IWY. 62 ルイージ・ロッシ

イタリア、バロックの作曲家
ルイージ・ロッシLuigi Rossi(Aloigi de Rossi, Aloysius de Rubeis)(1597-1653)

1597年か1598年ナポリ王国領内、フォッジャ近郊の町トッレマッジョーレに生まれた。
伝えるところによると、ロッシ一家はトーレ・モビリア又は旧市街のコダッチォに住んでいたようだ。父ドナートDonatoの出身地であった。彼の兄弟姉妹には、ジョヴァンニ・トンマーゾGiovanni Tommaso、ジョゼッパGioseppa、ディオニージオ、ジュリオ・チェーザレGiulio Cesare、フェリーチェ・アントニオFelice Antonio、そしてジョヴァン・カルロGiovan Carloの兄弟6人がいた。ジョヴァン・カルロは、作曲家、ハープ奏者、オルガン奏者であり、フランチェスカ・カンパーナと結婚していたが、1617年に生まれた。彼は1630年頃にローマへ赴き、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会で、兄ルイージのオルガン奏者としての職務を頻繁に代行した。1637年1月6日には、教皇礼拝堂の歌手たちによって彼の作曲したミサ曲が演奏された。1661年から1666年にかけてはフランス宮廷に滞在した。彼は兄の楽譜や楽器の一部を相続した。恋愛を主題とした彼の声楽室内楽曲がいくつか現存している。彼は1692年6月13日、ローマで死去した。
幼少の記録は1627年の地震によりトーレマッジョーレにある聖ニコラス教会とサンタ・マリア・デッラ・ストラ-ダ教会が完全に破壊されたため定かでない。彼は、幼い頃にナポリへ移り、そこで音楽を学んだ。彼がナポリへ赴いたのは、トレマッジョーレ公爵およびサン・セヴェーロ侯爵の位にあったディ・サングロ家の庇護によるものと推測されている。この公爵は、かつてジョヴァンニ・デ・マックを支援した人物でもある。
領主の奨学金をもらいローマ・サンタカーサ・アヌンツィアータ大聖堂礼拝堂音楽院に入り、オルガニストでフランドルフ派の作曲家ジョヴァンニ・デ・マックJean de Macqueに歌唱、オルガン、ハープシコード、リュ-ト、音楽理論を学んだ。「神童」であったようだ。
彼がナポリへ赴いたのは、トレマッジョーレ公爵およびサン・セヴェーロ侯爵の位にあったディ・サングロ家の庇護によるものと推測されています。

1653年2月19日ローマで歿、ローマ・サンタ・マリア教会に埋葬された。

3.経歴

ロッシはトラエッタ公カエターニ家に仕えた。
1620年8月ローマ教皇の甥、ロッシはスルモーナ公マルカントニオ・ボルゲーゼに「音楽家」として雇われ、1636年9月まで同家に仕えた。
1620年1月26日に彼がローマからエンツォ・ベンティヴォーリオ侯爵に宛てた書簡によって裏付けられている。この侯爵とのつながりは、ロッシがローマの音楽界へ進出する助けとなった可能性がある。フェラーラのこの一族との関係は、さらに後年、ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオ修道院長の書簡によっても裏付けられている。1655年9月17日付のその書簡の中で、彼はロッシが作曲した2つの作品の歌詞その中には哀歌「不運なエルミーニア、どこを彷徨うのか(Erminia sventurata, ove t’aggiri)」が含まれます。の作者であることを明かしている。
1627年7月には、パトロンの妻カミッラ・オルシーニに仕える著名なハープ奏者、コスタンツァ・ダ・ポンテとルキナのサン・ロレンツォ教会で結婚した。
1633年4月にはサン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会のオルガニストに就任し、亡くなるまでその職を務めました(度重なる長期不在の際には、しばしば弟のジョヴァン・カルロが代理を務めました)。この任命は、教皇の甥であるアントニオ・バルベリーニ枢機卿がフランスの共同保護者に就任した時​​期と重なることから、親スペイン派のボルゲーゼ家による庇護から親フランス派の勢力圏へと徐々に軸足を移していく動きとして解釈されている。
1635年2月には、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂内のボルゲーゼ家礼拝堂で行われた「40時間信心(Quarant’ore)」の儀式のために、ロッシが音楽を作曲・指揮している。同年、カミッラ・オルシーニの推薦によりロッシ夫妻はメディチ家のフェルディナンド大公からフィレンツェ宮廷に招かれ、5月から11月まで滞在した。ロッシはその後も亡くなるまでフィレンツェとのつながりを保ち続けた。
1636年9月以降、ロッシの名はボルゲーゼ家の給与支払名簿から消え、同年12月にジョヴァン・カルロ・デ・メディチ枢機卿へ宛てた手紙の中で、彼はもはやいかなるパトロンの庇護下にもないと述べている。また、その手紙ではフィレンツェの宮廷のためにオペラを作曲する計画についても触れていたが、このプロジェクトに関するそれ以上の情報は残されていない。
1641年枢機卿アントニオ・バルベリーニに仕えた。
最初のオラトリオ「ヤコブの息子ヨゼフ」を初演。11月重い肺炎に罹る。
1641年11月、一時的な体調不良に見舞われたロッシは、アントニオ・バルベリーニに仕える「音楽家」として遺言書を作成した。実際、翌1月から死去に至るまで、彼は枢機卿の家政職員の給与支払名簿に継続的に名を連ねていた。
1642年2月22日、クアトロ・フォンターネにあるバルベリーニ宮殿にて、彼の最初のオペラが上演されました。この作品はジュリオ・ロスピリオージGiulio Rospigliosi(後の教皇クレメンスⅨ世)台本の歌劇「魔法の宮殿Il palazzo incantato」による劇でパラッツオ・バルベリーニ宮殿で初演された。印刷された台本では「Lealtà con Valore(勇気ある誠実)」と題されていたが、自筆の総譜では「Il palazzo incantato(魔法の宮殿)」(あるいは「La guerriera amante(恋する女戦士)」や「Il palagio d’Atlante(アトラスの宮殿))と記されている。この壮大なスペクタクルは称賛を浴びた一方で、批判も招いた。その背景には、政治的な些事や歌手間の対立、そして(アンドレア・サッキに委ねられた)演出をめぐる問題などがあったものと思われる。
1644年7月にウルバヌス8世が死去すると、バルベリーニ家は、親スペイン派の新教皇インノケンティウスⅩ世(パンフィーリ家出身)から糾弾される事態に直面し、ジュリオ・マッツァリーノ枢機卿率いるフランス宮廷に保護を求めた。
1644年教皇選挙でライバルのインノケンティウスⅩ世が教皇に就任、前教皇ウルバヌスⅧ世の一族バルベリーニ家の弾劾が始まりフランチェスコとアントニオ・バルベリーニ兄弟はフランスに避難しマゼラン枢機卿の庇護を受ける為に渡仏した。
同年12月妻コンスタンスの死の知らせが届くがパリに留まる。この年「カンタータ集」出版
1646年6月ロッシは、アントニオ枢機卿の随員の一人としてパリ​​に到着し、宮廷での音楽的催しに参加するとともに、劇作品の作曲を依頼された。
1646年に出版されたカンタータ集では、彼はアントニオ・バルベリーニ枢機卿付の音楽家として記されている。
1647年3月2日にパレ・ロワイヤルで上演された「オルフェオ」(フランチェスコ・ブーティ台本による「音楽付き悲喜劇」)は、その音楽こそ聴衆に高く評価されたものの、フランス人の好みに合わせて制作されたにもかかわらず、劇そのものは批判を浴びた。また、上演にかかった莫大な費用も、皮肉や非難の的となった。それにもかかわらず、パリのために特別に作曲されたこの最初のオペラは、同時代および後世のフランスの作曲家たち(フィレンツェ出身のジャン=バティスト・リュリを含む)に多大な影響を及ぼし、18世紀末に至るまでフランスの音楽史にその名を残すこととなった。
1647年7月ロッシはローマへ戻ったが、彼に同行せずフランスへは渡らなかった妻は、すでに1646年11月27日に亡くなっていた。
1647年12月9日に新たな遺言書を作成した彼は、王太后アンヌ・ドートリッシュの強い希望により再びフランスへ渡り、1648年初頭に到着しました。
1647年オペラ「オルフェオ」初演し大成功を収め6回の上演のなかで2回はイギリス女王のフランス訪問への敬意を表したものであった。
1648年6月「フロンドの乱」が起こる。
1648年10月19日付の書簡から、ロッシがフランスからブラッチャーノ公パオロ・ジョルダーノ・オルシーニのもとへ自作の楽曲を送っていたことが明らかになっている。アルプス以北でのこの二度目の滞在期間は、政治的緊張が高まった「フロンドの乱」の時期と重なっており、その間には折に触れて別の活動も行われた。
1649年9月ロッシは、フランス南東部に滞在していたアントニオ・バルベリーニ枢機卿を訪問している。ロッシが少なくとも1651年3月まではフランスに留まっていたことは、マドリードからパリの教皇大使宛てに送られたロスピリオージの書簡によって裏付けられている。
それ以降の時期に関する情報は乏しい。
1652年5月には兄弟に会うためにフィレンツェを訪れたことが記録されており、フィレンツェの宮廷とのつながりが続いていたことが確認できる。
1653年2月19日ロッシはローマで死去したが、サルヴァトール・ローザが書簡の中で記しているように、その最期は「チェンバロを演奏している最中」のことであった。
1653年2月20日ローマ・サンタ・マリア教会に埋葬される。
彼の兄弟であるジョヴァン・カルロは、サンタ・マリア・イン・ヴィア・ラタにある彼の埋葬地に記念の銘板を設置した。

作品に加え、ロッシの作品とされる声楽室内楽曲が307曲存在するが、これらはパトロンの日々の音楽的娯楽のために構想されたものであった。出版された作品はごくわずかで、その大部分は死後に出版されたものである。具体的には、1656年から1708年にかけてロッテルダム、ロンドン、パリで刊行された十数点の曲集が挙げられる。生前に出版された作品はごく少数にとどまり、ローマでヴィンチェンツォ・ビアンキ(『霊的アリア集』、1640年)とフロリード・デ・シルヴェストリス(『音楽的小アリア集』、1646年)がそれぞれ企画・出版した2つのアンソロジーに収録されたものだけであった。

作品:
ロッシは2つのオペラを作曲した。一つは1642年にローマで上演された「魔法の宮殿Il palazzo incantato」、もう一つはマザラン枢機卿の招きでパリに赴き作曲され、1647年に同地で初演された「オルフェオ(Orfeo」であった。ロッシはさらなるオペラ制作を期して1648年にフランスへ戻ったが、宮廷がパリ郊外へ避難していたため、上演を実現することはできなかった。その後、1650年までにローマへ帰還し、それ以降、舞台作品の制作を試みることはなかった。ロッシは主に室内カンタータでその名を知られており、それらは17世紀が生み出した作品の中でも最高水準にあるものであった。彼が遺した300曲に及ぶ作品の多くは、大英図書館やオックスフォードのクライスト・チャーチ図書館に自筆譜として所蔵されていまる。声楽室内楽曲が307曲、カンツォネッタ「Io ero pargoletta(私は幼い娘だった)」、「霊的アリア集」(1640年)、「音楽的小アリア集」(1646年)、室内楽「パッサカリアによるアリア」、器楽曲「パッサカリア」、「聖週間のオラトリオ」、「ザイダの嘆き」ほか

2. その他

3. 初演

4. 関連動画


⬇ youtube「Serenata a tre3人のためのセレナーデ」

⬇ youtube「IL PALAZZO INCANTATO魔法の宮殿」

⬇ youtube歌劇「Orfeoオルフェウス-序曲」

⬇ youtube「La bella più bella美女の中の美女」

⬇ youtube「Passacaille, Lasciate averno」

⬇ youtube「Fantasia」

⬇ youtube「Mio Ben私のいとしい人」

⬇ youtube「Orfeo歌劇:オルフェウス」

⬇ youtube「’Se non corre una speranzaもし希望の光が少しもなければ」

⬇ youtube「Lamento de la Regina di Sueziaスウェーデン女王の嘆き」

⬇ youtube「Lamento di Euridiceエウリュディケの嘆き」

参考文献:Wikipediae https://www.treccani.it/enciclopedia/luigi-rossi_res-af426cde-a51d-11e7-adb0-00271042e8d9_(Dizionario-Biografico)/