中田喜直

中田喜直

生没年・出身地・歿地・墓地
中田喜直 生誕 
NAKADA, Yoshinao
Alias 通称 NAKADA, Yoshinao
Real name正式 NAKADA, Yoshitada
Birth place:Tokyo Japan
Date of Birth:1/8/1923

(1923年8月1日東京都渋谷区影丘町生)
(2000年5月3日入院先の慶応病院で没)

1.職業

日本の作曲家

2.称号

3.経歴

祖父 中田平吉
1.中田家は代々会津藩で鉄砲頭を務めてきた。祖父、中田平吉は旧会津藩士。明治維新後に東京に出て現在の皇宮警察に務め警部であったが、50才で公務死している。平吉の妻タツも会津藩士の娘で、タツの兄は白虎隊の隊員だった。

父 中田章
2.父、中田章(1886~1931年45才で没)・日本の作曲家・オルガニストは、中田家の長男として東京に生まれ、他に7人の弟姉妹がおり末の雪江は東京音楽学校で学んだ。高嶺秀夫の奨めで父の反対を押し切って東京音楽学校(現・東京藝術大学)に進み、明治40年甲種師範科及び研究科卒業。翌41年には山田耕筰が、42年には本居長世が卒業している。音楽家の道を選べたのは母・タツの理解があったからと伝えられている。章の妻こうは、日本の代表的画家・奥村土牛の従姉。やがて章は東京音楽学校助教授としてオルガンと音楽理論を教えた。また、音楽教師を養成する東京音楽学校予科の主任を務め音楽教師養成にも尽くした。、卒業生が全国の小学校に赴任し、《早春賦》を歌い広めたと言われている。また大韓帝国皇太子に唱歌を教えたと言われている。当時、中田章といえばオルガンの名演奏家として知られていた
1913年(大正2年)、唱歌「早春賦」発表される(※注1-1)。「早春賦まつり」(※注1-2)
1920年(大正9年)11月22日、日本最初の音楽ホール・南葵楽堂(※注2-1)が完成し、お披露目・音楽会で東京音楽学校助教授・中田章がバッハ「ニ短調プレリュード」と、ライケルバーガーの「イ短調ソナタから間奏曲」を演奏した
1929年、大礼記念章受章する
1931年(昭和6年)11月27日結核を患い病床にいることが多かったが45才で没

(※注1-1)早春賦の歌詞は吉丸一昌(かずまさ)が東京音楽学校教え子の当時、旧制長野県立大町中学校音楽教師であった島田顕治郎の語る「春遅き大町地方の情景」から詩想を得て作詞したといわれているが、明治44年大町中学創立十周年記念として校歌の作詞を頼まれ、雪どけの大町を訪れているので、その情景もふまえ大町付近を題材にしていると考えられる。その歌碑がいま安曇野市の大町文化会館、穂高川河川敷のほとりに建っている。
吉丸の早春賦は2曲存在する。最初は1912年(大正元年)11月2日に「待たるゝ春」と題し作詞した。歌詞の一番は、”春は名のみの風の寒さや。谷の鶯、うたは思へど。時にあらずと音も立てず”」である。そして「早春賦」と題して作曲を東京音楽学校研究科生で授業補助の船橋榮吉に依頼した。出来上がった曲は、変ホ長調、6/8拍子。この曲を12月14日開催「東京音楽学校学友会主催」の「第3回土曜演奏会」第1部最後の番外として本科声楽部学生、安藤文子が独唱した。この楽譜は雑誌「音楽」第4巻1号の中に付録として掲載され現存する。尋常小学唱歌の作詞委員会代表でもあった吉丸一昌が、この歌を聴いて急きょ、同僚の中田章に作曲を依頼した理由は定かではない。中田章作曲の”早春賦”歌詞は、”春は名のみの風の寒さや。谷の鶯、うたは思へど。時にあらずと聲も立てず”で音は聲に変わっている。中田の曲は”時に”からの部分を、リフレイン(反復句)となっている。中田作曲の早春賦は1913年(大正2年)2月5日「新作唱歌」全10集として発表した中の一作で第三集に掲載され敬文館から発売された。
作詞した吉丸一昌は1873年、現・臼杵市海添に生まれた。大分中学卒~第五高等学校卒~東京帝大国文科卒~東京府立第三中学校に奉職後~東京音楽学校に奉職し国語を教えた。作詞に桃太郎、日の丸、池の鯉、かたつむり等々がある。

(※注1-2)「早春賦まつり)NHKが名曲アルバムを企画し早春賦の歌碑のある臼杵市へ問い合わせたところ臼杵市の元図書館長・高橋長一は「臼杵には雪は無いよ。早春賦の舞台は安曇野だよ」と返事した。昭和58年の春、NHKテレビで安曇野を背景にした「早春賦」が流れた。この放送がきっかけとなり、西川久寿男が主導し1984年(昭和59年)春、穂高川右岸の堤防に歌碑が建った。この年の4月29日から毎年、歌碑の前で早春賦の作詞者・吉丸一昌の長男と長男の妻と長男の娘、と中田章の二男で作曲家の一次、一次の妻・英子とともに章の四男・民夫とを迎えて「早春賦まつり」がおこなわれるようになった。1985年(昭和60年)からは、一次の長女・中田順子(ソプラノ歌手・二期会会員)が毎年出席している。2001年(平成13)4月9日一次が亡くなってからは一次の長男・基彦(中田音楽事務所社長)、吉丸一昌の孫・吉丸昌昭が出席するようになる。
「早春賦祭り」とはべつに、2004年(平成16年)に国営の「アルプスあづみの公園」ができ、翌年5月4日に市民参加型の「早春賦音楽祭」が開かれるようになった

(※注2-1)1916年(大正5年)紀州徳川家の第16代当主・徳川頼貞は楽堂の設計をサー・ブルメル・トーマスに依頼し、米人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(※注2-2)に建築を依頼した。1918年(大正7年)7月30日徳川頼貞・飯倉邸内(現・港区麻布飯倉6ー14、麻布小学校がある)に、日本最初の音楽ホール、座席数350名の南葵楽堂が完成した。2年後1920年(大正9年)春、イギリス製パイプオルガンが日本に到着し11月初旬に完成した。同年11月22日、そのお披露目音楽会第一日の招待日は、午後2時半開場、伏見宮貞愛親王はじめ多数の皇族方が出席された。初めにグスターヴ・クローン教授指揮・東京音楽学校管弦楽団によるベートーヴェンの「エグモンド序曲」、次いでベートーヴェンの交響曲第三番・英雄を演奏。三番目に東京音楽学校助教授・中田章がバッハ「ニ短調プレリュード」と、ライケルバーガーの「イ短調ソナタから間奏曲」を演奏した。これが日本初のパイプオルガン演奏だった。音楽会は第2日、第3日と続いた。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で南葵楽堂は被害を受け取り壊され、1928年(昭和3年)9月東京音楽学校にパイプオルガンは引き取られた。今も上野の旧奏楽堂にある

(※注2-2)ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories、1880年10月28日カンザス州レブンワースに生まれる。1900年イーストデンバー高校を卒業。コロラドカレッジ理工系課程に入学し、YMCA活動を開始する。1902年学生宣教義勇軍大会での講演に感激し、外国伝道への献身を決意する。1904年コロラドカレッジ哲学科卒業。コロラドスプリングYMCAの主事補。1905年滋賀県立商業高校英語教師として来日。1908年京都で建築設計監督事務所を開業する(後のヴォーリズ建築事務所)。1920年建築家のレスター・チェーピン、吉田悦蔵と3人で「ヴォーリズ合名会社」設立する。1918年結核療養所「近江療養院」(近江サナトリアム、現ヴォーリズ記念病院)開設1919年子爵令嬢一柳満喜子と結婚。結婚式は自らが設計した明治学院の礼拝堂で挙げた。1920年ヴォーリズ合名会社を解散し「W・M・ヴォーリズ建築事務所」および「近江セールズ株式会社」を設立。1930年母校コロラドカレッジよりLLD(名誉法学博士号)を受ける。1934年 「近江ミッション」を「近江兄弟社」と改称、また「湖畔プレス社」を設立する。1941年日本国籍を取得し、一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と改名。ヴォーリズ建築事務所を一柳建築事務所と改称する。1945年マッカーサーと近衛文麿との仲介工作をおこなう。1951年藍綬褒章を受章(社会公共事業に対する功績による)。また、「失敗者の自叙伝」を「湖畔の声」に連載(1957年まで)。1957年くも膜下出血のため、軽井沢で倒れ、療養生活に入る。1958年近江八幡市名誉市民第1号に選ばれる。1961年黄綬褒章を受章(建築業界における功績による)。1964年近江八幡市慈恩寺町元11の自邸(現ヴォーリズ記念館)2階の自室にて永眠。

中田喜直
3.1923年(大正12年)中田喜直は中田家の三番目の子供として東京都渋谷区景丘町23番地に生まれた。喜直は正しくは「ヨシタダ」と読む。父・章は自分の跡を継いで音楽家になるのは喜直だと生まれたときから考えていたようだ。喜直と名付けたのも「音楽にとって大切なのは、美しい音楽を素直に喜ぶ心だ」という思いからである。喜直が生まれたときは長兄・肇は一才の誕生日前に夭折していたので 兄弟は1921年(大正10年)生まれの次兄・一次(東京音楽学校卒、昭和音楽大学短期大学名誉教授、日本フィルのファゴット奏者、日本ファゴット協会会長を務めた作曲家・指揮者)、四男の民夫(教師)だった。母・こうは著名な日本画家・奥村土牛の従姉にあたる。幼少頃から兄・一次にピアノの手ほどきと和声学などを習う。父からは教わった憶えがないと喜直は語っている

1930年(昭和5年)4月、東京都渋谷区立加計塚小学校入学。小学校時代から恵比寿の豊沢教会に兄と一緒に通っていた

1931年(昭和6年)、小学校2年に進級し、父の教え子の畑玉吉について正式にピアノを習いはじめる。(畑からは一次や民夫もピアノを教わった)。11月27日、父の死。家作が何軒かあり自宅の二階に学生を下宿させたりして、中田家一家が生活するのに、とくに困ることはなかった

1932年(昭和7年)4月、小学校3年に進級するとき、畑玉吉が音楽教師として勤めている千代田区立番町小学校に転校。喜直にとって嬉しかったのは音楽の授業のときに、電気蓄音機でレコードをいい音で聴けることだった。後に日本児童図書出版協会から「はじめてあった本」と題する短いエッセイをたのまれたとき、” 私はこどもの時、本を読むのが大好きで、随分沢山読んだ。兄一次が買ってもらった「小学生全集」のイソップ、グリム、アンデルセン、の童話から、日本の童謡、クオレ、家なき子、小公女等があって、世界の名作は殆んど読むことが出来た。そしてその全集の中の一冊、西条八十編「日本童謡集」上級用が、私の生涯のもっとも重要な本になった ” と書いた

1933年(昭和8年)4月、三木露風の詩「静かな日」に初めて作曲(10才)

1934年(昭和9年)、小学校5年の夏休みの夏季学校で、上高地に行き穂高岳を見たり、焼岳に登った。後に山登り好きになった原点になる

1935年(昭和10年)、西条八十の詩「怪我」に作曲(12才)。映画「別れの曲」を見てショパンに夢中になりピアニストを志すようになる

1936年(昭和11年)3月、番町小学校卒業。4月、青山学院中等部入学。青山学院は毎日礼拝があり、讃美歌の伴奏を先生の代わりに弾くことがあった。中学時代は読書好き以外に、映画館に通い「未完成交響曲」「別れの曲」「乙女の湖」「たそがれのウィーン」「ル・ミリオン」「ワルツ合戦」「望郷」「早春」「ブルグ劇場」などを見たが、毎日レコードを聴き、ピアノも熱心に弾いた。日曜学校に大学で数学を教えている山田という先生がいて可愛がられた。山田はショパンのレコードをたくさん持っていて喜直を家に呼んでは、レコードを聴かせてくれた。音楽会にも連れて行ってもらいネオニード・クロイツァー、原智恵子、井上園子、相原千恵子、ヴァイオリニストの諏訪根自子といった演奏家を聴いている。この年の来日演奏家にはW・ケンプ、ジャック・ティボー、フォイマン、ピアテゴルスキー、シャリアピン、がいる。ナチスの迫害を逃れてジョセフ・ローゼンシュトックが来日し新交響楽団(N饗の前身)の指揮者になったのもこの年

1937年(昭和12年)4月、一級下に團伊玖磨が入学。この年の来日演奏家にはヴィノグラードフ、ミッシャ・エルマン、指揮者ワインガルトナー等がいる

1939年(昭和14年)11月8日、喜直は日比谷公会堂の新響定期公演で井上園子がローゼンシュトック指揮でチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲」を演奏したのを一番前の席で聴いている。この日のプログラムは他に、ロッシーニの「泥棒かささぎ」、ヒンデミットの「交響的舞曲」、R・シュトラウスの「死と浄化」であった。喜直の中学時代は山田先生が買ってくれた楽譜を見て、コルトーやルービンシュタインの名演奏を毎週聴き、ショパンの代表的作品は全部頭と心に刻み込まれた。山田先生のおかげである。喜直は青山学院に通いながら週に二度、東京音楽学校に附属して創られた上野児童音楽学園という音楽教室に通い週一でピアノのレッスンを金子昇に受けた。父が亡くなって家が裕福ではなかったので、5年卒業で音楽学校に入るのでは経済上困るので、4年から入って欲しいという母の強い願いがあったのは、多分この頃であろう

1940年(昭和15年)、青山学院中等部4年終了。4月、東京音楽学校(現・東京藝術大学)本科器楽科(ピアノ専攻)に入学し、レオ・シロタにつくことになったが、一度レッスンを受けただけで上級生からクレームがついて、田中規矩士に変わり2年間師事した。声楽科の生徒たちは、歌のレッスンを受ける時は伴奏してくれるピアニストが必要だった。喜直が伴奏を頼まれたことがメロディと伴奏の関係を学ぶことにつながっていった。堀口大学作詞「夕逍遥」作曲。歌曲の作曲に関しては同期で入学した声楽科の畑中良輔に詩の面で教わることが多かったと語っている

1941年(昭和16年)4月、2年に進級。ある日、憧れていた一級上の石井好子から「私の伴奏をして下さらない?」と声を掛けられ伴奏をすることになったが、男性の伴奏者は学校にとって賛成ではなかったらしく数ヶ月で藤枝和子(後の團伊玖磨夫人)に代わる。9月「音楽は軍需品なり」ということから、東京と近県在住の音楽家2000名を隊員とする「音楽挺身隊」が結成され、隊長に山田耕筰が就任した。喜直たち音楽学校の生徒たちも、学校に行って授業を受けるよりも、軍事訓練や勤労動員で軍需工場に通う日が多くなった

1942年(昭和17年)、3年進級し、豊増昇に師事。8月満州建国10周年記念行事に音楽使節として演奏旅行を全校あげて満州まで行き、各地で20数回の演奏会を開き好評であった。大連に向かう船の中で歌人の中河与一に会う。その縁で東京に帰ってから、みんなで成城の中河邸に行くようになり家族のみんなと知り会うようになる。その後、手が小さかった喜直はピアニストになるのを諦め、作曲家になろうと決意する

1943年(昭和18年)春、徴兵検査を受ける。夏、兄一次と二人で山中湖に行き、石井家の別荘に招待され石井京・好子の姉妹と夕食をともにした。陸軍の「特別操縦見習士官」の試験を受け、審査官の「音楽をやっているのか。珍しいな、やってみるか?」の一言が合格を決めた。9月23日から3日間の卒業演奏会が行われ、喜直はショパンの「ピアノ・ソナタ」第3番ロ短調作品58を演奏した。25日には半年繰り上がって卒業証書を渡され同校卒業。9月30日恩師・豊増昇や金子登の見送りを受けて上野駅を発ち10月1日、宇都宮陸軍飛行学校の磐城分校に入隊し「見習士官」になった。10月21日に明治神宮外苑競技場では「出陣学徒壮行会」が行われた。学生・生徒の徴兵猶予の特権が停止され、文科系の学生は全員兵役に就くことになった。東京と近県77校の出陣学徒3万5千人を家族ら6万5千人が雨の中で見送った。兵役法施行規則等が改正になり、中高年も徴兵されることになった。陸軍飛行学校に入隊した喜直は上官に恵まれた。篠原新吉という区隊長は温かく思いやりの心を持つ人格者だった。妻の幸子の話によると、後年、喜直たちは篠原区隊長を囲んで毎年、同期会を開き、喜直はそれに出席するのをとても楽しみにしていたそうである。喜直は入隊8日後に「赤とんぼ」といわれた飛行機に乗った。およそ2か月後の11月29日には早くも最初の単独飛行を行った。約6週間、基本の離着陸、特殊飛行、編隊訓練まで全ての技術を学んだ。次に機種別訓練が始まり、喜直は爆撃機を選び、爆撃機のある浜松に行き、九七式重爆撃機に乗って実践的な訓練を受けた。

1944年(昭和19年)3月、訓練が終わり宇都宮陸軍飛行学校卒業。陸軍少尉に任官。10月8日、家に立ち寄って翌9日に結婚式を挙げる兄・一次に祝の言葉を述べ、祖母タツを見舞い、慌ただしく家を発つ。戦地への配属は、フィリピンの第四航空軍司令部付きという命令が下り、フィリピン行きが決まった。黒塗りの特攻機で嘉義飛行場に着くと音楽学校の先輩・テノールの柴田睦陸が上等兵でいた。5人で指令室に挨拶に行くと司令官の富永中将が「君たちには特攻隊として、大いに頑張ってもらいたい」と言った。ところが事務室に呼ばれて行くと「君たちは特攻ではないよ」と言われた。喜直が「命の大切さ」を心底から自覚したのは、このときだと。「無期懲役と死刑の差もこのように大きく、後に私は死刑廃止論に強い反対の気持ちをもつようになった」と後年になって語っている。フィリピンでの喜直たちの任務は各地に駐屯している部隊にマニラからの命令や連絡を持って行き、伝えることだったが毎日司令部勤務で戦闘に参加することなく過ごした。そのうち、喜直は飛行第一四戦隊(陸軍重爆撃機隊の最強部隊として勇名を馳せた歴戦の部隊)に配属が決まりマランで合流したが、戦闘続きで人員も機材も消耗したため、しばらく休養することになり、喜直も休養の仲間入りをした。10月20日アメリカ軍がフィリピンのレイテ島に上陸、レイテ沖海戦が始まり神風特別攻撃隊が初出動した。喜直がジャワに向けてフィリピンを発って一カ月も経たない頃であった。マニラに残っていた操縦士は全員特攻隊員となった。たった一ヶ月の差が喜直の明暗を分けた

1945年(昭和20年)2月、サイパン島の米軍基地を攻撃する長距離爆撃隊を編成するために日本へ帰国し東京の家に戻った。直ぐに茨城県水戸飛行場へ、さらに群馬県新田飛行場へ移動し訓練を続けた。5月23日の空襲で恵比寿の自宅全焼。8月15日終戦となり「兵隊は帰れるが、将校は銃殺されるらしい」という噂が広まり、8月16日喜直は母親、兄・一次、恩師・豊増昇、友人・山田正次等4人宛ての遺書を書いた。8月下旬自宅に戻る。東京近郊に連合軍の基地ができクラブが設けられた。そこでは兵士を慰安するための音楽が必要で、毎晩ジャズやタンゴなどを日本人バンドが演奏していた。喜直はアルバイトをすることにし、ピアノが弾けたので仕事はいくらでもあった。会社員の月収が300円位のとき、喜直の収入は10倍の3000円もあった。

1946年(昭和21年)1月中古のピアノを2000円で買ったと語っている。仕事は夜が遅いので、昼間は作曲をすることにした。喜直は畑中良輔と一緒に若手作曲家グループ「新声会」に入会した。メンバーに柴田南雄、入野義郎、別宮貞雄、戸田邦雄、石桁真禮生、宮城衛らがいた。7月14日、文部省試写室にて開かれた、新声会第三回試演会で作曲したピアノ曲「バラード一番」を出品し自身で演奏した。これが作曲家デビュー作となる。恩師・豊増昇に献呈された

1947年(昭和22年)5月10日、父・章が購入していた三鷹市上連雀の土地に、兄・一次が家を新築し母、弟と転居。7月5日新声会第五回試演会で代表作となる「六つの子供の歌」(注3)を発表、初演したのはソプラノ畑中更予。川端康成も来ていて「中田さんはすばらしい歌を書かれましたね」と称賛してくれた。この曲は日本歌曲の新しい方向を示すものとして注目を集め、高い評価を得た。この歌は柴田南雄によって楽譜集が作られ東京音楽書院から出版された。この頃より本格的に作曲活動とピアノ伴奏者としての演奏活動をはじめる。「すずしきうなじ」「みみずく」合唱曲「7つのフランスの子供の歌」など代表作を作曲
(※注3)昭和33年8月NHKが日本歌曲の埋もれた名曲を発掘する企画をたて、選考委員を有馬大五郎、伊藤武雄、大島正泰、木下保、内田るり子、野村光一、畑中良輔、増沢健美、山根銀二、四谷文子の10人の音楽家・評論家に委嘱し、日本の現代作曲家60名(山田耕筰・信時潔を除く以後の作曲家)の歌曲作品の中から、アンケート形式で推薦を求めた。その結果24作品が選ばれ、さらに決選投票の結果ベスト20を決定した。これは特集番組「現代日本の歌曲、ベスト20」として3回にわたって放送された。ここで第一位に選ばれたのが、中田喜直の「六つの子供の歌」である。一位から五位までの中に、もうひとつ、中田作品が入っている。
第一位 中田喜直「六つの子供の歌」ソプラノ歌手・伊藤京子が歌った
第二位 橋本国彦「斑猫」
第三位 平井康三郎「平城山」
第四位 柴田南雄「優しき歌」
第五位同点八作品 伊福部昭「ギリヤーク族の古き吟誦歌」、宅孝二「女の24時間」、團伊玖磨「五つの断章」・「美濃人」・「ひぐらし」、中田喜直「木兎」、箕作秋吉「非歌」、服部正「野の羊」

1948年(昭和23年)9月、中田25才。毎日ホールで第一回作品発表会・ピアノリサイタル開催。この時「六つの子供の歌」は東京音楽学校教授で声楽界の大御所的な存在だった浅野千鶴子が歌った。リサイタルは好評だった。混声合唱曲「午後の庭園」、女性合唱曲「秋のうた」無伴奏混声合唱曲「多感」、男声合唱曲「焚火」など作曲

1949年(昭和24年)10月、中田26才。第18回日本音楽コンクール(NHK・毎日新聞社共催)作曲部門(室内楽曲)で「ピアノ・ソナタ」が第二位入賞。演奏したのは音楽学校同期の田村宏であった。田村は音楽学校入学前から天才といわれていた。この時の第一位は一柳慧、第二位中田喜直、第三位宇賀神光利であった。ちなみに管弦楽曲部門の第一位石井歓、第二位入野義朗、第三位戸田邦雄で、六名中三名が「新声会」の同人であった。11月新声会が第一回毎日音楽賞を受賞(※注4)。NHKの「ラジオ歌謡」として依頼され「夏の思い出」作曲。「夏の思い出」作詞者の江間章子(注5)は、昭和21年疎開先から東京に帰ってきた詩人。NHKに呼ばれて「ラジオ歌謡」の作家陣に加わるよう依頼され、さっそく何編か書いた。昭和24年の春にまた依頼がまわってきた。このとき、戦争中の昭和19年に訪れた群馬県の片品村を思い出し、水芭蕉の咲く尾瀬を舞台に「夏の思い出」と題する一編の詩をまとめた。水芭蕉は彼女の育った岩手県平館村の岩手山のふもとにも、可憐な群生を見せていた。彼女の頭のなかに故郷と尾瀬の二つの情景が重なった。この「夏の思い出」をNHKは新進作曲家として活躍を始めた喜直に白羽の矢をたてた。江間と中田は面識もなく、尾瀬にも行ったことがなかった。喜直が尾瀬に行ったのは40年後の平成2年のことであった
(※注4)昭和61年この時の「新声会」毎日音楽賞受賞について、当時を振り返って中田は「ベートーヴェンやショパンを弾くより、新しい曲を作ることが一番大切で、それを評価してくれた事が大事だ。いまポピュラーが盛んでクラシックは押され気味だ。それは創作を無視しているからだ。歌だけがたまに日本の曲をやるぐらいで、オーケストラにしても外国の昔の曲ばかり演奏している。合唱がものすごく盛んになったのは、どんどん新しい曲を創ったからだ。ポピュラーは殆どが新作である。だから盛んなのだ。沢山作るから名曲が残るのだ」(「教育音楽」昭和61年8月号、中山久民「春は名のみの‥‥早春賦の系譜」より要約(牛山剛著「夏がくれば思い出す」より引用)
(※注5)江間章子・詩人は、1913年(大正2年)新潟縣高田市で生まれた。1915年(大正4年)父が急死すると、岩手県平館村の母の実家に移る。1925年(大正14年)12才静岡県に転居し、静岡高等女学校に入学。1930年17才、東京駿河台女学院入学(現・東京YMCA学院)。代表作「夏の思い出(作曲・中田喜直)」、「花の街(作曲・團伊玖磨)」。世田谷区の名誉区民。岩手県西根町の名誉町民、群馬県片品村名誉村民

1950年(昭和25年)中田27才。この頃よりNHKから放送劇等の伴奏音楽の仕事が増え始める。NHK「歌のおばさん」から委嘱を受け関根栄一作詞の「いたずらすずめ」を作曲(昭和26年3月放送)。同じく秋に茶木滋作詞「めだかの学校」を作曲(昭和26年1月放送)

1951年(昭和26年)1月、文学座研究生の高橋浄子と結婚し25日練馬区豊玉に引っ越す。サトウハチロー作詞「かわいいかくれんぼ」作曲。サトウハチローはこのとき作曲を誰に頼もうかと探していた、” 堀内敬三さんが中田喜直さんはどうか ”とハチローに言ったという。それ以来、サトウハチローに気に入られ二人のコンビが始まり100曲以上を作ることになった。昭和24年にNHKで始まった内村直也作の「えり子とともに」の音楽は芥川也寸志が担当していたが主演のある女優との仲が噂され交代となり、喜直が音楽担当になったばかりの時の暮れのリハーサルのある日、台本が短かったため、二、三分の空白が出てしまった。台本を書いていた内村は空白を埋めるための窮余の策として、歌を作って流すことにした。内村はその場で歌詞を書いて、喜直に曲をつけてくれるように頼んだ。スタジオで内村から歌詞を受け取った喜直は、すぐにその場で30分位の時間でメロディをつけて曲を書き下ろした。それが「雪の降る街を」である。番組で歌ったのは阿里道子と南美江の二人だった。歌詞は一番だけだったのを、喜直は内村にアドバイスしながら二番以降の歌詞を完成させ、昭和28年2月、パリ帰りのシャンソン歌手、高英雄がNHKの「ラジオ歌謡」で歌って評判になった。サハリン出身の高は、楽譜を見て「雪におおわれた故郷を思って歌った」という。この「雪の降る街を」は山形県鶴岡市で毎年2月に開かれている「鶴岡音楽祭」で舞台と客席がひとつになって全員で歌っている。この音楽祭の始まった昭和61年から喜直は毎年特別ゲストとして招かれている。鶴岡音楽祭の基礎をつくり、喜直と鶴岡を結びつけたのは、鶴岡市勝福寺に住んだ菅原喜兵衛である。音楽好きで戦後、東京から多くの音楽家を招いて音楽会を開いた。その一人に喜直がいた。喜直が初めて鶴岡を訪れたのは終戦の翌年。昭和21年だった。それ以来、喜直は毎年鶴岡を訪れ、ピアノの演奏や歌手の伴奏をした。市内の小学校の校歌を頼まれ、発表会のために喜直が鶴岡に来たのは、雪の積もった白一色の、小雪の舞う冬の夜、出迎えた菅原が引く馬ぞりに乗った喜直がその情景を憶えていて、「雪の降る街を」の曲を作りながら頭のどこかに、この情景を思い浮かべながら作曲したとしても不思議はないだろう。この歌が評判になったとき、「あの夜をイメージして作曲したのではないですか」と聞く菅原に、喜直は「そう思ってくれるなら、それでいいんです」と答えた。この一言によって鶴岡は「雪の降る街を」の発想の原点の地となり、JR鶴岡駅前のロータリーに記念の歌碑が、モニュメントが鶴岡公園に建っている。平成11年「鶴岡音楽祭」は前年に亡くなった菅原追悼の音楽祭となった。鶴岡市の「大宝館」には喜直が使っていたピアノやスキー用具、メガネ、万年筆、時計、自筆の楽譜などをガラス・ケースに収めた中田喜直のコーナーがある

1952年(昭和27年)4月5日、武蔵野市御殿山の借地に自宅を新築

1953年(昭和28年)29才、4月フェリス女学院短期大学専任講師(音楽理論担当)。フェリスのこの時の生徒数は、一、二年併せて34名、音楽家の教師は24名で、三宅洋一郎(ピアノ)、大宮真琴(音楽評論)、伊藤武雄(声楽)、入野義郎(作曲)、奥田耕天(オルガン)、田中規矩士(ピアノ)、團伊玖磨(作曲)、遠山一行(評論)、豊増昇(ピアノ)、針生一郎(芸術史)、前田幸市郎(指揮)、三宅春恵(声楽)、山田一雄(指揮)、山木康(キリスト教音楽)等がいた

1954年(昭和29年)妻・浄子と離婚。12月、フェリス女学院短期大学助教授(和声学担当)

1955年(昭和30年)7月「自分たちが創りたい歌」を作ろうという主旨で磯部俶、宇賀神光利、中田一次、大中恩、等と「ろばの会」結成。12月13日、歌曲集出版記念演奏会をヤマハホールで開催。童謡作品集「かわいいかくれんぼ」が野ばら社から出版され、童謡作曲家・中田喜直の名前が世間に知られるようになった。この頃の童謡の世界の詩人では、サトウハチロー、まど・みちお、佐藤義美、関根栄一、藤田圭雄、野上彰。作曲では團伊玖磨、芥川也寸志、山口保治、平岡照章、伊藤翁助がいた

1956年(昭和31年)「新しいこどものうた」第一集が刊行された。そのなかにサトウハチロー作詞・中田喜直作曲「小さい秋みつけた」などがあった。11月、プロの女声合唱団「フェリス女声合唱団(後の日本女声合唱団)」の第一回演奏会が神奈川県立音楽堂で開催され、プログラムに喜直の合唱曲が三曲含まれていた。「フェリス女声合唱団」の活躍に合わせて喜直の合唱曲、特に女性合唱曲の作品は多くなっていった。この女声合唱団は1994年(平成6年)8月創立者の三宅洋一郎が亡くなり日本女声合唱団は解散した

1957年(昭和32年)9月27日銀座のガスホールで「ろばの会」第一回公演が開催された。山田耕筰、信時潔、堀内敬三、サトウハチローはじめ多くの作曲家、詩人、評論家、歌手たちがお祝と激励の言葉を寄せた。出演したのは安西愛子、松田トシ、水上房子、友竹正則、池田綾子、池田智恵子、伴久美子、小保内恭子らであった。第二回以降、新作発表会には、伊藤京子、友竹正則、岡村喬生、眞理ヨシコ、中野慶子、中川順子、中田順子、高木淑子、ダーク・ダックス、ポニー・ジャックス、ヴォーチェ・アンジェリカ、コール・Meg、フレーベル少年合唱団等多数の歌手が出演した。友竹正則はこの出演がきっかけとなりNHKから声がかかり、「歌のおじさん」として活躍を始めるようになる。ある日の「ろばの会」合評会に喜直が、助教授しているフェリス女学院短大の学生を連れて来て、まど・みちお作詞、中田喜直作曲の「ハンカチの歌」を連れてきた学生・中島幸子(フェリス女学院2年・後の中田喜直夫人)に歌わせた。三年後に喜直はこの女性・中島幸子と再婚する。音楽之友社から「実用和声学」出版。12月5日、中田喜直作品演奏会を読売ホールで開催した。女声合唱曲はフェリス女学院合唱団が歌った

1958年(昭和33年)「ろばの会」の音楽物語「チュウちゃんが動物園へいったお話」を文部省主催の芸術祭参加作品として、キング・レコードから発売した。このLPはその年の芸術祭賞(芸術祭大賞)を受賞した

1960年(昭和35年)伊藤京子の歌う中田喜直歌曲アルバム「六つの子供の歌」他が芸術祭奨励賞を受賞。アルバム「ゆうらんバス」がレコード大賞童謡賞を受賞。10月18日、赤坂プリンスホテルで三宅洋一郎・春恵夫妻の媒酌で中島幸子と結婚式を挙げた

1961年(昭和36年)「ろばの会」が作曲したアルバム「東京のうた」が芸術祭奨励賞を受賞

1962年(昭和37年)「ちいさい秋みつけた」がレコード大賞童謡賞を受賞。10月、社団法人日本作曲家協会理事に就任(1994年迄)。11月27日、中田喜直「合唱曲の夕」演奏会を読売ホールにて開催。12月4日、中田喜直「ピアノ曲の夕」演奏会を開催。12月11日、中田喜直「歌曲の夕」演奏会を開催

1963年(昭和38年)5月7日、木下保研究発表会による中田喜直「歌曲の夕」演奏会を御堂会館で開催。女性合唱組曲「美しい訣れの朝」で芸術祭奨励賞を受賞。

1964年(昭和39年)混声合唱組曲「昇天」で芸術祭奨励賞を受賞。11月、フェリス女学院短期大学音楽科教授に昇任

1965年(昭和40年)10月、社団法人日本音楽著作権協会理事に就任(1995年迄)。女性合唱組曲「みえないものを」で芸術祭奨励賞を受賞

1966年(昭和41年)7月11日朝6時に母・こうが脳出血で亡くなる。混声合唱とピアノのための組曲「都会」で芸術祭奨励賞を受賞

1967年(昭和42年)女声合唱組曲「北の歌」で芸術祭奨励賞を受賞

1968年(昭和43年)5月3日、戸塚カントリー・ゴルフクラブに近い横浜市旭区柏町へ新築転居

1969年(昭和44年)4月サトウハチロー、古関裕而、中田喜直等、童謡を作る詩人や作曲家等で日本童謡協会が設立され理事に就任。女声合唱組曲「蝶」で芸術祭優秀賞を受賞

1970年(昭和45年)中田喜直歌曲全集のレコードで芸術祭優秀賞を受賞

1971年(昭和46年)混声合唱組曲「ダムサイト幻想」で芸術祭優秀賞を受賞。第一回日本童謡賞功労賞を受賞。10月27日東京都港区赤坂に(有)ナカダ音楽事務所を設立

1972年(昭和47年2月、札幌冬季オリンピック閉会式のテーマソング「別れの歌」を作曲、作詞サトウハチロー

1973年(昭和48年)10月2日中田喜直「合唱の夕」、11月6日中田喜直「歌曲の夕」、12月4日中田喜直ピアノ曲の夕」をイイノホールで公演。5日青山葬儀場でサトウハチローの葬儀が行われた。参列者全員でサトウハチロー作詞・中田喜直作曲の「夕方のおかあさん」を歌って、サトウの霊に捧げた。喜直がピアノを弾いた

1974年(昭和49年)3月スキー仲間とフランスへ。中田喜直の音楽「こどものうた百曲選集」がLP発売

1975年(昭和50年)久留島武彦文化賞を受賞。第五回日本童謡賞をアルバム「こどもの歌100曲集」で受賞

1977年(昭和52年)横浜文化賞を受賞。テレビ朝日番組審議委員に就任(1986年迄)

1978年(昭和53年)第八回日本童謡賞を受賞

1979年(昭和54年)6月23日~30日、ピアノ・コンペティション審査及び自作品展示のため渡米。8月、東京都港区六本木に事務所移転。10月サトウハチローの死後、数年間空席だった日本童謡協会・会長に喜直が第二代会長として就任

1980年(昭和55年)11月「ろばの会」結成25周年記念コンサートを渋谷公会堂で開催。禁煙運動に力を入れるようになる

1981年(昭和56年)2月仕事で北海道に行き、旭川ですすめられ念願だったスキーの一級資格の検定試験を受け合格する。神奈川文化賞受賞。「ろばの会」が第16回モービル児童文化賞を受賞

1982年(昭和57年)5月31日中田喜直「合唱曲の夕」演奏会を都市センターホールで公演

1983年(昭和58年)5月日本作曲家協議会理事就任。12月2日リレー・コンサート「コラールメッセージ83」が練馬文化センターホールで開催された。反核を主張する中田喜直はじめ50数名の音楽家が呼びかけ人になって、核兵器廃絶のために始めた

1984年(昭和59年)7月1日「赤い鳥」創刊の日(※注6)が「童謡の日」に決める
(※注6)鈴木三重吉は小説家・児童文学者で日本の児童文化運動の父とされる人。1918年7月1日に創刊した童話と童謡の児童雑誌「赤い鳥」。創刊号には芥川龍之介、有島武郎、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子、徳田秋声らが賛同の意を表明した。1918年11月号に西条八十の童謡詩として掲載された「かなりや」に、成田為三の作曲した楽譜の付いた童謡が、翌1919年5月号に初めて掲載された。この楽譜掲載は大きな反響を呼び音楽運動として評判となった。以後、毎号歌としての童謡を掲載され、そののち多くの童謡雑誌が出版されることになった。雑誌「赤い鳥」は1936年8月廃刊

1985年(昭和60年)7月1日「童謡の日」コンサート開催。テーマ・ソング「いま生きる子どもマーチ」が発表された。兵庫県龍野市(現・たつの市)が「赤とんぼ」の作詞者・三木露風の出身地であることから龍野を「童謡の里」と決める

1986年(昭和61年)紫綬褒章受章

1988年(昭和63年)4月、神戸山手女子短期大学講師に就任。「中田喜直 童謡名曲選(104曲)」CD発売

1989年(平成元年)4月23日~5月2日、自作品コンサートのためブルガリアへ行く。第一回サトウハチロー賞を受賞

1990年(平成2年)4月、フェリス女学院大学音楽学部教授に就任。4月23日~5月1日、日本女性合唱団の指導と演奏会出演のため渡米

1993年(平成5年)3月4日午後から苗場のリゾート・マンションへ行きスキー場ですべる。フェリス女学院大学音楽学部の定年を迎え退職した。6月25日~30日「日本のうた中田喜直を歌おう」演奏会のためハワイへ。10月フェリス女学院大学音楽学部名誉教授就任

1994年(平成6年)11月14日、中田喜直コンサート(歌曲・童謡集出版記念)をカザルスホールで公演。随筆集「音楽と人生」を上梓

1995年(平成7年)NHK放送文化賞を受賞。苗場にリゾート・マンション購入し暮れから正月にかけてスキーをして過ごすようになる

1998年(平成10年)8月1日、「中田喜直の宇宙」(作曲生活50周年記念コンサート)を津田ホールで公演。身体に異変を感じ、9月慶応病院に入院し直腸がんと診断され、直ぐに手術

1999年(平成11年)再発し5月再入院し二回目の手術。10月、ウィーン国立音楽大学の招きで、中田作品についてシンポジウム、公開講座、歌曲やピアノ作品のコンサートが開かれた。ウィーンではカラヤン・センターで、ケルンでは日本文化会館で「20世紀末の日欧音楽の変遷と展望」題して講演し、喜直の作品が演奏された。曲目は「ピアノ・ソナタ」、「六つの子供の歌」などで、喜直自身もピアノを弾き、他にソプラノ歌手の大島富士子(ウィーン)、釜洞祐子(ケルン)、バリトンの谷口伸、ピオノの森美加が出演した。日本音楽著作権協会60周年特別賞を受賞

2000年(平成12年)3月25日「結成45周年・ろばの会さよならコンサート」を日比谷公会堂にて開催。岡村喬生、ボニー・ジャックス、眞理ヨシコ、中野慶子、中田順子、大和田りつこ、岡崎裕美、松倉とし子などが出演した。「ろばの会」解散。4月5日急性肺炎で慶応病院に入院。5月3日午前2時40分眠るように息をひきとった。遺体は午後、横浜の自宅に戻った。5月5日密葬。5月23日東京・青山葬儀場で中田家と社団法人日本童謡協会による音楽葬が行われた。献花したのは十数名の歌手、合唱団、声楽家の畑中良輔、詩人の阪田寛夫等2000名を越えた。日本レコード大賞・日本作曲家協会功労賞を受賞。この年から「かながわ音楽コンクール」ユース・ピアノ部門で法人作曲家の作品を最も印象的に演奏した若いピアニストに「中田喜直賞」が贈られるようになった

2002年(平成14年)この年から「奏楽堂日本歌曲コンクール」に歌唱部門で優勝した声楽家に大賞とともに「中田喜直賞」が贈られるようになった

2004年(平成16年)7月、河口湖ステラシアターで富士国際音楽祭「中田喜直メモリアル・花とふれあいの合唱祭2004夏」が開催された

2006年(平成18年)この年から「奏楽堂日本歌曲コンクール」に作曲部門に一般の部とは別に新たに「中田喜直賞の部」が設けられた

4.主な作品

1.歌曲・童謡・放送歌謡など
 ≪六つの子供の歌≫〔1.うばぐるま、2.烏、3.たあんき ぽーんき、4.風の子供、5.ねむの木、6.おやすみ〕
 ≪歌曲集「海四章」>
 ≪マチネ・ポエティクによる四つの歌曲≫〔1.火の鳥、2.さくら横ちょう、3.髪、4.真昼の乙女たち〕
 ≪二人のモノローグによる歌曲集≫「木の匙」
 ≪夏の思い出≫
 ≪雪の降るまちを≫
 ≪心の窓にともし灯を≫
 ≪君よ八月に熱くなれ≫
 ≪かわいいかくれんぼ≫
 ≪あひるの行列≫
、≪めだかの学校≫
 ≪バナナのうた≫
 ≪夕方のおかあさん≫
 ≪わらいかわせみに話すなよ≫
 ≪ちいさい秋みつけた≫
 ≪さわると秋がさびしがる≫
 ≪手をたたきましょう≫(編曲)
 歌曲集≪魚とオレンジ≫〔1.はなやぐ朝、2.顔、3.あいつ、4.魔法のリンゴ、5.艶やかなる歌、6.ケッコン、7.祝辞、8.らくだの耳から(魚とオレンジ)〕

2.器楽曲
 ≪小さなヴァイオリニスト≫(ヴァイオリン・ピアノ)
 ≪フルートとピアノのための「日本の秋の歌」≫
 ≪2台のピアノのための音楽「無宗教者の讃美歌」≫
 ≪2台のピアノのための「軍艦マーチによるパラフレーズ」≫
 ≪雨の夜に≫(ピアノ)
 ≪ピアノ・ソナタ≫
 ≪ピアノのための組曲≫「光と影」
 ≪ピアノのための組曲≫「時間」
 ≪四手連弾のための組曲≫「日本の四季」
 ≪子どものための8手連弾ピアノ曲≫「日本ふうのメロディーによる主題と変奏曲」

3.合唱曲
 混声合唱曲集「午後の庭園」
 混声合唱組曲「海の構図」
 混声合唱組曲「昇天」
 合唱組曲「おかあさんのばか」(混声・男声・女声版あり。磯部俶との共作)
 混声合唱とピアノのための組曲「都会」
 女声合唱とバリトンソロ・管弦楽のためのカンタータ「新しい山河」
 女声合唱組曲「美しい訣れの朝」
 女声合唱組曲「蝶」
 朝のうた(第17回NHK全国学校音楽コンクール小学校の部課題曲)
 祭りの宵(第19回同小学校の部課題曲)
 美しい秋(第33回同中学校の部課題曲)
 心の馬(第50回同中学校の部課題曲)

5.その他

著書

1. 実用和声学(音楽之友社、1957年)
2. メロディーの作り方(音楽之友社、1960年)
3. だれでも弾けるやさしい伴奏(音楽之友社、1986年)
4. 音楽と人生(音楽之友社、1994年)
5. 中田喜直住居跡モニュメントは東京都渋谷区恵比寿4-16-9。2009年ここに中田喜直の住居跡に隣接して「景丘ちいさい秋公園」が整備された
  渋谷区立 景丘ちいさい秋公園(中田喜直住居跡) – 恵比寿 – 0個のTips
http://ebisufan.com/news/中田喜直.html/
6. 2010年6月26日開催の中田喜直生誕90周年を記念セレモニーにて東京都立井の頭恩賜公園内に「中田喜直記念歌碑」が建立公開された
  ちいさい秋みつけた 作曲家・中田喜直氏の記念歌碑 … – 武蔵野市観光機構

♪ちいさい秋みつけた♪ 作曲家・中田喜直氏の記念歌碑(井の頭公園)


7. JR三鷹駅開業80周年記念したイベントの一環として、地元に縁のある作曲家・中田喜直(1923-2000)の代表作、童謡「めだかの学校」が2010年6月26日から同駅の発車メロディーに
使用されている…
JR三鷹駅-ご当地駅メロディー資料館-ご当地メロディー
http://7-pref.com/gotochi_mitaka.htm

6.初演

7.関連動画

1.中田章 作曲 

早春賦

2.中田喜直 作曲

夏の思い出

ねむの花

よみがえる光 合唱:西南女子学院高校音楽部

霧と話した

六つの子供の歌より 風の子供

六つの子供の歌より おやすみ

六つの子供の歌より たあんきぽーんき

六つの子供の歌より うばぐるま

六つの子供の歌より ねむの木

六つの子供の歌より 鳥

くりやまの歌

こだまでしょうか

「ほしとたんぽぽ」より たいりょう

「ほしとたんぽぽ」より みんなすきに

ピアノ曲

小さい秋見つけた
福岡鮮鶴合唱団

雪の降る街を

めだかの学校

心の窓に灯を

べこの子うしの子

別れの歌(札幌冬季五輪閉会式テーマソング)

参考文献:「夏がくれば思い出す(評伝 中田喜直)」牛山剛著 新潮社 随筆集「音楽と人生」中田喜直著 音楽之友社 「クラシック作曲家辞典」中河原理監修、フェニックス企画編 東京出版堂 「音楽史(音楽講座)」堀内敬三著 音楽之友社 「音楽文庫・日本音楽史」伊庭孝著 講談社 「wikipedia」 https://ja.wikipedia.org/wiki/中田喜直 https://ja.wikipedia.org/wiki/中田一次 https://profile.ne.jp/w/g-8262/ http://www.kinet.or.jp/akazawa/ https://ja.wikipedia.org/wiki/吉丸一昌 http://www.chohoji.or.jp/tokugawa/raitei_gakudou.htm 「江戸東京年表」吉原健一郎・大濱徹也編 小学館 「日本史・世界史 同時代比較年表」楠木誠一郎著 朝日新聞出

生年代:1923年 大正12年

没年代:2000年 平成12年

日本の元号:大正~昭和~平成

時代:大正・昭和・平成