
【The following is in Japanese】
“音楽は私の人生であり、私の人生は音楽です”
“Music is my life and my life is music”
趣味:小学校の頃から野球、中学生の頃はラグビー、その後スキー、ボストン時代はゴルフ、テニス、ヨガ。そして、地元ボストン・レッドソックスを応援した
ボストン交響楽団時代の征爾専用の公用車のナンバープレートは数字でなく「OZAWA」と書いてあった。
【写真出典:『この画像はアメリカ合衆国国務省の職員がその公務の一環として撮影し、又は作成した著作物です。アメリカ合衆国連邦政府の著作物として、この画像は合衆国法典第17編第101条及び105条並びに国務省著作権情報の定めるところにより、パブリックドメインの状態にあります。』】
小澤征爾Seiji OZAWA,
1935年昭和10年9月1日満州国奉天に生まれる (現在の中国瀋陽市)
Born on September 1, 1935 in Mukden, Manchukuo (currently Shenyang City, China)
Birth place:Mukden Manchukuo
Date of Birth:9/1/1935
Date of Death:2/6/2024
目次(クリックまたはタップで各項目にジャンプします。)
1. 職業Profession
日本の指揮者Japanese conductor
2. 小澤征爾物語-シリーズ-2-トピックス‐プロフィールなど
(赤字の部分をクリック)
小澤征爾プロフィールなど
➀【小澤征爾プロフィール】
➁【楽歴】
➂【主な初演記録】
➃【小澤征爾デビュー記録】
➄【引越歴】
<プロジェクトProjects>
1. One Earth Mission – Unite with Music
2. Ozawa Matsumoto Festival
3. Seiji Ozawa Music Academy
4. Mito Chamber Orchestra
5. Ozawa International Chamber Music Academy Okushiga
6. Seiji Ozawa International Academy Switzerland
3. 小澤征爾 歴史年譜Seiji Ozawa:Career Timeline
1935年(昭和10年)誕生Birth
9月1日満州国奉天、奉天医大病院で小澤家の三男として生まれ、奉天の平安通りの家で育った。
・母さくらが語る『前日の夜おそく産気づいたので、トランクに荷物を入れて、一恵さんといっしょに馬車に乗って医大病院に行きました。生まれたのは明け方でした。一恵さんは病院の廊下でひとり征爾の産声第一声を聞いたのです。お産は難産でなく、安産でした。とても大きくて、一貫目(4キロ)以上でした、大連病院の病院中で一番大きな赤ちゃんで、「大関」と言われました。生まれてからもとても元気に育ちました。一週間ぐらい入院していたと思います。』。
・父開作は、毎日会って親しくしていた関東軍参謀・板垣征四郎と同じく参謀の石原莞爾の二人から一字ずつもらって「征爾」と名付けた。板垣は[少年老い易く学成り難し]の書を書いてくれた。のちに兄弟たちは、長兄・克己は彫刻家、次兄・俊夫はドイツ文学者・筑波大副学長を務め弟・幹雄は司会・講師・音楽ジャーナリスト・著作者となった。
・母さくらが語る『征爾は生まれた時、離乳期にお腹をこわしたりして体調をくずし、あんまり笑わない子でした。のちに征爾が教えていただくことになる斉藤秀雄先生のお母さんの「おとらおばさん」も、私が満州に行く途中、東京で挨拶に行った時に、こう言ってくれました。"若い人は結婚をすごく華やかな、幸せ一杯のものと思っていると思うけど、悲しいことや苦しいことがいっぱい待ち構えているものです。でもそれはみんな神様があなたを試す試練なんだから、それに耐えていかなくてはいけません"この言葉を私は、何か事あるにごとに、いつも思い出して、すごく心の支えにしていました。だから私は母や叔母たちに弱音を言ったことは一度もありません。それは自分でもとてもよかったと思っているんです。だって遠くにいる母たちにぐちを言ったって、心配かけるだけだし……。あとで斉藤秀雄先生がおとらおばさんの写真を送ってくれました。今でも大事に手元に持っています。その写真は征爾たちも小さい時から見ているわけで、征爾が中学三年の時、一人で斉藤先生に弟子入りをお願いしに行った際に"おとらおばさんという親戚がいるらしいけど、先生の何ですか"と聞いて斉藤先生を苦笑させたということです。』
・2000年8月長野県奥志賀高原で大江健三郎は、『小澤さんが西洋の音楽を学び始めた、そしてそれを外国に向かって出していった、そもそものきっかけは、どういうことでしたか』。小澤征爾はこう答えた、『おふくろはキリスト教徒なもんで、教会で賛美歌をうたう。子供たちを日曜学校に無理やり連れてって、そのうちに僕たちはだんだん面白くなってその日曜学校が大好きになった。男の子四人だったものですから、当然四人で賛美歌をうたう。だから音楽の最初はまったく賛美歌です。おふくろや日曜学校で教わった賛美歌。亡くなった一番上の兄貴はすごい音楽的才能のある男で、音楽を本気になって勉強し始めた。本当に物がないときで、ピアノもありませんから、ハーモニカとかアコーディオンとか、いまから思うと木琴のようなもので、名前忘れちゃったんだけど、鉄でできている楽器で叩くと音が出るわけですね(多分=鉄琴のこと編者)。一番手近にあったのがアコーディオンで、それが僕にとっては最初の音楽です。教会へ行ってオルガンを聴いて、下の兄弟三人の中で一番のめり込んでいったのが僕で、結局、長男と三男の僕が最後まで音楽を続けた』
引用文献:小澤征爾・大江健三郎『同じ年に生まれて』、中央公論新社、2001年、P14~15
1936年(昭和11年)1歳
10月一家は奉天から北京に移り北京市東単新開路35号に住む。父開作が北京で協和会と同じものを作ることのなった。
↓(写真)


昭和14年頃、山中湖の別荘にて
小澤征爾の幼年時代

1941年(昭和16年)6歳 幼稚園
『日中戦争を底なしの泥沼と見たおやじはおふくろと僕たち兄弟を日本に帰すことに決める。
「軍の輸送に迷惑をかけるから余計なものは持って行くな」と厳命され、家財道具はほとんど置いてきた。持ち帰ったのは着替えと中国の火鍋子、家族の写真アルバム。それからアコーディオンもあった。僕が生まれて初めて触った楽器だ。
船と列車を乗り継いで日本に引き揚げた。41年5月だった。』
北京から帰国し立川市柴崎町三丁目の貸家に住む。自宅の前にあった若草幼稚園に入園した。

児童劇団「つぼみ子供会」


写真:釜山近くの温泉、四兄弟
1942年(昭和17年)7歳 小学一年
・立川国民学校入学。
↓ 立川国民学校入学式後列右から七人目

・長兄からアコーディオンの手ほどきを受け、小学校4年頃には習得している。
・柴崎町三丁目に家を買い移った。
『柴崎小学校に入る。学校ではどうかすると「是(シ)(はい)」「不是(プシ)(いいえ)」とか中国語が出て悪ガキどもにからかわれた。頭に来て黙っていたら中国語はすっかり忘れてしまった。
北京に1人残ったおやじは「華北評論」の刊行を続ける。「小澤公館」の看板を掲げた家には従軍記者の小林秀雄さんや林房雄さんも訪れたらしい。』
1943年(昭18年)8歳 小学二年
やがて、父開作は関東軍により満州国退去勧告を受け帰国した。
帰国後は軍需大臣遠藤三郎の招きで軍需省顧問等を務め終戦を迎える。戦後は極東国際軍事裁判の弁護側証人として出廷し板垣征四郎の証人に立つ。その後はいろいろな仕事に手を出し、川崎の宮川病院に務め、歯科医院を開業した
・2000年8月長野県奥志賀高原で大江健三郎は、『小澤さんが西洋の音楽を学び始めた、そしてそれを外国に向かって出していった、そもそものきっかけは、どういうことでしたか』。小澤征爾はこう答えた、『おふくろはキリスト教徒なもんで、教会で賛美歌をうたう。子供たちを日曜学校に無理やり連れてって、そのうちに僕たちはだんだん面白くなってその日曜学校が大好きになった。男の子四人だったものですから、当然四人で賛美歌をうたう。だから音楽の最初はまったく賛美歌です。おふくろや日曜学校で教わった賛美歌。亡くなった一番上の兄貴はすごい音楽的才能のある男で、音楽を本気になって勉強し始めた。本当に物がないときで、ピアノもありませんから、ハーモニカとかアコーディオンとか、いまから思うと木琴のようなもので、名前忘れちゃったんだけど、鉄でできている楽器で叩くと音が出るわけですね(多分=鉄琴のこと編者)。一番手近にあったのがアコーディオンで、それが僕にとっては最初の音楽です。教会へ行ってオルガンを聴いて、下の兄弟三人の中で一番のめり込んでいったのが僕で、結局、長男と三男の僕が最後まで音楽を続けた』
参考文献:小澤征爾・大江健三郎『同じ年に生まれて』、中央公論新社、2001年、P14~15
1944年(昭19年)9歳 小学三年
『だんだん空襲がひどくなり、2人の兄貴が庭に掘った防空壕(ごう)にたびたび潜り込んだ。
ある日、警報のサイレンが鳴っても構わず、庭で弟のポンと遊んでいたら敵機がダダダダーッと撃ってきた。隣の桑畑に砂煙が上がった。腰を抜かしたポンがその場にへたりこんだ。低空飛行だったから操縦士の顔がぼんやり見えた。初めて見る西洋人だった。あの頃は食う物がなくて、よくおふくろとポンと多摩川まで雑草を摘みに行ったのを覚えている。
おやじは引き揚げ後、陸軍の遠藤三郎中将の委嘱で軍需省の顧問をやる一方、満州時代の仲間と対中和平工作を始めていた。国民党の蒋介石が交渉の条件として「天皇の特使として石原莞爾を出せ」と言ってきたらしい。そのために手分けして重臣たちの説得に当たっていたようだ。おやじは、敗戦後間もなく割腹自殺した陸軍の本庄繁大将の担当だと言っていた。だが工作は結局、失敗する。』
1945年昭和20年10歳 小学四年
・『だんだん空襲がひどくなり、二人の兄貴が庭に掘った防空壕(ごう)にたびたび潜り込んだ。
ある日、警報のサイレンが鳴っても構わず、庭で弟のポンと遊んでいたら敵機がダダダダーッと撃ってきた。隣の桑畑に砂煙が上がった。腰を抜かしたポンがその場にへたりこんだ。低空飛行だったから操縦士の顔がぼんやり見えた。初めて見る西洋人だった。あの頃は食う物がなくて、よくおふくろとポンと多摩川まで雑草を摘みに行ったのを覚えている。
おやじは引き揚げ後、陸軍の遠藤三郎中将の委嘱で軍需省の顧問をやる一方、満州時代の仲間と対中和平工作を始めていた。国民党の蒋介石が交渉の条件として「天皇の特使として石原莞爾を出せ」と言ってきたらしい。そのために手分けして重臣たちの説得に当たっていたようだ。おやじは、敗戦後間もなく割腹自殺した陸軍の本庄繁大将の担当だと言っていた。だが工作は結局、失敗する。』
『8月6日。広島に原子爆弾が落ちた。広島で軍医をしていた叔父の静は命こそ助かったものの被爆している。9日、長崎にも原爆が落とされた。15日、敗戦。玉音放送を家族で聞いた。おやじが僕たち兄弟に言った。
「日本人は日清戦争以来、勝ってばかりで涙を知らない冷酷な国民になってしまった。だから今ここで負けて涙を知るのはいいことなのだ。これからは、お前たちは好きなことをやれ」。
敗戦から何日かして、おやじが今度は突然「これからは野球だ」と言い出した。
おふくろにごわごわした布きれでグローブを作らせ、僕や近所の子供を集めて野球チームを作った。おやじが監督で、僕がピッチャーだった。小学4年生の夏のことだ。』
・『敗戦から何日かして、おやじが今度は突然"これからは野球だ"と言い出した。おふくろのごわごわした布きれでグローブを作らせ、僕や近所の子供を集めて野球チームを作った。おやじが監督で、僕がピッチャーだった。小学四年生の夏のことだ』。
・『戦時中、上の克己兄貴からアコーディオン教わっていた僕は、だんだん物足りなくなった。小学生の担任の青木キヨ先生はピアノができる人で、ある日講堂で弾いているときに”触ってもいいよ”と言って隣に座らせてくれた。初めてピアノに触れたのはその時だ。小学校四年の終わりごろだった。』。
・克己兄が音楽の先生にピアノを習い始めていた。府立二中(現都立立川高校)に通っていたころで、征爾がピアノに触れた頃とほぼ同じ頃であった。
バイエル教則本で最初に手ほどきをしたのは克己兄からであった。
1946年(昭和21年)11歳 小学五年
4月頃長兄の通う府立二中の許しを得て、音楽室のピアノのを特別に使わせてもらい克己兄からレッスンを受け続けた。
・兄たちが"征爾にもっと本格的にピアノをやらせたいから家にもピアノが一台あるといいねと話し合っているのを、父開作が聞いた。征爾にピアノを手に入れて本格的にやらせようと小澤家は決めた。
・父開作は方々伝手を頼ってピアノを探した。静叔父の妻英子の横浜の実家にあるアップライトピアンを三千円で譲ってもらえることになる。開作は北京で買った愛用のライカを売って工面した。兄たちがリヤカーを借りて運ぶのを開作も途中から手伝う、三日かけて横浜から立川の家まで運んだのだった。途中農家に一晩ピアノを預けたり、親戚の家に泊めて貰ったりの道中だったようだ。
・柴崎小学校の五年生の学芸会でベートーヴェンの《エリーゼのために》を弾いて初めて人前での演奏だった。
・この頃征爾は小学校野球部のエースピッチャーとして活躍していた。上井草球場で東京都大会にも出場した。
・このとき兄からピアノの手ほどきを受けたのが後に征爾に音楽家として大事な縁となった。その頃、二中の大和先生からピアノを教わる。
1947年(昭和22年)12歳 小学六年
・小学校五年、卒業式で送辞を読む。
・父開作はミシン会社製造の白百合ミシン会社を小田原に設立し経営をはじめる。
『おやじは歯医者に戻ればいいものを「長いことやってないからもう忘れた」と言って、商売を始めてはことごとく失敗した。僕が小学校6年生の時にはミシン製造の会社を始めるというので、立川の家を売り払い、小田原の近くの神奈川県足柄上郡金田村へ移る。わらぶき屋根の古い農家に住み、おふくろが慣れない百姓仕事で米を作って育ち盛りの4人の息子を食わせた。』
・征爾は家から細道を少し行くと流れの急な小川があらり、夏は泳いで遊んだ。
・4月金田村小学校6年に転入学した。田んぼの中を三十分ぐらい歩くと金田小学校があった。
・征爾は担任の先生に、音楽の授業でオルガン弾きを任されるようになる。
・金田小学校の間、小田原市内の石黒先生にピアノのレッスンを受けた
・兄たちの所属する小田原の合唱団「シグナス」に征爾も時々ピアノ伴奏にかり出されていた
1948年(昭和23年13歳 中学一年
3月、金田小学校を卒業。

『中学に入学する段になって、慣れない農村の学校よりは私学のほうが良かろうということになった。どこの中学に通うかだいぶ家族で迷ったすえ、家からは2時間半もかかったが、おふくろが成城学園に決めた。』
・『ピアノの豊増昇先生に弟子入りしたのもその頃だ。不思議なもので、先生のお兄さんがおやじの新民会の仲間だったのだ。ドイツ帰りの高名な先生で、新しいお弟子はとっていなかったが、特別に見てもらえることになった。』
・征爾は成城に入る頃から、父の知人の紹介でピアノを豊増昇に師事しており世田谷の九品仏までレッスンに通った。
豊増先生のピアノのレッスンのある日は、泥まみれの姿で先生宅へ通った。先輩の舘野泉や他の者はリストやショパンを弾いていたが、征爾はバッハばかりを弾かされ課題も多く必死で練習した。この頃の征爾はピアニストを目指していた。見込みがあるからとある時から月謝をとらなくなりタダでレッスンを見てくれた。
『同学年の安生慶、奥田恵二と初めて室内楽を演奏したのもこの時期だ。安生がバイオリンで奥田がフルート。山中湖にあったうちの別荘で合宿し、村の小学校のピアノを借りてバッハのブランデンブルク協奏曲第5番を練習した。1人のピアノ音楽ばかりやっていた僕は、仲間と音を合わせる喜びを知った。』
先輩の舘野泉や他の者はリストやショパンを弾いていたが、征爾はバッハばかりを弾かされ課題も多く必死で練習した。
・4月成城学園中学校入学
・小田急新松田駅から2時間もかかる遠距離通学だった。
・金田村の家に帰ってくるのは夜遅かった。
『小田急沿線の成城学園中学校に行くことになった。クラスは「柳組」で担任は今井信雄先生、3年間同じだった。隣のクラスには小坂一也がいた。朝6時前、小田急新松田からニ時間半もかかる遠距離通学だった。母のさくらは父兄会や授業参観日があると学校に来た。征爾は母を見つけると「おかあちゃーん、帰りにいっしょに帰ろうねぇー」と言って遠くから大声で呼びかけた。
・中学に入り当初はピアノをやるので危なくない卓球部に入った征爾だが、同級の松尾勝吾に誘われラグビーをはじめるようになった。ポジションはフォワードであった。放課後は連日夕方遅くまでラクビー部の猛練習が続いた。
・松尾勝吾は後年、新日鐵釜石の選手として活躍し、ラクビー日本一の社会人チームの監督になった。征爾はラクビー部の主要メンバーとなっていった。
・征爾は成城に入る頃から、父が豊増昇の兄と親しかったため豊増昇にお願いして世田谷区九品仏までピアノレッスンに通った。豊増先生のピアノのレッスンがある日は、泥まみれの姿で先生宅へ通った。先輩の舘野泉や他の者はリストやショパンを弾いていたが、征爾はバッハばかりを弾かされ課題も多く必死で練習した。この頃の征爾はピアニストを目指していたのだった。見込むがあるからとある時から月謝とらなくなりタダでレッスンを見てくれた。
・家は父の経営するミシン会社がうまくいかず、母さくらが衣類の行商をしたり、「九重織り」という手編みのネクタイ作って売ったりして生計を支えていた。
学校の事務所の前の掲示板には「右の者、授業料滞納につき・・・」という張り紙が出されるといつも征爾の名前が書かれてあった。まだ薄暗い五時半ごろ起きた征爾は、六時には家を出て、田んぼ道を十数分歩いて新松田駅に着き、六時ニ十分くらいの新宿行き急行電車に乗って通った。母は道祖神の石碑が立っている村道のかどおところまで見送っていった。朝もやの中を、征爾は姿が見えなくなるまで、振り返りふり返り大きな声で、「行ってまいりまあッす」と言いながらでかけていった。
・家は、父の経営するミシン会社がうまくいかず、母さくらが衣類の行商をしたり、「九重織り」という手編みのネクタイ作って売ったりして生計を支えるようになっていた。
『しかもミシン会社が失敗してうちがスッカラカンになってしまったから、途中から月謝は滞りがち。豊増先生が最後はただで見てくれたのだからありがたい。
うちは本当に貧乏で、成城の学費を滞納するのもしょっちゅう。家計を支えたのはおふくろの内職だ。毛糸を編んで「九重織」というネクタイを作り、銀座の洋品店「モトキ」に卸していた。これが結構はやったのだ。機の両端を自分の腰と家の柱に結びつけて、一日中織っていた。
』
学校の事務所の前の掲示板には「右の者、授業料滞納につき・・・」という張り紙が出されるといつも征爾の名前が書かれてあったという。
まだ薄暗い五時半ごろ起きた小澤は、六時には家を出て、田んぼ道を十数分歩いて新松田駅に着き、六時ニ十分ぐらいの新宿行き急行電車に乗って通った。
母さくらは道祖神の石碑が立っている村道のかどのところまで見送りに行った。朝もやの中を、征爾は姿が見えなくなるまで、振り返りふり返り大きな声で、「行ってまいりまあッす」と言いながら出かけていったという。
『金田村から通学するのがあまりに大変なので、成城の酒井広(こう)先生のお宅に下宿した時期がある。先生は日本人と結婚したイギリスの貴婦人で、学校で英会話を教えていた。お宅にはピアノがなかったので、夜になると暗い森の中にある成城の音楽室まで行って練習した。その後は成城の教会の平出牧師の厚意で二階にも一時下宿し、オルガンでバッハを練習していた。』
参考要約「私の履歴書」、日本経済新聞社

成城中学校舎

昭和30年頃の成城学園前北口
中学一年
1949年(昭和24年)14歳 中学二年
・征爾はいたずらなどでは活発だったが、頭もよく勉強もできた。クラス委員や学校全体の常任委員をやったり、ラクビーもレギュラーとして、青山の秩父宮ラクビー場で華々しく対外試合をやったりしていた。
・同学年の安生慶がヴァイオリン、奥田恵ニがフルートで初めて室内楽を演奏したのもこの時期、父の山中湖の別荘で合宿し、村の小学校のピアノを借りてバッハのブランデンブルク協奏曲第五番を練習した。征爾は仲間と音を合わせるという音楽の喜びをこの時初めて知った。
・金田村から成城の学校までの通学はあまりにも遠いため、小澤は自分で決めて成城の酒井広先生の家に半年くらい下宿した時期があった。先生は日本人と結婚したイギリスの婦人で学校で英会話を教えていた。そこにはピアノがなかったので、夜になると成城の音楽室まで行ってピアノを使わせてもらって練習をした。
・その後、平出牧師とカナダから来た二世の牧師がいる教会にも下宿してアルバイトでオルガンを弾いていたこともあった。
・成城の学費滞納はしょっちゅうだったが、父開作の会社が失敗しすっからかんになるという事態になった。家計を支えたのが母さくらの内職で、「九重織り」という毛糸を編んだ手編みのネクタイを作り、銀座の「モトキ」に卸して収入を得ていた。これは売れていたという。
母さくらからは"ピアノを弾いているんだから指を大切にしなさい"とラクビーを禁止された。それからは練習が終わると汚れたジャージーを仲間たちにあずけ家に帰るようにした。
『おふくろは「ピアノを弾いているんだから指は大切にしないといけない」と言って、ラグビーを禁止した。それからは練習が終わると成城の銭湯で泥を洗い落とし、汚れたジャージーを仲間たちに預け、何食わぬ顔で帰った。おふくろは内職で忙しいから気付かない。が、とうとうバレた。
あれは中学三年になる直前だったと思う。成蹊との試合で両手の人さし指成蹊との試合で両手の人さし指を骨折し、顔を蹴られて鼻の中が口とつながるという大怪我をし、そのまま救急車で病院に担ぎ込まれ、入院するはめになった。
それからはさんざんだ。両親と兄貴たちには叱られ、弟にはあきれられた。退院後、包帯だらけの情けない姿で豊増先生のお宅へ行った』
"もうピアノを続けられたなくなりました"小澤は言った。"音楽やめるのか?」といわれ「音楽続けたいけどどうしたらよいのか。ピアノはだめだから」と言い、黙った。先生が口を開いて「小澤君、『指揮者』というのがあるよ。日本人の指揮者が少ないから、指揮をやってみないか?"と言われた。初めて聞く職業だった
成城中学2年生
↓ ラグビー部の部員たち、中列でボールを抱えているのが征爾

1950年(昭和25年)15歳 中学三年
・弟の幹雄が一年生として成城中学に入学した。
・学校で急に盲腸になり正門前の木下病院に入院。
・秋、世田谷区代田引越
・指の怪我でピアノを弾けなくなっ小澤だが、『音楽はやりたいと思い、成城に昔からある男性合唱団「ユーロ・カステロ」に行きロシア民謡や黒人霊歌などを歌った。うねるハーモニー、アクセント、リズム、指揮で音楽が変わることを経験し衝撃を受けた小澤は、三年生のはじめ頃、同学年の安生慶と二級下の女子たち男女十人くらいで賛美歌を歌うグループを作った。同学年の清水敬允や山本逸郎、俊夫兄貴、弟のポンも加わった。』
授業が終わると中学の音楽堂に集まって練習をはじめた。小澤が指揮をしたのはこのときが初めてであった。今も「城(しろ)の音(ね)」の名で活動している。
・12月23日兄に連れられ日比谷公会堂の日響コンサートで、ピアニストのレオニード・クロイツァーがベートーヴェンの《ピアノ協奏曲》「皇帝」を弾きながら指揮しているのを聴き感動した。指がまだ動ない征爾は本当に指揮者を目指すか悩んでいた。
『ゾクゾクした。やはりその頃、安生に連れられて四ツ谷の聖イグナチオ教会でパイプオルガンを聴き、胃袋がぶるぶる震えたことがあった。同じような感動があった。これだ!と思った。でも指はまだ思うように動かない。本当に指揮者を目指すか、すごく悩んだ。』
そんな姿をみた父開作はこっそり担任の今井先生に相談したところ、”彼はピアニストになるより、指揮者の方が向いています”と言った。先生は三年間ずっと受け持ちだった。『学校を出たてでまだ若く、その風貌から僕らは「山猿」と呼んでいた。おやじとは大酒飲み同士、気が合ったようだ。「彼はピアノより指揮者の方が向いています」。飲み屋で先生が断言したもんだから、おやじは安心し、僕が指揮者になるのを応援するようになった。』
作曲家か指揮者になることを決意し、小澤は母に相談したしたところ “うちの親戚に指揮者がいるよ” と教えてくれた。親戚の指揮者とは(はとこ)にあたる斉藤秀雄である。斉藤秀雄の祖母の前島久と母さくらの祖父大津義一郎が実の兄妹。斉藤秀雄の父斉藤秀三郎は、正則英語学校創設者で一高の教授、「サイトウ英和大辞典」などを編纂した
・小澤は母の紹介状を持ち弟子入りしようと、ひとり斎藤秀雄家を訪れた。
・斉藤秀雄は今手いっぱいで教えられないから ” 1年後に創設する普通高校の桐朋に音楽科を設けるから待ってそこに入りなさい ” と征爾に言った。
その間、征爾は柴田南雄に作曲、小林福子に聴音を、斉藤秀雄の弟子の山本直純に指揮の基本を教わり、月二回斉藤秀雄に見てもらった。
・斎藤秀雄は指揮の動作を徹底的に分析し、「たたき」「しゃくい」「せんにゅう」「はねあげ」などにわけ、どの動きもいつ力を抜き、力を入れるかは厳密にきまっている。それを頭で考えながら指揮なんてできないから、筋肉に全部覚えさせなければならない。”歩くときに坂を上がろう、角を曲がろう、といちいち考えないだろう?”と斉藤秀雄は言う。
・征爾は動作を体にたたき込むのに歩いている間も電車に乗っている間も腕を振った。周りの視線にも気づかないぐらい集中していた。
・斎藤秀雄は戦後、吉田秀和、柴田南雄、井口基成、伊藤武雄、井口秋子、井口愛子、畑中良輔、石桁真禮生、別宮貞雄、遠山一行らと市ヶ谷九段の東京家政学院が提供してくれた窓ガラスが割れた戦後のボロ校舎で「子供のための音楽教室」を土曜の午後だけソルフェージュ、音感教育、合唱練習を教室で集団授業として基礎から音楽を教えていた。あとのピアノや弦楽器の個人レッスンは都内各所に散らばった先生たちの家に通ってもらう。弦では鷲見三郎や小野アンナらも加わった。その成長を待ち兼ねるように斉藤は合奏訓練を始めた。後の桐朋学園オーケストラに発展してゆく。同時に指揮者の卵たちのまたとない実践訓練の場となった。その前から斉藤は目白の自由学園にも「斎藤秀雄指揮教室」をやっており両方の教室で多くの門下生を輩出させた。山本直純、小澤征爾、秋山和慶、尾高忠明、井上道義、飯森泰次郎、岩城宏之、紙屋一衛、久山恵子等々、弦では岩崎洸(チェロ)、菅野博文(チェロ)、倉田澄子(チェロ)、塚原みどり(チェロ)、堤剛(チェロ)、徳永兼一郎(チェロ)、林峰男(チェロ)、原田禎夫(チェロ)、平井丈一朗(チェロ)、藤原真理(チェロ)、堀了介(チェロ)、松波恵子(チェロ)、安田謙一郎(チェロ)、山崎伸子(チェロ)ほかにヴァイオリンも教えた。
吉田秀和は語る『それはまだガダルカナルやラバウルの攻防(1942年頃)が激しいころで、ある夜、斎藤秀雄さんに呼ばれていってみると、"戦争がここまで来ると、東京はきっと空襲され、ひどいことになる。いまから日本にある楽譜だとか特別高価な楽器だとか、大切なものはどこか安全なところに移しておかないと、戦後当分何もできなくなる。よく考えて、実行してちょうだい。" といわれてびっくりした。それがどういう事態を意味するのか、考えも及ばないことだった。
戦後終わって、彼が私の家を訪ねて来た"子供のための音楽教育を始めるから、手伝ってほしい。今はろくに食べるものもないけど、そういうことは何とかなるよ。人間は食べないでいられないのだから。大事なのは、次代の教育だ。今度こそ、日本で音楽をやるんだ。それには、今が最適の時"と彼は言った。何日がかりで、しつこく口説かれ私は落城した。彼の基本理念は音楽早教育。"音楽は言葉と同じで、小さい時から始めれば始めるほど、無理なく、そうして、上までのぼってゆかれる。教育は五歳から始めてよいそうだから、われわれの学校は五歳から、おそくとも小学生までとする。"というもの。私は気に入った。』
成城中3年‐桐朋学園音楽科時代


~ここから~
1951年(昭和26年)16歳 成城学園高校一年
・家賃が払えなくなって一家は世田谷区経堂の東京農大の校舎に住み着いた。父開作の知り合いに農大の関係者がいて、空き教室を使わせてくれた。
・成城中学卒業後、成城学園高校に進学し、一年間待つことにした。
・当時、東京藝術大学の入試に失敗した山本直純(18歳)は、斉藤に言われ、この年から一年間、山本は小澤の家に週一度出かけて、成城学園高校一年生の小澤征爾に斉藤秀雄の指揮法の基本を教え始めた。山本は絶対に入ると受験生の間で知れ渡っていた。山本の失敗は大ニュースになった。山本は自分が失敗するなんて思いもしなかったと言っている。藝大はコールユンブンゲンは60点以下はだめなのだ。山本は自分は音痴ではないかと考えるようになってしまったという。
斉藤指揮教室は、Aクラスの生徒がB、Cクラスの生徒の下練習を受け持っていたからそうなったようである。山本は小澤に教えるに「今日はこの曲をやろう」と言って、まず、二人でピアノを弾いて互いに指揮をする。すると山本が「お前の問題点はここだな」とすぐに見抜いて、そこを重点的に練習する。大事な事しか教えないから、レッスン時間が短い。世界の小澤に指揮を最初に教えたのは斉藤秀雄ではなく山本だった。
山本は以前斉藤に桐朋に指揮科が出来るから入らないかと言われていた。山本は一浪しておりこれ以上大学を遅らすことは出来ないと思い藝大を選ぶことになる。
その間、小澤は柴田南雄に作曲、小林福子に聴音を、斉藤秀雄の弟子の山本直純に指揮の基本を教わり、月二回斉藤秀雄に見てもらった。
小澤はインタビュアーに語る『弟子入りを志願した時に、斉藤は”今手いっぱいで教えられないから、しばらく山本直純という人に教えてもらいなさい”と言われた。これが直純との出会いです。当時、直純さんはすでに斉藤先生に師事していて、いわば僕の兄弟子でした。週に一度家に来て、一年間指揮を教えてくれました。』。
・小澤は動作を体にたたき込むのに歩いている間も電車に乗っている間も腕を振った。周りの視線にも気づかないぐらい集中していた。
↓山本直純については以下のアドレスから
https://history-of-music.com/naozumi-yamamoto
「斎藤秀雄の指揮教室について」
・斎藤秀雄は指揮の動作を徹底的に分析し、「たたき」「しゃくい」「せんにゅう」「はねあげ」などにわけ、どの動きもいつも力を抜き、どこで力を入れるか厳密にきまっている。それを頭で考えながら指揮なんてできないから、筋肉に全部覚えさせなければならない。”歩くときに坂を上がろう、角を曲がろう、といちいち考えないだろう?”と斉藤秀雄は言う。
・斎藤秀雄は戦後、吉田秀和、柴田南雄、井口基成、伊藤武雄、井口秋子、井口愛子、畑中良輔、石桁真禮生、別宮貞雄、遠山一行らと市ヶ谷九段の東京家政学院が提供してくれた窓ガラスが割れた戦後のボロ校舎で「子供のための音楽教室」を土曜の午後だけソルフェージュ、音感教育、合唱練習を教室で集団授業として基礎から音楽を教えていた。あとのピアノや弦楽器の個人レッスンは都内各所に散らばった先生たちの家に通ってもらう。弦では鷲見三郎や小野アンナらも加わった。その成長を待ち兼ねるように斉藤は合奏訓練を始めた。後の桐朋学園オーケストラに発展してゆく。同時に指揮者の卵たちのまたとない実践訓練の場となった。その前から斉藤は目白の自由学園にも「斎藤秀雄指揮教室」をやっており両方の教室で多くの門下生を輩出させた。
山本直純、小澤征爾、秋山和慶、尾高忠明、井上道義、飯森泰次郎、岩城宏之、紙屋一衛、久山恵子等々、弦では岩崎洸(チェロ)、菅野博文(チェロ)、倉田澄子(チェロ)、塚原みどり(チェロ)、堤剛(チェロ)、徳永兼一郎(チェロ)、林峰男(チェロ)、原田禎夫(チェロ)、平井丈一朗(チェロ)、藤原真理(チェロ)、堀了介(チェロ)、松波恵子(チェロ)、安田謙一郎(チェロ)、山崎伸子(チェロ)ほかにヴァイオリンも教えた。
・吉田秀和は語る『それはまだガダルカナルやラバウルの攻防(1942年頃)が激しいころで、ある夜、斎藤秀雄さんに呼ばれていってみると、"戦争がここまで来ると、東京はきっと空襲され、ひどいことになる。いまから日本にある楽譜だとか特別高価な楽器だとか、大切なものはどこか安全なところに移しておかないと、戦後当分何もできなくなる。よく考えて、実行してちょうだい。" といわれてびっくりした。それがどういう事態を意味するのか、考えも及ばないことだった。
戦後終わって、彼が私の家を訪ねて来た"子供のための音楽教育を始めるから、手伝ってほしい。今はろくに食べるものもないけど、そういうことは何とかなるよ。人間は食べないでいられないのだから。大事なのは、次代の教育だ。今度こそ、日本で音楽をやるんだ。それには、今が最適の時"と彼は言った。何日がかりで、しつこく口説かれ私は落城した。彼の基本理念は音楽早教育。"音楽は言葉と同じで、小さい時から始めれば始めるほど、無理なく、そうして、上までのぼってゆかれる。教育は五歳から始めてよいそうだから、われわれの学校は五歳から、おそくとも小学生までとする。"というもの。私は気に入った』。
1952年(昭和27年)17歳
4月8日成城高校を1年で中退した小澤は、新設された桐朋女子高等学校音楽科指揮科に入学した。第一期生女子生徒42名、男子生徒4名(村上綜/声楽科、林秀光/ピアノ科、堀伝/ヴァイオリン科と小澤/指揮科が入学した。先生一人に生徒一人という教育がはじまる。
『1952年、いよいよ桐朋学園の音楽高校に入学する。同期の男子は4人。頭が切れる村上綜(声楽)、まじめな林秀光(ピアノ)、スマートなホリデンこと堀伝(ただし)(バイオリン)、お山の大将の僕(指揮)、という顔ぶれだった。』
・小澤は道を歩きながらでもメロディを口ずさみ両手を振って指揮の練習をしたという。小澤は忙しかった。斉藤秀雄に桐朋の学生オーケストラの雑用を一切任され譜面台や楽譜の手配、椅子並べ、パート譜の印刷校正と次から次にやることがあった。指揮の勉強もあり休む暇がなかった。
『楽譜の間違いがあったり、譜面台が壊れてたりすると「小澤!」と怒鳴られた。見かねたホリデンが手伝ってくれることもあったが、仕事はいくらでもあった。帰る頃にはヘトヘトだ。ほかの生徒は楽器だけ練習していればいいのに、なんで僕ばかりこんなに大変なのか、と一時期は先生をうらんだものだ』
『土曜日の午後には「子供のための音楽教室」の生徒たちも加わって、オーケストラの練習がある。夏休みになれば北軽井沢で合宿だ。合宿所は地元の小学校。一日中練習し、夜は教室にむしろを敷いて寝た。先生は子供にも容赦せず、怒鳴りつけては震え上がらせた。保護者も何も言えなかった。
先生と生徒の間に立っていたのが桐朋の事務方の伊集院清三先生だ。よく生徒の味方になってくれた。怒られている僕に助け舟を出してくれたこともある。上品で優しい、本当の人格者だった。』
『高校時代の僕はいつも忙しく、ひょろひょろに痩せていた。ある日、胃が痛くなって固いものが喉を通らなくなった。十二指腸潰瘍だった。斎藤先生の親戚(つまり僕の親戚でもあるが)の橋本寛敏院長がいる聖路加病院で看(み)てもらったところ、食事療法で治すことになった。主治医は菅原虎雄先生と日野原重明先生。完治できたのは、この先生たちのおかげだ。』
・成城中学ではじめた合唱の練習は、桐朋音楽科に入ってからも続いた。小澤は仙川の桐朋音楽科の放課後、神代書店の前から都立神代高校の前を通り、坂を下り入間を通って三十分ほど歩いて成城に通って合唱練習を続けた。
『斎藤先生の自宅ではめちゃくちゃ厳しかった。指揮のレッスンはピアノをオーケストラに見立てて行う。女の弟子の久山恵子さんのレッスンで、僕と直純さんが連弾した。練習が足りず、弾けないところは口三味線で「ララララ~」なんて歌ってごまかしてたら、とうとう「バカにするな!」と雷が落ちた。あまりの剣幕に、2人して庭からお宅を飛び出し、近くの公衆トイレの陰に隠れたら、奥さんの秀子さんが僕らの靴を持って追いかけてきた。でもあのレッスンは後で役に立ったと思う。細かなニュアンスを弾き分け、オーケストラの音を想像する訓練になったからだ。バイオリンやチェロのピアノ伴奏もやれと言われて、ずいぶんやった。』
・土曜日の午後は「子供のための音楽教室」の生徒たちも加わって、オーケストラの練習があった。夏休みになれば北軽井沢で合宿した。地元の小学校を借りて一日中練習し、夜は教室にむしろを敷いてねた。
桐朋学園音楽部門の歴史、第一期新入生の中に若き小澤征爾が写っている(最後列)
https://www.tohomusic.ac.jp/about/history.html桐朋学園音楽部門の歴史、第一期新入生の中に若き小澤征爾が写っている(最後列)
1953年(昭和28年)18歳 桐朋女子高等学校音楽科二年
・小澤は語る『斉藤指揮教室で斉藤先生が直純のレッスンの時に、彼の楽譜を見ながら指導していました。レッスン後、"この楽譜の書き込み、僕も勉強になった。ありがとう”と真剣に直純に礼を言っていたのです。そのくらい、斉藤先生が山本直純をすごく認めているということは、みんなよくわかっていた。一番音楽的な信用があり、そして先生から音楽の才能に対する尊敬を受けていました。』。この年、山本直純は藝大作曲科に入学した。斉藤秀雄と山本直純のレッスンは山本直純が藝大を卒業するまで続いた。
1954年(昭和29年)
・桐朋女子高等学校音楽科三年進級
・桐朋音楽科学生オーケストラもできたばかりで人手がなく、小澤はひとりでみんなの譜面台や椅子の手配からパート譜の印刷まで一切やっていた。
・毎年夏休みになると、北軽井沢にある斉藤の別荘の近くにある小学校を借りて、オーケストラが合宿練習をやっていた。合宿にはオーケストラのメンバーの母親たちが大勢参加し、小澤の母さくらも行った。練習も寝泊りも村の小学校の教室を使った。合宿の最期にその小学校の生徒たちにお礼の演奏会を開き征爾は指揮をした。
・桐朋オーケストラの練習曲はバッハ《シャコンヌ》、チャイコフスキー《弦楽セレナーデ》、Jシュトラウス《こうもり》序曲が多かった。
・小澤は仙川の桐朋音楽科の放課後、神代書店の前から都立神代高校の前を通り、坂を下り入間を通って三十分ほど歩いて成城に通って合唱練習を続けた。
・高校三年の卒業公演で桐朋オーケストラを相手にバッハ《シャコンヌ》を振ることになり、斎藤秀雄はオーケストラ用に編曲した十数分の曲を半年かけて征爾に教えこんだ。
・小澤は語る『バッハの原典にはテンポの指定がない。音楽記号も書かれていない。でも先生は楽譜を読み尽くし、音楽を細かく構築した。しかも”一番音域が広いここが音楽の頂点”というようにすべて言葉で説明できた。後年、ベルリンでヴァイオリニストのヨゼフ・シゲティの引退公演を聴いたとき、《シャコンヌ》が先生のやり方と全く同じで驚いたことがある。』
『先生はそれだけ才能があったのに極端なあがり症だった。本番の演奏会で指揮する時は普段と全然違う。手が先走って「先入(せんにゅう)」という指揮法をやたらに使うのだ。何の気なしに「先生、今日は『先入』ばかりでしたね」と言ったら「そんなこと言うな!」とドヤされた。半年に一回くらいそれで怒られて、兄弟子の山本直純さんにあきれられた。』
・卒業公演の《シャコンヌ》は山本直純、岩城宏之も聴きに来て、終演後に”感動した”と言ってくれたのが征爾には嬉しかった。
桐朋学園女子高校付属音楽科指揮科卒業
1955年(昭和30年)20歳 桐朋学園短期大学音楽科一年
・高校三年の卒業公演で桐朋オーケストラを相手にバッハ《シャコンヌ》を振ることになり、斎藤秀雄はオーケストラ用に編曲した十数分の曲を半年かけて小澤に教えこんだ。小澤は語る『バッハの原典にはテンポの指定がない。音楽記号も書かれていない。でも先生は楽譜を読み尽くし、音楽を細かく構築した。しかも”一番音域が広いここが音楽の頂点”というようにすべて言葉で説明できた。後年、ベルリンでヴァイオリニストのヨゼフ・シゲティの引退公演を効いたとき、《シャコンヌ》が先生のやり方と全く同じで驚いたことがある。』。
・卒業公演の《シャコンヌ》は山本直純、岩城宏之も聴きに来て、終演後に”感動した”と言ってくれたのが征爾には嬉しかった。
・桐朋学園女子高校付属音楽科指揮科卒業。
4月出来たばかりの桐朋学園短期大学音楽科指揮科一年に入学した。男子生徒は四人だけで指揮科は小澤一人だった。
5月中旬頃、小澤の指揮する桐朋学園オーケストラの練習風景を、来日中のシンフォニー・オブ・ジ・エアのメンバーと指揮者ワルター・ヘンドル等数人が見学しに来た。
5月来日中のシンフォニー・オブ・ジ・エアの公開練習を斎藤秀雄に言われて聴きに行き響きの違いに衝撃を受ける。曲目はブラームス《交響曲第一番》ほかのリハーサルであった。
・音楽をやるなら外国へ行って勉強するしかないと小澤は心に決めた。
同期の江戸京子や桐朋の仲間たちは次々と留学して行き、征爾はいつも羽田空港で見送った。相変わらず斉藤秀雄のカバン持ちとして雑用に追い立てられる毎日を過ごしていた。征爾はその間、斉藤先生宅の個人レッスンや桐朋の学生オーケストラの指揮練習に明け暮れた。
・川崎市幸区戸手町に引越す

1956年(昭和31年)21歳 短大二年
・桐朋学園短期大学二年の頃、斎藤秀雄の厳しいレッスンと学生オーケストラの激務のため、神経性の十二指腸潰瘍に悩まされ、固いものが何も食べられないことがあった。
・この年日本青年館で征爾は、桐朋学園オーケストラを指揮してチャイコフスキー《弦楽セレナーデ》を振った
・毎年秋の「毎日音楽コンクール」が開かれ、征爾は応募した生徒からコンクール予選でのピアノ伴奏を頼まれていた。その練習は家でも行われた。
・暮れ、中学時代の仲間で作った成城の合唱団「城の音」のクリスマス音楽会のあと、恒例のキャロルに出発した征爾は手にローソクを持って讃美歌を歌いながら歩いた。数日前から風邪気味だった征爾は翌日から高熱を出し肺炎に罹ってしまった。年も明けた1957年になっても起きられず卒業目前に長期間欠席してしまった。そのため卒業試験の幾つかを受けることができなかった。
1957年(昭和32年)22歳 卒業見合わせ
・桐朋学園で指揮と作曲の両方で一等賞を受賞し、NHKと雑誌音楽の友により邦楽の「傑出した才能」に選ばれた。
3月迎えた卒業式でなぜか小澤の名前は呼ばれなかった。あるはずの卒業証書もない。卒業見合わせ、留年していたのだ。しかも誰も教えてくれなかった。
・暮の肺炎ダウンで単位不足となり一人だけ卒業できなかった。そうとは知らず母さくらも着物で晴れやかに卒業式に出席した。母さくらは泣きながら帰って行った。母は卒業式前日に行われた謝恩会の役員を引き受けていた。
・声楽の伊藤武雄先生が『いいんだ、卒業なんかしなくたって』と慰めてくれた。また学費を払うのにアルバイトをしなければいけなくなった。
しばらく伊藤武雄先生の紹介で日本橋の三友会合唱団を指揮者となった。征爾はこの合唱団の常任指揮者を数年勤め、全国合唱コンクールにも出場した。また斎藤秀雄先生に言われて群馬交響楽団へ行き、初めてプロのオーケストラを指揮した。北海道演奏旅行では指揮者を担当した。卒業してからも桐朋の助手として残り、斉藤秀雄のカバン持ちのようにして、いつも先生と行動を共にしていた。
・7月卒業を許可された。
・7月28日赤城山頂大沼湖畔「1000人の大合唱」で小澤は群馬フィルハーモニーオーケストラ(現:群馬交響楽団)を指揮
・夏まで桐朋学園音楽短期大学で斎藤秀雄に指揮法を師事し中学三年から始めた指揮の勉強でオ-ケストラを仕込む技術を身につけた。
12月設立間もない日本フィルハーモニー交響楽団第5回定期演奏会のラヴェル《子供と魔法》で、渡邉暁雄の下で副指揮者を務めたあ。アマチュア合唱団・三友合唱団を指揮。
1958年(昭和33年)23歳 渡欧準備
・桐朋学園オーケストラがブリュッセルの万博博覧会青少年音楽コンクール参加する話が持ち上がったが、これは資金不足で断念する羽目になった。
その時、征爾は堅い決意をした。
・私費留学
オーケストラの参加がだめならせめて自分一人だけでもヨーロッパに行こうと。その頃から単身渡欧することを計画していた。
多少の金さえ持っていれば、あとはスクーターでも宣伝しながら行けば、自分一人ぐらいの資金は捻出できるのではないかと思うようになった。
・「フランス政府給費留学生」の試験を受けた。小澤と桐朋オーケストラのフルートで小澤の弟分の加藤怒彦が最終審査に残った。結局、語学ができて優秀な加藤が受かりパリ国立音楽院に留学が決まった。小澤が不合格となった。
・桐朋恒例の北北軽井沢での夏合宿の後、小澤は軽井沢駅待合室で成城の同級生水野ルミ子にばったり会った。『征爾、何落ち込んだ顔してるの』という。小澤は外国で音楽を勉強したいが手立ても金もない、と説明した。ルミ子は『うちの父に話してみる?』という。ルミ子の父は水野成夫氏で文化放送やフジテレビの社長だった。その足でルミ子の別荘へ行き、水野に会う。顔を合わせたことはあったが、ちゃんと話すのは初めてだった。小澤の話を聞いて『本気なんだな?』と小澤に念を押すと、すぐに四ツ谷の文化放送へ行け、と言った。向かった先で重役の友田信氏が資金を用意してくれたが、確か50万円だった。
桐朋の同期江戸京子の父で三井不動産社長江戸英雄氏にも随分と助けられた。小澤の父が川崎で歯医者を始め家を建てたから桐朋に通うのが大変だった。江戸はそれを知り、下落合の自宅に征爾を寝泊りできる部屋を用意したり、ご飯を食べさせてくれたりしていた。
桐朋の音楽科は江戸や生江義男先生たちと協力して設立したのだった。その江戸氏が話をつけて、日興証券会長の遠山元一氏からも資金を援助してもらえた。
↓ 小澤征爾物語-8-1958-1959
渡欧準備‐ブザンソン指揮者コンクール優勝
1959年(昭和34年)24歳
・正月、成城時代の合唱の仲間と信州野沢へスキーに行き四日目に崖から墜落して腰を打ってしまった。その晩から高い熱を出し大変な目にあったがわが家に着くころにはなおっていた。
・家に帰ると前から方々に頼んであったヨーロッパ行きのチャンスが来ていた。江戸氏の手配でフランス行きの貨物船に安く載せてくれるという話だった。
小澤はフランスではスクーターで移動することを思いつき、江戸氏の家によく出入りしていた後の彫刻家藤江隆氏と毎日新聞記者木村氏と手分けして、片っ端から自動車会社に電話してスクーターの提供を頼んだ。が、良い返事はなかった。結局、父の満洲時代の同志で富士重工業の松尾清秀氏がラビットジュニアスクーター125㏄新型スクーターを用意してくれた。
・富士重工の工場でスクーターの分解法や修理法を習った。
<神戸から貨物船淡路山丸でフランスへ出立>
・出航は2月1日に決まった。スクーターは横浜で貨物船に預け、神戸から乗船することにした。
・出発の前日、家族で水入らずの送別会をやってくれ、父は大まじめな顔で「水杯だ」と言い、二人で酒を飲み交わした。
・出発の夜、東京駅に大勢の人がプラットホームまで見送りに来た。桐朋のみんな、成城のラクビー仲間、合唱グループ「城の音」のメンバー、「三友合唱団」のおばさんたちもいて万歳三唱してくれた。その時、夜のホームの向こうから斉藤秀雄先生がトボトボ歩いてきて、コートのポケットから『これ、使えよ』と分厚い封筒を出してきた。あとで確かめたら1000ドルちかく入っていた。征爾には何より来てくれたことが有難く感じた。俊夫兄と三等寝台にに乗り込み、窓からみんなに手を振り続けた。
2月1日三井船舶の貨物船「淡路丸」の甲板にスクーターを縛りつけ、ギターとともに神戸港から乗船し出港、マルセーユに向かった。見送りは明石にいる友人とその母、仙台から来た兄貴の三人だった。ヨーロッパに着くまで約二ヶ月、六十三日かかる気の長い旅の出発であった。
マニラ-シンガポール-ボンペイ- ポートスーダン-アレキサンドリア-メッシ-マルセイユ
神戸を発って四日目フィリピン諸島の港を回った。
<征爾がマニラから投函した船旅の手紙>
・『~略~一日の生活をザッと書く。六時に起床し体操。出港後ひまなときに教えてもらったコンパスを使って船の位置を確かめる。八時食事、トースト、ハムエッグ、コーヒー、果物。10時ごろからフランス語やスクーターの勉強。昼食はフルコースの洋食だ、スープ、魚料理、肉料理、サラダ、パン、コーヒー、ミルク、アイスクリーム、果物、これだけは必ず出る。昼食後はサロンでお喋り、それから昼寝。三時ごろからマラソン、縄跳び、ゴルフだ。夕方はたいてい機関室か通信室かブリッジで専門的「船学」の個人教授を受ける。五時夕食、今度は日本食だ初めのうちはメシ、メシ、メシで困ったが、だいぶ慣れてきた。夜はレコードを聴いたり、甲板の上を散歩したり、お喋りしたりする。ヴァイオリンやコーラスを教えることもある。寝る前には必ず風呂に入り、九時と十時の間にはベッドに入る。ボーイは何でも好きな物を食わしてくれるしビールもただだ。マニラに着いたとき寒暖計を見たら三十八度あるのに驚いた。暑いはずだ。夕焼けはすごい。見ているこっちの顔にまで反映してくる。戦争で死んだ人のことを思うと胸が痛くなってくる。この辺は激戦地だったそうだ。』
・シンガポールに三日停泊。
<ボンベイからの手紙>
2月28日インドのボンベイに入港。ボンベイからの手紙
『ボンベイに入港したよ。みんな元気?。今夜演奏会がある。会場のTAJホテルに行き、「ヤァー」といって、いつものように正面入口から堂々とロハ入場した。向こうは少しもいぶかしそうな顔をしなかったぜ。街を行くのはタクシーに乗るのが定石らしいが、ボクはわざと電車とバスで街をひと回りした。その方がその国の生活ぶりがわかっておもしろい、値段も七円ぐらいでまことに安い。』。
3月10日アフリカのポートスーダンに寄港した。
『ぼくは街をゆっくり散歩し、そのたびに英語はうまくなるし、物知りにもなる』。スエズでは上陸できなかった。
3月12日アレキサンドリア。手紙を書き投函。
『みんな元気?おやじさんは相変わらず忙しいでしょう?。~略~船の風呂は海水に湯気(多分蒸気)を吹きこんで沸かすのだが、五分くらいで沸く。毎日海水をとりかえるから、ボクは太平洋、インド洋、紅海、地中海の風呂に入ったわけだ。~略~スクーターの勉強も進んだが、英語のほうもなかなか捨てたものではない。フランス語は単語カードを作った。ボクの部屋は皆の溜まり場になっている。夜になるとアミダクジを引き、ビールを飲む。もっともボクはビールも菓子も、つまみも、ブドー酒もクリーニング代もただだ。ただでないのは手紙代くらいだよ。マルセイユで日本円をフランに換えてもらえるように、船長が特別に手配してくれた。以下略。』
3月15日次はイタリアの南端、シシリー島のメッシへ。

<フランス マルセイユに着、パリへ>
3月23日マルセイユに上陸 三か月間は旅行者扱いで日本の免許証が使えた。

3月26日スクーターでパリを目指す。まずマルセイユからからヴァランスへ向かった。
『途中の道は「フランスの庭」というだけあり美しい。古い農家の後ろにはアルプスが見え、空が高くまで澄んでいる。ヴァランスのユースホステルは一泊七十円から百円くらい、飯は普通食なら八十円くらいだが、ちょっとおごって百五十円から二百円くらいする。もっともレストランに行けば五百円から六百円はかかる。ホステルでみんなにピアノを聞かせたら大いに喜ばれた。希望曲がほとんどアメリカのジャズなのは意外だった』。
4月8日パリ着。その日はホテルに泊まった。途中はほとんど野宿だった。パリで桐朋学園大学短期同期の江戸京子等に会う。
6月ブザンソン国際指揮者コンクール締切日間に合わず
江戸京子からブザンソンで国際指揮者コンクールが行われると知らされた。
・「棒ふりコンクール」、小澤のヨーロッパへ来た目的は棒ふりの修行であった。『そりゃ一発やってみたいけど、どんなふうになっているのかな』『私の通っているパリ国立音楽院の玄関に、たしかコンクールのポスターが貼ってあったわ』江戸京子に連れられパリ国立音楽院に小澤は行った。
おぼつかないフランス語では小澤には分らない。ポスターの内容を江戸京子に通訳してもらうと小澤にも資格があった。
・半年も指揮していなかった小澤は、指揮をしたくてたまらなかった。わずかな申込金でコンクールを受けることができる。
・フランスのナマのオーケストラを一回でも指揮することができれば、それだけでも十分意義があると征爾は考えた。そう思って応募することに決めた。
ところが手続きの不備で締切日に間に合わなかった。
・このままあきらめる気もしなかった。小澤は最後の綱とばかり日本大使館に駆け込んだが、思わしくない。
まだ諦めることはできず、征爾が友人から聞いていたアメリカ大使館の音楽部のことを思い出しコンコルド広場の近くにあるアメリカ大使館を訪れた。
・そこには昔ニューヨークの弦楽四重奏団の第二ヴァイオリンを弾いていたというマダム・ド・カッサ女史が座っていた。
小澤は今までの事情を説明した。そして『日本へ帰る前に一つの経験としてブザンソンのコンクールを受けたいのだが、今からなんとか便宜をはかってもらえないだろうか』と頼み込んだ。
<あなたはいい指揮者か?>
・するとカッサ女史は『あなたはいい指揮者か?』と聞く。征爾はデカい声で『自分はいい指揮者になるだろう』と答えた。
カッサ女史はゲラゲラ笑いだし、すぐに長距離電話でブザンソン国際音楽事務所を呼び出して、『遠い日本から来たのだから、特別にはからって受験資格をあたえてやってほしい』と頼んでくれた。
向こうの返事は『今すぐは決められないから二週間ほど待ってくれ』だった。
カッサ女史は『コンクールを受けると決まった時に慌てるといけないから、その間にスコアを買って読んでおいた方がよい』と親切に言ってくれた。
このころ征爾は少し栄養失調気味になっていた。長い旅行とパリでの安メシ屋がよいが原因だ。何をやっても体がフラフラする。血が上がったり下がったりした。エレベーターが一番苦手になっていた。
・コンクールの日に一番良いコンディションに持っていかなければならないのに弱ったなと思うようになっていた。
そんな時,見るに見かねた堂本印象氏の甥の堂本尚郎画伯が風光明媚な南仏のニースへ招待してくれた。征爾は喜んで飛びつき体力作りがてらスコアを抱えて行った。体力作りに夢中なあまり、直射日光を浴びすぎ、日射病になるという不覚を取ってしまった。それからはもっぱら半病人のようにニースの山の上で過ごしていた。
・パリのアメリカ大使館から速達が来てコンクール受験の資格を取れることが正式に決まったと言ってきた。
征爾はすぐにパリへ戻った。
・そのころ征爾は大学都市のイギリス館に住んでいた。征爾はそこでオーストラリアから来たピアニストのロジャーと江戸京子が何度も何度も連弾してくれ、それを頼りに実際に指揮するようなつもりで手を振った。これが一番いい勉強になった。
・『僕は日本を発つまで斉藤先生のもとで勉強した。斉藤先生の指揮のメトードは、基礎的な訓練ということに関してはまったく完璧で、世界にその類をみないと、僕は思っている。具体的にいうと、斉藤先生は指揮の手を動かす運動を何種類かに分類した。たとえば物を叩く運動からくる「叩き」。手を滑らかに動かす「平均運動」。鳥の首がピクピク動くみたいに動かす「直接運動」。というような具合に分類する。そのすべてについていつ力を抜き、あるいはいつ力を力を入れるかというようなことを教えてくれた。その指揮上のテクニックはまったく尊いもので、一口に言えば、指揮をしながらいつでも自を分の力を自分でコントロールすることができるということを教わった。言い方を変えれば、自分の体から力を抜くということが、いつでも可能になるということなのだ。それと同じようなことを、言葉は変わっているが、シャルルミンシュも言っていたし、カラヤンもベルリンで僕に教えてくれたときに言っていた。自分のことを言うようでおかしいが、ぼくはどんなオーケストラへいっても、そのオーケストラが、あるむずかしい曲で合わなくなったり、アンサンブルがわるくなったりしているときに、ぼくのもっているテクニックを使って、必ずみんなのアンサンブルを整えることができるという自信を持っている。それはすなわち斉藤先生のメトードによるものだ。それがオーケストラのほうからみると、セイジの棒は非常に明瞭だという答えになって表れるので、ぼくとしては、指揮するばあいに非常に有利な立場に立つことができるのだ。指揮の試験を受ける人たちに伝えておきたい。何より、柔軟で鋭敏で、しかもエネルギッシュな体を作っておくこと。また音楽家になるよりスポーツマンになるようなつもりで、スコアに向かうこと。それが、指揮をする動作を作り、これが言葉以上に的確にオーケストラの人たちには通じるのだ。ぼくが外国に行って各国のオーケストラを指揮して得た経験のうちで、一番貴重なものはこれである。』
Seiji Ozawa speaks『I studied under Mr. Saito until I left Japan.Saito Sensei’s method of conducting is absolutely perfect when it comes to basic training, and I believe that there is nothing of its kind anywhere else in the world.Specifically, Mr. Saito classified the movements of the conducting hand into several types.For example, “tapping” comes from the movement of hitting something.“Average movement” that moves the hand smoothly.“Direct movement” that makes the neck of a bird twitch.Classify as follows.』
・小澤がブザンソンのに着いた連日連夜の勉強の後なのでかなり疲れていた。所持金も欠乏し始めていた。征爾は学生向きの安宿に入った。
その夜は各国から集まった若い指揮者の歓迎パーティーがあった。みな自信がありそうに見えた。誰もがおれこそ一等賞だという自信にあふれているような顔をしている。若い指揮者の採用試験のようなものはいくつかあるが、正式な指揮のコンクールは世界でここだけ、各国の政府が数名の応募者を派遣しているのだ。
その中にはオペラ座の指揮者や、ロンドン・フィルのアシスタント指揮者などの優秀な者も混じっていた。
<第一次予選>
9月7日第一次予選、48名が応募した。
一人ずつ会場のカジノ劇場に呼び出されてテストを受けた。
曲目はメンデルスゾーン《ルイ・ブラス》序曲、征爾はそれを自分の好みの練習でオーケストラを仕込む。わずか八分でメンバーに指示を与えたり、大胆に棒を振って、誰にもわかるように派手な身振り、手振りを見せた。終わってお客ばかりでなくオーケストラの連中からも一斉に「ブラボー!」という喝采が上がった。
第一次予選パス。17人の中に入った。
嬉しく帰る途中にある花屋に入り一抱えの花を買って帰ると部屋に美しく飾った。
<第二次予選>
9月9日第二次予選。課題曲はサン=サーンス《序奏とロンド・カプリチオーソ》とフォーレ《タンドレス》。サン=サーンスの曲はその場で初めてのソリストに、初めてオーケストラ伴奏をつけるという伴奏テクニックのテスト。
フォーレは六十人編成の各パートの譜に赤インクで間違った譜が書き込まれてある。
ヴァイオリンが違っていたり、ホルンとトロンボーンの音が入れ替えてあるという具合に都合十二ヶ所の誤りを、五分で発見して、完全なオーケストラに仕上げるという課題。征爾はスコアを見つめ、神経をとがらして聴きながら棒を振った。瞬く間に五分間は過ぎ、小澤は十二の誤りを全部指摘することができた。この分なら受かるぞと思った。
・真夜中に発表があり、合格だ ! バンザイ!。
この調子だとコンクールに優勝するかもしれない。そうなればいろんな人からインタビューを受けるかもしれない。フランス語の下手な小澤には不安であった。
小澤は急ぎパリにいる江戸京子と前田郁子(ヴァイオリニスト)に電話して来てもらえることになった。
・彼女たちは翌日すぐに来てくれた。会場の客の中に彼女らがいると思うとどんなにか力づけられた。
<本選へ六人出場>
9月10日本選はブザンソンのグラン・テアトル。
課題曲はドビュッシー《牧神の午後への前奏曲》とヨハン・シュトラウス《春の声》、ビゴーがこの日のために作曲した新曲、出場者六人はボーイスカウトに付き添われて、防音装置で完全に遮断された部屋の中に入る。
そこで課題曲のスコアを初めて渡された。初見であある。それも五分後に指揮する。
小澤は六人のクジで一番最初に指揮台に上がった。不思議と落ち着いた気分で指揮台に上がった。指揮棒をとると少しも臆せずすらすらと思う存分にやれた。
小澤が後で知ったことだが、小澤が演奏している間に、作曲者のビゴーが「ブラボー」と叫んだという。
全部のテストが終わり、一時間後に発表がある。その間、お客さんもオーケストラの人もみな結果を待っている。
発表の時間が来て、一位を呼び出す声が聞こえた。
<ムッシュー・セイジ・オザワ!一位入賞>
・発表の時間が来て、一等を呼び出す声が聞こえた。
「ムッシュー・セイジ・オザワ ! 一位入賞」するとお客さんやオーケストラの人々が「ブラボー、ブラボー、ブラボー ! ! 」と歓声を上げ、すごい拍手が起こった。
小澤は一位入賞した。確かに僕なんだと、小澤は何度か自分に向かって言い聞かせた。
そうでもしなければ信じられないような気持であった。小澤はいつの間にかステージの中央に押し出されていた。賞金と腕時計とフランス語で書かれた免状をもらった。
・江戸京子と前田郁子もすぐステージに上がって来てくれペラペラフランス語で通訳をしてくれた。征爾はカメラでパチパチやられ新聞記者のインタビュー攻めにあった。
・よかった !! 、これでもう少しヨーロッパに残れると喜びを噛みしめた。それが、賞をもらった時に最初にわいてきた喜びだった。
・優勝の翌日、審査員の一人だった指揮者ロリーン・マゼールの部屋に呼ばれた。何かと思えばにやにやしながらピアノを弾き始めた。本選の《牧神の午後への前奏曲》でオーケストラがうまくできなかったところを、わざとそのままにして征爾に聴かせた。彼は若くして天才と呼ばれていて、その後、作曲家のナディア・プーランジェのサロンであった時も輪の中心にいた。征爾は縮こまってコーヒーを飲むばかりであった。《牧神》を弾かれた時もホテルの部屋にピアノがあるなんてすげえなと思った。
・コンクールが終わって三日ほど水の澄んだブザンソンのホテルの前の川でボーっと魚釣りをして楽しんだ。コンクール入選の知らせは家と斉藤先生に知らせた。
・コンクールはブザンソン音楽祭の一環でほかにもいろいろな音楽会が開かれていた。審査員だったシャルル・ミンシュが指揮する音楽会があると聞いて、征爾は出かけて行った。
<ミンシュのベルリオーズ幻想交響曲>
・その時小澤が聴いたベルリオーズの《幻想交響曲》をどう言い表せばいいか彼は、わからなかった。そんな指揮者がいるなんて信じられなかった。長い指揮棒をもって、魔法をかけられたようだった。どうしたらあんなにみずみずしい音楽が生まれるのだろう。居てもたってもいられなくなった。
<アメリカの放送局特派員とクレイジーホース>
・最後のパーティーの時、征爾は思い切って "ミンシュ先生“ と声をかけた。振り返った顔は、さっきまで女の人たちと楽しそうに談笑していた様子とは違って、いかにも気難しそうだった。江戸京子に通訳してもらって伝えた。"弟子にしてください"返事は冷たかった。"私は弟子をとらない。大体、そんな時間はない“ 小澤はがっくりきたが、“もし来年の夏にアメリカのタングルウッドに来るなら教えてもいい“ と付け加えられた。
ミンシュはボストン交響楽団の音楽監督だった。ボストン交響楽団が毎夏タングルウッドで開いている音楽祭でなら教えるということらしい。
<タングルウッド音楽祭参加を目指す>
・小澤らのやりとりをアメリカの放送局、ボイス・オブ・アメリカのヨーロッパ特派員ヘイスケネンが聞いていた。ボストン交響楽団のかっての名指揮者、故セルゲイ・クーセヴィツキーの婦人と知り合いだから、音楽祭に参加できるよう掛け合ってくれるという。それをたよりに征爾はパリへ戻った。
パリに戻ってから、コンクール第一位の新聞記事を読んだパリのコルビュジエが設計したブラジル館の館長が、小澤に無条件で下宿させてくれた。普通は四十人に一人という難関な贅沢な建物、部屋に風呂までついていた。またフランス滞在手帳もすぐに交付してくれた。小澤のように学校も入らず、金の出所もあいまいな者には絶対ありえないことだった。その上パリの音楽会の招待券も送ってくれので、どの指揮者のも聴くことが出来た。
9月末にベルリン音楽祭を聴きに行った。当時、日本人の音楽留学生の世話をよくしてくれていた、田中路子をたずねた。田中路子はかつて、小澤の師・斎藤秀雄と恋愛をしたこともあった、ソプラノ歌手でった。戦後、ドイツの人気俳優だった、ビクトル・デ・コーバと再婚して、ベルリン郊外のお城のような豪邸に住んでいた。彼女は1945年、ベルリンが陥落する前、自邸を解放して、多くの人びとをナチスの迫害からのがした。そのころ、ナチス党員でありながら、アドルフ・ヒトラーの逆鱗にふれたヘルベルト・フォン・カラヤンを、救ってあげたのも田中であった。その関係で、戦後ヨーロッパ楽壇の「帝王」と呼ばれたカラヤンも、田中には一目おいていた。彼女は、のちにソニーの社長・会長をつとめた、かつてのバリトン歌手・大賀典雄をはじめ、多くの日本人音楽家をカラヤンに引き合わせた。
9月26日征爾は家に手紙を書いた。
ベルリン音楽祭に来たこと、前日朝着いたこと、すぐ東ベルリンに入り、国立歌劇場を観たりした。夜はロシア・バレエ《ガヤーヌ》を観たこと聴いたこと、ニ三日中にベルリン・フィルのマネージャーに会うこと、などを書き送った。
10月シェーンベルクの歌劇《モーゼとアローン》をヘルマン・シェルヘン指揮のベルリン初演を観た。
10月12日パリに戻る。
10月16日夜、ドイツのドナウエッシンゲンに行く。17日-18日現代音楽祭があり非公式な招待があり聴きに行った。
10月18日パリから十二時間もかかった。
現代音楽祭はヨーロッパ一ということもあり世界各国から著名音楽家が集まって来た。
日本人ではパリから戸田邦雄(45歳、外務省パリ日本大使館参事官・作曲家、声楽家で当時藝大声楽講師戸田敏子(後の教授・名誉教授)の実兄)、篠原真(29歳作曲家)、日本から現代音楽の評論と詩作で活躍した秋山邦晴(29歳音楽批評)等が来ていた。ベルリンで、作曲家の石井眞木や秋山邦晴と、親交をあたためた。
10月20日パリに戻る。家に手紙を書いた。
『今年いっぱいはパリにいて、来年はベルリン放送局が月給を出すというのでそれをもらい、合間に演奏会をやるつもり』。
パリにもどり、ビゴーから、週一度のレッスンを受けた。オーケストラを使ってのレッスンは、本場のフランス音楽を学ぶよい機会となった。 またこの地で、イサム・ノグチや堂本尚郎などの美術家や、数学者の広中平祐とも親しくなった。
10月放送局ラジオ・フランス主催で征爾のお披露目演奏会と記者会意見が開かれた。
毎日新聞パリ支局長の角田明、画家の堂本尚郎が来てくれた。堂本に紹介されたのが有名なナイトクラブ、クレイジーホースの店主アラン・ベルナンダンだった。
小澤が安い酒ばかり飲んでいることを聞きつけたか、“これからはうちの店で好きなだけ飲め" という。早速その夜に連れられて以来、時々通った。征爾が行くと門番がふざけて敬礼する。アランの小さな部屋は四方の棚に酒が詰まっていて、どれを飲んでもよかった。アランとはその後30年以上付合いが続いた。ものすごい音楽ファンで、小澤がパリで指揮する時は必ず聴きに来てくれた。コンクールの後はそうやって酒を飲んだり、審査員長だった指揮者ウジェーネ・ビゴーのもとで指揮のレッスンを受けたりした。コンクールに優勝すれば仕事が次々来ると思っていたのに、ほとんどゼロ、人生で一番、不安な時期だった。
11月はじめにフランス語の進級試験があった。
<ホームシックと体調崩しノルマンディーの修道院で静養>
・『その年の暮れホームシックにかかった。畳の匂いや日本語が無性に懐かしく、両親のことや、成城、桐朋の学友、先生のことが思い出された。本場ののブドウ酒を飲んでもうまく感じられない。体調を崩し、それである日医者に行った。”パリの毒気にあてられたらしい。さっそくパリから逃げるんだなぁ” 僕は"金がねえ” というと、修道院の紹介状を書いてくれた。ただで飯を食わして泊めてくれる。僕はノルマンディーの一番イギリスに近い出っ張った半島の修道院へパリから汽車とバスに六時間かけ小さな村に着いた。そこからさらに三十分歩いて南フランスのノルマンディのノートルダム・デュ・ベック修道院に着いた。部屋は半地下室のような陽の当たらない、全部が石でできている火の気のない部屋だった。修道院には老若四十人ほどが自給自炊していた。消灯は九時、朝は四時半起床。オルガンが鳴り坊さんたちの重量感あるコーラスが始まる。グレゴリオ聖歌だ。僕もその仲間に入り、四線譜の曲を歌って、帰る頃には坊さんたちと唱和できるようになった。昼間はほとんどの時間が労働で薪を山から馬で下ろしたり、豚のエサ運びなど一生懸命にやった。体を動かしていないと、寒さで凍え死んでしまいそうなのだった。十二時半の昼飯はスープ、豚肉、ウドン、パン、リンゴ酒。このリンゴ酒を飲むと百回ぐらいゲップが出た。夕飯は六時半。スープに卵焼一つにジャガイモ、チーズといった簡単なもの。ここでの静養という生活は征爾にとり、毎食出るチーズの匂いとグレゴリオ聖歌、メシのまずかったこと、これだけはいつまでも忘れられない。』
・『家に近況報告の手紙を書いた・送って欲しい物を書いている。”1.風呂敷数枚、こっちで世話になった先生あげる。2.白い木綿のワイシャツサイズ14インチ二枚。3.靴下ニ三足。4.アルミゲル錠(胃の薬、ボンがよくよく知っている)。5.ドイツ語の文法の本(易しいのがいい、仙台の兄貴に聞いてくれ)。6.漱石の(こころ、明暗)。7.ラビットジュニア用プラグ(点火栓、上の兄貴なら知っている)。8.色紙と和紙(これは誕生日やその他のカードとして小さく切って使うが大きいままでいい)。9.こけし人形(小さくて安いやつでいいから、十カラ二十)。10.その他食料(焼海苔、海苔の佃煮、昆布の佃煮、醤油の缶詰、昆布茶、梅干し、ウニ、味噌、しらたき、削り節、海苔のついた煎餅、わさび粉、七色唐辛子、その他缶詰なら何でも歓迎。なお湿気をうけやすい物はなるべく缶入りか瓶入りかにすること。11.飯櫃、友達を呼ぶときに見せる。12.箸数膳安くていい。12.茶碗と湯呑。こっちに来てめっきり料理の腕が上達した。洗濯もうまくなった。13.靴は十文七分、黒の皮、ズックでは困る。』
・修道院から帰るとパリの街では、クリスマス用の品物が売っていた。
12月チロルにスキーに行った。臨時に学生の団体に加えてもらった。仲間はこの年ロン・ティボー・コンクールで三位となったヴァイオリンの石井志都子、ピアノ江戸京子、ヴァイオリン加藤さんという女性三人と男一人、駅のプラットフォームに四十人が集まり団長を決めた。パリを出発し翌朝インスブルックに着いた。バスに乗りムッタース村の古風なホテルに着いた。征爾らはここでクリスマス、大晦日、正月を迎えた。
<斉藤指揮メトード>
・小澤征爾は語る『僕は日本を発つまで斉藤先生のもとで勉強した。斉藤先生の指揮のメトードは、基礎的な訓練ということに関してはまったく完璧で、世界にその類をみないと、僕は思っている。具体的にいうと、斉藤先生は指揮の手を動かす運動を何種類かに分類した。たとえば物を叩く運動からくる「叩き」。手を滑らかに動かす「平均運動」。鳥の首がピクピク動くみたいに動かす「直接運動」。というような具合に分類する。そのすべてについていつ力を抜き、あるいはいつ力を力を入れるかというようなことを教えてくれた。その指揮上のテクニックはまったく尊いもので、一口に言えば、指揮をしながらいつでも自分の力を自分でコントロールすることができるということを教わった。言い方を変えれば、自分の体から力を抜くということが、いつでも可能になるということなのだ。それと同じようなことを、言葉は変わっているが、シャルルミンシュも言っていたし、カラヤンもベルリンで僕に教えてくれたときに言っていた。自分のことを言うようでおかしいが、ぼくはどんなオーケストラへいっても、そのオーケストラが、あるむずかしい曲で合わなくなったり、アンサンブルがわるくなったりしているときに、ぼくのもっているテクニックを使って、必ずみんなのアンサンブルを整えることができるという自信を持っている。それはすなわち斉藤先生のメトードによるものだ。それがオーケストラのほうからみると、セイジの棒は非常に明瞭だという答えになって表れるので、ぼくとしては、指揮するばあいに非常に有利な立場に立つことができるのだ。指揮の試験を受ける人たちに伝えておきたい。何より、柔軟で鋭敏で、しかもエネルギッシュな体を作っておくこと。また音楽家になるよりスポーツマンになるようなつもりで、スコアに向かうこと。それが、指揮をする動作を作り、これが言葉以上に的確にオーケストラの人たちには通じるのだ。ぼくが外国に行って各国のオーケストラを指揮して得た経験のうちで、一番貴重なものはこれである。』
↓ Saito Conducting Method英語訳
Seiji Ozawa speaks『I studied under Mr. Saito until I left Japan.Saito Sensei’s method of conducting is absolutely perfect when it comes to basic training, and I believe that there is nothing of its kind anywhere else in the world.Specifically, Mr. Saito classified the movements of the conducting hand into several types.For example, “tapping” comes from the movement of hitting something.“Average movement” that moves the hand smoothly.“Direct movement” that makes the neck of a bird twitch.Classify as follows.
He taught me about when to relax and when to apply force in all of these aspects. This conducting technique is truly invaluable, and in a word, I learned that I can control my own strength at any time while conducting.
In other words, it means that it is possible to relax your body at any time.
Something similar, though in different words, was said by Charles Munch and also by Herbert von Karajan, when he taught me in Berlin.
It may sound strange to talk about myself, but I am confident that no matter what orchestra I go to, when the orcheistra is not in sync with a difficult piece or the ensemble is not playing well, I can always use my techniques to get the ensemble in order.
That is because of Mr. Saito’s method. From the orchestra’s point of view, this is reflected in the answer that Seiji’s baton is very clear, so I can be in a very advantageous position when conducting.
I would like to tell those who are taking the conducting exam. Above all, make your body flexible, sensitive, and energetic.
Also, approach the score with the intention of becoming an athlete rather than a musician. This creates the conducting action, and this is conveyed to the orchestra members more accurately than words. Of all the experiences I have gained by going abroad and conducting orchestras in various countries, this is the most valuable one. 』

1960年(昭和35年)25歳
・1月10日スキーからパリに戻る
・1月26日家に手紙を書く。
・その後、急用ができベルリンへ行く。カラヤンのレッスンがテレビで放映されていた。田中路子女史がその放送を見に来て、小澤の背広を見て、音楽家は舞台に出る限り皆の目に触れるのだからと流行りの背広を着た方がいいと言って、デパートへ連れて行き背広をプレゼントしてくれた。
宿舎に帰ると日本から小包が届いていた。
・パリでルービンシュテインらのマネージャーをやっている人とも二月初旬に会う約束があった。
・レッスンは、ブザンソン国際指揮者コンクールの審査長だったパリの長老指揮者ウジェーヌ・ビゴーがオーケストラを使って週一回無料で教えてくれた。またアール先生の友人のレオン・バルザンというアメリカ人にも教えてもらっていた。
・ブラジル館からフランス人の家庭に下宿することにした。
・2月16日家に手紙を書く。
・10月にパリ放送局主催でシャンゼリゼ劇場でリサイタルをやることが決まった。
・3月29日家に手紙を書く。
・急にロンドンに来た。
・パリの教習所に行き、日本での運転免許証を持たなかったが、教習所の教師にオレは日本の免許証を持っているから、なんとか簡単にフランスの免許証がもらえるようにとりはからってくれと、頼んでみた。パリでの教習はどんなものでも道路上でやる。四回くらいで試験を受けさせてもらった。受験の通知はハガキで来る。パリの指定の道に行くと男女がたむろしている。それが試験日なのだ。試験は五分ほどで終わり、あっけなくパス。その日に免許証をくれた。
・小澤のヨーロッパにおける初仕事は、フランス西南部の都市、トゥールーズ・キャピトール国立管弦楽団(当時は市立)との放送録音であった。そこで連続放送演奏会をやることになっていた。スペインの国境に近いところだ。
4月江戸京子の新車を借りて、パリを発ち、東京から神戸間くらいの距離を、自動車のハンドルをたいして握ったことがないのに運転して行った。その日は谷間の村境のホテルに宿泊。明日中に目的地に着き、明後日は朝からオーケストラの練習。
・真夜中にトゥールーズに着きパリの放送局から連絡されていたホテルに着いた。翌朝は9時からフランス国内での指揮者としての仕事が始まった。そこでは二週間近く指揮をした。その間、オケの楽員さんが変わりばんこに小澤を夕食に誘ってくれたり、夕方、近くのピレネー山脈の麓までドライブに誘ってくれた。
・4月19日、21日、25日と3日間の収録でベートーヴェンの《交響曲第一番》、《エグモント》序曲、モーツァルト《交響曲第41番》「ジュピター」、《ディヴェルティメント》、オペラ《魔笛》序曲、ブラームス《ハンガリー舞曲集》、シューベルト《交響曲未完成》、カバレフスキーの組曲《道化師》などを放送用収録でトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団を指揮して録音。全部の演奏、録音を済ませその場でお金をもらう。八万円である。
小澤はそこから旅に出、カルカソンヌへ行き、さらにピレネー山に登り、スキーをやった。わざわざパリからスキー靴を放送局に内緒で持ってきていた。
・ウィーンに来い、と田中路子女史が放送関係の人や劇場主を紹介してくれるという。それからベルリンにも行かねばならない。
パリに戻り、ベルリンの田中路子女史のところに、来シーズンのベルリンでの仕事の打ち合わせにいった。オランダへ行き日本フィルハーモニーが呼ぶという、パウル・クレッキーというハンガリー人の有名な指揮者に会い、いろいろ音楽的な忠告などを受けた。
・7月ボイス・オブ・アメリカのヘイスケネンから約束通りタングルウッド音楽祭への招待状が届いた。
・7月2日『僕は初めて国際線の飛行機に乗ってアメリカ大陸へ渡った。パリからボストンまで飛行機で約9時間。窓からアメリカ大陸が見えた時は「また新しい生活が始まるのだ」と思って、ちょっと感動した。ボストン飛行場の税関を通って外に出ると思いがけず出迎えがあった。パリで知り合った数学者の広中平祐さんだ。その晩はボストンの家に泊めてくれ、二人で思い出話に花を咲かせた。翌朝早く、長距離バスでタングルウッドへ向かった。延々と草原が続く道を3時間ほど走って目的地に着いた。ここでボストン交響楽団が音楽祭を開催している。バークシャー山脈の中にあって、大きな森に包まれたところだ。ここで征爾は六週間過ごす。タングルウッド村に着いたと音楽祭事務所に電話をしたら迎えに来てくれた。』。
小澤は名前こそ知っていたタングルウッドにあるボストン交響楽団の夏季訓練アカデミーであるバークシャー音楽センター(現タングルウッド音楽センター)に到着した。
まず指揮の試験を受ける。合格したらミュンシュのレッスンが受けられる。
7月3日~8日の間、小澤は30人近い応募者と第一次試験に臨んだ。
・7月3日ミンシュのレッスンを受けるにはまず、コンクールを受け合格しなければならない。オーボエ、ホルン、トロンボーン、クラリネットの四重奏曲の書き取り、これは難なくパスした。
・7月4日次にモーツァルト《魔笛》を指揮し、指揮試験に合格した。
小澤はボストン交響楽団音楽監督シャルル・ミンシュおよび指揮講師エレアザール・デ・カルヴァーリョの指導を受けることが決まった。
『宿舎で同室になったのは、ウルグアイ人のホセ・セレブリエール。おどけてて、才能があるところが山本直純さんみたいだった。びっくりしたのが彼がマーラーの交響曲のスコアを勉強していたこと。マーラーがほとんど演奏されていない頃だ。僕は名前こそ知っていたけれど聴いたことはなく、スコアを見るのも初めてだった。
音楽祭には僕以外に日本人がもう一人いると聞きtけて探しに行った。顔を見ると桐朋のヴィオラの河野俊達先生に似ている。恐る恐る話しかけたら「小澤じゃないか」。本人だった。一年半ぶりの再会に胸がいっぱいとなった。』
『ミュンシュの教えで強く印象に残っているのが、僕がドビュッシーの《海》を指揮した時のことだ。教えるといっても黙って部屋をうろうろするばかり。仕方ないから後にくっついていくと、しきりにフランス語で「スープル(souple)柔軟に」、「スープル(souple)柔軟に」と言ってる。つまり指揮するのに力を入れてはいけない、しっかり音楽を感じていれば手は自然に動くということだ。あの頃の僕はノン・スープルで固い指揮だったんだろう。僕の音楽会には有名な批評家のハロルド・ショーンバーグも来て、ニューヨーク・タイムズでべた褒めしてくれたらしい。後で知って感激した。』
これがボストン交響楽団との長い付き合いの始まりとなる。バークシャー音楽祭の指揮コンテストの各種試験を3日~8日済ませ、第1位を獲得した。
・毎週木曜日の定期コンサートの指揮を5週間行うことになった。
・その夏の終わりに、彼は優秀学生指揮者に与えられるクーセヴィツキー賞を受賞した。
・7月ボストン、フェンウェイ・パーク(レッドソックスの本拠地)で初めて野球観戦
・7月14日小澤のタングルウッド指揮デビューの演奏会があった。
モーツァルト《ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲》 タングルウッド音楽センター管弦楽団を指揮
ジェシー・レヴィーン(ヴィオラ)
タングルウッド- シェッド・レノックス
この演奏会の評判がよく、ボストンでの放送やメキシコ市での演奏会が急に決まった。5回やることになった。
・7月17日ニコラス・カッパビアンカ《サッフォーの詩の歌》タングルウッド音楽センター管弦楽団を指揮
タングルウッド – 室内楽ホール、レノックス
・7月21日ドビュッシー《海》タングルウッド音楽センター管弦楽団を指揮
タングルウッド- シェッド・レノックス
・7月28日ベートーヴェン《レオノーレ序曲》をタングルウッド音楽センター管弦楽団を指揮
タングルウッド- シェッド・レノックス
・8月9日5年振りとなる最も優秀な若手指揮者に贈られるクーセヴィッキー指揮大賞受賞第八号の決定内定を受けた。推薦者はミュンシュ、クーセヴィツキー未亡人、アーロン・コープランド等であった。ニューヨークタイムズの音楽評論家ハロルド・ショーンバーグに「この指揮者の名前を人々は記憶しておくべきだ」と評した。
いろんな人にパーティーや夕食に招待されたが、征爾が嬉しかったのは伊藤ヨシ子、桐朋学園の志賀、河野俊達、二宮等が一堂に会して祝ってくれたことだ。
・『誰かに「クリーヴランド管弦楽団のジョージ・セルか、ニューヨーク・フィルのバーンスタインの副指揮者になるのが良いだろう」と言われた。』
・『クーセヴィツキー夫人やショーンバーグにはバーンスタインを勧められ、それでニューヨークへ行くことを決めた。』
・8月13日チャイコフスキー《交響曲第5番》第4楽章をタングルウッド音楽センター管弦楽団を指揮
タングルウッド- シェッド・レノックス
・8月に学生の頃からミュンシュに憧れていた小澤は、タングルウッドでミュンシュ指揮の第九のコーラスにいれてもらって歌っている。
・『大賞の賞金で99ドルの超中古車を買い、河野先生を乗せて、まずニュー・ヘイブンへ行った。日本フィルハーモニー交響楽団の元コンサートマスターのブロータス・アールさんに会ってから、ニューヨークへ向かった。』
・『桐朋の仲間で、留学していた志賀佳子ちゃんと伊藤叔ちゃんと夕食を共にし桐朋の仲間で、留学していた志賀佳子ちゃんと伊藤叔ちゃんと夕食を共にした。
何日かいて、ニューヨーク・フィルを訪ねた。バーンスタインの秘書ヘレン・コーツが出てきて、バーンスタインはヨーロッパへ旅行中だという。秋にはベルリンにいるから訪ねるよう言った。』
・9月『僕はアメリカを後にしてパリへ戻った。』
・「カラヤンが弟子をとるためのコンクールを開くそうよ」。『アメリカからパリに戻ってきた僕にそう教えてくれたのはベルリン在住の歌手、田中路子さんだ。田中さんは斎藤秀雄先生と昔から親しく、何かと僕の面倒を見てくれていた。ご主人で俳優のヴィクター・デ・コーバさんは指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンと友達で、ご夫妻は「ヘルベルト」とファーストネームで呼んでいた。
10月征爾は、ベルリンの市立音楽院(旧シュテルン音楽院/現ベルリン芸術大学)で開催される「ヘルベルト・フォン・カラヤン国際指揮者コンテスト」の弟子を選ぶための選考会に参加した。50人ほどの中から小澤、ウルリヒ・エックハルトなど4人が選らばれて、カラヤンの弟子となった。
・『カラヤンが1954年に初めて日本に来てNHK交響楽団を指揮した時、僕は近所のそば屋まで行って、窓越しにテレビでその様子を見ている。コンクールに通れば、あのカラヤンのレッスンを受けられるのだ。ところが試験会場で課題曲を間違えていることに気付いた。僕の番は明日だ。慌てて田中さんのお宅にこもり、徹夜で勉強した。50人ほど受けて四人くらい通過した中に、なんとか入ることができた。』
・ベルリンでレッスンが始まったのは10月。後に西ドイツの首相になるヴィリー・ブラント市長が援助していて、プロのオーケストラを使うぜいたくなものだった。
カラヤン先生は技術について細かいことは言わない。その代わり大事にしていたのが音楽のディレクション、方向性だ。時間の流れの中でいかに音楽の方向を定め、そこへ向かうか。いかに自分の気持ちを高ぶらせていくか。それを先生はシベリウス《交響曲第5番》のフィナーレを使って僕に教え込んだのだった。
・9月ベルリンで行われたカラヤン主催「指揮者コンテスト」で第一位となり定期的(10月・12月・1月・4月の全部で16日間)にカラヤンから指導を受けることになる。
『その頃、パリには成城の同級生の水野チコが住んでいた。結婚した白洲春正さんが映画会社、東和のパリ支店の駐在員になったからだ。夕食に招かれたある日、アパートへ行くときれいな日本女性が出てきた。「いいなぁ、あんなお手伝いを雇えて」。思わずチコに言ったら、ばかでも見るような目で返された。「女優の若林映子さんよ」、その時同席したのが批評家の小林秀雄さんだ。僕の名前を聞いて「君のお父さんを知っているよ」と言う。戦時中、北京の家を訪ねたことがあるそうだ。おやじは中国の人から贈られた壺を応接間に飾っていた。それをにせものだと気付いた小林さんがたたき割り、おやじが「贈ってくれた人の気持ちを飾っているんだ」と怒って、つかみ合いのけんかになったという。懐かしそうに話してくれた。』
・『国際コンクールに優勝したのだから、仕事が山のようにおしよせて来る、と思った』と小澤は語った。ところが、現実は違った。小澤の言葉によると『風のないヨットみたい』になってしまったのであった。小澤の期待が大きかっただけに、落ちこみ、なやみは深かったようだ。
・『毎日新聞パリ支局長の角田明さんの紹介で作家の井上靖さんに会ったのも同じ時期。井上さんはローマ五輪の取材の帰りで、僕がパリ案内のような役目を引き受けた。当時の僕はいくつかコンクールに受かっていたけれど、仕事はほとんどない。何度か指揮した群馬交響楽団の丸山勝広さんから「日本で一緒にやりましょう」と誘われたから、もうヨーロッパは諦めて日本に帰るつもりだった。レストランで食事しながら、井上さんにそう言うと「とんでもない」と猛烈に叱られた。「文学者の場合、小説は翻訳が必要で外国の人に自分の作品を読んでもらうのは難しいんだ。ひどい時には会ったこともない人が翻訳する。音楽なら外国の人が聴いても理解してくれるじゃないか。どんなことがあってもいなさい」僕は、はっとした。なるほどその通りだ。思い直して丸山さんに断りの手紙を書いた。井上さんの言葉はその後も心の支えになり続けた。』
・ベルリンではヘルベルト・フォン・カラヤンのアシスタントを務めるようになり、カラヤンとの親交はこの時から生涯続くことになった。
・10月『カラヤン先生のレッスンに通っている頃、ニューヨーク・フィルハーモニックを率いるレナード・バーンスタインに会いに行った。秋にはベルリンで音楽会を開くと聞いていたからだ。本番の後、バーンスタインは僕を「リフィフィ」というバーへ連れて行った。ストリップをやっている妖しげな店で、そこでニューヨーク・フィルの副指揮者になるための面接らしきものを受けた。審査委員の楽員たちも一緒だ。ところが僕は英語ができないから何言っているかよく分からない。それでも冬には副指揮者採用を知らせる手紙が届いた。期間は1961年4月から1962年9月。だがまだカラヤン先生のレッスンが残っている。迷った僕は手紙を持って先生のところへ相談に行った。「セイジ、お前はおれの弟子だ。経験のためにニューヨークへ行って、終わったらまた来なさい」。あたたく送り出してくれた』
・12月14日フランス国立フィルハーモニー管弦楽団を指揮して収録
モーツァルト《交響曲第28番》
J・シュトラウス二世《こうもり》序曲
『』は 小澤征爾「私の履歴書」より要約
↓パリ、放送用初録音CD

↓ 小澤征爾物語-9-1960年 シャルル・ミンシュの指導を受ける
1960年ミンシュの指導を受ける
1961年(昭和36年)26歳
・2月20日「日独修交100年記念」する演奏会で「石井眞木」と「入野義郎」の「現代曲」と、モーツァルト「交響曲」を指揮したのがベルリン・フィルとの出会いとなった。
・3月半ばごろ小澤ははニューヨークへ向かった。
・4月バーンスタイン音楽監督の下でニューヨーク・フィル副指揮者就任。
・バーンスタインとの親交はこの時から生涯続くことになる。
『副指揮者はリハーサルに立ち会い、指揮者に何かあれば代役をこなすこともある。僕以外に2人いた。給料は週給100ドル。小切手でもらうのだが、どう換金するのか見当がつかない。困っていたらニューヨーク・フィルのティンパニ、ソウル・グッドマンが僕をカーネギーホール裏の酒屋へ連れて行った。「ここのおやじなら大丈夫だ」と言うので、僕はそこで毎週現金に換えてもらった。
音楽家のユニオンの費用を差し引くと、手元に残るのは90ドルあるかないか。生活するのがやっとでいつも腹をすかせていた。この頃よく酒を飲ませてくれたのが彫刻家のイサム・ノグチと流政之だ。
ニューヨーク・フィルは4月に日本公演を控えていた。小澤も一緒に行くことになっている。
・4月13,14,16日(ニューヨーク・フィル定期演奏会)
バーンスタインの演奏会に特別出演して黛敏郎《饗宴》初演指揮しカーネギー・ホール デビュー
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・4月24日ニューヨーク・フィル日本公演に同行し帰国、神戸港を出発して2年3カ月ぶりだった。
『僕は日本航空の特別機で羽田空港に着いた。約二年ぶりの日本だ。ハッチが開くと、みんなが「セイジが先に降りろ」と僕を押し出してくれた。出迎えていたのは懐かしい顔ぶれだ。
おやじ。おふくろ。兄貴たちに弟のポン。成城の合唱グループ「城の音」のみんな。斎藤秀雄先生もいた。じーんと来た。』
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・5月ニューヨーク・フィルハーモニック日本ツアーに同行して帰国。
5月5日<1961 東京世界音楽祭>
黛敏郎《饗宴》の日本公演、ニューヨーク・フィルハーモニックを指揮して東京文化会館デビュー
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・『この日、僕はできたばかりの東京文化会館で黛敏郎さん作曲の《饗宴》を指揮した。行きの飛行機でレニー(レナード)に「おまえがやるんだぞ」と言われていた。全く感激のデビューだったが、残念だったことがある。客席にいたはずの斎藤先生は終演後、僕を訪ねないで帰ってしまったのだ。
話したいことはいっぱいあった。ヨーロッパにいる間も折々に手紙を出していたけれど、僕が勝手に外国へ飛び出したことが尾を引いていた。先生はドイツで音楽を勉強した人だから、僕にはドイツのオーケストラを指揮してほしかったのかもしれない。何となくまだぎくしゃくしていた。』
・バーンスタインが川崎にある小澤家を訪問した
・6月22日日本フィル第34回東京定期演奏会日比谷公会堂で日本フィルハーモニー交響楽団を指揮してチャイコフスキー《交響曲第5番》ほか演奏
・7月杉並公会堂における放送録音が、小澤にとってNHK交響楽団との初顔合わせとなった
・9月8日《黒人霊歌集》全18曲、東京混声合唱団、ビクター・アンサンブル、原信夫とシャープ&フラッツを指揮して録音
・夏の終わりまで日本で過ごしてからニューヨークに戻った。
・10月14日ニューヨーク・フィル・ヤング・ピープルズ・コンサートをカーネギーホールでドビュッシー《サクソフォンと管弦楽のための狂詩曲》などニューヨーク・フィルハーモニックを指揮
『僕は日本フィルハーモニー交響楽団を指揮して、夏の終わりまで日本で過ごしてからニューヨークに戻った。翌62年1月には江戸京子ちゃんと結婚する。
給料が150ドルに上がった。いつもの酒屋に小切手を持って行ったら、おやじが「おっ、上がったな」とニヤリとした。』
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↓ 小澤征爾物語シリーズ‐10‐1961年演奏会記録
1961年ニューヨーク・フィル副指揮者就任
1962年(昭和37年)27歳
1月5日日比谷三井ビルディングで媒酌、井上靖夫妻でピアニストの江戸京子と結婚。
1月10日サンフランシスコ交響楽団を指揮してアメリカデビュー。サンフランシスコ交響楽団の指揮が北米初のプロ指揮者の仕事になった。
2月17日ニューヨーク・フィル・ヤング・ピープルズ・コンサートでドビュッシー《牧神の午後への前奏曲》ニューヨーク・フィルハーモニックを指揮
RPI フィールド ハウス、トロイ、ニューヨーク
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4月7日ニューヨーク・フィル・ヤング・ピープルズ・コンサートでモーツァルト《フィガロの結婚》序曲、ニューヨーク・フィルハーモニックを指揮
カーネギー ホール、マンハッタン、ニューヨーク
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5月3日4,5,6日アイヴス《夕暮れのセントラルパーク》ニューヨーク・フィルハーモニックを指揮
ニューヨーク州マンハッタン、カーネギーホール
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1961年から62年のシーズン、ニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者小澤征爾(25歳)でフィルハーモニックとニューヨーク・デビューを果たした後、ニューヨーク・タイムズ紙は「彼の指揮のもと、音楽は見事に生き生きとしたものになった」と評した。
・5月ニューヨーク・フィルとのアシスタント指揮者の契約が終わった。
・『小澤は、アシスタント指揮者を務めたレナード・バーンスタインに次いで、他のどの指揮者よりも見ていて魅力的だった。(しかし、彼は神秘的に無気力なヘルベルト・フォン・カラヤンにも師事していた。)指揮台の上では、小澤自身がバレエ団のようで、しなやかな体と、自ら踊る長い髪で、楽譜を優雅に演じていた。それは、音楽に対する彼のアプローチと同じくらい洗練されていた。
しかし、指揮台に立つ彼の態度は演技ではなかった。彼のオーケストラは理解とバランス、そして完全な自信を持って演奏した。細かく段階分けされた色彩は明瞭さと細部をもたらした。聴衆の中には、彼が顔のない存在であるかのように、音楽に与えた影響を定義する方法を見つけようとする者もいる。反対のことを感じている者もいる。作曲家のジョン・ウィリアムズは、小澤がボストン交響楽団を指揮した時、「その音楽の中に私が気づいていなかった奥深いテクスチャーが聞こえた」と語った。
小澤の独特なアプローチは、彼の膨大なディスコグラフィー全体を通じて、チャールズ・アイヴズの交響曲第4番やアルノルド・シェーンベルクのグレの歌など、最も大規模で密度の高いスコアで実を結びました。また、エクトル・ベルリオーズやモーリス・ラヴェルなど、フランスの作曲家の作品でも、彼は最高の演奏を披露しました。以下は、小澤の録音された最高の演奏の一部です。
小澤のリズム、ダイナミクス、色彩、バランスの徹底した実現は、明らかな強みだった。彼の洗練さとディテールは、勝利、神秘、悲しみを表現することもできるが、苦味は得意ではなかった。言い換えれば、小澤は若々しい魅力を捨てることができなかったということであり、その魅力こそが、ガブリエル・フォーレのこのシングルディスクコレクションを小澤の必聴盤にしているのだ。遊び心のある曲からうっとりする曲まで、繊細さと感情が完璧だ。オーケストラは輝き、ソプラノのロレイン・ハントも輝き、その結果、音楽はさらに輝いている。』
・『僕をN響の指揮者に起用したのはNHKのプロデューサー、細野達也さんだったと思う。N響の放送録音の仕事を一緒にしたこともあった。細野さんが推薦しなければ、バーンスタインの副指揮者をしただけの僕をN響の幹部が指名するはずがない。
契約は1962年6月から半年間。7月にはメシアン作曲の《トゥランガリラ交響曲》を日本初演した。メシアン自身も立ち会って練習はみっちりした。初演は成功したと言っていいだろう。』
・サンフランシスコ交響楽団定期演奏会でハチャトリアンの代役でベルリオーズ《幻想交響曲》を指揮して好評を博した。
・6月からのNHK交響楽団指揮のため日本へ向かう。
・小澤は6月20日から10月22日までの23の演奏会のすべてと、11、12月の定期公演および《第九》を指揮する予定で、半年間「客演指揮者」としてNHK交響楽団と契約していた。
この初演にはメシアン自身も立ち会ってみっちり練習し、初演は成功を収めた
6月20,21,22日東京文化会館でNHK交響楽団第432回定期演奏会を指揮
7月4日
メシアン《トゥーランガリラ交響曲》
イヴォンヌ・ロリオ(ピアノ)
ジャンヌ・ロリオ(オンド・マルトノ)
本荘玲子(オンド・マルトノ)
小澤征爾 NHK交響楽団
この初演にはメシアン自身も立ち会ってみっちり練習し、初演は成功を収めた
7月21日N響サマーコンサートを指揮
8月3,4,5,8日室蘭、札幌、旭川、札幌
NHK交響楽団を指揮
9月12日 都市センターホール
黛敏郎 交響詩《輪廻(さむさーら)》
NHK室内合奏団を指揮
9月20,21,23日NHK交響楽団第433回定期演奏会を指揮
10月N響と東南アジアへ二週間の演奏旅行に出発。
10月2,3,5,6,8,12,13,15日N響と東南アジアへ二週間の演奏旅行に出発。
香港2公演、シンガポール2公演、クアラルンプール、マニラ2公演、沖縄でN響を指揮
フィリピンでベートーヴェン《ピアノ協奏曲第一番》を現地のピアニストが弾くカデンツァの途中で、征爾はうっかりバトンをあげてしまった。オーケストラが楽器を構えたがカデンツァはまだ続いている。征爾のミスだった。終演後征爾は先輩の楽員から”おまえやめてくれよ、みっともないから"とクソミソに言われ”申し訳ありません”と平謝りするしかなかった。この時のことを征爾は言う『僕には全然経験が足りなかった。ブラームスもチャイコフスキーも交響曲を指揮するのは初めて。必死に勉強したけど、練習でぎこちないこともあっただろう。オーケストラには気の毒だった。』
10月22日 明治学院85周年記念コンサート
NHK交響楽団を共立講堂で指揮
10月30日<日本フィル第51回東京定期演奏会>を指揮 東京文化会館
プロコフィエフ《交響曲第五番 変ロ長調》 op.100
モーツァルト《ピアノ協奏曲第二十番 ニ短調》 K.466
ラヴェル《ラ・ヴァルス》
江戸京子(Pf.)
・『ニューヨーク・フィルの偉い人が日本に来て、赤坂のナイトクラブに呼ばれたことがあった。音楽会の前日だった。だが、お世話になった人の誘いを断るのも気が引ける。行ったらN響の人たちにバレて気まずい思いをした。
そんなことが積もりに積もって、練習もうまくいかないほど険悪な雰囲気になっていた。「N響の幹部がしゃぶしゃぶ屋で話し合っているようだ」。細野さんからそう聞いて、嫌な予感がした。』
11月14,15,16日
<NHK交響楽団第434回定期演奏会>
ベートヴェン《交響曲第八番》
ドボルジャーク《チェロ協奏曲》
ラヴェル《ダフニスとクロエ》組曲第ニ番
ガスパール・カサド(チェロ)
小澤征爾 NHK交響楽団
N響第434回定期公演が新聞批評に酷評される
11月16日にN響の演奏委員会が「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明する。それは新聞に報じられ、征爾はマスコミに追われるようになった。世間の顰蹙を買い、電車に乗っていても変な目で見られた。
事態を収拾するため、征爾をN響指揮者に推薦してくれたNHKの細野プロデューサーが『病気になったことにして、12月の定期演奏会をキャンセルすればいい』と言ってくれた。征爾は嘘をつくのもおかしな話だと考え、今後の演奏会の保証をしてもらうための覚書をNHK会長宛に送ったが、受け入れられず、12月の定期は中止と伝えられた。
12月4日N響定期公演に向けリハーサルを開始するが、楽員のボイコットで練習不能に。
結局、同11日から三日間にわたり東京・上野の東京文化会館で行う予定だった定期演奏会は中止になった。小澤は楽団員が来るはずのない会場に一人、足を運んだ。楽屋口は記者で騒然としていたが、舞台にも客席にも人はいなかった。N響の指揮者として契約をしていた征爾の矜持だった。この騒動で征爾は精神的に滅茶苦茶にされ、泣き、悔しかった。
12月18日にNHK交響楽団を契約不履行と名誉棄損で訴えるまで発展
12月20日N饗第435回定期公演は中止と発表された。
・小澤は契約通り上野の東京文化会館の会場に向かった。やがて開演時刻となり指揮台に立ったが、そこには楽員も聴衆もいない。
12月21日新聞は社会面に「天才は独りぽっち」とか「指揮台にポツン」と報道した。
小澤とNHKは折衝を重ねたが折り合わず、N響は征爾に内容証明郵便を送り付けた。世間では「NHK事件」という。
↓内幸町旧NHKホールステージ

・小澤は日本と"決別"する形で再び海を渡った。その後、米国を軸に海外に活躍の場を求め、その名声を高めていった。N響と「雪解け」したのは三十二年の歳月を経た1995年1月吉田秀和氏たちの仲介でN響と和解が成立した。東京・赤坂のサントリーホールでの演奏会となった。
・その事件後、「小澤征爾の音楽を聴く会」の発起人に井上靖、三島由紀夫、大江健三郎、黛敏郎、團伊玖磨、武満徹、石原慎太郎、一柳慧、中島健三、浅利慶太等、音楽に関係のない人たちも大勢いた。演奏は日本フィルハーモニー交響楽団。ヨーロッパ行きで世話になった水野成夫が作ったオーケストラだった。征爾は言う『苦境を支えてくれたこの人たちのことを、僕は一生忘れない』
・N響とのトラブル後、ニューヨークに戻った征爾は、マネージャーのロナルド・ウィルホードにきっぱり『オレ、もう日本になんか帰らないよ』といった。
のちに小澤は何かのインタビューで『僕は、あのことがあったので、日本にいられなくなり、外国に行き、良かったのだけれど』と、事件を振り返って、現在の結果に結びついたのだと、強く語った。
・N響と「雪解け」したのは三十二年の歳月を経た1995年1月である。吉田秀和氏たちの仲介でN響と和解が成立した。東京・赤坂のサントリーホールでの演奏会となった。
<下、ヤング・ピープルズ・コンサート: Young Performers No. 3 小澤征爾/レナード・バーンスタイン/ニューヨーク・フィルハーモニック>
4月14日CBS テレビ ネットワーク放送
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1962年演奏会記録
1962年演奏会記録
1963年(昭和38年)28歳
・1月15日<小澤征爾の音楽を聴く会>で日本フィルを指揮
開催発起人には、山本健吉・中島健蔵・谷川俊太郎・浅利慶太・石原慎太郎・井上靖・大江健三郎・三島由紀夫・武満徹・團伊玖磨・黛敏郎・一柳慧等、音楽に関係のない人たちも大勢いた。演奏は日本フィルハーモニー交響楽団。ヨーロッパ行きで世話になった水野成夫が作ったオーケストラだった。
征爾は言う『苦境を支えてくれたこの人たちのことを、僕は一生忘れない』
1月16日の朝日新聞朝刊は三島由紀夫の「熱狂にこたえる道ー小澤征爾の音楽を聴いて」を寄稿し注目を集めた。
『最近、外来演奏家にもなれっこになり、ぜいたくになった聴衆が、こんなにも熱狂し、こんなにも興奮と感激のあらしをまきおこした音楽会はなかった。正に江戸っ子の判官びいきが、成人の日の日比谷公会堂に結集した感がある。~略~、日本的なしがらみの中でかつ生きつつ、西洋音楽へ夢を寄せてきた人々の、その夢が多少まちがっていても、小澤氏もまた、彼らの夢に雅量を持ち、この音楽という世界共通の言語にたずさわりながら、人の心という最も通じにくいものにも精通する、真の達人となる日を、私は祈っている。』
1月17日に音楽評論家/吉田秀和や黛敏郎等の仲介により、NHK副理事長の阿部真之助と小澤が会談し、NHKと和解成立したが、のちに小澤は胸中を『精神的には滅茶苦茶にやられた。泣いたし、悔しかった。苦境を支えてくれたこの人たちのことを、ぼくは一生忘れない』と述べている
さらに「あの時は『もう俺は日本で音楽をするのはやめよう』と思った」と語っている。
次にN響の指揮台に立つのは32年3ヶ月後、1995年1月のことであった。征爾は後年、N響とのトラブルが刺激になってよく勉強したとも述懐している。
・日本フィル首席指揮者就任。
・渡米
・4月サンフランシスコ交響楽団ジョセフ・クリップス の代役指揮を果たし成功を収めた
・7月コロンビア・アーティスト・マネジメントとマネジメント契約
・7月7日アメリカのTV番組「What’s My Line?」出演した。4人のパネリストがゲストの職業や有名人の場合は名前を当てる人気のゲーム番組「What’s My Line?」で、小澤征爾がボードの前に立った。通常、パネリストは有名人の名前を当てる際は目隠しをする。しかし、征爾のパネリストは目隠しをしていなかった。その時点ではまだ、征爾は比較的無名だと考えられていたようだ。
アメリカの最も著名な舞台のいくつかで指揮をし、カラヤンやバーンスタインのような巨匠に師事していたにもかかわらず、この認識の欠如は起った。征爾は25歳の若さで、現在のタングルウッド音楽センターで優秀な学生指揮者に与えられるクーセヴィツキー賞を受賞し、その1年後の1961年にカーネギーホールでアメリカでの指揮者としてデビューした。
パネリストには、ピーター、ポール&マリーやウディ・アレン等が並んで質問を英語でし、征爾は通訳なしで受け答えをしなければならず、時々詰まったときは司会者がアドバイスをした
↓ What’s My Line? – Seiji Ozawa (1963, TV Show)>
・7月9-10日ニューヨーク・フィルの公演を指揮
・7月16,18日〈ラヴィニア音楽祭〉に急遽出演し、シカゴ交響楽団を指揮
シカゴ交響楽団ラヴィニア音楽祭指揮者ジョルジュ・プレートルの急遽代役を依頼され、2公演の指揮で成功を収めた
急病のジョルジュ・プレートルの代役として、シカゴ交響楽団ラヴィニア音楽祭で直前に2公演の指揮出演を依頼され成功を収めた。2か月後には翌1964年の同音楽祭の音楽監督に任命された。これを機に1970年以降はラヴィニア音楽祭を中心に、オーケストラ・ホールも含めてシカゴ交響楽団に複数回客演した。
・半年ほどたった7月のある日、ウィルフォードから「すぐ来い」と電話がかかってきた。カーネギーホールの前にある事務所に行くと、シカゴ交響楽団ラヴィニア音楽会長のアール・ラドキンがいた。
ラヴィニア音楽祭でシカゴ交響楽団を振る予定だったジョルジュ・プレートルが肩を痛めたので、代わりに指揮をしろという。本番は数日後だ。
「ほかに誰もいないから、しょうがない」。英語はよく分からなかったが、ラドキンがそう話しているのは理解できた。プレートルの降板が決まり、困ったラドキンはウィルフォードに代役の手配を頼んだらしい。ところが推薦されたのはオザワという無名の日本人。
「日本人なんてやめてくれ」と何度も断ったが、ウィルフォードは引き下がらない。それで仕方なく承知した、そんな様子だった。
事情は何であれ、とにかく時間がない。2日後にはシカゴで練習が始まるのだ。曲目はグリーグのピアノ協奏曲、ドヴォルジャークの「新世界より」、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲など。だけど楽譜がない。レニー(レナード)・バーンスタインのスタジオに駆け込んだ。不在のレニーに代わって秘書のヘレンに鍵を開けてもらい、楽譜棚から借りてしゃかりきになって勉強した。
ラヴィニアで何とか無事2回の音楽会を終えた後、盛大なパーティーが開かれた。ラドキンが笑顔で何やら話しかけてくる。
「君にこの音楽祭をあげよう」そう言ったらしい。が、英語が聞き取れないのでよく確かめずにいた。
その後、オランダの音楽祭で指揮している時(レニーがくれた仕事だ)、ウィルフォードから電話がかかってきた。「何をしてるんだ? ラドキンが君をラヴィニアの音楽監督にすると言ったらしいじゃないか。記者発表があるから、すぐ戻って来い」。パーティーでそう言われていたのに、分かっていなかったのだ。情けない。ともあれ僕は翌1964年6月から、ラヴィニア音楽祭の音楽監督に就任することになった。』
この演奏会を聴いたシカゴ・トリビューンのトーマス・ウィリス は、小澤について『指揮棒と音楽のアイデアを手にすると、すぐに指揮者を操る。彼の指揮テクニックは、透明な身振りと人間的なコミュニケーションで楽譜をオーケストラの膝の上に置き、受け入れさせるという点で、師であるヘルベルト・フォン・カラヤンを彷彿とさせる』と評した。
わずか1か月後、1959年以来音楽監督を務めてきたワルター・ヘンドルの後任として、小澤が1964年シーズンからラヴィニア音楽祭の初代音楽監督兼常任指揮者となることが発表された。1964年6月16日の音楽監督としての初コンサートで、小澤はオーケストラを指揮してベートーヴェンの「 エグモント 序曲」、ジョン・ブラウニングとの共演によるバーバーのピアノ協奏曲、ベルリオーズの 幻想交響曲を指揮する。
・8月16日ボストン交響楽団客演指揮デビュー
・8月29‐9月22日<ニューヨーク・フィル米国内ツアー>に帯同しニューヨーク・フィルを指揮
29日(A・B)ハリウッド、9月5日デンバー、6日ミルウォーキー、8日(A・B)シカゴ、12日デトロイト、15日ピッツバーグ、16日フィラデルフィア、19日ペンシルベニア(レディング)、20日ボルチモア、22日ワシントン
・帰国
・翌年6月からボストン交響楽団ラヴィニア音楽祭音楽監督に任命される
・10月音楽部門のアドバイザーをやっている東京・日生劇場こけら落としに際して帰国。
・10月20日日生劇場でのベルリンドイツ・オペラ公演、ベートーヴェン:歌劇《フィデリオ》でカール・ベームの副指揮者を務めた
・11月10日日生劇場でベルリン・ドイツオペラ管弦楽団を指揮
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お座征爾物語 シリーズ12-1963年演奏会記録
1963年演奏会記録
1964年(昭和39年)29歳
・1月7日トロント交響楽団客演指揮者デビュー。マッシーホールの聴衆から十数分のカーテンコールを受けブラボーが続いた。
武満徹《弦楽のためのレクイエム》
プロコフィエフ《交響曲第5番》
チャイコフスキー《交響曲第5番》
・小澤は1965年9月から1969年6月まで同管弦楽団の4代目音楽監督を務めた間、210回のコンサートを指揮し、カナダ、米国、極東でオーケストラをツアーし、1968年にはメシアンの「トゥーランガリラ」を録音した。征爾は1970年から1996年まで客員指揮者としてトロント交響楽団に戻り、マッセイホール、オンタリオプレイス、ロイトムソンホールで22回のコンサートを指揮した。
・『若い指揮者がステージに登場したとき、その若さ、内気さ、そして華奢な体格に圧倒された。そして指揮台に上がり、魔法をかけた。バレエダンサーのような優雅さと、詩情と精密さを融合させたスティック奏法を持つ若者がそこにいた。そして、そこには熱気があった。TSO の音楽家たちは、何年も見せていなかったエネルギーと熱意で応えた。プロコフィエフとチャイコフスキーのどちらも、由緒あるマッシー ホールを揺さぶる興奮を生み出した。
こんなに活気に満ちた音楽作りを見るのはワクワクしました。小澤はトロントで旋風を巻き起こし、数か月後には爽快な幻想交響曲で第一印象を固めました。ほぼすぐに、彼はトロント交響楽団の音楽監督に就任しました。これが彼にとって初めてのオーケストラです。その後2年間、私は自分の仕事でトロントを離れるまで、できる限り小澤のコンサートに通いました。しかし、私は彼が年月とともに成長していくのを見るのが楽しく、できる限り彼のコンサートやオペラ公演を観るようにしていました。』
・一時帰国、アマチュアオーケストラの諏訪交響楽団を指揮
『1月半ば、夜遅くニューヨークから羽田に着き、川崎のおやじの家で数時間コタツで眠り、次の朝早く成城中学時代の恩師今井信雄先生と新宿で落合い、信州上諏訪まで1泊旅行した。今井先生にすすめられてこの夜、アマチュアオーケストラ、諏訪交響楽団を指揮することになっていた。会場にかけつけると、もう練習をやっていた。紹介され、ぼくはステージに立って《第五》の練習に入った。楽員は老若男女ごちゃまぜで、長野市その他からの応援も加えて50人くらいはいたろう。技術的には難があったが、その熱っぽい音楽への情熱にひきつけられて、ぼくもつい夢中になっちまった。2時間の予定が5時間にものびて、全員くたくたわずか1時間の休憩をおいて、すぐ演奏会に入ったわけだから、アメリカから飛んできて時差にやられているぼくなどは、口もきけんほどくたびれはてた。その熱っぽい音楽夜、ぼくは宿てうまい日本酒をのみなから、素人とやったこの音楽に大きな満足感を枝にことについて考えてみた。』
・2月日本フィル楽団参与に就任
・4月24日日本フィル 第83回東京定期演奏会を指揮
・5月15日日本フィル 第84回東京定期演奏会を指揮
・6月16日ー8月4日ラヴィニア音楽祭 初代音楽監督として指揮
6月16日,18日,30日,7月7日,21日,25日,28日,8月1日,4日
・6月シカゴ交響楽団(指揮者はジャン・マルティノン)によるラヴィニア音楽祭の指揮者が急病により辞退を受け急遽、ニューヨークにいた征爾が開催数日前に招聘され夏の間、シカゴ交響楽団のラヴィニア音楽祭音楽監督に就任(1968年まで)した。
音楽監督として音楽祭を成功に収め、小澤の名声は全米に知れ渡った。
『僕は64年6月、ラヴィニア音楽祭初代音楽監督に就任した。最初の年は指揮するたび、地元の有力紙「シカゴ・トリビューン」が僕のことを徹底的にやっつけた。「ラドキンはどうしてこんなのを雇ったのか」「シカゴ響のような偉大なオーケストラがなぜこんな指揮者の下で演奏しなければならないのか」。
中には人種差別めいた批評もあって、頭に来た。
その夏の最後の音楽会。演奏が終わり、舞台袖に下がった後、客席からの拍手で呼び戻された。舞台に出ていくと、トロンボーンも、ティンパニも、トランペットも、弦楽器もてんでばらばら、めちゃくちゃな音を鳴らし始める。何が何だか分からない。「シャワー」といって、僕への祝福だった。
「シカゴ・トリビューン」への抗議を込めたものらしい、と後で分かった。オーケストラが精いっぱい僕に味方してくれたのだ。「シャワー」を経験したのは生涯で後にも先にもこの1度きりだ。その年から69年まで、僕は毎夏ラヴィニアで指揮することになる。』
・シカゴ交響楽団とRCAレーベル、EMIレーベルに複数の録音
・8月4,5,6日ニューヨーク・フィルを指揮
・8月15,16日タングルウッドでボストン交響楽団デビュー
プログラムにはビゼー《ハ長調交響曲》、ヒンデミット《画家マティス》、ムソルグスキー《展覧会の絵》。彼は1965年、1966年、1967年の夏のシーズン中に再出演を果たした。
・9月8日日本フィル第88回東京定期演奏会を指揮
・9月から翌1965年4月までの間、バーンスタインの長期休暇によりニューヨーク・フィルの指揮者を務める
・10月8日-11月28日日本フィル第1回北米公演に小澤は現地で合流し指揮をした
リンカーン・センター(ニューヨーク)をはじめ、31都市で34公演のうち小澤は5公演を指揮した。
渡邉曉雄、奥田道昭、江藤俊哉のほか、アイザック・スターンも出演。ニューヨーク・タイムズは「世界に通じる専門家のグル一プ」と絶賛さる大成功を収めた。
のちに、征爾は日本フィルの(1968年8月19日-1972年6月)ミュージカル・アドバイザー兼首席指揮者として創設期の日本フィルに貢献する
・12月22,23,24日日本フィルを指揮
ベートーヴェン《交響曲第九番》
中沢 桂,木村宏子,宮原卓也,中山悌一と共演
↓
小澤征爾物語 シリーズ‐13‐1964年演奏会記録
1964年演奏会記録
1965年(昭和40年)30歳
・3月ロンドン響と録音
・3月18日ニューヨークフィル「学生コンサート」を指揮
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・3月19,20,21日ニューヨーク・フィルを指揮
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・3月29日ニューヨーク・フィル「年金基金慈善コンサート」を指揮
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・5月17,24日コロンビア室内管弦楽団を指揮して録音
・6月15日ー7月20日ラヴィニア音楽祭を指揮
6月15,17,19,20,22,27,29日7月1,3,4,11,15,18,20,31日
・6月23日シカゴ交響楽団を指揮して録音
・7月24,25日ボストン交響楽団を指揮
・8月17,18,20,21日ニューヨーク・フィルを指揮
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・9月トロント交響楽団常任指揮者・音楽監督に就任(1965年9月-1969年6月)
この年、トロント交響楽団は、ワルター・サスキントンの後任として小澤征爾を同楽団史上四人目の音楽監督に任命し、大成功を収める。小澤は、生涯の師であるバーンスタインの下、ニューヨーク・フィルで二度目の副指揮者としての任期を終えたばかりだった。
・アメリカのオーケストラの音楽監督は、選曲から楽員人事指導から、楽団運営のすべてを管理し、管理者としての決定をやらねばならなかった。指揮や事前のスコアチェックからやるとなると、大変な激務である
(小澤は1965年9月から1969年6月まで同管弦楽団の4代目音楽監督を務めた間、210回のコンサートを指揮した。カナダ、米国、極東でオーケストラをツアーを行い、1968年にはメシアンの《トゥーランガリラ》を録音した。征爾は1970年から1996年まで客演指揮者としてトロント交響楽団に戻り、マッセイホール、オンタリオプレイス、ロイトムソンホールで22回のコンサートを指揮した。)
・『僕は9月、トロント交響楽団の音楽監督に就任した。僕がラヴィニア音楽祭で指揮するのを聴いたトロント響のマネージャー、ウォルター・ハンバーガーが僕のマネージャー、ロナルド・ウィルフォードに打診したのだ。だが障害があった。どうやらレニー(レナード)・バーンスタインが反対しているらしい。
「一緒に説得しよう」と言うウィルフォードと一緒にレニーの家へ行くと、やはりいい顔はしていない。
「セイジはニューヨークに居て、良いオーケストラだけ指揮するべきだ」という。その頃のトロント響は今ほど有名じゃなかった。「いや、今の僕にはレパートリーを作ることが必要なんだ」。僕には全然レパートリーが足りない。マーラーの交響曲全曲演奏もやってみたい。必死で頼んで、渋々OKしてもらえた。
トロント響での経験は思った以上に役立った。音楽監督はただ指揮するだけじゃなくて曲や客演指揮者の選定、人事までやる。楽員を辞めさせることだってある。オーケストラがどういうものだか分かって、すごく勉強になった。』
・小澤は1990年代にグローブ・アンド・メール紙にトロント交響楽団の演奏者数名で構成されていたCBCグループについて以下のように言及している『私が着任したのは、CBC交響楽団とトロント交響楽団が合併した直後でした。私にとっても演奏者にとってもすべて新鮮でした。』
・小澤とトロント交響楽団はこの年、カナダ代表としてコモンウェルス芸術祭にスコットランドのグラスゴー訪れ、また、トロント市庁舎新館のグランドオープンで演奏した。
・この年は、サスキントンがオーケストラとの10年間の付き合いを終えて辞任したとき、運勢はすでに好転し始めていたという。カナダ・オペラ・カンパニーとの新しい協力協定により、晩夏から初秋の雇用が決まり、この取り決めは、1976年まで続いた。小澤征爾が任命されると、購読料は劇的に増加したという。
・以下は、ポール・ロビンソン(By Paul Robinson)によるトロント交響楽団就任後の小澤征爾についてである。
『1965年、小澤はウォルター・サスキンドの後任としてトロント交響楽団の音楽監督に就任した。
当時、小澤は英語をほとんど話せなかったが、身振りやボディランゲージで非常に力強くコミュニケーションをとっていたため、ほとんど問題にはならなかった。
確かに、トロントでほとんどのレパートリーを学んでいたが、一生懸命に勉強し、習得も早かった。彼はマーラーの交響曲を学び始め、トロントで第4番と第9番を指揮した。
もちろん、後にマーラーの交響曲をすべて指揮することになる。また、メシアンの難解で有名な《トゥーランガリラ》も指揮し、トロント交響楽団と録音した。
同胞で同時代人であった武満徹の音楽を支持し、武満徹の作品を多くトロント交響楽団と録音した。トロントでは、チャールズ・アイヴズの悪魔のような交響曲第4番などとともに、ベルリオーズの主要作品のほとんどを初めて指揮した。ヴェルディの《リゴレット》をルイ・キリコを主役に迎えて初めてオペラ全曲を指揮した。
小澤氏は、ルービンシュタイン氏との食事ほどおいしい食事は食べたことがないと語った。(TSO 提供)
トロント滞在中、この若き指揮者はピアニストのアーサー・ルービンシュタインと親交を深めた。ルービンシュタインは小澤とトロント交響楽団の客人として頻繁に来ていた。ルービンシュタインは小澤をツアー指揮者に招いた。小澤は、ルービンシュタインと分かち合った食事ほどおいしいものは食べたことがなく、イタリア産ベルモット酒のプント・エ・メス・カルパノを紹介してもらったことを思い出す。
しかし、小澤がトロントに長く留まらないことは誰もが知っていた。彼はすぐにサンフランシスコ交響楽団に、そしてラヴィニアのシカゴ交響楽団に引き抜かれた。その後ボストン交響楽団に移り、1973年に音楽監督に就任した。彼が自分に課す要求と、演奏者のパフォーマンスに対する期待は、非常に高い。
すべてのコンサートは「イベント」であり、すべてのリハーサルは「ハプニング」である。彼のスティックのテクニックは、演奏者にとって夢のようである。彼は、明瞭でわかりやすいリズムを持つバレエダンサーである。彼の優雅さと華麗さは、それ自体が芸術作品である。彼は、スコアなしで完璧に指揮する。彼は、リハーサルで定められたキュー、拍子の変更、音楽の微妙なニュアンスを決して逃さない。完璧さと一貫性、そして彼の個人的な活力は、音楽における彼の特徴である。』
・9月23日-10月6日英連邦芸術祭にトロント交響楽団を率いて参加
23日グラスゴー、25日リヴァプール、27日ロンドン、29日カーディフ、10月1日ロンドン、3,4日パリ、6日リヨン
小澤征爾 トロント交響楽団
↓ 10月1日
モーツァルト:歌劇《後宮からの誘拐》序曲[00:10-]
チャイコフスキー《交響曲第5番》
小澤征爾 トロント交響楽団
1965年10月1日 ロンドン、ロイヤル・フェスティバルホール(プロムスより)
・11月1-4日トロント交響楽団を指揮
1日サドベリー、2日スー・セント・マリー、3日フォート・ウィリアム、4日ウィニペグ
・11月7日シカゴ交響楽団を指揮して録音
↓ 12月8日ロンドン交響楽団を指揮して録音
チャイコフスキー《ヴァイオリン協奏曲》
エリック・フリードマン(ヴァイオリン)
小澤征爾 ロンドン交響楽団
1965年12月8日ロンドン ウォルサムストウ・アセンブリー・ホールで録音(RCA)
・12月22,23,24日ベートーヴェン《第九》東京文化会館で日本フィルを指揮
・12月25日ベートーヴェン《第九》日本武道館で日本フィルを指揮
・小澤は両親をトロントに招んだ。父開作にとっては、昔の中国以来の海外であった。
・『しばらくして、おやじとおふくろをトロントに招待したら、出発前におやじがとんでもないことを言い出した。「ベトナム戦争はやめさせねばならん。二度と東洋人同士を戦わせてはいかん。アメリカにも行って、一番話が通じそうなロバート・ケネディに俺の意見を伝えたい」。相手は元アメリカ大統領、故ジョン・F・ケネディの弟で上院議員だ。会おうにもツテがない。
結局、僕の友人の浅利慶太さんが中曽根康弘さんを紹介してくれた。目黒の雅叙園で中曽根さん、浅利さん、僕とおやじで会い、中曽根さんに紹介状を書いてもらった。ケネディとワシントンで会う前の夜。僕たちが泊まっているホテルに先方の通訳の男性が来た。日本語がペラペラで、サンフランシスコ講和会議でも公式通訳を務めたという。その夜はホテルで酒を飲みながら、2時間ほどかけておやじの意見を聞いてくれた。おかげで実際にロバート・ケネディに会った時にはすんなり話が運んだ。おやじの主張は「日中戦争の経緯に照らしても、民衆を敵にしてしまったこの戦争は勝てない。アメリカは武力で勝とうとするのではなくて、発電や土木の技術とか、文明の面で優れているところを共産主義国に見せるべきだ」というものだった。15分か20分の約束だったのをケネディが倍くらいに延ばして、じっくり話を聞いてくれたのでおやじは大喜びだった。』
・母さくらは語る『征爾も初めて私たちを連れて来たので、みんなに紹介したかったんでしょうね。ある日私に、”家でパーティやっていいか"と征爾が言うので"いいわよ"と言うと、征爾はすぐに電話で三十人ほどに声をかけたら、全員が来るという返事。そこで私たち三人で買い物に行き、天ぷらの材料とかお酒などをいろいろ買ってきました。私が和服に割烹着をつけて天ぷらをあげてるところにお客さんがやってきて、"セイジのお母さん!"と派手に抱きついたり大変でした。征爾は一人でお客さんのお酒の注文やおかわりをサービスしてとてもうれしそうでした。』
・『トロントでの仕事はまずまずだったが、私生活は立ちゆかなくなっていた。結婚した江戸京子ちゃんはピアニスト。どちらかが音楽の勉強をしている時、もう一方は勉強に集中できない。「音楽家同士の結婚は難しい」と誰かに言われたことがあった。確かにその通りだった。海外に居る間はいつも別居。結婚当初からうまくいかなかった。最後にはうちのおやじと京子ちゃんのおやじの江戸英雄さん、仲人の井上靖さんの話し合いになった。そこに僕が呼び出されて、最終的に離婚が決まる。でも離婚後も江戸英雄さんは僕のことを「息子だ」と言って、亡くなるまでかわいがってくれ、京子ちゃんとも後に良い友人に戻れた。』
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1965年演奏会記録
1965年演奏会記録
1966年(昭和41年)31歳
・1月1日ロンドン交響楽団を指揮して録音
↓ チャイコフスキー《ヴァイオリン協奏曲》
エリック・フリードマン(ヴァイオリン)
小澤征爾 ロンドン交響楽団
・1月10-13日トロント交響楽団を指揮(4公演)
1月10日キングストン、11,12日モントリオール、13日オタワ
・3月28日-4月2日シカゴ交響楽団を指揮(4公演)
3月28日ミルウォーキー、3月31日,4月1,2日オーケストラ・ホール
・帰国
・4月20日日本フィル第119回東京定期演奏会を指揮
オネゲル《火刑台上のジャンヌ・ダルク》戸田敏子(アルト)他と共演
東京文化会館
・5月1,2,4日〈オーケストラル・スペース1966〉読売日本交響楽団を指揮(日生劇場)
オーケストラル・スペース1966〉の舞台が日生劇場となったのは、音楽祭企画者の武満徹と日生劇場音楽プロデューサー小澤征爾の盟友関係が理由と思われる。
『武満徹さんの曲「蝕(エクリプス)」を1966年、日生劇場で初めて聴いた時は寒気がするほど感動した。琵琶と尺八が語り合い、叫び合う。日本の「間」や東洋の静けさがあった。その後、アメリカに戻った僕はレニー(レナード) ・バーンスタインにいかにそれが素晴らしかったかを説いた。レニーはその頃ニューヨーク・フィルハーモニックの創立125周年を記念し、黛敏郎さんに曲を委嘱しようとしていたらしい。だが、僕の話を聞いて武満さんに決め、初演の指揮を僕に任せた。黛さんには悪いことをしたが、それで生まれたのが琵琶と尺八とオーケストラのための「ノヴェンバー・ステップス」だ。』
・6月7日オネゲル《火刑台上のジャンヌ・ダルク》ロンドン交響楽団と録音
・6月ウィーン響を指揮して、ウィーンおよびムジークフェラインにデビュー
・6月28日-8月13日ラヴィニア音楽祭シカゴ交響楽団を指揮
6月28日,30日,7月7日,10,24,26,28,31日,8月11日,13日
・7月22日ボストン交響楽団を指揮
↓ 7月26日ラヴィニア音楽祭シカゴ交響楽団
チャイコフスキー《イタリア奇想曲》
↓ 8月11日ラヴィニア音楽祭シカゴ交響楽団
36分33秒から小澤征爾指揮 – チャイコフスキー《 イタリア奇想曲》
00:00 – ラヴィニアの音
01:10 – ラヴィニア入門
02:16 – バック・ポーチ・マジョリティ(「Where Will You Be?」)
04:12 – バック・ポーチ・マジョリティ(「Second-Hand Man」)
06:51 – バック・ポーチ・マジョリティ(「This Train」)
08:47 – ラヴィニアの歴史(オペラ)
09:13 – ロバータ・ピーターズ・シカゴ交響楽団(モーツァルト:「Deh vieni non tardar」)
ヨーゼフ・クリップス(指揮)
12:32 – ラヴィニアの歴史(ジャズ)
14:27 – ラムゼイ・ルイス・トリオ
16:31 – ラムゼイ・ルイス・トリオ
17:57 – ラムゼイ・ルイス・トリオ
20:07 – ラムゼイ・ルイス・トリオ
25:13 – ナンシー・ウィルソン(「Getting to Know You」)
27:43 – ナンシー・ウィルソン(「モア」[モンド・ケーンのテーマ])
30:48 – ナンシー・ウィルソン(「アイヴ・ゴット・ユア・ナンバー」)
32:59 – ナンシー・ウィルソン(「ハウ・グラッド・アイ・アム」)
36:08 – ラヴィニアの歴史(シカゴ交響楽団)
36:33 – 小澤征爾 • シカゴ交響楽団:チャイコフスキー《 イタリア奇想曲》
53:30 – Credits
・8月8日ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮してデビュー
・8月24,25日ロンドン交響楽団を指揮して録音
・8月京子夫人(江戸)離婚
・9月21,22,23日ベルリン・フィル定期演奏会デビュー
・10月18日-11月4日トロント交響楽団を指揮
10月18日キッチナー,19日オタワ,31日ピーターボロ,11月2日イーストランシング,3日アナーバー,4日デトロイト
・11月13日モントリオール交響楽団を指揮して録音
・12月1,3日トロント交響楽団を指揮して録音(トロント、マッセイ・ホール)
・12月26日日本フィル第131回定期演奏会を指揮
・ある時、小澤征爾はインタビューに応え語っている『僕は、ちゃんと勉強して自分のやり方でやれば通るだろうという変な自信というか、斎藤(秀雄)先生に教わったことがポケットにあるんです。ベルリン・フィルに行っても、ウィーン・フィルに行っても、そのポケットから出して使えば通用すると思ってやってましたからね。それが、まあ、支えでもあったわけですよ。』
↓レスピーギ:交響詩「ローマの松」Ⅳ:アッピア街道の松
【指揮】小澤征爾 Seiji OZAWA. Canada Toronto Symphony
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1966年演奏会記録
1966年演奏会記録
1967年(昭和42年)32歳
・1月16-26日トロント交響楽団を率いてフロリダツアーを指揮
1月16,17日マイアミ,18日フォートローダーデール,19日ネイプルズ,20日フォートマイヤーズ,21日オカラ,23日オーランド,24日ジャクソンビル,25日クリアウォーター,26日セント・ピーターズバーグ
・2月3日フィラデルフィア管弦楽団を指揮
↓ 1. ドニゼッティ《アンナ・ボレーナ》より「アル・ドルチェ・ガイドミ」
2. ドニゼッティ《ロベルト・デヴリュー》より「ヴィヴィ・イングラート」
モンセラート・カバリエ
3. プッチーニ《トゥーランドット》より「誰も寝てはならぬ」17分46秒から
ジャンフランコ・チェッケレ
4. ヴェルディ《仮面舞踏会》より「永久に君を失えば」
5. ヴェルディ《アイーダ》より「さらばこの世よ涙の谷よ」
モンセラート・カバリエ、ジャンフランコ・チェッケーレ
小澤征爾 フィラデルフィア管弦楽団
・3月2日-5月6日トロント交響楽団を指揮
3月2日トロント,4月2日ワシントン,3日ウィルクス・バリ,4日ニューヨーク・ライ,5,6日ニューヨーク,5月5日オタワ,6日モントリオール
・3月2日トロントでトロント交響楽団を指揮、この演奏は後に CBC テレビで放送された。
https://acrobat.adobe.com/id/urn:aaid:sc:AP:7388c083-b72f-4a1d-b80c-10ab48522594?fbclid=IwY2xjawIoxj9leHRuA2FlbQIxMQABHRyenuZpHiFewxVGhlM58lajhsTILKSECKpDOQWTZvl-0dWXadqP-IGMag_aem_454F-iF_Vwya9ebJbW7pEA
・3月19日創設されたザルツブルク復活祭音楽祭でワーグナー:楽劇《ワルキューレ》でカラヤンのアシスタントを務めた。
この年、カラヤンは、ザルツブルク復活祭音楽祭を創設し、この音楽祭での演目はワーグナーの楽劇《ワルキューレ》であった。小澤征爾はカラヤンのアシスタントを務めオペラを勉強した。演奏ではベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が出演した。ベルリン・フィルは当時、コンサートのみで演奏していた。この音楽祭でオペラ管弦楽団としてその後名を馳せた。
・ザルツブルク復活祭音楽祭は、1957年よりカラヤンが芸術監督を務めていた夏のザルツブルク音楽祭を補完するものとして開催された。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は伝統的に夏の音楽祭の栄誉ある地位を占めており、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が初めてこの音楽祭で演奏したのは1957年で、カラヤンの招聘によるものであった。カラヤンが当初重点的に演奏したのはワーグナーの作品であったが、同時期に開催されていた近隣のバイロイト音楽祭との紳士協定により、夏のザルツブルクではこの作品は避けられていた。
・6月27日-8月16日ラヴィニア音楽祭シカゴ交響楽団を指揮
6月27日,29日,7月1日,7日,8日,9日,13日,16日,30日,8月8日,10日,12日,15日
↓ アルベルト・ヒナステラ:バレエ《エスタンシア》組曲
小澤征爾 シカゴ交響楽団
1967年6月27日ラヴィニア音楽祭 ライブ録音
・7月7,8日ニューヨーク・フィルを指揮
https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/cf98420a-f4e5-4c64-a92e-b2227fb7599d-0.1/fullview#page/1/mode/2up
・7月18日シカゴ交響楽団と録音
↓ ムソルグスキー《展覧会の絵》キエフの大門
・7月22日タングルウッド音楽祭でボストン交響楽団を指揮
・8月1,3,5,6日ニューヨーク・フィルを指揮
https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/5fe27fc4-cedd-4d54-ad78-40408d3b48a6-0.1/fullview#page/1/mode/2up
・帰国
・9月7日民音定期演奏会で日本フィルを日比谷公会堂で指揮
↓ ベルリオーズ《幻想交響曲》第5楽章
小澤征爾 日本フィルハーモニー交響楽団
1967年9月7日民音定期演奏会 日比谷公会堂
https://youtu.be/eBLrVNJ2ZxM?si=fGWqN4qQ4JKZb2Ko
・9月28日-10月10月7日〈EXPO 67参加-100周年記念ツアー〉でトロント交響楽団を指揮
9月28日カークランドレイク,29日ヘイリーベリー,30日ノースベイ,10月2日ペンブルック,3日ベルビル,5日バリー,7日ウェランド
・10月15日25日トロント交響楽団を指揮
10月15日オンタリオ(ロンドン),24日オタワ,25日ハミルトン
・10月30日11月1-3日シカゴ交響楽団を指揮
・『ノベンバーステップス、武満は当初、山荘で聴こえる自然音から、《ウォーター・リング》(水輪=みなわ)という題を考えていた。ところが、アメリカ側から「それは風呂場の浴槽の泡のことだ』と指摘された。そこで、11段(11ステップス)構成なので《イレブン》としたが、これだと深夜のテレビ番組「11PM」を連想する……そこで、11月に初演されることから、《ノヴェンバー・ステップス》と決定した。当初は東洋と西洋の融合を考えていたが、無理にそうせず、東西の“出会い”や“拮抗”をそのまま描くような音楽となった。』
『これは、ただ楽譜通りに演奏すればいいという曲ではありません。武満作品は、風や川の自然音をそのまま音楽にしたようなところがある。琵琶・尺八パートは図形楽譜で書かれており、アドリブ的な要素も多い。それとオーケストラが合わせるのですから、並大抵の難しさではないのです。なのにニューヨーク・フィルは、リハーサルに2日しかとれないという』
『そこで小澤は、自らが音楽監督をつとめるトロント交響楽団に、事前練習をさせてくれないかと相談する。小澤は、こう回想している。』
『トロント交響楽団にすればニューヨーク・フィル公演のための練習台にされるわけで、そこまでぼくに付き合う必要はないわけですが、大協力してくれたんです。ほんとに感動的でした。』
●資料出典(立花隆『武満徹・音楽創造への旅』より、文藝春秋刊、2016年)
『トロント空港で、男装の鶴田錦史が女子トイレに入ってきたので大騒ぎになる椿事もあったが、練習は順調に進み、いよいよ一行はニューヨークに乗り込んだ。小澤は3人に「何があっても驚いちゃいけないよ」と予告していた。いったい、何が起きるというのか。』
『リハーサル初日、羽織袴の鶴田・横山両氏が入ってくると、団員たちが大笑いをはじめました。中には、舞台から客席に転げ落ちて笑うものもいたそうです。このとき武満さんは心底から怒って「ギャラもいらないから、キャンセルしたい」とまで言い出すのです。小澤さんはそれをなだめ、団員たちに武満作品の意義を熱心に解説しました。その間、鶴田・横山は、ひとことも発せず、瞑想して座していた。そして小澤は、琵琶・尺八のソロを聴かせたのです。団員たちはじっと聴き入り、最後にはブラボー!となった』
『ただ、それでも帰りに武満のもとへ来て「しょうがないから演奏するが、おれはこんな音楽は大嫌いだ」と言い捨てていく団員がいたという。』
『小澤・武満も必死だったが、鶴田・横山も命がけだった。11月のニューヨークは極端に乾燥している。湿気の多い日本の気候に合う木製の琵琶や尺八など、すぐに割れてしまう。横山は濡れタオルで尺八を包んで守った。鶴田に至っては、自然の湿気を求めて白菜を楽器ケースのなかに入れていた。ニ人は、そこまでして初演に臨んでいたのだ『』
横山の回想『初演が成功したら、私は死んでもいいと思っていました。神様が私の命を召すとおっしゃるならば、召されて結構ですから初演を成功させてくださいってね。初演前に四方拝ですよ。相談したわけでもないのに、鶴田さんも四方拝をしたそうです。鶴田さんもほんとうに命がけなんだなと思いました』
●資料出典『武満徹を語る15の証言』より、小学館刊、2007年
・11月9,10,11,13日ニューヨーク・フィルをフィルハーモニーホールで指揮
「ニューヨーク・フィル創立125周年記念」委嘱作品/武満徹《ノヴェンバー・ステップス》初演
・11月9日の「ニューヨーク・フィル創立125周年記念」で武満徹の《ノヴェンバー・ステップス》をニューヨーク・リンカーン・センターのフィルハーモニック・ホール(デイヴィッド・ゲフィン・ホール)において、鶴田錦史と横山勝也のソロ、ニューヨーク・フィルハーモニック、小澤征爾指揮により演奏された。
この初演は大成功を収め、武満の名が世界に知られる契機となった。
小澤征爾によると客席にはレナード・バーンスタインの他に、アーロン・コープランドやクシシュトフ・ペンデレツキらも同席していて、大絶賛してくれた。バーンスタインに至っては「何という強い生命の音楽だ」と泣き出し絶賛したという。
↓ 小澤征爾&小澤幹雄:対談「ノヴェンバー・ステップスについて」
翌日のニューヨーク・タイムズ紙も「タケミツは欧米の作曲家より洗練されている」「ツルタの琵琶は威厳がある。ヨコヤマの尺八は芳醇な音色で、NYフィルのフルート奏者も嫉妬したのでは」との好評を掲載した。
・小澤は語る『前年の1966年僕は、武満徹さんの《蝕(エクリプス)》を日生劇場で初めて聴いた時は寒気がするほど感動した。琵琶と尺八が語り合い、叫び合う。日本の「間」や東洋の静けさがあった。
その後、アメリカに戻った僕はバーンスタインにいかにそれが素晴らしかったかを説いた。
バーンスタインはニューヨーク・フィル創立125周年を記念し、黛敏郎さんに曲を委嘱しようとしていたらしい。だが、僕の話を聞いて武満さんに決め、初演の指揮を僕に任せた。黛さんには悪いことをしたが、それで生まれたのが琵琶と尺八とオーケストラのための《ノヴェンバー・ステップス》だ。
初演は1967年11月。その前に尺八の横山勝也さん、琵琶の鶴田錦史さん、武満さんがカナダに来て、トロント交響楽団で徹底的に練習した。
自分たちが初演するわけでもないのにトロント響のマネージャー、ウォルター・ハンバーガーは快くOKしてくれた。
この曲は武満さんの傑作中の傑作だ。西洋と日本の音楽が一体になって、真の音楽を生み出している。ニューヨーク・フィルの練習では、聴き慣れない尺八の音に笑い出す楽員がいた。カーッと来て怒ったが、次第に全員が演奏に心を込めるようになった。横山さんと鶴田さんの真剣勝負に触れたからだと思う。
初演の日。静かなオーケストラパートの後、二人のカデンツァが始まった。小刻みに震える尺八に、切っ先鋭い琵琶。ニューヨーク・フィルの連中が息を詰めて耳を澄ませている。指揮台の僕も興奮が収まらない。最後の尺八の音が消えた後、客席から「ブラボー!」の歓声がわいた。初演は大成功だった。
『演奏開始までは、なんとなくざわついていた客席も、音楽の美しさに引っ張られ、すぐに静まりかえった。終演後はブラボーの嵐となった。四人は何度もカーテンコールに呼び出される(横山はあまりの緊張と消耗で、血尿が出ていた)。
「アメリカ人にとっては、初めて見る楽器、初めて聴く音色ですから、先入観なく接することができたのだと思います。しかし、やはり日本人には、違和感をおぼえるひともいたようです」
『そのひとりが、永六輔だった。』
武満の回想『彼はたまたまニューヨークに来ていて、聞きにきたらしいんです。その感想をどこかに書いていたんですが「気持ち悪かった」というんです。着物を着た人が燕尾服を着たオーケストラの前に出てきて、「ベーン」と音を出すのを聞いたら、気持ち悪くて鳥肌が立ったというようなことを書いていた。ぼくは自分でも、とんでもなく変なことをしてしまったのではないかと思っていたところだったので、その感じがよくわかるんです。』
●資料出典(武満徹・音楽創造の旅)より
鶴田錦史(1911~1995)は、旧名・鶴田菊枝。大正から昭和にかけて、琵琶の天才少女として大活躍した。一時は500人もの弟子をかかえ、結婚して子供もニ人もうけた。
尺八の横山勝也(1934~2010)は、映画「暗殺」で、武満と出会った。横山は、画面を観ながら、すべてを即興で演奏。武満は一発OKを出す。
その1カ月後、今度はトロント響で《ノヴェンバー・ステップス》を録音した。
メシアンの《トゥランガリラ交響曲》も一緒だ。メシアンたっての頼みだった。でも、長い難しい曲だから弾く方は大変だ。練習時間が長くなる分、報酬がかさむからオーケストラの経営にも負担がかかる。ハンバーガーがよく承知してくれたと思う。
トロントではピアニストのグレン・グールドとも親しくなり、共演しようという話になった。放送局で演奏し、録音もする計画だ。何度も打ち合わせして、ちょっと変わった良いプログラムができあがった。現代曲や、バッハのチェンバロ曲をピアノで弾くのとか。なのに直前になってグレンが「嫌だ」と言って立ち消えに。そのくせ、変わらず平気な顔で僕と酒を飲んでいる。変わった男だった』
・12月7-9日トロント交響楽団を指揮して録音
・12月23日日本フィル第151回定期演奏会を東京文化会館で指揮
・12月26日日本フィル第131回定期演奏会を東京文化会館で指揮
・12月28日成城学園創立50周年記念音楽会で日本フィルを東京厚生年金会館で指揮
ハイドン《四季》
1967年 録音
↓ ベルリオーズ《幻想交響曲》Ⅰ. 「夢、情熱」
小澤征爾 トロント交響楽団
↓ ベルリオーズ《幻想交響曲》III. 「野の風景」
小澤征爾 トロント交響楽団
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1967年演奏会記録
1967年演奏会記録
1968年(昭和43年)33歳
・1月26日シンフォニーホールで初のボストン交響楽団を指揮してシンフォニーホール・デビュー。
1月27日ボストン,29日ハートフォード,31日ニューヨーク,2月1日ブルックリン,2月2日ニューヨーク,6‐7日ボストン
・↓ オットー・ヨアヒム《オーケストラのためのコントラスト》
・3月25-28日トロント交響楽団を率いてミシガンツアー
3月25日ベイシティ,26日サギノー,27日フリント,28日アナーバー)
・4月29日シカゴ交響楽団を指揮
・6月12,13日ベルリン・フィルを指揮
・6月27日-8月10日ラヴィニア音楽祭シカゴ交響楽団を指揮
6月27日,29日,30日,7月2日,6日,7日,8月3日,4日,6日,8日(A・B)
・7月1日シカゴ交響楽団を指揮して録音(春の祭典)
・↓ ストラヴィンスキー《春の祭典》第1部:大地への崇拝(円形の踊り)
・7月26日ザルツブルク音楽祭:歌劇《ドン・ジョヴァンニ》でカラヤンのアシスタントを務め、シンフォニーとオペラは車の両輪、どちらも必要と助言をうけた。出演したミレッラ・フレーニからチャイコフスキーのオペラを指揮するよう勧められたという。
・8月10日小澤征爾は、ラヴィニア音楽祭音楽監督退任を発表した
退任挨拶『ラヴィニアは私を音楽監督に招いてくれた最初の組織です。皆さんが私を信頼してくれなかったら、私は今頃キャリアを積んでいなかったと思います。シカゴ交響楽団は私が指揮した中で最も偉大なオーケストラの一つであり、ここで経験した音楽の栄光ほど素晴らしいものはありません』と語った。
退任時に名誉音楽監督に任命された。
彼は1968年シーズンまでラヴィニア音楽祭の音楽監督を務め、1969年シーズンには首席指揮者を務め、その後も定期的に客員指揮者として出演した。小澤が最後にこの音楽祭に出演したのは1985年7月14日で、モーツァルトの「ピアノと管弦楽のためのロンド ニ長調」と武満徹の「リヴァーラン」を指揮し、さらに ピーター・ゼルキン と 共演したほか、チャイコフスキーの「悲愴 」交響曲を演奏した。
・9月3日日本フィル第164回東京定期演奏会を東京文化会館で指揮
・9月ロシア系 アメリカ人の入江美樹(日本のモデル、女優、ファッションデザイナー)と結婚して小澤ヴェラとなる。入江は結婚後はファッションデザイナーとして活動し、レディスブランド「ザ・ギンザ・バイ・ミズ・ヴェラ」などを手がける。
征爾との間に生まれた長女の小澤征良はエッセイスト、長男の小澤征悦は俳優となった。
・10月22-23日トロント交響楽団を指揮
ホアキン・ロドリゴ《アランフェス協奏曲》初演
ジュリアン・ブリーム(ギター)
小澤征爾指揮のトロント交響楽団により2回公演された。
マッセイ・ホール
・12月1-6日トロント交響楽団を指揮
1日ボストン,2日バーリントン,3-4日モントリオール、6日オタワ
・↓ メシアン《トゥランガリラ交響曲》
イヴォンヌ・ロリオ(ピアノ)
ジャンヌ・ロリオ(ピアノ)
トロント交響楽団
・メシアン《トゥーランガリラ交響曲》トロント交響楽団のアルバムがグラミー賞のクラシック部門「ベスト・オペラ・レコーディング」にノミネートされた。
・12月25日日本フィル第171回東京定期演奏会 東京文化会館で指揮
ベートーヴェン《交響曲第九番》「合唱」
斎藤江美子(S.)
木村宏子(A.)
鈴木寛一(T.)
川村英司(Br.)
藤原歌劇団合唱部
東京混声合唱団
二期会合唱団
日本合唱協会
東京カンマー・コーア
小澤征爾 日本フィルハーモニー
東京文化会館
・↓ ロンドン交響楽団と録音
ホアキン・ロドリーゴ《アランフェス協奏曲》
ジュリアン・ブリーム(ギター)
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1968年演奏会記録
1968年演奏会記録
1969年(昭和44年)34歳
・2月13日-3月10日ニューヨーク・フィルの定期演奏会を四週間にわたり14公演を指揮した。
2月13,14,15,17,20,21,22,24,27日,3月1,3,6,7,10日
・2月28日ニューヨーク・フィル学生コンサートを指揮
・4月4日-23日トロント交響楽団日本ツアーを指揮
4月14,15,16日大阪,18名古屋,19,20,21,23日東京
・4月27日-5月1日月トロント交響楽団東部米国ツアーを指揮
4月27日ニューヨーク、28日ロングアイランド、29日フィラデルフィア、5月1日ニューヨーク
・5月21日日本フィル第180回東京定期演奏会を指揮 東京文化会館
モーツァルトのオペラ《コジ・ファン・トゥッテ》 K.588 (演奏会形式)
ソプラノ:林 康子
メゾソプラノ:木村宏子
バリトン:平野忠彦
テノール:中村 健
ソプラノ:安田祥子
バス:佐藤征一郎
チェンバロ:小林道夫
東京混声合唱団
日本フィルハーモニー交響楽団
・5月28日日本フィル第181回東京定期演奏会を指揮 東京文化会館
G. ガブリエリ《ピアノとフォルテのソナタ》
高橋悠治《オルフィカ》 (日本フィル・シリーズ第21作)
マーラー《交響曲第一番 ニ長調》「巨人」
・6月トロント交響楽団音楽監督退任。退任時に名誉音楽監督に任命された。
この年トロント響音楽監督最後の年度であった。征爾は桐朋の後輩秋山和慶をトロント響の副指揮者に呼んでいた。
小澤は、1964年同楽団に客演指揮で成功を収め、翌年音楽監督に就任。征爾の就任に伴い定期会員数も大幅に増え、1965年にはトロント市議会が助成金を37,500ドルから43,500ドルに引き上げ、CBCカナダ放送協会も放送料金を5,500ドル値上げするなど征爾の経済効果が出た。
・渡邊暁雄の後をうけ日本フィルの首席指揮者兼音楽アドヴァイザーに就任。
・6月シカゴ響と録音。
・ロンドンでニュー・フィルハーモニア管弦楽団の客演指揮。
・6月20日ベルリン・フィルを指揮者
ハイドン《交響曲第68番》
グラズノフ《ヴァイオリン協奏曲》
ミシェル・シュヴァルベ(ヴァイオリン)
武満徹《グリーン》ヨーロッパ初演
ヒナステラ:バレエ音楽《エスタンシア》より舞曲
・6月26日-7月6日ラヴィニア音楽祭でシカゴ交響楽団を指揮
6月26,28,29日,7月3,5,6日
ザルツブルク音楽祭にカラヤンの推薦を受けオペラ《コジ・ファン・トゥッテ》を指揮するために、ラヴィニア音楽祭の音楽監督ポストを返上したが六公演に登場した。1969-1970年首席指揮者に任命され、その後も客演した。としてその後の六公演に登場した。
・7月28日,8月6,11,17,22,26日ザルツブルク音楽祭オペラ・デビュー
モーツァルト:歌劇《コジ・ファン・トゥッテ》
小澤征爾 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
カラヤンの推薦だった。
・8月20日ー9月23日ニューヨーク・フィルのアメリカ横断ツアーで11都市で18公演を指揮した。
8月20日ニュー・ヘイブン、8月30,31日チェスターヒルズ、9月2,3日サンフランシスコ、4,6日ハリウッド、7日サンタバーバラ、9,10,11,13,14日アイオワ、16日ウィートン、18日マディソン、19日ミルウォーキー、20日イリノイ、21日アナーバー
↓ 8月30,31日
《ビアノ協奏曲》第3番
アンドレ ワッツ ピアノ
小澤征爾 ニューヨーク・フィルハーモニック管弦楽団
↓ 9月20日
ラフマニノフ《ピアノ協奏曲第3番》
アンドレ・ワッツ(ピアノ)
小澤征爾 ニューヨーク・フィルハーモニック管弦楽団
・9月23日ニューヨーク・フィルのシーズン・オープニング・ナイトを指揮し、その後六週間10月末まで同フィルを振り続けた。
・9月23,25,26,27,29日、10月2,3,4,6,9,10,11,13,16,17,18,20,23,27,30,31日
↓ 9月25日
シューマン「ピアノ協奏曲 イ短調 作品54」
アリシア・デ・ラローチャ(ピアノ)
小沢征爾 ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団
・10月24日ニューヨーク・フィル学生コンサートを指揮
・11月クリーヴランド管弦楽団の定期演奏会で客演指揮。
・11月13日-25日ボストン交響楽団を客演指揮
11月13,14,15,18,20,21,22,25日
↓ 11月13日
カール・オルフ《カルミナ・ブラーナ》
・小澤征爾はボストン交響楽団の客演指揮者として、オルフ《カルミナ・ブラーナ》、ストラヴィンスキー《「ペトルーシュカ》、ストラヴィンスキー《火の鳥組曲》をシンフォニーホールでボストン交響楽団とRCAビクター・レーベルに初録音した。
・帰国
・12月11日 日本フィル第190回東京定期演奏会 東京文化会館で指揮
武満 徹:《グリーン》
バルトーク《管弦楽のための協奏曲》 Sz.116
チャイコフスキー《交響曲第一番ト短調》 op.13 《冬の日の幻想》
・12月18日日本フィル第191回定期演奏会 東京文化会館で指揮
ベートーヴェン《ミサ・ソレムニス》
ソプラノ:伊藤京子
アルト:戸田敏子
テノール:藤沼昭彦
バリトン:芳野靖夫
東京混声合唱団,東京放送合唱団,二期会合唱団,日本合唱協会
・12月パリ管弦楽団の定期演奏会指揮デビュー
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1969年演奏会記録
1969年演奏会記録
1970年35歳
・1月16日日本フィル第192回東京定期演奏会 東京文化会館
バーンスタイン《チチェスター詩篇》 (日本初演)
バーンスタイン《交響曲第3番》「カディッシュ」(日本初演)ほか指揮
・1月27日日本フィル第193回東京定期演奏会 東京文化会館
ストラヴィンスキー:バレエ音楽《春の祭典》ほかを指揮
・小澤は1970年から1996年まで客演指揮者おしてトロント交響楽団に戻り、マッセイホール、オンタリプレイス、ロイトムソンホールで22回のコンサートを指揮した。
・<小澤征爾トロント交響楽団タイムライン>
〇1965年にサスキンドがオーケストラとの10年間の付き合いを終えて辞任したとき、運勢はすでに好転し始めていた。カナダ オペラ カンパニーとの新しい協力協定により、晩夏から初秋 の雇用が決まり、この取り決めは 1976年まで続いた。指揮者に小澤征爾 (1935年9月1日、日本人の両親のもと満州生まれ) が任命されると、購読料は劇的に増加した。1965年、トロント交響楽団は、ワルター・サスキンドの後任として小澤を同楽団史上4人目の音楽監督に任命し小澤征爾が第4代音楽監督に就任し、大成功を収めた。小澤は、生涯の師であるレナード・バーンスタインのもと、ニューヨーク・フィルハーモニックで2度目の副指揮者としての任期を終えたばかりだった。
『私が着任したのは、CBC交響楽団とトロント交響楽団が合併した直後でした。私にとっても演奏者にとっても、すべてが新鮮でした』と小澤は1990年代にグローブ・アンド・メール紙にトロント交響楽団の演奏者数名で構成されていたCBCグループについて言及している。
〇トロント交響楽団は1965年にカナダ代表としてコモンウェルス芸術祭にスコットランドのグラスゴーを訪れた指揮者就任当初のトロント市庁舎新館のグランドオープンで演奏は同組織の公共性を示す象徴となった。
〇日本の巨匠、小澤征爾がTSOを指揮し、短いながらも注目すべき在任期間を過ごした。その中には、1967年の画期的なメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」の録音も含まれる。アイヴズ(交響曲第4番)やメシアン(トゥーランガリラ交響曲)など、新しい作曲家の作品をトロントの聴衆に紹介する上で重要な役割を果たした。
〇小澤の在任中、トロントのオーケストラ音楽は新鮮な風合いを帯びた。ダイナミックなスタイルで、時には大胆なテイストの彼は、アイヴズ(交響曲第4番、難解な単独指揮者版)やメシアン(トゥーランガリラ、後に録音)などの作曲家の作品など、新しい作曲家の作品をトロントの聴衆に紹介する上で重要な役割を果たした。
〇1967年カナダ建国100周年では、創立100周年を記念して、オーケストラはオットー・ヨアヒムとルイジ・ノーノに特別に委嘱された曲を演奏した。小澤のトロント滞在は短かったが、オーケストラと聴衆に良い影響を与えた。
〇1967年9月30日EXPO 67参加-100周年記念ツアーを指揮した。
〇小澤は、その輝かしいキャリアの初期の、まだ形成期にあった時期にトロント交響楽団を指揮したが、彼の後継者は、並外れて幅広い経験を持つ著名なヨーロッパの指揮者であった。
〇1969年には小澤自身の母国である日本へのより広範囲なツアーが行われた。このツアーと、指揮者が日本の現代作品、特に武満徹の作品を重視したことから、トロントの音楽的嗜好、特に打楽器演奏と作曲に顕著な影響が見受けられる。
〇小澤とトロント交響楽団は、グラスゴーのコモンウェルス芸術祭でもカナダ代表として参加し、1967年にはモントリオールで開催されたエキスポ67の文化プログラムにも参加した。
〇1967年当時、国際舞台で活躍する非白人の音楽家はほとんどいなかった。批評家のハロルド・C・ショーンバーグは1967年の著書『偉大な指揮者』の中で、若い指揮者の地位の変化を指摘し、小澤とインド生まれのズービン・メータが「総合的に見て優れた才能として印象づけた」最初のアジア人指揮者であると書いている。
〇「トロントで指揮したすべてのレパートリーは、人生で初めてでした。チャイコフスキー、ベートーベン、マーラー、すべてです」と小澤は1996年にグローブ紙に語った。「観客は素晴らしく、忍耐強く、とても協力的でした。」
〇彼は1970年からサンフランシスコ交響楽団で同様の役職に就き、その後ボストンで最大の功績を残した。
・5月小澤は、タングルウッド音楽センター所長のギュンター・シュラーと総合顧問のレナード・バーンスタインとともに、ボストン交響楽団のバークシャー音楽祭(タングルウッド)芸術顧問に任命された(1970~2002年)。以降、ボストン交響楽団との親交が深まる。
・5月31日 ウィーン音楽祭週間
ゴットフリート・アイネム《ヴァイオリン協奏曲》
ルッジェーロ・リッチ(ヴァイオリン)
ブラームス《ヴァイオリン協奏曲交響曲第2番》
小澤征爾 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
ウィーン楽友協会
・6月4,5日ベルリン・フィル定期演奏会を指揮
・帰国
・6月11日日本フィル第202回定期演奏会を指揮
・6月17日日本フィル第203回東京定期演奏会 東京文化会館
マーラー《交響曲第八番》変ホ長調 「千人の交響曲」を指揮
・6月25,27,28日ラヴィニア音楽祭でシカゴ交響楽団を指揮
篠原 眞:オーケストラのための《ヴィジョンⅡ》 (日本フィル・シリーズ第22作)
ヤナーチェク《シンフォニエッタ》
ブルックナー《交響曲第四番》 変ホ長調 WAB104「ロマンティック」
・7月3-23日タングルウッド音楽祭でボストン交響楽団を指揮
7月3,4,11日2公演(夜のみ歌劇《コジ・ファン・トゥッテ》),12,16,17,18,22日2公演(夜のみベルリオーズ《レクイエム》),23日
・7月28日,8月7, 17,26日ザルツブルク音楽祭
モーツァルト:歌劇《コジ・ファン・トゥッテ》
小澤征爾 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
フェルゼンライトシューレ
・8月2日ザルツブルク音楽祭でベルリン・フィルを指揮
・8月31日,9月8,10日ニューヨーク・フィル大阪万博出演でバーンスタインに同行帰国
8月31日<ニューヨーク・フィル日本ツアー> フェスティバルホール、大阪
メンデルスゾーン《交響曲第四番》op.90「イタリア」
武満徹《ノヴェンバー ステップス》No.1 鶴田錦史(琵琶)、横山 勝也(尺八)
ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲《展覧会の絵》等を指揮
https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/c478ac5f-2a7c-42a6-959a-38393fa6d191-0.1/fullview#page/1/mode/2up
・9月8日<ニューヨーク・フィル/日本ツアー> 東京文化会館
メンデルスゾーン《交響曲第四番》op.90「イタリア」
武満徹《ノヴェンバー ステップス》No.1 鶴田錦史(琵琶)、横山 勝也(尺八)
ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲《展覧会の絵》等を指揮
https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/c478ac5f-2a7c-42a6-959a-38393fa6d191-0.1/fullview#page/1/mode/2up
・9月10日<ニューヨーク・フィル/日本ツアー> 富士学園ホール、札幌
メンデルスゾーン《交響曲第四番》op.90「イタリア」
武満徹《ノヴェンバー ステップス》No.1 鶴田錦史(琵琶)、横山 勝也(尺八)
ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲《展覧会の絵》等を指揮
https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/c478ac5f-2a7c-42a6-959a-38393fa6d191-0.1/fullview#page/1/mode/2up
・9月16-20日ニューヨーク・フィルを指揮
9月16,17日ノースカロライナ,18日アトランタ,19日サウスカロライナ,20日シャーロット
・10月6日ベルリン・フィルを指揮
・11月5-18日ボストン交響楽団を指揮
11月5,6,7,10,12,13,14,17,18日ボストン シンフォニーホール
・11月21日父小澤開作の急逝
小澤の招待で12月1日のサンフランシスコ交響楽団指揮者就任式とオープニングコンサートに夫婦揃って行く予定で渡航の準備をしていたが、自宅で心臓発作が起こり逝去。
墓地は東京都西多摩郡秋川の霊園。
・12月1日サンフランシスコ交響楽団指揮者・音楽監督就任(1970年12月~1976年)
小澤は1970年にサンフランシスコ交響楽団の首席指揮者に就任し1976年までその職を務めた。
1972年にはフィリップスと契約してレコードの録音を開始し、小澤とサンフランシスコ交響楽団は世界的に名を馳せるようになった。サンフランシスコ交響楽団はそれまでアルバムを録音したことがほとんどなかったため、小澤のレコード活動は同楽団にとって大きな飛躍の契機となった。また、1973年には小澤とサンフランシスコ交響楽団がヨーロッパ・ツアーを率いており、サンフランシスコでの時間は小澤自身とオーケストラの名声を世界に広める機会となった。しかし、1973年にボストン交響楽団の音楽監督に就任した後、1974年に日本人ファゴット奏者の採用をぐってオーケストラと対立することになる。
・12月2-31日サンフランシスコ交響楽団シーズン・オープニング・コンサートをウォー・メモリアル・オペラで指揮。
12月2,3,4,9,10,11,30,31日
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1970年演奏会記録
1970年演奏会記録
1971年(昭和46年))36歳
・1月サンフランシスコ交響楽団を指揮
・1-2月ニューヨークフィルを指揮
・3-5月サンフランシスコ交響楽団を指揮
・6月9日日本フィル222回定期演奏会 日比谷公会堂
ヴェルディ《レクイエム》
ソプラノ:平田恭子 メゾソプラノ:荒 道子
テノール:丹羽勝海 バリトン:芳野靖夫
合唱:成城合唱団 合唱:東京混声合唱団
・6月23日日本フィル<第223回定期演奏会> 日比谷公会堂
石井眞木:雅楽とオーケストラのための《遭遇Ⅱ番》 op.19 (日本フィル・シリーズ第23作)
ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番 ト短調 op.26
ベルリオーズ:交響曲《イタリアのハロルド》 op.16
指揮:小澤征爾
笙:多忠磨、鶴川滋、豊英秋
篳篥:東儀博 竜笛:芝 祐靖
びわ:上近 正 箏:東儀俊美
鞨鼓:東儀信太郎 太鼓・三ノ鼓:林 広一
鉦鼓:大窪永夫
ヴァイオリン:潮田益子
ヴィオラ:イツァーク・ショッテン
・7-8月ボストン交響楽団を指揮
・7月シカゴ交響楽団ラヴィニア音楽祭を指揮
9月10日日本フィル第224回定期演奏会
小澤征爾指揮でベルリオーズ《ファウストの劫罰》 東京文化会館
指揮:小澤征爾
ソプラノ:大川隆子 テノール:五十嵐喜芳
バリトン:栗林義信 バス:村本和修
合唱:日本プロ合唱団連合
合唱:東京放送児童合唱団
9月27日日本フィルハーモニー交響楽団第225回定期演奏会 東京文化会館
ベルリオーズ:幻想交響曲 op.14
ベルリオーズ:レリオ op.14b (日本初演)
指揮:小澤征爾
ナビゲーター:佐藤 功
テノール:中村 健
バリトン:平野忠彦
合唱:日本プロ合唱団連合
・10月パリでコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮
・10月ベルリン・フィルを指揮
・11月ボストン交響楽団を指揮
・12月サンフランシスコ交響楽団を指揮
・12月1973年ボストン交響楽団音楽監督就任契約を交わす
・サンフランシスコ大学芸術博士名誉学位授与
・パリ管弦楽団と録音
・グラミー賞ノミネート
ヤナーチェク《シンフォニエッ》
ルトスワフスキ《管弦楽のための協奏曲》
シカゴ交響楽団との録音
オルフ《カルミナ・ブラーナ》
ベルリン・フィルとの録音のアルバムがグラミー賞クラ シック部門「ベスト・オペラ録音」にノミネートされた。
アルバムがグラミー賞のクラシック部門「ベスト・オペラ・レコーディング」にノミネートされた。
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1971年演奏会記録
1971年演奏会記録
1972年(昭和47年)37歳
↓ ルッソ – ブルース・バンドとオーケストラのための3つの小品 – 小澤征爾、サンフランシスコ (1972)
Russo – Three Pieces For Blues Band And Orchestra – Ozawa, San Francisco (1972)
・日本芸術院賞受賞
2月小澤征爾、ボストン交響楽団の1972-73シーズンの音楽顧問に任命された。翌1973-74シーズンから音楽監督に就任する。
2月28日日本フィルハーモニー交響楽団<第235回定期演奏会>
モーツァルト《13管楽器のためのセレナード》 変ロ長調 「グラン・パルティータ」 変ロ長調 K.361
ベルリオーズ《テ・デウム》 op.22 (日本初演)
指揮:小澤征爾
テノール:宮本正 オルガン:酒井多賀志
合唱:日本プロ合唱連合
合唱:東京放送児童合唱団
3月6日日本フィルハーモニー交響楽団<第236回定期演奏会>
ハイドン《交響曲第47番 ト長調 Hob.I:47 (日本初演)
ハイドン:チェロ協奏曲第1番 ハ長調 Hob.VIIb:1
チャイコフスキー:ロココ風の主題による変奏曲 イ長調 op.33
バルトーク:バレエ音楽《中国の不思議な役人》 Sz.73
チェロ:ピエール・フルニエ
6月6日日本フィルハーモニー交響楽団第242回定期演奏会 東京文化会館
ベルリオーズ:劇的交響曲《ロメオとジュリエット》 op.17
指揮:小澤征爾
アルト:荒 道子 テノール:鈴木寛一
バリトン:高橋修一
合唱:日本プロ合唱団連合
6月16日日本フィルハーモニー交響楽団<第243回定期演奏会> 東京文化会館
日本フィルハーモニー交響楽団解散のため東京では、ラストコンサートになった
マーラー《交響曲第ニ番》ハ短調「復活」
指揮:小澤征爾
メゾソプラノ:小池容子 アルト:荒 道子
合唱:日本プロ合唱団連合
6月<日本フィルハーモニー交響楽団・ラストコンサート> 川崎産業文化会館
フジ・サンケイグループからの日本フィルハーモニー交響楽団解散と楽員解雇のため、ラストコンサートになった
マーラー《交響曲第ニ番》ハ短調「復活」
メゾソプラノ:小池容子 アルト:荒 道子
合唱:日本プロ合唱団連合
指揮:小澤征爾
7月1日新日本フィルハーモニ交響楽団を創立。斉藤秀雄、山本直純、横山幸雄、手塚幸紀や労組に加わらず旧日本フィルを脱退した楽団員が参加した。指揮者団には斎藤秀雄(顧問)、小沢征爾(首席)、山本直純(団幹事)、横山幸雄、手塚幸紀の顔ぶれとなった。
9月15日新日本フィルハーモニ交響楽団<結成演奏会>出演
ベルリオーズ《ローマの謝肉祭》序曲
ラヴェル《マ・メール・ロア》組曲
ベートーヴェン《交響曲第三番》「英雄」
小澤征爾:指揮
9月22日新日本フィルハーモニ交響楽団<第一回定期演奏会>出演 東京文化会館
ハイドン《交響曲第60番》ハ長調
ハイドン《協奏交響曲》変ロ長調
ハイドン《チェロ協奏曲》ニ長調 岩崎洸(チェロ)
ハイドン《テ・デウム》 日本プロ合唱団連合(合唱)
小澤征爾:指揮
10月1日<オーケストラがやって来た>出演 東京文化会館
72/73シーズン、ボストン交響楽団 音楽顧問を務める
12月22日新日本フィルハーモニ交響楽団<第四回定期演奏会>出演 東京文化会館
ハイドン《オラトリオ》
藤本章子(S.)/田中路子(A.)/田原祥一郎(T.)/齋 求(Bs.)
合唱:成城合唱団/宗教音楽研究会
小澤征爾:指揮
12月27日新日本フィルハーモニ交響楽団<特別演奏会>出演 東京文化会館
ベートーヴェン《第九》
曽我栄子(S.)/荘智世恵(A.)/田口興輔(T.)・岡村喬生(Bs.)/日本プロ合唱団(合唱)
小澤征爾:指揮
註:<日本フィルハーモニー交響楽団解散と新日本フィルハーモニ交響楽団創立までの経緯>
【山本直純や首席指揮者小澤征爾が指揮していた日本フィルハーモニー交響楽団は、三月末を以てフジテレビと文化放送との「雇用契約」を終了することになる。
六月に両社がオーケストラの解散と楽団員の全員解雇を通告をし、財団法人としての日本フィルハーモニー交響楽団は、その年の六月末を以て解散に追い込まれた。
当時の首席指揮者だった小澤征爾は解散阻止のため昭和天皇への直訴までした。日本フィルは二つに分裂した。組合派の団員はとどまって自主的な演奏活動を行い、解雇を不当として裁判所に訴えた。そうして以後十二年間もの裁判闘争が続いた。
当時の事を小澤征爾は語る『 新日本フィルを立ち上げるために、今じゃ信じられないけど、ぼくと直純の二人でお金を集めに行ったんです。ない知恵を絞って、佐藤栄作首相のお宅に直接行った。何であんなことやったんだかわからないんだけど、とにかく必死だったんだね。そうしたらなんと会ってくれた。しかもその場で自転車振興会と船舶振興会の両方に電話してくれて、あっという間に両方からお金が出ることが決まった。それが今の日本交響楽振興財団の出発なんです。そういうお金の集めも、彼はうまかった。佐藤さんの前でも、ぼくは何をしゃべっていいかわからないのに、直純は一生懸命しゃべっていて、すごいなと感心しながら見ていました 』。
一方、ストライキに参加しなかった十数名は山本や征爾と共に新しいオーケストラに参加した。また、山本直純が、征爾に” どうする ”と聞いた時、征爾が” 誰々を押さえてくれ ”と言った、その彼らも団員として新日本に参加した。山本は征爾とともに新日本フィルハーモニー交響楽団の設立に走り斉藤秀雄を顧問に、斉藤の指示で山本は指揮者団幹事に、小澤は首席指揮者に就任した。指揮団には斎藤秀雄(顧問)、小澤征爾(首席)、山本直純(幹事)、横山幸雄、手塚幸紀がなった。山本は語る、『 始めてから三年くらいは、全員が月給五万円だった。みんなでいくつかの仕事をこなしてどうにか食いつないでいたという。その後も山本は、団幹事として新日本フィルの楽団員たちの生活をどう食べさせていくか、四苦八苦していた。とにかくやらねばと、仕事探しに奔走していた。』『 団幹事となったボクは、オーケストラの仕事があまり食えないのに愕然とした。オーケストラはどんなにいっぱいになっても、二千五百人のホールぐらいしか音響効果で使えない。それで入場料が千円だったら二百五十万円。ホールに半分払って百二十五万円。ちょっと大きなオーケストラは百三十人いるから、ひとり一万円の収入にもならない。みんなで、いくつかの仕事をこなしてどうにか食いつないでいた。 』。『 オーケストラの魅力といったものをボクなりに本を書こうと思った。それが「オーケストラがやって来た」という本だ。それと同時にテレビ番組にすることを考え付いた。どんな番組にするかと考え、電電公社の専務理事をされてる遠藤正介(作家の遠藤周作の兄)に相談した。その肝いりで番組が実現した。同年10月1日<オーケストラがやって来た>が始まった。会場は東京文化会館。
オープニングで演奏されていたテーマ音楽の原曲は、ヨハン・シュトラウス2世の「常動曲」(無窮動)。曲終盤のホルンが吹かれる箇所に入るとホルンが吹く「ドーミーレーファーミーソーレーー、ソーミーファーレーミードーレーー」のモチーフが番組タイトルのことばのリズムに似ていることから、その箇所に来ると指揮者が客席を向いて歌詞「オーケスートラーがーやーてーきたーー、オーケスートラーがーやーてーきたーー」をステージと客席とで一緒に合唱し番組が開始された。山本直純が考えたクラシック音楽を初心者でも楽しんでもらえるように、ユーモアを交えた解説を展開したことで、その後日本中で知られるようになって行った。番組には数多くの著名な音楽家たちが出演した。演奏は、主に新日本フィルハーモニー交響楽団が行っていた。番組の演出は、TBS出身の映画監督でオペラ演出やクラシック音楽関連のエッセイも多い実相寺昭雄がしばしば担当していた。
11月新日本フィルハーモニ交響楽団<第三回定期演奏会>の指揮は斉藤秀雄に依頼してあったが、教育最優先と言って断り、斉藤秀雄がナオズミに言った”俺が信用できる奴は、今の日本にお前しかいない。最近の指揮ぶりは見ていないが、山本、お前はその気になれば出来る男だ!”と言ったことでナオズミの指揮により行われた。
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小澤征爾物語シリーズ‐1972年演奏会記録
1972年演奏会記録
1973年(昭和48年)38歳
2月23日新日本フィルを指揮 東京文化会館
チャイコフスキー《交響曲第六番ロ短調》 作品74「悲愴」ほか
指揮:小澤征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団
新日本フィルを率いて香港公演
9月73/74シーズンよりボストン交響楽団第13代指揮者・音楽監督に就任(1973~2002年)
9月28日ボストン交響楽団の第13代音楽監督として初めてベルリオーズ《ファウストの劫罰》を指揮する。2週間後、彼は同じ曲でBSOでカーネギーホールデビューを果たした。同作品はドイツ・グラモフォンに録音されており、小澤征爾にとって音楽監督としての初録音であり、初のグラミー賞ノミネートとなった。
12月14日 大阪フェスティバルホール
R・シュトラウス:交響詩《ドン・キホーテ》/ラヴェル《ダフニスとクロエ》第2組曲
小澤征爾:指揮/桐朋学園オーケストラ
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小澤征爾物語シリーズ‐1973年演奏会記録
1973年演奏会記録
1974年(昭和49年)39歳
2月
小澤征爾指揮 ニューフィルハーモニア管弦楽団
ベートーヴェン交響曲第9番ニ短調 ~リハーサル~
Feb.1974
・ベルリオーズ:《幻想交響曲》ボストン交響楽団のアルバムがグラミー賞のクラシック部門「ベスト・オペラ・レコーディング」にノミネートされた。
・新日本フィルを率いてニューヨーク国連本部での「国連デー」で演奏、アメリカおよび欧州で公演
・イギリス、ロイヤル・オペラチャイコフスキーのオペラ《エフゲニー・オネーギン》指揮してデビュー。共演はミレッラ・フレーニ。
・WGBH-TVがPBS全国放送向けに制作したオーケストラのテレビコンサートシリーズ「イブニング・アット・シンフォニー」が開始された。このシリーズは、1976 年に小澤征爾に音楽監督における傑出した功績を讃えてエミー賞を受賞することになった。
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小澤征爾物語シリーズ‐1974年演奏会記録
1974年演奏会記録
1975年(昭和50年)40歳
2月5日
アイヴズ《交響曲第4番》
小澤征爾 ベルリン・フィル
ホルスト・ゲーベル(ピアノ)
・小澤征爾がボストン交響楽団と初の米国ツアーを行い、デトロイト、アナーバー(ミシガン州)、インディアナポリス、ブルーミントン(インディアナ州)、シカゴ、ウィートン(イリノイ州)、アイオワシティで演奏。
・サンフランシスコ響を率いて帰国

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小澤征爾物語シリーズ‐1975年演奏会記録
1975年演奏会記録
1976年(昭和51年)41歳
・ベルリオーズ《ファウストの劫罰》ボストン交響楽団のアルバムがグラミー賞のクラシック部門「ベスト・オペラ・レコーディング」にノミネートされた。
・サンフランシスコ響音楽アドヴァイザー就任(1976~77年)
・小澤征爾がボストン交響楽団と初の海外ツアーを行い、アムステルダム、ブリュッセル、ウィーン、リンツ、ミュンヘン、ベルリン、ハンブルク、ロンドン、ボン、ハノーファー、パリの聴衆の前で演奏する。
・同年、ボストン交響楽団のTV番組がエミー賞を受賞
6月14日<新日本フィルハーモニー交響楽団第40回定期演奏会>を指揮 東京文化会館
ストラヴィンスキ《詩篇交響曲》
モーツァルト《レクイエム》 K.626
中沢 桂(ソプラノ)
春日 成子(アルト)
鈴木 寛一(テノール)
高橋 大海(バス)
合唱:成城合唱団
指揮:小澤 征爾/ 新日本フィルハーモニー交響楽団
8月8日 ザルツブルク音楽祭
ブラームス:交響曲第1番
小澤征爾指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団
ライブ録音
9月9日<新日本フィルハーモニー交響楽団 第41回定期演奏会>を指揮 東京文化会館
ペンデレツキ《広島の犠牲への哀歌》
メノッティ《チェロ協奏曲》 日本初演
チャイコフスキー《交響曲第二番ハ短調》作品17「小ロシア」
チェロ:ローレンス・レッサー
指揮:小澤 征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団
サンフランシスコ交響楽団の音楽アドヴァイザーーに就任。
12月25日<新日本フィルハーモニー交響楽団 第44回定期演奏会> を指揮 東京文化会館
マーラー《交響曲》「大地の歌」
石井 真木《モノプリズム》―日本太鼓群とオーケストラのための― 日本初演
第1部 ―プレリュード「序」―
第2部 ―モノプリズム―
春日 成子(ソプラノ)
五十嵐 喜芳(テノール)
指揮:小澤 征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団, 鬼太鼓座(おんでこざ)
12月27日<ベートーヴェン:第九交響曲演奏会> を指揮 東京文化会館
ベートーヴェン《交響曲第九番ニ短調》作品125「合唱つき」
平田 恭子(ソプラノ)
大藤 裕子(アルト)
田口 興輔(テノール)
高橋 大海(バス)
指揮:小澤 征爾/合唱:日本プロ合唱団連合/新日本フィルハーモニー交響楽団
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小澤征爾物語シリーズ‐1976年演奏会記録
1976年演奏会記録
1977年(昭和52年)42歳
小澤征爾とBSOによるドイツ・グラモフォンでのベルリオーズ《ロミオとジュリエット》の録音がグランプリ・デュ・ディスク賞を受賞。
6月6日
ストラヴィンスキー《春の祭典》
小澤征爾指揮・大阪フィルハーモニー
大阪フェスティバルホール
11月5日カトリック東京第司教区主催 東京カテドラル
指揮:小澤征爾
演奏:新日本フィルハーモニ
合唱:成城合唱団メンバー有志
11月7日<新日本フィルハーモニー交響楽団 第53回定期演奏会> を指揮 東京文化会館
武満 徹《秋》―琵琶、尺八と管弦楽のための
フォーレ《レクイエム》
琵琶:鶴田 錦史
尺八:横山 勝也
オルガン:志村 拓生
独唱:常森 寿子・木村 俊光
合唱:成城合唱団/合唱指揮:宮本 昭嘉
指揮:小澤 征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団
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小澤征爾物語シリーズ-26‐1977年演奏会記録
1977年演奏会記録
1978年(昭和53年)43歳
3月小澤征爾がボストン響を率いて帰国。ボストン交響楽団日本公演開催。福岡、小倉、広島、大阪、京都、穴沢、名古屋、横浜、東京(普門館、東京文化会館)でコンサートを開催する。BSOの日本訪問は1960年にシャルル・ミュンシュが率いて以来2回目となった。
・征爾は中国政府から正式に招待され、中国中央交響楽団と1週間共演した。オーケストラの演奏に加えて、彼は中国の音楽家とのディスカッションや指導セッションを通じて、重要な文化的および音楽的交流を促進しました。以来、同氏は中国との強固な関係を築き続けた。
6月1日<新日本フィルハーモニー交響楽団演奏会> 東京文化会館
モーツァルト歌劇《魔笛》序曲
シューベルト《交響曲第八番ロ短調》「未完成」
リムスキー=コルサコフ《交響組曲》「シェエラザード」
指揮:小澤/征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団/ヴァイオリン:瀬戸 瑤子
6月2日<新日本フィルハーモニー交響楽団演奏会> 東京文化会館
湯浅 譲二《オーケストラの時の時》
リムスキー=コルサコフ《交響組曲》「シェエラザード」作品35
指揮:小澤/征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団/独奏:瀬戸 瑤子
6月中国人民対外友好協会の公式な翔太により中国中央楽団と一週間にわたり客演指揮
6月26日-27日<民音演奏会> 日比谷公会堂
ベルリオーズ《幻想交響曲》ほか 演奏:新日本フィルハーモニ交響楽団
9月18日<新日本フィルハーモニー交響楽団演奏会> 東京厚生年金会館
ベートーヴェン《レオノーレ序曲第ニ番》/ ベートーヴェン《ピアノ協奏曲第四番》/ベートーヴェン/交響曲第7番イ長調
ピアノ:二宮裕子
小澤征爾指揮/新日本フィルハーモニー交響楽団
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小澤征爾物語シリーズ‐1978年演奏会記録
1978年演奏会記録
1979年(昭和54年)44歳
3月中国との国交正常化を記念した初の文化使節団に小澤征爾とボストン交響楽団をが選ばれ、中国を訪れ演奏、中国音楽人の指導等にあたった。演奏会の模様は中国だけでなく、アメリカにもテレビで報道された。最終日にはボストン交響楽団と北京中央楽団合同で演奏した。
小澤征爾とボストン交響楽団は、上海と北京でコンサート、指導、マスタークラスを開催し、国交樹立後に中国で演奏した最初の西洋のオーケストラとして歴史を刻んだ。

↑ 母さくらと

↑ 北京中央楽団のソリスト等と第九を演奏
6月26日<民音定期演奏会> 東京厚生年金会館
ベルリオーズ《幻想交響曲》ほか
小澤征爾:指揮/新日本フィルハーモニ交響楽団
7月21日<新日本フィルハーモニー交響楽団 第71回定期演奏会> を指揮 東京文化会館
ドヴォルザーク《ノットゥルノロ長調》/ドヴォルザーク《チェロ協奏曲ロ短調》/ドヴォルザーク《交響曲第七番二短調》
チェロ:安田 謙一郎
指揮:小澤 征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団
7月13,14日 大阪フェスティバルホール
プッチーニ:歌劇《トスカ》
小澤征爾:指揮/関西歌劇団/関西二期会
パリオペラ座デビュー、ラヴェル《子供と魔法》/ストラヴィンスキー《エディプス王》
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小澤征爾物語シリーズ‐1979年演奏会記録
1979年演奏会記録
1980年(昭和55年)45歳
9月24日
↓ 写真 作曲家兼指揮者のレナード・バーンスタイン(左)とボストン交響楽団の音楽監督小澤征爾は、1980年9月24日、ボストン交響楽団のリハーサルの後、ボストンで記者会見を行った。小澤は9月25日に交響楽団100周年記念シーズン開幕において、バーンスタインの《管弦楽のためのディヴェルティメント》の世界初演を指揮予定である。(UPI Photo/Pam Price/File)より要約

・ボストン交響楽団の歴史的な中国訪問に関するCBSドキュメンタリー「The Boston Goes to China」は、エミー賞で最優秀ドキュメンタリー賞、最優秀監督賞、最優秀編集賞、最優秀音響賞の 4 部門を受賞した。
・征爾はタングルウッドでプッチーニ:オペラ《トスカ》の公演を指揮し、タングルウッドとシンフォニー・ホールで彼の指揮の下、一連の半舞台オペラを開始し、その後、シンフォニー・ホールでの25周年記念シーズン中にプッチーニ:オペラ《蝶々夫人》の公演が継続された。
・新日本フィルハーモニー交響楽団名誉芸術監督に就任。
・ミラノ・スカラ座でプッチーニ:オペラ《トスカ》でイタリア・デビューした。ルチアーノ・パヴァロッティと共演。
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1980年演奏会記録
1980年演奏会記録
1981年(昭和56年)46歳
・1-4月ボストン交響楽団を指揮
・3月3-21日BSO創立100周年記念ツアーが予定されボストン交響楽団国内ツアーで14都市を指揮ニューアーク,ニューヨーク,シカゴ,ミネアポリス,デンバー
,ソルトレークシティー,サンフランシスコ,ロスアンジェルス,サンディエゴ,テンピ,ダラス,ヒューストン,チャールストン,ワシントンで公演した
・4月3日名古屋、新日本フィルを指揮/マルタ・アルゲリッチと共演
・4月4日新日本フィル第89回定期演奏会を指揮/マルタ・アルゲリッチと共演
・4月6日新日本フィル特別演奏会を指揮/マルタ・アルゲリッチと共演
・4月15-17日バッハ《ヨハネ受難曲》ボストン交響楽団を指揮/ジョン・アラーと共演
・4月6日
ショパン《ピアノ協奏曲第2番》ヘ短調 Op. 21
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
小澤征爾 新日本フィルハーモニー交響楽団
東京文化会館、4月6日
・6月パリのホテル プラザアテネでカラヤンと対談。カラヤンはベルリン・フィルとパリオペラ座公演で来ていた
・7-12月ボストン交響楽団を指揮
・7月25日タングルウッド音楽センター管弦楽団を指揮
・8月22日
マーラー《交響曲第8番》「1000人の交響曲」
ジュディス・ブレゲン(ソプラノ)
聖ピオ5世 聖ピオ5世教会合唱団 / SATB合唱団
小澤征爾 ボストン交響楽団
タングルウッド – シェッド レノックス
・9月16日新日本フィル第92回定期演奏会でR・シュトラウスの歌劇《サロメ》を指揮
・10月18日小澤征爾とBSOは、ヴァイオリニストのイツァーク・パールマンとアイザック・スターン、ソプラノ歌手のレオンティン・プライス、チェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、ピアニストのルドルフ・ゼルキンをフィーチャーしたガラコンサートでオーケストラ創立100周年を祝った。
ベートーベン《第九交響曲》をフィーチャーした無料の「創立100周年コンサート」が10月22日にボストンコモンで行われた。
この年には2つの100周年ツアーも含まれており、1回は3月に全米を巡り14都市をツアーし、もう1回は10月と11月に日本とヨーロッパ、フランス、ドイツ、オーストリア、イギリスを巡った。
・10月21日ベートーヴェン《第九》(4公演)フェイ・ロビンソン他と共演。コンサートはボストン コモンで無料の「100周年記念コンサート」が開催された。
10月30日‐11月4日 ボストン交響楽団日本ツアー(大阪、名古屋、東京で5公演)
後半予定のBSO創立100周年記念ツアーでボストン交響楽団を率いて来日して指揮をした。
10月30日 〈日本ツアー〉
ベートーヴェン《交響曲第六番》「田園」
ストラヴィンスキー《春の祭典》
小澤征爾 ボストン交響楽団
大阪フェスティバルホール 大阪府
11月2日 ボストン響来日公演
ウェーベルン《管弦楽のための5つの小品》op.10
シューベルト《交響曲第7番》ロ短調「未完成」
バルトーク《管弦楽のための協奏曲》Sz.116
小澤征爾 ボストン交響楽団
東京文化会館
11月3日
ベートーヴェン/序曲「レオノーレ」第3番
ベートーヴェン/交響曲第8番ヘ長調
ストラヴィンスキー/バレエ音楽「春の祭典」
11月4日
人見記念会館でベートーヴェン《第九》の演奏があった。
・11月8-17日からはそのままBSOを率いてヨーロッパツアーを行い、パリ,フランクフルト,ベルリン,ウィーン,ロンドンで指揮をした
・12月26日ベートーヴェン《荘厳ミサ曲》新日本フィル第95回定期演奏で指揮
・シェーンベルク:《グレの歌》ボストン交響楽団のアルバムがグラミー賞のクラシック部門「ベスト・オペラ・レコーディング」にノミネートされた。
・小澤率いるボストン交響楽団は創立100周年を記念して、ボストン交響楽団、ボストン ポップス、ボストン交響楽団室内楽団、タングルウッド音楽祭合唱団など、合計12作品がジョン・ハービソン、ロジャー・セッションズ、ピーター・マクスウェル・デイヴィス、アンジェイ・パヌフニク、レナード・バーンスタイン、オリー・ウィルソン、ドナルド・マルティーノ、レオン・キルヒナーらに作品を委嘱された。
このシーズンには、レナード バーンスタインの管弦楽のためのディヴェルティメント (1980年)、ピーター マクスウェル デイヴィスの交響曲第2番、ロジャー セッションズの管弦楽のための協奏曲 (この協奏曲により、セッションズは 1982 年にピューリッツァー賞作曲部門を受賞) など、これらの作品の多くで世界初演が行われた。
・シェーンベルク:《グレの歌》ボストン交響楽団のアルバムがグラミー賞のクラシック部門「ベスト・オペラ・レコーディング」にノミネートされた。
プッチーニ《トゥーランドット》
トゥーランドット公爵夫人 – モンセラート カバリエ
カラフ – ジュゼッペ・ジャコミーニ
リュー – レオナ・ミッチェル
ピン – ミシェル・フィリップ
パン – レミー・コラッツァ
ポン – ロバート・デュメ
ティムール – ピエール・トーPierre Thau
リンペラトーレ・アルトゥーム – ミシェル・セネシャル
Calaf – Giuseppe Giacomini
Liù – Leona Mitchell
Ping – Michel Philippe
Pang – Rémy Corazza
Pong – Robert Dumé
Timur – Pierre Thau
L’imperatore Altoum – Michel Sénéchal
パリオペラ座合唱団
小澤征爾 パリ・オペラ座管弦楽団
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1981年演奏会記録
1981年演奏会記録
1982年(昭和57年)47歳
【活動記録】
・1月ボストン交響楽団を指揮
・1月21日ボストン交響楽団を指揮/フレデリカ・フォン・
シュターデと共演
・1月28日アンジェイ・パヌフニク《交響曲第8番》ボスト
ン交響楽団を指揮して初演
・4月2,3,5日ビゼーの作品をフランス国立管弦楽団と録音
・4-5月ボストン交響楽団を指揮
・5月8,9日ベルリン・フィルを指揮
・5月18,19日ハイドン《天地創造》ベルリン・フィルを指
揮/キャサリーン・バトル他と共演
・5月28日新日本フィル第100回記念定期演奏会を指揮
・5月29日新日本フィル特別演奏会を指揮
・6月22-24日ベルリン・フィルを指揮
・6月26,27日ベルリン・フィルを指揮/クリスティアン・
ツィマーマンと共演
・7月9日ベートーヴェン《交響曲第九番》ボストン交響楽
団を指揮/ロベルタ・アレクサンダー他と共演
・7-10月ボストン交響楽団を指揮
・8月6日ストラヴィンスキーのオペラ=オラトリオ《エデ
ィプス王》ボストン交響楽団を指揮/グレンダ・モーリ
ス他と共演
・8月11日ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮
・8月21日ベートーヴェンの歌劇《フィデリオ》ボストン
交響楽団を指揮/ヒルデガルト・ベーレンス他と共演
・9月22-24日二期会公演の歌劇ヴェルディ《ファルスタッ
フ》を指揮
・10月6日ハイドン《天地創造》(5公演)ボストン交響楽団
を指揮
・10月30日新日本フィル第103回定期演奏会を指揮
・11月1日新日本フィル特別演奏会を指揮
・12月27日(東京)新日本フィル第九演奏会を指揮
・12月29日(大阪)新日本フィル第九演奏会を指揮
ルドルフ・ゼルキンと小澤征爾率いるBSOによるベートーヴェンの皇帝ピアノ協奏曲の録音がTelarcレーベルからリリースされた。
ベルリン・フィル創立百年記念コンサートを指揮した。
下、10月14日
マルタ・アルゲリッチと小澤征爾がラヴェル《ピアノ協奏曲》をリハーサル
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1982年演奏会記録
1982年演奏会記録
1983年(昭和58年)48歳
・1-4月ボストン交響楽団を指揮
・3月28日新日本フィル第108回定期演奏会を指揮
・3月「第544回オーケストラがやって来た」最終回にハイドン《告別》第一楽章を振る
・3月15-19日小澤征爾とボストン交響楽団はミシガン州アナーバーでの公演を含む米国ツアーで10周年を祝った。
・4月7日ボストン交響楽団を指揮/ヒルデガルト・ベーレンスと共演(5公演)
・5月18日新日本フィル第110回定期演奏会を指揮
・6月7-8日ベルリン・フィルを指揮
・6月10-11日ベルリン・フィルを指揮 ギドン・クレーメルと共演した
・ベルリン・フィルと初録音する
・6月17日バイエルン放送交響楽団を指揮 マルダ・アルゲリッチと共演した
・7-11月ボストン交響楽団を指揮
・7月9-10日ハイドン《天地創造》でボストン交響楽団を指揮 キャスリーン・バトル他と共演した
・8月6日グルックの歌劇《オルフェオとエウリディチェ》でボストン交響楽団を指揮 マリリン・ホーン他と共演した
・8月21日ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮 アレクシス・ワイセンベルクと共演した
・8月27-28日マーラー《交響曲第3番》でボストン交響楽団を指揮/ジェシー・ノーマンと共演した
・9月19日都民劇場第34回定期公演でマーラー《嘆きの歌》全三部、新日本フィルを指揮
・9月20日新日本フィル第112回定期演奏会を指揮
・9月28日ボストン交響楽団を指揮 イツァーク・パールマンと共演した
・12月15-16日ベルリン・フィルを指揮/マーラー《子供の不思議な角笛》でデートリッヒ・フィッシャー=ディスカウと共演した
・征爾とボストン交響楽団は、ミシガン州アナーバーでの公演を含む米国ツアーで10周年を祝います。クリーブランド、コロンバス、シンシナティ (オハイオ州)。そしてレキシントン(ケンタッキー州)。
11月28日,12月1,3,6,9,12,14,18日メシアン:歌劇《アッシジの聖フランチェスコ》世界初演をスコアなしでボストン交響楽団を指揮した。
パリ オペラ座 (ガルニエ宮)
聖フランシスコSaint François:ジョゼ・ヴァン・ダムJosé van Dam
天使L’Ange:クリスティアーヌ・エダ=ピエールChristiane Eda-Pierre
ハンセン病患者Le Lépreux:ケネス・リーゲルKenneth Riegel
修道僧レオーネFrère Léon:ミシェル・フィリップ Michel Philippe/ミシェル・フィリップMichel Philippe
修道僧ヌッセオFrère Massée:ジョルジュ・ゴーティエ Georges Gautier
修道僧エリFrère Élie:ミシェル・セネシャルMichel Sénéchal
修道僧ベルナルドFrère Bernard:ジャン=フィリップ・クルティスJean-Philippe Courtis/ロベルト・グルニエRobert Grenier
修道僧シルベスターFrère Sylvestre:ルシアン・サルモンLucien Dalmon
修道僧ラフィンFrère Ruffin:ジャン=ジャック・ナドーJean-Jacques Nadaud
指揮:小澤征爾Сonducted by Seiji Ozawa
演出:サンドロ・セキ
舞台・衣装:ジュゼッペ・クリソリーニ=マラテスタ
下、ストラヴィンスキー《春の祭典》
Seiji Ozawa Conductor / The Bavarian Radio Symphony Orchestra
1983
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1983年演奏会記録
1983年演奏会記録
1984年(昭和59年)49歳
・1.-4月ボストン交響楽団を指揮
・1月26日マーラー《嘆きの歌》(5公演)でボストン交響楽団を指揮
・4月2日新日本フィル第119回定期演奏会を指揮
・4月19日ベルリオーズ《キリストの幼児》(3公演)
・5月11日新日本フィル第120回定期演奏会を指揮
・6月10日ベルリン・フィル指揮(ザルツブルク)
・6月15,16日ベルリン・フィル安永徹,内田光子と共演
・6月19,20日ベルリン・フィルを指揮
・6月23,24日メンデルスゾーン《エリア》ベルリン・フィルを指揮
・7-12月ボストン交響楽団を指揮
・8月4日ベルリオーズ《ベアトリスとベネディクト》全曲ボストン交響楽団を指揮
・8月11日マーラー《交響曲第2番》ジェシー・ノーマンと共演、ボストン交響楽団を指揮
・8月26-9月8日ボストン響率いてヨーロッパツアー。エディンバラ,ロンドン,ザルツブルクル,ツェルン,ルツェルン,ミュンヘン,ベルリン,ハレ,アムステルダム(11公演)大好評を博した。
・9月17-18日教育者齋藤秀雄の没後10年に、彼の教え子であった指揮者小澤征爾の発案により、小澤征爾と秋山和慶が、記念する特別演奏会を企画した。秋山和慶ら門下生100余名が、東京と大阪でメモリアルコンサートを開催した。斎藤秀雄の精神を受け継ぐ両指揮者、そして100名を超える門下生が、齊藤秀雄メモリアルコンサート実行委員を作りメモリアルコンサートを開催した。 尚、前日9月17日大阪において同コンサートを開催し、斉藤秀雄の命日である1984年9月18日に初めて小澤征爾、秋山和慶の指揮により東京で行われた。サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)は、これが基礎となって生まれたオーケストラである。SKOのメンバーは、ヨーロッパ、アメリカ、日本などの代表的なオーケストラの主要メンバー、ソリスト、室内楽奏者、教育者として世界中で活躍しており、国際的なコンクールの入賞者も多い。それぞれの音楽家が個性豊かな音楽性を持ちながらも、SKOへの参加を通じ、オザワ・スピリットとも言える音楽に対する姿勢、精神が培われ、まるで一つの生き物のようになる。
その類稀なる特色は次世代の若手音楽家たちにも受け継がれ、このオーケストラは世界で際立った存在感を示している。1987年と89年にヨーロッパでツアーを開催し大きな成功を収めた。
↓ 斎藤秀雄没後10周年を記念した公演ライブから、小澤征爾指揮の2曲。後のサイトウキネン・オーケストラ設立の契機となった歴史的公演
1984年9月18日 斎藤秀雄メモリアルコンサートより
1. バッハ《シャコン》(斎藤秀雄編)
2. R・シュトラウス《ドン・キホーテ》
小澤征爾 桐朋学園斎藤秀雄メモリアル・オーケストラ
今井信子(ヴィオラ)(2)
堤剛(チェロ)(2)
東京文化会館 ライブ録音
↓ 斎藤秀雄歴史年譜
・9月25,26日10月2日<民音創立10ッ周年記念>
オッフェンバック:歌劇《ホフマン物語》で新日本フィルを指揮
・11月7日新日本フィル特別演奏会を指揮(佐藤しのぶ,マルタ・アルゲリッチほか出演)
・11月8日新日本フィル第124回定期演奏会を指揮(佐藤しのぶ,マルタ・アルゲリッチほか出演)
・小澤征爾とボストン交響楽団は、アルトゥール・オネゲル:劇的オラトリオ《ジャンヌ・ダルク・オ・ブシェ》のシンフォニーホールで初の半舞台オペラを上演した。翌週、同じ作品がカーネギー ホールで上演された。ニューヨーク・タイムズ紙は、これを今年最高の音楽イベントの一つに挙げた。
・12月5-8,11-13日オネゲル《火刑台のジャンヌ・ダルク》ボストン交響楽団を指揮
・12月27日新日本フィル第九特別演奏会を指揮
1984年ボストン交響楽団ヨーロッパで公演が行われ大好評を博した。
・小澤征爾とボストン交響楽団は、アルトゥール・オネゲル:劇的オラトリオ《ジャンヌ・ダルク・オ・ブシェ》のシンフォニーホールで初の半舞台オペラを上演した。翌週、同じ作品がカーネギー ホールで上演された。ニューヨーク・タイムズ紙は、これを今年最高の音楽イベントの一つに挙げた。
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1984年演奏会記録
1984年演奏会記録
1985年(昭和60年)50歳
・1-2月ボストン交響楽団を指揮
・4月ボストン交響楽団を指揮
・5月8日新日本フィル第130回定期演奏会でベルクの歌劇
《ヴォツェック》を指揮
・5月13日新日本フィル特別演奏会でクリスチャン・ツィメルマンと共演指揮
・5月25日ベルリン・フィルを指揮(ザルツブルク)
・5月28日-6月1,2日フランス国立管弦楽団を指揮(パリ)
・6月20,21日ベルリン・フィルを指揮(ベルリン)
・6-12月ボストン交響楽団を指揮
・7月タングルウッド音楽センター管弦楽団を指揮
・8月6日早朝、被爆40年「広島平和コンサート」が開催される日、小澤征爾は母校・成城学園中高OBコーラス団を率いて平和記念公園に姿を現し、バーンスタインとともに鎮魂歌《めぐり来る原爆の日に》を合唱した。
・原爆犠牲者への鎮魂と平和への祈りをささげる「広島平和コンサート」が夜、大植英次とバーンスタインの指揮により開催された。大植英次の指揮した糀場富美子作曲《広島レクイエム》について『原爆犠牲者の魂が天へと昇っていく情景が素晴らしいタクトによって描き出された。世界各国ら団定期演奏会で米国初演を実現させた。
※小澤征爾と広島原爆慰霊碑の関わり合い
・1986年2月ボストン交響楽団の団員たちと原爆慰霊碑に献花した。旧広島厚生年金会館でボストン交響楽団を指揮
・2005年3月17日被爆60年コンサートを指揮
・2005年10月20日原爆慰霊碑に聖路加国際病院理事長 日野原重明氏と献花)
・8月16,17日バッハ《マタイ受難曲》をボストン交響楽団指揮
https://archive.org/details/bostonsymphonytan1985bost/page/n609/mode/2up?view=theater
↓ 8月6日母校・成城学園中高OBコーラス団を率いて平和記念公園に姿を現し、バーンスタインとともに鎮魂歌《めぐり来る原爆の日に》を合唱した。

・9月1日、BSOはタングルウッドで小澤征爾の50歳の誕生日を祝い、前日に40歳の誕生日を迎えたイツァーク・パールマンを特別ゲストに迎え、ベートーヴェンだけのコンサートを開催し、当時の記録となる17,734人の観客を集めた。
・9月19日新日本フィル第132回定期演奏会を指揮
・10月被爆40年に合わせて開かれた新日本フィルを広島公演で指揮ブリテン《戦争レクイエム》小澤征爾 新日本フィルで演奏
・11月2日新日本フィル特別演奏会を指揮
・11月5日新日本フィル第134回定期演奏会でジェシー・ノーマン日本公演を指揮
・11月8日フランス国立管弦楽団をパリシャトル大聖堂で指揮
・11月12,13日ブリテンの《戦争レクイエム》ほか、ベルリン・フィルを指揮。フィッシャー=ディースカウ、ユリア・ヴァラディ等と共演
・11月27日ボストン響を指揮して糀場富美子《広島レクイエム》アメリカ初演(4公演)
https://archive.org/details/bostonsymphonysub8586bost/page/n619/mode/2up?view=theater
・新日本フィルを率いて欧州公演
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1985年演奏会記録
1985年演奏会記録
1986年(昭和61年)51歳
・1-4月ボストン交響楽団を指揮
・2月13-3月1日ボストン響を率いて日本公演
東京,宇都宮,横浜,千葉,東京,甲府,静岡,東京,東京,広島,神戸,京都,尼崎,大阪で14公演を指揮
3月1日 <日本ツアー>
R・シュトラウス《ツァラトゥストラはかく語った》
ブラームス《交響曲第1番》
小澤征爾 ボストン交響楽団
大阪フェスティバルホール 大阪府
↓ R・シュトラウス《ツァラトゥストラはかく語った》
https://youtu.be/mlv4FdTsbvw?si=iQvDywGzpBwzMz-a
↓ ブラームス《交響曲第1番》
https://youtu.be/DNY0D1o9ZKE?si=hKMoMBwbdFHd0x2Q
・3月12-13日メシアンの歌劇《アッシジの聖フランチェスコ》新日本フィルを指揮 東京カテドラル聖マリア大聖堂
・4月5,6日メシアンの歌劇《アッシジの聖フランチェスコ》ベルリン・フィルを指揮
ジョセ・ヴァン・ダム、ケネス・リーゲル、マリア・ファウスタ・ガラミーニ、クラウス・グーチェ、オットー=パウル・クスター、ジョージ・フォーチュン、ベルント・グリガラット、フレデリック・マルティン、BBC合唱団
小澤征爾 ベルリン・フィル演奏 フィルハーモニーザール
・4月10-17日メシアンの歌劇《アッシジの聖フランチェスコ》ボストン交響楽団を指揮(6公演)
小澤征爾はボストンでオリヴィエ・メシアンの記念碑的なオペラ《アッシジの聖フランシスコ》の3場面のアメリカ初演でボストン交響楽団・を率い、続いてニューヨークのカーネギーホールで公演した。バスバリトンのホセ・ヴァン・ダム、テノール歌手のケネス・リーゲル、ソプラノ歌手のキャスリーン・バトルがソリストを務め、タングルウッド・フェスティバル合唱団、小澤征爾 ボストン交響楽団
ボストン シンフォニーホール、カーネギーホール
・5月7日新日本フィル第140回定期演奏会を指揮
シェーンベルク《ピアノ協奏曲》日本初演
マウルツィオ・ポリーニ(ピアノ)
マーラー《交響曲第5番》
小澤征爾 新日本フィル
東京文化会館
・5月12日民音定期演奏会で新日本フィルを指揮
・5月17日 ザルツブルク フェストシュピールハウス
ショパン《ピアノ協奏曲第1番》
アレクシス・ワイセンベルク(ピアノ)
ブルックナー《交響曲ハ短調》
小澤征爾 ベルリン・フィル
・5月28日パリ
サン=サーンス《交響曲第3番》オルガン付き フィリップ・ルフェーブル(オルガン)
小澤征爾 パリ国立管弦楽団
小澤征爾 パリ国立管弦楽団
・7月長野県山ノ内町で「子供のための音楽会」を開く
・7-8月ボストン交響楽団を指揮
・8月ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮
・8月エンパイア・ブラザ,カナディアン・ブラザを指揮
・8月2日ウエーバー:歌劇《オベロン》でボストン交響楽団を指揮
・8月24日ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮
・9月26日R・シュトラウス:歌劇《エレクトラ》を新日本フィル定期演奏会で指揮
・10月-12月ボストン交響楽団を指揮
・10月9日内田光子とボストン交響楽団で共演(4公演)
・10月28-30日オープンしたサントリーホールの開館オープニング記念演奏会をベルリン・フィルの来日公演で、病気キャンセルのヘルベルト・フォン・カラヤンの代役として、小澤征爾が指揮を務めた。小澤がベルリン・フィルを日本で指揮したのは、この時が最初であった。
ベートーヴェン《交響曲第四番》(28日)
ブラームス《交響曲第1番》(28日)
ベートーヴェン《交響曲第四番》(29日)
ブラームス《交響曲第1番》(29日)
シューベルト《交響曲第7番》「未完成」(30日)
R・シュトラウス《英雄の生涯》(30日)
ベルリン・フィルの第一コンサートマスターの安永徹がヴァイオリン・ソロを担当した
・11月1,2日「小澤征爾と日本の作曲家たち」で武満徹,安住慶,石井眞木の作品を新日本フィル演奏で指揮
武満徹《ノヴェンバー・ステップス》
安住慶《風影》二胡とオーケストラのために
石井眞木《モノプリズム》日本太鼓とオーケストラのために
琵琶:鶴田錦史
尺八:横山勝也
二胡:姜建華
和太鼓:鼓童
小澤征爾 新日本フィルハーモニ交響楽団
・11月6日新日本フィル第144回定期演奏会を指揮
・11月12日
ベートーヴェン《交響曲第八番》
ヨハン・フンメル《オーボエのための序奏、主題と変奏曲》
ラルフ・ゴンバーグ /オーボエ
フォーレ《ドリー組曲作品 56
編曲者:アンリ・ラボー
フォーレ 組曲《ペレアスとメリザンド》第2版
フォーレ《パヴァーヌ》作品 50
小澤征爾 ボストン交響楽団
シンフォニーホール ボストン
・11月26,27日 ベルリン フィルルハーモニーザール
バルトーク《弦楽器,打楽器,チェレスタのための音楽》
ブラームス《ピアノ協奏曲第1番》
クリスティアン・ティメルマン(ピアノ)
小澤征爾 ベルリン・フィル
11月29,30日 ベルリン フィルルハーモニーザール
ヘンデル《コンチェルト・グロッソ》12番
ヒンデミット バレエ組曲《気高い幻想》
シューマン《交響曲第2番》
小澤征爾 ベルリン・フィル
・12月23日新日本フィル「第九の夕」で指揮
・12月27日新日本フィル第九特別演奏会で指揮
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1986年演奏会記録
1986年演奏会記録
1987年(昭和62年)52歳
・1-5月ボストン交響楽団を指揮
・4月新日本フィル第149回定期演奏会を指揮
・4月17日《ヴォツェック》ヒルデガルト・ベーレンスをタイトルロールにボストン交響楽団を指揮
・5月14日新日本フィル第150回定期演奏会はキャスリーン・バトル初来日公演となった。会場からの全米向けデジタル衛星生中継を行った。
ブルックナー《交響曲第7番》第一楽章(途中まで)
シャルパンティエ:歌劇《ルイーズ》から「その日から」
マスネ:歌劇《マノン》からシーンとガボット
グノー《小交響曲》第2楽章
モーツァルト:モテット「踊れ喜べ汝幸いなる魂よ」
小澤征爾 新日本フィル
1987年5月14日東京文化会館(米へ初のデジタル衛星生中継)FM東京
・6月14日ウィーン芸術週間でフランス国立管弦楽団を指揮
組曲《鏡」より「道化師の朝の歌」
組曲《鏡」より「海原の小舟」
《左手のためのピアノ協奏曲》
レオン・フライシャー(ピアノ)
《高雅にして感傷的なワルツ》
バレエ音楽《ラ・ヴァルス》
小澤征爾 フランス国立管弦楽団
ウィーン・コンツェルトハウス
・6月ベルリン・フィルを指揮を指揮(4公演)
・7月-12月ボストン交響楽団を指揮
・8月タングルウッド音楽センター管弦楽団を指揮
・8月7日
ヨハン・ネポムク・フンメル《トランペット協奏曲》
モーリス・アンドレ(トランペット)
小澤征爾 ロンドン交響楽団
・9月8-13日サイトウキネンオーケストラは第1回ヨーロッパツアーが行われ、ウィーン,ロンドン,ベルリン,パリ,フランクフルトで演奏した。ウィーンやベルリンなどの音楽の都では「ウィーン・フィルやベルリン・フィルに並ぶ音を出す、小澤とともにやって来た驚異的なオーケストラ」と絶賛された。
・9月11日 <第一回ヨーロッパ・ツアー>
モーツァルト:ディヴェルティメント K.136
演奏 小澤征爾とサイトウキネンオーケストラ
ベルリン・フィルハーモニーホール>
ブラームス《交響曲第1番》
・9月13日 フランクフルト アルテオーパー
R・シュトラウス《ティル・オイレンシュピーゲル》
以上 秋山和慶 サイトウキネン・オーケストラ
モーツアルト《ディヴェルティメント》K.136
ブラームス《交響曲第1番》
小澤征爾 サイトウキネン・オーケストラ
・9月24日新日本フィル特別演奏会にヴィクトリア・ムローヴァを迎えて指揮
・9月29日
バーンスタイン《チチェスター詩篇》
レイモンド・ジュールダン(アルト)
タングルウッド フェスティバル コーラス
シューベルト《交響曲第8番》「未完成」
R・シュトラウス《4つの最後の歌》
ジェシー・ノーマン(ソプラノ)
小澤征爾 ボストン交響楽団
シンフォニーホール ボストン
・11月9日新日本フィル第153回定期演奏会を指揮
・12月《エレクトラ》ボストン交響楽団を指揮(3公演)小澤征爾とBSOは、タイトルロールにヒルデガルト・ベーレンス、クリュテムネストラ役にクリスタ・ルートヴィヒを迎え、シュトラウス《エレクトラ》の絶賛されたパフォーマンスを披露した。この作品は翌年も再演され、フィリップスによって録音され、小沢にとってBSOとの最初のオペラ録音となった。アメリカを代表する映画製作者のアルバート・メイズルズとデヴィッド・メイズルズ夫妻による1985年の高評価の小沢ドキュメンタリー「オザワ」は、PBSの「グレート・パフォーマンス」で放送され、その後ホームビデオでもリリースされた。
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1987年演奏会記録
1987年演奏会記録
1988年(昭和63年)53歳
・3-4月ボストン交響楽団を指揮
・3月新日本フィル 定期演奏会、特別演奏会を指揮
・5月21日ザルツブルク音楽祭でベルリン・フィルを指揮
・5月《エウゲニ・オネーギン》初演を指揮してウィーン国立歌劇場デビュー(4公演)、ミレッラ・フレーニと共演
・5-6月ベルリン・フィルを指揮を指揮(8公演)
・6月15日《カルミナ・ブラーナ》で新日本フィルを指揮
語り:平 幹二朗
釜洞祐子(S.)/下野 昇(T.)/松本 進(Br.)/
舞踏:田中 泯, フランク・ファン・デ・フェン, 堀川 久子, カテリーナ・バカツァキ, ロクサーヌ・スタインバーグ
合唱:晋友会合唱団, グロリア少年合唱団/合唱指揮:関屋 晋/合唱指導:松村 努
演出:実相寺 昭雄/振付:田中 泯/デザイン:遠見 広/照明:牛場 賢二/舞台監督:小栗 哲家
小澤征爾:指揮/新日本フィルハーモニー交響楽団
・7月《カルメン》フランス国立管弦楽団を指揮
・7月ボストン交響楽団を指揮
・8月13日《エレクトラ》でボストン交響楽団を指揮
・8月20日ザルツブルク音楽祭で《火刑台上のジャンヌ・ダルク》でウィーン・フィルを指揮
・8月小澤征爾とBSOは、レナード・バーンスタインの70歳の誕生日を祝う豪華な公演に参加
8月25日小澤征爾とBSOは、タングルウッドでレナード・バーンスタインの70歳の誕生日を祝う「バーンスタイン・アット・70」のコンサートで小澤征爾は指揮し、スター勢揃いのガラ公演に参加した。翌年3月にPBSの「グレート・パフォーマンス」で放送され、舞台芸術における優れたクラシック番組に贈られるエミー賞を受賞した。
バーンスタイン《チチェスター詩篇》第1楽章
タングルウッド フェスティバル祝祭合唱団
アーロン・コープランド《記念日おめでとう》
R・シュトラウス《ドン・キホーテ》フィナーレ
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(チェロ)
ベートーヴェン《フィデリオ》第1幕: (9) 場面「Abscheulicher」とアリア「Komm, Hoffnung」
グウィネス・ジョーンズ(ソプラノ》
サラサーテ《カルメン幻想曲》
五嶋みどり(ヴァイオリン)
小澤征爾 ボストン交響楽団
タングルウッド – シェッド レノックス
・8月タングルウッド音楽センター管弦楽団を指揮
・9月1日ベルリン・フィルをルツェルンで指揮
・9月9日新日本フィル 特別演奏会を指揮
・9月10日新日本フィル 第162回定期演奏会を指揮
・9月-12月ボストン交響楽団を指揮
・11月15,18日《エレクトラ》でボストン響を指揮
・12月1-14日ボストン響率いヨーロッパツアーミュンヘン,フランクフルト,ウィーン,ハノーバー,ベルリン,ハンブルク,パリ,ブリュッセル,アムステルダム,ロンドンで公演が行われ大好評を博した。
・12月27日第九演奏会で新日本フィルを指揮
・ウィーン国立歌劇場デビュー。チャイコフスキーのオペラ《エフゲニー・オネーギン》を指揮。ミレッラ・フレーニと共演。
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1988年演奏会記録
1988年演奏会記録
1989年(昭和64年‐平成元年)54歳
・1月30日ミラノスカラ座でスカラ座管弦楽団を指揮
チャイコフスキー《交響曲第6番》
小澤征爾 スカラ座フィルハーモニー管弦楽団
ミラノ・スカラ座
・2-4月ボストン交響楽団を指揮
・3月新日本フィルを指揮
・4月20,21日ベルリン・フィルを指揮
・4月25日ベルリン・フィルと録音
プロコフィエフ《交響曲第1番》
小澤征爾 ベルリンフィルハーモニー
・5月新日本フィルを指揮
・5月13,15日ザルツブルク音楽祭でベルリン・フィルを指揮
・5月31日ベルリン・フィルを指揮
チャイコフスキー《交響曲第4番》
小澤征爾 ベルリン・フィル
ベルリン
・6月新日本フィル第171回定期演奏会を指揮
・6月13,1417,18日ベルリン・フィルを指揮
マーラー《交響曲第7番》
小澤征爾 ベルリンフィルハーモニー
ベルリン フィルハーモニーザール
6月17,18日
・7月タングルウッド音楽センター管弦楽団を指揮
・7月14日内田光子とラヴェル《ピアノ協奏曲》でボストン交響楽団を指揮して共演
・7-11月ボストン交響楽団を指揮
・7月30日ザルツブルク音楽祭「カラヤン追悼演奏会」でベルリン・フィルを指揮
・8月20日 ザルツブルク音楽祭でオネゲル《火刑台上のジャンヌ・ダルク》でウィーン・フィルを指揮
・8月ボストン交響楽団、歌劇《火刑台上のジャンヌ・ダルク》を指揮
・9月11-17日サイトウ・キネン・オーケストラヨーロッパツアーを指揮(ウィーン,フランクフルト,ミュンヘン,ベルリン,ブリュッセル)
↓モーツァルト《ディベルティメント》
小澤征爾 サイトウキネンオーケストラ
1989年9月12日 フランクフルト、アルテ・オパー
↓ブラームス《交響曲第4番》
小澤征爾 サイトウキネンオーケストラ
・11月5-6,8日民音歌劇《スペードの女王》で新日本フィルを指揮3公演ほかを指揮
演出 栗国安彦
装置 川口直次
衣装 緒方規矩子
照明 奥畑康夫
合唱指揮 及川 真
舞台監督 田原 進
振付 黒田 茜
副指揮 江上孝則、樋本英一、山本郁夫
藤原歌劇団合唱団
こどもの国合唱団 朝倉慶子(合唱指導)
クラウン少女合唱団 岡崎清吾(合唱指導)
キャスト
士官ゲルマン 川上洋司
リーザ 佐藤しのぶ
トムスキー伯爵 多田羅
プルート 多田羅
ポリナ 永井和子
ダフネ 永井和子
エレツキー公爵 鹿野章人
家庭教師 青本道子
チェカリンスキー 平良栄一
スリン 岡上広幸
儀典長 藤井壮治
チャプリッキー 藤井壮治
ナルモフ 小島 博
マーシャ 尾張恭子
クロエ 豊田喜代美
少年指揮官 鮎川昌平
エスカリーナ女帝 満山恵子
小澤征爾 新日本フィル
新宿文化センター
・11月新日本フィル第174回定期演奏会を指揮
・ロストロポーヴィチと「コンサート・キャラバン」を開始
・11月5,6日<民音制作オペラ>東京文化センター、11月8日かながわ県民ホール
チャイコフスキー《スペードの女王》
・12月5-14日 ボストン交響楽団日本ツアー(大阪2公演,京都,名古屋,札幌,東京2公演,静岡,東京1公演)
マーラー:交響曲第2番「復活」
小澤征爾指揮 ボストン交響楽団
ヘンリエット・シェレンベルク(ソプラノ)
伊原直子(アルト)
晋友会合唱団
関屋 晋(合唱指揮)
小澤征爾指揮 ボストン交響楽団
大阪フェスティバルホール 1989年12月5日,ライブ録音
12月12日
ベートーヴェン《交響曲第七番》
小澤征爾 ボストン交響楽団
サントリーホール 東京、日本
ベートーヴェン《ヴァイオリン協奏曲》
アンネ=ゾフィー・ムター(ヴァイオリン)
小澤征爾 ボストン交響楽団
サントリーホール 東京、日本
・12月ベルリン・フィル・ジルベスターコンサート《カルミナ・ブラーナ》を指揮
・小澤征爾率いるボストン交響楽団日本ツアーが公演され大好評を博した。
・小澤征爾がボストン交響楽団の50人目となる奏者任命。現在のBSOの約80%は依然として小澤氏が任命した人物で構成されている。
・サイトウキネンオーケストラは第2回ヨーロッパ・ツアーが行われ、ウィーンやベルリンなど音楽の都で「ウィーン・フィルやベルリン・フィルに並ぶ音を出す、小澤とともにやって来た驚異的なオーケストラ」と絶賛された。
・ロストロポーヴィチと「コンサート・キャラバン」を開始
・12月ベルリン・フィル・ジルベスターコンサート 《カルミナ・ブラーナ》を小澤征爾が指揮した。
ソリスト:キャスリーン・バトル、フランク・ロパルド、トーマス・アレン、東京新友会合唱団、ベルリン国立歌劇場管弦楽団
・ボストン交響楽団日本ツアーが公演され大好評を博した。
・小澤征爾がボストン交響楽団の50人目となる奏者任命。現在のBSOの約80%は依然として小沢氏が任命した人物で構成されている。
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1989年演奏会記録
1989年演奏会記録
1990年(平成2年)55歳
・1月ウィーンーフィル定期を指揮
・1月18日 ミュンヘン、ヘルクレスザールにて収録
R・シュトラウス《英雄の生涯》
ベートーヴェン《交響曲第五番》
小澤征爾 バイエルン放送交響楽団
《英雄の生涯》
https://youtu.be/4M-M3ZA-ob4?si=eSFrtczvZCDa7qQb
《五番 運命》
https://youtu.be/Zg4MeqjbGVA?si=XZlfVZ0-58IsLmlB
・1-2月ボストン交響楽団を指揮
・1月ベルリン・フィルを指揮
・4月4月8,9日水戸室内管弦楽団第1回定期演奏会を指揮
水戸芸術館ATM開館記念コンサート
モーツァルト《ディヴェルティメント》
ボッケリーニ《チェロ協奏曲》
ハイドン《チェロ協奏曲第1番》
チャイコフスキー《弦楽セレナード》
ムスティラフ・ロストロポーヴィチ(チェロ)
小澤征爾 水戸室内管弦楽団
コンサートホールATM
・4月新日本フィルを指揮
・4月ボストン交響楽団を指揮
・4月新日本フィルを指揮(歌劇イドメネオ)
・5月27日 ザルツブルク音楽祭
ハイドン《交響曲第86番》
ブルックナー《交響曲第4番》
小澤征爾 ベルリンフィルハーモニー
ベルリン フィルハーモニーザール
・5月新日本フィル、歌劇《イドメネオ》を指揮
・7-10月ボストン交響楽団
・7月12日
チャイコフスキー《スペードの女王》
ミレッラ・フレーニ(ソプラノ)
ウラジミール・ポポフ(テノール)
モーリン・フォレスター(コントラルト)
セルゲイ・レイフェルクス(バリトン)
ラヨシュ・ミラー(バリトン)
キャサリン・シェシンスキー(メゾソプラノ)
ジュディス・ファリス(コントラルト)
ダグラス・ペリー(テノール)
ジュリアン・ロデスク(バス)
パメラ・ディラード(メゾソプラノ)
ポール・カービー(テノール)
ドリュー・アボット(テノール)
ユー・チェン(バス)
ボストン少年合唱団
タングルウッド祝祭合唱団
小澤征爾 ボストン交響楽団
タングルウッド – シェッド レノックス
7月27,31日,8月4,11,19,29日 ザルツブルク音楽祭
モーツァルト 歌劇《イドメネオ》(6公演)
舞台監督 ニコラウス・レーンホフ
舞台・衣装 エツィオ・トッフォルティ
照明 ヴィニシオ・チェリ
キャスト
イリア シルビア・マクネア
イドメネオ フィリップ・ラングリッジ
イダマンテ ダイアナ・モンタギュー
エレットラ シェルリ・ステューダー
(7/27,31,8/4,11,19)
エレットラ マリアナ・ニコレスコ
(8/29)
アルバーセ ダグラス・ジョンソン
ネットゥーノ大司教 ヴェルナー・ホルヴェーク
ラ・ヴェーチェ(声) アレクサンダー・コルタ
チェンバロ ダン・サンダース
ウィーン国立歌劇場合唱団
合唱指揮 ピーター・バリアン
小澤征爾 ウィーン・フィル
フェルゼンライトシューレ、ザルツブルク
・8月 サイトウ・キネン・オーケストラ第3回ヨーロッパ・ツアー
(ザルツブルク音楽祭、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン音楽祭、プロムス音楽祭、エディンバラ国際フェスティバル、ベルリン・ヴァルトビューネ)
主な曲目
武満徹《ア・ストリング・アラウンド・オータム》
(ヴィオラ:今井信子)
ドヴォルザーク《チェロ協奏曲》
(チェロ:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ)
ブラームス《交響曲第1番》
小澤征爾 サイトウ・キネン・オーケストラ
9月13日,16日(2公演)
R.シュトラウス:楽劇《サロメ》
ヘローデス/ ラグナル・ウルフング
ヘローディアス/ ヘルガ・デルネッシュ
サロメ/ エヴァ・マルトン
ヨカナーン/ 小松英典
ナラボート/ 林 誠
ヘローディアスの小姓/ 西 明美
5人のユダヤ人/ 田代誠, 川村 敬一, 太田 実, 土師雅人, 小川裕二
2人のナザレ人/ 末吉利行, 大野光彦
2人の兵士/ 多田羅迪夫, 近藤均
カパドキア人/ 谷茂樹
奴隷/ 大橋ゆり
首斬役/ アンドレア・ロッシ
バレエ/ エリザベッタ・マリーニ, 東京シティ・バレエ団
演出・装置・衣裳/ ピエル・ルイジ・ピッツィ
振付/ リチャード・カチェーレス
照明/ 高沢立生
音響/ 山中洋一
技術監督/ 小栗哲家
舞台監督/ 幸泉浩司
副指揮/ ダン・サンダース, 江上孝則, 佐渡 裕
コレペティトル/ 足立桃子, 古藤田みゆき
小澤征爾 新日本フィル
東京文化会館
・11月6日 新日本フィル定期演奏会「武満 徹還暦記念作品集」を指揮
武満 徹《弦楽のためのレクイエム》
武満 徹《ノヴェンバー・ステップス》
武満 徹《リヴァラン》
武満 徹《ア・ストリング・アラウンド・オータム》
鶴田錦史(琵琶)
横山勝也(尺八)
ピーター・ゼルキン(ピアノ)
今井信子(ヴィオラ)
小澤征爾 新日本フィルハーモニー交響楽団
「武満徹還暦記念演奏会」(推定)
小澤征爾 新日本フィルハーモニー
独奏者
琵琶:鶴田錦史 尺八:横山勝也
ヴィオラ:今井信子
演奏曲目
弦楽のためのレクイエムRequiem for Strings Orchestra(1957)対談1:小澤征爾・幹雄「ノヴェンバー・ステップスについて」
ノヴェンバー・ステップスNovember Steps 1(1967)
対談2:小澤征爾・幹雄「武満音楽の魅力、思い出」
String around autumn_1(1989)
A String around autumn_2(1989)
ライブ収録:1990年11月6日/東京文化会館
・11月ベルリン・フィルを指揮
・12月ボストン交響楽団を指揮
12月22日 小澤征爾・子供と語る音楽会 オーチャードホール
出演:成城合唱団ほか
・小澤征爾とボストン交響楽団によるシュトラウスの『エレクトラ』の録音がグラミー賞にノミネートされ、ステレオ・レビュー誌により年間最優秀レコードに選ばれた。
・水戸室内管弦楽団の芸術顧問に就任
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1990年演奏会記録
1990年演奏会記録
1991年(平成3年)56歳
・1-2月ボストン交響楽団を指揮
・2月16日
バルトーク《ヴァイオリン協奏曲第2番》
アンネ=ゾフィー・ムター(ヴァイオリン)
タングルウッド祝祭合唱団
小澤征爾 ボストン交響楽団
シンフォニーホール ボストン
・3月18-19 歌劇《マノン・レスコー》新日本フ
ィルを指揮
・4-5月ボストン交響楽団を指揮
・4月歌劇《サロメ》3公演、ボストン交響楽団を指揮
・4月22-5月3日 BSO演奏ツアー(ピッツバーグ,トロン
ト,シカゴ,ニューヨーク,クリーブランド,ロスアンジ
ェルス,サンフランシコ,テンピ)
・5月25,26日 ウィーンフィル第9回定期演奏会
モーツァルト《交響曲第39番》
ドヴォルジャーク《交響曲第9番》「新世界より」
小澤征爾 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
楽友協会、黄金ホール、ウィーン
・5月27日 ウィーン音楽祭週間
モーツァルト《交響曲第39番》
ドヴォルジャーク《交響曲第9番》「新世界より」
小澤征爾揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ウィーン コンツェルトハウス、大ホール、ウィーン
・ウィ-ン・フィルと初録音
・7月タングルウッド音楽センター管弦楽団を指揮
・7-8月ボストン交響楽団を指揮
・7月13日歌劇《イドメネオ》BSOを指揮
・7-8月ザルツブルク音楽祭モーツァルト歌劇
《イドメネオ》6公演ウィーン・フィルを指揮
・8月16日小澤征爾、タングルウッドで1,000回目のBSOコンサートを指揮
・8月27日-9月7日ボストン交響楽団を率いてヨーロッパツアー(アテネ,ザルツブルク,ミュンヘン,シュトゥットガルト,フランクフルト,パリ,ロンドン,デュッセルドルフ)ボストン交響楽団ヨーロッパで公演が行われ大好評を博した。
・9月 サイトウ・キネン・オーケストラ世界ツアー
世界一周ツアー(ロンドン(16日)、デュッセルドルフ(17日)、アムステルダム(20日)、ニューヨーク)
9月24日カーネギーホールの101年目のシーズン・オープニング・ガラに招かれた
ツアー主な曲目
バルトーク《ヴァイオリン協奏曲第1番
アイザック・スターン(ヴァイオリン)
ブラームス《交響曲第2番》
ブラームス《交響曲第3番》
小澤征爾 サイトウ・キネン・オーケストラ
9月20日 アムステルダム
・10-12月ボストン交響楽団を指揮
・10月歌劇《スペードの女王》4公演
演奏は RCA Victor 向けにライブ録音されており、このレーベルとの新たなコラボレーションが行われた。この録音は1993年のグラミー賞最優秀オペラ録音賞にノミネートされた
・11月水戸室内管弦楽団定期演奏会をを指揮
・11月サントリー・ホール5周年記念演奏会新日本フィルを指揮
・12月「ヒルデガルト・ベーレンス&ワグナーの夕べ」で新日本フィルを指揮
・ウィ-ン・フィルと初録音
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1991年演奏会記録
1991年演奏会記録
1992年(平成4年)57歳
・1月第51回ウィーン・フィルハーモニー舞踏会、ウィーン・フィルを指揮
・1-2月ボストン交響楽団を指揮
・3月新日本フィル公演ワーグナーの歌劇《さまよえるオランダ人》を指揮(4公演)
・4月ボストン交響楽団を指揮
・4月ウィーン・フィル創立150周年記念演奏会および定期演奏会2公演を指揮
・5月16,20,22,26,29日 ウィ-ン国立歌劇場でチャイコフスキーのオペラ《エフゲニー・オネーギン》指揮、ミレッラ・フレーニと共演。
・7-8月ボストン交響楽団を指揮
・8月8日ボストン交響楽団1400回目を指揮
・9月小澤征爾は芸術的夢である音楽事業サイトウキネン・フェスティバルを創設し総監督に就任
・9月第一回サイトウ・キネン・フェスティバル松本を長野県松本文化会館で開催
武満徹《セレモニカル》委嘱作品/世界初演
SKFは毎年夏に松本で開催されているその後SKOは1994年、1997年、2004年に海外公演を含むツアーを続け、2015年からは「セイジ・オザワ・松本フェスティバル(SKF)」として新たなステージを迎えた。
・9月SKFストラヴィンスキーのオペラ=オラトリオ《エディプス王》(2公演)/ヨカスタ:ジェシー・ノーマン(S.)、エディプス:ペーター・シュライアー(T.)、クレオン:ブリン・ターフェル(Bs.)他と共演
第一回サイトウ•キネン•フェルティバル松本1992 リハーサル
・10月ボストン交響楽団を率いて初の南米ツアーを行い、ブラジルのサンパウロ、アルゼンチンのブエノスアイレス、ベネズエラのカラカスで公演を行った。
・11月ベルリン・フィルを指揮(6公演)
・12月ボストン交響楽団を指揮
・「若い人のためのサイトウ・キネン室内楽勉強会」開始
・ベルリン・フィルより「ハンス・フォン・ビューローメダル」を授与される
・12月16,19,22日日メトロポリタン歌劇場デビューデビュー歌劇《エフゲニー・オネーギン》ミレッラ・フ
レーニと共演(3公演)
※オペラ誌のマーティン・マイヤーのレビューから『メトロポリタン歌劇場が東欧のオペラで成功を収めたのは、2週間で2度目だった。12月16日の「エフゲニー・オネーギン」は、鍛え抜かれたオーケストラが客席に立ち、カーテンコールに拍手喝采を送るほどの高水準で上演されたのだ。ヒロインは言うまでもなくミレッラ・フレーニ。彼女は思春期後半の少女を説得力を持って演じ、歌声も実に素晴らしかった。トーマス・ハンプソンがオネーギン役を歌う予定だったが、喉頭炎を患いキャンセルとなった。メトロポリタン歌劇場は、比類なきセルゲイ・レイフェルクスを代役として迎え、この役で初舞台を踏ませた。音、音楽性、演技、容姿、どれをとっても、彼はまさに理想的なオネーギンだった。ジェリー・ハドリーは、昨シーズンの病から回復し、美しいレンスキー役を歌い上げた。ブリギッタ・スヴェンデンは美しいオルガ役で、その役を無理なく低音で歌う人の声は素晴らしかったが、彼女の声は [第一幕] のデュオにおけるフレーニの声とうまく調和していなかった。
数週間前にこのオペラでメトロポリタン歌劇場デビューを果たした小澤征爾は、時折やや不吉な響きを帯びながらも(トリケの短いアリアは臆面もなく長々と引き延ばされていた)、雄弁に指揮を振った。彼はオーケストラの指揮を非常に好み、歌手たちにルバートを各自で見つけるよう求める傾向がある。しかし、フレーニとライフェルクスの見事なまでの説得力ある最後のデュエットでは、彼の功績として、丁寧に二人の演奏を追った。小澤は最初の二回の公演では明らかに緊張していたようだが、今回はリラックスしていた。名指揮者を招いての公演は、いつも嬉しいものだ。唯一の難点は、第三幕の舞踏会の場面の振付が、ひどく素人っぽく、的外れだったことだ。』
・1991年から1992年のシンフォニーホール定期購読シーズン中に1,000回目のコンサートを指揮した。8月8日で、彼はシンフォニー ホール、タングルウッド、そして世界中でBSOと1,400回のコンサートを指揮してきた。
・サイトウキネンオーケストラは、長野県松本市をSKOの本拠地とした「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」(旧サイトウ・キネン・フェスティバル松本)が開幕。以降、毎年世界から注目されるオペラ公演やコンサート公演を開催している。
・征爾は芸術的夢である松本でサイトウ・キネン・フェスティバルを創設した。
・SKOは1994年、1997年、2004年に海外公演を含むツアーを続け、2015年からは「セイジ・オザワ・松本フェスティバル」として新たなステージを迎えた。
・「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」開始、総監督に就任。
・「若い人のためのサイトウ・キネン室内楽勉強会」開始
・征爾、ボストン交響楽団を率いて初の南米ツアーを行い、ブラジルのサンパウロ、アルゼンチンのブエノスアイレス、ベネズエラのカラカスで公演を行った。
・征爾、1991年から1992年のシンフォニーホール定期購読シーズン中に1,000回目のコンサートを指揮した。現在までに、彼はシンフォニー ホール、タングルウッド、そして世界中でオーケストラと約 1,400 回のコンサートを指揮してきた。
・征爾とサイトウキネンオーケストラは、長野県松本市をSKOの本拠地とした「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」(旧サイトウ・キネン・フェスティバル松本)が開幕。以降、毎年世界から注目されるオペラ公演やコンサート公演を開催している。
・征爾は芸術的夢である松本でサイトウ・キネン・フェスティバルを創設した。
・SKOは1994年、1997年、2004年に海外公演を含むツアーを続け、2015年からは「セイジ・オザワ・松本フェスティバル」として新たなステージを迎えた。
・「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」開始、総監督就任。
・ベルリン・フィルより「ハンス・フォン・ビューローメダル」を授与される
・ニューヨーク、メトロポリタン歌劇場デビュー。
オペラ《エフゲニー・オネーギン》指揮指揮、ミレッラ・フレーニと共演。
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1992年演奏会記録
1992年演奏会記録
1993年58歳
・チャイコフスキー:歌劇《スペードの女王》ボストン交響楽団のアルバムがグラミー賞のクラシック部門「ベスト・オペラ・レコーディング」にノミネートされた。
・征爾とボストン交響楽団は、ソプラノ歌手のシルビア・マクネア、メゾソプラノ歌手のフレデリカ・フォン・シュターデ、テノール歌手のジェリー・ハドリー、バリトン歌手のベンジャミン・ルクソンをフィーチャーした特別オープニングナイトのオールベルリオーズプログラムで20周年を祝います。このシーズンには、ロンドン、パリ、マドリッド、ウィーン、ミラノ、ミュンヘン、プラハで公演を行うヨーロッパツアーも含まれていた。
・この年は征爾とボストン交響の委嘱によるハンス・ヴェルナー・ヘンツェ《交響曲第8番》の世界初演でもあった。
9月<サイトウ・キネン・フェスティバル>で指揮
オネゲル:歌劇《火刑台上のジャンヌ・ダルク》フランス語
指揮:小澤征爾サイトウ・キネン・オーケストラ
合唱:東京オペラ・シンガーズ、普友会合唱団、SKF松本児童合唱団
ジャンヌ・ダルク:マルト・ケラー
修道士ドミニク:ジョルジュ・ウィルソン
先導、書記、司祭:ベルナン・ドフチェフ
伝令官・酒樽母さん:パオラ・ランジ
伝令官、王、ウルトビーズ:ピエール=マリー・エスクールー
聖母マリア:クリスティアン・バルボー(ソプラノ)
マルグリット:マリア・ファウスタ・ガラミーニ(ソプラノ)
カトリーヌ:西 明美(アルト)
1つの声、ポルギュス、伝令官Ⅰ、書記:ジョン・エイラー(テノール)
1つの声、伝令官Ⅱ:ブライアン・マシューズ(バス)
ダンサー:田中 泯、舞塾
長野県松本文化会館
1994年(平成6年)59歳
・5月母さくらと中国に里帰りし、旧奉天にあった生家を訪れる
・サイトウキネンオーケストラは海外公演を含むツアーを行う。
5月6日瀋陽市遼寧人民劇場で中国遼寧交響楽団を指揮
タングルウッドに「セイジ・オザワ・ホール」完成
・征爾は、PBSテレビ放送「プラハのドヴォルザーク:セレブレーション」の文化番組における個人的功績により、2度目となるプライムタイム・エミー賞個人業績賞を受賞した。この番組は、同オーケストラの1993年のヨーロッパツアー中のプラハ公演で制作された番組である。
・征爾ホールとレナード・バーンスタイン・キャンパスのオープンにより、タングルウッド・ミュージック・センターの新たな時代が始まった。
・征爾は日本初のイノウエ賞受賞者となった。芸術における生涯にわたる功績を表彰するために創設されたこの賞は、今世紀の傑出した日本の小説家、井上靖イノウエ ヤスシにちなんで名付けられた。
12月6日~15日ボストン交響楽団日本公演(東京・大阪)
<下、 R・シュトラウスAlpine Symphony / Hans Gansch on Trumpet(Seiji Ozawa with Vienna Philharmonic Orchestra>
1995年60歳
1月23日小澤は32年ぶりにN響を指揮
バッハ 組曲第三番から《アリア》
バルトーク《管弦楽のための協奏曲》
・小澤征爾とボストン響強楽団によるマーラー《交響曲第3番》と《交響曲第6番》の録音がリリースされ、フィリップス・レーベルからマーラーの交響曲全集が完成した。
・小澤とボストン交響楽団によるバルトーク《管弦楽のための協奏曲》の録音は、作曲家のオリジナルのエンディングを組み込んでおり、この重要なBSOの委嘱作品の初演50周年を記念してフィリップス・レーベルからリリースされた。
・征爾、イツァーク・パールマン、ヨーヨー・マはそれぞれ60歳、50歳、40歳の誕生日をタングルウッドで開催された「スリー・バースデー」と題したガラ・コンサートで祝い、18,709人の聴衆を集めた。
・征爾の60歳の誕生日を記念して、東京のサントリーホールで特別コンサートが開催されました。この機会に、新日本フィルハーモニー交響楽団には、ボストン交響楽団、シカゴ交響楽団、トロント交響楽団、サンフランシスコ交響楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のメンバーが参加しました。ピアニストのマルタ・アルゲリッチとペーター・ゼルキン、チェロ奏者のムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(指揮者としても出演)、ヴィオラ奏者の今井信子、歌手のフレデリカ・フォン・シュターデとベンジャミン・ルクソン、指揮者の秋山和慶ら多くのゲストアーティストが参加した。
・征爾とボストン交響楽団は、サー・マイケル・ティペットの共同委託作品であるサー・マイケル・ティペット《ローズ・レイク》をアメリカ初演し、これがサー・マイケルの最後の作品となった。
1996年(平成8年)61歳
小澤征爾とBSOは、アフリカ系アメリカ人のテノール歌手、故ローランド・ヘイズへの特別な追悼としてBSOから依頼された作品、ジョージ・ウォーカー《ライラック》を世界初演した。ウォーカーはこの作品でピューリッツァー賞作曲賞を受賞した。
5月15日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、 神奈川県民ホール
出演:ガリーナ・ゴルチャコワ、リチャード・リーチ、ジェロルド・シエナ、ブリン・ターフェル、フランチェスカ・ブランチ、合唱:東京オペラ・シンガーズ
5月17日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、 尼崎アルカイックホール
出演:ガリーナ・ゴルチャコワ、リチャード・リーチ、ジェロルド・シエナ、ブリン・ターフェル、フランチェスカ・ブランチ、合唱:東京オペラ・シンガーズ
5月19日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、 尼崎アルカイックホール
出演:横山恵子、リチャード・リーチ、ジェロルド・シエナ、ブリン・ターフェル、フランチェスカ・ブランチ、合唱:東京オペラ・シンガーズ
5月21日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、 東京文化会館
出演:ガリーナ・ゴルチャコワ、リチャード・リーチ、ジェロルド・シエナ、ブリン・ターフェル、フランチェスカ・ブランチ、合唱:東京オペラ・シンガーズ
5月22日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、 東京文化会館
出演:横山恵子、ジョナサン・ウェルチ、牧川修一、ブレント・エリス、郡愛子、合唱:東京オペラ・シンガーズ
5月24日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、 東京文化会館
出演:ガリーナ・ゴルチャコワ、リチャード・リーチ、ジェロルド・シエナ、ブリン・ターフェル、フランチェスカ・ブランチ、合唱:東京オペラ・シンガーズ
1997年(平成9年)62歳
・サイトウキネンオーケストラは1997年海外公演を含むツアーを行う。
・征爾は特に教育に力を入れてきた。室内楽アカデミー奥志賀は、1997年に始まったサイトウ・キネン室内楽研究会に発展させた。
・征爾とボストン交響楽団・が委託した作品、アンリ・デュティユーHenri Dutilleux《The Shadows of Time》を世界初演された。この曲は1998年3月、オーケストラがヨーロッパツアー中だった翌週にBSOがパリでフランス初演する際にヨーロッパでリリースするためにエラートによって録音された。
・「サイトウ・キネン室内楽」勉強会を始める
1998年(平成10年)63歳
9月3-7日プーランクのオペラ《カルメン会修道女の対話》を「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」で指揮し、高い評価を受けた。
指揮:小澤征爾、国立パリ・オペラ座劇場総監督:ユグ・R・ガル、アーティスティック・アドミニストレーター:ウィリアム・I・バーネル, ポル・クリスチャン・モー(国立パリ・オペラ座)、プロデューサー:森安淳、演出:フランチェスカ・ザンベロ、装置:ヒルデガード・ベクトラー、衣裳:クラウディ・ガスティーヌ、照明:ジャン・カルマン、合唱指揮:岡田司、舞台監督:幸泉浩司
キャスト ド・ラ・フォルス侯爵の娘ブランシュ:パトリシア・ラセット、ド・クロワッシー婦人、カルメル会院長:フェリシティー・パーマー、受肉のマリー上級修道女:デイム・ジョセフィン・バーストウ、リドワーヌ婦人、新院長:クリスティン ゴーキー、聖人ドゥニのコンスタンス修道女:マリー・デヴェレロー、マルチド修道女:ベス・クレイトン、幼いイエズスのジャンヌ上級修道女:シーラ・ナドラー、侯爵の息子・騎士:ウィリアム・バーデン、ド・ラ・フォルス侯爵:ビクター・ブラウン、ティエリ(従僕):ジョルジュ・ゴティエー、修道院つきの指導司祭:ジョルジュ・ゴティエー、士官2:ゲタン・ラペリエール、公吏:ゲタン・ラペリエール、士官1:ジャン=ピエール・トレヴィザニ、獄吏:キム・ジュリアン、ジャヴリーノ:キム・ジュリアン、老女1:シルビー・デュポワ、老女2:キャロル・シャブリー、老紳士:ピーター・ブランシェット、修道女たち:東京オペラ・シンガーズ、カトリーヌ修道女:井上ゆかり、アリス修道女:斉藤紀子、十字架のアンヌ修道女:宮崎晶子、マルタ修道女:堪山貴子、サン・シャルル修道女:三宮美穂、クレール修道女:三谷亜矢、フェリシテ修道女:上田桂子、ジェルトリュード修道女:柴田由香、アントワーヌ修道女:穴澤ゆう子、ヴァランティーヌ修道女:久保田尚子、ジェラール上級修道女:牧野真由美
演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ
合唱:東京オペラ・シンガーズ
・長野冬季オリンピック音楽監督就任。
・長野冬季五輪のために世界の国歌を録音。
・新日本フィルを率いて故ロストロポーヴィチとの日ロ親善・ロシア公演に向かう
1998年に長野で開催された冬季オリンピックの開会式で重要な役割を果たし、北京、ベルリン、ニューヨーク市、シドニー、ケープタウン、南アフリカから衛星で結ばれた世界中の合唱団とともに日本からベートーベンの第九交響曲のフィナーレを指揮した。
9月23日のオープニングナイトコンサートで、小沢はセルジュ・クーセヴィツキーのBSO在職25年を超えることになった。クーセヴィツキーは1924年10月10日に音楽監督として最初のコンサートを指揮し、1949年8月14日にタングルウッドで最後のコンサートを指揮した。
・征爾とボストン交響楽団は、1998年から1999年にかけて特別なシルバーアニバーサリーシーズンとして25周年を祝い、ボストンコモンでのベートーベンの第九交響曲の無料演奏、プッチーニ:オペラ《蝶々夫人》のコンサート演出、そして日本へのツアーを含む。
また、1998年には、指揮者としてだけでなく、フランスの作曲家への支援、フランス国民への献身、そしてパリ・オペラ座での小沢の功績が評価され、フランスのジャック・シラク大統領からレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエに任命された。
1999年(平成11年)64歳
ザルツブルク音楽祭「カラヤン没後10年」
バッハ《組曲第3番》よりアリア
ワーグナー《トリスタンとイゾルデ》
「前奏曲とイゾルデの愛と死」
「優しくかすかな彼のほほえみ」
ジェシー・ノーマン
ブルックナー《交響曲第9番》
小澤征爾 ウィーンフィルハーモニー
ザルツブルク祝祭大劇場
3月26日ハイドン《交響曲第39番》
ブルックナー《交響曲第二番》(ノヴァーク版)
新日本フィルハーモニを指揮 東京・渋谷 オーチャードホール
5月ボストン響日本公演。新日本フィル桂冠名誉指揮者就任
小澤征爾がウィーン国立歌劇場の音楽監督職を受諾し、2002年シーズンを最後にBSO職を辞任することを発表された。
2000年(平成12年)65歳
ボストン交響楽団の1999年から2000年の定期購読シーズン後の春、小澤征爾はパリとケルンでマーラー《復活交響曲》とメシアン《トゥーランガリラ交響曲》の演奏でオーケストラを指揮した。パリ市ミレニアム・セレブレーションの一環として、小澤征爾はエッフェル塔のふもとでBSOとパリ管弦楽団をフィーチャーし、イタリア人歌手アンドレア・ボチェッリと大人と子供600人の合唱団とともに初の無料コンサートを指揮した。このコンサートは、10万人以上のパリ市民を集め、ヨーロッパでこれまでに開催された最大の無料コンサートの一つであり、フランス全土に生中継された。
・⼩澤征爾とローム株式会社の佐藤研⼀郎社⻑(当時)がオペラを通じて若い⾳楽家を育成することを⽬的に、日本に小澤音楽塾「小澤音楽アカデミー」を設立し、⽴ち上げた教育プロジェクトは、若い音楽家の指導と訓練に対する小沢の強い取り組みがあった。
11月下旬、小澤はジョン・コリリアーノ《交響曲第2番》の世界初演でボストン交響楽団を指揮した。この作品はBSOからの委嘱作品であり、1990年の作曲家の交響曲第1番の大成功以来大いに期待されていた作品であった。この作品は弦楽のみのためのもので、コリリアーノの1995年の弦楽四重奏曲に基づいています。翌年の春、この作品は 2001年ピューリッツァー賞音楽部門を受賞した。
・同年米国ハーバード大学より「名誉博士号」を授与される
2001年(平成13年)66歳
1月2日マーラー《交響曲第9番》 二長調 東京文化会館
指揮:小澤征爾/管弦楽:サイトウ・キネン・オーケストラ
8月征爾はタングルウッドでシュトラウス:オペラ《サロメ》のコンサート公演でボストン交響楽団を指揮し、ソプラノ歌手デボラ・フォークトを含む国際的に評価の高いソリストのキャストが初のタイトルロールの演奏を披露した。このパフォーマンスは2001年のタングルウッドシーズンのハイライトであり、征爾がBSO音楽監督としてタングルウッドでフルシーズンを過ごした最後のシーズンとなった。
・日本アルプスの町、松本で開催されるサイトウ・キネン・フェスティバルの10周年を記念して、小澤は8月下旬から9月上旬にかけて、ヤナーチェクのオペラ《イェヌファ》の4公演と、有名なサイトウ・キネン・オーケストラによるオールベートーヴェンのプログラムを指揮した。このフェスティバルでは、ハーレム少年合唱団がオーケストラとリサイタルで出演したり、サイトウ・キネン・オーケストラのメンバーによるバッハ《ブランデンブルク協奏曲》6曲の演奏も行われた。
10月2日小澤征爾はBSO音楽監督として29回目となる最後のシーズンをシンフォニーホールで開幕し、世界で最も評価の高い2人の歌手、ソプラノ歌手ドーン・アップショーとメゾソプラノ歌手スーザン・グラハムがオーケストラとタングルウッド・フェスティバルの女性陣に参加するプログラムを披露した。メンデルスゾーン《真夏の夜の夢》付随音楽の合唱。トニー賞受賞女優のブライス・ダナーが、BSOの第121シーズンを開幕するこの特別番組のゲストナレーターとして小澤征爾とオーケストラに加わった。
・日本政府から「文化功労章」受章
2002年(平成14年)67歳
1月ウィーン・フィル・ニュー・イヤー・コンサート指揮
・新日本フィルを率いて日中友好30週周年記念中国公演
・オーストリア政府から「勲一等十字勲章」を受章
4月20日小沢がボストン交響楽団・音楽監督として最後にザ・シンフォニー・ホールに出演した。午前中、彼はジョン・ウィリアムズ主催の「征爾より、感謝を込めて」と題された無料コンサートでBSOを率いてベルリオーズ《幻想交響曲》を演奏した。その夜、彼はBSOを率いてマーラー《交響曲第9番》を演奏した。
7月14日、征爾はタングルウッドでBSO音楽監督として最後のパフォーマンスを行った。プログラムにはベルリオーズ《幻想交響曲》が含まれた。メゾソプラノの鄭曹とタングルウッド祝祭合唱団によるピアノ、合唱とオーケストラのためのベートーヴェン《幻想曲ハ短調》。そしてランダル・トンプソン《アレルヤ》(アカペラコーラス)。
・29シーズンに渡り務めたボストン交響楽団音楽監督を退任した(現在はボストン交響楽団桂冠音楽監督)。
2002年秋、小澤はウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任し、2010年春までその職を務めた(2002-2010年)。
2003年(平成15年)68歳
7月28日<小澤征爾音楽塾上越特別演奏会> 上越文化会館大ホール(主催団体/上越市)
オペラ《こうもり》コンサート形式
指揮:小澤征爾
・「毎日芸術賞」と「サントリー音楽賞」を受賞
2004年(平成16年)69歳
・ 「小澤征爾国際アカデミー・スイス」は、日本の指揮者小澤征爾がスイスにカルテットと弦楽アンサンブルに焦点を当てたアカデミーを創設したのが始まりである。ジュリアード弦楽四重奏団の創設者であるロバート・マンとともにこのプログラムの基礎を築いた。原田貞夫氏、今井信子氏、パメラ・フランク氏の3人の教師がアカデミー創設時から参加した。毎年24名の若手ソリストを受け入れている。小澤征爾にとって、弦楽四重奏のレパートリーはクラシック音楽の基礎である。その研究は、若い音楽家がハイレベルの芸術家になるために不可欠なステップであり、教師たちの目標は、ミュージシャンにもっとよく聴いてもらい、共通の音と、小澤征爾の言う「同じ呼吸」を見つけるよう促すことである。ロールでは 12 日間、カルテットは 2 つの楽章に集中する。それは徹底的な仕事であり、自分自身を超えるためのまたとない機会でもある。
10月ウィーン国立歌劇場日本公演を指揮
・フランス、ソルボンヌ大学から「名誉博士号」を授与される
2005年(平成17年)70歳
・「東京オペラの森」音楽監督(2005-2008年)
・暮れに体調を崩し、同年12月に白内障の手術をする。
・ヨーロッパにおける音楽学生を対象に「Seiji Ozawa International Academy Switzerland」をスイスに設立し、教育活動に力を注ぎ始める
2006年(平成18年)71歳
1月半ばには、東京都内の病院で帯状疱疹、慢性上顎洞炎、角膜炎と診断され、通院治療を行いながら静養した。
1月27日にアン・デア・ウィーン劇場で上演される予定であったモーツァルトの歌劇《イドメネオ》の指揮はキャンセル。
2月1日ウィーン国立歌劇場音楽監督としての活動を一時休止。東京のオペラの森で指揮予定であったヴェルディオペラ《オテロ》の公演もキャンセル。
6月スイス西部モントルー近郊ブロネで開催された「スイス国際音楽アカデミーで指揮活動を再開した。
7月20日「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトVII」愛知県芸術劇場コンサートホール公演、マーラー《交響曲第二番》「復活」を指揮し日本国内での指揮活動を再開した。
8月5日小澤征爾はBSOの桂冠音楽監督としてタングルウッドに戻り、のマーラー《復活交響曲》の演奏でBSOを率いた。
8月27日「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」でメンデルスゾーンのオラトリオ《エリア》をオーケストラピットから指揮した
2007年(平成19年)72歳
4月にベルリン・フィルを指揮をしている。
・ウィーン国立歌劇場総監督ホーレンダーの2010年勇退に伴い、音楽監督小澤征爾の同時退任が発表された。2010年シーズンからの総監督はドミニク・マイヤー、音楽監督は、ウェルザー=メストの就任が発表された。
11月ウィーン国立歌劇場名誉会員に推挙される
<下、サイトー・キネン松本 ニュース>
2008年(平成20年)73歳
1月「カラヤン生誕100年コンサート」でベルリン・フィル
5月16日モーツァルト《ディヴェルティメント》ニ長調
モーツァルト《オーボエ協奏曲》ハ長調
チャイコフスキー《交響曲第六番》ロ短調
小澤征爾/新日本フィルハーモニ/オーボエ:古部賢一
サントリー・ホール
5月17日ラフマニノフ《ピアノ協奏曲第三番》
チャイコフスキー《交響曲第六番》
小沢征爾/新日本フィルハーモニ/ピアノ:上原彩子
すみだトリフォニーホール
10月ウィーン国立歌劇場日本公演を指揮
11月28日と29日小澤征爾はシンフォニーホールでBSOとの最後のプログラムを指揮した。彼は全編フランス音楽のプログラムを選択した。
日本政府より「文化勲章」を受章
フランス政府「レジオン・ドヌール勲章オフィシエ」を授与される
「フランス芸術アカデミー外国人会員」に選出される
イタリア・プレミオ・ガリレオ2000財団金百合賞を受賞
2009年74歳
6月パリで椎間板ヘルニアの治療を受けた。
・小澤征爾音楽院オーケストラプロジェクトを設立し、演奏を通じた後進の育成にも積極的に取り組んだ。
・小澤征爾音楽塾オーケストラがサイトウ・キネン・フェスティバルに初出演した。
(下、動画)
「小澤征爾インタビュー+リハーサル風景」
「ブラームス 交響曲第二番 リハーサル風景」
04:47 第四楽章
11:01 第二楽章
16:46 第一楽章
サイトウ・キネン・オーケストラ
2009年 松本
2010年(平成22年)75歳
1月7日人間ドックの検査で「食道がん」が見つかり、治療のため6月までの半年間、活動を休止すると発表した。月末に食道全摘出手術を受ける。
8月24日「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」に復帰し、チャイコフスキー《弦楽セレナード》第1楽章を指揮。
演奏 / サイトウ・キネン・オーケストラ
<下、小澤征爾 76才的執念>
11月ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団により、「ウィーン・フィル名誉団員」の称号を贈られた
11月『カーネギーホールは、指揮者小澤征爾氏を芸術監督に迎え、日本芸術祭「JapanNYC」を2010年12月と2011年3~4月に開催。カーネギーホールでの公演のほか、国内各所等で開催される』
<NY、カーネギーホール「Japan NYC」のコンサート>
12月14日、ブラームス《交響曲第1番》ハ短調 op.68
12月15日、ベルリオーズ《幻想交響曲》 op.14
12月17日米国のボストン日本協会は、国際文化交流に貢献した人物に贈る今年の「重光賞」を受賞
12月18日、ブリテン《戦争レクイエム》 作品66 「Japan NYC」のコンサート
小澤征爾 / サイトウ・キネン・オーケストラ
クリスティン・ゴーキー(ソプラノ)
アンソニー・ディーン・グリフィー(テノール)
マティアス・ゲルネ(バリトン)
SKF松本合唱団、栗友会合唱団、SKF松本児童合唱団、ピエール・ヴァレー(合唱指揮)
2011年(平成23年)76歳
1月悪化した腰の手術を受ける
7月活動をはじめた特定非営利活動法人小澤国際室内楽アカデミー奥志賀(理事長/小澤征爾)は、『クヮルテットは、ソロとオーケストラとを問わず、弦楽器奏者のすべての基本。だから、世界に通用する弦楽器奏者を育てるには、トップレベルの指導者による集中的なクヮルテットの実習が欠かせない。この信念のもとで、奥志賀の大自然の中で学ぶこのアカデミーは、音楽家としてだけではなく人としても大切なことを得られる稀有な機会です。これからも「特定非営利活動法人 小澤国際室内楽アカデミー奥志賀」を通じて、日本のみならず広くアジア圏の才能ある若手音楽家のために開催していきたいと思っています』と述べている。
・サイトウ・キネン・フェスティバルを北京と上海で初開催。
・「高松宮殿下記念世界文化賞」を受賞した
・渡邊暁雄音楽基金特別賞を受賞した
11月悪化した腰痛の手術を受けた。
<下、世界的に活躍する指揮者の小澤征爾さん(77)が27日、川崎市立南生田小学校(同市多摩区)を訪れ、児童約340人に合唱を指揮した>
<小澤征爾~76歲的執念>
2012年(平成24年)77歳
3月7日体力回復め1年間指揮活動を休止することを発表
7月レッドソックス親善大使に就任
8月31日『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(村上春樹との共著、新潮社)で小林秀雄賞受賞。
・サイトウ・キネン・フェスティバル日本開催20周年。
<下、小澤総監督と指揮者山田和樹よりメッセージ>
2013年(平成25年)78歳
小澤征爾指揮 ラヴェル: 歌劇「子どもと魔法」第58回グラミー賞にノミネートされた。
4月1日前年死去した吉田秀和の後任として水戸芸術館の2代目館長・同管弦楽団総監督就任に就任
8月松本で2年ぶりに指揮復帰
2014年(平成26年)79歳
・モンブラン国際文化賞を受賞
・征爾は語る『今でもそうかもしれないが、日本のオーケストラはまだ西洋音楽に何か型があると思っている。日本人は、外からはわかりにくい、内に秘められた意志や感情を大事にしますが、ベートーヴェンやモーツァルトだって同じこと。表面的に音を正しくきれいに出すだけが音楽ではない。それなのに、日本のオーケストラは、いまだにその段階から抜け出せていない。この殻を破るにはうんと時間がかかるでしょう。どれほど演奏がうまくても、音楽することが、その人に対してどういう意味があるのかわからないまま、ただ弾いてしまっている。譜面づらしか弾かない人の多いこと。それでいいなら、ぼくのやっているアカデミーも小澤塾も要りません。芝居だって、役者が台本をただ丸覚えして話すだけでは全然ダメでしょう。セリフを解釈して自分の言葉として話さなきゃ。それと同じです』『その人の芯は何なのかを意識して大事にしている人が、日本にはいなくなっちゃったのかな。いなくなっても、そのことの重大さに気づかないでいるのかな。山本直純さんはその危険性に当時から気がついていて、オーケストラに常に要求していた。彼が真に目指していたのは、日本人にとっての借りものではないクラシック音楽です。』『直純さんを知っている人が少なくなったけど、見てくれが悪いとか(笑)、だらしないとかでごまかされないで、彼が何をしたかったのか、芯がどうだったか見つけ出すということはとても大事です』参考:「考える人」2014年秋季号、「山本直純という音楽家~彼が目指した真の音楽」インタビュアーに応える、92頁引用
2015年(平成27年)80歳
2月NHK総合「あさイチ」に初出演
・サイトウキネンオーケストラは「セイジ・オザワ・松本フェスティバル」として新たなステージを迎えた。
<スイス小澤征爾国際アカデミー・コンサート Concert Seiji Ozawa International Academy Switzerland>2015年7月1日
ベートーヴェン《弦楽四重奏曲第16番》第3楽章
グリーグの組曲《ホルベアの時代から》
2月16日に開催されるアメリカ音楽界最高峰の祭典『第58回グラミー賞』(ロサンゼルス・ステープルズセンター)全83部門のノミネート作品/アーティストが12月7日に発表された
7月アメリカで最も著名な芸術家の生涯にわたる功績と並外れた才能を讃え、ケネディ・センター受賞者に選ばれた。日本人では初の受賞となる
セイジさん80歳を祝う!ガラコンサートに伴い、フェスティバルはセイジ・オザワ松本フェスティバルと改名された。
8月転倒して腰を強く打ち、「腰椎棘突起及び横突起骨折」と診断された。医師からは、3週間の加療が必要と言われ、セイジ・オザワ松本フェスティバル開催のベルリオーズ・オペラ《ベアトリスとベネディクト》を降板した。
9月1日<下、小澤征爾、誕生日に指揮、松本フェスで>
12月5日、ワシントンD.C.の米国国務省で開催されたケネディセンター栄誉晩餐会で、2015年ケネディセンター栄誉賞を受賞した(日本人として初めて選ばれた)
・長野県名誉県民栄誉賞の第1号を受賞
2016年(平成28年)81歳
2月15日米国、小澤がSKOを指揮したオペラ《こどもと魔法》は第58回グラミー賞最優秀オペラ録音賞を受賞した。世界最高峰の音楽の祭であるグラミー賞にオペラ録音部門でラヴェル:歌劇《こどもと魔法》を収めるアルバムがノミネートされていた指揮者、小澤征爾。この作品は、2013年に長野県で開かれた音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本(現セイジ・オザワ松本フェスティバル)」で指揮した歌劇《こどもと魔法》を収めたアルバムである。征爾は8度目のノミネートにして初のグラミーの栄冠に輝いた。
3月成城大学初となる名誉博士号を贈呈された。記念式典ではサイトウ・キネン・オーケストラや水戸室内管弦楽団メンバー、成城学園にゆかりのアーティスト達が集結し、『S.オザワ祝典アンサンブル』を結成した
4月7日小澤征爾総監督 ベルリン・フィル名誉団員の称号を授与された。小澤総監督に称号を授与したベルリン・フィルのチェロ奏者兼役員のクヌート・ウェーバー氏は『日本はベルリン・フィルにとって “第二の故郷です”。小澤さんは我々に、多くの音楽的発見をもたらしてくださいました』とコメント。
小澤総監督もこれに対し、『たいへん光栄です。僕は、このホールでこのオーケストラと、初めて1966年に指揮しています。50年間の長いお付き合いです。本当にうれしいです。』と話しました。130年に及ぶベルリン・フィルの歴史で、日本人で同称号を贈られるのは総監督が初めて。
4月8,10日(日)に、約7年ぶりにベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮を執った小澤総監督は、ベートーベンの「エグモント 序曲」と「合唱幻想曲」を力強く指揮した。
4月ドイツのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で指揮を執って現地を熱狂させたが、翌年のドイツ公演はやむなく辞退した。本格的な療養生活に入っても、体調はなかなか回復しなかったようだ。『女性セブン』(2022年4月7・14日号)では、小澤家の知人が“24時間対応の看護体制”について次ののように語っている。『2018年4月に大動脈弁狭窄症の手術を受けてから、本格的な療養生活に入りました。体重が落ちていて、自分で歩くことも難しい状態。言葉も思うようには発することができないといいます。一時は、都内の大学病院に入院していましたが、本人の強い希望で自宅に戻り、24時間対応の看護体制の下で自宅療養を続けています」』
4月7日、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は「小澤征爾を名誉団員に迎える」と発表した。「ベルリン・フィル名誉団員」の称号を贈られた
8月31日<子どものための音楽会> (県内小学6年生を招待) 松本市総合体育館
ガーシュイン《ラプソディー・イン・ブルー》 他
小澤征爾/サイトウ・キネン・オーケストラ /マーカス・ロバーツ・トリオ
9月6,9日<2016セイジ・オザワ松本フェスティバル>
ラヴェル《子どもと魔法》 まつもと市民芸術館・主ホール
小澤征爾/小澤征爾音楽塾オーケストラ
演出: ディヴィッド・ニース
2016 10月13,15日<水戸室内管弦楽団 第100回定期演奏会>
指揮:ラデク・バボラーク(第1、2楽章)/小澤征爾(第3,4楽章)
・10月名誉都民に顕彰された
・・GR Me of the Year賞を受賞
<下、11月10日ロームシアター京都 竣工式 記念演奏会>
小澤征爾指揮・小澤征爾音楽塾
2017年(平成29年)82歳
1月13,15日水戸室内管弦楽団第98回定期演奏会
小澤征爾(ベートーヴェン作品)/竹澤恭子(ヴァイオリン)川本嘉子(ヴィオラ)
1月17日<水戸室内管弦楽団 川崎公演>
小澤征爾(ベートーヴェン作品)/竹澤恭子(ヴァイオリン)川本嘉子(ヴィオラ)
5月12日<水戸室内管弦楽団・別府アルゲリッチ音楽祭共同制作>
水戸室内管弦楽団 第99回定期演奏会
小澤征爾(ベートーヴェン作品)/マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
5月17日<水戸室内管弦楽団・別府アルゲリッチ音楽祭共同制作>
ベスト・オブ・ベストシリーズVol.5/室内オーケストラ・コンサート
小澤征爾(ベートーヴェン作品)/マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
12月1日女性ファション誌「家庭画報」1月号の特集記事に20ページに及ぶ小澤征爾音楽塾オーケストラによる「子どものための音楽会」および「子どものためのオペラ」が取り上げられ紹介された(https://www.kateigaho.com/magazine/8528/)
英字新聞「Japan Times on Sunday – Time Out」 特集で《小澤征爾が次世代に伝えること》をテーマに、小澤総監督の教育活動の原点となる長野県山ノ内町立山ノ内中学校の《小澤コンサート》をはじめ、小澤国際室内学アカデミー、小澤征爾音楽塾、スイス国際室内学アカデミーが、紹介された(https://www.japantimes.co.jp/culture/2017/12/02/music/master-class-conductor-seiji-ozawa-passes-knowledge-new-generation/#.XTg4HPZuLIV)
2018年(平成30年)83歳
1月12日8:15~9:15放送のNHK総合「あさイチ」に生出演(http://www1.nhk.or.jp/asaichi/archive/180112/1.html)
3月大動脈弁狭窄症と診断されて治療と精密検査で一か月間入院。
4月に大動脈弁狭窄症の手術し、手術後から療養生活に入った。
・予定していた京都、愛知、東京でのオペラ計4公演の指揮を降板した。
8月大動脈弁狭窄治療のため入院したため小澤塾の公演を降板となった
2019年(令和元年)84歳
3月、京都市内の演奏会で指揮したが、その後、急性気管支炎で一時入院。24日上皇ご夫妻が鑑賞された東京公演で約2カ月ぶりに指揮を務めたが、体力の消耗が激しかったため、静養することになった
5月26日、水戸市の水戸芸術館で水戸室内管弦楽団の定期演奏会で、急遽、降板。7月31日紀尾井ホールで行われた「小澤国際室内楽アカデミー奥志賀ー東京公演」でアンコールで指揮台に上がった小澤征爾は、ベートーヴェン:《弦楽四重奏曲 第16番》 Op.135 第3楽章を指揮した
8月に松本で10分ほど指揮を降ったのが最後となる。
体調に関しては以下の状態だったそうです。
<下、「小澤国際室内楽アカデミー奥志賀ー東京公演」でアンコールで指揮台に上がった征爾は、ベートーヴェン:《弦楽四重奏曲 第16番》>
【2019OICMA 東京公演映像公開】7月31日に紀尾井ホールで行われた、小澤国際室内楽アカデミー奥志賀 東京公演。アンコールで指揮台に上がった小澤征爾の指揮による、ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第16番 Op.135 第3楽章の映像を一部ご紹介します。この楽曲は、アカデミー奥志賀で長年講師として活躍し、昨年1月に亡くなられたヴァイオリニストのロバート・マン氏が、ジュリアード弦楽四重奏団期より最も愛し、何度も指揮をした曲の一つ。近年、小澤征爾も好んで取り上げている思い入れの深い曲で、7月30日に行われたリハーサルの際にも、しみじみと「良い曲だね」と受講生たちに話していました。ベートーヴェンが完成させた最後の作品としても知られるこの曲は、今年のセイジ・オザワ 松本フェスティバル「ふれあいコンサートI」(8月18日)で、小澤征爾スイス国際アカデミーも演奏する予定です。【2019OICMA Tokyo performance Beethoven video】2019OICMA closed its curtain at Tokyo performance on July 31st at Kioi Hall. Tutor of the academy Seiji Ozawa stood on the podium at the end of the concert and conducted Beethoven: String Quartet No.16 Op.135 3rd movement. This music was loved by one of the great tutors at the academy, late Mr. Robert Mann, and he conducted this piece many times. Seiji Ozawa himself also loves this work and he said to the academy students at the rehearsal "such a wonderful music". Beethoven: String Quartet No.16 will be performed by Seiji Ozawa International Academy Switzerland at the Seiji Ozawa Matsumoto Festival "Chamber Concert I" this summer.
小澤国際室内楽アカデミー 奥志賀さんの投稿 2019年8月2日金曜日
2020年85歳
9月1日<Happy Birthday to Seiji Ozawa from NJP新日本フィル>
9月1日ボストン市長が2020年9月1日をSeiji Ozawa Day(小澤征爾の日)に制定
9月6日最新情報 – 小澤国際室内楽アカデミー奥志賀
ozawa-academy.com/news-entry-キャッシュ
<“こういう時だからこそ音楽を届けたかったんです。ぼくは今回は奥志賀に行けなくてとても残念ですが、今年もまた奥志賀で音楽会ができて嬉しいです。
奥志賀のアカデミーで成長した若い音楽家たちの演奏を皆さん楽しみにしていてください。”小澤国際室内楽アカデミー奥志賀 理事長>
Seiji Ozawa
9月6日(日)15:30より、これまでのアカデミー受講経験者を主体とした2組のカルテットによる『第35回 森の音楽会』を …
https://www.youtube. com/watch?v=yp6KGNjBzoU&feature=youtu.be … 【東京公演 小澤征爾の指揮で終演】
2022年86歳
3月24日NEWSポストセブンは、小澤征爾氏が24時間の看護体制で自宅療養中だと報じた。
11月23日<毛利衛さんの初飛行から30年記念企画>国際宇宙ステーションに向けて生中継、同時に全世界に向け同時公開された。日本の宇宙航空研究開発機構との共同イニシアチブである「ONE EARTH MISSION」では、小澤征爾は国際宇宙ステーションへのベートーベン《エグモント序曲》の生演奏を指揮し、史上初めて生のオーケストラ・コンサートが宇宙に送信された。
征爾はこの演奏会を指揮した。この演奏会はSKOと宇宙航空研究開発機構が共同で企画して、ライブ配信で宇宙飛行士の若田光一さんが滞在するISS・国際宇宙ステーションに、オーケストラの演奏を宇宙へ生中継された。
長野県松本市のキッセイ文化ホールで、約3年ぶりに総監督を務めるサイトウ・キネン・オーケストラを指揮した。
ベートーヴェン《エグモント序曲》
指揮:小澤征爾/サイトウ・キネン・オーケストラ
11月23日長野県松本市のキッセイ文化ホールにて
<(PR Video) ONE EARTH MISSION – Unite with Music>
2023年87歳
9月2日「2023セイジ・オザワ 松本フェスティバル」に出演するため、来日したジョン・ウィリアムズ氏はサイトウ・キネン・オーケストラを指揮、《スター・ウォーズ》や《インディ・ジョーンズ》など、映画音楽などを演奏した。アンコールの《レイダース・マーチ》の演奏を終えたウィリアムズ氏が舞台袖に目を向け「セイジ!」と呼びかけると、車いすに乗ったマスク姿の小澤征爾氏が姿を見せた。
2024年88歳
1月23日元妻である江戸京子が死去
小澤征爾さん介護については、家族の中では長女の征良さんがずっと寄り添っていたという。
2月6日東京都内の自宅で心不全で逝去、88歳の生涯であった
葬儀・告別式は近親者で営まれ、後日お別れの会を開くことを検討しているという。
・以下https://www.news-postseven.com/archives/20240214_1941158.html/2《小澤征爾さん逝去》実弟が明かした「世界のオザワ」が病室で迎えた“沈黙”の最期「征悦ちゃんも桑子さんも無言で立ち尽くして」から引用
『征爾さんの弟である俳優でエッセイストの小澤幹雄(86)氏が最後に兄に会ったのは、この「セイジ・オザワ松本フェスティバル」だったという。『NEWSポストセブン』の取材に答え、兄を追悼した。
「病気を患ってからは体も動かなくなって指揮もできなくなってしまいましたけど、晩年も『指揮がしたい』と話していました。ステージに上がるのも難しくなり、総監督としてコンサートの陣頭指揮をとっていました。私が最後に征爾と会ったのは、昨年に長野で行われたコンサートです。込み入った会話をする時間はありませんでしたが、こんなに早く別れの日が来てしまうとは思っていませんでした。兄は小さい頃からいろいろなことに気遣いしてくれて、声をかけてくれる優しい人でした。とても感謝しています」(小澤幹雄氏、以下同)
訃報が届いたのは、2月6日の午前だった。
「征爾の訃報を聞いて急いで病院へ向かいました。静かに息を引き取ったようで、安らかに眠ったような顔をしていました。よしちゃん(小澤征悦)や奥さんの桑子真帆さんもいて、みんな黙って立ち尽くしていました。
大往生だと仰る方もいらっしゃいますが、征爾はまだまだやりたいことがあったんじゃないかと思います。今も兄の指揮する姿が頭から離れません」』
4. 初演記録premiere
(クリックまたはタップで各項目にジャンプします。)
小澤征爾初演記録
5. 主な記録Main recording records
全集Complete works
・ラヴェル管弦楽全集(ボストン交響楽団)(ドイツ・グラモフォン)
・マーラー交響曲全集(ボストン交響楽団)(フィリップス)
・ブラームス交響曲全集(サイトウ・キネン・オーケストラ)(フィリップス)
・ベートーヴェン交響曲全集(サイトウ・キネン・オーケストラ)(フィリップス)
・春の祭典(シカゴ交響楽団)(RCA)
・カルメン全曲(フランス国立管弦楽団)(フィリップス)
・プロコフィエフ交響曲全集(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)(ドイツ・グラモフォン)
・ドヴォルザーク交響曲第8番、交響曲第9番(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)(フィリップス)
ボックス・セットBox Sets
・コンプリート RCA&コロンビア・アルバム・コレクション (51 CD)
・Seiji Ozawa Anniversary 2010 (Decca, 11 CD)
・The Complete Deutsche Grammophon Recordings (50 CD)
・The Complete Warner Recordings (25 CD)
・小澤征爾コレクション EMIレコーディングス (7 CD)
・The Philips Years (50 CD)
・German Masterworks (Decca, 15 CD)
・小澤征爾70歳記念BOX (71 CD&DVD)
・ムター&小澤征爾 ドイツ・グラモフォン録音集 (10 CD)
主な出版物
・「ボクの音楽武者修行」
・「音楽」(武満徹と共著)
・「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(村上春樹と共著)
・「同じ年に生まれて」(大江健三郎と共著)
・「小澤征爾指揮者を語る」(インタビュー有働由美子)
・「父を語る」(編)・「父を語る その二」(編)
・「おわらない音楽:私の履歴書」
・「やわらかな心をもつ」(広中平祐と共著)
・「斉藤秀雄講義録」(編集委員)
6. 小沢征爾 主な指揮記録Archive
(クリックまたはタップで各項目にジャンプします。)
<以下3楽団の指揮記録、無断コピペ禁止します
小澤/ボストン響-全指揮記録
小澤/ウィ-ン国立歌劇場-全指揮記録
小澤/ニューヨークフィル-全指揮記録
小澤/ニューヨークフィル-全指揮記録(1961年4月13日-1971年2月22日)
小澤/旧・日本フィル-全指揮記録(1961年6月22日-1972年6月16日)
小澤/ウィ-ン国立歌劇場-全指揮記録(1988年5月16日-2009年10月13日)
小澤/水戸室内管-指揮記録(1990-2020)記録不明
小澤/ボストン響-全指揮記録-Ⅰ(1960年07月14日‐1976年08月29日)
小澤/ボストン響-全指揮記録-Ⅱ(1976年09月30日‐1979年08月31日)
小澤/ボストン響-全指揮記録-Ⅲ(1979年09月01日‐1983年08月28日)
小澤/ボストン響-全指揮記録-Ⅳ(1983年09月28日‐1987年08月30日)
小澤/ボストン響-全指揮記録-Ⅴ(1987年09月28日‐1991年09月07日)
小澤/ボストン響-全指揮記録-Ⅵ(1991年10月03日‐1995年08月06日)
小澤/ボストン響-全指揮記録-Ⅶ(1995年09月28日‐2008年11月29日)
<参考reference data>
1. ボストン響のアーカイヴはPerformance History Search (bso.org)
2. Performance History – New York Philharmonic | Digital Archives
https://archives.nyphil.org/performancehistory/#program
ニューヨーク・フィルのアーカイヴはNew York Philharmonic | Digital Archives (nyphil.org)/New York Philharmonic | Digital Archives
3. アメリカでは、カーネギーホールのアーカイヴ(Performance History Search | Carnegie Hall)
4. ウィーン・フィルのアーカイヴ(公演アーカイブ – ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (wienerphilharmoniker.at)
5. サントリーホールのアーカイヴはサントリーホール 公演アーカイブ (suntory.co.jp))
6. 東京都交響楽団のコンサート・アーカイヴ|東京都交響楽団 (tmso.or.jp))が
7. 東京文化会館演奏アーカイブhttps://i.t-bunka.jp/
8. 東京文化会館演奏のみアーカイブ日本フィルハーモニー交響楽団https://i.t-bunka.jp/search/result?q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%83%BC%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%A5%BD%E5%9B%A3&g%5B%5D=concert
7. 小澤征爾指揮 youtube Seiji Ozawa conducting video
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小澤征爾 関連動画
8. 小澤征爾物語-シリーズ-1-父:小澤開作の生涯 Career Timeline of Seiji Ozawa’s father, Kaisaku Ozawa
9. その他Others
その他の記録
➀ 1963年音楽評論家の秋山邦晴は自著「現代音楽をどう聴くか」なかで将来を予言した。
➁ ベルリン・フィル関係ニュース/アーティスト・インタビュー
➂ 「NHK交響楽団にボイコットされて窮地に立った27歳の小澤征爾を救った仲間たち」