芥川也寸志

芥川也寸志
AKUTAGAWA,Yasushi

Birth place:Tokyo JApan
Date of Birth:12/7/1925
(1925年7月12日東京市滝野川区田端435に生まれる)
(1989年1月31日東京築地、国立がんセンター附属病院で歿)

1.職業


日本の作曲家・指揮者

2.【楽歴】


1941年作曲家:橋本国彦、ピアニスト:井口基成に師事
1943年東京音楽学校予科作曲科入学
1944年同校本科作曲に進学
同年志願し戸山学校陸軍軍楽隊入隊
1945年同校首席卒業、上等兵となる。終戦を迎える
同年9月東京音楽学校本科二年復学
1947年同校本科首席卒業、研究科へ進む
1949年同研究科修了
4月1日~1949年12月1日、慶應義塾中等学部教諭
1955年11月東京労音アンサンブル指揮者
1956年新交響楽団(旧・東京労音交響楽団)設立、音楽監督・常任指揮者就任
1983年1月宮城フィルハーモニー協会(仙台フィル)理事・音楽監督に就任
師事:橋本国彦、下総皖一、ヘルムート・ヘルマン、細川碧、伊福部昭、兼子登、井口基成(ピアノ)

【関係諸団体
1960年10月日本現代音楽協会書記
1962年5月日本作曲家組合委員に就任
1970年1月財団法人鳥井お額財団評議員に就任
1970年5月日本作曲家協議会副委員長に就任
1972年8月ヤマハ音楽振興会専務理事に就任
1979年7月著作権審議会臨時委員xx
1980年2月「奏楽堂を救う会」代表委員を務める
1980年7月日本作曲家協議会委員長に就任/\
1983年10月著作権審議会委員に就任
1983年日ソ音楽家協会運営委員長に就任
1984年11月著作者作曲家協会国際連合(CISAC)総会副会長に就任
1986年12月財団法人ヤマハ音楽振興協会理事に就任
1987年5月財団法人日本近代音楽財団理事に就任
1987年10月日本近代音楽館運営委員・事業委員に就任

【受賞・受章歴】
<受賞>
1950年NHK放送25周年記念管弦楽懸賞に、《交響管弦楽のための音楽》が特選入賞
1954年『煙突の見える場所』の音楽で第8回毎日映画コンクール音楽賞受賞
1954年『煙突の見える場所』および『夜の終わり』『雲ながるる果てに』の音楽によりブルーリボン賞受賞
1955年「弦楽のためのトリプティーク」がワルシャワ音楽賞受賞
1968年TVオペラ『ヒロシマのオルフェ』(暗い鏡」改作)が「ザルツブルク・オペラコンクール審査員特別賞受賞
1973年童謡「やわらかいえんぴつが好きなんだ」で日本童謡賞受賞
1975年映画「砂の器」の音楽で毎日映画コンクール音楽賞受賞
1977年新交響楽団と共に第8回鳥井音楽賞受賞(のちのサントリー音楽賞)
1978年映画『八甲田山』/映画『八つ墓村』の音楽で第1回日本アカデミー賞音楽賞受賞
1981年「音楽と舞踏による映像絵巻「月」が第33回イタリア賞テレビ部門イタリア放送協会賞
1981年「音楽と舞踏による映像絵巻「月」がエミー賞受賞
1986年第37回日本放送協会文化賞受賞
<受章>
1985年紫綬褒章受章
1989年勲二等瑞宝章受章

3.プロフィール


名前:芥川也寸志
職業:作曲家 指揮者
生没年:1925‐1989年
出生地:東京都
学歴」:東京音楽学校本科卒業、研究科修了
師事:下総皖一、橋本国彦、伊福部昭、兼子登
父は小説家の芥川龍之介の三男として生まれる。在学中に恩師の伊福部昭に出会い大きな影響を受けた。1950年に出世作となった《交響管弦楽のための音楽》を発表,日本放送協会 NHK主催の NHK放送 25周年記念管弦楽懸賞で特選入賞を果たした。初期の作風は,現代ロシア音楽の影響が色濃く,1953年にはソビエト連邦のドミトリー・ショスタコビッチらを訪問。1957年インドのエローラ石窟寺院を訪れ,翌 1958年発表した《エローラ交響曲》ではアジア的世界を表現した。オペラ《暗い鏡》(1960),《チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート》(1969),《オルガンとオーケストラのための響き》(1986)などの作品で新しい世界を提示した。また,日本作曲家協議会会長,日本音楽著作権協会理事長として音楽家の活動基盤の整備に奔走,新交響楽団などアマチュアオーケストラの支援活動,NHKの音楽番組「音楽の広場」での司会など,幅広い活動を行なった。日本を代表する作曲家、指揮者として活躍。映画『八甲田山』の音楽や、大河ドラマ『赤穂浪士』など、放送音楽の分野でも名曲を残した。また、『音楽の広場』や『N響アワー』の名司会ぶりで、お茶の間からも人気を集めた。
<家族>
父方の祖父:新原敏三(1850年~1919)
父方の祖母:新原ふく(敏三の妻・旧姓芥川)(1860年~1902年)
父方の祖父の後妻・叔母:新原フユ(敏三の後妻・フクの妹)(1862年~1920年)
父方の養祖父:芥川道章(フクの兄)(1849年~1928年)
父方の養祖母:芥川 儔(芥川道章の妻トモと読む)(1857年~1937年)
母方の祖父:塚本善五郎(1869年~1904年)

母方の祖母:塚本 鈴(旧姓山本)(1881年~1938年)
母方の叔父:塚本八洲(善五郎と鈴の長男)(1903年~1944年)
父:芥川龍之介(新原敬三とふくの長男)(1892年~1927年)

母:芥川 文((善五郎と鈴の長女・旧姓:塚本)(1900~1968)

長兄:芥川比呂志  (1920年3月30日~1981年10月28日)俳優・演出家

[比呂志の家族]
妻: 芥川瑠璃子(葛巻家の養女)
二兄:芥川多加志  (1922年~1945年4月13日)外語から学徒出陣し、ビルマ(現:ミャンマー)で戦死  
三男:芥川也寸志  (1925年7月12日~1989年1月31日)作曲家
[也寸志の家族]
最初の妻:芥川沙織=旧姓山田(1948年~1957年協議離婚)声楽・画家
長女:芥川麻実子 (1948年生)タレント
次女:芥川由実子 (1955年生)
後妻:草笛光子=旧姓栗田(1960年5月~1962年5月協議離婚)女優
三番目の妻:芥川真澄(江川)(1970年6月結婚) 
長男:芥川貴之志 (1972年9月生)グラフィックデザイナー・フリーエディター

4.芥川也寸志 年譜


1925年(大正14年)
7月12日芥川也寸志、父・芥川龍之介と塚本善五郎(海軍軍人)の娘・文との間に芥川家の三男として東京市滝野川区(現・北区)田端435に生まれる。
二人の兄・比呂志(1920-1981)と多加志(1922-1945)がいた

1926年(大正15年・昭和元年)1歳
7月20日 東屋近くの貸家「イ-4号(鵠沼海岸2-7-2」に転居

1927年(昭和2年)2歳
4月2日鵠沼を去り、田端に転居。
7月24日父・龍之介自殺(35歳)

1930年(昭和5年)5歳
4月、聖学院幼稚園入園。この頃兄たちと父の書斎にあったストラヴィンスキーのレコードを聴いて遊ぶ 『 父の書斎に関して明るい思い出があります。それはヴィクトローラの手回し式蓄音機と何枚かのレコードがこの室に置かれていたことです。三人兄弟のうち、すぐ上の兄多加志が毎日このレコードをかけていました。~省略~私はいつも三つ違いの兄、多加志のそばを離れませんでしたので、自然にこのレコードにもなじんでいったのでした。~略~大部分を占めていたのがストラヴィンスキーの作品であったのです。コロムビア盤の自演の ”ペトルウシュカ”、ドイツ・ポリドールのこれも自演の ”火の鳥” この二曲が枚数からいえば大部分を占め、あとはブルンスヴィック盤でリヒャルト・シュトラウスの”サロメの踊り”が一枚、コロムビア盤でモーツァルトの”魔笛序曲”が一枚、それにブルンスヴィック盤で誰が弾いていたのか思い出せませんが、ショパンの”ノクターン”が一枚、それで全部でした 』と芥川也寸志は語っている(1)。『幼稚園への行き帰りなどに、ペトルウシュカの ”熊の踊り” や、火の鳥の ”子守歌” のメロディーなどを、声高く歌っていたのを覚えています』と芥川也寸志は語っている(3)、『ぼくが幼稚園に行くころ「キンダーブック」というのがあったでしょう。あれに詩や童話みたいな短いことばがついていましたね。ああいうのにすぐ即興で旋律をつけて歌うのは得意だったんですよ』(と芥川也寸志は語っている2)
(1)(3)『』内:「自伝抄Ⅱ」読売新聞社発行P245~246から引用
(2)『』内:「芥川也寸志」その芸術と行動芥川也寸志、芥川也寸志を語る ―未公開対談・・きき手・秋山邦晴 東京新聞出版局P0~41頁

1932年(昭和7年) 7歳
4月、東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)入学 。『小学校に入って、~省略~一番最初にそういう音楽らしい音楽を聴かせてくれたのは、《月光の曲》だったと思うんです。それを聴いたときの印象は非常によく覚えているから、多分それが最初だったと思うんです。それで「月の光」というのは、こういうふうに見るべきものかなと、子供心に思ったんですよ三連音符でしょう。三つづつ「かたまって・・。そういうふうに感じるものかなというふうに思ったんですよ。そういうことよりまず、あまり簡単なんでびっくり仰天したわけですよね』と芥川也寸志は語っている(1)。
(1)『』内:「芥川也寸志」その芸術と行動芥川也寸志、芥川也寸志を語る― 未公開対談・・きき手・秋山邦晴 東京新聞出版局39頁

1935年(昭和10年)10歳
『上野の東京音楽学校には児童科というのがあったんですがね。ぼくは小児科と悪口いっていたんですけど、それが小学校の四年生で入れるんです。ぼくは小学校の四年生でお袋にそこに入りたいとアッピールするぐらい音楽がやりたかった。~省略~行きたいよ、行きたいよ、といったらしい。お袋は非常に迷った。~省略~井上武士先生のところへ相談に行った。お袋としては非常に心配だったのはわかるんですよ。音楽家で食っていけるのかと、将来のことが非常に心配だったんでしょう。そのときに井上先生は”才能があればおそく始めたって大丈夫だ。才能がなかったら、早く始めたって絶対だめだ”明言を吐いたらしい。名言だけれど、ぼくにしてはそれが非常に残念だ 』と芥川也寸志は語っている
(1)『』内:「芥川也寸志」その芸術と行動芥川也寸志、芥川也寸志を語る― 未公開対談・・きき手・秋山邦晴 東京新聞出版局 40~41頁

1936年(昭和11年) 11歳
少年倶楽部を読んで通信販売のヴァイオリンを買ってもらい自己流で弾いたり、五線紙を買ってもらって自己流の作曲をした

1938年(昭和13年)13歳
東京高等師範学校附属中学校入学

1941年(昭和16年)16歳
『私が正式に音楽の勉強を始めようと思ったのは、東京高等師範附属中学校4年生のはじめごろで、クラスでは最も晩学でありました。~略~そのころはどこの中学校も、高等学校の入試に備えて、生徒が四年生位になると全員を文科志望者と理科志望者とに分けて、それぞれ特別な授業を行っておりました。私が音楽の道を歩むようになった直接の動機は、この受験のためのクラス分けだったのです。ある日、担任の先生が~略~前の方から一人ずつ指名しながら、文科へ行きたいのか、理科志望なのかをきき始めました。私はそれまで音楽が大好きでしたが、正式に勉強する機会に恵まれず、さりとて将来への道をつきつめて考えるいうところまでには、至っておりませんでしたので、この時ばかりはいささかあわてざるを得ませんでした。~略~そして少し気の動転していた私は、思わずオンガク、と言ってしまったのです』と芥川也寸志は語っている(1)。『 学校から連絡あり、母もやっと私を音楽家にする決心をしたようです。遠いつてを頼って、東京音楽学校の作曲家主任教授をされていた、橋本国彦先生のお宅に伺いました。”作曲の勉強はしたことがあるの?”、”いいえ”、”ピアノは弾けるの?”、”いいえ”、とにかく答えは全部”いいえ”でした。』と芥川也寸志は語っている(2)。橋本國彦に個人的に師事。橋本の紹介で井口基成に師事してピアノを初歩のバイエルから学びはじめた。『四年修了で受けるべく学校は休んだ。担任の先生は実に理解のある石橋幸太郎という有名な英語の教育家~省略~当時、軍事教練万能の軍国主義下の中学校で、音楽のために学校に行かなくてもいいなんていうのはおそらくない。とにかくピアノばかり弾いていたんです。それであまりやり過ぎて肋膜炎になってだめになっちゃたんです。~省略~こうして中学四年で受験するのをあきらめて、もう一年、井口先生と橋本先生について勉強して、そして五十何人中最下位で入学したんです。ピアノはシューベルトのピアノ・ソナタ変ホ長調の三番か五番』と芥川也寸志は語っている(3)
(1)(2)『』内:「自伝抄Ⅱ 歌の旅」 芥川也寸志 著作 読売新聞社発行 243~249頁
(3)『』内:「芥川也寸志」その芸術と行動芥川也寸志、芥川也寸志を語る― 未公開対談・・きき手・秋山邦晴 東京新聞出版局 43頁

1943年(昭和18年) 18歳
中学五年終了とともに東京音楽学校受験。
4月、東京音楽学校予科作曲部入学し、ヘルムート・ヘルマン、細川碧、橋本国彦、下総皖一に作曲法を習う。『やっと新しい学校生活に馴れかかったそんなある日、突然、私は乗杉校長に呼び出されたのです。それは全くショッキングな出来事でした。~省略~おそるおそるあゆみよると、乗杉校長は机の上においてあった大きな一覧表のようなものを、ぐるっと私の方に向きを変えてこうおっしゃったのです。”お前は大芸術家の倅だ” すこし”大”のところを強調してこうおっしゃると”な?”私は今と同様、父を尊敬しておりましたから、”ハイ”というと、今度はもっと大きな声で、”ビリ!”はっと思ってその表を見ると、何とそれは受験者全員の成績一覧表でした。校長の皺だらけの手がさっとのびってきて、横に一本引いてある赤線のところを指さしました~略~自分が何故、校長の前に立たされているのか、校長が私に何を言いたいのか、大体の事情が分かってきました。私は栄ある東京音楽学校に一番ビリで入学し、私の次の成績の者は落ちているのです。~略~校長はそれっきり何もおっしゃらないので、私も黙って頭を下げました』、『音楽学校にもなかなか厳しい軍事教練がありました。祝日があると男子生徒は戦闘帽に巻脚絆、軍服まがいの馬糞色の服を着て、方には三八式歩兵銃といういでたちで、上野から隊伍を組んで宮城前を目指すのです。私は校旗を持って先頭を歩く旗手に選ばれ、嬉しかった。さらに前を行くラッパ手の一団。ラッパを専攻している管楽器科の連中がいるのですから、他の大学とは桁違い、圧倒的優位を誇ったのです』と芥川也寸志は語っている(1)
(1)『』内:「自伝抄Ⅱ 歌の旅」 芥川也寸志 著作 読売新聞社発行 242~243頁 同249頁

1944年(昭和19年)19歳
東京音楽学校本科作曲部に進学。橋本國彦に近代和声学と管弦楽法、下総皖一と細川碧に対位法を、永井進にピアノを師事して学ぶ。 『ある日、学校に行ったら貼札が出ているんです。どうせ男子生徒は徴兵されるのだから戸山学校陸軍軍楽隊に志願したらどうか、と掲示されていた。学校で取りまとめて提出する。早速みんなで相談して、結局ぼくは行くことにしたんです。50何人受けて、21人入った。音楽学校の生徒で入隊したのはピアニストの梶原完、ヴァイオリンの北爪規世、声楽の石津憲一、それに作曲の團伊玖磨、斉藤高順、奥村一‥‥のちにポピュラーで活躍した人たちはたくさんいますけれども。~略~私たちの入隊は、昭和19年10月1日でした。国電新大久保の駅前で学友たちが「海ゆかば」を歌って送ってくれました。同級の女子生徒たちは、みんなポロポロ「涙を流していました。音楽学校の生徒で入隊を許されたのは14人、その中には同級の作曲家の二人のほか、1年上の團伊玖磨、声楽の石津憲一、ヴァイオリンの北爪規世、ピアノの梶原完、などの諸氏がおりました。もうそのころは全員モンペ姿の女子生徒たちが打ち振る日の丸の旗に送られて、私たちは栄ある陸軍軍楽隊の正門をくぐったのでした』と芥川也寸志は語っている(1)。『陸軍軍楽隊のシステムは、まず戸山学校の生徒となり、一定の教育機関を経て、隊員になるというものでした。陸軍の生徒の服装は、桜のボタンに階級章は赤ベタときまっておりました。星が一つもないのに、外出した時には星三つの上等兵よりも上なので、敬礼をしなくてもよいかわりに、卒業すると星三つのの上等兵になるというところが、ちょっと矛盾しておりました~略~私たちの時には戦時下で6ヵ月に短縮されておりました。~略~入隊して間もなく、生徒に楽器が割り当てられました。一人一人教官の前に呼び出され、経歴をきかれ、入隊以前に管楽器か打楽器をやったことのある者は、その経験が生かされ、私のように両方とも駄目な者は、背丈、面構えなどをジロッとにらんで、どんどんきめていきます。~略~楽器というものには、ある程度それぞれの性格というものがあって、その性格と吹き手の性格とがあわないと、いくら練習しても上達しないものです。例えば、フルートは物事を常識的に冷静に判断し得る人、オーボエは繊細な神経の持ち主、クラリネットはユーモリスト、ファゴットはどことなくちょっととぼけた感じの人物、などというように。ところが一瞬のうちに、楽器と人間との相性を見抜いていく教官殿の眼は実に確かで、後になってみればみるほど、長年の経験とはいえ大したものだと感心するばかりです。私に割り当てられたのはサキソフォン。陸軍では第一種兵器が銃と剣、第二種兵器が喇叭、第三種兵器が軍楽器とされておりました』と芥川也寸志は語っている(2)。
(1)『』内:「芥川也寸志」その芸術と行動芥川也寸志、芥川也寸志を語る― 未公開対談・・きき手・秋山邦晴 東京新聞出版局 44頁及び自伝抄Ⅱ 歌の旅」 芥川也寸志 著作 読売新聞社発行 (1)254~256頁、(2)257~258頁

1945年(昭和20年)20歳
『 教育期間が二年なんですけれども、戦争が激しくなって八ヵ月ぐらいになっていたと思うんです。すぐ卒業して上等兵になる。首席で卒業したんです。ですから教育総監賞という銀時計があります。山口常光隊長に連れられて、教育総監であった土肥原賢二中将のところへ、銀時計を貰いに行きました。土肥原中将は、後にA級戦犯として絞首刑で亡くなりましたが、その時のわずかな数分の笑顔が、悲劇的な死ゆえにどうしても忘れられないのです。温かさがこぼれ落ちているような優しい笑顔でした。卒業して一班の班長になった。~省略~ ” お前たちは将来オーケストラに入るんだから管楽器をよく勉強しとけ ” といわれた。そういう理解ある教官もいて、それでぼくはサキソフォンをやっていたんです。昭和二十年四月十三日夜の大空襲は陸軍戸山学校あたりを一面の焼け野原にしてしまいました。~省略~私たちは住みなれた家から日本橋高等女学校の校舎に、移り住むことになりました。間もなく、團伊玖磨、奥村一、斉藤高順それに私の四人は作曲室という一室をあてがわれました。團さんは一級上でしたがみんな音楽学校の仲間たち、他の連中は連日肉体作業をしているのに、私たちはいろんな作曲をしていればよかったのです。吹奏楽の編曲などもあり、それまでの実技の習得とともに、この作曲室での作業を通じて得た管楽器の知識が、後にどれほど役立ったかわかりません。~省略~仕事の大部分はほうぼうの隊の隊歌、連帯歌 というようなものから』と芥川也寸志は語っている(1)。4月13日(金)次兄多加志がビルマで戦死。同じ日に田端の家が空襲で焼け落ちる。8月15日終戦。四月の空襲で家を焼かれ母は鵠沼下鰯5501(鵠沼海岸3-11-5)の母の実家に疎開してた。
9月、東京音楽学校本科二年に復学。『 終戦後、音楽学校でいろいろ人事の革新があった。というのはやっぱり戦争協力ということで、橋本国彦さんとか井口基成さん、要するに主任教授たちがやめられたんですね。そして新しい先生が入ってきたわけです』、『終戦のおかげでやっと家に帰れたものの、悲しかったのは、箪笥を開けてじっと考え込む母の姿を、よく見かけることでした。私は家を出て何とか自活していこうと決心しました。お茶の水にある現在の芸大付属音楽高校の校舎は、当時、分教場と呼ばれていましたが、ずっと授業は行われていませんでした。住む所に困っていた生徒たちがここに目をつけ、学校は許しませんでしたが、勝手に住んでいると聞き、私もその仲間に入るべく家をでました』と芥川也寸志は語っている(2)
(1)(2)『』内:「芥川也寸志」その芸術と行動芥川也寸志、芥川也寸志を語る― 未公開対談・・きき手・秋山邦晴 東京新聞出版局 44~47頁、50頁
恩師 下総皖一と

1946年(昭和21年)21歳
4月、伊福部昭が東京音楽学校作曲科講師就任する。芥川らは深く傾倒し師事する。この頃は東京音楽学校お茶の水教場に仮寓。黛敏郎は次のように語る『 芥川さんは、昭和20年、終戦の年に東京音楽学校(現芸大)作曲家に入学した私の二年上級で、そのさらに一級上には團伊玖磨さんがいた。芥川龍之介の息子で大秀才、しかも眉目秀麗とあって、学校きってのスター、特に女生徒の人気は絶大なものがあった。在学中の芥川さんに関する鮮烈な思い出が、私には二つある。一つは伊福部昭先生着任のときのこと。~省略~その最初の管弦楽法、合同授業が、余りにも魅力的だったために、作曲家の全生徒は強烈なショックを受けたが、中でも感激の深かった芥川さんは、授業が終わるとすぐさま日光の先生の自宅まで押しかけ、ニ、三日中泊まり込んでしまった。もう一つは私自身にからんだこと。私が本科二年のときに書いたヴァイオリン・ソナタを、一級上の江藤俊成、園田高弘両氏が学内演奏会でやってくれることになったら、上級生からクレームがついた。この二人も学内のスターである。二年生の分際でそんな厚遇を受けた前例はないし、第一ナマイキだと。このとき敢然と私を支持し、前例があろうとなかろうと、演奏に値する作品をやるのは当然だと頑張り、ついに実現に漕ぎつけてくれたのが最上級生の芥川さんだった。』(1)
(1)『』内:「芥川也寸志」その芸術と行動「三人の会」は不滅である 黛敏郎 著作 東京新聞出版局 24頁

1947年(昭和22年)22歳
3月11日、東宝映画「四つの恋の物語」(音楽監督:早坂文雄)助手を務め、以後二年間続ける。
3月31日、東京音楽学校本科を首席で卒業、研究科進学する。本科卒業作品《交響管絃楽のための前奏曲》
(死後、山田一雄指揮、新交響楽団で初演)。
三鷹に転居
5月3日、読売新聞主催「第17回新人演奏会」で《ピアノ三重奏曲》第3楽章を発表
youtube本科卒業作品《交響管絃楽のための前奏曲》
演奏:新交響楽団

1948年(昭和23年)23歳
東京音楽学校研究科在籍中
2月5日、NHKラジオ「現代日本の音楽」で《弦楽四重奏曲》《ラ・ダンス》放送初演。
東京音楽学校で知り合った山田紗織(別名・間所紗織、声楽科卒)と結婚。『その頃、彼は同級の声楽科の山田沙織という女性と結婚することになり私が仲人を務めることとなった。客人は皆音楽家で各人が夫々一曲ずつ唱ったり演奏したりした。彼はヴァイオリンでマスネーの《タイスの瞑想曲》を弾いた。~省略~やがて、三鷹の方に住んでいた彼は、近所がいいと言って尾山台の町(世田谷区等々力町2-1575)に越してきて足繁く作品を持って現れるようになった。~省略~当時は味噌や醤油などを都合しあったりもし、又、夫人は長女の麻実子をさんを連れて風呂を使いにも見えた。~省略~その頃、夫人は音楽より絵が面白いと云って岡本太郎氏の指導を受けていたので、話題は音楽、美術に亘る広いものであった。その内に彼の家に妖怪が出るという話になった。聴けば、真新しい石鹸を洗面所に置いて寝ると、翌朝は何ものかがこれを使うらしく濡れて減り、長い髪が幾条も巻きついていると云うのであった。こんあことが幾度かあって隣の町九品仏に移ることになった。』と伊福部昭は語る(1)。
4月1日慶應義塾中等学部音楽教員となる(~1949年12月1日まで)
7月長女:麻実子誕生
9月16(又は26)日NHKラジオ放送の「現代日本の音楽」で《交響三章》は東京フィルハーモニー交響楽団を芥川が指揮して作曲家としてデビューした。舞台初演は1950年10月26日に尾高尚忠指揮/日本交響楽団により日比谷公会堂で行われた。
『(1)』内:「芥川也寸志」その芸術と行動、芥川也寸志君を偲ぶ 伊福部昭 著作 東京新聞出版局 20頁
youtube《交響三章》
指揮:飯守泰次郎/新交響楽団

1949年(昭和24年)24歳
1月16日、NHKラジオで《小管弦楽のための組曲》放送初演。
3月31日、東京音楽学校研究科修了
4月2日、研究科修了。修了演奏会でピアノ曲《ラ・ダンス》を発表。
10月5日~1952年3月3日までNHKから劇伴を依頼されるようになり、少し稼げる自身がつくようになった。NHKラジオ連続放送劇「えり子とともに」127回までの音楽を担当する)
10月20日、歌曲集《車塵集》初演(小谷絢子独唱会)
世田谷区尾山台へ転居
慶應義塾中等部音楽教師を辞任

1950年(昭和25年)25歳
2月20日《交響管絃楽のための音楽》完成。NHK放送25周年記念懸賞弦楽曲に応募。特選入賞(團伊玖磨と共に特賞)
3月21日放送25周年記念入選集管弦楽曲発表演奏会で《交響管絃楽のための音楽》初演(近衛秀麿指揮、日本交響楽団)
9月29日バレエ《失楽園》初演(横山はるひバレエアートスクール、シャンブルノネット)
10月26日《交響三章》舞台初演(指揮尾高尚忠、日本交響楽団第320回定期)
11月6日バレエ・ファンタジー《湖底の夢》初演(高田せい子バレエ団、山田和男指揮、東京フィル)。
この頃、NHKラジオのために《ことりのうた》《ぶらんこ》等を作曲。 世田谷区多摩川奥沢町3-25に住む
youtube《ことりのうた》
ソプラノ・間庭小枝 伴奏・米山知里

1951年(昭和26年)26歳
4月11日カンタータ《聖徳太子祝讃歌》(清水脩、團伊玖磨と共作)初演
7月7日《ヴァイオリントピアノのための譚詩曲》ジュリアード音楽院に在学中だった大村多喜子(Vn.)、アイリーン・ポッツ=レニー(P.)の演奏を、ニューヨークWNYC局で放送初演。
肋膜炎が再発して1年間入院生活となる
7月24日バレエ《KAPPA》初演(遠山信二指揮、東フィル)

1952年(昭和27年)27歳
6月11日NHKラジオにて《マイクロフォンのための音楽》放送初演
11月22日木馬座第1回公演「雪の女王」の音楽を担当
写真 黛敏郎、伊福部昭、芥川也寸志、團伊玖磨

1953年(昭和28年)28歳
2月1日「NHKテレビ放送開始と終了の音楽」放送開始。
『 三人の会に話を移せば、われわれは相前後して上野を卒業したわけだが、私はすぐパリへ留学し、昭和二十七年に帰国した。それを待ちかまえていたのが芥川さんで、パリの話をいろいろ聞かせろという。~省略~これから大いにひとつ、今までの日本の作曲界になかった様な、大きな運動を起こそうということになり、早速、團さんに話したら大賛成だという。まず手はじめに、それぞれ自作を指揮してオーケストラの作品発表をやることになった。幸い、三人とも、当時黄金時代を迎えていた映画や放送など、コマーシャルな音楽の場にも進出していて、他の作曲家に比べれば、経済的にも幾らか恵まれた状態にあったが、さりとて一人でオーケストラの作品発表をやるのは大変な負担だから、三人で分担すれば三分の一で出来るではないか、というのも「三人の会」結成の別な理由でもあった。「三人の会」という名前は、一見なんの変哲もない平凡な名前だが、これからの日本の音楽はわれわれ三人で背負って立つのだという気概が秘められていたことは勿論である(1) 』と黛は語る。『 三人が京都で顔を合わせたのは、全くの偶然だったのです。~省略~当時は映画会社が各社とも、かなりの数の映画を京都撮影所で作っておりましたので、三人とも映画音楽の仕事で京都に来合わせたのです。加茂川沿い、木屋町五条の宿屋で、何となく話が始りました。” 三人で共同して作品発表会をやれば、プログラムも面白くなるし、第一、経費が三分の一で済む。三人で会でも作ろうか・・・” 偶然顔を合わせ、何となく始まった話は、たちまち会の結成から《三人の会》という名前を決めるところまで行きました』と芥川は語っている(2)
6月團伊玖磨、黛敏郎と共に「三人の会」を結成(事務所は新橋の第一ホテル横のビルの地下にあったようだ)。
11月4日バレエ《炎も星も》初演(上田仁指揮、東京交響楽団)。
11月23日中央合唱団5周年記念演奏会《祖国の山河に》《仲間たち》など労働歌を発表。
12月4日、《絃楽のための三楽章(トリプティーク)》がクルト・ヴェス指揮、演奏ニューヨークフィル、カーネギー・ホールで初演される
『(1)』内:「芥川也寸志」 その芸術と行動 「三人の会」は不滅である 黛敏郎 東京新聞出版局 26頁引用
『(2)』内:「自伝抄Ⅱ 歌の旅」 芥川也寸志著作 読売新聞社発行 277~278頁引用
youtube《祖国の山河に》

youtube《仲間たち》
2019年6月1日、合唱研究会の練習記録

1954年(昭和29年)29歳
1月26日第1回「三人の会」発表会は日比谷公会堂で自作の《交響曲》初演指揮、東京交響楽団)
2月第八回毎日映画コンクールで「煙突の見える場所」の音楽が音楽賞受賞。「煙突の見える場所」および「夜の終わり」「雲ながるる果てに」の音楽によりブルーリボン賞受賞。
8月『音楽芸術』に「現代日本作曲家群像(60)芥川也寸志 / 富樫康」掲載。
10月7日、ウィーンに向けて出立。スイス、ハンガリー、ソ連、中国を周る。ソ連でショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアン、カバレフスキー、北京で馬思聡、江文也と交流した。ソ連での自作楽譜出版を達成。当時のソ連で楽譜が公に出版された最初の日本人作曲家となった。
12月28日、上海交響楽団を指揮して自作演奏会を行う。中国から香港経由で半年後に帰国する

1955年(昭和30年)30歳
2月10日昨秋からのスイス、東欧、ソ連、中国などの旅行から帰国。
次女・由実子誕生。
4月23日~24日日本のうたごえ「春の大音楽会」で《交響組曲「青年の歌」》(小林秀雄、外山雄三、間宮芳生と共同編作曲)発表。
5月23日シンフォニー・オブ・ジ・エア-(ソーア・ジョンソン指揮)の来日公演で《交響管絃楽のための音楽》上演(後楽園球場)されたため、アメリカにも紹介され、ヤンキー好みの曲調も手伝って、その後数百回も演奏された。
6月23日第二回「三人の会」開催し《嬉遊曲》日比谷公会堂で東京交響楽団を指揮して初演。
10月15日東京労音創立2周年「森の歌大合唱と交響曲のつどい」でショスタコーヴィチ《森の歌》とともに《絃楽のための三楽章》を京交響楽団を指揮して国内初演。11月9日東京労音アンサンブルに指揮者として迎えられる。
《弦楽のためのトリプティーク》がワルシャワ音楽賞受賞。
12月東京交響楽団定期で改作した《交響曲第一番》初演
youtube《弦楽のためのトリプティーク》

1956年(昭和31年)31歳
『 ふとしたことから、あるグループとの付き合いが始まりました。ある音楽鑑賞団体の会員で、ただ音楽を聴いているだけではつまらないというグループが、楽器を持ち寄って自分たちでアンサンブルを作っていたのです。どうしても一遍聞いてくれと言われて行ってみたものの、その響きはさながら阿鼻叫喚でした。メンバーは十五、六人程度だったでしょうか、もうみんなが勝手にわめき散らすばかりで、とてもアンサンブルと言えるような代物ではありませんでした。~省略~私は時々、音楽って何だろう、と考えます。そういう時、不思議とよく頭の中に浮かんでくるのは、あの阿鼻叫喚ともいうべき響きと、その光景なのです。楽器がうまく弾けない彼等、アンサンブルがうまく出来ない彼等は、心の底から”音楽が欲しい!”と叫んでいたに違いないのです。~省略~音楽に対するひたむきさ、演奏するよろこびを求める真剣さに出会って、私はいわば契約をむすぶ気になったのです。このアンサンブルは昭和31年3月(1956年編者)、新交響楽団として第一歩を踏み出すのです。それ以来、私は無給の指揮者としてこのアマチュア・オーケストラを一生懸命育ててきました。国内旅行や海外旅行もやりましたし、プロのオーケストラとの共演もやりました。~省略~このアマチュアのオーケストラは、いつも私に〈音楽とはなにか?〉と問い続けているような気がするのです。~省略~また今日ほど、音楽が専門的になってっしまった時代は、かってなかったのではないかと思われます。プロの音楽家が作り、提供するものだけが音楽であり、あとの音楽は何か特別な存在である、という風に———。二十年間、旅を共にしてきたアマチュアの新響は、こんな世間一般の風潮を〈可笑しい、可笑しい〉と私にささやきかけるのです。~省略~音楽は、たとえ下手であろうと、弾けなくて歌う一方であろうと、音楽を楽しもうとするすべての人のものであって、一握りの専門家のものではない。音楽の好きな一般市民こそ普通の存在であって、特別な武器を駆使して、普通人の考えもしなかった素晴らしいことをやってくれる特別人こそ、プロでなければ話が可笑しいのです 』と芥川也寸志は語っている(1) 。
3月22日~23日、ダーク・ダックス・リサイタルで《新聞》初演。新交響楽団(東京労音交響楽団)設立。音楽監督・常任指揮者に就任。
目黒区自由ヶ丘123に住む。
(1)『』内:「自伝抄Ⅱ 歌の旅」芥川也寸志著作 読売新聞社発行 279~282頁 から引用
※「自伝抄Ⅱ 歌の旅」は、(1976年10月16日から1977年3月16日まで「読売新聞」連載された

1957年(昭和32年)32歳
4月妻紗織と協議離婚。
子供のための交響曲《双子の星》放送初演。
11月自身の指揮で新交響楽団・第1回定期演奏会が日本青年館で開催される。
ヨーロッパ旅行の帰途立ち寄ったインドのエローラ石窟寺院に衝撃を受ける

1958年(昭和33年)33歳
4月2日第三回三3人の会」開催し《エローラ交響曲》を新宿コマ劇場でN響を指揮して初演

1959年(昭和34年)34歳
2月15日『霊気(Nyambe)』放送初演(NHK「現代日本の音楽」)。
映画「野火」⁽市川崑監督)音楽担当。オペラ《暗い鏡》作曲に着手。 「私の音楽談義」(音楽之友社刊)

1960年(昭和35年)35歳
3月20日オペラ《暗い鏡》放送初演(岩城宏之指揮、N響)。
3月27日第四回「3人の会」読売ホールで開催、オペラ《暗い鏡》初演。
5月栗田⁽草笛)光子と結婚。
9月27日草月アートセンターの呼びかけにより黛敏郎、武満徹、間宮芳生、林光ら八名で「作曲家集団」結成。
10月日本現代音楽協会書記(~1963年10月まで)を務める
この頃、世田谷区祖師谷2-1139に住む

1961年(昭和36年)36歳
4月28日「作曲家集団・グループ・エキシビジョンⅠ」に《パプア族の2つの旋律》をテープ音楽として改作、舞踏をつけて上演。5月《歯車の中で》作曲(永六輔台本、大阪労音委嘱)

1962年(昭和37年)37歳
4月16日第5回「3人の会による現代日本音楽の夕べ」大阪国際フェスティバルで《暗い鏡》上演。『「三人の会」は五回のコンサートの後、続かなかったために〈散人の会〉などと悪口を言われたりもしますが、別に思想的な結合だった訳でもなく、結成式や解散式をやった訳でもないので、顔を合わせれば”またいつか‥‥”という話になります。三人三様、それぞれの道を歩いてはおりますが、本当にまたいつか三人でコンサートをやりたいと思っています 』と芥川語っている(1)。
4月30日日本作曲家組合(のちの日本作曲家協議会)発足。
5月栗田⁽草笛)光子と協議離婚。
5月29日日本作曲家組合委員に就任。
6月15日著書『音楽の現場』刊行。
12月5日、14日日本現代音楽協会「現代の音楽展1962」開催。
12月18日第3回東京現代音楽祭で《絃楽のための音楽第一番。』初演(若杉弘指揮、東京現代音楽室内楽団)。
NTV連続TV番組「私のクイズ」出演
(1)『』内:「自伝抄Ⅱ 歌の旅」 芥川也寸志 著作 読売新聞社発行 279頁

1963年(昭和38年)38歳
5月23日成城学校劇の会で《原っぱらの子どもたち》初演。
5月25日高橋悠治、一柳慧、小林健次ら十三名と創造的な「演奏家集団・ニューディレクション」結成。
ブーレーズ《マラルメによる即興》(日本初演)などを指揮。
この頃から、指揮者としての活動を始める

1964年(昭和39年)39歳
1月5日~12月27日NHK大河ドラマ『赤穂浪士』放送開始し音楽を担当。
1月10日~2月11日アメリカ、ニューヨーク、ロサンゼルスなどに滞在。
TBSラジオ番組「オーナー」のパーソナリティー担当

1965年(昭和40年)40歳
8月5日TBSラジオ「今晩は音楽」の司会担当(~1966年4月7日)。
9月4日TBSテレビ、モーニング・ショー「土曜パートナー」の司会担当(~1970年9月26日)

1966年(昭和41年)41歳
3月新交響楽団が東京労音より独立、音楽監督・常任指揮者就任。
4月4日新交響楽団第9回演奏会(労音独立後の初演奏会)開催、指揮。
5月21日、成城・学校劇の会第11回公演で『子どものまつり』初演。《弦楽オーケストラのための「陰画」》NHK国際放送初演

1967年(昭和42年)42歳
4月23日TBSラジオ「100万人の音楽」始まり、司会を務める(~1989年4月9日)。
5月25日『オスティナータ・シンフォニカ』渡邉暁雄指揮、日フィル第141回定期演奏会で初演される。
8月27日オペラ『暗い鏡』を改作して、《ヒロシマのオルフェ》としてNHK-TVで放送初演(森正指揮、日フィル)。
9月22日~10月9日日ソ青年友好委員会の派遣により、新交響楽団とソ連各地を演奏旅行。
11月12日成城学園「劇の会」でミュージカル《みつばちマーヤ》初演。

1968年(昭和43年)43歳
7月3日アマチュア合唱団「鯨」結成。第1回定期演奏会開催、指揮。
8月TVオペラ《ヒロシマのオルフェ》(暗い鏡」改作)が「ザルツブルク・オペラコンクール審査員特別賞受賞。
9月10日母・文子死去。
11月舞踊組曲《蜘蛛の糸》森正指揮/ニュー・シンフォネットで初演

1969年(昭和44年)44歳
『《チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート》が書かれた。 大分経ってから、総譜を持ってこられ、終結部の最後にチェロのソロがアレグロで出るのだが、どうしても狙っている効果とは異なるのだと云う。彼はピアノでその部分を弾いたが、それはオーケストラからチェロに移る前に一拍の休止が必要なのではないかと意見を述べると、その様に奏し疑義が解けたと言い、どうしてそのことに思い到らなかったのだろうかと頻りに自からを怪しんでいたのが印象的であった。楽譜を見ながら作品の検討をしたのはこれが最後になった』と伊福部昭は語る(1)。
12月16日《チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート》が秋山和慶指揮、東京交響楽団第173回定期で岩崎洸の独奏により初演。
(1)『』内:「芥川也寸志」その芸術と行動、芥川也寸志君を偲ぶ/伊福部昭/東京新聞出版局P21~22ら引用

1970年(昭和45年)45歳
1月10日財団法人鳥井音楽財団(のちのサントリー音楽財団)評議員に就任(同財団音楽賞選考委員会、選考委員を終身務めた)。2月9日「現代の音楽展70」で山岡重信指揮、読売日本交響楽団により『エローラ交響曲》再演。
5月世田谷成城2丁目22-3に新居完成。
5月14日日本作曲家協議会副委員長に就任。
6月江川眞澄と再婚。

1971年(昭和46年)46歳
8月31日著書『音楽の基礎』刊行。
10月4日、文化庁芸術祭主催管弦楽の夕べで森正指揮、N響により《オーケストラのためのラプソディ』初演。

1972年(昭和47年)47歳
3月『キネマ旬報』「映画音楽史を形造る人々/芥川也寸志」掲載。6月28日朝日新聞に「音楽教育への疑問」を寄稿(~7月12日・全3回)。
8月『レコード芸術』に「日本の作曲家たち 芥川也寸志」掲載。
8月15日ヤマハ音楽振興会専務理事に就任(~1976年3月31日)。
9月長男・貴之志誕生。
10月4日読売新聞に「音楽教育を糺す」寄稿(~11月1日・全5回)。
「音楽の遊園地」(れんが書房刊)

1973年(昭和48年)48歳
6月23日童謡《やわらかいえんぴつが好きなんだ》で日本童謡賞受賞。
8月20日著書『音楽の遊園地』刊行。
10月16日財団法人鳥井音楽財団の理事に就任。

1974年(昭和49年)49歳
ヤマハ音楽振興会委嘱「GXコンチェルト」沖浩一指揮/東京交響楽団演奏で初演。

1975年(昭和50年)50歳
1月雑誌『レッスンの友』にインタビュー「ボクのモスクワ潜入記」掲載。
2月15日映画『砂の器』で毎日映画コンクール音楽賞受賞。
6月新交響楽団第29階定期演奏会でストラヴィンスキーの《火の鳥》《ペトルーシェカ》《春の祭典》を指揮

1976年(昭和51年)51歳
2月雑誌『ハミング』に「私の教育論」寄稿。
9月3日、10月11日「日本の交響作品展」で伊福部昭、早坂文雄、諸井三郎、清瀬保二、尾高尚忠ほか日本人作品10曲をとりあげ指揮(新交響楽団創立20周年記念演奏会)。
11月『音楽の世界』に「日本の作曲ゼミナール 芥川也寸志掲載

1977年(昭和52年)52歳
2月22日読売新聞に「自伝抄」連載(~3月16日・全20回)。
3月5日新交響楽団と共に第8回鳥井音楽賞受賞。
3月9日日本オペラ協会公演で《暗い鏡》上演。
4月9日NHKTV「音楽の広場」始まる。司会・指揮務める(~1984年3月23日)。
6月18日映画『八甲田山』封切。音楽担当。
7月北軽井沢の別荘を新築。
映画『八ツ墓村』の音楽担当。
10月4日社団法人日本音楽著作権協会理事に就任

1978年(昭和53年)53歳
4月1日、26日新交響楽団「小倉朗交響作品展」を開催、指揮。
4月6日映画『八甲田山』、『八つ墓村』の音楽で第1回日本アカデミー賞音楽賞受賞

1979年(昭和54年)54歳
1月18日山形交響楽団第18回定期「芥川也寸志の世界」指揮。3月1日《こどものためのピアノ曲集 24の前奏曲》を雑誌『あんさんぶる』で発表開始(~1980年2月1日)。
5月『森の好きなおとなとこどもの音楽童話《ポイパの川とポイパの木〉》を自身の指揮/東京フィル、NHK放送初演(黒柳徹子語り、東京フィル)。
7月著作権審議会臨時委員に就任。
10月29日岩城宏之、黛敏郎らと共に旧奏楽堂保存に関する要望書を文部大臣あてに提出。
10月31日日本作曲家協議会主催「東北の作曲家79」を指揮。
映画「日蓮」音楽担当

1980年(昭和55年)55歳
2月17日「奏楽堂を救う会」発足。代表委員を務める。
5月15日《イパの川とポイパの木》で、第22回児童福祉文化奨励賞受賞。
7月11日日本作曲家協議会委員長に就任。

1981年(昭和56年)56歳
3月「反核・日本の作曲家たち」の活動をはじめる。
5月6日~12日、第1回ソヴィエト国際音楽祭で自作の《チェロとオーケストラのためのコンチェルトオスティナート》を指揮。
7月18日音楽と舞踊による映像絵巻《月》NHKTVで放送初演、第33回イタリア賞テレビ部門イタリア放送協会賞、エミー賞を受賞。 10月20日長兄・比呂志逝去。
11月1日社団法人日本音楽著作権協会理事長に就任。

1982年(昭和57年)57歳
1月12日学校法人成城学園理事に就任(~1989年1月31日)。
5月23日「反核日本の音楽家たち」演奏会開催、指揮者として松村禎三作品などを初演。
7月腹膜炎を患う。
9月29日~10月10日著作者作曲者協会国際連合総会出席のためにローマに赴く。同理事に就任

1983年(昭和58年)58歳
1月12日宮城フィルハーモニー協会(仙台フィル)理事、音楽監督就任。
5月13日日本作曲家協議会、社団法人となり会長就任。
10月著作権審議会委員に就任。
日ソ音楽家協会の運営委員長に就任

1984年(昭和59年)59歳
2月24日NHK「音楽の広場」3人の会特集放送。
3月2日NHK「音楽の広場」旅とワインと男のおしゃれ放送。
4月7日、NHK「N響アワー」開始、司会担当(~1988年11月26日)。
5月16日~23日、第2回ソヴィエト国際音楽祭に招かれ、訪ソ。
5月19日モスクワで《ヒロシマのオルフェ》(演奏会形式)指揮。
10月20日「近代音楽館を設立する会」発足。運営委員長に就任。
11月著作者作曲家協会国際連合⁽CISAC)総会副会長に就任。東京で国際会議を開催
写真 山本直純、芥川也寸志

1985年(昭和60年)60歳
3月科学万博つくば85のために《EXPO85〈ここは宇宙〉》を作曲。
3月11日~17日CISAC理事会出席のためにフランスへ赴く。
7月訪ソ。
9月中国訪問し北京、上海、西安を訪れる。
11月3日紫綬褒章受賞。
第37回日本放送協会放送文化賞受賞

1986年(昭和61年)61歳
1月30日~2月5日、モスクワで「日ソ音楽家協会」コンサート開催のため訪ソ。
2月2日、モスクワで日ソ音楽協会「日本交響作品展」開催。
2月17日、「紫綬褒章を祝う会」開催。 3月10日、第37回日本放送協会放送文化賞受賞。
3月19日、20日、21日NHK「芥川也寸志ドレミファワンダーランド」放送。
4月8日~9日、CISAC理事会出席のためにモントリオールへ。
4月17日、FM東京開局15周年記念委嘱《交響組曲〈東京〉》第4楽章「アレグロ・オスティナート」を自身で指揮/東京交響楽団で初演。
9月18日~24日、東京交響楽団の中国公演に團伊玖磨とともに随行。
10月12日、サントリーホール落成式典で委嘱作《オルガンとオーケストラのための響》』ウォルフガング・サヴァリッシュ、N響を指揮して初演。
11月30日、新交響楽団「日本の交響作品展/新響と三十年~芥川也寸志」開催、指揮。
12月27日、財団法人ヤマハ音楽振興協会理事に就任。
12月サントリー音楽財団から委嘱を受け、オラトリオ《古事記》を構想する。
写真 芥川也寸志、中田喜直、江間章子

1987年(昭和62年)62歳
2月1日、新交響楽団と「サントリー音楽賞受賞者コンサート」出演。
4月6日~11日CISAC理事会のためにシドニーへ赴く。
5月2日~15日、中国の招きにより訪中し北京、四川省へ赴く。
5月8日、財団法人日本近代音楽財団理事に就任。
7月4日、朝日新聞にエッセイ「ぷれりゅうど」連載(~12月26日・全26回)
10月1日日本近代音楽館発足。運営委員、事業委員に就任。旧奏楽堂、上野公園に移築開館。
11月7日中国、上海で中日両国建交十五周年記念の演奏会で上海交響楽団を指揮して自身の《弦楽三章》、伊福部昭の《交響譚詩》と《タプカーラ交響曲》、早坂文雄の《左方の舞と右方の舞》を演奏。
11月9日~16日上海国際音楽コンクール審査員を務める。

1988年(昭和63年)63歳
2月27日「伊福部昭先生の叙勲を祝う会」コンサートのために自作の《ゴジラの主題によせるバラード》初演指揮。
4月24日新交響楽団とともに「旧東京音楽学校奏楽堂演奏会」開催、指揮
4月25日~5月7日、CISAC理事会出席のためにロンドン、ミュンヘンへ赴く。
5月23日昭和大学藤が丘病院に検査入院。肺がんと診断される。
6月16日~7月17日、国立がんセンターに入院。《日扇聖人奉讃歌「いのち」》の「いのち」作詞:なかにし礼の合唱部分を病床で作曲
6月29日手術を受ける
9月14日日本作曲家協議会会長を辞任
11月22日再入院。
12月5日再手術

1989年(昭和64年・平成元年)64歳
1月31日肺炎による肺機能低下により東京築地、国立がんセンター附属病院で63歳で死去
《日扇聖人奉讃歌「いのち」》がオーケストレーション未完のまま遺作となった(生前に松村禎三の紹介により、鈴木行一へオーケストレーションを委ねて完成)
2月4日N響アワー「―芥川也寸志さんをしのんで―」放送
勲二等瑞宝章受賞
5月2日芥川也寸志追悼演奏会
7月芥川のアドバイスを受けて建築された田園ホール・エローラが開館

1990年(平成2年)4月芥川の功績を記念してサントリー音楽財団により「芥川作曲賞」が創設された

5.主な作品

芥川也寸志 主な作品

6.初演

1948年9月26日「交響三章」指揮:芥川也寸志/東京フィル/NHKラジオ「現代の音楽」放送初演
1949年1月16日「小管弦楽のための組曲」NHKラジオ「日曜随想」
1950年3月21日「交響管弦楽のための音楽」指揮:近衛秀麿/日本交響楽団/日比谷公会堂/放送開始25周年記念管絃楽曲発表演奏会
1950年9月29日 バレエ「失楽園」指揮:芥川也寸志/シャンブルノネット/横山はるひバレエ・アート・スクール
1950年11月6日 バレエ「湖底の夢」東京新聞社主催「創作バレエ合同公演」
1951年4月11日カンタータ『聖徳太子祝讃歌』(清水脩、團伊玖磨と共作)初演
1951年7月7日『ヴァイオリントピアノのための譚詩曲』ジュリアード音楽院に在学中だった大村多喜子(Vn.)、アイリーン・ポッツ=レニー(P.)の演奏を、ニューヨークWNYC局で放送初演。
1951年7月24日「Kappa」(河童)指揮:遠山信二/東京フィル/横山はるひバレエ・アート・スクール公演
1951年7月24日「Kappa(河童)指揮遠山信二/東京フィル/横山はるひバレエ・アート・スクール公演
1952年6月10日「マイクフォンのための音楽」(マイクロフォンのためのファンタジー)NHKラジオ「NHK音楽のアトリエ」放送初演
1953年11月4日炎も星も」(Flame…star)指揮:上田仁/東京交響楽団
1953年12月4日「弦楽のための3楽章」(トリプティーク)指揮:クルト・ヴェス/ニューヨーク・フィル/カーネギー・ホール
1954年1月26日「交響曲」指揮:芥川也寸志/東京交響楽団/日比谷公会堂/「三人の会」
1955年6月23日「ディヴェルティメント」指揮:芥川也寸志/東京交響楽団/第回「三人の会」
1955年12月8日「交響曲第1番」指揮:上田仁/東京交響楽団/第74回定期演奏会
1957年11月25日 子供のための交響曲「双子の星」指揮:渡邉暁雄/日本フィル/語り:中村メイコ/東京少年合唱隊
1958年4月2日「エローラ交響曲」指揮:芥川也寸志/NHK交響楽団/第回「三人の会」
1960年3月20日オペラ《暗い鏡》放送初演(岩城宏之指揮、N響)。
同年3月27日第四回「3人の会」読売ホールで開催、オペラ《暗い鏡》初演。
1962年12月18日 「弦楽のための音楽第1番」指揮:若杉弘/東京現代音楽室内楽団/第3回東京現代音楽祭
1963年ブーレーズ『マラルメによる即興』(日本初演)などを指揮。
1966年11月3日 弦楽オーケストラのための「陰画」指揮:岩城宏之/NHK交響楽団/NHKラジオ「ステレオ音楽」
1967年5月25日「オスティナータ・シンフォニカ」指揮:渡邉暁雄/日本フィル/第141回定期演奏会
同年11月12日成城学園「劇の会」でミュージカル『みつばちマーヤ』初演。
1968年11月8日 舞踊組曲「蜘蛛の糸」指揮:森正/ニュー・シンフォネット/NHK-FM放送初演
1969年12月16日「チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート」指揮:秋山和慶/チェロ:岩崎洸/東京交響楽団/東京文化会館/第173回定期演奏会
1971年10月4日「オーケストラのためのラプソディ」指揮:森正/NHK交響楽団/昭和46年度文化庁芸術祭公演「管弦楽の夕べ」
1974年7月3日「GXコンチェルト」」指揮:芥川也寸志/GX1(オルガン):沖浩一/東京交響楽団
1979年5月5日「ポイパの川とポイパの木」指揮:芥川也寸志/東京フィルハーモニック交響楽団
1981年7月18日「音楽と舞踊による映像絵巻」《月》指揮:手塚幸紀/東京フィルハーモニー交響楽団
1982年 行進曲《風に向かって走ろう》第38回国民体育大会(あかぎ国体)
1986年4月17日 アレグロ・オスティナート(交響組曲「東京」第4楽章)指揮:芥川也寸志/東京交響楽団
1986年10月12日「オルガンとオーケストラのための” 響 ” 」指揮:ヴォルフガング・サヴァリッシュ/NHK交響楽団/オルガン:林佑子/サントリーホール落成式典
1988年2月「ゴジラの主題によせるバラード」
1990年2月「交響管弦楽のための前奏曲」指揮:山田一雄/新交響楽団により演奏された。東京音楽学校、本科卒業作品である

7.関連動画


芥川也寸志 youtube

8.家系


芥川也寸志 系図

参考文献:以下の資料を参考及び引用させて頂いた。有難うございます 《歌の旅》芥川也寸志著「自伝抄Ⅱ」/発行所読売新聞社昭和52年 / 「芥川也寸志」その芸術と行動/出版刊行委員会編/発行所東京新聞出版局1990年 / 「芥川也寸志」監修芥川眞澄/著者新・三人の会/発行所yamaho2018年 / https://ja.wikipedia.org/wiki/芥川也寸志 / https://www.3s-cd.net/jc/akutagawa芥川也寸志 - スリーシェルズ Three Shells /  http://kugenuma.sakura.ne.jp/bunkajinmap.files/08-00.htm鵠沼に居住した著名人 - 鵠沼を語る会 / https://www.weblio.jp/wkpja/content/芥川也寸志_芥川也寸志の概要#特徴 /  www003.upp.so-net.ne.jp/johakyu/ifukube/akutagawa.htm芥川也寸志作品リスト - So-net /https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00014060#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-4994%2C-171%2C12034%2C3413御楯隊姓名録 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ / http://nodaiweb.university.jp/noukei/pdf/NSO97_06.pdf下総牧羊場の系譜 2 - Tokyo University of Agriculture友田清彦 / www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/jl/ronkyuoa/AN0025722X-029_047.pdf森本修 / http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2012/04/post-7e8d.html宇野浩二 芥川龍之介 十五~(1)下巻に突入tadashi.yabuno /  https://blog.goo.ne.jp/jchz/e/bd548f74b53eff63bf86715d80888e09みんなの牛乳/ミルクと日本人(武田尚子) - 見もの・読みもの日記 / http://shien.hanagasumi.net/005hee/17akudagawa.html芥川龍之介の父は美和町出身! / http://otake-history.halfmoon.jp/incident/war/龍之介の実父 - 日々のことを徒然に - Gooブログ / https://ameblo.jp/shinjukuroriotou/entry-11839411966.html「芥川龍之介」 の下町 | 未来を語る新宿老人党 - アメブロ / http://hcaj.lin.gr.jp/html2/06/6-1.PDFわが国のジャージーの歴史 - 日本ホルスタイン登録協会 / http://www.sun-net.jp/~0otani-s/twbk48.pdf会報つわぶき 第48号 / https://ja.wikipedia.org/wiki/芥川龍之介 / http://dp52008078.lolipop.jp/angonet/writingcure/books/akuta/akutagawa1-3.html戻る - 芥川文学の構造分析 / http://www.tsu.ac.jp/Portals/0/research/19/P104-120.pdf芥 川 龍 之 介 と 養 父 道 章 ︱ 所 謂 ﹁ 自 伝 的 作 品 ﹂ - 東京成徳大学 / 2st.jp/radb/nenpyou/gakuseijidai.html芥川龍之介私的データベース/年表*三中・一高・東大時代 / https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2018/01/芥川.html新原(にいはら)龍之介の七か月 - 紀行歴史遊学 / http://2st.jp/radb/jinbuturoku/na.html芥川龍之介私的データベース/人物録*な行 / http://akitsumaika.web.fc2.com/ryunosukepeople.html龍之介さんを取り巻く人々 - FC2 / https://kuribou.hatenablog.com/entry/20161228芥川龍之介の父系のルーツ - 栗カメの散歩漫歩 / https://blog.goo.ne.jp/tatu_no_ko/e/67bea38b7f281a4d1cefc779ce7da60龍之介の実父 - 日々のことを徒然に - Gooブログ / http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2012/04/post-7e8d.html宇野浩二 芥川龍之介 十五~(1) 下巻に突入: 日々の迷走tadashi.yabuno / http://2st.jp/radb/jinbuturoku/na.html#niihara-huyu芥川龍之介私的データベース/人物録*な行 / https://akitsumaika.webnode.jp/works/ryunosuke/龍之介さんの年譜 / クラシック作曲家辞典/中河原理監修/フェニックス企画編/東京堂出版平成4年 /  https://ja.wikipedia.org/wiki/芥川也寸志 /  肖像画協力:寄川靖宏 様(プロフィール:兵庫県宍粟市出身 1956年生まれ、FBグループ「クラシックを聴こう会」メンバー)

日本の出来事:團伊玖磨 主な作品