朝比奈隆の出自

13. 朝比奈隆の出自Herkunft


<1. 出自/宇治橋家>
祖父:宇治橋瀬八 信濃国上伊那郡平出村の住人
祖母:宇治橋ゆう

<2. 朝比奈家に至る養子について>
渡邊宗輔家に朝夷権十郎家三男:朝夷忻三が養子入りし、渡邊忻三と称した。
渡邊忻三の長女:よしの婿養子になることを前提に、宇治橋瀬八家二男:宇治橋嘉一が養子入りし、渡邊嘉一と称した。
渡邊嘉一とその内妻:小島里の間に、三男が生まれ、朝比奈林太郎・秀子夫婦の長男として入籍し、朝比奈 隆と名付けられた。

<3.渡邊忻三について>
渡邊忻三(1839年(天保10年)11月24日-1913年12月3日歿)従四位/正四位・勲五等双光旭日章/勲三等、養父:渡邊宗輔は東京士族・渡邊家は代々徳川家旗本能勢家に仕えた。
1840年(天保11年)10月幕末の武士・旧幕臣・浦賀奉行所与力:朝夷権十郎の二男:朝夷金蔵(金三)として出生。先々代渡邊宗輔家の養子となる。
明治の海軍技官。海軍機関総監/横須賀造船所長、海軍機関少将、浦賀船渠取締役、正四位・勲五等双光旭日章
1866年(慶応2年)軍艦富士山の器機方士官
1868年(慶應4年=明治元年)の戊辰戦争では、榎本武揚の脱走艦隊に投じ、軍艦回天の機関長として乗組み、宮古湾の海戦などで活躍したが、函館で敗れ榎本らと共に帰順。のち、赦される。
1870年(明治3年)工部省に出仕、横須賀製鉄所に勤務。製鉄所は明治4年に造船所と改称。この頃、名を欣三と改めたようだ。
1872年(明治5年)の横須賀造船所技術吏の中に主船中師(工部省主船寮九等出仕)、機械及修理船掛兼火夫支配として渡辺忻三の名がある。横須賀造船所には箱館政権の長鯨丸副艦長喰代和三郎、開陽丸船匠長上田寅吉や、浦賀奉行所出身の幕府海軍士官であった浜口興右衛門、岩田平作、岡田井蔵も在勤していた。
1874年(明治7年)に海軍兵学寮分校少教授になる。
1876年(明治9年)10月18日付け文書資料に海軍中匠司渡邊忻三の名で海軍大輔川村純義 宛ての届出書がある。(※註.1)
1878年(明治11年)に海軍兵学校附属機関学校校長心得となり機関学校の立ち上げと、機関士官の養成に尽力した。
1880年(明治13年)海軍大匠司になる。
12月16日付け付け文書資料に造船所次長 海軍大匠司渡邊忻三の名で海軍郷榎本武揚 宛ての届出書がある。(※註.2)
1881年(明治14年)9月21日及び12月8日付け文書資料に造船所次長 海軍大匠司渡邊忻三の名で海軍郷川村純義 宛ての届出書がある。(※註.3)
1882年(明治15年)建造主任として軍艦海門を造り上げる。
9月6日付け文書資料に造船所次長 海軍大匠司渡邊忻三の名で海軍郷川村純義 宛ての届出書がある。(※註.4)
1883年(明治16年)軍艦天龍を造り上げる。
1884年(明治17年)4月12日付けの文書資料に造船所次長 海軍大匠司渡邊忻三の名で海軍郷川村純義 宛ての届出書がある。(※註.5)
1885年(明治18年)10月1日-勲五等双光旭日章。
1886年(明治19年)海軍一等技師、横須賀造船所機械科長兼督売部理事官を経て、海軍大技監(奏任官1等)、横須賀鎮守府造船部次長兼機械科長となる。
1889年(明治22年)休職。
1891年(明治24年)技術官としては最高位の機技総監(少将相当)。
1896年(明治29年)海軍機関総監。
1906年(明治39年)海軍機関少将と改称)に進級、予備役となった。
1905年(明治38年)11月1日に退役。退官後は浦賀船渠株式会社の創立発起人の一人として参加。取締役(1896-1911年)を務め、経営・技術の面で大きく同社発展のために貢献した。監査役も務めた。  
1913年(大正2年)12月3日東京赤坂の自邸で74歳で没した。
資料:(※註.1)(※註.2)(※註.3)(※註.4)(※註.5)は、国立公文書館アジア7歴史資料センターweb上の閲覧による

<4. 渡邊嘉一について>(1858年(安政5年)3月22日-1932年12月4日歿) 
日本土木史の父と呼ばれる。

(上、実父:渡邊嘉一35歳ごろの写真)
1855年渡邊嘉一は信濃国上伊那郡平出村(後の朝日村字平出、現・辰野町)に、父:宇治橋瀬八と母:ゆうの間の二男として生まれた。6歳上の長男:八十太郎の弟。渡辺忻三家の養子となる。
工部大学校卒(現・東京大学工学部)、英国グラスゴー大学留学、工学博士・京阪電鉄常務・石川島造船所取締役。勲五等。
1864年(元治元年)6歳で三澤源三の私塾に学ぶ。
1873年(明治6年)松本町(現松本市)開智に開校した開智学校入学。抜群の成績は秀才嘉一の名を近隣に広めた。
その嘉一に横須賀海軍機関総督で横須賀造船所長を務める渡邊忻三の目にとまる。
1874年(明治7年)宇治橋嘉一は渡邊忻三の養子となることを前提に上京する。
1876年(明治9年)工部大学校豫備校に入学。
1877年1877年に上京し、工部大学校(現・東京大学工学部)予備校を経て、同大学校土木科(6年制)に官費入学。在学中、24歳の時、大鳥圭介に才能を買われた。
1882年在学中24歳の時、工部大学校校長:大鳥圭介の仲介により海軍機関総督横須賀造船所長渡邊忻三の長女:俶江(18歳)と結婚し、嘉一は渡邊家の婿養子となった。
1883年同校を首席で卒業後、工部省に技師として入省し鉄道局に勤務。入省早々、日本鉄道上野・川口間鉄道敷設工事の監督を命じられる。
1884年2月長女:くにが生まれる。退官して自費で英国グラスゴー大学に留学し工学理学正科を専攻した。
1886年に理学士の学位を取って卒業後、サー・ジョン・ファウラー及びサー・ベンジャミン・ベイカー工務所の技師となり、当時世界一と称された鉄橋ウォース・ブリッジ(フォース・ブリッジ)の工事を監督した。

上写真資料:http://www.news-digest.co.uk/news/features/6073-kaichi-watanabe.html/Eikoku News Digest Ltd
1888年ファウラー・ベイカー社を退職し、米国経由で日本へ帰国。日本土木(株)(現大成建設)に入社し技師部長に就任した。
帰国した途端、嘉一は小島さと女と知り合い内妻とし、東京牛込に囲い二人の間に5人の非嫡子が生まれる。嘉一の生真面目さは、それでも正妻の俶江をないがしろにすることなく、二人の間を行き来しつつ、都合七男六女をもうけた。日常生活においては厳しさの半面、優しい面もあったようで、子供はそれぞれ立派に成長している。
1892年同社退職。参宮鉄道技師長、のち社長となる。
1897年機関車の燃費向上燃焼器(燃油注射器)を発明し特許を取得。
北越鉄道専務兼技師長ののち社長となった。成田鉄道、東京電気鉄道などの取締役を兼任した
1899年工学博士を授与される。日露戦役に際して勲五等瑞宝章受章。
1906年京阪電気鉄道創立委員、委員長渋沢栄一(相談役に就任)。社長職なく実質的な経営トップの初代専務取締役に就任し、亡くなる前年の1931年まで経営に関与した。関西瓦斯、福島木材などの取締役を兼任した
1908年嘉一と妻妾:小島さと女の間に三男:小島隆、後の指揮者:朝日奈隆誕生。
1912年東京石川島造船所の第三代社長に就任し1925年まで在任した。
1913年渡邊家の家督を相続。
1918年東洋電機製造を設立し初代社長就任し1931年まで在任した。
1925年帝国鉄道協会名誉会員となった。その後伊那電気鉄道社長、東洋電機製造社長を務めたほか、京阪電気鉄道、京王電気軌道などの役員も兼務する等、東京電気鉄道、奈良電気鉄道、北越鉄道、朝鮮中央鉄道(朝鮮鉄道の前身会社の一つ)、参宮鉄道などの鉄道関連企業を中心に10数社の経営に参画したほか、関西瓦斯社長、東京月島鉄工所社長、東洋電機製造社長などを歴任。54歳で東京石川島造船所(現・IHI)社長に就任。第7代帝国鉄道協会会長など歴任、日本土木史の父と呼ばれる。日本の土木と鉄道の発展に貢献した。
1932年(昭和7年)12月4日に胃癌で死去。

<5. 朝比奈林之助について>
旧幕臣/東京府士族/従五位勲五等/工学士・鐵道院技師・鉄道省運輸課長・東京クレー(株)社長・東洋電機製造(株)常務取締役・日本電気製鉄(株)取締役
1869年(明治2年9月20日)朝比奈林之助は、従五位勲五等 東京府士族/旧幕臣朝比奈忠順の二男として東京市牛込区砂土原町三丁目十七番地に生まれた。
東京府立第一中学校豫備門(第一高等学校の前身)入学・卒業
1895年(明治28年)東京帝國大学工科大学土木科を卒業し、九州鉄道(株)技師となる。
1900年(明治33年)退職。北越鉄道の支配人に転じ同社を再建。
1908年(明治41年)同鉄道が官営となり精算事務を終え鐵道院に転じ技師。
その後中部鉄道管理局営業課長となる。
1913年5月東部鉄道管理局技師運輸課長となり、のち鉄道省運輸局長
1917年(大正6年12月)鐵道院を退職。
1918年(大正7年)東洋電機製造株式会社創立時には、実父:渡邊嘉一が取締役社長に就任し、朝比奈林之助が常務取締役に就した。のち東洋電機製造専務となる。

<6. 渡辺忻三 家族>
養父:渡辺忻三
養母:
長男:渡邊嘉一(1858年生まれ) 宇治橋瀬八と母:ゆうの間に二男として出生。渡邊忻三の長女:よしと結婚、渡邊家の婿養子となる。
長女:渡邊よし 宇治橋嘉一が渡邊家長女:よしの婿養子として入ることを前提に結婚。俶江(よしえ)ともある。
二女:渡邊やの 1876年(明治9年) 宮城、小林忠吾に嫁す
三女:渡邊きみ 1891年(明治24年) 東京、朝夷糺に嫁す
二男:渡邊治三 1893年(明治26年) 分家す 
四女:渡邊寿衛 1894年(明治27年) 分家す
三男:渡邊五八 1896年(明治29年) 鉄道院副総裁・古川阪次郎の養子となる
五女:渡邊やす 1898年(明治31年) 分家す
六女:渡邊正  1900年(明治33年) 分家す
資料:https://ameblo.jp/derbaumkuchen/entry-12430815535.html/渡辺忻三 ー旧幕時代より海事に奔走すー

<7. 渡辺嘉一の家族>
養父:渡辺忻三
養母:
婿養子:渡邊嘉一 1858年(安政5年) 信濃国伊那郡朝日村の宇治橋瀬八とゆうの次男として出生。渡辺忻三養子。勲五等、工部大学校卒・英国グラスゴー大学卒業・工学博士、京阪電鉄常務・石川島造船所取締役。
妻:渡邊よし 1867年(慶應3年) 渡辺忻三の長女。俶江(よしえ)ともいう。
異母兄弟/ 長女:渡邊くに 1884年(明治17年) 東京、肥田籌一郎に嫁ぐ、のちに復籍し分家した。
      ( 資料/https://ameblo.jp/derbaumkuchen/entry-12113755423.html )
異母兄弟/ 二女:渡邊久江 1889年(明治22年) 分家する。
異母兄弟/ 三女:渡邊晴江 1893年(明治26年) 新潟、工学博士・本間賢介に嫁ぐ。
異母兄弟/ 四女:渡邊幸江 1895年(明治28年) 法學士・福井粲一に嫁ぐ。
異母兄弟/ 二男:渡邊哲二 1896年(明治29年) 東京帝大経済科卒、東京海上火災社員・国東鉄道取締役。
異母兄弟/ 三男:渡邊茂藏 1898年(明治31年) 米国ハーヴァード大出身、東邦電力技師・高級自動車取締役、分家して一家創立
同妻:ノーラ・ガートルード 1888年、フェンチコンヴエント高女卒、カナダ、ジョージ・アレキサンダー・キトソンの長女。 
異母兄弟/ 四男:渡邊慶三 1899年(明治32年) 東京府在籍。慶大経済卒、愛宕山鉄道取締役、1925年(大正14年)前記東京、渡邊くに(肥田籌一郎に嫁いだが復籍し分家する)の養子となる。
家系資料:https://ameblo.jp/derbaumkuchen/entry-12430815535.html/渡辺忻三 ー旧幕時代より海事に奔走すー

<8. 実母:小島 里 家族>
母:小島さと(渡邊嘉一の内妻) 武州川越藩城主松平家の祐筆、能勢又彦の娘。1935年歿。
長女:しげ 長岡高女第一回生・女子美術大学卒業、陸軍大佐園田重之に嫁ぐ
長男:信彦 1897年(明治30年) 第三高等学校卒業・東京帝国大学卒業、高等文官試験・鉄道院の高級官僚となった。
二女:しづ 東京女学館英文科卒業、京阪電鉄常務・専務・副社長・社長・会長となった今田英作に嫁ぐ。
二男:知彦 第八高等学校・京都大学法学部卒業、高級官僚となった。
三男:隆  生後直ぐに朝比奈林太郎の養子となり長男として入籍。京都大学法学部卒業、指揮者
四男:義彦 1911年(明治44年) 松本高等学校卒業・東京帝国大学経済学部入学、東京で会社経営。 

<9. 養父:朝比奈家 家族>
養父の父:朝比奈 忠順
養父の母:
長男(養父の兄):朝比奈友太郎(朝比奈家を継ぐ)
二男(養父):朝比奈林之助 1869年

<10. 朝比奈林之助 家族>
養父の父:朝比奈忠順
養父の母:
養父:朝比奈林之助1869年9月20日(明治2年)東京に生まれる。1923年54歳で歿。
養母:朝比奈ヒデ 1880年~1924年(明治13年)長崎県に生まれる。一ノ瀬幾治の妹。1924年44歳で歿。
長男:朝比奈隆  1908年~2001年(明治41年)東京に生まれる。実父は渡辺嘉一、実母は小島さと。1908年東京、朝比奈林之助の養子となる。従三位勲三等/文化勲章。京都帝大法学部・文学部各卒業。指揮者/大阪音楽学校教授・大阪フィルハーモニー交響楽団音楽総監督。1924年両親亡き後、実家に引き取られる。

異母兄弟/渡邊哲二の家族  
異母兄弟/渡邊哲二 1896年(明治29年) 東京帝大経済科卒、東京海上火災社員・国東鉄道取締役   
同妻:広 1904年(明治37年) 工学博士・原田鎮治の五女 雙葉高女出身
同長男:嘉男 1923年(大正12年) 学習院
同二男:栄男 1924年(大正13年) 学習院
同三男:満男 1926年(大正15年) 学習院
同四男:寿男 1928年(大正3年) 学習院
同長女:礼子 1929年(昭和4年) 聖心女子学院
同五男:禎男 1931年(昭和6年)  
家系資料:https://ameblo.jp/derbaumkuchen/entry-12430815535.html/渡辺忻三 ー旧幕時代より海事に奔走すー

異母兄弟/渡邊慶三の家族   
異母兄弟/渡邊慶三 1899年(明治32年) 東京府在籍。慶大経済卒、愛宕山鉄道取締役、1925年(大正14年)前記東京、渡邊くに(肥田籌一郎に嫁いだが復籍し分家する)の養子となる。
同養母:くに 1884年(明治17年) 戸主
同妻:和 1906年(明治39年) 大阪、浜崎健吉二女、金蘭会高女出身
同長女:佳子 1929年(昭和4年)
同二女:延子 1932年(昭和7年)
同三女:恭子 1934年(昭和9年)
家系資料:https://ameblo.jp/derbaumkuchen/entry-12113755423.html/渡辺慶三 ~大阪、浜崎一族につらなる家系~

<養父の兄:朝比奈友太郎 家族>
養父の兄:朝比奈友太郞 1862年(文久2年) 朝比奈家戸主
養父の兄嫂:朝比奈ふみ 1865年(慶応元年) 東京士族・長谷川与門養女
養父の兄友太郞の長男:比日奈 順一郞 1885年(明治18年) 
養父の兄友太郞の長男順一郞の妻:朝比奈カネ 1890年(明治23年) 福岡、淺見健吉姪
養父の兄友太郞の二男:朝比奈 恒雄 1895年(明治28年) 長谷川きを養子となる
養父の兄友太郞の長男順一郞の長男:朝比奈 茂 1912年(明治45年) 
養父の兄友太郞の長男順一郞の長女:朝比奈 静 1917年(大正6年) 

<朝比奈隆の長兄:小島信彦 家族>
戸主:小島信彦 1897年(明治30年) 従四位勲五等。三高から東京帝大政治科卒。高文行政科合格・鉄道書記官・大臣官・房保健課長 愛知、実父:宮城庄吉の三男として出生。小島さとの養子となる
妻:小島昌子 1897年(明治30年)、岡山、松田谷五郎の二女として出生。
長男:小島信一 1924年(大正13年)
二男:小島健二 1925年(大正14年)