戸田邦雄


戸田邦雄(TODA, Kunio)
本名real name:戸田盛國(TODA, Morikuni)

生没年・出身地・歿地・墓地
1915年8月15日東京府本郷の東大病院一号室で生まれる
2003年7月8日肺炎により三鷹市杏林病院にて逝去

1.職業


作曲家・音楽教育者・国家公務員(外務省外交官)

【楽歴】
1938年ハイデルベルク大学で和声学・音楽学の聴講生
1941年諸井三郎に作曲・音楽技法を師事
1954年毎日新聞=NHKの「音楽コンクール」作曲部門審査委員就任(1976年まで)
1955年4月桐朋学園大学音楽科非常勤講師
1961年ユネスコ本部IMC(国際音楽評議会) Rostrum of Composers審査員
1964年桐朋学園大学音楽学部非常勤講師
1965年4月桐朋学園大学音楽学部専任講師・理論主任(~1968年3月まで)
1966年成城大学文芸学部芸術学科非常勤講師
1967年山梨県立女子短期大学非常勤講師
1968~1976年桐朋学園大学音楽学部教授・理論主任・図書館長
1970年桐朋学園訪欧弦楽オーケストラ団長
1971年桐朋学園大学音楽学部学部長補佐
1972年愛知県立芸術大学音楽学部大学院夏季集中講義担当
1976年桐朋学園大学音楽学部客員教授
1977~1996年桐朋学園大学音楽学部非常勤講師
洗足学園大学音楽学部教授・音楽学部長(1977~1988年)
1980年洗足学園大学訪欧州演奏・研修団団長
1988~1996年洗足学園大学客員教授

【関係団体】

【受賞(章)歴】
<コンクール>
1943年《交響序曲イ短調》と交響詩《伝説》がビクター管弦楽懸賞に入選
1952年《ト調の交響曲》が第一回尾高賞佳作
<その他>
1956年フランス国レジオン・ド・ヌール勲章オフィシェ章受章
勲四等旭日中授章受賞

2.称号

3. <家族>Familienhintergrund

父:戸田盛貞(尾崎三良の三男)(1883年9月4日~年)。
戸田美知の養子となり千代子と婚姻。戸田盛貞について、息子の二男戸田盛和は次のように書いている『父は利根運河という会社の役員で、私の記憶では、日本橋の横に立っていた細長い赤レンガの建物に会社があったようである。夏には麻の白い洋服に麦わらのカンカン帽が似合う父で、始まったばかりの遊覧飛行機に乗って東京大島上空を飛んだり、16ミリの撮影機やスパークレットサイフォンという家庭用のソーダ水製造機を買ったりする、新し物好きな面もあったようである。途中略~昭和の初めに世界恐慌の嵐が来て、銀行の倒産がおこったりしたとき、父も大きな打撃を受けたらしい。父が祖父からどの程度の遺産を受けていたのか知らないが、父の務めていた利根運河も、恐らく時代遅れの会社だったろうし、商才に恵まれていたとも思えない。家の移築などでも散財し、人にかつがれてつまらぬ事業にも手を出したらしく、遂には病気と失意の中に、祖母の家で戦争中に亡くなった』要約/戸田盛和著、『おもちゃと金平糖』2002年、岩波書店発行、P7~9

母:千代子(旧姓:喜多川)は、実家は絵師の俵屋宗達の流れをくむと称する京都西陣織屋「俵屋」喜多川平八で千代子はの四女とし1891年に生まれた。
京都第一高等女学校を卒業。菊池契月に日本画を習っていた。箏は生田流、ピアノを習ったようだ。実家は絵師の俵屋宗達の流れをくむと称する西陣の織屋。長男の戸田邦雄は次のように書いている『一家が破産状態で父が無能力化し、われわれ子供たちはまだ就学中で、何とか生計を建ててゆかなければならないようになると、お嬢様育ちだったにも拘わらず、母はあれやこれやと収入の道を模索し、強靭な生活力を発揮した。そして、子供たちがそれぞれ独立して生活が安定すると、母は師を得て仮名書道に精進、晩年は「毎日書道展」の審査員もつとめた。俳句もときどき作っていた』。要約/戸田邦雄著、『外交官の耳、作曲家の眼』、2009年、ARTES発行、P67

長男:戸田邦雄TODA, Kunio/本名:盛國(1915年8月11日-2003年7月8日)東京に生
東京帝国大学法学部政治学科卒業。外務省入省。
1945-1948年終戦で捕虜とりサイゴンの抑留所生活から帰国。外務省政務課長
1951年7月、外務省情報文化局第1課長兼第3課長
外務省文化局外務参事官。アメリカ合衆国教育委員会=フルブライト委員会理事就任。
毎日新聞=NHKの「音楽コンクール」作曲部門審査委員就任。
外務省研修所指導官。
桐朋学園大学音楽科非常勤講師。
外務省研修所幹事。
在フランス日本大使館参事官。
公使・ユネスコ常駐政府代表。
ミュンヘン万国著作権会議日本代表補佐。
コペンハーゲン国際海洋会議日本代表団員
ユネスコ本部IMC(国際音楽評議会) Rostrum of Composers審査員。
外務省退官。
桐朋学園大学音楽学部専任講師・理論主任
成城大学文芸学部芸術学科非常勤講師。
山梨県立女子短期大学非常勤講師。
桐朋学園大学音楽学部教授・理論主任・図書館長。
桐朋学園訪欧弦楽オーケストラ団長。
桐朋学園大学音楽学部学部長補佐。
愛知県立芸術大学音楽学部大学院夏季集中講義担当。
桐朋学園大学音楽学部客員教授。
桐朋学園大学音楽学部非常勤講師。
洗足学園大学音楽学部教授・音楽学部長。
洗足学園大学訪欧州演奏・研修団団長。
洗足学園大学客員教授
勲四等旭日中授章受賞。レジオン・ドンヌール勲章(フランス)
2003年7月8日肺炎により三鷹市杏林病院で逝去

二男:戸田盛和TODA, Morikazu(1917年10月20日-2010年11月6日)
東京教育大学教授、千葉大学教授、横浜国立大学教授、放送大学名誉教授、ノルウェー王立科学アカデミー会員、理学博士
1917年10月20日東京・六本木に生まれ
渋谷で育つ。
小学校3年のとき転校
7年制の武蔵高等学校尋常科入学
東京帝国大学理学部物理学科専攻/理論物理学。X線散乱のテキストと統計力学や量子力学を勉強し液体理論の研究を進めたり、結晶格子の振動、非線形波動を研究した。
1940年東京帝国大学理学部卒業し助手となる。その後、東京教育大学教授、千葉大学教授、横浜国立大学教授、放送大学名誉教授、ノルウェー王立科学アカデミー会員、理学博士、1981年「戸田格子」の研究で藤原賞、2000年日本学士院賞受賞。液体の理論や「戸田格子」とよばれる非線形理論で世界的に著名な理論物理学者。
著書/「物理読本」「力学」「熱・統計力学」「ベクトル解析」「統計物理学」(共著)「非線形格子力学」「おもちゃの科学」「液体理論」。訳書/「ファインマン物理学Ⅳ 電磁波と物性」「ハテ・なぜだろうの物理学」

三男:戸田盛忠TODA, Moritada(1920年4月12日-1945年4月)
東京音楽学校卒業、ピアニスト、1945年4月第二十七師団支那駐屯歩兵第二聯隊配属、中華民国湖南省にて戦病死。
1920年4月12日東京・麻布区にまれ。
日本中学校(現日本学園中学校・高等学校)卒業。一浪後、
東京音楽学校ピアノ科に入学
1930年4月~1932年2月までピアノをパウル・ショルツ門弟の千々部貞雄に師事
1935年5月~1937年8月まで掛谷保一に師事
1937年9月より永井進に師事。
1936年4月より声楽を掛谷安一に師事
1937年12月より薗田誠一に師事
1938年東京音楽学校予科入学(ピアノ)永井進に師事
1939年10月29日学友会第119回洋楽演奏会にて声楽部同級生・堀二郎のバリトン独唱の伴奏(ハイドン《四季》よりシモンの詠唱)、グノー《ファウスト》より(さらば故郷よ)
1941年2月16日学友会第120回洋楽演奏会にて声楽部同級生・今井正五のバリトン独唱の伴奏R・シュトラウス《あすこそは》《汝、わが心の冠》《よき人よ、今し別れぞ》。同年12月の卒業演奏ではショパン《バラードへ短調》を演奏した
1941年12月本科器楽部繰上げ卒業
1942年4月研究科に進む。徴兵検査体が弱く乙種合格。
1943年3月研究科第1学年試業成績は休学。同月末、麻布三聯隊に入隊
1944年3月研究科第2学年試業成績は休学(兵役)とある
1945年4月第二十七師団支那駐屯歩兵第二聯隊に配属され、中華民国湖南省にて戦病死
  
長女:戸田敏子(柴田南雄の最初の妻)
声楽家(アルト歌手)・声楽教師
東京音楽学校声楽科卒業
東京藝術大学講師、助教授、教授、名誉教授
桐朋学園大学音楽学部教授
二期会会員・二期会理事長
1978年第6回ウィンナーワルド・オペラ賞「オペラ大賞」受賞
1993年勲三等瑞宝章受章

二女:戸田綾子TODA, Ayako(1926年-没年不明)
1926東京に生まれる。
女子美術学校卒業。
「新制作派」に属し、のち「行動美術協会」に移り抽象的絵画を描いて展覧会に出品したりしばしば画廊で個展を開いた。

<戸田邦雄 プロフィール>
東京府本郷の東大病院一号室で生まれ、六本木で育つ。祖父尾崎三良は正二位勲一等男爵貴族院議員の称号をもつ。日比谷にあった屋敷が旧国会議事堂建設のため接収され、その代わりに六本木に土地を与えられて邸宅を建設した。戸田が数年をで過ごした家だった。義理のおじに尾崎行雄がいる。父盛貞はいわゆる高等遊民だったが、1927年の金融恐慌で没落した。東京府青山師範学校附属小学校から東京高等学校文科乙類を経て東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東大オーケストラ部の仲間に繁田裕司(後の三木鶏郎)がいた。
1938年に外務省に入る。ドイツ赴任中にカラヤンやフルトヴェングラーの演奏に接する。駐ソ連日本大使館勤務の後、独ソ戦の激化に伴い1941年に帰国して諸井三郎に作曲を師事した。その間に『ピアノ協奏曲』がコンクールに入選している。1944年、サイゴン(現在のホーチミン)に赴任。プノンペンで終戦を迎えた後、フランス軍によって抑留され、3年間をサイゴンにて送る。その間にルネ・レイボヴィッツの著書『シェーンベルクとその楽派』を読み、ピアノのための『前奏曲とフーガ』を作る。この曲は未完に終わったが、日本人が十二音技法をはじめて用いた作品だとされている。
帰国後外務省に戻るとともに、この本を柴田南雄や入野義朗に紹介した。彼らが十二音技法の第一人者としてみなされるようになったのは戸田の功績である。しかし自身は、オペラ『あけみ』(1956年までこの技法を封印する。その間、『ト調の交響曲』(1952年が第1回尾高賞に選ばれた。
1950年代からは舞台作品や声楽曲に力を注いでおり、5曲のバレエの他、オペラ『あけみ』『伽羅物語』、オラトリオ神秘劇『使徒パウロ』、カンタータ『袈裟と盛遠』(芥川龍之介原作)、語り物『高瀬舟』(森鷗外による)などが生まれている。
1964年に外務省を退職してからは、桐朋学園大学や洗足学園大学で教鞭をとった。
妹の戸田敏子は声楽家(アルト歌手)で東京藝術大学名誉教授。

4.戸田邦雄 歴史年譜


1915年
8月15日東京府本郷の東大病院一号室で生まれる。
六本木で育つ。『父盛貞は二男で、長男洵盛(外交官、男爵、陶磁器研究家)が祖父の六本木の男爵家と屋敷を継いだ。この屋敷は、私が生まれたころは六本木の交差点から霞町(現在の地名では西麻布)のほうに向かって少し行ったところの右側にあったのだが、相当大きな和風邸宅だった。
父方祖父尾崎三良は明治維新まえ、太政大臣三條實美公の家臣だった。維新後ロンドンに留学し英国人女性と結婚し、二人の女の子が生まれた。祖父尾崎三良は一時東京市長を務めたことがある。祖父は帰国後、年月を経て、英国に残した妻と婚姻を解消した。後に長女テオドーラは尾崎行雄(政治家、教育者。号は咢堂、「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれる。)と結婚、妹はノルウェー人のヨテボリと結婚した。
日比谷に住んでいた祖父尾崎三良は、旧国会議事堂を建設にあたり、代わりに六本木に土地を与えられて邸宅と、周囲にいくつかの借家を立てた。私の家はその借家の一つだった。』
『四歳の私は、弟の盛和が流行性感冒にかかったので、感染を避けるため、数週間母の京都の実家にひとり預けられた。
祖父の名は喜多川平八郎といったが、「俵屋」という名の旧くからの西陣織の家系であった。広い庭の向こうに何人もの職人たちが一日中働いている職場があった。
この京都から母に伴われて東京に帰ってきた。当時、東海道線はたしか富士山の北側を周り、東京と京都の間は蒸気機関車の列車で片道十二時間かかった。
私が帰って来た渋谷の家は東京都渋谷区宇田川町と呼ばれているが、当時の東京市は現在の山手環状線の内側ぐらいで、この地区は東京市の外側なので、東京府下渋谷町渋谷と呼ばれていた。家のあったのは、現在渋谷駅から西武デパートの角を周り、NHKのほうへ上がっていく大通りの左側にある東武ホテルの向かい側を入っていっての突き当り付近で700坪ぐらいの敷地があった、周囲はすべてかなりの大きさの住宅ばかりだった。現在の山手線に向いた側、つまりほぼ東側、そして細い道が下へ降りて行った南側も全面的にずっとうちより低くなっていて、北側も隣の住宅の部分を除いた半分くらいは、やはり同じように低くなっていた。
わが家は一軒だけ高台の上になっていたわけで、関東大震災でも第二次大戦の東京大空襲でも焼失を免れ、1940年代の終わりか1950年代の初めごろまで」、渋谷から原宿の間を山手線で通ると、この旧い家が高台の上に聳え立っているのが望まれた。当時はまだ山手線は敷設されていなかった。私は小学校時代のほとんど末までここで過ごした。自分の戸籍は生まれた時から現在まで、あちらこちらへの転居にもかかわらず、ずっと港区露六本木で動かしていない。
祖父は尾崎三良。義理のおじに尾崎行雄がいる。父戸田盛貞は、いわゆる高等遊民(高等教育を受けていながら、職業につかずに暮らしている人)で裕福な家柄だったが、1927年(昭和2年)の世界金融恐慌で没落した。昌盛叔父は尺八を少し吹いた。
祖母美知は最初は「青山のお婆さま」と呼んでいた記憶がある。祖父の死後、六本木の屋敷は長男の洵盛とその家族に譲り、別に青山に邸宅を構えたのだろう。やがてその呼称は「飯倉のお婆さま」になった。乃木坂の下り口の向かい側で道がD字型にループをなしているが、そのループの向こう一面がこの祖母の屋敷であった。たしか毎年五月ごろだったのではないかと思うが、祖母は「孫の会」を催してくれた。私が小学校に入る頃の従兄弟従姉妹の総数は現在と違い、相当の数になっていた。われわれはみな両親に伴われて、この飯倉の祖母の家に集まり、その広い庭が会場だった。庭の周囲にはお汁粉とかおでんとかの模擬店が並び、庭に向かって開かれた座敷では箏の演奏や、特に頼んできた芸人たちの手品や、落語とか講談とかの語りが演じられた。そうして一日を楽しく過ごしたのち、われわれはらくさんのおみやげを抱えて両親とともに家路につくのだった。』

1922年6歳
4月東京府青山師範学校附属小学校入学

戸田 子供の頃から家にピアノとか、ストップが沢山ついたオルガンなどがありましてね、ピアノは母のもので、弾いていた記憶はありませんが弾いている写真はあります。母は京都の第一高女の卒業で、昭憲皇太后が行幸になった時に一人だけ選ばれて歌を歌ったというから才能がなかったわけではないのでしょう。母はまた生田流の琴も弾いていました。私が中学に入ってからは長唄を習って三味線も持っていました。叔父の尺八も聞いたことがあるし、中学の頃、弟が学校のクラリネットを借りてきてうちにころがってたこともありました。子供の頃、渋谷のうちの二階で親類の小父さんたちが集まって観世流の先生を呼んで謡曲の練習してました。二番目の弟はピアニストで永井進先生の演奏に感心して弟子入りして東京音楽学校に入り、その後もずっと永井先生についていました。ですから私はピアノはたいして弾けないけどピアノの書法や運指法なんか弟と中学時代からずいぶん議論したものです。それから京都の私の従姉の娘が声楽家で、メシアンとかシェーンベルクとか歌ってますよ。夫が作曲家で安部幸明と広瀬量平の二人に師事した柱本優という名です。妻の方の名は、めぐみ、です』(註:1)

戸田 小学校は青山師範付属小学校でした。渋谷に居ましたから渋谷から表参道を歩いて通いました。
 師範の付属小学校で、四年に一度実験クラスというのがあり、一人の若い先生が六年間自分が考えた教育方針で全然拘束されずにやってみる。私の先生は山口先生という方で、後に泰明小学校の校長になられたり映画倫理規定の委員になられたりした方で、師範学校では修身と音楽を特に勉強された人でした。ご自分でピアノを弾いて子供の声でも二部合唱や三部合唱をやらせたり、はじめから五線譜を読ませたり。これは教育方針として特筆大書していいと思うんですが、六年間、試験、成績、順位、通信簿は一切廃止するという教育で、これは非常によかったですね。いまの偏差値とか進学予備校なんかとまるで逆で、大正時代の自由主義教育だったです。師範学校としては四年に一度そういう新しい試みをやってみて多少教育学の人体実験的な意味もあったのかもしれないけど、その先生は一生懸命で、本人に自分の能力を自覚させるためにテストはしても採点とか成績にして残すとかを一切しなかった。それから三年生の時かな、「もうそろそろ、良い事と悪いことを判断できる頃だから自分たちでクラスの規則を作れ」と言われた。それで、前の学年の生徒が机に沢山傷をつけたため机をすっかり入れ替えることになった。それで第一に「机に傷をつけないようにしましょう」という意見が出た。先生はそれを黒板に書いた。それから、「あだ名で呼ばれると不愉快になることがあるから、本当の名で呼ぶことにしましょう」これも書いた。こうして十箇条くらいを書いて、意見や反対はないか聞いて、意見がないと「決」と書いて、「自分たちで決めたことだから自分たちで守るように」と言われた。私たちもよく守りました。これは暴論だけど、いま子供の問題が盛んに言われていますが、小学校から大学まで無試験の文化教養講座みたいにした方がいいと思いますよ。科目単位で自分が聞きたいものをとるとか。採用する企業は困るでしょうけど企業のために犠牲になる必要はないわけですからね。』(註:2)

戸田 あの頃は大正の自由主義思潮から鈴木三重吉なんかの童謡運動があって「赤い鳥」という童謡の雑誌が出ました。また「コドモノクニ」という雑誌があって、それには北原白秋とか野口雨情とか有名な詩人が童謡を書いて竹久夢路なんかが挿し絵を描き、その中の幾つかに中山晋平とか本居長世とかが作曲した楽譜がピアノ伴奏つきで後ろに付いていました。中には有名になって残ったのもありますが、それを小学校の頃から見てたんですね。それで小学校の終りの頃かな、その中の作曲されてない詩に自分で勝手にピアノ伴奏をつけて作曲することを始めたんですよ。十三才から十六才くらいまでの間のことですが、ずっとあとその楽譜が出てきました。見るとピアノ・パートがあんまりみっともないのでその中の幾つかを六十才の時にピアノの部分だけを作り直しましたがね(笑)。
 そのほかに小学校の終り頃に自作の詩に作曲したものもありました。ピアノ伴奏は作らなかったように思うが、ピアノ伴奏つきの楽譜が出てきました。中学頃書いたのかもしれませんね。しかし私は子供の頃どちらかというと自然科学的なものの方に興味がありましたね。「子供の科学」という雑誌があって、ラジオ放送が始まると部品を買ってきて記事を頼りに自分で鉱石ラジオを作ってみたりね。それからオモチャの電気機関車をパートから組み立てて走らせてみたり。しかし中学課程に入ると、後にミハルスというカスタネットみたいな教育用簡易楽器の社長になった上田友亀さんという人が音楽の先生で、音楽の授業は二年にしかなかったですが、一年の時に「ホフマン物語」の舟歌とかを多声部で歌うとかしましたが、変声期の子供に歌を歌わせるのが無理と覚ったのか、AABAというような形の旋律を作ることをやらされた。AとBを先生が作る、そしてAとAの部分を自分で作らせる。そして次第にほかのあちこちも自分で作るようにする。それはよかったんですが、おかげで何を考えても八小節形式になってしまうようになった(笑)。そこから脱却するのにだいぶ苦労しました(笑)。それを五線譜に書いて提出するようにしたわけですから、生徒は皆まがりなりにも五線譜で旋律の作曲ができたわけですね。』(註:3)
註:http://www.cmdj-yumeoto.com/HP-tosyo/onse1998/toda1998.htm/戸田邦雄さんに聞く~ききて 編集長 助川 敏弥

1927年12歳
父は1927年(昭和2年)の金融恐慌で没落した。

1928年
4月東京高等学校(7年制)文科入学。

1930-31年
《六つの童謡》作曲

1932年17歳
戸田 とにかく当時東京音楽学校に作曲科はなかった。世間で「作曲家」というのは童謡や流行歌の作家のことだった。私が通った東京高等学校は当時できた七年制、五年の中学を四年に短縮して、さらに三年の旧制高等学校を追加した制度ですから、高等学校の受験勉強をする必要もなかった。
音楽との関わりを言えば、東京育ちだから、童謡とか、わらべうた、とかとの触れあいはほとんどないわけです。その代り、小さい時からうちに多少レコードがあって童謡劇みたいなものがあった。佐々紅華という人は後に「宵闇せまれば」など流行歌を作ったり、関西財界の援助を受けて生駒山頂にオペラ研究所を作ってそこでオペラを上演することを考えたんですが、それはうまくいかなくて晩年は日本の伝統音楽の研究をした人です。この人の「チャメコの一日」というのを繰り返して聴きました。ずいぶんファンがいるらしく、以前、安川加寿子さんが「週刊新潮」投書欄で「夫の安川定夫が子供に歌ってきかせているのですが、忘れているところもある。どなたか楽譜と歌詞をご存じないでしょうか」というので、私は一生懸命思い出して楽譜に書いて送ってあげたんです。歌いやすいようにいい加減にト長調で書いたら後に佐々紅華の娘さんのご主人が伝記を書いたんで買って来て読んだら楽譜がのっていて原曲もト長調でした(笑)。この曲の和音の使い方とか、一節の後に行くに従って一音節・多音符になるとか子供のためのものなのに工夫がこらされているのに感心したものでした。』(註:4)

戸田 その頃は私の家は下北沢にありました。その頃の下北沢はいまと大違いで、北側は住宅ばかりで店は一軒もなかった。それから隣のもとの代田二丁目駅、今の井の頭線の新代田駅までの間はずっと森で、中に池があって蛙が沢山住んでいました。南側は二階の窓から見ると全部緑で、向こうの丘の上に赤い屋根が一つ二つちょっと見えるという、そんなのどかな所でしたね。その頃から文章も作文もほめられたし、油絵もやらされたんですがね、どういうわけか音楽に段々傾斜してしまったんです。自然科学は数学が大事ですが私は数学が全然だめで、代数の先生が頭がよすぎて説明を飛ばすんですよ。質問すると「ここは暗算で出来るから一行抜かしたよ」って具合でね。中学部に入った時はじめて点数をつけてもらいましたが、作文だけ甲でほかは全部乙と丙ばかりでしたよ。音楽も人の前で歌わせられるは苦手でしたが作曲に非常に興味を持って、先生に教室で和声を教えて下さいって言ったんですよ。そうしたら上田先生は 「それはちょっと無理だ」と言われた。その頃はじめて読んだ作曲に本は山田耕作の「簡易作曲法」っていう本がありました。「簡易ナニナニ法」という叢書の一つで、数年前神田の古本屋から来た案内に出ていたので取り寄せました。ほかの本と違う所は、普通は低音に和声をつけるやり方だが、実際には旋律があってそれに和声をつける方が多いいんでそういうやり方をしてるんです。もう少し後、高等学校の頃になって黒沢隆潮さんの対位法の本を読みました。話が前後しますが、さっきの童謡のこと、誰も作曲してない詩に作曲したのを今見ると、終止の所は基本形だが途中の和音は絶えず四六になっている(笑)』(註:5)

戸田 理科系はだめだから高等科では文科の乙類(ドイツ語)にしました。ソナチネ・アルバムの表紙の次の頁が三段に分かれていて、英語、ドイツ語、フランス語で並んで解説が書いてありますが、文法の本を買ってきて勉強というほどではありませんが、中学時代から毎日眺めているうちに習わないのにだいたい三ヶ国語とも解るようになりました。頁の下の演奏法も三ヶ国語で書いてありますし、当時のオイレンブルクのスコアの解説も三ヶ国語でしたね。それから春秋社の「世界音楽全集」、全部買っていたわけではありませんが、歌曲に興味があってシューマンやシューベルトの歌曲の原詩を読みました。まだドイツ語なんか習ってない頃です。フランスものはマスネーとかサンサーンスなんかのってましたね。日本の詩にも島崎藤村なんかに中学の頃作曲してたんですが、シューマン、シューベルトのことが頭にあるんで、レクラム文庫でハイネの詩集を買ってきて、これもまたシューマンが作曲してないのを選んで(笑)、ピアノ伴奏つきの歌曲を作ったりして、何も習っていないから見よう見まねですがね。無茶と言えば無茶ですね。それから、リストの「ハンガリー・ラプソディ」なんかピアニストが弾くのを聴いて感激して楽譜を買ってきて弾けもしないのにたたきまくったですから、随分はた迷惑だったでしょうね(笑)。』(註:6)

戸田 ドイツへ行ったら音楽の勉強できるかと思ったんですよ。それでのちに外交官を目指したんです。東大の試験についてはね、家がごたごたしてたんで東京高等学校の寮に半年くらい入ってたかな。その頃の東大法科の試験というのは試験勉強のしようがないような問題が一つ出るだけだった。長い外国語の文が出てそれを辞書なしで訳さなければならない。それも内容が分らなければ訳せないようなもの。ゲーテの人生論が出るか、新聞の社説や時局問題が出るか、トーマス・マンの随筆が出るかまったくわからない。だから試験勉強幾らしたって全然役に立たない。高等学校の頃からワグナアの「未来の芸術」なんてのを原語で読んでた方がずっとつよいわけですよ。日本語に訳す場合の日本語の論述の仕方なんかもあるし、それだけなんです。東大法科には法律学科と政治学科とがあって法律学科の方は法律を専門に勉強します、民事訴訟法とか刑法とか民法とかね。政治学科の方は憲法とか民法とか経済原論とかは必修でしたがずっと自由でした。東大オーケストラ部に入り、指定された定席はその年卒業で空席のできたトロンボーンだったが、在学中興味のない法科の講義は、出席はとらなかったので、ときたま出るだけで、オーケストラの練習室に日参し、ピッコロからコントラバスまであらゆる楽器を、吹いたり擦ったりして体感し、そのなかの幾つかはオーケストラの中で演奏した。また書いた曲を、コピーなどない時代、弦もプルトの数だけパートを自分で筆写し正規の練習後演奏してもらい、クレームを聞いた。のち在独時代、リムスキーやベルリオーズ=R.シュトラウスの管弦楽法の本を読んだが、私のオーケストレーションの基礎はこの実際の体験による。のち入野義郎君が、おそらく自分の場合も含めて、冗談に「東大音楽部卒」と言ったゆえんです。
 そうそう、東大のオーケストラにいた時の同僚にのちの三木鶏郎がいたんです。彼は本当の法律をやっていて、親父が弁護士で、召集されて主計少尉かになったんですが、非常に優秀な主計少尉で「戦争が終わるまでお前を離さない」って言われたそうですよ。主計少尉が有能かどうかでその部隊の食物がまったく変っちゃんですね。千葉の方の連隊でしたがね。私はその頃は中野にいたんですが、疎開する時に軍のトラックに乗せて楽譜なんか運んでくれたんです。おかげで大部分戦禍を免れたんですが、惜しかったのはムソルグスキーの原典版の楽譜でしたね。このことは後で話します。
 外交官試験での科目のうち、当時は美濃部事件の直後だったから天皇については試験に出ないだろう、それから国際法では戦時国際法は出ないだろうというので、横田喜三郎さんの本ですが、あれはまた余り暗記することはないんですね。経済原論も理解していればいい。それから国際私法かな、あんまり膨大な分野で、国際民法から国際著作権法までみんなある、とても全部は出来ないからごく限られた分野だけ、たしえば日本の法律ではアメリリカ人、アメリカの法律では日本人の場合どうなるかとか、公海上の日本の船の上でイギリス人とアメリカ人が契約し、紛争が起きたら、アメリカの法律によるのか、イギリスの法律によるのか、日本の法律によるのか、幾つかの決まった問題があるんですよ。私は余り講義で出なかったが、あの頃は講義によく出た学生のノートの記録をガリ版で刷って綴じたものを大学の前の本屋で売ってましたよ、それを電車の中などで何回か読んでね (笑)。あともう一つは外国語。外国語の会話もあるんだけど、私の高校のドイツ語の会話の先生はウィーンの人で慶応の先生でね、日本でのスキーの開祖になった人ですが、日本語が出来すぎてシラーの「ウイルヘルム・テル」を日本語で講釈するんですよ、これじゃ日本人の先生と変らない(笑)。だから余り会話はやってないんだけど、ドイツ語は音楽の副産物で、教わる前から知っていたから。それから、これもどこでも習っていないけど、題を出して外国語で小論文を書けという試験がありました。これも私は音楽書を原語で読んでいたし、ドイツ語で詩まで作ってたから余り勉強しないで通ってしまったんです。後で聞いたら前代未聞に成績がよかったとのことで驚きましたハハハ。これが行政試験や司法試験だったら絶対通らなかった。』(註:7)
註:http://www.cmdj-yumeoto.com/HP-tosyo/onse1998/toda1998.htm/戸田邦雄さんに聞く~ききて 編集長 助川 敏弥

1935年20歳
3月東京高等学校文科卒業
4月東京帝国大学法学部政治学科入学
東大オーケストラ部の仲間に繁田裕司(後の三木鶏郎)がいた。

1936年
《円舞曲》作曲
 
1938年23歳
4月東京帝国大学法学部政治学科卒業。
外務省入省。欧亜局勤務
夏、ドイツ国赴任。
秋、ハイデルベルク大学で和声学・音楽学の聴講生となる。
ドイツ赴任中にカラヤンやフルトヴェングラーの演奏に接する。
戸田 そう。行くときは船で行きました。シベリア鉄道で行くはずだったんですがソ連がいつまで待っても査証をくれないんで、船で行くことになって、同じようにイギリスへ行くのとフランスへ行くのと一緒に行きました。フランスへ行ったのは後で在仏大使になった人です。ナポリでちょっと上陸してカタコトのイタリア語で帽子を買ったり、それからマルセイユに着いて、そこから鉄道でパリへ行って、パリに遠縁の彫刻家がいたのでそこで一週間くらい居たかな。あの頃は船で一ヵ月くらいかけて着くわけだから、いまと違ってすぐに働かされることはなかったんですよ。新しい土地になれるまで自由にしてろ、それも勉強だということで一週間くらいしてからベルリンへ行きましたかね。その頃はまた、一年間どこでもいいから地方の大学へ行って何か聴講して来いと言われたんです。ただし日本人のいる所はだめ。私はまず鉄道でドイツをまわって見ました。途中下車しながらね。そしてミュンヘンが面白そうだったんですね。だけどミュンヘンは方言がひどすぎるし日本人も沢山いるからだめということになって、どこかラインラントが標準語に近いということでハイデルベルクへ大学へ行きました。当時流行だったゲオポリティク(地政学)なんかの講義も少し出たけれど、何を聴いてもいいというんで、ハーモニーの講義と、特別講義で「ヨーロッパ的リズムと非ヨーロッパ的リズム」というのがあったのでそれを聴いたんです。ハーモニー講義は教室の後側にパイプオルガンが仕込んであって教壇の脇に鍵盤がある。先生が五線の黒板に音符を書いてそれを弾いたり、これに和声をつけてみろ、なんて、そんなやり方でしたね。それでさっき言ったように一年間勉強するはずだったんですけど、その頃大使館がとても忙しい時で人手が足らなくて三ヵ月くらいで呼び返されちゃったんです。』(註:8)
註:http://www.cmdj-yumeoto.com/HP-tosyo/onse1998/toda1998.htm/戸田邦雄さんに聞く~ききて 編集長/助川敏弥

1939年24歳
1月在ドイツ国(ベルリン)日本大使館勤務(外交官補)
6月在ソヴィエト連邦(モスクワ)日本大使館勤務(外交官補)となる。
戸田 ボリショイ劇場や「モスクワ芸術座」にも行きました。「芸術座」でチエホフの「三人姉妹」なんか見ました。「三人姉妹」のセリフなんかも本読んで幾らか暗記したり。モスクワ音楽院のホールには週二回くらい通ったかな。やがて「チャイコフスキー記念音楽堂」というのが出来ました。これは演出家のメイエルホリドの劇場になるはずだったんですが、メイエルホリドが粛清されちゃったんで急遽音楽堂に改装したものです。そこは少し離れていましたが、時々行きましたね。ドイツに居た時ヒトラーは見かけなかったけど、ソ連でスターリンは見ました。ヒトラーもスターリンも同じように新しい芸術を抑圧したましたが、ショスタコーヴィッチや、ソ連に帰ってからのプロコフィエフの曲はよくやってる。オペラとしては上演されなかったけど「三つのオレンジへの恋」の行進曲なんかプロコフィエフ自身が指揮してやってました。 当時チャイコフスキーの生誕百年祭でほとんど全部の曲が演奏されるのを聴いてすっかりチャイコフスキーびたりになりました。
 それから、リムスキー=コルサコフ。この人はずいぶん沢山オペラを書いてるんですね。外国ではほとんど上演されないのが沢山ある。これも見ましたが、民話オペラっていうのは私は余りおもしろくなかったな。それからムソルグスキーの曲はほとんどリムスキーの編曲でやられますが、ムソルグスキーの原典版というのを聴きました。そういうものの楽譜もずいぶん買いましたね。音楽書も買いました。ムソルグスキーの原典は、私がスコアを読んでもバスが重すぎるなって感じが確かにありますね。だから原典版がいいと言いながら、特にレコード作る時は、リムスキー版のきらびやかな方になってしまう。ショスタコーヴィッチがリムスキー版のように派手すぎずムソルグスキーの精神を生かした版を作るっていってましたがどうなったか知りません。ストラヴィンスキーの三大バレエは、ソ連が帝政時代の著作権を引き継がなかったので外国では沢山上演されたけど一文も入らなかったんですね。それで彼は、新しくオーケストレーションを書きなおして古い方の版は上演禁止にしてしまった。』(註:9)

助川 「ホバンシチーナ」もリムスキー版ですか。
戸田 「ホバンシチーナ」はむしろリムスキーが完成させたんでしょ。作曲者は終りまで書いてなかったんじゃないかな。あのオペラの原稿をあらゆる曲を同じ調で書いてあったのをリムスキーが半音ずつずらせたとのことです。
助川 モスクワの大宴会でプロコフィエフの姿を見たというようなことを以前お書きになってましたね。
戸田 革命記念日にモロトフ外相の立食パーテイに呼ばれたんです。その前にも音楽会場で若い者を大勢従えて議論しながら歩いているのを見かけました。モロトフの宴会では一人で、場違いの所に来たみたいにしょんぼり立ってましたね。
助川 ショスタコーヴィッチの音楽は当時どうでしたか。
戸田 ショスタコーヴィッチはピアノの前奏曲の自作自演を聴きました。ショスタコーヴィッチは室内楽はいいが、交響曲は私は本当はあんまり好きじゃない。プロコフィエフの方が好きです。交響曲は大げさで無理して「ソ連の英雄」的音楽に仕立てているようでね。第一番と、散々批判された第九番だけはいいけど。ショスタコーヴィッチのピアノはすごくうまいけど、それでもピアニストの演奏のように聞かせてやるという弾き方ではなかったですね。戦後パリでムラヴィンスキーがレニングラード・フィルを率いて演奏をしたことがありました。プロコフィエフの「チェロとオーケストラのための協奏的交響曲」をチェロがロストロボーヴィチ、奥さんのヴィシネフスカヤがショスタコーヴィッチの「ムツェンスクのマクベス夫人」のアリアを歌いましたが、休憩の時に立ち上がるとドアの所にショスタコーヴィッチが立ってるのを見ました。もうスターリン時代でなかったですからね。ただ私は、ショスタコーヴィッチもプロコフィエフも会って話したことはないです。』(註:)
戸田 当時、日本軍とソ連軍がモンゴルと中国東北の国境で衝突したノモンハン事件がありまましてね、日本軍が散々敗けたんですね。そういう時代のさなかです。
 その頃、中近東に公用で出張を命ぜられて、バクーまで汽車で行って、汽車の中で民族合唱を歌ってるのを聞きましたが、見事なものでしたね。西欧風の対位法や和声でなくて、一つの旋律が段々枝分かれしてまた一つに戻るというものですね。プロコフィエフの曲が時々そういう書き方をしていますね。ピアノ・ソナタや「シンデレラ」の中にそう所がありますよ。
助川 ヘテロフォニーですか。
戸田 そうですね、ただヘテロフォニーはいろんな種類がありますからね。日本のはずいぶん発達してるし中国のはまた少し違いますし。
 その時はまずイランのテヘランに行き、それからバクダードへ行って、アンカラを通って、オデッサからソ連領に入ってまた汽車でモスクワに帰るという順です。当時イランでは最後の皇帝シャーが再婚したばかりで、当時のあの国は日本の明治維新後みたいな時期で洋風奨励、外出の時は洋服を着て女は帽子をかぶらなければならない。そのくせ国粋主義も同時にあって外国語の看板は一切禁止 (笑)。どれも同じような建物にヘンな文字が書いてある。私も少しは読めるようになりました。それから、テヘランからバクダードまでは車で行きました。時間の都合で深夜に国境と山を越えたんですね。バクダードに着いたら、そんな無茶をするもんでない、あそこはクルド人が居る所で、昼間は普通の農民だが夜になると山賊になる。身ぐるみ脱がされて拒否すると殺されるっていうんですね。クルド人は祖国がないんですよ。居住地はイラン、イラク、トルコにまたがっていて、どこも独立させたがらないんですよ。気の毒な民族ですね。山賊もしたくなるでしょう。バクダードからアンカラ、アンカラからイスタンブールまでは鉄道です。アンカラはどこかで見たような街だと思ったらドイツ人の技師が設計した街なんですね。この頃はすっかり変りましたがね、どこも近代都市になって。イスタンブールはとってもいい所です。いろんな文明が重なっている古い街ですからね。ソフィア寺院だってもとはギリシャ正教の寺院でしたからね。この頃はどうなってるか知らないけど狭い街だから余り改造できないんじゃないかな。』(註:10)
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1941年26歳
7月独ソ戦の激化に伴いにモスクワから帰国
8月外務省入省欧亜局勤務
諸井三郎に作曲・音楽技法師事(~1944年まで)
交響幻想曲《伝説》作曲
戸田 その後、独ソ戦が激しくなってシベリア鉄道で帰ることになりました。中国東北、当時の満州国の満州里まで来たんですよ。シベリア鉄道で普通一週間のところ二週間かかりました。食堂車があったのかも知れないが汽車の中は難民いっぱいで歩けないからパンやハムやチーズなんか沢山買い込んで客席で食べるようにしました。
助川 ドイツが攻め込んで来たからですね。戸田 そうですよ。もうモスクワが陥落しそうになったんですから。ですから鉄道も西へ向かうのは全部軍事列車で私たちの列車はどこかへ停まると一晩明けても同じ所。大使館としてはロシア語の専門スタッフは残す、そうでない者は古い者から帰して身軽になるという方針で、私ももう二年居ましたから二番目の列車で帰りました。一番目の列車には臨月の奥さんがいてどうなるかと思ったけど結局満州へ着くまでもったらしいです。満州里に着いてともかく風呂に入ったり、ハルピンで床屋に行ったり。私は大連から船で神戸に着きました。それから東京に帰ったんです。』(註:11)

戸田 その頃うちは中野にあったんですが、一九四一年から四四年まで東京に居ました。
 戦争が始まる少し前、さいわいにして諸井三郎先生の家が私の中野のうちから歩いて十分くらいだったんです。昼間は役所へ行ってるから夕食すませて先生の所へ行ってレッスン受けたわけです。作品を見て頂いたら和声とオーケストレーションは教えなくてもいいだろう、発想がホモフォニックだから対位法をやりましょうということで、ルネッサンス式純粋対位法を二声から三重厳格フーガまでやりました。シュテファン・クレールの対位法とかリーマンの対位法もやりました。その頃は、小さな五線のノートを持って、バスや電車を待つ間も対位法をやっていた。またバッハやベートーヴェン・ソナタの分析も諸井先生からレッスンを受けました。四四年の音楽コンクールで私の「一楽章形式のピアノ協奏曲」が斉藤秀男さんの指揮、富永瑠里子さんのピアノで初演されたんですが、その一週間前にサイゴン赴任で飛行機に乗るように言われたんで自作の初演を聴けなかったんです。その前年ヴィクター賞に応募した交響序曲イ短調と交響幻想曲の「伝説」というのは二つともソ連で書いたんです。「交響序曲」はチャイコフスキー風、「伝説」はリムスキーコルサコフ風、おまけに「序曲」はドイツの五線紙、「伝説」はフランスの五線紙で書いてあったから、別の人の作品と思われて両方とも予選通過しちゃったんです。同一人と分って両方はまずいからというんで「伝説」は放送初演にまわされました。「伝説」は十年くらい前に芥川さんが新響で演奏してくれました。「ヴァイオリンとチェロとピアノのための三重奏曲」も長すぎるので第一楽章だけコンクールに出してこれも演奏されました。私は春にサイゴンに赴任するはずだったんですが飛行機を全部軍が管理していてコンクールの一週間前にあれに乗れということになったんです。もいフィリピン作戦が始まってましたからね。』(註:12)
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1942年
《円舞曲》東京帝国大学音楽部定期演奏会で初演される
ピアノ独奏曲《三つの間奏曲》作曲
歌曲《ふるさとの》詩:三木露風、歌曲《野の薫り》詩:三木露風作曲

1943年28歳
《交響序曲イ短調》と交響詩《伝説》がビクター管弦楽懸賞に入選。
《交響序曲イ短調》東京交響楽団により初演される
《ヴァイオリンとチェロとピアノの三重奏曲ニ短調》

1944年29歳
在仏印サイゴン日本大使館調査部勤務(領事)となる。
《ヴァイオリンとチェロとピアノの三重奏曲ニ短調》東京 新声会第八回(七回)作品演奏会で初演される
交響幻想曲《伝説》NHK東京放送管弦楽団により初演される
《ピアノ協奏曲(のち第一番)ト短調》が第13回音楽コンクールにて、斉藤秀雄の指揮、大東亜交響楽団(松竹交響楽団が1943年改称)初演演奏された。

1945年30歳
3月カンボジャ王国ブノンペン駐在となる。
9月赴任先のプノンペンで終戦を迎えた後、フランス軍によって抑留され、3年間をサイゴンにて送られ、1948年6月まで抑留生活を送る。
助川 終戦の時にシアヌーク殿下にお会いになったとか聞きましたが。
戸田 それはね、連合軍が上陸して来たらフランス軍が寝返り打って挟み撃ちになるからというんで、四五年の三月九日に、日本軍がフランス軍の兵営を襲って武装解除して捕虜にしてしまったんです。そしてベトナム、ラオス、カンボジヤ三国を形式的に独立させると言ったんですね。それで、久保田総領事がカンボジヤ王国の最高顧問ということでシアヌークに会いにいったんです。久保田さんは軍が大っ嫌いだから、内面指導なんかしない、独立という以上自分の好きなようにさせろと。カンボジヤの政府もこれまでフランスの高等理事官というのの指示で政治してた。丁度、占領下の日本政府みたいなものですよ。だから、これからは全部自分たちで自由にできるというんでとても喜んだんですね。ところが、大臣たちも中国系の人とかポルトガルの血が混じった人とかいろいろいたんですね。カンボジヤという所はベトナムと違って中間階級がいないんです。政治のトップはフランス人、経済は華僑、小売商などはベトナム人、カンボジヤ人は王族と高級官僚のほか途中がなくてそのほかは下層労働者です。ベトナムとカンボジヤはひどく仲が悪くて昔のフランスとドイツみたいなんです。国政に不満なカンボジヤ人の兵隊がクーデターを起こして大臣を皆引っ張っちゃったんです。シアヌーク国王は人望があったんですね、叛徒と交渉してその人たちを全部釈放したんです。ところがその日に日本敗北の知らせがこちらには届いている。それでお別れにシアヌークさんに挨拶にいったら「何事も時の運、日本への感謝は尽きることがない」と言ってくれましたがね、その二三日後に、戦争中日本人に与えた勲章その他の栄誉はすべてこれを無効とするという法令を発布して、私も勲章なんか貰っていたけど全部フイになりました。列強の間で生きのびるための小国の苦悩を思い知らされました。』(註:13)
その間にルネ・レイボヴィッツの著書『シェーンベルクとその楽派』を読み、ピアノのための『前奏曲とフーガ』を作る。この曲は未完に終わったが、日本人が十二音技法をはじめて用いた作品だとされている。

戸田 それで戦後三年抑留されましてね。あそこははじめフランスでなくてイギリスが進駐したんです。それからフランスへ引き渡す時に興味ある人間は皆シンガポールへ連れてったんです。シンガポールで半年くらい抑留されてたかな。それで何するかいうと情報収拾なんです。それなら我々外地にいた者より東京にいる者に聞いた方がいいって言ったんですがね、そうしたら日本本土はほとんどアメリカが押さえているからイギリスとしては自分の手が届く所で情報集めるほかないと言うんです。人によっては、当時はじめての総選挙があって当選した人の名簿を見せて、この人物について知ってることを話せと言われたり、当時、満鉄(満州鉄道、満州は現在の中国東北部、日本が植民地化して鉄道を走らせていた)の調査室が南方にずいぶんあったので、なぜ満鉄の人がこの辺にいるのか聞かれたりね。それからその後、フランスがまた我々を取り戻したんです。この時にフランスが興味なかった人は日本に帰された人もいます。しかし大使館員は連れてかれた。もう日本の船なんか来ませんしね。フランスもケチだから外国の船を雇ってまで日本人を送還しない。フランスの船は年に一回一隻か二隻くらい日本とインドシナを往復してる。なんでもホンゲイの無煙炭を持って行って日本の有煙炭を持って来ていたようですね。まず、戦犯裁判で無罪になった者とその証人が帰国の優先権がありました。私たちシンガポール組ははじめ間違えて監獄に入れられちゃって半年くらい。監獄には戦犯で死刑判決受けた人とか、民間人でまったく理由がわからない人とか、軍の通訳にかりだされて顔覚えられた人とかいましたが、当時、すでにフランス軍はベトミンの軍と市街戦してましたから、我々のことなんかかまっていられないんです。それから一般の抑留所に移されたんです。戦後三年くらいたって石炭船に乗って、それも甲板の上にゴザひいて、傾いて波が来るとザーッとかぶったり、途中で台風が来てまた引き返したり、ずいぶんかかって横須賀に着いたんですね。』(註:14)
註:http://www.cmdj-yumeoto.com/HP-tosyo/onse1998/toda1998.htm/戸田邦雄さんに聞く~ききて 編集長 助川 敏弥

1946年31歳
サイゴンにて抑留生活を送る

1947年32歳
サイゴンにて抑留生活を送る
《セザール・フランクの主題による管弦楽のためのコラールとフーガニ短調》作曲
無伴奏八声部二重合唱のための《主よ、われを憐れみ給え》作曲
《ヴァイオリンと管弦楽の協奏曲ロ短調》終楽章未完

1948年33歳
6月終戦で捕虜となっていたサイゴンの抑留所生活から帰国
8月から外務省調査局(外務事務官、総務室長)勤務はじめる。
レイボヴィッツの著書『シェーンベルクとその楽派』を柴田南雄や入野義朗に紹介した。彼らが十二音技法の第一人者としてみなされるようになったのは戸田の功績である。
助川 その時レイボヴィッツの本を持ち帰られたんですね。
戸田 レイボヴィッツの本は、日本の占領中サイゴン放送にいた大島さんという人が、使役に出された日本兵とフランス軍の間の通訳やってたんですね。この人が音楽の本らしいから買って来てあげたって言うんです。それが「シェーンベルクとその楽派」だったんです。それを読んでこれまで知ってた音楽とまったく違うんですね。楽譜読むのが大変な苦労ですよ。見かけない音の固まりばかり、楽器もないけどともかく終りまで読んで、横須賀に着いて検疫で一晩泊められて、翌日、迎えに来た家族や当時妹の夫だった柴田南雄と新橋までトラックで立ち詰めで走って、トラックの上でかいつまんで話しましたが、それがいわゆる十二音音楽の日本上陸でした。引き上げ後は町屋の都営住宅にしばらく居ましたが、柴田南雄さんのお父さんが大久保に持ってた土地を貸してもらうことになって、苦労しておかねを作って、懐中時計なんかも売って、十坪しか家を作れない時代だったんで十坪の家を建てましたね。あとで建て増したりしましたが、戦後フランスへ行くまではそこに居ました。』(註:15)
註:http://www.cmdj-yumeoto.com/HP-tosyo/onse1998/toda1998.htm/戸田邦雄さんに聞く~ききて 編集長 助川 敏弥
しかし自身は、オペラ『あけみ』(1956年(昭和31年))までこの技法を封印する。

1949年34歳
日本音楽コンクール作曲部門第1部(管弦楽曲)1位石井 歓/2位入野 義郎(義朗)/3位戸田 邦雄
《ぱさかりあ と ふうげハ短調》第18回音楽コンクールにおいて初演される

1950年35歳
1950年代からは舞台作品や声楽曲に力を注いでおり、5曲のバレエの他、オペラ《あけみ》《伽羅物語》、オラトリオ神秘劇《使徒パウロ》、カンタータ《袈裟と盛遠》(芥川龍之介原作)、語り物《高瀬舟》(森鷗外による)などが生まれた。
《OVERTURE BUFFA.MI♭MAGGIORE》作曲

1951年36歳
春、GARIOA資金により4か月間アメリカ合衆国滞在
7月外務省政務課長(講和国会政府説明員となる)
12月外務省情報文化局第1課長(文化関係)兼第3課長(ユネスコ関係)となる。
バレエ《アトリエのサロメ》(一幕三場)大阪と東京で初演される
《美しき舞姫たちの踊り》、バレエ《アトリエのサロメ》作曲

1952年37歳
GARIOA資金により四ヵ月間アメリカ合衆国滞在。国連等訪問視察す
《ト調の交響曲》第一回尾高賞受賞
ヤダスゾーン著「カノンとフーガ」訳、音楽之友社刊行
デュアメル著「慰めの音楽」訳、創元社刊行

1953年
《ト調の交響曲》NHK交響楽団特別演奏会において初演される
バレエ《赤い天幕》(三幕六景)大阪、東京初演
「ロシア音楽」、創元社文庫出版「音楽と社会」共著
独唱曲《冬心抄》詩:堀口大学
ヴァイオリンとピアノのための《AMOROSO》、バレエ《赤い天幕》(三幕六景)

1954年39歳
2月外務省文化局付一等書記官、ついで外務参事官となる。
アメリカ合衆国教育委員会=フルブライト委員会理事就任(1959年まで)
毎日新聞=NHKの「音楽コンクール」作曲部門審査委員就任(1976年まで務める)
バレエ・エスパニョール《洞窟》(三幕五場)大阪、東京初演される
無伴奏合唱曲《アラグヴィ~コーカサスの思い出》NHK婦人の時間においてNHK放送合唱団により初演

1955年40歳
4月外務省研修所指導官となる
同月桐朋学園大学音楽科非常勤講師となる
立教学院教会音楽学校のための《諸聖教徒日のプロパア》東京、立教学院礼拝堂で初演される
混声合唱とピアノのための《讃仰歌》作曲、詩:草部啓之、京都・大谷学院
《ピアノ協奏曲第二番》作曲
ビュジェ著「音楽の理解」訳、ダヴィッド社刊行

1956年41歳
フランス国からレジオン・ド・ヌール勲章オフィシェ章を受章
オペラ《あけみ》(一幕七場)台本:有賀文男、東京内幸町、NHKホールにおいて初演される
出演:たみ子(sop), 女給ゆり(mez), あけみ(alt), 黒田正雄(ten), 竜岡(bar), バーテン鉄ちゃん(bs), 流しのギター弾き康さん(ギタリスト(歌わない))
モダン・バレエ《赤き死の舞踏》(二幕)作曲

1957年42歳
3月中近東(パキスタン、イラン、エジプト、トルコ)及び西ヨーロッパ(イタリア、西ドイツ、フランス、イギリス)公用出張
4月帰国後、外務省研修所幹事となる(1959年5月まで)

最初の全曲12音技法による作品《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》を作曲
作曲の年、鈴木共子(Vn.)、竹前聡子(Pf.)両氏により初演され、翌58年秋改作の上、1959年3月、松田祥子(Vn.)、森安芳樹(Pf.)両氏によって改訂版初演が行われた。
歌曲《野の薫り》詩:三木露風作曲 ブリジストン・ギャラリにおいて初演される
「プロコフィエフ」上梓、弘文堂文庫刊行

1958年43歳
《二面の箏のための音楽》作曲し東京で初演される
助川 戦後またガリオア関係でアメリカへ行かれたり、フルブライト委員会理事をされたりで、中近東へ行かれたりヨーロッパへ行かれたりして一九六四年に外務省を退官された。その間とその後、桐朋学園の教授や洗足学園大学の学部長をつとめられたわけですが、ここで先生にぜひうかがいたいのは、一時期を風靡した無調音楽とその思想をどうお考えになられますか。はじめて日本へ十二音技法を伝えられた歴史的お立場ということもあるので、ぜひその辺のお考えをうかがいたいのですが。
戸田 無調音楽についてはですね。「無調」という言葉をシェーンベルクも嫌っていたんだけど、私は無調ではなく、正しくは、パンエンハルモニークといいたいんです。「汎異名同音」という意味ですね。レ♯とホ♭も、ヘ♯とト♭も区別つかないという状況の中で一オクターヴ内に十二の音があると考えるわけでしょう。しかし実際にはその何倍もの音があるわけですよ。増二度と短三度は違うんし、増六度と短七度も違いますよ。それから中世以来同じトリトヌス(三全音)と言われてきたけど、私はどうも増四度と減五度は違うように思いますね。減五度の方が狭くてやわらかい。平均律では同じ音が鳴るわけだけど聞く側が前後関係でなおして聞いているのでしょう。別宮さんが十九平均律なんて言ってたけど実際そんなこと出来るわけない。私はむしろ半音以外に三分音を提唱したい。実際三分音の弦の曲を書いて演奏しましたが、ヴァイオリンの植木三郎がこれは弦奏者が実際に使ってるものだ、と言っていました。だから、無調という言葉とても誤解を生む言葉なんで、ロマン派の最後期になってパンエンハルモニークの状態になったとき、それにどうやって構成を作るかという段になって、ゲルマン民族は構成感が強いから、構成を与える方法として考えられたのが十二音楽またはセリー技法の根本だったろうと思うんですね。日本で考えているように、無調にするためにセリーを使うというのは逆で、望遠鏡を反対側からのぞいているようなものですよ。ただね。十二の音全部使ったセリー、音列でなく、幾つかの音による音列を使っている人はかなり居ますよ。武満君だってかなりそういう技術は使ってる。
 私はね、人が余り言わないことだけど十二音の技法は一つだけ長所があると思う。この頃みたいに全く旋律の無い抽象的音響体の音楽になってしまうと、どうやって旋律性を回復するかということが課題になる。その場合、アルバン・ベルクの音列みたいに一部分ディアトニクだったり別のなんかの旋法だったりして、セリーを用いることによって旋律性を回復できるんじゃないか。私自身かなりそういうことをやってきました。タテヨコの関係を全部有機性持たせてしかも旋律を浮かび上がらせることができる。オペラの「あけみ」の一部、ソプラノと器楽の「メサージュ」、「万葉集によせる七つの歌」も全部十二音です。ただし、旋律的に作られています。
助川 それでは長い間どうも有難うございました。  (完)
(『音楽の世界』1998年10月合併号掲載)』(註:16)
註:http://www.cmdj-yumeoto.com/HP-tosyo/onse1998/toda1998.htm/戸田邦雄さんに聞く~ききて 編集長 助川 敏弥

1959年44歳
6月在フランス日本大使館参事官、ついで公使・ユネスコ常駐政府代表となる(1963年12月まで)
秋、ミュンヘン万国著作権会議日本代表補佐となる
「近代と現代の音楽」音楽之友社(レコード音楽講座)共著

1960年45歳
3月シチリアにおけるヨーロッパ諸国ユネスコ国内委員会会議オブザーバー出席
秋、コペンハーゲン国際海洋会議日本代表団員
《Message》Mélodie pour sopurano. clarinette et farpe作曲

1961年46歳
春、ユネスコ本部IMC(国際音楽評議会) Rostrum of Composers審査員(NHKの依頼による)。
《Message》Mélodie pour sopurano. clarinette et farpeは北ドイツ放送交響楽団により初演された
ユネスコ総会代表団員
ピアノ協奏曲《箏の音による幻想曲》作曲
独唱、混声合唱および管弦楽のための能の形式によるオラトリオ《使徒パウロ》(土岐善麿の新作能による
)
1962年
《Message》Mélodie pour sopurano. clarinette et farpeはパリ初演された

1963年48歳
11月21日萩原徹大使夫妻の媒酌により公邸で岡田正子(千葉県銚子市出身)と結婚(パリ)
12月フランスより帰国した。
ユネスコ総会代表団員
「Notes sur la musique de nô」(仏文論文)

1964年49歳
4月桐朋学園大学音楽学部非常勤講師となる
5月外務省退官。

1965年50歳
4月桐朋学園大学音楽学部専任講師・理論主任となる(~1968年3月まで)
ピアノ協奏曲《箏の音による幻想曲》FM東海で放送
ソプラノとピアノのための《万葉集による七つの歌》

1966年51歳
4月成城大学文芸学部芸術学科非常勤講師となる(~1986年3月まで)
4月山梨県立女子短期大学非常勤講師(~1967年3月まで)
<日本現代音楽協会試演会>でソプラノとピアノのための《万葉集による七つの歌》初演(東京)
<日本現代音楽協会試演会>で《ファゴットとピアノのためのソナタ(古典ふう)》作曲、初演(東京)
<詩と音楽の会演奏会>で歌曲《二つの薔薇の花の茶碗》詩:中村千尾で初演
《ピアノのための一楽章のソナチネ(古典ふう)》作曲

1967年52歳
<こどものための現代ピアノ曲集Ⅰ出版記念演奏会>で《ピアノのための一楽章のソナチネ(古典ふう)》初演(東京)
「音楽と民族性」音楽之友社上梓
《Triptychon》für Bariton Soro Blockflöte n. Gtarre日本初演
六つの楽器と管弦楽のための合奏協奏曲《シ・ファ・ド》作曲

1968年53歳
桐朋学園大学音楽学部教授・理論主任・図書館長(~1976年まで)
六つの楽器と管弦楽のための合奏協奏曲《シ・ファ・ド》日本フィルハーモニー交響楽団定期演奏会で演奏される
《よっつのゆがんだきょくピアノソロ》作曲
バレエ《ミランダ》二幕七場、三島由紀夫台本、東京・鹿児島・八幡・京都・和歌山・奈良・甲府で初演される

1969年54歳
国際音楽評議会IMC日本国内委員代表として、IMC国際総会パリ大会に参加
ピストン著「管弦楽法」音楽之友社より翻訳刊行

1970年55歳
桐朋学園訪欧弦楽オーケストラ団長
堀口大学の新聞詩によるソプラノ、アルト、テノール、バリトン、バス、およびエレキギターのための九つのマドリガル《花と動物》がの五本現代音楽協会試奏会で演奏

1971年56歳
桐朋学園大学音楽学部学部長補佐
愛知県立芸術大学音楽学部大学院夏季集中講義担当

1972年57歳
愛知県立芸術大学音楽学部大学院夏季集中講義担当
《Triptychon》b beartbeitet fūr Bariton Soro,Altflōte in G.Marimba u.irlandishe Hrfeが<20世紀音楽を楽しむ会>初演(東京)

1973年58歳
独唱、混声合唱および管弦楽のための能の形式によるオラトリオ《使徒パウロ》(土岐善麿の新作能による
)日本現代音楽協会音楽祭で演奏会形式で初演される(東京)
オペラ《伽羅物語》三幕、堀内茂雄の同名の戯曲による戸田邦雄台本、<1973年度芸術祭文化庁主催公演>で初演(東京)

1974年59歳
連作歌曲《お化けの祈り》詩:宗左近 作曲

1975年60歳
国際現代音楽協会ISCM国際審査委員としてパリでの審査委員会に参加
連作歌曲《お化けの祈り》詩:宗左近<唐木暁美リサイタル>において初演(東京)
サミュエル著「現代音楽を語る~オリヴィエ・メシアンとの対話」芸術現代社より翻訳刊行

1976年61歳
4月桐朋学園大学音楽学部客員教授(専任待遇)
メツォソプラノとピアノのための連作歌曲《夜明けの母のバラード》詩:平井多美子、<詩と音楽の会>作曲・初演(東京)

1977年62歳
4月桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(~1996年まで)
4月洗足学園大学音楽学部客員教授
8月洗足学園大学音楽学部教授・音楽学部長、一時図書館長兼務(1977~1988年)
国際音楽評議会IMC日本国内委員代表として、IMC国際総会フィラデルフィア大会に参加

1978年63歳
モノドラマ《女中のアンナ》原詩:ジャン・コクトー訳詞・作曲:戸田邦雄、<日本音楽協会演奏会>初演(東京)

1979年64歳
男声と独奏チェロのための語り物《高瀬舟》森鴎外による、詩・作曲:戸田邦雄、<日本現代音楽協会演奏家>初演(東京)

1980年65歳
洗足学園大学訪欧州演奏・研修団団長
ソプラノ、バリトンおよび弦楽五重奏のための劇的カンタータ《袈裟と盛遠》芥川龍之介による詩・作曲:戸田邦雄<日本現代音楽協会演奏会>初演(東京)

1981年66歳
学校法人洗足学園評議委員
国際音楽評議会IMC日本国内委員代表として、IMC国際総会ブタペスト大会に参加
オペラ《伽羅物語》より「空穂のモノローグ《暗い空がまた明ける》」<日本作曲家協議会演奏会>で初演(東京)
ソプラノ、フルートおよびマリンバのためのモノ=カンタータ《囚われのお七》井原西鶴による、詩・作曲:戸田邦雄<日本現代音楽協会演奏会>初演(東京)

1982年67歳
ソプラノとピアノのための協奏的譚詩曲《琵琶行びわのうた》詩:白居居、訳・作曲:戸田邦雄<唐木暁美リサイタル>初演(東京)
「V-i V 進行についてのノート」洗足論叢11号

1983年68歳
10月前田奨学金運営委員-音楽部門(1985年3月まで)
国際音楽評議会IMC日本国内委員代表として、IMC国際総会ストックホルム大会に参加
日本音楽著作権協会・著作権法改正推進本部委員

1984年69歳
『父方の親類のことに戻ろう。祖父自身の名前には「盛」の字がないのに、息子の名にはみなこの字を付け、さらにその次の代、すなわちわれわれの世代の男の子も「盛」の字を上か下に付け、甚だしい場合には祖父の娘、つまりわれわれの叔母が他家に嫁しても、男の子が生まれるとやはりこの字がついた名前にした例がある。私もかって見たことがあるわが家の系図によれば、われわれの遠い祖先は桓武平氏、たしか清盛の弟か誰かということになっているからで、わが家の家紋も平家の定紋だった揚羽の蝶、正月の祝い膳の一つ一つにこの揚羽の蝶がついていたのを想いだす。
洗足学園大学音楽部長の頃、創学六十周年記念して建てられたホールでオペラ《蝶々夫人》が同学園オペラ研究所により上演された。そのとき、蝶々夫人の新居をしつらえている人足たちの法被の背中に大きく記されていたのが揚羽の蝶だった。周知のごとく、このオペラの素材になった原作の芝居では、この悲劇の主人公が、「蝶々さん」と呼ばれるようになったのは、羽織に揚羽の蝶の紋がついていたからだということになっている。この舞台以来、蝶々さんという架空の人物が何となく自分の遠縁のようにさえ思えてくるのは妙なものである』
ピアノ協奏曲《ちゅうがえりも とくいな ちょうちょう》作曲

1985年70歳
ソプラノ・メツォソプラノおよびピアノのための《相模相聞(さがみそうもん)》万葉集3372および3377[ともによみ人知らず]による、作曲

1986年71歳
4月洗足学園短期大学音楽科長兼務(1988年3月まで)

1987年72歳

1988年73歳
3月洗足学園専任退職 同退学、客員教授(~1996年まで)。
勲四等旭日章受章
メツォソプラノ、バリトンおよび管弦楽のための《大河の歌(洞庭双恋譜)》屈原の「九歌」による、詩・作曲:戸田邦雄

1989年74歳
ピアノ協奏曲《ちゅうがえりも とくいな ちょうちょう》<日本作曲家協議会チェリティマラソン・コンサート>初演(東京)
ソプラノ・メツォソプラノおよびピアノのための《相模相聞(さがみそうもん)》万葉集3372および3377[ともによみ人知らず]による<第3回神奈川の作曲家と演奏家たち>初演(東京)
メツォソプラノ、バリトンおよび管弦楽のための《大河の歌(洞庭双恋譜)》屈原の「九歌」による、詩:戸田邦雄<日本現代音楽協会演奏会>初演(東京)

1993年78歳
サミュエル著「オリヴィエ・メシアン~その音楽的宇宙」翻訳、音楽之友社刊行

1994年79歳
エレクトーンのための《ぱさかりあ と ふうが》作曲、<ヤマハ全日本電子楽器教育研究会>初演(東京)
弦楽のための《序・破・急》作曲

1996年81歳
洗足学園音楽大学退職
弦楽のための《序・破・急》<日本作曲家協議会演奏会>初演(東京)

2003年87歳
7月8日肺炎により三鷹市杏林病院にて逝去。

<著書・翻訳書>
著書/『プロコフィエフ 音楽鑑賞手帖』『ロシア・ソヴェートのうた』『音楽と民族性』『外交官の耳、作曲家の眼』、空穂のモノローグ『暗い夜がまた明ける…』―オペラ<伽羅物語>より (1980年)
翻訳/「現代音楽を語る オリヴィエ・メシアンとの対話』クロード・サミュエル/戸田邦雄・訳、
『オリヴィエ・メシアン その音楽的宇宙』オリヴィエ・メシアン/クロード・サミュエル/戸田邦雄・訳、
『音楽の理解』 (1955年) ビュシェ 著/戸田邦雄・訳
『「オリヴィエ・メシアン その音楽的宇宙 クロード・サミュエルとの新たな対話』オリヴィエ・メシアン/クロード・サミュエル/戸田邦雄・訳、
『管弦楽法』 (1967年) ウォルター・ピストン/戸田邦雄・訳
『カノンとフーガ―典則曲および遁走曲教程』 (1952年) S.ヤダスゾーン/戸田邦雄・訳、
『慰めの音楽』(1952年) G.デュアメル/戸田邦雄・訳、

5.主な作品


<舞台作品>
バレエ《アトリエのサロメ》
バレエ《赤い天幕》
バレエ・エスパニョール《洞窟》
モダン・バレエ《赤き死の舞踏》
バレエ《ミランダ》 Miranda
オペラ《あけみ》 1955年
オペラ《伽羅物語》 Story of City Kyara / Geschichte von der Stadt Kjara
モノドラマ《女中のアンナ》(ジャン・コクトー原詩、戸田邦雄訳詩)
<管弦楽>
円舞曲《Valse》
《交響序曲イ短調》Symphonische ouverture
交響幻想曲《伝説》 Fantaisie symphonique “Légende” 1943年
《ピアノ協奏曲ト短調》 Konzertsatz für Klavier mit Orchester g-moll
《セザール・フランクの主題によるコラールとフーガ》 Choral et fugue sur un thème de César Franck
《ぱさかりあとふうげ》Passacaglia e fuga
《Overture buffa》
《ト調の交響曲》Sinfonia in sol 1952年
《ピアノ協奏曲第ニ番》 Concerto n. 2 per pianoforte ed orchestra 1955年
《六つの楽器と管弦楽のためのコンチェルト・グロッソ》「シ・ファ・ド」 Concerto grosso per sei strumenti ed orchestra “Si fa dov”
弦楽のための《序・破・急》 Introduzione-movimento-rapido
<室内楽・器楽>
《三つの間奏曲(ピアノ)》 1942年
《ヴァイオリンとチェロとピアノの三重奏曲 ニ短調》 Trio für Klavier, Violine und Violoncello 1949年
ヴァイオリンとピアノのための《Amorso》 Ameroso per violino solo e pianoforte
《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》Sonata per violino e pianoforte
<二面の箏のための音楽>
《琴の音による幻想曲(ピアノ)》 Fantaisie sur les sons de “koto” / Fantasy on koto tunes
《ファゴットとピアノのためのソナ》(古典ふう) Sonata for bassoon and piano (nel modo classico)
《ソナチネ(古典ふう)(ピアノ)》 Sonatina (nel mode classico)
《よっつのゆがんだ曲(ピアノ)》
《ちゅうがえり も とくいな ちょうちょ(ピアノ)》 Quattro pezzi deformati
《ぱさかりあ と ふうが(エレクトーン)》
<声楽>
《六つの童謡》
歌曲《ふるさとの》三木露風作詞 1943年
歌曲《野の薫り》三木露風作詞 1943年
無伴奏二重混声合唱曲《主よ、われを憐れみ給え》 1950年
無伴奏二重混声合唱曲《われらに平和を与え給え》 1950年
歌曲《冬心抄》堀口大學作詞)
合唱曲《アラグヴィ~コーカサスの思い出》
立教学院教会音楽学校のための-無伴奏混声合唱曲《諸聖徒日のプロパア -立教学院教会音楽学校のための-諸聖徒日のプロパア》
混声合唱とピアノ《讃仰歌》草部啓之作詞
ソプラノ、クラリネットおよびハープのための《メッセージ》 “Message” for soprano, clarinet and harp(レーモンド・ダンカン作詞)
土岐善麿博士の詩による新作能台詞による独唱・混声合唱・管弦楽および舞台のためのオラトリオ神秘劇《使徒パウロ》 Oratorio-misterio per soli, coro misto, orchestra e la scena nella forma di teatro di nô “Santo Paolo”
《万葉集による七つの歌》(ソプラノ・ピアノ) Sette canti dall’ antologia Mannyôsyû
歌曲《二つの薔薇の花の茶碗》中村千尾作詞)
《Triptychon》(バリトン・ブロックフレーテ・ギター) “Triptychon” für Bariton Solo, Blockflöte in F und Gitarre
ソプラノ、アルト、テノール、バリトン、バスおよびエレキギターのための九つのマドリガル《花と動物》堀口大學作詞
《Triypychon》(バリトン、アルトフルート、マリンバ、アイリッシュギター)
歌曲《お化けの祈り》 Der Gespenster Gebete / Prières des fantômes
歌曲《夜明けの母のバラード》 平井多美子作詞
男声と独奏チェロのための語り物(森鷗外による)《高瀬舟》 Recitativo per voce d’uomo e violoncello solo (secondo la novelletta d’Ogai Mori) “Takase-bhune”
ソプラノ、バリトンおよび弦楽五重奏のための劇的カンタータ《袈裟と盛遠》 芥川龍之介による
ソプラノ、フルートおよびマリンバのためのモノ=カンタータ《囚われのお七》 井原西鶴による
ソプラノとピアノのための協奏的英譚詩曲《琵琶行》[びわのうた]」 Ballata concertanta “Canto da liuto”
ソプラノ・メツォソプラノおよびピアノのための《相模相聞》
メツォソプラノ、バリトンおよび管弦楽のための《大河の歌(洞庭双恋譜)》 屈原の「九歌」による
<著書>
『プロコフィエフ』弘文堂(アテネ文庫)、1957年
『音楽と民族性』音楽之友社、1967年
『外交官の耳、作曲家の眼』「外交官の耳、作曲家の眼」刊行会、2009年
<編纂>
『ロシア・ソヴェートのうた』編、創元社(世界のうたシリーズ)、1956年
<翻訳書>
ジョルジュ・デュアメル『慰めの音楽』創元社、1952年
S.ヤダスゾーン『カノンとフーガ 典則曲および遁走曲教程』(訳注)音楽之友社、1952年
ビュシェ『音楽の理解』ダヴィッド社、1955年
ウォルター・ピストン『管弦楽法』音楽之友社、1967年
『オリヴィエ・メシアンその音楽的宇宙 クロード・サミュエルとの新たな対話』音楽之友社、1993年

6.その他


CD「山本直純カプリッチョ、戸田邦雄コンチェルト・グロッソ」下野竜也/日本フィルハーモニー交響楽団( JPS48CD)
CD「戸田邦雄:合奏協奏曲「シ・ファ・ド」/山本直純:和楽器と管弦楽のためのカプリチオ」日本フィルハーモニー交響楽団(JPS48CD)
日本近代音楽館に、戸田邦雄による一二音技法の研究と試作、戸田邦雄作曲「ピアノ三重奏曲」自筆譜が収蔵されている

7.初演


1942年《円舞曲》(1936年作品)東京帝国大学音楽部定期演奏会において初演
1943年《交響序曲イ短調》東京交響楽団により初演
1944年《ヴァイオリンとチェロとピアノの三重奏曲ニ短調》東京 新声会第八回(七回)作品演奏会において初演
1944年交響幻想曲《伝説》NHK東京放送管弦楽団により初演
1944年《ピアノ協奏曲(のち第一番)ト短調》が第13回音楽コンクールにて、斉藤秀雄の指揮、大東亜交響楽団(松竹交響楽団が1943年改称)初演
1949年《ぱさかりあ と ふうげハ短調》第18回音楽コンクールにおいて初演
1951年バレエ《アトリエのサロメ》(一幕三場)大阪と東京において初演
1953年《ト調の交響曲》NHK交響楽団特別演奏会において初演
1953年バレエ《赤い天幕》(三幕六景)大阪、東京において初演
1954年バレエ・エスパニョール《洞窟》(三幕五場)大阪、東京において初演
1954年無伴奏合唱曲《アラグヴィ~コーカサスの思い出》NHK婦人の時間においてNHK放送合唱団により初演
1955年11月6日 《諸聖徒日のプロパア-立教学院教会音楽学校のための》立教学院教会音楽学校合唱団/指揮:戸田邦雄により初演
1956年オペラ《あけみ》(一幕七場)東京、NHKホールにおいて初演
1957年全曲12音技法による作品《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》鈴木共子(Vn.)、竹前聡子(Pf.)両氏により初演
1957年歌曲《野の薫り》詩:三木露風作曲 ブリジストン・ギャラリにおいて初演
1959年3月全曲12音技法による作品《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》松田祥子(Vn.)、森安芳樹(Pf.)両氏によって改訂版初演
1961年《Message》Mélodie pour sopurano. clarinette et farpeは北ドイツ放送交響楽団により初演
1962年《Message》Mélodie pour sopurano. clarinette et farpeはパリにて初演
1966年でソプラノとピアノのための《万葉集による七つの歌》<日本現代音楽協会試演会>において初演(東京)
1966年《ファゴットとピアノのためのソナタ(古典ふう)》<日本現代音楽協会試演会>にて初演(東京)
1966年歌曲《二つの薔薇の花の茶碗》詩:中村千尾、<詩と音楽の会演奏会>において初演
1967年《Triptychon》für Bariton Soro Blockflöte n. Gtarre日本初演
1968年バレエ《ミランダ》二幕七場、三島由紀夫台本、東京・鹿児島・八幡・京都・和歌山・奈良・甲府において初演
1972年《Triptychon》b beartbeitet fūr Bariton Soro,Altflōte in G.Marimba u.irlandishe Hrfeが<20世紀音楽を楽しむ会>東京において初演
1973年独唱、混声合唱および管弦楽のための能の形式によるオラトリオ《使徒パウロ》(土岐善麿の新作能による)日本現代音楽協会音楽祭で演奏会形式で初演(東京)
1973年10月11-12日《伽羅物語》二期会<昭和48年度文化庁芸術祭主催公演>   東京文化会館
出演:瑠璃:中沢桂、空穂:長野羊奈子、沙円:下野昇、呂妙:吉江忠男、幽景:栗林義信、遡秘奥:高橋修一、他 
1975年連作歌曲《お化けの祈り》詩:宗左近<唐木暁美リサイタル>において初演
1976年メツォソプラノとピアノのための連作歌曲《夜明けの母のバラード》詩:平井多美子、<詩と音楽の会>において初演(東京)
1978年モノドラマ《女中のアンナ》原詩:ジャン・コクトー訳詞:戸田邦雄、<日本音楽協会演奏会>において初演(東京)
1979年男声と独奏チェロのための語り物《高瀬舟》森鴎外による、詩:戸田邦雄、<日本現代音楽協会演奏家>において初演(東京)
1980年ソプラノ、バリトンおよび弦楽五重奏のための劇的カンタータ《袈裟と盛遠》芥川龍之介による詩:戸田邦雄<日本現代音楽協会演奏会>において初演(東京)
1981年オペラ《伽羅物語》より「空穂のモノローグ《暗い空がまた明ける》」<日本作曲家協議会演奏会>において初演(東京)
1981年ソプラノ、フルートおよびマリンバのためのモノ=カンタータ《囚われのお七》井原西鶴による、詩:戸田邦雄<日本現代音楽協会演奏会>において初演(東京)
1982年ソプラノとピアノのための協奏的譚詩曲《琵琶行びわのうた》詩:白居居、訳・作曲:戸田邦雄<唐木暁美リサイタル>において初演(東京)
1989年ピアノ協奏曲《ちゅうがえりも とくいな ちょうちょう》<日本作曲家協議会チェリティマラソン・コンサート>において初演(東京)
1989年ソプラノ・メツォソプラノおよびピアノのための《相模相聞(さがみそうもん)》万葉集3372および3377[ともによみ人知らず]による<第3回神奈川の作曲家と演奏家たち>において初演(東京)
1989年メツォソプラノ、バリトンおよび管弦楽のための《大河の歌(洞庭双恋譜)》屈原の「九歌」による、詩:戸田邦雄<日本現代音楽協会演奏会>において初演(東京)
1994年エレクトーンのための《ぱさかりあ と ふうが》作曲、<ヤマハ全日本電子楽器教育研究会>において初演(東京)
1996年弦楽のための《序・破・急》<日本作曲家協議会演奏会>において初演(東京)

8.関連動画


《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》
Toyoko Hattori, violin
00:00 I. Sonata alla Variazione 変奏曲風ソナタ
10:31 II. Aria alla Cadenza カデンツァ風アリア
14:54 III. Scherzo alla Rondo ロンド風スケルツォ
Futaba Inoue, piano
Recorded: July, 1971

《ヴァイオリンとチェロとピアノのための三重奏曲》
ヴァイオリン:水野佐知香
チェロ:北本秀樹
ピアノ:志村泉

《よっつのゆがんだきょく》(Quattro Pezzi Deformati) (Synthesized)
動画は名大作曲同好会の協力を得て作られた

《よっつのゆがんだきょく第三番》「ゆううつな うた」
https://youtu.be/ptnl_ohIlbY<
《幸福を売る男》
戸田邦雄日本語詞・Jean Pierre Calvet作曲
 歌:E.ハリマ ピアノ伴奏:中村力
心に歌を投げかけ歩く 私は街の幸せ売りよ
歩くごとに軽く頬を なでて通る恋の風が
春も夏も秋冬も 歩く時はいつも
空は晴れて海青く 甘い恋の口づけ
恋はつらい 愛して泣いて
それが浮世 などと言わず
私の歌を 聞けば直る
恋の恨み お医者じゃないが

涙ぬぐい気を変えて さあさ一緒に唄おう
空は晴れて海青く 心軽く唄おう

お安くします 笑って暮らそう
泣いちゃいけない 楽しく暮らそう
皆さん方が 笑ってくれて
楽しくなれば 何にもいらない
涙ぬぐい気を変えて さあさ一緒に唄おう
空は晴れて海青く 心軽く唄おう
心に歌を投げかけ歩く 私は街の幸せ売りよ
歩くごとに軽く頬を なでて通る恋の風が

男声合唱による「ロシア民謡集」
「トロイカ」訳詞:楽団カチューシャ/編曲:ダークダックス
「バイカル湖のほとり」訳詞:戸田邦雄/編曲:吉岡弘行
「ともしび」訳詞:楽団カチューシャ/編曲:橋本 剛
「アムール河の波」訳詞:合唱団 白樺/編曲:長沢勝俊
「オレーグ公の歌」編曲:三沢 郷
「道」訳詞:中央合唱団/編曲:佐藤よしを
指揮:齋藤 令
ピアノ:名倉扶季
合唱:野田男声合唱団
撮影・編集:石川容子&宮林久美子
2021.8.8 野田市ピアノプラザ 音楽ホール「ピプラ」にて収録

9. <先祖>Die Vorfahren der Familie Toda


9-1. 「戸田家Toda Familie」先祖/正二位権大納言平頼盛Shonii (Senior Second Rank), Gon Dainagon,Tira,no Yorimoriの系図。第五十代「桓武天皇The 50th Emperor Kanmu(737年頃~806年4月9日頃歿)」の「第三皇子:葛原親王(786頃~853年6月4日頃歿)」の⇒「第三皇子:高見王(810頃~857年頃歿)」の⇒「第三皇子:平高望(836頃~916年5月24日頃歿)」へと繋がる。桓武平氏の祖である。尚、桓武天皇の母:「高野新笠」の生母:「真妹」の先祖は、第25代・百済王・武寧王の子「純陀太子」を父に持つと「続日本書紀」に記述されている。
高見王の第三皇子「高望王」は889年、宇多天皇の勅命により平朝臣を賜与され臣籍降下し「平高望」を名乗った。その子⇒「平国香(932年11月15日頃歿)」の母は藤原良方の娘である。⇒「平貞盛(989年10月15日頃歿)」⇒「平維衡(伊勢平氏の祖)」⇒「平正度」⇒「平正衡」⇒「平正盛」⇒「平忠盛(1096頃~1153年2月10日頃歿)」⇒「平頼盛(1133頃~1186年6月20日)」に至る
(平国香の異母弟に坂東平氏の祖となった「五男:平良文」がいる。平良文の母は藤原範世の娘である)
9-2. 参考:平国香の「異母弟:平良文」は923年醍醐天皇の賊徒討伐の勅命を受け関東に下り、父:平高望の遺領/相模国高座郡村岡郷を拠点に賊徒を滅ぼした。その後、武蔵国熊谷郷村岡(現/埼玉県熊谷市村岡)、相模国鎌倉郡村岡(現/神奈川県藤沢市村岡地区)に移り、そこを本拠に村岡五郎を称した。さらに下総国結城郡村岡(現/茨城県下妻市)にも所領を有し、現在の千葉県東庄町の大友城、同香取市にも居館があったとされる。939年4月17日、陸奥守であった良文は、鎮守府将軍に任ぜられ出羽国の乱を鎮圧し鎮守府である胆沢城にとどまった。940年5月、良文は関東に帰国した。下総・上総・常陸の介に任ぜられ下総国相馬郡(現/取手市・常総市・龍ケ崎市・守谷市・つくばみらい市・千葉県柏市・我孫子市)が与えられた
千葉県香取市の阿玉には「伝平良文館」があり、城郭の遺構として空堀、土塁、物見台などが確認されている。藤沢市村岡東に村岡城跡と伝わる場所があり、平良文の後裔の一族のひとつである薩摩東郷氏出身の海軍元帥・東郷平八郎が額を書いた城址碑が建つ。
「平良文」には5人の子がおり、長男の平忠輔は早世したが、五男:忠光は早世した長兄:忠輔の養子となり三浦氏、梶原氏、大庭氏、長屋氏、長江氏、鎌倉氏などが出た。、春姫(平将門の娘)を正室とした三男・平忠頼からは千葉氏、上総氏、秩父氏、畠山氏、土肥氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏などが、さらにこれらの氏族から多くの氏族が分かれて「桓武平氏良文流平氏」を形成した。後に、源頼朝による源平合戦(治承・寿永の乱)に従軍して鎌倉幕府の創立に協力し、鎌倉幕府では有力な御家人になった者の多くがこの桓武平氏良文流平氏に属する
桓武平氏良文流千葉氏家系/平良文⇒平忠頼⇒平忠常⇒平忠将⇒平常長⇒平常兼(千葉大介と号し、千葉氏の始祖となった)⇒千葉常重⇒千葉常胤に至る。佐賀の晴氣一族は末裔である

9-3. 参考:平国香の異母弟:平良文の子孫「千葉氏」二代目を継ぐ千葉常胤は、1180年、石橋山の戦いに敗れて船で安房国へ脱出して来た源頼朝の要請により、9月17日に一族300騎を率いて下総国府に赴き頼朝に参陣した。頼朝は坂東平氏や坂東豪族の支持を集めた。1184年、千葉常胤は源範頼軍に属して一ノ谷の戦いに参加後、九州に渡り豊後国(大分県)で軍功を上げ同地の平氏方を葦屋浦の戦いで破り、平氏軍の背後の遮断に成功。平氏軍は彦島に孤立してしまった。1187年、洛中警護のため上洛。1190年、奥州藤原氏討伐のための奥州合戦に従軍して東海道方面の大将に任ぜられて活躍し、奥州各地に所領を得た。1193年、香取社造営雑掌を務め、後に千葉氏が香取社地頭として、社内への検断権を行使する権利を獲得するきっかけとなった

9-4. 平頼盛は、父:正四位下刑部卿/平忠盛と母:藤原宗子との五男として生まれた
兄弟に長兄:平清盛、二兄:家盛、三兄:経盛、四兄:教盛、五男:頼盛、弟の六男:忠度がいる。側室:藤原親通の娘(池禅尼)の子:平頼盛は平清盛の異母弟にあたる
<平頼盛の家族TAIRA,Yorimori Familie>
妻・正室:八条院女房 、側室:藤原親通の娘
子:平保盛、為盛、仲盛、知重、保業、光盛、静遍、藤原基家:室、平清宗:室

9-5. 平頼盛一族と源頼朝との関係
(1). 1159年、平治の乱が起こり平清盛に敗れた源義朝は東国に向かう途中殺害され、源頼朝は平頼盛(池禅尼の子)の家人:平宗清に捕えられ六波羅へ連行される。平宗清は池禅尼を通じて頼朝の助命嘆願を願った。平重盛を通じて池禅尼は助命を願い、ついに流罪に処することで頼朝の命は救われた。
(2). 後白河法皇の皇子:以仁王の挙兵を契機に各地で平氏政権に対する反乱が起こり、1183年7月、木曽義仲率いる源氏軍勢は平維盛率いる平氏軍を敗り、これを契機に、平清盛の娘徳子はわが子安徳天皇、平氏一門とともに三種の神器を奉じて都を落ちた。一方、平氏一門の平頼盛は同年10月20日京都を逐電し、同年11月6日に鎌倉へ到着して源頼朝と会見している。源頼朝の求めに応じた平頼盛は、朝廷との交渉や幕府機構の整備に協力した。1185年平氏一門は壇ノ浦の戦いに敗れ滅亡する。その後、後白河院は源頼朝の了承を得て、平頼盛に播磨国・備前国の知行権を与えた。その後、平頼盛は源頼朝の了承を得て出家し重蓮と号した。1186年6月2日54才で没

9-6. 平頼盛の末裔は中世になり民間に下り農業を営んだといわれている

9-7.尾崎家の曾祖父である尾崎盛之(尾崎彦左衛門)は、御室仁和寺宮の諸大夫「若林家(平頼盛の正統な末裔)」の男系が絶えていた若林家を継ぎ、従六位下因幡介に任じられ仁和寺宮に奉仕し「若林大進」と称した。盛之の亡き後は、盛之の長男:盛栄が継ぎ、従六位下因幡介に任じられ若林氏を称した。後に盛栄の孫:駒之輔が若林家を継ぎ、若林と称し日向国延岡に住んだ

9-8. 尾崎家は京都府葛野郡西院村(七条村、太秦村、京極村、松尾村)に隣接し代々の里正(里長・村長)で、村では旧家であった。曾祖父の尾崎盛之は、西院村では尾崎彦左衛門または尾崎大進と称し、仁和寺宮では若林大進と称し一人で二氏を称した

10. <戸田家-家系>Toda Stammbaum


戸田邦雄 家系

参考文献:戸田邦雄著、『外交官の耳、作曲科の眼』、ARTES、2009年刊行 / 戸田盛和著、『おもちゃと金平糖』、岩波書店、2002年刊行 / 岩田幸雄編、『戸田敏子 - History of music | クラシック音楽家の年譜』、https://history-of-music.com/toshiko-toda / https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%94%B0%E9%82%A6%E9%9B%84 /