伊福部家 系図

伊福部家 系図Ifukube family tree

1.伊福部の由来Origin of Ifukube
栗田寛『新撰姓氏録考証』によると、伊は単なる接頭辞であり伊福部は吹部の意味として、笛吹を掌る職業的品部とする説。太田亮『姓氏家系大辞典』によると、第12代・景行天皇(在位西暦71~130年)皇子の五百城入彦皇子(いおきのいりひこのみこ、いほきのいりひこのみこ)の御名代部(※注1.)とする説などがある。
第20代 / 伊福部若子臣は、第19代・允恭天皇(在位西暦412~453年)の頃の人物で、天皇から「気吹部臣」を賜り伊福部臣と称したと[因幡国伊福部臣古志」には記されている。等々の説がある。
※注1.「御名代部ミナシロベなど称するものは、宮廷において、新村落を分立した場合の称号であつた。」。
※注2.伊福部、五百木部、廬城部、伊福吉部とも表記(いおきべ / いふくべ / いふきべ)は、古代日本の職業部。あるいは名代(注※3.)の民。
※注3.「名代(なしろ)は、古墳時代の部民制における集団のひとつ。一定の役割をもってヤマト王権に奉仕することを義務づけられた大王直属の集団である。より丁寧に御名代(みなしろ)とも呼ばれることがある。

2.祖先ancestor
第14代 / 武牟口命(タケムクチノミコト)=武内宿禰が、伊福部氏の直接の祖先と言われている。武牟口命は、日本武尊を奉じて征西の途中、稲葉蝦住山の荒海という賊を征伐するために因幡に入国したと『因幡国伊福部臣古志』には記されている。日本武尊は第12代・景行天皇(在位西暦71~130年)の皇子で第14代・仲哀天皇(在位西暦192~200年)の父にあたる。

3.祖先 本拠地
祖先である 第26代 / 都牟自臣は、第36代・孝徳天皇(在位西暦645~654年)西暦646年に因幡国で唯一の評として水依(みずより・みずえの)評が立評され、評督という長官に任ぜられた。次いで第37代・斉明天皇4年(658年)に水依評を分割して高草評(高草郡)が新設されたとある。別の史料からは、第40代・天武天皇12年(683年)までに水依評の残った部分が二分割され、法美評(法美郡)と邑美評(邑美郡)となり、さらに8世紀に「評」が「郡」に改められたことが伝えられている。法美評は伊福部吉氏の宗家が支配し、邑美評は分家が支配するようになった。法美評督には大乙上の冠位、邑美評督にはそれより位が低い小乙中が授与されており、法美郡が因幡国の中心地に位置づけられていたことが推定される。因幡國宇部神社は国府の近くにあり、法美郡と邑美郡の中間辺りにあった。

4.史料Historical materials
『国造本紀』によれば成務天皇(在位西暦131~190年)の御世に彦坐王の子・彦多都彦命が初めて国造に任じられたというが、実際の因幡氏の祖先は大和政権の勢力が因幡に及ぶ以前から、この地を治めていた有力な在地首長の一族であったと考えられている。
因幡氏は高草郡と八上郡に本拠地を有していたとされ、大国主命の伝説に登場する八上姫はこの国造一族とされ、宇倍神社の神主となった伊福部氏はこの一族から分かれた支流であることが分っている。
『新撰姓氏録考証』に中央の伊福部連(宿禰)は物部氏と同系の尾張連と同祖の伝承を示している。
『因幡国伊福部臣古志』に7世紀の中頃の因幡国に、初めて律令制国の下位統治機構である評が設けられたという記述があり、古代日本の行政区域に関する重要な史料と位置づけられている。
法美郡の国府町には第42代・文武天皇(在位:697年-707年)の采女である伊福吉部徳足比売の墓跡があり、国の史跡に指定されている。ここから発見された墓誌には「和銅3年」(710年)の銘があり、これが法美郡の名称が登場する最古の史料といわれている。 
※注法美郡は1896年(明治29年)に近隣の郡と合併して岩美郡となった。
伝西暦784年/延暦3年に散位従六位下・伊福部臣冨成という人物が撰述した伊福部家に伝わる『因幡国伊福部臣古志』の系図には、大己貴神を以て、始祖と為すとある。大己貴神を始祖としたことについて『日本書紀』を見ればわかるのでそのようにしたと述べている。大己貴神は別名、大穴牟遅神、国作大己貴命、八千矛神、葦原醜男、大物主神、宇都志国玉神、大国魂神、伊和大神、所造天下大神、地津主大己貴神、幽世大神、幽冥主宰大神、杵築大神 等。別称、大国主大神とも言われているが、一説には大己貴神は伊福部氏の奉斎神であり祖先神ではなく、系図上結びつけたものと思われるとされている。
※注:『因幡国伊福部臣古志』を撰述したのは散位従六位下伊福部臣冨成という人物である。『古志』撰述の理由として「 冨成自身は亡父である、邑美郡大領外正七位下の公持臣と右馬少弁正六位下の佐美麻呂がかって宴飲を行ない、興が乗ってきたところで『古志』を論じあっているを、いつも宴席の片隅に座って聞いており、骨肉に染み渡るほど、一族の歴史を知ることができた。しかし、自分の末裔の者たちはこの『古志』を聞くことができないのではないかと思われ、ここにそれを転伝する所以である、と。冨成は巷間の妄説は一切載せていないと宣し、延暦三年(784年)に『古志』を撰述した 」としている。
伊福部冨成の父:公持(邑美郡大領外正七位下)は、邑美郡の大領(伊福部公持は律令制で邑美郡の郡司(長官)であった。彼の一族は同郡の郡領氏族として誇り高い歴史を有し、一族には佐美麻呂のように中央出仕して中央官人として活躍する者もいた。
※注:森公章著、倉本一宏(監修)日記で読む日本史、『平安時代の国司の赴任「時範」をよむ』、臨川書店、2016年発行、121頁から引用。

5.先祖は神官
古代因幡国の在郷の豪族伊福部氏(伊福吉部氏)は、因幡国高草郡・八上郡を根拠地としていた因幡国造氏から分かれた支流で在庁官人を経て宇部神社の神主になったといわれている。第36代 / 伊福部助茂(スケシゲ)が初代:因幡國宇部社祠官になった。その子の代になって二流に分かれ、久遠の一神主家(安田氏)と二神主家の第37代 / 厚孝が池淵氏を称しその後、二神主家系の伊福部家系図として書き継がれ明治時代まで続いたと思われる。

6.伊福部氏-系図『因幡国伊福部臣古志』より


伊福部家系図については、伊福部臣富成が撰述した『因幡国伊福部臣古志』が基になっている。その『古志』に、第28代以降は法美郡の郡領氏族による伊福部臣氏の系譜を伝えているといわれ、法美郡の伊福部臣氏の人が書き継いだとされている。また、第36代 / 助茂(一神主)以降から二流に分かれ、第37代 / 厚孝から「二神主」の系図が続いている。今の伊福部家に伝わる系図『因幡国伊福部臣古志』につながるものと思われる。
始祖 / 大己貴命(オオアナムチノミコト)は大国主神、葦原醜男神など八つの別名を持ち古事記や日本書紀、出雲国風土記、播磨国風土記などで活躍する神出雲大社に奉祀されている。
➝第2代 / 五十研丹穂命(イキシニホノミコト➝第3代 / 健耳丹穂命(タケミミニホノミコト) ➝第4代 / 伊瀬丹穂命(イセニホノミコト)又は天丹戈命、新田磯丹穂命、天日椅乃命(アメノヒボコ)という。天日椅乃命(アメノヒボコ)のヒボコとは朝鮮半島南部から鉄器製作の技術を持ってきた新羅系の渡来人で古事記、日本書紀には新羅の王子とあると前田憲二(民俗学者)『神々の履歴書』で語っている ➝第5代 / 天沼名桙命(アマノヌナホコノミコト) ➝第6代 / 天御桙命(アマニミホコノミコト) ➝第7代 / 荒木臣命(アラキノオミノミコト) ➝第8代 / 櫛玉神饒速日命(クシタマカムニギハヤヒノミコト)は「記紀」に物部氏の祖と書かれてある。
➝第9代 / 可美真手命(ウマシマデノミコト)兄弟の天香語山は尾張氏の始祖になる。
➝第10代 / 彦湯支命(ヒコユキノミコト) ➝第11代 / 出雲色雄命(イヅモシコヲノミコト) ➝第12代 / 内色雄命(ウツシコヲノミコト) ➝第13代 / 伊香色雄命(イカガシコヲノミコト)
➝第14代 / 武牟口命(タケムクチノミコト)=武内宿禰は第12代・景行天皇(西暦71~130年)頃に存在した人物と思われる。伊福部氏直接の祖先と言われている。武牟口命は、日本武尊を奉じて征西の途中、稲葉蝦住山の荒海という賊を征伐するために因幡に入国したと『因幡国伊福部臣古志』には記されている。日本武尊は第12代・景行天皇(西暦71~130年頃)の皇子で仲哀天皇の父にあたる。
➝第15代 / 意布美宿祢(イフミノスクネ)
➝第16代 / 伊其和斯彦宿祢(イキワシヒコノスクネ)は、第13代・成務天皇(西暦131~191年)頃の御代に因幡国造になり、同天皇から賜った太刀等を神として宇部神社に祀ったとの記述がある。
➝第17代 / 健火屋宿祢(タケヒヤノスクネ)➝第18代 / 阿良加宿祢命(アラカノスクネノミコトアラカスクネ)➝第19代 / 汙麻宿祢命(ウマノスケネノミコト)
➝第20代 / 伊福部若子臣(イホキベノ ワクゴノオミ)は第19代・允恭天皇(在位西暦412~453年)頃の人物で天皇から「気吹部臣」を賜り伊福部臣と称した
➝第21代 / 伊福部馬養臣(ウマカヒノオミ)。 ➝第22代 / 伊福部尓波臣(ニハノオミ)➝第23代/伊福部阿佐臣(アサノオミ)➝第24代/伊福部颶飄臣(ツムジノオミ)
➝第25代/久遅良臣(クヂラノオミ)第33代・推古天皇(西暦592~628年)頃の人物。西暦603年制定の冠位十二階の小智(従八位相当)を賜った。
➝第26代 / 都牟自臣(ツムジノオミ)第36代・孝徳天皇(在位西暦645~654年)、第37代・斎明天皇(在位西暦655~660年)頃の人物。西暦646年(大化2年)第36代・孝徳天皇(在位西暦645~654年)の御代に初めて水依評を設置、それと同時因幡國水依の評督という長官に任ぜられた。西暦647年(大化3年)小黒冠(従八位相当)の位を授けられた。西暦649年(大化5年)大乙下(従八位正八位相当)の冠位が授けられた。西暦658年(斉明4年)大乙上に叙された。同年正月には水依評を分割して高草郡を設置した。西暦658年4月18日死去。
➝第27代 / 国足臣(クニタリノオミ)=因幡國法美郡領。 ➝第28代/伊福部小徳臣(ヲトクノオミ) ➝第29代 / 伊福部志太留臣(シタルノオミ)➝第30代 / 伊福部黒満侶臣(クロマロノオミ)。 ➝第31代 / 伊福部大人臣(ウシ)➝第32代 / 伊福部家継臣(ヤカツグ)➝第33代 / 伊福部門成臣(カドナリ)➝第34代 / 伊福部成世臣(ナリヨ)➝第35代 / 伊福部総景臣(フサカゲ)
➝第36代 / 伊福部助茂(スケシゲ)=因幡國宇部社祠官祖(一神主兼惣官)次の代から二流に分かれ、一神主兼惣官を継ぐのは久遠➝久光➝久経➝久俊へと続いた
※第36代文中:注‐「惣官とは神社における一切の政務を司った長官」の意味
※第36代以降加筆:注‐ 柴橋伴夫はその著書『生の岸辺/伊福部昭の風景パサージュ』発行所:藤田印刷エクセレンヨブックス/2015年12月5日発行で「平安時代に入ると、一族は自身の仕える宇部神社を正面に立てて、家の再興をはかり、また家を二つに分け、一方は国府の近くに居を構え、国司の名代として政治の実権を握り、他方は、神社の下に住んで祭祀の執行、文字通り祭政一致の体制を築き上げます」、『鎌倉時代以降、~ 国府の館近くに住む伊福部家の名前は歴史から消え、神社下の一族だけが残ります』とある。
※第36代以降加筆:注‐宮司・金田誠著『家の血』にはおおよそ次のようことが書かれている。「宇部神社は栄え、国造伊福部氏は輿に乗って土を踏まずのようであったが、戦国時代になると豊臣秀吉の鳥取攻めで、一時他国へ落ち延び、江戸時代に入り少しづつ復興したが一神社の神官に過ぎなかった」。
➝第37代 / 伊福部厚孝(アツタカノスクネ)始補二神主国造➝第38代 / 伊福部具孝 補二神主。 ➝第39代 / 伊福部行貞二神主国造 。 ➝第40代 / 伊福部貞清宿禰 二神主国造。  ➝第41代 / 伊福部俊貞宿禰二神主国造。 ➝第42代 / 伊福部俊政宿禰二神主国造大夫。 ➝第43代 / 伊福部政信宿禰二神主国造。 ➝第44代 /伊福部経政宿禰二神主国造。 ➝第45代 / 伊福部政任宿禰太夫国造。 ➝第46代 / 伊福部政世宿禰任国造。 ➝第47代 / 伊福部久世宿禰任国造。 ➝第48代 / 伊福部有世宿禰国造。 ➝第49代 / 伊福部重世宿禰任国造。 ➝第50代 / 伊福部氏世宿禰任国造兼権神主。 ➝第51代 / 伊福部定世宿禰任国造兼権神主。 ➝第52代 / 伊福部高世宿禰任国造兼権神主。 ➝第53代 / 伊福部宗世宿禰任国造兼権神主。 ➝第54代 / 伊福部勝世宿禰任国造兼権神主。 ➝第55代 / 伊福部信世宿禰国造兼権神主。 ➝第56代 / 伊福部宗信神主兼国造。 ➝第57代 / 伊福部則世神主兼国造。 ➝第58代 / 伊福部輔世神主兼国造。 ➝第59代 / 伊福部勝世神主。 
➝第60代 / 伊福部經世神主。 
➝第61代 / 伊福部為世神主。 
➝第62代 / 伊福部安世神主。 
➝第63代 / 伊福部信世神主・因幡伯耆両国葬惣幣頭。 
➝第64代 / 伊福部勝世神主・因幡伯耆両国葬惣幣頭。
➝第65代 / 伊福部信世(伊福部昭の祖父)
➝第66代 / 伊福部利三(伊福部昭の父)
➝第67代 / 伊福部宗夫(伊福部昭の兄)
➝第68代 / 伊福部敦

7.祖父:伊福部信世-年譜grandfather


伊福部家は大己貴命(オオナムチ=大国主(オオクニヌシ〉=(大黒天))を始祖とする因幡の古代豪族であり、武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖先として祭る。明治4年に太政官布告により因幡國一の宮・宇部神社の世襲の神官を解かれるまで代々務めてきた。

1843年(天保14年)伊福部信世は、因幡國一の宮・宇部神社の神官・伊福部勝世の子として生まれた。

1865年(慶応元年)22才。「一清隊」隊長(外国からの攻撃に備え神職たちの守備隊)。

1867年(慶応3年)24才。10月、妻・寿々との間に長男・伊福部利三誕生。

1871年(明治4年)28才。太政官布告によって神官の世襲制度が廃止され世襲の神職を解かれ、鳥取県因幡国宇部神社の神官世襲は終わった。代わって中央から荒尾成幸が宮司として赴任した。

1872年(明治5年)29才。6月士族を選び編入。12月祢宜。

1873年(明治6年)30才。4月少講義。

1874年(明治7年)31才。11月2日依願本官兼職免。

1875年(明治8年)32才。3月27日権祢宜兼権訓導。

1877年(明治10年)34才。6月13日訓導。8月権少講義。8月18日鳥取神道事務分局副長。

1878年(明治11年)35才。2月15日主典。11月鳥取神道事務分局長。12月12日出雲大社一等教会所副長。12月20日出雲大社一等教会所長。

1879年(明治12年)36才。1月中講義。

1880年(明治13年)37才。4月免本官、免本職。5月多賀神社教会所長。

8.父:伊福部利三-年譜father


伊福部利三の代で66代続く家系。明治になってから宇部野村の先祖代々の家を大火事で焼失した。地元での顔が保てなくなったようだ。
本籍は、鳥取県岩美郡字宇部野村大字宮下(現鳥取県岩美郡国府町)。

1867年(慶応3年)10月、伊福部利三(※トシゾウ)は父・伊福部信世、母・寿々の子として鳥取県因幡国岩美郡国府村に生まれた(12月3日という説もある)。

1887年(明治20年)20才。第四師団歩兵第10連隊(姫路)に入営。

1889年(明治22年)22才。満期除隊。

1890年(明治23年)23才。11月、神奈川県巡査拝命。

1994年(明治27年)27才。1月、巡査部長に昇進。8月第一師団歩兵第一連隊(東京)補充召集せられ、日清戦役に出征(注:出典資料には日露戦役とある)。

1895年(明治28年)28才。1月、二等軍曹に任じ日清戦後功に依り勲八等白色桐葉章及び年金24円を授与した。11月神奈川県警部となり、各地署長を務む。

1904年(明治37年)37才。12月、第十師団歩兵第四十連隊補充大隊(鳥取)へ補充召集され日露戦争従軍。

1905年(明治38年)38才。戦後功に依り勲七等瑞宝章並びに金圓を賜り軍曹に進む。12月、休職となる。

1906年(明治39年)39才。1月、横浜市役所書記拝命。4月24日長姉・佐世子が歿。5月、復職北海道庁警部に任じられ鵡川分署長。

1908年(明治41年)41才。9月、留萌分署長。

1910年(明治43年)43才。長男・宗夫誕生。

1911年(明治44年)44才。2月、本庁に勤務、警部。9月函館水上署長。 

1912年(明治45年/大正元年)45才。二男・勲誕生。
 
1913年大正2年) 46才。倶知安警察署長。

1914年(大正3年)47才。3月、釧路警察署長に任官正八位に叙される。5月31日三男・昭誕生。9月根室警察署長に転じる。

1915年(大正4年)48才。10月、従七位に叙せられる。

1917年(大正6年)50才。2月、釧路警察署長。

1918年(大正7年)51才。6月、網走警察署長。

1920年(大正9年)53才。札幌教習所所長(※警察学校と思われる/編者)転勤。

1921年(大正10年)54才。3月、正七位に叙せられた。11月、帯広警察署・署長、単身赴任。

1922年(大正11年)55才。3月、依願免官となった。

1923年(大正12年)56才。6月北海道釧路国支庁音別村第3代村長就任し8月退任。7月河東郡音更村村議会から推薦され、音更村第七代目村長就任。次兄・勲と昭が札幌から音更村に移る。

1935年(昭和10年)68才。8月、12年間務めた音更村村長を退任。

1942年(昭和17年)75才。12月12日、二男・勲が歿。

1948年(昭和23年)81才。世田谷区玉川奥沢町に転居。

1949年(昭和24年)1月19日世田谷区玉川奥沢町で歿。82才。

伊福部利三:出典資料Akira Ifukube: Source material
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936734/182北海道人名辞書 – 国立国会図書館デジタルコレクション『北海道人名辞書; 著者: 金子信尚 編; 出版者: 北海民論社; 出版年月日: 大正12;』、最終アクセス2019年8月16日