生没年・出身地・歿地・墓地
ラインハルト・カイザー生誕 Reinhard Keiser
(1674年1月9日現在のザクセン=アンハルト州トイヘルン生)
(1739年9月12日ハンブルグで歿)
1.職業
ドイツ、バロックの作曲家
2.称号
3.経歴
父ゴットフリート・カイザーは、オルガンニスト・教師であったが、ゴットフリートは、ラインハルト・カイザーが幼い時に妻と二人の息子を残して離婚した。
音楽は父以外の地元のオルガニストから学んだ
1685年11才でライプツィヒのトーマス学校に入り、トーマスカントルのヨハン・シュッレde:Johann Schelle、オルガニスト・作曲家のヨハン・クーナウJohann Kuhnau,に学ぶ
1692年ハンブルクの市民歌劇場オーパー・アム・ゲンゼマルクトにオペラ研究のために来ていた
1694年ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯の宮廷作曲家となる。ハンブルクで歌劇《アルカディアのバシリウス Basilius in Arkadien》上演。
1697年ハンブルクに定住。ゲンゼマルクト・オーパー(現在のハンブルク国立歌劇場)の首席作曲家
1702年第一楽長命ぜられる
1703~1709年の間、貴族を対象としたオペラとは対照的に週2~3回の商業的なオペラ公演を行うようにした。ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルがヴァイオリン及びハープシコード奏者として加わる
1704年政治的な関りでハンブルクからブランズウィックに、その後はヴァイセンフェルスに行った。 7月《Weissenfels》と《Almira》を発表し、しばらくの間そこに滞在した
1705年の復活祭の後にハンブルグに戻りは無数の新しい作品を生み出していくことになる。ハンブルクでヘンデルのオペラ《ネロ》の世界初演。
1718年ハンブルクのゲンゼマルクト・オーパーのオペラ部の解散になったため、経営陣は交代し、カイザーは音楽監督として退任した。 彼は他の雇用を探すためにハンブルクを去り、チューリンゲン、そしてシュトゥットガルトに行った。
1721~1927年ハンブルクの歌劇団とコペンハーゲンに向かった。その間、ハンブルクとコペンハーゲンの間を行き来するようになる。デンマーク王室礼拝堂宮廷楽長の称号を得る。ゲオルク・フィリップ・テレマンがハンブルク・オペラに加わる
1722~1734年カイザーはテレマンにガンセマルクト・オーパーに連れ戻された。 カイザーはテレマンと一緒に仕事をした。カイザーが作曲と製作の中心的な役割を果たし、テレマンが上演した。 カイザーは幾つかのオペラを完成した
1728年12月28日~1739年9月12日の間、ハンブルクの聖マリア大聖堂のカントルに就任し、没するまで宗教音楽の作曲に専念した
4.主な作品
マルコ受難曲
ブロッケス受難曲 (1712)
歌劇「ポモナ」(Pomona)
歌劇「怒れるマサニェルロ」
歌劇「愛人アドニス」
歌劇「クロイソス」
歌劇「トミリスの寛大さ」
歌劇「フレデグンダ」
歌劇《アルカディアのバシリウス》
歌劇《プロクリスとケファルス 》
歌劇「クラウディウスの誘惑」
歌劇「バビロンの王」
歌劇「美徳の力」
フルート、ヴィオラ・ダモーレと通奏低音のための3声のソナタ第1番
弦楽のための協奏曲
声楽アンサンブル「キリストの生誕における対話」
モテット「私の偽りの言葉で安心して眠りにつく」/「私たちは全て迷いの中にいく」/祝福された救済への思想
アリア「最愛のアドニス」
アリアやデュエット、カンタータ、セレナーデ、教会音楽やオラトリオの大作、劇付随音楽など
5.その他
現在ではあまりその名は知られていないが、当時の音楽評論家ヨハン・アドルフ・シャイベから、クーナウや、ヘンデル、テレマンらと並ぶ巨匠のひとりに挙げられている。
6.初演
7.関連動画
歌劇「クロイソス」からシンフォニア