指揮者
サー・ゲオルク・ショルティ 1912年10月21日‐1997年9月5日
ハンガリーを離れるまでは、ジェルジ・ショルティGyörgy Solti(旧姓シュテルンStern)と呼ばれた
(英語圏ではジョージ、ドイツ語圏ではゲオルグと呼ばれた)
彼は20世紀の偉大な指揮者の一人である。
戦後の1946年バイエルン州立歌劇場の音楽監督、1952年にはフランクフルト市立歌劇場の音楽監督、1961年から1971年まではコヴェント・ガーデン王立歌劇場の音楽監督、その他パリ・オペラ座を含む数多くの歌劇場の音楽監督で活躍、1969年からシカゴ交響楽団の音楽監督、1972年からパリ管弦楽団の音楽監督、1979年からロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務めた。
デッカとの50年にわたる関係により、40のオペラと、1958年から1965年にかけては、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と共に彼の伝説的なワーグナーの《ニーベルングの指環》の初のスタジオ含む300の録音が行われた。
生涯を通じて、自分を助けてくれた人たちを決して忘れず、常に若い音楽家のキャリアのスタートを喜んで支援した。
アニャ・シリヤ(ソプラノ)、ヴォルフガング・ヴィントガッセン(テノール)、ルチアーノ・パヴァロッティ(テノール)、プラシド・ドミンゴ(テノール)、キリ・テ・カナワ(ソプラノ)、フレデリカ・フォン・シュターデ(メゾソプラノ)、レオ・ヌッチ(バリトン)、ブリン・ターフェル(バス・バリトン)、ルネ・パーペ(バス)、アンジェラ・ゲオルギュー(ソプラノ)、ルネ・フレミング(ソプラノ)など、数世代の若い歌手や音楽家の道を開いた。
出身地・歿地・墓地Birthplace, place of death, cemetery
1912年10月21日ハンガリー、ブダゲオルク・ショルティは1912年10月21日、ブダペストのブダ側ヘギヴィデーク地区ヴェルメゾー通りで、ジェルジ・シュテルンとして生まれ、ヴェールメズー通りのアパートでユダヤ人の子として生まれた。
Vérmezö Street, in the Hegyvidék district of the Buda side of Budapest
(ダニューブ川西岸にあるブダと、東岸にあるペストは、1872年まで別々の町だった)
1997年9月5日休暇中の南フランスのアンティーブで就寝中に心筋梗塞により死去。84歳。
ブダペシュトのファルカシュレーティ墓地に、敬愛するバルトークの墓の隣で眠りについている。
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1.職業Profession
指揮者、ピアニスト
(ハンガリーのユダヤ人家庭に生まれナチ政権時亡命。20年後ドイツ国籍、のちイギリスの国籍で活躍した。)
2.楽歴Music caree
1919年7歳からピアノを正式に習い始める。
1922年10歳ブダペストのエルヌー・フォドール音楽学校に入学。
1924年12歳フランツ・リスト音楽院入学し、ベラ・バルト、エルンスト・フォン・ドーン・アーニ、ゾルタン・コド・アーリに師事し、ピアノ、作曲、指揮を学ぶ。
1930年18歳フランツ・リスト音楽院卒業。
同年卒業後、ダペストの国立歌劇場でコレペティートルとして採用される。
1930年‐1938年18歳ブダペスト国立歌劇場
1936年24歳ザルツブルク音楽祭でトスカニーニの助手。
1937年25歳ザルツブルク音楽祭でトスカニーニの助手。《魔笛》の公演でグロッケンシュピールを担当。
1938年26歳3月11日ブダペスト歌劇場《フィガロの結婚》で指揮者デビュー
1946年–1952年34歳ミュンヘン国立歌劇場楽総監督
1952年-1961年40歳フランクフルト歌劇場音楽総監督
フランクフルト・ムゼウム管弦楽団 /フランクフルト歌劇場管弦楽団音楽監督
1961年-1971年49歳ロイヤル・オペラ・ハウス(ロンドンのコヴェント・ガーデン)音楽監督
1961年-1962年49歳ダラス交響楽団音楽監督
1969年-1991年57歳シカゴ交響楽団音楽監督
1970年-1975年60歳パリ管弦楽団音楽監督
1979年-19834年67歳ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者
1992年-1993年80歳ザルツブルク音楽祭芸術監督
1994年カーネギー・ホールでショルティ・オーケストラ・プロジェクトの共同設立者となる
【受賞歴Awards】
ジュネーブ国際音楽コンクール/ピアノコンクール第1位(1942年30歳)
グラミー評議員賞(1967年)
グラミー賞31回受賞(74回ノミネート)
ASCAPゴールドバトン賞(1970年)
エリザベス2世女王より大英帝国勲章ナイト・コマンダー受章(1972年)
フランクフルト・アム・マイン市ゲーテ銘板(1981年)
ロイヤル・フィルハーモニー協会ゴールド・メダル(1989年)
フランクフルター音楽賞(1992年)
レオニー・ソニンス Musikpris (1992年)
ケネディ センター名誉賞(1993年)
ハンス・フォン・ビューロー・メダル(1993年)
グラミー生涯功労賞 (1996年)
【授章conferment】
大英帝国勲章ナイト・コマンダー受章1972年2月3日
マクシミリアン科学芸術勲章(1986)
ドイツ連邦共和国功労勲章
フランス共和国芸術文化勲章司令官1995年1月26日
イタリア共和国騎士大十字勲章1996年
3.称号title
1. ハーバード大学名誉博士号1979年6月
2. トスカーナ州スティリオーネ・デッラ・ペスカイア町名誉市民
以下、名誉フェローシップまたは学位を授与された
3. 王立音楽大学
4. デポール大学
5. ファーマン大学
6. リーズ大学
7. ロンドン大学
8. オックスフォード大学
9. サリー大学
10. イェール大学
4.家系title
https://www.geni.com/people/Salamon Stern
1. 祖父:ショロモン・シュテルン(Solomon Stern)(推定1826‐1860頃生)ユダヤ人。
西ハンガリーのヴェスプレーム郡バラトン湖に近い村バラトンフォカヤールに二百五十年住み続け、祖先の代から地主であるトート家から土地を借りて農業、パン屋、粉挽き場等を営んだ。
(Balatonfőkajár, Balatonalmádi, Veszprém, Hungary)で生まれた。
祖父らは、みな村の地主トート家の土地を借り農夫、パン屋、粉挽き場を営み裕福な小作人で、その妻ファニーとの間には八人の子どもが生まれた。
祖母grandmother:ファッニー・シュテルンFani Stern (推定1806年〜1864年生まれ)
2. 父:モーリツ・シュテルンMóricz Stern (1878年4月25日-1943)
<父の家族father’s family>
1878年4月25日父モーリツはハンガリー、ヴェスプレーム県バラトンアルマーディ郡バラトン湖に近いバラトンフォカヤール村で誕生した。/Balatonfőkajár, Balatonalmádi, Veszprém, Hungary/1943年ブダペスト7区district 7, budapestで没した。
父は祖父らとバラトンフォカヤールで農夫、パン屋、粉場を営んでいたが、青年時代に二人の兄とともにブタペストに移り住み、最初は粉商人、次に保険外交員、最後に不動産の代理店を営んだ。『モーリツは気立てはよかったが商才はまるでなかった』と言われている。
モーリツは信心深いユダヤ教徒で、毎日朝の祈りを欠かさず金曜の夜、土曜の朝はシナゴーグに行った。.
母:テレーズ・ローゼンバウムmotherTeréz Stern (Rosenbaum)(1886年-1947年)
1886年母テレーズ・ローゼンバウム誕生Teréz Stern(Ada, North Banat District, Vojvodina, Serbia)
セルビア北部ヴォイヴォディナ自治州北バナト郡バーチュカ地方にあるダニューブ川沿岸のアーダ村で生まれた(Ada, North Banat District, Vojvodina, Serbia)。
テレーズ・ローゼンバウムは、南ハンガリー(現クロアチア)バーチュカ地方のアーダ村に生まれた。 ダニューブ川とティサ川にはさまれた地域である。姉ひとり、三人の兄弟がいた。家族は、いく人かの有名な人物が世に出ている。いとこであるエメリー・リーブスは、ショルティの母の兄弟の一人は獣医となった。従兄弟ラースロー・モホイ・ナジは画家、写真家そしてワイアールの建築デザイン学校の創設にも参加した。オットー・クレンペラーが総監督を務めるクロール歌劇場の舞台装置をデザインした。ナチスを逃れ、シカゴに新バウハウスを設立し、シカゴ芸術学院の創設にも手を貸した。従兄弟にあたる母の末弟シモン・ローゼンバウムの息子イムレ・ローゼンバウム(改名後エメリー・リーヴズ)は有名なジャーナリスト、出版社、印象派と後期印象派の重要なアートコレクターであった。パリで通信社を設立して成功を収めた。イギリスに帰化申請をしたときはチャーチルが保証人になり、エメリーは「チャーチル回想録」を出版している。
十代の時、モーリツ・シュテルンと結婚
5.プロフィールProfile
1912年10月21日生まれ、ハンガリー、ブダペスト
1997年9月5日死去、フランス、アンティーブ
リスト音楽院在学中、ゲオルク・ショルティはベラ・バルトーク、エルンスト・ドホナーニ、ゾルタン・コダーイ、レオ・ヴァイナーに師事し、ピアノ、作曲、指揮を学んだ。
ショルティはブダペスト音楽院でバルトークにピアノを師事し、《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》初演の際にはバルトークのために譜めくりを行った、というエピソードも残されている。
1937年、アルトゥーロ・トスカニーニは彼をザルツブルク音楽祭のアシスタントに選んだ。
1938年1月16日にスイスのバーゼルで行われたISCM(国際現代音楽協会)バーゼル支部創立10周年記念演奏会において、バルトーク夫妻のピアノ、フリッツ・シーサー(Fritz Schiesser)、フィリップ・リューリヒ(Philipp Rühlig)の打楽器によって行われた《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》初演の際にはバルトークのために譜めくりを行った、というエピソードが残されている。
第二次世界大戦勃発直前、ショルティは難民としてスイスに逃れ、ピアノで生計を立て、1942年にはジュネーブ国際コンクールで優勝した。
戦後、ショルティはバイエルン州立歌劇場の音楽監督に就任し、1952年にはフランクフルト市立歌劇場の音楽監督に就任した。1958年から1965年にかけては、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と共にワーグナーの『ニーベルングの指環』の初のスタジオ録音を指揮し、1961年から1971年まではコヴェント・ガーデン王立歌劇場の音楽監督を務めた。
ショルティは、1954年8月にラヴィニア音楽祭で、また1965年12月にオーケストラホールでシカゴ交響楽団とデビューした。1968年12月、オーケストラ協会は、ショルティがジャン・マルティノンの後任として、1969年9月からシカゴ交響楽団の第8代音楽監督に就任すると発表した。ショルティは22年間音楽監督を務め、オーケストラの世界的な名声を大きく高めました。 1971年には初のヨーロッパ海外ツアーを指揮し、オーストラリア、カナダ、日本、ロシアへのツアーに加え、カーネギーホールにも何度も訪れました。
ショルティは22年間音楽監督を務め、オーケストラの世界的な名声を大きく高めました。 1971年には初のヨーロッパ海外ツアーを指揮し、オーストラリア、カナダ、日本、ロシアへのツアーに加え、カーネギーホールにも何度も訪れました。
ショルティは1947年、ヴァイオリニストのゲオルク・クーレンカンプフのピアニストとして、ロンドン/デッカ・レコードに初めて録音しました。その後49年間における同レーベルとの契約期間中、40以上のオペラと250枚以上のCDを録音した。その中には、シカゴ交響楽団と合唱団との共演による100枚以上のCDも含まれている。ショルティは、 31のグラミー賞を含む数々の賞を受賞した。
1972年、英国女王エリザベス2世はショルティにナイトの称号を授与した。1987年の75歳の誕生日にはシカゴ功労勲章を授与され、リンカーン・パークに彼の肖像を模したブロンズ胸像が建立された。1988年にはミュージカル・アメリカの年間最優秀音楽家に選ばれ、1993年にはケネディ・センター名誉賞を受賞した。全米録音芸術科学アカデミーからは、1967年に評議員賞、1996年には生涯功労賞を受賞した。
6.ゲオルグ・ショルティ年譜Georg Solti record
1912年
10月21日ショルティはハンガリー、ブダ、ヴェールメズー通りのアパートでユダヤ人の子として生まれた。
<ショルティ生誕地 Utcaビルの記念プレート>
ショルティ(出生時の名前はジョールジ・シュテルンStern György本項は以降ショルティとする)はシュテルン家の二番目の子供として生まれた。
7歳上に姉リリー(Lily Solti Rippel)がいる。
ショルティはシュテルン家の長男。父親はモーリツ・シュテルン (Stern Móric)、母親はテレーズ・ローゼンバウム (Rosenbaum Teréz)といった。ショルティは自伝で父親を次のように説明した。
・ショルティは父親を『優しくて優しい人で、みんなを信頼していた。そうすべきではなかったが、そうしていた。ハンガリーのユダヤ人は非常に愛国的だった。1914年に戦争が勃発すると、父は財産のほとんどを戦争に投資した。国を助けるために融資したのに、満期が来る頃には無価値になってしまった。』と述べている。
写真家のモホリ=ナジ・ラースローは再従兄弟にあたる。
作曲家のジョゼフ・コズマ(コズマ・ヨージェフ)も親戚である。
平坦で肥沃な国ハンガリーは、幾度となく戦争を続ける国家や帝国に踏みじられてきた政治の要衝である。ローマ人、タタール人、トルコ人、オーストリア人、フランス人、ドイツ人、ロシア人そのほか多くの国々がハンガリーを支配しようとを試みたが、それでもハンガリーは生き残り、主要なヨーロッパ言語グループのいずれとも無関係な独特の言語はそのまま生き残り、活気のある文化は豊かになった。
第一次世界大戦前ハンガリーのユダヤ人は差別されることもなく社会に同化し、上流階級の中にまで堂々と入り込んでいた。オーストリア皇帝でハンガリー国王であったフランツ・ヨーゼフの二人の側近はハンガリー系ユダヤ人だった。
音楽はハンガリーの日常生活に欠かせない要素であり、様々な地域の民族音楽、国民の血流に吸収されたジプシー音楽、国内外の芸術音楽、そしてこれらのすべての要素と他の要素を組み合わせたカフェミュージックなど、ハンガリーには音楽が数多く存在した。今日わずか1000万人強であるこの国は、多くの音楽家と優れた音楽を生み出してきた。ショルティはそこで生まれ、訓練を受けたことに感謝していると自伝に書き残した。
ショルティが六歳になるころまで、ハンガリーは、ハプスブルク家の広大なオーストリア⁼ハンガリー帝国の最も重要な構成国の一つであった。第一次世界大戦後、独立した国家となり、ハンガリー民族主義の高まりの結果、ゲルマン系の姓を持つ多くのハンガリー人は、ハンガリー語の対応する姓を採用するよう奨励された。ショルティの両親は家系の姓であるシュテルンを使い続けたが、子供たちの将来を優先すべきと考えた。父はハンガリーの小さな町の名前であるショルティという新しい姓を適当に選んだ。ショルティの名であるGyörgy[ˈɟørɟ]、ジェルジ正確には「ギョールジ」に近い音は、ハンガリーを離れるまでは変わらなかったが、当時、この奇妙な発音を外国で理解できる人はいなっかった。
(註:ダニューブ川西岸にあるブダと、東岸にあるペストは、1872年まで別々の町だった)
ショルティは語る『私が生まれてからの6年間、ハンガリーはハプスブルク家の広大なオーストリア=ハンガリー帝国の最も重要な構成要素のひとつでしたが、第一次世界大戦後、独立した国家となりました。その後ハンガリー民族主義が高揚したため、ゲルマン系の姓を持つ多くのハンガリー人は、ハンガリー語の対応する姓を採用するよう奨励されました。両親は元の姓であるシュテルンを使い続けましたが、父は私と妹のキャリアを優先するため、姓を変えることにしました。父は、ハンガリーの小さな町の名前であるショルティという新しい名前を適当に選びました。私の名前であるジェルジは、ハンガリーを離れるまで変わりませんでしたが、その後、海外では誰もこの奇妙な綴りの名前の発音に対応できなかったため、ドイツ語圏ではゲオルグに変更され、英語圏ではジョージのように発音されるようになりました。
私の父、モーリツ・シュテルンは1878年、バラトン湖畔で生まれ、若い頃、二人の兄弟と共にブダペストへ移住しました。父は温厚な人でしたが、商才は全くありませんでした。それでも彼は生涯を通じて挑戦を続け、最初は小麦粉商人、次に保険外交員、そして最後に不動産ブローカーとなりました。…母、テレーズ・ローゼンバウムは、ハンガリー南部(現クロアチア)のバーチカ地方、ドナウ川とティサ川に挟まれたアダ村の出身です。…母方の一族には素晴らしい家族が何人もいましたが、その中でも最も著名なのは、画家、写真家、そしてバウハウスの共同創設者でもある、母の又従弟のラースロー・モホイ=ナジでした。…
母が父と出会って結婚した時はまだ10代半ばで、1904年に妹のリリーが生まれた時はまだ18歳でした。父は26歳でした。私はそれから8年後、1912年10月21日に生まれました。ブダのヴェルメゾ通りにあるアパートで生まれました。(ドナウ川西岸のブダと東岸のペストは1872年まで別の都市でした。)しかし、私はそこで長くは暮らしませんでした。2歳の時、第一次世界大戦が勃発しました。父はすでに36歳でかなり太り気味でしたが、バラトン湖北西のヴェスプレームという町の軍の事務所で働くことを志願し、家族を連れて行きました。…私の最も古い記憶は、ヴェスプレームで過ごした日々に遡ります。』
<1913年 ゲオルク・ショルティ、本名ジェルジ・シュテルン、赤ん坊の頃、両親と姉リリイ>
写真提供: ショルティ夫人
1914年2歳
6月28日、オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を訪問中に、狙撃暗殺され第一次世界大戦の導火線となった。
7月第一次世界大戦の勃発により父は、志願してバラトン湖北西の町ヴェスプレームの軍司令部で働きはじめ、家族とともに引っ越した。
ショルティはヴェスプレームの家からさほど遠くない父の実家のあるバラトンフォカヤール訪ねている。
・『薪を使ったパン焼き窯で大きなパンのかたまりが焼ける香ばしい匂いも忘れられない。その時以来、私は焼き立てのパンの香と味が大好きなになった』とショルティは言う。
1915年3歳
バラトン湖北西の町ヴェスプレームで幼児期を過ごす。
1916年4歳
<1916年 新聞コンクールで一等賞受賞>
写真提供: ショルティ夫人
1917年5歳
バラトン湖北西の町ヴェスプレームで幼年期を過ごす。
1918年6歳
第一次世界大戦の勃発以降,平和・食糧の要求によって労働運動は大戦末期に盛り上がり, 1917年のロシア革命以降急速にたかまった。それは1月の大衆ストライキにおいて一つの頂点に達した。10月末にハンガリ一民主主義革命は成功し、オーストリア-ハンガリー帝国が崩壊し、兵土たちは帰還した。
国内は保守派と共産党が対立したが、ベラ・クーン率いる共産主義政権に支配された。ハンガリーの左翼活動家は大半がユダヤ人だった。昔から反ユダヤを標榜する極右に対し、反対の立場であった。ベラ・バルトークやゾルタン・コダーイはユダヤ人ではなかったがクーン政権を支持した。やがて保守派の指導者ホルティが政権を握り、大量処刑が行われ、バルトークやコダーイは公職を追放された。
秋、ショルティは両親家族とブタペストに戻った。
・『私たちが引っ越したブダのマロス通りにある築二十年のアパートは居間とキッチン、狭いベッドルームが四つ、どこもかしこも灰色でいやな匂いがした』と自伝で述べている。父は経済的に行き詰り、戦後の混乱期の一家の暮らしは厳しくなっていた。家計のことが夫婦喧嘩の種になり、母は父をなじった。
『獣医の伯父が私たち家族を援助してくれたうえ、母が上手にやりくりしたおかげで私たちはみじめな思いをせずにすんだ。母はいつも子どもたちを身ぎれいにし、自分も優雅に装っていた』
その年からショルティは小学校に通い始めた。学校ではルーマニア人、チェコ人、ユーゴスラヴィア人はハンガリーの敵であり、信用してはならないと教えこまれた。反ユダヤ主義は、ヨーロッパの中央でも東部でもいまだに根強く残っている。偏見は血の中にまで深く染みこんでいるかのようだ。ショルティ自身も若いころに、あなたはユダヤ人に見えないといわれると、嬉しくなったと後に述べている。
・ピアノを習い始める。
音楽好きの母親は、ショルティが『正しい音程で上手に歌うのを聴いて耳がいいに違いないと判断した』やがて彼の優れた歌声と優れた聴力を発見した。母は知人からブタペスト歌劇場のドイツ人ハープ奏者が優秀なピアノ教師でもあると教えられ、ショルティにピアノを教えに週一日来るようになった。
少年ショルティは音楽よりもサッカーが好きだった。彼の最初の先生は、半年後にショルティの希望でやめた。母は無理強いしなかった。その後、彼は好きなサッカーに夢中になった。
そして第一次世界大戦後は独立民族国家に変わった。その結果民族主義が高まりドイツ系の姓をもつハンガリー人たちは、その姓のハンガリー語を採用するよう奨励された。ショルティの両親は代々のシュテルン姓を捨てきれなかったが、将来を考えた父親は子どもたちの姓を変えた。その姓がショルティで、ハンガリーの小さな町の名前であった。名前の呼び方はハンガリーを離れるまではジョールジ、その後ドイツ語圏ではゲオルグ、英語圏ではジョージと発音されるようになった。
ショルティは語る『私が6歳のとき、ヴェスプレームからブダペストに戻り、学校に通い始めた年、音楽にとても興味を持っていた母は、私が上手に、はっきりと歌うことに気づき、私には良い耳があると判断しました。母は私の音楽的成長のために時間とエネルギーをすべて注ぎ込み、私にレッスンを受けさせる決心をしました。』
1919年7歳
小学ニ年生のときに学校の歌のクラスで音楽に興味が再び芽生え、歌のレッスンに同行した少年よりもピアノをもっと上手に弾けると思った。母にピアノを習いたいと頼んだ。
1920年8歳
小学三年生、最初の数年間は優等生でクラスの中でもトップを争っていた。
彼が再びピアノを弾き始めたのは八歳の時。七歳年上の姉リリーも同じ頃に歌い始めたので、両親は息子がリリーのピアノ伴奏することで、お金が節約できると考えた。母も一緒にピアノを習い始めた。彼の新しいピアノ教師は、非常に昔ながらのピアノのテクニックを教えていた老婦人コツィKóczy先生だった。
・『その後リりーは歌手を目指したが芽がでなかった。、父ゆずりの美声の持ち主だったが音楽的とは言えずドイツの地方歌劇場で二年ほど歌ったあとオペラのゆめは捨て結婚した。』
ショルティは語る『私が8歳くらいの頃、16歳だった妹のリリーが歌の勉強を始め、両親は私がリリーの伴奏をすれば少しはお金が節約できると考えました。両親にとってこれは大きな問題だったと思います。(リリーは後に歌手としてちょっとしたキャリアを築きました。父と同じように、彼女は良い声を持っていましたが、音楽的な才能はあまりなく、ドイツの地方劇場で2年間歌った後、オペラ歌手になる夢を諦めて結婚しました。)一方、母は私が音楽家になる素質があると心から信じていました。兄の一人が私に音楽ではなく「本物の」職業を学ばせるように勧めたにもかかわらず、母はそれを拒否しました。ほとんどの場合、彼のアドバイスは正しかったでしょう。音楽を習う子供のうち、絶え間なく努力する才能、野心、スタミナ、苦難を乗り越える強さ、そして音楽家として成功するための幸運を兼ね備えているのはほんの一握りです。しかし、私が音楽の世界で生きられるのは、間違いなく母のおかげです。』
1921年9歳
小学四年生
老婦人コツィKóczy先生からピアノのテクニックを学び続ける
1922年10歳
小学五年生
ブダペストのエルヌー・フォドール音楽学校The Ernő Fodor School of Music in Budapestの試験に合格し入学した。両親のどちらかが週三回連れて行かなければならなかった。指導の先生はミクローシュ・ローリシン教授で音楽理論とピアノのを学んだ。
1923年11歳
小学六年生
学校でラテン語を教わりはじめる。
エルヌー・フォドール音楽学校に引き続き通い音楽理論とピアノを学んだ。
1924年12歳
権威あるフランツ・リスト音楽院Franz Liszt Academyに入学。
ここで六年間本格的な音楽の基礎を学ぶことになる。
ショルティは毎朝市電にのりリスト音楽院に通った。最初のピアノ教授アルノルド・セーケイのレッスンを受ける。教授はイシュトヴァーン・トマーンの弟子だった。トマーンはリストの弟子でブラームスの友人だった。
12歳のとき、エーリッヒ・クライバーが指揮するベートーヴェン《交響曲第五番》の演奏を聴き、指揮者になりたいという気持ちを抱いた。
彼の両親はショルティに対し何年にもわたる音楽教育の費用を支払う余裕がなく、裕福な叔父も音楽を適切な職業とは考えていなかった。ショルティは13歳からピアノのレッスンをすることで教育費を支払った。
写真「フランツ・リスト・アカデミー」
1925年13歳
学校でドイツ語を教わりはじめる
ショルティはピアノのを教えることで学費を稼ぎ授業を続けた。
フランツ・リスト・アカデミーの教員には、ベーラ・バルトークBartók Béla、レオ・ヴェイネルWeiner Leó、エルネー・ドホナーニDohnányi Ernő、ゾルターン・コダーイKodály Zoltán,など、ハンガリーの最も著名な音楽家が何人か含まれていた。
リスト音楽院在学中、ゲオルク・ショルティはベーラ・バルトーク、エルンスト・フォン・ドホナーニ、ゾルタン・コダーイ、レオ・ヴァイナーに師事し、ピアノ、作曲、指揮を学んだ。
ショルティはピアノ、室内楽、作曲をそれぞれ最初の三人に師事した。コダーイにも師事したという情報もあるが、ショルティは回想録の中で、自分が望んでいたコダーイに断られ、最初にアルバート・シクロスAlbert Siklósに作曲を学び、次にエルネー・ドホナーニDohnányi Ernőに作曲を学ばんだと回想している。アカデミーのすべての教師が同じように優れていたわけではなかった。エルン・ウンガー Ernő Unger,が行った指揮の授業を少しうれしく思い出した。『彼は生徒たちに、手首の厳密な小さな動きを使うように指導した。このクラスに二年間学んだが、ウンガーが教えてくれたことを忘れるには、五年間の実践的な指揮経験が必要だった。』
<1925年姉リリイ、母と>
写真提供: ショルティ夫人
1926年14歳
1927年15歳
1928年16歳
1929年17歳
1930年18歳
フランツ・リスト・アカデミーを卒業するとブダペストのハンガリー国立歌劇場(1930年‐1938年)でスタッフに任命された。チェレスタやチェンバロなどの楽器の演奏も手がけるなど、努力の日々を送りながらオペラを学んだ。
彼は、コレペティトゥールとして働き、歌手の役割を指導し、リハーサルで演奏することは、指揮者としての彼の意図したキャリアのためのエルネー・ウンガー Ernő Unger,のクラスよりも実りある準備であることに気づいた。
<ブダペスト 十代の頃>
写真提供: ショルティ夫人
【註:レペティトゥール(répétiteur,)(ドイツ語: コレペティートルKorrepetitor)とは、オペラでは、レペティトゥールは、歌手を指導し、音楽とプロダクションのリハーサルのためにピアノを弾く責任者のこと。ソロの歌手や合唱団のメンバーを指導する場合、レペティトゥールはボイスコーチの多くの役割を担う。歌手にピッチや発音を改善する方法をアドバイスしたり、音符やフレージングの誤りを修正したりする役割を果たす業務である。
レペティトゥールは、優れた読解力とスコアリーディングスキルを備えた熟練した音楽家である。任務は、ピアノのパートを視覚的に読み取ることができることに加えて、すべての楽器とボイス パートの大規模なオープン スコアから読み取ることにより、ピアノでオーケストラ スコアをリアルタイムで縮小して演奏することができる(オーケストラリダクション orchestral reduction)。さらにレペティトゥールは、テンポの変更、一時停止、または他のニュアンスの追加に関して、指揮者の指示に従うことにも長けている】
1931年19歳
1932年20歳
彼は指揮者ヨーゼフ・クリップスの助手としてドイツのカールスルーエ歌劇場に行ったが、クリップスは、1年以内にヒトラーの権力への台頭あが差し迫ると予測しました。そして当時ユダヤ人がナチスに危険にさらされていないブダペストに帰国すべきだと告げた。
他のユダヤ人や反ナチスの音楽家もドイツを離れてブダペストに向かった。 ショルティが一緒に働いた他の音楽亡命者の中には、オットー・クレンペラー、フリッツ・ブッシュ、クライバー等がいた。
1933年21歳
1934年22歳
1935年23歳
1936年24歳
コレペティートルとしてザルツブルクを訪れた時、ザルツブルク音楽祭のリハーサルのためのピアニストに欠員が出たためショルティに声がかかったが、これがトスカニーニの目にとまり、同年と翌年のザルツブルク音楽祭のトスカニーニの助手を務めることとなる。『トスカニーニは私の人生における最初の偉大な音楽家でした。1936年に彼の生演奏を聴くまで、私はブダペスト以外で偉大なオペラ指揮者の演奏を聴いたことがありませんでしたが、それはまるで稲妻が走るような衝撃でした。1936年に彼の《ファルスタッフ》を聴いたときの衝撃は信じられないものでした。アンサンブルが完璧に正確に歌っているのを聞いたのは初めてでした。それは素晴らしかったです。それから私はトスカニーニに会えるとは思っていませんでした。それは100万分の1のチャンスだった。ブダペスト歌劇場の監督からザルツブルク音楽祭の会長に推薦状をもらいました。彼は私を出迎えてこう言った、《魔笛》を知っていますか。インフルエンザが流行していて、リピーターが2人体調が悪いからです。今日の午後、舞台のリハーサルのために演奏してもらえませんか?」』と述べている。
1937年25歳
《魔笛》の公演でグロッケンシュピールを担当した。
オーストリアがナチスの支配下に置かれる前、ショルティはこの年のザルツブルク音楽祭でアルトゥーロ トスカニーニのアシスタントを務めた。
1938年26歳
1月16日にスイスのバーゼルで行われたISCM(国際現代音楽協会)バーゼル支部創立10周年記念演奏会において、バルトーク夫妻のピアノ、フリッツ・シーサー(Fritz Schiesser)、フィリップ・リューリヒ(Philipp Rühlig)の打楽器によって行われた《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》初演の際にはバルトークのために譜めくりを行った、というエピソードが残されている。
3月11日ブダペスト歌劇場の《フィガロの結婚》で指揮者としてぶっつけ本番での指揮デビューを飾ったが、その夜、ドイツ軍がオーストリアに侵攻したというニュースが入った。多くのハンガリー人は、ヒトラーが次にハンガリーに侵攻するのではないかと恐れた。彼はそうしなかったが、ハンガリーの独裁者ホルティ提督がハンガリーの政策をナチス・ドイツの政策い企てはじめたころ、政府は公務員に対しハンガリーに少なくとも50年以上遡ってルーツを持つことを証明することを義務付け、証明できない場合は職を失うという法律を制定した。ハンガリーに流入したポーランド系、ロシア系のユダヤ人を排斥するためだった。主に19世紀以降、故郷での差別を逃れるためにカルパティア山脈を越えてハンガリーに移住した、ポーランド系およびロシア系ユダヤ人の相当数を対象としていた。
ブタペストにある国立劇場のコレペティートルとしてショルティは公務員であったため証明書を提出する必要があり、父はハンガリー西部のバラトン湖畔にある故郷の村、バラトンフォカヤールの公文書館に行き、自分たち家族が250年以上そこに住んでいたことを証明する文書を発見した。
第一次世界大戦以前、ハンガリーのユダヤ人はハンガリーの生活に同化・統合され非ユダヤ人と同じ権利を持っていた。オーストリア皇帝でありハンガリー国王でもあったフランツ・ヨーゼフ皇帝の主要な顧問はハンガリーのユダヤ人であった。陸軍司令官の一人であるサミュエル・ハザイ大将もである。シュテルン一家はこうしたことで自由であった。
<1938年 尊敬するトスカニーニから贈られた
写真提供: ショルティ夫人
1939年27歳
ナチスの指導者アドルフ・ヒトラーのオーストリア侵攻によってユダヤ人であるショルティは、ショルティの家族に亡命を勧めた。
ショルティは語る『8月15日、私は母と妹に別れを告げ、ロンドンから持ってきた小さなスーツケースに靴一足、清潔なシャツとパンツ、そしてハリスツイードのスーツを詰め込み、父と共に路面電車でブダペスト西駅へ向かいました。父は想像を絶するほど温厚で優しい人でした。私を叱ったり、何かを否定したりすることは一度もありませんでした。私は父の人生の光であり、父はこの世の何よりも私を大事に思ってくれました。それは今、私が自分の娘たちを大事に思っているのと同じです。私も父を愛していましたが、父が私に尽くしてくれたほど、父に尽くすことはありませんでした。
駅に着くと、プラットフォームで立ち話をしていると、電車が到着しました。ちょうど乗り込もうとした瞬間、父が泣き出しました。私はとても恥ずかしくなりました。「どうして泣いているの?」と父に尋ねました。「ほら、この小さなスーツケース一つしか持っていかないのがわからないの? 10日後に戻ってくるのだよ!」でも、父はまるで私たちが永遠に別れることを確信しているかのようでした。ショルティは父親に再び会うことはなかった。
彼の涙と私の厳しい口調は、それ以来ずっと私を苦しめてきました。あの突然の行動を許せません。二度と彼に会うことはありませんでした。』
ショルティはまずロンドンに行き、同郷の先輩指揮者アンタル・ドラティの引き合わせでコヴェント・ガーデン王立歌劇場のロシア・バレエ・シーズンでロンドン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、コヴェント・ガーデンでデビューした。
ロンドンでの出演後、ブタペスト歌劇場の後援会長からルツェルン音楽祭に参加しているトスカニーニを頼ってニューヨークへ渡ることを勧められ、ショルティはルツェルンで指揮をしていたトスカニーニを探すためにスイスへ向かった。ショルティはトスカニーニが米国でのポストを見つけるのを手伝ってくれることを望んでいた。
ルツェルンでトスカニーニに約束まではもらえたが、戦争が始まってしまったことと、トスカニーニの妻から貰った所持金が底をついてしまったことなどから実際には叶えられず、そのままスイスで亡命生活を送ることとなる。以後、戦争が終わるまでは家族と再会していない。
彼はそれを果たせなかったが、ショルティはワーグナーのオペラでトリスタンの役を学んでいたテノール歌手マックス・ヒルツェルの声楽コーチとしてスイスで仕事と生活の安定を得られた。ピアノリサイタルを行うことは許可されたが、指揮をすることはまだ許可されていなかった。亡命中に、チューリッヒ大学講師の娘ヘドヴィヒ(エディ)・エシュリと出会った 。彼らは1946年に結婚する。
ショルティは第二次世界大戦中の残りの期間、スイスに逃れ留まった。
スイス滞在中、ショルティはピアノに目を向け、オペラ歌手のテノールを指導した。
1940年28歳
1941年29歳
1942年30歳
ジュネーブ国際コンクールのピアノ部門で優勝し(審査員にはヴィルヘルム・バックハウスやフランク・マルタンがいた)、その後ピアニストとしてデビューする。それまで仕事にありつけずにいたショルティだが、この成功によって音楽家として名声を博していくことになる。
<1942年 ジュネーブ、ピアノ・コンクールに向け練習>
写真提供: ショルティ夫人
1943年31歳
父父:モーリツ・シュテルンはブダペストの病院で糖尿病のため亡くなった。
<戦時中ユダヤ人追放によりスイスへ亡命>
写真提供: ショルティ夫人
1944年32歳
1945年33歳
戦後、ドイツを占領していたアメリカ軍は、ドイツの音楽界を再活性化させることのできる、ナチスとは一切関係のない音楽家を探し始めた。
1946年34歳
ショルティはミュンヘンのミュンヘン歌劇場の音楽監督(1946年‐1952)に就任し、1952年までその職を務めた。また、ザルツブルク音楽祭に出演し、パリ、ベルリン、ローマ、ウィーン、フィレンツェ、ブエノスアイレスでも指揮を行った。
4月9日ベートーヴェン《フィデリオ》を指揮、ミュンヘン歌劇場。
ショルティは、『これにはトスカニーニとエーリヒ・クライバーの援助があった』と語っている。
7年ぶりにニ度ほど《フィデリオ》を指揮した後、非ナチ化の影響で多くのドイツ人指揮者が失脚していたという幸運もあった。
ショルティの指揮のもと、バイエルン国立歌劇場はレパートリーを再構築し、戦前の名声を取り戻し始めた。
彼は高齢のリヒャルト・シュトラウスの励ましの恩恵を受け、シュトラウスの面前で《ばらの騎士》を指揮した。R・シュトラウスはショルティと自分の音楽について話し合うことに消極的だったが、リR・シュトラウスと会う機会を得て、彼の作品の指揮について指導を受けた。
彼は指揮者としてではなくピアノ伴奏者としてデッカ・レコードと契約した。翌年ヴァイオリニストのゲオルグ・クーレンカンプとブラームスのヴァイオリン・ソナタ第1番を演奏して最初の録音を行った。
また、指揮をしたいという主張を受け、デッカは同年後半にチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団とベートーヴェン《エグモント》序曲の最初の録音をした。
チューリッヒ大学の講師の娘だったヘドヴィヒ(エディ)・エシュリと結婚した(1966年に離婚)。
1947年35歳
1月1日ビゼー《カルメン》ブラウン、フェヘンフォルガー、ホッター、クッパー
4月29日ワーグナー《ワルキューレ》
11月6日ワーグナー《トリスタンとイゾルデ》
スイスのテノール歌手リヒテクの推薦で、ピアニストとして英デッカと契約を結び、ピアノ伴奏者としてヴァイオリニストのゲオルグ・クーレンカンプとブラームスのヴァイオリン・ソナタ第1番を演奏して最初のデッカ・レコード録音を行った。
母の死Teréz Stern(61歳)
<1947年ミュンヘン歌劇場にて>
写真提供: ショルティ夫人
1948年36歳
1月6日ヴェルディ《運命の力》
3月13日ヒンデミット《画家マチス》
ミュンヘン歌劇場のバイロイト公演
9月4日R・シュトラウス《サロメ》
写真提供: ショルティ夫人
1949年37歳
1950年38歳
1951年39歳
ショルティは初めてザルツブルク音楽祭でモーツァルト《イドメネオ》を指揮した。作品はこれはでこの音楽祭では上演されていなかった。
ミュンヘンではショルティは批評的かつ人気のある成功を収めたが、政治的理由により国立歌劇場での地位は決して安泰ではなかった 。ドイツ人の指揮者が指揮を執るべきだという意見は根強くあった。
1952年40歳
フランクフルト歌劇場の音楽監督(1952年‐1961)に就任する。
1953年41歳
西ドイツ政府はショルティにドイツ国籍を認めた。ハンガリー亡命者として事実上無国籍だったショルティは、それをありがたく受け入れた。彼は、共産主義支配下にあったハンガリーには二度と戻ることはできないと信じていた。彼はこの後20年間ドイツ国民であり続けた。
サンフランシスコ歌劇場にて《エレクトラ》の指揮でアメリカデビュー。
同年、訪問中のハンブルク州立歌劇場の客演指揮者としてスコットランドのエディンバラ音楽祭にデビューした。
1954年42歳
《エレクトラ》、《ワルキューレ》、《トリスタンとイゾルデ》指揮してサンフランシスコ・オペラにゲスト出演した。
グラインドボーン音楽祭で《ドン・ジョヴァンニ》を指揮した。タイムズ紙の評論家はショルテ ” ” 快活で繊細な」指揮には何の欠点も見つからなかった ” to
と伝えた。
8月ショルティはラヴィニア音楽祭に初出演した。
夏のラヴィニア音楽祭でシカゴ交響楽団の初指揮をした。
1955年43歳
1956年44歳
1957年45歳
1958年46歳
4月18日ジェルジ・シュテルンからジョルジ・ショルティに改名する
この年から1965年にかけて、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との《ニーベルングの指環》全曲スタジオ録音を始めた。指揮者としての評価を国際的に著しく高める(世界初全曲録音)。
↓ 楽劇《神々の黄昏》~ジークフリートの葬送行進曲 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1959年47歳
《ばらの騎士》でイギリスのコヴェント・ガーデン王立歌劇場に登場、その成功により1961年に音楽監督に就任(1959-1971年)
1960年48歳
《タンホイザー》を指揮してニューヨークのメトロポリタン歌劇場 にデビューし、1964年まで同劇場に出演し続けた。
1961年49歳
この年から1971年まではコヴェント・ガーデン王立歌劇場の音楽監督(1961年‐1971)を務めた。
1962年50歳
1963年51歳
シカゴ交響楽団の音楽監督フリッツ・ライナーが亡くなり、後任の話があった
初来日、ロンドン交響楽団を率いて演奏ツアー。当時最晩年だったピエール・モントゥーが同行していたため、その影に隠れてさほど脚光を浴びることはなかった。このほかにアンタル・ドラティも同行していた。
1964年52歳
ヘディと離婚。
1965年53歳
1965年12月にオーケストラホールでシカゴ交響楽団デビュー。
1966年54歳
ヴァレリー・ピッツと再婚。ガブリエル、クラウディアをもうける。
<1966年 メゾソプラノのジョセフィーヌ・ヴィージーとリハーサル中>
写真提供: ショルティ夫人
1967年55歳
BBCの記者ヴァレリー・ピッツと再婚。
再び、シカゴ交響楽団の音楽監督への誘いの話があった
ショルティは、シカゴ交響楽団の代表者たちに、コヴェント ガーデンでの彼のコミットメントにより、シカゴに彼らが求めていた年八か月を指揮することは不可能であると語った。ショルティはシカゴ交響楽団に年に三ケ月半の指揮することで、カルロ・マリア・ジュリーニに同様の期間担当するよう依頼し共同音楽監督を提案したが、シカゴ交響楽団はこれらの共同監督路線を進めることを拒否した。
ショルティがシカゴ交響楽団の二度目の招待を受け入れたとき、ジュリーニが首席客演指揮者としてショルティの指揮をを支援するために任命されることに合意した。両方の指揮者は、1969年からオーケストラとの三年間の契約に署名した。
シカゴ交響楽団のメンバーの一人は、ショルティに「世界で最高の地方のオーケストラ」と表現した。多くの奏者がライナーの下でその十年間を過ごしたが、士気は低く、オーケストラは500万ドルの負債を抱えていた。
1968年56歳
・1968年12月、オーケストラ協会は、ショルティがジャン・マルティノンの後任として、1969年9月からシカゴ交響楽団の第8代音楽監督に就任すると発表した。
ショルティは22年間音楽監督を務め、オーケストラの世界的な名声を大きく高めました。 1971年には初のヨーロッパ海外ツアーを指揮し、オーストラリア、カナダ、日本、ロシアへのツアーに加え、カーネギーホールにも何度も訪れました。
1969年57歳
ショルティは1969年9月から22年間シカゴ交響楽団(CSO)の音楽監督(1969年‐1991)を務め、オーケストラの世界的な名声を大きく高めた。1991年、同楽団史上初かつ唯一の桂冠音楽監督に就任した。
ショルティは、シカゴ交響楽団の音楽監督(1969年‐1991)に就任した。ショルティは当初、カルロ・マリア・ジュリーニとの共同音楽監督を提案したが、ジュリーニが首席客演指揮者としてショルティを支援する体制となった。
コンサートオーケストラの本格的在任は生涯初ながら、やや停滞が伝えられていたこのオーケストラを数年で立て直し、その活躍はめざましいものとなる。シカゴ響初の海外公演を成功させる。当初2年間のコヴェントガーデン歌劇場兼任、1979年からの4年間のロンドン・フィル兼任があったものの、二十数年の在任期間の多くを同団に傾注し、名コンビを謳われた。
オーケストラのフルート奏者であるドナルド・ペックは、指揮者とオーケストラの関係を説明するのは難しいとコメントしている。ペックの同僚でヴァイオリン奏者のヴィクトル・アイタイは、『通常、指揮者はリハーサルではリラックスしており、コンサートでは緊張している。ショルティはその逆だ。彼はリハーサルで非常に緊張しているので、私たちは集中できるが、演奏中はリラックスしている。オーケストラにとって大きな財産です。』ペックは、『ショルティが自分のテクニックと解釈を改善するための絶え間ない努力を思い出し、ある時点で実験的にバトンを省略し、プレーヤーから「より暗く、より深く、はるかにリラックスした』トーンを引き出した。
オーケストラの知名度を高め、繁栄を取り戻すのを助けるだけでなく、ショルティはそのレパートリーを大幅に拡大した。彼の下で、シカゴ交響楽団はブルックナーとマーラーの交響曲の最初のサイクルを行なった。彼は、ルトスワフスキの《交響曲第三番》や、ショルティに捧げられたティペットの《交響曲第四番》など、オーケストラのために委嘱された新作を紹介した。別の新作はティペットの《ビザンチウム》であり、歌曲集であり、ショルティとソプラノのフェイ・ロビンソンFaye Robinson(1943年11月2日 -)とのオーケストラによって初演された。ショルティは、チャールズ・アイヴスやエリオット・カーターなど、アメリカの作曲家による作品を頻繁にプログラムした。
シカゴ交響楽団とのショルティの録音
ベートーベン、ブラームス、ブルックナー、マーラーの交響曲全集が含まれている。
オペラ録音のほとんどは他のオーケストラとの録音であったが、ワーグナーの《Der fliegende Hollander》 (1976)、ベートーヴェンの《Fidelio》 (1979)、シェーンベルクの《Moses und Aron》 (1984) の録音、そして《Die Meistersinger》 (1995) と Verdi の2 番目の録音《Otello》 (1991) はシカゴ交響楽団のメンバーで録音された。
1970年58歳
・1月8日ツアー
ハイドン《交響曲第102番》
バルトーク《舞踏組曲》
ブラームス《交響曲第1番》
サー・ゲオルグ・ショルティ シカゴ交響楽団
カーネギーホール
『ハイドン、バルトーク、ブラームスの初演奏会後、レイモンド・エリクソンはニューヨークから次のように報告した。「昔の映画のキャッチコピーを言い換えて、″ゲオルク・ショルティが戻ってきて、シカゴ交響楽団が彼を迎えた”と言いたくなる。これほど高貴な組織と傑出した音楽家について、軽率な発言に思えるかもしれない。しかし、これは事実であり、重要なことだ。なぜなら、木曜夜のカーネギーホールでの演奏会から判断すると、このパートナーシップは素晴らしいものだからだ。」』(シカゴ・トリビューン紙の記事抜粋)
・1月11日ツアー
ハイドン《交響曲第102番》
バルトーク《舞踏組曲》
ブラームス《交響曲第1番》
サー・ゲオルグ・ショルティ シカゴ交響楽団
ブルーミントンのインディアナ大学
ゲオルク・ショルティが音楽監督に就任した最初のシーズン中、彼がオーケストラを率いてツアーに出たのは1970年1月の1度だけだった。
『1月12日付のシカゴ・トリビューン紙に寄稿したトーマス・ウィリス記者は次のように記している。「あらゆる情報から判断すると、カーネギーホールで行われた金曜夜のマーラー・コンサートは観客にとって大盛況だった。ゲオルク・ショルティは交響曲第5番の演奏後、12回もステージに呼ばれた。ホールの広報担当者は、近年のオーケストラの訪問としては最も熱狂的な歓迎だったと語っている。」。1週間後、ウィンスロップ・サージェントはニューヨーカー誌に寄稿し、「シカゴ交響楽団はアメリカで最も偉大なオーケストラか?」という疑問に答えようとした。』
・パリ管弦楽団(1970年‐1975)音楽監督就任
<1970年 ロンドン、セントジョンズ・ウッドの自宅にて、妻ヴァレリー、娘ガブリエルと>
写真提供: ショルティ夫人
1971年59歳
・ヨーロッパ海外初のツアーは、第8代音楽監督として3シーズン目を迎えた ゲオルク・ショルティと、初代首席客演指揮者カルロ・マリア・ジュリーニがオーケストラに同行した。シカゴ交響楽団とその家族、管理スタッフ、理事、運営メンバー、および数名の報道関係者がシカゴを出発し、ウィーンへ向かい出発した。
・9月4日ヨーロッパツアー初日
メンデルスゾーン《真夏の夜の夢》序曲
エリオット・カーター《管弦楽のための変奏曲》
ブラームス《交響曲第1番》
サー・ゲオルグ・ショルティ シカゴ交響楽団
エディンバラのアッシャー・ホール
・10月5日ヨーロッパツアー最終日はジュリーニの指揮で行われた。
モーツァルト《交響曲第39番》
ラヴェルの《スペイン狂詩曲》
ベートーヴェン《交響曲第七番》
ロイヤル・フェスティバル・ホール
・初のヨーロッパ海外ツアーは、オーストリア、ベルギー、イギリス、フィンランド、フランス、ドイツ、イタリア、スコットランド、スウェーデンの9か国15会場で25回のコンサートを含む約6週間のツアーを行った。レパートリーは、ベートーヴェン、ブラームス、マーラー、ハイドン、モーツァルト、チャイコフスキーの交響曲から、共演はウラディーミル・アシュケナージとラファエル・オロスコが出演するモーツァルトとプロコフィエフのピアノ協奏曲、バルトーク、ベルリオーズ、エリオット・カーター、ラヴェル、ストラヴィンスキーの管弦楽曲であった。
・1971年10月14日スシカゴに戻ったオーケストラのメンバーは、ステート通りとラサール通りで行われたティッカーテープ・パレードで英雄として歓迎された。満員の観客から常に歓迎と喝采を浴びたオーケストラは、批評家からも圧倒的な好意的な反応を得た。
ショルティは、オーケストラの国際的な知名度を上げることが不可欠であると考えた。彼はデッカのセッションの多くでそれが使用されることを保証し、彼とジュリーニはこの年のヨーロッパ ツアーを率いて、十カ国で演奏した。オーケストラが北米以外で演奏したのは、80年の歴史の中で初めてでした。オーケストラはヨーロッパの評論家から称賛を受け、ツアーの最後にティッカーテープ パレードで歓迎された。
1972年60歳
・イギリス国籍を得て帰化。
・2月3日エリザベス2世女王より大英帝国勲章ナイト・コマンダー受章し、ナイトの称号を授与される。
<1972年 「ナイト」爵位を受けバッキンガム宮殿の外で、妻ヴァレリーと>
写真提供: ショルティ夫人
1972年61歳
同年‐1975年までシカゴでの在職期間に加えて、パリ管弦楽団音楽監督を務めた。
1973年62歳
1974年63歳
1975年64歳
1976年65歳
1977年66歳
1978年67歳
1979年68歳
ロンドンフィルハーモニー管弦楽団(1979年‐1984)の首席指揮者。エルガーの主要作品の多くをコンサートやレコードで演奏した。エルガーの二つの交響曲を演奏する前に、ショルティは40年以上前に作成された作曲家自身の録音を研究し、それらの活発なテンポと衝動的な方法に影響を受けた。
1980年69歳
1981年70歳
1982年71歳
1983年72歳
バイロイト音楽祭に出演し、『ニーベルングの指環』を指揮するが、バイロイト登場はこの年限りに終わった。次のシーズンに向けてバイロイトに戻るよう招待されたが、1984 年の音楽祭が始まる前に体調が悪く、医師の助言により辞退した。
1984年73歳
1985年74歳
1986年75歳
ショルティとシカゴ交響楽団の来日公演
1987年76歳
↓ マーラー:交響曲第5番~V.フィナーレ
ショルティ指揮 シカゴ交響楽団
1987年3月26日
1988年77歳
1989年78歳
1990年79歳
ショルティとシカゴ交響楽団の来日公演
1991年80歳
ショルティはシカゴ交響楽団史上初かつ唯一の桂冠音楽監督に就任した。1969年9月から1991年まで22年間シカゴ交響楽団(CSO)の音楽監督を務め、オーケストラの世界的な名声を大きく高めた。
シカゴ交響楽団の音楽監督の職を辞任した後も、ショルティは引き続きオーケストラを指揮し、桂冠音楽監督の称号を与えられた。死の直前までシカゴ交響楽団を中心に幅広い指揮活動を続けた。彼はオーケストラと999回のコンサートを行った。
同年ショルティは俳優兼作曲家のダドリー・ムーアと協力して、八部構成のテレビ シリーズ「オーケストラ!」を制作
1992年81歳
ザルツブルク音楽祭芸術監督に就任。
1993年82歳
1994年83歳
6月カーネギー・ホールでショルティ・オーケストラ・プロジェクトの共同設立者となる。
彼はカーネギー・ホールで、アメリカの若い音楽家のためのトレーニング・ワークショップである「Solti Orchestral Project」を指揮した。
ウィーン・フィルとの最後の来日まで、たびたび日本を訪れた。
1995年84歳
ジュネーヴで開催された「国連50周年記念演奏会」にて、世界各地のオーケストラに所属する40カ国余り81人の演奏家から編成される「ワールド・オーケストラ・フォア・ピース」による初演を成功させ、3年越しの構想を実現させた。
1996年85歳
1997年86歳
2月バルトークのカンタータ・プロファーナー《魔法にかけられ鹿》ベルリン・フィル、ハンガリー放送合唱団を指揮
9月5日 – 休暇中の南フランスのアンティーブで自伝の最終チェックを終えた直後、就寝中に心筋梗塞により死去。84歳没。敬愛するバルトークの墓の隣で眠りについている。ショルティは、1997 年 9 月 5 日に南フランスのアンティーブで休暇を過ごしていたときに、睡眠中に突然亡くなりました。[106]彼は 84 歳でした。ブダペストでの国葬の後、彼の遺灰はファルカスレティ墓地のバルトークの遺骨の横に埋葬されました。
9月5日ショルティの1,000回目のコンサートは、85歳の誕生日の10月21日頃に予定されていたが、9月5日休暇中の南フランスのアンティーブで就寝中に心筋梗塞により死去した。84歳。
7.初演
8.関連動画youtube
Mussorgsky 《Pictures an Exhibition》
Introduced and Conducted by Sir George Solti
Chicago Symphony Orchestra
1991年
Georg Solti – Interview in Salzburg
1994年
Mozart《レクイエムRequiem》 KV626
Wiener Philharmoniker Sir Georg Solti
1991年
Beethoven《Symphony No.2 》
Georg Solti cond. Berliner Philharmoniker
March 14, 1993 at Berliner Philharmonie
1993年Live
日本公演
ベートーヴェン《交響曲第四番》変ロ長調 op.60
サー・ゲオルグ・ ショルティ/ロンド交響楽団
1963年4月29日東京文化会館
Ludwig van Beethoven: Sinfonie Nr.4 in B-Dur Op. 60
Sir Georg Solti
London Symphony Orchestra
29,41963年 Tokyo Bunka Kaikan
日本公演
Beethoven《Symphony Nr 7》
Vienna Philharmonic
ショルティ/ウィーンフィル
ベートーベン交響曲第7番
1994年 サントリーホール
Beethoven《Symphony No. 8》in F Major, Op. 93
Georg Solti, Chicago Symphony Orchestra
Großes Festspielhaus in Salzburg,
Live,31 Aug. 1981
BEETHOVEN 《SYMPHONY Nº9》
ショルティ/ロンドン・フィルハーモニー
ジェシー・ノーマン、サラ・ウォーカー、ライナー・ゴールドバーグ、ハンス・ソーティン
BBCシンガー、ウェールズ国立オペラ合唱団、London Voice、
Georg Solti/ LPhO
JESSYE NORMAN,SARAH WALKER,REINER GOLDBERG & HANS SOTIN.BBC SINGERS,WELSH NATIONAL OPERA CHORUS & LONDON VOICES.
LIVE 1986
ブラームス《ドイツ・レクイエム》
Brahms: A German Requiem
Lore Wissmann (Soprano)
Theo Adam (Baritone)
Sir Georg Solti/Frankfurt Opera and Museum Orchestra
Frankfurt Opera Chorus
Rec. April 1954
Bruckner《Symphony No.0》 in D minor
Bruckner : Symphony No.0 in D minor
Sir George Solti /Chicago Symphony Orchestra
Bruckner《Symphony No. 1》12:07/13:00/8:09/13:29 演奏のみ
Sir Georg Solti/Chicago Symphony Orchestra
Bruckner 《Symphony No. 4》 in E flat major 「Romantic」 1:03:0 演奏のみ
Sir Georg Solti/Chicago Symphony Orchestra
ブルックナー《交響曲第六番》イ長調WAB.106 1:03:21
サー・ゲオルグ・ショルティ/シカゴ交響楽団
Bruckner: Symphony No. 6 in A-Dur (WAB 106)
Sir Georg Solti/Chicago Symphony Orchestra
1980
Bruckner《Symphony No 7》 1:04:15 演奏のみ
Sir Georg Solti/Wiener Philharmoniker
https://youtu.be/MomNhHT-OHs
ブルックナー《交響曲第八番》
サー・ゲオルグ・ショルティ指揮/ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
1993年2月4日 ウィーン ライヴ
Bruckner《Symphony No. 9 》 1:01:4 演奏のみ
Sir Georg Solti, /Chicago Symphony Orchestra
Recorded at Orchestra Hall, Chicago,
Sept., Oct. 1985
マーラー 《交響曲 第2番》ハ短調 「復活」1:20:46 演奏のみ
サー・ゲオルグ・ショルティ/ロンドン交響楽団・合唱団
S:ヘザー・ハーパー Heather Harper
A:ヘレン・ワッツ Helen Watts
London Symphony Orchestra/ Chorus
1966年録音
日本公演
Mahler 《Symphony No. 5》
Chicago Symphony Orchestra conducted by Sir Georg Solti
Recorded live at Bunka Kaikan, Tokyo on March 26, 1986
リヒャルト・シュトラウス 交響詩《ドン・ファン》作品20
リハーサルとジョン・カルショウのインタービュー
サー・ゲオルク・ショルティ
ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団(コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団)
1967年3月19日
Richard Strauss “Don Juan” Op. 20
Rehearsal and interview with John Culshaw
Sir Georg Solti
Orchestra of the Royal opera house, Covent Garden
19, Mar, 1967
ワーグナー《さまよえるオランダ人》より
Wagner Der fliegende Hollander Overture Solti
Wagner Preludes and Overtures,
0:23 Overture to “Der fliegende Holländer”
12:19 Overture to “Tannhäuser”
27:52 “Tristan und Isolde” Prelude
47:17 “Die Meistersinger von Nürnberg” Prelude to Act I
Chicago Symphony Orchestra, Sir Georg Solti
Wagner《SIEGFRIED》
Wiener Philharmoniker · Sir Georg Solti
VIENA 1962
《Siegfried》 Funeral Music – Götterdämmerung – Solti – VPO 6:23
https://youtu.be/nkOiKy6sXfM
日本公演
Wagner《トリスタンとイゾルデ》前奏曲と愛の死
ショルティ/ウィーンフィル
1994年 サントリーホール
Wagner: Tristan und Isolde, Act 2: “Soll ich lauschen?” (Tristan, Isolde)
Solti conducts Wagner,Vienna Philharmonic
1994 Tokyo
日本公演
ワーグナー《ローエングリン》三幕「前奏曲」
サー・ゲオルグ・ ショルティ/ロンド交響楽団
1963年4月29日東京文化会館
Richard Wagner: Lohegrin Prelude to Act 3
Sir Georg Solti
London Symphony Orchestra
29. Apr. 1963 Tokyo Bunka Kaikan
R.Wagner《’Das Rheingold》 2:25:4 演奏のみ
Sir Georg Solti/Wiener Philharmoniker,
1958年
R.Wagner《Die Walküre》3:49:02 演奏のみ
Sir Georg Solti/Wiener Philharmoniker,
1962年
R.Wagner《Parsifal》4:17:3 演奏のみ
Sir Georg Solti/Vienna Philharmonic Orchestra
Amfortas:. Dietrich Fischer-Dieskau (bar)
Titurel: Hans Hotter (bass-bar)
Gurnemanz: Gottlob Frick (bass)
Parsifal: René Kollo (ten)
Klingsor: Zoltan Kélémen (bar)
Kundry: Christa Ludwig (sop)
First Knight: Robert Tear (ten)
Second Knight: Herbert Lackner (ten)
Alstimme: Birgit Finnilä (con)
First Esquire: Rotrund Hansmann
Second Esquire:. Marga Schiml
Third Esquire: Heinz Zednik
Fourth Esquire:. Ewald Aichberger
Recorded in the Sofiensaal, Vienna 1972
Tchaikowsky 《Piano Concerto no.1 》in B-flat minor, Op. 23
セシル リカドCecile Licad(Pf.)ゲオルク ショルティ/シカゴ交響楽団
1982年
Shostakovich 《Symphony No. 5 》 in D minor, Op.47
Orchestre symphonique de Montréal, Charles Dutoit
Berlin Philharmonic
1993
日本公演
Mussorgsky 《Pictures at an Exhibition》
1. Mussorgsky (Ravel): “Pictures at an Exhibition” – [0:23]
2. Berlioz: Rakoczy March – [37:26]
Georg Solti/Chicago Symphony Orchestra
Encore 1990.4.15 Tokyo. Japan Live”
R. シュトラウス 交響詩《死と変容》作品24 23:39
ショルティ/シカゴ交響楽団
Richard Strauss: Tod und Verklärung op. 24
Sir Georg Solti/Chicago Symphony Orchestra
日本公演
リヒャルト・シュトラウス:交響詩《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》作品28
サー・ゲオルグ・ショルティ/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1994年10月3日 サントリーホール
Richard Strauss: Till Eulenspiegels lustige Streiche Op.28
Sir. Georg Solti
Wiener Philharmoniker
3. Oct. 1994 Suntory hall, Tokyo
Verdi《レクイエム Requiem》
ジョーン・サザーランド、マリリン・ホーン、ルチアーノ・パヴァロッティ、マルッティ・タルヴェラ
ゲオルク・ショルティ/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
Sutherland Horne Pavarotti Talvela
Georg Solti/Wiener Philarmoniker
Verdi《アイーダ Aida》 2:32:32
Aida: Leontyne Price
Radamès: Jon Vickers
Amneris: Rita Gorr
Amonasro: Robert Merrill
Conductor: Sir Georg Solti
Orchestra e Coro del Teatro dell’Opera di Roma
1962
ヴェルディ《ファルスタッフ Falstaff》 2:08:37 映像付き
Gabriel Bacquier (Falstaff), Richard Stilwell (Ford), Max-René Cosotti (Fenton), John Lanigan (Dr.Cajus), Peter Maus (Bardolfo), Ulrik Cold (Pistola), Karan Armstrong (Alice Ford), Jutta Renate Ihloff (Nannetta), Sylvia Lindenstrand (Meg Page), Marta Szirmay (Quickly)
Coro Deutsche Oper Berlin & Wiener Philharmoniker
dir. Sir Georg Solti
1979
Giuseppe Verdi《リゴレット Rigoletto》1:53:21 演奏のみ
Rigoletto: Robert Merrill
Il ducca di Mantova: Alfredo Kraus
Gilda: Anna Moffo
Madalena: Rosalind Elias
Sparafucile: Ezio Flagello
Conductor: Georg Solti/Orchestra e Coro della RCA Italiana
1963 RCA studio recording
ヴェルディ《ドン・カルロ》全曲 3:17:59 演奏のみ
ショルティ指揮/ROHコヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団
Rossini《セビリアの理髪師序曲OUVERTURE ‘DER BARBIER》
Sir Georg Solti dirigiert das Chcago Symphony Orchestera
Siegfried ”Funeral Music” 《神々の黄昏 Götterdämmerung》
ウィーン・フィル
Solti – VPO
9.録音Representative recording
10.その他
<演奏スタイル>
◎音楽評論家の吉田秀和は、ショルティがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した交響曲第3番 (ベートーヴェン)の録音の第二楽章について、「こういう音楽を大真面目でやれるというには、何か一種の反知性的な気質か、さもなければ劇場的性格か、あるいは、そういうことを超越した本当に崇高なまでの精神的態度か、何かそういうものが要るのではなかろうか?そうして、ショルティには、この中で劇場的なもの theatrical な効果というものに対する本能が極度に強く発達しているのではなかろうか?」と述べ、次にリヒャルト・シュトラウスの『エレクトラ』の録音を挙げた上で「ショルティほどに、無慚な手つきでこういう響きを引き出している指揮者は、ほかに誰がいるのだろうか?」と、その劇的表現力を評している[6]。
◎作曲家の諸井誠は、シカゴ交響楽団を指揮した交響曲第9番 (ブルックナー)の録音を「究極のブルックナー」と評している
◎<平和への祈り>
青年期が第二次世界大戦の真っ只中と重なり、またユダヤ系であることから、ショルティの生涯は戦争に翻弄され続けた。この経験から、政治家もまた、音楽家と同様に思想の違いを超えて平和を実現することが必ずできるはずだという信念を抱き、1992年にバッキンガム宮殿にてチャールズ三世(当時王太子)とダイアナ妃の主催で開かれたショルティ80歳記念演奏会の場で、「音楽が持つ、平和の使節としての特別な力」を体現化する「ワールド・オーケストラ・フォア・ピース」の構想を発表した
◎<その他>
1. 戦後は自身の名前(Georg)をドイツ風で通し、1972年までドイツ国籍を持っていたショルティは、イギリスに帰化したのちも「ドイツ語が、思い通りのことを一番うまく言える言語」「マジャール語は忘れてしまった」として、ヘルマン・ヘッセやトーマス・マンを原書で愛読する生活を送っていた。同名かつ同郷で、やはり壮年期にドイツ風名乗りを行っていたジョージ・セルと異なり、ショルティは帰化後も綴りを英語風に改めることはしていない。妻は英国人。
2. ショルティによって、シカゴ交響楽団は今日の世界的評価を獲得した。シカゴ交響楽団はショルティ赴任以前にフリッツ・ライナーによる第一期黄金時代を謳歌していたものの、ライナー辞任後は楽団の内紛で低迷してしまっていた。初のヨーロッパ公演を成功させたショルティとシカゴ交響楽団は、シカゴ市民に熱狂的に迎えられ、「シカゴはギャングの街からオーケストラの街になった」との評もあった。シカゴの野球解説者は、正確であることを「ショルティのよう」と喩えた。シカゴの電話帳の表紙を飾ったこともあり、市民から愛された指揮者であったようだ。
3. ヨーロッパ大陸への客演はドイツの放送交響楽団が多く、晩年までミュンヘン・シュトゥットガルト・ケルンには特に頻繁に客演していた。1990年代には、ヘルベルト・フォン・カラヤンの生前にはあまり縁のなかったベルリン・フィルやザルツブルク音楽祭にも登場するようになる。
4. ショルティ自伝から
『私が生まれてからの6年間、ハンガリーはハプスブルク家の広大なオーストリア=ハンガリー帝国の最も重要な構成要素のひとつでしたが、第一次世界大戦後、独立した国家となりました。その後ハンガリー民族主義が高揚したため、ゲルマン系の姓を持つ多くのハンガリー人は、ハンガリー語の対応する姓を採用するよう奨励されました。両親は元の姓であるシュテルンを使い続けましたが、父は私と妹のキャリアを優先するため、姓を変えることにしました。父は、ハンガリーの小さな町の名前であるショルティという新しい名前を適当に選びました。私の名前であるジェルジは、ハンガリーを離れるまで変わりませんでしたが、その後、海外では誰もこの奇妙な綴りの名前の発音に対応できなかったため、ドイツ語圏ではゲオルグに変更され、英語圏ではジョージのように発音されるようになりました。
私の父、モーリツ・シュテルンは1878年、バラトン湖畔で生まれ、若い頃、二人の兄弟と共にブダペストへ移住しました。父は温厚な人でしたが、商才は全くありませんでした。それでも彼は生涯を通じて挑戦を続け、最初は小麦粉商人、次に保険外交員、そして最後に不動産ブローカーとなりました。…母、テレーズ・ローゼンバウムは、ハンガリー南部(現クロアチア)のバーチカ地方、ドナウ川とティサ川に挟まれたアダ村の出身です。…母方の一族には素晴らしい家族が何人もいましたが、その中でも最も著名なのは、画家、写真家、そしてバウハウスの共同創設者でもある、母の又従弟のラースロー・モホイ=ナジでした。…
母が父と出会って結婚した時はまだ10代半ばで、1904年に妹のリリーが生まれた時はまだ18歳でした。父は26歳でした。私はそれから8年後、1912年10月21日に生まれました。ブダのヴェルメゾ通りにあるアパートで生まれました。(ドナウ川西岸のブダと東岸のペストは1872年まで別の都市でした。)しかし、私はそこで長くは暮らしませんでした。2歳の時、第一次世界大戦が勃発しました。父はすでに36歳でかなり太り気味でしたが、バラトン湖北西のヴェスプレームという町の軍の事務所で働くことを志願し、家族を連れて行きました。…私の最も古い記憶は、ヴェスプレームで過ごした日々に遡ります。…
「私が6歳のとき、ヴェスプレームからブダペストに戻り、学校に通い始めた年、音楽にとても興味を持っていた母は、私が上手に、はっきりと歌うことに気づき、私には良い耳があると判断しました。母は私の音楽的成長のために時間とエネルギーをすべて注ぎ込み、私にレッスンを受けさせる決心をしました。
「私が8歳くらいの頃、16歳だった妹のリリーが歌の勉強を始め、両親は私がリリーの伴奏をすれば少しはお金が節約できると考えました。両親にとってこれは大きな問題だったと思います。(リリーは後に歌手としてちょっとしたキャリアを築きました。父と同じように、彼女は良い声を持っていましたが、音楽的な才能はあまりなく、ドイツの地方劇場で2年間歌った後、オペラ歌手になる夢を諦めて結婚しました。)一方、母は私が音楽家になる素質があると心から信じていました。兄の一人が私に音楽ではなく「本物の」職業を学ばせるように勧めたにもかかわらず、母はそれを拒否しました。ほとんどの場合、彼のアドバイスは正しかったでしょう。音楽を習う子供のうち、絶え間なく努力する才能、野心、スタミナ、苦難を乗り越える強さ、そして音楽家として成功するための幸運を兼ね備えているのはほんの一握りです。しかし、私が音楽の世界で生きられるのは、間違いなく私のおかげです。 母親
1939年8月15日、26歳の私は母と妹に別れを告げ、ロンドンから持ってきた小さなスーツケースに靴一足、清潔なシャツとパンツ、そしてハリスツイードのスーツを詰め込み、父と共に路面電車でブダペスト西駅へ向かいました。父は想像を絶するほど温厚で優しい人でした。私を叱ったり、何かを否定したりすることは一度もありませんでした。私は父の人生の光であり、父はこの世の何よりも私を大事に思ってくれました。それは今、私が自分の娘たちを大事に思っているのと同じです。私も父を愛していましたが、父が私に尽くしてくれたほど、父に尽くすことはありませんでした。
駅に着くと、プラットフォームで立ち話をしていると、電車が到着しました。ちょうど乗り込もうとした瞬間、父が泣き出しました。私はとても恥ずかしくなりました。「どうして泣いているの?」と父に尋ねました。「ほら、この小さなスーツケース一つしか持っていかないのがわからないの? 10日後に戻ってくるのよ!」でも、父はまるで私たちが永遠に別れることを確信しているかのようでした。
「彼の涙と私の厳しい口調は、それ以来ずっと私を苦しめてきました。あの突然の行動を許せません。二度と彼に会うことはありませんでした。』