伊福部 昭

伊福部 昭
IFUKUBE, Akira

(1914年5月31日北海道釧路町幣舞に生まれる)
(2006年2月8日東京目黒区の病院で多臓器不全のため歿)
Birth place:Kushiro Hokkaido Japan
Date of Birth:31/5/1914

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1.職業


日本の作曲家・指揮者・教育者

2.伊福部 昭-歴史年譜


<祖先>
伊福部氏直接の祖先と言われている第14代武牟口命(タケムクチノミコト)=武内宿禰(タケノウチノスクネ)は、景行天皇(西暦71年即位~130年)頃に存在した人物と思われる。
武牟口命は、日本武尊を奉じて征西の途中、稲葉蝦住山の荒海という賊を征伐するために因幡に入国したと『因幡国伊福部臣古志』には記されている。日本武尊(西暦72年頃生~113年頃歿)は第12代・景行天皇の皇子で仲哀天皇の父にあたる。また、神功皇后摂政前紀『日本書紀』に、仲哀9年3月1日(西暦200年頃)神功皇后は吉日を選んで斎宮(いつきのみや)に入り、自ら神主となって武内宿禰に命じて琴を弾かせ・・・とある。これによると伊福部昭の祖先/武内宿禰はなんらかのかたちで音楽に携わっていたと思われる。

<音楽の勉強>
伊福部昭は、ほぼ独学で作曲家となった。作曲のきっかけは、札幌二中の2年生の頃、友人の三浦淳史(評論家)に「音楽やるなら作曲やらないと意味がない」とそそのかされ作曲の勉強を始めたのが始まりと語っている。
北大を卒業して道庁の林務官となり厚岸の森林事務所に務めた。
1936年8月頃、来日したロシアのチェレプニンに呼ばれ、約ひと月くらい横浜で作曲法、管弦楽法を学んだ。
『ベルギー人が” 日本にはフランス風とかドイツ風といった作品はあるが、独自のものは見当たらない”といっていました 。私は小さいころのアイヌの人たちとの付き合いの中で、民族が違うと音楽はこんなに違うのかということを肌で知ったわけです。どうせ書くなら個性のある自分のものを書きたいという気持ちは、こうしたところからきているのかもしれません』と1985年4月8日の北海道新聞夕刊に掲載

<誕生日と命名の由来>
伊福部には誕生日が三つある。本当の誕生日は5月31日(母・キワの大事にしていたものを調べた時に、5月31日午後6時何分と書いたへその緒がしまってあったようだ)。
出生届は伊福部が網走尋常小学校に入学する時に出され、それには3月5日になっている。届出遅延で警察署長の身でありながら罰金を納めたようだ。
「そのほかに3月7日という誕生日もございます。これはだいぶ後になりまが私の曲をボストンでやることになった。その時、私の生年月日を、友人の、今は音楽評論家となっている三浦淳史君が「3月5日はどうせつくった誕生日。それならモーリス・ラヴェルと同じ3月7日にしてしまえ」と、勝手に生まれた日を替えて向こうに出してしまったんです。そのころ私は、ラベルの音楽というのにひじょうに気に入ってたものですからそうしたんですが、それで向こうの音楽辞典には、私の生まれた日が3月7日になっているのがあります」と語っている。
名前の由来は、老子の「俗人昭昭」から命名された。伊福部昭の「昭」とは、『老子』の「俗人昭昭」に因んだもので、【世俗のものはきらびやかで輝いている / 昭昭=明らかではっきりしていること】等という意味があるが、一方「俗人は勉強ばかりして才走りすぎる」ことを戒める意味があり、伊福部は生涯この考えから影響を受けたとされます。

<養子の話>
父:利三は釧路南大通り三丁目二番の近江屋旅館で(現在、朝日生命南営業所がある場所である)呑んでいる時に女主人に向かい、『こんど生まれた子を養子にやる』と約束してしまったことがあるそうだ。この人は石川啄木が在釧時代に思いを寄せた芸者・小奴である。近江屋旅館は昭和37年11月に閉めたようだ。

<アイヌ民族等々からの影響>
小学生4年の時、父が音更村の村長となったため、音更村に移る。同地でアイヌと接し、彼らの生活・文化に出会い音楽観に大きな影響を受けた。代表作の一つ、《シンフォニア・タプカーラ》(1954年)は、アイヌの人々への共感と、ノスタルジアから書かれたという。

<年譜>
1914年(大正3年)
5月31日午後6時半頃、北海道釧路町幣舞(ヌサマイ)伊福部家、四女三男の末子として生まれた。
父・幣舞警察官僚の伊福部利三、母・キワ、4才上に長兄・宗夫(1910年生)、2才上に次兄・勲(1912年生)、長姉佐世子、次姉喜久世、三姉勝子、四姉富貴子(夭逝)がいる。

1920年(大正9年)6才
9月網走尋常小学校入学。入学時に初めて出生届が出され3月5日生まれとなる。父利三は警察署長でありながら届け出遅延で罰金を納めた。「 戸籍では3月5日生まれ、ほんとは5月31日生まれ、その頃人にやるつもりだったのか届け出を遅らせていたんですね 」と語っている。

1921年(大正10年)10才
父の転勤で札幌、西創成尋常小学校へ転校する。さらに札幌の大通尋常小学校に転校した。11月父は帯広警察署・署長となり単身で赴任した。

1922年(大正11年)8才
3月、父利三は依願退官した。

1923年(大正12年)9才
尋常小学校4年の夏、父:利三が音更村村議会から推薦され、音更村第七代目村長就任した。両親に従い伊福部昭(9才)と次兄:勲は音更尋常小学校へ転校。次姉は結婚していた。三姉は札幌の女学校、長兄は札幌二中に通っていた。
伊福部は、父親が村長だったためアイヌの集落へ出入りしていたのに付いて行き、そこでアイヌの舞踊、アイヌ音楽、またムックリやトンコリなどの民族楽器を知り、異なる文化と音楽に興味を持つ。『 音更の家は当時前が沼で、公園になっている裏の高台が遊び場所でした』、『子供の頃はひとりで遊ぶことが多く遊び相手に昆虫とか蛇が大好きでペットにして部屋の中に飼っていたらしい』と後年当時の友達から聞かされたと語っている。
『アイヌと親しく交流するようになり、この時接したアイヌの歌や踊りをはじめとする伝承芸能、各地から集まる開拓者が歌う様々な民謡により自身の音楽の原体験を得、特にアイヌの叙事音楽「シノッチャ」からは生涯忘れえない深い感銘を受け、同時にその後の作曲家としての人生に決定的影響を与えられた』と語る。
『少年時代はアイヌの人たちと一緒になって暮らしていました。人や食べ物や風景、それに匂いや手触り肌触りなど、そのころの体験が身体の中にちゃんと現存しているわけです』、『アイヌの友達と行くとパッと鳥がとれたり、魚がとれたりするから仲良くやってて、そうこうする間に向こうと隠さないで、一般のシャモには見せないアイヌの行事を見せてくれるようになったわけです。こうした付合いの中で得たものが、後にいろいろな形で作品に影響を与えているようです』と語っている。『 私の《シンフォニア・タプカーラ》という作品は、彼等からの共感とノスタルジアから書いたものです。《タプカーラ》というのは、「立って踊る」といった意味で、自分のその時の心境のようなものを踊りと詩によって表現する習慣があるんです 』、『 音更での生活では、親父からよく老子の素読をやらされたことも忘れられません。
夜におやじから”おい、お前読んでみな”と言われる。そうすると20分から30分自分のやつを声を出して読むわけです~素読をやらされたのはうちではボクだけです。兄たちは札幌の中学に行ってるし、姉たちは嫁さんにいくという具合で、音更の家には僕と両親の三人だけでした。親父に無理やりやらされた老子ですが、若い時にバイブルを読んだ方と同じに、考えられないほどの強い影響を受けていると思っております。今でも読みます』、『音更にいたころ、まあそこは田舎なんですが、床屋ヴァイオリンと言われるくらいでどこの床屋にもヴァイオリンが置いてあったんです。~そんな中で兄貴や私もヴァイオリンに触れました。音更には洋楽をやる人はいなかったが、レコードや蓄音機はありハイフェッツ、エルマン、ジンバリスト、クライスラーといったのを繰り返し聴いた。親にヴァイオリンを買ってもらったりして、見よう見まねで弾くことはできるようになった 』と少年時代を語っている。

1926年(大正15年)12才
札幌第二中学(北海道札幌西高等学校の前身)の受験は帯広中学で試験を受け入学、兄弟三人は札幌、大通西十三丁目に祖母寿々と若月はまが同居し生活が始まった。
長兄宗夫は北海道帝国大学予科一年、二兄勲は札幌二中2年であった。
その後、父が建てた南十三条四十三丁目に住んだ。中学時代に後の音楽評論家で、生涯の親友となる三浦淳史と出会う。
初めは絵画に熱中し「めばえ画会」、船山馨らの「桑の木画会」に入って1年上の佐藤忠良(彫刻家)、同級の船山肇と交流し地元で展覧会も開いたという。
その後音楽に関心を持ち聴きはじめた。『当時中学の正課には音楽がなかったんですが、音楽部があったんです。そこが演奏会を催して私はヴァイオリンでバッハなどを弾いていました。
音更を出るとき、中学にお祝いだというので役場で戸籍係をしていた渋谷さんという人が、ヴァイオリンを贈ってくださいまして』、『札幌でヴァイオリンは何人かの人に教わりました』。

1927年(昭和2年)
13才の頃から作曲を独学で勉強するようになる。
『 中学時代には~ストラヴィンスキーに傾倒しておりましたから、ロシア・バレエ団を率いたディアギレフやバレエ団の花形舞踊手であり振付師でもあったニジンスキーなどの名前も知っていました 』と語っている。
『中学に入ってから小樽商高を出た人にちょっと習った以外一人で教則本なんかを見ながら指にタコが出来るくらい練習しました。その後一度田上義也(1899年(明治32年)建築家・音楽家)さんに教わったことがあります。当時の一流のヴァイオリニストでしてね ” あんたにはもう教えるところがねえや ” なんて言ってくれました』、二年から学校の演奏会に出るようになった。
同級生の三浦淳史に”音楽やるには作曲やらないと意味がない”とそそのかされ、海外から入手した楽譜とレコードをもとに独学で作曲の勉強を始め、簡単なピアノ曲などを作っていたようだ。『そのころ札幌にはジンバリスト、ハイフェッツとか世界の第一級のヴァイオリニストが来ていまし』と語っている。

1928~29年(昭和3~4年)
『オーケストラのような本格的な作曲に手を染めたのは三~四年になってからです。きっかけがストラヴィンスキーの《春の祭典》です。
レコードで聴いてもう驚いてしまって・・・こういうのが音楽というなら、アイヌのタプカーラやリムセも全部似たようなものですから。それなら自分でも書いてみようか、書けるんではという気になってきたんです』。
註/参考:(https://www.akira-ifukube.jp/伊福部昭を読む/自伝-北の譜、昭和60年3月30日(土)北海道新聞夕刊より)最終アクセス2019年10月16日。

1931年(昭和6年)17才
3月6日札幌第二中を卒業。小樽高等商業学校を受験したが合格発表を見に行かなかったようだ。10月ヤッシャ・ハイフェッツの演奏を札幌の松竹座で聴く。

1932年(昭和7年)18才
4月9日北海道帝国大学(北海道大学の前身)農学部林学実科に入学。
文部会管弦楽団に入り、いきなりコンサート・マスターを任せられ大学時代は学生オーケストラのコンサートマスターを務めた。さらに、同オーケストラ内で最新の音楽への関心が強い同志3名(有田学、小岩武、工藤元)とともに、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」を結成する。工藤は当時札幌師範学校教諭で、大正期に函館で「アポロ音楽会」を主宰した工藤富次郎の長男であった。
このころ北海中学を卒業した後の作曲家早坂文雄と出会う。
8月友人を頼って青森県南津軽郡大鰐町に行き「ねぶた祭り」を見た。
この頃の伊福部三兄弟は、長兄宗夫はマンドリン、二兄勲はギター、伊福部がヴァイオリンを弾き「音楽三兄弟」として知られた存在だったと言われている。
作品:ギター曲《ノクチュルヌ》、ギター曲《JIN》

1933年(昭和8年)19才
1月29日札幌放送局に出演して勲のギターとヴァイオリンを演奏。
アマチュア・ギター奏者であった二兄・勲のために前年、ギター曲《ノクチュルヌ》を作曲。ギター曲《JIN》を作曲した。
さらに、三浦淳史(後の音楽評論家)と伊福部が冨貴堂でジョージ・コープラン「スペイン音楽集」買って聴いた三浦が、スペイン滞在住の米国人ピアニスト、ジョージ・コープランドに手紙を送った。
コープランドの「地球の反対側にいながら私の音楽を聴くのだから、作曲もやるのだろう。曲を送れ」という旨の手紙に対して、三浦が「よい作曲家がいるので曲を送る」と返事を書いたことを受けて伊福部が《ピアノ組曲》を書き上げコープランドに献呈した。なお、コープランドからは「面白いのでぜひ演奏したい」という返信があったが、スペイン内戦のため手紙が途絶えたという。
長兄・宗夫が北大を卒業し同庁に入り石狩川治水事務所勤務となる。
三浦、早坂らと「新音楽連盟」を結成し、当時の最先端の現代音楽作品を演奏していく。
独唱曲《平安朝の秋に寄せる三つの歌》作曲しソプラノ歌手荻野綾子に献呈した。
10月8日ギター曲《ノクチュルヌ》を二兄・勲がリサイタルで初演された。
作品:独唱曲《平安朝の秋に寄せる三つの歌》、ピアノ曲《日本組曲》

1934年(昭和9年)20才
次兄の勲、三浦淳史(後の音楽評論家)、早坂文雄(後の作曲家)「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」のメンバーらとともに、「新音楽連盟」を結成。
2月11日札幌公会堂で新音楽連盟ピアノ六重奏団、建国記念音楽界でデビュー演奏。代表は伊福部の長兄の宗夫がつとめた。
9月30日<国際現代音楽祭1934>を今井記念館で開催。イーゴリ・ストラヴィンスキー、ダリウス・ミヨー、マヌエル・デ・ファリャ、エルヴィン・シュルホフ、エリック・サティなど、時代の最先端をいく作品を演奏して紹介した。
エリック・サティ作曲《右と左に見えるもの(眼鏡無しに)》、《3つのグノッシェンヌ》、《気取りやの気むずかし屋の3つの特異的ヴァルス》、《新婚者の起床》
エルヴィン・シュルホフ作曲《無伴奏ヴァイオリンソナタ》
ルイ・グリュンベルク《弦楽四重奏のための4つのインディスクレーション》
アルフレッド・カセルラ《弦楽四重奏のための5つの小品》
ピエール・オクターブ・フェルー《ノンシャラント(組曲モンソウ公園にて第3番)》が日本初演された。
また、この演奏会で伊福部はソリストとして、シュルホフの《無伴奏ヴァイオリンソナタ》を日本初演している。
楽譜の入手は伊福部と、当時アメリカの音楽家と文通するなど、最新の音楽事情に精通していた三浦が中心に行っており、主に丸善を通してフランスのデュラン社・イギリスのチェスター社から購入していた。なお、伊福部は上記の他にもヤナーチェクの《六重奏曲》の楽譜を入手していたが、当時はその価値がわからず演奏会で発表することはなかった。伊福部はこのことを後年まで悔やんでいたという。また、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」のメンバーとしても、札幌・旭川など道内各地で演奏旅行も行った。 「新音楽連盟」の演奏会は上記の一度きりであった。

1935年(昭和10年)21才
4月北海道帝国大学農学部林学実科を卒業後、北海道庁地方林課林務官として10月16日地方費森林厚岸事務所へ調査造林係補助・作業助手として配属され赴任した。
9月長兄・宗夫、菊池ナミと結婚した。
『アメリカの指揮者フェビアン・セヴィツキー(Fabien Sevitzky, 1893年9月29日-1967年2月3日)がいました。レコードを聴いて三浦君とまた手紙を出したんです~”なかなか詳しそうだから作曲もやっているだろう。あるなら送って欲しい。ボロディン程度のあまりモダンなものでなければやろう”と返事が来たんですね。作品がないというのも残念だから書きだしたんですね。~オーケストラに直し、スコアーを送った。これが《日本狂詩曲》です。しばらくして”ぜひ演奏したい”と言って来ました』。
『チェレプニン(註1)賞コンクール(日本人対象)募集が音楽雑誌に出たんですね~《日本狂詩曲》を応募したんです。審査員の中にモーリス・ラヴェルの名を見つけ、ラヴェルに見てもらいたいという一心で、《日本狂詩曲》を賞の規定に合わせ第1楽章≪じょんがら舞曲≫をカットして第2、3楽章に変更して応募した』。
結局ラヴェルは病気のため審査員を降りたが、チェレプニンを初め審査員アルベール・ルーセル、アレクサンドル・タンスマン、アンリ・ジル=マルシェ、アンリ・プリュニエール、ジャック・イベール、ティボール・ハルシャニー、ピエール・オクターブ・フェルーといったフランス近代音楽を代表する作曲家たちが審査にあたった。
このコンクールの審査会場はパリであった。満場一致を得て第一位入賞した。
パリへ楽譜を送る際、東京からまとめて送る規定になっていたため伊福部の楽譜も東京へ届けられたが、東京の音楽関係者はその楽譜を見て、平行五度などの西洋音楽の和声の禁則を無視し、その場の日本人にとって下衆に見えた日本の伝統音楽のような節回しが多いこと。当時としては極端な大編成である編入楽器多数の(打楽器奏者だけで9人を要する)三管編成オーケストラが要求されていたこと。北海道の厚岸町から応募してきたこと。の理由から、相当の驚きと困惑があったと言う。とくに”正統的な西洋音楽を学んできた日本の中央楽壇にとって恥だから、伊福部の曲を応募からはずしてしまおう”という意見も出たが、作曲家の大木正夫の”審査をするのは東京の我々ではなくパリの面々だし、応募規程を満たしているのに審査をはずす理由もなく、せっかく応募してきたのだから”という意見が通り、伊福部の曲も無事パリの審査会場へ届けられた。
厚岸では湾月町の五味旅館新館のベランダのある二階に下宿した。
12月17日伊福部にチェレプニン賞第1位に入賞の知らせが届く。『チェレプニン賞(賞金は300円であった)の知らせが入りその後間違いではないかと問合わせの電報がパリにいったほどです』。
北海道の厚岸なんかにオーケストラを書ける作曲家なんているはずがないじゃないかって思われた。 伊福部は世界的評価を得ることとなった。この時の第2位は、伊福部と同じくほぼ独学で作曲を学んだ松平頼則であった。
《日本狂詩曲》のチェレプニン賞受賞の知らせは新聞により厚岸中に広がり林務官・伊福部の名は広く知られるところとなり、音楽仲間が増え、厚岸実科高等女学校のピアノを借りられることにつながった。松平とは後に新作曲派協会を結成することになる。
作品:《日本狂詩曲》
註1:アレクサンドル・ニコラエヴィチ・チェレプニン(Alexander Nikolayevich Tcherepnin)、1899年1月20日-1977年9月29日)は、ロシア生まれの作曲家、ピアニスト。サンクトペテルブルクに生まれ、5歳で父から音楽を教わる。父がバレエ・リュスの指揮者だったおかげで多くの音楽家たちの薫陶を受ける。18歳でサンクトペテルブルク音楽院に入学。ロシア革命後の1918年、チェレプニン一家はグルジア経由でパリへ亡命した。アレクサンドルは本格的に作曲家・ピアニストとしての活動を始め、モーリス・ラヴェル、イーゴリ・ストラヴィンスキー、フランス6人組などと親交を持つ。1933年、チェレプニンは「自ら課している技法の定石」から脱却すべく民謡に目を向けるようになり、ロシア、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャン、ペルシャ民謡を採集した。そして彼は1934年から1937年にかけてアジアを訪問、中国及び日本で若手作曲家の指導と育成に当たる。日本では、江文也や早坂文雄や伊福部昭らを指導し、「チェレプニン賞」を設立すると共に「チェレプニン・コレクション」として若手作曲家たちの作品を出版し、自らピアノで演奏した。伊福部昭には、「ナショナルである事こそがインターナショナルである」と指導し、この言葉が彼の作風の原点となった
要約:Wikipedia

1936年(昭和11年)22才
4月5日ボストンのジョルダン・ホールで指揮者フェビアン・セヴィツキー指揮 / ピープルス交響管弦楽団により《日本狂詩曲》初演された。なお初演の際、チェレプニン賞への応募に合わせて第1楽章はカットして演奏され、永遠に幻となった。
なお、この幻の日本狂詩曲第一楽章「じょんがら舞曲」は、《日本狂詩曲》のスコア浄書を手伝った、次兄・勲の追悼のために書かれた《交響譚詩》の第二譚詩(第二楽章)にその一部が組み込まれている。
7月27日上京。28日チェレプニンと東京の歌舞伎座で会う。「来日したチェレプニンが厚岸の僕に ” 会って話がしたい ” と連絡があった。こっちも“待ってました”と喜んだんですが、何分旅費が乏しい。ところが“そんなの気にするな。宿賃は出す”というんですね。じゃありがたく、とチェレプニンのいる横浜に行ったわけです。会ってみると、チェレプニンは大柄で立派な人でした。授業料も取らずに翌日から作曲法や管弦楽法教えてくれました。ひと月ぐらい居たんじゃないでしょうか。人に師事して音楽を直接指導を受けたのは、後にも先にもこの時だけです」。伊福部はチェレプニンから「その時チェレプニンが ” 前のものはないか ” というので~《日本組曲》を見せたんですが ” いやいやこれは立派なものだ ” というわけです」。
チェレプニンは伊福部にニコライ・リムスキー=コルサコフの《スペイン奇想曲》のスコアを渡し、筆写して学ぶことを勧めた。チェレプニンから”ナショナルである事こそがインターナショナルである”と指導を受けたといわれている。
また、 《日本狂詩曲》は大編成の大作だが、何度も演奏されやすいよう編成を考えて書くべきというチェレプニンの意見に従い、次作として14人編成で全員ソロの小管弦楽曲《土俗的三連画》を書いた。なお、《日本狂詩曲》はこの年、龍吟社から楽譜が出版されている。表紙のデザインは、美術にも関心が深かった伊福部自身が手がけた。この楽譜は、日本国内では僅か九冊しか売れなかったが、海外での購入者の中には、モーリス・ラヴェルやジャン・フランチェスコ・マリピエロらの名前もあったという。
10月16日チェレプニンが札幌に来る。
新音楽連盟主催で「チェレプニン洋琴独奏会」を開催、滞在時にチェレプニンは福部家を訪問した。
兄・宗夫、帯広土木事務所に転勤となる。

1937年(昭和12年)23才
2月『林務官というのは冬になるとヒュッテにひとりこもっているから身を入れて勉強出来るんですね。吹雪の時なんか山を見回らなくてもいいので、完全に一日休めるわけです。ヒュッテにはギターとヴァイオリンを持っていきまして、ランプの光の中で室内管弦楽曲《土俗的三連画》という曲を書きました。小さなオーケストラでしたが、この曲をチェレプニンに献上しました』。
5月9日《土俗的三連画》献呈に対する礼がチェレプニンから電報で届く。
6月7日二兄・勲の札幌ギター連盟第三回演奏会で《盆踊り》がギター二重奏曲として演奏された。
9月室内楽《トリプティーク》をベルギー、ブリュッセルで開かれた作曲家作品コンクールに出品。
「厚岸では≪アッケシザクラ≫という新種の桜を発見したことも忘れられない思い出です。場所は国秦寺の付近で北海道大学の舘脇操さんが認めて二人の名前が付いてます」と語っている。
作品:室内管弦楽曲《土俗的三連画》、室内楽《トリプティーク》

1938年(昭和13年)24才
1月二兄・勲、角ヒサと結婚。
以前書いた《ピアノ組曲》をヴェネツィア国際現代音楽祭に応募し入選し、ジーノ・ゴリーニが全曲初演し国際的評価を受けた。
この時期は日本の民族音楽の他、アイヌやギリヤーク(ニヴフ)といった北海道や樺太の少数民族の文化に発想を求めた作品が多い。
《日本組曲》と《日本狂詩曲》が組み合わされて舞踊曲『盆踊』となりウィーンで初演された
アレクサンドル・チェレプニンの手で八つの場面からなる舞踊曲で公演はウィーン、出演はロシア・バレエ団。振付はセルゲイ・ソデイキンが行った。伊福部はこれを自らの作品歴には入れていない
兄・宗夫に長女・尚子誕生したが結核を患い妻の実家の秋田県荷上場村に療養のため移る

1939年(昭和13年)25才
1月13日《土俗的三連画》、小船幸次郎:指揮 / 演奏:新交響楽団で初演、放送された。
3月13日《土俗的三連画》がイタリア国際放送から放送された。
6月9日ポーランド、ワルシャワで「日本音楽の夕 日本現代音楽」が開催され、小船幸次郎が《日本狂詩曲》を指揮。
7月5日イタリア国際放送から《日本狂詩曲》第一楽章「夜曲」が放送された。

1940年(昭和15年)26才
厚岸に5年いて3月林務官を辞め札幌に戻り、北海道大学農学部副主を務めながら北海中学の教師になっていた兄・勲の住む札幌市南十三条西十三丁目に落ち着き、北海道帝国大学の演習林事務所嘱託として雇用され、図書の管理などをして勤め始めた。
舞踊家・勇崎愛子(本名アイ)を知る。
7月7日札幌で開催された小樽新聞主催の紀元二千六百年記念祭(札幌神社外苑総合グラウンド(現円山総合運動場)野外大聖部頌楽祭)に於いて、管弦楽団 / 混声合唱団 / ブラスバンド / 舞踊(振付:勇崎愛子(後の伊福部夫人))を指揮して交響舞曲《越天楽》を初演した。
「勇崎愛子舞踊研究所」の子ども公演で伊福部昭はピアノ伴奏をした。
兄・勲、北海中学を退職し海軍の戦時研究のため上京し羽田の日本夜光塗料研究所に勤める。
作品:交響舞曲《越天楽》

1941年(昭和16年)27才
長兄・宗夫は北大工学部土木工学部助手になる。
伊福部は豊平の帝室林野局林業試験場で飛行機用の強化木の研究員として勤める。
服部健とギリヤーク族などを共同研究始める。更科源蔵を知る。
ピアノ協奏曲《ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲》作曲。
4月11日勇崎アイ(舞踊家の名前は愛子)と結婚した。
兄・勲の妻ヒサと娘・道子と祥子が上京。
兄・宗夫、札幌に戻り北海道大学土木工学科助手となった。
作品:ピアノ協奏曲《ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲》

1942年(昭和17年)28才
2月27日妻アイと上京。3月3日日比谷公会堂で《ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲》がピアノ独奏松隈陽子、指揮:マンフレート・グルリット、演奏:東京交響楽団で初演された。軍から行進曲の依頼があり古典風軍楽《吉志舞》の作曲に入る。
10月兄・宗夫は結核が再発し療養のため北大時代の恩師ニール・ゴードン・マンロー博士(英国人)の旧宅がある北海道沙流郡平取郡二風谷村に妻、長女・尚子、長男・敦を連れて移った。
12月12日兄・勲が、東京・羽田の住まいで戦時科学研究の放射線障害により逝去。伊福部参列のために15日9時半に延ばされた葬儀にぎりぎりに間に合った。勲の死後、長男・尚一が生まれた。

1943年(昭和18年)29才
2月27日古典風軍楽《吉志舞》完成。
日本音響(株)(日本ビクター)が主催する管弦楽曲の懸賞募集に兄・勲に捧げる曲として《交響譚詩ー亡兄に捧ぐー》を作曲て応募した。審査員は清瀬保二、野村光一、橋本国彦、堀内敬三、増沢健美、諸井三郎、山田耕筰、山根銀二であった。第一位で入選通知を受け上京。伊福部の入選作品は初のレコーディングされることとなった。
4月21、22日《土俗的三連画》日本交響楽団第三回定期演奏会でローゼンシュトック指揮で演奏された。
9月4日《交響譚詩ー亡兄に捧ぐー》指揮:山田和男、演奏:東京交響楽団でレコーディング。
フィリピン独立を祝って山田耕筰を団長とする音楽使節団がフィリピンを訪れ、11月マニラで《交響譚詩》を山田耕作:指揮、新フィリピン交響楽団で演奏された。
《交響譚詩》のレコード盤は同年の文部大臣賞を得た。
作品:古典風軍楽《吉志舞》、《交響譚詩ー亡兄に捧ぐー》

1944年(昭和19年)30才
1月30日、日比谷公会堂で行われた<独立祝典贈呈演奏会>に夫婦で出席し、政府の宣伝のための音楽《フィリッピン國民に贈る管絃樂序曲》(後に《フィリピンに贈る祝典序曲》に改題)が尾高尚忠の指揮、日本交響楽団による初演を聴いた。
管絃楽のための音詩《寒帯林》作曲。
3月18日《交響譚詩》レコード盤の文部大臣賞授賞式。
4月29日古典風舞曲《吉志舞》日本交響楽団により初演放送された。
9月から10月にかけ満州や蒙古を題材にした曲を作って欲しいと満映の社長でもあり新京音楽団を設立した陸軍軍人・甘粕大尉から作曲を依頼される。新京音楽院の招きで、指揮者の朝比奈隆と共に新京、ハルピン、熱河、奉天、蒙古へ行く。管絃楽のための音詩《寒帯林》の作曲に取り掛かる。
12月6~7日陸軍から依頼のあった管弦楽曲《兵士の序楽》指揮:金子登、演奏:東京交響楽団で初演された。
作品:《フィリピンに贈る祝典序曲》、管絃楽のための音詩《寒帯林》、管弦楽曲《兵士の序楽》

1945年(昭和20年)31才
1月20日宮内省帝室林野局北海道林業試験場より戦時科学研究員嘱託に命じられる。放射線による航空機用木材強化の研究に携わるが、当時は防護服も用意されず、無防備のまま実験を続け、放射線障害を負う。
3月10日宮内省帝室林野局北海道林業試験場勤務を命じられる。
4月26日満州・新京で《管弦楽のための音詩「寒帯林」》が指揮:山田和男、演奏:新京音楽団交響楽部によって初演された。
研究成果を得ないまま終戦となった8月28日帝室林野局構内で突然血を吐いて倒れたが、医者には結核や過度の電波実験による毛細管の異状などと言われ『一年間札幌の自宅で静養を余儀なくされた』、『何せ生命が最も軽んぜられた時代なので、医師も無責任なものであった』と述懐している。また、この時病臥した経験が、後に音楽に専念するきっかけとなったという。
2月9日長女・玲子誕生。

1946年(昭和21年)32才
航空機に伴う一切の仕事はマッカーサー上陸後、禁止となり職を続けられなくなった。自宅で静養中、『そのころ東京の知人からオーケストラが書けるなら映画の仕事をやったらどうだと誘われ~東京に出る決心をした。家内と長女の家族三人で8月15日札幌を出発、東京へ着いたが焼け野原で食料、住宅事情ともどん底の時代、地方からの転入制限もありやむなく日光の奥の久次良に友人の古い家が空いていたので、ひとまずそこへ落ち着きました。御用邸の上です。8月17、8日頃でした』。
その後間もなく、東京音楽学校(現東京藝術大学)学長に新任した小宮豊隆さんから呼ばれ作曲科講師となった。『小宮さんは~ある時懇意にしている森田たまさんに、同じ北海道というとこで ” 昔、渡欧中伊福部という男の作品を聴いたことがあるが、どうしているだろう ” と聞いたらしい。森田さんは私のことをよく知っているもんですから ” 日光にいるが食えないで困っているようだ ” と返事した。東京音楽学校に行ってみると作曲科講師のお話だった。すぐに引き受けて9月から講義を始めたんです』と語っている。
11月芥川也寸志が久次良の山荘を訪れる。このころ北大で戸田敏子が《ギリヤーク族の古き吟誦歌》試演された。
この作曲科では、初めて担当した芥川也寸志、黛敏郎などから大変慕われた。
特に芥川は2回目の授業の後で奥日光の伊福部家を探し当て、数日逗留したという逸話を持つ。そのほかにも教育者として松村禎三、矢代秋雄、池野成、小杉太一郎、山内正、石井眞木、三木稔、今井重幸、永瀬博彦、和田薫、石丸基司、今井聡、など多くの作曲家を育て、その傍ら、東宝の映画音楽の作曲にも携わった。またこの頃「管弦楽法」の執筆に取り掛かっていたが、東武鉄道日光線でトランクに入れていた原稿やメモを、乗っていた電車からトランクごと落としてしまった。翌日探しに行ったが、原稿はほとんど散逸してしまっており、このために「管弦楽法」をまとめるのに5年はロスしたという。
11月4日二女・姜子誕生。
作品:歌曲《ギリヤーク族の古き吟誦歌》

1947年(昭和22年)33才
4月東京都世田谷区玉川等々力町に転居。
1月26日ベルトラメリ能子が独唱曲《ギリヤーク族の古き吟誦歌》を初演された。
東宝プロデューサーの田中友幸から依頼を受け、《山小屋の三悪人》(公開題名は、《銀嶺の果て》)で初めて映画音楽を担当し8月5日封切り。伊福部はこの作曲依頼について、『おそらく私が山林官で、山奥の生活を知っているだろうということであったのだろうと思っています』と語っている。この初仕事で、一見明るい場面に物悲しい音楽を付けるという音楽観の違いから監督の谷口千吉と対立した。その日の録音を取りやめ、演奏者に帰ってもらった後、数時間議論を続けたという。このとき仲裁をしたのが脚本の黒澤明であった。黒澤の仲裁もあって曲はそのまま採用されたが、断片的な場面ごとではなく作品全体を見渡した結果としての主人公の心情を表した音楽を意図したことが認められ、最終的には音楽への真摯な態度が製作側からも評価された。
『映画音楽では人間の話し声の振動数は空けて低音と高音ではさんでいくという特別な技法を使います。そうでないとセリフが聞こえなくなりますから。テーマ音楽の書けない写真は、ひとつひとつの場面、場面で勝負ということになります。ただ映画の仕事は期間が短すぎますね。4日ぐらいで40曲も書かないといけないもんですから、これがつらい』と語っている。
11月3日《交響譚詩》等の業績により、第1回北海道新聞文化賞を受賞。
12月1、2日帝国劇場でピアノ伴奏によるバレエ曲《イゴザイダー》(江口隆哉・宮操子振付)上演。
11月11日新東宝映画《幸福への招待》音楽を担当。
作品:バレエ曲《イゴザイダー》、東宝映画《銀嶺の果て》

1948年(昭和23年)34才
世田谷区玉川奥沢町に転居。
《ヴァイオリン協奏曲》初演(後に《ヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲》と改題。また1951年〈昭和26年〉の改訂により当初の三楽章編成のうち第二楽章を省かれる。改訂は1951年、1959年〈昭和34年〉、1971年〈昭和46年〉。
5月28、30日帝国劇場でバレエ音楽《サロメ》(貝谷八百子・振付)を指揮:上田仁、演奏:東宝交響楽団で上演。(《サロメ》は1987年に演奏会用の管弦楽曲に、2002年〈平成14年〉に、二十五絃箏甲乙奏合《七ツのヴェールの踊り》、2004年〈平成16年〉に、二十五絃箏甲乙奏合《ヨカナーンの首級を得て、乱れるサロメ》へと編曲された。
6月22日《ヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲》が東宝グランドコンサート<日米現代音楽祭>で江藤俊哉(Vn.)、指揮:上田仁、演奏:東宝交響楽団により日比谷公会堂において初演された。
10月31日バレエ音楽《さまよえる群像》(石井漠・振付)ピアノ伴奏により帝国劇場で上演。
2月3日東宝映画《第二の人生》音楽を担当。
6月8日新東宝映画《黒馬の団七》音楽を担当。
9月3日松竹映画《颱風圏の女》音楽を担当。
12月10日松竹映画《社長と女店員》音楽を担当。
作品:《ヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲(ヴァイオリン協奏曲第一番)》、バレエ音楽《サロメ》、バレエ音楽《さまよえる群像》、東宝映画《第二の人生》音楽、新東宝映画《黒馬の団七》音楽、松竹映画《颱風圏の女》音楽、松竹映画《社長と女店員》音楽

1949年(昭和24年)35才
10月ベルトラメリ能子により歌曲《サハリン島土蛮(現先住民)の三つの揺籃歌》初演された。
ポリドール・レコードの企画でバレエ音楽《子供のための舞踏曲 リズム遊びのための10の小品》作曲。
12月20~24日バレエ音楽《憑かれたる城(バスカーナ)》(貝谷八百子・振付)を指揮:上田仁、演奏:東宝交響楽団、帝国劇場で上演。
2月8日大映映画《検事と女看守》音楽を担当。
3月13日大映映画《静かなる決闘》音楽を担当。
4月5日森田プロ《斬られの仙太》音楽を担当。
4月18日松竹映画《美しき罰》音楽を担当。
6月21日新東宝映画《深夜の告白》音楽を担当。
7月11日東宝映画《ジャコ萬と鐵》出演:三船敏郎、監督:谷口千吉、音楽担当。
7月18日大映映画《虹男》音楽を担当。
8月2日新歌舞伎座プロ《恋狼火》音楽を担当。
10月理研映画《育ちゆく村》音楽を担当。
12月理研映画《くちびるに歌をもて》音楽を担当。
1月19日父・利三(82才)逝去。
4月5日長男・極誕生。
作品:歌曲《サハリン島土蛮(現先住民)の三つの揺籃歌》、バレエ音楽《子供のための舞踏曲 リズム遊びのための10の小品》、バレエ音楽《憑かれたる城(バスカーナ)》、大映映画《検事と女看守》音楽担当、大映映画《静かなる決闘》音楽担当、森田プロ《斬られの仙太》音楽担当、松竹映画《美しき罰》音楽担当、新東宝映画《深夜の告白》音楽担当、東宝映画《ジャコ萬と鐵》音楽担当、大映映画《虹男》音楽担当、新歌舞伎座プロ《恋狼火》音楽担当、理研映画《育ちゆく村》音楽担当、理研映画《くちびるに歌をもて》音楽担当。

1950年(昭和25年)36才
9月玉川尾山町(現尾山台)に転居。
12月11、12日バレエ音楽《プロメテの火》(江口隆哉・宮操子振付)指揮:上田仁、演奏:東京交響楽団、帝国劇場で上演。
2月19日東横映画《俺は用心棒》音楽担当。
2月19日大映映画《魔の黄金》音楽担当。
2月26日東横映画《戦慄》音楽担当。
3月5日大映映画《遥かなり母の国》音楽担当。
作品:バレエ音楽《プロメテの火》、東横映画《俺は用心棒》音楽担当、大映映画《魔の黄金》音楽担当、東横映画《戦慄》音楽担当、大映映画《遥かなり母の国》音楽担当。

1951年(昭和26年)37才
夏、江口隆哉らと岩手県江刺郡岩屋堂町に赴き鹿踊りを取材。
11月17日バレエ音楽《日本の太鼓「鹿踊り」(江口隆哉・宮操子振付)指揮:上田仁、演奏:東京交響楽団、日比谷公会堂で上演。(この曲は1984年に演奏会用《日本の太鼓 ジャコモコ・ジャンコ》に編曲された)
11月25日『音楽入門 音楽鑑賞の立場』を要書房から刊行
大映映画《源氏物語》の監督吉村公三郎、出演:長谷川一夫、音楽担当
作品:バレエ音楽《日本の太鼓「鹿踊り」》、大映映画《源氏物語》音楽担当

1952年(昭和27年)38才
8月12日《ヴァイオリンと管弦楽のための狂詩曲》ジェノヴァ国際作曲コンクール「リリー賞」受賞。
北海道放送局開局にともない、放送開始と終了時の曲《ウポポ》を作曲指揮して録音。
作品:《ヴァイオリンと管弦楽のための狂詩曲、海道放送局開局にともない、放送開始と終了時に流す曲《ウポポ》、近代映画協会映画《原爆の子》音楽担当。

1953年(昭和28年)39才
東京藝術大学(元東京音楽学校)音楽科講師を退任。『映画の仕事が増えたこともありますが、学生増で40人ぐらいも担当しなけりゃならなくなったのが一番の理由です』と語っている。
10月1日『管絃楽法』(音楽之友社)刊行(後の『管絃楽法』上下巻の上巻の増補部分を除く部分)。
11月6、14、15日バレエ音楽《人間釈迦》が上田仁指揮、演奏:東京交響楽団、日比谷公会堂で上演された。(この曲は1989年に演奏会用に編曲)。
11月29日北海道放送からラジオ放送された音楽劇《ヌタック・カムシュペ》は文部省芸術祭奨励賞受賞。映画《アナタハン》監督:ジョセフ・スタンバーグ、音楽担当。

1954年(昭和29年)40才
11月3日東宝映画《ゴジラ》監督:本多猪四郎、出演:宝田明、音楽担当。
代表作と言える管弦楽曲《シンフォニア・タプカーラ》作曲し三浦淳史に献呈された(1979年〈昭和54年〉に改訂)。
映画《足摺岬》監督:吉村公三郎、音楽担当。
1950年代の一時期には、東宝に所属している俳優陣に対し、音楽の講義も行っている。この時の教え子に宝田明や岡田真澄などがおり、宝田はその後も伊福部を慕っていることを、映画の打ち上げ会や書籍などで語っている
作品:管弦楽曲《シンフォニア・タプカーラ》、映画《佐久間ダム 第一部》》音楽担当、映画《ゴジラ》音楽担当。

1955年(昭和30年)41才
1月26日《シンフォニア・タプカーラ》フェビアン・セヴィツキー指揮 / インディアナポリス交響楽団演奏により世界初演。映画《狼》監督:新藤兼人、音楽担当。

1956年(昭和31年)42才
3月16日《シンフォニア・タプカーラ》国内初演された。指揮:上田仁、演奏:東京交響楽団、日比谷公会堂。
《ヴァイオリンとピアノのための二つの性格舞曲》作曲。
10月21,25日仮面舞踏劇《ファーシャン・ジャルボー》(江口隆哉・宮操子振付)指揮:上田仁、演奏:東京交響楽団、産経ホールで上演された。独奏曲《アイヌの叙事詩による対話体牧歌》作曲。
映画《ビルマの竪琴》、映画《真昼の暗黒》、映画《鬼火》の音楽が毎日映画コンクール音楽賞受賞。映画《鬼火》監督:千葉泰樹、出演:加東大介、音楽担当。

1957年(昭和32年)43才
1月12日ベルトラメリ能子により《アイヌの叙事詩による対話体牧歌》初演された。
1月15日《ビルマの竪琴》《真昼の暗黒》《鬼火》の映画音楽でブルーリボン賞受賞。
1月31日《ビルマの竪琴》《真昼の暗黒》《鬼火》《の映画音楽で映画コンクール音楽賞受賞。

1958年(昭和33年)44才
女子学院で伊福部指揮の合唱頌詩《オホーツクの海》が録音され、2月25日北海道放送で放送初演された。民放祭番組コンクール洋楽部門で第三位入賞する(この曲は、1988年に独唱用に編曲)。

1959年(昭和34年)45才
11月5日二度目の改訂となる《ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲》(ヴァイオリン協奏曲第1番)がNHK・AMから小林武史(Vn.)、指揮:森正、演奏:ABC交響楽団で放送初演された。
論文『アイヌ族の音楽』を雑誌音楽芸術12月号に寄稿。

1960年(昭和35年)46才
歌曲《知床半島の漁夫の歌》作曲する。
10月26日バレエ音楽《日本の太鼓「狐剱舞」》を(江口隆哉・宮操子振付)指揮:小杉太一郎、産経ホールで上演。

1961年(昭和36年)47才
2月9日歌曲《知床半島の漁夫の歌》をがステファーノ木内(清治)、大島正泰(Pf.)のリサイタルで初演された。
北海道開拓百年記念植樹祭のため合唱曲《北海道賛歌》作曲し、2月16日杉並公会堂で録音、4月1日札幌市民会館でHBC交響楽団を指揮して初演した。
10月9日《ピアノと管絃楽のためのリトミカ・オスティナータ》を金井裕(Pf.)、指揮:上田仁、演奏:東京交響楽団、厚生年金会館で初演された。

1962年(昭和37年)48才

1963年(昭和38年)49才
3月24日東映アニメ《わんぱく王子の大蛇退治》のための音楽担当映画が封切り。

1964年(昭和39年)50才
7月3日舞台劇音楽《反逆児》を主演:中村錦之助、伊藤大輔:脚色演出、歌舞伎座で上演された。

1965年(昭和40年)51才
母・キワ(88才)逝去。

1966年(昭和41年)52才
11月2~3日北海道大学合唱団の創立50周年記念第15回定期演奏会で、合唱曲《知床半島の漁夫の歌 》を初演された。

1967年(昭和42年)53才

1968年(昭和43年)54才。現代ギター3月号にギター独奏曲《古代日本旋法による蹈歌》を(1990年に二十絃箏用に編曲)され、2月11日阿部保夫がNHKから放送初演。2月15日フランス国営放送局から放送された
3月30日『管絃楽法』(音楽之友社)上巻増補改訂版と下巻刊行された。

1969年(昭和44年)55才
2月10日<現代の音楽展′69>で改訂版《リトミカ・オスティナータ》を小林仁(Pf.)、指揮:若杉弘、演奏:読売日本交響楽団で初演された。
現代ギター4月号にギター独奏曲《箜篌歌》(1989年にハープ独奏曲、1997年〈平成9年〉に二十五絃箏曲に編曲)が発表され、5月27日渡辺範彦が虎ノ門ホールのリサイタルで初演された。

1970年(昭和45年)56才
3月14日大阪万博のパビリオン<三菱未来館・日本の自然と日本人の夢>の音楽を手がける。現代ギターにギター独奏曲《ギターのためのトッカータ》(1991年〈平成3年〉に二十五絃箏曲に編曲)が発表され阿部保夫が初演された。

1971年(昭和46年)57才
舞台劇のための初の音楽《反逆児>を手掛ける。
《ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲》を三度目の改訂

1972年(昭和47年)58才
3月30日《日本二十六聖人》(江口隆哉・宮操子振付)、指揮:小林研一郎、演奏:東京交響楽団、日生劇場で上演された。
11月21日吹奏楽《ブーレスク風ロンド》 佼成吹奏楽団第15回定期演奏会で指揮:手塚幸紀、日比谷公会堂で初演された。

1973年(昭和48年)59才
10月5日文部省・文化庁委嘱による和楽器合奏曲《郢曲「鬢多々良」(えいきょく・びんたたら)》 虎ノ門ホールにて日本音楽集団により初演された。

1974年(昭和49年)60才
東京音楽大学作曲科教授就任する。
この頃、<伊福部昭古弟子会>が芥川也寸志、黛敏郎、奥村一、小杉太一郎、山内正、松村禎三、池野成、今井重幸、原田甫、永冨正之、眞鍋理一郎、三木稔、石井眞木らによって作られた。

1975年(昭和50年)61才
3月8日長兄・宗夫(66才)逝去。

1976年(昭和51年)62才
東京音楽大学学長就任する。

1977年(昭和52年)63才
代表的な映画音楽を集めたLP『伊福部昭の世界』が東宝レコードから発売された。
8月から9月アイ夫人とオランダ、イタリア、フランス、イギリス、アメリカに旅行。芥川也寸志指揮の新交響楽団により《交響譚詩》が演奏された。

1978年(昭和53年)64才
《ヴァイオリン協奏曲第二番》完成。
映画『ゴジラ・サウンドトラック盤』LPが東宝レコードから発売。

1979年(昭和54年)65才
3月8、9日《ヴァイオリン協奏曲第二番》の初演に立ち会うためチェコを訪れる。小林武史(Vn.)、指揮:ズデネック・コシューラ、演奏:国立ブルノ・フィルハーモニー管弦楽団で演奏された。
9月12日《オーケストラとマリムバのためのラウダ・コンチェルタータ》をマリムバ:安倍圭子、指揮:山田一雄、演奏:新星交響楽団、東京文化会館大ホールで初演された。
11月18日二十絃箏曲《物云舞(ものいうまい)》を野坂恵子の第8回リサイタル、ABC会館ホールで初演された。
《シンフォニア・タプカーラ》現在の形に改訂。

1980年(昭和55年)66才
4月6日、芥川也寸志指揮、新交響楽団による<日本の交響作品展4伊福部昭>にて《シンフォニア・タプカーラ》1979年改訂版初演、《ヴァイオリン協奏曲第二番》日本初演された。
5月13日、山田一雄指揮、新星日本交響楽団によって《日本狂詩曲》戦後初演された。
リュート独奏曲《バロック・リュートのためのファンタジア》初演された。
紫綬褒章受章。

1981年(昭和56年)67才
キングレコードよりLP『伊福部昭映画音楽大全集』全十枚発売。

1982年(昭和57年)68才
3月24日、二十絃箏:野坂惠子、小林研一郎指揮、東京交響楽団により、二十絃筝協奏曲《二十絃筝とオーケストラのための交響的エグログ》初演されあ
<反核・日本の音楽家たち>よびかけ人66人の中の1人に名を連ねる。

1983年(昭和58年)69才
1月、NHKラジオ第一で<わがふるさと 作曲家・伊福部昭>放送された。
2月10日<協奏四題>開催。8月5日、汐澤安彦指揮、東京交響楽団による「伊福部昭SF特撮映画音楽の夕べ」にて管弦楽曲《SF交響ファンタジー第一番》、《SF交響ファンタジー第二番》、《SF交響ファンタジー第三番》、管弦楽曲倭太鼓とオーケストラのための《ロンド・イン・ブーレスク》(1972年の吹奏楽曲《ブーレスク風ロンド》を編曲したもの)初演された。
音楽グループ「ヒカシュー」のメンバー(当時)の井上誠によって、トリビュートアルバム《ゴジラ伝説》全3作がリリースされ、若い世代にも伊福部の名前が知られるきっかけとなった。

1984年(昭和59年)70才
2月21日、「伊福部昭個展―北日本列島の歌―」で《日本の太鼓「ジャコモコ・ジャンコ」》初演された。
6月28日、札幌で<伊福部昭の世界>開催。11月18日、テレビ題名のない音楽会で<伊福部昭 人と作品>放送された。
11月23日、<古稀記念交響コンサート・ギリヤークからゴジラまで >で、《シンフォニア・タブカーラ》、芥川也寸志、松村禎三、黛敏郎、池野成が編曲した《ギリヤーク族の古き吟誦歌》(管弦楽伴奏版)の初演演奏して祝った。

1985年(昭和60年)71才
伊福部は自分の作品について、4月8日の北海道新聞夕刊で『ベルギー人が” 日本にはフランス風とかドイツ風といった作品はあるが、独自のものは見当たらない”といっていました 。私は小さいころのアイヌの人たちとの付き合いの中で、民族が違うと音楽はこんなに違うのかということを肌で知ったわけです。どうせ書くなら個性のある自分のものを書きたいという気持ちは、こうしたところからきているのかもしれません』と書いている。
5月23日、東京都・ニューヨーク姉妹都市提携25周年を記念して、カーネギー・ホールで《土俗的三連画》、《アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌》が演奏された。
6月8日、vn:小林武史、pf:黒川美方子により《ヴァイオリンソナタ》初演された。
1951年著『音楽入門』改訂版が現代文化振興会から復刊される。
東京音楽大学民俗音楽研究所所長就任する。
《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》作曲

1986年(昭和61年)72才
《マリンバとウィンド・アンサンブルのためのラウダ・コンチェルタータ》がミシガン大学コンサートバンド、安倍圭子のマリンバによってアメリカで初演された。

1987年(昭和62年)73才
3月31日東京音楽大学学長・東京音楽大学民俗音楽研究所所長を退任する。
4月1日東京音楽大学名誉教授就任する。
5月15日、山田一雄指揮、新星日響の第100回定期演奏会で《舞踊曲「サロメ」》全曲を初演された。
11月「日中修好10周年記念演奏会」のため芥川也寸志と共に訪中、芥川也寸志指揮、上海交響楽団で《交響譚詩》《シンフォニア・タプカーラ》が演奏された。
11月、勲三等瑞宝章受章。

1988年(昭和63年)74才
2月27日、<叙勲を祝う会>が催される。
3月4日、<藍川由美ソプラノ・リサイタル伊福部昭全歌曲の夕べ>で《合唱頌詩「オホーツクの海」》の独唱用編曲版初演された。
北イタリアのプラトで<マエストロ・アキラ・イフクベへのオマージュ>が開催された。

1989年(昭和64年=平成元年)75才
4月8日バレエ音楽《人間釈迦》を《交響頌偈「釈迦」》に編曲する。
簡易保険ホールにおける<釈尊降誕会>において《交響頌偈「釈迦」》が初演された。
芥川也寸志死去。

1990年(平成2年)76才
1月13日東京都交響楽団による「日本の作曲家シリーズ伊福部昭」が開催された。
4月19日と20日《箜篌歌――ハープのための――》初演された。
5月3日《管絃司伴鞆の音》初演された。
11月12日野坂惠子により《古代日本旋法に依る蹈歌》二十絃筝用編曲版初演された。
マリンバ安倍圭子、山田一雄指揮、新星日本交響楽団によりオーケストラとマリンバのための《ラウダ・コンチェルタータ》海外初演された。

1991年(平成3年)77才
9月17日<作曲家の個展’91伊福部昭>、井上道義指揮、新日本フィルハーモニー管絃楽団により《管絃楽のための「日本組曲」》初演された。
《ピアノ組曲》を《二面の二十五絃箏による「日本組曲」》に編曲する。
11月1日「第13回野坂惠子リサイタル」において野坂と佐藤由香里により《二十五絃箏のためのトッカータ》、《二面の二十五絃箏による「日本組曲」》初演された。
12月13日、喜寿記念コンサート開催《交響ファンタジー「ゴジラVSキングギドラ」》初演された。

1992年(平成4年)78才
前年の喜寿記念コンサートの模様を収録した映像ソフト<伊福部昭の自画像>がユーメックスから発売。
消失したとされていた《ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲》のパート譜がNHKで発見される。
独唱曲《摩周湖》作曲

1993年(平成5年)79才
2月24日《摩周湖》ピアノ伴奏版初演された。
5月1日、《摩周湖》ハープ伴奏版初演された。
6月8日、NHKのほっかいどうスペシャル 交響詩・釧路湿原内で《交響的音画「釧路湿原」》放送初演された。
二十五絃筝曲《幻哥》作曲

1994年(平成6年)80才
2月4日二十五絃筝曲《幻哥》初演された。
10月30日独唱曲《因幡万葉の歌五首》初演された。

1995年(平成7年)81才
キングレコードより《兵士の序楽》蘇演を含むCD《伊福部昭の芸術1~4》(KICC175~178)が発売される。

1996年(平成8年)82才
長年の独創的創作活動に対し、日本文化デザイン賞・大賞が贈られた。

1997年(平成9年)83才
3月11日二十五絃筝曲《胡哦》、二十五絃箏曲《箜篌歌》初演された。
8月《ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲》が蘇演録音されて伊福部昭の芸術5(KICC179)に収められた。
10月4日札幌で「伊福部昭音楽祭」(札幌交響楽団、札幌コンサートホールKitara。北海道文化放送・北海道新聞社主催)開催され、《ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲が55年ぶりに再演された。
黛敏郎、逝去
10月13日三浦淳史、逝去。

1998年(平成10年)84才
4月1日東京音楽大学付属民族音楽研究所名誉所長就任。
10月14日《絃楽オーケストラのための日本組曲》?初演された。

1999年(平成11年)85才
2月16日新座市民会館で行われたバンドのための《ゴジラファンタジー》、《ゴジラマーチ》?の録音に立ち会う。
11月13日、野坂惠子により二十五絃筝曲《琵琶行》初演された。

2000年(平成12年)86才
10月28日、<伊福部昭作品による藍川由美リサイタル>において、独唱曲《蒼鷺》、《聖なる泉》初演された。
12月12日妻アイ、逝去。

2001年(平成13年)87才
5月19日札幌同人吹奏楽団フェリスタズによって《古典風軍楽「吉志舞」》が初演された。
10月20日野坂惠子によって二十五絃箏甲乙奏合 交響譚詩》初演された。

2002年(平成14年)88才
5月19日新交響楽団、石井眞木指揮により米寿記念演奏会が紀尾井ホールで開催された。この演奏会は録音されキングレコードより発売された(《伊福部昭・米寿記念演奏会完全ライヴ》KICC377/8)。
12月10日野坂惠子により、バレエ曲《サロメ》から一部を抜粋し編曲した。《二十五絃筝甲乙奏合 七ツのヴェールの踊り》初演された。
《フィリピンに贈る祝典序曲》の楽譜発見される。
《サンタマリア》、《小ロマンス》作曲。

2003年(平成15年)89才
1月15日チェンバロ独奏曲《サンタマリア》《小ロマンス》初演された。
1951年の『音楽入門』が全音楽譜出版から復刊された。
《フィリピンに贈る祝典序曲》蘇演と1968年のアニメ映画《わんぱく王子の大蛇退治》(芹川有吾監督)の音楽を編曲した《交響組曲 わんぱく王子の大蛇退治》の録音を含む『伊福部昭の芸術6、7』(KING RECORD、KICC439、KICC440)発売。
チェンバロ独奏曲《小ロマンス》作曲。
文化功労賞顕彰される。
石井眞木、逝去。

2004年(平成16年)90才
2月1日<伊福部昭・文化功労者顕彰お祝いコンサート>開催された。
2月28・29日徳島県北島町の創世ホールで野坂惠子等による演奏会をはじめ、講演会、企画展示、上映から成る<伊福部昭先生◎卒寿記念祭>が開催された。
5月16日《日本狂詩曲》、ピアノ独奏版《ピアノと管絃楽のためのリトミカ・オスティナータ》2台ピアノ版が初演された。この演奏会はライヴ録音され、『伊福部昭の芸術8』(KING RECORD KICC469-70)として発売されるた。
11月22日、1948年のバレエ曲《サロメ》から一部を抜粋・編曲した二十五絃筝甲乙奏合《ヨカナーンの首級を得て、乱れるサロメ》初演された。

2005年(平成17年)91才
「音楽・九条の会」呼びかけ人37人の1人に名を連ねる。
11月幼少期を過ごした北海道音更町で<伊福部昭音楽祭 in 音更>(札幌交響楽団、高関健指揮)開催され《管弦楽のための日本組曲》、《リトミカ・オスティナータ》(ピアノ:川上敦子)、《シンフォニア・タプカーラ》などが演奏された。
体調を崩し始める。

2006年(平成18年)
1月19日に腸閉塞のため東京都目黒区の病院に入院。
1月26日大阪市いずみホールでの「音楽・九条の会」コンサートで《SF交響ファンタジー第一番》が演奏された。
2月8日午後10時23分、多臓器不全のため東京都目黒区の病院で逝去(享年91才)。死因は直腸癌とも多臓器不全とも書かれ、メディアによって違う。
葬儀委員長は松村禎三(東京藝術大学名誉教授)。
従四位に列せられ、陛下より銀杯一組を賜る。
第48回日本レコード大賞特別功労賞受賞。
遺作は2004年(平成16年)初演の二十五絃箏甲乙奏合《ヨカナーンの首級を得て、乱れるサロメ (バレエ・サロメに依る)》となった。

2007年(平成19年)
第30回日本アカデミー賞会長特別賞受賞。

<家族>
祖父:伊福部 信世 
宇部野村で没。
祖母:伊福部 寿々 北海道で没。

父:伊福部 利三(83才)世田谷区奥沢で歿
母:伊福部 キワ(88才)世田谷区玉川尾山町(現尾山台)で歿。
子:長姉 伊福部 佐世子4月24日歿
子:次姉 伊福部 喜久世
子:三姉 伊福部 勝子
子:四姉 伊福部 富貴子(夭逝)
子:長兄 伊福部 宗夫 /北海道庁土木試験所所長/北海学園大学教授/工学博士
甥:宗夫の息子 伊福部 達、1946年 /大学名誉教授/北海道大学名誉教授。音響学と電子工学・医療工学の境界分野で活躍。北海道沙流郡平取町の二風谷にあるマンロー邸出身
子:次兄 伊福部 勲 / 夜光塗料の研究に従事し、昭和17年に放射線障害で30才で歿。伊福部の代表作のひとつ「交響譚詩」は次兄追悼のために書かれた。
子:四男 伊福部 昭

伊福部 昭の家族
妻:アイ(勇崎)は1918年(大正7年)8月16日札幌に生まれた。父は富山県出身で札幌で青果商・勇崎恒次郎商店を商っていた。母・かの兄弟は男3人、女3人の末娘の家庭に育った。庁立札幌高等女学校を卒業後、父・恒次郎と上京し舞踊家・江口隆哉・宮操子夫妻の門下となり舞踊を学んだ。1937年舞台デビューを果たす。1940年3年間研鑽し東京から札幌市に戻り、南十五条西七丁目に「勇崎愛子舞踊研究所」を創設した。
長女:玲子 / 陶芸家
二女:姜子
長男:極

3.主な作品


伊福部昭 主な作品

4.関連動画youtube


伊福部昭 youtube

5.伊福部家 系図Ifukube family tree


伊福部家 系図

参考文献:引用文献・資料など /  鳥取県立博物館 編 、『鳥取県の名宝』、 出版社 鳥取県立博物館資料刊行会、出版年:2002年11月  / 森 公章、日記で読む日本史『平安時代の国司の赴任』、臨川書店発行、発行年:2016年4月30日  / 伊福部昭著、小林淳編『伊福部昭綴る(伊福部昭 論文・随筆集)』、ワイズ出版、発行年:2013年5月31日  / 木部与巴仁、『伊福部昭・音楽家の誕生』、新潮社発行、発行年:1997年4月25日  / 小林順、『伊福部昭』、小林順著、株式会社ヤマハミュージックエンタテイメントホールディング発行、発行年:2017年7月10日  / 木部与巴仁、『伊福部昭の音楽史』、春秋社発行、発行年:2014年4月25日  / 柴橋伴夫、『生の岸辺 伊福部昭の風景《パサージュ》、藤田印刷エクセレントブックス発行、発行年:2015年12月5日  / 伊福部宗夫、『アイヌの熊祭』、みやま書房発行、発行年:昭和44年12月10日  / http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936734/182北海道人名辞書 - 国立国会図書館デジタルコレクション、『北海道人名辞書; 著者: 金子信尚 編; 出版者: 北海民論社; 出版年月日: 大正12;』”伊福部利三”、最終アクセス2019年8月16日  / https://www.city.kushiro.lg.jp/common/000017302.pdf7 歴代音別町村長、最終アクセス2019年10月22日  / https://www.town.otofuke.hokkaido.jp/town/outline/toukei/H28otofuketyoutoukeisyo.data/otofuketyoutoukeisyo28.pdf 平成28年版「音更町統計書」、最終アクセス2019年10月22日  / (https://www.akira-ifukube.jp伊福部昭を読む/自伝-北の譜、北海道新聞夕刊より 最終アクセス2019年10月16日  / http://yourei.jp/因幡国伊福部臣古志最終、アクセス2019年8月16日  / http://mononobe.webcrow.jp/siryou/ihukub.html伊福部氏系図|天璽瑞宝、最終アクセス2019年8月16日  / https://ja.wikipedia.org/wiki/大国主大国主『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終アクセス2019年8月16日  / https://jinja.kojiyama.net/因幡国一宮-名神大-宇倍神社/因幡国一宮 名神大 宇倍神社 - - 官幣大社、最終アクセス2019年8月16日  / https://ja.wikipedia.org/wiki/宇倍神社、最終アクセス2019年8月16日  / https://seesaawiki.jp/w/ballatasinfonica/d/ǯɽ1976%A1%BC2006#伊福部昭データベース年表1976ー2006、最終アクセス2019年8月16日  /  ballatasinfonica 2019年01月23日(水) 17:09:06履歴、最終アクセス2019年8月16日  / https://www.akira-ifukube.jp/伊福部昭とは/伊福部昭(いふくべあきら) 略歴 - 伊福部昭公式ホームページ-暫定版、最終アクセス2019年8月16日  /  http://ifukube-fes.com/?page_id=4伊福部昭音楽祭オフィシャルサイト » 伊福部昭プロフィール、最終アクセス2019年8月16日  / http://siritori.net/words/いふくべ「いふくべ」とは? - しりとり、最終アクセス2019年8月16日  / https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1820192&id=19047485[mixi]5月31日 - 音楽ダイアリー | mixiコミュニティ、最終アクセス2019年8月16日  / http://memory-jp.com/pc_memory/pc_container/memory_2006/data_3.html追悼の森/伊福部昭さん死去、最終アクセス2019年8月16日  / http://classicreport.blog26.fc2.com/クラシックデーターベース、最終アクセス2019年8月16日  / http://houki.yonago-kodaisi.com/F-BHYS-iokibesi.html伊福部氏 - 山陰の古代史、最終アクセス2019年9月日  / https://www.sconavi.com/talent/detail/伊福部昭/伊福部昭の卒業・出身高校 - 高校偏差値ナビ、最終アクセス2019年8月16日  / http://kitabatake.world.coocan.jp/tennouichiran.html天皇の一覧 - 歴代天皇一覧 - Weblio辞書、最終アクセス2019年8月16日  / https://ja.wikipedia.org/wiki/上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧、最終アクセス2019年8月16日  / https://ja.wikipedia.org/wiki/伊福部昭、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)参考文献「伊福部昭「北の譜」」『私のなかの歴史』7、北海道新聞社、北海道新聞社、1987年。ISBN 4893632965。『サントリー音楽財団コンサート 作曲家の個展'91 伊福部昭』東京コンサーツ 編、サントリー音楽財団、1991年。『伊福部昭の宇宙』相良侑亮 編、音楽之友社、1992年。ISBN 4276200784。井上英之『検証・ゴジラ誕生―昭和29年・東宝撮影所』朝日ソノラマ、1994年。ISBN 4257033940。前川公美夫『北海道音楽史』大空社、1995年。ISBN 4756800831。小林淳『佐藤勝 銀幕の交響楽』ワイズ出版、2007年4月。ISBN 9784898302088。『音楽現代』、芸術現代社、2006年4月。』最終アクセス2019年10月20日 https://ja.wikipedia.org/wiki/因幡氏、因幡氏、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、最終アクセス2019年10月23日                    肖像画協力:寄川靖宏 様(プロフィール:兵庫県宍粟市出身 1956年生まれ、FBグループ「クラシックを聴こう会」メンバー)