朝比奈 隆
Takashi Asahina,
出身地などGeburtsort
1908年7月9日東東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)市谷砂土原町の小島家に生まれる
2001年12月29日午後10時36分、神戸の甲南病院で家族に看取られながら世を去る。
墓は六甲山の麓、神戸市立長峰霊園
(Geboren am 9. Juli 1908 in der Familie Kojima in Ichigayasadohara-cho, Ushigome-ku, Tokio (derzeit Shinjuku-ku, Tokio).
Er starb am 29. Dezember 2001 um 22:36 Uhr.)
目次(クリックまたはタップで各項目にジャンプします。)
- 1. 職業Beruf
- 2. 楽歴Musikkarriere
- 3. 関係団体Verbundene Organisationen
- 4. 受賞(章)歴auszeichnung
- 5. 称号Titled
- 6. 朝比奈隆の家族Takashi Asahinas Familie
- 7. 朝比奈隆プロフィールTakashi Asahina Profil
- 8. 朝比奈 隆・歴史年譜Historische Chronologie
- 9.主な作品Hauptwerke
- 10.初演Premiere
- 11.朝比奈隆-演奏会記録Takashi Asahina-Concert Records
- 12.関連動画Takashi Asahina youtube
- 13. 朝比奈隆の出自Takashi Asahina Origin
1. 職業Beruf
日本の指揮者Japanischer Dirigent
2. 楽歴Musikkarriere
1928年第1回国民交響管弦楽団演奏会ヴァイオリン奏者(Geigenspieler)として参加
1928年京都大学オーケストラ部入部。メッテルに師事(Sein Dirigierstudium begann er ebenfalls bei Metter. )
1934年大阪音楽学校(現大阪音大)講師となる
1936年大阪音楽学校管弦楽団で指揮デビュー
1936年大阪中央放送局(現JOBK)プロ合唱団木曜会の指揮者に就任
1937年大阪音楽学校理事・教授に就任(1942年退官)
1937年京都大学交響楽団の第5代常任指揮者就任(Ernennung zum 5. ständigen Dirigenten des Kyoto University Symphony Orchestra)
1939年宝塚交響楽団を指揮して大阪デビュー
1940年新交響楽団(現NHK交響楽団)を指揮して東京デビューを果たす
1940年京都帝国大学学歌を録音。(朝比奈の初録音)
1942年大阪中央放送局の専属指揮者就任(Exklusiver Dirigent von Osaka Radio Broadcasting)
1943年上海交響楽団の常任指揮者に就任(Ständiger Dirigent des Shanghai Symphony Orchestra)
1947年関西交響楽団を設立し初代音楽監督(Gründete das Kansai Symphony Orchestra und wurde der erste Musikdirektor)
1975年新日本フィルを初客演指揮し、指揮者団として顧問就任
1976年大阪フィル音楽総監督就任
1976年東京国際音楽コンクール指揮部門の審査委員長を務める
1992年日本室内楽振興財団芸術顧問就任
1992年大阪室内楽コンクール芸術顧問就任
師事:ヴァイオリン/田中敬一・橋本国彦・メンチンスキー・モギレフスキー、指揮/E.メッテル
3. 関係団体Verbundene Organisationen
伊達三郎らと大阪室内楽協会を設立(1933年)
関西オペラグループ(現関西歌劇団)を設立(1949年)
社団法人関西交響楽協会設立理事に就任(1950年)
関西交響楽団を改組し、大阪フィルハーモニー交響楽団設立(1960年)
全日本吹奏楽連盟理事長に就任(1965年)(Vorsitzender der All-Japan Band Association)
地方交響楽団連盟理事長に就任(1972年)(Präsident der Föderation der lokalen Sinfonieorchester)
大阪フィルハーモニー合唱団を設立、団長に就任(1974年)
日本指揮者協会会長に就任(1975年)(Präsident der Nippon Conductor Association)
日本演奏連盟理事に就任(1981年)
オペラ団体協議会会長に就任(1982年)(Vorsitzender des Opera Group Council)
大阪府文化振興財団理事に就任(1989年)
4. 受賞(章)歴auszeichnung
兵庫県文化賞(1960年)
モービル音楽賞(1969年)
NHK放送文化賞(1974年)
第32回昭和50年度日本芸術院賞受賞(1976年)
昭和53年度朝日賞受賞(1979年)
第25回毎日芸術賞(ブルックナー連続演奏会)(1984年)
第一回ザ・シンフォニーホール国際音楽賞クリスタル賞(1986年)
第二回キワニス大阪賞(1987年)
第四回関西大賞大指揮者賞(1989年)
第一回飛騨古川音楽賞創立記念賞(1989年)
<受章Kapitel>
紫綬褒章受章(1969年)
ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章(1977年)
勲三等旭日中綬章受章(1987年)
オーストリア共和国一等科学芸術名誉十字勲章(1989年)
文化功労者に選ばれる(1989年)
文化勲章受章を受章(1994年)
Received the Medal with Purple Ribbon (1969)
Order of Merit of the Federal Republic of Germany Great Achievement Cross (1977)
Received the Order of the Rising Sun, Gold Rays (1987)
First Order of Science and Arts Honorary Cross Medal of the Republic of Austria (1989)
Selected as Person of Cultural Merit (1989)
Received the Order of Culture (1994)
<その他Andere>
没後 – 天皇・皇后両陛下より銀杯一組(菊紋・第四号)を賜る(2001年)
没後 – 日本政府より従三位に叙せられる
After his death-Given a pair of silver cups (Chrysanthemum crest, No. 4) from Their Majesties the Emperor and Empress (2001).
After his death-being Jyu-Sanmi by the Japanese government.
5. 称号Titled
大阪音楽大学名誉教授
大阪フィルハーモニー交響楽団創立名誉指揮者(
神戸市名誉市民顕彰(1994年)
Professor Emeritus, Osaka College of Music.
Honorary Conductor of the Osaka Philharmonic Orchestra.
Kobe City Honorary Citizenship Award (1994).
6. 朝比奈隆の家族Takashi Asahinas Familie
<実母:小島 里 家族>
父:渡邊嘉一 信濃国伊那郡朝日村の宇治橋瀬八とゆうの次男として出生。渡辺忻三家婿養子入り。勲五等、工部大学校卒・英国グラスゴー大学卒業・工学博士。京阪電気鉄道、東京電気鉄道、奈良電気鉄道、京王電気軌道、北越鉄道、朝鮮中央鉄道、参宮鉄道などの経営に参画したほか、関西瓦斯社長、東京月島鉄工所社長、東洋電機製造社長などを歴任。54歳で東京石川島造船所(現・IHI)社長に就任。第7代帝国鉄道協会会長。
母:小島さと(渡邊嘉一の内妻) 武州川越藩城主松平家の祐筆、能勢又彦の娘といわれている。1935年歿。
長女:園田しげ 長岡高女第一回生・女子美術大学卒業、陸軍大佐園田重之に嫁ぐ
長男:小島信彦 第三高等学校卒業・東京帝国大学卒業、高等文官試験・鉄道院高級官僚となった。
二女:今田しづ 東京女学館英文科卒業、京阪電鉄常務・専務・副社長・社長・会長となった今田英作に嫁ぐ。
二男:知彦 第八高等学校・京都大学法学部卒業、高級官僚となった。
三男:朝日奈隆 生後直ぐに朝比奈林太郎の養子となり長男として入籍された。京都大学法学部卒業、指揮者
四男:小島義彦 1911年(明治44年) 松本高等学校卒業・東京帝国大学経済学部入学、東京で会社経営。
<養父:朝比奈林太郎 家族>
養父の父:朝比奈忠順
養父の母:
養父:朝比奈林之助1869年9月20日(明治2年)東京に生まれる。1923年54歳歿。東京府士族、從五位勳五等。鐵道院技師・運輸課長。東京 芝、汐留町2-1官舍。
養母:朝比奈ヒデ 1880年~1924年(明治13年)長崎県に生まれる。一ノ瀬幾治の妹。1924年44歳歿。
長男:朝比奈隆 1908年~2001年(明治41年)東京に生まれる。実父渡辺嘉一、実母小島さと。
1908年東京、朝比奈林之助の養子となる。1924年両親亡き後、実家小島家に引き取られる。
<朝比奈隆 家族Familie Takashi Asahina>
祖父:宇治橋瀬八
祖母:宇治橋ゆう
実父:渡邊嘉一(旧姓:宇治橋)
実母:小島さと 武州川越藩城主松平家の祐筆、能勢又彦の娘。1935年歿。
養父:朝比奈林之助
養母:朝比奈ヒデ
朝比奈家長男として養子入り:朝比奈 隆 1908年~2001年(明治41年)東京に生まれる。指揮者。実父は渡辺嘉一。
隆の妻:朝比奈町子 田辺製薬創始者の実弟の長女で旧姓:田辺町子 東京音楽学校ピアノ科卒。
隆/長男:朝比奈千足 指揮者・クラリネット奏者・京都市立芸術大学非常勤講師・神戸フィルハーモニック音楽監督兼常任指揮者。
隆/二男:朝比奈千秋
Grandfather: Uji Hashi Sehachi
Grandmother: Yu Ujibashi
Father: Kaichi Watanabe (maiden name: Ujibashi)
Mother: Sato Kojima, daughter of Matahiko Nose, A Yuhitsu of the Matsudaira clan, the lord of the Kawagoe domain in Takeshu. 1935 death.
Adopted father: Asahina Hayashinosuke, Tokyo Prefecture Shizoku, Jugoi 5th place, etc. Railway Institute Engineer / Transportation Section Manager. Tokyo Shiba, 2-1 Shiodome Town Official Residence. It was
Foster mother: Hide Asahina
Takashi Asahina Born in Tokyo from 1908 to 2001 (Meiji 41). His father is Kaichi Watanabe.
Same wife: Machiko Asahina, the eldest daughter of the founder of Tanabe Pharmaceutical, and her maiden name: Machiko Tanabe, a graduate of the piano department of the Tokyo Academy of Music.
Eldest son: Chitaru Asahina Conductor, clarinet player, part-time lecturer at Kyoto City University of Arts, Kobe Philharmonic Music Director and permanent conductor.
Second son: Chiaki Asahina
7. 朝比奈隆プロフィールTakashi Asahina Profil
朝比奈 隆自身の幼年期の談話がある
『 僕は虚弱児童でしてね。喘息持ちで。虚弱児童なんて言うと、皆んな笑うんですが。東京の幼稚園行ったんですけど、父(鉄道の役人)が、どこか田舎へと言う事で、神奈川県の国府津へ、きぬと言う女の人を付けて子供だけで行った訳です。死んでもいいから、親のそばへ置いといてくれたらと思うんですが、まぁ養父母ですので他所様の子供を、間違いがあったら大変だと言うのもあったんでしょう。
で、小学校も国府津の…裸足で学校に来る子ばかりで、いい肴(いじめ)になっちゃう。親父が買ってくれたランドセルの中に砂を入れられたり、靴を埋められちゃうやら。だから僕もせいぜい草履か裸足でね…。その1年後小田原の小学校へ転校。父は教育パパなんですわ。そっちの方がいいと、きぬと二人で住んで…。
それから、父が鉄道関係の会社の重役へ…ま、今で言う天下りですね。それで麻布の三河台にあった大きな家を借りて、東京の小学校へ転入しなさいと言うことで、そん時初めて親の家へ一緒に住んだんです。養父母の家へ。嬉しかったです。つまんないですからね、独りで居るってのは… 』
<趣味 読書 料理>
※抱負「満六十歳を迎えてようやく音楽の峠の向こうがちょっと見えてきた感じですので少しでも長く生きたい。そして命のある限り古典音楽の忠実な再現につとめたい(1968年音楽の友10月臨時増刊号/日本の音楽家より)」
※ひとこと「音楽作品を自己主張の手段としてはならぬ。誠実、謙虚に再現につとむべし(1975年音楽の友別冊’76日本の音楽家より)」
※左利き(指揮棒は右だが、包丁は左)
(* Hobbys: Lesen, Kochen
* Streben „Ich habe das Gefühl, dass ich endlich die andere Seite des Musikpasses sehen kann, wenn ich das Alter von 60 Jahren erreiche, also möchte ich so lange wie möglich leben. Und ich möchte versuchen, klassische Musik so lange wie möglich originalgetreu zu reproduzieren have a life (1968 Music Friend). Oktober-Sonderausgabe / von japanischen Musikern) ”
* Ein Wort „Musikwerke sollten nicht als Mittel der Selbstbehauptung verwendet werden. Versuchen Sie aufrichtig und demütig, sie zu reproduzieren (1975 Music Friend Separate Volume ’76 von japanischen Musikern)“
* Linkshänder (der Schlagstock ist rechts, aber das Küchenmesser ist links))
<逸話など>
1. 若い頃はがさつさから「がさ」というニックネームだった。大阪フィルの団員には「オッサン」あるいは「親方」と呼ばれた。 利き手の他、酒好きという点でも左利きであり、阪神・淡路大震災の際、自宅に駆けつけた音楽評論家の知人を前に泰然として酒を勧めたという。飲んで絆を強めるのは海外で指揮するときにも使った。ただし朝比奈も最初は下戸で阪急時代の上司である正岡忠三郎に飲めるようにしてもらった。
2. 食通で料理好きであり、しばしば自ら厨房に立った。
大の猫好き。タクシーに乗っている時に野良猫を手なずけるために停車させて車外に出ることがあった。
自宅近辺の阪急タクシーの運転手たちとは懇意の仲で、晩年に至ってもお年玉を渡していた。
演奏中に指揮棒を落としてしまうことが多かった。そのため楽譜台には指揮棒が多めに置かれていた。さらに大阪フィルの演奏会ではヴィオラ最前列がしばしば落ちた指揮棒を拾っていた。
3. 最後の言葉は「引退するには早すぎる」であった(毎日放送で放映された朝比奈千足へのインタビューより)。
朝比奈の使っていた楽譜には、テンポなど演奏上の覚え以外に演奏日や場所などの記録が日本語・英語・ドイツ語が混在して書き込まれているが、ベートーヴェンの交響曲第9番の楽譜には演奏日の空欄が2行ある。世を去った当日である2001年(平成13年)12月29日とその翌日の30日に毎年恒例となっていた大阪フィルの「第9シンフォニーの夕べ」を自らが指揮する予定であらかじめ欄を作っていたためである。これらの書き込みは全て朝比奈の手書きである。
4. 朝比奈は1964年から死去前年の2000年まで、大阪フィルとの12月の演奏会で毎年必ずベートーヴェン「第9」を演奏、日本人の「暮れの第9」イメージ定着に一役買った指揮者の1人でもある。特に1985年からは12月29日・30日に朝比奈/大阪フィルによる「第9」演奏会の日程が固定化(演奏会場も毎年フェスティバルホール)され、大阪の暮れの恒例演奏会として親しまれた(先述通り2001年も同日に「第9」演奏会が企画されていた)。朝比奈の死後も同日の大阪フィルによる「第9」演奏会は開催が続いている。
5. また毎年「第9」で仕事納めの後、新春仕事初めとなる大阪フィルとの演奏会(こちらも会場はフェスティバルホール)では1975年の新春から2001年まで毎年必ずドヴォルザーク『新世界より』を演奏、こちらも恒例として親しまれていた。1982年?98年新春は『新世界より』に加えて女性ピアニストを招いてのピアノ協奏曲を組み合わせており、独奏に中村紘子(85年?94年)、後に朝比奈最後の共演ピアニストともなる小山実稚恵(95年?97年/3回とも曲目は小山の十八番・チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番)らが招かれた。
1908年(明治41年)に東京で生まれた朝比奈は、朝比奈家の養子となるが15歳の時に義父母が他界。
朝比奈姓のまま生家の小島家に戻り、兄弟に囲まれた賑やかな生活を送るようになる。いとこが持っていたバイオリンの音色に魅せられ、高校で同級生らとカルテットを結成。
ロシア人指揮者、エマヌエル・メッテルが京都大学音楽部の指導者だったことから京都大学への進学を決める。音楽漬けの日々を送るが、卒業後は阪神急行に就職。
勤務の傍らバイオリン奏者として活動するものの、音楽への情熱を捨てきれず会社を退職。
京都大学文学部へ学士入学を果たす。在学中にオーケストラの指揮を執り成功を収めた。
卒業後は大阪音楽学校の教授に就任。
1940年に結婚。新響(現在のN響)を指揮してデビュー。海外での演奏歴も多く、
1942年大阪放送管弦楽団の主席指揮者に就任。
その後、上海や満州で指揮を執り、ハルビン交響楽団などの指揮者を歴任、終戦を迎える。
1947年帰国後、後の大阪フィルハーモニー交響楽団となる関西交響楽団を創設、常任指揮者となる。
1953年初のヨーロッパ指揮旅行へ向かい、ヘルシンキ市立管弦楽団に客演した。
1956年ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の客演を果たす。
1957年ベルギー国立交響楽団の客演を果たす。
ほかハンブルク北ドイツ放送交響楽団など60余りの客演を行うなど海外での演奏歴も多かった。
1960年には、大阪フィルハーモニー交響楽団と改組し、関西楽壇の中心として、生涯に渡り大阪フィルを育て上げた。
晩年は世界指揮界の最長老として、確固たる地位を築いた。
1975年には大阪フィルを率いてヨーロッパ演奏旅行を行い各地で絶賛を博した。ブルックナーが眠る、オーストリア・聖フロリアン修道院での《交響曲第7番》は伝説的なライヴと謳われ、ヨーロッパ公演は成功に導いた。
1984年から87年にかけては新日本フィル定期演奏会でワーグナー《ニーベルングの指環》を全曲演奏のCD化で注目を集めた。
オペラ公演も積極的にこなし、世界的名声を得る。
1989年には文化功労者に選ばれる。
1994年文化勲章を受章。
1996年にはシカゴ交響楽団を指揮して北米デビュー、その模様はニューズ・ウィーク誌により広く紹介された。
1998年にはガンに侵されていることが発覚する。
2000年にはNHK交響楽団へ2回客演し、ブルックナーの《交響曲第四番》と《交響曲第九番》で圧倒的な大演奏を行なった。
海外では、戦前の上海交響楽団、ハルピン交響楽団、戦後はヘルシンキ市立管弦楽団、ベルリン・フィル定期、ハンブルクNDR、
国内では、大阪フィル、新日フィルをはじめとして、全国各地の主要なオーケストラに客演、精力的に活動した。
大阪フィルの音楽総監督、新日本フィルの指揮者団顧問のほか、日本指揮者協会会長、オペラ団体協議会会長、大阪音楽大学教授などをつとめた。(Er war nicht nur Musikdirektor des Osaka Philharmonic Orchestra und Dirigentengruppenberater des New Japan Philharmonic Orchestra, sondern auch Vorsitzender der Nippon Conductor Association, Vorsitzender des Opera Group Council und Professor an der Osaka Hochschule für Musik.)
従三位・文化勲章受章・勲三等旭日中綬章受章・紫綬褒章、日本芸術院賞、ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章、朝日賞、NHK放送文化賞、毎日芸術賞、ザ・シンフォニーホール・クリスタル賞、キワニス大阪賞を受賞。
さらに、録音も数多く、ベートーヴェン《交響曲全集》を世界最多の七度、ブルックナーとブラームスの《交響曲全集》をそれぞれ三度リリースした。
2001年亡くなる2ヵ月前まで指揮台に立ち続け、12月29日逝去。享年93。没後、従三位に叙される。
8. 朝比奈 隆・歴史年譜Historische Chronologie
1908年
7月9日、東京新宿・牛込区市ヶ谷砂土原町(現在の東京都新宿区)の小島家で父:渡辺嘉一、母:小島との間に三男として誕生した。二人の兄、二人の姉、弟がいる。生まれて一週間か十日ほどで養母:秀子に抱かれ、乳母に伴われ、実父の務めていた鉄道関係の後輩であり、部下でもあった鉄道員技師、朝比奈林之助と妻:秀子の養子となった。養父母は汐留の鉄道官舎(芝、汐留町二の一官舍)に住んでいた。名前は隆とつけられ、朝比奈家の長男となる。
朝比奈林之助は、鉄道技官として各地の建設工事に転々とし十年近く子宝にも恵まれず、生まれた子どもをもらい受ける決意を決め、小島家にまもなくうまれようとしていた三男を「ぜひ嫡子としてもらいたい」と懇請してきた経緯によるという。
<写真、父 朝比奈林太郎と>
<写真、母 朝比奈秀子と>
1908年7月9日東東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)市谷砂土原町の小島家に生まれた
父:北越鉄道取締役会長・工学博士の渡邊嘉一、母:内妻の小島さとの間の子として生まれた。姉二人、兄二人、後に弟が生まれる
1911年3歳頃
小児喘息療養のため乳母と共に神奈川県の漁村、国府津村(現田小原市)の漁師:小川家の離れを借り、移り住み療養する
1912年4歳頃
国府津村(現田小原市)の漁師:小川家の離れで療養する
1913年5歳頃
二年間の療養で少しは元気になったらしく、東京に呼び戻され父母と暮らす。芝、大門前にある増上寺経営の明徳学園(幼稚園)に通う。それでも梅雨時や秋には必ず喘息に見舞われた。幼稚園は半年ほどでやめ、再び国府津村の漁村に預けられ療養生活に入る
1914年6歳頃
4月国府津町立国府津尋常小学校(現・小田原市立国府津小学校)入学。東海道線国府津駅のすぐそばに家を借りて女中のきぬと二人で住む。日曜日には養父母がやって来て東京の官舎に連れて帰ったこともあった
1915年7歳
国府津町立国府津尋常小学校に通う
1916年8歳
小田原町立第三尋常小学校(現・校小田原市立新玉小学)に学ぶ
『国府津小学校は村はずれの田んぼの中にあり、御殿場へ行く鉄道の土手に沿ってかなり歩いたところだった。~ほとんどが漁師の子で、じゅばんにぞうりか、素足だった。そうした中に役人の子がクツをはき、カバンを背負って来たのだから、私はたちまちにして村の子のサカナにされてしまった。カバンの中に砂を放り込まれたり、クツの中にどじょうを入れられたり、いじめられっ放しだった』
『海へ入るきっかけは幼年時代に離れを借りていた漁師の小川さんの主人だった。「坊ちゃんも学校上がったんでは海を知らなくては・・・」と舟にのせ、沖へ出るといきなり私を裸にして海へ突き落した。アップアップする姿をみて頭を押さえ「もっと水をのまねば」と突っ返されて泳ぎを覚えることになったのである。こうした生活になじんでくると、私は村の子供たちと同じように泳げるようになり、地引網を引くのを手伝ってザルにいっぱいのイワシやアジをもらったものだ』
要約:朝比奈隆 著、「朝比奈隆回想録 楽は堂にみちて」、音楽之友社、2001年発行、P14-16
1918年10歳
3月小田原町立第三尋常小学校(現・校小田原市立新玉小学)3学期から東京麻布尋常小学校(現麻布小)に2年転入学する
『小学校二年になろうとするとき東京の家から、「国府津の学校は程度が低いから小田原の学校へ転校するように。~せっかくなじんだ村の生活と別れて小田原城近くの堀端にある新しい家に移った。小田原は小さくても城下町だったし、私の通った小田原町立第三小学校は堀の近くにあって、きちんとした身なりをするムードがあったので、再び靴をはき、ランドセルを背負う通学姿に戻った』
<写真、小学校三年生の頃>
要約:朝比奈隆 著、「朝比奈隆回想録 楽は堂にみちて」、音楽之友社、2001年発行、P16
1919年11歳
小田原町立第三尋常小学校三年生の二学期まで小田原に過ごした。麻布三河台の広い屋敷に移り、麻布尋常小学校に転入学した。ここでは副級長に推されていた。『三学期になると養父が「青山師範の附属で補欠募集するから受験しなさい」と勧めた。官吏出身の父は英才教育に徹していたようで、母の説明では「市立より付属の方が程度が高いから」ということだった。何十人の中で、二人だけが合格し、その中に私も含まれていた。』
『小学校三年の二学期まで小田原に居たが、半ばにして養父が鉄道をやめ、電車のモーターをつくる東洋電機の重役に転出、家が麻布台の広い屋敷に引っ越したのを機に私も東京へ呼び戻され、三河台通りの麻布尋常小学校へ転入学させられた。しかし、三学期になるとまたまた養父が「青山師範の附属で補欠募集するから受験しなさい」とすすめた。~母の説明では「市立より付属の方が程度が高いから」ということだった。何十人かの中で、二人だけが合格しその中に私も含まれていた。~麻布三河台では副級長に推されてちょっと得意顔だった私も、青山師範附属では学科の進み具合の早いこともあって、なにかにつけてうろうろするだけだった』
要約:朝比奈隆 著、「朝比奈隆回想録 楽は堂にみちて」、音楽之友社、2001年発行、P16-17
1920年12歳頃
『小学校四、五、六年の私は相変わらず体が弱く、持病のぜんそくは激しくなり発作が続くと食欲もなく、体も衰えていった。~ときどき一か月ぐらい学校を休んでは紹介された葉山の森戸神社の神官の家に預けられた』
要約:朝比奈隆 著、「朝比奈隆回想録 楽は堂にみちて」、音楽之友社、2001年発行、P17-18
1921年13歳
小学六年生の終わりの進学試験に、高等師範附属、府立中、市立の有名校は全部不合格となり、やっと私立高千穂中学校へ裏口入学のようなかっこうで入れた。
中学一年の二学期に父から七年制の高等学校が出来るから受けてみろと言われ、放課後には大塚の高等師範の寄宿舎へ別勉強に通い、夜は父が英語、数学を見てくれた。
『~こんな状態だったから私には勉強しないくせがついてしまって、他の子供たちがたくましく成長し、勉強内容がどんどん進むのに全然ついていけず、六年生の終わりの進学試験はさんたんたるありさまだった。父の受験しろといった東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)や府立・市立の有名校は全部不合格となり、あわてた両親のはからいで、やっと私立高千穂中学校へ裏口入学のようなかっこうで入らせてもらった』
『その中学では一年二学期のとき、父が会社から帰ると珍しく私を呼び出し、新聞を食卓の上に広げて見せた。「こんど新しく学制が施行されて七年制の高等学校ができる。~二年と一年を募集するから受けてみろ。勉強すれば必ず通る。おれも手伝うからやってみろ」という。~こうして私の”がり勉”が始まり、放課後は大塚の高等師範の寄宿舎へ別勉強に通い、夜は父が英語、数学を見てくれた。~それから約半年、大正十一年(1922年)三月末に、東京高等学校尋常科二年の編入学試験を受けた。~それから一週間して神田一橋の商大前の仮校舎で合格者の発表があった。~まき物のような長い縦書きに書かれた受験番号を息をつめて血眼に探した。あった‼。~だれよりも喜んでくれたのは父だった。当時は貴重だったスイス製の腕時計も買ってくれたし、オックスフォードの辞典も英国製の高級万年筆オノトまでそろえてくれたのはその喜びのあらわれだった。海軍将校に似た制服に二条の白線の入った制帽の私に対して、何回も「横を向いてみろ、こうっちを向け」と満足気にながめていた。~客が来ても~「うちのバカ息子もまあ何とかもぐり込みましてな」と必ず付け加えるのだった』
参考要約:朝比奈隆 著、「朝比奈隆回想録 楽は堂にみちて」、音楽之友社、2001年発行、P18-21
1922年14歳
3月末に東京高等学校尋常科(中学部)の最初の入学試験がお茶の水高等師範学校で行われ、尋常科二年の編入試験を受ける。一週間して神田一橋の商大前の仮校舎で合格者の発表があった。
東京高等学校尋常科(中学部)二年編入学をした。だれよりも父が一番喜んだ。スイス製腕時計、オックスフォードの辞典、英国製高級万年筆オノトまで買ってくれた。海軍将校に似た制服に二条の白線の入った制帽の隆に対して、父は何回も「横をむいてみろ、こっちを向け」と満足気にながめていた。
『生徒数は一学年80人でニクラスに分かれているが、いわゆる“出来るやつ”ばかりだから私のような付け焼刃は全然歯が立たなかった。毎日の授業は峻烈を極めた。毎週土曜日の試験にはその週の教科が理解できていなければ大目玉を食い、時には廊下に点数が張り出され、家庭へも手紙が舞い込んだ。一学期の終わりの学期末成績が掲示されるころには私はどんどん引き離されて74番だった。~父があまりにも真剣で、悲しそうだったので自分の不勉強を認めないわけにはいかなかった』
『宿題のない学校だったので夏休みは葉山でのんびり泳いだ。国府津時代に覚えただけに泳ぎは確かで、水の中では魚のように自由に動き回り、当時まだ体の弱かったわたしの唯一の得意だった。父の真剣さに刺激されてか、私は二学期に入ると猛然と勉強した。~そして二学期は80人中、21番へと上がったのである』
要約:朝比奈隆 著、「朝比奈隆回想録 楽は堂にみちて」、音楽之友社、2001年発行、P21-22
1923年15歳
9月の関東大震災で焼け出されて朝比奈家で同居していた父方の親戚の岡部左久司(当時、早稲田高等学院在学中。のち内務省技官)の影響でヴァイオリンの魅力に惹かれ、朝比奈家の祖母からヴァイオリンの焼け残りの中古品を買い与えられたことがきっかけで音楽に興味を示すようになった。当初は東京高等学校尋常科の音楽教師田中敬一にヴァイオリンを習っていたが、やがて田中の紹介で橋本国彦に師事するに至る。ヴァイオリンの練習の傍ら、サッカーや登山、スキー、乗馬、陸上競技などのスポーツにも熱中していた。当時の同級生かつヴァイオリン仲間に篠島秀雄がいる。
『三学期は私の勉強の調子もぐんと出て、これなら10番以内も・・・と思われていた矢先の3月2日、夕食の卓には何時もの欠かしたことのないウイスキーのびんが立ち料理も並べられて風呂から出てくる父を待った。「長いお風呂だねえ、お前お湯殿へ行って呼んでごらん」と母に言われ、私は廊下をバタバタ走って突き当りの浴室の戸を「お父さん」と呼びながらガラリとあけた。浴槽の横に父が倒れていた。かたわらに吸いさしの巻きたばこが落ちていた。父の生涯は54才でふっつりと途切れてしまった』
『思えば、父は若い時代から鉄道建設の激しい仕事に次々と追われ、休むことを知らぬ一徹さがあった。酒豪にして愛煙家でもある。重役に迎えられた東洋電機専務の職だけにじっといることができず第一次大戦の好景気の恩恵に浴びそうと小さいながらも製鉄会社を経営した。大戦後の不景気とともに会社は倒産し、膨大な借金だけが残った。製鉄会社を経営していたころに、私の家は麻布から再び牛込高台のずいぶん広い家へ引っ越していた。近くには大きな屋敷ばかりで遊び相手がなかった。しかし、ことき初めて気軽に遊びに行く家ができた。それが生家の小島家、小学校高学年のころである。そして実の両親をおじさん、おばさんと呼び、自分の兄弟にあたる遊び友達には名前で呼んだ』
『事業の整理に当たって実父:渡邊嘉一は人も驚くほどのきびしさですべての私財をあげて負債の補填を命じたそうである。宝生流の能楽に練達であった父の集めた能面、衣装そのた書画などが次々と家から運び出され、私たちは高台の屋敷を出て矢来町に近い横町の小さい家に移った。小さい家に住むようになってからかえって母と近くに暮らすような気がして、私は淋しく思わなかった。そして父の死後思い立ったサッカーの練習に傾倒した』
『9月1日の関東大震災は幸い、牛込の高台にあった朝比奈家も小島家はともに災禍を免れた。この惨事で焼け出された親類二組が朝比奈家に身を寄せてきた。その中に父方の親類で早稲田の高等学院に通う私より年長の従兄弟がいた。岡部左久司といって後に内務省技官を務めた人だが、この人がヴァイオリンをかかえて私の家へ避難してきた。早稲田大学のスコットホールで開かれた音楽会でいつも独奏者としてステージに立つほどの人だった。彼の弾くヴァイオリンに魅せられていつしか私も興味を持つようになった。朝比奈の祖母が大震災の焼け残り品処分市のようなところから、中古のヴァイオリンを探してきた。ケースと弓がついて十六円五十銭したそうだ。祖母は「腕を動かせば喘息にいい」といって私に与えてくれた。また東京高等学校は音楽教育に熱心なのか「若い学生は音楽や美術の教育を受けるべきだ」という湯原初代校長の意図が反映されていた。尋常科から音楽の担任がいて私は田中敬一先生に習った。先生は自分の教育方法が限度に来ると「私にはここまでしか教えられないから」と、私たちを橋本国彦先生に紹介してくださった。橋本先生は当時は東京音楽学校創立以来の天才ヴァイオリニストといわれていた。私は橋本さんのもとに何年か通った』
<写真、東京高等学校時代、中列左から2人目>
要約:朝比奈隆 著、「朝比奈隆回想録 楽は堂にみちて」、音楽之友社、2001年発行、P22-32
1924年16歳
養母・朝比奈秀子の死
前年に養父を失くし、この年相次いで養母を亡くした朝比奈は実母小島さとに引き取られる。
『母は、父を失ってから生きる力もなくなったのか、眼に見えて弱っていった。医師は「悪性腫瘍」の疑いもあると眉をひそめた。当時始まったばかりの「ラジオ」というものをききたいという母に、~私は鉱石セットでラジオを作り、テレフンケン製のイヤホンを買った。イヤホンの一方を母の耳にあてがい、もう片方ので私が聞いた。若き近衛秀麿指揮でベートーヴェンの第五交響曲第二楽章を放送していた。それから間もなく秋の半ば、青山の赤十字病院の一室で火が消えるように母は死んだ』
『母の葬式の後始末や法事も一通りすんだある日、私は小島家に呼ばれた。おばさんは「薄々は知っていたかもしれないが、あんたは私の子なんだよ。あんたさえよかったらこの家へ帰っておいで」私はうんと深くうなずいただけで一言もいわず座を立って外え出るとそのまま夢中で市ヶ谷から中央線の電車に乗った。実父が渡辺嘉一、実母が小島さとだと知った』
『実家に引き取られてからの私は兄弟も多くなって、いつも明るく屈託のない家庭環境で育てられ自由奔放にのびのびと育った』
参考要約:朝比奈隆 著、「朝比奈隆回想録 楽は堂にみちて」、音楽之友社、2001年発行、P29才-35
1925年17歳
東京高等学校普通科(高等部)文科乙類(ドイツ語専修)に進む。
日露交歓交響管弦楽演奏会(近衛秀麿・山田耕筰指揮)を鑑賞
『そして私は虚弱だった体を鍛えることに専念し、蹴球部(サッカー部)に入部した。喘息は治らなかったが身体の方はかなり無理がきくほど健康体に戻った。山登りからスキー、乗馬に至るまでこなした。当時の乗馬は今と違ってなまやさしいものではなく、家のすぐ近くにある陸軍士官学校に毎朝五時に出かけ、当直の下士官から一時間教練を受けた。午前七時からは士官学校生徒の乗馬訓練があるので、それまでに馬を洗い、厩舎に戻してから帰宅、学校へ行くという厳しい日課がしばらく続いた。陸上競技にも精を出し千五百メートルで四分三十秒台の記録を持っていた。高等科一年ののとき、私はついにサーーカーの正選手に選ばれた。位置は右のフルバック。そうしたお陰で私は高等学校から大学初期にかけて、日本でも少しは名の知れたサッカーの選手になることができた。この経験が激しい肉体的運動を必要とするいまの仕事に役立つ結果になったのである』
<写真、東京高等学校サッカー部の頃、前列中央>
要約:朝比奈隆 著、「朝比奈隆回想録 楽は堂にみちて」、音楽之友社、2001年発行、P34-36
1926年20歳
1927年19歳
旧制東京高等学校高等科文科乙類では同級に日向方斎や清水幾太郎、宮城音弥、内田藤雄、平井富三郎、出淵国保がいた。旧制高校時代には友人と弦楽四重奏団を結成したり、1927年2月20日の新交響楽団(現:NHK交響楽団)の第1回定期演奏会を聴いたりもした。
エマヌエル・メッテルが指揮する新交響楽団を聴き、特異で強烈な印象があざやかに残る。曲目はカリンニコフ《第一交響曲》
『私は三年の秋、練習中に左ひざを骨折した。私の終生の友だちはこの学校時代に多い。私は指揮者という職業柄、強い孤独感に襲われることがままある。そこえもってきて、私自身、音楽教育というものを正式には受けなかったので孤独感は倍加される。そんな時、東京高等学校時代の友人たちの厚情が私にとって非常に力強い心の支えになった』
『私の弟にあたる四歳下の義彦は頭の切れる賢い子で、市立高千穂中学校に入学、その後松本高校を卒業して東大の経済学部に進んだ。目下は東京で会社を経営している』
要約:朝比奈隆 著、「朝比奈隆回想録 楽は堂にみちて」、音楽之友社、2001年発行、P28-29、38-39
1928年20歳
朝比奈は、京大音楽部の指導者であるロシア人指揮者エマヌエル・メッテルを目当てとして京都帝国大学法学部に入学。法学部在学中には同大学のオーケストラ(京都大学交響楽団)に参加し、ヴィオラとヴァイオリンを担当。やがて指揮をメッテルに師事、その他、レオニード・クロイツァーやアレクサンドル・モギレフスキーの影響を受けた。
<写真、4月京都大学入学したとき、家族で記念写真。父:渡邊嘉一、母:小島 里、姉:しづ>
『高等科三年を終え、本人の希望で東大か、京大へ進むのが普通のコースだったが私は何人かと一緒に京大を選んだ。その当時は大学の志望欄に東京と書くか、京都と書くだけで入学できた時代である。志望の理由の第一は、エマヌエル・メッテル先生が京大の音楽部の指導をしていることが大学便覧に載っていたからだ。ずっと東京にいて小学校、高等学校に通ったので、こんどは東京を離れたいという気持ちが強かった』
京大音楽部の指導者であるロシア人指揮者エマヌエル・メッテルを目当てとして、京都帝国大学(現京都大学)法学部に入学し、大学のすぐ裏の吉田山に下宿。
在学中には京大オーケストラ(京都大学交響楽団)に参加し、ヴィオラとヴァイオリンの奏者。
やがて指揮をメッテルに師事、ピアノをレオニード・クロイツァー、ヴァイオリンをアレクサンドル・モギレフスキーに学ぶ。
6月京都大学交響楽団第13回演奏会に第二ヴァイオリン奏者で出演、指揮メッテル。
<6月京都大学交響楽団第13回演奏会、前列右から2人目>
国民交響管弦楽団第1回演奏会でヴァイオリン奏者として参加。
要約:朝比奈隆 著、「朝比奈隆回想録 楽は堂にみちて」、音楽之友社、2001年発行、P39-40
1929年21歳
1930年22歳
高等文官試験に落第。
牛込区役所で徴兵検査を受ける。『京大三年の時、私は東京・牛込区役所で徴兵検査を受けた。騎兵を志し、市ヶ谷の陸軍士官学校へ毎朝乗馬訓練に通ったほどだから、体に肉がつき体重も六十キロになっていた。検査の列の後尾に並んでいると私の番がきた。いきなり「丙種合格」「なぜですか」「質問は許さん」いかつい検査官は大声で怒鳴った。黙っているとこんどは向こうから「京都大学だな」「ハイ」「河上肇にまなんだろう」ときた。「先生は経済学部なので学んでいません」と返事したが、「お前みたいな男はいらん」と一喝されて幕。~とうとう兵隊に引っ張られずに済んだ』
鉄道省への就職を目指して高等文官試験を受験したが落ちてしまう。
要約:朝比奈隆 著、「朝比奈隆回想録 楽は堂にみちて」、音楽之友社、2001年発行、P50-51
1931年23歳
『この時、実父もすでになく、鉄道省勤務の兄に頼むと「お前は試験に落ちたんだから中央官庁はだめ。~鉄道省はだめだが、私鉄なら関西で前途有望な阪神急行がいい」と鉄道省監督局長の添書までつけてくれた。3月20日ごろまでに願書を出した。翌3月30日京都帝国大学卒業式、31日の朝、新京阪電鉄で阪神急行本社に出かけた。~試験は総務部長を相手の面接だけで、しごく簡単に採用が決まった。4月1日からの出社である。初任給は月60円。独身寮暮らしである』
要約:朝比奈隆 著、「朝比奈隆回想録 楽は堂にみちて」、音楽之友社、2001年発行、P52。
『阪神急行で教習期間がすむと指導員がついて二、三ヵ月実査に電車に乗る。終点の上筒井駅の近くに小さな教会があり夜になると、よく音楽会が開かれた。シゲティやティボーのリサイタルを開いたのもここだった。勤務が終わって電車を降りると、制服を風呂敷に包み、背広に着替えて走り込んだものである。電車部門に1年いた、百貨店部門に回され六階の家具売り場だった。そのころ六階の音響部門では蓄音機、レコード、ラジオも扱った。売り場は午前中はほとんどお客さんがなく閑散だったので、よく大きな音量でレコードを楽しんだ。1年勤めた後本社の電力関係部門に配属される。デパート時代、関東大震災で関西へ移り住んだチェリストの伊達三郎さんがときどき訪ねて来られた。伊達さんの弦楽主重曹をやろうとの誘いで、昼休み中そっと抜け出して大阪中央放送局 (JOBK) へ駆け込み演奏した。当時の放送は生放送で六階の売り場のラジオが「ただいまからお昼の音楽をお送りします。出演はおおSか弦楽四重奏団、メンバーはヴァイオリン朝比奈隆・・とアナウンスしているのだから、どうにも隠しようがなかった。それでも上司から叱られることはなかった』
要約:朝比奈隆 著、「朝比奈隆回想録 楽は堂にみちて」、音楽之友社、2001年発行、P52-61
<写真、阪急電鉄運転士の実習中、最上列>
1932年24歳
1933年25歳
会社員生活に飽き足らず「もう一度学問をやり直したい」という理由で阪神急行(現阪急電鉄)を退社。改めて京都帝国大学文学部哲学科に学士入学。
本格的にプロの音楽家を志す。
チェリスト伊達三郎らと大阪室内楽協会を設立
1934年26歳
音楽の先輩伊達三郎の世話でこの年より月給30円で大阪音楽学校(現:大阪音楽大学)に非常勤講師として勤務し、一般教養課程でドイツ語・英語・音楽史・心理学を教えてた。『私の音楽人生で忘れられない人のひとりがチェロの伊達三郎さんだ。阪神急行時代に思い切って音楽の道へ転身することになったのも、私のようなかけ出しのヴァイオリン奏者を「仲間」として扱い、一緒に仕事をしようと働きかけてくれた伊達さんがいたからだと思っている。さもなければ現在の私はなかったろう。知り合った年齢が伊達さんが三十六、七歳、私が二十五、六歳、ちょうど一世代違った。だから伊達さんから見れば、私は子供みたいなものだったろう。それがよかったのかも知れない。その上、伊達さんは若い者の面倒をよくみた』
1935年27歳
1936年28歳
この年に卒業する予定であったが、『文学部から呼び出しがあり植田先生に呼ばれた。「君卒業はだめだ。普通講義を一科目落している」「論文は持って帰り、来年は表題だけ変えて出せばよい。一般の講義は出なくていいから、授業料だけ払って小西先生の講義だけは忘れずに受けろと」言われた。』
『関西に初めてオーケストラらしいものが誕生。私が初めて指揮台に立った。音楽学校の先生・生徒、京大、東大、東京商大の学生まで加え相当無理をして集めた。
2月12日大阪音楽学校演奏会で同校管弦楽団を指揮。
『第一回が好評だったので、毎年やろうじゃないかということになり、冬になると演奏会を開いた。《カルメン》第一幕を音楽学校生徒を主体にして上演したのもこの頃で、阪神急行時代の上司で清水雅さんにフランス語を教えていただいた。特にミナ夫人はフランス帰りの直後であり流ちょうなフランス語を話されていた。幾晩も夫妻に教えていただいた。あとは口移しにまる覚えという方法をとった。こうして清水雅さんご夫妻の努力でオペラのの初公演ができた。名前も「大阪フィルハーモニー管弦楽団」と名付けた。
オーケストラらしいものを基本にして、ときどき合奏をやろうと申し合わせ、名前も「大阪フィルハーモニー管弦楽団」と名づけたのは第一回の成功後間もなくであった。』
大阪中央放送局(現JOBK)の中に木曜会(放送合唱団の前身)という二十人ぐらいの音楽学校出身者でセミプロ合唱団が誕生していた。指導者の水野康孝さんがが辞めるので、あとを引き継いで指導してほしいと私に口がかかってきた。ちゃんとした合唱団だったので私には嬉しかった。この関わり合いが、プロの指導者としての仕事の始まりだった』木曜会指揮者就任。
要約:朝比奈隆 著、「朝比奈隆回想録 楽は堂にみちて」、音楽之友社、2001年発行、P64-75
<2月12日大阪音楽学校管弦楽団を指揮者となり、指揮活動を開始
1937年29歳
1年留年して京都帝国大学文学部哲学科卒業。卒論は中世音楽史を扱った内容だった
この年大阪音楽学校の教授就任。
ビゼーの「カルメン」で初めてオペラを指揮。
写真、京大卒業式後に近衛通りの寮の前で
1938年30歳
京大交響楽団の第五代常任指揮者となる
1939年31歳
宝塚交響楽団を指揮して大阪デビュー
<大阪音楽学校で教鞭をとる>
1940年32歳
1月31日新交響楽団(現NHK交響楽団)でチャイコフスキー《交響曲第5番》を指揮し東京でプロデビューを果たす。
第1回国民歌劇でチマッティのオペラ《細川ガラシャ夫人》を指揮。
京都帝国大学学歌を京都大学交響楽団を指揮して録音(朝比奈の初録音テイチクレコード)
1941年33歳
4月新交響楽団を指揮
11月8日バッハ《音楽の捧げもの》日本初演に参加
写真、その時の記念写真
『太平洋戦争の始まる直前に結婚。母親代わりだった東京の姉から見合い写真を送ってきた。田辺製薬創始者田辺五兵衛会長の実弟、武四郎の長女で東京音楽学校(現東京藝術大学)ピアノ科在学中の町子だった。3月に町子の卒業記念演奏会を聴きに行った。5月頃だったか「一度どこかで見合いしろ」というわけで東京・銀座の松屋の筋向いの喫茶店で本人と会った。宝塚ホテルで結婚式をあげた。物資の乏しいころだがったが、阪急の人たちが非常に盛大なごちそうを用意してくれ、太田垣士郎さん、清水雅さんなども列席してくださり、なにか阪急マンの結婚式のようだった。もちろん、放送局、楽団関係者、京大時代の友人も多く参加してくれた。結婚式、東京の披露宴を終わり、神戸市灘区篠原町に居を定める』
12月8日日本と米英との間に開戦。第二次世界大戦となる。
要約:朝比奈隆 著、「朝比奈隆回想録 楽は堂にみちて」、音楽之友社、2001年発行、P77-79
1942年34歳
大阪音楽学校教授を退官。
月給200円でNHK大阪中央放送局専属指揮者(首席)となる。戦意高揚のため「荒鷲に捧げる歌」「海の英雄」などを演奏。
大阪放送交響楽団第1回発表演奏会を指揮。
東貞一(Pf)らと大阪三重奏団を結成
1943年35歳
長男、千足誕生。
深井史郎の「ジャワの唄声」を世界初演。
大阪中央公会堂で「出陣学徒壮行大音楽会」を指揮。
『そのころ、私の上海行きの話が持ち上がった。東京・虎ノ門の現米国大使館の前にあった大東亜省(外務省東亜局が昇格)に呼び出され、上海交響楽団の指揮者として赴任する命令書を受け取った。昭和18年の晩秋の頃であった』
『上海への旅行許可はすぐ下りた。ちょうど鉄道省に兄がいたので、下関から朝鮮半島経由、北京を通って南京で乗換え、上海に行く一等特急券、寝台券の通し切符をつくってくれた。大きなカバンに日の丸の旗をつけ、楽譜をいっぱい詰めて出かけた。南京から上海の間は戦場で駅えきには歩哨が立ち厳重な警戒である。上海に着きキャセイホテルに行ってみた。ホテルで分かったのだが私を呼び寄せてくれたのは私の京都の先輩、声楽家の中川牧三さんだった。その時は陸軍報道部専任将校として文化担当の権限を一手に握っていた。この中川中尉の尽力がなければ、上海の素晴らしいオーケストラにめぐり合うことはできなかっただろう。』
外務省(大東亜省)の委嘱により、放送局指揮者兼任のまま上海交響楽団常任指揮者を一シーズン務める。
12月8日「大東亜戦争二周年記念演奏会」から指揮を始めた。翌年二月まで毎週コンサート計十回を私が振ったのだが、この三か月間はドイツ人、ロシア人に混じって中国人客も大変多く来ていた。
正式には「上海フィルハーモニー・オーケストラ」と呼ばれていた楽団のメンバーは役七十人、質の高い一流の奏者ぞろいだった。毎週日曜の定期演奏会に出かけ、ホテルに住み、月曜日は休んで、あとは練習日。最初の指揮を暗譜でやり評判がよく、その後もすべて暗譜でやるしかなかった。三か月間全部やり通せたことは私にとって大きな体験、勉強になった。』上海交響楽団の常任指揮者に就任
要約:朝比奈隆 著、「朝比奈隆回想録 楽は堂にみちて」、音楽之友社、2001年発行、P80-86
<上海交響楽団を指揮>
1944年36歳
上海滞在中1月、タラワ、マキン両島で玉砕した兵士を弔う歌の作曲を海軍省から命じられ、一晩で書き上げる。
日本に戻ってからは再び大阪中央放送局に戻り、時おり慰問や軍歌放送の仕事をしていた。
4月大阪放送交響楽団でベートーヴェン《交響曲第九番》初指揮
5月、要請を受け作曲家の大木正夫と満州国に行き、満州映画社長の甘粕正彦と会った。当時、満州の文化情報のいっさいの権限は満州映画協会理事長の甘粕正彦がにぎっていた。約一ヶ月間新京音楽団(新京交響楽団)とハルビン交響楽団の指揮者をして、約一ヵ月で帰国した。
12月に再び要請され、妻と伊達三郎さんを独奏者として同行、妻をピアノ伴奏者として連れて行った。その時大木の作曲した交響曲《蒙古》の演奏のためハルピン、新京のオーケストラを混合して内蒙古へも行った。
その年は三回も満州へ渡った。
深井史郎「ジャワの唄声」のレコード発売。
新京交響楽団、ハルビン交響楽団を指揮。
朝日会館で信時潔の「海道東征」を指揮
要約:朝比奈隆 著、「朝比奈隆回想録 楽は堂にみちて」、音楽之友社、2001年発行、P80-90
<ハルピン交響楽団団員と>
1945年37歳
昭和二十年関東軍の嘱託を命ぜられた。構想を練るのは甘粕さん等だった。全満州のオーケストラを一堂に集めよとの命令が出た。ハルピン、新京を軸に放送局の奏者を集めると百四、五十編成になった。当時十八歳のヴァイオリニスト辻久子を独奏者に呼んで協奏曲をやったりコルサコフの《シェエラザード》を演奏した。続いて全満州を回ってほしい。満鉄が特別輸送体制をとる、という命令が出た。昭和二十年三月のことである。北満から出発してハルピン、新京、奉天、大連と満鉄沿いの大都市を周り。旅順では旅順神社で奉納演奏、大連では《シェエラザード》もあとアンコールにこたえて《軍艦マーチ》を百五十人のおーけすとらでやり大いに士気を盛り上げた、満州全土を演奏旅行。
三月の仕事がすんで帰国する時、関東軍の報道部長が大阪と神戸が空襲で焼かれてしまった。妻子がいるなら満州へ呼んで暮らしたらどうかと誘われた。一旦帰国し、大きなトランク四個ばかりに荷物をまとめ、陸軍の命令書を切り札に五月上旬、妻子を伴って神戸を離れた。本格的に満州に移住、ハルビン特務機関の指揮下に入りハルビンのヤマトホテルに居住した。ハルピン交響楽団も上海とおなじように約六十人、ここでベートヴェンの交響曲を全曲演奏する予定だったが第七番あでで敗戦になり未完に終わったと記憶している。
8月に入るとシーズンオフ。仕事も暇になったので子供を連れて郊外の松花江対岸の避暑地に出かけた。バンガローを借りて楽しんでいるうち、十五日を迎えた。』
ソ連占領軍進駐後、弟子の林元植(後述)や朝比奈ファンの歯科医、小畑蕃などによって日本人狩りの暴徒から匿われつつ、1年以上ハルビンに蟄居。林元植のもとで町子・千足と共に難民生活を送る。
この間、国民政府からの依頼で中国人のオーケストラを編成し、アンサンブルの指導を行っていた(10月-1946年4月)。
8月から2ヶ月かけて神戸の自宅に引き揚げた。
要約:朝比奈隆 著、「朝比奈隆回想録 楽は堂にみちて」、音楽之友社、2001年発行、P90-91
1946年38歳
8月から2ヶ月かけて町子、千足と共にやっとの思いで10月神戸の自宅に引き揚げた。
引き揚げ後、大阪音楽高等学校(大阪音楽学校が改称したもの)勤務。
結成にあたり鈴木剛ら関西経済人の尽力があった。
同時に、参加団体として関西オペラ協会も設立した。
1947年39歳
1月大阪放送交響楽団出身者などを集め、現在の大阪フィルハーモニー交響楽団の母体となる「関西交響楽団」を編成し専任指揮者となる。結成にあたり鈴木剛ら関西経済人の尽力があった。同時に、参加団体として関西オペラ協会も設立した。
引き揚げ後は、大阪音楽学校および大阪音楽高等学校に勤務。
4月26日朝日会館において関西交響楽団として初の「第一回定期演奏会」を開催し指揮。
関西室内楽同好会を設立。
次男、千秋誕生
<関西交響楽団第一回定期演奏会のとき>
1948年(昭和23年)40歳
関響第7回定期演奏会でベートーヴェンの「第九」を初めて指揮
1949年41歳
関西オペラグループ「現関西歌劇団」を設立。オペラ活動を行う。以後、指揮や訳詞、演技指導も行った。
1950年42歳
「社団法人関西交響楽協会」を設立し理事就任。
1951年43歳
関響と初めてのベートーヴェン・チクルスを開催。
10月ユーディ.メニューヒン(Vn)と協演。
写真、メニューヒン
1952年44歳
産経会館竣工式で指揮。
R.G.モンブラン(Vn)と協演。
H.トロウベル(Sop)と協演。
10月アルフレッド.コルトー(Pf)と共演
写真、コルトーと
1953年45歳
関響初の東京公演を日比谷公会堂で指揮
関西歌劇団で自身の日本語訳によるビゼー「カルメン」を指揮。
初めての海外指揮旅行に出発。朝比奈は貿易商を営む知人から英国人マネージャーを紹介され、ロンドンでオーケストラを指揮することになっていた。ところが現地にはそのオーケストラ自体がなく、その男は現地では悪名高いマネージャーであることがわかる。契約書は損害賠償を請求されたら英国では立場が不利になるという内容と教えられる。英国外務省勤務の知人を訪ねると即時の出国を勧められ西ドイツへ脱出する。しかし、その到着を英国の記者たちが待ちかまえ、この事件はヨーロッパの楽壇に知れ渡る。これが結果的に朝比奈の海外での道を開くことになった。11月ハンブルクのホテルに滞在し歌劇場や放送局の視察をしたりして時を過ごしていた朝比奈に、ボンの日本大使館から連絡が入り、ヘルシンキ市立交響楽団から12月上旬二日間の演奏会を指揮するため招きたいと、総領事館へ申し入れがあったと連絡を受ける。
12月5日デュッセルドルフ空港からヘルシンキへ空路向かう。海外初の演奏会を前に、朝比奈はシベリウスの《フィンランディア》を曲目に加え、ヘルシンキ大学楽堂でヘルシンキ市立管を初めて客演指揮した。外国人でシベリウスを指揮して成功したことはないと言われていたが、本場こそ《フィンランディア》を指揮しなければならないと考えた朝比奈は、楽員にどんな風に演奏しているのかを聞き、思いテンポで悲しみを表現すべきだと悟る。その上で自分音楽をの要求をしていく、床を踏み鳴らすアンコールに幾度も舞台に立った。指揮者ハンイカイネやシベリウスの妹等の出席するその夜のパーティーでは作曲家アールトネンから交響曲「広島」の総譜を贈られた
第一回目の海外指揮活動となった。
ドイツへ戻り、知人の紹介でダーレムのベルリン・フィル事務局に総支配人ウェスターマン博士を訪ねる。『ヘルシンキの記事を読んだが次のシーズンにでもフィルハモニーを指揮する気はないか』と申し出を受けた。この話からベルリン・フィルハーモニー管弦楽団や北ドイツ放送交響楽団などヨーロッパの主要なオーケストラに招かれるようになっていった。
フルトヴェングラーと偶然会い、ブルックナーについて助言される。
1954年46歳
ドイツから帰国
ウェスターマン博士から正式なベルリンフィル客演指揮の契約書が送られる
関響でブルックナー《交響曲第九番》を初めて指揮。以降しばしばブルックナーを取り上げていた朝比奈であったが、納得のできる演奏ができなかったようだ。
J.カッチェン(Pf)と協演。
関西歌劇団でプッチーニの「お蝶夫人」を指揮。
写真、オペラ蝶々夫人リハーサル、坂東三津五郎、武智鉄二と
1955年47歳
関響とモーツァルト生誕200年記念ピアノ協奏曲全曲演奏会を開催。
広島でアールトネンの交響曲第2番「HIROSHIMA」を日本初演。
團伊玖磨の歌劇「夕鶴」を関西歌劇団で世界初演。
大栗裕の歌劇「赤い陣羽織」を関西歌劇団で世界初演。
1956年48歳。
6月21,22日朝比奈は、ベルリン高等音楽院ホールでベルリン・フィルを指揮するため、ベルリン・フィルハモニーの指揮者としてテンペルホーフ空港に降り立つ。
選んだのは
ベートーヴェン《交響曲第四番》
大栗裕《大阪俗謡による幻想曲》
芥川也寸志《弦楽のための三楽章》であった。
ベルリン日報は朝比奈のベートーヴェンを[欧州の指揮者が範とすべきもの]と絶賛した。[弾力あるリズムの精確さ、リリカルなメロディの高貴な流れ、それに加えて男性的で能動的な解釈での曲の展開は、クラシックの理念が極東において理解され息づいていることを立証した]と絶賛した。
大栗の曲は[そのオリジナリティの高さに感動をおぼえた]と各紙で報じた。
ベルリンでの朝比奈は、フルトヴェングラーのもとで七年間演奏したテーリヒェンによると『フルトヴェングラーに似ている』と賛辞を贈られている。朝比奈の演奏を聴いたフルトヴェングラーの孫ベルナルト・プラターは『まるで祖父が指揮をしているようでした。ゆっくり手を下ろして、突然すごいエモーションでオケが音を出した。ぎりぎりまでパワーをためていく祖父の演奏を見ているようでした』とTVインタビューで顔を紅潮させ話す。
この時が<第2回海外指揮旅行>となる。(オーストリア・西ドイツ)。この演奏会の成功をきっかけに、ハンス・アドラー(ベルリン)とのマネジメント契約にこぎつけ、以後海外へ客演指揮に出かけることになったのだ。
11月、<第3回海外指揮旅行>(スウェーデン)、L・オボーリン(ピアノ)と協演。
1957年49歳<第4回海外指揮旅行>(西ドイツ・ベルギー)
10月9-10日2度目の<ベルリンフィル定期演奏会>を指揮 ベルリン高等音楽院ホール
曲目
ベートーヴェン《交響曲第一番》
バルトーク《ピアノと管弦楽のためのラプソディ》 アンドール・フォルデス(Pf.)
レスピーギ《ローマの祭》
関西交響楽団第百回定期演奏会を指揮。
大栗裕の歌劇「夫婦善哉」を関西歌劇団で世界初演。
下写真、ベルリン・フィル指揮の朝朝比奈隆
1958年50歳
11月<第5回海外指揮旅行>(イタリア・西ドイツ)
サンタ・チェチーリア音楽院管弦楽団をローマで指揮
ベートーヴェン《ピアノ協奏曲第二番》グレン・グールド(Pf.)
12月7,8日3度目の<ベルリン・フィル定期演奏会シリーズ)客演指揮 ベルリン高等音楽院ホール
ギュンター・ヴィアレス《ロマンツェーロ》(初演)
メンデルスゾーン《ヴァイオリン協奏曲》 ヘンリク・シェリング(Vn.)
チャイコフスキー《交響曲第四番》
写真下、ベルリン・フィル演奏会
写真下、サンタ・チェチーリア音楽院管弦楽団で共演したグールド
フェスティバルホール落成記念式典に出演。
第1回大阪国際芸術祭(現大阪国際フェスティバル)に出演
1959年(昭和34年)51歳
A.セゴビア(ギター)と協演。
1960年(昭和35年)52歳
4月関西交響楽団を大阪フィルハーモニー交響楽団に改組(定期演奏会の回数は、改称時に数えなおしている)。
同楽団の常任指揮者を経て音楽総監督となり、ヨーロッパ公演を3回、北米公演を1回行い、亡くなるまでその地位にあった。一つのオーケストラのトップ指揮者を54年間務めたことになる。
5月毎日ホールで大阪フィルハーモニー交響楽団第一回定期演奏会を指揮。
<第6回海外指揮旅行>(西独・ルーマニア・ユーゴスロヴィア、スロヴァキア)
北ドイツ放送交響楽団、スロヴァキア・フィルハーモニー管などで客演指揮
山田耕筰の歌劇「黒船」で山田耕筰の補助指揮を担当。
1961年(昭和36年)53歳
<第7回海外指揮旅行>(スロヴァキア・ハンガリー・ユーゴ・西ドイツ)
北ドイツ放送交響楽団、スロヴァキア・フィルハーモニー管などで客演指揮
1962年(昭和37年)54歳
<第8回海外指揮旅行>(西ドイツ・スロヴァキア・東ドイツ・イタリア)
1月16-19日ラヴェル《スペイン狂詩曲》レコーディング、ハンブルク北ドイツ放送交響楽団/NDRハンブルグ/スタジオ録音。ベルリン国立歌劇場で海外オペラデビュー、スロヴァキア・フィルハーモニー管、サンタ・チェチーリア音楽院管弦楽団などで客演指揮
大阪フィル東京定期を指揮。(以後毎年出演)
写真、京大同級生の井上靖ほかと
1963年55歳
<第9回海外指揮旅行>(西ドイツ)。
日米のユース・オーケストラ合同演奏会を指揮。
「大阪の秋・現代音楽祭」を開催、以後十五年間にわたり、現代音楽の普及に務める。
大栗裕のヴァイオリン協奏曲を世界初演
1964年56歳
2月5日ベルリオーズ《ローマの謝肉祭》レコーディング、ハンブルク北ドイツ放送交響楽団NDRハンブルグ/スタジオ録音、1964年。
<第10回海外指揮旅行>(西ドイツ・ユーゴスラヴィア・東ドイツ・イタリア)、ベルリン、ケルン、ハンブルク各放送響合同オーケストラ、ワイマール州立歌劇場管弦楽団、スロヴァキア・フィルハーモニー管、サンタ・チェチーリア音楽院管弦楽団などで客演指揮
1965年57歳
<第11回海外指揮旅行>(東ドイツ)。
全日本吹奏楽連盟理事長に就任。
H.シェリング(Vn)と再び協演。
C.アラウ(Pf)と協演
1966年58歳
<第12回海外指揮旅行>(西ドイツ・スロヴァキア・東ドイツ・スイス)、H.ロロフ(Pf)と協演、A.カンポーリ(Vn)と協演、A.ルービンシュタイン(Pf)と協演。
北ドイツ放送交響楽団、ワイマール州立歌劇場管弦楽団、スロヴァキア・フィルハーモニー管などで客演指揮
入場税撤廃促進委員会の会長として請願書を大阪府・市に提出。
京都市交響楽団に初客演指揮
1967年59歳
<第13回海外指揮旅行>(東独・西ドイツ・ユーゴスラヴィア・イタリア・オーストリア・ルーマニア)
ドルトムント・フィルでS.チェルカスキー(Pf)と、カリアーリ交響楽団でN・マガロフと協演、サンタ・チェチーリア音楽院管弦楽団などで客演指揮
NHK交響楽団改称後初めて定期演奏会に客演指揮
1968年60歳
<第14回海外指揮旅行>(ルーマニア・西独・ポーランド・東独ほか)。
ワイマール州立歌劇場管弦楽団ほかで客演指揮
還暦記念演奏会で大阪フィルと京響の合同オーケストラを指揮
1969年61歳
<第15回海外指揮旅行>(東西両独・チェコ・スロヴァキアほか)
2月24日レスピーギ《ローマの松》レコーディング、ハンブルク北ドイツ放響とNDRハンブルグ/スタジオ録音。
北ドイツ放送交響楽団、スロヴァキア・フィルハーモニー管などで客演指揮
札幌交響楽団に初客演指揮。
紫綬褒章を受章
1970年62歳
1-2月<第16回海外指揮旅行>(東独・ポーランド・チェコスロヴァキア)
ポーランドのポズナニ国立歌劇場でオペラ《魔笛》、スロヴァキア・フィルハーモニー管などで客演指揮
ベルリン・フィルが日本万国博に来援したとき、オーケストラの楽員代表の名前を持ったヘルムート・シュテルンという男が私のところにやって来て「お久しぶりです」とあいさつした。「あなたの指揮のもとハルピン交響楽団の演奏に加わっていたものです。」という。満州育ちなので日本語がうまい、私はここで世界の人のつながりのおもしろさを教えられた。』
写真、ポーランドのポズナニ国立歌劇場でオペラ《魔笛》を指揮
6月<第17回海外指揮旅行>(韓国国立交響楽団)。
万博ファイナルコンサートでN響と第九を指揮。
11月<第18回海外指揮旅行>(台北市立交響楽団)。
ベートーヴェンの第九指揮100回を記録
要約:朝比奈隆 著、「朝比奈隆回想録 楽は堂にみちて」、音楽之友社、2001年発行、P90-92
1971年63歳
<第19回海外指揮旅行>(東ドイツ・西ドイツ)。
ワイマール州立歌劇場管弦楽団ほかで客演指揮
大阪フィルハーモニー初の海外公演を韓国・ソウル市で行う。
1972年64歳
<第20回海外指揮旅行>(チェコスロヴァキア・東ドイツ)
スロヴァキアン・フィルでヤーノシュ・シュタルケル(チェロ)と協演、クラウディオ・アラウ(Pf)と協演。
大阪フィル第100回定期でマーラー《千人の交響曲》を指揮。
大阪フィルでベートーヴェン生誕200年記念チクルスを指揮。
地方交響楽団連盟理事長に就任。
第2回モービル音楽賞を受賞。
第2回アジア作曲家会議実行委員長を務める。
大阪市音楽団を初客演指揮
1973年65歳
音楽生活40周年記念演奏会を各地で開催。
<第21回海外指揮旅行>(東ドイツ)
ゲラ国立響でギドン・マルクソヴィチ・クレーメル(Vn)と協演、ワイマール州立歌劇場管弦楽団ほかで客演指揮
学習研究社よりベートーヴェン交響曲全集を大阪フィルハーモニーを指揮して録音。発売(大阪フィル)
東京交響楽団定期演奏会に初登場
大阪フィルが東京公演を行った。この公演で取り上げた曲目の中には、ブルックナーの《交響曲第5番》も含まれていた。しかし、この東京公演で取り上げた《第5番》は、朝比奈も上出来と思うほど出来栄えが素晴らしく、聴衆も大喝采を浴びせた。1954年以来しばしばブルックナーを取り上げていた朝比奈であったが、それまでは納得の出来る演奏が出来なかった。しかし、この東京公演で取り上げた第5番は、朝比奈も上出来と思うほど出来栄えが素晴らしく、観客も大喝采を浴びせた。
ブルックナーの交響曲で問題になる楽譜の「版」であるが、朝比奈は基本的にハース版を使用している。
1975年(昭和50年)の大阪フィルの欧州公演中、10月12日リンツの聖フローリアン教会で交響曲第7番を指揮した際、会場にノヴァーク版の校訂者レオポルト・ノヴァークが来ており、終演後朝比奈を訪れた。ノヴァークは演奏を称賛し、ノヴァーク版で演奏しなかったことを詫びた朝比奈に、名演の前に版は大した問題ではない旨答えたという
1974年66歳
<第22回海外指揮旅行>(東ドイツ・西ドイツ)。
第25回NHK放送文化賞を受賞。
大阪府民劇場賞を受賞。
大阪フィルハーモニー合唱団を設立し、団長に就任。
I.へヴラー(Pf.
)、I.パールマン(Vn.)と協演。
9月11日大阪フィルハーモニー第118回定期演奏会でI.パールマン(Vn)と協演。
松下眞一の交響組曲「淀川」を世界初演。
服部良一の「おおさかカンタータ」を世界初演
1975年67歳
新日本フィルを初客演指揮し、指揮者団として顧問に就任。
<第23回海外指揮旅行>(東ドイツ)
ワイマール州立歌劇場管弦楽団ほかで客演指揮
10月大阪フィルを率いて第1回ヨーロッパ(スイス・オーストリア・イタリア・西ドイツ・オランダ)演奏旅行を敢行。
10月12日リンツ/聖フローリアン大聖堂において、ブルックナー《交響曲第七番》を演奏。会場にノヴァーク版の校訂者レオポルト・ノヴァークが来ており、終演後朝比奈を訪れた。ノヴァークは演奏を称賛し、ノヴァーク版で演奏しなかったことを詫びた朝比奈に、名演の前に版は大した問題ではない旨答えたという。
日本指揮者協会会長に就任
1976年68歳
大阪フィル音楽総監督に就任。
名古屋大学交響楽団を客演指揮(唯一の指揮)。
東京都交響楽団に初客演し指揮。
1回目のブルックナー交響曲全集の録音を始める(ジァン・ジァン)。
第32回日本芸術院賞を受賞。
東京国際音楽コンクール指揮部門の審査委員長を務める
1977年69歳
ドイツ連邦共和国功労勲章大十字章をドイツ総領事より授与された。
この受章以降、、朝比奈はベートーヴェンを演奏する時はドイツ連邦共和国功勲章大功労十字賞の略綬をつけて指揮台に上がっていた。
<第24回海外指揮旅行>(東ドイツ・西ドイツ)。
大阪フィル創立30周年記念してベートーヴェン・チクルスを開催。
大阪フィルとベートーヴェンの交響曲・ミサ曲全曲の録音をはじめる。
T.アダム(B)と協演。
1978年70歳
3月24・27・28日<第25回海外指揮旅行>東ベルリン、メトロポールシアター(旧東ドイツ)演奏会に客演
指揮:朝比奈隆/ベルリン交響楽団(旧東)
モーツァルト《ピアノ協奏曲第24番》 独奏:ダン・グリゴール(Pf)
ベートーヴェン《交響曲第二番》
ワイマール州立歌劇場管弦楽団などを客演指揮
音楽クリティック・クラブ賞を受賞。
初めてのブルックナー交響曲全集が完成し発売。(ジァンジァン)
ブルックナー全集の件以降、在京の主要オーケストラからの客演依頼が殺到するようになり、また、レコーディング活動も増加するようになった。
2回目のベートーヴェン交響曲・ミサ曲全集完成し発売。(ビクター)
大阪フィル定期演奏会でブルックナーの交響曲第0番を日本初演。
著書「楽は堂に満ちて」(日本経済新聞社)を出版。
著書「朝比奈隆 音楽談義」(芸術現代社)を出版
1979年71歳
指揮者として初めて朝日賞を受賞。
<第26回海外指揮旅行>(東ドイツ・西ドイツ)。
1980年72歳
大阪フィルを率いてカナダ、アメリカ演奏ツアーを敢行し、秋山和慶と指揮。
東京カテドラル大聖堂で大阪フィルと在京四つのオーケストラにより、「ブルックナー交響曲シリーズ」を開催。
前年から録音を重ねたブラームス交響曲全集が完成し発売。(ビクター)
群馬交響楽団にはじめて客演指揮。
1980年代以降朝比奈が出演する演奏会の人気は凄まじく、チケットは即売り切れになることもあった。
ブルックナーの交響曲の演奏のほかに、もう一つの主要レパートリーであったベートーヴェンの交響曲の連続演奏会や全集の制作も盛んに行った(ベートーヴェンの交響曲連続演奏会は、1951年から2000年の間に9回行っている)。
この頃より、朝比奈はしきりに「時間がない」を口癖にするようになり、録音も多くなった。
1981年73歳
2回目のブルックナー交響曲全集が完成し発売。(ビクター)
日本演奏連盟理事に就任。
名古屋フィル定期演奏会に初登場。
ジュネス・ミュジカル・オーケストラを指揮
1982年74歳
オペラ団体協議会会長に就任。
ザ・シンフォニーホール落成記念演奏会に出演。
著書「音楽と私」(共同ブレーンセンター)を出版
1983年75歳
<第27回海外指揮旅行>(東ドイツ)。
神戸市名誉市民に顕彰される。
音楽生活50年を記念して東京での「ブルックナー連続演奏会」など各地で記念演奏会を開催。
東京カテドラル大聖堂で大阪フィルとブルックナー連続演奏会。
新星日本響を初客演指揮
1984年76歳
大阪フィル定期演奏会二百回を記念し、フルトヴェングラー《交響曲第二番》を日本初演。
第25回毎日芸術賞を受賞。
ワーグナー《ンーベルングの指輪》を演奏会形式により新日本フィル、二期会の歌手等と毎年一作ずつの上演開始。
<第28回海外指揮旅行>オーストリアのリンツの国際ブルックナーホールで開催された国際ブルックナー・フェスティバルに招かれ、
ブルックナー《交響曲第六番》
ウィ-ン・トンキュンストラー管弦楽団を客演指揮して演奏。
九州交響楽団に初客演指揮。
読売日響の定期演奏会に初登場
エリアフ・インバルの代役として日本フィル定期公演を指揮
1985年77歳
1月22,23日<第29回海外指揮旅行>(ワイマール)(旧東ドイツ)で客演。
指揮:朝比奈隆/ワイマール州立歌劇場管弦楽団
ブルックナー《交響曲第四番》「ロマンティック」
3月10・12日<第30回海外指揮旅行>ホノルル、コンサートホール(アメリカ)で客演。
指揮:朝比奈隆/管弦楽:ホノルル交響楽団
ブルックナー《交響曲第四番》「ロマンティック」
大阪フィルと3回目のベートーヴェン・チクルスを開催。
大阪フィルと3回目のベートーヴェン交響曲全集(ビクター)を録音。
大阪フィルを率いて台湾公演を敢行。
広島交響楽団に初客演指揮。
対談集「朝比奈隆 わが回想」(中央公論社)を出版。
「親父の背中にアンコールを、朝比奈隆の素顔の風景」(大阪書籍)から出版。
写真、4月神戸の自宅で
1986年78歳
大阪フィル、東京シティフィル定期を足の骨折のため降板。
財団法人アフィニス文化財団顧問に就任。
ザ・シンフォニーホール・クリスタル賞を受賞。
ギュンター・ヴァントの代役としてNHK響定期公演を指揮。
ザ・シンフォニーホールで「朝比奈隆の軌跡」シリーズ第一回が始まる。
10月大阪フィルを率いて2回目のヨーロッパ(スイス・ユーゴスラヴィア・チェコスロヴァキア・オーストリア・西ドイツ・オランダ)演奏旅行を大友直人と指揮。
写真、ヨーロッパ演奏旅行、スロヴァキア・ブラティスラヴァで
1987年79歳
大阪フィル創立四十周年を記念して、全国各地で記念演奏会を指揮。
3月8・10日<第31回海外指揮旅行>ホノルル、会場不明(アメリカ)。
指揮:朝比奈隆/管弦楽:ホノルル交響楽団
ブルックナー《交響曲第五番》
4月初来日した北ドイツ放送交響楽団を大阪、東京で指揮。
4月15日大阪、フェスティバルホール
指揮:朝比奈隆/ハンブルク北ドイツ放送交響楽団・
ワーグナー楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》~第1幕への前奏曲
ブルックナー《交響曲第四番》「ロマンティック」
4月16日東京、サントリーホール
指揮:朝比奈隆/ハンブルク北ドイツ放送交響楽団
ワーグナー楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガ》」~第1幕への前奏曲
ブルックナー《交響曲第四番》「ロマンティック」
ブルックナーの「ヘルゴランド」を日本初演。
関西フィルを初客演指揮。
勲三等旭日中綬章を受章。
1988年80歳
80歳をを迎え、「ベートーヴェン・シンフォニーシリーズ」等各地で記念演奏会を指揮。
第2回倉敷音楽祭に初出演し、倉敷音楽祭祝祭管弦楽団を指揮、以後毎年ベートヴェンの交響曲を九年間連続指揮。
ワーグナー《ニーベルングの指輪》全曲のCDを邦人初の録音として完成。山野楽器より発売。
新日本フィルと5回目のベートーヴェン・チクルスを開催。
新日本フィルと4回目のベートーヴェン全集を録音を行なう。
東京シティフィルに初客演指揮。
1989年81歳
<第32回海外指揮旅行>(西ドイツ)
「第39回ベルリン芸術週間」でベルリン放送響(現ドイツ響)を指揮。
オーストリア連邦共和国より「オーストリア一等十字勲章科学芸術部門」を受章。
名古屋フィル定期公演を体調不良のため降板。
大阪府文化振興財団理事に就任。
文化功労者顕彰に選ばれる。
文化功労者顕彰に関しては次のような逸話がある。オール日本人キャストによる『ニーベルングの指環』全曲のCDを聴いた中島源太郎文部大臣(当時)が、「日本人もようやくこのレベル(「指環」を全曲演奏できる)まで到達することが出来た」と涙し、顕彰が内定したと言われている。
上海交響楽団来日公演を大阪で指揮。
この受章以降、朝比奈はブルックナーを演奏する時はオーストリア連邦共和国一等十字勲章の略綬をつけて指揮台に上がっていた。
ベートーヴェンの「第九」指揮200回を記録。
阪急百貨店吹奏楽団の第1回定期公演に客演
1990年82歳
<第33回海外指揮旅行>(西ドイツ)
3月15日ハンブルク、ムジーク・ハレ(ドイツ)
指揮:朝比奈隆/ハンブルク北ドイツ放送交響楽団
ベートーヴェン《ピアノ協奏曲第四番》 オレグ・マイセンベルグ(Pf)
R.シュトラウス《アルプス交響曲》
3月16日リューベック、シュタットハレ(ドイツ)
指揮:朝比奈隆/ハンブルク北ドイツ放送交響楽団
ベートーヴェン《ピアノ協奏曲第四番》 オレグ・マイセンベルグ(Pf)、
R.シュトラウス《アルプス交響曲》
3月18・19日 ハンブルク、ムジーク・ハレ(ドイツ)
指揮:朝比奈隆/ハンブルク北ドイツ放送交響楽団
ショパン《ピアノ協奏曲第一番》 アレクシス・ワイセンベルク(Pf)
R.シュトラウス《アルプス交響曲》
NDR Symphony Orchestra Hamburg
Takashi Asahina (Conductor)
(Live recording : Musikhalle Hamburg, March 19, 1990)
ベルリン国立歌劇場管の来日公演を東京と大阪で指揮
11月13日東京、昭和女子大学人見記念講堂
指揮:朝比奈隆、管弦楽:ベルリン国立歌劇場管弦楽団
ベートーヴェン《交響曲第六番》「田園」
ベートーヴェン《交響曲第五番》「運命」
新日本フィルと2回目のブラームス・チクルスを開催、録音を行う。
新日本フィルとベートーヴェン交響曲全集をフォンテックから発売。
大阪フィルとチャイコフスキー後期交響曲全集を録音。
1991年83歳
大阪フィルとチャイコフスキー後期交響曲全集が完成。ポニー・キャニオンから発売。
大阪フィルハーモニー会館/練習場(大阪市西成区岸里)落成記念式典を指揮。
東京都交響楽団定期演奏会を体調不良のため降板。
新日本フィル定期演奏会を体調不良のため降板。
オール・ジャパン・シンフォニー・オーケストラを指揮。
モーツァルト没後200年を記念して「レクイエム」を35年ぶりに指揮。
大阪フィルと5回目のベートーヴェン交響曲全集の録音を開始。
「朝比奈隆 交響楽の世界」(早稲田出版)を出版。
「朝比奈隆 ベートーヴェンの交響曲を語る」(音楽之友社)を出版。
1992年84歳
大阪フィル創立四十五周年を迎える。
大阪フィルとの5回目のベートーヴェン交響曲全集が完成。ポニー・キャニオンから発売。五度目の録音は世界初。
大阪フィルと3回目のブルックナー交響曲全集を録音をポニー・キャニオンで開始。
ブルックナー交響曲全集がビクターから発売。
大阪フィルを率いて3度目のヨーロッパ(ドイツ・イギリス・ギリシャ)演奏旅行に秋山和慶と指揮。
日本室内楽振興財団芸術顧問に就任。
大阪室内楽コンクール芸術顧問に就任。
小澤征爾の代役として新日本フィル定期公演を指揮。
ザ・シンフォニーホール10周年ガラコンサートに出演
1993年85歳
大阪フィルで音楽生活60周年記念演奏会を開催。
新日本フィルと2回目のブラームス全集(フォンテック)を発売
1994年86歳
音楽生活六十年を迎える。
フェスティバルホールで大阪フィルと3回目のブラームス交響曲シリーズを開催。
8年ぶりにNHK交響楽団定期公演を指揮。
ブルックナーの交響曲演奏が150回を記録。
新日本フィルとベートーヴェン《フィデリオ》を指揮。
写真集「朝比奈隆」(増進会出版社)を出版。
S.チェルカスキー(Pf)と23年ぶりに共演
神戸市名誉市民となる。
文化勲章を受章。音楽人としては山田耕筰以来二人目となった。
1995年87歳
阪神淡路大震災に遭遇し、神戸の自宅で罹災するも奇跡的に無事。五日後に東京にて東京都交響楽団を指揮。
大阪フィルとベートーヴェンの「フィデリオ」を指揮。
日本オーケストラ連盟の副理事長に就任。
イシハラホールでバッハの「音楽の捧げもの」を指揮。
大阪フィルとの3回目のブラームス交響曲全集でCDがポニー・キャニオン、ビデオが野間哲郎事務所から発売。
6月五十年ぶりに中国ハルビンを林元植らと共に訪問、満州時代に朝比奈の下で演奏していた元楽員と再会した。かってのハルピン交響楽団を訪問。毎日放送でドキュメンタリー『大河は海へ』として放送された。
「朝比奈隆のすべて」現代芸術社から出版。
写真、ハルピン交響楽団練習所前で
1996年88歳
大阪フィル第三百回定期演奏会を指揮。
第10回倉敷音楽祭でベートーヴェンの「第九」を指揮。
サントリーホールで東京都交響楽団と東京交響楽団、新日本フィルによる4回目のブラームス・チクルスを指揮。
大阪フィルとベートーヴェン・チクルスを開催。同時に六度目(大阪フィルとは五度目)の全集を録音。
5月<第34回海外指揮旅行>(アメリカ・シカゴ)。
ブルックナー《交響曲第五番》
シカゴ交響楽団定期演奏会にデビューし客演指揮
写真、5月16日、88歳でシカゴ交響楽団定期演奏会指揮
5月16日と10月にシカゴ響を客演指揮して北米デビュー、その模様はニューズ・ウィーク誌により広く紹介された。(生涯最後の海外公演となった)
これはピエール・モントゥーの記録を抜く同オーケストラの最高齢の客演であった。
朝比奈は90代以降、『ストコフスキーの最高齢記録を抜く』と公言し、一見では特に大きな身体の故障もなかったので、記録達成は容易だと見られていた(朝比奈はストコフスキーが亡くなった年齢・95歳を意識していたが、ストコフスキーが公開の演奏会に出演したのは93歳までであり、以降の活動はレコーディングに専念した)。
10月<第35回海外指揮旅行>(アメリカ・シカゴ)へ。
10月24日「シカゴ交響楽団定期演奏会」 シカゴ・シンフォニーホール
ワーグンー楽劇《ニュルンベルグのマイスタージンガー》前奏曲
ブルックナー《交響曲第九番》(演奏時間は72分16秒)
シカゴ交響楽団を客演指揮した
大阪フィルで88歳記念コンサートを開催。
写真集「朝比奈隆 80代の軌跡」(音楽之友社)を出版
1997年(平成9年)89歳
4月大阪フィル創立五十周年を迎え定期演奏会でR.シュトラウスの《アルプス交響曲》を指揮。同時に記念CD(自編曲を含む)を発売。
ナビオ美術館で「朝比奈隆と世界の指揮者」写真展を開催。
新日本フィルと7回目のベートーヴェン・チクルスを開催。
(ベートーヴェンの交響曲連続演奏会は、1951年から2000年の間に9回行っている)
大阪フィルと録音した三度目のb「ブルックナー交響曲全集」CDと六度目の「ベートーヴェン交響曲全集」でCDとDVDをポニー・キャニオンから発売。
1998(平成10)年 90歳
大阪フィルと四回目のブラームス・チクルスをザ・シンフォニーホールで開催
ムック本「朝比奈隆 栄光の軌跡」(音楽之友社)を出版。
1999年(平成11年)91歳
大阪音楽大学管弦楽団を23年ぶりに指揮
2000年(平成12年)92歳
5月25-26日NHK交響楽団客演し、ブルックナー《交響曲第九番》で圧倒的な大演奏を行った。このときスコアに”日本一の音”と記したという
大阪フィルと八度目のベートーヴェン・チクルスを開催。七度目の全集としてオクタヴィア・レコードが録音、NHKが全曲をハイビジョン収録。
10月4日新日本フィルと五度目のブラームス・チクルスを開催。
ベートヴェン《交響曲第九番》の指揮が250回を超える。
11月3-4日N響に出演しブルックナー《交響曲第四番》を指揮した。これがN響との最後の客演となった
写真、新日本フィルと5回目のブラームス・チクルスを終えて楽屋で町子夫人と
著書「この響きの中に」(実業之日本社)を出版
2001年(平成13年)93歳
大阪フィルと「ブルックナー交響曲選集」を開催。
7月25日、大阪フィルとのブルックナー《交響曲第8番》が東京でのラスト・コンサートとなった。
9月24日、大阪フィルとのブルックナー《交響曲第9番》が大阪での最後の演奏となった。
10月24日、大阪フィルの名古屋公演でチャイコフスキー《ピアノ協奏曲第1番》と《交響曲第5番》が生涯最期の演奏となり、演奏会後体の不調を訴えて入院。
10月25日、名古屋から神戸へ戻り甲南病院に入院。
12月初旬、病床から『引退するには早すぎる…』と呟く。
12月28日、急に病床から起き上がって仕事場へ行こうとする。『立つことが私の仕事』『立って指揮が出来なくなったら引退』として練習中でも椅子の類を使わず、最後まで立ったまま指揮をし、生涯現役であった。
12月29日午後10時36分、神戸市東灘区の甲南病院で家族に看取られながら永眠。享年93歳
長く日本指揮者協会会長を務めた。
12月30日、大阪フィルの第九演奏会で冒頭に黙祷を捧げる
訃報は31日付各紙の1面を大きく飾った。
朝比奈の棺に納められたものは、指揮棒と2001年11月の大阪フィル定期演奏会で指揮する予定であったブルックナーの《交響曲第三番》の楽譜と燕尾服が入れられ荼毘に付された。
葬儀は大阪市内の葬儀場において近親者のみで密葬であった。
没後、大阪フィルハーモニー交響楽団創立名誉指揮者となった。
<演奏活動>
関東では、新日本フィル・NHK交響楽団・東京交響楽団・東京都交響楽団を、晩年に至るまで指揮し続けた。読売日本交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団、東京フィルハーモニー交響楽団、新星日本交響楽団についても客演
関西・中国地方では、大阪フィル、京都市交響楽団、倉敷音楽祭祝祭管弦楽団が多い、大阪フィルとは一度だけ客演している。
海外では、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団、北ドイツ放送交響楽団等にも客演した。1987年北ドイツ放送交響楽団の来日公演の一部の公演も指揮した。
アマオケでは1976年に名古屋大学交響楽団を指揮して、ブルックナーの交響曲第8番を演奏。1981年にジュネス・ミュージカル・シンフォニー・オーケストラも指揮し、ベートーヴェンの第9を演奏。1982年京都大学交響楽団を指揮してブラームスの交響曲第2番など演奏した。
朝比奈隆 没後の動きBewegung nach dem Tod
2002年(平成14年)
2月7日ザ・シンフォニーホールで行われた「お別れの会」では朝比奈千足の指揮で、遺志に従ってベートーヴェンの《交響曲第7番》第2楽章が演奏され、無宗教で行われた。また参列者は朝比奈千足の発声により拍手で故人を見送った。
4月より創立名誉指揮者
7月前年11月に指揮する予定であったブルックナーの《交響曲第三番》は、東京と大阪で若杉弘の指揮で朝比奈の追悼特別演奏会とした。
ザ・シンフォニーホールで「朝比奈隆 お別れの会」を開催
サントリーホールで「朝比奈隆メモリアル・フォーラム」を開催
「指揮者の仕事 朝比奈隆の交響楽談」(実業之日本社)出版
ムック本「朝比奈隆 最後のマエストロ」(河出書房)出版
神戸国際会館で「永遠の朝比奈隆」演奏会を開催
帝国ホテルで「朝比奈隆メモリアルディナーコンサート」を開催
2003年(平成15年)
大阪フィル創立名誉指揮者の称号が与えられる。
梅田ニコンサロンで「巨匠・朝比奈隆~木之下晃写真展」を開催
2007年(平成19年)
12月11日から16日リーガロイヤルホテルで「永遠のマエストロ 朝比奈隆展」を開催された。
これは大阪フィル創立60周年記念行事として行われた。
2008年(平成20年)
7月9日生誕100年の日にザ・シンフォニーホールで大阪フィルは記念演奏会を行った。
指揮は朝比奈の後任の音楽監督大植英次で、モーツァルトの《ピアノ協奏曲第23番》、ブルックナーの《交響曲第九番》が演奏された。演奏終了後、聴衆は最晩年の朝比奈の多くの演奏会同様にスタンディング・オベーションを行った。
2011年(平成23年)
没後10年の命日にNHK-FMにて「今日は一日 朝比奈隆三昧」を放送
2012年(平成24年)
東京と神戸で「朝比奈隆~生涯現役を貫いた不滅の指揮者(マエストロ)~展」を開催
2015年(平成27年)
広島市と三原市で「朝比奈隆とアールトネン展」を開催
2017年(平成29年)
大阪府立中之島図書館にて「大阪フィルと朝比奈隆展」を開催。
ザ・シンフォニーホールで「映像で蘇る!朝比奈隆の軌跡 オン・スクリーン」を開催。
朝比奈町子夫人が逝去。
参考要約:「大阪フィル年譜より」
9.主な作品Hauptwerke
<レコーディング>
ベートーヴェン:交響曲全集を世界最多の7度
ブルックナー、ブラームス交響曲全集をそれぞれ3度
10.初演Premiere
レスピーギ《ローマの祭》
シェーンベルク《管弦楽のための変奏曲》
フォーレ《レクイエム》
ブルックナー《交響曲第0番》
ブルックナー《ヘルゴラント》
大栗裕《管弦楽のための神話》
ワーグナー《ニーベルングの指環》をオール日本人キャストで4年がかりで演奏した(新日本フィルハーモニー交響楽団。ワーグナー《神々の黄昏》
11.朝比奈隆-演奏会記録Takashi Asahina-Concert Records
12.関連動画Takashi Asahina youtube