7.小澤征爾の父小澤開作 年譜
祖父:小澤新作
山梨県西八代郡高田村で農業と土木請負業を営み、村議会議員を務めた
父:小澤開作
1898年12月25日山梨県西八代郡高田村誕生
1970年11月22日川崎の自宅で旅立った
1898年
12月25日農家の五人姉弟の第二子・長男として生れた。
地元高田尋常小学校、高等小学校で学ぶ。
上京し横須賀海軍工廠で働く。
東京神田三崎町の歯科医師養成校・東京歯科医学専門学校入学。
学資を稼ぎながら苦学して学び18歳で東京歯科医学士の称号を得る。
歯科医学勉強のため渡独しようとドイツ人にドイツ語を学んだようだ。
結核に罹り帰郷
1918~20年
療養
1920年
満州大連に渡りシベリヤ鉄道で渡独を志す。
大連で満鉄に勤めていた大津隆に英語を学ぶ。
中耳炎を患い渡独を断念。
日下歯科医院に務め歯科医としての経験を積んだ
1923年
長春吉野町二丁目に小澤歯科医院開業した。
1927年
3月、若松孝太・春代の五女として1908年仙台生れの若松さくらと奉天で結婚。
満鉄の夜行列車で二人は新京の小澤歯科医院へ。
歯科医院には李というボーイと白系露人の女中、年配の技工士が通っていた。
このころ小澤の遊びや楽しみは野球、ビリヤード、麻雀、花札や囲碁だった。「オール長春」という野球チームの世話役みたいなことをやっていた。
夏ごろ町はずれの西公園で披露宴を行う。友達夫婦を呼んでのすき焼きパーティだった。この公園で小澤はゴルフの練習をしていたという。
さくらの「また従兄」に後年、征爾の恩師になる斎藤秀雄がいる。斎藤秀雄の父秀三郎は正則英語学校創設者で一高の教授。
さくらの母:春代の父は仙台の大津義一郎、母:なお、春代は二人の間に長女として生まれた。
父:義一郎の妹:久が前島義孝と結婚し、生まれたのが「とら」で斉藤秀三郎に嫁いだ。
1928年
3月長男:克己誕生。新京の満鉄病院に婦人科がなく私立病院だった。
5月大連で開催された満洲在住日本人有志による「満州青年連盟」に参加した小澤は、終生の盟友となる山口重次に出会う。お互い酒好きで意気投合した二人の親密な関係は、やがて石原莞爾を中心に活動を展開するようになっていく。
11月満州在住日本人による「州模擬議会(翌年、満州青年議会)」で「満州青年連盟」が創立され小澤は議会選挙で地方委員にトップ当選、連盟では長春幹事となった。地方委員の付き合いは毎日、毎晩のように宴会があり、小澤は家に帰り羽織袴に着替えてから出かけて行ったという。民謡が上手く小澤さんの声はすごくうまい、声がいい、節回しがいいともっぱら評判で、料亭では相当モテたという。このころ満洲に住む日本人はおよそ二十万人いた。「満州青年連盟」の目的として掲げるところは、満洲における日本人の生活環境を守り、日漢を中心とする諸民族の共存共栄であった。また満州青年連盟は国民外交といって、満州における排日と自らの実力で闘う方針をとり、警察や関東軍を動かす力があった。小澤は筆名を「開策」を使うようになる。
1929年
満州青年連盟は「満州青年議会」と名を改め、各地方出身の議員たちは議会を大連と奉天で開催した。このころからその参加者の中から、小澤開作、山口重次の名が目立つようになっていった。排日事件や日本人と満人との間のトラブルが多発していた。中国側官憲との乱闘を演じることもあり、日本人の生活環境を脅かす事態となっていた。小澤らは紛争解決に奔走した
1930年
5月二男:俊夫誕生。兄の克己と同じ病院だった
開作は弟:静の進学のこともあり山梨から父:新作と弟:静を招いた。結局、静は満州医大に入学するため奉天の中学校の寮に入り、小澤は学費など一切の面倒をみる。さくらは義弟:静の世話することになる
小澤は毎月、山梨の実家の親へ仕送りを続けていた。また古くなった家を父が建替えるときも、お金など言われるがままに親孝行するんだからと言って送り、親を喜ばせたという。郷里の村や学校でも頼まれるといつもお金を寄付していたという。
9月長春で第三回連盟議会が開催され、小澤は議長を務めた。このときから小澤の連盟活動は本格化したようだ。
1931年
歯科医院を二人の雇員医師に任せ政治活動に専念。
3月小澤は長春支部長となった。
小澤らは満洲在住の日本人として「五族協和」(註2)を夢見てその実現のために奮闘し、さらに日中戦争期には「日中友好」実現のためにすべてを懸けて活動していた。
5月長春北西20キロにある万宝山で、朝鮮人農民と中国側地主の間に、土地使用、小作問題で争議が起こり、小澤医院に暴行を受けた朝鮮人たちが相談にやって来た。せっかく開拓した土地をみんな取られてしまったり、家を焼かれたという訴えを聞き、小澤は妻さくらに”この人たちに、何か食べさせてやってくれ”と言った。これが小澤開作を一介の歯科医から歴史に登場させた最初の事件となった。なぜ朝鮮人たちは小澤医院にやってきたのか? それは小澤が満州青年連盟の長春支部長であったからであり、また長州の日本人社会に厚い信頼を受けていたからである。朝鮮人は当時、日本国民であり、本当は日本領事館に相談すべきであった。それをせず、小澤の下にやって来たのであった。小澤は満州青年連盟の演説会でこの事件の真相と題して、朝鮮人たちの苦境の実態を語り、その救済を訴えた。会場でたちまち義損金が集められ、日本円で五十六円の巨額支援金が集まった。小澤はそれを大事に抱えて長春に戻った。そうした中で診療は毎日やり、若い歯科医師が雇われていた
7月13日開作は「日本遊説団」リーダーとなり本土に渡る。満州青年連盟の目的は万宝山事件を含めた数百件の排日事件を全満州、日本の問題だとするキャンペーンとして始めることにした。内地の日本人はその満州の実情を知らなかったからだ。満蒙問題を根本的に解決するための輿論喚起のために総員の一人として小澤が任命された。実業団体を訪問後、若月首相に陳情し積極的解決を求めた。野党政友会総裁犬養毅に面会、頭山満、内田良平、幣原外相等と会い問題解決のため話し合った。8月10日大連に帰着。
結果として日本の国内輿論を盛り上げたが、精魂尽き果てた小澤は体調を崩してそのまま満鉄大連病院に入院してしまった。
7月下旬関東軍の中村健太郎大尉は日露中人四名を率いて調査旅行中の大興安嶺山中で行方不明になり、調査の結果、東北軍兵に捕らわれて金品、短銃などを奪われた挙句に全員銃殺され、焼き捨てられたことが判明した。外務省、参謀本部、関東軍は厳重に抗議したが東北軍側は事実無根と称し、証拠隠滅を図ろうとし、事態は容易に解決をみなかった。遂に日本側は8月17日、事件の真相を公表した。満州青年連盟は輿論喚起のため演説会を中村大尉の弔い合戦と称し、輿論を沸き立たせた。
8月20日関東軍司令官に本庄繁が着任した。三宅光治参謀長、板垣大佐、9月1日石原参謀を呼び満蒙解決に関し意見を聞いた。
9月4日満州青年連盟の岡田猛馬の説を聞いた。その後、関東軍の各守備地区の巡察や各職域の主だった人と会い、9月17日遼陽において現地部隊の演習を視察し22時旅順に帰着。23時板垣参謀より奉天に於ける日支衝突及び独断守備兵隊及び箚聯隊を出動したという急報を受ける。その1時間後の9月18日奉天郊外の柳条湖の衝突が起きて満州事変が始まった。中国は国連に日本を提訴した。この事件は条約上で公に認められた日本人の諸権利を、暴力的な手段で回収、奪還しょうという関東軍の謀略として今日では知られているが、事変そのものは自然発火であったと「満州青年連盟史」には書かれている。
9月19日朝には関東軍は奉天の北大営を占領し、奉天城を占領した。長春でも戦闘が始まり、翌日には居留民保護のための吉林出動が議論され、21日には長春、吉林も関東軍の支配下に置かれた。この日を前後して大連や奉天、満州各地で、満州青年連盟を中心とする諸団体が決議大会を開催した。「国軍の満洲保障占領は自衛上当然の帰結であり、東洋平和のため満蒙問題の徹底解決を期す」という内容だった。当然、大会には小澤も深く関与した。
小澤はその後、満州人(漢民族)や革命から逃れたコサックや白系ロシア人のためにも動いた。義侠心である。
長春には日本が権益として持っている満鉄の最北駅があった。長春の東に吉林省があり関東軍が制圧していた。しかし長春~ハルピン間鉄道はソ連が運営していた。事変の目的は全満州の制圧であるが、北のハルピンには軍は向かおうとしない。それが小澤には不満であった。中央の参謀本部が許可しないし、関東軍になすだけの戦力もなかったのだ。
そうした折に山口重次が小澤を長春に訪ねてきた。関東軍に追い払われた張学良軍が握っていた政治、交通など政府関係の業務はそのまま手つかずになっていた。それを復興させなければいけない。旧政権の官庁に東北交通委員会がある。そこの復興に小澤を引っ張り出しに来たのである。国民政府と合体することになった東北三省の最高行政機関として設立された東北政治委員会の鉄道路線を管轄する部署であった。もともとここが満鉄線の並行線を作るなどして、日本側とトラブルになる原因を作っていた。張学良の排日政策によるものだとわかり、これを親日的な形で復興させると知り、10月11日小澤は快諾し奉天にやって来た。山口は作戦課勤務の石原参謀に小澤を紹介した。
関東軍参謀石原莞爾中佐(註1)は小澤のたぐいまれな能力を見抜き、その場で作戦課勤務を了承してもらう。関東軍の嘱託として青年連盟員は多くいたが作戦課に籍を置いたのは小澤ただ一人である。参謀部第一課嘱託となり、翌12日関東軍政治参謀となった。
10月23日小澤は関東軍の代表として、交通委員会の警務担当委員に就任した
(註1)「石原莞爾」
『石原は日蓮宗の熱烈な信者で、日蓮の予言に基づく独自の世界観を持っていた。それを集大成したのが1940年に発表した「世界最終戦論」がある。
(1)最後の決戦は東洋代表の日本と西洋代表のアメリカの文明対決
(2)その後、世界は統一され、絶対平和が訪れる
(3)それに備えて中国とは東洋同士提携する――と主張した。満州についても、のちに満州国の公的なスローガンとなった「五族協和」(日本人、漢人(中国人)、朝鮮人、モンゴル人、満州人の五族の共生)「王道楽土」を本気で構想していたようだ。日本人は大規模企業と知能を用いる事業、朝鮮人は水田の開拓、中国人は小規模労働と分担も考えていた。彼が満州に設立した満州建国大学では五族協和の実践を図ったほか、講師にスターリンとの争いに敗れて亡命したトロツキーを呼ぼうとした。軍人として規格外の発想の持主だったことは間違いない。』引用:文春オンラインhttps://bunshun.jp/articles/-/14043?page=4
(註2)「五族協和」
『満洲国の民族政策の標語で「和(日本)・韓・満・蒙・漢(支那)」の五民族が協調して暮らせる国を目指した。清朝の後期から中華民国の初期にかけて使われた民族政策のスローガン「五族共和」に倣ったもの。』ウイキペディア
下写真 「満州国国旗」
『国旗の「五色旗」は黄、紅、青、白、黒で日・満・漢・朝・蒙の五族協和を象徴させた」との記述があるが、公式には国旗と五族協和は無関係である。これは、赤(南方)、青(東方)、白(西方)、黒(北方)、黄(中央)を示したもので、中央が四方を統一する意味をあらわしたものとなる。』参考:毎日新聞社編『大日本帝国の戦争1 満洲国の幻影』には
1932年
3月石原莞爾中佐から資金を受け「満州国共和会」(註3)創立に加わり専任委員就任。
5月関東軍本庄司令官から軍司令部直轄の従軍宣撫工作の協力依頼を受け、ハルピン北満工作本部長就任。
7月民間政治団体「満州国協和会」発会参加。
10月従軍宣撫工作終了した
(註3)「満州国共和会」
満洲国における官民一体の国民教化組織。後の日本の大政翼賛会などの新体制運動に影響を与えたとされる
政治的思想「五族協和」「王道楽土」
名誉総裁:愛新覚羅溥儀
名誉顧問:本庄繁(関東軍司令官)
会長:鄭孝胥(満州国の初代国務院総理(首相))
事務局長:謝介石(満洲国初代外交部総長)
事務局次長:中野琥逸(広島出身、弁護士、大雄峯会に所属し、事変のとき自治指導部顧問となる)
中央本部長:橋本虎之助(4月関東軍参謀長。11月関東憲兵隊司令官となる)
名誉理事:橋本虎之助
駒井徳三(1925年郭松齢らの満州独立運動に参加。1931年陸軍省嘱託。翌年3月満州国国務院総務庁長官、10月辞任)
板垣征四郎(1929年関東軍の高級参謀に就任。1932年軍司令部付で満州国の執政顧問・奉天特務機関長)
小澤開作:専任委員
成立年月日1932年7月25日、解散年月日1945年8月
参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%B4%B2%E5%9B%BD%E5%8D%94%E5%92%8C%E4%BC%9A
1932年
関東軍司令部直轄のハルピン北満工作本部長就任(同年5~10月までの間)
1933年
奉天市木曽町に移る。子供たちは日曜学校に通う。1934年頃八幡町に移り、その後平安通に移る。同年協和会を辞任した
義母:若松春代なくなる
1934年
平安通りに土地を買い、家を新築し引っ越す
1935年
9月1日小澤征爾が奉天の医大病院で誕生。小澤は関東軍参謀の石原莞爾と板垣征四郎に、子どもが生まれたのでお二人の名前をいただきたいとお願いして、爾と征をとり征爾(セイジ)と名付けた。板垣はその時【少年老い易く学成り難し】の書を書いて渡してくれたという。板垣は”二人の名前を並べるなら石原のほうが偉いんだから「爾征」とつけなきゃいけない”と言われたという
1936年
10月奉天から北京新開路に移った
長男:克己が東単の北京日本小学校二年転入学
1937年
4月二男:俊夫が東単の北京日本小学校入学
事変不拡大方針の石原莞爾が部内の統制を乱した責任を問われ関東軍副参謀長に左遷され満洲に赴任、北京駅に小澤が出迎える。小澤たちと同様に、石原はもともと民族協和の理想を持ち満州を「五族協和」のスローガンがやがて世界平和再建への途となることを見通して行動に移した。しかし、石原の言行への軍部の反発は極めて強かった。軍部のある者は、この国が関東軍の武力で出来上がってきたのである以上、逐次自制する以外に方法がないのではないかと言う者もいた。戦後石原の側近であった田村真作は「満人の伝統も習慣も、無視して、日本流の法規をやたらに作っては、満人の生活の隅々まで、干渉し強制していた」と批判をしている。
軍部は北支地域の治安と秩序を確立するため、新政権の指導精神を持った思想団体を設立する協議がなされ、小澤は民衆組織を作らねば勝てないと特務部根本大佐に話した。華北人民の自衛・自給・自治実践組織団「中華民国新民会」の創立委員となる
12月「中華民国新民会」の創立式典は北京において山下奉文北支派遣参謀長らの出席のもと小澤も出席し挙行された。副会長に張燕卿、中央指導部長に根本大佐、小澤は中華民国新民会/総務部長に就任した。歯科医院を閉鎖。
1938年
日系の職員養成機関の新民塾開設し塾長就任。日本軍の占領地区は拡大し、活動箇所も広くなる。会務職員も増やさなければいけなかった。新民精神を理解する日本青年が必要だった。
4月第一期生が入所した。ここでは講師による中国語会話や社会学、空手、乗馬、武道訓練、農作業、冬でも暖房なし、しごきやビンタなどの訓練が行われた。半年の訓練で半数が脱落、逃亡した。同時に中国人も育成のためほぼ同時に始まった。こうして鍛えられた日系と華系の若者たちはそれぞれに新しい中国を作ろうという使命感を持って北支の各地に派遣されていった。
関東軍憲兵隊にマークされ始める。山中湖に別荘を建て、ゴルフ場の会員になった
1939年
1月宣撫班本部が北京に移る。その責任者は八木沼で北支方面軍特務部宣撫派班総班長であった。宣撫班は日本軍の中の組織であった。一方、小澤の活動する新民会は「中華民国新民会」であった。宣撫班員のように軍服、軍刀という格好で民衆の前に立つことはなかった。小澤と八木沼は宣撫方法で対立する関係に立った。小澤は日本軍をバックにするようでは中国人の心を捉えられないと考えていた。新民会のように、中国人を前面に立てて指導を行うのが正当だとかんがえていた。小澤は人民を背後にした強さを持っていた。日本軍が広く中国国内に侵入してくれば、そこに自ずと隙が生じる。八路軍の毛沢東は抗日人民を作り、日本軍が点と線しか押さえられない状況を作り、共産ゲリラに有利な情勢を作り出そうとしていた。日本軍がこうした人民を敵に回せば、それは共産党の思う壺であったからである。新民会や宣撫班の活動が有意義であり、共産党にとっては目障りだった。人民を敵にすることは自らの破滅を意味していた。毛沢東は率直にその危惧を表明していた。
新民塾はこの年から毎年拓殖大学や東亜同文書院出身の学生など、意欲のある青年を募集し、半年の厳しい訓練を受けて各地に赴任という形式が確立した。1943年の六期生までが募集された。しかし北支那方面軍には、その新民会工作を全く理解しない軍人が多かった。理由は満州の協和会崩れで持て余しの定評ある人々をもってこの種精神運動が出来るはずがない。「満州の協和会崩れ」「持て余しの定評ある」と評されているのは、小澤開作であった。新民会は小澤の意志が強く反映する団体であったが、本質的に中国人の組織であった。小澤は『いたずらに軍事行動に偏向している』という日本軍の批判を遠慮なくやったから日本軍の評判は悪かった。軍事行動の偏重は中国民衆の生活基盤を壊すだけだ。結果的に毛沢東に振り回されることに繋がった。
小澤は「”日支事変は、ゴールのないマラソン競争の悲劇だ。苦しむのは北支の民衆だ。東京の日本の当局者に反省をもとめ、日支事変の結末をつける他に途はない”と悟り、東京に飛んだ。軍部の一部では”小澤は反軍思想者だ。小澤は反戦思想にとりつかれている”の私語さえ漏れ始めた」。要約:田中秀雄著『石原莞爾と小澤開作』扶養書房出版、2008年、194-195頁「父を語る」より
1940年
3月1日新民会は宣撫班を強引に合体させ日本軍の管理下におくという指示に、宣撫班との統合問題で辞任を決意し、小澤開作委員ほか数名が辞表を出し、9月10日付けで1年7か月の新民会の会務職員としての任務から解放され、結果的に追放された。
新開路35の自宅/小澤公館で日本語言論雑誌「華北評論」の創刊号発行した。社主兼編集長は小澤開作である。
1941年
さくらと子供らが小学校入学準備のため帰国した
1943年
開作は関東軍により満州国退去勧告を受け帰国。帰国後は軍需大臣遠藤三郎の招きで軍需省顧問等を務め終戦を迎える。戦後は極東国際軍事裁判の弁護側証人として出廷し板垣征四郎の証人に立つ。その後はいろいろな仕事に手を出し、川崎の宮川病院に務め、歯科医院を開業した
1966年
中曽根康弘の紹介状を持ち渡米しR・ケネディに会う。求めに応じ「ベトナム紛争解決への私見」を提出した
1970年
12月1日にサンフランシスコ交響楽団の小澤征爾の就任式とオープニングコンサートに夫婦揃って行く予定で渡航の準備をしていた11月22日、自宅で心臓発作が起こりこの世を去った。東京都西多摩郡秋川の霊園に眠っている