中田喜直


生没年・出身地・歿地・墓地
中田喜直
NAKADA, Yoshinao
Alias 通称 NAKADA, Yoshinao
Real-name正式 NAKADA, Yoshitadaなかだ よしただ

(1923年8月1日東京都渋谷区影丘町生)
(2000年5月3日入院先の慶応病院で没)

Birth place:Tokyo Japan
Date of Birth:1/8/1923

1.職業


日本の作曲家

【楽歴】
1943年9月25日東京音楽学校本科器楽科(ピアノ専攻)繰り上げ卒業
1953年フェリス女学院短期大学専任講師(音楽理論担当)
1954年同大助教授
1964年同大教授
1971年東京都港区赤坂に(有)ナカダ音楽事務所を設立
1988年神戸山手女子短期大学講師
1993年フェリス女学院大学音楽学部定年、10月同大名誉教授
師事:橋本國彦、豊増昇、金子登、田中規矩士、畑玉吉(小学生の頃)

【関係団体/歴】
1946年若手作曲家グループ「新声会」会員
1955年磯部俶、宇賀神光利、中田一次、大中恩、等と「ろばの会」結成
1962年社団法人日本作曲家協会理事
1965年社団法人日本音楽著作権協会理事(1995年迄)
1977年テレビ朝日番組審議委員
1979年日本童謡協会会長
1983年日本作曲家協議会理事
【受賞(章)歴】
1949年第18回日本音楽コンクール(NHK・毎日新聞社共催)作曲部門(室内楽曲)で《ピアノ・ソナタ》第二位入賞
1958年NHK「現代日本の歌曲、ベスト20」第一位《六つの子供の歌》及び五位《木兎》選ばれる
1960年歌曲アルバム《六つの子供の歌》文部科学省芸術祭奨励賞受賞。アルバム《ゆうらんバス》レコード大賞童謡賞を受賞
1962年《ちいさい秋みつけた》レコード大賞童謡賞受賞
1963年女性合唱組曲《美しい訣れの朝》文部科学省芸術祭奨励賞受賞
1964年混声合唱組曲《昇天》文部科学省芸術祭奨励賞受賞
1965年女性合唱組曲《みえないものを》文部科学省芸術祭奨
1966年混声合唱とピアノのための組曲《都会》文部科学省芸術祭奨励賞受賞
1967年女声合唱組曲《北の歌》文部科学省芸術祭奨励賞受賞
1969年女声合唱組曲《蝶》文部科学省芸術祭優秀賞受賞
1970年《歌曲全集》レコード芸術祭優秀賞受賞
1971年日本童謡功労賞
1975年久留島武彦文化賞、第五回日本童謡賞をアルバム《こどもの歌100曲集》で受賞
1977年横浜文化賞を受賞
1978年第八回日本童謡賞受賞、神奈川県文化賞受賞
1989年サトーハチロー賞
1995年NHK放送文化賞を受賞
1999年日本著作権協会60周年特別賞
2000年日本レコード大賞・日本作曲家協会功労賞受賞
1986年紫綬褒章受章

2.称号


フェリス女学院大学音楽学部名誉教授

3.家族


祖父:中田平吉
祖母:中田タツ
父:中田 章 45才で歿。作曲家・オルガニスト、東京音楽学校(元東京芸術大学)教授。唱歌《早春賦》の作曲で知られる
母:中田こう(日本画家・奥村土牛の従姉)
長兄・中田 肇は一才の誕生日前に夭折
二兄・中田一次 80才で歿。作曲家・指揮者・ファゴット奏者。東京音楽学校卒(東京藝術大学)、東京音楽学校講師、東京藝術大学助教授、山形大学音楽科教授、昭和音楽大学短期大学部教授、昭和音楽大学短期大学部名誉教授、東京フィルハーモニー管弦楽団ファゴット奏者、日本ファゴット協会会長(元名誉会長)昭和30~40年代NHKラジオ「音楽の泉」のテーマ曲《楽興の時》の編曲者として知られている。
三男・中田喜直 作曲家・ピアニスト、テレビ朝日番組審議委員、日本作曲家協議会理事、フェリス女学院大学音楽学部教授・名誉教授
弟・中田民夫 教師・学校長
<中田喜直の家族>
  中田喜直
妻:中田幸子:フェリス女学院大学音楽科及び専攻科卒業。声楽を三宅 春惠氏、江口元子氏に師事。指揮法を山田一雄氏に学ぶ。フランス、ナント市での国際声楽コンクールをはじめ、合唱、オペラオーディション等の審査員を数多く務める。又、多くの合唱の指導、声のトレーナーとしても活躍している。
現在、ナカダ音楽事務所・音楽出版ハピーエコー代表者。神戸市混声合唱団音楽監督、女声合唱団「みずばしょう」「アンサンブル・フリージア」、混声合唱「アンサンブル・メイ」等の指導及び指揮者
フェリス女学院評議員。神戸市演奏会協会理事、国際ソロプチミスト会員。横浜音楽文化協会会員、2020年日本歌曲コンクールin薬師寺/審査員(主 催:公益財団法人 日本ドイツ歌曲協会) 

4.プロフィール


1923年東京都渋谷区に生まれる。
父:中田章は東京音楽学校(現東京藝術大学)教授/オルガニスト・作曲家。
小学唱歌で知られる《早春賦》を作曲した
兄:一次は後に作曲家、昭和音楽大学短期大学部名誉教授、晩年は日本ファゴット協会会長を務める。喜直がピアノを正式に習い始めたのは小学校2年からで父の教え子であった畑玉吉のレッスンを受ける。
小学校3年生に進級する時、千代田区立番町小学校に転校した、畑玉吉が教えていたからだ。この頃から「小学生全集」を読みはじめ、後に『西条八十編「日本童謡集」上級用が、私の生涯のもっとも重要な本になった』と記述している。『小学校5年の夏休みの夏季学校で、上高地に行き穂高岳を見たり、焼岳に登った。後に山登り好きになった原点になる』と語っている
1936年青山学院中等部入学、同時に上野児童音楽学園に入学した。東京音楽学校研究科を修了したばかりの金子登にピアノのレッスンを受ける
1940年青山学院中等部4年終了。4月東京音楽学校本科器楽科(ピアノ専攻)に入学。同期に畑中良輔、戸田敏子がいた
1943年9月25日東京音楽学校を繰り上げ卒業。10月1日宇都宮陸軍飛行学校の磐城分校に入隊し「特別操縦見習士官」になり訓練を受け翌年3月、宇都宮陸軍飛行学校卒業。陸軍少尉に任官し飛行第一四戦隊陸軍重爆撃機隊の操縦士として配属が決まる。フィリピンの第四航空軍司令部付きという命令が下り、フィリピンへ。サイパン島の米軍基地を攻撃する長距離爆撃隊を編成するために日本へ帰国。水戸飛行場へ、さらに群馬県新田飛行場へ移動後、終戦となり家に戻る
戦後は若手作曲家グループ「新声会」に入会、メンバーに柴田南雄、入野義郎、別宮貞雄、戸田邦雄、石桁真禮生、宮城衛等がいた。父:章の購入した三鷹市上連雀の土地に、兄・一次が家を新築し母、弟と転居。この頃より本格的に作曲活動とピアノ伴奏者としての演奏活動をはじめた
1947年《六つの子供の歌》を発表。
1949年NHKの「ラジオ歌謡」として依頼され「夏の思い出」作曲。
1951年NHKラジオ番組「幼児の時間」のコーナー「歌のおけいこ」で童謡《めだかの学校》発表。同年、NHKラジオドラマ「えり子とともに」のリハーサルのある日、内村直也の台本が短かったため、二、三分の空白が出て時間を埋めるため、芥川也寸志から代わっていた音楽担当の喜直がスタジオで内村から歌詞を受け取け取り、その場で曲をつけ《雪の降る街を》を作曲。番組では阿里道子と南美江の二人が歌った
1952年武蔵野市御殿山の借地に自宅を新築。
1953年フェリス女学院短期大学専任講師、翌年助教授(1964年教授)
1954年「女声合唱曲集-1」音楽之友社より刊行。
1955年磯部俶、宇賀神光利、中田一次、大中恩、等と「ろばの会」結成
1960年赤坂プリンスホテルで三宅洋一郎・春恵夫妻の媒酌で中島幸子と結婚式を挙げた
1962年《ちいさい秋みつけた》がレコード大賞童謡賞を受賞。同年、社団法人日本作曲家協会理事に就任
1968年戸塚カントリー・ゴルフクラブに近い横浜市旭区柏町へ新築転居。
1969年日本童謡協会が設立され理事に就任
1971年東京都港区赤坂に(有)ナカダ音楽事務所を設立。
1977年テレビ朝日番組審議委員に就任。
1979年サトウハチローの死後、数年間空席だった日本童謡協会・会長に就任。
1983年日本作曲家協議会理事就任。
1986年紫綬褒章受章。1988年神戸山手女子短期大学講師に就任。同年「中田喜直童謡名曲選(104曲)」CD発売。
1990年フェリス女学院大学音楽学部教授に就任。同年日本女性合唱団の指導と演奏会出演のため渡米。
1993年フェリス女学院大学音楽学部定年、10月同大名誉教授就任。1998年「中田喜直の宇宙」<作曲生活50周年記念コンサート>を津田ホールで公演
1999年、ウィーン国立音楽大学の招きで中田作品についてシンポジウム、公開講座その他の講演を行う
2000年4月5日急性肺炎で慶応病院に入院、5月3日逝去
受賞歴:文部科学省芸術祭奨励賞(1960、61、63~67、69~71年)、1962年日本レコード大賞童謡賞、1971年日本童謡功労賞、1975年久留島武彦文化賞、1977年横浜文化賞、1978年日本童謡賞、神奈川県文化賞、1989年サトーハチロー賞、1999年日本著作権協会60周年特別賞

5.中田喜直-記録年譜


1923年(大正12年)0才
8月1日中田喜直は中田家の三番目の子供として、東京山手線恵比寿駅近くの渋谷区景丘町23番地に生まれた。喜直は正しくは「ヨシタダ」と読む
9月1日11時58分に関東大地震が発生したが中田家は被害が少なく済んだ
写真、中田家屋敷跡

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<音楽の勉強>
父親の章は東京音楽学校でオルガンと音楽理論を教えていた。章は自分の跡を継いで音楽家になるのは喜直だと生まれたときから考えていたようだ。喜直と名付けたのも「音楽にとって大切なのは、美しい音楽を素直に喜ぶ心だ」という思いからである。
幼少から兄・一次(作曲家、昭和音楽大学短期大学部名誉教授、晩年は日本ファゴット協会会長を務めた)にピアノの手ほどきと和声学などを習う。父からは教わった憶えがないと喜直は語っている

1926年
中田家に双子の弟妹が生まれる。

4~5歳の頃、父がピアノ、兄一次がハーモニカ、喜直がオルガンで三重奏をしたことがあり、その頃からT・D・S(和音の機能)の使い分けができたという
自宅には童謡と日本や世界の名曲のレコードがあった。ジンバリストが弾いたバイオリンの名曲。ガリクルチの歌った歌曲などの数枚のレコード、そして山田耕筰の歌曲、お粗末なラジオから時々流れる音楽が喜直を取り巻いていた。近所の家で聴いた《かもめの水兵さん》、隣の家から聴こえてきた中山晋平の《砂山》、草川信の《ゆりかごの歌》のレコードはよく覚えていた。特に《ゆりかごの歌》が印象的で忘れられず、昭和30年頃にピアノ連弾用に編曲した。その中でも一番大きな影響を受けたのはやはり山田耕筰の歌曲であったという。

1928年
結核を患っていた父は、東京音楽学校助教授職を辞し、鎌倉に転地療養する

1930年(昭和5年)7才
4月、東京府豊多摩郡渋谷町立加計塚尋常小学校入学。小学校時代から恵比寿の豊沢教会に兄と一緒に通っていた
写真、喜直が入学した頃の渋谷町立加計塚尋常小学校

1931年(昭和6年)8才
小学校2年に進級し、父の教え子の畑玉吉について正式にピアノを習いはじめる。(畑からは一次や民夫もピアノを教わった)。
11月27日肺結核で病床にいた父が亡くなる。家作が何軒かあり自宅の二階に学生を下宿させたりして、中田家一家が生活するのに、とくに困ることはなかった

1932年(昭和7年)9才
4月、小学校3年に進級するとき、畑玉吉が音楽教師として勤めている東京市番町尋常小学校に転校。喜直にとって嬉しかったのは音楽の授業のときに、電気蓄音機でレコードをいい音で聴けることだった。後に日本児童図書出版協会から「はじめてあった本」と題する短いエッセイをたのまれたとき、” 私はこどもの時、本を読むのが大好きで、随分沢山読んだ。兄一次が買ってもらった「小学生全集」のイソップ、グリム、アンデルセン、の童話から、日本の童謡、クオレ、家なき子、小公女等があって、世界の名作は殆んど読むことが出来た。そしてその全集の中の一冊、西条八十編「日本童謡集」上級用が、私の生涯のもっとも重要な本になった ” と書いた
写真、喜直が転校した東京市番町尋常小学校(震災後の1924(大正13)年、「復興小学校」として鉄筋コンクリート3階建ての耐震・耐火の校舎が完成した)

1933年(昭和8年)10才
4月、三木露風の詩「静かな日」に初めて作曲

1934年(昭和9年)11才
小学校5年の夏休みの夏季学校で、上高地に行き穂高岳を見たり、焼岳に登った。後に山登り好きになった原点になる
写真、長野県上高地河童橋付近から穂高岳連峰の眺望

1935年(昭和10年)12才
西条八十の詩「怪我」に作曲(12才)。映画「別れの曲」を見てショパンに夢中になりピアニストを志すようになる

1936年(昭和11年)13才
3月、番町小学校卒業。4月、青山学院中等部入学。同時に上野児童音楽学園に入学した。東京音楽学校研究科を修了したばかりの金子登にピアノのレッスンを受ける。青山学院は毎日礼拝があり、讃美歌の伴奏を先生の代わりに弾くことがあった。中学時代は読書好き以外に、映画館に通い「未完成交響曲」「別れの曲」「乙女の湖」「たそがれのウィーン」「ル・ミリオン」「ワルツ合戦」「望郷」「早春」「ブルグ劇場」などを見たが、毎日レコードを聴き、ピアノも熱心に弾いた。日曜学校に大学で数学を教えている山田という先生がいて可愛がられた。山田はショパンのレコードをたくさん持っていて喜直を家に呼んでは、レコードを聴かせてくれた。音楽会にも連れて行ってもらいネオニード・クロイツァー、原智恵子、井上園子、相原千恵子、ヴァイオリニストの諏訪根自子といった演奏家を聴いている。この年の来日演奏家にはW・ケンプ、ジャック・ティボー、フォイマン、ピアテゴルスキー、シャリアピン、がいる。ナチスの迫害を逃れてジョセフ・ローゼンシュトックが来日し新交響楽団(N饗の前身)の指揮者になったのもこの年

1937年(昭和12年)14才
4月、一級下に團伊玖磨が入学。この年の来日演奏家にはヴィノグラードフ、ミッシャ・エルマン、指揮者ワインガルトナー等がいる

1939年(昭和14年)16才
11月8日、喜直は日比谷公会堂の新響定期公演で井上園子がローゼンシュトック指揮でチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲」を演奏したのを一番前の席で聴いている。この日のプログラムは他に、ロッシーニの「泥棒かささぎ」、ヒンデミットの「交響的舞曲」、R・シュトラウスの「死と浄化」であった。喜直の中学時代は山田先生が買ってくれた楽譜を見て、コルトーやルービンシュタインの名演奏を毎週聴き、ショパンの代表的作品は全部頭と心に刻み込まれた。山田先生のおかげである。喜直は青山学院に通いながら週に二度、東京音楽学校に附属して創られた上野児童音楽学園という音楽教室に通い週一でピアノのレッスンを金子昇に受けた。父が亡くなって家が裕福ではなかったので、5年卒業で音楽学校に入るのでは経済上困るので、4年から入って欲しいという母の強い願いがあったのは、多分この頃であろう

1940年(昭和15年)17才
青山学院中等部4年終了
4月、東京音楽学校(現・東京藝術大学)予科に入学。同期に畑中良輔、戸田敏子がいた。レオ・シロタにつくことになったが、一度レッスンを受けただけで上級生からクレームがついて、田中規矩士に変わり2年間師事。声楽科の生徒たちは、歌のレッスンを受ける時は伴奏してくれるピアニストが必要だった。喜直が伴奏を頼まれたことがメロディと伴奏の関係を学ぶことにつながっていった。堀口大学作詞「夕逍遥」作曲。歌曲の作曲に関しては同期で入学した声楽科の畑中良輔に詩の面で教わることが多かったと語っている

1941年(昭和16年)18才
4月、本科器楽部ピアノ専攻に進級。田中規矩士にピアノを、橋本國彦に作曲を師事。ある日、憧れていた一級上の石井好子から「私の伴奏をして下さらない?」と声を掛けられ伴奏をすることになったが、男性の伴奏者は学校にとって賛成ではなかったらしく数ヶ月で藤枝和子(後の團伊玖磨夫人)に代わる
9月「音楽は軍需品なり」ということから、東京と近県在住の音楽家2000名を隊員とする「音楽挺身隊」が結成され、隊長に山田耕筰が就任した。喜直たち音楽学校の生徒たちも、学校に行って授業を受けるよりも、軍事訓練や勤労動員で軍需工場に通う日が多くなった

1942年(昭和17年)19才
3年進級し、豊増昇に師事
8月満州建国10周年記念行事に音楽使節として演奏旅行を全校あげて満州まで行き、各地で20数回の演奏会を開き好評であった。大連に向かう船の中で歌人の中河与一に会う。その縁で東京に帰ってから、みんなで成城の中河邸に行くようになり家族のみんなと知り会うようになる。その後、手が小さかった喜直はピアニストになるのを諦め、作曲家になろうと決意する

1943年(昭和18年)20才
春、徴兵検査を受ける。夏、兄一次と二人で山中湖に行き、石井家の別荘に招待され石井京・好子の姉妹と夕食をともにした
陸軍の「特別操縦見習士官」の試験を受け、審査官の「音楽をやっているのか。珍しいな、やってみるか?」の一言が合格を決めた。
9月23日から3日間の卒業演奏会が行われ、喜直はショパンの「ピアノ・ソナタ」第3番ロ短調作品58を演奏した。
25日には半年繰り上がって卒業証書を渡され同校卒業。
9月30日恩師・豊増昇や金子登の見送りを受けて上野駅を発ち10月1日、宇都宮陸軍飛行学校の磐城分校に入隊し「特別操縦見習士官」になった。
写真、磐城飛行場

10月21日に明治神宮外苑競技場では「出陣学徒壮行会」が行われた。学生・生徒の徴兵猶予の特権が停止され、文科系の学生は全員兵役に就くことになった。東京と近県77校の出陣学徒3万5千人を家族ら6万5千人が雨の中で見送った。
兵役法施行規則等が改正になり、中高年も徴兵されることになった。陸軍飛行学校に入隊した喜直は上官に恵まれた。篠原新吉という区隊長は温かく思いやりの心を持つ人格者だった。
妻の幸子の話によると、後年、喜直たちは篠原区隊長を囲んで毎年、同期会を開き、喜直はそれに出席するのをとても楽しみにしていたそうである。
喜直は入隊8日後に「赤とんぼ」といわれた飛行機に乗った。およそ2か月後の11月29日には早くも最初の単独飛行を行った。約6週間、基本の離着陸、特殊飛行、編隊訓練まで全ての技術を学んだ。次に機種別訓練が始まり、喜直は爆撃機を選び、爆撃機のある浜松に
行き、九七式重爆撃機に乗って実践的な訓練を受けた。

1944年(昭和19年)21才
3月、訓練が終わり宇都宮陸軍飛行学校卒業。陸軍少尉に任官
10月8日、家に立ち寄って翌9日に結婚式を挙げる兄・一次に祝の言葉を述べ、祖母タツを見舞い、慌ただしく家を発つ
戦地への配属は、フィリピンの第四航空軍司令部付きという命令が下り、フィリピン行きが決まった
黒塗りの特攻機で嘉義飛行場に着くと音楽学校の先輩・テノールの柴田睦陸が上等兵でいた。5人で指令室に挨拶に行くと司令官の富永中将が「君たちには特攻隊として、大いに頑張ってもらいたい」と言った。ところが事務室に呼ばれて行くと「君たちは特攻ではないよ」と言われた。喜直が「命の大切さ」を心底から自覚したのは、このときだと。「無期懲役と死刑の差もこのように大きく、後に私は死刑廃止論に強い反対の気持ちをもつようになった」と後年になって語っている。
フィリピンでの喜直たちの任務は各地に駐屯している部隊にマニラからの命令や連絡を持って行き、伝えることだったが毎日司令部勤務で戦闘に参加することなく過ごした。そのうち、喜直は飛行第一四戦隊(陸軍重爆撃機隊の最強部隊として勇名を馳せた歴戦の部隊)に配属が決まりマランで合流したが、戦闘続きで人員も機材も消耗したため、しばらく休養することになり、喜直も休養の仲間入りをした
10月20日アメリカ軍がフィリピンのレイテ島に上陸、レイテ沖海戦が始まり神風特別攻撃隊が初出動した
喜直がジャワに向けてフィリピンを発って一カ月も経たない頃であった。マニラに残っていた操縦士は全員特攻隊員となった。たった一ヶ月の差が喜直の明暗を分けた

1945年(昭和20年)22才
2月、サイパン島の米軍基地を攻撃する長距離爆撃隊を編成するために日本へ帰国し東京の家に戻った。直ぐに茨城県水戸飛行場へ、さらに群馬県新田飛行場へ移動し訓練を続けた
5月23日の空襲で恵比寿の自宅全焼
8月15日終戦となり「兵隊は帰れるが、将校は銃殺されるらしい」という噂が広まり、8月16日喜直は母親、兄・一次、恩師・豊増昇、友人・山田正次等4人宛ての遺書を書いた
8月下旬自宅に戻る。東京近郊に連合軍の基地ができクラブが設けられた。そこでは兵士を慰安するための音楽が必要で、毎晩ジャズやタンゴなどを日本人バンドが演奏していた。喜直はアルバイトをすることにし、ピアノが弾けたので仕事はいくらでもあった。会社員の月収が300円位のとき、喜直の収入は10倍の3000円もあった。

1946年(昭和21年)23才
1月、中古のピアノを2000円で買ったと語っている。仕事は夜が遅いので、昼間は作曲をすることにした
喜直は畑中良輔と一緒に若手作曲家グループ「新声会」に入会した。メンバーに柴田南雄、入野義郎、別宮貞雄、戸田邦雄、石桁真禮生、宮城衛らがいた
7月14日<新声会第3回試演会>文部省内試写室にて開かれた試演会で、作曲したピアノ曲《バラード一番》を出品し自身で演奏した。これが作曲家デビュー作となる。恩師・豊増昇に献呈された
他に
石桁真礼生:《小径》《笛を吹く女》《みぞれの降る小さな町》《小さい命》
清水脩:《抒情曲集》より

1947年(昭和22年)24才
5月10日、父・章が購入していた三鷹市上連雀の土地に、兄・一次が家を新築し母、弟と転居
7月5日新声会第五回試演会で代表作となる(《六つの子供の歌》註.3)を発表、初演したのはソプラノ畑中更予。川端康成も来ていて「中田さんはすばらしい歌を書かれましたね」と称賛してくれた。この曲は日本歌曲の新しい方向を示すものとして注目を集め、高い評価を得た。この歌は柴田南雄によって楽譜集が作られ東京音楽書院から出版された。この頃より本格的に作曲活動とピアノ伴奏者としての演奏活動をはじめる
《すずしきうなじ》、《みみずく》、合唱曲《7つのフランスの子供の歌》など代表作を作曲
(《六つの子供の歌》註.3)は、昭和33年8月NHKが日本歌曲の埋もれた名曲を発掘する企画をたて、選考委員を有馬大五郎、伊藤武雄、大島正泰、木下保、内田るり子、野村光一、畑中良輔、増沢健美、山根銀二、四谷文子の10人の音楽家・評論家に委嘱した。日本の現代作曲家60名(山田耕筰・信時潔を除く以後の作曲家)の歌曲作品の中から、アンケート形式で推薦を求めた。その結果24作品が選ばれ、さらに決選投票の結果ベスト20を決定した。これは特集番組「現代日本の歌曲、ベスト20」として3回にわたって放送された。ここで第一位に選ばれたのが、中田喜直の《六つの子供の歌》である。一位から五位までの中に、もうひとつ、中田作品が入っている。
第一位 中田喜直《六つの子供の歌》ソプラノ歌手・伊藤京子が歌った
第二位 橋本国彦《斑猫》
第三位 平井康三郎《平城山》
第四位 柴田南雄《優しき歌》
第五位同点八作品 伊福部昭《ギリヤーク族の古き吟誦歌》、宅孝二《女の24時間》、團伊玖磨《五つの断章》・《美濃人》・《ひぐらし》、中田喜直《木兎》、箕作秋吉《非歌》、服部正《野の羊》
《六つの子供の歌》より「おやすみ」詩:三木露風 歌:小川明子(A.) 、山田啓明(Pf.)2011年7月24日

1948年(昭和23年)25才
9月、中田25才。毎日ホールで第一回作品発表会・ピアノリサイタル開催。この時《六つの子供の歌》は東京音楽学校教授で声楽界の大御所的な存在だった浅野千鶴子が歌った。リサイタルは好評だった。
混声合唱曲《午後の庭園》、女性合唱曲《秋のうた》無伴奏混声合唱曲《多感》、男声合唱曲《焚火》など作曲

1949年(昭和24年)26才
10月、中田26才。第18回日本音楽コンクール(NHK・毎日新聞社共催)作曲部門(室内楽曲)で《ピアノ・ソナタ》が第二位入賞。演奏したのは音楽学校同期の田村宏であった。田村は音楽学校入学前から天才といわれていた。この時の第一位は一柳慧、第二位中田喜直、第三位宇賀神光利であった。ちなみに管弦楽曲部門の第一位石井歓、第二位入野義朗、第三位戸田邦雄で、六名中三名が「新声会」の同人であった。
11月新声会が第一回(毎日音楽賞を受賞※註.4)
NHKの「ラジオ歌謡」として依頼され《夏の思い出》作曲。
《夏の思い出》作詞者の(江間章子※註.5)は、昭和21年疎開先から東京に帰ってきた詩人。NHKに呼ばれて「ラジオ歌謡」の作家陣に加わるよう依頼され、さっそく何編か書いた。昭和24年の春にまた依頼がまわってきた。このとき、戦争中の昭和19年に訪れた群馬県の片品村を思い出し、水芭蕉の咲く尾瀬を舞台に「夏の思い出」と題する一編の詩をまとめた。水芭蕉は彼女の育った岩手県平館村の岩手山のふもとにも、可憐な群生を見せていた。彼女の頭のなかに故郷と尾瀬の二つの情景が重なった。この《夏の思い出》をNHKは新進作曲家として活躍を始めた喜直に白羽の矢をたてた。江間と中田は面識もなく、尾瀬にも行ったことがなかった。喜直が尾瀬に行ったのは40年後の平成2年のことであった
(※註.4)昭和61年この時の「新声会」毎日音楽賞受賞について、当時を振り返って中田は「ベートーヴェンやショパンを弾くより、新しい曲を作ることが一番大切で、それを評価してくれた事が大事だ。いまポピュラーが盛んでクラシックは押され気味だ。それは創作を無視しているからだ。歌だけがたまに日本の曲をやるぐらいで、オーケストラにしても外国の昔の曲ばかり演奏している。合唱がものすごく盛んになったのは、どんどん新しい曲を創ったからだ。ポピュラーは殆どが新作である。だから盛んなのだ。沢山作るから名曲が残るのだ」(「教育音楽」昭和61年8月号、中山久民「春は名のみの‥‥早春賦の系譜」より要約(牛山剛著「夏がくれば思い出す」より引用)
(江間章子・詩人※註.5)は、1913年(大正2年)新潟縣高田市で生まれた。1915年(大正4年)父が急死すると、岩手県平館村の母の実家に移る。1925年(大正14年)12才静岡県に転居し、静岡高等女学校に入学。1930年17才、東京駿河台女学院入学(現・東京YMCA学院)。代表作《夏の思い出》(作曲・中田喜直)、《花の街》(作曲・團伊玖磨)。世田谷区の名誉区民。岩手県西根町の名誉町民、群馬県片品村名誉村民
《夏の思い出》作詞:江間章子 / うた:東京ソフィア女声合唱団
https://youtu.be/P4y3hiZfx5E

1950年(昭和25年)27才
中田27才。この頃よりNHKから放送劇等の伴奏音楽の仕事が増え始める。NHK「歌のおばさん」から委嘱を受け関根栄一作詞の《いたずらすずめ》を作曲(昭和26年3月放送)。同じく秋に茶木滋作詞《めだかの学校》を作曲(昭和26年1月放送)

1951年(昭和26年)28才
1月、文学座研究生の高橋浄子と結婚し25日練馬区豊玉に引っ越す
サトウハチロー作詞《かわいいかくれんぼ》作曲。サトウハチローはこのとき作曲を誰に頼もうかと探していた、” 堀内敬三さんが中田喜直さんはどうか ”とハチローに言ったという。それ以来、サトウハチローに気に入られ二人のコンビが始まり100曲以上を作ることになった
3月、NHKのラジオ番組「幼児の時間」のコーナー「歌のおけいこ」で童謡《めだかの学校》発表
昭和24年にNHKで始まった内村直也作のNHKラジオ連続放送劇「えり子とともに」の音楽は芥川也寸志が担当していたが主演のある女優との仲が噂され交代となり、喜直が音楽担当になったばかりの時の暮れのリハーサルのある日、台本が短かったため、二、三分の空白が出てしまった。台本を書いていた内村は空白を埋めるための窮余の策として、挿入歌を作って流すことにした。内村はその場で歌詞を書いて、喜直に曲をつけてくれるように頼んだ。スタジオで内村から歌詞を受け取った喜直は、すぐにその場で30分位の時間でメロディをつけて曲を書き下ろした。それが《雪の降る街を》である。番組で歌ったのは阿里道子と南美江の二人だった。歌詞は一番だけだったのを、喜直は内村にアドバイスしながら二番以降の歌詞を完成させ、昭和28年2月、パリ帰りのシャンソン歌手、高英雄がNHKの「ラジオ歌謡」で歌って評判になった。サハリン出身の高は、楽譜を見て「雪におおわれた故郷を思って歌った」という
この《雪の降る街を》は山形県鶴岡市で毎年2月に開かれている「鶴岡音楽祭」で舞台と客席がひとつになって全員で歌っている。この音楽祭の始まった昭和61年から喜直は毎年特別ゲストとして招かれている。鶴岡音楽祭の基礎をつくり、喜直と鶴岡を結びつけたのは、鶴岡市勝福寺に住んだ菅原喜兵衛である。音楽好きで戦後、東京から多くの音楽家を招いて音楽会を開いた。その一人に喜直がいた。喜直が初めて鶴岡を訪れたのは終戦の翌年、昭和21年だった。それ以来、喜直は毎年鶴岡を訪れ、ピアノの演奏や歌手の伴奏をした。市内の小学校の校歌を頼まれ、発表会のために喜直が鶴岡に来たのは、雪の積もった白一色の、小雪の舞う冬の夜、出迎えた菅原が引く馬ぞりに乗った喜直がその情景を憶えていて、《雪の降る街を》の曲を作りながら頭のどこかに、この情景を思い浮かべながら作曲したとしても不思議はないだろう。この歌が評判になったとき、「あの夜をイメージして作曲したのではないですか」と聞く菅原に、喜直は「そう思ってくれるなら、それでいいんです」と答えた。この一言によって鶴岡は「雪の降る街を」の発想の原点の地となり、JR鶴岡駅前のロータリーに記念の歌碑が、モニュメントが鶴岡公園に建っている。平成11年「鶴岡音楽祭」は前年に亡くなった菅原追悼の音楽祭となった。鶴岡市の「大宝館」には喜直が使っていたピアノやスキー用具、メガネ、万年筆、時計、自筆の楽譜などをガラス・ケースに収めた中田喜直のコーナーがある
《雪の降る街を》歌:倍賞千恵子

《めだかの学校》 合唱:クラウン少女合唱団

1952年(昭和27年)29才
4月5日、武蔵野市御殿山の借地に自宅を新築
ピアノ組曲《時間》発表

1953年(昭和28年)30才
4月フェリス女学院短期大学専任講師(音楽理論担当)に就く。フェリスのこの時の生徒数は、一、二年併せて34名、音楽家の教師は24名で、三宅洋一郎(ピアノ)、大宮真琴(音楽評論)、伊藤武雄(声楽)、入野義郎(作曲)、奥田耕天(オルガン)、田中規矩士(ピアノ)、團伊玖磨(作曲)、遠山一行(評論)、豊増昇(ピアノ)、針生一郎(芸術史)、前田幸市郎(指揮)、三宅春恵(声楽)、山田一雄(指揮)、山木康(キリスト教音楽)等がいた
7月1日公開の映画「お母さんの結婚」の音楽を担当。監督:斎藤達雄、音楽:中田喜直、出演:岡田宏:二本柳寛、北村澄江:坪内美、澄江の子健一:加島春美

1954年(昭和29年)31才
妻・浄子と離婚。
12月、フェリス女学院短期大学助教授(和声学担当)就任。
《女声合唱曲集-1》11曲(ぶらんこ・おもい・早春・小さな手・忘れな草・夏河・青空の小径・夏の思い出・ねむの花・石臼の歌・雪のふるまちを)発刊
《女声合唱曲集》より ”忘れなぐさ” ピアノ:山本佳世子 / 洗足学園音楽大学 / 2008年12月5日

1955年(昭和30年)32才
7月その中田は、作曲家の大中恩、磯部俶、宇賀神光利、中田一次(喜直の実兄。作曲家でファゴット奏者)らと、「ろばの会」を結成した。「子供たちのために、いい詩と、いい音楽を」「頼まれて作曲するのではなく、自分たちで納得のいく音楽を、自分たちが創りたい歌」がモットーだった。
5人は、定期的に集まり、質の高い童謡を目指して、コンサートや曲集出版などで、発表していった。
NHK特番「秋の祭典」の楽曲《ちいさい秋みつけた》作詞:サトウハチロー、作曲。
12月4日公開された映画「美しき母」の音楽を担当。監督:熊谷久虎、原作:林房雄、音楽:中田喜直、出演:原節子、佐分利信、磯村登美恵、野口泰史、清川玉枝、多々良純、小杉義男
12月13日、歌曲集出版記念演奏会をヤマハホールで開催。童謡作品集《かわいいかくれんぼ》が野ばら社から出版され、童謡作曲家・中田喜直の名前が世間に知られるようになった。この頃の童謡の世界の詩人では、サトウハチロー、まど・みちお、佐藤義美、関根栄一、藤田圭雄、野上彰。作曲では團伊玖磨、芥川也寸志、山口保治、平岡照章、伊藤翁助がいた

1956年(昭和31年)33才
「蜂の会」に参加し、ここで歌曲《サルビア》、《おかあさん》作詞:田中ナナなどを発表。
「新しいこどものうた」第一集が刊行された。そのなかにサトウハチロー作詞・中田喜直作曲《小さい秋みつけた》などがあった。11月、プロの女声合唱団「フェリス女声合唱団(後の日本女声合唱団)」の第一回演奏会が神奈川県立音楽堂で開催され、プログラムに喜直の合唱曲が三曲含まれていた。「フェリス女声合唱団」の活躍に合わせて喜直の合唱曲、特に女性合唱曲の作品は多くなっていった。この女声合唱団は1994年(平成6年)8月創立者の三宅洋一郎が亡くなり日本女声合唱団は解散した
写真、御殿山の自宅で母こう、兄の一次家族と一緒に

《ちいさい秋みつけた》 ダーク・ダックス

1957年(昭和32年)34才
2月19日公開された映画「この二人に幸あれ」の音楽を担当。
脚本:松山善三、音楽:中田喜直、監督:本多猪四郎。キャスト/ 若尾久夫:小泉博、清水雅子:白川由美、丸山千津子:津島恵子、丸山俊夫:三船敏郎、大越:藤原釜足、大越ふさ(大越の妻):清川玉枝、西垣支店長:笈川武夫、小杉課長:如月寛多、今井愛子:小泉澄子、大木:藤木悠、中島:田島義文、若尾の母:英百合子、雅子の母:夏川静江、雅子の父:志村喬
9月27日銀座のガスホールで「ろばの会」第一回公演が開催された。山田耕筰、信時潔、堀内敬三、サトウハチローはじめ多くの作曲家、詩人、評論家、歌手たちがお祝と激励の言葉を寄せた。出演したのは安西愛子、松田トシ、水上房子、友竹正則、池田綾子、池田智恵子、伴久美子、小保内恭子らであった。第二回以降、新作発表会には、伊藤京子、友竹正則、岡村喬生、眞理ヨシコ、中野慶子、中川順子、中田順子、高木淑子、ダーク・ダックス、ポニー・ジャックス、ヴォーチェ・アンジェリカ、コール・Meg、フレーベル少年合唱団等多数の歌手が出演した。友竹正則はこの出演がきっかけとなりNHKから声がかかり、「歌のおじさん」として活躍を始めるようになる。ある日の「ろばの会」合評会に喜直が、助教授しているフェリス女学院短大の学生を連れて来て、まど・みちお作詞、中田喜直作曲の《ハンカチの歌》を連れてきた学生・中島幸子(フェリス女学院2年・後の中田喜直夫人)に歌わせた。三年後に喜直はこの女性・中島幸子と再婚する。音楽之友社から「実用和声学」出版。12月5日、中田喜直作品演奏会を読売ホールで開催した。女声合唱曲はフェリス女学院合唱団が歌った
ピアノのための組曲《光と影》発表
写真は、御殿山の自宅で母こう、兄一次家族、弟と一緒に

1958年(昭和33年)35才
「ろばの会」の音楽物語《チュウちゃんが動物園へいったお話》を文部省主催の芸術祭参加作品として、キング・レコードから発売した。このLPはその年の芸術祭賞(芸術祭大賞)を受賞した
12月に「NHK歳末たすけ合い運動」の一環として《心の窓にともし灯を》は作曲され、同月の「歌の広場」でザ・ピーナッツにより歌われた

《心の窓にともし灯を》歌:ザ・ピーナッツ

1960年(昭和35年)37才
伊藤京子の歌う中田喜直歌曲アルバム《六つの子供の歌》他が芸術祭奨励賞を受賞。アルバム《ゆうらんバス》がレコード大賞童謡賞を受賞。
10月18日、赤坂プリンスホテルで三宅洋一郎・春恵夫妻の媒酌で中島幸子と結婚式を挙げた

1961年(昭和36年)38才
「ろばの会」が作曲したアルバム《東京のうた》が芸術祭奨励賞を受賞

1962年(昭和37年)39才
《ちいさい秋みつけた》が日本レコード大賞童謡賞を受賞。
10月、社団法人日本作曲家協会理事に就任(1994年迄)。
11月27日、中田喜直「合唱曲の夕」演奏会を読売ホールにて開催
12月4日、中田喜直「ピアノ曲の夕」演奏会を開催
12月11日、中田喜直「歌曲の夕」演奏会を開催

1963年(昭和38年)40才
5月7日、木下保研究発表会による中田喜直「歌曲の夕」演奏会を御堂会館で開催
女性合唱組曲《美しい訣れの朝》で芸術祭奨励賞を受賞

1964年(昭和39年)41才
混声合唱組曲《昇天》で芸術祭奨励賞を受賞
11月、フェリス女学院短期大学音楽科教授に就任。

1965年(昭和40年)42才
10月、社団法人日本音楽著作権協会理事に就任(1995年迄)
女性合唱組曲《みえないものを》で芸術祭奨励賞を受賞

1966年(昭和41年)43才
月11日朝6時、母・こうが脳出血で亡くなる
混声合唱とピアノのための組曲《都会》で芸術祭奨励賞を受賞

1967年(昭和42年)44才
女声合唱組曲《北の歌》で芸術祭奨励賞を受賞

1968年(昭和43年)45才
5月3日、戸塚カントリー・ゴルフクラブに近い横浜市旭区柏町へ新築転居

1969年(昭和44年)46才
4月サトウハチロー、古関裕而、中田喜直等、童謡を作る詩人や作曲家等で日本童謡協会が設立され理事に就任
女声合唱組曲《蝶》で芸術祭優秀賞を受賞

1970年(昭和45年)47才
中田喜直《歌曲全集》レコードで芸術祭優秀賞を受賞

1971年(昭和46年)48才
混声合唱組曲《ダムサイト幻想》で芸術祭優秀賞を受賞
第一回日本童謡賞功労賞を受賞
10月27日東京都港区赤坂に(有)ナカダ音楽事務所を設立

1972年(昭和47年)49才
2月、札幌冬季オリンピック閉会式のテーマソング《別れの歌》作曲、作詞サトウハチロー

札幌冬季オリンピック閉会式のテーマソング《別れの歌》
<Le Camarade & リトルスピリッツ ジョイントコンサート 2017>
演奏:Le Camarade (ル キャマラード) 、リトルスピリッツ  指揮:市川 大貴
札幌、北海道、日本 (2017年1月)

1973年(昭和48年)50才
10月2日中田喜直「合唱の夕」
11月6日中田喜直「歌曲の夕」
12月4日中田喜直ピアノ曲の夕」をイイノホールで公演
5日青山葬儀場でサトウハチローの葬儀が行われた。参列者全員でサトウハチロー作詞・中田喜直作曲の《夕方のおかあさん》を歌って、サトウの霊に捧げた。喜直がピアノを弾いた
写真、姪順子の結婚式で、兄一次と自作曲《汽車は走るよ》を楽しく連弾

1974年(昭和49年)51才
3月スキー仲間とフランスへ。中田喜直の音楽《こどものうた百曲選集》がLP発売

1975年(昭和50年)52才
久留島武彦文化賞を受賞
第五回日本童謡賞をアルバム《こどもの歌100曲集》で受賞

1976年
12月12日<オーケストラがやって来た~「中田喜直 スポーツ好き歌曲王」>に出演した。
同番組には中村紘子、関西学院グリークラブ、相愛女子大合唱部、大阪フィルも出演した。

1977年(昭和52年)54才
横浜文化賞を受賞
テレビ朝日番組審議委員に就任(1986年迄)

1978年(昭和53年)55才
第八回日本童謡賞を受賞
神奈川県文化賞受賞
モービル児童文化賞受賞(ロバの会)

1979年(昭和54年)56才
6月23日~30日、ピアノ・コンペティション審査及び自作品展示のため渡米
8月、東京都港区六本木に事務所移転
10月サトウハチローの死後、数年間空席だった日本童謡協会・会長に喜直が第二代会長として就任

1980年(昭和55年)57才
11月「ろばの会」結成25周年記念コンサートを渋谷公会堂で開催
禁煙運動に力を入れるようになる

1981年(昭和56年)58才
2月仕事で北海道に行き、旭川ですすめられ念願だったスキーの一級資格の検定試験を受け合格する

1982年(昭和57年)59才
5月31日中田喜直「合唱曲の夕」演奏会を都市センターホールで公演

1983年(昭和58年)60才
5月日本作曲家協議会理事就任
12月2日リレー・コンサート「コラールメッセージ83」が練馬文化センターホールで開催された
反核を主張する中田喜直はじめ50数名の音楽家が呼びかけ人になって、核兵器廃絶のために始めた

1984年(昭和59年)61才
7月1日「赤い鳥」創刊の日(※注6)が「童謡の日」に決める
(※注6)鈴木三重吉は小説家・児童文学者で日本の児童文化運動の父とされる人。1918年7月1日に創刊した童話と童謡の児童雑誌「赤い鳥」。創刊号には芥川龍之介、有島武郎、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子、徳田秋声らが賛同の意を表明した。1918年11月号に西条八十の童謡詩として掲載された「かなりや」に、成田為三の作曲した楽譜の付いた童謡が、翌1919年5月号に初めて掲載された。この楽譜掲載は大きな反響を呼び音楽運動として評判となった。以後、毎号歌としての童謡を掲載され、そののち多くの童謡雑誌が出版されることになった。雑誌「赤い鳥」は1936年8月廃刊

1985年(昭和60年)62才
7月1日「童謡の日」コンサート開催。テーマ・ソング《いま生きる子どもマーチ》が発表された
兵庫県龍野市(現・たつの市)が《赤とんぼ》の作詞者・三木露風の出身地であることから龍野を「童謡の里」と決める

1986年(昭和61年)63才
紫綬褒章受章
写真 芥川也寸志、中田喜直、江間章子

1988年(昭和63年)65才
4月神戸山手女子短期大学講師に就任
4月3日<未成年者酒とタバコの害から守る 88・66キャンペーンコンサート>へ出かけ、音羽ゆりかご会を指揮して自作《めだかの学校》を演奏
「中田喜直 童謡名曲選(104曲)」CD発売
中田が嫌煙運動に熱心に出かけるには理由がある。1994年に音楽之友社から発行した「音楽と人生」の中で次のように語っている『 ”タバコに関しては三十年以上も前から多くの資料に基づき研究してきたことだから、自分の考えが間違っているとは思わない”、”私は禁煙の場所ではタバコを吸ってはいけないと思っているから、スタジオでタバコを吸っている人(ドラマの中では別)は、約束を守らない信用できない人間です、ということにしている”、”私の考えと嫌煙運動、私は昔から喫煙に対しては厳しい態度を取ってきた。私はこの運動を応援している一人に過ぎない。しかし作曲の仕事を一時捨ててでも、できるだけ協力してゆきたい気持ちを強くもっている。それは、この運動が、戦後の多くの市民運動の中で、国民全体の健康と安全(火災、ガス爆発等)に直接関係している最も重要であって、それを推し進めてゆくことは、文明人として、普通の市民として当然の義務と考えているからである”、ただ、嫌煙権運動を実際にやっている人たちは、喫煙者と共存してゆく非常におとなしい考え方で忍耐強く行動しており、それがこの運動を成功させている一つの理由になっている。だから私の主張がそのまま、「嫌煙権確立をめざす人びとの会」の主張ではない、ということも一応述べておいた方がよいと思う。嫌煙権の運動は誤解されることが多いから”、”新聞の投書や論説を見ると、大部分は嫌煙運動に好意的であり、本当の知識人、本当の医者はすべてこの運動に賛成のようである。WHOの1975年の勧告に「非喫煙者の権利」という文字が明確に出ているし、同じく1978年の第三十一回総会で、各加盟国に対する勧告を決議した中で、「タバコの煙によって汚染されていない大気を享受する非喫煙者の権利を守ること」が述べられている。これが嫌煙権であって、世界の最もすぐれた医学者の一致した考えでできた権利である”、”嫌煙権があれば喫煙権だってある、反対論者のいうような思い付きの権利と全く違うことは明白である”、”團伊玖磨氏も随分考え違いをしているようだ。もし團氏が列車で長時間旅行した時、隣の席の人がラジカセでガンガン音楽を鳴らしたら、やめて欲しいとか、イヤフォンできいてくれと言うだろうと思う。ききたくない音をきかされるのは苦痛であるし、静かにして欲しいと言う権利はあるはずで、それは当然のことである。「禁音」と書いてないからいいじゃないか、と言うことは間違っているし、そういう場所では自分がききたいからきく、というだけの権利は認められないのが常識である。タバコの場合も同じで、隣の席でタバコを吸われたら吸いたくない煙を無理に吸わされ大変な苦痛でになるのである”、”日本のもっとも美しいオペラ「夕鶴」が演奏されているとき、やくざ風の男が何人か入って来てタバコをプカプカ吸いはじめたら、私は、今は演奏中だから休憩の時に外で吸って欲しい、と言う。これが嫌煙権の主張なのである。その時、團伊玖磨氏は、嫌煙権などという下らないもの、と言って、やくざの方に味方するだろうか。こんなことは実際にないかもしれないが、團氏は文章の上ではこれと同じような事をしばしば書いている。嫌煙権を犬猿権という文字でからかって嘲笑した、連載随筆「パイプのけむり」を読んだ”、”嫌煙権とは何か、【嫌煙権は喫煙権を喫煙を認めたうえで、主に公共の場所での喫煙規制を主張する。嫌煙権は、喫煙者に向かって、「タバコをやめさない、禁煙すべきだ」と主張するものではない。そうではなくて、社会に向かって、喫煙の場所的制限を制度化することを訴えているのであるだから、嫌煙権は、「直接喫煙の有害性」に視点をおくのではなく、「パッシブ・スモーキングの有害性」に視点おいている。医学専門家や禁煙運動家からは、時に、嫌煙権は生ぬるい主張だと批判されることがある。しかし、嫌煙権の市民運動が急速にかつ着実に浸透していったのは、喫煙者個人を敵視せず、むしろ喫煙者とも一緒になって運動を進めていく穏やかな呼びかけが、わが国の国民性にマッチしたためであろう(註)】。カッコ内【(註)】の文章は、日本で最初に「嫌煙権確立をめざす法律家の会」を結成したリーダーである弁護士の伊佐山芳郎著「嫌煙権を考える」(岩波新書)の中からの抜粋である。こういう本を全く読まず、WHOが何をしているかも知らない非常識な有名人が意外と沢山いるようだ。』と述べている。要約:中田喜直著「音楽と人生」、音楽之友社、1994年発行、58p~76p
<写真>
千代田区日比谷 第一生命ホールで開催された社団法人青少年育成国民会議・財団法人全国防犯協会連合会主催の<未成年者酒とタバコの害から守る 88・66キャンペーンコンサート>
指揮:中田喜直、合唱:音羽ゆりかご会

撮影/写真提供:藤井達郎氏

1989年(平成元年)66才
4月23日~5月2日、自作品コンサートのためブルガリアへ行く。
第一回サトウハチロー賞を受賞
<写真>
<コーラス>1988年4月3日<未成年者酒とタバコの害から守る 88・66キャンペーンコンサート>の出かけ、音羽ゆりかご会を指揮して本番前の中田喜直。
<団欒する中田>1990年前後《禁煙嫌煙望年会>会場にて、左から藤井達郎氏、中田喜直、弁護士/伊佐山芳郎氏(嫌煙権確立をめざす法律家の会/代表世話人)

写真提供:藤井達郎氏

1990年(平成2年)67才
4月、フェリス女学院大学音楽学部教授に就任。
4月23日~5月1日、日本女性合唱団の指導と演奏会出演のため渡米
5月25日<’90禁煙週間フォーラム~子どもたちにタバコのない未来を!>に出かけ、自作曲《きれいな空気を(クリーンエアの歌)》を歌う、藤井達郎氏と齋藤麗子医師によるデュオの伴奏を務めた。当日は1980年に出版した「嫌煙の時代 タバコと社会」を中田とともに編集した渡辺文学が来場していた。会場:東京都渋谷区セブンスデー・アドベンチスト教団東京中央教会集会室
中田喜直は大の嫌煙家で禁煙に関する著作もある。彼は、JR、飛行機などの受動喫煙に精力的に反対した。また、ステージ、テレビでは機会あるごとに「禁煙コンサート」について語り注目を集めた。どんなに忙しいときでも、タバコの話ができる講演会だけは喜んで出かけたといわれている

写真提供:藤井達郎氏、撮影者:渡辺文学氏  ピアノ伴奏:中田喜直(作曲家)

1993年(平成5年)70才
3月4日午後から苗場のリゾート・マンションへ行きスキー場ですべる
フェリス女学院大学音楽学部の定年を迎え退職した
6月25日~30日「日本のうた中田喜直を歌おう」演奏会のためハワイへ
10月フェリス女学院大学音楽学部名誉教授就任

1994年(平成6年)71才
11月14日、中田喜直コンサート(歌曲・童謡集出版記念)をカザルスホールで公演
随筆集「音楽と人生」を上梓

1995年(平成7年)72才
7月30日「中田一次&中田喜直 合唱コンサート」愛知県しらかわホール
<中田一次>
《トンボの思い出》《原っぱ》《母子草を唄う》《入江のうた》《てんぐ物語》《カラスとおばさん》
<中田喜直>
《夏の思い出》《ちさい秋みつけた》《雪のふるまちを》、混声合唱《そよ風のなかの念仏》より5曲、女声合唱《こころの季節》全4曲、《めだかの学校》《夕方のおかあさん》(童謡曲集)
指揮:広江吉信、合唱:名古屋コール・ハーモニア、ピアノ:金山弘子/小栗多香子

NHK放送文化賞を受賞
苗場にリゾート・マンション購入し暮れから正月にかけてスキーをして過ごすようになる
写真、姪順子と共演し《めだかの学校》《雪のふるまちを》《星とたんぽぽ》《夏の思い出》などをピアノ伴奏

1996年(平成8年)73才
2月17日「雪の降る町を」<タバコから10代の子どもを守ろうコンサート> ”作曲家・中田喜直とともに” に出演    横浜市青葉区 フィリアホール(青葉台東急百貨店本館5F)
Ⅰ. 世界はこんなに美しい ソプラノ独唱による名曲集
Ⅱ. 子どもたちに無煙環境を トーク 中田喜直/齋藤麗子
Ⅲ. ひとに優しい音楽たち 中田喜直の世界
出演:中田喜直、齋藤麗子(当時日本禁煙医師連盟幹事/現十文字学園女子大学名誉教授)、住吉和子(ソプラノ)、藤木明美(ピアノ)、ゆりの木女性コーラス(指揮:田中ひろみ/ピアノ:山本きよみ)
共催:神奈川県立柿生高等学校PTA、柿生西高等学校PTA、百合丘高等学校PTA、柿生高校禁煙教育推進委員会

資料提供:齋藤麗子氏

写真提供:齋藤麗子氏 写真上/1996年2月17日「雪の降る町を」<タバコから10代の子どもを守ろうコンサート> ”作曲家・中田喜直とともに” 」トーク:中田喜直・齋藤麗子氏
写真/2006年6月9日中田喜直没後の偲ぶ会

1998年(平成10年)75才
8月1日、「中田喜直の宇宙」(作曲生活50周年記念コンサート)を津田ホールで公演
身体に異変を感じ、9月慶応病院に入院し直腸がんと診断され、直ぐに手術

1999年(平成11年)76才
がん再発し5月再入院し二回目の手術。
10月、ウィーン国立音楽大学の招きで、中田作品についてシンポジウム、公開講座、歌曲やピアノ作品のコンサートが開かれた。ウィーンではカラヤン・センターで、ケルンでは日本文化会館で「20世紀末の日欧音楽の変遷と展望」題して講演し、喜直の作品が演奏された。曲目は《ピアノ・ソナタ》、《六つの子供の歌》などで、喜直自身もピアノを弾き、他にソプラノ歌手の大島富士子(ウィーン)、釜洞祐子(ケルン)、バリトンの谷口伸、ピオノの森美加が出演した
日本音楽著作権協会60周年特別賞を受賞

2000年(平成12年)77才
3月25日「結成45周年・ろばの会さよならコンサート」を日比谷公会堂にて開催。岡村喬生、ボニー・ジャックス、眞理ヨシコ、中野慶子、中田順子、大和田りつこ、岡崎裕美、松倉とし子などが出演した。「ろばの会」解散。
4月5日急性肺炎で慶応病院に入院
5月3日午前2時40分眠るように息をひきとった。遺体は午後、横浜の自宅に戻った。
訃報を知らせた新聞上では次のようなコメントが書かれた。
『日本語のニュアンスを生かし優れた歌曲をたくさん書かれた、日本のシューベルトのような方だった』『温和だが、言うことはきちんと言う。敵のない方で、どなたにも好かれた。私には大先輩にあたるが、同輩のように話をしてくれた』(作曲家服部克久、読売新聞)、『芸術性が高く、品があり、山田耕筰と並ぶ日本の誇るべき歌曲作家だった』(作曲家服部公一、朝日新聞)、『中田喜直とは何か、と聞かれるたびに私は「やさしさ」と答えてきた』(音楽評論家畑中良輔、朝日新聞)
5月5日密葬
5月23日東京・青山葬儀場で中田家と社団法人日本童謡協会による音楽葬が行われた。献花したのは十数名の歌手、合唱団、声楽家の畑中良輔、詩人の阪田寛夫等二千名を越えた
日本レコード大賞・日本作曲家協会功労賞を受賞この年から「かながわ音楽コンクール」ユース・ピアノ部門で法人作曲家の作品を最も印象的に演奏した若いピアニストに「中田喜直賞」が贈られるようになった
<かながわ音楽コンクール >に中田喜直賞が創設された。このコンクールの「ユース・ピアノ部門」で、邦人作曲家の作品を最も印象的に演奏した若いピアニストに贈られるようになった

2001年
5月9日<第一回水芭蕉コンサート>開催   紀尾井ホール
このコンサートは、中田を偲び、中田作品を後世にいくために企画された
プログラムには『私どもが敬愛した中田喜直先生が亡くなられたのは、昨年の五月三日でした。さわやかな緑の風をうけて、花水木の花が咲きにおっていました。早いもので、それからもう一年が過ぎてしまいました。/先生のたくさんの素晴らしい作品と、先生が日本の音楽界に尽くされた功績を、いつまでも伝えていくために企画されたのが ” 水芭蕉忌コンサート ” です。毎年水芭蕉の花が咲き始める五月に開くことに致しました(註)』とあった
<水芭蕉コンサート>は中田を偲び毎年5月に開かれる
8月<水芭蕉忌コンサート・イン・山形>が、山形市在住の歌手・松倉とし子が中心になり、ゲストにボニー・ジャックスを迎え開かれた
(註)引用:牛山剛著、「夏がくれば思い出す」、新潮社、2009年発行、 259-260頁

2002年(平成14年)
この年から「奏楽堂日本歌曲コンクール」に歌唱部門で優勝した声楽家に大賞とともに「中田喜直賞」が贈られるようになった
2月《中田喜直記念コンクール>が「旭川市 雪の降る街を音楽祭」に併設され開催された
このコンクールは、合唱指揮者・菅野龍雄が始めた『1968年菅野が務めている高校の合唱部が、「全日本合唱コンクール」に北海道代表として出場したことがあった。唱ったのは中田喜直作曲の《美しい訣れの朝》、菅野が伴奏ピアノを弾いた。入賞はできなかったが、後になって審査員だった中田から、合唱とピアノを称賛する手紙が菅野の許に届いた。これが縁で、中田はよく旭川に行くようになった。演奏会が主だったが、ときにはスキーも楽しんだ。旭川も冬には大雪が降る街である。中田が亡くなって菅野は、平成十四年二月から中田もよく訪れた「大雪クリスタルホール」で「旭川市 雪の降る街を音楽祭」を始めた(註)』
5月《水芭蕉コンサート・イン・愛知>が名古屋の合唱指揮者・山田真治が主催。この時の呼びかけに応じて集まった中田ファンによって、「中田喜直を歌う会」が結成され、この会が中心になって、ゲスト歌手とともに中田の曲を毎回唱っている。
(註)引用:牛山剛著、「夏がくれば思い出す」、新潮社、2009年発行、260-261頁

2004年(平成16年)
7月、河口湖ステラシアターで富士国際音楽祭「中田喜直メモリアル・花とふれあいの合唱祭2004夏」が開催された

2006年(平成18年)
この年から「奏楽堂日本歌曲コンクール」に作曲部門に一般の部とは別に新たに「中田喜直賞の部」が設けられた

2012年
5月13日<中田喜直第12回 水芭蕉コンサート>開催    渋谷区千駄ヶ谷  津田ホール
出演:小松英典:バリトン、中田幸子:指揮・お話、アンサンブル・メイ*混声合唱、ピアノ:竹村美和子・松田祐輔、菅原奈津子
<中田喜直賞受賞者>メゾソプラノ:城守香・高橋ちはる、作曲:山口哲人、ピアノ:佐藤和大
お話:矢崎節夫、歌手:眞理ヨシコ、構成他:牛山剛
プログラム:《夏の思い出》、《雪の降る街を》、《カーネーションに寄せて》《ゆく春》、《火の鳥》、《木兎》、《鳩笛の唄 》、《あの夏でした》、《おやすみなさい美しい夢をみて》、《すばらしき自然とともに》、《ピアノソナと》より第一楽章他

2013年
7月21日二本:ルクセンブルク大公国友好<第12回 水芭蕉コンサートin愛知>名古屋公演 ~生誕110年金子みすゞ・生誕90年中田喜直の世界~   名古屋市芸術創造センター(新栄) 
合唱:コール・チュラカーギ(山口県長門市)、コーロ・ブリアンテ、キンダーコール鳩笛の会、犬山コーロ・かかし、コール・フロイデ、コール・アマトリーチェ、尾西混声合唱団l、中田喜直・動揺を歌う会(愛知県、山口県、全国)
出演:合唱指揮:中田幸子、有田知永、原田美穂、加川文子、矢野としゑ、水谷江里、加藤久美子、服部加奈、山田真治、山田明美、指揮:加藤智、ピアノ:満田有香ほか
第1部 合唱の世界
第2部 ピアノの世界
第3部 金子みすゞの世界
第4部 歌い継ぎたい中田喜直の名曲
フィナーレ 中田喜直・童謡を歌う会

2015年
5月16日金曜日<~中田喜直 没15年~ 第15回 水芭蕉コンサート>      よみうり大手町ホール
<~平和のうた(戦後70年を迎えて)~>
《みんなのなかへ》、《あの夏でした》、《だからその海をみない》
<~受賞者コーナー~>
《日本のおもちゃうた》より 《海ほおずきと少年》、《紙風船》
《変奏的練習曲(抜粋)》、《おばあさまの庭》(武藤道子)
<~「ろばの会」結成60周年を記念して~>
《サッちゃん》(大中恩 作曲)、《びっくりしちゃったの》(中田喜直 作曲)、《とんぼの思い出》(中田一次 作曲)、《びわ》(磯部俶 作曲)
《おさるのゆうびん》(宇賀神光利 作曲)、ほか
出演:たいらいさお(歌手)、岡崎裕美(歌手)、稲村なおこ(歌手)、大中 恩(お話)、眞理ヨシコ(歌・司会)、中田幸子 (指揮・お話)、アンサンブル・メイ(混声合唱)、篠崎仁美(ピアノ)、菅原奈津子 (ピアノ)、大沢 聡(オカリーナ)、牛山 剛 (企画・構成)
<中田喜直賞受賞者>
大塚道子(メゾソプラノ)、古瀬まきを(ソプラノ)、武藤道子(作曲)、《演奏:歌:馬原裕子、ピアノ:森 裕子》、小金澤広人(ピアノ)

2019年
6月5日<水芭蕉の人・中田喜直 ~旋律とその時代~>    古賀政男音楽会館内・けやきホール
出演:お話:中田幸子、お話:佐治晴夫、司会と歌:眞理ヨシコ、布施雅也:歌、松下倫士:ピアノ
主催:眞理ヨシコ後援会・音符たち、協賛:水芭蕉コンサート実行委員会
7月6日「夏の思い出」~中田喜直の世界~ 「2019中田喜直についてのトークコンサートとミニ展示」開催される      横浜市歴史博物館 エントランスホール
出演:お話:三林輝夫、メゾ・ソプラノ:金子美香、ピアノ:河野紘、特別出演:中田 幸子
主催:よこはま地域文化遺産デビュー・活用事業実行員会

2020年
5月16【公演延期】中田喜直 没後20年 水芭蕉コンサート 〜心の作曲家が見つめた “いのちと平和”〜 ナカダ音楽事務所 tel:03-3586-1774 東京 紀尾井ホール
11月22日<没後20年/中田喜直の世界>     銀座 王子ホール
出演:お話:中田幸子、田口久仁子(S.)、田口宗明(Br.)、織井香衣(ピアノ)

2021年
5月27日(木)【公演中止】中田喜直 没後20年 水芭蕉コンサート ~心の作曲家が見つめた “いのちと平和”~ ナカダ音楽事務所 tel:03-3586-1774 東京 紀尾井ホール

《夏の思い出》、《バラード第1番(豊増昇先生に捧ぐ)》、《あの夏でした》、《歌をください》、《鳩笛の唄》、《二台ピアノのための「無宗教者の讃美歌」》、《すばらしき自然とともに》、他
指揮―:田幸子、アンサンブル・メイ(混声合唱)、眞理ヨシコ(歌・司会) 倉本裕基(ピアノ・お話)、大音絵莉(S.)、土屋広次郎(Br.)、松下倫士(Pf.)、田中翔一朗()(以上Pf.)

JR三鷹駅の発車メロディーとして《めだかの学校》が使われている

6.主な作品


中田喜直主な作品

7.その他


中田喜直住居跡
中田喜直は、大正12年(1923)8月1日、渋谷町字欠塚(現恵比寿4丁目)に誕生し、加計塚小学校に入学した。

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<中田喜直住居跡 渋谷区教育委員会>

<ちいさい秋公園>
童謡の「ちいさい秋みつけた」の作曲家の住居跡に隣接した公園
この公園の名前の由来は、童謡「ちいさい秋みつけた」の作曲家でもある「中田喜直」氏の住居跡に隣接して整備されたことから付けられた。渋谷区のマンションや住宅の1画にある公園。

6. 2013年秋、三鷹ゆかりの作曲家中田喜直の生誕90周年を記念して、都立井の頭恩賜公園内に歌碑が建立された。
中田喜直は、昭和20年代三鷹でくらしていた。有名な童謡「ちいさい秋みつけた」のメロディーは井の頭恩賜公園を散策していた時にうまれた。
井の頭池の畔に建っているピアノをモチーフにした歌碑には、「ちいさい秋みつけた」の歌詞が刻まれている。

7. JR三鷹駅開業80周年記念したイベントの一環として、地元に縁のある作曲家・中田喜直(1923-2000)の代表作、童謡「めだかの学校」が2010年6月26日から同駅の発車メロディーに使用されている
<JR三鷹駅発車メロディー「めだかの学校」(1番線各駅停車)音色2中盤>

<JR三鷹駅発車メロディー「めだかの学校」(2番線各駅停車)音色2後半部>

<JR三鷹駅発車メロディー「めだかの学校」(3番線快速下り)音色1後半部>

<JR三鷹駅発車メロディー「めだかの学校」(4番線快速下り)音色3後半部>

<JR三鷹駅発車メロディー「めだかの学校」(5番線快速上り)音色1前半部>

<JR三鷹駅発車メロディー「めだかの学校」(6番線快速上り)音色3前半部>

<めだかの学校の場所は神奈川県小田原市荻窪453−2番地にある 
作詞は童話作家の茶木滋。昭和25年、NHKより依頼を受けた茶木は、終戦当時の荻窪用水のこの周辺で、息子の義夫さんと買い出しの途中で交わした会話を基にしてこの詞を作られたようだ。荻窪用水とは、江戸時代に川口広蔵という人が約20年かけて早川から荻窪に水を引き込んだ用水路のことです。>
<めだかの学校の歌詞の舞台とされる神奈川県小田原市の荻窪用水>

<荻窪用水(上の写真)近くに憩いの場として設けられた「めだかの学校」>

8.初演

9.関連動画


中田喜直 動画

10.中田喜直 家系


中田喜直 家系

参考文献:「夏がくれば思い出す(評伝 中田喜直)」牛山剛著 新潮社 随筆集「音楽と人生」中田喜直著 音楽之友社 「クラシック作曲家辞典」中河原理監修、フェニックス企画編 東京出版堂 「音楽史(音楽講座)」堀内敬三著 音楽之友社 「音楽文庫・日本音楽史」伊庭孝著 講談社 「wikipedia」 https://ja.wikipedia.org/wiki/中田喜直 https://ja.wikipedia.org/wiki/中田一次 https://profile.ne.jp/w/g-8262/ http://www.kinet.or.jp/akazawa/ https://ja.wikipedia.org/wiki/吉丸一昌 http://www.chohoji.or.jp/tokugawa/raitei_gakudou.htm 「江戸東京年表」吉原健一郎・大濱徹也編 小学館 「日本史・世界史 同時代比較年表」楠木誠一郎著 朝日新聞出 http://www.bandpower.net/bpblog/archives/2011 「【コラム】富樫鉄火のグル新 第127回 「ろばの会」60年」 / http://www.aomori-akenohoshi.ac.jp/campus/docs/kiyo30.pdf/童謡にみる中田喜直作品の特色について - 青森明の星短期大学 / https://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyo00meiji2.htm/池田小百合 なっとく童謡・唱歌 / 

生年代:1923年 大正12年

没年代:2000年 平成12年

日本の元号:大正~昭和~平成

時代:大正・昭和・平成