佛次郎没。

1974 ◎ルパング島から元日本兵小野田寛郎少尉帰国。 ◎丸の内で三菱重工ビルで爆破事件起こり連続企業爆破が続。く ◎佐藤栄作前首相がノーベル平和賞受賞。 ◎日本医大の丸山千里が丸山ワクチンを発表。 ◎船の科学館開館。 ◎モナリザ展人気。 ◎巨人長嶋茂雄選手引退。 ◎台風16号で多摩川決壊。 ◎セブンイレブン一号店江東区で開店。 ◎デニーズ一号店、神奈川県の上大岡で開店。 ◎新宿に「朝日カルチャーセンター」開設。 ◎NHKTV「ニュースセンター9時」放送開始。 ◎東京教育大閉学にともない筑波大開講。 ◎志村けん、ドリフターズ加入。 ◎ハローキティ誕生。 ◎東京宝塚劇場で「ベルサイユのばら」大ヒット。 ◎アニメ「アルプスの少女ハイジ」放送開始。 ◎アニメ「宇宙戦艦ヤマト」日本テレビ網で放送開始。 ◎流行語「狂乱物価」「暴走族」「ノストラダムスの予言」「我が巨人軍は永遠に不滅です」。 ◎幸福駅ブーム。 ◎超能力ブーム。 ◎オセロゲーム流行る。 ◎歌「襟裳岬」「なごり雪」「空港(テレサ・テン)」「うそ」「ふれあい」「くちなしの花」「岬めぐり」「二人でお酒を」「なみだ恋」「精霊流し」。 ◎作家、山本有三没

1975 ◎「ポスト団塊ジュニア世代~1984年生まれまで」。 ◎沖縄海洋博開催。 ◎ビデオ、ベータ方式・VHS方式発売。 ◎PCM(パルス符号変調)録音方式へ。 ◎山陽新幹線博多まで開通。 ◎エリザベス女王夫妻来日。 ◎天皇皇后両陛下初の訪米。 ◎日本女子登山隊が女性初のエベレスト登頂に成功。 ◎日本赤軍クアラルンプールで米大使館占拠し日本政府に過激派者釈放を要求。 ◎公衆電話にプッシュホン登場。 ◎警視庁に要人警護隊SP発足。 ◎9月13日東京で連続13日間30℃を越え気象庁観測開始以来の最長残暑日数を記録。 ◎警視庁が環七以内の地域を全面駐車禁止とする。 ◎ローソン一号店大阪に開店。 ◎100円ライター発売。 ◎学習塾ブーム。 ◎ロングブーツ流行る。 ◎アニメ「一休さん」NET系で放送開始。 ◎アニメ「まんが日本昔ばなし」当初はテレビ朝日系、その後TBS系で放送。 ◎流行語「ちかれたびー」「おじゃま虫」「私つくる人、ぼく食べる人」「ひと味違います」。 ◎邦画「新幹線爆破」公開。 ◎洋画「ジョーズ」公開。 ◎歌「北の宿から」「千曲川」「シクラメンのかほり」「昭和枯れすすき」「なごり雪」「想い出まくら(小坂恭子・歌・作詞・作曲)」「木綿のハンカチーフ」。 ◎佐藤栄作前首相没。 ◎版画家、棟方志功没。 

1976 ◎NHK「名曲アルバム」放送開始。 ◎ロッキード事件 全日空若狭社長・丸紅檜山前会長・田中角栄前首相等が逮捕される。 ◎ソ連ミグ25戦闘機が函館空港に強行着陸しパイロットは米国に亡命。 ◎モントリオールオリンピック開催。 ◎河野洋平自民党離党し新自由クラブ結成。 ◎実用宇宙衛星「うめ」打上げ成功。 ◎植村直己、北極圏単独犬ゾリで横断する。 ◎現テレビ朝日で「徹子の部屋」放送開始。 ◎後楽園球場人工芝になる。 ◎総武線東京~品川間の地下線開通し総武線と横須賀線の直通運転が始まる。 ◎1等1000万円宝くじ40本発売客が売場に殺到。 ◎はがき20円、封書50円。 ◎「ピンク・レディ」デビュー。 ◎できたて弁当の店登場。 ◎「ビクターVHSビデオ」発売。 ◎クラリオン「カラオケ」新発売。 ◎日清焼きそばU.F.O発売。 ◎サイゼリヤ一号店市川に開店。 ◎北海道石屋製菓「白い恋人」発売。  ◎アニメ「母たずねて三千里」フジテレビ系で放送開始。 ◎邦画「不毛地帯」「犬神家の一族」公開。 ◎流行語「どっちが得か、よーく考えてみよう」「記憶にございません」。 「灰色高官」「限りなく透明に近いブルー」「オヨヨ(桂三枝のギャグ)」。 ◎歌「北の宿から」「およげ!たいやきくん」「四季の歌」「山口さんちのツトム君」「嫁に来ないか」「青春時代」「酒と泪と男と女(河島英五作詞・作曲)」「わかってください(因幡晃作詞・作曲)」「津軽海峡冬景色」。 ◎オペラ歌手、藤原義江没。 ◎作家・画家の武者小路実篤、東京狛江市で没。 ◎作家、檀一雄没

1977 ◎大学入試センター発足。 ◎初の静止衛星「ひまわり」米国ケネディ宇宙センターから打上げ。 ◎静止衛星「きく2号」種子島宇宙センターから打ち上げ。 ◎日本赤軍日航機をハイジャックしダッカ空港で同志の釈放と身代金要求。 ◎北海道、有珠山噴火 ◎王貞治通産756号本塁打世界新記録達成、初の国民栄誉賞受賞 ◎文部省が「君が代」を国歌と認定。 ◎米軍立川基地全面返還。 ◎バースナックでカラオケが流行る。 ◎夏目雅子女優デビュー。 ◎邦画「幸福な黄色いハンカチ」「八甲田山」公開。 ◎流行語「知的生活」「ワンパターン」「窓際族」「翔んでる」「ルーツ」「たたりじゃー」。 ◎歌「あずさ2号」「勝手にしやがれ(歌沢田研二)」「北国の春」「愛の終着駅」「秋桜」「宇宙戦艦ヤマト」「すきま風」「思秋期(岩崎宏美歌)」。 ◎画家、前田青邨没。 ◎元プロ野球監督・野球解説者、小西得郎没。 ◎女優、田中絹代没
 
1978 ◎初の国産発電原子炉「ふげん」送電開始。 ◎成田に新東京国際空港開港。 ◎日中平和友好条約調印。 ◎原子力船「むつ」佐世保港入港。 ◎多賀城跡で漆紙文書発見。 ◎宮城県沖地震。 ◎「ネズミ講」防止法公布。 ◎第一回隅田川花火大会。 ◎植村直己日本初の単独犬ゾリで極点到達。 ◎池袋超高層ビル「サンシャイン60」完成虎の門ホールで全日本おかあさんコーラス全国大会開催。 ◎渋谷に「東急ハンズ」オープン。 ◎青木功「ゴルフ世界マッチプレー選手権」で優勝。 ◎サザンオールスターズがデビュー。 ◎キャンディーズ解散。 ◎「ホッカイロ」発売。 ◎マルちゃん「赤いきつね」発売。 ◎アニメ「銀河鉄道999」フジテレビ系で放送開始。 ◎TVドラマ「西遊記シリーズ」夏目雅子主演、日本テレビで放送開始。 ◎TVドラマ「ゆうひが丘の総理大臣」中村雅俊主演、日本テレビで放送開始。 ◎TVドラマ「白い巨塔」田宮二郎主演、フジテレビ系列放送開始。 ◎洋画「未知との遭遇」「スター・ウォーズ」公開。 ◎流行語「不確実性の時代」「嫌煙権」「円高不況」「サラ金地獄」「竹の子族」「ウザッタイ」「あんたが主役」「フィーバー」。 ◎歌「UFO」「青葉城恋唄」「岩尾別旅情」「いい日旅立ち」「みちづれ」「秋桜」。 ◎作曲家、古賀政男没。 ◎作家、山岡荘八没。 ◎元東京オリンピック女子バレーボール監督、大松博文没。 ◎俳優、田宮二郎没 

1979 ◎省エネ政策。 ◎日本惣菜協会設立(ミムロの一役員の発案が行政の窓口となる社団法人日本惣菜協会結成に導いた)。 ◎東芝「日本語ワープロ」発売。 ◎デジタル録音レコード発売。 ◎東条英機などA級戦犯14人がひそかに靖国神社に合祀されていたことが判明。 ◎東京サミット開催。◎日本坂トンネル火災事故。 ◎御嶽山噴火。 ◎元号法成立6月12日公布。 ◎第一回東京国際女子マラソン行う。 ◎国公立大学で初の共通一次試験実施。 ◎イスラム革命による第二次オイルショック起こる。 ◎奈良の茶畑で古事記の編者、太安万侶の墓発見。 ◎大阪、三菱銀行支店で猟銃強盗発生。 ◎日本電気がパソコン「PC8001」発売。 ◎ソニー「ウォークマン」発売。 ◎木曽御岳山初の噴火。 ◎自動車電話のサービス開始。 ◎リニアモーターカー実験最速517km/h 。 ◎インベーダーゲームが流行。 ◎ロボットアニメ「機動戦士ガンダム」名古屋テレビ他で放送開始。 ◎アニメ「ドラエモン二作目」放送開始、人気集める。 ◎TVドラマ「水戸黄門」最高視聴率43.7% 。 因みに「サザエさん」視聴率39.4% 。 ◎「新国劇」倒産。 ◎邦画「野麦峠」公開。 ◎洋画「ビック・ウエンズデー」公開。 ◎流行語「ウサギ小屋」「足きり」「ギャル」「ナウい」「ダサイ」「◎歌「魅せられて」「夢追い酒」「愛の水中花」「関白宣言」「贈る言葉」「異邦人(久保田早紀作詞・作曲)」「舟唄」「おやじの海」「おもいで酒」「おもえとふたり」「ラブ・イズ・オーバー」。 ◎女優、水谷八重子没。 ◎似顔絵家・風刺漫画家、近藤日出造没。 ◎挿絵画家・詩人、蕗谷虹児没。 ◎数学者、遠山啓没

1980 ◎ハプニング解散。 ◎大平正芳が急死。 ◎信仰集団「イエスの方舟(信者が家庭を捨てて共同生活、主宰者の千石をマスコミが告発した)」事件。 ◎のスクワオリンピック開催(日本不参加)。 ◎新宿西口で浮浪者風の男がバス放火事件。 ◎日本の自動車・家電、貿易摩擦日本バッシングが起こる。 ◎都銀6行がキャッシュカード現金自動支払機のオンライン提携を開始。 ◎銀座の歩道に一億円入り風呂敷包み落とし物。 ◎天気予報、降水確率になる。 ◎東京で「ボケ老人支えるか家族の会」発足。 ◎異常冷夏、農産物に影響。 ◎校内暴力・家庭内暴力が急増し社会問題となる。 ◎国民の9割が中流意識。 ◎女性専門の求人情報誌「トラバーユ」創刊。 ◎都立高校の学校群制度が廃止、グループによる合同選抜方式に。 ◎TOTO「ウオシュレット(温水洗浄便座)」発売。 ◎ルービックヒューブ発売。 ◎省エネルック。 ◎ヘッドホンステレオ人気。 ◎漫才ブーム。 松田聖子デビュー。 ◎流行語「ぶりっ子」「カラスの勝手でしょ」「赤信号、みんなで渡れば怖くない」「それなりに」。 ◎歌「昴」「いい日旅立ち」「サヨナラの向こう側」「8恋人よ(五輪真弓作詞・作曲)」「大阪しぐれ」「雨の慕情」「風雪ながれ旅」「ふたり酒」「みちのくひとり旅」「恋の綱わたり」「青い珊瑚礁」。 ◎落語家の林家三平没。 ◎歌手の越路吹雪没。 ◎映画俳優、嵐寛寿郎没。 ◎数学者、桂田芳江没

1981 ◎中国残留孤児が初来日。 ◎建築基準法(新しい耐震基準)施行令改正。 ◎パイオニア、レーザーディスク発売。 ◎福井謙一、ノーベル化学賞受賞。 ◎ローマ法王初来日。 ◎神戸ポートアイランド博覧会。 ◎京都に地下鉄開通。 ◎国家公務員の60才定年制決定。 ◎大蔵省紙幣のデザイン変更、1万円札福沢諭吉、5千円札新渡戸稲造、1千円札夏目漱石に。 ◎新宿西口に都内初のカプセルホテル素泊まり3千円出現。 ◎FOCUS創刊。 ◎ノーパン喫茶流行。 ◎日劇閉鎖。 ◎科学雑誌「ニュートン」創刊。 ◎黒柳徹子「窓ぎわのトットちゃん」出版。 ◎流行語「ハチの一刺し」「粗大ごみ」「「熟年」。 ◎歌「鳳仙花」「ルビーの指環」「「北の国から(さだまさし)」 ◎ノーベル賞学者、湯川秀樹没。 詩人」翻訳家、堀口大学没。 ◎画家、谷内六郎没。 ◎俳優、芥川比呂志没。 ◎作詞家、佐伯孝夫没。 ◎作家、横溝正史没。 ◎作家、向田邦子没 。 喜劇俳優、伴淳三郎没 

1982 ◎「ミニマムライフ世代~1986年生まれまで」。 ◎ソニー、CDとプレーヤー発売。 ◎中韓両国政府が日本の歴史教科書の記述に抗議。 ◎ホテルニュージャパン火災、死者33人、負傷者27人。 ◎日本航空の福岡発東京行きDC8型機が羽田空港着陸寸前に海上に墜落し乗客24人死亡、150人が負傷、心身症の機長の逆噴射による操作。 ◎三越本店の古代ペルシャ秘宝展のほとんどが偽物と判明。 ◎東北新幹線(大宮駅~盛岡駅間)開通。 ◎上越新幹線(大宮駅~新潟駅間)開通。 ◎五百円硬貨発行。 ◎電電公社が都内70か所にカード式公衆電話を設置。 ◎テレホンカード登場。 ◎離婚が増加。 ◎1月22日文部省が全国小・中学校一斉カレーの日実施(仲間意識を共有)。 ◎テレビ番組「笑っていいとも」放映開始。 ◎ペットボトル入りソフトドリンク登場。 ◎中森明菜デビュー。 ◎ゲートボール、エアロビクスダンスが人気。 ◎流行語「ルンルン」「ぶりっ子」「積木くずし」「ネクラ」。 ◎歌「北酒場」「兄弟船」「さざんかの宿」「冬のリビエラ」「氷雨」「メダカの兄弟」3年目の浮気」。 ◎映画監督、衣笠貞之助没。 ◎プロ野球元巨人軍水原茂没。 ◎歌手、江利チエミ没

1983 ◎東京ディズニーランド開園。 ◎NHK朝の連続テレビ小説「おしん」放映開始人気。 ◎日本海中部地震発生。 ◎ロッキード裁判の元首相・田中角栄被告に懲役4年、追徴金5億円実刑判決が出る。 ◎戸塚ヨットスクール事件。 ◎パソコン、ワープロが急速に普及。 ◎ファミコンブーム。 ◎三宅島噴火。 ◎漫画「美味しんぼ」ビッグコミクスピリッツ連載開始。◎カフェバー流行る。 ◎健康食品、ビタミンブーム。 ◎洋画「E.T.」公開。 ◎流行語「いいとも!」「ドジでのろまな亀」「義理チョコ」「軽薄短小」。 ◎歌「もしも明日が(わらべ)」「春なのに」「矢切の渡し)」「釜山港へ帰れ」「浪花恋しぐれ」「お久しぶりね」。 ◎映画俳優、片岡千恵蔵没。 ◎歌人・劇作家、寺山修司没。 ◎文芸評論家、小林秀雄没。 ◎映画監督、山本薩男没。 ◎俳人、中村草田男没 

1984 ◎日本、世界一長寿国。 ◎グリコ事件の犯人「かい人21面相」森永製菓を脅迫。 ◎高円宮家創設。 ◎コアラ、多摩動物園で初公開。 ◎「コンピューターウィルス」と命名。 ◎新一万円札、五千円札、千円札発行。 ◎NHKテレビが衛星放送開始。 ◎都はるみ歌手生活一旦引退。 ◎領国国技館新設により蔵前国技館閉館。 ◎ロサンゼルスオリンピック開催。 ◎ロス疑惑騒動が始まる。 ◎世田谷区がワンルームマンション建築協定を制定。 ◎渋谷区笹塚霞商店街歩行禁煙タイム実施。 ◎チケットぴあ、サービス開始。 ◎レンタルビデオ店急増。 ◎缶酎ハイ発売。 ◎エリマキトカゲブーム。 ◎TVアニメ「北斗の拳」放送開始。 ◎流行語「くれない族」「「財テク」「私はこれで会社をやめました(禁煙パイポのCM」。 ◎歌「つぐない」「娘よ」「北ウイング」「長良川艶歌」「夫婦坂」「ワインレッドの心」「Sweet memories」」 ◎映画俳優、長谷川一夫没。 ◎プロ野球監督、三原修没。 ◎元都知事、美濃部亮吉没。 ◎歌手、霧島昇没。 「歌手、竹山逸郎没。 ◎作家、有吉佐和子没。 ◎数学者、秋月康夫没

1985 ◎東北新幹線と上越新幹線の大宮駅間~上野駅間開通。 ◎民営化により日本電信電話(NTT)、日本タバコ産業(JT)発足。 ◎日航ジャンボ機群馬県御巣鷹山に墜落し520人死亡。 ◎阪神タイガース初の日本一。 ◎関越自動車道全線開通。 ◎男女雇用機会均等法成立。 ◎ハレー彗星大接近。 ◎東京都が情報公開制度始める。 ◎都庁の新宿移転決定。 ◎全国の小・中学校で「いじめ」が横行。 ◎つくば科学博開催。 ◎両国国技館落成。 ◎流行語「パフォーマンス」「新人類」「ヤリガイ」「夕やけニャンニャン」「「イッキ!イッキ!」「円高不況」。 ◎歌「愛人」「俺ら東京さ行くだ」「熱き心に」「卒業(尾崎豊)」「そして…めぐり逢い」「恋に落ちて(小林明子)」「ミ・アモーレ(中森明菜)」。 ◎歌手、坂本九没。 ◎女優、夏目雅子没。 ◎作家、石川達三没

1986 ◎男女雇用機会均等法施行。 ◎東京サミット開催。 ◎三原山209年ぶりに大噴火島民と観光客に避難命令。 ◎天皇陛下在位60周年記念式典開催。 ◎社会党初の女性党首、土井たか子誕生。 ◎東京、四谷でアイドル歌手岡田有希子飛び降り自殺。 ◎大井競馬場で初のナイター競馬開催。 ◎地上げ屋が横行し社会問題化する。 ◎降水確率予報始まる。 ◎ドラゴンクエスト発売。 ◎おニャン子ブーム。 ◎朝シャンブーム。 ◎流行語「亭主元気で留守がいい」「やるっきゃない」「地上げ」「プッツン」「神の手」「グルメ」。 ◎歌「愛燦燦」「時の流れに身をまかせ」「雪国(吉幾三)」「命くれない」「天城越え」「無錫旅情」「美幌峠」「函館山から」「風花便り」「DESIRE・情熱」「冬のオペラグラス(新田恵利)」。 ◎画家、梅原龍三郎没。 ◎作家、石坂洋二郎没。 ◎作家、円地文子没。

1987 ◎「ゆとり世代(さとり世代)~2003年生まれまで」。 ◎携帯電話開始。 ◎バブル景気が本格化。 ◎対米貿易黒字568億ドルとなり日米貿易摩擦深刻化。 ◎アメリカが日米半導体協定違反として初の対日経済制裁を実施。 ◎国鉄民営化で「JRグループ6社」発足。 ◎利根川進がノーベル医学・生理学賞受賞。 ◎北海道広尾線廃止(幸福駅~愛国駅間切符が評判だった)」。 ◎東京都が臨海部副都心建設の開発基本構想を発表。 ◎2月9日NTT株上場され160万円で売買成立(4月22日最高額318万円)。 ◎首都高葛飾川口線開通し東北縦貫道と接続により青森間の日本縦断高速道路網完成。 ◎新電電3社が市外電話営業開始。 ◎東京株式市場前日比3836円安、下落率過去最大を記録。 ◎新潮社が初の「カセットブック」販売。 ◎アサヒスーパードラー発売。 ◎三省堂が本の宅配開始。 ◎「週刊平凡」廃刊。 ◎連合結成。 ◎独立劇団「新国劇」解散。 ◎ドラマ「ハチ公物語」。 ◎本「サラダ記念日」ベストセラー。 ◎流行語「マルサ」「だーいじょーぶだ!」「エイズ」「狂乱物価」「花キン」「フリーター」。 ◎歌「みだれ髪・塩屋崎」「海峡」「別れの予感」「愚か者」「人生いろいろ」「雪椿」。 ◎映画俳優、石原裕次郎没。 ◎映画俳優、鶴田浩二没

1988 ◎青函トンネル開通。 ◎青函連絡船廃止。 ◎瀬戸大橋開業。 ◎労働基準法一部改訂されフレックスタイム制導入。 ◎ソウルオリンピック開催。 ◎未公開株譲渡問題でリクルート事件問題化。 ◎東京圏の住宅地時価上昇率、史上最高を記録。 ◎自衛隊潜水艦「ナダシオ」と釣り船第一富士丸が衝突し釣り客30人死亡。 ◎後楽園に「東京ドーム」完成。 ◎流行語「自粛」「ぬれ落葉」「オタク」。 ◎邦画アニメ「となりのトトロ」。 ◎TVアニメ「それいけアンパンマン」日本テレビ系で放送開始。 ◎歌「乾杯」祝い酒」「パラダイス銀河」「酒よ」「M(プリンセスプリンセス)」「RUNNER 」。 ◎大正~昭和期のオペラ歌手、田谷力三没。 ◎画家、小磯良平没。 ◎作家、大岡昇平没。 ◎俳優、宇野重吉没。 ◎映画評論家、荻昌弘没。 ◎石川島重工業社長/東芝の社長会長・日経連会長歴任の実業家、土光敏夫没  

1989平成時代はじまる~
1989 ◎1月7日、昭和天皇崩御。 ◎1月8日「平成」に改元。 ◎2月24日新宿御苑で昭和天皇大喪の礼行われる。 ◎消費税3%スタート。 ◎吉野ヶ里遺跡発見。 ◎金融機関が完全週休2日制開始。 ◎横浜ベイブリッジ開通。 ◎NHK「BSアナログ放送」開始。 ◎国立大学第二次学力試験に分離・分割方式導入。 ◎邦画「黒い雨」。 ◎流行語「セクハラ」「オバタリアン」「ケジメ」「山が動いた」。 ◎歌「川の流れのように」「淋しい熱帯魚」「シングル・アゲイン」「DIAMONDS」。 ◎作曲家、芥川也寸志没。 ◎作曲家、古関裕而没。 ◎歌手、美空ひばり没。 ◎パナソニック創業者社長・発明家・実業家、松下幸之助没。 ◎作家、開高健没。 ◎歌舞伎役者、二代目尾上松緑没。 ◎漫画家、田川水泡没。 ◎漫画家、手塚治虫没

1990 ◎日本の出生率1.57。 ◎礼宮・紀子様ご成婚。 ◎皇居宮殿で天皇即位の礼行われる。 ◎秋篠宮家創設。 ◎大学入試センター試験導入。 ◎TBS秋山さん日本人初宇宙飛行。 ◎小・中学校で「日の丸」「君が代」義務化。 ◎株価暴落、バブル崩壊始まる。 ◎横綱千代の富士が前人未到の1000勝達成。 ◎水族館開館ラッシュ。 ◎テレビアニメ「ちびまる子ちゃん」人気。 ◎この頃から携帯電話の普及が進み始まる。 ◎職業安定所がハローワークに。 ◎アマチュアバンド流行る。 ◎流行語「ファジィ」「地上げ」「「アッシーくん」「バブル崩壊」「働くだけが人生か」。 ◎TVドラマ「渡る世間は鬼ばかり」TBS系で放送開始。 ◎歌「恋歌綴り」「酔歌」「愛は勝つ(KAN)」「おどるポンポコリン」「サイレント・イヴ(辛島美登里)」。 ◎指揮者、渡辺暁雄没。 ◎作曲家、浜口庫之助没。 ◎元横綱、栃錦=春日野清隆没。 ◎作家、池上正太郎没。 ◎作家、幸田文没。 ◎写真家、土門拳没。 ◎女優高峰三枝子没。 ◎アナウンサー、宮田輝没

1991 ◎モーツァルト没後200年記念にあたりモーツァルトブーム起こる。 ◎皇居で皇太子の立太子の礼が行われる。 ◎リサイクル法施行。 ◎西新宿に新都庁舎完成、総工費1570億円。 ◎雲仙普賢岳噴火大火砕流発生。 ◎湾岸戦争多国籍軍に90億ドル支援。 ◎牛肉とオレンジ自由化スタート。 ◎都銀12行、地銀61行でサンデーバンキング開始。 ◎東北・上越新幹線、東京駅~上野駅間完成で東京駅始発が実現。 ◎ドコモムーバ人気。 ◎カシオ、ネームランド発売。
◎JR自動改札機導入。 ◎金融・証券業界の損失補填等の不祥事が相次ぐ。 ◎バブルの崩壊という言葉が使われ始める。 ◎東京の市内局番、頭に「03」がつく4けたに変わる。 ◎小・中学校の指導要領が相対評価から絶対評価に替える決定。 ◎NHKハイビョジョンの試験放送開始。 ◎WOWOWが有料放送開始。 ◎オートマ車限定免許新設。 ◎10月3日「登山の日」制定。 ◎芝浦に「ジュリアナ」東京オープン。 ◎渋カジ族流行る。 ◎超ミニスカート流行る。 ◎ショートパンツ・キュロット出現。 ◎アディダススタイル流行る。 ◎紺ブレザーブーム。 ◎TVドラマ「東京ラブストーリー」。 ◎流行語「じゃあ~ありませんか」「バツイチ」「損失補填」「クレジット破産」「MOF担」「エコパッグ」「ウォーキング」「ヴァーチャルリアリティ(仮想現実)」◎歌「それが大事」「北の大地」「I LOVE YOU(尾崎豊、リリース)」「はじまりはいつも雨」「ラブ・ストーリーは突然に(小田和正)」「piece of my wish」「どんなときも」「◎作家、井上靖没。 ◎歌手、ディック・ミネ没。 ◎棋士、升田幸三没。 ◎映画監督、今井正没。 ◎映画俳優、上原謙没。 ◎本田技研工業創業者、本田宗一郎没

1992 ◎毛利宇宙飛行士宇宙へ。 ◎宮沢喜一首相訪韓し従軍慰安婦問題公式に謝罪する。 ◎湾岸戦争をきっかけにPKO協力法案成立。 ◎アルベールオリンピック開催。 ◎バルセロナオリンピック開催。 ◎東京~大阪間2時間30分「のぞみ」運転開始。 ◎東京~山形間 ミニ新幹線「つばさ」開業。 ◎厚生省が都内のエイズ感染者287人と公表。 ◎環境庁が東京の二酸化窒素濃度、神奈川、大阪とともに史上最悪と判明。 ◎法務省、不法残留外国人27万8892人と発表。 ◎国土庁が東京圏の基準地価12.7%下落と発表。 ◎都議会「暴騒音条例」成立。 ◎天皇・皇后両陛下が初めて中国を訪問。 ◎国家公務員完全週休二日制で東京都も完全土曜閉庁実施。 ◎通信衛星テレビ本放送開始。 ◎テレビ番組製作最大手の「東通」倒産。 ◎週刊誌「朝日ジャーナル」休刊。 ◎知恵遅れを知的障害に。 ◎9月12日、この日から公立学校第二土曜日休み週5日制始まる。 MD登場。 ◎カラーヘアー流行る。 ◎Tバック流行る。 ◎だぼだぼルック流行る。 ◎フレンチ・カジュアル流行る。 ◎流行語「ほめ殺し」「 就職氷河期」「セックスレス」「お立ち台」「少子社会」「サービス残業」「アンビリ」「どたキャン」「今まで生きていた中で一番幸せです」 ◎歌「白い海峡」「君がいるだけで/愛してる」「さよならGAO」「君は僕の宝物」。 ◎作曲家、いづみたく没。 ◎「サザエさん」の漫画家、長谷川町子没。 ◎作曲家、中村八大没。 ◎歌手、近江俊郎没。 ◎将棋棋士、5つの永世称号を持つ大山康晴没。 ◎作家、松本清張没。

1993 ◎皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀が皇居・宮中三殿で行われる。 ◎東京サミットが元赤坂の迎賓館で開幕。 ◎衆議院選挙で自民党過半数割れ。 ◎土井たか子が憲政史上初の女性衆議院議長に就任。 ◎日本新党の細川護熙が非自民8党派連立内閣発足し55年体制に幕。 ◎天皇・皇后両陛下が初めて沖縄訪問。 ◎世田谷の小学校の集団下痢事件でO157菌検出。 ◎東京湾のレインボーブリッジ開通。 ◎天皇・皇后両陛下が赤坂御所から吹上新御所へ移られる。 ◎法隆寺・姫路城・屋久島・白神山地が世界遺産登録。 ◎大相撲で曙が初の外国人横綱昇進。 ◎プロ野球FA制導入。 ◎Jリーグ開幕。 ◎青色レッド実用化。 ◎映画製作会社「にっかつ」倒産。 ◎流行語「イエローカード」「コギャル」「「天の声」「やらせ」「聞いてないよォ」「インターネット」「ブルセラ」「リストラ」。 ◎歌「We are the champ」「無言坂」「島唄」「負けないで」「愛を贈りたいから」。 ◎映画俳優、笠智衆没。 ◎作家、井伏鱒二没。 ◎歌手、藤山一郎没。 ◎コメディアン、ハナ肇没。 ◎元首相、田中角栄没

1994 ◎向井千秋さん日本女性初の宇宙飛行。 ◎大江健三郎がノーベル文学賞受賞。 ◎オウム真理教による松本サリン事件発生。 ◎社会党の村山富市が自民・社会・新党さきがけの3党連立内閣発足。 ◎米不足でタイ米緊急輸入。 ◎記録的猛暑。 ◎預金金利の完全自由化。 ◎関西国際空港開港。 ◎リレハンメル冬季オリンピック開催。 ◎ゆりかもめ新橋~有明間開通。 ◎気象予報士国家試験始まる。 ◎全国の警察官の制服が一斉に変わり、右腕には都道府県ごとに異なるシンボルマークが。 ◎警視庁が都内13カ所の交番・駐在所に手話できる警察官配置。 ◎都内の小・中学校の学級定員を1クラス40人に。 ◎4月19日テレビ東京系で「開運なんでも鑑定団」放送開始。 ◎ソニー「プレイステイション」発売。 ◎流行語「価格破壊」「「同情するなら金をくれ」「バリアフリー」「シングルマザー」。 ◎歌「空と君のあいだに」「春よ、来い」「おだまり」。 ◎作詞家、永六輔没。 ◎女優、音羽信子没。 ◎劇作家、飯沢匡没。 ◎作家、福田恆存没。 ◎作家、吉行淳之介没。 演出家、千田是也没 

1995 ◎阪神淡路大震災発生。 ◎オウム真理教による地下鉄サリン事件。 ◎食品衛生法改正。 ◎Windows95発売。 ◎村山首相、戦後50年にあたりアジア諸国に謝罪表明(村山談話)。 ◎警察庁の国松長官が狙撃され重傷。 ◎東京外為相場1ドル=79.75円の史上最高値。 ◎8月23日、東京で1894年以来101年ぶりの32日連続真夏日を記録。 ◎公立学校第二・第四土曜日休業。 ◎東京六大学に初の女性投手(命題のハーラー)が登板。 ◎臨海副都心と都心部を結ぶ東京臨海新交通「ゆりかもめ」開業。 ◎PHS発売。 ◎流行語「変わらなきゃ」「「だよね!」「ま、いっか」「ポア」「無党派」「パソコン通信」「ライフライン」「マインドコントロール」。 ◎歌「TOMORROW」「幸せになりたい」「君を忘れない」。 ◎作家、五味川純平没。 ◎元首相、福田赳夫没。 ◎元衆議院議員笹川良一没。 ◎エッセイスト、山口瞳没。 ◎衆議院議員、渡辺美智雄没。 歌手、テレサ・テン没。 ◎日本初の女子プロボーラー、須田加代子没

1996 ◎東京地裁がオーム真理教の破産を宣告。 ◎アトランタオリンピック開催。 ◎原爆ドーム世界遺産登録。 ◎旧三菱・東京の2銀行が合併し世界最大の大銀行、東京三菱銀行がスタート。 ◎狛江市で戦後4人目の共産党市長誕生。 ◎新宿に複合商業施設、高島屋新宿店オープン。 ◎スターバックス銀座一号店開店。 ◎白色レッド実用化。 ◎CSデジタル放送開始。 ◎羽生善治史上初の将棋7冠独占。 ◎SKD松竹歌劇団幕を下ろす。 ◎ゲーム「ポケモン」発売。 ◎邦画「Shall We ダンス?」。 ◎TVドラマ「ロングバケーション」フジテレビ系で2カ月間放送。 ◎流行語「援助交際」「ストーカー」「脳内革命」「自分で自分を褒めたい」「「プリクラ」「ベジタリアン」「おやじ狩り」。 ◎歌「神田川」「そして…めぐり逢い」「津軽平野」「北国夜曲」「あなたに逢いたくて」。 ◎画家、岡本太郎没。 ◎歌手、三橋美智也没。 ◎漫才師横山やすし没。 ◎作家、司馬遼太郎没。 ◎衆議院議員、金丸信没。 ◎女優、沢村貞子没。 ◎漫画家、藤子不二雄没。 ◎作家、遠藤周作没。 ◎元横綱柏戸剛没。 ◎映画俳優、渥美清没

1997 ◎消費税5%に引き上げ。 ◎保険医療制度改革。 ◎金融監督庁設置法と同整備法が成立。 ◎改正男女雇用機会均等法成立。 ◎臓器移植法施行。 ◎秋田新幹線開業。 ◎東京湾アクアライン開通。 ◎ヒツジ体細胞からクローンを作製。 ◎就職協定廃止。 ◎専売制度廃止。 ◎基礎年金番号導入。 ◎携帯電話SMS開始。 ◎北陸新幹線開業。 ◎JR信越本線横川~軽井沢間廃線。 ◎羽田空港、24時間運用を開始。 ◎東京駅「丸の内ビルディング」閉鎖。 ◎証券大手「山一証券」経営破綻。 ◎北海道拓殖銀行経営破綻。 ◎老舗映画館、池袋「文芸座」休館。 ◎柴又に寅さん記念館開館。 ◎「たまごっち」大ブーム。 ◎TVドラマ「踊る走査線」放送。 ◎流行語「金融危機」「パパラッチ」「ハマる」「学級崩壊」「失楽園」。◎歌「慕情」「硝子の少年」「哀愁平野」「たてがみ」「However」「夫婦みち」「幸せ」「さとうきび畑」「「涙唱」「ばらのオルゴール」「人形おもちゃ」「White Love」。 ◎作曲家、黛敏郎没。 ◎ソニー創業者の一人・電子技術者・実業家、井深大没。 ◎作家、藤沢周平没。 ◎俳優、萬屋錦之介没。 ◎女優、杉村春子没。 ◎映画俳優、勝新太郎没。 ◎実業家、江戸英雄没。◎映画俳優、三船敏郎没

1998 ◎日本平均世帯人員2.81人。 ◎Windows98発売。 ◎大規模小売店舗立地法と中心市街地活性化法成立。 ◎厚生省、保母の名称を保育士に変更。 ◎中央省庁改革基本法成立。 ◎都内23区のホームレス急増し4千人を突破。 ◎第18回冬季オリンピックが長野で開幕。 ◎改正学校教育法が成立し公立校でも中高一貫教育が可能になる。 ◎明石海峡大橋開通。 ◎農産物ダイオキシン汚染問題。 ◎中央公論社が読売新聞社の傘下に入る。 ◎和歌山毒入りカレー事件発生。 ◎シースルーファッション流行る。 ◎流行語「だっちゅーの」「貸し渋り」「キレる」「ひきこもり」。 ◎歌「今あなたにうたいたい」「根っこ」「夜空ノムコウ」「「別れの旅路」「冬鴎」「竹とんぼ」「風といっしょに」「北緯五十度」「Can you celebrate 」。 ◎漫画家、石ノ森章太郎没。 ◎歌謡作曲家、吉田正没。 ◎元プロ野球選手、村山実没。 ◎映画監督、黒澤明没。 ◎映画解説者、淀川長治没。 ◎映画監督、木下恵介没

1999 ◎日本65才以上2千万人超。 ◎東海村臨界事故。 ◎日銀ゼロ金利政策。 ◎NTT分割。 ◎東京都情報公開条例公布。 ◎都知事選で石原慎太郎が自民等各党の推薦候補を破り初当選。 ◎中央省庁再編関連法と地方自治体の地方分権一括法が成立。 ◎農業基本に代わる食料・農業・農村基本法が成立。 ◎米輸入自由化。 ◎羽田発新千歳行き全日空がハイジャックされる。 ◎東急百貨店日本橋店(旧白木屋)閉店。◎「日の丸」を国旗、「君が代」を国歌とする国旗・国歌法が成立。 ◎文部省、すべての国立大学を独立行政法人とする方針を表明。 ◎日本最古の貨幣「富本銭」出土。 ◎携帯eメール開始。 ◎流行語「カリスマ美容師」「リベンジ」「着メロ」「最高ですか~」「地域振興券」。 ◎歌「永遠に薔薇のときを」「奇跡」「東京砂漠」「流れ人(美空ひばり未発表曲)」「だんご3兄弟」「風に立つ」「アメリカ橋」「女のまごころ」「夢のしずく」「津軽の花」「足摺岬」「河内酒」「 夜空」「まつり」。 ◎工学者・ペンシルロケット開発者、糸川英夫没。 ◎画家、東山魁夷没。 ◎文学評論家、江藤淳没。 ◎実業家、盛田昭夫没。 ◎実業家、佐治敬三没。 ◎政治学者・評論家、藤原弘達没。 ◎仏教学者、中村元没。 ◎歌手、淡谷のり子没。 ◎俳優、三木のり平没。 

2000 ◎民事再生法施行。 ◎有珠山噴火。 ◎雪印食中毒事件。 ◎シドニーオリンピック開催。 ◎祝日法改正「新成人の日1月10日」。 ◎不正アクセス禁止法施行。 ◎BSデジタル放送開始。 ◎携帯「カメラ・音楽再生」開始。 ◎都営大江戸線全線開通。 ◎多摩都市モノレール開業。 ◎今年度から都教育庁が学区規制緩和し都内全域が受験可能になる。 ◎G7主要7か国蔵相・中央銀行総裁会議が日本初の開催。 ◎白川英樹がノーベル化学賞受賞。 ◎新二千円札発行。 ◎石原都知事が都内を走るディーゼル車を対象にSPMを取り除くフィルター装着を義務付け。 ◎金融庁発足。 ◎三宅島噴火、三宅村9月2日から3日以内に全島避難を決議。 ◎第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行三行が経営統合し「みずほフィナンシャルグループ」誕生。 ◎地下鉄日比谷線、中目黒駅で電車脱線し死者5人。 ◎日立、世界初DVDビデオカメラ発売。 ◎都の公害防止条例改正案成立。 ◎シドニー五輪マラソン女子で高橋尚子が日本初の金メダル。 ◎NHK「プロジェクトX」始まる。 ◎歌「孫(大泉)」「「花も嵐も(山本)」「なみだ恋」「みんなでワッハッハー(Tokio)」「無縁坂」「風鈴」「無言坂」「Never Nnd(安室ロ)」「みれん酒」「楽園(平井)」「海、その愛(加山)」「「山河」。 ◎作曲家、中田喜直没。 ◎元プロ野球監督、鶴岡一人没。 ◎元首相、小淵恵三没。 ◎衆議院議員、竹下登没。 ◎俳優、滝沢修没。 ◎女優・漫才師、ミヤコ蝶々没

2001 ◎雅子皇太子妃が内親王(名は愛子・称号は礼宮)出産。 ◎ETC導入。 ◎ヒトの全塩基配列完成。 ◎狂牛病「BSE」発生。 ◎中央省庁が1府22省庁から1府12省庁に再編発足。 ◎テロ対策特別措置法・自衛隊法改正案・海上保安庁改正案可決。 ◎東京証券取引所が会員組織から株式会社に移行。 ◎JR首都圏424駅で「Suicaスイカ」を使った新改札システム始まる。 ◎羽田空港で国際チャーター便運航開始。 ◎国の情報公開法施行。 ◎家電リサイクル法施行。 ◎野依良治がノーベル化学賞受賞。 ◎北朝鮮の工作船と海上保安庁巡視船が南シナ海で交戦、工作船は自爆・自沈。 ◎マイカル(1970年ニチイを吸収合併)をイオンが吸収合併。 ◎サッカーくじtoto発売。 ◎東京ディズニーシー開業。 ◎旧石器捏造事件(藤村新一。 ◎流行語「IT革命」「不平等社会」「私的には」「抵抗勢力」「できちゃった婚」◎歌「恋女」「悲しい嘘(美空ひばり未発表曲)」「越前岬」。 ◎歌手、三波春夫没。 ◎物真似芸人、江戸屋猫八没。

2002 ◎経団連と日経連が統合し日本経団連が発足。 ◎住民基本台帳ネットワーク開始。 ◎千代田区が罰金を伴う路上禁煙条例を施行。 ◎田中耕一がノーベル化学賞受賞。 ◎小柴昌俊がノーベル物理学賞受賞。 ◎丸の内に新丸ビルオープン。 ◎新学習指導要領実施。公立幼稚園・学校は土曜日休校となる。 第17回ワールドカップ日韓大会開催。 ◎実業家、斎藤英四郎没。 ◎元アナウンサー、高橋圭三没。 ◎歌手、村田英雄没 

2003 ◎有事関連三法成立。 ◎イラク復興支援特別措置法成立。 ◎さいたま市が政令指定都市に。 ◎鳥インフルエンザ感染発生。 ◎第65代横綱貴乃花引退。 ◎朝青龍、第68代横綱昇進。 ◎大和銀行とあさひ銀行が合併しりそな銀行発足。 ◎三井住友銀行とワカシオ銀行が合併し三井住友銀行が発足。 ◎宮崎駿監督「千と千尋の神隠し」第75回アカデミー賞長編アニメ映画賞受賞。 ◎郵政事業庁が日本郵政公社になる。 ◎小惑星探査機「はやぶさ」打上げ。 ◎個人情報保護法が成立。 ◎元衆議院議員の辻元清美が秘書給与詐欺容疑で逮捕。 ◎宮城県北部地震発生。 ◎小泉改造内閣発足し自民党幹事長に安倍晋三官房副長官が就任。 ◎自由党が民主党へ合流。 ◎三菱ふそうトラック・バスの欠陥隠しによる母子死傷容疑で三菱自工本社など家宅捜査。 ◎第二次小泉内閣発足。 ◎イラク北部で日本人外交官射殺事件起こる。 ◎地銀の足利銀行が経営破綻。 ◎地デジ放送が東京・大阪・名古屋で開始。 ◎六本木ヒルズ竣工。 ◎中島みゆきの「地上の星」ロングセラー記録。 ◎オレオレ詐欺横行。 ◎

2004 ◎小泉首相に度目の訪朝、拉致被害者5名帰国。 ◎

2005 ◎

2006 ◎

2007 ◎

2008 ◎田母神俊雄航空幕僚長、「田母神論文」が不適切として更迭され退職。 ◎

2009 ◎民主党が政権奪取、鳩山由紀夫内閣発足。 ◎尖閣諸島で中国漁船が海上保安庁巡視船に体当たり事件。 ◎歌「こころの根っこ」

2010 ◎鳩山内閣委総辞職し菅直人内閣発足 ◎

2011 ◎東日本大震災発生、福島第一原発事故。 ◎ロシアのメトベージェフ大統領「国後島」訪問しロシア領であることを主張。 ◎

2012 ◎尖閣諸島の国有化。山中伸弥教授がノーベル生理学賞・医学賞受賞。 ◎自民党が政権奪取。 ◎第二次安倍内閣発足。 ◎

2013 ◎富士山が世界遺産登録。 ◎2020年の夏季五輪、東京開催決まる。 ◎

2014 ◎集団的自衛権行使を容認する閣議決定。 ◎第二次安倍改造内閣発足。 ◎朝日新聞が従軍慰安婦強制連行掲載の吉田証言が虚偽であったと謝罪。 ◎中村修二、赤崎勇、天野浩教授がノーベル物理学賞受賞。 ◎

2015 ◎

2016 ◎

2017 ◎都はるみ芸能活動休止

世界の出来事:1935年 小澤征爾誕生

1935 ※オペラ「ボギーとベス」3幕。ジョージ・ガーシュイ作曲。初演9月30日ボストン・コロニアル劇場(3時間)。 ※オペラ「無口な女」3幕。R・シュトラウス作曲、初演6月24日日ドレスデン・ゼンパーオパー(3時間)。 ※ドイツの総統ヒトラーが再軍備宣言。 ※ナチスがニュルンベルク法制定しユダヤ人の公民権を剥奪

1936 ※交響曲第1番ドヴォルザーク作曲、初演10月4日ブルノで。 ※音楽童話「ピーターと狼」プロコフィエフ作曲、初演5月2日モスクワフィル、モスクワの児童劇場で。 ※交響曲第16番「航空交響曲」ミヤスコフスキー作曲。初演10月24日指揮オイゲン・セーンカル、モスクワフィル演奏、モスクワで。※プロコフィエフソ連に帰国し定住。 ※アメリカの作家マーガレット・ミッチェル「風と共に去りぬ」出版。 ※スペイン内乱勃発。アメリカでライフが創刊。 ※張学良らが西安で蒋介石を監禁

1937 ※オペラ「ルル」序幕・3幕アルバン・ベルク作曲、第1幕・2幕の初演6月2日チューリヒ州立劇場、フリードリヒ・ツエルハの第3幕楽譜完成による初演1979年2月24日国立オペラ劇場連合(現パリ・オペラ座)。 ※交響曲第5番ショスタコーヴィチ作曲、初演ソヴィエト革命20周年記念祭でエフゲニー・ムラヴィンスキー指揮で。 ※「カルミナ・ブラーナ」カール・オルフ作曲、初演7月8日フランクフルト・アム・マインで。  ※「盧溝橋事件」が起こる、戦闘は支那事変と名づけられ中国各地に拡大。 ※イタリア国連脱退。 ※スペイン北部のゲルニカをドイツ空軍が爆撃。 ※スペインの画家ピカソが「ゲルニカ」を発表。 ※イラクの政治家フセイン誕生。  ※アメリカの石油王ロックフェラー没

1938 ※オペラ「画家マチス」7場。パウル・ヒンデミット作曲、初演5月28日チューリヒ市立歌劇場。 ※ヴァイオリン協奏曲エルネスト・ブロッホ作曲。初演12月15日クリーブランド管、指揮ミトロプーロス、 ヨーゼフ・シゲテイ独奏で。 ※オペラ「平和の日」1幕。R・シュトラウス作曲。初演7月24日ミュンヘン、州立劇場。 ※オペラ「ダフネ」1幕R・シュトラウス作曲、初演10月15日ドレスデン・ゼンパーオパー。 ※オラトリオ「死刑台のジャンヌダルク」オネゲル作曲。初演5月12日スイス、バーゼルで、演奏会形式で(舞台初演は1942年6月3日スイス、チューリヒ劇場)。 ※「弦楽のためのアダージョ」バーバー作曲。初演11月5日トスカニーニ指揮のNBC交響楽団により。 ※スイス、第 1 回ルツェルン音楽祭開催。 ※ドイツがオーストリアを併合。 ※ドイツ、ナチスがユダヤ人街を襲撃し一晩でシナゴーグ約280が破壊される「水晶の夜」事件発生。 ※アメリカのコミック誌に「スーパーマン」が初登場

1939 ※ハンガリー民謡「孔雀は飛んだ」による変奏曲ゾルタン・コダーイ作曲。初演7月23日メンゲルベルク指揮、アムステルダム・コンセルトヘボー管弦楽団で。 ※ヴァイオリン協奏曲ミヤスコフスキー作曲。初演10月10日献呈されたダヴィッド・オイストラフ独奏、モスクワにて。 ※ヴァイオリン協奏曲バルトーク作曲、初演同年アムステルダム、セケイ独奏、メンゲルベルク指揮コンセルトヘボー管弦楽団で。 ※スイス、第1回ジュネーブ国際音楽コンクール開催。 ※ナチス、ポーランド侵攻=第二次世界大戦勃発。 ※英国・仏がドイツに宣戦布告しアメリカは中立を宣言。 ※西部劇「駅馬車」ジョン・ウエイン主演映画公開。 ※スウェーデン出身の女優イングリッド・バーグマンが「別離」でハリウッド・デビュー

1940 ※「交響曲ハ短調」ストラヴィンスキー作曲、初演シカゴ、11月7日自身の指揮、シカゴ交響楽団。シカゴ交響楽団創立50周年記念演奏会用に依頼を受け作曲。 ※ヴァイオリン協奏曲シェーンベルク作曲、初演12月6日ルイス・クラスナーピアノ、ストコフスキー指揮・フィラデルフィア管弦楽団演奏で。 ※交響曲イ長「皇紀2600年奉祝曲」イルデブランド・ピツェッティ作曲、初演ガエタノ・コメリ指揮で東京初演日本政府の打診により建国2600年記念祝典に作曲した。 ※ドイツが中立を表明していたデンマークとノルウェーに侵入。 ※ドイツ軍無血入城しパリ陥落(1944年連合軍が解放)。 ※ナチス、ポーランドのアウシュビィッツに強制収容所設置。 ※ドイツ軍ベルギー・オランダ・ルクセンブルクに侵入。 ※ドイツ軍がロンドン爆撃。 ※アメリカでナイロン・ストッキング発売。 ※チャップリンの映画「独裁者」公開

1941 ※6月22日ドイツがソ連への攻撃を開始。※アメリカ合衆国ルーズベルトが武器貸与法に署名し連合国への武器供与はじまる。 ※アメリカNBCが初の商業テレビ放送開始

1942 ※交響曲第7番「レニングラード」ショススタコーヴィチ作曲。初演3月クイブシェフでサムイル・サモスード指揮ボリショイ劇場管で。 ※オネゲルの交響曲第2番、初演5月18日スイス、バーゼルでパウル・ザッハーの指揮、バーゼル室内管弦楽団、チューリッヒ・コレギウム・ムジクムにて。 ※オペラ「カプリッチョ」1幕R・シュトラウス作曲。初演10月ミュンヘン・バイエルン国立歌劇場で(2時間15分)。  ※バレー組曲「ガイーヌ」ハチャトウリアン作曲。初演12月レニングラード、キーロフ劇場で。 ※交響曲第2番ツェムリンスキー作曲、初演、3月5日自身の指揮で。 ※ルツェルン音楽院創設。 ※ドイツのバイエル社が解熱剤「アスピリン」を発売。 ※連合国26ヶ国が大西洋憲章ドイツ・日本との単独不講和を宣言。 ※アメリカ軍がガダルカナル島上陸。 ※アメリカで映画「カサブランカ」公開、映画の中でハンフリー・ボガードが着ていたトレンチコートは「カサブランカ・トレンチコート」と呼ばれ有名になった。 ※スイスに亡命中のユダヤ系ピアニストのゲオルグ・ショルティがジュネーブ国際音楽コンクールでピアノ部門第1位となり、それまで仕事にありつけずにいたが、ピアニスト・デビューを果たしスイスを拠点に活動を開始する。 ※ドイツがソ連に宣戦

1943 ※オペラ「賢い女」12場。カール・オルフ作曲、初演2月18日フランクフルト・アム・マインにて。 ※交響曲第2番「鐘」ハチャトウリアン作曲。初演12月(翌年修正、決定版となる)。 ※イタリア降伏。 ※アメリカ合衆国大統領ルーズベルトと英国首相チャーチルがカサブランカで会談し日独伊に無条件降伏要求を決める。  ※ルーズベルト、チャーチル、蒋介石が第1回カイロ会談。 ※ルーズベルト、チャーチル、スターリンがテヘランで会談。  ※仏作家・哲学者サルトル「存在と無」出版

1944 ※交響曲第1番「エレミア」バーンスタイン作曲、初演1944年1月18日自身の指揮、ピッツバーグ交響楽団。 ※ピアノ協奏曲シェーンベルク作曲。初演2月6日ニューヨーク・NBCスタジオ、ピアノ・E・シュトイアーマン、ストコフスキー指揮・NBC交響楽団で。 ※「管弦楽のための協奏曲」バルトーク作曲、初演12月1日クーセヴィッキー指揮、ボストン交響楽団、ボストン市にて。 ※アイゼンハワー元帥を総司令官とする米英連合軍「史上最大の作戦」と銘打ってノルマンディ上陸する。 ※仏の作家・飛行家サン・テグジュペリが偵察飛行に出たまま行方不明になる

1945 ※オペラ「ピーター・グライムズ」3幕ブリテン作曲。初演6月7日ロンドン、サドラーズ・ウェルズ劇場(2時間30分)。 ※交響曲第5番プロコフィエフ作曲、初演1月13日自身の指揮、モスクワ交響楽団、モスクワ音楽院大ホールにて。 ※チェロ協奏曲ハ長調ミヤスコフスキー作曲、初演3月17日スヴャトスラフ・ クヌシュヴィッキーのチェロ、モスクワにて。※スイス、ローザンヌ室内管弦楽団創設。 ※スイス、エドモンド・ド・シュトウツがチューリッヒ室内管弦楽団を創設。 ※2月4日クリミア半島ヤルタで英米ソ連首脳が対日参戦等や米ソの利害調整など大戦終了後の国際秩序を規定した。 ※ドイツ無条件降伏。 ※アメリカ軍沖縄本島に上陸。 ※アメリカ合衆国大統領ルーズベルト急死し副大統領のツルーマンが大統領就任。 ※トルーマン、チャーチル、スターリンがボツダム会談。 ※ナチス占領下の仏でマルセル・カルネ監督の映画「天井桟敷人々」(音楽モーリス・ショベール)公開。 ※ユダヤ人少女アンネ・フランク没

1946 ※オペラ「イワン雷帝」5幕。ジョルジュ・ビゼー作曲。初演ヴェルテンベルグ、ミュ-リンゲン城にて。 ※オペラ「霊媒」2幕メノッテイ作曲、初演5月8日コロンビア大学ブランダー・マシューズ劇場(1時間)。 ※オペラ「ルクリーシアの凌辱」2幕。ベンジャミン・ブリテン作曲。初演7月12日イングランド、イースト・サセックス州ルイス、グラインドボーン歌劇場にて。 ※「青少年のための管弦楽入門」ブリテン作曲、初演10月15日マルコム・サージェントが指揮、解説エリック・クロージャー、リヴァプール・フィル。 ※スイス、第1回アスコナ国際音楽週間開催。 ※アメリカで世界初のコンピューター完成。 ※アメリカ、男子プロバスケットリーグBBA創設。 ※アメリカがビキニ環礁で原爆実験。 ※フランスがベトナム糞を攻撃。 ※アメリカで政治家(大統領)クリントン誕生

1947 ※オペラ「ダントンの死」2部。ゴットフリート・フォン・アイネム作曲、初演8月6日ザルツブルク音楽祭にて。 ※ディオールが初コレクション。 ※トルーマン大統領がギリシャ・トルコの共産化防止の「トルーマン・ドクトリン」提案。 ※アメリカ国務長官がヨーロッパ経済復興援助計画「マーシャル・プラン」発表。 ※国連総会でパレスティナをアラブ・ユダヤ・エルサレムに分割する案が採択される。 ※アメリカの映画監督スピルバーグ誕生

1948 ※交響曲第3番コープランド作曲、初演10月クーセヴィツキー指揮・ボストン交響楽団、ボストンにて。 ※フルトヴェングラーの交響曲第2番初演2月22日自身の指揮、ベルリン・フィル。 ※インドのガンジー暗殺される。 ※セイロン独立す。 ※ユダヤ人国家イスラエルが独立。 ※第一次中東戦争起こる。 ※大韓民国樹立、初代大統領は李承晩。 ※金日成が朝鮮民主主義人民共和国を樹立

1949 ※「トゥランガリーラ交響曲」メシアン作曲、クーセヴィツキー委嘱作品、初演12月2日バーンスタイン指揮、ボストン響、ピアノ:イヴァンヌ・ロリオ、オンド・マルトノ:ジネット・マルトノボストンのシンフォニーホールで。 ※「春の交響曲」ブリテン作曲、初演7月9日アムステルダムにて、エドゥアルト・ファン・ベイヌム指揮、アムステルダム・コンセルトヘボー管で。 ※交響曲第2番「不安の時代」バーンスタイン作曲、初演7月9日ボストンにて、クーセヴィツキー指揮、ボストン響、ピアノ:作曲者自身で。 ※交響曲第27番ハ短調 ミスコフスキー作曲。初演死後の12月9日アレクサンドル・ガウク指揮で。 ※アメリカ、男子プロバスケットリーグNBA創設。 ※北大西洋条約機構=北大西洋条約に基づき米国を中心に北アメリカ、ヨーロッパ諸国によって軍事同盟が結成された。 ※ドイツが東西に分裂

1950 ※オペラ「領事」メノッテイ作曲、初演3月1日フィラデルフィアにて、トーマス・ジッパーズの指揮で。 ※アメリカ共和党上院議員マッカーシー「赤狩り」旋風。 ※マッカーシーが共産党中央委員24人の公職追放を指令(レッド・パージ)。 ※三十八度線での衝突により朝鮮戦争勃発。アメリカの歌手アル・ジョンソン没

1951 ※オペラ「道楽者の成りゆき」3幕ストラヴィンスキー作曲。初演9月11日ヴェネツィア、フェニーチェ劇場(2時間20分)。 ※ヴァイオリン協奏曲ニ短調・遺作メンデルスゾーン作曲、初演1951年メニューヒンが発見し演奏。 ※オペラ「ビリイ・バッド」2幕ブリテン作曲、初演12月1日コヴェント・ガーデン。 ※アメリカ、マッカーサーが朝鮮戦争をめぐりトルーマン大統領と対立し国連軍最高司令官を解任される

1952 ※オペラ「ダナエの恋」R・シュトラウス作曲、初演8月14日ザルツブルク祝祭劇場(小劇場)。 ※イギリス国王ジョージ六世死去し長女エリザベス二世が即位。 ※アメリカの作家ヘミングウェイが「老人と海」出版

1953 ※交響曲第7番プロコフィエフ作曲、初演モスクワにて、10月11日サムイル・サモスード指揮、ソビエト・ラジオ放送管弦楽団演奏で。 ※映画「ローマの休日」公開され主演のオードリー・ヘップバーンがアカデミー主演女優賞。 ※アメリカのシカゴで男性向け月刊誌「プレイボーイ」創刊

1954 ※オペラ「ダヴィデ」5幕。ダリウス・ミヨー作曲。初演6月11日エレサレム(演奏会形式)。 ※オペラ「ねじの回転」2幕ブリテン作曲、初演9月ヴェネツィア、フェニーチェ劇場。 ※オペラ「炎の天使」5幕プロコフィエフ作曲初演11月パリ、シャンゼリゼ劇場(演奏会形式)で(約2時間10分)。 ※アンリ・ソゲ Henri Sauguet (1901-1989)作曲、オペラ「マリアンヌの気紛れ (Les caprices de Marianne)」2幕 7月20日プロヴァンス音楽祭で初演。 ※毛沢東が中国国家主席となる。 ※フランスの作家サガンがソルボンヌ大学在学中に「悲しみよこんにちは」出版しベストセラーに

1955 ※映画「エデンの東」「理由なき反抗」「ジャイアンツ」で知られるアメリカの映画俳優ジェームス・ディーンが愛用のポルシェ550スパイダー運転中に事故死

1957 ※オペラ「カルメル派修道女の対話」3幕。フランシス・プーランク作曲。初演1月26日ミラノ、スカラ座。 ※オペラ「モーゼとアロン」アルノルト・シェ-ンベルク作曲、初演6月6日チュウーリヒ市立劇場(2幕まで3幕未完)。 ※アメリカの映画俳優ハンフリー・ボガード没

1958 ※アメリカの歌手マイケル・ジャクソン誕生

1959 ※ソ連のフルシチョフ首相が訪米しアイゼンハワー大統領とキャンプ・デーヴィットで会談。 ※キューバでカストロ率いる革命軍がバティスタ独裁政権を倒す。 ※フランス大統領にド・ゴール就任

1961 ※オペラ「不寛容1960」 ルイジ・ノーノ作曲。初演4月13日フェニーチェ劇場(1974年1幕に改訂)。 ※交響曲ハ短調ゾルタン・コダーイ作曲、初演8月16日ルツェルン音楽祭、フェレンツ・フリッチャイ指揮、ルツェルン祝祭管弦楽団で。「アルトゥール・トスカニーニの思い出のために」という副題がつく時もある。 ※ソ連の有人宇宙船ヴォストークがガガーリンを乗せ地球を一周。 ※アメリカ第35代大統領にケネディ就任。 ※アメリカ、キューバと断行。 ※ベルリンの壁ができる。 ※アメリカで映画「ウェスト・サイド物語」公開。 ※イギリスの元皇太子妃ダイアナ誕生。 ※アメリカの作家ヘミングウェイ没

1962 ※オペラ「プリアモス王」3幕。マイケル・ティペット作曲。初演5月29日ロンドン、コヴェントリー劇場。 ※アメリカ、ケネディ大統領がソ連が中距離ミサイル基地をキューバに建設しているため海上を封鎖すると声明。ソ連のフルシチョウフ首相がキューバからミサイル撤去すると発表(キュウバ危機)。 ※アメリカの映画女優マリリン・モンローがロサンゼルスの自宅で裸のまま謎の死

1963 ※アメリカ合衆国第35代大統領ケネディ大統領暗殺される。 ※大韓民国大統領に朴正煕が就任

1964 ※交響曲第10番(未完)マーラー作曲、初演クック版第2稿全曲をゴルトシュミット指揮ロンドン交響楽団で。 ※エルサレムでパレスチナ解放機構(PLO)が創設される。  ※ソ連共産党第一書記兼首相フルシチョフ解任され第一書記にブレジネフ、首相にコスイギンを選出する

1965 ※チェコ、ヤナーチェク劇場、ヤナーチェクのオペラ「利口な女狐の物語」で開場。  ※米軍機が北ベトナムの軍事施設を爆撃

1966 ※オペラ「燃える炉」1幕ベンジャミン・ブリテン作曲。初演6月9日イギリスサフォーク州、オーフォードの教会にて

1967 ※パリ管弦楽団設立、フランス文化省のアンドレ・マルロー大臣と音楽局長マルセル・ランドヌキがパロ音楽院管弦楽団を発展的解消し指揮者シャルル・ミュンシュを首席指揮者に迎えてスタート。団員の7割近くが入れ替わり全仏から優秀な奏者が新規加入

1968 ※米黒人解放運動指導者キング牧師暗殺。 ※核拡散防止条約調印=米・英・仏・露・中国の5ヶ国以外の核兵器保有を禁止。

1969 ※アメリカ、アポロ11号が月面着陸に成功

1970 ※アンリ・デュティユー作曲、チェロ協奏曲「遥かなる遠い国」7月25日エクオン・プロヴァンス音楽祭で初演。チェロ=ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、指揮セルジュ・ポド、パリ管弦楽団。  ※イギリスのロックグループ、ザ・ビートルズが解散

1971 ※ベンジャミン・ブリテン作曲、オペラ「オーエン・ウィングレイヴ」㋄16日ロンドン、コヴェント・ガーデン、ロイヤル・オペラハウスで初演(2幕 約1時間42分)     

1973 ※オペラ「ヴェニスに死す」2幕ブリテン作曲。初演翌年6月オールドバラ音楽祭 (2時間30分)。  ※アメリカでウォータゲ-ト事件 (1972年6月17日合衆国大統領ニクソンの再選のためワシントンのウォーターゲートビルの6階にある民主党全国委員会本部に侵入して盗聴器を仕掛けようとして未遂に終わった事件でニクソン大統領も事件の隠蔽工作に関与し、翌年辞任する)

1975 ※フランスで第一回主要先進国首脳会議「サミット」開催される

1976 ※1月中国の首相周恩来が死去。9月中国共産党首席毛沢東が死去

1977 ※イルカム(フランス国立音響音楽研究所)創設。ジョルジュ・ポンピドゥーの下でピエール・ブーレーズが組織設立。 ※アメリカでジョージ・ルーカス総指揮のSF映画「スター・ウォーズ(エピソードⅣ」公開

1978 ※アメリカのカーター大統領の提唱でエジプトのサダト大統領とイスラエルのペギン首相が会談、キャンプ・デービット合意

1979 ※アルバン・ベルク台本・作曲のオペラ{ルル」第1幕・2幕の初演1937年6月であった。3幕版は1979年に出版され、同年2月24日、ピエール・ブーレーズの指揮、パトリス・シェローの演出でガルニエ宮にて世界初演され、大きな反響を呼んだ。 ※ソ連がアフガニスタンに軍事介入。 ※イラン革命が起き、イラン=イスラム共和国成立する。 ※アメリカのスリーマイル島の原子力発電所で放射能漏れ事故が起きる。 ※イギリス首相に保守党党首サッチャーが就任、ヨーロッパ初の女性首相となる

1980 ※イラン=イラク戦争起こる

1981 ※アメリカ合衆国第四十代大統領にロナルド・レーガンが就任

1982 ※アルゼンチン軍がイギリス領フォークランド諸島を占領し、フォークランド紛争が起きる

1983 ※アメリカでロック歌手マドンナ(24才)がデビューし翌年発売した「ライク・ア・ヴァージン」はヒット曲に

1986 ※ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で爆発事故が起こる。 ※アメリカのスペースシャトル「チャレンジャー」号が爆発

1987 ※アメリカとソ連の間で中距離戦略兵器(INF)全廃条約調印される。 ※ニューヨーク株式市況大暴落(ブラック・マンデー)。 ※大韓航空機がブルマ上空で消息を絶つ(大韓航空機事件)

1988 ※イラン=イラク戦争が停戦

1989 ※中国で第二次天安門事件起こる。 ※ベルリンの壁が崩壊。 ※アジア太平洋経済協力会議(APEC)創設。 ※アメリカの無人惑星探査機ボイジャー2号が海王星に最接近

1990 ※東西ドイツが統一。 ※イラク軍がクェートに侵攻する

1991 ※アメリカを中心とした多国籍軍とイラク軍の間で湾岸戦争起こる。 ※独立国家共同体(CIS)成立しソ連が崩壊する

1993 ※EU(欧州連合)発足

1997 ※香港がイギリスから中国へ返還される

1998 ※ハンガリーの作曲家ペーテル・エトヴェシェのオペラ「三姉妹」3月13日リヨン国立歌劇場で初演

2000 ※ザルツブルク音楽祭でフィンランドの女性作曲家カイヤ・サーリアホのオペラ「遥かなる愛」初演。 ※南北両朝鮮首脳会談(北朝鮮=金正日、韓国=金大中)実現。 ※エールフランスのコンコルド機、パリで離陸直後に墜落し死者114人。 ※アメリカ大統領選挙でジョウージ・W・ブッシュが当選。 ※シドニーオリンピック開催

2001 ※アメリカ旅客機4機をハイジャックしたイスラムのテロ組織による同時多発テロ事件(9・11)発生。 ※ビンラディン引き渡しを拒否したタリバン政権に対し米英連合諸国が攻撃を開始しアフガニスタン紛争起こる。 ※アップル社が開発した携帯型デジタル音楽プレイヤーipod発売。 ※ドットコムバブル

2002 ※モスクワ劇場占拠事件起こる。 ※バリ島爆弾テロ事件発生。 ※中国の瀋陽日本総領事館に北朝鮮人の亡命者が駆け込み事件。 ※米国ソルトレイクシティでオリンピック開催。 ※EU域内12カ国、通貨をユーロに統合。 ※東南アジア、東ティモールがインドネシアから独立。 ※SARS中国仏山市で発生

2003 ※イラク戦争起こる。米英などの連合軍がバクダッド占領しイラク政府崩壊、サダム・フセインが米軍に拘束される。 ※イラク北部で日本人外交官等が銃撃され3人死亡。 ※スペースシャトル・コロンビア号が地球へ帰還の際に空中分解。 ※アメリカ・カナダ東部で大規模な停電で約5千万人に影響。 ※WHOがSARS(重症急性呼吸器症候群)終息宣言

2004 ※スマトラ島沖地震発生し死者・油久へ不明者約30万人。 ※スペインのマドリードで列車爆破テロ事件発生。 ※MLBマリナーズのイチローが年間最多安打262本の新記録。 ※アテネオリンピック、パラリンピック開催
2005 ※8月アメリカ南東部で大型ハリケーン・カトリーナによる被害、死者1,836名、行方不明705名
2006 ※北朝鮮がテポドン2号発射実験、初の地下核実験を実施。 ※トリノオリンピック開催。 ※第一回ワールド・ベースボール・クラシック開催。 ※イラクのサダム・フセイン元大統領の死刑が執行される

2007 ※ブルガニア、ルーマニアがEU加盟

2008 ※リーマン・ブラザース破綻から世界的な金融危機リーマンショック発生。 ※チベット暴動起こる。 ※5月中国中西部、四川大震災発生し死者6万9197名、負傷者37万4176名、行方不明1万8222名、家屋倒壊21万6千軒。 ※北京オリンピック・北京パラリンピック開催

2009 ※黒人初のアメリカ大統領バラク・オバマ就任。 ※盧武鉉第16代目大韓民国大統領が自殺。 ※MLBマリナーズのイチローが日米通算3086安打達成、メジャー新記録の9年連続200安打達成。 ※歌手のマイケル・ジャクソン没。 ※ 新型インフルエンザ、世界各国に大流行

2010 ※ドバイに世界一超高層ビル、ブルジュ・ハリーファ完成。 ※バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催。 ※上海万博開催。 ※北朝鮮、金正恩が最高指導者後継指名される

2011 ※アルカイダ司令官ウサマ・ビンラディンが潜伏先のパキスタンで米軍に射殺される。 ※アラブの春、30年間続いたエジプトのムバラク政権崩壊。 ※アラブの春、40年以上続いたカダフィ政権崩壊カダフィが死去。 ※国連の推計で世界人口70億人に達する。 ※アラブの春、イエメン騒乱により長期政権終幕。 ※北朝鮮、最高指導者金正日没
2012 ※オバマ大統領再選。 ※フランス、社会党出身のオランド大統領当選。 ※ギリシャの議会選挙で反財政緊縮派の急進左派連合が躍進し連立与党が過半数割れとなる。 ※ロンドンオリンピック・パラリンピック開催。 ※アラブの春、シリアでアサド政権と反政府側の対立で内戦状態に

2013 ※朴槿恵が第18代韓国大統領に就任。 ※ロシアのチェリャビンスク州に隕石落下。 ※アメリカの特許制度で特許出願が先発明主義から先願主義へ替わる

2014 ※ソチオリンピック・パラリンピック開催。 ※直径1.2キロの小惑星が地球に接近。 ※イスラム過激派組織ISがイスラム国家の樹立を一方的に宣言。 ※アメリカ軍がイラク・シリア国内のIS拠点施設に対し空爆を開始。 ※ニシアフリカでエボラ出血熱流行し死者5千人
2015 ※ISの台頭によりテロが多発する時代に。 ※アメリカ合衆国の全州で同性結婚が合法化なる。 ※NASA初の冥王星無人探査機ニュー・ホライズンズが冥王星に最接近

2016 ※イギリスの国民投票でEU離脱が過半数を占める。 ※リオデジャネイロオリンピック開催。 ※台湾、女性初の総統に蔡英文氏就任。 ※北朝鮮が核実験。 ※中国、人工島へ試験飛行

2017 ※アメリカ、トランプ大統領就任。 ※北朝鮮の金正男がマレーシアの空港で殺害される。 ※韓国、朴槿恵大統領罷免され、投票で北朝鮮に融和的な左派の最大野党「共に民主党」の文在寅ム前代表が勝利し大統領に就任。 ※英国政府がEU離脱正式通知。 ※アメリカが韓国に「THAAD」配備。 ※フランス大統領にエマニュエル・マクロン就任

2018 ※平昌冬季オリンピック・パラリンピック開催