黛敏郎


黛敏郎
MAYUZUMI, Toshiro
別名:中川洋一、六条隆

生没年・出身地・歿地・墓地
1929年2月20日神奈川県横浜市に生まれる
1997年4月10日肝不全のため入院中の神奈川県川崎市内の総合新川橋病院で死去、68歳。
墓所/神奈川県曹洞宗大本山總持寺境内墓地。戒名「威徳院優嶽叡敏居士」

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1.職業


日本の作曲家

【楽歴】
1948年東京音楽学校作曲科卒業
1951年同校研究科修了
1951~52年パリ、コンセルヴァトアール留学
師事:橋本國彦、池内友次郎、伊福部昭、トニー・オーバン
1976年東京藝術大学音楽学部作曲科講師
横浜放送映画専門学院(現日本映画学校)講師

【関係団体】
1953年「3人の会」
日本現代音楽協会
日本作曲家協議会会長
日本音楽著作権協会会長
永久芸術顧問(東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団)
茶道「裏千家淡交会」顧問、評議員

【受賞(章)歴】
1951年映画「帰郷」で毎日映画音楽賞を受賞
同年、室内楽作品《7つの楽器のためのスフェノグラム》が第25回国際現代音楽祭(ISCM)に入選
1954年放送劇《ボクシング》(三島由紀夫台本)文化放送にて放送。同作品で芸術祭奨励賞
1956年《エクトプラスム》第30回国際現代協会音楽祭(ISCM)入選
1958年映画「気違い部落」(1957)、映画「幕末太陽伝」(1957)によって第12回毎日映画音楽賞受賞
1959年《涅槃交響曲”Nirvana-Symphonie”》が第7回尾高賞受賞
同年、大阪でミュージカル《可愛い女》の音楽により毎日演劇音楽賞受賞
1964年「にっぽん昆虫記」(1963)、「非行少女」(1963)により第18回毎日映画コンクール音楽賞受賞
1965年《曼荼羅交響曲》のLPが1965年度文化庁芸術祭奨励賞受賞とレコード・アカデミー賞を受賞
同年、映画「君も出世ができる」で第12回アジア映画祭音楽部門賞受賞
1966年オーケストラ作品《舞楽BUGAKU》が第15回尾高賞受賞
同年、映画「東京オリンピック」にて弟20回毎日映画コンクール音楽賞受賞、第16回ブルーリボン音楽賞受賞
1967年「題名のない音楽会」が1966年度ギャラクシー賞(第4回)を受賞。
1968年「NNNワイドニュース」の司会に対して、第5回ギャラクシー賞を受賞
同年、ドキュメンタリー「日本音楽の生と死」が芸術祭奨励賞、翌年、英語版がアメリカTVエミー賞を受賞する。
1970年「NNNワイドニュース」が第7回ギャラクシー賞受賞
<受章>
1970年紫綬褒章受章

2.称号

3.黛敏郎 記録年譜


1929年
2月20日4人姉弟の長男として神奈川県横浜市に生まれる
父千尋は山下汽船(現・商船三井)の船長であり、八歳まで父の顔を覚える事はなかったという。家にはオルガンがあり、楽器を鳴らすことと、音楽を聴くことが好きであった。

1935年6歳
横浜市二谷尋常高等小学校へ入学。この頃から自らピアノを学ぶようになり、母の女学校時代の友人鏑木スエにピアノを習い始めた。3-4年間学んだという。

1936年7才
小学校高学年の頃より下總皖一著「和声学」などで独習しながら、ピアノ曲、歌曲、室内楽曲など20~30曲を作曲。作品はモーツァルト風であり、中学ではドビュッシー風になった。
7月6日弟:哲郎が生まれる。

1941年12歳
旧制横浜第一中学校入学(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)
国語教諭は万葉集研究の第一人者犬養孝であった。
中学では合唱団やハーモニカ・バンドで活動する。

1943年14歳
横浜在住の作曲家中村太郎(註1.)から和声の基礎を一年余り学ぶ。
先輩のフルーティスト遠藤政之に連れられ横浜交響楽団に入団。コントラバス奏者として毎週土曜日他YMCAホールにて金子登の指揮で《バグダッドの酋長》《ボルティーチの唖娘》《カルメン組曲》《未完成》などを練習する。
戦争激化のため中断となる
註1.作曲家中村太郎作品:バイオリンとピアノのためのバラード第三番》「無明」、《、男声合唱曲《雨ニモマケズ : 十一月三日》宮沢賢治作詩、混声合唱曲《丹沢山》北原白秋作詩、歌曲集《智恵子展望台》 相馬梅子ほか、混声合唱組曲《郷愁のうた》作詩:岩間純/落合純子、混声《梓川の河童》、作曲法入門 : 初めて作曲を学ぶ人のための曲の範例/ シェーンベルク著 ; 中村太郎訳ほか

1945年16歳
旧制横浜第一中学校卒業
4月から東京音楽学校(現東京藝術大学)作曲科に入学し橋本國彦に師事。二年上に芥川也寸志、三年上に團伊玖磨がいた。
橋本國彦に作曲を師事するが、空襲激化のため授業はなかった。その後、横浜の自宅が戦災で焼失したため、橋本宅へ寄宿してレッスンを受ける。橋本國彦が所有していたSPレコード、ストラヴィンスキー《ペトルーシュカ》などを聴いたり、ストラヴィンスキーを初めとする新古典主義的な作風を学ぶとともに、ジャズやガムランなど非西欧音楽にも親しんだ。
その頃作曲していたのはショパンを複雑にしたようなドビュッシー的作品だったという。
8月、終戦。
戦中の国策的作曲活動により教授職を辞任した橋本に代わり、池内友次郎に和声学、対位法、ピアノを豊増昇、金子登、野辺地瓜丸に、指揮法を金子登に師事。

1946年17歳
4月から講師の伊福部昭からに管弦楽法を学びはじめる。
在学中はブルーコーツ等のジャズバンドでピアニストとして活動した他、既に映画音楽も多く手がけるようになっていた
7月31日、《セレナード・77 ンタスティック》を完成。
11月12日、《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》初演。
アルバイトでジャズ・ピアノを弾き始める。約2年間ジャズ・ピアニストとして進駐軍クラブなどで演奏し、本科3年から1年間楽団「ブルー・コーツ」にも在籍。

1947年18歳
8月11日ピアノ独奏曲《オール・ ドゥーブル》を完成。作品はジャズの影響が見られた。

1948年19歳
4月9日《ルンバ・ラプソディ》を完成。
8月15日《ディヴェルティメント》を完成。
10月16日《オール・デウーブル》を自身のピアノで初演。
12月4日《ディヴェルティメント》初演。

1949年20歳
2月24日本科卒業演奏会で卒業作品《10楽器のためのディヴェルティメント》演奏、卓越した作曲技巧により一躍注目を集め、後にレコード化された。この曲は卒業生の実力を上回るものとして非常に注目されたといわれている。
3月東京音楽学校本科卒業。
4月東京音楽学校研究科に進み、引き続き伊福部昭、池内友次郎に師事
5月JOAB「現代日本の音楽」で《10楽器のためのディヴェルティメント》放送。
「音楽芸術」11月号に「作曲の課題と目標」を掲載。
NHK放送文化講座などの作曲を行う。
《ルンバ・ラプソディ》作曲。
デビュー当初はドビュッシーやガーシュイン、ミヨー、またガムランなどの南方音楽やモダン・ジャズの強い影響を受けていた

1950年21歳
6月《スフェノグラム》を横浜で完成。
10月《10楽器のためのディヴェルティメント》がコロムビアにてレコーディングされる。文部省芸術祭でも優秀邦人作品として演奏。
11月松竹映画「花のおもかげ」を皮切りに映画音楽の仕事をはじめる(生涯に190本以上を担当する)。
11月16日N響委嘱作品《シンフォニック・ムード》尾高尚忠の指揮/N響により初演。
バレエ「かぐや姫」のスケッチを行う(部分を、後にピアノ曲《金の枝の踊り》として発表。

1951年22歳
1月コロムビアと専属契約を結び、幾つかの映画主題歌、流行歌を同社へ作曲、レコーディングする。
同月、映画「帰郷」で毎日映画コンクール音楽賞を受賞。
3月映画「カルメン故郷に帰る」で挿入歌を作曲。
同月、東京音楽学校研究科を修了。
8月映画「純白の夜」(原作三島由紀夫、音楽黛敏郎)。
8月16日日本を発ち、フランス政府給費留学生として音楽学校同級生の矢代秋雄、別宮貞雄と共にパリへ向かう。
9月16日にパリへ着。パリ音楽院に入学しトニー・オーバンのクラスで作曲を学び、課外でアンリ・シャランに和声学を師事するが、しかし西洋音楽の可能性と限界を見極め、アカデミスムに縁のないことを悟り、1年で退学。
留学後は留学中に接した前衛的手法、ミュジーク・コンクレート、電子音楽、ヴァレーズの音楽様式、ケージの偶然性の音楽やプリペアド・ピアノなど、最新の前衛音楽の様式を取り入れながら、作品を次々と発表する。特に電子音楽、ミュージック・コンクレートなどの分野を、当時いち早く日本の音楽界に導入した。
同年最初の国産カラーフイルムによる総天然色映画「カルメン故郷に帰る」で、ブギ調での同名の主題歌作曲を担当する。
映画「帰郷」で毎日映画音楽賞を受賞
インドやジャワの音楽に触発されて創作された室内楽作品《7つの楽器のためのスフェノグラム》が第25回ISCM国際現代音楽祭に入選しフランクフルト・アム・マインで初演され、世界的に認められ若くして、国内外にその名を知られるようになった。

1952年23歳
3月18日木下惠介に三島由紀夫を紹介される。
5月パリでミュージック・コンクレート初の公開演奏会を観る。
7月フランスから帰国(5月29日にパリを発ち、7月5日に日本へ帰国)。
11月映画「カルメン純情す」でミュージック・コンクレートを使う。

1953年24歳
6月芥川也寸志、團伊玖磨と「3人の会」を結成。管弦楽作品を中心に華々しく演奏会を開催し、以後作曲家として活動をはじめるなど戦後の作曲界を牽引した。(事務所は新橋の第一ホテル横のビルの地下にあったようだ)。
『 三人の会に話を移せば、われわれは相前後して上野を卒業したわけだが、私はすぐパリへ留学し、昭和二十七年に帰国した。それを待ちかまえていたのが芥川さんで、パリの話をいろいろ聞かせろという。~省略~これから大いにひとつ、今までの日本の作曲界になかった様な、大きな運動を起こそうということになり、早速、團さんに話したら大賛成だという。まず手はじめに、それぞれ自作を指揮してオーケストラの作品発表をやることになった。幸い、三人とも、当時黄金時代を迎えていた映画や放送など、コマーシャルな音楽の場にも進出していて、他の作曲家に比べれば、経済的にも幾らか恵まれた状態にあったが、さりとて一人でオーケストラの作品発表をやるのは大変な負担だから、三人で分担すれば三分の一で出来るではないか、というのも「三人の会」結成の別な理由でもあった。「三人の会」という名前は、一見なんの変哲もない平凡な名前だが、これからの日本の音楽はわれわれ三人で背負って立つのだという気概が秘められていたことは勿論である(註1) 』と黛は語る。『 三人が京都で顔を合わせたのは、全くの偶然だったのです。~省略~当時は映画会社が各社とも、かなりの数の映画を京都撮影所で作っておりましたので、三人とも映画音楽の仕事で京都に来合わせたのです。加茂川沿い、木屋町五条の宿屋で、何となく話が始りました。” 三人で共同して作品発表会をやれば、プログラムも面白くなるし、第一、経費が三分の一で済む。三人で会でも作ろうか・・・” 偶然顔を合わせ、何となく始まった話は、たちまち会の結成から《三人の会》という名前を決めるところまで行きました』と芥川は語っている(註2)
(註1)「芥川也寸志」 その芸術と行動 「三人の会」は不滅である 黛敏郎 東京新聞出版局 26頁引用
(註2)「自伝抄Ⅱ 歌の旅」 芥川也寸志著作 読売新聞社発行 277~278頁引用
写真 黛敏郎、伊福部昭、芥川也寸志、團伊玖磨

同月女優の桂木洋子と結婚し荻窪から代々木に転居する。桂木は以降、家庭を優先して徐々に出演本数を減らし、1963年の日活『丘は花ざかり』を最後に引退した。
長男:りんたろう誕生。
武満徹と知り合う。
7月文化放送委嘱作品《ミュジク・コンクレートのための作品X,Y,Z》作曲に入る。この作品は日本最初のミュジッ ク・コンクレート作品として注目を集めるとともに、武満徹など同時代の作曲家に大きな影響を与えた。
8月9日バレエ《思い出を売る男》を近藤玲子バレエ団が初演(シャンソンは高英男)
8月日本テレビ放送開始。スポーツ番組では《NTVスポーツニューステーマ》が流れるようになる。
10月22日シャンソン《手袋》を高英男の歌で初演。
11月27日《X、Y、Z》放送初演。センセーションを巻き起こす。
映画音楽の一部では別名中川洋一(作詞者として)、六条隆(挿入歌の作曲者として)を使用している。
《朝日新聞ニューストップタイトルのための音楽》作曲
日本テレビ・スポーツのテーマ《スポーツ行進曲》別名《NTVスポーツのテーマ》 作曲

1954年25歳
1月17日《饗宴》の作曲を完成
1月26日「3人の会」第1回発表会は《饗宴”Bacchanale”》を東京交響楽団を黛が指揮して日比谷公会堂で指揮で初演された。”Bacchanale”は元来の意味は「酒神祭」だが同時に飲めや歌えの大酒宴のどんちゃん騒ぎでもあり、要するに音響の饗宴であるといわれている
1月28日、ラジオドラマ「戦争と平和(広島)」(武田泰淳台本)ラジオ東京(TBS)にて放送。
「音楽芸術」2月号、鼎談「新しい作曲グループ〈三人の会〉の発言」に出席
11月21日、放送劇「ボクシング」(三島由紀夫台本)文化放送にて放送。同作品で芸術祭奨励賞。
youtube《饗宴》森正指揮、東京交響楽団

1955年26歳
3月29日バレエ《未来のイヴ》初演(音楽は武満徹と共作)
6月23日第二回「三人の会」日比谷公会堂で開催し《トーンプレロマス55》東京交響楽団を自身の指揮で初演。
11月27日同年創設されたばかりのNHK電子音楽スタジオで日本最初の電子音楽による習作、《素数比の系列による正弦波の音楽》、《素数比の系列による変調波の音楽》、《矩形波と鋸歯状波のインヴェンション》を製作発表。
12月9日《エクトプラスム》初演(森正指揮、東響)。
ブリジストン音楽鑑賞講座第40回にて「新しい音楽の世界」講演をする。

1956年27歳
2月6日ミュージック・コンクレート電子音楽オーディション開催。
4月クラヴィオリンやミュージカル・ソウを大胆に使用した映画「赤線地帯」(監督溝口健二)について、映画評論家津村秀夫に「週刊朝日」誌上で「音楽の失敗がひびく」と酷評され反論し、論争になる(赤線地帯論争)。
諸井誠との共作により電子音楽《7のヴァリエーション》を、翌年には《プリペアド・ピアノと弦楽のための小品》 を発表し、時代の最先端をゆく作曲家として存在感を高めた。
4月23日から18日間、カンヌ映画祭に参加
「音楽芸術」4月号に「電子音楽の原理」掲載。
4月24日映画「青銅の基督」(音楽:黛敏郎)が上映された。
6月3-10日ストックホルムへ。第30回ISCMに入選した《エクトプラスム》演奏に立会う。セッションズから賞賛される。
7月映画「修善寺物語」の音楽を担当。
同月、ダルムシュタット夏期現代音楽講座に参加。
11月7日12音による《六重奏曲》初演。
11月27日諸井誠との共作による《7のヴァリエーション》をNHK放送初演。
「音楽芸術」11月号に「ヨーロッパ現代音楽報告」。

1957年28歳
3月20日音楽評論家・吉田秀和を所長に二十世紀音楽研究所を結成
5月28日《フォノジー・サンフォニック”Phonologie Symphonique“》が初演された。「フォノロジー」は音韻学、音色学または韻律を意味し、いわば、オーケストラの音響を韻律的に構成した作品といわれている。
3月20日、音楽評論家・吉田秀和を所長に20世紀音楽研究所を結成。
3月28日、諸井誠と共に、《7のヴァリエーション》を中心とした音楽会、アルス・ノヴァ
を開催。
「音楽芸術」3月号に「伝統とアカデミスム」掲載。
8月10-13日、20世紀音楽研究所による第1回現代音楽祭。
「音楽芸術」8月号「ウェーベルンを超えるもの」を掲載。
10月11日、日本で最初のプリペアド・ピアノを使用した作品《プリペアド・ピアノと弦楽のための小品》発表。

1958年29歳
石原慎太郎、江藤淳、大江健三郎、谷川俊太郎、寺山修司、永六輔、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成。
2月「気違い部落」(1957年)、「幕末太陽伝」(1957年)によって第12回毎日映画音楽賞受賞。
4月2日《涅槃交響曲》初演。黛は次第に日本の伝統に目を向けるようになり、梵鐘と声明を模した男声合唱を取り入れ、さらに鐘の音をNHK電子音楽スタジオで音響スペクトル解析した上、三分割して配置されたオーケストラと男声合唱(声明を模し部分もあり)で再現した。代表作となった《涅槃交響曲”Nirvana-Symphonie”》を「3人の会」第3回発表会において岩城宏之指揮のN響演奏により初演した。自らが[カンパノロジー・エフェクト]と呼んだこのアイデアは、奇しくも現在フランスの現代音楽シーンの主流を占めるスペクトル楽派の一人ミュライユの管弦楽曲《ゴンドワナ》を約20年先取りするものであったといわれている。この作品は翌年、毎日演劇音楽賞、NHKの尾高賞を得た
この後、黛はこの[カンパノロジー・エフェクト]をテープ音楽などでいくつか試みはしたものの、生楽器音楽・テープ音楽両者の間に直接の交流は行われていない。
6月俳優座公演「幽霊はここにいる」(音楽黛敏郎)初演。
「中央公論」6月号に「ヨーロッパ音楽への訣別」掲載。
8月20-23日、第2回現代音楽祭(軽井沢)にて《阿吽》初演(岩城宏之、黛、林リリ子)。
「音楽芸術」8月号に「叫びと祈りVareseとMessianに関するノート」掲載。
「音楽芸術」11月号、座談会「日本の前衛の音楽の独創性について」出席。
「音楽芸術」12月号、翌年1月号に「ジョン・ケージ讃」「ジョン・ケージ讃(2)」掲載。

1959年30歳
「音楽芸術」2月号に「ストラヴィン・スキー・ファンの辨」掲載。
2月16日《涅槃交響曲》により第7回尾高賞を受賞(審査員は池内友次郎、諸井三郎、牧定忠、ロイブナー、吉田雅夫)。
4月10日三島由紀夫作詞、黛敏郎作曲《祝婚歌》初演(黛はオンドマルトノを演奏)。
6月12日オラトリオ《宇曽利》初演(岩城宏之指揮)。
「音楽の友」7月号に「ストラヴィンスキー印象記」掲載。
8月17-20日、第3回現代音楽祭(軽井沢)。黛敏郎・武満徹対談「テープ音楽について」など。
8月23日、大阪でミュージカル《可愛い女》(安部公房台本)初演。同作の音楽により毎日演劇音楽賞受賞。
「音楽芸術」8月号に「現代音楽に《神》を 私の現代音楽感」を掲載。

1960年31歳
3月27日《まんだら交響曲”Mandara Symphonie”》は「3人の会」発表会で初演された
「60年安保改定反対運動」に参加した(1960年代以前の映画音楽などでは左翼色の濃い作品にも多く関わっていた)
3月27日、「3人の会」第4回で《曼荼羅交響曲》初演(岩城宏之指揮、N響)。
8月から11月、N響世界一周公演にてがインド、スイス、チェコスロバキア、ポーランド、ドイツ、イタリア、ユーゴスラビア、フランスで《曼荼羅交響曲》演奏される。
11月7日、松下修也のチェロで《Bunraku》初演。
草月アート・センターの呼びかけに応えて結集したグループ「作曲集団」に参加。
「フィルハーモニー」7・8月号に「自作〈曼荼羅〉交響曲につてNHK交響楽団の壮遊によせる」を掲載。
フォード財団の招聘にて渡米、翌年まで米国に滞在(バランシンと《BUGAKU》作曲の打ち合わせなどもする)。

1961年32歳
4月3日、ニューヨーク「ヴィレッジゲ-ト」にて一柳慧、オノ・ヨーコと発表界開催。
4月ニューヨーク・フィル定期公演で、バーンスタイン、小澤征爾指揮により《饗宴》が演奏される。のちの同楽団日本公演にても、小澤征爾指揮により演奏される。
ニューヨーク滞在中、ジョン・ケージと交友。
8月25-27日第4回軽井沢現代音楽祭。

1962年33歳
1月コープランドと対談
3月オーケストラ作品《舞楽BUGAKU》ニューヨーク、シティ・センターで初演される。この曲は1959年頃ニューヨークのシティ・バレエ団の委嘱を受けて作られた。日本では1966年大阪国際フェスティバル・ホールで初演され、尾高賞を受賞した
4月16-26日、一柳慧、武満徹、高橋悠治、黛敏郎4人の楽譜展。
6月20N響の委嘱作品交響詩《輪廻》小澤征爾指揮のN響で初演。同作は10月からのN響東南アジア公演でシンガポール、沖縄などで演奏された。

1963年34歳
1月日生劇場の1964年春公演のために三島由紀夫とオペラを書くことを契約。
1月30日《エッセイ・イン・ソノリティ》初演。
3月20日ニューヨークでバレエ《BUGAKU》初演。
「音楽芸術」6月号に「バランシンとバレエ〈BUGAKU〉」掲載。
6月ミュージカル《ブロードウェイから来た13人の踊り子》初演。
夏、ユネスコ国際音会議出席のためイスラエルに赴く。
9月3日アキコ・カンダ・モダン・バレーで音楽を担当(プリペアドピアノを使った)
9月5-7日第5回現代音楽祭(京都)でカンタータ《悔過》を初演。
9月日生劇場が三島の書下ろしオペラ《美濃子》(作曲・黛敏郎、演出・浅利慶太、企画・指揮・小澤征爾)を取り上げることを発表、21日に第一回オーディションを行うと公表。

1964年35歳
同年放送開始のクラシック音楽番組『題名のない音楽会』の司会を務める。
NHK委嘱作品《音楽の誕生”The Bieth of Music”》10月10日オリンピック東京大会協賛芸術展示の一環として初演された
2月1日「にっぽん昆虫記」(1963)「非行少女」(1963)により第18回毎日映画コンクール音楽賞受賞。
5月ミュージカル映画「君も出世ができる」(黛敏郎作曲、谷川俊太郎作詞)。
8月1日TV番組「題名のない音楽会」開始。企画、司会で参加、1997年まで続ける。
10月東京オリンピックで《オリンピック・カンパノロジー》を初演。
10月10日オリンピック特別演奏会で《音楽の誕生》初演(岩城宏之指揮、N響)

1965年36歳
3月映画「東京オリンピック」の音楽監督担当。
映画「天地創造」(アメリカ・イタリア、ジョン・ヒューストン監督、1966年)の音楽作曲のためにローマ滞在。3月に依頼の電話が入り、何度か打ち合わせにローマへ。9月に10日ほど帰国。10月7日から黛作曲部分の録音が開始され、11月末まで作曲と録音が続いた。
5月15日映画「君も出世ができる」で第12回アジア映画祭音楽部門賞受賞。
5月28日《打楽器協奏曲》をローマにて完成。同曲は7月11日アメリカで初演。
5月31日《曼荼羅交響曲》を杉並公会堂で録音(岩城宏之指揮、N響)。同LPは昭和40年度文化庁芸術祭奨励賞受賞とレコード・アカデミー賞を受賞
7月「音楽家の覚え書き」を婦人画報に連載開始。
9月パリ・オペラ座で自作《BUGAKU》を指揮。
9月30日《涅槃交響曲》を渡邉暁雄指揮のベルリンフィルでヨーロッパ初演。
11月29日-12月1日、第6回現代音楽祭(東京)。
《シロフォン小協奏曲》などを作曲。

1966年37歳
オーケストラ作品《舞楽BUGAKU》大阪国際フェスティバル・ホールで初演
1月映画「東京オリンピック」にて弟20回毎日映画コンクール音楽賞受賞、第16回ブルーリボン音楽賞受賞。
2月16日《BUGAKU》が第15回尾高賞受賞。
4月13日、《BUGAKU》大阪国際音楽祭で演奏会形式初演(岩城宏之指揮、N響)。同作は4-5月、N響北・北米演奏旅行でレパートリーになる。
11月日本初のカラー放送による「NNNワイドニュース」(番組は1972年3月まで)のキャスターを行う(昼12時30分から13時)。
ハワイ大学、イヴァスキラ(フィンランド)音楽祭などに特別講師として招かれる
ヴェネズエラのカラカス音楽祭に出席

1967年38歳
2月15日映画「天地創造」(米・伊、J・ヒューストン監督、1966年)でハリウッド外国映画記者会から1967年度第24回「ゴールデングローブ賞作曲賞」にノミネート
4月映画「天地創造」でアカデミー作曲賞(第39回)にノミネート。
12月31日から元旦にかけてのエリック・サティのヴェクサシオンの日本初演に出演。
《呪》《マルチピアノのためのカンパノロジー》などを作曲。
テレビ番組「題名のない音楽会」が1966年度ギャラクシー賞(第4回)を受賞。「題名のない音楽会」はその後30余年に渡るなど、 社会的にも人気を博した

1968年39歳
「NNNワイドニュース」の司会に対して、第5回ギャラクシー賞を受賞。
2月映画「黒部の太陽」(音楽黛敏郎)
5月2日万葉集によるカンタータ《杜》放送初演(森正指揮、N響)。
11月毎日放送制作によりドキュメンタリー「日本音楽の生と死」を発表。
同年、芸術祭奨励賞、翌年、英語版がアメリカTVエミー賞を受賞。

1969年40歳
1月-3月NHK電子音楽スタジオで《まんだら》制作。
7月映画「栄光への5000キロ」(音楽黛敏郎)。

1970年41歳
日本万国博覧会のテーマ館サブプロデューサーを含め、パビリオンの音楽、お祭り広場の音楽、開会、閉会式の音楽他を担当した。
3月14日-9月13日大阪で開催された日本万国博覧会にて音楽プロデュース。
万博開会記念TV番組(民放全局同時生放送)の司会も勤めた。
10月31日雅楽《昭和天平楽》初演。国立劇場委嘱第1作。
11月25日三島由紀夫市ヶ谷にて自決。
「NNNワイドニュース」が1969年度ギャラクシー賞(第7回)受賞。

1971年42歳
「音楽芸術」8月号で池田弥三郎と対談「日本音楽のみなもと」
12月「題名にない音楽会」の企画・司会に対し第19回(昭和45年度)菊池寛賞受賞。
高田好胤・村松剛らと「日本まほろばの会」を結成、講演活動を始める
1971-1972 ネスカフェゴールドブレンドCMに出演 。

1972年43歳
3月NHK音楽祭にて《涅槃交響曲》演奏(岩城宏之指揮、N響)
12月第1回ベスト・ドレッサー賞(学術・文化部門)受賞。
映画「闇の中の魑魅魍魎」「世阿弥」「交響詩 立山」など、映画音楽を手がける。

1973年44歳
3月NNNニューステーマを作曲

1974年45歳
9月30日浪漫株式会社より対談集「君が代はなぜ歌われない」出版。
《沼津太鼓》ほかを作曲。

1975年46歳
4月今村昌平が開校した横浜放送映画専門学院(現日本映画学校)の講師となる。
《慈母観音讃歌》《沖縄海洋博住友館「海のうた」》など作曲。

1976年47歳
楽壇では珍しく保守派文化人となり、1970年代後半に結成され論憲・改憲を提唱する「日本を守る国民会議」議長を務めた。だが、このような保守的政治運動のために左派色が強い楽壇からは事実上排斥され、後期の作品は生活のために書いた上記の宗教音楽や実用音楽などが主となり、2曲の歌劇(『金閣寺』と『古事記』)などを除き、純音楽の創作は極端に少なくなった。
オペラ《金閣寺》作曲、仏教や伝統音楽に題材をとった作品を次々と創作
参考:『ドイツ人のグスタフ・ゼルナーが金閣寺のオペラ化を黛に依頼、オペラ化は大変難しく、最初断っていたのですが、熟慮の末1970 年に同意し、三島に会って台本を依頼しました。三島は「別の形式(台本)で書く気は全くない、ただオペラ化は嬉しいので、初演は喜んで見に行こう」というつれない返事。三島はこのオペラを見ることなく、会見もこれが最後のものとなりました。というのもその年の 11 月に三島は自決してしまったからです。その後紆余曲折があったものの 1976 年 6 月 23 日、ドイツ語でベルリンにて初演されました。ドイツの新聞 Die Welt は「日本のオペラの強力なヨーロッパ進出、枯渇しかかったヨーロッパオペラに新鮮な血をもたらした」と評し、世界初演は好評のうちに迎えられました。日本初演は1982年と遅れ、全曲舞台上演はやっと 1991年渋谷のオーチャードホールで、岩城宏之の指揮で行われました。その後アメリカ(1995)、フランス(2018)でも上演され、初演後長い時を経ても、作品が新たな輝きを放ち、天国の黛もきっと喜んでおられるものと思われます。』
引用:たかすぎ内科クリニック(長崎県長崎市橋口町)、「偉大な音楽家のお話と病気9 黛 敏郎」、https://www.takasugi-cl.com/category/music/より最終アクセス2022年9月11日
4月9日親友矢代秋雄(作曲家・東京藝術大学教授)逝去。
5月2日東京にてオペラ《金閣寺》完成。
5月光文社より「私の茶道入門」刊行。
「音楽芸術」6月号、「矢代秋雄へのレクイエム」に「芸大同期の桜」を掲載。
東京藝術大学音楽学部作曲科講師

1977年48歳
夏、保守派の活動を通じ親交があった中川一郎(当時自民党国民運動本部長)の要請を受けて、新たに創設された党友組織自由社会を守る国民会議(自由国民会議)の初代代表に就任し終身務めることになる。
1月10日、角川書店より「題名のない音楽会」出版
1月、映画「日本の首領」の三部作の音楽を担当(1978年まで)。
2月、「私の音楽手帳」(全11回)を芸術新潮に連載する。
4月より東京藝術大学作曲科非常勤講師、「自由国民会議」代表世話人となる
6月23、25、27日、ベルリンでオペラ《金閣寺》初演。9月からレパートリー公演。
第10回仏教伝道教会賞(昭和51年度)を受賞。
マツダ・ルーチェのCMに出演(1981年まで)。

1978年49歳
1月29日ヴァイオリンとオーケストラのための《G線上のアリア》がフランスで初演。
LP黛敏郎「古典の旅」(全5巻)が発売される。

1979年50歳
秋、アメリカン交響楽団の演奏で《涅槃交響曲》アメリカ初演。
サントリー・メルツェンビールのCMに出演。
東京音楽学校奏楽堂の保存運動に参加する。

1980年51歳
9月16日カンタータ「只管打坐」初演。

1981年52歳
1月正論にて「題名のない独白」連載開始。
6月6日、行進曲「祖国」初演。
10月「日本を守る国民会議」運営委員長就任。

1982年53歳
4月22日オラトリオ《日蓮聖人》初演。
10月18日サントリー作曲家の個展「黛敏郎」で《涅槃交響曲》と演奏会形式でのオペラ《金閣寺》日本初演。
4月22日、オラトリオ「日蓮聖人」初演。
10月18日、サントリー作曲家の個展「黛敏郎」で《涅槃交響曲》と演奏会形式での《金閣寺》日本初演。
「音楽芸術」12月号に「金閣寺初演をめぐって」を掲載。

1983年54歳
5月4日阿含宗委嘱による《大佛讃歌》初演。
5月4日、阿含宗委嘱による《大佛讃歌》初演。

1984年55歳
2月24日、3月4日、芥川也寸志司会のTV番組「音楽の広場」に出演(3人の会特集)。黛は《饗宴》と《天地創造》の指揮をする。
黛敏郎…1929年(昭和4年)横浜生まれ。父は大手船会社の船長で後に重役となった。とくに音楽的な生活環境ではなかったが、中学時代をすごした横浜一中は音楽が盛んで、学校のハーモニカバンドや合唱部に加わり、音楽を楽しんだ。またそのころから作曲を始めた。終戦の年の4月、東京音楽学校作曲科に入学。そのころアルバイトとしてジャズ・バンドでピアノをひいたこともある。昭和26年、パリに留学、翌年帰国してからは次々と話題の作品を発表した。「涅槃交響曲」、「曼荼羅交響曲」、オペラ「金閣寺」など数多くの作品がある。
(放送内のテロップより)
――それでは、お三人目の指揮は、黛さんですけれども、曲は…
「『饗宴』という曲でしてね、饗宴っていうのは『うたげ』っていうことですが、『音の』うたげのつもりで書いた曲の、二部あるうちの最後の部分を演ります。これはまあ、当時わたくしはね、まあ割と前衛的なことに興味持ってたりジャズなんかもやってたんで、そういう新しい作曲法というのを採り入れた、つもりの作品です。」
――そうですか…それではご用意をお願いいたしまして…
芥川さん、この曲は…
芥川「ええ、『饗宴』っていうんですけどね、まあ黛君は一種の…何と言いますか…並の才能じゃないですよ、あのひとは。一種の天才でしょう、ええ…」
――團さん…
「殊にこの曲はなんかね、もう非常にフレッシュでね。青年のね、雄叫びがあるようなね、モダンなね、輝かしいもんでしたね。いまでも覚えてますよ。」
――ではお願いいたしましょう…
(同放送内の談話(司会:黒柳徹子)より)
饗宴…1953年の秋から翌年初めにかけて作曲され、1954年1月26日、“3人の会”第1回交響作品演奏会において、作曲者指揮の東京交響楽団により発表された。私が、この音楽によって意図したことは、音響の饗宴であり、従って「饗宴」というタイトルは何らの文学的ないし絵画的意味を持たない。[…]5個のサクソフォーンを加えた3管編成のオーケストラから発せられる音響のエネルギーを、最も効果的な方法で、ダイナミックに構成することが、この作品の目的のすべてであった。[…]
(黛敏郎、TOCE-9431『黛敏郎 曼荼羅交響曲、プリペアド・ピアノと弦楽のための小品、饗宴』解説書より)
三人の会…芥川也寸志、黛敏郎、團伊玖磨によって1953年に結成された音楽グループ。戦後の創作グループが多くの様々な理由から、主として室内楽作品の発表を行っていたのとは対照的に、当時ジャーナリスティックな脚光を浴びていたこの3人の作曲家たちが結成したグループは、オーケストラを使った管弦楽作品の発表を華々しく展開していった。彼らはインタヴューに答えて「どこにも属せず、何物にも縛られず、自由に自分の才能を伸ばして行き単なる研究発表でなしに作曲を通して世の中に積極的に呼びかけたい、結びつきたい、それには一人よりも三人集まった方がより強力であり、映画音楽、オペラ、バレエなども相談し合ってやり、批判し合い、刺激し合う方が合理的だ」(『音楽新聞』第546号)と語っていた。
 1954年1月に開いた第1回作品演奏会では、團《ブルレスケ風交響曲》、黛《饗宴》、芥川《交響曲》を発表し、以後1962年4月の第5回大阪国際フェスティバルでの3人の会による〈現代日本作品の夕〉まで全部で5回の演奏会を開いた。芥川の《エローラ交響曲》、オペラ《暗い鏡》、黛の《涅槃交響曲》、《曼荼羅》、團の管弦楽組曲《シルクロード》等、戦後日本を代表する管弦楽作品はこのグループの発表会で生み出されたものである。
(『音楽芸術別冊 日本の作曲20世紀』(音楽之友社、1999)より)

3月25-29日、香港で《フォノロジー・サンフォニック》《饗宴》《輪廻》を録音(福村芳一、香港フィル)。

1985年56歳
「音楽芸術」4月号に岩城宏之との対談「行動する作曲家たち」掲載。

1986年57歳
4月16日バレエ《The KABUKI》初演。同作品はパリ・オペラ座、ミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場、ベルリン国立歌劇場、ボリショイ劇場、マリインスキー劇場等海外の劇場でも喝采を受け、世界中で150回以上の上演回数、22万人が鑑賞している。
2月、阿含宗委嘱による《星まつり前奏曲》初演。
4月16日、バレエ《The KABUKI》初演。同作品はパリ・オペラ座、ミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場、ベルリン国立歌劇場、ボリショイ劇場、マリインスキー劇場、海外の劇場でも喝采を受け、世界中で150回以上の上演回数、22万人が鑑賞している。
5月、《栄誉礼及び祖国》初演。
天皇陛下御在位60年奉祝パレード実行委員会委員長。
紫綬褒章受賞受賞。

1987年58歳
4月11日阿含宗委嘱によるカンタータ《佛舎利宝珠尊和讃》初演。
10月、アオイスタジオの委嘱による《ウェディングシンフォニー》録音初演。

1988年59歳
6月5日ヴァイオリンソロと弦楽のための《カプリチオ》初演(江藤俊哉指揮・ソロ、桐朋)。

1989年60歳
1月31日芥川也寸志逝去。
2月、ニューヨークで《ROKUDAN》初演(篠崎史子)。
9月20日、《無窮動》初演(手塚幸紀指揮、新日本フィル)。
日本作曲家協議会会長就任。

1990年61歳
題名のない音楽会」の放送25周年を記念して出光音楽賞設立。
ローランドのデジタルピアノのCMに岩城宏之と出演。

1991年62歳
3月8日舞台形式によるオペラ《金閣寺》日本初演
政治的発言も増え、「日本を守る国民会議」の議長も務めた
1月18日、都響日本の作曲家シリーズ10「黛敏郎作品集」(若杉弘指揮)
3月2日、旧奏楽堂にて《オール・デウーブル》演奏(木村かをり)。
3月8日、オペラ《金閣寺》日本初演(岩城宏之指揮、東響)。
3月9日、池内友次郎逝去。
4月1日、芥川作曲賞設立。第1回(1991)から第6回(1996)までの審査員を黛敏郎も努める。
4月26日、阿含宗委嘱による《世界への祈り》初演。
9月1日、《21世紀へのラプソディ》初演。

1992年63歳
夏に「国民会議」議長として、宮澤内閣官房長官であった加藤紘一らが中心に進めた天皇・皇后の訪中反対国民運動の先頭に立ち、中川や自身の共通の親友石原慎太郎や、中川の長男中川昭一、平沼赳夫(中川の秘書でもあった)らと共闘した。
8月12日、ジョン・ケージ逝去。
「音楽芸術」10月号に「ジョン・ケージに捧げる弔辞」掲載。

1993年64歳
7月16日オペラ《古事記》完成。
7月31日バレエ《M》初演。
7月16日、オペラ《古事記》完成。
7月31日、バレエ《M》初演。

1994年65歳
2月日本著作権協会会長就任。
9月17日、オラトリオ《京都1200年<伝統と創生>》初演(井上道義指揮、京響)。

1995年66歳
7月24-27日東京芸術劇場にて《涅槃交響曲》を作曲者監修でセッション録音(岩城宏之指揮、都響)。
10月19日、オペラ《金閣寺》アメリカ初演(ニューヨーク・シティ・オペラ)。

1996年67歳
4月肺がんが見つかり、すでに肝転移していた。
5月24日オペラ《古事記KOJIKI》リンツ州立歌劇場で初演された。

1997年68歳
4月10日肺を原発巣とする転移性肝腫瘍による肝不全のため入院中の神奈川県川崎市内の総合新川橋病院で死去、68歳没。墓所は、神奈川県にある曹洞宗大本山總持寺の境内墓地。戒名は「威徳院優嶽叡敏居士」。
5月末に「日本を守る国民会議」と「日本を守る会」が合同して結成された日本会議の初代会長に就任予定だった。
11月27-29日大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスでオペラ《金閣寺》上演。黛敏郎の追悼公演となった。
4月10日午前8時45分、肝不全のため川崎市の病院で急逝。
絶筆となった未完の《パッサカリア》は岩城宏之指揮のオーケストラ・アンサンブル金沢の定期公演で追悼演奏された(8月31日)。
4月13日、NHK-TVにて追悼番組「黛敏郎・創作の世界 最先端を疾走した作曲家」放送。
4月14日通夜・15日葬儀・告別式(宝仙寺)。
11月27日、大阪カレッジ・オペラハウスでオペラ《金閣寺》演奏(岩城宏之指揮)。本公演はABC国際音楽賞、大阪舞台芸術賞、三菱信託音楽賞を受賞。

1998年没後
7月2日「黛敏郎追悼演奏会」で《シンフォニック・ムード》《トーン・プレロマス55》《呪(しゅ)》《涅槃交響曲》を演奏。岩城宏之指揮、東京混声合唱団、東京交響楽団。
8月31日未完絶筆作品《パッサカリア》初演(完成部分まで)。岩城宏之指揮、オーケストラ・アンサンブル金沢第67回定期公演。
2月21日、名古屋フィル234回定期 黛敏郎特集(岩城宏之指揮)。
4月10日、NHK-BS-2にて、前年のオペラ《金閣寺》が放送される。
4月11日、「日本の音・再発見」黛敏郎・昭和と歩んだ作曲家(神奈川県立音楽堂)。
4月22日、奏楽堂 黛敏郎追悼演奏会(構成・司会 林光)。
7月2日、〈追悼 黛敏郎〉(岩城宏之指揮、東京交響楽団) 。

2007年
3月妻:黛 住恵-女優:芸名/桂木洋子は満76歳で死去した。葬儀は近親者で済ませ、翌月に公表した。死亡日や死因などの詳細は遺族の意向で伏せられた。

4.主な作品


黛敏郎 作品

5.関連動画


黛敏郎 関連動画

6.その他


<門下生>
伊部晴美
松下功(1951年-2018年)
松岡俊克(1952年- )
四反田素幸(1952年- )
高橋裕(1953年- )
鈴木行一(1954年-2010年)
南聡(1955年- )
木下牧子(1956年- )
天沼裕子(1956年- )
鶴田睦夫(1956年- )
佐橋俊彦(1959年- )
中川善裕(1959年- )
千住明(1960年- )
山内雅弘(1960年- )
大澤徹訓(1962年- )
土田英介(1963年- )
岩代太郎(1965年- )
佐々木冬彦(1965年- )
芙苑晶(1969年- )
TAROかまやつ(1970年- )
小倉啓介
城谷正博

7.初演

1946年11月12日《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》初演
1948年10月16日《オール・デウーブル》を自身のピアノで初演
同年、12月4日《ディヴェルティメント》初演
1951年室内楽作品《7つの楽器のためのスフェノグラム》フランクフルト・アム・マインで初演
1953年8月9日バレエ《思い出を売る男》を近藤玲子バレエ団により初演
1955年3月29日バレエ《未来のイヴ》初演(音楽は武満徹と共作)
同年、6月23日《トーンプレロマス55》を第2回「3人の会」で自身の指揮により初演
同年、12月9日《エクトプラスム》森正指揮により東京交響楽団演奏で初演
1956年11月7日12音による《六重奏曲》初演
同年、11月27日諸井誠との共作による《7のヴァリエーション》をNHK放送初演
1957年5月28日《フォノジー・サンフォニック”Phonologie Symphonique》初演
1958年4月2日《涅槃交響曲”Nirvana-Symphonie”》「3人の会」第3回発表会で岩城宏之指揮N響演奏にて初演
1960年3月27日《まんだら交響曲”Mandara Symphonie”》「3人の会」で初演
1962年3月オーケストラ作品《舞楽BUGAKU》ニューヨーク、シティ・センターで初演
同年6月20日N響委嘱作品、交響詩《輪廻”Samsara”》N響第432回定期演奏会で小澤征爾指揮により初演
1964年10月10日N響委嘱作品《音楽の誕生”The Bieth of Music”》オリンピック東京大会協賛芸術展示の一環として初演
1965年7月11日《打楽器協奏曲》アメリカで初演(ローマで完成)
1966年オーケストラ作品《舞楽BUGAKU》大阪国際フェスティバル・ホールで初演
1982年4月22日オラトリオ《日蓮聖人》初演
同年、10月18日サントリー作曲家の個展「黛敏郎」で演奏会形式でのオペラ《金閣寺》日本初演
1983年5月4日阿含宗委嘱による《大佛讃歌》初演
1986年4月16日バレエ《The KABUKI》初演
1991年3月8日舞台形式によるオペラ《金閣寺》日本初演
1993年7月31日バレエ《M》初演
1998年8月31日未完絶筆作品《パッサカリア》初演岩城宏之指揮/オーケストラ・アンサンブル金沢第67回定期公演にて

黛敏郎 家族

参考文献:中河原理監修フェニックス企画編、『クラシック作曲家辞典、』、東京堂出版、平成4年 / 黛敏郎、『題名のない音楽会』、角川書店、1981年 / 黛りんたろう監修、『黛敏郎』、ヤマハミュージックエンターテイメントホールディングス、2018年 / 出版刊行委員会編、『芥川也寸志』、東京新聞出版局、1990年 / 團伊玖磨著、『團玖磨自伝』、日本経済新聞社、2002年 /  Wikipedia、黛敏郎https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%9B%E6%95%8F%E9%83%8E、最終アクセス、2020年11月2日 / スリーシェルズ Three Shells、https://www.3s-cd.net/mayuzumidoshiro黛敏郎(まゆずみとしろう)、https://www.3s-cd.net/mayuzumidoshiro/、最終アクセス、2022年9月3日 / http://salida1.web.fc2.com/mayuzumitoshiroryakureki.html/黛 敏郎(まゆずみ・としろう)略歴、最終アクセス、2022年9月3日 /