柏木博子


写真提供:柏木博子 様
編集にあたり全面的ご協力を賜った柏木博子女史に心より感謝申し上げます。
この素晴らしい「クラシック音楽家歴史年譜」をサポートしていただき、重ねてお礼申し上げます。 私はこの共同プロジェクトに参加できることを光栄に思います。 「クラシック音楽家歴史年譜」は常にあなたのものです。

氏名・生誕地
柏木博子(旧姓:宮崎博子)
KASHIWAGI, Hiroko

1940年4月10日 日本国福岡県福岡市に生まれる

1.職業


オペラ歌手、声楽家
Koloratur Mezzosopran (コロラトゥーラ・メゾソプラノ)

2.楽歴


1962年東京藝術大学声楽科入学、戸田敏子に師事
1966年東京藝術大学声楽科卒業。同大学院ソロ科入学。中山悌一に師事。
1969年東京藝術大学大学院修了。
デユッセルドルフ在住のフランチェスカ・マルティエンセン・ローマンFranziska Martienßen-Lohmann 及びエッバ・ミュンツイングEbba Münzingに師事。
1970年12月デユッセルドルフ、ラインオペラ研修所研修生(ラインオペラ・ストゥ-ディオ)
1972-1973年ラインオペラソリストとして専属。
1973年ダルムシュタット国立劇場の専属。
リューベックオペラ劇場と《セヴィリアの理髪師》(ロジーナ)で客演。
1974年ハーゲン市立劇場とロッシーニの《チェネレントラ》(タイトルロール)で客演。
ケルン在住のマルガレーテ・ヘルマンMargarete Hermannに師事
1975‐1978年ビーレフェルト市立劇場の専属
《ドンジョヴァンニ》(ツエルリーナ)、《フィガロの結婚》(ケルビーノ)、《コジ・ファン・トゥッテ》(ドラベッラ)、《セヴィリアの理髪師》(ロジーナ)、《アルジェのイタリア人》(タイトルロール)、《賢い女狐》(タイトルロール)、《オルフェオとエウリディーチェ(オルフェオ)、《ヘンゼルとグレーテル》(ヘンゼル)、《微笑みの国》(中国娘ミー)、《カーチャ・カバノヴァー》(バルバラ)などに出演。
ヴッパータール在住のFriedel Becker-Brillに師事
ギーセン市立劇場と《セヴィリアの理髪師》(ロジーナ)で客演
トリア市立劇場と《カーチャ・カバノヴァー》(バルバラ)で客演
フランクフルト市立劇場と《ラインの黄金》(ヴェルグンデ)で客演
1978‐1992年ラインオペラの専属。
ヘンデル《ジュリアスシーザー》(セスト)、グルック《オルフェオとエウリディーチェ》(愛の女神)、《フィガロの結婚》(ケルビーノ)、《コジ・ファン・トゥッテ》(ドラベッラ)、《ドンジョヴァンニ》(ツエルリーナ)、《イタリアのトルコ人》(ツアイーダ)、ロッシーニ《チェネレントラ》及び《湖上の美女》(タイトルロール)、《ヘンゼルとグレーテル》(ヘンゼル)、ラヴェル《子供と呪文》(リス、猫並びに子供)、《ラインの黄金》(ヴェルグンデ)、オッフェンバック《ホフマン物語》、《カルメン》(メルセデス)、《カヴァレリア・ルスティカー》(ローラ)、《椿姫》(フローラ)、グノー《マルガレーテ》(ジベール)などに出演。
1979年ハノーヴァー、ニーダーザクセン州立劇場《アルジェのイタリア女》(タイトルロール)で客演。
1980年ブラウンシュヴァイク国立劇場とヤナーチェック《賢い女狐》(タイトルロール)で客演。
1981年エリーザベト・シュヴァルツコップ「ドイツリート講習会」に参加。その後スイスの自宅に通い個人レッスンを受ける
1983年ミュンヘン国立劇場でロッシーニ《チェネレントラ》(タイトルロール)で客演。
1984年シュトゥットガルト小劇場でロッシーニ《チェネレントラ》(タイトルロール)で客演。
ドイツオペラベルリンで《ドンジョヴァンニ》(ツエルリーナ)で客演。
シュトゥットガルト国立劇場で(ロジーナ)並びに(ツエルリーナ)で客演。
1987年日本、NHK<ニューイヤー・コンサート>に出演し《セビリアの理髪師》(ロジーナ)のアリアを歌う。
1992年ドレスデン、ゼンパーオーパーで《チェネレントラ》(タイトルロール)で客演。

師事:
日本:酒井伊吹子、戸田敏子、畑中更予、中山悌一
ドイツ:
フランチェスカ・マルティエンセン・ローマン(Franziska Martienßen-Lohmann)
エッバ・ミュンツイング(Ebba Münzing)
マルガレーテ・ヘルマンMargarete Hermann
ニーナ・スタノNina Stano
フリーデル・ベッカー=ブリル(Friedel Becker-Brill)
エリーザベト・シュヴァルツコップ(Elisabeth Schwarzkopf)

関係団体
元シュルツ・エージェンシー(Agentur Schulz在ドイツ、ミュンヘン)
元二期会準会員(1966-1969年
元二期会会員(1969-1995年)
カジモト・イープラス

家族
父方祖父:宮崎弘隣
軍医。1931年陸軍軍医総監特命。勲二等瑞宝章受章
祖母:くに(旧姓湯地、湯地丈雄親族)
母方祖父:水野武
熊本県戸坂の庄屋
父:宮崎一郎
九州大学医学部教授、医学部長を務めた後、名誉教授。勲二等瑞宝章ほか受章
母:武子
夫:柏木茂生
医学博士、内科医師
長女:柏木真紀
医学博士、産婦人科医師

プロフィール
1940年福岡県福岡市に生まれる。福岡女学院高等部ではコーラス部に所属。1962年日本女子大学卒業と同時に東京藝術大学声楽科入学。1966年東京藝術大学声楽科卒業し同大学院ソロ科入学。中山悌一氏に師事。1969年東京藝術大学大学院修了。同年5月渡独。同年12月ラインオペラ(Deutsche Oper am Rhein)研修生。1973年ラインオペラのソリストとして専属。1974年ダルムシュタット国立劇場へ移籍。1975年ビーレフェルト劇場(Theater Bielefeld)へ移籍。1978年再びラインオペラと専属となる。
1986年ドイツ国籍取得。1992年ラインオペラとの契約解消し、オペラの舞台から引退。
以後、ケルン文化会館のHeinz-Dieter Reese氏と共に、ドイツ各地を通じ日本歌曲の紹介につとめる。
ベルリン在住。『私のオペラ人生 -ドイツオペラ界のまんなかで』を朝日出版社より出版
2012年北大震災孤児援助のためドイツ人友人と共に社会法人KIBOU(Freundeskreis Tsunami-Weisen KIBOU e.V.)を設立。
2022年までにベルリンフィルのメンバーやコンクール入賞者による室内楽チャリティーコンサートを31回開催。収益を「子供の村東北」へ送金。コロナパンデミック以降はコロナで困難に陥っている若い音楽家を支援。

3.柏木博子 記録年譜


1940年
3月10日福岡県福岡市で父宮崎一郎、母武子の二女として生まれる。三歳上に姉晴子。

1942年
父親が鹿児島大学医学部教授に就任したため一家で鹿児島市へ移り住む。妹照子誕生。

1944年
幼稚園入園。

1945年
熊本の母の実家(熊本県の戸坂¬)へ姉と共に疎開。そこで終戦を迎える。

1947年
熊本県八代市立太陽小学校へ入学。

1949年
父が九州大学医学部の教授に就任したため、家族で福岡市へ引っ越す。福岡市立箱崎小学校へ転校。

1952年
福岡女学院中等部入学。

1955年
同高等部入学。コーラス部に所属する。

1958年
日本女子大学英米文学科入学。在学中は明桂寮で寮生活を過ごす。
・『女子大の4年生になった時、趣味で通っていた声楽の師、酒井先生から、卒業したらどうするつもりかと聞かれ、そのころ早稲田大学を受けなおして心理学を学びたいと思っていたので、その旨を告げたところ「芸大を受ける気はない?貴女なら絶対受かります」言われた。自分が芸大に行くなどとは考えたこともなかったが、しばらく考えてから、意をかためた。ただし、歌以外は、基礎がなく、酒井先生の紹介で、芸大の戸田敏子先生の許へ、それに加えてピアノのレッスン、聴音のレッスンに通い、コールユーブンゲンの練習、楽理の勉強と、卒業論文を書くのと並行しての受験準備で死に物狂いの毎日であった。
芸大の試験は当時5次まであり、1次が自由曲、2次がコールユーブンゲンと1年前に発表になったイタリア、またはドイツ歌曲10曲の中から、当日指定された曲、(イタリアかドイツかは選べた)3次がピアノと理論、4次が学科3科目、5次が面接となっていて,その都度篩いおとされるようになっていた。
「落ちるとしたら3次のピアノよ」と酒井先生から言われていて、ドキドキで発表を見に行ったが、それも何とか潜り抜けることができたのだった。』(参考文献より要約)

1962年
日本女子大学卒業と同時に東京藝術大学声楽科入学、戸田敏子に師事
・『芸大では戸田敏子先生のクラスに入ったが、先生はレッスンの素晴らしさもさることながら、選曲にもずばぬけた才能がおありで、試験の度に、「そうねえ、何がよいかしらねえ」とじっと顔をみつめて、一人一人の長所を存分に発揮できるような曲を選んで下さった。卒業試験では、私がドイツに来て十八番になった「チェネレントラ」のアリアを選んで下さり、確かに先見の目がおありだったようだ。
また戸田クラスの生徒たちは、先生から「お願いだから、人の足をひっぱるようなことだけはしないでちょうだいね」といつも言われていた。
しかし、ある日、中山悌一先生から、「戸田さんとこの生徒は、皆おっとりしすぎていて困る。『お先にどうぞ』じゃ、この世界渡っていけんぞ!」と云われたことがあった。以来、私は人の足をひっぱらないように、悪口を言わないようにだけは、心がけてはいたが、歌うことに関しては、特にドイツでは「お先にどうぞ」とは決していわないで、「お先に失礼!」というようにしていた。』
・『大学4年の時、戸田先生と中山先生が半年間生徒を交換なさることがあり、ドイツ歌曲の大御所の中山先生に預けられて、ドイツ歌曲の歌い方を徹底して教わる機会に恵まれた。中山先生のレッスンでは、その日にレッスンして頂く曲は、自分であらかじめ、一つ一つ辞書をひいてきちんと訳して、それを読みあげてから、音楽的なことを教わるようになっていた。大変厳しいレッスンで、ドイツ語の発音からそのニュアンス、そして曲想に至るまできっちり分析して教えて頂けて、それはドイツに行ってもなかなか巡り合えないようなレッスンだった。』(参考文献より要約)

1966年
東京藝術大学声楽科卒業。同大学院ソロ科入学。中山悌一に師事。
二期会準会員になる。
藝大オペラ公演《ドンジョヴァンニ》で(ドンナエルヴィラ)を歌う。
Gerhard Hüschの芸大公開レッスンに選ばれてシューマンの《女の愛と生涯》全曲を受講。
・『当時、芸大では毎年大学院のオペラ科主催のオペラ公演があっていて、オペラ科だけでは人数が足りないので、ソロ科も借り出されて出演していた。その年の出し物は、モーツアルトの《ドン・ジョヴァンニ》で、ある日、その頃オペラ科の主任の柴田睦先生から呼ばれて、” ドンナ・エルヴィラはソプラノの役だけど、君 にぴったりの役柄のような気がするし、君はメゾでも高い声もでるみたいだから、やってくれないか ” と頼まれた。
戸田先生は、こんなに音域の高い、難しい役を引き受けたらノドを壊す可能性があると心配されたが、中山先生からは、” その時は自分に出来ないと思ったことでも、やりおおせると、その次には、それが80パーセントになって、さらにまた20パーセントの可能性が広がってくるもんだ。僕はやることをすすめるね ” と言われ、引き受けることにした。その頃オペラ科の客員教授だったイタリア人のニコラ・ルッチ先生が、厳しくて、特に日本人学生にとっては、レチタティーヴォ(チェンバロの伴奏で歌うメロディーのついた台詞)をうまく歌うのは至難の技で、大変な勢いでしごかれた。その時、ドンナ・アンナを歌ったのは林康子、ツェルリーナは島田祐子であった。
日本にいる頃、戸田先生は色々こまかく気を使って心配してくれる母親的存在、そして中山先生は厳しいけれど、ことあるごとに適切な助言で導いてくれる父親的存在だった。』(参考文献より要約)

1969年
東京藝術大学大学院修了。修士論文:マーラー「子供の不思議な角笛」。
二期会会員になる。
5月渡独
デユッセルドルフ在住のFranziska Martienßen-Lohmann 及びEbba Münzingに師事。
・『ドイツに行くことが決まった段階で、フランチェスカ・マルティエンセン・ローマンという、有名な歌手を多く育て、発声法の本も出している方が、デュッセルドルフ市で、音大の教授をなさっていることを知った。その先生につくために音大の入学試験を受け合格したが、次の学期で先生は退職なさるということで、学生証を持っていれば、交通機関は無料、コンサートやオペラも格安で入れたのだが、そんなことより良い先生につく方が大事だと思いローマン先生からの個人レッスンを受けることに決めてせっかく受かった音大を諦めた。
ローマン先生について間もなく先生が養老院に入られ、長らく先生の助手を務めておられたデュッセルドルフ在住のエッバ・ミュンツイング先生の所に通うことになった。そんなある日、先生からラインオペラ座のストゥーディオを受けてみる気はないかと聞かれた。オペラの舞台に立つなどとは夢にも思っていなかったので、全く知らなかったのだが、ラインオペラ・ストゥ-ディオとはラインオペラ座に所属するオペラ歌手養成機関で、毎年オーディションでソプラノ、メゾまたはアルト、テノール、バリトンまたはバスの計四人が採用されることになっていた。
じつはその時、妊娠二ヶ月だった。先生に打ち明けると、受かるかどうか分からないのだからそんなの関係ないと言われ、先生がオペラ座に申込みの手紙を出して下さった。オーディション当日は大勢の応募者の中で、受かっても受からなくてもどっちでも構わないのと、それよりも悪阻に気をとられながらの状況のまま舞台に呼び出されて、ただ歌っただけだったのだが、却ってそれが良かったのか、採用されてしまった。
総支配人との面接で妊娠のことを打ち明けたところ「それでは出産後どれくらいで歌い始められると思うか」と聞かれて咄嗟に二ヶ月と答えてしまった。すると支配人は ” オペラのシーズンは本来9月から始まるけれど、貴女だけは二ヵ月後から始めて下さい ” とこともなげに言われ、契約終了だった。劇場入りしてから六時間が経っていた。』(参考文献より要約)

1970年
12月デユッセルドルフのラインオペラ研修所の研修生になり、《魔笛》の(童子)、《ヘンゼルとグレーテル》の(眠りの精)、《アルジェのイタリア人》の(ズルマ)等を歌う。
・『ラインオペラとはデュッセルドルフ市とデュイスブルク市の両市が提携して運営しているオペラ座で、オーケストラはそれぞれの市が持っているが、劇場支配人はじめ音楽関係は一つにまとめられていて、オペラ・ストゥーディオでは二年間にわたって、コレペティとの音楽稽古、演技指導のほか、舞台芸術、フェンシングなどの授業があり、また端役をもらって舞台に立たされることもしばしばだった。』(参考文献より要約)

1972年
ラインオペラのソリストとして専属契約を結び、新しく《ドンカルロス》の(テバルド)、《オルミンド》の(ネリッロ)を獲得。
・『ドイツで初めて初日(プルミエ)の舞台に立ったのは、ストゥ-ディオ二年目に入ってすぐの時で、有名なフランス人演出家ジャン=ピエール・ポネルの演出でロッシーニ《アルジェのイタリア女》の(奴隷女ズルマ)の役であった。
この時のキャストは、タイトルロールは当時コンサート歌手として既に有名であったユリア・ハマリのオペラデビューで、それにイタリアからパオロ・モンタルソロ、ウーゴ・ベネッリというそうそうたる歌手が客演で呼ばれて来ていた。指揮はアルベルト・エレーデ。私がソロで歌う部分は少ししかなかったが、始めから終わりまでアラブ衣装をつけてちょろちょろ動く役で結構目立ち、劇場支配人の目にとまって、プレミエの翌日、部屋に呼ばれて専属契約をもらえることになった。一年ちょっとの時で、大きな写真入りで新聞に報道され、インタビューを受けたりすることになった。』(参考文献より要約)

1973年
ラインオペラの専属を解消して、ダルムシュタット国立劇場の専属となり、《セヴィリアの理髪師》の(ロジーナ)で成功を収める。
・『ミュンツィング先生から客演の機会を得るためにエージェンシーのオーディションを受けることを勧められ、ミュンヘンのシュルツ・エージェンシーに行って歌ったところ、” 大きい劇場から始めると、主役をもらえる機会はなかなかこないものだから、まずは小さい劇場から始めて、主役のレパートリーをふやすべきだ ” と言われ、すぐにダルムシュタット国立劇場専属のオーディションを受けるように手配されてしまった。オーディションの翌日エージェンシーから電話で ” ダルムシュタットがあなたを専属として取りたいと言って来たから、ラインオペラの劇場支配人とうまく話をつけて、専属契約を解消してもらうように “ とのこと。ラインオペラの劇場支配人バーフス氏から ” 私もあなたのキャリアに興味があるからやってみてごらん、いつかまたここに戻って来ても良いのだよ ” と言われ円満に契約解消ができ、次のシーズンからダルムシュタットに移ることになった。』(参考文献より要約)
・リューベックオペラ劇場と「セヴィリアの理髪師」のロジーナ役で十四回公演の客演契約
・『その後まもなく、シュルツ・エージェンシーからリューベックの市立劇場でロッシーニ《セビリアの理髪師》の(ロジーナ)を歌える人を探しているから手配は済ませたからオーディションを受けに行くようにとの電話が入り汽車を乗り継いで出かけた。翌日エージェンシーから電話で ” あなたに決まった ” と言われたのだが、立ち稽古の間二週間はリューベックに住むようにとのこと。娘はまだ三歳でこの子を置いて他の街に住むわけにはいかないと言ったところ、彼は怒り出して ” 私達はあなたのプライバシーには興味はない。明日の十二時までにイエスかノーかの返事をするように ” と電話を切られてしまった。主人と相談の結果、主人とそれまで時々娘を預かってくれていたとても親切なドイツ人の家庭とで何とか出来るだろうとのことで、半ば悲しい気持ちでこの客演契約を交わしたのだった。
しかし、ラインオペラからその間の有給休暇をもらい、初めての主役中の主役、舞台で自分を精一杯出し切れるその快感は素晴らしく、これこそ私が長い間夢見ていたことだったのだと実感した。結局ここでは2シーズンにわたって、十四回ロジーナを歌うことになったのだった。
これをきっかけに、ロジーナ役は十八番になって、一時は、あるオペラ雑誌に『いまドイツでもっとも売れているロジーナ歌手』と書かれたくらい、あちこちの劇場でロジーナばかり歌っていた。
ドイツ語で百二十回を超え、ウエルシュ・ナショナルオペラとの客演契約でイギリス各地でも英語で十回あまり歌った。ラインオペラと再契約してからすぐ、イタリア語で、ボネル演出《セビリアの理髪師》のロジーナを歌わせてもらい、それ以来ラインオペラをやめるまで十年以上にわたって繰り返し歌い続け、シュトゥットガルト国立劇場にも何回か客演で呼ばれ総計すると二百回はロジーナを歌ったことになる。』(参考文献より要約)

1974年
・ハーゲン市立劇場とロッシーニ《チェネレントラ》のタイトルロールで七回の客演。
・『この時に、私は素晴らしい指揮者に巡り合った。” オーデイションの時に、この人だと君に決めたのは僕だから責任があるのだ」と立稽古の合間にしょっちゅう自分の部屋に私を来させて、一音一音細かくレッスンしてくれた。「そんな退屈な歌い方をしてはだめだ、コロラトゥーラというのはただきれいに歌うだけのものではないんだよ。こういうふうにめりはりと速度を変化させて歌ってみてごらん ” と一フレーズごとに、ピアノを弾いて手本を示し教え込んでくれた。テクニックとは、あくまで基礎であって、本当に「音楽する」というのはどういうことなのかを、私は、その時、彼を通して初めて知ったのだった。彼のお蔭で、その後チェネントラの役はいつ、どこでも自信を持って歌えるようになって、とても感謝している。』(参考文献より要約)
・ハーゲン市立劇場と翌春カーディフでのロッシーニ《チェネレントラ》のタイトルロールにも参加。
・同じロジーナ役で五回公演のオイテイーンサマーフェステイバルに出演。以後三年連続で同役を歌う
ケルン在住のマルガレーテ・ヘルマンMargarete Hermannに師事

1975年 ~ 1978年
ダルムシュタット国立劇場から移籍、ビーレフェルト市立劇場と専属契約を交わし、三年にわたる在籍中以下の役を歌う。
《ドンジョヴァンニ》(ツエルリーナ)、《フィガロの結婚》(ケルビーノ)、《コジ・ファン・トゥッテ》(ドラベッラ)、《セヴィリアの理髪師》(ロジーナ)、《アルジェのイタリア人》(タイトルロール)を歌う。《賢い女狐》(タイトルロール)を歌う、《オルフェオとエウリディーチェ》(オルフェオ)、《ヘンゼルとグレーテル》(ヘンゼル)、《微笑みの国》(中国娘ミー)、《カーチャ・カバノヴァー》(バルバラ)。
・『《ドン・ジョヴァンニ》でシーズンが開いたら、続いてすぐ《ヘンゼルとグレーテル》の初日で、午前中、《ヘンゼルとグレーテル》の舞台稽古、夜は《ドン・ジョヴァンニ》の本番ということもよくあった。その上、この時期、他の都市での客演も次々に入って、自分の劇場がフリーの日は、どこか別の所で本番のみならずそのための立ち稽古も入ったりしていた。その間を縫って時間がある限りはデユッセルドルフの自宅へ駆け戻って、母と主婦の役をこなしていたので、当時は常に汽車に揺られての生活だったような気がする。その頃、よいテクニックをしていると思った同僚のソプラノ歌手から、彼女の先生ベッカーブリル氏を紹介してもらい、
呼吸法の一からもう一度、徹底的にテクニックの勉強をやり直し、亡くなられるまで、常に声のコントロールをしてもらいに通った。息は”吸うもの”ではなく、胸郭を拡げて横隔膜を下げることによって”入れるもの”だということ、声は共鳴腔に響かせて、やわらかくて温かい声を出すようにと、そのためのテクニックを細かくいろいろ教えて頂けて幸運であった。』(参考文献より要約)
ギーセン市立劇場と、ロジーナ役で八回の客演契約を結ぶ。
写真下1977年10月4日ギーセン市立劇場
・新聞写真説明<ロッシーニの《セビリアの理髪師》で、ビーレフェル市立劇場の柏木博子がロジーネ役を演じた>
・(新聞評の一つ)<なんと、理想的なキャストの一人がビーレフェルト市立劇場の小柄な日本人の柏木博子です。彼女は最近、他のどの同僚よりも頻繁にロジーナを歌っていますが、彼女に日常的ものを感じさせない。彼女のパフォーマンスは、美しいソプラノの声と娘らしい優美さを兼ね備えているのだ(編者訳)>

1978年
再びラインオペラと専属契約を交わし、その後十四年にわたり同劇場で以下の役を歌い続ける。
ヘンデル《ジュリアスシーザー》(セスト)、グルック《オルフェオとエウリディーチェ》(愛の女神)、《フィガロの結婚》(ケルビーノ)、《コジ・ファン・トゥッテ》(ドラベッラ)、《ドンジョヴァンニ》(ツエルリーナ)、《イタリアのトルコ人》(ツアイーダ)、ロッシーニ《チェネレントラ》及び《湖上の美女》のタイトルロール、《ヘンゼルとグレーテル》(ヘンゼル)、ラヴェル《子供と呪文》(リス、猫並びに子供)、《ラインの黄金》(ヴェルグンデ)、オッフェンバック《ホフマン物語》(ニクラウス)、《カルメン》(メルセデス)、《カヴァレリア・ルスティカーナ》(ローラ)、《椿姫》(フローラ)、グノー《マルガレーテ》(ジベール)
・トリア市立劇場と《カーチャ・カバノヴァー》(バルバラ)で五回の客演契約
・フランクフルト市立劇場と《ラインの黄金》(ヴェルグンデ)で初演を含め、三回の客演契約を結ぶ。また同劇場では、ロジーナ、バルバラ役でたびたび出演、更にニ回にわたる《ドン・カルロ》ガラ公演に小姓のテバルト役で出演。ガラ公演のエリザベッタは一回目がモンセラート・カバリエ、二回目がミレッラ・フレーニだった。
ヴッパータール在住のフリーデル・ベッカー=ブリルFriedel Becker-Brillに師事

1979年
ハノーヴァー、ニーダーザクセン州立劇場と《アルジェのイタリア女》のタイトルロールで六回の客演契約

1980年
ブラウンシュヴァイク国立劇場とヤナーチェック《賢い女狐》のタイトルロールで八回の客演契約
・『劇場支配人のグリシャ・バーフスから声をかけてもらい再びラインオペラ座に戻っていたある日、ブラウンシュヴァイク国立劇場から《利口な女狐の物語》の女狐役でプレミエも含めて八回の客演契約申し込みがあり、ラインオペラの公演日との調整もうまくいって引き受けることが出来た。この役は2通りの演出でしか歌っていないが、私がもっとも好きな役である。』(参考文献より要約)
・『ヤナーチェク《利口な女狐》の主役としてデュッセルドルフ・オペラ劇場所属のヒロコ・カシワギを中心に物語は展開され、この女狐の役はまるでこのソプラノ歌手のためにつくられたかのようであった。この魅力的な芸術家はしなやかな動きで、女狐のずる賢さと同時にまた雌狐との間に芽生える恋心も全く理想的に表現した。音楽的にも彼女は素晴らしかった。彼女は高音域でも低音域でも同じように効果的に、きれいに使い分ける明瞭な表現力豊かな声で、この難しい役の高度な要請に充分に応えることができた。(翻訳:三丁目俊一郎)』(新聞批評の一つより)

1981年
エリーザベト・シュヴァルツコップの「ドイツリート講習会」に参加。その後許されてスイスの自宅での個人レッスンに通う。

1983年
ミュンヘン国立劇場でロッシーニ《チェネレントラ》のタイトルロールを歌う。
同年7月福岡銀行ホール及び青山タワーホールで始めての帰国リサイタル
同年11月日生劇場の「モーツアルト4大オペラシリーズ」の《フィガロの結婚》にケルビーノ役で出演。

1984年
・シュトゥットガルト小劇場で予定していた主役のドリス・ゾッフェルが病気で出演をキャンセルしたため急遽《チェネレントラ》のプレミエにとびこむ
プレミエだった為、多くの新聞に批評が掲載された。
写真下<美しい日本人女性が「シンデレラ」を救う>のタイトルの報道
・『一瞬の静寂、そして二十分間にわたる拍手、濃紅のばらが舞台に投げられ、客席からは感激した観客がくりかえし何度もブラヴォーを叫んでいた。これがロッシーニ《チェネレントラ》のプレミエだった。』参考要約
写真下【1984年6月12日《チェネレントラ》客演、シュトゥットガルトの新聞掲載
<美しい日本人女性がtyenを救う>のタイトルの報道】

【新聞評1984年6月12日】《チェネレントラ》客演、シュトゥットガルトの新聞掲載
その他のシュトゥットガルトの新聞記事
・『シュトゥットガルト小劇場(クライネス・ハウス)での初日は、たった一日の間に飛び込んだデュッセルドルフのヒロコ・カシワギが歌った。彼女はデュッセルドルフでこの役を歌っていて、それにミュンヘンでも歌っている。彼女の勇気は充分に報われた。ジャンカルロ・デル・モナコが細部に亘ってこんなに優美に磨き上げて仕上げた演出に、違和感もなく溶け込むことは大変素晴らしい業績である。彼女は心地よくソフトなメゾソプラノで、この難しいコロラテュアが多用されるパートを感情をこめて克服した。最後の当然なハッピーエンドでプリンスのハートを射止め、その上さらに寛大にも継父と腹違いの姉妹を許すことができる、愛らしくいじらしいシンデレラだった。翻訳:三丁目俊一郎))』
・『当初予定されていたドリス・ゾッフェルが、病気のため出演をキャンセルせざるを得なかったため、このパートをバイエルン州立歌劇場(ミュンヘン)でも既に歌ったことがあるライン・ドイツ・オペラ劇場所属のヒロコ・カシワギが急遽、簡単な打ち合わせを兼ねた一回だけのリハーサルの後、この役に起用された。彼女は全く知らない、よその劇場の演出に完全に(不自然さを感じさせずに)溶け込んだ。それに加えて彼女は、ロッシーニによって最後に作曲されたコロラテュア・メゾソプラノのパートを、光り輝くしなやかな表現力豊かな声で歌い上げた。(翻訳:三丁目俊一郎))
・『デュッセルドルフから来たヒロコ・カシワギは、磨き上げられたコンセプトに飛び込む勇気が充分にあった。主役を引き受けた彼女は、ハイレベルの声と共に多くの魅力を披露し、「代役」という感じは決してしなかった。観客は彼女に対して、当夜の公演の救い主としてよりむしろ、それ以上に感謝しなければならなかった。(翻訳:三丁目俊一郎)』(Opern und Konzert 8 月号)
・『主役にデュッセルドルフのヒロコ・カシワギが、病気のドリス・ゾッフェルの代役として急遽起用された。ヒロコ・カシワギのメゾは音色の暗いメゾではなく、本来この役により相応しい声である。彼女は2オクターブを超えるパッセージを難なくこなし、彼女のコロラテュアを花火のように打ち上げた。それに彼女は大変チャーミングであった。(翻訳:三丁目俊一郎)』(Orpheus 7月号)
・ベルリン・ドイツオペラで《ドンジョヴァンニ》のツエルリーナを歌う
・シュトゥットガルト国立劇場でたびたびロジーナ並びにツエルリーナを歌う

1987年
NHKの<ニューイヤー・コンサート>で《セビリアの理髪師》ロジーナのアリアを歌う。
同年11月日生劇場の《コジ・ファン・トゥッテ》にドラベッラ役で出演。

1991年
・中国文化庁の招待で、北京、杭州、大連でリサイタル
・カールスルーエオペラ劇場でロジーナを歌う

1992年
・ドレスデン、ゼンパーオーパーで《チェネレントラ》のタイトルロールを歌う
・ラインオペラとの契約を解消しオペラから引退
以後、ケルン文化会館のHeinz-Dieter Reese氏と共に、ドイツ各地を通じ日本歌曲の紹介につとめる。
【長年にわたってラインオペラ座総支配人であったグリシャ・バーフス氏がリタイアされ、後任にクルト・ホッレス氏が就任された。ドイツ人で演出家でもあったホッレス氏は、ユダヤ人でインターナショナルなオペラ座をめざしたバーフス氏が築き上げられたラインオペラを根本から変革して、典型的なドイツ歌劇場にしたい意向で、ベルカント唱法には全く興味がないようだった。演出家でもあったので、あちこちの他の劇場に客演で演出に行ったりで、自分の劇場を留守にされることも多かったし、私達外国人の歌手にとってだんだんと難しい状況になっていった。目をかけて下さっていたオペラディレクターでバーフス氏の補佐役であった方もリタイアされてしまい、そんな中、私の気持ちはだんだんとラインオペラから遠のき、渡独して、はからずも足を踏み入れて二十年間近く立ち続けたその舞台に区切りをつけることにしたのだった。
月ごとの給料がなくなって、年金が入るまで待たなければならないのは痛手ではあったが、以後、コンサートやリサイタルに集中するようになり、それもまた、楽しいやりがいのあることだった。】(参考文献より要約)

2006年来
ベルリン在住

2010年
「私のオペラ人生 -ドイツオペラ界のまんなかで」を朝日出版社より出版

2012年
東北大震災孤児援助のためドイツ人友人と共に社会法人KIBOU(Freundeskreis Tsunami-Weisen KIBOU e.V.)を設立。

2022年までにベルリンフィルのメンバーやコンクール入賞者による室内楽チャリティーコンサートを31回開催。収益を「子供の村東北」へ送金。コロナパンデミック以降はコロナで困難に陥っている若い音楽家を支援。

4.帰国リサイタル


1983年福岡銀行ホール、青山ホール (P:Mack Sawyer)
1984年イイノホール (P:Christian de Bruyn)
1986年中央会館 (P:橋芝祐子)
1987年都市センターホール (P:Jonathan Alder)
1990年横浜イギリス館 (P:Mack Sawyer)
1992年九州厚生年金会館で九州交響楽団と、ツエルリーナ、ロジーナ、ケルビーノのアリアを歌う。(指揮:Niel Baron)更に福岡銀行大ホール、日本女子大桜楓会館、北九州市、若松市、小倉市、佐世保市でリサイタル(P:Mack Sawyer)
1993年浜離宮ホール、福岡銀行大ホール FM 放送(P:Andreas Juffinger)
1994年ニュー長崎ホール、佐世保ホール、福岡銀行大ホール、都市センターホール、佐賀ユニセフコンサート (P:Andreas Juffinger)
1995年福岡銀行大ホール、紀尾井ホール (P:Andreas Juffinger)
1998年福岡銀行大ホール、紀尾井ホール (P:Stefan Irmer)
1999年紀尾井ホール、福岡銀行大ホール (P:Stefan Irmer)
2001年紀尾井ホール (P:Stefan Irmer)
2010年「私のオペラ人生~ドイツオペラ界のまんなかで」出版記念コンサート、王子ホール (P:富所小織)
リサイタルの批評(新聞掲載)の一部
写真下【1984年7月5日<イイノホール・帰国リサイタル> 7月11日毎日新聞夕刊・音楽批評掲載
左上、『彼女の声質は若々しい張があって潤いに満ち、(略)各声部とも概してむらなく滑らかに整えられて自然である。この恵まれた素材と高度の技術が、ヨーロッパにおける彼女の現在の地位を保証しているのであろうことは直ちに察せられた。しかし、それ以上に好ましかったのは、歌詞の内容を十分把握し、曲想の変化に密着しながら、細かい起伏を巧みに形作って行く神経の行き届いた知的な歌い方。誇張を避け極端を嫌い、つとめて客観的視野に立って恣意的な崩れを現わさぬ点、いかにも現代の若い歌手との思いを禁じ得なかった(略)特にロッシーニ、ボートレースに出場した恋人の動きに一喜一憂する娘の心理が三曲の組曲の中で見事に展開され、これは稀に聴く名演奏であった。同じ作曲者の歌劇《セビリアの理髪師》ロジーナ役で、彼女が圧倒的な評価を得ている理由もさてこそとうなずける。(音楽評論家 中村洪介)』】
左【7月2日<帰国リサイタル>福銀ホール。7月7日毎日西日本新聞夕刊・音楽批評
『昨年は、オペラ・アリアなどに圧倒的な歌唱を聴かせたが、ロマン派歌曲を中心とした今回のステージでも、その非凡な表現力を遺憾なく発揮。傑出したメゾ・ソプラノとしての評価を、あらためて不動なものにした。それにしても、声量、声域ともに、その日本人離れしたスケールには驚かされる。中音域での艶やかな美声は当然としても、ソプラノにも比肩しうる高音域のはりと透明感は、彼女にとって大きな武器といえるだろう。それはどんな強声部でも、なお余力を失わない安定した歌唱を可能にしている。(略)彼女の本領ともいうべきオペラの舞台に、地元で接し得ないのは残念なことである。当分は再度、再々度の里帰りリサイタルの実現を期して待ちたい』
右【1984年7月5日東京・イイノホール 朝日新聞文化欄批評】
『最近、ドイツ・リートを上手に歌う日本人歌手が多くなったが、まだどことなく借りものの感じがつきまとい、感心させられても、心から楽しめるリードを聴かせてくれる人は意外と少ないのである。そうしたなかで、メゾ・ソプラノの柏木博子のリサイタルは楽しめるものだった。(略)何よりその劇場的な声のひろがりの豊かさと、チャ-ミングなかたりくちの確かさが、彼女の歌の説得性を強めているが、ヴォルフから、グリークから、R・シュトラウスから、彼女が何を歌い出したいかがハッキリ伝わって来る快さが何よりもの美質であろう。そこには一点のあいまいさもなく、また習った通りの歌のコピーでもなく、まさに柏木博子そのひとの歌が、一曲一曲息づいている。(略)彼女はオペラでもロッシーニ歌いとして、ベルガンサのレパートリーと共通したところがあるが、そのテクニックの精緻さと正確さも特筆しておくべきだろう。(略)アンコールのツェルリーナの「薬屋の歌」のうまさに舌を捲いた。(畑中良輔・音楽評論家)』

5.レパートリー

(括弧内は歌った劇場)
・F. カヴァッリ
《オルミンド》ネリッロ(ラインオペラ)
・ヘンデル
《ジュリアスシーザー》セスト (ラインオペラ)
・グルック
《オルフェオとエウリディーチェ》オルフェオ(ビーレフェルト)
《オルフェオとエウリディーチェ》愛の女神 (ラインオペラ)
・モーツアルト
《フィガロの結婚》ケルビーノ(ビーレフェルト/ラインオペラ/日生劇場)
《コジ・ファン・トゥッテ》ドラベッラ(ビーレフェルト/ラインオペラ/日生劇場
《ドンジョヴァンニ》ツェルリーナ(ビーレフェルト/シュッツットガルト/ベルリン、ラインオペラ)
《魔笛》第2の侍女(ラインオペラ)
・ロッシーニ
《セヴィリアの理髪師》ロジーナ(リューベック/ダルムシュタット/ビーレフェル/フランクフルト/ギーセン/シュトウットガルト/、カールスルーエ/ラインオペラ/オイティ―ンサマーフェステイバル/ウエルシュナショナルオペラ)
《チェネレントラ(シンデレラ》タイトルロール(ハーゲン/ラインオペラ/フライブルグ/シュトウットガルト/ドレスデン/ミュンヘン)
《湖上の美女》タイトルロール(ラインオペラ)
《アルジェのイタリア人》タイトルロール(ハノーヴァー)
《アルジェのイタリア人》ズルマ(ラインオペラ)
《イタリアのトルコ人》ザイーダ (ラインオペラ)
・ヤナーチェック
《利口な女狐の物語》タイトルロール(ビーレフェルト/ブラウンシュヴァイク)
《カーチャカバノヴァ》バルバラ(ビーレフェルト/トリア/フランクフルト/ラインオぺラ)
・フンパーディンク
《ヘンゼルとグレーテル》眠りの精(ラインオペラ 1973)
《ヘンゼルとグレーテル》ヘンゼル(ビーレフェルト/アーヘン/エッセン/ラインオペラ)
・ラヴェル
《子どもと呪文》リスと猫、子ども(ラインオペラ)
・ワーグナー
《ラインの黄金》ヴェルグンデ(フランクフルト/ハンブルグ/ケルン/ラインオペラ)
・オッフェンバック
《ホフマン物語》ニクラウス(ラインオペラ)
・ビゼー《カルメン》メルセデス(ラインオペラ)
・マスカーニ《カヴァレリア・ルスティカーナ》ローラ (ラインオペラ)
・ヴェルディ《椿姫》フローラ(ラインオペラ)
・グノー《マルガレーテ》ジベール(ラインオペラ)

6.オペラ劇場契約の種類


劇場との契約の種類
<柏木博子、ドイツにおける契約の種類について語る>
(著書「私のオペラ人生」からの抜粋)
契約名称と意味
<Festvertrag>:専属契約
何年か毎に(その時々の劇場支配人の意向による)更新されるが、この契約がある限りは、まったく本番がなかった月でも給料は出る(たとえ毎日歌っても同じ額)。健康保険、失業保険も全部支払ってもらえるので、生活の保障は100%されている。いわば地方公務員みたいなもの。
但しいつ契約がのびなくなるかは分かないので、常にベストのコンディションを保つ努力をし続けなければならない。失敗したり、声をダメにしたら、契約更新のときに終わりになる。十五年間専属契約が続けば、永久契約になり、劇場側は契約を破棄できなくなる。
<Stückvertrag>:ある一つの劇場と、一つの決まった役での客演契約。
あらかじめ立ち稽古の期間と本番の日取りとギャラが明記された契約書を交わす。そのための日取りは専属契約をしている劇場との話し合いが必要となり、有給休暇をとることになる。但し、立ち稽古の期間中も専属契約をしている劇場での公演や臨時稽古などが入るとそちらを優先しなければならない。そのための交通費は客演契約をしている劇場側から支払われる。日本語で何と訳すべきかは大変難しいところ。
<Gastvertrag>:いわゆる客演契約で、ある劇場と契約していくつかの役を歌わせてもらったり、あるいは短期間前にどこかの劇場からの要請で、ある役を歌う時の契約。専属契約(Festvertrag)の範囲内で期間的に許されればこれら二つの契約も合わせてすることができる

7.その他


* 柏木博子著、『私のオペラ人生』<ドイツオペラ界のまんなかで>朝日出版社発行、2010年初版
*1969年ドイツの音楽大学受験に際しての東京藝術大学音楽学部長 中山悌一 推薦状には下記の内容
【柏木博子さんは私の受持った大学院学生の中で最優秀の中の一人です。特に本年二月の修士演奏は最近の中で抜群の出来だと思われます。又修士論文はマーラーの「子供の不思議な角笛」の研究でしたが、これも大変な力作であり、声楽界に寄与したものは大きいと言えます。教師のわれわれもはじめて知った様な部分も多く、本学に止め置くべき作品です。依って審査員全員文句なく「優」を与えました。彼女は声楽家の能力を一応すべてそなえていますが、特に作品に対する解釈能力に秀で、一般の声楽家に比べて知性が優れているのが特徴です。そして尚十分に情感を持ち、程よく智情のバランスがとれて居る珍しいタイプであります。人柄は穏健で明朗ですが、研究対象に取組む時の情熱と徹底ぶりは抜群です。私は日本人の留学生として自信を以ってドイツへ送り出せる人間であると思います。1969年3月中山悌一】

参考文献
参考資料/柏木博子著、『私のオペラ人生』<ドイツオペラ界のまんなかで>朝日出版社発行、2010年初版引用:ご本人様提供による資料/柏木博子手記「幼少時代と音楽との出会い」「「終戦」「小学校時代」「我が青春、ミッションスクール時代とコーラス」「沈丁花の香(日本女子大の4年間)」「藝大受験」「東京藝術大学の頃」より柏木博子様著作権了解によるその他参考資料:「新聞、雑誌本文より転載」、「柏木博子出演歌劇における新聞や雑誌批評の三丁目俊一郎氏翻訳転載」、「中山悌一手書き、学部長先生宛の推薦状」、2023年4月版柏木博子編集による経歴、 history-of-music.com/クラシック音楽家歴史年譜岩田幸雄編

参考文献:要約:参考資料/柏木博子著、『私のオペラ人生』<ドイツオペラ界のまんなかで>朝日出版社発行、2010年初版 引用:ご本人様提供による資料/柏木博子手記「幼少時代と音楽との出会い」「「終戦」「小学校時代」「我が青春、ミッションスクール時代とコーラス」「沈丁花の香(日本女子大の4年間)」「藝大受験」「東京藝術大学の頃」より 柏木博子様著作権了解によるその他参考資料:「新聞雑誌本文より転載」、「柏木博子出演歌劇における新聞雑誌等批評の三丁目俊一郎氏翻訳転載」、「中山悌一手書き、学部長先生宛の推薦状」 history-of-music.com/クラシック音楽家歴史年譜