“音楽は私の人生であり、私の人生は音楽です”
“Music is my life and my life is music”
趣味:小学校の頃から野球、中学生の頃はラグビー、その後スキー、ボストン時代はゴルフ、テニス、ヨガ。ボストン・レッドソックスを応援した
ボストン交響楽団時代の征爾専用の公用車のナンバープレートは数字でなく「OZAWA」と書いてあった
Hobbies: Baseball in elementary school, rugby in middle school, golf when he became a conductor, then skiing, tennis, and yoga. he supported the Boston Red Sox
The license plate of Seiji’s official car during his time with the Boston Symphony Orchestra had “OZAWA” written on it instead of numbers.
【Reason for public domain:『This image is a copyrighted work taken or created by employees of the United States Department of State as part of their official duties. As a work of the United States Federal Government, this image is in the public domain as required by Title 17, United States Code, Sections 101 and 105 and the Department of State Copyright Information.』】
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<2024年2月6日逝去した小澤征爾氏を悼む
We mourn Seiji Ozawa who passed away on February 6, 2024.
小澤征爾Seiji OZAWA,
1935年昭和10年9月1日満州国奉天に生まれる (現在の中国瀋陽市)
Born on September 1, 1935 in Mukden, Manchukuo (currently Shenyang City, China)
Birth place:Mukden Manchukuo
Date of Birth:9/1/1935
Date of Death:2/6/2024
目次(クリックまたはタップで各項目にジャンプします。)
1.職業Profession
日本の指揮者Conductor
<プロジェクトProjects>
1. One Earth Mission – Unite with Music
2. Ozawa Matsumoto Festival
3. Seiji Ozawa Music Academy
4. Mito Chamber Orchestra
5. Ozawa International Chamber Music Academy Okushiga
6. Seiji Ozawa International Academy Switzerland
【楽歴Career】
1942年7歳 長兄からアコーディオンの手ほどきをうけはじめる
1942 At the age of 7, he began to learn how to play the accordion from his eldest brother.
1946年11歳 兄からピアノの手ほどきをうけはじめる
1946, 11 years old: Begins piano lessons from older brother
1947年12歳 小田原の石黒先生にピアノを教わる
1948年13歳 豊増昇にピアノを師事
1948, 13 years old: Studied piano with Noboru Toyomasu
1951年16歳 斉藤秀雄の指示により、山本直純から1年間指揮基礎を教わる
1951, 16 years old: Under the direction of Hideo Saito, learned the basics of conducting for one year from Naozumi Yamamoto.
1952年17歳 桐朋女子高等学校音楽科指揮科に入学(第一期生)、指揮を斉藤秀雄に師事
In 1952, at the age of 17, enrolled in the conducting department of Toho Girls’ High School (first class) and studied conducting under Hideo Saito.
1955年20歳 同校卒業
桐朋学園短期大学音楽科指揮科に入学、指揮法を斉藤秀雄に師事
Graduated from the same school in 1955 at the age of 20.
In the same year, he enrolled in the conducting department of Toho Gakuen Junior College, where he studied conducting under Hideo Saito.
1957年22歳 同短期大学卒業
アマチュア合唱団三友合唱団、群馬交響楽団などで指揮を研鑽、日本フィルハーモニー交響楽団指揮者渡邊暁雄の下で副指揮者に就任
Graduated from the same junior college in 1957 at the age of 22.
He studied conducting with the amateur choir Sanyu Choir and the Gunma Symphony Orchestra, and became assistant conductor under Japan Philharmonic Orchestra conductor Akio Watanabe.
1959年24歳 渡仏、ブザンソン国際指揮者コンクールで一位入賞
In 1959, at the age of 24, he moved to France and won first place at the Besancon International Conducting Competition.
1960年25歳 渡米、クーセヴィッキー賞受賞(タングルウッド)。カラヤン主催指揮者コンクールで一位入賞(ベルリン)し、カラヤンから指導を受けはじめる
バーンスタインのオーディションに受かる
パリで放送用録音
In 1960, at the age of 25, moved to the United States and won the Kusewicki Award (Tanglewood). He won first place in the conductor competition sponsored by Karajan (Berlin) and began receiving guidance from Karajan.
Passed the Bernstein audition
Recorded for broadcast in Paris
1961年26歳 ニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任。日本フィルハーモニー交響楽団定期演奏会を指揮
In 1961, at the age of 26, he became assistant conductor of the New York Philharmonic. Conducted regular concerts of the Japan Philharmonic Orchestra
1962年27歳 サンフランシスコ交響楽団を指揮してアメリカデビュー
In 1962, at the age of 27, he made his American debut conducting the San Francisco Symphony Orchestra.
1964年29歳 シカゴ交響楽団夏のラビニア・フェスティバル音楽監督(1964-1968)
1965年30歳 トロント交響楽団音楽監督に就任(1965年‐1969年)
In 1965, at the age of 30, he became music director of the Toronto Symphony Orchestra (1965-1969).
1966年31歳 ザルツブルク音楽祭でウィーンフィルを初指揮してデビュー。
In 1966, at the age of 31, he made his debut conducting the Vienna Philharmonic at the Salzburg Festival.
1967年32歳 ザルツブルク音楽祭でカラヤンのアシスタントを務めオペラを学ぶ。
In 1967, at the age of 32, he worked as Karajan’s assistant at the Salzburg Festival and studied opera.
1970年35歳 サンフランシスコ交響楽団指揮者・音楽監督に就任(1970年-1977年)
タングルウッド音楽祭の芸術監督に就任(1970年-2002年)
In 1970, at the age of 35, he became conductor and music director of the San Francisco Symphony Orchestra (1970-1977).
Appointed artistic director of Tanglewood Music Festival (1970-2002)
1973年38歳 ボストン交響楽団音楽監督に就任(1973-2002年)
In 1973, at the age of 38, he became music director of the Boston Symphony Orchestra (1973-2002).
1984年49歳 齋藤秀雄の門下生による「齋藤秀雄メモリアル・コンサート」運営メンバー(のちの「財団法人サイトウ・キネン財団」設立に参加)。
In 1984, at the age of 49, he became a management member of the “Hideo Saito Memorial Concert” by Hideo Saito’s students (later participated in the establishment of the “Saito Kinen Foundation”).
2002年67歳 ウィーン国立歌劇場音楽監督に就任(2002-2010年)
In 2002, at the age of 67, he became music director of the Vienna State Opera (2002-2010).
2.栄誉・称号honorary title
2022年 日本芸術院会員
2008年 フランス芸術アカデミー本会員
1996年 長野県松本市名誉市民
2016年 東京都名誉都民
2019年 山梨県市川三郷町名誉町民
2015年 長野県県民栄誉賞
1999年 新日本フィルハーモニー交響楽団桂冠名誉指揮者
2007年 ウィーン国立歌劇場名誉会員
2010年 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員
2016年 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員
2015年 ケネディ・センター名誉賞
1971年 サンフランシスコ大学芸術博士名誉学位
2000年 ハーバード大学名誉博士号
2004年 ソルボンヌ大学名誉博士号
2016年 成城大学名誉博士号
<受章>
2008年 日本国文化勲章Cavaliere dell’Ordine della Cultura
2001年 日本国文化功労者Person of Cultural Merit of Japan
1998年 フランス・レジオンドヌール勲章シュヴァリエ
2002年 オーストリア科学芸術一等名誉十字章
2008年 フランス・レジオンドヌール勲章オフィシエ
<受賞>
1960年 クーセヴィツキー賞
1972年 日本芸術院賞
1975年 モービル音楽賞
1985年 朝日賞
1987年 国際文化デザイン大賞
2003年 毎日芸術賞
2003年 サントリー音楽賞
2006年 NHK放送文化賞
2008年 イタリア・プレミオ・ガリレオ2000財団金百合賞
2010年 重光賞(米国のボストン日本協会が
2011年 渡邉暁雄音楽基金特別賞x
2012年 小林秀雄賞
2014年 モンブラン国際文化賞
2016年 グラミー賞
2016年 第11回GQ Men of the Year
<小澤征爾 家族>
祖父:小澤新作 農業・土木請負業・消防組頭・村議会議員
祖母:
父:小澤開作 東京歯科医学専門学校卒・歯科医師・関東軍政治参謀・中華民国新民会総務部長・華北評論/社主編集長・戦後は川崎で歯科医院開業
母:小澤さくら(旧姓:若松) 母方の高祖父:大津隆三郎は仙台藩伊達家指南役、斎藤秀雄はさくらの(はとこ)にあたる
長兄:小澤克己 東京藝術大学卒/パリ留学・彫刻家・レディヅ・ホテル開業
二兄:小澤俊夫 東北大学卒・ドイツ文学者・筑波大副学長/名誉教授・日本女子大教授・白百合女子大教授・昔話研究者
三男:小澤征爾 指揮者
次弟:小澤幹雄 早稲田大学卒・俳優・エッセイスト・司会・芸能人
妻:入江美樹(小澤ヴェラ・イリイン) ファッションモデル
長女:小澤征良 エッセイスト・演出家
長男:小澤征悦 俳優
<小澤征爾プロフィールSeiji-Ozawa-profile>(クリックまたはタップで各項目にジャンプします。)
3.小澤征爾 歴史年譜Seiji Ozawa, Historical Chronology
1935年(昭和10年)誕生
9月1日満州国奉天、奉天医大病院で小澤家の三男として生まれ、奉天の平安通りの家で育った。
・母さくらが語る『前日の夜おそく産気づいたので、トランクに荷物を入れて、一恵さんといっしょに馬車に乗って医大病院に行きました。生まれたのは明け方でした。一恵さんは病院の廊下でひとり征爾の産声第一声を聞いたのです。お産は難産でなく、安産でした。とても大きくて、一貫目(4キロ)以上でした、大連病院の病院中で一番大きな赤ちゃんで、「大関」と言われました。生まれてからもとても元気に育ちました。一週間ぐらい入院していたと思います。』。
・父開作は、毎日会って親しくしていた関東軍参謀・板垣征四郎と同じく参謀の石原莞爾の二人から一字ずつもらって「征爾」と名付けた。板垣は[少年老い易く学成り難し]の書を書いてくれた。のちに兄弟たちは、長兄・克己は彫刻家、次兄・俊夫はドイツ文学者・筑波大副学長を務め弟・幹雄は司会・講師・音楽ジャーナリスト・著作者となった。
・母さくらが語る『征爾は生まれた時、離乳期にお腹をこわしたりして体調をくずし、あんまり笑わない子でした。のちに征爾が教えていただくことになる斉藤秀雄先生のお母さんの「おとらおばさん」も、私が満州に行く途中、東京で挨拶に行った時に、こう言ってくれました。"若い人は結婚をすごく華やかな、幸せ一杯のものと思っていると思うけど、悲しいことや苦しいことがいっぱい待ち構えているものです。でもそれはみんな神様があなたを試す試練なんだから、それに耐えていかなくてはいけません"この言葉を私は、何か事あるにごとに、いつも思い出して、すごく心の支えにしていました。だから私は母や叔母たちに弱音を言ったことは一度もありません。それは自分でもとてもよかったと思っているんです。だって遠くにいる母たちにぐちを言ったって、心配かけるだけだし……。あとで斉藤秀雄先生がおとらおばさんの写真を送ってくれました。今でも大事に手元に持っています。その写真は征爾たちも小さい時から見ているわけで、征爾が中学三年の時、一人で斉藤先生に弟子入りをお願いしに行った際に"おとらおばさんという親戚がいるらしいけど、先生の何ですか"と聞いて斉藤先生を苦笑させたということです。』
・2000年8月長野県奥志賀高原で大江健三郎は、『小澤さんが西洋の音楽を学び始めた、そしてそれを外国に向かって出していった、そもそものきっかけは、どういうことでしたか』。小澤征爾はこう答えた、『おふくろはキリスト教徒なもんで、教会で賛美歌をうたう。子供たちを日曜学校に無理やり連れてって、そのうちに僕たちはだんだん面白くなってその日曜学校が大好きになった。男の子四人だったものですから、当然四人で賛美歌をうたう。だから音楽の最初はまったく賛美歌です。おふくろや日曜学校で教わった賛美歌。亡くなった一番上の兄貴はすごい音楽的才能のある男で、音楽を本気になって勉強し始めた。本当に物がないときで、ピアノもありませんから、ハーモニカとかアコーディオンとか、いまから思うと木琴のようなもので、名前忘れちゃったんだけど、鉄でできている楽器で叩くと音が出るわけですね(多分=鉄琴のこと編者)。一番手近にあったのがアコーディオンで、それが僕にとっては最初の音楽です。教会へ行ってオルガンを聴いて、下の兄弟三人の中で一番のめり込んでいったのが僕で、結局、長男と三男の僕が最後まで音楽を続けた』
引用文献:小澤征爾・大江健三郎『同じ年に生まれて』、中央公論新社、2001年、P14~15
1936年(昭和11年)1歳
10月一家は奉天から北京に移り北京市東単新開路35号に住む。父開作が北京で協和会と同じものを作ることのなった。
↓(写真)
1941年(昭和16年)6歳 幼稚園
3月北京から帰国し立川市柴崎町三丁目の貸家に住む。自宅の前にあった若草幼稚園に入園した。
1942年(昭和17年)7歳(9月1日になると) 小学一年
・立川国民学校入学。
・長兄からアコーディオンの手ほどきを受け、小学校4年頃には習得している。
・柴崎町三丁目に家を買い移った。
↓ 立川国民学校入学式後列右から七人目
1945年昭和20年10歳 小学四年
・『敗戦から何日かして、おやじが今度は突然"これからは野球だ"と言い出した。おふくろのごわごわした布きれでグローブを作らせ、僕や近所の子供を集めて野球チームを作った。おやじが監督で、僕がピッチャーだった。小学四年生の夏のことだ』。
・『戦時中、上の克己兄貴からアコーディオン教わっていた僕は、だんだん物足りなくなった。小学生の担任の青木キヨ先生はピアノができる人で、ある日講堂で弾いているときに”触ってもいいよ”と言って隣に座らせてくれた。初めてピアノに触れたのはその時だ。小学校四年の終わりごろだった。』。
・克己兄が音楽の先生にピアノを習い始めていた。府立二中(現都立立川高校)に通っていたころで、征爾がピアノに触れた頃とほぼ同じ頃であった。
バイエル教則本で最初に手ほどきをしたのは克己兄からであった。
1946年(昭和21年)11歳 小学五年
4月頃長兄の通う府立二中の許しを得て、音楽室のピアノのを特別に使わせてもらい克己兄からレッスンを受けた。
・兄たちが"征爾にもっと本格的にピアノをやらせたいから家にもピアノが一台あるといいねと話し合っているのを、父開作が聞いた。征爾にピアノを手に入れて本格的にやらせようと小澤家は決めた。
・開作は方々伝手を頼ってピアノを探した。静叔父の妻英子の横浜の実家にあるアップライトピアンを三千円で譲ってもらえることになる。開作は北京で買った愛用のライカを売って工面した。兄たちがリヤカーを借りて運ぶのを開作も途中から手伝う、三日かけて横浜から立川の家まで運んだのだった。途中農家に一晩ピアノを預けたり、親戚の家に泊めて貰ったりの道中だったようだ。
・柴崎小学校の五年生の学芸会でベートーヴェンの《エリーゼのために》を弾いて初めて人前での演奏だった。
・この頃征爾は小学校野球部のエースピッチャーとして活躍していた。上井草球場で東京都大会にも出場した。
・このとき兄からピアノの手ほどきを受けたのが後に征爾に音楽家として大事な縁となった。その頃、二中の大和先生からピアノを教わる。
1947年(昭和22年)12歳 小学六年
・小学校五年、卒業式で送辞を読む。
・父開作はミシン会社製造の白百合ミシン会社を小田原に設立し経営をはじめる。
・家を出て細道を少し行くと流れの急な小川があり、夏は泳いで遊んだ。
4月金田村小学校6年に転入学した。田んぼの中を三十分ぐらい歩くと金田小学校があった。
・征爾は担任の先生に、音楽の授業でオルガン弾きを任されるようになる。
・金田小学校の間、小田原市内の石黒先生にピアノのレッスンを受けた
・兄たちの所属する小田原の合唱団「シグナス」に征爾も時々ピアノ伴奏にかり出されていた
1948年(昭和23年13歳 中学一年
3月、金田小学校を卒業。
どこの中学に通うかだいぶ家族で迷ったすえ、小田急沿線の成城学園中学校に行くことになった。クラスは「柳組」で担任は今井信雄先生、3年間同じだった。隣のクラスには小坂一也がいた。朝6時前、小田急新松田からニ時間半もかかる遠距離通学だった。母のさくらは父兄会や授業参観日があると学校に来た。征爾は母を見つけると「おかあちゃーん、帰りにいっしょに帰ろうねぇー」と言って遠くから大声で呼びかけた。
・中学に入り当初はピアノをやるので危なくない卓球部に入った征爾だが、同級の松尾勝吾に誘われラグビーをはじめるようになった。ポジションはフォワードであった。放課後は連日夕方遅くまでラクビー部の猛練習が続いた。
・松尾勝吾は後年、新日鐵釜石の選手として活躍し、ラクビー日本一の社会人チームの監督になった。征爾はラクビー部の主要メンバーとなっていった。
・征爾は成城に入る頃から、父が豊増昇の兄と親しかったため豊増昇にお願いして世田谷区九品仏までピアノレッスンに通った。豊増先生のピアノのレッスンがある日は、泥まみれの姿で先生宅へ通った。先輩の舘野泉や他の者はリストやショパンを弾いていたが、征爾はバッハばかりを弾かされ課題も多く必死で練習した。この頃の征爾はピアニストを目指していたのだった。見込むがあるからとある時から月謝とらなくなりタダでレッスンを見てくれた。
・家は父の経営するミシン会社がうまくいかず、母さくらが衣類の行商をしたり、「九重織り」という手編みのネクタイ作って売ったりして生計を支えていた。
学校の事務所の前の掲示板には「右の者、授業料滞納につき・・・」という張り紙が出されるといつも征爾の名前が書かれてあった。まだ薄暗い五時半ごろ起きた征爾は、六時には家を出て、田んぼ道を十数分歩いて新松田駅に着き、六時ニ十分くらいの新宿行き急行電車に乗って通った。母は道祖神の石碑が立っている村道のかどおところまで見送っていった。朝もやの中を、征爾は姿が見えなくなるまで、振り返りふり返り大きな声で、「行ってまいりまあッす」と言いながらでかけていった。
・金田村の家に帰ってくるのは夜遅かった。
↓ 金田小学校卒業式二列目右から三番目
1949年(昭和24年)14歳 中学二年
・征爾はいたずらなどでは活発だったが、頭もよく勉強もできた。クラス委員や学校全体の常任委員をやったり、ラクビーもレギュラーとして、青山の秩父宮ラクビー場で華々しく対外試合をやったりしていた。
・同学年の安生慶がヴァイオリン、奥田恵ニがフルートで初めて室内楽を演奏したのもこの時期、父の山中湖の別荘で合宿し、村の小学校のピアノを借りてバッハのブランデンブルク協奏曲第五番を練習した。征爾は仲間と音を合わせるという音楽の喜びをこの時初めて知った。
・金田村から成城の学校までの通学はあまりにも遠いため、征爾は自分で決めて成城の酒井広先生の家に半年くらい下宿した時期があった。先生は日本人と結婚したイギリスの婦人で学校で英会話を教えていた。そこにはピアノがなかったので、よるになると成城高校のの音楽室のピアノを使わせてもらって練習をした。
・その後、平出牧師とカナダから来た二世の牧師がいる教会にも下宿してアルバイトでオルガンを弾いていたこともあった。
・成城の学費滞納はしょっちゅうだったが、父開作の会社が失敗しすっからかんになるという事態になった。家計を支えたのが母さくらの内職で、「九重織り」という毛糸を編んだ手編みのネクタイを作り、銀座の「モトキ」に卸して収入を得ていた。これは売れていたという。
母さくらからは"ピアノを弾いているんだから指を大切にしなさい"とラクビーを禁止された。それからは練習が終わると汚れたジャージーを仲間たちにあずけ家に帰るようにした。
・二年生の終わり頃、征爾はラグビーの成蹊中学との試合で両手の人指し指を骨折し、顔を蹴られて鼻の中が口とつながるという大怪我をし、救急車で病院に搬送され、そのま入院することになった。
・両親と兄たちには叱られた。
・退院後包帯姿で豊増先生の家に向かった。"もうピアノを続けられたなくなりました"征爾は言った。"音楽やめるのか?」といわれ「音楽続けたいけどどうしたらよいのか。ピアノはだめだから」と言い、黙った。先生が口を開いて「小澤君、『指揮者』というのがあるよ。日本人の指揮者が少ないから、指揮をやってみないか?"と言われた。
↓ ラグビー部の部員たち、中列でボールを抱えているのが征爾
1950年(昭和25年)15歳 中学三年・弟の幹雄が一年生として成城中学に入学する。
・学校で急に盲腸になり正門前の木下病院に入院。
・秋、世田谷区代田引越
・指の怪我でピアノを弾けなくなった征爾だが、音楽はやりたいと思い、成城に昔からある男性合唱団「ユーロ・カステロ」に行きロシア民謡や黒人霊歌などを歌った。うねるハーモニー、アクセント、リズム、指揮で音楽が変わることを経験し衝撃を受けた征爾は、三年生のはじめ頃、同学年の安生慶と二級下の女子たち男女十人くらいで賛美歌を歌うグループを作った。兄の俊夫や弟の幹雄も加わった。授業が終わると中学の音楽堂に集まって練習をはじめた。征爾が指揮をしたのはこのときが初めてであった。
・12月23日兄に連れられ日比谷公会堂の日響コンサートで、ピアニストのレオニード・クロイツァーがベートーヴェンの《ピアノ協奏曲》「皇帝」を弾きながら指揮しているのを聴き感動した。指がまだ動ない征爾は本当に指揮者を目指すか悩んでいた。
・そんな姿をみた父開作はこっそり担任の今井先生に相談したところ、”彼はピアニストになるより、指揮者の方が向いています”と言った。作曲家か指揮者になることを決意。母に相談したしたところ “うちの親戚に指揮者がいるよ” と教えた。親戚の指揮者とは(はとこ)にあたる斉藤秀雄である。斉藤秀雄の祖母の前島久と母さくらの祖父大津義一郎が実の兄妹。斉藤秀雄の父斉藤秀三郎は、正則英語学校創設者で一高の教授、「サイトウ英和大辞典」などを編纂した
・征爾は母の紹介状を持ち弟子入りしようと、ひとり斎藤秀雄家を訪れた。
・斉藤秀雄は今手いっぱいで教えられないから ” 1年後に創設する普通高校の桐朋に音楽科を設けるから待ってそこに入りなさい ” と征爾に言った。
その間、征爾は柴田南雄に作曲、小林福子に聴音を、斉藤秀雄の弟子の山本直純に指揮の基本を教わり、月二回斉藤秀雄に見てもらった。
・斎藤秀雄は指揮の動作を徹底的に分析し、「たたき」「しゃくい」「せんにゅう」「はねあげ」などにわけ、どの動きもいつ力を抜き、力を入れるかは厳密にきまっている。それを頭で考えながら指揮なんてできないから、筋肉に全部覚えさせなければならない。”歩くときに坂を上がろう、角を曲がろう、といちいち考えないだろう?”と斉藤秀雄は言う。
・征爾は動作を体にたたき込むのに歩いている間も電車に乗っている間も腕を振った。周りの視線にも気づかないぐらい集中していた。
・斎藤秀雄は戦後、吉田秀和、柴田南雄、井口基成、伊藤武雄、井口秋子、井口愛子、畑中良輔、石桁真禮生、別宮貞雄、遠山一行らと市ヶ谷九段の東京家政学院が提供してくれた窓ガラスが割れた戦後のボロ校舎で「子供のための音楽教室」を土曜の午後だけソルフェージュ、音感教育、合唱練習を教室で集団授業として基礎から音楽を教えていた。あとのピアノや弦楽器の個人レッスンは都内各所に散らばった先生たちの家に通ってもらう。弦では鷲見三郎や小野アンナらも加わった。その成長を待ち兼ねるように斉藤は合奏訓練を始めた。後の桐朋学園オーケストラに発展してゆく。同時に指揮者の卵たちのまたとない実践訓練の場となった。その前から斉藤は目白の自由学園にも「斎藤秀雄指揮教室」をやっており両方の教室で多くの門下生を輩出させた。山本直純、小澤征爾、秋山和慶、尾高忠明、井上道義、飯森泰次郎、岩城宏之、紙屋一衛、久山恵子等々、弦では岩崎洸(チェロ)、菅野博文(チェロ)、倉田澄子(チェロ)、塚原みどり(チェロ)、堤剛(チェロ)、徳永兼一郎(チェロ)、林峰男(チェロ)、原田禎夫(チェロ)、平井丈一朗(チェロ)、藤原真理(チェロ)、堀了介(チェロ)、松波恵子(チェロ)、安田謙一郎(チェロ)、山崎伸子(チェロ)ほかにヴァイオリンも教えた。
吉田秀和は語る『それはまだガダルカナルやラバウルの攻防(1942年頃)が激しいころで、ある夜、斎藤秀雄さんに呼ばれていってみると、"戦争がここまで来ると、東京はきっと空襲され、ひどいことになる。いまから日本にある楽譜だとか特別高価な楽器だとか、大切なものはどこか安全なところに移しておかないと、戦後当分何もできなくなる。よく考えて、実行してちょうだい。" といわれてびっくりした。それがどういう事態を意味するのか、考えも及ばないことだった。
戦後終わって、彼が私の家を訪ねて来た"子供のための音楽教育を始めるから、手伝ってほしい。今はろくに食べるものもないけど、そういうことは何とかなるよ。人間は食べないでいられないのだから。大事なのは、次代の教育だ。今度こそ、日本で音楽をやるんだ。それには、今が最適の時"と彼は言った。何日がかりで、しつこく口説かれ私は落城した。彼の基本理念は音楽早教育。"音楽は言葉と同じで、小さい時から始めれば始めるほど、無理なく、そうして、上までのぼってゆかれる。教育は五歳から始めてよいそうだから、われわれの学校は五歳から、おそくとも小学生までとする。"というもの。私は気に入った。』
1951年(昭和26年)16歳 成城学園高校一年
・家賃が払えなくなって世田谷区経堂の東京農大の校舎に住み着いた。父開作の知り合いに農大の関係者がいて、空き教室を使わせてくれた。
・成城中学卒業後、成城学園高校に進学し、一年間待つことにした。
・東京藝術大学の入試に失敗した山本直純(18歳)は、斉藤に言われ、征爾の家に週一回行き一年間、指揮を教えた。斉藤指揮教室は、Aクラスの生徒がB、Cクラスの生徒の下練習を受け持っていたからそうなったようである。直純は征爾に教えるに「今日はこの曲をやろう」と言って、まず、二人でピアノを弾いて互いに指揮をする。すると直純が「お前の問題点はここだな」とすぐに見抜いて、そこを重点的に練習する。大事な事しか教えないから、レッスン時間が短い。直純は以前斉藤に桐朋に指揮科が出来るから入らないかと言われていた。直純は一浪しておりこれ以上大学を遅らすことは出来ないと思い藝大を選ぶことになる。
1952年(昭和27年)17歳 桐朋女子高等学校音楽科一年 渋谷区笹塚に引っ越す
4月8日成城高校を1年で中退した征爾は、新設された桐朋女子高等学校音楽科指揮科に入学した。第一期生女子生徒42名、男子生徒4名(村上綜/声楽科、林秀光/ピアノ科、堀伝/ヴァイオリン科と征爾/指揮科が入学した。先生一人に生徒一人という教育がはじまる。
・征爾は道を歩きながらでもメロディを口ずさみ両手を振って指揮の練習をしたという。征爾は忙しかった。斉藤秀雄に桐朋の学生オーケストラの雑用を一切任され譜面台や楽譜の手配、椅子並べ、パート譜の印刷校正と次から次にやることがあった。指揮の勉強もあり休む暇がなかった。
・成城中学ではじめた合唱の練習は、桐朋音楽科に入ってからも続いた。征爾は仙川の桐朋音楽科の放課後、神代書店の前から都立神代高校の前を通り、坂を下り入間を通って三十分ほど歩いて成城に通って合唱練習を続けた。
・斉藤秀雄の自宅での「斉藤指揮教室」ではめちゃめちゃ厳しかった。指揮のレッスンはピアノをオーケストラに見立てて行った。久山恵子の時は山本直純と征爾が連弾した。
・土曜日の午後は「子供のための音楽教室」の生徒たちも加わって、オーケストラの練習があった。夏休みになれば北軽井沢で合宿した。地元の小学校を借りて一日中練習し、夜は教室にむしろを敷いて寝た。
https://www.tohomusic.ac.jp/about/history.html桐朋学園音楽部門の歴史、第一期新入生の中に若き小澤征爾が写っている(最後列)
1953年(昭和28年)18歳 桐朋女子高等学校音楽科二年
・征爾は語る『斉藤指揮教室で斉藤先生が直純のレッスンの時に、彼の楽譜を見ながら指導していました。レッスン後、"この楽譜の書き込み、僕も勉強になった。ありがとう”と真剣に直純に礼を言っていたのです。そのくらい、斉藤先生が山本直純をすごく認めているということは、みんなよくわかっていた。一番音楽的な信用があり、そして先生から音楽の才能に対する尊敬を受けていました。』。この年、山本直純は藝大作曲科に入学した。斉藤秀雄と山本直純のレッスンは山本直純が藝大を卒業するまで続いた。
・征爾は仙川の桐朋音楽科の放課後、神代書店の前から都立神代高校の前を通り、坂を下り入間を通って三十分ほど歩いて成城に通って合唱練習を続けた
1954年(昭和29年) 桐朋女子高等学校音楽科三年
・桐朋音楽科学生オーケストラもできたばかりで人手がなく、征爾はひとりでみんなの譜面台や椅子の手配からパート譜の印刷まで一切やっていた。
・毎年夏休みになると、北軽井沢にある斉藤の別荘の近くにある小学校を借りて、オーケストラが合宿練習をやっていた。合宿にはオーケストラのメンバーの母親たちが大勢参加し、征爾の母さくらも行った。練習も寝泊りも村の小学校の教室を使った。合宿の最期にその小学校の生徒たちにお礼の演奏会を開き征爾は指揮をした。
・桐朋オーケストラの練習曲はバッハ《シャコンヌ》、チャイコフスキー《弦楽セレナーデ》、Jシュトラウス《こうもり》序曲が多かった
・征爾は仙川の桐朋音楽科の放課後、神代書店の前から都立神代高校の前を通り、坂を下り入間を通って三十分ほど歩いて成城に通って合唱練習を続けた
1955年(昭和30年)20歳 桐朋学園短期大学音楽科一年
・高校三年の卒業公演で桐朋オーケストラを相手にバッハ《シャコンヌ》を振ることになり、斎藤秀雄はオーケストラ用に編曲した十数分の曲を半年かけて征爾に教えこんだ。征爾は語る『バッハの原典にはテンポの指定がない。音楽記号も書かれていない。でも先生は楽譜を読み尽くし、音楽を細かく構築した。しかも”一番音域が広いここが音楽の頂点”というようにすべて言葉で説明できた。後年、ベルリンでヴァイオリニストのヨゼフ・シゲティの引退公演を効いたとき、《シャコンヌ》が先生のやり方と全く同じで驚いたことがある。』。
・卒業公演の《シャコンヌ》は山本直純、岩城宏之も聴きに来て、終演後に”感動した”と言ってくれたのが征爾には嬉しかった。
桐朋学園女子高校付属音楽科指揮科卒業、出来たばかりの桐朋学園短期大学音楽科指揮科に入学した。男子生徒は四人だけで指揮科は征爾一人だった。
5月中旬頃、小澤の指揮する桐朋学園オーケストラの練習風景を、来日中のシンフォニー・オブ・ジ・エアのメンバーと指揮者ワルター・ヘンドル等数人が見学しに来た。
5月来日中のシンフォニー・オブ・ジ・エアの公開練習を斎藤秀雄に言われて聴きに行き響きの違いに衝撃を受ける。曲目はブラームス《交響曲第一番》ほかのリハーサルであった。
・音楽をやるなら外国へ行って勉強するしかないと征爾は心に決めた。同期の江戸京子や桐朋の仲間たちは次々と留学して行き、征爾はいつも羽田空港で見送った。相変わらず斉藤秀雄のカバン持ちとして雑用に追い立てられる毎日を過ごしていた。征爾はその間、斉藤先生宅の個人レッスンや桐朋の学生オーケストラの指揮練習に明け暮れた。
・川崎市幸区戸手町に引越す
1956年(昭和31年)21歳 短大二年
・桐朋学園短期大学二年の頃、斎藤秀雄の厳しいレッスンと学生オーケストラの激務のため、神経性の十二指腸潰瘍に悩まされ、固いものが何も食べられないことがあった。
・この年日本青年館で征爾は、桐朋学園オーケストラを指揮してチャイコフスキー《弦楽セレナーデ》を振った
・毎年秋の「毎日音楽コンクール」が開かれ、征爾は応募した生徒からコンクール予選でのピアノ伴奏を頼まれていた。その練習は家でも行われた。
・暮れ、中学時代の仲間で作った成城の合唱団「城の音」のクリスマス音楽会のあと、恒例のキャロルに出発した征爾は手にローソクを持って讃美歌を歌いながら歩いた。数日前から風邪気味だった征爾は翌日から高熱を出し肺炎に罹ってしまった。年も明けた1957年になっても起きられず卒業目前に長期間欠席してしまった。そのため卒業試験の幾つかを受けることができなかった。
1957年(昭和32年)22歳 卒業見合わせ
・桐朋学園で指揮と作曲の両方で一等賞を受賞し、NHKと雑誌音楽の友により邦楽の「傑出した才能」に選ばれた。
3月迎えた卒業式でなぜか征爾の名前は呼ばれなかった。あるはずの卒業証書もない。留年していたのだ。しかも誰も教えてくれなかった。
・暮の肺炎ダウンで単位不足となり一人だけ卒業できなかった。そうとは知らず母さくらも着物で晴れやかに卒業式に出席した。母さくらは泣きながら帰って行った。母は卒業式前日に行われた謝恩会の役員を引き受けていた。
・声楽の伊藤武雄先生が『いいんだ、卒業なんかしなくたって』と慰めてくれた。また学費を払うのにアルバイトをしなければいけなくなった。
しばらく伊藤武雄先生の紹介で日本橋の三友会合唱団を指揮者となった。征爾はこの合唱団の常任指揮者を数年勤め、全国合唱コンクールにも出場した。また斎藤秀雄先生に言われて群馬交響楽団へ行き、初めてプロのオーケストラを指揮した。北海道演奏旅行では指揮者を担当した。卒業してからも桐朋の助手として残り、斉藤秀雄のカバン持ちのようにして、いつも先生と行動を共にしていた。
・夏まで桐朋学園音楽短期大学で斎藤秀雄に指揮法を師事し中学三年から始めた指揮の勉強でオ-ケストラを仕込む技術を身につけた。
12月設立間もない日本フィルハーモニー交響楽団第5回定期演奏会のラヴェル《子供と魔法》で、渡邉暁雄の下で副指揮者を務めたあ。アマチュア合唱団・三友合唱団を指揮。
1958年(昭和33年)23歳 渡欧準備
・桐朋学園オーケストラがブリュッセルの万博博覧会青少年音楽コンクール参加する話が持ち上がったが、これは資金不足で断念する羽目になった。
その時、征爾は堅い決意をした。オーケストラの参加がだめならせめて自分一人だけでもヨーロッパに行こうと。その頃から単身渡欧することを計画していた。
多少の金さえ持っていれば、あとはスクーターでも宣伝しながら行けば、自分一人ぐらいの資金は捻出できるのではないかと思うようになった。
・「フランス政府給費留学生」の試験を受けた。征爾と桐朋オーケストラのフルートで征爾の弟分の加藤怒彦が最終審査に残った。結局、語学ができて優秀な加藤が受かりパリ国立音楽院に留学が決まった。征爾が不合格となった。
・桐朋恒例の北北軽井沢での夏合宿の後、征爾は軽井沢駅待合室で成城の同級生水野ルミ子にばったり会った。『征爾、何落ち込んだ顔してるの』という。征爾は外国で音楽を勉強したいが手立ても金もない、と説明した。ルミ子は『うちの父に話してみる?』という。ルミ子の父は水野成夫氏で文化放送やフジテレビの社長だった。その足でルミ子の別荘へ行き、水野に会う。顔を合わせたことはあったが、ちゃんと話すのは初めてだった。征爾の話を聞いて『本気なんだな?』と征爾に念を押すと、すぐに四ツ谷の文化放送へ行け、と言った。向かった先で重役の友田信氏が資金を用意してくれたが、確か50万円だった。
桐朋の同期江戸京子の父で三井不動産社長江戸英雄氏にも随分と助けられた。征爾の父が川崎で歯医者を始め家を建てたから桐朋に通うのが大変だった。江戸はそれを知り、下落合の自宅に征爾を寝泊りできる部屋を用意したり、ご飯を食べさせてくれたりしていた。桐朋の音楽科は江戸や生江義男先生たちと協力して設立したのだった。その江戸氏が話をつけて、日興証券会長の遠山元一氏からも資金を援助してもらえた。
1959年(昭和34年)24歳 私費渡欧~ブザンソン指揮者コンクール優勝
・正月、成城時代の合唱の仲間と信州野沢へスキーに行き四日目に崖から墜落して腰を打ってしまった。その晩から高い熱を出し大変な目にあったがわが家に着くころにはなおっていた。
・家に帰ると前から方々に頼んであったヨーロッパ行きのチャンスが来ていた。江戸氏の手配でフランス行きの貨物船に安く載せてくれるという話だった。
征爾はフランスではスクーターで移動することを思いつき、江戸氏の家によく出入りしていた後の彫刻家藤江隆氏と毎日新聞記者木村氏と手分けして、片っ端から自動車会社に電話してスクーターの提供を頼んだ。が、良い返事はなかった。結局、父の満洲時代の同志で富士重工業の松尾清秀氏がラビットジュニアスクーター125㏄新型スクーターを用意してくれた。
・富士重工の工場でスクーターの分解法や修理法を習った。
<神戸から貨物船淡路山丸でヨーロッパへ出立>
・出航は2月1日に決まった。スクーターは横浜で貨物船に預け、神戸から乗船することにした。
・出発の前日、家族で水入らずの送別会をやってくれ、父は大まじめな顔で「水杯だ」と言い、二人で酒を飲み交わした。
・出発の夜、東京駅に大勢の人がプラットホームまで見送りに来た。桐朋のみんな、成城のラクビー仲間、合唱グループ「城の音」のメンバー、「三友合唱団」のおばさんたちもいて万歳三唱してくれた。その時、夜のホームの向こうから斉藤秀雄先生がトボトボ歩いてきて、コートのポケットから『これ、使えよ』と分厚い封筒を出してきた。あとで確かめたら1000ドルちかく入っていた。征爾には何より来てくれたことが有難く感じた。俊夫兄と三等寝台にに乗り込み、窓からみんなに手を振り続けた。
2月1日、三井船舶の貨物船「淡路丸」の甲板にスクーターを縛りつけ、ギターとともに神戸港から乗船し出港、マルセーユに向かった。見送りは明石にいる友人とその母、仙台から来た兄貴の三人だった。ヨーロッパに着くまで約二ヶ月、六十三日かかる気の長い旅の出発であった。
・四日目フィリピン諸島の港を回った。
<征爾がマニラから投函した船旅の手紙>
・『~略~一日の生活をザッと書く。六時に起床し体操。出港後ひまなときに教えてもらったコンパスを使って船の位置を確かめる。八時食事、トースト、ハムエッグ、コーヒー、果物。10時ごろからフランス語やスクーターの勉強。昼食はフルコースの洋食だ、スープ、魚料理、肉料理、サラダ、パン、コーヒー、ミルク、アイスクリーム、果物、これだけは必ず出る。昼食後はサロンでお喋り、それから昼寝。三時ごろからマラソン、縄跳び、ゴルフだ。夕方はたいてい機関室か通信室かブリッジで専門的「船学」の個人教授を受ける。五時夕食、今度は日本食だ初めのうちはメシ、メシ、メシで困ったが、だいぶ慣れてきた。夜はレコードを聴いたり、甲板の上を散歩したり、お喋りしたりする。ヴァイオリンやコーラスを教えることもある。寝る前には必ず風呂に入り、九時と十時の間にはベッドに入る。ボーイは何でも好きな物を食わしてくれるしビールもただだ。マニラに着いたとき寒暖計を見たら三十八度あるのに驚いた。暑いはずだ。夕焼けはすごい。見ているこっちの顔にまで反映してくる。戦争で死んだ人のことを思うと胸が痛くなってくる。この辺は激戦地だったそうだ。』
・シンガポールで三日停泊。
<ボンベイからの手紙>
2月28日インドのボンベイに入港。ボンベイからの手紙1959年2月28日『ボンベイに入港したよ。みんな元気?。今夜演奏会がある。会場のTAJホテルに行き、「ヤァー」といって、いつものように正面入口から堂々とロハ入場した。向こうは少しもいぶかしそうな顔をしなかったぜ。街を行くのはタクシーに乗るのが定石らしいが、ボクはわざと電車とバスで街をひと回りした。その方がその国の生活ぶりがわかっておもしろい、値段も七円ぐらいでまことに安い。』。
3月10日アフリカのポートスーダンに寄港した。『ぼくは街をゆっくり散歩し、そのたびに英語はうまくなるし、物知りにもなる』。スエズでは上陸できなかった。
3月12日アレキサンドリア。手紙を書く『みんな元気?おやじさんは相変わらず忙しいでしょう?。~略~船の風呂は海水に湯気(多分蒸気)を吹きこんで沸かすのだが、五分くらいで沸く。毎日海水をとりかえるから、ボクは太平洋、インド洋、紅海、地中海の風呂に入ったわけだ。~略~スクーターの勉強も進んだが、英語のほうもなかなか捨てたものではない。フランス語は単語カードを作った。ボクの部屋は皆の溜まり場になっている。夜になるとアミダクジを引き、ビールを飲む。もっともボクはビールも菓子も、つまみも、ブドー酒もクリーニング代もただだ。ただでないのは手紙代くらいだよ。マルセイユで日本円をフランに換えてもらえるように、船長が特別に手配してくれた。以下略。』
3月15日次はイタリアの南端、シシリー島のメッシへ。
<フランス マルセイユに着、パリへ>
3月23日マルセイユに上陸 三か月間は旅行者扱いで日本の免許証が使えた。
3月26日スクーターでパリを目指す。まずマルセイユからから
ヴァランスへ向かった。『途中の道は「フランスの庭」というだけあり美しい。古い農家の後ろにはアルプスが見え、空が高くまで澄んでいる。ヴァランスのユースホステルは一泊七十円から百円くらい、飯は普通食なら八十円くらいだが、ちょっとおごって百五十円から二百円くらいする。もっともレストランに行けば五百円から六百円はかかる。ホステルでみんなにピアノを聞かせたら大いに喜ばれた。希望曲がほとんどアメリカのジャズなのは意外だった。』
4月8日パリ着。その日はホテルに泊まった。途中はほとんど野宿だった。パリで桐朋学園大学短期同期の江戸京子等に会う。
6月<ブザンソン国際指揮者コンクール締切日間に合わず>
江戸京子からブザンソンで国際指揮者コンクールが行われると知らされた。
・「棒ふりコンクール」、征爾のヨーロッパへ来た目的は棒ふりの修行であった。『そりゃ一発やってみたいけど、どんなふうになっているのかな』『私の通っているパリ国立音楽院の玄関に、たしかコンクールのポスターが貼ってあったわ』江戸京子に連れられパリ国立音楽院に征爾は行った。
おぼつかないフランス語では征爾には分らない。ポスターの内容を江戸京子に通訳してもらうと征爾にも資格があった。
・半年も指揮していなかった征爾は、指揮をしたくてたまらなかった。わずかな申込金でコンクールを受けることができる。
・フランスのナマのオーケストラを一回でも指揮することができれば、それだけでも十分意義があると征爾は考えた。そう思って応募することに決めた。
ところが手続きの不備で締切日に間に合わなかった。
・このままあきらめる気もしなかった。征爾は最後の綱とばかり日本大使館に駆け込んだが、思わしくない。
まだ諦めることはできず、征爾が友人から聞いていたアメリカ大使館の音楽部のことを思い出しコンコルド広場の近くにあるアメリカ大使館を訪れた。
・そこには昔ニューヨークの弦楽四重奏団の第二ヴァイオリンを弾いていたというマダム・ド・カッサ女史が座っていた。
征爾は今までの事情を説明した。そして『日本へ帰る前に一つの経験としてブザンソンのコンクールを受けたいのだが、今からなんとか便宜をはかってもらえないだろうか』と頼み込んだ。
<あなたはいい指揮者か?>
・するとカッサ女史は『あなたはいい指揮者か?』と聞く。征爾はデカい声で『自分はいい指揮者になるだろう』と答えた。
ケッサ女史はゲラゲラ笑いだし、すぐに長距離電話でブザンソン国際音楽事務所を呼び出して、『遠い日本から来たのだから、特別にはからって受験資格をあたえてやほしい』と頼んでくれた。
向こうの返事は『今すぐは決められないから二週間ほど待ってくれ』だった。
カッサ女史は『コンクールを受けると決まった時に慌てるといけないから、その間にスコアを買って読んでおいた方がよい』と親切に言ってくれた。
このころ征爾は少し栄養失調気味になっていた。長い旅行とパリでの安メシ屋がよいが原因だ。何をやっても体がフラフラする。血が上がったり下がったりした。エレベーターが一番苦手になっていた。
・コンクールの日に一番良いコンディションに持っていかなければならないのに弱ったなと思うようになっていた。
そんな時,見るに見かねた堂本印象氏の甥の堂本尚郎画伯が風光明媚な南仏のニースへ招待してくれた。征爾は喜んで飛びつき体力作りがてらスコアを抱えて行った。体力作りに夢中なあまり、直射日光を浴びすぎ、日射病になるという不覚を取ってしまった。それからはもっぱら半病人のようにニースの山の上で過ごしていた。
・パリのアメリカ大使館から速達が来てコンクール受験の資格を取れることが正式に決まったと言ってきた。
征爾はすぐにパリへ戻った。
・そのころ征爾は大学都市のイギリス館に住んでいた。征爾はそこでオーストラリアから来たピアニストのロジャーと江戸京子が何度も何度も連弾してくれ、それを頼りに実際に指揮するようなつもりで手を振った。これが一番いい勉強になった。
<斉藤指揮メトード>
・小澤征爾は語る『僕は日本を発つまで斉藤先生のもとで勉強した。斉藤先生の指揮のメトードは、基礎的な訓練ということに関してはまったく完璧で、世界にその類をみないと、僕は思っている。具体的にいうと、斉藤先生は指揮の手を動かす運動を何種類かに分類した。たとえば物を叩く運動からくる「叩き」。手を滑らかに動かす「平均運動」。鳥の首がピクピク動くみたいに動かす「直接運動」。というような具合に分類する。そのすべてについていつ力を抜き、あるいはいつ力を力を入れるかというようなことを教えてくれた。その指揮上のテクニックはまったく尊いもので、一口に言えば、指揮をしながらいつでも自を分の力を自分でコントロールすることができるということを教わった。言い方を変えれば、自分の体から力を抜くということが、いつでも可能になるということなのだ。それと同じようなことを、言葉は変わっているが、シャルルミンシュも言っていたし、カラヤンもベルリンで僕に教えてくれたときに言っていた。自分のことを言うようでおかしいが、ぼくはどんなオーケストラへいっても、そのオーケストラが、あるむずかしい曲で合わなくなったり、アンサンブルがわるくなったりしているときに、ぼくのもっているテクニックを使って、必ずみんなのアンサンブルを整えることができるという自信を持っている。それはすなわち斉藤先生のメトードによるものだ。それがオーケストラのほうからみると、セイジの棒は非常に明瞭だという答えになって表れるので、ぼくとしては、指揮するばあいに非常に有利な立場に立つことができるのだ。指揮の試験を受ける人たちに伝えておきたい。何より、柔軟で鋭敏で、しかもエネルギッシュな体を作っておくこと。また音楽家になるよりスポーツマンになるようなつもりで、スコアに向かうこと。それが、指揮をする動作を作り、これが言葉以上に的確にオーケストラの人たちには通じるのだ。ぼくが外国に行って各国のオーケストラを指揮して得た経験のうちで、一番貴重なものはこれである。』
Seiji Ozawa speaks『I studied under Mr. Saito until I left Japan.Saito Sensei’s method of conducting is absolutely perfect when it comes to basic training, and I believe that there is nothing of its kind anywhere else in the world.Specifically, Mr. Saito classified the movements of the conducting hand into several types.For example, “tapping” comes from the movement of hitting something.“Average movement” that moves the hand smoothly.“Direct movement” that makes the neck of a bird twitch.Classify as follows.』
・征爾がブザンソンのに着いた連日連夜の勉強の後なのでかなり疲れていた。所持金も欠乏し始めていた。征爾は学生向きの安宿に入った。
その夜は各国から集まった若い指揮者の歓迎パーティーがあった。みな自信がありそうに見えた。誰もがおれこそ一等賞だという自信にあふれているような顔をしている。若い指揮者の採用試験」のようなものはいくつかあるが、正式な指揮のコンクールは世界でここだけ、各国の政府が数名の応募者を派遣しているのだ。その中にはオペラ座の指揮者や、ロンドン・フィルのアシスタント指揮者などの優秀な者も混じっていた。
<第一次予選>
9月7日第一次予選、48名が応募した。一人ずつ会場のカジノ劇場に呼び出されてテストを受けた。曲目はメンデルスゾーン《ルイ・ブラス》序曲、征爾はそれを自分の好みの練習でオーケストラを仕込む。わずか八分でメンバーに指示を与えたり、大胆に棒を振って、誰にもわかるように派手な身振り、手振りを見せた。終わってお客ばかりでなくオーケストラの連中からも一斉に「ぶらぼー!」という喝采が上がった。第一次予選パス。17人の中に入った。
嬉しく帰る途中にある花屋に入り一抱えの花を買って帰ると部屋に美しく飾った。
<第二次予選>
9月9日第二次予選。課題曲はサン=サーンス《序奏とロンド・カプリチオーソ》とフォーレ《タンドレス》。サン=サーンスの曲はその場で初めてのソリストに、初めてオーケストラ伴奏をつけるという伴奏テクニックのテスト。フォーレは六十人編成の各パートの譜に赤インクで間違った譜が書き込まれてある。ヴァイオリンが違っていたり、ホルンとトロンボーンの音が入れ替えてあるという具合に都合十二ヶ所の誤りを、五分で発見して、完全なオーケストラに仕上げるという課題。征爾はスコアを見つめ、神経をとがらして聴きながら棒を振った。瞬く間に五分間は過ぎ、征爾は十二の誤りを全部指摘することができた。この分なら受かるぞと思った。真夜中に発表があり、バンザイ!合格だ。この調子だとコンクールに優勝するかもしれない。そうなればいろんな人からインタビューを受けるかもしれない。フランス語の下手な征爾には不安であった。征爾は急ぎパリにいる江戸京子と前田郁子(ヴァイオリニスト)に電話して来てもらえることになった。
・彼女たちは翌日すぐに来てくれた。会場の客の中に彼女らがいると思うとどんなにか力づけられた。
<本選は六人が出場>
9月10日本選はブザンソンのグラン・テアトル。課題曲はドビュッシー《牧神の午後への前奏曲》とヨハン・シュトラウス《春の声》、ビゴーがこの日のために作曲した新曲、出場者六人はボーイスカウトに付き添われて、防音装置で完全に遮断された部屋の中に入る。そこで課題曲のスコアを初めて渡された。初見であある。それも五分後に指揮する。
征爾は六人のクジで一番最初に指揮台に上がった。不思議と落ち着いた気分で指揮台に上がった。指揮棒をとると少しも臆せずすらすらと思う存分にやれた。征爾が後で知ったことだが、征爾が演奏している間に、作曲者のビゴーが「ブラボー」と叫んだという。
全部のテストが終わり、一時間後に発表がある。その間、お客さんもオーケストラの人もみな結果を待っている。
発表の時間が来て、一等を呼び出す声が聞こえた。
<ムッシュー・セイジ・オザワ!一位入賞>
・「ムッシュー・セイジ・オザワ!!」するとお客さんやオーケストラの人々が「ブラボー、ブラボー、ブラボー」と歓声を上げ、すごい拍手が起こった。
征爾は一位入賞した。確かに僕なんだと、征爾は何度か自分に向かって言い聞かせた。そうでもしなければ信じられないような気持であった。征爾はいつの間にかステージの中央に押し出されていた。賞金と腕時計とフランス語で書かれた免状をもらった。
・江戸京子と前田郁子もすぐステージに上がって来てくれペラペラフランス語で通訳をしてくれた。征爾はカメラでパチパチやられ新聞記者のインタビュー攻めにあった。
・よかった!! これでもう少しヨーロッパに残れると喜びを噛みしめた。賞をもらった時に最初にわいてきた喜びだった。
優勝の翌日、審査員の一人だった指揮者ロリーン・マゼールの部屋に呼ばれた。何かと思えばにやにやしながらピアノを弾き始めた。本選の《牧神の午後への前奏曲》でオーケストラがうまくできなかったところを、わざとそのままにして征爾に聴かせた。彼は若くして天才と呼ばれていて、その後、作曲家のナディア・プーランジェのサロンであった時も輪の中心にいた。征爾は縮こまってコーヒーを飲むばかりであった。《牧神》を弾かれた時もホテルの部屋にピアノがあるなんてすげえなと思った。
・コンクールが終わって三日ほど水の澄んだブザンソンのホテルの前の川でボーっと魚釣りをして楽しんだ。コンクール入選の知らせは家と斉藤先生に知らせた。
コンクールはブザンソンお音楽祭の一環でほかにもいろいろな音楽会が開かれていた。審査員だったシャルル・ミンシュが指揮する音楽会があると聞いて、征爾は出かけて行った。
<ミンシュのベルリオーズ幻想交響曲>
・その時征爾が聴いたベルリオーズの《幻想交響曲》をどう言い表せばいいか彼は、わからなかった。そんな指揮者がいるなんて信じられなかった。長い指揮棒をもって、魔法をかけられたようだった。どうしたらあんなにみずみずしい音楽が生まれるのだろう。居てもたってもいられなくなった。<>>
<アメリカの放送局特派員とクレイジーホース>
・最後のパーティーの時、征爾は思い切って "ミンシュ先生“ と声をかけた。振り返った顔は、さっきまで女の人たちと楽しそうに談笑していた様子とは違って、いかにも気難しそうだった。江戸京子に通訳してもらって伝えた。"弟子にしてください"返事は冷たかった。"私は弟子をとらない。大体、そんな時間はない“ 征爾はがっくりきたが、“もし来年の夏にアメリカのタングルウッドに来るなら教えてもいい“ と付け加えられた。ミンシュはボストン交響楽団の音楽監督だった。ボストン交響楽団が毎夏タングルウッドで開いている音楽祭でなら教えるという事らしい。
<タングルウッド音楽祭参加を目指す>
・征爾らのやりとりをアメリカの放送局、ボイス・オブ・アメリカのヨーロッパ特派員ヘイスケネンが聞いていた。ボストン交響楽団のかっての名指揮者、故セルゲイ・クーセヴィツキーの婦人と知り合いだから、音楽祭に参加できるよう掛け合ってくれるという。それをたよりに征爾はパリへ戻った。
パリに戻ってから、コンクール第一位の新聞記事を読んだパリのコルビュジエが設計したブラジル館の館長が、征爾に無条件で下宿させてくれた。普通は四十人に一人という難関な贅沢な建物、部屋に風呂までついていた。またフランス滞在手帳もすぐに交付してくれた。征爾のように学校も入らず、金の出所もあいまいな者には絶対ありえないことだった。その上パリの音楽会の招待券も送ってくれので、どの指揮者のも聴くことが出来た。
9月末にベルリン音楽祭を聴きに
9月26日征爾は家に手紙を書いた。ベルリン音楽祭に来たこと、前日朝着いたこと、すぐ東ベルリンに入り、国立歌劇場を観たりした。夜はロシア・バレエ《ガヤーヌ》を観たことなど見たこと聞いたこと、ニ三日中にベルリン・フィルのマネージャーに会うこと、などを書き送った。
10月12日パリ
10月16日夜、ドイツのドナウエッシンフに行く。17日-18日現代音楽祭があり非公式な招待があり聴きに行く。
10月18日パリから十二時間かかった。現代音楽祭はヨーロッパ一ということもあり世界各国から著名音楽家が集まって来た。日本人ではパリから戸田邦雄(45歳、外務省パリ日本大使館参事官、作曲家、声楽家で藝大声楽講師戸田敏子の実兄)、篠原真(29歳作曲家)、日本から秋山邦晴(29歳音楽批評)等が来ていた。
10月20日パリに戻る。家に手紙を書いた。”今年いっぱいはパリにいて、来年はベルリン放送局が月給を出すというので
それをもらい、合間に演奏会をやるつもり” だという。
10月放送局のラジオ・フランス主催で征爾のお披露目演奏会と記者会意見が開かれた。毎日新聞パリ支局長の角田明、画家の堂本尚郎が来てくれた。堂本に紹介されたのが有名なナイトクラブ、クレイジーホースの店主アラン・ベルナンダンだった。征爾が安い酒ばかり飲んでいることを聞きつけたか、“これからはうちの店で好きなだけ飲め" という。早速その夜に連れられて以来、時々通った。征爾が行くと門番がふざけて敬礼する。アランの小さな部屋は四方の棚に酒が詰まっていて、どれを飲んでもよかった。アランとはその後30年以上付合いが続いた。ものすごい音楽ファンで、征爾がパリで指揮する時は必ず聴きに来てくれた。審査員だった作曲家ビゴーんもとで指揮のレッスンを受けたりした。
11月はじめにフランス語の進級試験があった。
<ホームシックと体調崩しノルマンディーの修道院で静養>
・その年の暮れホームシックにかかった。畳の匂いや日本語が無性に懐かしく、両親のことや、成城、桐朋の学友、先生のことが思い出された。本場ののブドウ酒を飲んでもうまく感じられない。体調を崩し、それである日医者に行った。”パリの毒気にあてられたらしい。さっそくパリから逃げるんだなぁ” 征爾は"金がねえ” というと、修道院の紹介状を書いてくれた。ただで飯を食わして泊めてくれる。征爾はノルマンディーの一番イギリスに近い出っ張った半島の修道院へパリから汽車とバスに六時間かけ小さな村に着いた。そこからさらに三十分歩いて南フランスのノルマンディの修道院に着いた。部屋は半地下室のような陽の当たらない、全部が石でできている火の気のない部屋だった。修道院には老若四十人ほどが自給自炊していた。消灯は九時、朝は四時半起床。オルガンが鳴り坊さんたちの重量感あるコーラスが始まる。グレゴリオ聖歌だ。征爾もその仲間に入り、四線譜の曲を歌って、帰る頃には坊さんたちと唱和できるようになった。昼間はほとんどの時間が労働で薪を山から馬で下ろしたり、豚のエサ運びなど一生懸命にやった。体を動かしていないと、寒さで凍え死んでしまいそうなのだった。十二時半の昼飯はスープ、豚肉、ウドン、パン、リンゴ酒。このリンゴ酒を飲むと百回ぐらいゲップが出た。夕飯は六時半。スープに卵焼一つにジャガイモ、チーズといった簡単なもの。ここでの静養という生活は征爾にとり、毎食出るチーズの匂いとグレゴリオ聖歌、メシのまずかったこと、これだけはいつまでも忘れられない。
家に近況報告の手紙を書いた・送って欲しい物を書いている。”1.風呂敷数枚、こっちで世話になった先生あげる。2.白い木綿のワイシャツサイズ14インチ二枚。3.靴下ニ三足。4.アルミゲル錠(胃の薬、ボンがよくよく知っている)。5.ドイツ語の文法の本(易しいのがいい、仙台の兄貴に聞いてくれ)。6.漱石の(こころ、明暗)。7.ラビットジュニア用プラグ(点火栓、上の兄貴なら知っている)。8.色紙と和紙(これは誕生日やその他のカードとして小さく切って使うが大きいままでいい)。9.こけし人形(小さくて安いやつでいいから、十カラ二十)。10.その他食料(焼海苔、海苔の佃煮、昆布の佃煮、醤油の缶詰、昆布茶、梅干し、ウニ、味噌、しらたき、削り節、海苔のついた煎餅、わさび粉、七色唐辛子、その他缶詰なら何でも歓迎。なお湿気をうけやすい物はなるべく缶入りか瓶入りかにすること。11.飯櫃、友達を呼ぶときに見せる。12.箸数膳安くていい。12.茶碗と湯呑。こっちに来てめっきり料理の腕が上達した。洗濯もうまくなった。13.靴は十文七分、黒の皮、ズックでは困る。
・修道院から帰るとパリの街では、クリスマス用の品物が売っていた。
12月チロルにスキーに行った。臨時に学生の団体に加えてもらった。仲間はこの年ロン・ティボー・コンクールせ三位となったヴァイオリンの石井志都子、ピアノ江戸京子、ヴァイオリン加藤さんという女性三人と男一人、駅のプラットフォームに四十人が集まり団長を決めた。パリを出発し翌朝インスブルックに着いた。バスに乗りムッタース村の古風なホテルに着いた。征爾らはここでクリスマス、大晦日、正月を迎えた。
1960年(昭和35年)25歳
1月10日スキーからパリに戻る
1月26日家に手紙を書く。
・その後、急用ができベルリンへ行く。カラヤンのレッスンがテレビで放映されていた。田中路子女史がその放送を見に来て、征爾の背広を見て、音楽家は舞台に出る限り皆の目に触れるのだからと流行りの背広を着た方がいいと言って、デパートへ連れて行き背広をプレゼントしてくれた。
宿舎に帰ると日本から小包が届いていた。
・パリでルービンシュテインらのマネージャーをやっている人とも二月初旬に会う約束があった。
・レッスンは、コンクールの審査員だったパリの長老指揮者ビゴーがオーケストラを使って週一回無料で教えてくれた。またアール先生の友人のレオン・バルザンというアメリカ人にも教えてもらっていた。
・ブラジル館からフランス人の家庭に下宿することにした。
2月16日家に手紙を書く。
10月パリ放送局主催でシャンゼリゼ劇場でリサイタルをやることが決まった。
3月29日家に手紙を書く。
・急にロンドンに来た。
・パリの教習所に行き、日本での運転免許証を持たなかったが、教習所の教師にオレは日本の免許証を持っているから、なんとか簡単にフランスの免許証がもらえるようにとりはからってくれと、頼んでみた。パリでの教習はどんなものでも道路上でやる。四回くらいで試験を受けさせてもらった。受験の通知はハガキで来る。パリの指定の道に行くと男女がたむろしている。それが試験日なのだ。試験は五分ほどで終わり、あっけなくパス。その日に免許証をくれた。
・そのころ征爾はトゥールーズで連続放送演奏会をやることになっていた。スペイン国境に近いところだ。江戸京子の新車を借りて、東京から神戸間くらいの距離を、自動車のハンドルをたいして握ったことがないのに運転して行った。その日は谷間の村境のホテルに宿泊。明日中に目的地に着き、明後日は朝からオーケストラの練習。
・真夜中にトゥールーズに着きパリの放送局から連絡されていたホテルに着いた。翌朝は9時からフランス国内での指揮者としての仕事が始まった。そこでは二週間近く指揮をした。その間、オケの楽員さんが変わりばんこに征爾を夕食に誘ってくれたり、夕方、近くのピレネー山脈の麓までドライブに誘ってくれた。
4月19日、21日、25日と3日間の収録でベートーヴェンの《交響曲第一番》、《エグモント》序曲、モーツァルト《交響曲第41番》「ジュピター」、《ディヴェルティメント》、オペラ《魔笛》序曲、ブラームス《ハンガリー舞曲集》、シューベルト《交響曲未完成》、カバレフスキーの組曲《道化師》などを放送用収録でトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団を指揮して録音。全部の演奏、録音を済ませその場でお金をもらう。八万円である。征爾はそこから旅に出、カルカソンヌへ行き、さらにピレネー山に登り、スキーをやった。わざわざパリからスキー靴を放送局に内緒で持ってきていた。
・ウィーンに来い、と田中路子女史が放送関係の人や劇場主を紹介してくれるという。それからベルリンにも行かねばならない。
パリに戻り、ベルリンの田中路子女史のところに、来シーズンのベルリンでの仕事の打ち合わせにいった。オランダへ行きニホンフィルハーモニーが呼ぶという、パウル・クレッキーというハンガリー人の有名な指揮者に会い、いろいろ音楽的な忠告などを受けた。
<タングルウッド音楽祭>
・ボイス・オブ・アメリカのヘイスケネンから約束通りタングルウッド音楽祭への招待状が届いた。
7月2日渡米しボストン飛行場の税関を通って外に出るとパリで知り合った数学者の広中平祐が出迎えてくれた。その晩は広中氏の家に泊めてもらい、翌日長距離バスでタングルウッドへ向かった。ここでボストン交響楽団が音楽祭を開催している。ここで征爾は六週間過ごす。タングルウッド村に着いたと音楽祭事務所に電話をしたら迎えに来てくれた。宿舎は2人部屋でウルグアイの指揮者と同室である。
7月3日ミンシュのレッスンを受けるにはまず、コンクールを受け合格しなければならない。征爾は三十人近い応募者と第一次試験に臨んだ。オーボエ、ホルン、トロンボーン、クラリネットの四重奏曲の書き取り、これは難なくパスした。
7月4日次にモーツァルト《魔笛》を指揮した。征爾は、バークシャー・ミュージック・センターの指揮コンクールで一位となり、ミンシュのレッスンを受けられる資格を得た。
これでミュンシュのレッスンを受けられる。
宿舎で同室になったのは、ウルグアイ人のホセ・セレブリエールで、彼がマーラーの交響曲のスコアを勉強していたことに驚いた。マーラーがほとんど演奏されていない頃だ。征爾は名前こそ知っていたけどタングルウッドにあるボストン交響楽団の夏季訓練アカデミーであるバークシャー音楽センター(現タングルウッド音楽センター)に到着し、ボストン交響楽団音楽監督シュルル・ミュンシュおよび指揮講師エレアザール・デ・カルヴァーリョと協力する。これがボストン交響楽団との長い付き合いの始まりとなる。バークシャー音楽祭の指揮コンテストの各種試験を3日~8日済ませ、第1位を獲得した。
毎週木曜日の定期コンサートの指揮を5週間行うことになった
・その夏の終わりに、彼は優秀学生指揮者に与えられるクーセヴィツキー賞を受賞しました。
7月ボストン、フェンウェイ・パーク(レッドソックスの本拠地)で初めて野球観戦
7月14日征爾の初の演奏会があった。モーツァルト《ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲》 K. 320d
ジェシー・レヴィーン(ヴィオラ)/小澤征爾指揮/タングルウッド ミュージック センター オーケストラ
タングルウッド- シェッド・レノックス、マサチューセッツ州に於いて
この演奏会の評判がよく、ボストンでの放送やメキシコ市での演奏会が急に決まった。五回やることになった。
7月17日 ニコラス・カッパビアンカ《サッフォーの詩の歌》小澤征爾指揮
タングルウッド – 室内楽ホール、レノックスに於いて
8月9日五年振りとなる最も優秀な若手指揮者に贈られるクーセヴィッキー指揮大賞受賞第八号の決定内定を受けた。推薦者はミミュンシュ、クーセヴィツキー未亡人、アーロン・コープランド等であった。ニューヨークタイムズの音楽評論家ハロルド・ショーンバーグに「この指揮者の名前を人々は記憶しておくべきだ」と評された。
いろんな人にパーティーや夕食に招待されたが、征爾が嬉しかったのは伊藤ヨシ子、桐朋学園の志賀、河野俊達、二宮等が一堂に会して祝ってくれたことだ。
8月に学生の頃からミュンシュに憧れていた小澤は、タングルウッドでミュンシュ指揮の第九のコーラスにいれてもらって歌っている。
9月25才ベルリンで行われたカラヤン主催「指揮者コンテスト」で第一位となり定期的(10月・12月・1月・4月の全部で16日間)にカラヤンから指導を受けることになる。
・ベルリンにてヘルベルト・フォン・カラヤンのアシスタントを務める。そしてカラヤンとの親交はこの時から生涯続くことになった
12月14日モーツァルト《交響曲第28番》、ヨハン・シュトラウス二世:喜歌劇《こうもり》序曲を、フランス国立フィルハーモニー管弦楽団を指揮して収録。
バーンスタインのオーディションに受かる
↓パリ、放送用初録音CD
1961年(昭和36年)26歳
2月20日「日独修交100年記念」する演奏会で「石井眞木」と「入野義郎」の「現代曲」と、モーツァルト「交響曲」を指揮したのがベルリン・フィルとの出会いとなった
4月バーンスタインに招かれてニューヨーク・フィル副指揮者就任。バーンスタインとの親交はこの時から生涯続始まった
4月13、14、16日(NYP定期演奏会) カーネギー ホール
黛敏郎《饗宴》を初演をニューヨーク・フィルハーモニックを指揮してデビュー
4月24日ニューヨーク・フィル日本公演に同行し帰国、神戸港を出発して2年3カ月ぶりだった。
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5月5日<NYP日本ツアー> 東京文化会館
黛敏郎《饗宴》の日本公演、ニューヨーク・フィルハーモニッ、を指揮してデビュー
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バーンスタインが川崎にある小澤家を訪問した
10月14日<NYPヤング・ピープルズ・コンサート> カーネギーホールでドビュッシー《サクソフォンと管弦楽のための狂詩曲》などニューヨーク・フィルハーモニックを指揮
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5月5日<1961 東京世界音楽祭> 黛敏郎《バッカナーレ(饗宴)》ニューヨーク・フィルハーモニックを指揮 東京文化会館
6月22日 日本フィル<第34回東京定期演奏会> 日比谷公会堂で日本フィルハーモニー交響楽団を指揮してチャイコフスキー《交響曲第五番 ホ短調》 ほか演奏
7月杉並公会堂における放送録音が、小澤にとってNHK交響楽団との初顔合わせとなった
1962年(昭和37年)27歳
1月5日日比谷三井ビルディングで媒酌、井上靖夫妻でピアニストの江戸京子と結婚。
1月10日サンフランシスコ交響楽団を指揮してアメリカデビュー。サンフランシスコ交響楽団の指揮が北米初のプロ指揮者の仕事になった。
2月17日 RPI フィールド ハウス、トロイ、ニューヨーク
<NYPヤング・ピープルズ・コンサート>ドビュッシー《牧神の午後への前奏曲》などニューヨーク・フィルハーモニックを指揮
1962 Feb 17 / Young People’s Concert / Bernstein
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4月7日 カーネギー ホール、マンハッタン、ニューヨーク
<NYPヤング・ピープルズ・コンサート>モーツァルト《フィガロの結婚》序曲、ニューヨーク・フィルハーモニックを指揮
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5月3日4,5,6日 ニューヨーク州マンハッタン、カーネギーホールでニューヨーク・フィルハーモニックを指揮
アイヴス《夕暮れのセントラルパーク》Ives《Central Park in the Dark》
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5月ニューヨークでのアシスタント指揮者の契約が終わり、6月からのNHK交響楽団指揮のため日本へ向かう。
・小澤は6月20日から10月22日までの23の演奏会のすべてと、11、12月の定期公演および《第九》を指揮する予定で、半年間「客演指揮者」としてNHK交響楽団と契約していた。
・サンフランシスコ交響楽団定期演奏会でハチャトリアンの代役でベルリオーズ《幻想交響曲》を指揮して好評を博した。
6‐7月メシアン《トゥランガリラ交響曲》NHK交響楽団を指揮して日本初演演奏
出演:イヴォンヌ・ロリオ(ピアノ)、ジャンヌ・ロリオ(オンド・マルトノ)
この初演にはメシアン自身も立ち会ってみっちり練習し、初演は成功を収めた
10月征爾はN響と東南アジアへ二週間の演奏旅行に出発。
フィリピンでベートーヴェン《ピアノ協奏曲第一番》を現地のピアニストが弾くカデンツァの途中で、征爾はうっかりバトンをあげてしまった。オーケストラが楽器を構えたがカデンツァはまだ続いている。征爾のミスだった。終演後征爾は先輩の楽員から”おまえやめてくれよ、みっともないから"とクソミソに言われ”申し訳ありません”と平謝りするしかなかった。この時のことを征爾は言う『僕には全然経験が足りなかった。ブラームスもチャイコフスキーも交響曲を指揮するのは初めて。必死に勉強したけど、練習でぎこちないこともあっただろう。オーケストラには気の毒だった。』
10月30日<日本フィル第51回東京定期演奏会>を指揮 東京文化会館
プロコフィエフ《交響曲第五番 変ロ長調》 op.100
モーツァルト《ピアノ協奏曲第二十番 ニ短調》 K.466
ラヴェル《ラ・ヴァルス》
江戸京子(Pf.)
11月N響第434回定期公演が新聞批評に酷評される
11月16日にN響の演奏委員会が「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明する。それは新聞に報じられ、征爾はマスコミに追われるようになった。世間の顰蹙を買い、電車に乗っていても変な目で見られた。
事態を収拾するため、征爾をN響指揮者に推薦してくれたNHKの細野プロデューサーが『病気になったことにして、12月の定期演奏会をキャンセルすればいい』と言ってくれた。征爾は嘘をつくのもおかしな話だと考え、今後の演奏会の保証をしてもらうための覚書をNHK会長宛に送ったが、受け入れられず、12月の定期は中止と伝えられた。
12月4日N響定期公演に向けリハーサルを開始するが、楽員のボイコットで練習不能に。
結局、同11日から三日間にわたり東京・上野の東京文化会館で行う予定だった定期演奏会は中止に。征爾は楽団員が来るはずのない会場に一人、足を運んだ。楽屋口は記者で騒然としていたが、舞台にも客席にも人はいなかった。N響の指揮者として契約をしていた征爾の矜持だった。この騒動で征爾は精神的に滅茶苦茶にされ、泣き、悔しかった。
12月18日にNHK交響楽団を契約不履行と名誉棄損で訴えるまで発展
12月20日N饗第435回定期公演は中止と発表された。小澤は契約通り上野の東京文化会館の会場に向かった。やがて開演時刻となり指揮台に立ったが、そこには楽員も聴衆もいない。
↓内幸町旧NHKホールステージ
12月21日新聞は社会面に「天才は独りぽっち」とか「指揮台にポツン」と報道した
征爾とNHKは折衝を重ねたが折り合わず、N響は征爾に内容証明郵便を送り付けた。世間では「NHK事件」という。
・征爾は日本と"決別"する形で再び海を渡った。その後、米国を軸に海外に活躍の場を求め、その名声を高めていった。N響と「雪解け」したのは三十二年の歳月を経た1995年1月吉田秀和氏たちの仲介でN響と和解が成立した。東京・赤坂のサントリーホールでの演奏会となった。
・その事件後、「小澤征爾の音楽を聴く会」の発起人に井上靖、三島由紀夫、大江健三郎、黛敏郎、團伊玖磨、武満徹、石原慎太郎、一柳慧、中島健三、浅利慶太等、音楽に関係のない人たちも大勢いた。演奏は日本フィルハーモニー交響楽団。ヨーロッパ行きで世話になった水野成夫が作ったオーケストラだった。征爾は言う『苦境を支えてくれたこの人たちのことを、僕は一生忘れない』
・N響とのトラブル後、ニューヨークに戻った征爾は、マネージャーのロナルド・ウィルホードにきっぱり『オレ、もう日本になんか帰らないよ』といった。
のちに征爾は何かのインタビューで『僕は、あのことがあったので、日本にいられなくなり、外国に行き、良かったのだけれど』と、事件を振り返って、現在の結果に結びついたのだと、強く語った。
<下、ヤング・ピープルズ・コンサート: Young Performers No. 3 小澤征爾 / · Bernstein レナード・バーンスタイン · New York Philharmonic>
Original CBS Television Network Broadcast Date: 14 April 1962.
1963年(昭和38年)28歳
1月15日<小澤征爾の音楽を聴く会>が日比谷公会堂で開催され、小澤は日本フィルハーモニー交響楽団を指揮した
発起人には、浅利慶太・石原慎太郎・一柳慧・井上靖・大江健三郎・武満徹・團伊玖磨・中島健蔵・黛敏郎・三島由紀夫等
1月16日朝日新聞朝刊は三島由紀夫の「熱狂にこたえる道ー小澤征爾の音楽を聴いて」を掲載し注目を集めた
1月17日音楽評論家/吉田秀和や黛敏郎等の仲介により、NHK副理事長の阿部真之助と小澤が会談し、NHKと和解成立したが、のちに小澤は胸中を『精神的には滅茶苦茶にやられた。泣いたし、悔しかった。苦境を支えてくれたこの人たちのことを、ぼくは一生忘れない』と述べている
・日本フィル首席指揮者就任した。
6月ラビニア音楽祭に参加。
7月コロンビア・アーティスト・マネジメントとマネジメント契約。
7月シカゴ、ラヴィニア音楽祭で肩を痛めたジョルジュ・プレートルの代役として急遽出演しドボルジャーク《新世界より》をシカゴ交響楽団を指揮し称賛を収めた
7月9日<ニューヨーク・フィル公演>ニューヨーク、ルイソーン・スタジアムでベルリオーズ《幻想交響曲》等を指揮
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7月10日<ニューヨーク・フィル公演>ニューヨーク、ルイソーン・スタジアムでチャイコフスキー《交響曲第四番》を指揮
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8月29日<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)> ハリウッド・ボウル、ハリウッド、カリフォルニアでリスト《ピアノ協奏曲第一番》等を指揮
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9月5日<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)> オーディトリアム・アリーナ、デンバー、コロラド州でストラヴィンスキー《火の鳥》組曲等を指揮
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9月6日<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)> テンプル オブ ミュージック、ウィスコンシン州ミルウォーキー
ストラヴィンスキー《火の鳥》組曲等を指揮
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9月8日at 2;15PM<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)> オペラハウス、シカゴ、イリノイ州
リスト《ピアノ協奏曲 第一番》変ホ長調等を指揮
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9月8日at 8;15PM<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)> オペラハウス、シカゴ、イリノイ州
ストラヴィンスキー《火の鳥》組曲等を指揮
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9月12日<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)> フリーメーソン オーディトリアム、デトロイト、ミシガン州
ストラヴィンスキー《火の鳥》組曲を指揮ク
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9月15日<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)> シビック・アリーナ、ピッツバーグ、ペンシルベニア州
ストラヴィンスキー《火の鳥》組曲を指揮
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9月16日<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)> アカデミー・オブ・ミュージック、ペンシルバニア州フィラデルフィア
シューマン《交響曲第三番》を指揮
1963 Sep 16 / Tour / Bernstein Schuman / Symphony No. 3 Ozawa, Seiji
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9月19日<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)> ラジャ・シアター、レディング、ペンシルベニア州
ドビュッシー:管弦楽のための映像より《イベリア》 or チャイコフスキー:幻想曲《フランチェスカ・ダ・リミニ》を指揮
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9月20日<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)> シビック センター、ボルチモア、メリーランド州
ストラヴィンスキー《火の鳥》組曲(1919 version)を指揮
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9月22日<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)> コンスティテューション・ホール、ワシントン DC
リスト《ピアノ協奏曲 第一番》変ホ長調を指揮
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10月東京・日生劇場のこけら落としのベルリン・ドイツ・オペラの《フィデリオ》公演でカール・ベームの副指揮者を務めた
<下、What’s My Line? – Seiji Ozawa (1963, TV Show)>
1964年(昭和39年)29歳
1月7日客演指揮者としてトロント交響楽団を初指揮
4月24日 日本フィル / 第83回東京定期演奏会 東京文化会館で指揮
モーツァルト《交響曲第四十一番 》「ジュピター」/武満 徹《弦楽のためのレクイエム》/チャイコフスキー《交響曲第五番》
5月15日 日本フィル / 第84回東京定期演奏会 東京文化会館で指揮
チャイコフスキーの幻想曲《フランチェスカ・ダ・リミニ》ほか
6月シカゴ交響楽団(指揮者はジャン・マルティノン)によるラヴィニア音楽祭の指揮者が急病により辞退を受け急遽、ニューヨークにいた征爾が開催数日前に招聘され夏の間、シカゴ交響楽団のラビニア・フェスティバル音楽監督に就任(1968年まで)した。音楽監督として音楽祭を成功に収め、小澤の名声は全米に知れ渡った。
・シカゴ交響楽団とはRCAレーベル、EMIレーベルに複数の録音を残すことになる
8月16日にタングルウッドでボストン交響楽団に初めて客演指揮としてデビューする。プログラムにはビゼー《ハ長調交響曲》、ヒンデミット《マティス・デア・マーラー》、ムソルグスキー《展覧会の絵》。彼は1965年、1966年、1967年の夏のシーズン中に再出演を果たした。
・シカゴ交響楽団ラヴィニア音楽祭の芸術監督に就任(1968年まで)。
9月8日 日本フィル / 第88回東京定期演奏会 / 東京文化会で指揮
ベルリオーズの序曲《ローマの謝肉祭》 op.9/ショーソン《詩曲》/サン=サーンス《序奏とロンド・カプリチオーソ》 /フランク《交響曲 ニ短調》
石井志都子(Vn.)
9月バーンスタインの長期休暇によりニューヨーク・フィルの指揮を務めた(1964年9月-1965年4月)
10月8日~11月28日日本フィルハーモニー交響楽団第1回北米公演。リンカーン・センター(ニューヨーク)をはじめ、31都市で34公演。渡邉曉雄、奥田道昭、江藤俊哉のほか、現地で小澤征爾が合流した。アイザック・スターンも出演。『ニューヨーク・タイムズ』が「世界に通じる専門家のグル一プ」と絶賛。
1965年(昭和40年)30歳
3月ロンドン交響楽団を指揮して英国デビュー
ベートヴェン《交響曲第一番》/ベルリオーズ《幻想交響曲》ほか
9月カナダ、トロント交響楽団常任指揮者・音楽監督に就任(1965-1969年)
・ロンドン、英連邦芸術祭にトロント交響楽団を率いて参加
10月1日ロンドン、ロイヤル・フェスティバルホール(プロムス)
モーツァルト:オペラ《後宮からの誘拐》序曲/チャイコフスキー《交響曲第五番》ホ短調
小澤征爾指揮トロント交響楽団
12月征爾両親をトロントに招んだ。父開作にとっては、昔の中国以来の海外であった。
・母さくらは語る『征爾も初めて私たちを連れて来たので、みんなに紹介したかったんでしょうね。ある日私に、”家でパーティやっていいか"と征爾が言うので"いいわよ"と言うと、征爾はすぐに電話で三十人ほどに声をかけたら、全員が来るという返事。そこで私たち三人で買い物に行き、天ぷらの材料とかお酒などをいろいろ買ってきました。私が和服に割烹着をつけて天ぷらをあげてるところにお客さんがやってきて、"セイジのお母さん!"と派手に抱きついたり大変でした。征爾は一人でお客さんのお酒の注文やおかわりをサービスしてとてもうれしそうでした。』
12月22,23,24日ベートヴェン《交響曲第九番》 東京文化会館大ホール、日本フィルハーモニー交響楽団を指揮
12月25日ベートーヴェン《交響曲第九番》 日本武道館、日本フィルハーモニー交響楽団を指揮
1966年(昭和41年)31歳
4月20日日本フィルハーモニー交響楽団第119回定期。小澤征爾指揮
オネゲル:オラトリオ《火刑台上のジャンヌ・ダルク》 東京文化会館 日本フィルハーモニー交響楽団を指揮
・ウィ-ン交響楽団を指揮して、ウィーンおよぼムジークフェラインにデビュー。
・ザルツブルグ音楽祭でウィーン・フィルを初指揮してザルツブルグ音楽音楽祭デビューした。
8月京子夫人と離婚
9月ベルリン・フィル定期演奏会に初登場し、ヒンデミット《画家マチス》ほか、ベルリン・フィルを指揮してデビュー
12月1-3日ベルリオーズ《幻想交響曲》トロント交響楽団を指揮して録音。トロント、マッセイ・ホール
12月26日日本フィル第131回東京定期演奏会で指揮 東京文化会館
ベルリオーズ《死者のための大ミサ曲/レクイエム》 op.5(日本初演)
合唱:東京混声合唱団 合唱:東京放送合唱団 合唱:二期会合唱団 合唱:日本合唱協会 合唱:藤原歌劇団合唱部
↓レスピーギ:交響詩「ローマの松」Ⅳ:アッピア街道の松
【指揮】小澤征爾 Seiji OZAWA. Canada Toronto Symphony
1967年(昭和42年)32歳
3月9日トロントでトロント交響楽団を指揮、この演奏は後に CBC テレビで放送された。
ザルツブルグ音楽祭でカラヤンのアシスタントを務めオペラを勉強
9月7日<民音定期演奏会> 日比谷公会堂
ベルリオーズ《幻想交響曲》ほか日本フィルハーモニー交響楽団を指揮
11月9日「ニューヨーク・フィル創立125周年記念」で武満徹の《ノヴェンバー・ステップス》をニューヨーク・リンカーン・センターのフィルハーモニック・ホール(デイヴィッド・ゲフィン・ホール)において初演した。鶴田錦史と横山勝也のソロ、ニューヨーク・フィルハーモニックにより演奏された。この初演は大成功を収め、武満の名が世界に知られる契機となった。小澤征爾によると、会場にはレナード・バーンスタインの他に、アーロン・コープランドやクシシュトフ・ペンデレツキらも同席していたという。バーンスタインは涙を流しながら「これは強い生命の音楽だ」と絶賛したという。
12月23日日本フィル第151回東京定期演奏会 東京文化会館
ブラームス《交響曲第二番 ニ長調》 op.73/武満 徹《樹の曲》ほか
12月28日成城学園創立50周年記念音楽会 東京厚生年金会館
ハイドン《四季》
指揮:小澤征爾/日本フィルハーモニー
↓Ozawa conducts Berlioz: Symphonie fantastique – First Movement [Part 1/7]
Seiji Ozawa, conductor Toronto Symphony
Recorded in 1967.
1968年(昭和43年)33歳
1月26日シンフォニーホールで初のBSOコンサートを指揮した。プログラムには、グルック《ヨアヒムの音楽》のほか、バーンスタイン《交響曲第2番》「不安の時代」、ラヴェル《ダフニスとクロエ》第2組曲。翌週、彼は同じプログラムをハートフォード、ニューヨーク、ブルックリンで指揮した。
・日本フィル首席指揮者就任。
・入江美樹と結婚
7月ザルツブルク音楽祭でカラヤン指揮のオペラ《ドン・ジョヴァンニ》のアシスタントを務め、シンフォニーとオペラは車の両輪、どちらも必要と助言をうけた。ミレッラ・フレーニからチャイコフスキーのオペラを指揮するよう勧められた。
9月3日日本フィル第164回東京定期演奏会を指揮 東京文化会館で指揮
ベートーヴェン《ピアノ協奏曲第三番 ハ短調》/ベートーヴェン《交響曲第四番 変ロ長調》/ベートーヴェン《合唱幻想曲 ハ短調》
ピアノ:松浦豊明 ソプラノ:佐野順子 ソプラノ:大川隆子 アルト:宮崎博子 テノール:唐津東流 テノール:山形忠顕 バス:木村俊光 合唱:都民合唱団 合唱:三友合唱団
12月25日日本フィル第171回東京定期演奏会 東京文化会館で指揮
ベートーヴェン《交響曲第九番》ニ短調 op.125「合唱」
ソプラノ:斎藤江美子 アルト:木村宏子 テノール:鈴木寛一 バリトン:川村英司
合唱:藤原歌劇団合唱部 合唱:東京混声合唱団 合唱:二期会合唱団 合唱:日本合唱協会 合唱:東京カンマー・コーア
1969年(昭和44年)34歳
・渡邊暁雄の後をうけ日本フィルの首席指揮者兼ミュージカル・アドヴァイザーに就任した征爾は、この年トロント響音楽監督最後の年度であった。征爾は桐朋の後輩秋山和慶をトロント響の副指揮者に呼んでいた。
・メシアン《トゥーランガリラ交響曲》トロント交響楽団のアルバムがグラミー賞のクラシック部門「ベスト・オペラ・レコーディング」にノミネートされた。
・小澤征爾はボストン交響楽団の客演指揮者として、オルフ《カルミナ・ブラーナ》、ストラヴィンスキー《「ペトルーシュカ》、ストラヴィンスキー《火の鳥組曲》をシンフォニーホールでボストン交響楽団とRCAビクター・レーベルに初録音した。
2-3がつニューヨーク・フィルの定期演奏会を四週間にわたり指揮した。
4月トロント交響楽団を率いて帰国
・ザルツブルク音楽祭でモーツァルトのオペラ《コジ・ファン・トゥッテ》を指揮してオペラ・デビューを果たした。
5月21日 日本フィル第180回東京定期演奏会 東京文化会館で指揮
モーツァルトのオペラ《コジ・ファン・トゥッテ》 K.588 (演奏会形式)
ソプラノ:林 康子 メゾソプラノ:木村宏子 バリトン:平野忠彦 テノール:中村 健
ソプラノ:安田祥子 バス:佐藤征一郎 チェンバロ:小林道夫 合唱:東京混声合唱団
5月28日 日本フィル第181回東京定期演奏会 1969年05月28日 東京文化会館で指揮
G. ガブリエリ《ピアノとフォルテのソナタ》
高橋悠治《オルフィカ》 (日本フィル・シリーズ第21作)
マーラー《交響曲第一番 ニ長調》「巨人」
6月シカゴ響と録音。ロンドンでニュー・フィルハーモニア管の客演指揮。
・夏、ザルツブルク音楽祭にカラヤンの推薦を受けオペラ《コジ・ファン・トゥッテ》を指揮するために、ラヴィニア音楽祭の音楽監督ポストを返上したが、首席指揮者としてその後の六公演に登場。
8月末から9月中旬過ぎまでニューヨーク・フィルのアメリカ横断ツアーで十都市で十七公演を指揮した。
9月23日ニューヨーク・フィルのシーズン・オープニング・ナイトを指揮し、その後六週間10月末まで同フィルを振り続けた。
11月クリーヴランド管弦楽団の定期演奏会で指揮。
12月11日 日本フィル第190回東京定期演奏会 東京文化会館で指揮
武満 徹:《グリーン》
バルトーク《管弦楽のための協奏曲》 Sz.116
チャイコフスキー《交響曲第一番ト短調》 op.13 《冬の日の幻想》
12月18日日本フィルハーモニー交響楽団第191回定期。小澤征爾指揮 東京文化会館
ベートーヴェン《ミサ・ソレムニス》
ソプラノ:伊藤京子 アルト:戸田敏子
テノール:藤沼昭彦 バリトン:芳野靖夫
合唱:東京混声合唱団 合唱:東京放送合唱団
合唱:二期会合唱団 合唱:日本合唱協会
12月パリ管弦楽団の定期演奏会を初指揮
1970年35歳
・父小澤開作の急逝(1979年11月21日)
1月16日日本フィルハーモニー交響楽団第192回東京定期演奏会 東京文化会館
バーンスタイン:チチェスター詩篇 (日本初演)/バーンスタイン:交響曲第3番《カディッシュ》(日本初演)ほか指揮
1月27日日本フィルハーモニー交響楽団第193回東京定期演奏会 東京文化会館
ストラヴィンスキー:バレエ音楽《春の祭典》ほかを指揮
5月小澤征爾は、タングルウッド音楽センター所長のギュンター・シュラーと総合顧問のレナード・バーンスタインとともに、ボストン交響楽団のバークシャー音楽祭(タングルウッド)の芸術顧問に任命された(1970~2002年)。以降、ボストン交響楽団との親交が深まる。
・ニューヨーク・フィルの大阪万博出演でバーンスタインと同行して帰国
6月ベルリン・フィル定期演奏会を指揮して、日本へ帰国。
6月11日日本フィルハーモニー交響楽団第202回東京定期演奏会 東京文化会館
篠原 眞:オーケストラのための《ヴィジョンⅡ》 (日本フィル・シリーズ第22作)
ヤナーチェク《シンフォニエッタ》
ブルックナー《交響曲第四番》 変ホ長調 WAB104「ロマンティック」を指揮
6月17日日本フィルハーモニー交響楽団第203回東京定期演奏会 東京文化会館
マーラー《交響曲第八番》変ホ長調 「千人の交響曲」指揮
8月31日<ニューヨーク・フィル日本ツアー> フェスティバルホール、大阪
メンデルスゾーン《交響曲第四番》op.90「イタリア」
武満徹《ノヴェンバー ステップス》No.1 鶴田錦史(琵琶)、横山 勝也(尺八)
ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲《展覧会の絵》等を指揮
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9月8日<ニューヨーク・フィル/日本ツアー> 東京文化会館
メンデルスゾーン《交響曲第四番》op.90「イタリア」
武満徹《ノヴェンバー ステップス》No.1 鶴田錦史(琵琶)、横山 勝也(尺八)
ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲《展覧会の絵》等を指揮
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9月10日<ニューヨーク・フィル/日本ツアー> 富士学園ホール、札幌
メンデルスゾーン《交響曲第四番》op.90「イタリア」
武満徹《ノヴェンバー ステップス》No.1 鶴田錦史(琵琶)、横山 勝也(尺八)
ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲《展覧会の絵》等を指揮
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9月16,17日 ウィリアム ニール レイノルズ コロシアム、ノースカロライナ州ローリー
メンデルスゾーン《交響曲第四番》op.90「イタリア」
アーロン・コープランド《クラリネット協奏曲》 (スタンリー・ドラッカー)
ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲《展覧会の絵》
指揮:小澤征爾/ニューヨーク・フィルハーモニック
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9月18日 シビック センター、アトランタ、ジョージア州
メンデルスゾーン《交響曲第四番》op.90「イタリア」
アーロン・コープランド《クラリネット協奏曲》 (スタンリー・ドラッカー)
ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲《展覧会の絵》
指揮:小澤征爾/ニューヨーク・フィルハーモニック
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9月19日 グリーンビル・メモリアル・オーディトリアム ・、サウスカロライナ州グリーンビル郡
メンデルスゾーン《交響曲第四番》op.90「イタリア」
アーロン・コープランド《クラリネット協奏曲》 (スタンリー・ドラッカー)
ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲《展覧会の絵》
指揮:小澤征爾/ニューヨーク・フィルハーモニック
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9月20日 オーブンズ・オーディトリアム、ノースカロライナ州シャーロット
メンデルスゾーン《交響曲第四番》op.90「イタリア」
アーロン・コープランド《クラリネット協奏曲》 (スタンリー・ドラッカー)
ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲《展覧会の絵》
指揮:小澤征爾/ニューヨーク・フィルハーモニック
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12月サンフランシスコ交響楽団指揮者・音楽監督就任(1970年12月~1976年)
12月2日サンフランシスコ交響楽団シーズン・オープニング・コンサートをウォー・メモリアル・オペラで指揮。
1971年(昭和46年))36歳
・ヤナーチェク《シンフォニエッ》/ヴィトルト・ルトスワフスキ《管弦楽のための協奏曲》シカゴ交響楽団とオルフ《カルミナ・ブラーナ》ベルリン・フィルのアルバムがグラミー賞のクラシック部門「ベスト・オペラ・レコーディング」にノミネートされた。
・サンフランシスコ大学から芸術博士名誉学位を贈られる
6月9日日本フィルハーモニー交響楽団第222回定期演奏会 日比谷公会堂
ヴェルディ《レクイエム》
ソプラノ:平田恭子 メゾソプラノ:荒 道子
テノール:丹羽勝海 バリトン:芳野靖夫
合唱:成城合唱団 合唱:東京混声合唱団
6月23日日本フィルハーモニー交響楽団<第223回定期演奏会> 日比谷公会堂
石井眞木:雅楽とオーケストラのための《遭遇Ⅱ番》 op.19 (日本フィル・シリーズ第23作)
ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番 ト短調 op.26
ベルリオーズ:交響曲《イタリアのハロルド》 op.16
指揮:小澤征爾
笙:多忠磨、鶴川滋、豊英秋
篳篥:東儀博 竜笛:芝 祐靖
びわ:上近 正 箏:東儀俊美
鞨鼓:東儀信太郎 太鼓・三ノ鼓:林 広一
鉦鼓:大窪永夫
ヴァイオリン:潮田益子
ヴィオラ:イツァーク・ショッテン
9月10日日本フィルハーモニー交響楽団<第224回定期演奏会>
小澤征爾指揮でベルリオーズ《ファウストの劫罰》 東京文化会館
指揮:小澤征爾
ソプラノ:大川隆子 テノール:五十嵐喜芳
バリトン:栗林義信 バス:村本和修
合唱:日本プロ合唱団連合
合唱:東京放送児童合唱団
9月27日日本フィルハーモニー交響楽団第225回定期演奏会 東京文化会館
ベルリオーズ:幻想交響曲 op.14
ベルリオーズ:レリオ op.14b (日本初演)
指揮:小澤征爾
ナビゲーター:佐藤 功
テノール:中村 健
バリトン:平野忠彦
合唱:日本プロ合唱団連合
1972年(昭和47年)37歳
・日本芸術院賞受賞
2月小澤征爾、ボストン交響楽団の1972-73シーズンの音楽顧問に任命された。翌1973-74シーズンから音楽監督に就任する。
2月28日日本フィルハーモニー交響楽団<第235回定期演奏会>
モーツァルト《13管楽器のためのセレナード》 変ロ長調 「グラン・パルティータ」 変ロ長調 K.361
ベルリオーズ《テ・デウム》 op.22 (日本初演)
指揮:小澤征爾
テノール:宮本正 オルガン:酒井多賀志
合唱:日本プロ合唱連合
合唱:東京放送児童合唱団
3月6日日本フィルハーモニー交響楽団<第236回定期演奏会>
ハイドン《交響曲第47番 ト長調 Hob.I:47 (日本初演)
ハイドン:チェロ協奏曲第1番 ハ長調 Hob.VIIb:1
チャイコフスキー:ロココ風の主題による変奏曲 イ長調 op.33
バルトーク:バレエ音楽《中国の不思議な役人》 Sz.73
チェロ:ピエール・フルニエ
6月6日日本フィルハーモニー交響楽団第242回定期演奏会 東京文化会館
ベルリオーズ:劇的交響曲《ロメオとジュリエット》 op.17
指揮:小澤征爾
アルト:荒 道子 テノール:鈴木寛一
バリトン:高橋修一
合唱:日本プロ合唱団連合
6月16日日本フィルハーモニー交響楽団<第243回定期演奏会> 東京文化会館
日本フィルハーモニー交響楽団解散のため東京では、ラストコンサートになった
マーラー《交響曲第ニ番》ハ短調「復活」
指揮:小澤征爾
メゾソプラノ:小池容子 アルト:荒 道子
合唱:日本プロ合唱団連合
6月<日本フィルハーモニー交響楽団・ラストコンサート> 川崎産業文化会館
フジ・サンケイグループからの日本フィルハーモニー交響楽団解散と楽員解雇のため、ラストコンサートになった
マーラー《交響曲第ニ番》ハ短調「復活」
メゾソプラノ:小池容子 アルト:荒 道子
合唱:日本プロ合唱団連合
指揮:小澤征爾
7月1日新日本フィルハーモニ交響楽団を創立。斉藤秀雄、山本直純、横山幸雄、手塚幸紀や労組に加わらず旧日本フィルを脱退した楽団員が参加した。指揮者団には斎藤秀雄(顧問)、小沢征爾(首席)、山本直純(団幹事)、横山幸雄、手塚幸紀の顔ぶれとなった。
9月15日新日本フィルハーモニ交響楽団<結成演奏会>出演
ベルリオーズ《ローマの謝肉祭》序曲
ラヴェル《マ・メール・ロア》組曲
ベートーヴェン《交響曲第三番》「英雄」
小澤征爾:指揮
9月22日新日本フィルハーモニ交響楽団<第一回定期演奏会>出演 東京文化会館
ハイドン《交響曲第60番》ハ長調
ハイドン《協奏交響曲》変ロ長調
ハイドン《チェロ協奏曲》ニ長調 岩崎洸(チェロ)
ハイドン《テ・デウム》 日本プロ合唱団連合(合唱)
小澤征爾:指揮
10月1日<オーケストラがやって来た>出演 東京文化会館
72/73シーズン、ボストン交響楽団 音楽顧問を務める
12月22日新日本フィルハーモニ交響楽団<第四回定期演奏会>出演 東京文化会館
ハイドン《オラトリオ》
藤本章子(S.)/田中路子(A.)/田原祥一郎(T.)/齋 求(Bs.)
合唱:成城合唱団/宗教音楽研究会
小澤征爾:指揮
12月27日新日本フィルハーモニ交響楽団<特別演奏会>出演 東京文化会館
ベートーヴェン《第九》
曽我栄子(S.)/荘智世恵(A.)/田口興輔(T.)・岡村喬生(Bs.)/日本プロ合唱団(合唱)
小澤征爾:指揮
註:<日本フィルハーモニー交響楽団解散と新日本フィルハーモニ交響楽団創立までの経緯>
【山本直純や首席指揮者小澤征爾が指揮していた日本フィルハーモニー交響楽団は、三月末を以てフジテレビと文化放送との「雇用契約」を終了することになる。
六月に両社がオーケストラの解散と楽団員の全員解雇を通告をし、財団法人としての日本フィルハーモニー交響楽団は、その年の六月末を以て解散に追い込まれた。
当時の首席指揮者だった小澤征爾は解散阻止のため昭和天皇への直訴までした。日本フィルは二つに分裂した。組合派の団員はとどまって自主的な演奏活動を行い、解雇を不当として裁判所に訴えた。そうして以後十二年間もの裁判闘争が続いた。
当時の事を小澤征爾は語る『 新日本フィルを立ち上げるために、今じゃ信じられないけど、ぼくと直純の二人でお金を集めに行ったんです。ない知恵を絞って、佐藤栄作首相のお宅に直接行った。何であんなことやったんだかわからないんだけど、とにかく必死だったんだね。そうしたらなんと会ってくれた。しかもその場で自転車振興会と船舶振興会の両方に電話してくれて、あっという間に両方からお金が出ることが決まった。それが今の日本交響楽振興財団の出発なんです。そういうお金の集めも、彼はうまかった。佐藤さんの前でも、ぼくは何をしゃべっていいかわからないのに、直純は一生懸命しゃべっていて、すごいなと感心しながら見ていました 』。
一方、ストライキに参加しなかった十数名は山本や征爾と共に新しいオーケストラに参加した。また、山本直純が、征爾に” どうする ”と聞いた時、征爾が” 誰々を押さえてくれ ”と言った、その彼らも団員として新日本に参加した。山本は征爾とともに新日本フィルハーモニー交響楽団の設立に走り斉藤秀雄を顧問に、斉藤の指示で山本は指揮者団幹事に、小澤は首席指揮者に就任した。指揮団には斎藤秀雄(顧問)、小澤征爾(首席)、山本直純(幹事)、横山幸雄、手塚幸紀がなった。山本は語る、『 始めてから三年くらいは、全員が月給五万円だった。みんなでいくつかの仕事をこなしてどうにか食いつないでいたという。その後も山本は、団幹事として新日本フィルの楽団員たちの生活をどう食べさせていくか、四苦八苦していた。とにかくやらねばと、仕事探しに奔走していた。』『 団幹事となったボクは、オーケストラの仕事があまり食えないのに愕然とした。オーケストラはどんなにいっぱいになっても、二千五百人のホールぐらいしか音響効果で使えない。それで入場料が千円だったら二百五十万円。ホールに半分払って百二十五万円。ちょっと大きなオーケストラは百三十人いるから、ひとり一万円の収入にもならない。みんなで、いくつかの仕事をこなしてどうにか食いつないでいた。 』。『 オーケストラの魅力といったものをボクなりに本を書こうと思った。それが「オーケストラがやって来た」という本だ。それと同時にテレビ番組にすることを考え付いた。どんな番組にするかと考え、電電公社の専務理事をされてる遠藤正介(作家の遠藤周作の兄)に相談した。その肝いりで番組が実現した。同年10月1日<オーケストラがやって来た>が始まった。会場は東京文化会館。
オープニングで演奏されていたテーマ音楽の原曲は、ヨハン・シュトラウス2世の「常動曲」(無窮動)。曲終盤のホルンが吹かれる箇所に入るとホルンが吹く「ドーミーレーファーミーソーレーー、ソーミーファーレーミードーレーー」のモチーフが番組タイトルのことばのリズムに似ていることから、その箇所に来ると指揮者が客席を向いて歌詞「オーケスートラーがーやーてーきたーー、オーケスートラーがーやーてーきたーー」をステージと客席とで一緒に合唱し番組が開始された。山本直純が考えたクラシック音楽を初心者でも楽しんでもらえるように、ユーモアを交えた解説を展開したことで、その後日本中で知られるようになって行った。番組には数多くの著名な音楽家たちが出演した。演奏は、主に新日本フィルハーモニー交響楽団が行っていた。番組の演出は、TBS出身の映画監督でオペラ演出やクラシック音楽関連のエッセイも多い実相寺昭雄がしばしば担当していた。
11月新日本フィルハーモニ交響楽団<第三回定期演奏会>の指揮は斉藤秀雄に依頼してあったが、教育最優先と言って断り、斉藤秀雄がナオズミに言った”俺が信用できる奴は、今の日本にお前しかいない。最近の指揮ぶりは見ていないが、山本、お前はその気になれば出来る男だ!”と言ったことでナオズミの指揮により行われた。
1973年(昭和48年)38歳
2月23日新日本フィルを指揮 東京文化会館
チャイコフスキー《交響曲第六番ロ短調》 作品74「悲愴」ほか
指揮:小澤征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団
新日本フィルを率いて香港公演
9月73/74シーズンよりボストン交響楽団第13代指揮者・音楽監督に就任(1973~2002年)
9月28日ボストン交響楽団の第13代音楽監督として初めてベルリオーズ《ファウストの劫罰》を指揮する。2週間後、彼は同じ曲でBSOでカーネギーホールデビューを果たした。同作品はドイツ・グラモフォンに録音されており、小澤征爾にとって音楽監督としての初録音であり、初のグラミー賞ノミネートとなった。
12月14日 大阪フェスティバルホール
R・シュトラウス:交響詩《ドン・キホーテ》/ラヴェル《ダフニスとクロエ》第2組曲
小澤征爾:指揮/桐朋学園オーケストラ
1974年(昭和49年)39歳
・ベルリオーズ:《幻想交響曲》ボストン交響楽団のアルバムがグラミー賞のクラシック部門「ベスト・オペラ・レコーディング」にノミネートされた。
・新日本フィルを率いてニューヨーク国連本部での「国連デー」で演奏、アメリカおよび欧州で公演
・イギリス、ロイヤル・オペラチャイコフスキーのオペラ《エフゲニー・オネーギン》指揮してデビュー。共演はミレッラ・フレーニ。
・WGBH-TVがPBS全国放送向けに制作したオーケストラのテレビコンサートシリーズ「イブニング・アット・シンフォニー」が開始された。このシリーズは、1976 年に小澤征爾に音楽監督における傑出した功績を讃えてエミー賞を受賞することになった。
1975年(昭和50年)40歳
小澤征爾がボストン交響楽団と初の米国ツアーを行い、デトロイト、アナーバー(ミシガン州)、インディアナポリス、ブルーミントン(インディアナ州)、シカゴ、ウィートン(イリノイ州)、アイオワシティで演奏。
・サンフランシスコ響を率いて帰国
1976年(昭和51年)41歳
・ベルリオーズ《ファウストの劫罰》ボストン交響楽団のアルバムがグラミー賞のクラシック部門「ベスト・オペラ・レコーディング」にノミネートされた。
・サンフランシスコ響音楽アドヴァイザー就任(1976~77年)
・小澤征爾がボストン交響楽団と初の海外ツアーを行い、アムステルダム、ブリュッセル、ウィーン、リンツ、ミュンヘン、ベルリン、ハンブルク、ロンドン、ボン、ハノーファー、パリの聴衆の前で演奏する。
・同年、ボストン交響楽団のTV番組がエミー賞を受賞
6月14日<新日本フィルハーモニー交響楽団第40回定期演奏会>を指揮 東京文化会館
ストラヴィンスキ《詩篇交響曲》
モーツァルト《レクイエム》 K.626
中沢 桂(ソプラノ)
春日 成子(アルト)
鈴木 寛一(テノール)
高橋 大海(バス)
合唱:成城合唱団
指揮:小澤 征爾/ 新日本フィルハーモニー交響楽団
9月9日<新日本フィルハーモニー交響楽団 第41回定期演奏会>を指揮 東京文化会館
ペンデレツキ《広島の犠牲への哀歌》
メノッティ《チェロ協奏曲》 日本初演
チャイコフスキー《交響曲第二番ハ短調》作品17「小ロシア」
チェロ:ローレンス・レッサー
指揮:小澤 征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団
サンフランシスコ交響楽団の音楽アドヴァイザーーに就任。
12月25日<新日本フィルハーモニー交響楽団 第44回定期演奏会> を指揮 東京文化会館
マーラー《交響曲》「大地の歌」
石井 真木《モノプリズム》―日本太鼓群とオーケストラのための― 日本初演
第1部 ―プレリュード「序」―
第2部 ―モノプリズム―
春日 成子(ソプラノ)
五十嵐 喜芳(テノール)
指揮:小澤 征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団, 鬼太鼓座(おんでこざ)
12月27日<ベートーヴェン:第九交響曲演奏会> を指揮 東京文化会館
ベートーヴェン《交響曲第九番ニ短調》作品125「合唱つき」
平田 恭子(ソプラノ)
大藤 裕子(アルト)
田口 興輔(テノール)
高橋 大海(バス)
指揮:小澤 征爾/合唱:日本プロ合唱団連合/新日本フィルハーモニー交響楽団
1977年(昭和52年)42歳
小澤征爾とBSOによるドイツ・グラモフォンでのベルリオーズ《ロミオとジュリエット》の録音がグランプリ・デュ・ディスク賞を受賞。
11月5日カトリック東京第司教区主催 東京カテドラル
指揮:小澤征爾
演奏:新日本フィルハーモニ
合唱:成城合唱団メンバー有志
11月7日<新日本フィルハーモニー交響楽団 第53回定期演奏会> を指揮 東京文化会館
武満 徹《秋》―琵琶、尺八と管弦楽のための
フォーレ《レクイエム》
琵琶:鶴田 錦史
尺八:横山 勝也
オルガン:志村 拓生
独唱:常森 寿子・木村 俊光
合唱:成城合唱団/合唱指揮:宮本 昭嘉
指揮:小澤 征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団
1978年(昭和53年)43歳
3月小澤征爾がボストン響を率いて帰国。ボストン交響楽団日本公演開催。福岡、小倉、広島、大阪、京都、穴沢、名古屋、横浜、東京(普門館、東京文化会館)でコンサートを開催する。BSOの日本訪問は1960年にシャルル・ミュンシュが率いて以来2回目となった。
・征爾は中国政府から正式に招待され、中国中央交響楽団と1週間共演した。オーケストラの演奏に加えて、彼は中国の音楽家とのディスカッションや指導セッションを通じて、重要な文化的および音楽的交流を促進しました。以来、同氏は中国との強固な関係を築き続けた。
6月1日<新日本フィルハーモニー交響楽団演奏会> 東京文化会館
モーツァルト歌劇《魔笛》序曲
シューベルト《交響曲第八番ロ短調》「未完成」
リムスキー=コルサコフ《交響組曲》「シェエラザード」
指揮:小澤/征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団/ヴァイオリン:瀬戸 瑤子
6月2日<新日本フィルハーモニー交響楽団演奏会> 東京文化会館
湯浅 譲二《オーケストラの時の時》
リムスキー=コルサコフ《交響組曲》「シェエラザード」作品35
指揮:小澤/征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団/独奏:瀬戸 瑤子
6月中国人民対外友好協会の公式な翔太により中国中央楽団と一週間にわたり客演指揮
6月26日-27日<民音演奏会> 日比谷公会堂
ベルリオーズ《幻想交響曲》ほか 演奏:新日本フィルハーモニ交響楽団
9月18日<新日本フィルハーモニー交響楽団演奏会> 東京厚生年金会館
ベートーヴェン《レオノーレ序曲第ニ番》/ ベートーヴェン《ピアノ協奏曲第四番》/ベートーヴェン/交響曲第7番イ長調
ピアノ:二宮裕子
小澤征爾指揮/新日本フィルハーモニー交響楽団
1979年(昭和54年)44歳
3月ボストン交響楽団を率いて中国を訪れ演奏、中国音楽人の指導等にあたる
小澤征爾とボストン交響楽団は、上海と北京でコンサート、指導、マスタークラスを開催し、国交樹立後に中国で演奏した最初の西洋のオーケストラとして歴史を刻んだ。
6月26日<民音定期演奏会> 東京厚生年金会館
ベルリオーズ《幻想交響曲》ほか
小澤征爾:指揮/新日本フィルハーモニ交響楽団
7月21日<新日本フィルハーモニー交響楽団 第71回定期演奏会> を指揮 東京文化会館
ドヴォルザーク《ノットゥルノロ長調》/ドヴォルザーク《チェロ協奏曲ロ短調》/ドヴォルザーク《交響曲第七番二短調》
チェロ:安田 謙一郎
指揮:小澤 征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団
7月13,14日 大阪フェスティバルホール
プッチーニ:歌劇《トスカ》
小澤征爾:指揮/関西歌劇団/関西二期会
パリオペラ座デビュー、ラヴェル《子供と魔法》/ストラヴィンスキー《エディプス王》
1980年(昭和55年)45歳
・ボストン交響楽団の歴史的な中国訪問に関するCBSドキュメンタリー「The Boston Goes to China」は、エミー賞で最優秀ドキュメンタリー賞、最優秀監督賞、最優秀編集賞、最優秀音響賞の 4 部門を受賞した。
・征爾はタングルウッドでプッチーニ:オペラ《トスカ》の公演を指揮し、タングルウッドとシンフォニー・ホールで彼の指揮の下、一連の半舞台オペラを開始し、その後、シンフォニー・ホールでの25周年記念シーズン中にプッチーニ:オペラ《蝶々夫人》の公演が継続された。
・新日本フィルハーモニー交響楽団名誉芸術監督に就任。
ミラノ・スカラ座でプッチーニ:オペラ《トスカ》でイタリア・デビューした。ルチアーノ・パヴァロッティと共演。
1981年(昭和56年)46歳
・シェーンベルク:《グレの歌》ボストン交響楽団のアルバムがグラミー賞のクラシック部門「ベスト・オペラ・レコーディング」にノミネートされた。
3月ボストン交響楽団の創立100周年を記念してアメリカの14都市をツアーし、その後世界ツアーを実行した。同年の秋には、日本、フランス、ドイツ、オーストリア、イギリスでも開催された。
10月18日小澤征爾とBSOは、ヴァイオリニストのイツァーク・パールマンとアイザック・スターン、ソプラノ歌手のレオンティン・プライス、チェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、ピアニストのルドルフ・ゼルキンをフィーチャーしたガラコンサートでオーケストラ創立100周年を祝った。ベートーベン《第九交響曲》をフィーチャーした無料の「創立100周年コンサート」が10月22日にボストンコモンで行われた。また、この年には2つの100周年ツアーも含まれており、1つは3月に全米を巡り、もう1つは10月と11月に日本とヨーロッパを巡る。
・オーケストラ創立100周年を記念して、BSO、ボストン ポップス、ボストン交響楽団室内奏者、タングルウッド祝祭合唱団のための作品を含む、合計12の作品が委嘱された。このシーズンには、レナード・バーンスタイン《管弦楽のためのディヴェルティメン》(1980年)、ピーター・マクスウェル・デイヴィス《交響曲第2番》、1982年ミュージカル部門のピューリッツァー賞を受賞したロジャー・セッション《管弦楽のための協奏曲》など、これらの作品の多くが世界初演された。
1982年(昭和57年)47歳
ルドルフ・ゼルキンと小澤征爾率いるBSOによるベートーヴェンの皇帝ピアノ協奏曲の録音がTelarcレーベルからリリースされた。
ベルリン・フィル創立百年記念コンサートを指揮した。
<下、Martha Argerich and Seiji Ozawa rehearsing Ravel’s concerto on October 14th, 1982.>
1983年(昭和58年)48歳
・征爾とボストン交響楽団は、ミシガン州アナーバーでの公演を含む米国ツアーで10周年を祝います。クリーブランド、コロンバス、シンシナティ (オハイオ州)。そしてレキシントン(ケンタッキー州)。
・メシアンのオペラ《アッシジの聖フランチェスコ》の世界初演をスコアなしでボストン交響楽団を指揮した(7.小澤征爾 関連動画欄参照)
11月28日,12月1,3,6,9,12,14,18日 パリ オペラ座 (ガルニエ宮)で、メシアン:歌劇《アッシジの聖フランチェスコ》世界初演を指揮
聖フランシスコSaint François:ジョゼ・ヴァン・ダムJosé van Dam
天使L’Ange:クリスティアーヌ・エダ=ピエールChristiane Eda-Pierre
ハンセン病患者Le Lépreux:ケネス・リーゲルKenneth Riegel
修道僧レオーネFrère Léon:ミシェル・フィリップ Michel Philippe/ミシェル・フィリップMichel Philippe
修道僧ヌッセオFrère Massée:ジョルジュ・ゴーティエ Georges Gautier
修道僧エリFrère Élie:ミシェル・セネシャルMichel Sénéchal
修道僧ベルナルドFrère Bernard:ジャン=フィリップ・クルティスJean-Philippe Courtis/ロベルト・グルニエRobert Grenier
修道僧シルベスターFrère Sylvestre:ルシアン・サルモンLucien Dalmon
修道僧ラフィンFrère Ruffin:ジャン=ジャック・ナドーJean-Jacques Nadaud
指揮:小澤征爾Сonducted by Seiji Ozawa
演出:サンドロ・セキ
舞台・衣装:ジュゼッペ・クリソリーニ=マラテスタ
ベルリン・フィルと初録音する
3月「第544回オーケストラがやって来た」の最終回にハイドン《告別》第一楽章を振る
<下、《春の祭典》Le Sacre>
Seiji Ozawa Conductor / The Bavarian Radio Symphony Orchestra
1983
1984年(昭和59年)49歳
1984年ボストン交響楽団ヨーロッパで公演が行われ大好評を博した。
・小澤征爾とボストン交響楽団は、アルトゥール・オネゲル:劇的オラトリオ《ジャンヌ・ダルク・オ・ブシェ》のシンフォニーホールで初の半舞台オペラを上演した。翌週、同じ作品がカーネギー ホールで上演された。ニューヨーク・タイムズ紙は、これを今年最高の音楽イベントの一つに挙げた。
9月25,26日10月2日<民音制作オペラ> 東京文化会館
オッフェンバック:歌劇《ホフマン物語》
9月、教育者齋藤秀雄の没後10年に、彼の教え子であった指揮者小澤征爾の発案により、秋山和慶ら門下生100余名が、東京と大阪でメモリアルコンサートを開催した。
・サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)は、これが基礎となって生まれた。SKOのメンバーは、ヨーロッパ、アメリカ、日本などの代表的なオーケストラの主要メンバー、ソリスト、室内楽奏者、教育者として世界中で活躍しており、国際的なコンクールの入賞者も多い。それぞれの音楽家が個性豊かな音楽性を持ちながらも、SKOへの参加を通じ、オザワ・スピリットとも言える音楽に対する姿勢、精神が培われ、まるで一つの生き物のようになる。その類稀なる特色は次世代の若手音楽家たちにも受け継がれ、このオーケストラは世界で際立った存在感を示している。
1985年(昭和60年)50歳
・新日本フィルを率いて欧州公演
9月1日BSOは、タングルウッドで小澤征爾の50歳の誕生日を祝い、前日に40歳の誕生日を迎えたイツァーク・パールマンを特別ゲストに迎え、当時の記録となる17,734人の聴衆を集めたオールベートーヴェンのコンサートを開催した。
11月12日ブルックナー《交響曲第二番》(ノヴァーク版) ベルリン・フィルを指揮 フィルハーモニーホール
1986年(昭和61年)51歳
・ボストン交響楽団日本ツアーが公演され大好評を博した。
・小澤征爾はボストンでオリヴィエ・メシアンの記念碑的なオペラ《アッシジの聖フランシスコ》の3場面のアメリカ初演でボストン交響楽団・を率い、続いてニューヨークのカーネギーホールで公演した。バスバリトンのホセ・ヴァン・ダム、テノール歌手のケネス・リーゲル、ソプラノ歌手のキャスリーン・バトルがソリストを務め、タングルウッド・フェスティバル合唱団と指揮者のジョン・オリバーが共演した。
5月12日<民音定期演奏会> 東京厚生年金会館
プロコフィエフ《アレクサンドル・ネフスキー》ほか
小澤征爾:指揮/新日本フィルハーモニ交響楽団
・7月長野県山ノ内町で「子供のための音楽会」を開く
10月「サントリーホール杮落とし」でカラヤンの代役でベルリン・フィルを指揮
<下動画、1987年9月11日 ベルリン・フィルハーモニーホール>
1987年(昭和62年)52歳
4月23日ブルックナー《交響曲第二番》ボストン交響楽団を指揮 ボストン・シンフォニーホール
小澤征爾とBSOは、タイトルロールにヒルデガルト・ベーレンス、クリュテムネストラ役にクリスタ・ルートヴィヒを迎え、シュトラウス《エレクトラ》の絶賛されたパフォーマンスを披露した。この作品は翌年も再演され、フィリップスによって録音され、小沢にとってBSOとの最初のオペラ録音となった。
アメリカを代表する映画製作者のアルバート・メイズルズとデヴィッド・メイズルズ夫妻による1985年の高評価の小沢ドキュメンタリー「オザワ」は、PBSの「グレート・パフォーマンス」で放送され、その後ホームビデオでもリリースされた。
・サイトウキネンオーケストラは第1回ヨーロッパ・ツアーが行われ、ウィーンやベルリンなどの音楽の都で「ウィーン・フィルやベルリン・フィルに並ぶ音を出す、小澤とともにやって来た驚異的なオーケストラ」と絶賛された。
9月11日 ベルリン・フィルハーモニーホール>
モーツァルト:ディヴェルティメント K.136
演奏 小澤征爾とサイトウキネンオーケストラ
1988年(昭和63年)53歳
1988年ボストン交響楽団ヨーロッパで公演が行われ大好評を博した。
6月15日新日本フィルハーモニー交響楽団<第160回定期演奏会> 東京文化会館
オルフ:世俗カンタータ《カルミナ・ブラナ》(舞台上演形式) 台本:大岡 晋
語り:平 幹二朗
釜洞祐子(S.)/下野 昇(T.)/松本 進(Br.)/
舞踏:田中 泯, フランク・ファン・デ・フェン, 堀川 久子, カテリーナ・バカツァキ, ロクサーヌ・スタインバーグ
合唱:晋友会合唱団, グロリア少年合唱団/合唱指揮:関屋 晋/合唱指導:松村 努
演出:実相寺 昭雄/振付:田中 泯/デザイン:遠見 広/照明:牛場 賢二/舞台監督:小栗 哲家
小澤征爾:指揮/新日本フィルハーモニー交響楽団
8月25日小澤征爾とBSOは、タングルウッドでレナード・バーンスタインの70歳の誕生日を祝う「バーンスタイン・アット・70」のコンサートで小澤征爾は指揮し、スター勢揃いのガラ公演に参加した。翌年3月にPBSの「グレート・パフォーマンス」で放送され、舞台芸術における優れたクラシック番組に贈られるエミー賞を受賞した。
・ウィーン国立歌劇場デビュー。チャイコフスキーのオペラ《エフゲニー・オネーギン》を指揮。ミレッラ・フレーニと共演。
1989年(昭和64年‐平成元年)54歳
・ボストン交響楽団日本ツアーが公演され大好評を博した。
・小澤征爾がボストン交響楽団の50人目となる奏者任命。現在のBSOの約80%は依然として小沢氏が任命した人物で構成されている。
サイトウキネンオーケストラは第2回ヨーロッパ・ツアーが行われ、ウィーンやベルリンなどの音楽の都で「ウィーン・フィルやベルリン・フィルに並ぶ音を出す、小澤とともにやって来た驚異的なオーケストラ」と絶賛された。
・ロストロポーヴィチと「コンサート・キャラバン」を開始
11月5,6日<民音制作オペラ>東京文化センター、11月8日かながわ県民ホール
チャイコフスキー《スペードの女王》
12月11日ボストン響と日本公演
マーラー《交響曲第2番》ハ短調「復活」
ソプラノ:ヘンリエット・シェレンベルク
メゾ・ソプラノ:伊原直子
合唱: 晋友会合唱団
合唱指揮:関屋 晋
指揮:小澤征爾/演奏:
ボストン交響楽団
ベルリン・フィル「ジルベスターコンサート」指揮
1990年(平成2年)55歳
・小澤征爾の指揮によってサイトウキネンオーケストラはザルツブルク・フェスティバルを始めとするヨーロッパ各地のフェスティバルに招かれた。
12月22日<小澤征爾・子供と語る音楽会> オーチャードホール
出演:成城合唱団ほか
・小澤征爾とボストン交響楽団によるシュトラウスの『エレクトラ』の録音がグラミー賞にノミネートされ、ステレオ・レビュー誌により年間最優秀レコードに選ばれた。
・ウィーン・フィル定期初登場
・水戸室内管弦楽団の芸術顧問に就任
1991年(平成3年)56歳
・ボストン交響楽団ヨーロッパで公演が行われ大好評を博した。
・小澤征爾とサイトウキネンオーケストラは、ロンドン、デュッセルドル フ、アムステルダム、アメリカと世界ツアーを行った。
ボストン交響楽団初のビデオレーザーディスクがソニー・クラシカルからリリースされ、小澤征爾がオーケストラを率いてブラームス《交響曲第1番》とシュトラウス《ツァラトゥストラはこう語った》。この演奏はオーケストラの1986年の日本ツアー中に録音された。
8月16日小澤征爾、タングルウッドで1,000回目のBSOコンサートを指揮した。
小澤とBSOは、シンフォニーホールでソプラノのミレッラ・フレーニ、テノールのウラジーミル・アトラントフ、バリトンのドミトリー・ホロストフスキーとともにチャイコフスキー《スペードの女王》のコンサート演出を行った。パフォーマンスは RCA Victor 向けにライブ録音されており、このレーベルとの新たなコラボレーションが行われた。この録音は1993年のグラミー賞最優秀オペラ録音賞にノミネートされた。
・ウィ-ン・フィルと初録音
1992年(平成4年)57歳
・征爾、ボストン交響楽団を率いて初の南米ツアーを行い、ブラジルのサンパウロ、アルゼンチンのブエノスアイレス、ベネズエラのカラカスで公演を行った。
・征爾、1991年から1992年のシンフォニーホール定期購読シーズン中に1,000回目のコンサートを指揮した。現在までに、彼はシンフォニー ホール、タングルウッド、そして世界中でオーケストラと約 1,400 回のコンサートを指揮してきた。
・征爾とサイトウキネンオーケストラは、長野県松本市をSKOの本拠地とした「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」(旧サイトウ・キネン・フェスティバル松本)が開幕。以降、毎年世界から注目されるオペラ公演やコンサート公演を開催している。
・征爾は芸術的夢である松本でサイトウ・キネン・フェスティバルを創設した。
・SKOは1994年、1997年、2004年に海外公演を含むツアーを続け、2015年からは「セイジ・オザワ・松本フェスティバル」として新たなステージを迎えた。
・「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」開始、総監督就任。
・「若い人のためのサイトウ・キネン室内楽勉強会」開始
・ベルリン・フィルより「ハンス・フォン・ビューローメダル」を授与される
・ニューヨーク、メトロポリタン歌劇場デビュー。オペラ《エフゲニー・オネーギン》指揮指揮、ミレッラ・フレーニと共演。
・ウィ-ン国立歌劇場でチャイコフスキーのオペラ《エフゲニー・オネーギン》指揮、ミレッラ・フレーニと共演。
1993年58歳
・チャイコフスキー:歌劇《スペードの女王》ボストン交響楽団のアルバムがグラミー賞のクラシック部門「ベスト・オペラ・レコーディング」にノミネートされた。
・征爾とボストン交響楽団は、ソプラノ歌手のシルビア・マクネア、メゾソプラノ歌手のフレデリカ・フォン・シュターデ、テノール歌手のジェリー・ハドリー、バリトン歌手のベンジャミン・ルクソンをフィーチャーした特別オープニングナイトのオールベルリオーズプログラムで20周年を祝います。このシーズンには、ロンドン、パリ、マドリッド、ウィーン、ミラノ、ミュンヘン、プラハで公演を行うヨーロッパツアーも含まれていた。
・この年は征爾とボストン交響の委嘱によるハンス・ヴェルナー・ヘンツェ《交響曲第8番》の世界初演でもあった。
↓ 動画<”小澤征爾と子供たち” 劇的オラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」ドキュメント(1993年サイトウ・キネン・フェスティバル松本)>
1994年(平成6年)59歳
・5月母さくらと中国に里帰りし、旧奉天にあった生家を訪れる
・サイトウキネンオーケストラは海外公演を含むツアーを行う。
5月6日瀋陽市遼寧人民劇場で中国遼寧交響楽団を指揮
タングルウッドに「セイジ・オザワ・ホール」完成
・征爾は、PBSテレビ放送「プラハのドヴォルザーク:セレブレーション」の文化番組における個人的功績により、2度目となるプライムタイム・エミー賞個人業績賞を受賞した。この番組は、同オーケストラの1993年のヨーロッパツアー中のプラハ公演で制作された番組である。
・征爾ホールとレナード・バーンスタイン・キャンパスのオープンにより、タングルウッド・ミュージック・センターの新たな時代が始まった。
・征爾は日本初のイノウエ賞受賞者となった。芸術における生涯にわたる功績を表彰するために創設されたこの賞は、今世紀の傑出した日本の小説家、井上靖イノウエ ヤスシにちなんで名付けられた。
12月6日~15日ボストン交響楽団日本公演(東京・大阪)
<下、 R・シュトラウスAlpine Symphony / Hans Gansch on Trumpet(Seiji Ozawa with Vienna Philharmonic Orchestra>
1995年60歳
1月23日小澤は32年ぶりにN響を指揮
バッハ 組曲第三番から《アリア》
バルトーク《管弦楽のための協奏曲》
・小澤征爾とボストン響強楽団によるマーラー《交響曲第3番》と《交響曲第6番》の録音がリリースされ、フィリップス・レーベルからマーラーの交響曲全集が完成した。
・小澤とボストン交響楽団によるバルトーク《管弦楽のための協奏曲》の録音は、作曲家のオリジナルのエンディングを組み込んでおり、この重要なBSOの委嘱作品の初演50周年を記念してフィリップス・レーベルからリリースされた。
・征爾、イツァーク・パールマン、ヨーヨー・マはそれぞれ60歳、50歳、40歳の誕生日をタングルウッドで開催された「スリー・バースデー」と題したガラ・コンサートで祝い、18,709人の聴衆を集めた。
・征爾の60歳の誕生日を記念して、東京のサントリーホールで特別コンサートが開催されました。この機会に、新日本フィルハーモニー交響楽団には、ボストン交響楽団、シカゴ交響楽団、トロント交響楽団、サンフランシスコ交響楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のメンバーが参加しました。ピアニストのマルタ・アルゲリッチとペーター・ゼルキン、チェロ奏者のムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(指揮者としても出演)、ヴィオラ奏者の今井信子、歌手のフレデリカ・フォン・シュターデとベンジャミン・ルクソン、指揮者の秋山和慶ら多くのゲストアーティストが参加した。
・征爾とボストン交響楽団は、サー・マイケル・ティペットの共同委託作品であるサー・マイケル・ティペット《ローズ・レイク》をアメリカ初演し、これがサー・マイケルの最後の作品となった。
1996年(平成8年)61歳
小澤征爾とBSOは、アフリカ系アメリカ人のテノール歌手、故ローランド・ヘイズへの特別な追悼としてBSOから依頼された作品、ジョージ・ウォーカー《ライラック》を世界初演した。ウォーカーはこの作品でピューリッツァー賞作曲賞を受賞した。
5月15日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、 神奈川県民ホール
出演:ガリーナ・ゴルチャコワ、リチャード・リーチ、ジェロルド・シエナ、ブリン・ターフェル、フランチェスカ・ブランチ、合唱:東京オペラ・シンガーズ
5月17日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、 尼崎アルカイックホール
出演:ガリーナ・ゴルチャコワ、リチャード・リーチ、ジェロルド・シエナ、ブリン・ターフェル、フランチェスカ・ブランチ、合唱:東京オペラ・シンガーズ
5月19日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、 尼崎アルカイックホール
出演:横山恵子、リチャード・リーチ、ジェロルド・シエナ、ブリン・ターフェル、フランチェスカ・ブランチ、合唱:東京オペラ・シンガーズ
5月21日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、 東京文化会館
出演:ガリーナ・ゴルチャコワ、リチャード・リーチ、ジェロルド・シエナ、ブリン・ターフェル、フランチェスカ・ブランチ、合唱:東京オペラ・シンガーズ
5月22日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、 東京文化会館
出演:横山恵子、ジョナサン・ウェルチ、牧川修一、ブレント・エリス、郡愛子、合唱:東京オペラ・シンガーズ
5月24日<ヘネシー・オペラシリーズ>プッチーニ《蝶々夫人》演出:浅利慶太、指揮:小澤征爾、演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団、 東京文化会館
出演:ガリーナ・ゴルチャコワ、リチャード・リーチ、ジェロルド・シエナ、ブリン・ターフェル、フランチェスカ・ブランチ、合唱:東京オペラ・シンガーズ
1997年(平成9年)62歳
・サイトウキネンオーケストラは1997年海外公演を含むツアーを行う。
・征爾は特に教育に力を入れてきた。室内楽アカデミー奥志賀は、1997年に始まったサイトウ・キネン室内楽研究会に発展させた。
・征爾とボストン交響楽団・が委託した作品、アンリ・デュティユーHenri Dutilleux《The Shadows of Time》を世界初演された。この曲は1998年3月、オーケストラがヨーロッパツアー中だった翌週にBSOがパリでフランス初演する際にヨーロッパでリリースするためにエラートによって録音された。
・「サイトウ・キネン室内楽」勉強会を始める
1998年(平成10年)63歳
9月3-7日プーランクのオペラ《カルメン会修道女の対話》を「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」で指揮し、高い評価を受けた。
指揮:小澤征爾、国立パリ・オペラ座劇場総監督:ユグ・R・ガル、アーティスティック・アドミニストレーター:ウィリアム・I・バーネル, ポル・クリスチャン・モー(国立パリ・オペラ座)、プロデューサー:森安淳、演出:フランチェスカ・ザンベロ、装置:ヒルデガード・ベクトラー、衣裳:クラウディ・ガスティーヌ、照明:ジャン・カルマン、合唱指揮:岡田司、舞台監督:幸泉浩司
キャスト ド・ラ・フォルス侯爵の娘ブランシュ:パトリシア・ラセット、ド・クロワッシー婦人、カルメル会院長:フェリシティー・パーマー、受肉のマリー上級修道女:デイム・ジョセフィン・バーストウ、リドワーヌ婦人、新院長:クリスティン ゴーキー、聖人ドゥニのコンスタンス修道女:マリー・デヴェレロー、マルチド修道女:ベス・クレイトン、幼いイエズスのジャンヌ上級修道女:シーラ・ナドラー、侯爵の息子・騎士:ウィリアム・バーデン、ド・ラ・フォルス侯爵:ビクター・ブラウン、ティエリ(従僕):ジョルジュ・ゴティエー、修道院つきの指導司祭:ジョルジュ・ゴティエー、士官2:ゲタン・ラペリエール、公吏:ゲタン・ラペリエール、士官1:ジャン=ピエール・トレヴィザニ、獄吏:キム・ジュリアン、ジャヴリーノ:キム・ジュリアン、老女1:シルビー・デュポワ、老女2:キャロル・シャブリー、老紳士:ピーター・ブランシェット、修道女たち:東京オペラ・シンガーズ、カトリーヌ修道女:井上ゆかり、アリス修道女:斉藤紀子、十字架のアンヌ修道女:宮崎晶子、マルタ修道女:堪山貴子、サン・シャルル修道女:三宮美穂、クレール修道女:三谷亜矢、フェリシテ修道女:上田桂子、ジェルトリュード修道女:柴田由香、アントワーヌ修道女:穴澤ゆう子、ヴァランティーヌ修道女:久保田尚子、ジェラール上級修道女:牧野真由美
演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ
合唱:東京オペラ・シンガーズ
・長野冬季オリンピック音楽監督就任。
・長野冬季五輪のために世界の国歌を録音。
・新日本フィルを率いて故ロストロポーヴィチとの日ロ親善・ロシア公演に向かう
1998年に長野で開催された冬季オリンピックの開会式で重要な役割を果たし、北京、ベルリン、ニューヨーク市、シドニー、ケープタウン、南アフリカから衛星で結ばれた世界中の合唱団とともに日本からベートーベンの第九交響曲のフィナーレを指揮した。
9月23日のオープニングナイトコンサートで、小沢はセルジュ・クーセヴィツキーのBSO在職25年を超えることになった。クーセヴィツキーは1924年10月10日に音楽監督として最初のコンサートを指揮し、1949年8月14日にタングルウッドで最後のコンサートを指揮した。
・征爾とボストン交響楽団は、1998年から1999年にかけて特別なシルバーアニバーサリーシーズンとして25周年を祝い、ボストンコモンでのベートーベンの第九交響曲の無料演奏、プッチーニ:オペラ《蝶々夫人》のコンサート演出、そして日本へのツアーを含む。
また、1998年には、指揮者としてだけでなく、フランスの作曲家への支援、フランス国民への献身、そしてパリ・オペラ座での小沢の功績が評価され、フランスのジャック・シラク大統領からレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエに任命された。
1999年(平成11年)64歳
3月26日ハイドン《交響曲第39番》
ブルックナー《交響曲第二番》(ノヴァーク版)
新日本フィルハーモニを指揮 東京・渋谷 オーチャードホール
5月ボストン響日本公演。新日本フィル桂冠名誉指揮者就任
小澤征爾がウィーン国立歌劇場の音楽監督職を受諾し、2002年シーズンを最後にBSO職を辞任することを発表された。
2000年(平成12年)65歳
ボストン交響楽団の1999年から2000年の定期購読シーズン後の春、小澤征爾はパリとケルンでマーラー《復活交響曲》とメシアン《トゥーランガリラ交響曲》の演奏でオーケストラを指揮した。パリ市ミレニアム・セレブレーションの一環として、小澤征爾はエッフェル塔のふもとでBSOとパリ管弦楽団をフィーチャーし、イタリア人歌手アンドレア・ボチェッリと大人と子供600人の合唱団とともに初の無料コンサートを指揮した。このコンサートは、10万人以上のパリ市民を集め、ヨーロッパでこれまでに開催された最大の無料コンサートの一つであり、フランス全土に生中継された。
・⼩澤征爾とローム株式会社の佐藤研⼀郎社⻑(当時)がオペラを通じて若い⾳楽家を育成することを⽬的に、日本に小澤音楽塾「小澤音楽アカデミー」を設立し、⽴ち上げた教育プロジェクトは、若い音楽家の指導と訓練に対する小沢の強い取り組みがあった。
11月下旬、小澤はジョン・コリリアーノ《交響曲第2番》の世界初演でボストン交響楽団を指揮した。この作品はBSOからの委嘱作品であり、1990年の作曲家の交響曲第1番の大成功以来大いに期待されていた作品であった。この作品は弦楽のみのためのもので、コリリアーノの1995年の弦楽四重奏曲に基づいています。翌年の春、この作品は 2001年ピューリッツァー賞音楽部門を受賞した。
・同年米国ハーバード大学より「名誉博士号」を授与される
2001年(平成13年)66歳
1月2日マーラー《交響曲第9番》 二長調 東京文化会館
指揮:小澤征爾/管弦楽:サイトウ・キネン・オーケストラ
8月征爾はタングルウッドでシュトラウス:オペラ《サロメ》のコンサート公演でボストン交響楽団を指揮し、ソプラノ歌手デボラ・フォークトを含む国際的に評価の高いソリストのキャストが初のタイトルロールの演奏を披露した。このパフォーマンスは2001年のタングルウッドシーズンのハイライトであり、征爾がBSO音楽監督としてタングルウッドでフルシーズンを過ごした最後のシーズンとなった。
・日本アルプスの町、松本で開催されるサイトウ・キネン・フェスティバルの10周年を記念して、小澤は8月下旬から9月上旬にかけて、ヤナーチェクのオペラ《イェヌファ》の4公演と、有名なサイトウ・キネン・オーケストラによるオールベートーヴェンのプログラムを指揮した。このフェスティバルでは、ハーレム少年合唱団がオーケストラとリサイタルで出演したり、サイトウ・キネン・オーケストラのメンバーによるバッハ《ブランデンブルク協奏曲》6曲の演奏も行われた。
10月2日小澤征爾はBSO音楽監督として29回目となる最後のシーズンをシンフォニーホールで開幕し、世界で最も評価の高い2人の歌手、ソプラノ歌手ドーン・アップショーとメゾソプラノ歌手スーザン・グラハムがオーケストラとタングルウッド・フェスティバルの女性陣に参加するプログラムを披露した。メンデルスゾーン《真夏の夜の夢》付随音楽の合唱。トニー賞受賞女優のブライス・ダナーが、BSOの第121シーズンを開幕するこの特別番組のゲストナレーターとして小澤征爾とオーケストラに加わった。
・日本政府から「文化功労章」受章
2002年(平成14年)67歳
1月ウィーン・フィル・ニュー・イヤー・コンサート指揮
・新日本フィルを率いて日中友好30週周年記念中国公演
・オーストリア政府から「勲一等十字勲章」を受章
4月20日小沢がボストン交響楽団・音楽監督として最後にザ・シンフォニー・ホールに出演した。午前中、彼はジョン・ウィリアムズ主催の「征爾より、感謝を込めて」と題された無料コンサートでBSOを率いてベルリオーズ《幻想交響曲》を演奏した。その夜、彼はBSOを率いてマーラー《交響曲第9番》を演奏した。
7月14日、征爾はタングルウッドでBSO音楽監督として最後のパフォーマンスを行った。プログラムにはベルリオーズ《幻想交響曲》が含まれた。メゾソプラノの鄭曹とタングルウッド祝祭合唱団によるピアノ、合唱とオーケストラのためのベートーヴェン《幻想曲ハ短調》。そしてランダル・トンプソン《アレルヤ》(アカペラコーラス)。
・29シーズンに渡り務めたボストン交響楽団音楽監督を退任した(現在はボストン交響楽団桂冠音楽監督)。
2002年秋、小澤はウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任し、2010年春までその職を務めた(2002-2010年)。
2003年(平成15年)68歳
7月28日<小澤征爾音楽塾上越特別演奏会> 上越文化会館大ホール(主催団体/上越市)
オペラ《こうもり》コンサート形式
指揮:小澤征爾
・「毎日芸術賞」と「サントリー音楽賞」を受賞
2004年(平成16年)69歳
・ 「小澤征爾国際アカデミー・スイス」は、日本の指揮者小澤征爾がスイスにカルテットと弦楽アンサンブルに焦点を当てたアカデミーを創設したのが始まりである。ジュリアード弦楽四重奏団の創設者であるロバート・マンとともにこのプログラムの基礎を築いた。原田貞夫氏、今井信子氏、パメラ・フランク氏の3人の教師がアカデミー創設時から参加した。毎年24名の若手ソリストを受け入れている。小澤征爾にとって、弦楽四重奏のレパートリーはクラシック音楽の基礎である。その研究は、若い音楽家がハイレベルの芸術家になるために不可欠なステップであり、教師たちの目標は、ミュージシャンにもっとよく聴いてもらい、共通の音と、小澤征爾の言う「同じ呼吸」を見つけるよう促すことである。ロールでは 12 日間、カルテットは 2 つの楽章に集中する。それは徹底的な仕事であり、自分自身を超えるためのまたとない機会でもある。
10月ウィーン国立歌劇場日本公演を指揮
・フランス、ソルボンヌ大学から「名誉博士号」を授与される
2005年(平成17年)70歳
・「東京オペラの森」音楽監督(2005-2008年)
・暮れに体調を崩し、同年12月に白内障の手術をする。
・ヨーロッパにおける音楽学生を対象に「Seiji Ozawa International Academy Switzerland」をスイスに設立し、教育活動に力を注ぎ始める
2006年(平成18年)71歳
1月半ばには、東京都内の病院で帯状疱疹、慢性上顎洞炎、角膜炎と診断され、通院治療を行いながら静養した。
1月27日にアン・デア・ウィーン劇場で上演される予定であったモーツァルトの歌劇《イドメネオ》の指揮はキャンセル。
2月1日ウィーン国立歌劇場音楽監督としての活動を一時休止。東京のオペラの森で指揮予定であったヴェルディオペラ《オテロ》の公演もキャンセル。
6月スイス西部モントルー近郊ブロネで開催された「スイス国際音楽アカデミーで指揮活動を再開した。
7月20日「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトVII」愛知県芸術劇場コンサートホール公演、マーラー《交響曲第二番》「復活」を指揮し日本国内での指揮活動を再開した。
8月5日小澤征爾はBSOの桂冠音楽監督としてタングルウッドに戻り、のマーラー《復活交響曲》の演奏でBSOを率いた。
8月27日「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」でメンデルスゾーンのオラトリオ《エリア》をオーケストラピットから指揮した
2007年(平成19年)72歳
4月にベルリン・フィルを指揮をしている。
・ウィーン国立歌劇場総監督ホーレンダーの2010年勇退に伴い、音楽監督小澤征爾の同時退任が発表された。2010年シーズンからの総監督はドミニク・マイヤー、音楽監督は、ウェルザー=メストの就任が発表された。
11月ウィーン国立歌劇場名誉会員に推挙される
<下、サイトー・キネン松本 ニュース>
2008年(平成20年)73歳
1月「カラヤン生誕100年コンサート」でベルリン・フィル
5月16日モーツァルト《ディヴェルティメント》ニ長調
モーツァルト《オーボエ協奏曲》ハ長調
チャイコフスキー《交響曲第六番》ロ短調
小澤征爾/新日本フィルハーモニ/オーボエ:古部賢一
サントリー・ホール
5月17日ラフマニノフ《ピアノ協奏曲第三番》
チャイコフスキー《交響曲第六番》
小沢征爾/新日本フィルハーモニ/ピアノ:上原彩子
すみだトリフォニーホール
10月ウィーン国立歌劇場日本公演を指揮
11月28日と29日小澤征爾はシンフォニーホールでBSOとの最後のプログラムを指揮した。彼は全編フランス音楽のプログラムを選択した。
日本政府より「文化勲章」を受章
フランス政府「レジオン・ドヌール勲章オフィシエ」を授与される
「フランス芸術アカデミー外国人会員」に選出される
イタリア・プレミオ・ガリレオ2000財団金百合賞を受賞
2009年74歳
6月パリで椎間板ヘルニアの治療を受けた。
・小澤征爾音楽院オーケストラプロジェクトを設立し、演奏を通じた後進の育成にも積極的に取り組んだ。
・小澤征爾音楽塾オーケストラがサイトウ・キネン・フェスティバルに初出演した。
(下、動画)
「小澤征爾インタビュー+リハーサル風景」
「ブラームス 交響曲第二番 リハーサル風景」
04:47 第四楽章
11:01 第二楽章
16:46 第一楽章
サイトウ・キネン・オーケストラ
2009年 松本
2010年(平成22年)75歳
1月7日人間ドックの検査で「食道がん」が見つかり、治療のため6月までの半年間、活動を休止すると発表した。月末に食道全摘出手術を受ける。
8月24日「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」に復帰し、チャイコフスキー《弦楽セレナード》第1楽章を指揮。
演奏 / サイトウ・キネン・オーケストラ
<下、小澤征爾 76才的執念>
11月ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団により、「ウィーン・フィル名誉団員」の称号を贈られた
11月『カーネギーホールは、指揮者小澤征爾氏を芸術監督に迎え、日本芸術祭「JapanNYC」を2010年12月と2011年3~4月に開催。カーネギーホールでの公演のほか、国内各所等で開催される』
<NY、カーネギーホール「Japan NYC」のコンサート>
12月14日、ブラームス《交響曲第1番》ハ短調 op.68
12月15日、ベルリオーズ《幻想交響曲》 op.14
12月17日米国のボストン日本協会は、国際文化交流に貢献した人物に贈る今年の「重光賞」を受賞
12月18日、ブリテン《戦争レクイエム》 作品66 「Japan NYC」のコンサート
小澤征爾 / サイトウ・キネン・オーケストラ
クリスティン・ゴーキー(ソプラノ)
アンソニー・ディーン・グリフィー(テノール)
マティアス・ゲルネ(バリトン)
SKF松本合唱団、栗友会合唱団、SKF松本児童合唱団、ピエール・ヴァレー(合唱指揮)
2011年(平成23年)76歳
1月悪化した腰の手術を受ける
7月活動をはじめた特定非営利活動法人小澤国際室内楽アカデミー奥志賀(理事長/小澤征爾)は、『クヮルテットは、ソロとオーケストラとを問わず、弦楽器奏者のすべての基本。だから、世界に通用する弦楽器奏者を育てるには、トップレベルの指導者による集中的なクヮルテットの実習が欠かせない。この信念のもとで、奥志賀の大自然の中で学ぶこのアカデミーは、音楽家としてだけではなく人としても大切なことを得られる稀有な機会です。これからも「特定非営利活動法人 小澤国際室内楽アカデミー奥志賀」を通じて、日本のみならず広くアジア圏の才能ある若手音楽家のために開催していきたいと思っています』と述べている。
・サイトウ・キネン・フェスティバルを北京と上海で初開催。
・「高松宮殿下記念世界文化賞」を受賞した
・渡邊暁雄音楽基金特別賞を受賞した
11月悪化した腰痛の手術を受けた。
<下、世界的に活躍する指揮者の小澤征爾さん(77)が27日、川崎市立南生田小学校(同市多摩区)を訪れ、児童約340人に合唱を指揮した>
<小澤征爾~76歲的執念>
2012年(平成24年)77歳
3月7日体力回復め1年間指揮活動を休止することを発表
7月レッドソックス親善大使に就任
8月31日『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(村上春樹との共著、新潮社)で小林秀雄賞受賞。
・サイトウ・キネン・フェスティバル日本開催20周年。
<下、小澤総監督と指揮者山田和樹よりメッセージ>
2013年(平成25年)78歳
小澤征爾指揮 ラヴェル: 歌劇「子どもと魔法」第58回グラミー賞にノミネートされた。
4月1日前年死去した吉田秀和の後任として水戸芸術館の2代目館長・同管弦楽団総監督就任に就任
8月松本で2年ぶりに指揮復帰
2014年(平成26年)79歳
・モンブラン国際文化賞を受賞
・征爾は語る『今でもそうかもしれないが、日本のオーケストラはまだ西洋音楽に何か型があると思っている。日本人は、外からはわかりにくい、内に秘められた意志や感情を大事にしますが、ベートーヴェンやモーツァルトだって同じこと。表面的に音を正しくきれいに出すだけが音楽ではない。それなのに、日本のオーケストラは、いまだにその段階から抜け出せていない。この殻を破るにはうんと時間がかかるでしょう。どれほど演奏がうまくても、音楽することが、その人に対してどういう意味があるのかわからないまま、ただ弾いてしまっている。譜面づらしか弾かない人の多いこと。それでいいなら、ぼくのやっているアカデミーも小澤塾も要りません。芝居だって、役者が台本をただ丸覚えして話すだけでは全然ダメでしょう。セリフを解釈して自分の言葉として話さなきゃ。それと同じです』『その人の芯は何なのかを意識して大事にしている人が、日本にはいなくなっちゃったのかな。いなくなっても、そのことの重大さに気づかないでいるのかな。山本直純さんはその危険性に当時から気がついていて、オーケストラに常に要求していた。彼が真に目指していたのは、日本人にとっての借りものではないクラシック音楽です。』『直純さんを知っている人が少なくなったけど、見てくれが悪いとか(笑)、だらしないとかでごまかされないで、彼が何をしたかったのか、芯がどうだったか見つけ出すということはとても大事です』参考:「考える人」2014年秋季号、「山本直純という音楽家~彼が目指した真の音楽」インタビュアーに応える、92頁引用
2015年(平成27年)80歳
2月NHK総合「あさイチ」に初出演
・サイトウキネンオーケストラは「セイジ・オザワ・松本フェスティバル」として新たなステージを迎えた。
<スイス小澤征爾国際アカデミー・コンサート Concert Seiji Ozawa International Academy Switzerland>2015年7月1日
ベートーヴェン《弦楽四重奏曲第16番》第3楽章
グリーグの組曲《ホルベアの時代から》
2月16日に開催されるアメリカ音楽界最高峰の祭典『第58回グラミー賞』(ロサンゼルス・ステープルズセンター)全83部門のノミネート作品/アーティストが12月7日に発表された
7月アメリカで最も著名な芸術家の生涯にわたる功績と並外れた才能を讃え、ケネディ・センター受賞者に選ばれた。日本人では初の受賞となる
セイジさん80歳を祝う!ガラコンサートに伴い、フェスティバルはセイジ・オザワ松本フェスティバルと改名された。
8月転倒して腰を強く打ち、「腰椎棘突起及び横突起骨折」と診断された。医師からは、3週間の加療が必要と言われ、セイジ・オザワ松本フェスティバル開催のベルリオーズ・オペラ《ベアトリスとベネディクト》を降板した。
9月1日<下、小澤征爾、誕生日に指揮、松本フェスで>
12月5日、ワシントンD.C.の米国国務省で開催されたケネディセンター栄誉晩餐会で、2015年ケネディセンター栄誉賞を受賞した(日本人として初めて選ばれた)
・長野県名誉県民栄誉賞の第1号を受賞
2016年(平成28年)81歳
2月15日米国、小澤がSKOを指揮したオペラ《こどもと魔法》は第58回グラミー賞最優秀オペラ録音賞を受賞した。世界最高峰の音楽の祭であるグラミー賞にオペラ録音部門でラヴェル:歌劇《こどもと魔法》を収めるアルバムがノミネートされていた指揮者、小澤征爾。この作品は、2013年に長野県で開かれた音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本(現セイジ・オザワ松本フェスティバル)」で指揮した歌劇《こどもと魔法》を収めたアルバムである。征爾は8度目のノミネートにして初のグラミーの栄冠に輝いた。
3月成城大学初となる名誉博士号を贈呈された。記念式典ではサイトウ・キネン・オーケストラや水戸室内管弦楽団メンバー、成城学園にゆかりのアーティスト達が集結し、『S.オザワ祝典アンサンブル』を結成した
4月7日小澤征爾総監督 ベルリン・フィル名誉団員の称号を授与された。小澤総監督に称号を授与したベルリン・フィルのチェロ奏者兼役員のクヌート・ウェーバー氏は『日本はベルリン・フィルにとって “第二の故郷です”。小澤さんは我々に、多くの音楽的発見をもたらしてくださいました』とコメント。
小澤総監督もこれに対し、『たいへん光栄です。僕は、このホールでこのオーケストラと、初めて1966年に指揮しています。50年間の長いお付き合いです。本当にうれしいです。』と話しました。130年に及ぶベルリン・フィルの歴史で、日本人で同称号を贈られるのは総監督が初めて。
4月8,10日(日)に、約7年ぶりにベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮を執った小澤総監督は、ベートーベンの「エグモント 序曲」と「合唱幻想曲」を力強く指揮した。
4月ドイツのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で指揮を執って現地を熱狂させたが、翌年のドイツ公演はやむなく辞退した。本格的な療養生活に入っても、体調はなかなか回復しなかったようだ。『女性セブン』(2022年4月7・14日号)では、小澤家の知人が“24時間対応の看護体制”について次ののように語っている。『2018年4月に大動脈弁狭窄症の手術を受けてから、本格的な療養生活に入りました。体重が落ちていて、自分で歩くことも難しい状態。言葉も思うようには発することができないといいます。一時は、都内の大学病院に入院していましたが、本人の強い希望で自宅に戻り、24時間対応の看護体制の下で自宅療養を続けています」』
4月7日、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は「小澤征爾を名誉団員に迎える」と発表した。「ベルリン・フィル名誉団員」の称号を贈られた
8月31日<子どものための音楽会> (県内小学6年生を招待) 松本市総合体育館
ガーシュイン《ラプソディー・イン・ブルー》 他
小澤征爾/サイトウ・キネン・オーケストラ /マーカス・ロバーツ・トリオ
9月6,9日<2016セイジ・オザワ松本フェスティバル>
ラヴェル《子どもと魔法》 まつもと市民芸術館・主ホール
小澤征爾/小澤征爾音楽塾オーケストラ
演出: ディヴィッド・ニース
2016 10月13,15日<水戸室内管弦楽団 第100回定期演奏会>
指揮:ラデク・バボラーク(第1、2楽章)/小澤征爾(第3,4楽章)
・10月名誉都民に顕彰された
・・GR Me of the Year賞を受賞
<下、11月10日ロームシアター京都 竣工式 記念演奏会>
小澤征爾指揮・小澤征爾音楽塾
2017年(平成29年)82歳
1月13,15日水戸室内管弦楽団第98回定期演奏会
小澤征爾(ベートーヴェン作品)/竹澤恭子(ヴァイオリン)川本嘉子(ヴィオラ)
1月17日<水戸室内管弦楽団 川崎公演>
小澤征爾(ベートーヴェン作品)/竹澤恭子(ヴァイオリン)川本嘉子(ヴィオラ)
5月12日<水戸室内管弦楽団・別府アルゲリッチ音楽祭共同制作>
水戸室内管弦楽団 第99回定期演奏会
小澤征爾(ベートーヴェン作品)/マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
5月17日<水戸室内管弦楽団・別府アルゲリッチ音楽祭共同制作>
ベスト・オブ・ベストシリーズVol.5/室内オーケストラ・コンサート
小澤征爾(ベートーヴェン作品)/マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
12月1日女性ファション誌「家庭画報」1月号の特集記事に20ページに及ぶ小澤征爾音楽塾オーケストラによる「子どものための音楽会」および「子どものためのオペラ」が取り上げられ紹介された(https://www.kateigaho.com/magazine/8528/)
英字新聞「Japan Times on Sunday – Time Out」 特集で《小澤征爾が次世代に伝えること》をテーマに、小澤総監督の教育活動の原点となる長野県山ノ内町立山ノ内中学校の《小澤コンサート》をはじめ、小澤国際室内学アカデミー、小澤征爾音楽塾、スイス国際室内学アカデミーが、紹介された(https://www.japantimes.co.jp/culture/2017/12/02/music/master-class-conductor-seiji-ozawa-passes-knowledge-new-generation/#.XTg4HPZuLIV)
2018年(平成30年)83歳
1月12日8:15~9:15放送のNHK総合「あさイチ」に生出演(http://www1.nhk.or.jp/asaichi/archive/180112/1.html)
3月大動脈弁狭窄症と診断されて治療と精密検査で一か月間入院。
4月に大動脈弁狭窄症の手術し、手術後から療養生活に入った。
・予定していた京都、愛知、東京でのオペラ計4公演の指揮を降板した。
8月大動脈弁狭窄治療のため入院したため小澤塾の公演を降板となった
2019年(令和元年)84歳
3月、京都市内の演奏会で指揮したが、その後、急性気管支炎で一時入院。24日上皇ご夫妻が鑑賞された東京公演で約2カ月ぶりに指揮を務めたが、体力の消耗が激しかったため、静養することになった
5月26日、水戸市の水戸芸術館で水戸室内管弦楽団の定期演奏会で、急遽、降板。7月31日紀尾井ホールで行われた「小澤国際室内楽アカデミー奥志賀ー東京公演」でアンコールで指揮台に上がった小澤征爾は、ベートーヴェン:《弦楽四重奏曲 第16番》 Op.135 第3楽章を指揮した
8月に松本で10分ほど指揮を降ったのが最後となる。
体調に関しては以下の状態だったそうです。
<下、「小澤国際室内楽アカデミー奥志賀ー東京公演」でアンコールで指揮台に上がった征爾は、ベートーヴェン:《弦楽四重奏曲 第16番》>
【2019OICMA 東京公演映像公開】7月31日に紀尾井ホールで行われた、小澤国際室内楽アカデミー奥志賀 東京公演。アンコールで指揮台に上がった小澤征爾の指揮による、ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第16番 Op.135 第3楽章の映像を一部ご紹介します。この楽曲は、アカデミー奥志賀で長年講師として活躍し、昨年1月に亡くなられたヴァイオリニストのロバート・マン氏が、ジュリアード弦楽四重奏団期より最も愛し、何度も指揮をした曲の一つ。近年、小澤征爾も好んで取り上げている思い入れの深い曲で、7月30日に行われたリハーサルの際にも、しみじみと「良い曲だね」と受講生たちに話していました。ベートーヴェンが完成させた最後の作品としても知られるこの曲は、今年のセイジ・オザワ 松本フェスティバル「ふれあいコンサートI」(8月18日)で、小澤征爾スイス国際アカデミーも演奏する予定です。【2019OICMA Tokyo performance Beethoven video】2019OICMA closed its curtain at Tokyo performance on July 31st at Kioi Hall. Tutor of the academy Seiji Ozawa stood on the podium at the end of the concert and conducted Beethoven: String Quartet No.16 Op.135 3rd movement. This music was loved by one of the great tutors at the academy, late Mr. Robert Mann, and he conducted this piece many times. Seiji Ozawa himself also loves this work and he said to the academy students at the rehearsal "such a wonderful music". Beethoven: String Quartet No.16 will be performed by Seiji Ozawa International Academy Switzerland at the Seiji Ozawa Matsumoto Festival "Chamber Concert I" this summer.
小澤国際室内楽アカデミー 奥志賀さんの投稿 2019年8月2日金曜日
2020年85歳
9月1日<Happy Birthday to Seiji Ozawa from NJP新日本フィル>
9月1日ボストン市長が2020年9月1日をSeiji Ozawa Day(小澤征爾の日)に制定
9月6日最新情報 – 小澤国際室内楽アカデミー奥志賀
ozawa-academy.com/news-entry-キャッシュ
<“こういう時だからこそ音楽を届けたかったんです。ぼくは今回は奥志賀に行けなくてとても残念ですが、今年もまた奥志賀で音楽会ができて嬉しいです。
奥志賀のアカデミーで成長した若い音楽家たちの演奏を皆さん楽しみにしていてください。”小澤国際室内楽アカデミー奥志賀 理事長>
Seiji Ozawa
9月6日(日)15:30より、これまでのアカデミー受講経験者を主体とした2組のカルテットによる『第35回 森の音楽会』を …
https://www.youtube. com/watch?v=yp6KGNjBzoU&feature=youtu.be … 【東京公演 小澤征爾の指揮で終演】
2022年86歳
3月24日NEWSポストセブンは、小澤征爾氏が24時間の看護体制で自宅療養中だと報じた。
11月23日<毛利衛さんの初飛行から30年記念企画>国際宇宙ステーションに向けて生中継、同時に全世界に向け同時公開された。日本の宇宙航空研究開発機構との共同イニシアチブである「ONE EARTH MISSION」では、小澤征爾は国際宇宙ステーションへのベートーベン《エグモント序曲》の生演奏を指揮し、史上初めて生のオーケストラ・コンサートが宇宙に送信された。
征爾はこの演奏会を指揮した。この演奏会はSKOと宇宙航空研究開発機構が共同で企画して、ライブ配信で宇宙飛行士の若田光一さんが滞在するISS・国際宇宙ステーションに、オーケストラの演奏を宇宙へ生中継された。
長野県松本市のキッセイ文化ホールで、約3年ぶりに総監督を務めるサイトウ・キネン・オーケストラを指揮した。
ベートーヴェン《エグモント序曲》
指揮:小澤征爾/サイトウ・キネン・オーケストラ
11月23日長野県松本市のキッセイ文化ホールにて
<(PR Video) ONE EARTH MISSION – Unite with Music>
2023年87歳
9月2日「2023セイジ・オザワ 松本フェスティバル」に出演するため、来日したジョン・ウィリアムズ氏はサイトウ・キネン・オーケストラを指揮、《スター・ウォーズ》や《インディ・ジョーンズ》など、映画音楽などを演奏した。アンコールの《レイダース・マーチ》の演奏を終えたウィリアムズ氏が舞台袖に目を向け「セイジ!」と呼びかけると、車いすに乗ったマスク姿の小澤征爾氏が姿を見せた。
2024年88歳
1月23日元妻である江戸京子が死去
小澤征爾さん介護については、家族の中では長女の征良さんがずっと寄り添っていたという。
2月6日東京都内の自宅で心不全で逝去、88歳の生涯であった
葬儀・告別式は近親者で営まれ、後日お別れの会を開くことを検討しているという。
・以下https://www.news-postseven.com/archives/20240214_1941158.html/2《小澤征爾さん逝去》実弟が明かした「世界のオザワ」が病室で迎えた“沈黙”の最期「征悦ちゃんも桑子さんも無言で立ち尽くして」から引用
『征爾さんの弟である俳優でエッセイストの小澤幹雄(86)氏が最後に兄に会ったのは、この「セイジ・オザワ松本フェスティバル」だったという。『NEWSポストセブン』の取材に答え、兄を追悼した。
「病気を患ってからは体も動かなくなって指揮もできなくなってしまいましたけど、晩年も『指揮がしたい』と話していました。ステージに上がるのも難しくなり、総監督としてコンサートの陣頭指揮をとっていました。私が最後に征爾と会ったのは、昨年に長野で行われたコンサートです。込み入った会話をする時間はありませんでしたが、こんなに早く別れの日が来てしまうとは思っていませんでした。兄は小さい頃からいろいろなことに気遣いしてくれて、声をかけてくれる優しい人でした。とても感謝しています」(小澤幹雄氏、以下同)
訃報が届いたのは、2月6日の午前だった。
「征爾の訃報を聞いて急いで病院へ向かいました。静かに息を引き取ったようで、安らかに眠ったような顔をしていました。よしちゃん(小澤征悦)や奥さんの桑子真帆さんもいて、みんな黙って立ち尽くしていました。
大往生だと仰る方もいらっしゃいますが、征爾はまだまだやりたいことがあったんじゃないかと思います。今も兄の指揮する姿が頭から離れません」』
4.初演記録premiere
(クリックまたはタップで各項目にジャンプします。)
小澤征爾初演記録
5.主なレコーディング記録Main recording records
全集Complete works
・ラヴェル管弦楽全集(ボストン交響楽団)(ドイツ・グラモフォン)
・マーラー交響曲全集(ボストン交響楽団)(フィリップス)
・ブラームス交響曲全集(サイトウ・キネン・オーケストラ)(フィリップス)
・ベートーヴェン交響曲全集(サイトウ・キネン・オーケストラ)(フィリップス)
・春の祭典(シカゴ交響楽団)(RCA)
・カルメン全曲(フランス国立管弦楽団)(フィリップス)
・プロコフィエフ交響曲全集(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)(ドイツ・グラモフォン)
・ドヴォルザーク交響曲第8番、交響曲第9番(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)(フィリップス)
ボックス・セットBox Sets
・コンプリート RCA&コロンビア・アルバム・コレクション (51 CD)
・Seiji Ozawa Anniversary 2010 (Decca, 11 CD)
・The Complete Deutsche Grammophon Recordings (50 CD)
・The Complete Warner Recordings (25 CD)
・小澤征爾コレクション EMIレコーディングス (7 CD)
・The Philips Years (50 CD)
・German Masterworks (Decca, 15 CD)
・小澤征爾70歳記念BOX (71 CD&DVD)
・ムター&小澤征爾 ドイツ・グラモフォン録音集 (10 CD)
主な出版物
・「ボクの音楽武者修行」
・「音楽」(武満徹と共著)
・「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(村上春樹と共著)
・「同じ年に生まれて」(大江健三郎と共著)
・「小澤征爾指揮者を語る」(インタビュー有働由美子)
・「父を語る」(編)・「父を語る その二」(編)
・「おわらない音楽:私の履歴書」
・「やわらかな心をもつ」(広中平祐と共著)
・「斉藤秀雄講義録」(編集委員)
6.小沢征爾 主な指揮記録Archive
(クリックまたはタップで各項目にジャンプします。)
小澤/ニューヨークフィル-全指揮記録(1961年4月13日-1971年2月22日)
小澤/旧・日本フィル-全指揮記録(1961年6月22日-1972年6月16日)
小澤/ウィ-ン国立歌劇場-全指揮記録(1988年5月16日-2009年10月13日)
小澤/サイトウキネン-指揮記録(1984-2019)記録不明
小澤/水戸室内管-指揮記録(1990-2020)記録不明
小澤/ボストン響-全指揮記録-Ⅰ(1960年07月14日‐1976年08月29日)
小澤/ボストン響-全指揮記録-Ⅱ(1976年09月30日‐1979年08月31日)
小澤/ボストン響-全指揮記録-Ⅲ(1979年09月01日‐1983年08月28日)
小澤/ボストン響-全指揮記録-Ⅳ(1983年09月28日‐1987年08月30日)
小澤/ボストン響-全指揮記録-Ⅴ(1987年09月28日‐1991年09月07日)
小澤/ボストン響-全指揮記録-Ⅵ(1991年10月03日‐1995年08月06日)
小澤/ボストン響-全指揮記録-Ⅶ(1995年09月28日‐2008年11月29日)
<無断転載禁止:小澤/ボストン響-全指揮記録、小澤/ウィ-ン国立歌劇場-全指揮記録、小澤/ニューヨークフィル-全指揮記録>
<参考>
1. ボストン響のアーカイヴはPerformance History Search (bso.org)
2. Performance History – New York Philharmonic | Digital Archives
https://archives.nyphil.org/performancehistory/#program
ニューヨーク・フィルのアーカイヴはNew York Philharmonic | Digital Archives (nyphil.org)/New York Philharmonic | Digital Archives
3. アメリカでは、カーネギーホールのアーカイヴ(Performance History Search | Carnegie Hall)
4. ウィーン・フィルのアーカイヴ(公演アーカイブ – ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (wienerphilharmoniker.at)
5. サントリーホールのアーカイヴはサントリーホール 公演アーカイブ (suntory.co.jp))
6. 東京都交響楽団のコンサート・アーカイヴ|東京都交響楽団 (tmso.or.jp))が
7. 東京文化会館演奏アーカイブhttps://i.t-bunka.jp/
8. 東京文化会館演奏のみアーカイブ日本フィルハーモニー交響楽団https://i.t-bunka.jp/search/result?q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%83%BC%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%A5%BD%E5%9B%A3&g%5B%5D=concert
7.小澤征爾 関連動画Youtubee
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小澤征爾 関連動画
8.小澤征爾の父小澤開作 年譜Family lineage
(クリックまたはタップで各項目にジャンプします。)
小澤征爾の父小澤開作
9.その他Others
➀ 1963年音楽評論家の秋山邦晴は自著「現代音楽をどう聴くか」の「小澤征爾(当時28歳/編者)」の項のなかで次のように述べ、将来を予言した。
『指揮者というものは、いわばアル・カポネの条件をそなえていなければならない。こう定義したのは芥川也寸志である。指揮者は直接に手をくだして音を発することはしない。けれどもその配下にある組織には絶対の力をもっている。そしてかれの大胆にして細心の計画を、命令一下、忠実に実行させる絶大なる腕力と尊敬をかねそなえていることが必要である。これはつまり、かの有名なギャング団のボス的存在であったアル・カポネとおなじだというのである。この論法でいけば、さしずめ小澤征爾はカポネにどれほど近づいたかを書くのが、ここでぼくにあたえられている役割ということになるわけだ。しかし小澤にはおよそそのような親分的な風貌や性格が感じられない。むしろ組織のなかのボス的存在とは逆の魅力がつよい。それはあくまでかれの個人的な魅力といえるものだ。・・ぼくが初めて小澤征爾の指揮を<聴いた>のは、たしか1958年(小澤征爾23歳/編者))、かれが桐朋学園のオーケストラを振った卒業演奏だった。ヨハン・シュトラウスのワルツを指揮したのだが、ぼくはたいへん興味深く感じたのをおぼえている。だいたい型やぶりなのだ。指揮者の卵の演奏には、たいてい大指揮者のレコード演奏の下敷きがどこかに感じられるものだ。ところが小澤の演奏には、それがまったく見当たらない。それもウィンナ・ワルツとなれば、その抑揚の独特のとり方に難しさがあり、それを表現するためにはレコードで勉強するだろう。しかし小澤はそんな型にとらわれず、リズムのてきぱきとした、熱っぽいかれのウィンナ・ワルツを情熱的に演奏した。それはぼくにはたいへんおもしろかったのである。いわばそれはかれの音楽家としての個人的な魅力をはじめてしらされた<表現>であった。その演奏会の帰り道、ぼくは友人の数人の批評家たちにその魅力を論つづけたのをおぼえている。それならば、小澤は他人の表現や個性的なスタイルにまったく無関心かといえば、そうではない。ひといちばいの勉強家なのである。略・・1959年(小澤征爾24歳/編者))の秋のことだった。当時ベルリンにいたぼくは、ひょっこりやってきたかれと一ヶ月ほど同宿することになった。折からベルリン芸術祭が開催中で、世界の名演奏家やオーケストラ、合唱団が連日演奏をくりひろげていた。小澤はまったくまめによく通った。おまけにスコアを買っては各指揮者の表現を細部にわたって研究していた。それが老指揮者であろうと、若手であろうとおなじように究明しつくしながら、あれはいい、あそこはこうあるべきではないかと、ぼくに向かって質問し批評した。ぼくより五つ六つ年下のこの青年が、なかなか適確な批評をもっていることを知らされたものである。そしてなんて無駄のない男だ、とぼくは関心させられもした。ともかく一時間だって無意味にすごさないのだ。楽譜を調べる。演奏会の練習にもぐりこむ。自分に必要とあらば少々強引なまでにおしかけていって、事務的あるいは政治的な交渉を実行する。昨年のあの事件は、棒の振り間違いなどという問題で、小澤がいかにも未熟な青年指揮者だといった印象を悪意的にひろがらせた。しかしかれの指揮棒の技巧はなかな適確なものである。たとえば現代の巨大な、モニュメンタルな壁画といったメシアンの《トゥーランガリラ交響曲》を、昨夏ふったあの名演。複雑に交錯し変化するリズムと音色の饗宴といえるあの難曲を、あれほど適確な把握で、熱っぽくもりあげていったかれの表現。それはかれの指揮棒の技巧の適確さと、多彩な才能を証明してあまりあるものだったとおもう。そこにかれの特徴もはっきりとあらわれていた。かれの表現はリズムとテンポの新鮮さにある。うんとゆったりした表現のなかにも、けっしてだらだらした感覚がない。それに色彩感と抒情性といったものが、明るくブリリアントにうきあがってくる。以下略・・それを裏書きするように、最近のかれの海外演奏についてのいろんな批評は、オザワはロシア音楽やドイツ音楽に若い指揮者とはおもえぬすばらしい表現をみせたと論じている。以下略・・このすぐれた若手指揮者は、こうして大胆にして細心の”かれ”の計画を着々と実行しているのだ。カポネの肖像はすててしまってもかまわない。そのかわり小澤征爾の内部の立派な肖像を段々大きくしていくことだ、そのときさまざまなわが国の雑音がきこえなくなるはずだ。そしてわが国にはユニークな”指揮者”という存在がはっきりと浮かびあがってくることだろう。(1963年)』
引用:秋山邦晴著、「現代音楽をどう聴くか」、発行晶文社、刊行1973年、177-182頁
➁ ベルリン・フィル関係ニュース/アーティスト・インタビュー
小澤征爾
聞き手:ファーガス・マクウィリアム(ベルリン・フィル、ホルン奏者)
今号では、5月にメンデルスゾーンの《エリア》で客演した小澤征爾のインタビューをご紹介します。この演奏会は、ベルリンにおける小澤の公演のなかでも特筆すべき出来栄えでしたが、それはベルリン・フィルとの長い友好関係がもたらした成果でしょう。ベテラン団員ファーガス・マクウィリアムによる親愛に満ちた受け答えも、絆の深さを象徴しています(マクウィリアムが心からの愛情をもって接しているので、ぜひ映像をご覧ください)。
マクウィリアム 「セイジ、ちょっと握手させてください」
小澤「ああファーガス、もちろんですよ」
マクウィリアム 「というのは、私たちが一緒に演奏し始めて40年になることに、2年前気がつきましたよね。すごい年月です。40年前、あなたはトロントで指揮されていました。その時私はほんの子供でしたが、あなたの指揮でデビューしたのです(注:マクウィリアムは1967年、15歳の時にトロント交響楽団でソリストとして初舞台を踏んでいる)」
小澤 「あなたは、どうしてトロントにいたんですか」
マクウィリアム 「家族がスコットランドからカナダに移住したのです。トロントで音楽学校に行きまして、ホルンを勉強したのです。今はもう随分長い間ヨーロッパにいるわけですけれども」
小澤 「なるほど」
マクウィリアム 「あなたは今、ベルリン・フィルと共演する音楽家のなかでも、最も関係が長い指揮者のひとりです。ご健康でいてくださり、こうして共演を続けられていられることに、心から感謝しています。42年前にベルリン・フィルを初めて指揮された時、あなたは…」
小澤 「カラヤン先生の弟子でした」
マクウィリアム 「しかしその前に、日本の先生にもついていらっしゃったんですよね」
小澤 「齋藤秀雄先生です」
マクウィリアム 「齋藤氏の名前は、サイトウ・キネン・オーケストラのおかげで欧米でも有名になりました」
小澤 「キネンというのは、メモリアルという意味です。でもメモリアルという英語はちょっと暗い感じがしますよね。ですから“記念”という日本語を使うことにしたのです。“記念”は日本語では暗い感じがしませんし」
マクウィリアム 「キネンと呼ぶ方が、ポジティヴなイメージがあるのですね。齋藤氏は、あなたにとって非常に重要な方のようですが、一体どんなことを教えたのでしょう」
小澤 「日本には当時、クラシック音楽の伝統がありませんでした。齋藤先生はチェリストとしてドイツにやって来て、エマヌエル・フォイアーマンのもとで勉強したのです。フォイアーマンの方が齋藤先生よりも少し若かったのですが……。これはずっと後のことですけれども、私がボストン交響楽団とカーネギー・ホールに客演した時に、ニューヨークにお住いのフォイアーマン夫人が私を訪ねてきたのです。そして齋藤先生のことを語られました」
マクウィリアム 「彼は、様々な人々に強い印象を与えたのですね」
小澤 「齋藤先生は、クラシックの伝統がないアジアの音楽学生に必要なことを、たいへんよく理解していました。彼はパリ音楽院からソルフェージュと聴音の先生を2人招聘し、日本で教えさせたのです。そして非常に理論的な教育法を行いました。彼はどのようにスコアを読むべきかを、完璧にマスターしていたのです。本当に隅々までディティールを読み、知的に解釈していました。しかしレッスンそのものは、アカデミックに硬直したものではありませんでした。感情表現としてのフレージングを重視し、きわめてエスプレッシーヴォ。フレーズがどこからやってきて、どこへ流れて行くのかを、エモーショナルに示したのです。細部の解析と感情的な表現の両方を教えることが、齋藤先生の最も素晴らしい点でした」
マクウィリアム 「当時の日本では、西洋のクラシック音楽はほとんど知られていなかったのですね」
小澤 「ほんの少しのロシア人音楽家、ヨーロッパのユダヤ人音楽家が来たのみで、聴く機会はあまりありませんでした」
マクウィリアム 「素晴らしい先生に出会われたわけですが、あなた自身は、どのようにクラシックに目覚めたのでしょう」
小澤 「子供の頃、私の兄がピアノのレッスンを受け、作曲の勉強をしていました。しかし私自身もピアノが大好きで、ずっと弾いていたのです。しかしオーケストラのスコアや室内楽には関心がありませんでした。少年時代はラグビーもやっていたのですが、ご存知のようにラグビーは荒っぽいですよね。それで2本指を折ってしまい、ピアノが弾けなくなったのです。当時ピアノを習っていたのは、豊増昇先生というバッハの権威だったのですが、この方が突然“君はどうして指揮をやらないの?”と言いました。当時日本で指揮をしていたのはヨーロッパ人、アメリカ人、ロシア人で、日本人は齋藤先生を含めて少ししかいませんでした。そうして私は、14歳で生まれて初めてオーケストラを聴きに行ったのです。演奏したのは、レオニード・クロイツァー。彼はナチスに追われて日本に来ていたのですが、指揮をしながらベートーヴェンの《皇帝》を弾きました。それは私にとって、決定的な瞬間でした。それ以来、スコアを読み、指揮の勉強をするようになったのです。齋藤先生にも教えていただくようになったのですが、先生は当時、指揮の学生をほとんど取っていませんでした。しかし幸運にも弟子の1人に加えていただき、ほとんど毎週末、先生のもとで勉強していました」
マクウィリアム 「彼はあなたを大事にして、集中して教えたのですね」
小澤 「本当に幸運でした。本当に……。その後ベルリンに来て、カラヤン先生にも教えていただきました。これも少数の学生だけだったと思います。ヴィリー・ブラントがベルリン市長だったのですが、あれはカラヤンとブラントのアイデアだったのでしょう」
マクウィリアム 「若い指揮者のワークショップとコンクールのことですね」
小澤 「そうです」
マクウィリアム 「それ以来40年以上にわたってご一緒してきましたが、あなたはカラヤン時代以来、今や我々の伝統の一部となっています。もちろんメンバーは相当変わりましたけれど(笑)」
小澤 「カラヤン時代の伝統は、今でも立派に受け継がれていると思いますよ。素晴らしいです。デビュー当時のことに戻ると、私はカラヤン先生がどうしてあんなに私に目をかけてくれたのか不思議なのです。彼が私をベルリン・フィルに招待してくれた時は、わぁーという感じで気が動転しました」
マクウィリアム 「その感覚は私も知っています(笑)」
小澤 「普通客演指揮者がプログラムを作る時は、オーケストラのマネージメントと話をするものですよね。しかしこの時は、カラヤン先生自身が“お前のプログラムは私が作る”と言ってくれたのです。それでザルツブルクやベルリンに電話して決めました。でも、彼の英語はゴニョゴニョしていて聴き取りにくいでしょう」
マクウィリアム 「ここだけの話ですが、ドイツ語の時もそうですよ(笑)」
小澤 「ああ、そうなんですか(爆笑)。それで何度も聞き返してひどい電話だったんだけれども、彼は多くの新しい曲をやるように求めました。今回演奏する《エリア》も、そのひとつだったと思います。例えばバルトークの《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽》もそう。それで私は一生懸命勉強して、ベルリンにやってきたのです」
2016年4月8日 小澤征爾 with ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
<お気に入りの生徒が帰ってきた>
小澤征爾は半世紀にわたってベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の最も人気のある客演指揮者の一人である。最近病気のため多くのキャンセルを余儀なくされていた80歳の彼の復帰コンサートは嬉しい驚きだ。
昨年80歳の誕生日を迎えた小澤征爾は最近、健康上の理由から多くのコンサートをキャンセルしなければならなかった。これは、この日本人指揮者が1966年のデビュー以来、密接な関係を築いてきたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団にも当てはまります。小沢氏が久しぶりに代役を務め、その間に若手が代役を務めていたことが知られると、驚きはさらに大きかった。ズービン・メータ氏の代わりに小沢氏が再びベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、その管楽器奏者が初めてモーツァルトの曲を演奏したのである。 「グラン・パルティータ」は指揮者の指導なしで独奏的に演奏されました。稀に演奏される「合唱幻想曲」を含む、ベートーベンの印象的な 2 つの作品で、才能豊かなミュージカル俳優小沢の演壇での演奏を聴くことができます。
小澤氏が単なる客演指揮者以上の存在であるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団にとって、これは特別な瞬間である。1935年に現在の中国で生まれたこの音楽家は、ヘルベルト・フォン・カラヤンに師事し、カラヤンの「愛弟子」とみなされ、カラヤンの死後は音楽後継者の役割に成長したが、もちろんカラヤンの演奏家には選ばれなかった。後任: 1989 年にクラウディオ アバドが任命されました。小澤はカラヤンと関わりがあった一方で、独立した立場を保っていた。何十年もほとんど飼い慣らされていないヒッピーのたてがみをした快活な男は、非常に特異な指揮者であり、彼のもう一人の教師はカラヤンの対極であるレナード・バーンスタインだった。
小澤:緻密で高尚な演奏をする人。壮大な作品を好む指揮者で、クラシックのレパートリーに夢遊病のような自信を持ち、パウル・ヒンデミットのオーケストラ作品のような新しくて(今日では)遠いものに対する多大な情熱を持っています。ミュージカル・ベルリンは、同世代最後のグランドマスターの一人に再会することを楽しみにしている。
ベルリン・フィルハーモニーからのライブ
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
管楽器のためのセレナード ロ長調 KV 361「グラン・パルティータ」
午後8時55分頃、コンサート休憩
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの悲劇「エグモント」序曲作品84
合唱、ピアノとオーケストラのための幻想曲 ハ短調 作品80
ペーター・ゼルキン(ピアノ)
ベルリン国立歌劇場
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:小澤征爾(ベートーヴェン)
出典:https://www.deutschlandfunkkultur.de/seiji-ozawa-bei-den-berliner-philharmonikern-der-100.html
➂ 「NHK交響楽団にボイコットされて窮地に立った27歳の小澤征爾を救った仲間たち」