芥川也寸志

生没年・出身地・歿地・墓地
芥川也寸志
AKUTAGAWA,Yasushi
Birth place:Tokyo JApan
Date of Birth:12/7/1925
(1925年7月12日東京市滝野川区田端435に生まれる)
(1989年1月31日東京築地、国立がんセンター附属病院で歿)

1.職業

日本の作曲家・指揮者

2.称号

3.家系

3-1.父方の祖父:新原敏三(1850年~1919)
3-2.父方の祖母:新原ふく(敏三の妻・旧姓芥川)(1860年~1902年)
3-3.父方の祖父の後妻・叔母:新原フユ(敏三の後妻・フクの妹)(1862年~1920年)
3-4.父方の養祖父:芥川道章(フクの兄)(1849年~1928年)
3-5.父方の養祖母:芥川 儔(芥川道章の妻トモと読む)(1857年~1937年)
3-6.母方の祖父:塚本善五郎(鈴の夫)(1869年~1904年)
3-7.母方の祖母:塚本 鈴(善五郎の妻・旧姓山本)(1881年~1938年)
3-8.母方の叔父:塚本八洲(善五郎と鈴の長男)(1903年~1944年)
3-9.父:芥川龍之介(新原敬三とふくの長男)(1892年~1927年)
母:芥川 文((善五郎と鈴の長女・旧姓:塚本)(1900~1968)
[家族]
長男:芥川比呂志  (1920年3月30日~1981年10月28日)俳優・演出家
[家族]
長男の妻: 芥川瑠璃子(葛巻家の養女)
次男:芥川多加志  (1922年~1945年4月13日)外語から学徒出陣し、ビルマ(現:ミャンマー)で戦死  
三男:芥川也寸志  (1925年7月12日~1989年1月31日)作曲家
[家族]
最初の妻:芥川沙織=旧姓山田(1948年~1957年協議離婚)声楽・画家
長女:芥川麻実子 (1948年生)タレント
次女:芥川由実子 (1955年生)
後妻:草笛光子=旧姓栗田(1960年5月~1962年5月協議離婚)女優
三番目の妻:芥川真澄(江川)(1970年6月結婚) 
長男:芥川貴之志 (1972年9月生)グラフィックデザイナー・フリーエディター

3-1. 父方の祖父:新原敏三(1850年~1919)
祖父、新原敏三の家は代々庄屋をつとめた由緒ある家であった。先祖は、1608年(慶長10月)11人の庄屋を中心に多数の農民が参加した「山代慶長一揆」が発生したときに参加した。翌1609年(慶長14年)5月28日代官所より一揆の指導的人物である北野孫兵衛に対し、首謀者である庄屋全員を出頭させ先祖も捕縛された。彼らは引地峠の刑場に連行され斬首され、物河土手に裊首された。犠牲となったその中の一人、生見村庄屋:新原神兵衛の子孫である

新原敏三には二人の弟、康太郎(1856年3月6日生まれ)と元三郎(1860年5月3日生まれ)、妹その(1852年4月15日生まれ)がいた。祖父は新原猶吉(1861年12月歿)といった。父は常蔵、母はすゑ(1823年7月20日~1884年10月21日)といった。すゑは夫の常蔵(1862年8月24日歿)が早世し、紅床家の岩蔵(1881年12月11日歿)に再嫁した。敏三のすぐ下の弟康太朗(芥川龍之介の叔父)は、母すゑが再嫁した紅床岩蔵の養子として1862年6月29日6才のときに入籍した。岩蔵は大酒飲みでそのため新原家の土地、屋敷が失われたと伝えられている。末弟の新原元三郎(芥川龍之介の叔父)は、兄より前に上京して東京芝で「山口屋」の屋号で炭屋を営んだ。芥川の養父(芥川道章)の妻(儔〔とも〕)の大叔父は細木香以(藤次郎)、幕末の大通「津藤」でその姪になる。新原元三郎の妻ゑいも細木香以(藤次郎)幕末の大通「津藤」の孫娘である。父の名は桂次郎。えいは1935年(昭和10年)ごろ田端の芥川家で亡くなった。元三郎との間に静男(1898年2月26日)長男が生まれている。敏三の妹その(1852年4月15日は、1882年名越菊蔵と結婚、1891年中津忠五郎と再婚、1905年上田峰蔵と再婚した

1850年(嘉永3年)9月6日新原敏三は、山口県玖珂郡美和町生見一五六四番地(本籍:山口県玖珂郡賀見畑村字生見八十八番地屋敷)に平民の子として生まれた
1862年6月29日、敏三の弟、康太朗は紅床岩蔵の養子として入籍した
1862年8月25日、敏三の弟、元三郎は父常蔵から新原家の家督相続をする
1864年8月、13才の敏三は出奔、太田市之進(総督)、山田顕義、品川弥二郎らが中心となって結成した「御楯隊(隊士230名)」に参加し、駐屯所地の三田尻にいたと思わあれる
1865年(慶応元年)7月、14才の時、長州戦争が起こり長州農村隊「御楯隊」の砲兵隊下士卒として参戦。
1866年(慶応2年)15才の時、長州戦争の芸州口・大野戦に参戦した。この時、幕府軍は厳島の対岸に位置する松が原を出発。6月13日には、彦根藩と与板藩の兵は油見村顕徳寺に陣を置き、その日のうちに彦根軍の500の兵は大竹村の大瀧神社に進み、一部は小瀬川(現在の大和橋付近)に布陣した。また、高田藩は、13日の夜に大野から小方に進み、苦の坂への進撃のために同夜立戸の山に布陣し、一部は与板藩の兵とともに小島新開に陣を置いた。13日夜の10時頃、大竹側から大砲が三発発射されたが、対岸の和木側は静かなままで、誰も陣取っていないといった様子だったと言われている。迎え撃つ長州藩は、岩国兵が主力となり、これに長州藩の部隊である御楯隊・吉敷隊などが加わり、和木村の川岸の竹やぶに陣を敷き、息を凝らして待ち受けていた。「御楯隊(総督山田市之充、副箼品川彌二郎)」260名余に対し幕府軍、和歌山藩、彦根藩あわせての軍勢はその倍を超える規模、大苦戦であったが兵卒の奮戦で何とか持ちこたえたという。尊攘堂史料「御楯隊姓名録」には大林源次こと新原敏三の名が載っている。彼は左足くるぶしに貫通銃創の深手を負う
1868年(慶応4年)1月、17才の時、鳥羽伏見の戦いに参戦
上京する(年不明)
1876年(明治9年)6月、25才の時、千葉県成田三里塚「下総牧羊場」に「雇」として入所(下総御料牧場 下総御料牧場沿革誌 下総御料牧場 に掲載)
1878年(明治11年)9月10日新原家を脱籍されていた敏三は復籍する。10月20日弟元三郎より家督相続した
1880年(明治13年)4月敏三は「下総牧羊場」退職。渋沢栄一、小松 彰、益田 孝が設立した「耕牧舎」箱根仙石原牧場に雇用される
1881年(明治14年)2月26日実弟、元三郎は中津夘助の養子として入籍したが、1885年不縁となる。元三郎は1887年4月6日広実百助の養子として入籍し百助の娘しげと結婚した。元三郎は1892年11月14日しげと離婚して新原家に復籍する。元三郎はのちに上京し細木桂次郎の娘ゑいと結婚した。12月21日、弟の康太朗は紅床家を相続した
1882年(明治15年)敏三32才の時、耕牧舎は東京府北豊島群金杉村56番地に支店を設け管理者として赴任する
1883年(明治16年)東京府京橋区入舟町8丁目1番地にも支店を増設、敏三は両店の管理を任される。製品の牛乳やバター 等の乳製品は、東京築地の外国人居留地で販売した。敏三は、芥川俊清の四女ふくと結婚。東京市京橋区入船町8丁目1番地(現在の中央区明石町10-11)外人居留地の牧場の隣に住む。
1884年(明治17年)金杉店は松村浅次郎に任せ、京橋区入舟町を東京支店と称し、ここを商いの拠点とした
1885年(明治18年)6月21日敏三34才、長女初が生まれる
1887年(明治20年)2月36才の時、東京府豊多摩軍内藤新宿2丁目71番地の元有馬兵庫守と伊沢美作守の屋敷跡7,446坪余の払い下げをうけその一部を耕牧舎の牧場とした 
1888年(明治21年)3月19日敏三37才、二女久が生まれる。「大日本東京乳牛搾取業一覧(牛乳新聞社)」に<西の大関>として「耕牧舎」の名が挙がる
1891年(明治24年)4月5日40才、長女初、突然風邪を引き、病死
1892年(明治25年)3月1日敏三41才、長男龍之介が生まれる。10月25日妻ふくが精神疾患を発病し入院。ふくの発狂後ふくの妹ふゆを家事手伝いに迎える
1893年(明治26年)築地の外人居留地が手狭となり入舟町8丁目まで拡張されることとなったため、ここを引き払い日本の牛乳の祖、前田留吉の土地、芝区新銭座16を購入し、8月頃までに本店を新築して移転した。この頃には事業も発展し、近所だけでも
1日200リットルの牛乳が売れたという。この頃、新宿2丁目に牧場を持ち、日暮里中本、王子西ヶ原に支店牧場を、京橋区長崎町1-11番地に分店を持っていた。耕牧舎は牛乳・バター・クリームなどを扱い手広く商いをしていたようだ。後には築地精養軒、帝国ホテル、李王家などにも牛乳を納めるようになる。耕牧舎は敏三が主になっていたが、事実は渋沢栄一、小松彰、益田孝が設立した「耕牧舎」の持ち物であった
このころ、ふくの妹ふゆが家事手伝いとして新原家に入る
1895年(明28年)同年の搾乳販売業者番付には 勧進元 「北辰社 前田喜代松」、差添人「 耕牧社 新原敏三」の名がある。この頃から明治30年代半ばにかけてが新原の事業の全盛期だと言われている
1899年(明治32年)家事手伝いに出向いている妻の妹ふゆとの間に得二が生まれる
1900年(明治33年)牛乳営業取締規則が出された。東京市内の搾乳業者は1902年(明治35年)7月までに市外に移転しなければならなくなった。新銭座の店では乳牛飼養ができなくなる
1902年(明治35年)敏三の妻ふく、11月28日42才で歿
1904年(明37年)息子龍之介を取り戻そうと訴訟を起こしたが、5月4日東京地方裁判所で判決が確定し長男龍之介は正式に芥川家養子となる。芥川フユが後妻として入籍する
1905年(明治38年)6がつ箱根仙石原の耕牧舎の事業整理に入り、設立者の渋沢栄一、小松彰、益田孝から、耕牧舎の東京各店のうち新銭座と内藤新宿の両店の事業譲渡を敏三が受けた。無利息7年賦で売り渡す契約をし最終期限は1913年(大正2年)2月26日と決める
1909年(明治42年)新宿牧場を娘婿の葛巻義定に管理を任せ、仙石原にいた松村泰次郎を迎え牧夫長とした
1910年(明治43年)巻義定が娘と離婚したため新宿牧場の管理は松村泰次郎一人にかかることになり、事業は不振に陥った。種々試みた新しい事業も失敗に終わり、晩年は心身とも衰え、さらに1914年(大正3年)新宿牧場をまかせていた松村泰次郎の死は新原にとって大きな痛手となった
両国一帯が洪水に見舞われ芥川家は、新原敬三の経営する牧場(東京府下豊多摩軍内藤新宿2丁目7番地)にあった二階家に移り住み、道章は牧場会計の事務の一部を手伝うようになる
1919年(大正8年)新年早々猛威をふるった流感に冒された敏三は3月16日朝、芝愛宕町の東京病院でスペイン風邪のため69才で亡くなった

3-2. 父方の祖母:新原ふく(旧姓芥川)(1860年~1902年)
祖母ふくは、1860年(万延元年)9月8日本所区本所小泉町(現墨田区両国)の士族、父芥川俊清・母ふでの三女として生まれた。小柄で色白く、神経質で、口数が少なく、極めて小心で内気な気質で、何事も口に出すよりは、自分の胸に畳んでいるという性質であった言われている
芥川家は、徳川幕府の御奥坊主を務めた家柄で、奥坊主は幕府の茶事一切を仕切る数寄屋坊主、小納戸坊主のことで将軍への献呈、諸侯の接待、給仕する中奥の役である。御用部屋坊主として代々幕府に仕えていた由緒正しい旧家である
1883年(明治16年)24才の時、新原敏三33才と結婚
1885年(明治18年)3月26日入籍。6月21日長女初出産
1888年(明治21年)3月19日二女久出産(1956年6月29日歿)
1891年(明治24年)4月5日長女初、突然風邪を引き、病死
1892年(明治25年)長男龍之介を出産。10月25日に精神疾患を発病し入院。原因はいろいろ言われているが、形式的とはいえ龍之介を捨て子にしたこと、仲の良かった実兄芥川道徳が死んだこと、前年の長女・初の死を自分の責任として強く感じていること、夫敬三の強引な性格に忍従を強いられたこと、などが重なったことが引き起こすストレス状況が原因と言われている
芥川は、この母の印象について、「点鬼簿」(大正15年)の中で「僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。
(中略)しかし大体僕の母は如何にももの静かな狂人だつた。僕や僕の姉などに画を描いてくれと迫られると、四つ折の半紙に画を描いてくれる。画は墨を使ふばかりではない。僕の姉の水絵の具を行楽の子女の衣服だの草木の花だのになすつてくれる。ただ唯それ等の画中の人物はいづれも狐の顔をしてゐた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない」と記述。実母の発狂は「或阿呆の一生」(昭和2年)でも描かれているが、晩年芥川は自らの精神不安定が、実母の遺伝なのではないかと恐れていたようだ。龍之介が母に会ったのは、生誕の地ではなく芝区新銭座町の家でのことである
芥川の妻・文子によるとフクは「荒々しくなるわけではなく、ただぼんやりと座って」おり、「一室にこもりきりで、ときどき思い出すように、狐の絵ばかり描」いていたという。
1902年(明治35年)11月28日42才で歿

3-3. 父方の祖父の後妻:新原ふゆ(1862年~1920年)
芥川の叔母で、ふくの実妹であり、後に新原敏三の後妻となり、敏三との間に得二を出産。芥川龍之介の異母弟になる
1893年ころ新原の妻が発狂したため、新原家に家事手伝いとして入る
1899年(明治32年)新原敬三との間に得二を生んだ。得二はふくの実子として届けられた
1904年(明治37年)龍之介の養子縁組が成立したのを機に、新原家に入籍する
大正8年敏三がスペイン風邪で没すると、その一周忌の直後の4月に没した。叔母の死去に際し、芥川は恒藤に「去年は親父に死なれ今年は叔母に死なれ僕も大分うき世の苦労を積んだわけだ」と書き送っている
1920年4月腹膜炎で没

3-4. 父方の養祖父:芥川道章(母ふくの兄)(1849年~1928年)
芥川道章は1849年(嘉永2年)1月6日生まれ、1928年(昭和3年)6月27日没。芥川龍之介の養父、龍之介の実母の兄。士族の出身。
1868年(明治元年)20才神奈川府警衛隊所属
1872年(明治5年)東京府役所に出仕編輯係掛となる
1893年(明治26年)内務部第二課長となる
1898年(明治31年5月)東京府役所を退職し恩給年5百円の老後の生活を楽しむようになる
1900年(明治33年3月5日)に設立された株式会社東銀行の出納掛として名が残っている
1910年8月5日(明治43年)ごろから続いた梅雨前線による雨に、11日に日本列島に接近し房総半島をかすめ太平洋上へ抜けた台風と、さらに14日に沼津付近に上陸し甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、関東各地に集中豪雨をもたらした。利根川、荒川、多摩川水系の広範囲にわたって河川が氾濫し各地で堤防が決壊、両国一帯が洪水に見舞われたためもあり、芥川家は新原敬三の経営する牧場(東京府下豊多摩軍内藤新宿2丁目7番地)の隅にあった二階家に移り住み、牧場会計の事務の一部を芥川道章が手伝うようになった
1911年2月(明治44年)芥川家は本所小泉の家を引き払って牧場の隣に移った
1914年(大正3年)10月田端の新居に移転
1928年(昭和3年)6月27日没

3-5. 父方の養祖母:芥川 儔(とも)(1857年~1937年)
芥川の養母。道章の妻。幕末の大通、細木香以の姪。
芥川曰く「昔の話をよく知ってゐた」。瑠璃子は、芝居が好きで、猫を抱きながらラジオを聞くのが好きだった 儔(とも)を記憶している
芥川の親友恒藤恭によると、気立ての優しい、よく気のつく婦人であったという
小島政二郎は、柔和な愛想の良い、小柄で当たりのよい人物であった、と述べている
芥川の芸術文化に造詣の深い要因のひとつに、この 儔(とも)の存在が考えられる

3-6. 母方の祖父:塚本善五郎(1869年~1904年)
塚本善五郎は1869年(明治2年)10月16日東京生まれ、1904年(明治37年)5月15日、日露戦争初期に戦死(35才)
将校科甲種三期首席・塚本善五郎少佐(海兵一七) 最終階級は海軍少佐。正六位勲四等功四級
1890年(明治23年)7月17日海軍兵学校卒業。海軍兵学校17期。席次は入校時53名中6番。卒業時88名中6番。同期に秋山真之、森山慶三郎、山路一善らがいる
秋山真之少尉(愛媛・海兵一七首席・米国駐在・少佐・海大教官・常備艦隊参謀・中佐・連合艦隊参謀・海大教官・「秋津洲」艦長・大佐・「橋立」艦長・「出雲」艦長・第一艦隊参謀長・少将・軍務局長・第二水雷戦隊司令官・中将・待命・死去)は兵学校の同期生で、ライバルだった。
1892年(明治25年)5月、少尉任官
1894年(明治27年)7月、日清戦争に巡洋艦「高雄」航海士として出征
1897年(明治30年)、甲種作業答案として作成した「遠征艦隊編成法」が成績優秀と認められる
1900年(明治33年)海軍大学校将校科乙種2期を優等卒業。専攻は砲術であった。同年5月20日海大将校科甲種3期入学。6月19日義和団の乱により退学。同年12月13日復学
1902年7月8日明治35年)7月海軍大学校(将校科甲種三期)を首席で卒業(少佐)。卒業者数8名。谷口尚真大将、百武三郎大将、田所広海中将、殖田謙吉少佐などが同期である
1904年2月日露戦争に第一艦隊第一戦隊先任参謀として戦艦「初瀬」に乗り組み出征。5月15日午前9時55分、旅順港外閉鎖に従事中の戦艦「初瀬」がロシア海軍の敷設した機雷に触雷。午前11時38分、後部砲塔下付近に再び触雷し「初瀬」は沈没。塚本少佐ら496名が戦死した
塚本善五郎少佐の葬儀に出席した連合艦隊司令長官・東郷平八郎中将は、塚本善五郎少佐の遺児、塚本文子(四歳)を抱き上げたという話が残っている。 また、秋山真之参謀は、文子にピアノを練習するように薦めたといわれている。
遺児・塚本文が海軍機関学校教官・芥川龍之介に嫁いだのは、塚本の死後14年後のことであった。

3-7. 母方の母方の祖母:塚本 鈴(旧姓山本)(1881年~1938年)
塚本善五郎の妻
夫善五郎との間に、文・八洲の二児をもうける。
善五郎は海軍将校で、日露戦争に参戦。軍艦初瀬の参謀をしていて戦死。
夫の没後は、東京の実家山本家に身を寄せた。芥川龍之介の親友、山本喜誉司の姉

3-8. 母方の叔父:塚本八洲(1903年~1944年)
芥川の妻:文の弟。長崎県生まれ。
父善五郎が戦死したため、山本家に家族と身を寄せた。喜誉司の縁で1907年に芥川は文を知るが、同じ頃に八洲とも知り合ったと考えられる。
一高に入学し、将来を期待されたが結核病を患い、没年まで闘病生活を送った。
大正14年に八洲が三度目の喀血をした際には、芥川が下島と塚本家に駆けつけ見舞った。また同年8月28日付書簡では「文子の為にも勉強して早く丈夫におなりなさい」と励ましている。
大正15年に、療養のため鵠沼に移住。この転地が、芥川の鵠沼滞在の契機となった

3-9. 父:芥川龍之介(1892年~1927年)
作家名:芥川 竜之介 Akutagawa, Ryunosuke
(1892年3月1日~1927年7月24日)
芥川龍之介は1892年(明治25年)3月1日東京市京橋区入船町8丁目1番地(現在の中央区明石町10-11)に実父・新原敏三と母フクの長男として生まれた。辰年辰月辰日辰刻にちなんで「龍之介」と命名される。父43歳後厄、母33歳大厄の為、「大厄の子」として、家の向かいの教会に捨てられる。松村浅二郎が拾い育てる。後に日本を代表する小説家となり、号は澄江堂主人 、俳号は我鬼を名乗り多くの作品を残した文豪となる。ハツ、ヒサの二姉があったが、長姉は龍之介誕生前に夭折していた。龍之介が生後八か月ほどの10月25日に、母フクが精神疾患を発病し入院。龍之介は母の実家(本所小泉町15番地(現在の両国3丁目22番11号)の実兄:芥川道章(東京府に勤める役人)の家に預けられた。旧家の士族である芥川家は江戸時代、代々徳川家に仕え雑用、茶の湯を担当したお数寄屋坊主の家である。家では芸術・演芸を愛好し、江戸の文人的趣味が残っていた。道章は俳句や盆栽、三味線の一中節を趣味とした。カナリアを飼っていた時期もある。フクの兄芥川道章と妻の儔のほかに伯母のフキがおり、龍之介の面倒をみた。そこには江戸の文人趣味が横溢した雰囲気があり、龍之介が作家になることも家族全員誰も反対しなかったという。ことに、生涯龍之介のそばに付き添った叔母のフキ(後に父新原敏三と結婚)は熱心に彼を教育し、幼い頃から文字や数字を教え、様々な本を読んで聞かせた。そのような土壌なしには作家芥川龍之介は生まれなかったと言われている。しかし、養家と実家の極端な家風の違いが龍之介を更に引き裂いたともいう。実父新原敬三は盛んに龍之介を自分の家に連れ戻そうとする。しかし、龍之介にとって父は成り上がり者であり、尊敬せざる人物であったらしい。また、実母は発狂して実家の二階に幽閉され会話もままならない。龍之介の顔を見ても、それが我が子と認識出来ない。そのような家に戻る気になれなかったのも無理はないのだが、龍之介は、実家に戻ろうとしなかった最大の理由は叔母フキを愛していたからだと語っている。 戸籍上の正しい名前は「龍之介」であるが、養家である芥川家や府立三中、一高、東京大学関係の名簿類では「龍之助」になっている。彼自身は「龍之助」表記を嫌った

1893(明26年)1才 10月このつき入船町にあった「耕牧舎」本店が、芝区新銭座町一六番に牧場を求めて、新築し移住。龍之介はここを「芝の家」と呼び、芥川家に正式に引き取られた後も交際は絶えなかった

1894(明27年)2才 この頃から歌舞伎などに見につれてゆかれる。芥川家は江戸的伝統を色濃く残した家庭であり、一家そろって芝居に出かけることが多かった

1895(明28年)3才 秋にかけて、芥川家が江戸時代からの古屋を改築する。庭に植えられた蝋梅が特に好きだった

1896(明29年)4才 1月9日午後10時過ぎ、激しい地震が起こる、祖父の代からの女中「てつ」が、分別を失って走り回っていたことを記憶している。地震は九分二三秒続いたらしい

1897(明30年)5才 4月江東尋常小学校付属幼稚園に入園。園は回向院の隣。この頃の夢は海軍将校になることだった

1898(明31年)6才 4月江東尋常小学校(現在の墨田区立両国小学校)に入学。(芥川卒業後、「江東」は「えひがし」と読むようになる。この頃の夢は洋画家志望に変わっていた。女中の「てつ」から怪談を聞かされたり、始終友達にいじめられて泣いていた

1899(明32年)7才 7月11日敏三と叔母フユとの間に異母弟の得二が生まれる。
この頃、宇治紫山(一中節の師範)の息子に英語、漢文などを習う

1900(明33年)8才 5月31日北清事変起こる。広小路(両国)の大平という絵草子屋へ出かけ、北清事変の石版刷の戦争画を一枚ずつ買った

1901(明34年) 9才 この年初めて俳句を作る。「落葉焚いて葉守りの神を見し夜かな」。泉鏡花などの現代小説もこの頃読み始める

1902(明35年)10才 3月この月、同級生らと回覧雑誌『日の出界』を創刊。
「淡水」、「龍雨』などの筆名で寄稿するだけでなく、表紙画やカットも描き、編集も行った。4月江東小学校高等科一年に進学。6月『日の出界』第三篇を発行する。11月28日、実母フクが衰弱のために新原家で死去(享年42)。この年、本に対する関心が高まり、草双紙のほかに「西遊記」、「水滸伝」、滝沢馬琴、近松門左衛門などの江戸文学、尾崎紅葉などの硯友社文学、徳富蘆花も読んでいた

1903(明36年)11才 2月『日の出界』(お伽一束号)を出す。4月20日『日の出界』創刊一周年記念号を出す。
夏、千葉県勝浦の鈴木太郎左衛門方(耕牧舎霊岸島支店にいた者の親戚)に芥川・新原家で訪れる。 この頃から神田の古本屋街や大橋図書館・帝国図書館に通って本を読み漁った

1904年(明治37年) 12才 3月9日新原家で親族会議がなされ、龍之介を新原家の家督相続人から排除し、芥川フユを敏三の後妻とする相談をした。5月4~9日東京地方裁判所民事部法廷において、龍之介が推定家家督相続人排除の判決を受ける。 8月正式に芥川家と養子縁組を結び、養嗣子となった。9月叔母フユが新原家に入籍した

1905(明38年)13才 3月江東尋常小学校高等科三年を修了。在学中は成績優秀で二年で修了することもできたが、養子縁組問題のため、一年延期されていた。 4月東京府立第三中学校(現・都立両国高校)に入学。(校門の中側に碑がある) 。同級生に、西川英次郎、山本喜誉司、二級上に久保田万太郎、三級上に後藤末雄らがいた。担任は卒業まで広瀬雄(英語)

1906(明39年)14才 4月回覧雑誌『流星』を大島敏夫、野口真造らとはじめ、編集発行人となる。 6月流星』を改題して『曙光』第4号を発行。 8月『流星』に「勝浦雑筆」を発表

1907(明40年)15才この年、親友山本喜誉司の縁で初めて塚本 文(当時七才)を知る。文は、山本喜誉司の姪。山本は、文の母鈴の末弟。鈴は、夫であった塚本善五郎の戦死のため実家である山本家に文の弟である八洲と三人で身を寄せていた。同じ頃に八洲とも知り合ったようだ

1908(明41年)16才 12月24日 今学期の成績発表があり、龍之介は一番。中原安太郎が二番、西川が三番、山本は13番。
 
1909(明42年)17才 3月4日姉ヒサが葛巻義定と婚姻届を提出する。8月28日ヒサに長男義敏が生まれる。翌年ヒサが離婚するために、義敏は新原家で育てられ、後、大正12年1月頃からは龍之介が引き取って育てる

1910(明43年)18才 2月三中の『学友会雑誌』第15号に「義仲論」を発表。 3月東京府立第三中学校を卒業する。一番は西川英次郎、芥川は二番「多年成績優等者」の賞状を受ける。4月進学を一高の英文科(一部乙類)に決め、一日10時間もの受験勉強に励む。(4月18日付 山本宛書簡)。6月6日西川英次郎、山本喜誉司と三人で一高に願書を出しに行く。8月5日官報で一高の合格を知る。この年から中学の成績優秀者は無試験入学が実施され、芥川は無試験組の4選に入る。7月~14日親戚の別荘にいた山本を訪ね、静岡方面を旅行する。帰宅途中に山本家へ見舞いへ行くが、孫の身を案じた祖母に怒鳴りつけられて往生していたのを、後の妻・文が記憶している。 9月11日第一高等学校一部乙類(文科)に入学。 同期入学に久米正雄、松岡讓、佐野文夫、菊池寛、井川恭(後の恒藤恭)、土屋文明、渋沢秀雄、成瀬正一、山本有三、一級上に近衛文麿など。10月芥川家は本所小泉町から内藤新宿二丁目(現・新宿区新宿)に転居

1911(明44年)19才 2月1日一高で、大逆事件における政府の処置を攻撃した徳富蘆花の「謀叛論」を聞く。4月1日一週間の試験休暇。成績は5番。5月中旬『枕草子』を愛読。(山本宛書簡)。 9月二年に進級。南寮の中寮三番に入る。。寮で同室には井川恭を含め12名、井川は生涯の親友となる。井川は第一高等学校一覧によると1年から3年まで常に芥川の成績を上回っている。一高は基本的に全寮制を取っていたが、芥川は一年次それに逆らい入寮しなかった。二年ともなるとそうもいかず、入寮。だが、だらしないボヘミアン・ライフに馴染むことができずに、土曜日には帰宅していた。 また、読書量も多く、19世紀末期小説を愛読し、懐疑的・厭世的傾向を助長した。またキリスト教にも興味を示し始める。

1912(明45・大正元年)20才 1月「大川の水」執筆。(発表は大正3年。)。7月30日明治天皇崩御。「大正」改元。9月3年に進級。山宮允に誘われ、アイルランド文学研究会に出席。西条八十、日夏耿之介を知る。 この頃、妖怪趣味がますます高じていく。「ミステリアスな話があったら教えてくれ給へ」(明457/16付井川恭宛)などと友人に書き送り、自ら図書館に通って「怪異」と表題のつくものを読み漁り、家族、友人から聞いた話を整理し『椒図志異』たるノートを作る

1913(大正2年)21才 4月菊池寛が友人の窃盗の罪を被って退学処分になる。菊池はやむなく京都大学への進学を決める。7月第一高等学校を26人中2番で卒業。一番は井川。久米は6番。9月東京帝国大学文科大学英吉利文学科に入学。ちなみに当時、同学科は一学年数人のみしか合格者を出さない難関であった。
親友の恒藤は京大法科、中退した菊池は京大英文科、松岡譲は東大哲学科、久米と成瀬が同じ英文科であった。講義内容に失望し、出席せずに本を読んだり、作家志望の久米などと親交が深まる。10月15日に刊行された斎藤茂吉『赤光』に衝撃を受け、詩歌に対する眼を開けられる

1914(大正3年)22才 2月12日菊池寛、久米正雄、山宮允、松岡譲、成瀬正一、山本有三らと共に、同人誌『新思潮』(第3次)を創刊。 創刊号には「柳川隆之助」の筆名でアナトール・フランスの「バルタザアル」、イエーツの「春の心臓」の和訳を寄稿、五月号に処女作、小説「老年」を発表。作家活動の始まる。4月1日『心の花』に「大川の水」を発表。4日短歌11首の掲載を佐佐木信綱に依頼。5月この頃、吉田弥生への恋心が芽生え始める。井川恭には「僕の心には時々恋が芽生える」と書き送り、久米や山宮と共に弥生の家を訪れていたという。7月20日~8月23日友人の堀内利器の紹介で、彼の故郷千葉県一の宮海岸へ行き一ヶ月間ほど滞在。読書や創作、海水浴を楽しみ、初恋の相手吉田弥生には二度手紙を送っている。9月1日戯曲形式の「青年と死と」を『新思潮』に発表。10月に『新思潮』が廃刊に至るまでに同誌上にこの頃、青山女学院英文科卒の吉田弥生という女性と親しくなり、結婚を考える。 これで『新思潮』は終刊となる。帝大英文科二年に進学。10月末新宿から豊島郡滝野川町字田端四三五番地に家を新築し、転居。12月末弥生にラブレターを出す

1915(大正4年)23才 2月弥生との結婚を家族に反対され、断念する。28日井川に初恋と破恋の経緯を記した手紙を送る。「ある女を昔から知っていた。(中略)僕は求婚しやうと思った。(中略)烈しい反対をうけた。」3月9日井川宛に手紙を書く。「イゴイズムをはなれた愛があるかどうか(中略)僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑ふ(僕自身にも)」。4月1日『帝国文学』に「ひょっとこ」を発表。23日山本宛に手紙を書く。「如何にイゴイズムを離れた愛が存在しないか(中略)短い時の間にまざへと私の心に刻まれてしまひました。」。月末、弥生の結婚式の前日に中渋谷の斎田屋で最後の会見をする。
5月弥生への想いが薄れ始め、落ち着きを取り戻していく。中旬 弥生とその相手、金田一光男(陸軍将校)の婚姻が届けられる。7月 体調を崩す。関口安義氏によると、失恋のショックによる吉原通いの影響とされる。8月初旬 第四次『新思潮』刊行資金工面のため、ロマン・ロラン「トルストイ伝」を成瀬、久米、松岡、菊池らと分担して翻訳することを決める。約150枚を引き受けた。3日~22日「仙人」を脱稿。9月塚本文子への恋情を感じ始める。1日付で山本に「正直な所時々文子女史の事を考へる」と送る。11月1日失恋の痛手を癒すことをかねて井川の故郷松江へ滞在する。18日帝大英文科三年に進級。この「羅生門」を脱稿。21日雑誌『帝国文学』に代表作の1つとなる「羅生門」を芥川龍之介」名で発表。12月13日漱石門下だった仏文科の林原耕三に伴われ、久米と共に初めて漱石山房を訪ねる。内田百聞、鈴木三重吉、小宮豊隆らを知る。以後木曜会に出席し漱石の門下生となる。
山本に文子への想いを漏らす。 塚本文子を結婚相手としてはっきりと意識する。山本宛書簡に「僕自身僕の行為(この場合は結婚)に責任をもつやうに文ちやん自身もその行為に責任をもち得る程意志を自覚してほしい」とある

1916年(大正5年)24才 1月20日「鼻」を脱稿。下旬、芥川家で文のことが話題に上がるようになる。2月15日付山本宛書簡に「僕のうちでは時々文子さんの噂が出る」とある。19日第四次『新思潮』(メンバーは菊池、久米のほか松岡譲、成瀬正一ら五人)を創刊し、「鼻」を発表。中旬、漱石より「鼻」を激賞する手紙を貰い、大いに自信を得る。4月1日フユ、フキと共に文に会い、ふたりが文に好意を持った事から結婚話が本格的になる。15日付井川宛書簡に「二人ともgood opinionを持つてかへつて来たらしい」とある。月末『新思潮』二号に「孤独地獄」を発表。5月1日卒業論文「ウイリアム・モリス研究」を書き上げる。8月『新思潮』三号に「父」を発表。6月1日『希望』に「虱」を発表。*初めての原稿依頼で三円六〇銭(一二枚)を手にした。下旬、姉ヒサと西川豊(弁護士)の婚姻が届けられる。6月10日岩野泡鳴を中心する「十日会」の例会で広津和郎(小説家・評論家)に紹介を頼み、歌人で夫のいる秀しげ子と出会う。二人の関係はすぐに文壇の中で周知の事実となる。7月10日『新思潮』四号に「酒虫」を発表。18日文との結婚が正式に両家の間で約束される。23日付井川宛書簡に「文子は愈貰ふ事になつた」とある。8月1日東京帝国大学文科大学英吉利文学科を卒業。成績は20人中2番。1番は豊田実。16日「野呂松人形」を脱稿。17日『新小説』の依頼に対し、「芋粥」を考える。25日「仙人」を『新思潮』に、「野呂松人形」を『人文』に発表。28日「芋粥」脱稿。9月1~2日千葉県一の宮館に久米と共に滞在。20日文に求婚の手紙を書く。「理由は一つしかありません 僕は 文ちやんが好きです」とある。10月1日漱石に手紙を書く。16日「今日は、我々のボヘミアンライフを、少し御紹介致します」とある。21日『新小説』に「芋粥」を発表。文壇デビュー第一作である。11月1日「猿」、「創作」を『新思潮』に発表。23日「手巾」を脱稿。)。12月、海軍機関学校英語教官を長く勤めた浅野和三郎が新宗教「大本(当時は皇道大本)」に入信するため辞職する。そこで畔柳芥舟や市河三喜ら英文学者が浅野の後任に芥川を推薦(内田百間によれば夏目漱石の口添えがあったとも)、芥川は海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として教鞭を執った。そのかたわら創作に励んだ。
「手巾」を『中央公論』に発表。
「煙管」を脱稿。
「煙草と悪魔」を脱稿。
「煙管」を『新小説』に、「煙草と悪魔」を『新思潮』に発表。新進作家としての地位を固める。
「MENSURA ZOILI」を脱稿。
この月、井川が恒藤雅子と結婚し、恒藤と改姓

1917年(大正6年)25才 5月初の短編集『羅生門』を刊行する。その後も短編作品を次々に発表し、11月には早くも第二短編集『煙草と悪魔』を発刊

1918年(大正7年)26才 の秋、懇意にしていた小島政二郎(『三田文学』同人)と澤木四方吉(『三田文学』主幹で西洋美術史家)の斡旋で慶應義塾大学文学部への就職の話があり、履歴書まで出したが、実現をみなかった

1919年(大正8年)27才 3月12日友人の山本喜誉司の姉の娘、塚本文と結婚。海軍機関学校の教職を辞して大阪毎日新聞社に入社(新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない)創作に専念する。ちなみに師の漱石も1907年(明治40年)、同じように朝日新聞社に入社している。6月から9月にかけて秀しげ子と二度密会をしたと噂されていた

1920年(大正9年)28才 3月30日、長男芥川比呂志、誕生

1921年(大正10年)29才 2月、横須賀海軍大学校を退職し、菊池寛とともに大阪毎日の客外社員となり、鎌倉から東京府北豊島郡滝野川町に戻る。同年5月には菊池と共に長崎旅行を行い、友人の日本画家近藤浩一路から永見徳太郎を紹介されている。 密会相手の秀しげ子に男児が生まれ芥川に似ていると噂された。海外視察員として中国を訪れ、北京を訪れた折には胡適に会っている。胡適と検閲の問題などについて語り合いなどを行い、7月帰国。「上海遊記」以下の紀行文を著した。 この旅行後から次第に心身が衰え始め、神経衰弱、腸カタルなどを病む

1922年(大正11年)30才 11月8日、次男芥川多加志、誕生

1923年(大正12年)31才 湯河原町へ湯治に赴いている。作品数は減ってゆくが、この頃からいわゆる「保吉もの」など私小説的な傾向の作品が現れ、この流れは晩年の「歯車」「河童」などへと繋がっていく。 9月1日に関東大震災が発生し、各地で自警団が形成された。芥川も町会(田端)の自警団に、世間体もあるので病身を押して参加した。随筆「大震雑記」やアフォリズム「或自警団員の言葉」に自警が言及される。また震災後の吉原遊廓付近へ芥川と一緒に死骸を見物しに出かけた川端康成によると、芥川は悲惨な光景の中を快活に飛ぶように歩いていたという

1924年(大正十三年)32才 1月、「一塊の土」を『新潮』に、「三右衛門の罪」を「改造」に、「或敵討の話」を『サンデー毎日』に、それぞれ発表する。
4月、千葉県八街に紛擾史実地調査のため赴く(この紛擾を扱った「美しい村」を書いたが、未完に終わった)。
5月15日~22日頃、金沢の室生犀星のところへ旅行をする。5月、玄文社から龍之介の王朝物作品を集めた「泥七宝」を刊行する計画が上がったが、玄文社が倒産したため、未遂で終わった。6月10日、全国教育者協議会の講演(論題は「明日の道徳」)を、東京高等師範学校付属小学校(現在の筑波大学付属小学校)にて行う。7月、第七短編集「黄雀風」を新潮社から刊行する。
7月~翌年3月「The Modern Series of English Literature」全七巻を編集する。7月22日~8月下旬、避暑と仕事を兼ねて、軽井沢つるや旅館に滞在する。室生犀星と同宿。軽井沢では、谷崎潤一郎、堀辰雄、山本有三と交友した。また、龍之介より14歳年上の松村みね子(本名:片山広子)と出会い、彼女の文学的才能に惹かれていった。後に「越し人」「相聞」などの抒情詩を作り、深入りする前に脱却した。9月、随筆集「百艸」を新潮社から刊行する。
10月、「報恩記」を而立社から刊行する。叔父(道章の弟)竹内顕二が亡くなる。義弟(妻・文の弟)塚本八洲が喀血をする。これらの出来事が重なったこともあり、龍之介の健康状態は次第に衰弱していく。また、この年の10月から年明けまで、一編も小説を発表しなかった。12月、庭に書斎を増築する。

1925年(大正14年)33才 7月12日、三男芥川也寸志、誕生。文化学院文学部講師に就任。1月、「大導寺信輔の半生」中央公論」に、「馬の脚」を「新潮」に、「早春」を大阪毎日新聞に発表する。2月、萩原朔太郎が田端に引っ越してくる。朔太郎は三ヶ月ほどで田端を去ったが、龍之介と朔太郎の友情は生涯続いた。3月、小山内薫・久保田万太郎・里見とん・谷崎潤一郎・水上瀧太郎とともに「泉鏡花全集」の編纂に携わる。龍之介はその宣伝のため、「鏡花全集の特色」「鏡花全集」「目録開口」を書いた。4月中旬~5月6日、修善寺温泉・新井旅館に滞在する。この時、泉鏡花夫妻に会った。「現代小説全集」の第一巻として「芥川龍之介集」を新潮社より刊行する。7月12日、三男・也寸志が誕生した。命名の由来は恒藤恭の恭を訓読みにし、万葉仮名を当てた。この也寸志は後に音楽家となった。この頃友人に「体は暑さ寒さに応え易くなり大いに憮然」と手紙に書いて送っている。8月下旬~9月中旬、軽井沢つるや旅館に滞在する。
9月初旬、風邪を引いて、一週間床に就いた。10月、興文社の依頼により、「近代日本文芸読本」全五巻の編纂に携わる(大正12年9月に興文社より依頼を受け、2年掛かりで完成させてものであった)。龍之介はこの編纂に凝っており、明治期からの作家約450人の作品を収録したが、売れ行きは芳しくなく、無断収録や印税問題、それにまつわるデマなどでかなり神経を悩まされた。11月、紀行集「支那游記」を改造社から刊行する。この頃、俳句や詩にも興味を持った。健康はますます悪化していった。

1926年(大正15年)34才 1月、「湖南の扇」を「中央公論」に「年末の一日」を「新潮」に発表する。1月15日~2月19日、胃腸病、神経衰弱、不眠症、痔疾などの併発に伴い、湯河原中西旅館に滞在する(「書きたきものも病弱のため書けず、苦しきことは病弱の為一さう苦しみ多し」と書いた手紙を斎藤茂吉に送っている)。一方、妻・文は自身の弟・塚本八洲の療養のため鵠沼の実家別荘に移住。「地獄変」「或日の大石内蔵助」を「文藝春秋」出版部から刊行する。2月22日、龍之介も鵠沼の旅館東屋に滞在して妻子を呼び寄せる。3月5日、室賀文武から聖書を受け取る。4月23日~翌年1月2日、静養のため、鵠沼の東屋旅館に、文・也寸志とともに滞在する。改造社より印税を200円前借りしての鵠沼滞在であった。だが、ひっきりなしに訪れる来客や、周りのうるさく騒いでいる音、ピアノの音などに落ち着かず、睡眠薬の量は増すばかりだった。7月20日には、斎藤茂吉の勧めもあり、東屋の貸別荘「イ-4号」を借り、妻・文、三男・也寸志と住む。夏休みに入り、比呂志、多加志も来る。6月、「点鬼簿」の<父、母、僕>を書き上げる。この作品を書いているとき、額から汗を流し、一行も筆が進まない状態で、苦しみながら書いていた。7月下旬、親友の画家小穴隆一も隣接する「イ-2号」を借りて住む。この間、小品「家を借りてから」「鵠沼雑記」、さらに「点鬼簿」を脱稿。堀辰雄、宇野浩二、小沢碧童らの訪問を受ける。また、鵠沼の開業医、富士山(ふじ たかし)に通院する。9月、『点鬼簿』の<僕>を廃棄して、<姉>を加筆したが、加筆分数枚を書き上げるのに何日も掛かり、「前途暗澹の感」を抱いた。9月20日、龍之介、文、也寸志は「イ-4号」の西側にあった「柴さんの二階家」を年末まで借りて移る。ここで鵠沼を舞台にした小品「悠々荘」を脱稿。これは、震災前に岸田劉生が住み、震災後建て直されて国木田虎雄(国木田独歩の息子で詩人)が借りていた貸別荘を視察した時の経験がヒントのようで、龍之介一家が鵠沼に永住する意図があったとも考えられる。10月、「点鬼簿」を「改造」に発表する。この頃、「鵠沼雑記」を書く。「鵠沼雑記」は遺稿となった。また、この間、斎藤茂吉、土屋文明、恒藤恭、川端康成、菊池寛らの訪問を受けている。12月、随筆集「梅・馬・鶯」を新潮社より刊行。この頃の龍之介は、アヘンエキス、ホミカ、ベロナール、下剤などの薬を食って生きているような状態だった。元号が昭和に替わってから、妻子は田端に戻り、龍之介は「イ-4号」に戻った。甥の葛巻義敏と鎌倉で年越しをしてから田端に戻るが、鵠沼の家は4月まで借りており、時折訪れている

1927年(昭和2年)35才 1月2日、田端の実家に帰る。1月4日、義兄(姉・ヒサの夫)、西川豊の家が全焼する。西川は元弁護士であり、この当時は偽証教唆によって失権しており、高利の金を借りていた。このため、時価7000円の家に3万円の火災保険が掛けられていた。二階の押入れからアルコール瓶が発見され、西川に放火の嫌疑が掛けられていた。1月6日、西川豊が、千葉県山武郡の土気トンネル付近にて鉄道自殺をする。このため龍之介はその後始末と、西川が遺した莫大な借金の返済、家族の面倒などの扶養家族の増加などに苦しむこととなった。2月、帝国ホテルに投宿し、「河童」を執筆する。2月19日、歌舞伎座で催された、改造社の観劇会に出席する。2月27日~28日、改造社の「現代日本文学全集」宣伝のため、佐藤春夫とともに、佐藤春夫とともに、大阪へ講演旅行をする。芦屋の谷崎潤一郎邸で一泊。3月28日、”この頃又半透明なる歯車あまた右の目の視野に回転する事あり、或いは尊台の病院の中に半生を了ることと相成るべき乎。唯今の小生に欲しきものは、第一に動物的エネルギイ、第二に動物的エネルギイ、第さんに動物的エネルギイのみ”と書いた手紙を斎藤茂吉に送っている。4月より「物語の面白さ」を主張する谷崎潤一郎に対して、「文芸的な、余りに文芸的な」で「物語の面白さ」が小説の質を決めないと反論し、戦後の物語批判的な文壇のメインストリームを予想する文学史上有名な論争を繰り広げる。この中で芥川は、「話らしい話の無い」純粋な小説の名手として志賀直哉を称揚した。4月7日、芥川の秘書を勤めていた平松麻素子(父は平松福三郎・大本信者)と帝国ホテルで心中未遂事件を起こしている。 『改造』誌上での「文芸的な、余りに文芸的な」をもって、谷崎潤一郎との文芸論争を繰り広げた。4月16日、菊池寛宛の遺書を書く(この頃からひそかに、知人への告別を行っていた)。5月、「たね子の憂鬱」を『新潮』に、「本所両国」を「東京日日新聞」に、「今昔物語について」を新潮社の「日本文学講座」にてそれぞれ発表する。5月13~22日日、改造社の「現代日本文学全集」宣伝のため、里見とんとともに講演旅行をする(10日間で仙台・盛岡・函館・札幌・旭川・小樽を巡る、当時としてはかなりのハードスケジュールだった)。5月24日、単身で旧制新潟大学での講演。龍之介にとっては人生最後の講演となった。演題は『ポオの一面』。5月末、宇野浩二が発狂する。龍之介は、宇野の親友・広津和郎らとともに、宇野の面倒を看た。宇野の発狂は、龍之介にとってショックが大きかった。6月、第八短編集「湖南の扇」を文藝春秋社から刊行する。6月20日、「或阿呆の一生」を脱稿する(この作品は遺稿となり、龍之介死後の昭和2年10月、「改造」にて発表された)。7月20日、8月に行われる予定だった、民衆夏季大学の講師依頼に対して「ユク アクタガハ」と電報を打つ。7月21日、宇野浩二の留守宅を訪ねる(宇野を見舞うとともに、家族の生活費のことなどについて話し合った)。7月23日、『続西方の人』を書き上げ、夜半に「自嘲 水洟や 鼻の先だけ 暮れ残る」の短冊を翌朝下島に渡してくれるよう、フキに依頼した。7月24日未明、「続西方の人」を書き上げた後、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。服用した薬には異説があり、例えば、山崎光夫は、芥川の主治医だった下島勲の日記などから青酸カリによる服毒自殺説を主張している。同日朝、文夫人が「お父さん、良かったですね」と彼に語りかけたという話もある。枕元には「聖書」が置かれており、妻や子らに宛てた遺書があった。龍之介は文宛ての遺書に、師の夏目漱石と同じ岩波書店から自分の全集を出して欲しいと書いている。急を聞いて、下島勲、小穴隆一らが駆けつけてきたが、午前七時過ぎに死の告知が行われ、枕元で小穴がデスマスクを描いた。
7月24日夜、家族・友人らによって通夜が行われた。
7月27日、谷中斎場にて葬儀が行われた。先輩総代・泉鏡花、友人総代・菊池寛、文芸家協会代表・里見とん、後輩代表・小島政二郎が弔辞を述べた。
7月28日、日暮里火葬場にて骨上げが行われた。遺骨は染井の慈眼寺境内に葬られた。墓は意志に従って、平素用いていたビロードの唐ちりめんの座布団をかたどり、「芥川龍之介墓」と刻まれた清楚なもの。石碑の字は小穴隆一の筆による。
命日は、龍之介が愛し、作品にも描かれた河童から、『河童忌』と呼ばれている。
11月~昭和4年2月完結、「芥川龍之介全集」全八巻が岩波書店から刊行され始めた。
12月、随筆集「侏儒の言葉」が文藝春秋社から刊行された。
戒名は懿文院龍之介日崇居士。墓所は、東京都豊島区巣鴨の慈眼寺

自殺に関して
1927年(昭和2年)7月24日、田端の自室で芥川龍之介は服毒自殺。死の数日前に芥川を訪ねた、同じ漱石門下で親友の内田百閒によれば、芥川はその時点でもう大量の睡眠薬でべろべろになっており、起きたと思ったらまた眠っているという状態だったという。久米正雄に宛てたとされる遺書「或旧友へ送る手記の中では自殺の手段や場所について具体的に書かれ、「僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。(中略)僕は内心自殺することに定め、あらゆる機会を利用してこの薬品(バルビツール酸系ヴェロナール (Veronal) 及びジャール)を手に入れようとした」エンペドクレスの伝記にも言及し「みずからを神としたい欲望」についても記している。
遺書として、妻・文に宛てた手紙、菊池寛、小穴隆一に宛てた手紙がある。芥川が自殺の動機として記した”僕の将来に対する唯ぼんやりした不安”との言葉は、今日一般的にも有名である。死の直前である7月初め、菊池寛に会うため2度文藝春秋社を訪れているが会うことができなかった。社員が菊池に芥川が訪れたことを報告せず、生前に菊池が芥川を訪ねることもなかった。 死の前日、芥川は近所に住む室生犀星を訪ねたが、犀星は雑誌の取材のため上野に出かけており、留守であった。犀星は後年まで「もし私が外出しなかったら、芥川君の話を聞き、自殺を思いとどまらせたかった」と、悔やんでいたという。また、死の直前に「橋の上ゆ胡瓜なくれは水ひひきすなはち見ゆる禿の頭」と河童に関する作を残した。
死の8年後、親友で文藝春秋社主の菊池寛が、芥川の名を冠した新人文学賞「芥川龍之介賞」を設けた。芥川賞は日本で最も有名な文学賞として現在まで続いている。

菊池寛による弔辞
菊池寛は第一高等学校での同級生以来の付き合いであり、友人総代として弔辞を読んでいる。
「 芥川龍之介君よ 君が自ら擇み 自ら決したる死について 我等 何をか云はんやたゞ我等は 君が死面に 平和なる微光の漂へるを見て 甚だ安心したり友よ 安らかに眠れ 君が夫人 賢なれば よく遺兒を養ふに堪ふるべく 我等 亦 微力を致して 君が眠の いやが上に安らかならん事に努むべし
たゞ悲しきは 君去りて 我等が身辺 とみに蕭篠たるを如何せん   友人總代 菊池寛 」
なお、芥川の死について、菊池寛は「芥川の事ども」という文章を残している

河童忌
芥川の命日・7月24日は河童忌と呼ばれる。当初は遺族と生前親交のあった文学者たちが集まる法要だったが、1930年(昭和5年)の四回忌から「河童忌記念帖」として文藝春秋誌上で紹介され、この呼び名が定着した。以後17回忌まで毎年行われていたが、戦争のため中断する。戦後、再開されたが詳しい記録は残っていない
1976年(昭和51年)の50回忌は巣鴨の慈眼寺で墓前祭、丸の内の東京会館で偲ぶ会が催された。この日は第75回芥川賞の贈呈式で、受賞した村上龍も花を手向けにきた。没後90年にあたる2017年(平成29年)からは田端文士村記念館が世話役となり、「河童忌」イベントを開催している

記念館
芥川はいわゆる田端文士村の一員であった。地元の東京都北区は、芥川旧居跡地の一部を購入し「芥川龍之介記念館」(仮称)を2023年に開館する計画を2018年6月に発表した

《 著作 》
10才同級生らと回覧雑誌『日の出界』を創刊。14才回覧雑誌『流星』に「勝浦雑筆」。18才三中の『学友会雑誌』に「義仲論」。20才「大川の水」。22才処女作「老年」。23才「羅生門」。24才「鼻」「芋粥」。25才「戯作三昧」。26才「地獄変」。「藪の中」「河童」「歯車」ほか

[家族]
母:芥川 文(旧姓:塚本)(1900~1968)
塚本 文は父の善五郎が戦死後、母の実家の山本家で過ごした。若いころはヴァイオリンをちょっと習ったらしく、山田流の琴を先生について習っていたと語っている。このとき、塚本 文の母:鈴の末弟、山本喜誉司を通じて芥川龍之介と知り合う。当時、文は7才、芥川は15才。文は跡見女学校在学中に18才で結婚した。芥川は27才だった
1900年7月8日東京府(現東京都)生まれ
1968年9月11日調布市入間町の三男・也寸志邸にて心筋梗塞のため歿
海軍少佐・塚本善五郎の娘。1904年5月15日、旅順港近海で戦艦「初瀬」に第一艦隊第一戦隊先任参謀として乗艦していた父が「初瀬」沈没時に戦死。葬儀に参加した東郷平八郎連合艦隊司令長官は文を抱き上げ、秋山真之参謀はピアノを練習するよう薦めた[1]。一家の大黒柱を失った母は、実家である山本家に寄寓する。このとき、母の末弟・山本喜誉司の東京府立第三中学校以来の親友・芥川龍之介と知り合う
1916年12月、龍之介と縁談契約書を交わす
1919年2月、跡見女学校在学中に龍之介と結婚する。龍之介の海軍機関学校赴任に伴い、鎌倉市で新婚生活を送る。
1927年7月24日、龍之介が服毒自殺する。
1941年、三男・也寸志が東京音楽学校予科作曲部を目指して音楽の勉強を始めた時は、也寸志のために自らのダイヤの指環を売り払ってピアノの購入費に充てた。
1945年4月13日、学徒兵として出征していた次男・多加志がビルマのヤメセン地区で戦死する。
1968年9月11日、調布市入間町の三男・也寸志邸にて心筋梗塞のため死去した。
長男:芥川比呂志  (1920年3月30日~1981年10月28日)俳優・演出家(
次男:芥川多加志  (1922年~1945年4月13日)外語から学徒出陣し、ビルマ(現:ミャンマー)で戦死
三男:芥川也寸志  (1925年7月12日~1989年1月31日)作曲家
子供の名前は、それぞれ親友の菊池寛の「寛」(比呂志)、小穴隆一の「隆」(多加志)、恒藤恭の「恭」(也寸志)をもらって漢字を替えて名づけた

4.芥川也寸志

芥川也寸志(1925年7月12日~1989年1月31日)

1925年(大正14年)7月12日、芥川也寸志は、芥川龍之介と塚本善五郎(海軍軍人)の娘文との間に芥川家の三男として東京市滝野川区(現・北区)田端435に生まれた。二人の兄比呂志(1920-1981)と多加志(1922-1945)がいた

1926年7月20日 東屋近くの貸家「イ-4号(鵠沼海岸2-7-2」に転居

1927年(昭和2年)2才 4月2日 鵠沼を去り、田端に転居。7月24日、父・龍之介自殺(35歳)

1930年(昭和5年)5才 4月、聖学院幼稚園入園。この頃兄たちと父の書斎にあったストラヴィンスキーのレコードを聴いて遊ぶ 『 父の書斎に関して明るい思い出があります。それはヴィクトローラの手回し式蓄音機と何枚かのレコードがこの室に置かれていたことです。三人兄弟のうち、すぐ上の兄多加志が毎日このレコードをかけていました。~省略~私はいつも三つ違いの兄、多加志のそばを離れませんでしたので、自然にこのレコードにもなじんでいったのでした。~略~大部分を占めていたのがストラヴィンスキーの作品であったのです。コロムビア盤の自演の ”ペトルウシュカ”、ドイツ・ポリドールのこれも自演の ”火の鳥” この二曲が枚数からいえば大部分を占め、あとはブルンスヴィック盤でリヒャルト・シュトラウスの”サロメの踊り”が一枚、コロムビア盤でモーツァルトの”魔笛序曲”が一枚、それにブルンスヴィック盤で誰が弾いていたのか思い出せませんが、ショパンの”ノクターン”が一枚、それで全部でした 』と芥川也寸志は語っている(1)。『幼稚園への行き帰りなどに、ペトルウシュカの ”熊の踊り” や、火の鳥の ”子守歌” のメロディーなどを、声高く歌っていたのを覚えています』と芥川也寸志は語っている(3)、『ぼくが幼稚園に行くころ「キンダーブック」というのがあったでしょう。あれに詩や童話みたいな短いことばがついていましたね。ああいうのにすぐ即興で旋律をつけて歌うのは得意だったんですよ』(と芥川也寸志は語っている2)
(1)(3)『』内:「自伝抄Ⅱ」読売新聞社発行P245~246から引用
(2)『』内:「芥川也寸志」その芸術と行動芥川也寸志、芥川也寸志を語る ―未公開対談・・きき手・秋山邦晴 東京新聞出版局P0~41頁

1932年(昭和7年) 6才 4月、東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)入学 。『小学校に入って、~省略~一番最初にそういう音楽らしい音楽を聴かせてくれたのは、「月光の曲」だったと思うんです。それを聴いたときの印象は非常によく覚えているから、多分それが最初だったと思うんです。それで「月の光」というのは、こういうふうに見るべきものかなと、子供心に思ったんですよ三連音符でしょう。三つづつ「かたまって・・。そういうふうに感じるものかなというふうに思ったんですよ。そういうことよりまず、あまり簡単なんでびっくり仰天したわけですよね』と芥川也寸志は語っている(1)。
(1)『』内:「芥川也寸志」その芸術と行動芥川也寸志、芥川也寸志を語る― 未公開対談・・きき手・秋山邦晴 東京新聞出版局39頁

1935年(昭和10年)9才 『上野の東京音楽学校には児童科というのがあったんですがね。ぼくは小児科と悪口いっていたんですけど、それが小学校の四年生で入れるんです。ぼくは小学校の四年生でお袋にそこに入りたいとアッピールするぐらい音楽がやりたかった。~省略~行きたいよ、行きたいよ、といったらしい。お袋は非常に迷った。~省略~井上武士先生のところへ相談に行った。お袋としては非常に心配だったのはわかるんですよ。音楽家で食っていけるのかと、将来のことが非常に心配だったんでしょう。そのときに井上先生は”才能があればおそく始めたって大丈夫だ。才能がなかったら、早く始めたって絶対だめだ”明言を吐いたらしい。名言だけれど、ぼくにしてはそれが非常に残念だ 』と芥川也寸志は語っている(1)
(1)『』内:「芥川也寸志」その芸術と行動芥川也寸志、芥川也寸志を語る― 未公開対談・・きき手・秋山邦晴 東京新聞出版局 40~41頁

1936年(昭和11年) 11才 少年倶楽部を読んで通信販売のヴァイオリンを買ってもらい自己流で弾いたり、五線紙を買ってもらって自己流の作曲をした

1938年(昭和13年)13才 東京高等師範学校附属中学校入学

1941年(昭和16年)16才 『私が正式に音楽の勉強を始めようと思ったのは、東京高等師範附属中学校4年生のはじめごろで、クラスでは最も晩学でありました。~略~そのころはどこの中学校も、高等学校の入試に備えて、生徒が四年生位になると全員を文科志望者と理科志望者とに分けて、それぞれ特別な授業を行っておりました。私が音楽の道を歩むようになった直接の動機は、この受験のためのクラス分けだったのです。ある日、担任の先生が~略~前の方から一人ずつ指名しながら、文科へ行きたいのか、理科志望なのかをきき始めました。私はそれまで音楽が大好きでしたが、正式に勉強する機会に恵まれず、さりとて将来への道をつきつめて考えるいうところまでには、至っておりませんでしたので、この時ばかりはいささかあわてざるを得ませんでした。~略~そして少し気の動転していた私は、思わずオンガク、と言ってしまったのです』と芥川也寸志は語っている(1)。『 学校から連絡あり、母もやっと私を音楽家にする決心をしたようです。遠いつてを頼って、東京音楽学校の作曲家主任教授をされていた、橋本国彦先生のお宅に伺いました』と芥川也寸志は語っている(2)。橋本國彦に個人的に師事。橋本の紹介で井口基成に師事してピアノを初歩から学ぶ。『四年修了で受けるべく学校は休んだ。担任の先生は実に理解のある石橋幸太郎という有名な英語の教育家~省略~当時、軍事教練万能の軍国主義下の中学校で、音楽のために学校に行かなくてもいいなんていうのはおそらくない。とにかくピアノばかり弾いていたんです。それであまりやり過ぎて肋膜炎になってだめになっちゃたんです。~省略~こうして中学四年で受験するのをあきらめて、もう一年、井口先生と橋本先生について勉強して、そして五十何人中最下位で入学したんです。ピアノはシューベルトのピアノ・ソナタ変ホ長調の三番か五番』と芥川也寸志は語っている(3)
(1)(2)『』内:「自伝抄Ⅱ 歌の旅」 芥川也寸志 著作 読売新聞社発行 243~249頁
(3)『』内:「芥川也寸志」その芸術と行動芥川也寸志、芥川也寸志を語る― 未公開対談・・きき手・秋山邦晴 東京新聞出版局 43頁

1943年(昭和18年) 18才 4月、東京音楽学校予科作曲部入学し、ヘルムート・ヘルマン、細川碧、橋本国彦、下総皖一に作曲法を習う。『やっと新しい学校生活に馴れかかったそんなある日、突然、私は乗杉校長に呼び出されたのです。それは全くショッキングな出来事でした。~省略~おそるおそるあゆみよると、乗杉校長は机の上においてあった大きな一覧表のようなものを、ぐるっと私の方に向きを変えてこうおっしゃったのです。”お前は大芸術家の倅だ” すこし”大”のところを強調してこうおっしゃると”な?”私は今と同様、父を尊敬しておりましたから、”ハイ”というと、今度はもっと大きな声で、”ビリ!”はっと思ってその表を見ると、何とそれは受験者全員の成績一覧表でした。校長の皺だらけの手がさっとのびってきて、横に一本引いてある赤線のところを指さしました~略~自分が何故、校長の前に立たされているのか、校長が私に何を言いたいのか、大体の事情が分かってきました。私は栄ある東京音楽学校に一番ビリで入学し、私の次の成績の者は落ちているのです。~略~校長はそれっきり何もおっしゃらないので、私も黙って頭を下げました』と芥川也寸志は語っている(1)
(1)『』内:「自伝抄Ⅱ 歌の旅」 芥川也寸志 著作 読売新聞社発行 242~243頁 同249頁

1944年(昭和19年)19才 東京音楽学校本科作曲部に進学。橋本國彦に近代和声学と管弦楽法、下総皖一と細川碧に対位法を、永井進にピアノを師事して学ぶ。 『ある日、学校に行ったら貼札が出ているんです。どうせ男子生徒は徴兵されるのだから戸山学校陸軍軍楽隊に志願したらどうか、と掲示されていた。学校で取りまとめて提出する。早速みんなで相談して、結局ぼくは行くことにしたんです。50何人受けて、21人入った。音楽学校の生徒で入隊したのはピアニストの梶原完、ヴァイオリンの北爪規世、声楽の石津憲一、それに作曲の團伊玖磨、斉藤高順、奥村一‥‥のちにポピュラーで活躍した人たちはたくさんいますけれども。~略~私たちの入隊は、昭和19年10月1日でした。国電新大久保の駅前で学友たちが「海ゆかば」を歌って送ってくれました。同級の女子生徒たちは、みんなポロポロ「涙を流していました。音楽学校の生徒で入隊を許されたのは14人、その中には同級の作曲家の二人のほか、1年上の團伊玖磨、声楽の石津憲一、ヴァイオリンの北爪規世、ピアノの梶原完、などの諸氏がおりました。もうそのころは全員モンペ姿の女子生徒たちが打ち振る日の丸の旗に送られて、私たちは栄ある陸軍軍楽隊の正門をくぐったのでした』と芥川也寸志は語っている(1)。『陸軍軍楽隊のシステムは、~略~私たちの時には戦時下で6ヵ月に短縮されておりました。~略~入隊して間もなく、生徒に楽器が割り当てられました。一人一人教官の前に呼び出され、経歴をきかれ、入隊以前に管楽器か打楽器をやったことのある者は、その経験が生かされ、私のように両方とも駄目な者は、背丈、面構えなどをジロッとにらんで、どんどんきめていきます。~略~楽器というものには、ある程度それぞれの性格というものがあって、その性格と吹き手の性格とがあわないと、いくら練習しても上達しないものです。例えば、フルートは物事を常識的に冷静に判断し得る人、オーボエは繊細な神経の持ち主、クラリネットはユーモリスト、ファゴットはどことなくちょっととぼけた感じの人物、などというように。ところが一瞬のうちに、楽器と人間との相性を見抜いていく教官殿の眼は実に確かで、後になってみればみるほど、長年の経験とはいえ大したものだと感心するばかりです。私に割り当てられたのはサキソフォン』と芥川也寸志は語っている(2)。
(1)『』内:「芥川也寸志」その芸術と行動芥川也寸志、芥川也寸志を語る― 未公開対談・・きき手・秋山邦晴 東京新聞出版局 44頁及び自伝抄Ⅱ 歌の旅」 芥川也寸志 著作 読売新聞社発行 (1)254~256頁、(2)257~258頁

1945年(昭和20年)20才 『 教育期間が二年なんですけれども、戦争が激しくなって八ヵ月ぐらいになっていたと思うんです。すぐ卒業して上等兵になる。首席で卒業したんです。ですから教育総監賞という銀時計があります。卒業して一班の班長になった。~省略~ ” お前たちは将来オーケストラに入るんだから管楽器をよく勉強しとけ ” といわれた。そういう理解ある教官もいて、それでぼくはサキソフォンをやっていたんです。~省略~卒業して作曲係上等兵になったんです。團伊玖磨とばくと奥村一と斉藤高順と、この四人が作曲係になって作曲室をあてがわれて、いろんな作曲をやった。~省略~仕事の大部分はほうぼうの隊の隊歌、連帯歌 というようなものから』と芥川也寸志は語っている(1)。4月13日(金)次兄多加志がビルマで戦死。同じ日に田端の家が空襲で焼け落ちる。8月15日終戦。翌16日 鵠沼下鰯5501(鵠沼海岸3-11-5)の母の実家に転居。9月、東京音楽学校本科2年に復学。『 終戦後、音楽学校でいろいろ人事の革新があった。というのはやっぱり戦争協力ということで、橋本国彦さんとか井口基成さん、要するに主任教授たちがやめられたんですね。そして新しい先生が入ってきたわけです』と芥川也寸志は語っている(2)
(1)(2)『』内:「芥川也寸志」その芸術と行動芥川也寸志、芥川也寸志を語る― 未公開対談・・きき手・秋山邦晴 東京新聞出版局 44~47頁、50頁

1946年(昭和21年)21才 4月、伊福部昭、東京音楽学校作曲科講師就任。深く傾倒し師事師事する。この頃は東京音楽学校お茶の水教場に仮寓。『 芥川さんは、昭和20年、終戦の年に東京音楽学校(現芸大)作曲家に入学した私の二年上級で、そのさらに一級上には團伊玖磨さんがいた。芥川龍之介の息子で大秀才、しかも眉目秀麗とあって、学校きってのスター、特に女生徒の人気は絶大なものがあった。在学中の芥川さんに関する鮮烈な思い出が、私には二つある。一つは伊福部昭先生着任のときのこと。~省略~その最初の管弦楽法、合同授業が、余りにも魅力的だったために、作曲家の全生徒は強烈なショックを受けたが、中でも感激の深かった芥川さんは、授業が終わるとすぐさま日光の先生の自宅まで押しかけ、ニ、三日中泊まり込んでしまった。もう一つは私自身にからんだこと。私が本科二年のときに書いたヴァイオリン・ソナタを、一級上の江藤俊成、園田高弘両氏が学内演奏会でやってくれることになったら、上級生からクレームがついた。この二人も学内のスターである。二年生の分際でそんな厚遇を受けた前例はないし、第一ナマイキだと。このとき敢然と私を支持し、前例があろうとなかろうと、演奏に値する作品をやるのは当然だと頑張り、ついに実現に漕ぎつけてくれたのが最上級生の芥川さんだった。』と黛敏郎は語る(1)
(1)『』内:「芥川也寸志」その芸術と行動「三人の会」は不滅である 黛敏郎 著作 東京新聞出版局 24頁

1947年(昭和22年)22才 3月11日、東宝映画「四つの恋の物語」(音楽監督:早坂文雄)助手。
3月31日、東京音楽学校本科を首席で卒業、研究科進学する。本科卒業作品『交響管絃楽のための前奏曲』(死後、山田一雄指揮、新交響楽団で初演)。
5月3日、読売新聞主催「第17回新人演奏会」で『ピアノ三重奏曲』第3楽章を発表

1948年(昭和23年)23才 2月5日、NHKラジオ「現代日本の音楽」で「弦楽四重奏曲」「ラ・ダンス」放送初演。東京音楽学校で知り合った山田紗織(別名・間所紗織、声楽科卒)と結婚。『その頃、彼は同級の声楽科の山田沙織という女性と結婚することになり私が仲人を務めることとなった。客人は皆音楽家で各人が夫々一曲ずつ唱ったり演奏したりした。彼はヴァイオリンでマスネーの《タイスの瞑想曲》を弾いた。~省略~やがて、三鷹の方に住んでいた彼は、近所がいいと言って尾山台の町(世田谷区等々力町2-1575)に越してきて足繁く作品を持って現れるようになった。~省略~当時は味噌や醤油などを都合しあったりもし、又、夫人は長女の麻実子をさんを連れて風呂を使いにも見えた。~省略~その頃、夫人は音楽より絵が面白いと云って岡本太郎氏の指導を受けていたので、話題は音楽、美術に亘る広いものであった。その内に彼の家に妖怪が出るという話になった。聴けば、真新しい石鹸を洗面所に置いて寝ると、翌朝は何ものかがこれを使うらしく濡れて減り、長い髪が幾条も巻きついていると云うのであった。こんあことが幾度かあって隣の町九品仏に移ることになった。』と伊福部昭は語る(1)。4月1日~1949年12月1日の間、慶應義塾中等学部教諭。1948年9月16(又は26)日NHKラジオ放送の「現代日本の音楽」で「交響三章」は東京フィルハーモニー交響楽団を芥川が指揮して作曲家としてデビューした。舞台初演は1950年10月26日に尾高尚忠指揮日本交響楽団により日比谷公会堂で行われた。
『(1)』内:「芥川也寸志」その芸術と行動、芥川也寸志君を偲ぶ 伊福部昭 著作 東京新聞出版局 20頁

1949年(昭和24年)24才 1月16日、NHKラジオで『小管弦楽のための組曲』放送初演。3月31日、東京音楽学校研究科修了、橋本国彦、伊福部昭、兼子登らに師事。4月2日、研究科修了演奏会でピアノ曲「ラ・ダンス」を発表。10月5日~1952年3月3日までNHKラジオ連続放送劇「えり子とともに」127回までの音楽を担当する)。10月20日、歌曲集『車塵集』初演(小谷絢子独唱会)

1950年(昭和25年)25才 2月20日「交響管絃楽のための音楽」完成。NHK放送25周年記念懸賞弦楽曲に応募。特賞入賞(團伊玖磨と共に特賞)。3月21日放送25周年記念入選集管弦楽曲発表演奏会で「交響管絃楽のための音楽」初演(近衛秀麿指揮、日本交響楽団)。9月29日バレエ『失楽園』初演(横山はるひバレエアートスクール、シャンブルノネット)。10月26日「交響三章」舞台初演(指揮尾高尚忠、日本交響楽団第320回定期)。11月6日バレエ・ファンタジー「湖底の夢」初演(高田せい子バレエ団、山田和男指揮、東京フィル)。この頃、NHKラジオのために「ことりのうた」「ぶらんこ」等を作曲。 世田谷区多摩川奥沢町3-25に住む

1951年(昭和26年)26才 4月11日カンタータ『聖徳太子祝讃歌』(清水脩、團伊玖磨と共作)初演。7月7日『ヴァイオリントピアノのための譚詩曲』ジュリアード音楽院に在学中だった大村多喜子(Vn.)、アイリーン・ポッツ=レニー(P.)の演奏を、ニューヨークWNYC局で放送初演。この頃肋膜炎が再発して1年間入院生活になる。7月24日バレエ『KAPPA』初演(遠山信二指揮、東フィル)

1952年(昭和27年)27才 6月11日NHKラジオにて『マイクロフォンのための音楽』放送初演。11月22日木馬座第1回公演『雪の女王』の音楽を担当

1953年(昭和28年)28才 2月1日『NHKテレビ放送開始と終了の音楽』放送開始。
『 三人の会に話を移せば、われわれは相前後して上野を卒業したわけだが、私はすぐパリへ留学し、昭和二十七年に帰国した。それを待ちかまえていたのが芥川さんで、パリの話をいろいろ聞かせろという。~省略~これから大いにひとつ、今までの日本の作曲界になかった様な、大きな運動を起こそうということになり、早速、團さんに話したら大賛成だという。まず手はじめに、それぞれ自作を指揮してオーケストラの作品発表をやることになった。幸い、三人とも、当時黄金時代を迎えていた映画や放送など、コマーシャルな音楽の場にも進出していて、他の作曲家に比べれば、経済的にも幾らか恵まれた状態にあったが、さりとて一人でオーケストラの作品発表をやるのは大変な負担だから、三人で分担すれば三分の一で出来るではないか、というのも「三人の会」結成の別な理由でもあった。「三人の会」という名前は、一見なんの変哲もない平凡な名前だが、これからの日本の音楽はわれわれ三人で背負って立つのだという気概が秘められていたことは勿論である(1) 』と黛は語る。『 三人が京都で顔を合わせたのは、全くの偶然だったのです。~省略~当時は映画会社が各社とも、かなりの数の映画を京都撮影所で作っておりましたので、三人とも映画音楽の仕事で京都に来合わせたのです。加茂川沿い、木屋町五条の宿屋で、何となく話が始りました。” 三人で共同して作品発表会をやれば、プログラムも面白くなるし、第一、経費が三分の一で済む。三人で会でも作ろうか・・・” 偶然顔を合わせ、何となく始まった話は、たちまち会の結成から《三人の会》という名前を決めるところまで行きました』と芥川は語っている(2) 。6月團伊玖磨、黛敏郎と共に「3人の会」を結成(事務所は新橋の第一ホテル横のビルの地下にあったようだ)。11月4日バレエ『炎も星も』初演(上田仁指揮、東京交響楽団)。11月23日中央合唱団5周年記念演奏会『祖国の山河に』『仲間たち』発表。12月4日、『絃楽のための三楽章(トリプティーク)』がクルト・ヴェス指揮、演奏ニューヨークフィル、カーネギー・ホールで初演される
『(1)』内:「芥川也寸志」 その芸術と行動 「三人の会」は不滅である 黛敏郎 東京新聞出版局 26頁引用
『(2)』内:「自伝抄Ⅱ 歌の旅」 芥川也寸志著作 読売新聞社発行 277~278頁引用

1954年(昭和29年)29才 1月26日第1回「3人の会」発表会は日比谷公会堂で自作の『交響曲』初演指揮、東京交響楽団)。2月第8回毎日映画コンクールで『煙突の見える場所』の音楽が音楽賞受賞。『煙突の見える場所』および『夜の終わり』『雲ながるる果てに』の音楽によりブルーリボン賞受賞。8月『音楽芸術』に「現代日本作曲家群像(60)芥川也寸志 / 富樫康」掲載。10月7日、ウィーンに向けて出立。スイス、ハンガリー、ソ連、中国を周る。ソ連でショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアン、カバレフスキー、北京で馬思聡、江文也と交流した。ソ連での自作楽譜出版を達成。当時のソ連で楽譜が公に出版された最初の日本人作曲家となった。12月28日、上海交響楽団を指揮して自作演奏会を行う。中国から香港経由で半年後に帰国する

1955年(昭和30年)30才 2月10日中国から帰国。次女・由実子誕生。4月23日~24日日本のうたごえ「春の大音楽会」で『交響組曲〈青年の歌〉』(小林秀雄、外山雄三、間宮芳生と共同編作曲)発表。5月23日シンフォニー・オブ・ジ・エア-(ソーア・ジョンソン指揮)の来日公演で『交響管絃楽のための音楽』上演(後楽園球場)。6月23日第二回「3人の会」開催し『嬉遊曲』日比谷公会堂で東京交響楽団を指揮して初演。10月15日東京労音創立2周年「森の歌大合唱と交響曲のつどい」でショスタコーヴィチ『森の歌』とともに『絃楽のための三楽章』を京交響楽団を指揮して国内初演。11月9日東京労音アンサンブルに指揮者として迎えられる。「弦楽のためのトリプティーク」がワルシャワ音楽賞受賞。12月東京交響楽団定期で改作した「交響曲第1番」初演

1956年(昭和31年)31才 『 ふとしたことから、あるグループとの付き合いが始まりました。ある音楽鑑賞団体の会員で、ただ音楽を聴いているだけではつまらないというグループが、楽器を持ち寄って自分たちでアンサンブルを作っていたのです。どうしても一遍聞いてくれと言われて行ってみたものの、その響きはさながら阿鼻叫喚でした。メンバーは十五、六人程度だったでしょうか、もうみんなが勝手にわめき散らすばかりで、とてもアンサンブルと言えるような代物ではありませんでした。~省略~私は時々、音楽って何だろう、と考えます。そういう時、不思議とよく頭の中に浮かんでくるのは、あの阿鼻叫喚ともいうべき響きと、その光景なのです。楽器がうまく弾けない彼等、アンサンブルがうまく出来ない彼等は、心の底から”音楽が欲しい!”と叫んでいたに違いないのです。~省略~音楽に対するひたむきさ、演奏するよろこびを求める真剣さに出会って、私はいわば契約をむすぶ気になったのです。このアンサンブルは昭和31年3月(1956年編者)、新交響楽団として第一歩を踏み出すのです。それ以来、私は無給の指揮者としてこのアマチュア・オーケストラを一生懸命育ててきました。国内旅行や海外旅行もやりましたし、プロのオーケストラとの共演もやりました。~省略~このアマチュアのオーケストラは、いつも私に〈音楽とはなにか?〉と問い続けているような気がするのです。~省略~また今日ほど、音楽が専門的になってっしまった時代は、かってなかったのではないかと思われます。プロの音楽家が作り、提供するものだけが音楽であり、あとの音楽は何か特別な存在である、という風に———。二十年間、旅を共にしてきたアマチュアの新響は、こんな世間一般の風潮を〈可笑しい、可笑しい〉と私にささやきかけるのです。~省略~音楽は、たとえ下手であろうと、弾けなくて歌う一方であろうと、音楽を楽しもうとするすべての人のものであって、一握りの専門家のものではない。音楽の好きな一般市民こそ普通の存在であって、特別な武器を駆使して、普通人の考えもしなかった素晴らしいことをやってくれる特別人こそ、プロでなければ話が可笑しいのです 』と芥川也寸志は語っている(1) 。3月22日~23日、ダーク・ダックス・リサイタルで『新聞』初演。新交響楽団(東京労音交響楽団)設立。音楽監督・常任指揮者に就任。この頃、目黒区自由ヶ丘123に住む。
(1)『』内:「自伝抄Ⅱ 歌の旅」芥川也寸志著作 読売新聞社発行 279~282頁 から引用
※「自伝抄Ⅱ 歌の旅」は、(1976年10月16日から1977年3月16日まで「読売新聞」連載された

1957年4月妻紗織と協議離婚。子供のための交響曲「双子の星」放送初演。11月自身の指揮で新交響楽団・第1回定期演奏会が日本青年館で開催される。ヨーロッパ旅行の帰途立ち寄ったインドのエローラ石窟寺院に衝撃を受ける

1958年4月2日第三回「3人の会」開催し『エローラ交響曲』を新宿コマ劇場でN響を指揮して初演

1959年(昭和34年)34才 2月15日『霊気(Nyambe)』放送初演(NHK「現代日本の音楽」)。映画「野火」⁽市川崑監督)音楽担当。オペラ『暗い鏡』作曲に着手。 「私の音楽談義」(音楽之友社刊)

1960年(昭和35年)35才 3月20日オペラ『暗い鏡』放送初演(岩城宏之指揮、N響)。3月27日第四回「3人の会」読売ホールで開催、オペラ『暗い鏡』初演。5月栗田⁽草笛)光子と結婚。9月27日草月アートセンターの呼びかけにより黛敏郎、武満徹、間宮芳生、林光らと「作曲家集団」結成。10月間宮芳生らとともに日本現代音楽協会書記(~1963年10月まで)を務める この頃、世田谷区祖師谷2-1139に住む

1961年(昭和36年・36歳) 4月28日「作曲家集団・グループ・エキシビジョンⅠ」に『パプア族の2つの旋律』をテープ音楽として改作、舞踏をつけて上演。5月『歯車の中で』作曲(永六輔台本、大阪労音委嘱)

1962年(昭和37年・37歳)4月16日第5回「3人の会による現代日本音楽の夕べ」大阪国際フェスティバルで『暗い鏡』上演。『「三人の会」は五回のコンサートの後、続かなかったために〈散人の会〉などと悪口を言われたりもしますが、別に思想的な結合だった訳でもなく、結成式や解散式をやった訳でもないので、顔を合わせれば”またいつか‥‥”という話になります。三人三様、それぞれの道を歩いてはおりますが、本当にまたいつか三人でコンサートをやりたいと思っています 』と芥川語っている(1)。4月30日日本作曲家組合(のちの日本作曲家協議会)発足。5月協議離婚。5月29日日本作曲家組合委員に就任。6月15日著書『音楽の現場』刊行。12月5日、14日日本現代音楽協会「現代の音楽展1962」開催。 12月18日第3回東京現代音楽祭で『絃楽のための音楽第1番』初演(若杉弘指揮、東京現代音楽室内楽団)。NTV連続TV番組「私のクイズ」出演
(1)『』内:「自伝抄Ⅱ 歌の旅」 芥川也寸志 著作 読売新聞社発行 279頁

1963年(昭和38年・38歳)5月23日成城学校劇の会で『原っぱらの子どもたち』初演。5月25日高橋悠治、一柳慧、小林健次らと「演奏家集団・ニューディレクション」結成。ブーレーズ『マラルメによる即興』(日本初演)などを指揮。指揮者として指揮者としてを始める

1964年(昭和39年・39歳)1月5日~12月27日NHK大河ドラマ『赤穂浪士』放送開始し音楽を担当。1月10日~2月11日アメリカ、ニューヨーク、ロサンゼルスなどに滞在。TBSラジオ番組「オーナー」のパーソナリティー担当

1965年(昭和40年・40歳)8月5日TBSラジオ「今晩は音楽」の司会担当(~1966年4月7日)。9月4日、TBSTVモーニング・ショー「土曜パートナー」の司会担当(~1970年9月26日)

1966年(昭和41年・41歳)3月新交響楽団が東京労音より独立、音楽監督・常任指揮者。4月4日新交響楽団第9回演奏会(労音独立後の初演奏会)開催、指揮。5月21日、成城・学校劇の会第11回公演で『子どものまつり』初演。弦楽オーケストラのための「陰画」NHK国際放送初演

1967年(昭和42年・42歳)4月23日TBSラジオ「100万人の音楽」始まり司会を務める(~1989年4月9日)。5月25日『オスティナータ・シンフォニカ』渡邉暁雄指揮、日フィル第141回定期演奏会で初演される。8月27日オペラ『暗い鏡』を改作して、『ヒロシマのオルフェ』としてNHK-TVで放送初演(森正指揮、日フィル)。9月22日~10月9日日ソ青年有効委員会の派遣により、新交響楽団とソ連各地を演奏旅行。11月12日成城学園「劇の会」で『みつばちマーヤ』初演。

1968年(昭和43年・43歳)7月3日アマチュア合唱団「鯨」結成。第1回定期演奏会開催、指揮。 8月TVオペラ『ヒロシマのオルフェ』(暗い鏡」改作)が「ザルツブルク・オペラコンクール審査員特別賞受賞。 9月10日母・文子死去。11月舞踊組曲「蜘蛛の糸」森正指揮/ニュー・シンフォネットで初演

1969年(昭和44年・44歳)『《チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート》が書かれた。 大分経ってから、総譜を持ってこられ、終結部の最後にチェロのソロがアレグロで出るのだが、どうしても狙っている効果とは異なるのだと云う。彼はピアノでその部分を弾いたが、それはオーケストラからチェロに移る前に一拍の休止が必要なのではないかと意見を述べると、その様に奏し疑義が解けたと言い、どうしてそのことに思い到らなかったのだろうかと頻りに自からを怪しんでいたのが印象的であった。楽譜を見ながら作品の検討をしたのはこれが最後になった』と伊福部昭は語る(1)。12月16日《チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート》が秋山和慶指揮、東京交響楽団第173回定期で岩崎洸の独奏により初演。
(1)『』内:「芥川也寸志」その芸術と行動、芥川也寸志君を偲ぶ/伊福部昭/東京新聞出版局P21~22ら引用

1970年(昭和45年・45歳)1月10日財団法人鳥井音楽財団(のちのサントリー音楽財団)評議員に就任(同財団音楽賞選考委員会、選考委員を終身務めた)。2月9日「現代の音楽展70」で山岡重信指揮、読売日本交響楽団により『エローラ交響曲』再演。
5月世田谷成城2丁目22-3に新居完成。5月14日日本作曲家協議会副委員長に就任。6月江川眞澄と再婚。

1971年(昭和46年・46歳)8月31日著書『音楽の基礎』刊行。 10月4日、文化庁芸術祭主催管弦楽の夕べで森正指揮、N響により『オーケストラのためのラプソディ』初演。

1972年(昭和47年・47歳 3月『キネマ旬報』「映画音楽史を形造る人々/芥川也寸志」掲載。6月28日朝日新聞に「音楽教育への疑問」を寄稿(~7月12日・全3回)。8月『レコード芸術』に「日本の作曲家たち 芥川也寸志」掲載。8月15日ヤマハ音楽振興会専務理事に就任(~1976年3月31日)。9月長男・貴之志誕生。10月4日読売新聞に「音楽教育を糺す」寄稿(~11月1日・全5回)。「音楽の遊園地」(れんが書房刊)

1973年(昭和48年・48歳)6月23日童謡『やわらかいえんぴつが好きなんだ』で日本童謡賞受賞。8月20日著書『音楽の遊園地』刊行。10月16日財団法人鳥井音楽財団の理事に就任。

1974年(昭和49年・49歳)ヤマハ音楽振興会委嘱「GXコンチェルト」沖浩一指揮/東京交響楽団演奏で初演。

1975年(昭和50年・50歳)1月雑誌『レッスンの友』にインタビュー「ボクのモスクワ潜入記」掲載。2月15日映画『砂の器』で毎日映画コンクール音楽賞受賞。6月新交響楽団第29階定期演奏会でストラヴィンスキーの「火の鳥」「ペトルーシェカ」「春の祭典」を指揮

1976年(昭和51年51歳)2月雑誌『ハミング』に「私の教育論」寄稿。 9月3日、10月11日「日本の交響作品展」で伊福部昭、早坂文雄、諸井三郎、清瀬保二、尾高尚忠ほか日本人作品10曲をとりあげ指揮(新交響楽団創立20周年記念演奏会)。 11月『音楽の世界』に「日本の作曲ゼミナール 芥川也寸志掲載

1977年(昭和52年・52歳) 2月22日、売新聞に「自伝抄」連載(~3月16日・全20回)。3月5日新交響楽団と共に第8回鳥井音楽賞受賞。3月9日日本オペラ協会公演で『暗い鏡』上演。4月9日NHKTV「音楽の広場」司会・指揮務める(~1984年3月23日)。6月18日映画『八甲田山』封切。音楽担当。7月北軽井沢の別荘を新築。映画「八ツ墓村」の音楽担当。 10月4日社団法人日本音楽著作権協会理事に就任

1978年(昭和53年・53歳) 4月1日、26日新交響楽団「小倉朗交響作品展」を開催、指揮。4月6日映画『八甲田山』、『八つ墓村』の音楽で第1回日本アカデミー賞音楽賞受賞

1979年(昭和54年・54歳)1月18日山形交響楽団第18回定期「芥川也寸志の世界」指揮。3月1日「こどものためのピアノ曲集 24の前奏曲」を雑誌『あんさんぶる』で発表開始(~1980年2月1日)。5月『森の好きなおとなとこどもの音楽童話〈ポイパの川とポイパの木〉』を自身の指揮/東京フィル、NHK放送初演(黒柳徹子語り、東京フィル)。7月著作権審議会臨時委員に就任。10月29日、岩城宏之、黛敏郎らと共に旧奏楽堂保存に関する要望書を文部大臣あてに提出。10月31日日本作曲家協議会主催「東北の作曲家79」を指揮。
映画「日蓮」音楽担当

1980年(昭和55年・55歳)2月17日「奏楽堂を救う会」発足。代表委員を務める。5月15日『ポイパの川とポイパの木』で、第22回児童福祉文化奨励賞受賞。7月11日日本作曲家協議会委員長に就任。

1981年(昭和56年・56歳)3月「反核 日本の作曲家たち」の活動をはじめる。5月6日~12日、第1回ソヴィエト国際音楽祭で自作の『チェロとオーケストラのためのコンチェルトオスティナート』を指揮。 7月18日音楽と舞踊による映像絵巻『月』NHKTVで放送初演、第33回イタリア賞テレビ部門イタリア放送協会賞。エミー賞を受賞。 10月20日長兄・比呂志逝去。11月1日社団法人日本音楽著作権協会理事長に就任。

1982年(昭和57年・57歳)1月12日学校法人成城学園理事に就任(~1989年1月31日)。5月23日「反核日本の音楽家たち」演奏会開催、指揮者として松村禎三作品などを初演。7月腹膜炎を患う。9月29日~10月10日著作者作曲者協会国際連合総会出席のためにローマに赴く。同理事に就任

1983年(昭和58年・58歳 1月12日宮城フィルハーモニー協会(仙台フィル)理事、音楽監督就任。5月13日日本作曲家協議会、社団法人となる。会長に就任。10月著作権審議会委員に就任。日ソ音楽家協会の運営委員長に就任

1984年(昭和59年・59歳)2月24日NHK「音楽の広場」3人の会特集放送。3月2日NHK「音楽の広場」旅とワインと男のおしゃれ放送。 4月7日、NHK「N響アワー」開始、司会担当(~1988年11月26日)。 5月16日~23日、第2回ソヴィエト国際音楽祭に招かれ、訪ソ。5月19日モスクワで『ヒロシマのオルフェ』(演奏会形式)指揮。 10月20日「近代音楽館を設立する会」発足。運営委員長に就任。11月著作者作曲家協会国際連合⁽CISAC)総会副会長に就任。トウキョウデ国際会議を開催

1985年(昭和60年・60歳) 3月科学万博つくば85のために『EXPO85〈ここは宇宙〉』を作曲。 3月11日~17日CISAC理事会出席のためにフランスへ赴く。7月訪ソ。9月中国訪問し北京、上海、西安を訪れる。
11月3日紫綬褒章受賞。

1986年(昭和61年・61歳) 1月30日~2月5日、訪ソ。 2月2日、モスクワで日ソ音楽協会「日本交響作品展」開催。2月17日、「紫綬褒章を祝う会」開催。 3月10日、第37回日本放送協会放送文化賞受賞。 3月19日、20日、21日NHK「芥川也寸志ドレミファワンダーランド」放送。 4月8日~9日、CISAC理事会出席のためにモントリオールへ。 4月17日、FM東京開局15周年記念委嘱『交響組曲〈東京〉』第4楽章「アレグロ・オスティナート」を自身で指揮/東京交響楽団で初演。 9月18日~24日、東京交響楽団の中国公演に團伊玖磨とともに随行。 10月12日、サントリーホール落成式典で委嘱作『オルガンとオーケストラのための響』ウォルフガング・サヴァリッシュ、N響を指揮して初演。11月30日、新交響楽団「日本の交響作品展10新響と三十年ー芥川也寸志」開催、指揮。 12月27日、財団法人ヤマハ音楽振興協会理事に就任。 12月、サントリー音楽財団から委嘱を受け、オラトリオ『古事記』を構想する。

1987年(昭和62年・62歳) 2月1日、新交響楽団と「サントリー音楽賞受賞者コンサート」出演。 4月6日~11日CISAC理事会のためにシドニーへ赴く。 5月2日~15日、中国の招きにより訪中し北京、四川省へ。 5月8日、財団法人日本近代音楽財団理事に就任。7月4日、朝日新聞にエッセイ「ぷれりゅうど」連載(~12月26日・全26回) 10月1日日本近代音楽館発足。運営委員、事業委員に就任。旧奏楽堂、上野公園に移築開館。
11月7日中国、上海で中日両国建交十五周年記念の演奏会で上海交響楽団を指揮して自身の《弦楽三章》、伊福部昭の《交響譚詩》と《タプカーラ交響曲》、早坂文雄の《左方の舞と右方の舞》を演奏。 11月9日~16日上海国際音楽コンクール審査員を務める。

1988年(昭和63年・63歳) 2月27日「伊福部昭先生の叙勲を祝う会」コンサートのために自作の『ゴジラの主題によせるバラード』初演指揮。
4月24日新交響楽団とともに「旧東京音楽学校奏楽堂演奏会」開催、指揮
4月25日~5月7日、CISAC理事会出席のためにロンドン、ミュンヘンへ赴く。
5月23日昭和大学藤が丘病院に検査入院。肺がんと診断される。
6月16日~7月17日、国立がんセンターに入院。『いのち』を病床で作曲
6月29日手術を受ける
9月14日日本作曲家協議会会長を辞任
11月22日再入院。
12月5日再手術

1989年(平成元年)1月31日肺炎による肺機能低下により東京築地、国立がんセンター附属病院で63歳で死去
『日扇聖人奉讃歌〈いのち〉』がオーケストレーション未完のまま遺作となった(生前に松村禎三の紹介により、鈴木行一へオーケストレーションを委ねて完成)
2月4日N響アワー「―芥川也寸志さんをしのんで―」放送
勲二等瑞宝章受賞
5月2日芥川也寸志追悼演奏会
7月芥川のアドバイスを受けて建築された田園ホール・エローラが開館

1990年(平成2年)4月芥川の功績を記念してサントリー音楽財団により「芥川作曲賞」が創設された

4.主な作品

<歌劇>
「ヒロシマのオルフェ」(1960年、1967年改訂/台本:大江健三郎)

<管弦楽>
交響管絃楽のための前奏曲(1947年)
交響三章(トリニタ・シンフォニカ)(1948年)
小管絃楽のための組曲(1949年)
交響管絃楽のための音楽(1950年)
バレエ音楽「失楽園」(1950年)
バレエ音楽「湖底の夢」(1950年)
バレエ音楽「Kappa」(1951年)
バレエ音楽「炎も星も」(1953年)
絃楽のための三楽章(トリプティーク)(1953年)
交響曲第1番(1954年、1955年改訂)
嬉遊曲(1955年)
子供のための交響曲「双子の星」(1957年)
エローラ交響曲(1958年)
絃楽オーケストラのための陰画(1966年)
オスティナータ・シンフォニカ(1967年)
舞踊組曲「蜘蛛の糸」(1968年)
チェロとオーケストラのための「コンチェルト・オスティナート」(1969年)
オスティナータ・シンフォニカ’70(1970年)
オーケストラのためのプソディー(1971年)
エレクトーンとオーケストラのためのGXコンチェルト(1974年)
秋田地方の子守歌(1977年)
Do Re Mi Fa Sol La Si Do!(1978年)
Clapping Orchestra(1978年)
森のすきなおとなとこどものための音楽童話「ポイパの川とポイパの木」(1979年)
March1979「栄光をめざして」(1979年/オーケストラ版)
音楽と舞踏による映像絵巻「月」(1981年)
交響組曲『東京』より「アレグロ・オスティナート」(1986年)
オルガンとオーケストラのための「響」(1986年)
ゴジラの主題によせるバラード(1988年)

<吹奏楽>
Marcia in do(1959年)
March1979「栄光をめざして」(1979年/吹奏楽版)
行進曲「風に向かって走ろう」(1982)

<ピアノ・ソロ>
前奏曲集「田舎より」(1944年)
ピアノ詩曲(1944年)
無題(1946年)
ラ・ダンス(1948年)
24の前奏曲(1979年-1980年)
遊園地(1984年)
赤ずきん(1985年)
5本の指の踊り(1985年)
ちっちゃなワルツとちっちゃなメヌエット(1986年)
ノクターン(1987年)

<室内楽>
ピアノ三重奏曲(1946年)
弦楽四重奏曲(1948年)
ヴァイオリンとピアノのための譚詩曲(1951年)
マイクロフォンのための音楽(1952年)
Nyambe(1959年)
絃楽のための音楽第1番(1962年)
ヴァイオリンとピアノのためのSASARA(1978年)
ヴァイオリンとピアノのための東北の獅子舞(1978年)
3つの子供のうた(1978年、2Vn・2Vc・ピアノ)

<声楽曲>
車塵集(1949年、メゾソプラノ独唱・ピアノ)
パプア島土蛮の歌(1950年、声・ピアノ)
小鳥のうた(1952年)
雪(1983年、メゾソプラノ独唱・ピアノ)
あやめ(1984年、アルト独唱・ピアノ)
若木の枝のねむの花(1985年、メゾソプラノ独唱・ピアノ)
コスモスの花(1986年、アルト独唱・ピアノ)

<合唱曲>
心の種子(1951年、合唱・ピアノ)
新聞(1955年、無伴奏男声4部合唱)
パプワ族2つの旋律(1957年、男声合唱と打楽器)
お天道様・ねこ・プラタナス・ぼく(1958年、無伴奏混声合唱)
沖縄民謡集 1.谷茶前、2.あやぐ子守唄、3.だんじゅかりゆし(1965年、混声・ピアノ)
うたの旅(1977年 – 1984年、NHK『音楽の広場』のための曲集)
21世紀賛歌・人間はまだ若い(1983年、混声合唱・2管Orch)
佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”(1988年、混声合唱・3管Orch、鈴木行一補作)

<著書>
現代人のための音楽(新潮社/1953年) – 共著
現代音楽に関する3人の意見(中央公論社/1956年) – 團伊玖磨、黛敏郎と共著
私の音楽談義(青木書店/1956年、音楽之友社/1959年、ちくま文庫/1991年)
音楽の現場(音楽之友社/1962年)
音楽を愛する人に――私の名曲案内(筑摩書房/1967年)
音楽の基礎(岩波新書/1971年)
音楽の遊園地(れんが書房/1973年 、旺文社文庫/1982年)
人はさまざま歩く道もさまざま――芥川也寸志対話集(芸術現代社/1978年)
人はさまざま歩く道もさまざま――芥川也寸志対話集 続(芸術現代社/1978年)
音楽の旅(旺文社文庫/1981年)
ぷれりゅうど(筑摩書房/1990年)

<映画音楽>
1951・1・29 えり子とともに[第1部]監督/豊田四郎藤本プロダクション、新東宝
1951・2・5 えり子とともに[第2部]監督/豊田四郎藤本プロダクション、新東宝
1952・1・17 青春会議 監督/杉江敏男、東宝
1952・2・28 南国の肌 監督/本多猪四郎木曜プロダクション、東宝
1952・7・3 いとし子と耐えてゆかむ 監督/中川信夫、東映東京
1952・7・8 若い人 監督/市川崑、東宝
1952・10・30 いついつまでも(音楽監督:早坂文雄)監督/ポール・H・スローン、大映
1952・12・10 春の囁き 監督/豊田四郎、東京映画、東宝
1953・1・15 吹けよ春風 監督/谷口千吉、東宝
1953・3・5 煙突の見える場所 監督/五所平之助、スタジオ8プロダクション、新東宝 第4回ブルーリボン賞音楽賞(第4回から新設され、初の受賞者となった)第8回毎日映画コンクール音楽賞
1953・3・11 抱擁 監督/マキノ雅弘、東宝
1953・4・8 夜の終り 監督/谷口千吉東宝
1953・4・22 飛び出した日曜日 監督/村田武雄、東宝
1953・4・22 私は狙われている 監督/田尻繁、東宝
1953・5・13 銀二郎の片腕 監督/青柳信雄、新東宝
1953・5・14 愛情について 監督/千葉泰樹、東宝
1953・6・9 雲ながるる果てに 監督/家城巳代治、重宗プロダクション、新世紀映画
1953・6・15 戦艦大和 監督/阿部豊、新東宝
1953・7・1 続思春期 監督/本多猪四郎、東宝
1953・9・15 広場の孤独 監督/佐分利信、俳優座、新世紀映画
1953・10・31 地獄門 監督/衣笠貞之助、大映京都
1954・4・20 大阪の宿 監督/五所平之助、スタジオ8プロダクション、新東宝
1954・5・19 風立ちぬ 監督/島耕二、大雅社、東京映画、東宝
1954・6・22 ともしび 監督/家城巳代治、新世紀プロダクション、キヌタプロダクション
1954・11・22 最後の女たち 監督/楠田清創映プロダクション
1955・5・17 サラリーマン目白三平(共作:武満徹)監督/千葉泰樹、東映東京
1955・5・31 33号車応答なし 監督/谷口千吉、東宝
1955・6・19 たそがれ酒場 監督/内田吐夢、東宝
1955・8・28 たけくらべ 監督/五所平之助、新芸プロダクション、新世紀映画
1955・8・31 夏目漱石のこころ 監督/市川崑、日活
1955・9・13 花ひらく 監督/藤原杉雄、まどかグループ、新世紀映画
1955・9・27 続サラリーマン目白三平 監督/千葉泰樹、東映東京
1955・9・28 自分の穴の中で 監督/内田吐夢、日活
1955・11・15 浮草日記 監督/山本薩夫、山本プロダクション、俳優座、松竹
1956・1・29 彼奴を逃すな 監督/鈴木英夫、東宝
1956・3・22 雪崩 監督/山本薩夫、東映東京
1956・6・8 或る夜ふたたび 監督/五所平之助、歌舞伎座映画、松竹
1956・10・9 猫と庄造と二人のをんな 監督/豊田四郎東京映画、東宝
1956・12・19 台風騒動記 監督/山本薩夫、山本プロダクション、まどかグループ
1957・2・28 黄色いからす 監督/五所平之助、歌舞伎座映画、松竹
1957・3・4 米 監督/今井正、東映東京
1957・5・21 伴淳・森繁の糞尿譚 監督/野村芳太郎、松竹京都
1957・6・25 異母兄弟 監督/家城巳代治、独立映画
1957・7・30 危険な英雄 監督/鈴木英夫、東宝
1957・9・1 挽歌 監督/五所平之助、歌舞伎座映画、松竹
1957・9・1 お姉さんといっしょ(共作:草川啓)監督/青山通春、桜映画社
1957・9・15 夕凪 監督/豊田四郎、宝塚映画、東宝
1957・10・15 穴 監督/市川崑、大映京都
1957・11・5 脱獄囚 監督/鈴木英夫、東宝
1958・1・9 負ケラレマセン勝ツマデハ 監督/豊田四郎、東京映画、東宝
1958・2・8 怒りの孤島 監督/久松静児、日本映画社
1958・3・7 新中国横断記録 新しき大地(共作:林光)監督/八木保太郎、光報道工芸映画
1958・3・18 螢火 監督/五所平之助、歌舞伎座映画、松竹
1958・6・24 欲 監督/五所平之助、松竹京都
1958・8・5 花の慕情 監督/鈴木英夫、東宝
1958・10・1 裸の太陽 監督/家城巳代治、東映東京
1958・10・1 道産子 監督/金子精吾、芸術映画社
1958・12・7 蟻の街のマリア 監督/五所平之助、歌舞伎座映画、松竹
1958 佐久間ダム総集篇 監督/高村武次、岩波映画製作所
1959・1・27 花のれん 監督/豊田四郎、宝塚映画、東宝
1959・4・14 からたち日記 監督/五所平之助、宝塚映画、東宝
1959・5・19 男性飼育法 監督/豊田四郎、東京映画、東宝
1959・6・9 どんと行こうぜ 監督/野村芳太郎、松竹大船
1959・6・23 鍵 監督/市川崑、大映東京
1959・6・30 花嫁の蜂 チェゴリザ 監督/伊勢長之助、日映新社、東宝
1959・9・20 暗夜行路 監督/豊田四郎、東宝
1959・11・3 野火 監督/市川崑、大映東京
1960・1・3 「通夜の客」より わが愛 監督/五所平之助、松竹京都
1960・1・14 女経 監督/吉村公三郎、市川崑、増村保造、大映東京
1960・4・5 白い崖 監督/今井正、東映東京
1960・4・13 ぼんち 監督/市川崑、大映京都
1960・6・11 白い牙 監督/五所平之助、松竹京都
1960・9・20 最後の切札 監督/野村芳太郎、松竹大船
1960・9・27 マッキンレー征服 監督/伊勢長之助、東映教育映画部
1960・11・1 おとうと 監督/市川崑、大映東京
1960・8 海を渡る友情 監督/望月優子、東映教育映画部
1961・1・3 猟銃 監督/五所平之助、猟銃プロダクション
1961・3・19 ゼロの焦点 監督/野村芳太郎、松竹大船
1961・4・4 別れて生きるときも 監督/堀川弘通、東宝
1961・5・3 黒い十人の女 監督/市川崑、大映東京
1961・5・16 東京夜話 監督/豊田四郎、東京映画、東宝
1961・7・9 雲がちぎれる時 監督/五所平之助、松竹京都
1961・8・6 背徳のメス 監督/野村芳太郎、松竹京都
1961・11・22愛情の系譜 監督/五所平之助、松竹大船
1961・3 巨船ネス・サブリン 監督/楠木徳男、岩波映画製作所
1962・4・6 破戒 監督/市川崑、大映京都
1962・5・27 左ききの狙撃者 東京湾 監督/野村芳太郎、松竹大船
1962・9・1 かあちゃん結婚しろよ 監督/五所平之助、松竹大船
1962・11・18私は二歳 監督/市川崑、大映京都
1963・1・13 雪之丞変化(共作:八木正生)監督/市川崑、大映京都
1963・3・31 嘘 監督/増村保造、吉村公三郎、衣笠貞之助、大映東京
1963・4・28 拝啓天皇陛下様 監督/野村芳太郎、松竹大船
1963・9・20 100万人の娘たち 監督/五所平之助、松竹大船
1963・9・20 太平洋ひとりぼっち(共作:武満徹)監督/市川崑、石原プロダクション、日活
1964・1・1 続 拝啓天皇陛下様 監督/野村芳太郎、松竹大船
1964・11・21五辨の椿 監督/野村芳太郎、松竹大船
1965・1・30波影 監督/豊田四郎、東京映画、東宝
1965・10・30恐山の女 監督/五所平之助、フレンドプロダクション
1965・10・30地獄変 監督/豊田四郎、東宝
1970・6・5 影の車 監督/野村芳太郎、松竹
1974・10・19 砂の器(音楽監督/作曲:菅野光亮)監督/野村芳太郎、橋本プロダクション、松竹 第29回毎日映画コンクール音楽賞
1977・6・18 八甲田山 監督/森谷司郎、橋本プロダクション、シナノ企画、東宝 第1回日本アカデミー賞最優秀音楽賞作
1977・9・23 八つ墓村 監督/野村芳太郎、松竹 第1回日本アカデミー賞最優秀音楽賞作
1978・6・3 事件(共作:松田昌) 監督/野村芳太郎、松竹
1978・10・7 鬼畜 監督/野村芳太郎、松竹 第2回日本アカデミー賞優秀音楽賞作
1979・3・10 日蓮 監督/中村登、永田雅一プロダクション、松竹 第3回日本アカデミー賞優秀音楽賞作
1979・10・6 配達されない三通の手紙 監督/野村芳太郎、松竹 第3回日本アカデミー賞優秀音楽賞作
1980・1 一粒の麦からウイスキーとその世界  監督/藤瀬季彦、岩波映画製作所
1980・6・28 わるいやつら(共作:山室紘一)監督/野村芳太郎、松竹 第4回日本アカデミー賞優秀音楽賞作
1980・11・22 震える舌 監督/野村芳太郎、松竹 第4回日本アカデミー賞優秀音楽賞作
1982・9・15 幻の湖 監督/橋本忍、橋本プロダクション、東宝 第6回日本アカデミー賞優秀音楽賞作
1982・9・18 疑惑(共作:毛利蔵人)監督/野村芳太郎、松竹・霧プロダクション 第6回日本アカデミー賞優秀音楽賞作

5.その他

5-1.章・賞
1950年NHK放送25周年記念懸賞弦楽曲特賞入賞
1954年『煙突の見える場所』の音楽で第8回毎日映画コンクール音楽賞受賞
1954年『煙突の見える場所』および『夜の終わり』『雲ながるる果てに』の音楽によりブルーリボン賞受賞
1955年「弦楽のためのトリプティーク」がワルシャワ音楽賞受賞
1968年TVオペラ『ヒロシマのオルフェ』(暗い鏡」改作)が「ザルツブルク・オペラコンクール審査員特別賞受賞
1973年童謡「やわらかいえんぴつが好きなんだ」で日本童謡賞受賞
1975年映画「砂の器」の音楽で毎日映画コンクール音楽賞受賞
1977年新交響楽団と共に第8回鳥井音楽賞受賞(のちのサントリー音楽賞)
1978年映画『八甲田山』/映画『八つ墓村』の音楽で第1回日本アカデミー賞音楽賞受賞
1981年「音楽と舞踏による映像絵巻「月」が第33回イタリア賞テレビ部門イタリア放送協会賞
1981年「音楽と舞踏による映像絵巻「月」がエミー賞受賞
1985年紫綬褒章受章
1986年第37回日本放送協会文化賞受賞
1989年勲二等瑞宝章受章

5-2.主な役職
1955年11月東京労音アンサンブル指揮者
1956年新交響楽団(旧・東京労音交響楽団)設立、音楽監督・常任指揮者就任
1960年10月日本現代音楽協会書記
1962年5月日本作曲家組合委員に就任
1970年1月財団法人鳥井お額財団評議員に就任
1970年5月日本作曲家協議会副委員長に就任
1972年8月ヤマハ音楽振興会専務理事に就任
1979年7月著作権審議会臨時委員
1980年2月「奏楽堂を救う会」代表委員を務める
1980年7月日本作曲家協議会委員長に就任
1981年11月日本音楽著作権協会理事長に就任
1982年1月学校法人成城学園理事に就任
1983年1月宮城フィルハーモニー協会(仙台フィル)理事・音楽監督に就任
1983年5月社団法人日本作曲家協会会長に就任
1983年10月著作権審議会委員に就任
1983年日ソ音楽家協会運営委員長に就任
1984年11月著作者作曲家協会国際連合(CISAC)総会副会長に就任
1986年12月財団法人ヤマハ音楽振興協会理事に就任
1987年5月財団法人日本近代音楽財団理事に就任
1987年10月日本近代音楽館運営委員・事業委員に就任

6.初演

1948年9月26日「交響三章」指揮:芥川也寸志/東京フィル/NHKラジオ「現代の音楽」放送初演
1949年1月16日「小管弦楽のための組曲」NHKラジオ「日曜随想」
1950年3月21日「交響管弦楽のための音楽」指揮:近衛秀麿/日本交響楽団/日比谷公会堂/放送開始25周年記念管絃楽曲発表演奏会
1950年9月29日 バレエ「失楽園」指揮:芥川也寸志/シャンブルノネット/横山はるひバレエ・アート・スクール
1950年11月6日 バレエ「湖底の夢」東京新聞社主催「創作バレエ合同公演」
1951年4月11日カンタータ『聖徳太子祝讃歌』(清水脩、團伊玖磨と共作)初演
1951年7月7日『ヴァイオリントピアノのための譚詩曲』ジュリアード音楽院に在学中だった大村多喜子(Vn.)、アイリーン・ポッツ=レニー(P.)の演奏を、ニューヨークWNYC局で放送初演。
1951年7月24日「Kappa」(河童)指揮:遠山信二/東京フィル/横山はるひバレエ・アート・スクール公演
1951年7月24日「Kappa(河童)指揮遠山信二/東京フィル/横山はるひバレエ・アート・スクール公演
1952年6月10日「マイクフォンのための音楽」(マイクロフォンのためのファンタジー)NHKラジオ「NHK音楽のアトリエ」放送初演
1953年11月4日炎も星も」(Flame…star)指揮:上田仁/東京交響楽団
1953年12月4日「弦楽のための3楽章」(トリプティーク)指揮:クルト・ヴェス/ニューヨーク・フィル/カーネギー・ホール
1954年1月26日「交響曲」指揮:芥川也寸志/東京交響楽団/日比谷公会堂/「三人の会」
1955年6月23日「ディヴェルティメント」指揮:芥川也寸志/東京交響楽団/第回「三人の会」
1955年12月8日「交響曲第1番」指揮:上田仁/東京交響楽団/第74回定期演奏会
1957年11月25日 子供のための交響曲「双子の星」指揮:渡邉暁雄/日本フィル/語り:中村メイコ/東京少年合唱隊
1958年4月2日「エローラ交響曲」指揮:芥川也寸志/NHK交響楽団/第回「三人の会」
1962年12月18日 「弦楽のための音楽第1番」指揮:若杉弘/東京現代音楽室内楽団/第3回東京現代音楽祭
1966年11月3日 弦楽オーケストラのための「陰画」指揮:岩城宏之/NHK交響楽団/NHKラジオ「ステレオ音楽」
1967年5月25日「オスティナータ・シンフォニカ」指揮:渡邉暁雄/日本フィル/第141回定期演奏会
1968年11月8日 舞踊組曲「蜘蛛の糸」指揮:森正/ニュー・シンフォネット/NHK-FM放送初演
1969年12月16日「チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート」指揮:秋山和慶/チェロ:岩崎洸/東京交響楽団/東京文化会館/第173回定期演奏会
1971年10月4日「オーケストラのためのラプソディ」指揮:森正/NHK交響楽団/昭和46年度文化庁芸術祭公演「管弦楽の夕べ」
1974年7月3日「GXコンチェルト」」指揮:芥川也寸志/GX1(オルガン):沖浩一/東京交響楽団
1979年5月5日「ポイパの川とポイパの木」指揮:芥川也寸志/東京フィルハーモニック交響楽団
1981年7月18日「音楽と舞踊による映像絵巻」《月》指揮:手塚幸紀/東京フィルハーモニー交響楽団
1982年 行進曲《風に向かって走ろう》第38回国民体育大会(あかぎ国体)
1986年4月17日 アレグロ・オスティナート(交響組曲「東京」第4楽章)指揮:芥川也寸志/東京交響楽団
1986年10月12日「オルガンとオーケストラのための” 響 ” 」指揮:ヴォルフガング・サヴァリッシュ/NHK交響楽団/オルガン:林佑子/サントリーホール落成式典
1988年2月「ゴジラの主題によせるバラード」
1990年2月「交響管弦楽のための前奏曲」指揮:山田一雄/新交響楽団により演奏された。東京音楽学校、本科卒業作品である

7.関連動画

芥川也寸志さんをしのんで(N響アワー)*放送年月日不明
出演:團伊玖磨、野村芳太郎、黛敏郎、黒柳徹子、木村尚三郎、なかにし礼、徳永二男
曲目:交響曲第1番第4楽章

音楽の広場「3人の会」特集2-1

音楽の広場「3人の会」特集2-2

音楽の広場「3人の会」特集

N響アワー 芥川也寸志 なかにし礼 木村尚三郎 
シャルル・デュトワ指揮 「ダフニスとクロエ」「春の祭典」
この3名による司会は1985年4月6日~1988年9月24日の放送でおこなわれました。
演奏会は1987年9月4日のものです

《交響管絃楽のための前奏曲》映像無し 1947年
山田一男指揮 新交響楽団
1990年1月20日 新宿文化センター ライブ録音
New Symphony Orchestra, Japan
Kazuo Yamada, conducting
Recorded: 20, January, 1990 Live at Shinjuku Bunka Center

《交響管絃楽のための音楽》 1947年
東京文化会館

《交響三章》 トリニタ・シンフォニカ 映像無し 1948年
指揮:飯守泰次郎 演奏:新交響楽団 0:00~ 第一楽章 4:45~ 第二楽章 17:54~ 第三楽章.
第3楽章 フィナーレ(Finale) Allegro vivace 指揮 芥川也寸志 演奏 上智大学管.

《弦楽のための三楽章》「トリプティーク」 1953年
ワレリー・ゲルギエフ指揮 / NHK交響楽団
Triptyque for string orchestra
Valery Gergiev, NHK Symphony Orchestra

芥川也寸志「弦楽のためのトリプティーク」
Musica14.8(ムジカ・カトルセ・コンマ・オチョ)
Vn/赤松由夏、ゲオルギー・ヴァシレンコ、大岡仁、木下知子、木村悦子、杉江洋子、早柏由紀、村岡紹子 Va/小倉幸子、高村明代 Vc/マーティン・スタンツェライト、西村志

《交響曲第一番》Prima Sinfonia (1954/55)
指揮:芥川也寸志 / 東京交響楽団
初演時三楽章形式、1955年四楽章に改作
Yasushi Akutagawa (conductor), Tokyo Symphony Orchestra

《エローラ交響曲》 映像無し 1958年
本名徹次 指揮、東京シティフィルハーモニック管弦楽団

《エローラ交響曲》 映像無し 1958年
指揮:下野竜也 / 演奏:読売日本交響楽団
2009年5月24日 NHK-FM「現代の音楽」にて放送
Y.Akutagawa Ellora Symphony (1958)
T.Shimono / Yomiuri Nippon Symphony Orchestra 07/April/2009 Live

《エローラ交響曲》 ~吹奏楽のための~(1958/2015)
洗足学園音楽大学 Senzoku Gakuen College of Music
公演名:ブルー・タイ ウインド・アンサンブル演奏会
日時:2016年7月1日(金) 会場:洗足学園 前田ホール

歌劇「ヒロシマのオルフェ」(TV放送版) 1967年」

《オスティナート・シンフォニカ》 1967年
指揮:渡邉暁雄 / 演奏:日本フィルーハモニー交響楽団
1967年5月25日 東京文化会館 初演(第141回定期演奏会)
Y.Akutagawa Ostinato Sinfonika (1967)

舞踏組曲「蜘蛛の糸」 (1968)
本名徹次 指揮、日本フィル
Ballet Suite “The Spider’s Thread” (1968)

《チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート》 1969年
チェロ:堤剛
指揮:外山雄三 / 演奏:NHK交響楽団
尾高賞30周年記念N響コンサート’82
Y.Akutagawa Concert Ostinato for Cello and Orchestra (1969)

《オーケストラのためのラプソディ》 1971年
apsodia per orchestra (1971)

《マーチ1979″栄光をめざして”》 1979年
指揮:野中図洋和 演奏:陸上自衛隊中央音楽隊
Cond. – Toyokazu Nonaka
The Japan Grand Self-Defence Force Central Band
Marching March 1979

《24の前奏曲》子どものためのピアノ曲集 1980年
Chiharu Hanaoka – piano

《オルガンとオーケストラのための「響」》 1986年
指揮:若杉弘 / 演奏:NHK交響楽団 小林英之org
Y.Akutagawa “Sounds” for Organ and Orchestra (1986)
1996年10月28日、サントリーホール10周年記念コンサート。

「八甲田山」より”終焉”  1977年

芥川也寸志:「八甲田山」より”終焉”

映画八甲田山予告編 1977年
https://youtu.be/5qoBSEqgDbQ?list=PLSov9fxFRw9LFTUtu_zfr7zYFtxJLQeoQ

映画《八甲田山》 1977年

八つ墓村より 道行きのテーマ 1977年

映画《八つ墓村》 メインタイトル 1977年

大河ドラマ 赤穂浪士 第47話「討入り」 1964年
1964年11月22日放送 視聴率53.0%
NHK大河ドラマ第2作目

武蔵坊弁慶 第29回「安宅の関」

童謡《ぶらんこ》  都築益世作詞・芥川也寸志作曲
ぶらんこ揺れて お空も揺れる
ゆらゆらゆらりん 木の枝揺れて
私も揺れる
ゆらゆらゆらりん ゆらゆらゆらりん

仲良しこよし 元気なぼくら
ゆらゆらゆらりん 仲良く漕げば
仲良く揺れる
ゆらゆらゆらりん ゆらゆらゆらりん
ソプラノ・間庭小枝 伴奏・新井知里

参考文献:以下の資料を参考及び引用させて頂いた。有難うございます https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00014060#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-4994%2C-171%2C12034%2C3413御楯隊姓名録 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ http://nodaiweb.university.jp/noukei/pdf/NSO97_06.pdf下総牧羊場の系譜 2 - Tokyo University of Agriculture友田清彦 www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/jl/ronkyuoa/AN0025722X-029_047.pdf森本修 http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2012/04/post-7e8d.html宇野浩二 芥川龍之介 十五~(1)下巻に突入tadashi.yabuno https://blog.goo.ne.jp/jchz/e/bd548f74b53eff63bf86715d80888e09みんなの牛乳/ミルクと日本人(武田尚子) - 見もの・読みもの日記 http://shien.hanagasumi.net/005hee/17akudagawa.html芥川龍之介の父は美和町出身! http://otake-history.halfmoon.jp/incident/war/龍之介の実父 - 日々のことを徒然に - Gooブログ https://ameblo.jp/shinjukuroriotou/entry-11839411966.html「芥川龍之介」 の下町 | 未来を語る新宿老人党 - アメブロ http://hcaj.lin.gr.jp/html2/06/6-1.PDFわが国のジャージーの歴史 - 日本ホルスタイン登録協会 http://www.sun-net.jp/~0otani-s/twbk48.pdf会報つわぶき 第48号 https://ja.wikipedia.org/wiki/芥川龍之介 http://dp52008078.lolipop.jp/angonet/writingcure/books/akuta/akutagawa1-3.html戻る - 芥川文学の構造分析 http://www.tsu.ac.jp/Portals/0/research/19/P104-120.pdf芥 川 龍 之 介 と 養 父 道 章 ︱ 所 謂 ﹁ 自 伝 的 作 品 ﹂ - 東京成徳大学 2st.jp/radb/nenpyou/gakuseijidai.html芥川龍之介私的データベース/年表*三中・一高・東大時代 https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2018/01/芥川.html新原(にいはら)龍之介の七か月 - 紀行歴史遊学 http://2st.jp/radb/jinbuturoku/na.html芥川龍之介私的データベース/人物録*な行 http://akitsumaika.web.fc2.com/ryunosukepeople.html龍之介さんを取り巻く人々 - FC2 https://kuribou.hatenablog.com/entry/20161228芥川龍之介の父系のルーツ - 栗カメの散歩漫歩 https://blog.goo.ne.jp/tatu_no_ko/e/67bea38b7f281a4d1cefc779ce7da60龍之介の実父 - 日々のことを徒然に - Gooブログ http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2012/04/post-7e8d.html宇野浩二 芥川龍之介 十五~(1) 下巻に突入: 日々の迷走tadashi.yabuno http://2st.jp/radb/jinbuturoku/na.html#niihara-huyu芥川龍之介私的データベース/人物録*な行 https://akitsumaika.webnode.jp/works/ryunosuke/龍之介さんの年譜/ クラシック作曲家辞典/中河原理監修/フェニックス企画編/東京堂出版平成4年 《歌の旅》芥川也寸志著「自伝抄Ⅱ」/発行所読売新聞社昭和52年 「芥川也寸志」その芸術と行動/出版刊行委員会編/発行所東京新聞出版局1990年 「芥川也寸志」監修芥川眞澄/著者新・三人の会/発行所yamaho2018年 https://ja.wikipedia.org/wiki/芥川也寸志 https://www.3s-cd.net/jc/akutagawa芥川也寸志 - スリーシェルズ Three Shells http://kugenuma.sakura.ne.jp/bunkajinmap.files/08-00.htm鵠沼に居住した著名人 - 鵠沼を語る会 https://www.weblio.jp/wkpja/content/芥川也寸志_芥川也寸志の概要#特徴 www003.upp.so-net.ne.jp/johakyu/ifukube/akutagawa.htm芥川也寸志作品リスト - So-net