7.家系
父方の祖父:新原敏三(1850年~1919)
父方の祖母:新原ふく(敏三の妻・旧姓芥川)(1860年~1902年)
父方の祖父の後妻・叔母:新原フユ(敏三の後妻・フクの妹)(1862年~1920年)
父方の養祖父:芥川道章(フクの兄)(1849年~1928年)
父方の養祖母:芥川 儔(芥川道章の妻トモと読む)(1857年~1937年)
母方の祖父:塚本善五郎(鈴の夫)(1869年~1904年)
母方の祖母:塚本 鈴(善五郎の妻・旧姓山本)(1881年~1938年)
母方の叔父:塚本八洲(善五郎と鈴の長男)(1903年~1944年)
父:芥川龍之介(新原敬三とふくの長男)(1892年~1927年)
母:芥川 文((善五郎と鈴の長女・旧姓:塚本)(1900~1968)
長兄:芥川比呂志 (1920年3月30日~1981年10月28日)俳優・演出家
[比呂志の家族]
妻: 芥川瑠璃子(葛巻家の養女)
二兄:芥川多加志 (1922年~1945年4月13日)外語から学徒出陣し、ビルマ(現:ミャンマー)で戦死
三男:芥川也寸志 (1925年7月12日~1989年1月31日)作曲家
[也寸志の家族]
最初の妻:芥川沙織=旧姓山田(1948年~1957年協議離婚)声楽・画家
長女:芥川麻実子 (1948年生)タレント
次女:芥川由実子 (1955年生)
後妻:草笛光子=旧姓栗田(1960年5月~1962年5月協議離婚)女優
三番目の妻:芥川真澄(江川)(1970年6月結婚)
長男:芥川貴之志 (1972年9月生)グラフィックデザイナー・フリーエディター
<父方の祖父:新原敏三>(1850年~1919)
祖父、新原敏三の家は代々庄屋をつとめた由緒ある家であった。先祖は、1608年(慶長10月)11人の庄屋を中心に多数の農民が参加した「山代慶長一揆」が発生したときに参加した。翌1609年(慶長14年)5月28日代官所より一揆の指導的人物である北野孫兵衛に対し、首謀者である庄屋全員を出頭させ先祖も捕縛された。彼らは引地峠の刑場に連行され斬首され、物河土手に裊首された。犠牲となったその中の一人、生見村庄屋:新原神兵衛の子孫である
新原敏三には二人の弟、康太郎(1856年3月6日生まれ)と元三郎(1860年5月3日生まれ)、妹その(1852年4月15日生まれ)がいた。祖父は新原猶吉(1861年12月歿)といった。父は常蔵、母はすゑ(1823年7月20日~1884年10月21日)といった。すゑは夫の常蔵(1862年8月24日歿)が早世し、紅床家の岩蔵(1881年12月11日歿)に再嫁した。敏三のすぐ下の弟康太朗(芥川龍之介の叔父)は、母すゑが再嫁した紅床岩蔵の養子として1862年6月29日6才のときに入籍した。岩蔵は大酒飲みでそのため新原家の土地、屋敷が失われたと伝えられている。末弟の新原元三郎(芥川龍之介の叔父)は、兄より前に上京して東京芝で「山口屋」の屋号で炭屋を営んだ。芥川の養父(芥川道章)の妻(儔〔とも〕)の大叔父は細木香以(藤次郎)、幕末の大通「津藤」でその姪になる。新原元三郎の妻ゑいも細木香以(藤次郎)幕末の大通「津藤」の孫娘である。父の名は桂次郎。えいは1935年(昭和10年)ごろ田端の芥川家で亡くなった。元三郎との間に静男(1898年2月26日)長男が生まれている。敏三の妹その(1852年4月15日は、1882年名越菊蔵と結婚、1891年中津忠五郎と再婚、1905年上田峰蔵と再婚した
1850年(嘉永3年)9月6日新原敏三は、山口県玖珂郡美和町生見一五六四番地(本籍:山口県玖珂郡賀見畑村字生見八十八番地屋敷)に平民の子として生まれた
1862年6月29日、敏三の弟、康太朗は紅床岩蔵の養子として入籍した
1862年8月25日、敏三の弟、元三郎は父常蔵から新原家の家督相続をする
1864年8月、13才の敏三は出奔、太田市之進(総督)、山田顕義、品川弥二郎らが中心となって結成した「御楯隊(隊士230名)」に参加し、駐屯所地の三田尻にいたと思わあれる
1865年7月、14才の時、長州戦争が起こり長州農村隊「御楯隊」の砲兵隊下士卒として参戦。
1866年15才の時、長州戦争の芸州口・大野戦に参戦した。この時、幕府軍は厳島の対岸に位置する松が原を出発。6月13日には、彦根藩と与板藩の兵は油見村顕徳寺に陣を置き、その日のうちに彦根軍の500の兵は大竹村の大瀧神社に進み、一部は小瀬川(現在の大和橋付近)に布陣した。また、高田藩は、13日の夜に大野から小方に進み、苦の坂への進撃のために同夜立戸の山に布陣し、一部は与板藩の兵とともに小島新開に陣を置いた。13日夜の10時頃、大竹側から大砲が三発発射されたが、対岸の和木側は静かなままで、誰も陣取っていないといった様子だったと言われている。迎え撃つ長州藩は、岩国兵が主力となり、これに長州藩の部隊である御楯隊・吉敷隊などが加わり、和木村の川岸の竹やぶに陣を敷き、息を凝らして待ち受けていた。「御楯隊(総督山田市之充、副箼品川彌二郎)」260名余に対し幕府軍、和歌山藩、彦根藩あわせての軍勢はその倍を超える規模、大苦戦であったが兵卒の奮戦で何とか持ちこたえたという。尊攘堂史料「御楯隊姓名録」には大林源次こと新原敏三の名が載っている。彼は左足くるぶしに貫通銃創の深手を負う
1868年1月、17才の時、鳥羽伏見の戦いに参戦
上京する(年不明)
1876年6月、25才の時、千葉県成田三里塚「下総牧羊場」に「雇」として入所(下総御料牧場 下総御料牧場沿革誌 下総御料牧場 に掲載)
1878年9月10日新原家を脱籍されていた敏三は復籍する。10月20日弟元三郎より家督相続した
1880年4月敏三は「下総牧羊場」退職。渋沢栄一、小松 彰、益田 孝が設立した「耕牧舎」箱根仙石原牧場に雇用される
1881年2月26日実弟、元三郎は中津夘助の養子として入籍したが、1885年不縁となる。元三郎は1887年4月6日広実百助の養子として入籍し百助の娘しげと結婚した。元三郎は1892年11月14日しげと離婚して新原家に復籍する。元三郎はのちに上京し細木桂次郎の娘ゑいと結婚した。12月21日、弟の康太朗は紅床家を相続した
1882年敏三32才の時、耕牧舎は東京府北豊島群金杉村56番地に支店を設け管理者として赴任する
1883年東京府京橋区入舟町8丁目1番地にも支店を増設、敏三は両店の管理を任される。製品の牛乳やバター 等の乳製品は、東京築地の外国人居留地で販売した。敏三は、芥川俊清の四女ふくと結婚。東京市京橋区入船町8丁目1番地(現在の中央区明石町10-11)外人居留地の牧場の隣に住む。
1884年金杉店は松村浅次郎に任せ、京橋区入舟町を東京支店と称し、ここを商いの拠点とした
1885年6月21日敏三34才、長女初が生まれる
1887年2月36才の時、東京府豊多摩軍内藤新宿2丁目71番地の元有馬兵庫守と伊沢美作守の屋敷跡7,446坪余の払い下げをうけその一部を耕牧舎の牧場とした
1888年3月19日敏三37才、二女久が生まれる。「大日本東京乳牛搾取業一覧(牛乳新聞社)」に<西の大関>として「耕牧舎」の名が挙がる
1891年4月5日40才、長女初、突然風邪を引き、病死
1892年3月1日敏三41才、長男龍之介が生まれる。10月25日妻ふくが精神疾患を発病し入院。ふくの発狂後ふくの妹ふゆを家事手伝いに迎える
1893年築地の外人居留地が手狭となり入舟町8丁目まで拡張されることとなったため、ここを引き払い日本の牛乳の祖、前田留吉の土地、芝区新銭座16を購入し、8月頃までに本店を新築して移転した。この頃には事業も発展し、近所だけでも
1日200リットルの牛乳が売れたという。この頃、新宿2丁目に牧場を持ち、日暮里中本、王子西ヶ原に支店牧場を、京橋区長崎町1-11番地に分店を持っていた。耕牧舎は牛乳・バター・クリームなどを扱い手広く商いをしていたようだ。後には築地精養軒、帝国ホテル、李王家などにも牛乳を納めるようになる。耕牧舎は敏三が主になっていたが、事実は渋沢栄一、小松彰、益田孝が設立した「耕牧舎」の持ち物であった
このころ、ふくの妹ふゆが家事手伝いとして新原家に入る
1895年同年の搾乳販売業者番付には 勧進元 「北辰社 前田喜代松」、差添人「 耕牧社 新原敏三」の名がある。この頃から明治30年代半ばにかけてが新原の事業の全盛期だと言われている
1899年家事手伝いに出向いている妻の妹ふゆとの間に得二が生まれる
1900年牛乳営業取締規則が出された。東京市内の搾乳業者は1902年(明治35年)7月までに市外に移転しなければならなくなった。新銭座の店では乳牛飼養ができなくなる
1902年敏三の妻ふく、11月28日42才で歿
1904年息子龍之介を取り戻そうと訴訟を起こしたが、5月4日東京地方裁判所で判決が確定し長男龍之介は正式に芥川家養子となる。芥川フユが後妻として入籍する
1905年6月箱根仙石原の耕牧舎の事業整理に入り、設立者の渋沢栄一、小松彰、益田孝から、耕牧舎の東京各店のうち新銭座と内藤新宿の両店の事業譲渡を敏三が受けた。無利息7年賦で売り渡す契約をし最終期限は1913年(大正2年)2月26日と決める
1909年新宿牧場を娘婿の葛巻義定に管理を任せ、仙石原にいた松村泰次郎を迎え牧夫長とした
1910年巻義定が娘と離婚したため新宿牧場の管理は松村泰次郎一人にかかることになり、事業は不振に陥った。種々試みた新しい事業も失敗に終わり、晩年は心身とも衰え、さらに1914年(大正3年)新宿牧場をまかせていた松村泰次郎の死は新原にとって大きな痛手となった
両国一帯が洪水に見舞われ芥川家は、新原敬三の経営する牧場(東京府下豊多摩軍内藤新宿2丁目7番地)にあった二階家に移り住み、道章は牧場会計の事務の一部を手伝うようになる
1919年新年早々猛威をふるった流感に冒された敏三は3月16日朝、芝愛宕町の東京病院でスペイン風邪のため69才で亡くなった
<父方の祖母:新原ふく>(旧姓芥川)(1860年~1902年)
祖母ふくは、1860年(万延元年)9月8日本所区本所小泉町(現墨田区両国)の士族、父芥川俊清・母ふでの三女として生まれた。小柄で色白く、神経質で、口数が少なく、極めて小心で内気な気質で、何事も口に出すよりは、自分の胸に畳んでいるという性質であった言われている
芥川家は、徳川幕府の御奥坊主を務めた家柄で、奥坊主は幕府の茶事一切を仕切る数寄屋坊主、小納戸坊主のことで将軍への献呈、諸侯の接待、給仕する中奥の役である。御用部屋坊主として代々幕府に仕えていた由緒正しい旧家である
1883年24歳の時、新原敏三33才と結婚
1885年3月26日入籍。6月21日長女初出産
1888年3月19日二女久出産(1956年6月29日歿)
1891年4月5日長女初、突然風邪を引き、病死
1892年長男龍之介を出産。10月25日に精神疾患を発病し入院。原因はいろいろ言われているが、形式的とはいえ龍之介を捨て子にしたこと、仲の良かった実兄芥川道徳が死んだこと、前年の長女・初の死を自分の責任として強く感じていること、夫敬三の強引な性格に忍従を強いられたこと、などが重なったことが引き起こすストレス状況が原因と言われている
芥川は、この母の印象について、「点鬼簿」(大正15年)の中で「僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。
(中略)しかし大体僕の母は如何にももの静かな狂人だつた。僕や僕の姉などに画を描いてくれと迫られると、四つ折の半紙に画を描いてくれる。画は墨を使ふばかりではない。僕の姉の水絵の具を行楽の子女の衣服だの草木の花だのになすつてくれる。ただ唯それ等の画中の人物はいづれも狐の顔をしてゐた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない」と記述。実母の発狂は「或阿呆の一生」(昭和2年)でも描かれているが、晩年芥川は自らの精神不安定が、実母の遺伝なのではないかと恐れていたようだ。龍之介が母に会ったのは、生誕の地ではなく芝区新銭座町の家でのことである
芥川の妻・文子によるとフクは「荒々しくなるわけではなく、ただぼんやりと座って」おり、「一室にこもりきりで、ときどき思い出すように、狐の絵ばかり描」いていたという。
1902年11月28日42才で歿
<父方の祖父の後妻:新原ふゆ>(1862年~1920年)
芥川の叔母で、ふくの実妹であり、後に新原敏三の後妻となり、敏三との間に得二を出産。芥川龍之介の異母弟になる
1893年ころ新原の妻が発狂したため、新原家に家事手伝いとして入る
1899年新原敬三との間に得二を生んだ。得二はふくの実子として届けられた
1904年龍之介の養子縁組が成立したのを機に、新原家に入籍する
大正8年敏三がスペイン風邪で没すると、その一周忌の直後の4月に没した。叔母の死去に際し、芥川は恒藤に「去年は親父に死なれ今年は叔母に死なれ僕も大分うき世の苦労を積んだわけだ」と書き送っている
1920年4月腹膜炎で没
<父方の養祖父:芥川道章(どうしょう)>(母ふくの兄)(1849年~1928年)
1849年(嘉永2年)1月6日生まれ、1928年(昭和3年)6月27日没。芥川龍之介の養父、龍之介の実母の兄。士族の出身。
芥川家は代々お数寄屋坊主として寛永寺に奉仕していた旧家で、家庭は江戸の文人的、通人的な面が多分にあったという。一家揃って一中節を習い、道章は俳諧、南画、盆栽をたしなんでいたという。
1868年20歳神奈川府警衛隊所属
1872年東京府役所に出仕編輯係掛となる
1893年内務部第二課長となる
1898年東京府役所を退職し恩給年5百円の老後の生活を楽しんだという。
1900年に設立された株式会社東銀行の出納掛として名が残っている
1910年8月5日ごろから続いた梅雨前線による雨に、11日に日本列島に接近し房総半島をかすめ太平洋上へ抜けた台風と、さらに14日に沼津付近に上陸し甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、関東各地に集中豪雨をもたらした。利根川、荒川、多摩川水系の広範囲にわたって河川が氾濫し各地で堤防が決壊、両国一帯が洪水に見舞われたためもあり、芥川家は新原敬三の経営する牧場(東京府下豊多摩軍内藤新宿2丁目7番地)の隅にあった二階家に移り住み、牧場会計の事務の一部を芥川道章が手伝うようになった
1911年2月芥川家は本所小泉の家を引き払って牧場の隣に移った
1914年10月田端の新居に移転
1928年6月27日没
<父方の養祖母:芥川 儔>(とも)(1857年~1937年)
芥川の養母。道章の妻。幕末の大通、細木香以の姪。
芥川曰く「昔の話をよく知ってゐた」。瑠璃子は、芝居が好きで、猫を抱きながらラジオを聞くのが好きだった 儔(とも)を記憶している
芥川の親友恒藤恭によると、気立ての優しい、よく気のつく婦人であったという
小島政二郎は、柔和な愛想の良い、小柄で当たりのよい人物であった、と述べている
芥川の芸術文化に造詣の深い要因のひとつに、この 儔(とも)の存在が考えられる
<母方の祖父:塚本善五郎>(1869年~1904年)
1869年10月16日東京生まれ、1904年5月15日日露戦争初期に戦死(35歳)
塚本善五郎少佐(海兵一七) 最終階級は海軍少佐。正六位勲四等功四級
1890年7月17日海軍兵学校卒業。海軍兵学校17期。席次は入校時53名中6番。卒業時88名中6番。将校科甲種三期首席、同期に秋山真之、森山慶三郎、山路一善らがいる。秋山真之少尉(愛媛・海兵一七首席・米国駐在・少佐・海大教官・常備艦隊参謀・中佐・連合艦隊参謀・海大教官・「秋津洲」艦長・大佐・「橋立」艦長・「出雲」艦長・第一艦隊参謀長・少将・軍務局長・第二水雷戦隊司令官・中将・待命・死去)は兵学校の同期生で、ライバルだった。
1892年5月、少尉任官
1894年7月、日清戦争に巡洋艦「高雄」航海士として出征
1897年、甲種作業答案として作成した「遠征艦隊編成法」が成績優秀と認められる
1900年海軍大学校将校科乙種2期を優等卒業。専攻は砲術であった。同年5月20日海大将校科甲種3期入学。6月19日義和団の乱により退学。同年12月13日復学
1902年7月8日7月海軍大学校(将校科甲種三期)を首席で卒業(少佐)。卒業者数8名。谷口尚真大将、百武三郎大将、田所広海中将、殖田謙吉少佐などが同期である
1904年2月日露戦争に第一艦隊第一戦隊先任参謀として戦艦「初瀬」に乗り組み出征。5月15日午前9時55分、旅順港外閉鎖に従事中の戦艦「初瀬」がロシア海軍の敷設した機雷に触雷。午前11時38分、後部砲塔下付近に再び触雷し「初瀬」は沈没。塚本少佐ら496名が戦死した
塚本善五郎少佐の葬儀に出席した連合艦隊司令長官・東郷平八郎中将は、塚本善五郎少佐の遺児、塚本文子(四歳)を抱き上げたという話が残っている。 また、秋山真之参謀は、文子にピアノを練習するように薦めたといわれている。
遺児・塚本文が海軍機関学校教官・芥川龍之介に嫁いだのは、塚本の死後14年後のことであった。
<母方の母方の祖母:塚本 鈴>(旧姓山本)(1881年~1938年)
塚本善五郎の妻
夫善五郎との間に、文・八洲の二児をもうける。
善五郎は海軍将校で、日露戦争に参戦。軍艦初瀬の参謀をしていて戦死。
夫の没後は、東京の実家山本家に身を寄せた。芥川龍之介の親友、山本喜誉司の姉
<母方の叔父:塚本八洲>(1903年~1944年)
芥川の妻:文の弟。長崎県生まれ。
父善五郎が戦死したため、山本家に家族と身を寄せた。喜誉司の縁で1907年に芥川は文を知るが、同じ頃に八洲とも知り合ったと考えられる。
一高に入学し、将来を期待されたが結核病を患い、没年まで闘病生活を送った。
大正14年に八洲が三度目の喀血をした際には、芥川が下島と塚本家に駆けつけ見舞った。また同年8月28日付書簡では「文子の為にも勉強して早く丈夫におなりなさい」と励ましている。
大正15年に、療養のため鵠沼に移住。この転地が、芥川の鵠沼滞在の契機となった
< 父:芥川龍之介>(1892年~1927年)
作家名:芥川 竜之介 Akutagawa, Ryunosuke
(1892年3月1日~1927年7月24日)
1892年3月1日東京市京橋区入船町8丁目1番地(現在の中央区明石町10-11)に実父・新原敏三と母フクの長男として生まれた。辰年辰月辰日辰刻にちなんで「龍之介」と命名される。父43歳後厄、母33歳大厄の為、「大厄の子」として、家の向かいの教会に捨てられる。松村浅二郎が拾い育てる。後に日本を代表する小説家となり、号は澄江堂主人 、俳号は我鬼を名乗り多くの作品を残した文豪となる。ハツ、ヒサの二姉があったが、長姉は龍之介誕生前に夭折していた。龍之介が生後八か月ほどの10月25日に、母フクが精神疾患を発病し入院。龍之介は母の実家(本所小泉町15番地(現在の両国3丁目22番11号)の実兄:芥川道章(東京府に勤める役人)の家に預けられた。旧家の士族である芥川家は江戸時代、代々徳川家に仕え雑用、茶の湯を担当したお数寄屋坊主の家である。家では芸術・演芸を愛好し、江戸の文人的趣味が残っていた。道章は俳句や盆栽、三味線の一中節を趣味とした。カナリアを飼っていた時期もある。フクの兄芥川道章と妻の儔のほかに伯母のフキがおり、龍之介の面倒をみた。そこには江戸の文人趣味が横溢した雰囲気があり、龍之介が作家になることも家族全員誰も反対しなかったという。ことに、生涯龍之介のそばに付き添った叔母のフキ(後に父新原敏三と結婚)は熱心に彼を教育し、幼い頃から文字や数字を教え、様々な本を読んで聞かせた。そのような土壌なしには作家芥川龍之介は生まれなかったと言われている。しかし、養家と実家の極端な家風の違いが龍之介を更に引き裂いたともいう。実父新原敬三は盛んに龍之介を自分の家に連れ戻そうとする。しかし、龍之介にとって父は成り上がり者であり、尊敬せざる人物であったらしい。また、実母は発狂して実家の二階に幽閉され会話もままならない。龍之介の顔を見ても、それが我が子と認識出来ない。そのような家に戻る気になれなかったのも無理はないのだが、龍之介は、実家に戻ろうとしなかった最大の理由は叔母フキを愛していたからだと語っている。 戸籍上の正しい名前は「龍之介」であるが、養家である芥川家や府立三中、一高、東京大学関係の名簿類では「龍之助」になっている。彼自身は「龍之助」表記を嫌った
1893年1歳 10月このつき入船町にあった「耕牧舎」本店が、芝区新銭座町一六番に牧場を求めて、新築し移住。龍之介はここを「芝の家」と呼び、芥川家に正式に引き取られた後も交際は絶えなかった
1894年2歳 この頃から歌舞伎などに見につれてゆかれる。芥川家は江戸的伝統を色濃く残した家庭であり、一家そろって芝居に出かけることが多かった
1895年3歳 秋にかけて、芥川家が江戸時代からの古屋を改築する。庭に植えられた蝋梅が特に好きだった
18964年歳 1月9日午後10時過ぎ、激しい地震が起こる、祖父の代からの女中「てつ」が、分別を失って走り回っていたことを記憶している。地震は九分二三秒続いたらしい
1897年5歳 4月江東尋常小学校付属幼稚園に入園。園は回向院の隣。この頃の夢は海軍将校になることだった
1898年6歳 4月江東尋常小学校(現在の墨田区立両国小学校)に入学。(芥川卒業後、「江東」は「えひがし」と読むようになる。この頃の夢は洋画家志望に変わっていた。女中の「てつ」から怪談を聞かされたり、始終友達にいじめられて泣いていた
1899年7歳 7月11日敏三と叔母フユとの間に異母弟の得二が生まれる。
この頃、宇治紫山(一中節の師範)の息子に英語、漢文などを習う
1900年8歳 5月31日北清事変起こる。広小路(両国)の大平という絵草子屋へ出かけ、北清事変の石版刷の戦争画を一枚ずつ買った
1901年9歳 この年初めて俳句を作る。「落葉焚いて葉守りの神を見し夜かな」。泉鏡花などの現代小説もこの頃読み始める
1902年10歳 3月この月、同級生らと回覧雑誌『日の出界』を創刊。
「淡水」、「龍雨』などの筆名で寄稿するだけでなく、表紙画やカットも描き、編集も行った。4月江東小学校高等科一年に進学。6月『日の出界』第三篇を発行する。11月28日、実母フクが衰弱のために新原家で死去(享年42)。この年、本に対する関心が高まり、草双紙のほかに「西遊記」、「水滸伝」、滝沢馬琴、近松門左衛門などの江戸文学、尾崎紅葉などの硯友社文学、徳富蘆花も読んでいた
1903年11歳 2月『日の出界』(お伽一束号)を出す。4月20日『日の出界』創刊一周年記念号を出す。
夏、千葉県勝浦の鈴木太郎左衛門方(耕牧舎霊岸島支店にいた者の親戚)に芥川・新原家で訪れる。 この頃から神田の古本屋街や大橋図書館・帝国図書館に通って本を読み漁った
1904年12歳 3月9日新原家で親族会議がなされ、龍之介を新原家の家督相続人から排除し、芥川フユを敏三の後妻とする相談をした。5月4~9日東京地方裁判所民事部法廷において、龍之介が推定家家督相続人排除の判決を受ける。 8月正式に芥川家と養子縁組を結び、養嗣子となった。9月叔母フユが新原家に入籍した
1905年13歳 3月江東尋常小学校高等科三年を修了。在学中は成績優秀で二年で修了することもできたが、養子縁組問題のため、一年延期されていた。 4月東京府立第三中学校(現・都立両国高校)に入学。(校門の中側に碑がある) 。同級生に、西川英次郎、山本喜誉司、二級上に久保田万太郎、三級上に後藤末雄らがいた。担任は卒業まで広瀬雄(英語)
1906年14歳 4月回覧雑誌『流星』を大島敏夫、野口真造らとはじめ、編集発行人となる。 6月流星』を改題して『曙光』第4号を発行。 8月『流星』に「勝浦雑筆」を発表
1907年15歳この年、親友山本喜誉司の縁で初めて塚本 文(当時七才)を知る。文は、山本喜誉司の姪。山本は、文の母鈴の末弟。鈴は、夫であった塚本善五郎の戦死のため実家である山本家に文の弟である八洲と三人で身を寄せていた。同じ頃に八洲とも知り合ったようだ
1908年16歳 12月24日 今学期の成績発表があり、龍之介は一番。中原安太郎が二番、西川が三番、山本は13番。
1909年17歳 3月4日姉ヒサが葛巻義定と婚姻届を提出する。8月28日ヒサに長男義敏が生まれる。翌年ヒサが離婚するために、義敏は新原家で育てられ、後、大正12年1月頃からは龍之介が引き取って育てる
19103年18歳 2月三中の『学友会雑誌』第15号に「義仲論」を発表。 3月東京府立第三中学校を卒業する。一番は西川英次郎、芥川は二番「多年成績優等者」の賞状を受ける。4月進学を一高の英文科(一部乙類)に決め、一日10時間もの受験勉強に励む。(4月18日付 山本宛書簡)。6月6日西川英次郎、山本喜誉司と三人で一高に願書を出しに行く。8月5日官報で一高の合格を知る。この年から中学の成績優秀者は無試験入学が実施され、芥川は無試験組の4選に入る。7月~14日親戚の別荘にいた山本を訪ね、静岡方面を旅行する。帰宅途中に山本家へ見舞いへ行くが、孫の身を案じた祖母に怒鳴りつけられて往生していたのを、後の妻・文が記憶している。 9月11日第一高等学校一部乙類(文科)に入学。 同期入学に久米正雄、松岡讓、佐野文夫、菊池寛、井川恭(後の恒藤恭)、土屋文明、渋沢秀雄、成瀬正一、山本有三、一級上に近衛文麿など。10月芥川家は本所小泉町から内藤新宿二丁目(現・新宿区新宿)に転居
1911年19歳 2月1日一高で、大逆事件における政府の処置を攻撃した徳富蘆花の「謀叛論」を聞く。4月1日一週間の試験休暇。成績は5番。5月中旬『枕草子』を愛読。(山本宛書簡)。 9月二年に進級。南寮の中寮三番に入る。。寮で同室には井川恭を含め12名、井川は生涯の親友となる。井川は第一高等学校一覧によると1年から3年まで常に芥川の成績を上回っている。一高は基本的に全寮制を取っていたが、芥川は一年次それに逆らい入寮しなかった。二年ともなるとそうもいかず、入寮。だが、だらしないボヘミアン・ライフに馴染むことができずに、土曜日には帰宅していた。 また、読書量も多く、19世紀末期小説を愛読し、懐疑的・厭世的傾向を助長した。またキリスト教にも興味を示し始める。
1912年20歳 1月「大川の水」執筆。(発表は大正3年。)。7月30日明治天皇崩御。「大正」改元。9月3年に進級。山宮允に誘われ、アイルランド文学研究会に出席。西条八十、日夏耿之介を知る。 この頃、妖怪趣味がますます高じていく。「ミステリアスな話があったら教えてくれ給へ」(明457/16付井川恭宛)などと友人に書き送り、自ら図書館に通って「怪異」と表題のつくものを読み漁り、家族、友人から聞いた話を整理し『椒図志異』たるノートを作る
1913年21歳 4月菊池寛が友人の窃盗の罪を被って退学処分になる。菊池はやむなく京都大学への進学を決める。7月第一高等学校を26人中2番で卒業。一番は井川。久米は6番。9月東京帝国大学文科大学英吉利文学科に入学。ちなみに当時、同学科は一学年数人のみしか合格者を出さない難関であった。
親友の恒藤は京大法科、中退した菊池は京大英文科、松岡譲は東大哲学科、久米と成瀬が同じ英文科であった。講義内容に失望し、出席せずに本を読んだり、作家志望の久米などと親交が深まる。10月15日に刊行された斎藤茂吉『赤光』に衝撃を受け、詩歌に対する眼を開けられる
1914年22歳 2月12日菊池寛、久米正雄、山宮允、松岡譲、成瀬正一、山本有三らと共に、同人誌『新思潮』(第3次)を創刊。 創刊号には「柳川隆之助」の筆名でアナトール・フランスの「バルタザアル」、イエーツの「春の心臓」の和訳を寄稿、五月号に処女作、小説「老年」を発表。作家活動の始まる。4月1日『心の花』に「大川の水」を発表。4日短歌11首の掲載を佐佐木信綱に依頼。5月この頃、吉田弥生への恋心が芽生え始める。井川恭には「僕の心には時々恋が芽生える」と書き送り、久米や山宮と共に弥生の家を訪れていたという。7月20日~8月23日友人の堀内利器の紹介で、彼の故郷千葉県一の宮海岸へ行き一ヶ月間ほど滞在。読書や創作、海水浴を楽しみ、初恋の相手吉田弥生には二度手紙を送っている。9月1日戯曲形式の「青年と死と」を『新思潮』に発表。10月に『新思潮』が廃刊に至るまでに同誌上にこの頃、青山女学院英文科卒の吉田弥生という女性と親しくなり、結婚を考える。 これで『新思潮』は終刊となる。帝大英文科二年に進学。10月末新宿から豊島郡滝野川町字田端四三五番地に家を新築し、転居。12月末弥生にラブレターを出す
1915年23歳 2月弥生との結婚を家族に反対され、断念する。28日井川に初恋と破恋の経緯を記した手紙を送る。「ある女を昔から知っていた。(中略)僕は求婚しやうと思った。(中略)烈しい反対をうけた。」3月9日井川宛に手紙を書く。「イゴイズムをはなれた愛があるかどうか(中略)僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑ふ(僕自身にも)」。4月1日『帝国文学』に「ひょっとこ」を発表。23日山本宛に手紙を書く。「如何にイゴイズムを離れた愛が存在しないか(中略)短い時の間にまざへと私の心に刻まれてしまひました。」。月末、弥生の結婚式の前日に中渋谷の斎田屋で最後の会見をする。
5月弥生への想いが薄れ始め、落ち着きを取り戻していく。中旬 弥生とその相手、金田一光男(陸軍将校)の婚姻が届けられる。7月 体調を崩す。関口安義氏によると、失恋のショックによる吉原通いの影響とされる。8月初旬 第四次『新思潮』刊行資金工面のため、ロマン・ロラン「トルストイ伝」を成瀬、久米、松岡、菊池らと分担して翻訳することを決める。約150枚を引き受けた。3日~22日「仙人」を脱稿。9月塚本文子への恋情を感じ始める。1日付で山本に「正直な所時々文子女史の事を考へる」と送る。11月1日失恋の痛手を癒すことをかねて井川の故郷松江へ滞在する。18日帝大英文科三年に進級。この「羅生門」を脱稿。21日雑誌『帝国文学』に代表作の1つとなる「羅生門」を芥川龍之介」名で発表。12月13日漱石門下だった仏文科の林原耕三に伴われ、久米と共に初めて漱石山房を訪ねる。内田百聞、鈴木三重吉、小宮豊隆らを知る。以後木曜会に出席し漱石の門下生となる。
山本に文子への想いを漏らす。 塚本文子を結婚相手としてはっきりと意識する。山本宛書簡に「僕自身僕の行為(この場合は結婚)に責任をもつやうに文ちやん自身もその行為に責任をもち得る程意志を自覚してほしい」とある
1916年年24歳 1月20日「鼻」を脱稿。下旬、芥川家で文のことが話題に上がるようになる。2月15日付山本宛書簡に「僕のうちでは時々文子さんの噂が出る」とある。19日第四次『新思潮』(メンバーは菊池、久米のほか松岡譲、成瀬正一ら五人)を創刊し、「鼻」を発表。中旬、漱石より「鼻」を激賞する手紙を貰い、大いに自信を得る。4月1日フユ、フキと共に文に会い、ふたりが文に好意を持った事から結婚話が本格的になる。15日付井川宛書簡に「二人ともgood opinionを持つてかへつて来たらしい」とある。月末『新思潮』二号に「孤独地獄」を発表。5月1日卒業論文「ウイリアム・モリス研究」を書き上げる。8月『新思潮』三号に「父」を発表。6月1日『希望』に「虱」を発表。*初めての原稿依頼で三円六〇銭(一二枚)を手にした。下旬、姉ヒサと西川豊(弁護士)の婚姻が届けられる。6月10日岩野泡鳴を中心する「十日会」の例会で広津和郎(小説家・評論家)に紹介を頼み、歌人で夫のいる秀しげ子と出会う。二人の関係はすぐに文壇の中で周知の事実となる。7月10日『新思潮』四号に「酒虫」を発表。18日文との結婚が正式に両家の間で約束される。23日付井川宛書簡に「文子は愈貰ふ事になつた」とある。8月1日東京帝国大学文科大学英吉利文学科を卒業。成績は20人中2番。1番は豊田実。16日「野呂松人形」を脱稿。17日『新小説』の依頼に対し、「芋粥」を考える。25日「仙人」を『新思潮』に、「野呂松人形」を『人文』に発表。28日「芋粥」脱稿。9月1~2日千葉県一の宮館に久米と共に滞在。20日文に求婚の手紙を書く。「理由は一つしかありません 僕は 文ちやんが好きです」とある。10月1日漱石に手紙を書く。16日「今日は、我々のボヘミアンライフを、少し御紹介致します」とある。21日『新小説』に「芋粥」を発表。文壇デビュー第一作である。11月1日「猿」、「創作」を『新思潮』に発表。23日「手巾」を脱稿。)。12月、海軍機関学校英語教官を長く勤めた浅野和三郎が新宗教「大本(当時は皇道大本)」に入信するため辞職する。そこで畔柳芥舟や市河三喜ら英文学者が浅野の後任に芥川を推薦(内田百間によれば夏目漱石の口添えがあったとも)、芥川は海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として教鞭を執った。そのかたわら創作に励んだ。
「手巾」を『中央公論』に発表。
「煙管」を脱稿。
「煙草と悪魔」を脱稿。
「煙管」を『新小説』に、「煙草と悪魔」を『新思潮』に発表。新進作家としての地位を固める。
「MENSURA ZOILI」を脱稿。
この月、井川が恒藤雅子と結婚し、恒藤と改姓
1917年25歳 5月初の短編集『羅生門』を刊行する。その後も短編作品を次々に発表し、11月には早くも第二短編集『煙草と悪魔』を発刊
1918年26歳 の秋、懇意にしていた小島政二郎(『三田文学』同人)と澤木四方吉(『三田文学』主幹で西洋美術史家)の斡旋で慶應義塾大学文学部への就職の話があり、履歴書まで出したが、実現をみなかった
1919年27歳 3月12日友人の山本喜誉司の姉の娘、塚本文と結婚。海軍機関学校の教職を辞して大阪毎日新聞社に入社(新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない)創作に専念する。ちなみに師の漱石も1907年(明治40年)、同じように朝日新聞社に入社している。6月から9月にかけて秀しげ子と二度密会をしたと噂されていた
1920年28歳 3月30日、長男芥川比呂志、誕生
1921年29歳 2月、横須賀海軍大学校を退職し、菊池寛とともに大阪毎日の客外社員となり、鎌倉から東京府北豊島郡滝野川町に戻る。同年5月には菊池と共に長崎旅行を行い、友人の日本画家近藤浩一路から永見徳太郎を紹介されている。 密会相手の秀しげ子に男児が生まれ芥川に似ていると噂された。海外視察員として中国を訪れ、北京を訪れた折には胡適に会っている。胡適と検閲の問題などについて語り合いなどを行い、7月帰国。「上海遊記」以下の紀行文を著した。 この旅行後から次第に心身が衰え始め、神経衰弱、腸カタルなどを病む
1922年30歳 11月8日、次男芥川多加志、誕生
1923年31歳 湯河原町へ湯治に赴いている。作品数は減ってゆくが、この頃からいわゆる「保吉もの」など私小説的な傾向の作品が現れ、この流れは晩年の「歯車」「河童」などへと繋がっていく。 9月1日に関東大震災が発生し、各地で自警団が形成された。芥川も町会(田端)の自警団に、世間体もあるので病身を押して参加した。随筆「大震雑記」やアフォリズム「或自警団員の言葉」に自警が言及される。また震災後の吉原遊廓付近へ芥川と一緒に死骸を見物しに出かけた川端康成によると、芥川は悲惨な光景の中を快活に飛ぶように歩いていたという
1924年32歳 1月、「一塊の土」を『新潮』に、「三右衛門の罪」を「改造」に、「或敵討の話」を『サンデー毎日』に、それぞれ発表する。
4月、千葉県八街に紛擾史実地調査のため赴く(この紛擾を扱った「美しい村」を書いたが、未完に終わった)。
5月15日~22日頃、金沢の室生犀星のところへ旅行をする。5月、玄文社から龍之介の王朝物作品を集めた「泥七宝」を刊行する計画が上がったが、玄文社が倒産したため、未遂で終わった。6月10日、全国教育者協議会の講演(論題は「明日の道徳」)を、東京高等師範学校付属小学校(現在の筑波大学付属小学校)にて行う。7月、第七短編集「黄雀風」を新潮社から刊行する。
7月~翌年3月「The Modern Series of English Literature」全七巻を編集する。7月22日~8月下旬、避暑と仕事を兼ねて、軽井沢つるや旅館に滞在する。室生犀星と同宿。軽井沢では、谷崎潤一郎、堀辰雄、山本有三と交友した。また、龍之介より14歳年上の松村みね子(本名:片山広子)と出会い、彼女の文学的才能に惹かれていった。後に「越し人」「相聞」などの抒情詩を作り、深入りする前に脱却した。9月、随筆集「百艸」を新潮社から刊行する。
10月、「報恩記」を而立社から刊行する。叔父(道章の弟)竹内顕二が亡くなる。義弟(妻・文の弟)塚本八洲が喀血をする。これらの出来事が重なったこともあり、龍之介の健康状態は次第に衰弱していく。また、この年の10月から年明けまで、一編も小説を発表しなかった。12月、庭に書斎を増築する。
1925年33歳 7月12日、三男芥川也寸志、誕生。文化学院文学部講師に就任。1月、「大導寺信輔の半生」中央公論」に、「馬の脚」を「新潮」に、「早春」を大阪毎日新聞に発表する。2月、萩原朔太郎が田端に引っ越してくる。朔太郎は三ヶ月ほどで田端を去ったが、龍之介と朔太郎の友情は生涯続いた。3月、小山内薫・久保田万太郎・里見とん・谷崎潤一郎・水上瀧太郎とともに「泉鏡花全集」の編纂に携わる。龍之介はその宣伝のため、「鏡花全集の特色」「鏡花全集」「目録開口」を書いた。4月中旬~5月6日、修善寺温泉・新井旅館に滞在する。この時、泉鏡花夫妻に会った。「現代小説全集」の第一巻として「芥川龍之介集」を新潮社より刊行する。7月12日、三男・也寸志が誕生した。命名の由来は恒藤恭の恭を訓読みにし、万葉仮名を当てた。この也寸志は後に音楽家となった。この頃友人に「体は暑さ寒さに応え易くなり大いに憮然」と手紙に書いて送っている。8月下旬~9月中旬、軽井沢つるや旅館に滞在する。
9月初旬、風邪を引いて、一週間床に就いた。10月、興文社の依頼により、「近代日本文芸読本」全五巻の編纂に携わる(大正12年9月に興文社より依頼を受け、2年掛かりで完成させてものであった)。龍之介はこの編纂に凝っており、明治期からの作家約450人の作品を収録したが、売れ行きは芳しくなく、無断収録や印税問題、それにまつわるデマなどでかなり神経を悩まされた。11月、紀行集「支那游記」を改造社から刊行する。この頃、俳句や詩にも興味を持った。健康はますます悪化していった。
1926年34歳 1月、「湖南の扇」を「中央公論」に「年末の一日」を「新潮」に発表する。1月15日~2月19日、胃腸病、神経衰弱、不眠症、痔疾などの併発に伴い、湯河原中西旅館に滞在する(「書きたきものも病弱のため書けず、苦しきことは病弱の為一さう苦しみ多し」と書いた手紙を斎藤茂吉に送っている)。一方、妻・文は自身の弟・塚本八洲の療養のため鵠沼の実家別荘に移住。「地獄変」「或日の大石内蔵助」を「文藝春秋」出版部から刊行する。2月22日、龍之介も鵠沼の旅館東屋に滞在して妻子を呼び寄せる。3月5日、室賀文武から聖書を受け取る。4月23日~翌年1月2日、静養のため、鵠沼の東屋旅館に、文・也寸志とともに滞在する。改造社より印税を200円前借りしての鵠沼滞在であった。だが、ひっきりなしに訪れる来客や、周りのうるさく騒いでいる音、ピアノの音などに落ち着かず、睡眠薬の量は増すばかりだった。7月20日には、斎藤茂吉の勧めもあり、東屋の貸別荘「イ-4号」を借り、妻・文、三男・也寸志と住む。夏休みに入り、比呂志、多加志も来る。6月、「点鬼簿」の<父、母、僕>を書き上げる。この作品を書いているとき、額から汗を流し、一行も筆が進まない状態で、苦しみながら書いていた。7月下旬、親友の画家小穴隆一も隣接する「イ-2号」を借りて住む。この間、小品「家を借りてから」「鵠沼雑記」、さらに「点鬼簿」を脱稿。堀辰雄、宇野浩二、小沢碧童らの訪問を受ける。また、鵠沼の開業医、富士山(ふじ たかし)に通院する。9月、『点鬼簿』の<僕>を廃棄して、<姉>を加筆したが、加筆分数枚を書き上げるのに何日も掛かり、「前途暗澹の感」を抱いた。9月20日、龍之介、文、也寸志は「イ-4号」の西側にあった「柴さんの二階家」を年末まで借りて移る。ここで鵠沼を舞台にした小品「悠々荘」を脱稿。これは、震災前に岸田劉生が住み、震災後建て直されて国木田虎雄(国木田独歩の息子で詩人)が借りていた貸別荘を視察した時の経験がヒントのようで、龍之介一家が鵠沼に永住する意図があったとも考えられる。10月、「点鬼簿」を「改造」に発表する。この頃、「鵠沼雑記」を書く。「鵠沼雑記」は遺稿となった。また、この間、斎藤茂吉、土屋文明、恒藤恭、川端康成、菊池寛らの訪問を受けている。12月、随筆集「梅・馬・鶯」を新潮社より刊行。この頃の龍之介は、アヘンエキス、ホミカ、ベロナール、下剤などの薬を食って生きているような状態だった。元号が昭和に替わってから、妻子は田端に戻り、龍之介は「イ-4号」に戻った。甥の葛巻義敏と鎌倉で年越しをしてから田端に戻るが、鵠沼の家は4月まで借りており、時折訪れている
1927年35歳
1月2日、田端の実家に帰る。
1月4日、義兄(姉・ヒサの夫)、西川豊の家が全焼する。西川は元弁護士であり、この当時は偽証教唆によって失権しており、高利の金を借りていた。このため、時価7000円の家に3万円の火災保険が掛けられていた。二階の押入れからアルコール瓶が発見され、西川に放火の嫌疑が掛けられていた。
1月6日、西川豊が、千葉県山武郡の土気トンネル付近にて鉄道自殺をする。このため龍之介はその後始末と、西川が遺した莫大な借金の返済、家族の面倒などの扶養家族の増加などに苦しむこととなった。
2月、帝国ホテルに投宿し、「河童」を執筆する。
2月19日、歌舞伎座で催された、改造社の観劇会に出席する。
2月27日~28日、改造社の「現代日本文学全集」宣伝のため、佐藤春夫とともに、佐藤春夫とともに、大阪へ講演旅行をする。芦屋の谷崎潤一郎邸で一泊。
3月28日、”この頃又半透明なる歯車あまた右の目の視野に回転する事あり、或いは尊台の病院の中に半生を了ることと相成るべき乎。唯今の小生に欲しきものは、第一に動物的エネルギイ、第二に動物的エネルギイ、第さんに動物的エネルギイのみ”と書いた手紙を斎藤茂吉に送っている。
4月より「物語の面白さ」を主張する谷崎潤一郎に対して、「文芸的な、余りに文芸的な」で「物語の面白さ」が小説の質を決めないと反論し、戦後の物語批判的な文壇のメインストリームを予想する文学史上有名な論争を繰り広げる。この中で芥川は、「話らしい話の無い」純粋な小説の名手として志賀直哉を称揚した。
4月7日、芥川の秘書を勤めていた平松麻素子(父は平松福三郎・大本信者)と帝国ホテルで心中未遂事件を起こしている。 『改造』誌上での「文芸的な、余りに文芸的な」をもって、谷崎潤一郎との文芸論争を繰り広げた。
4月16日、菊池寛宛の遺書を書く(この頃からひそかに、知人への告別を行っていた)。
5月、「たね子の憂鬱」を『新潮』に、「本所両国」を「東京日日新聞」に、「今昔物語について」を新潮社の「日本文学講座」にてそれぞれ発表する。
5月13~22日日、改造社の「現代日本文学全集」宣伝のため、里見とんとともに講演旅行をする(10日間で仙台・盛岡・函館・札幌・旭川・小樽を巡る、当時としてはかなりのハードスケジュールだった)。
5月24日、単身で旧制新潟大学での講演。龍之介にとっては人生最後の講演となった。演題は『ポオの一面』。
5月末、宇野浩二が発狂する。龍之介は、宇野の親友・広津和郎らとともに、宇野の面倒を看た。宇野の発狂は、龍之介にとってショックが大きかった。
6月、第八短編集「湖南の扇」を文藝春秋社から刊行する。
6月20日、「或阿呆の一生」を脱稿する(この作品は遺稿となり、龍之介死後の昭和2年10月、「改造」にて発表された)。
7月20日、8月に行われる予定だった、民衆夏季大学の講師依頼に対して「ユク アクタガハ」と電報を打つ。
7月21日、宇野浩二の留守宅を訪ねる(宇野を見舞うとともに、家族の生活費のことなどについて話し合った)。
7月23日、『続西方の人』を書き上げ、夜半に「自嘲 水洟や 鼻の先だけ 暮れ残る」の短冊を翌朝下島に渡してくれるよう、フキに依頼した。
7月24日未明、「続西方の人」を書き上げた後、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。服用した薬には異説があり、例えば、山崎光夫は、芥川の主治医だった下島勲の日記などから青酸カリによる服毒自殺説を主張している。同日朝、文夫人が「お父さん、良かったですね」と彼に語りかけたという話もある。枕元には「聖書」が置かれており、妻や子らに宛てた遺書があった。龍之介は文宛ての遺書に、師の夏目漱石と同じ岩波書店から自分の全集を出して欲しいと書いている。急を聞いて、下島勲、小穴隆一らが駆けつけてきたが、午前七時過ぎに死の告知が行われ、枕元で小穴がデスマスクを描いた。
7月24日夜、家族・友人らによって通夜が行われた。
7月27日、谷中斎場にて葬儀が行われた。先輩総代・泉鏡花、友人総代・菊池寛、文芸家協会代表・里見とん、後輩代表・小島政二郎が弔辞を述べた。
7月28日、日暮里火葬場にて骨上げが行われた。遺骨は染井の慈眼寺境内に葬られた。墓は意志に従って、平素用いていたビロードの唐ちりめんの座布団をかたどり、「芥川龍之介墓」と刻まれた清楚なもの。石碑の字は小穴隆一の筆による。
命日は、龍之介が愛し、作品にも描かれた河童から、『河童忌』と呼ばれている。
11月~昭和4年2月完結、「芥川龍之介全集」全八巻が岩波書店から刊行され始めた。
12月、随筆集「侏儒の言葉」が文藝春秋社から刊行された。
戒名は懿文院龍之介日崇居士。墓所は、東京都豊島区巣鴨の慈眼寺
自殺に関して
1927年7月24日、田端の自室で芥川龍之介は服毒自殺。死の数日前に芥川を訪ねた、同じ漱石門下で親友の内田百閒によれば、芥川はその時点でもう大量の睡眠薬でべろべろになっており、起きたと思ったらまた眠っているという状態だったという。久米正雄に宛てたとされる遺書「或旧友へ送る手記の中では自殺の手段や場所について具体的に書かれ、「僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。(中略)僕は内心自殺することに定め、あらゆる機会を利用してこの薬品(バルビツール酸系ヴェロナール (Veronal) 及びジャール)を手に入れようとした」エンペドクレスの伝記にも言及し「みずからを神としたい欲望」についても記している。
遺書として、妻・文に宛てた手紙、菊池寛、小穴隆一に宛てた手紙がある。芥川が自殺の動機として記した”僕の将来に対する唯ぼんやりした不安”との言葉は、今日一般的にも有名である。死の直前である7月初め、菊池寛に会うため2度文藝春秋社を訪れているが会うことができなかった。社員が菊池に芥川が訪れたことを報告せず、生前に菊池が芥川を訪ねることもなかった。 死の前日、芥川は近所に住む室生犀星を訪ねたが、犀星は雑誌の取材のため上野に出かけており、留守であった。犀星は後年まで「もし私が外出しなかったら、芥川君の話を聞き、自殺を思いとどまらせたかった」と、悔やんでいたという。また、死の直前に「橋の上ゆ胡瓜なくれは水ひひきすなはち見ゆる禿の頭」と河童に関する作を残した。
死の8年後、親友で文藝春秋社主の菊池寛が、芥川の名を冠した新人文学賞「芥川龍之介賞」を設けた。芥川賞は日本で最も有名な文学賞として現在まで続いている。
菊池寛による弔辞
菊池寛は第一高等学校での同級生以来の付き合いであり、友人総代として弔辞を読んでいる。
「 芥川龍之介君よ 君が自ら擇み 自ら決したる死について 我等 何をか云はんやたゞ我等は 君が死面に 平和なる微光の漂へるを見て 甚だ安心したり友よ 安らかに眠れ 君が夫人 賢なれば よく遺兒を養ふに堪ふるべく 我等 亦 微力を致して 君が眠の いやが上に安らかならん事に努むべし
たゞ悲しきは 君去りて 我等が身辺 とみに蕭篠たるを如何せん 友人總代 菊池寛 」
なお、芥川の死について、菊池寛は「芥川の事ども」という文章を残している
河童忌
芥川の命日・7月24日は河童忌と呼ばれる。当初は遺族と生前親交のあった文学者たちが集まる法要だったが、1930年(昭和5年)の四回忌から「河童忌記念帖」として文藝春秋誌上で紹介され、この呼び名が定着した。以後17回忌まで毎年行われていたが、戦争のため中断する。戦後、再開されたが詳しい記録は残っていない
1976年(昭和51年)の50回忌は巣鴨の慈眼寺で墓前祭、丸の内の東京会館で偲ぶ会が催された。この日は第75回芥川賞の贈呈式で、受賞した村上龍も花を手向けにきた。没後90年にあたる2017年(平成29年)からは田端文士村記念館が世話役となり、「河童忌」イベントを開催している
記念館
芥川はいわゆる田端文士村の一員であった。地元の東京都北区は、芥川旧居跡地の一部を購入し「芥川龍之介記念館」(仮称)を2023年に開館する計画を2018年6月に発表した
《 著作 》
1902年10歳 同級生らと回覧雑誌『日の出界』を創刊
1906年14歳 回覧雑誌『流星』に「勝浦雑筆」
1910年18歳 三中の『学友会雑誌』に「義仲論」
1912年20歳 「大川の水」
1914年22歳 処女作「老年」
同年 バルタザアル(翻訳、原作アナトール・フランス)
同年 「ケルトの薄明」より(翻訳、原作ウィリアム・バトラー・イェイツ)
同年 春の心臓(翻訳、原作ウィリアム・バトラー・イェイツ)
同年 クラリモンド(翻訳、原作テオフィル・ゴーティエ)
1915年23歳 「羅生門」
1916年24歳 「鼻」
同年 「芋粥」
同年 「手巾」
同年 「煙草と悪魔」
1917年25歳 「さまよえる猶太人」
同年 「戯作三昧」
同年1月 「運」
1917年4月 「道祖問答」
1917年4月・6月 「偸盗」
1918年26歳 「蜘蛛の糸」
同年 「地獄変」
同年 「邪宗門」
同年8月 「奉教人の死(三田文学)」
同年 「枯野抄」
同年 「るしへる」
1919年27歳 「犬と笛」
同年 「きりしとほろ上人伝」
同年 「魔術」
同年 「蜜柑」
1920年28歳 「舞踏会」
同年 「秋」
同年 「南京の基督」
同年 「杜子春」
同年 「アグニの神」
同年 「黒衣聖母」
1922年30歳 「藪の中」
同年 「神神の微笑」
同年 「将軍」
同年 「報恩記」
同年 「三つの宝」
同年 「トロツコ」
同年 「魚河岸」
同年 「おぎん」
同年 「仙人」
同年8月 「六の宮の姫君」
1923年31歳-1927年 「侏儒の言葉」
同年 「漱石山房の冬」
同年 「猿蟹合戦」
同年 「雛」
同年 「おしの」
同年 「保吉の手帳から」
同年 「白」
同年 「あばばばば」
1924年32歳 「一塊の土」
同年 「桃太郎」
1925年33歳 「大導寺信輔の半生」
1926年34歳 「点鬼簿」
1927年35歳 「玄鶴山房」
同年 「河童」
同年 「誘惑」
同年 「蜃気楼」
同年 「浅草公園」
同年 「文芸的な、余りに文芸的な」
同年 「歯車」
同年 「或阿呆の一生」
同年 「西方の人」
同年 「続西方の人」
<母:芥川 文(旧姓:塚本)>(1900~1968)
塚本 文は父の善五郎が戦死後、母の実家の山本家で過ごした。若いころはヴァイオリンをちょっと習ったらしく、山田流の琴を先生について習っていたと語っている。このとき、塚本 文の母:鈴の末弟、山本喜誉司を通じて芥川龍之介と知り合う。当時、文は7歳、芥川は15歳。文は跡見女学校在学中に18歳で結婚、芥川は27歳だった
1900年7月8日東京府(現東京都)生まれる
海軍少佐・塚本善五郎の娘。善五郎は1904年5月15日、旅順港近海で戦艦「初瀬」に第一艦隊第一戦隊先任参謀として乗艦していた「初瀬 (戦艦)」が沈没時に戦死。葬儀に参加した東郷平八郎連合艦隊司令長官は文を抱き上げ、秋山真之参謀はピアノを練習するよう薦めた。一家の大黒柱を失った母は、実家である山本家に寄寓する。このとき、母の末弟・山本喜誉司の東京府立第三中学校以来の親友・芥川龍之介と知り合う
1916年12月、龍之介と縁談契約書を交わす
1919年2月、跡見女学校在学中に龍之介と結婚する。龍之介の海軍機関学校赴任に伴い、鎌倉市で新婚生活を送る。
1927年7月24日27歳、夫龍之介が服毒自殺。
1941年、三男・也寸志が東京音楽学校予科作曲部を目指して音楽の勉強を始めた時は、也寸志のために自らのダイヤの指環を売り払ってピアノの購入費に充てた。
1945年4月13日、学徒兵として出征していた次男・多加志がビルマのヤメセン地区で戦死する。
1968年9月11日、調布市入間町の三男・也寸志邸にて心筋梗塞のため死去した
<芥川也寸志の兄弟>
長男:芥川比呂志 (1920年3月30日~1981年10月28日)俳優・演出家
東京府東京市滝野川区(現・東京都北区)田端出身。東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業(同級に宮澤喜一がいた)。
1932年同附属中学校に入学。
1937年、慶應義塾大学予科に入学。
1939年同予科から文学部仏文科に進学。演出家女優・長岡輝子や劇作家・加藤道夫たちと新演劇研究会を結成し、学生演劇活動を始める。
太平洋戦争勃発のため慶應義塾大学を繰上卒業し、甲種幹部候補生として群馬県の前橋陸軍予備士官学校(赤城隊)に入校。卒業後の陸軍少尉時代には、帝国陸軍有数の本土防空戦闘機部隊として有名な東京調布の飛行第244戦隊の整備隊本部附として勤務し、陸軍中尉として滋賀県神崎郡御園村の神崎部隊三谷隊にいた時に終戦となり復員する。
1947年演出家・女優長岡輝子、加藤とその妻で女優の加藤治子らと共に「麦の会」を結成。
1949年に「麦の会」は文学座に合流し以来文学座の中心俳優として、または加藤道夫作『なよたけ』などの演出家として大成した。特に1955年の『ハムレット』の主演は、今なお伝説として演劇史に語り継がれているほどの絶賛を博す。貴公子ハムレットの異名を持った。
1963年仲谷昇、小池朝雄、岸田今日子、神山繁、高木均らと共に文学座を脱退し、福田恆存を理事長とする財団法人「現代演劇協会」を設立、協会附属の「劇団雲」でリーダーとして活動する。
1966年にはNHK大河ドラマ『源義経』で源頼朝を演じた。俳優業の傍ら、演出家としての才能も発揮し、1974年『スカパンの悪だくみ』の演出で芸術選奨文部大臣賞、泉鏡花の戯曲『海神別荘』の演出で文化庁芸術祭優秀賞を受賞した。
やがて盟友であった福田と劇団の運営方針を巡って対立。
1975年には高木均、仲谷、岸田、神山、中村伸郎らと雲を離脱し「演劇集団 円」を創立して代表に就任した。しかし、若い頃からの持病である肺結核が悪化していて入退院を繰り返し、期待された「円」での仕事は、1978年の鏡花の『夜叉ヶ池』演出のみに留まった。
1981年10月28日療養中だった目黒区内の自宅にて死去。享年61歳
<著作>
1967年 芥川龍之介 (吉田精一と共著、明治書院〈写真作家伝叢書〉
1970年 決められた以外のせりふ (新潮社)。第18回日本エッセイスト・クラブ賞
1977年 肩の凝らないせりふ (新潮社)
1982年 憶えきれないせりふ (新潮社)
1995年 芥川比呂志エッセイ選集 (新潮社)
2007年 ハムレット役者 芥川比呂志エッセイ選 (丸谷才一編 講談社文芸文庫)
<翻訳>
ジャン・アヌイ
1957年 「アンチゴーヌ」『アヌイ作品集』(白水社)
1988年 「アンチゴーヌ」『アンチゴーヌ アヌイ名作集』(白水社)、上記の選集版
ジャン=ポール・サルトル
1952年 「恭々しき娼婦」(人文書院 サルトル全集「劇作集」)
1961年 「恭しき娼婦」(人文書院 サルトル全集「恭しき娼婦」)、上記の改訂版
1969年 「恭しき娼婦」(新潮社 新潮世界文学「サルトル」)
1966年 「トロイアの女たち」(人文書院 サルトル全集「トロイアの女たち」)
<出演作品>
<舞台>
1967年「榎本武揚」(劇団雲) – 「現代」(演出家)役
<映画>
1950年「また逢う日まで」(東宝)
1953年「モンテンルパ 望郷の歌」(大映)
1953年「雁」(大映)
1953年「にごりえ」(文学座製作 松竹)
1953年「煙突の見える場所」(新東宝)
1954年「或る女」(大映)
1954年「愛と死の谷間」(日活)
1955年「心に花の咲く日まで」(文学座製作 大映)
1956年「子供の眼」(松竹)
1957年「夜の蝶」(大映)
1957年「生きている小平次」(東宝)
1957年「東北の神武たち」(東宝)
1958年「春高樓の花の宴」(大映)
1958年「無法松の一生」(東宝)
1958年「大東京誕生 大江戸の鐘」(松竹、演:松本幸四郎)
1959年「夜の闘魚」(大映)
1960年「濹東綺譚」(東京映画製作 東宝)
1960年「日本の夜と霧」(松竹)
1961年「別れて生きるときも」(東宝)
1961年「東京夜話」(東京映画製作 東宝)
1961年「熱愛者」(松竹)
1967年「ゴメスの名はゴメス・流砂」(俳優座製作 松竹)
1969年「千夜一夜物語」(声優 手塚治虫監督 虫プロ製作 日本ヘラルド)
1969年「日本暗殺秘録」(ナレーション 東映)
1970年「無頼漢」(篠田正浩監督 東宝=にんじんくらぶ製作)
1970年「トラ・トラ・トラ!」(木戸内大臣役 20世紀フォックス・日米合作)
1970年「商魂一代 天下の暴れん坊」(東宝)
1970年「どですかでん」(黒澤明監督 東宝=四騎の会製作)
<TVドラマ>
1958年「五重塔」(KR)
1960年「煉獄」(九州朝日放送) – 炭坑夫Aと第二組合長
1961年「破戒」(NTV)
1964年「徳川家康」(NET)
1964年「幕末」(TBS) – 徳川慶喜
1966年NHK大河ドラマ「源義経」(NHK) – 源頼朝
1969年NHK大河ドラマ「天と地と」(NHK) – 長尾顕吉
1970年NHK大河ドラマ「樅ノ木は残った」(NHK)
1971年NHK大河ドラマ「春の坂道」(NHK) – 柳生石舟斎
1966年「氷点」(NET)※・ナレーション
1966年「真田幸村」(TBS) – 安国寺恵瓊
1967年「ゴメスの名はゴメス」(フジテレビ)
1967年「氷壁」(NTV)
1969年銀河ドラマ「 真夏の日食」(NHK)
1970年ポーラ名作劇場「大変だァ」(MBS)
1970年「ゴールドアイ」(NTV)- ボス役
<ラジオドラマ>
1960年「赤い繭」(NHKラジオ第2、NHK-FM実験放送) – 男
次男:芥川多加志 (1922年~1945年4月13日)外語から学徒出陣し、ビルマ(現:ミャンマー)で戦死
三男:芥川也寸志 (1925年7月12日~1989年1月31日)作曲家
子供の名前は、それぞれ親友の菊池寛の「寛」(比呂志)、小穴隆一の「隆」(多加志)、恒藤恭の「恭」(也寸志)をもらって漢字を替えて名づけた