
「イタリア、ルネサンスのローマ楽派の作曲家・カトリック司祭・歌手」
グレゴリオ・アレグリGregorio Allegri(1582-1652)
史上初の弦楽四重奏曲を作曲した人物として知られている。
1582年1月14日頃ローマで生まれた。
彼はサン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会にて、ジョヴァンニ・マリア・ナニーノの弟である楽長ジョヴァンニ・ベルナルディーノ・ナニーノGiovanni Bernardino Naninoに師事し、少年聖歌隊員として音楽を学んだ。聖職に就くことが予定されていたため、フェルモ大聖堂における聖職禄を得た。彼はここで数多くのモテットやその他の宗教曲を作曲し、それらが教皇ウルバヌスⅧ世の目に留まったことで、ローマのシスティーナ礼拝堂聖歌隊にコントラルト歌手として採用されることになった。ドメニコ・アレグリの兄弟でもあった。主に2つの合唱団のための「ミゼレーレ」の作曲者として知られている。
1652年2月17日ローマで歿)
3.経歴
・彼はサン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会にて、ジョヴァンニ・マリア・ナニーノの弟である楽長ジョヴァンニ・ベルナルディーノ・ナニーノGiovanni Bernardino Naninoに少年聖歌隊員として師事し音楽を学んだ。聖職に就くことが予定されていたため、フェルモ大聖堂における聖職禄を得た。彼はここで数多くのモテットやその他の宗教曲を作曲し、それらが教皇ウルバヌスⅧ世の目に留まったことで、ローマのシスティーナ礼拝堂聖歌隊にコントラルト歌手として採用されることになった。
・彼は1629年12月6日から1652年死去するまで、その職を務めた。アレグリは徳の高い人物であり、温厚な性格で、貧しい人々や囚人に対して寛大であったと伝えられている。
・彼は弦楽器のための楽曲を手がけた最初期の作曲家の一人であり、アタナシウス・キルヒャーAthanasius Kircherはその著書「Musurgia Universalis」の中で、この種の作品の例を一つ紹介している。
・アレグリの出版された楽曲の多く、とりわけ器楽曲は、初期バロックの先進的な様式である「stile concertato(協奏様式)」に基づいている。しかし、システィーナ礼拝堂のために書かれた作品はパレストリーナ様式を継承しており、その洗練された簡素な様式からさえも、局所的な装飾をほぼ完全に削ぎ落としているものもある。
作品:1618年と1619年に出版された5声のコンチェルト集2巻、1621年に出版された6声のモテット集2巻、4声のシンフォニア、5つのミサ曲、2つの「エレミアの哀歌」の曲、そして生前には出版されなかった多数のモテットなどが含まれている。作品の中で、圧倒的に有名かつ高く評価されているのが、ウルガタ聖書の詩篇50篇(ヘブライ語聖書等の詩篇51篇)に基づく「Miserere mei, Deus」で、この曲は5声と4声の2つの合唱団のために書かれており、広くその名を知られている。
・「ミゼレーレ」は、実際にはバロック時代の年代区分に属する時期に作曲されたものの、ルネサンス後期の音楽として最も頻繁に録音されている作品の一つである。この作品は神秘的で容易には近づきがたいものとして大きな名声を博していた。バチカンはその神秘的な雰囲気を守ろうとして楽譜の複製を禁じ、出版や複製を試みる者には破門を科すと警告していた。しかし、1770年に14歳のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがローマを訪れた際、事態は予想外の展開を見せた。モーツァルトは父親との旅行中にこの曲をわずか2回聴いただけで、記憶を頼りに正確に書き起こし、史上初の非公式な写譜を作成したのであった。とはいえ、モーツァルトが1770年にローマを訪れる以前から、ヨーロッパではすでにこの作品の写譜が出回っていたことを示す証拠も存在する。モーツァルト自身、1764年か1765年にロンドンでこの曲の演奏を耳にしていた可能性もあった。
2. その他
1770年、14歳だったモーツァルトが父レオポルドとローマを訪れた時、アレグリの「ミゼーレ」を1-2度聴いて正確な採譜をしたという有名な話がある
3. 初演
4. 関連動画
⬇ youtube「ミゼレーレ」
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「Opere Inedite dai Manoscritti della未発表作品集」
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「rom the Altemps Manuscriptアルテンプス写本より」