中田喜直


生没年・出身地・歿地・墓地
中田喜直
NAKADA, Yoshinao
Alias 通称 NAKADA, Yoshinao
Real name正式 NAKADA, Yoshitadaなかだ よしただ

(1923年8月1日東京都渋谷区影丘町生)
(2000年5月3日入院先の慶応病院で没)

Birth place:Tokyo Japan
Date of Birth:1/8/1923

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1.職業


日本の作曲家

【楽歴】
1943年9月25日東京音楽学校本科器楽科(ピアノ専攻)繰り上げ卒業
1953年フェリス女学院短期大学専任講師(音楽理論担当)
1954年同大助教授
1964年同大教授
1971年東京都港区赤坂に(有)ナカダ音楽事務所を設立
1988年神戸山手女子短期大学講師
1993年フェリス女学院大学音楽学部定年、10月同大名誉教授
師事:豊増昇、金子登、畑玉吉(小学生の頃)

【関係団体・受賞(章)歴】
1946年若手作曲家グループ「新声会」会員
1955年磯部俶、宇賀神光利、中田一次、大中恩、等と「ろばの会」結成
1962年社団法人日本作曲家協会理事
1965年社団法人日本音楽著作権協会理事(1995年迄)
1977年テレビ朝日番組審議委員
1979年日本童謡協会会長
1983年日本作曲家協議会理事
1949年第18回日本音楽コンクール(NHK・毎日新聞社共催)作曲部門(室内楽曲)で《ピアノ・ソナタ》第二位入賞
1958年NHK「現代日本の歌曲、ベスト20」第一位《六つの子供の歌》及び五位《木兎》選ばれる
1960年歌曲アルバム《六つの子供の歌》文部科学省芸術祭奨励賞受賞。アルバム《ゆうらんバス》レコード大賞童謡賞を受賞
1962年《ちいさい秋みつけた》レコード大賞童謡賞受賞
1963年女性合唱組曲《美しい訣れの朝》文部科学省芸術祭奨励賞受賞
1964年混声合唱組曲《昇天》文部科学省芸術祭奨励賞受賞
1965年女性合唱組曲《みえないものを》文部科学省芸術祭奨
1966年混声合唱とピアノのための組曲《都会》文部科学省芸術祭奨励賞受賞
1967年女声合唱組曲《北の歌》文部科学省芸術祭奨励賞受賞
1969年女声合唱組曲《蝶》文部科学省芸術祭優秀賞受賞
1970年《歌曲全集》レコード芸術祭優秀賞受賞
1971年日本童謡功労賞
1975年久留島武彦文化賞、第五回日本童謡賞をアルバム《こどもの歌100曲集》で受賞
1977年横浜文化賞を受賞
1978年第八回日本童謡賞受賞、神奈川県文化賞受賞
1989年サトーハチロー賞
1995年NHK放送文化賞を受賞
1999年日本著作権協会60周年特別賞
2000年日本レコード大賞・日本作曲家協会功労賞受賞
1986年紫綬褒章受章

2.称号


フェリス女学院大学音楽学部名誉教授

3.家族


祖父:中田平吉
祖母:中田タツ

父:中田 章 45才で歿。作曲家・オルガニスト、東京音楽学校(元東京芸術大学)教授。唱歌《早春賦》の作曲で知られる

母:中田こう(日本画家・奥村土牛の従姉)

長兄・肇は一才の誕生日前に夭折

次兄・一次 80才で歿。作曲家・指揮者・ファゴット奏者。東京音楽学校卒(元東京芸術大学)、昭和音楽大学短期大学名誉教授、日本ファゴット協会会長を務めた。昭和30~40年代NHKラジオ「音楽の泉」のテーマ曲《楽興の時》の編曲者

三男・喜直 作曲家・ピアニスト、テレビ朝日番組審議委員、日本作曲家協議会理事、フェリス女学院大学音楽学部教授・名誉教授

弟・民夫 教師・学校長

[中田喜直の家族]
最初の妻・高橋浄子
後妻:中田幸子

4.プロフィール


1923年東京都渋谷区に生まれる。父:中田章は東京音楽学校(現東京藝術大学)教授でオルガニスト・作曲家。小学唱歌で知られている《早春賦》を作曲した。兄の一次は後に作曲家、昭和音楽大学短期大学部名誉教授、晩年は日本ファゴット協会会長を務める。喜直がピアノを正式に習い始めたのは小学校2年からで父の教え子であった畑玉吉のレッスンを受ける。3年生に進級する時、千代田区立番町小学校に転校した、畑玉吉が教えていたからだ。この頃から「小学生全集」を読みはじめ、後に『西条八十編「日本童謡集」上級用が、私の生涯のもっとも重要な本になった』と記述している。『小学校5年の夏休みの夏季学校で、上高地に行き穂高岳を見たり、焼岳に登った。後に山登り好きになった原点になる』と語っている
1936年青山学院中等部入学、同時に上野児童音楽学園に入学した。東京音楽学校研究科を修了したばかりの金子登にピアノのレッスンを受ける
1940年青山学院中等部4年終了。4月、東京音楽学校本科器楽科(ピアノ専攻)に入学。同期に畑中良輔、戸田敏子がいた
1943年9月25日東京音楽学校を繰り上げ卒業。10月1日宇都宮陸軍飛行学校の磐城分校に入隊し「特別操縦見習士官」になり訓練を受け翌年3月、宇都宮陸軍飛行学校卒業。陸軍少尉に任官し飛行第一四戦隊陸軍重爆撃機隊の操縦士として配属が決まる。フィリピンの第四航空軍司令部付きという命令が下り、フィリピンへ。サイパン島の米軍基地を攻撃する長距離爆撃隊を編成するために日本へ帰国。水戸飛行場へ、さらに群馬県新田飛行場へ移動後、終戦となり家に戻る
戦後は若手作曲家グループ「新声会」に入会、メンバーに柴田南雄、入野義郎、別宮貞雄、戸田邦雄、石桁真禮生、宮城衛等がいた。父:章の購入した三鷹市上連雀の土地に、兄・一次が家を新築し母、弟と転居。この頃より本格的に作曲活動とピアノ伴奏者としての演奏活動をはじめた
1947年《六つの子供の歌》を発表。1949年NHKの「ラジオ歌謡」として依頼され「夏の思い出」作曲。1951年NHKラジオ番組「幼児の時間」のコーナー「歌のおけいこ」で童謡《めだかの学校》発表。同年、NHKラジオドラマ「えり子とともに」のリハーサルのある日、内村直也の台本が短かったため、二、三分の空白が出て時間を埋めるため、芥川也寸志から代わっていた音楽担当の喜直がスタジオで内村から歌詞を受け取け取り、その場で曲をつけ《雪の降る街を》を作曲。番組では阿里道子と南美江の二人が歌った
1952年武蔵野市御殿山の借地に自宅を新築。1953年フェリス女学院短期大学専任講師、翌年助教授(1964年教授)
1954年「女声合唱曲集-1」音楽之友社より刊行。1955年磯部俶、宇賀神光利、中田一次、大中恩、等と「ろばの会」結成
1960年赤坂プリンスホテルで三宅洋一郎・春恵夫妻の媒酌で中島幸子と結婚式を挙げた
1962年《ちいさい秋みつけた》がレコード大賞童謡賞を受賞。同年、社団法人日本作曲家協会理事に就任
1968年戸塚カントリー・ゴルフクラブに近い横浜市旭区柏町へ新築転居。1969年日本童謡協会が設立され理事に就任
1971年東京都港区赤坂に(有)ナカダ音楽事務所を設立。1977年テレビ朝日番組審議委員に就任。1979年サトウハチローの死後、数年間空席だった日本童謡協会・会長に就任。1983年日本作曲家協議会理事就任。1986年紫綬褒章受章。1988年神戸山手女子短期大学講師に就任。同年「中田喜直童謡名曲選(104曲)」CD発売。1990年フェリス女学院大学音楽学部教授に就任。同年日本女性合唱団の指導と演奏会出演のため渡米。1993年フェリス女学院大学音楽学部定年、10月同大名誉教授就任。1998年「中田喜直の宇宙」<作曲生活50周年記念コンサート>を津田ホールで公演
1999年、ウィーン国立音楽大学の招きで中田作品についてシンポジウム、公開講座その他の講演を行う
2000年4月5日急性肺炎で慶応病院に入院、5月3日逝去
受賞歴:文部科学省芸術祭奨励賞(1960、61、63~67、69~71年)、1962年日本レコード大賞童謡賞、1971年日本童謡功労賞、1975年久留島武彦文化賞、1977年横浜文化賞、1978年日本童謡賞、神奈川県文化賞、1989年サトーハチロー賞、1999年日本著作権協会60周年特別賞

5.中田喜直-歴史年譜

1923年(大正12年)0才
8月1日中田喜直は中田家の三番目の子供として東京都渋谷区景丘町23番地に生まれた。喜直は正しくは「ヨシタダ」と読む
<音楽の勉強>
父親の章は東京音楽学校でオルガンと音楽理論を教えていた。章は自分の跡を継いで音楽家になるのは喜直だと生まれたときから考えていたようだ。喜直と名付けたのも「音楽にとって大切なのは、美しい音楽を素直に喜ぶ心だ」という思いからである。
幼少から兄・一次(作曲家、昭和音楽大学短期大学部名誉教授、晩年は日本ファゴット協会会長を務めた)にピアノの手ほどきと和声学などを習う。父からは教わった憶えがないと喜直は語っている

1930年(昭和5年)7才
4月、東京都渋谷区立加計塚小学校入学。小学校時代から恵比寿の豊沢教会に兄と一緒に通っていた

1931年(昭和6年)8才
小学校2年に進級し、父の教え子の畑玉吉について正式にピアノを習いはじめる。(畑からは一次や民夫もピアノを教わった)。11月27日肺結核で父が死ぬ。家作が何軒かあり自宅の二階に学生を下宿させたりして、中田家一家が生活するのに、とくに困ることはなかった

1932年(昭和7年)9才
4月、小学校3年に進級するとき、畑玉吉が音楽教師として勤めている千代田区立番町小学校に転校。喜直にとって嬉しかったのは音楽の授業のときに、電気蓄音機でレコードをいい音で聴けることだった。後に日本児童図書出版協会から「はじめてあった本」と題する短いエッセイをたのまれたとき、” 私はこどもの時、本を読むのが大好きで、随分沢山読んだ。兄一次が買ってもらった「小学生全集」のイソップ、グリム、アンデルセン、の童話から、日本の童謡、クオレ、家なき子、小公女等があって、世界の名作は殆んど読むことが出来た。そしてその全集の中の一冊、西条八十編「日本童謡集」上級用が、私の生涯のもっとも重要な本になった ” と書いた

1933年(昭和8年)10才
4月、三木露風の詩「静かな日」に初めて作曲

1934年(昭和9年)11才
小学校5年の夏休みの夏季学校で、上高地に行き穂高岳を見たり、焼岳に登った。後に山登り好きになった原点になる

1935年(昭和10年)12才
西条八十の詩「怪我」に作曲(12才)。映画「別れの曲」を見てショパンに夢中になりピアニストを志すようになる

1936年(昭和11年)13才
3月、番町小学校卒業。4月、青山学院中等部入学。同時に上野児童音楽学園に入学した。東京音楽学校研究科を修了したばかりの金子登にピアノのレッスンを受ける。青山学院は毎日礼拝があり、讃美歌の伴奏を先生の代わりに弾くことがあった。中学時代は読書好き以外に、映画館に通い「未完成交響曲」「別れの曲」「乙女の湖」「たそがれのウィーン」「ル・ミリオン」「ワルツ合戦」「望郷」「早春」「ブルグ劇場」などを見たが、毎日レコードを聴き、ピアノも熱心に弾いた。日曜学校に大学で数学を教えている山田という先生がいて可愛がられた。山田はショパンのレコードをたくさん持っていて喜直を家に呼んでは、レコードを聴かせてくれた。音楽会にも連れて行ってもらいネオニード・クロイツァー、原智恵子、井上園子、相原千恵子、ヴァイオリニストの諏訪根自子といった演奏家を聴いている。この年の来日演奏家にはW・ケンプ、ジャック・ティボー、フォイマン、ピアテゴルスキー、シャリアピン、がいる。ナチスの迫害を逃れてジョセフ・ローゼンシュトックが来日し新交響楽団(N饗の前身)の指揮者になったのもこの年

1937年(昭和12年)14才
4月、一級下に團伊玖磨が入学。この年の来日演奏家にはヴィノグラードフ、ミッシャ・エルマン、指揮者ワインガルトナー等がいる

1939年(昭和14年)16才
11月8日、喜直は日比谷公会堂の新響定期公演で井上園子がローゼンシュトック指揮でチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲」を演奏したのを一番前の席で聴いている。この日のプログラムは他に、ロッシーニの「泥棒かささぎ」、ヒンデミットの「交響的舞曲」、R・シュトラウスの「死と浄化」であった。喜直の中学時代は山田先生が買ってくれた楽譜を見て、コルトーやルービンシュタインの名演奏を毎週聴き、ショパンの代表的作品は全部頭と心に刻み込まれた。山田先生のおかげである。喜直は青山学院に通いながら週に二度、東京音楽学校に附属して創られた上野児童音楽学園という音楽教室に通い週一でピアノのレッスンを金子昇に受けた。父が亡くなって家が裕福ではなかったので、5年卒業で音楽学校に入るのでは経済上困るので、4年から入って欲しいという母の強い願いがあったのは、多分この頃であろう

1940年(昭和15年)17才
青山学院中等部4年終了
4月、東京音楽学校(現・東京藝術大学)本科器楽科(ピアノ専攻)に入学。同期に畑中良輔、戸田敏子がいた。レオ・シロタにつくことになったが、一度レッスンを受けただけで上級生からクレームがついて、田中規矩士に変わり2年間師事。声楽科の生徒たちは、歌のレッスンを受ける時は伴奏してくれるピアニストが必要だった。喜直が伴奏を頼まれたことがメロディと伴奏の関係を学ぶことにつながっていった。堀口大学作詞「夕逍遥」作曲。歌曲の作曲に関しては同期で入学した声楽科の畑中良輔に詩の面で教わることが多かったと語っている

1941年(昭和16年)18才
4月、2年に進級。ある日、憧れていた一級上の石井好子から「私の伴奏をして下さらない?」と声を掛けられ伴奏をすることになったが、男性の伴奏者は学校にとって賛成ではなかったらしく数ヶ月で藤枝和子(後の團伊玖磨夫人)に代わる
9月「音楽は軍需品なり」ということから、東京と近県在住の音楽家2000名を隊員とする「音楽挺身隊」が結成され、隊長に山田耕筰が就任した。喜直たち音楽学校の生徒たちも、学校に行って授業を受けるよりも、軍事訓練や勤労動員で軍需工場に通う日が多くなった

1942年(昭和17年)19才
3年進級し、豊増昇に師事
8月満州建国10周年記念行事に音楽使節として演奏旅行を全校あげて満州まで行き、各地で20数回の演奏会を開き好評であった。大連に向かう船の中で歌人の中河与一に会う。その縁で東京に帰ってから、みんなで成城の中河邸に行くようになり家族のみんなと知り会うようになる。その後、手が小さかった喜直はピアニストになるのを諦め、作曲家になろうと決意する

1943年(昭和18年)20才
春、徴兵検査を受ける。夏、兄一次と二人で山中湖に行き、石井家の別荘に招待され石井京・好子の姉妹と夕食をともにした
陸軍の「特別操縦見習士官」の試験を受け、審査官の「音楽をやっているのか。珍しいな、やってみるか?」の一言が合格を決めた。
9月23日から3日間の卒業演奏会が行われ、喜直はショパンの「ピアノ・ソナタ」第3番ロ短調作品58を演奏した。
25日には半年繰り上がって卒業証書を渡され同校卒業。
9月30日恩師・豊増昇や金子登の見送りを受けて上野駅を発ち10月1日、宇都宮陸軍飛行学校の磐城分校に入隊し「特別操縦見習士官」になった。
10月21日に明治神宮外苑競技場では「出陣学徒壮行会」が行われた。学生・生徒の徴兵猶予の特権が停止され、文科系の学生は全員兵役に就くことになった。東京と近県77校の出陣学徒3万5千人を家族ら6万5千人が雨の中で見送った。
兵役法施行規則等が改正になり、中高年も徴兵されることになった。陸軍飛行学校に入隊した喜直は上官に恵まれた。篠原新吉という区隊長は温かく思いやりの心を持つ人格者だった。
妻の幸子の話によると、後年、喜直たちは篠原区隊長を囲んで毎年、同期会を開き、喜直はそれに出席するのをとても楽しみにしていたそうである。
喜直は入隊8日後に「赤とんぼ」といわれた飛行機に乗った。およそ2か月後の11月29日には早くも最初の単独飛行を行った。約6週間、基本の離着陸、特殊飛行、編隊訓練まで全ての技術を学んだ。次に機種別訓練が始まり、喜直は爆撃機を選び、爆撃機のある浜松に行き、九七式重爆撃機に乗って実践的な訓練を受けた。

1944年(昭和19年)21才
3月、訓練が終わり宇都宮陸軍飛行学校卒業。陸軍少尉に任官
10月8日、家に立ち寄って翌9日に結婚式を挙げる兄・一次に祝の言葉を述べ、祖母タツを見舞い、慌ただしく家を発つ
戦地への配属は、フィリピンの第四航空軍司令部付きという命令が下り、フィリピン行きが決まった
黒塗りの特攻機で嘉義飛行場に着くと音楽学校の先輩・テノールの柴田睦陸が上等兵でいた。5人で指令室に挨拶に行くと司令官の富永中将が「君たちには特攻隊として、大いに頑張ってもらいたい」と言った。ところが事務室に呼ばれて行くと「君たちは特攻ではないよ」と言われた。喜直が「命の大切さ」を心底から自覚したのは、このときだと。「無期懲役と死刑の差もこのように大きく、後に私は死刑廃止論に強い反対の気持ちをもつようになった」と後年になって語っている。
フィリピンでの喜直たちの任務は各地に駐屯している部隊にマニラからの命令や連絡を持って行き、伝えることだったが毎日司令部勤務で戦闘に参加することなく過ごした。そのうち、喜直は飛行第一四戦隊(陸軍重爆撃機隊の最強部隊として勇名を馳せた歴戦の部隊)に配属が決まりマランで合流したが、戦闘続きで人員も機材も消耗したため、しばらく休養することになり、喜直も休養の仲間入りをした
10月20日アメリカ軍がフィリピンのレイテ島に上陸、レイテ沖海戦が始まり神風特別攻撃隊が初出動した
喜直がジャワに向けてフィリピンを発って一カ月も経たない頃であった。マニラに残っていた操縦士は全員特攻隊員となった。たった一ヶ月の差が喜直の明暗を分けた

1945年(昭和20年)22才
2月、サイパン島の米軍基地を攻撃する長距離爆撃隊を編成するために日本へ帰国し東京の家に戻った。直ぐに茨城県水戸飛行場へ、さらに群馬県新田飛行場へ移動し訓練を続けた
5月23日の空襲で恵比寿の自宅全焼
8月15日終戦となり「兵隊は帰れるが、将校は銃殺されるらしい」という噂が広まり、8月16日喜直は母親、兄・一次、恩師・豊増昇、友人・山田正次等4人宛ての遺書を書いた
8月下旬自宅に戻る。東京近郊に連合軍の基地ができクラブが設けられた。そこでは兵士を慰安するための音楽が必要で、毎晩ジャズやタンゴなどを日本人バンドが演奏していた。喜直はアルバイトをすることにし、ピアノが弾けたので仕事はいくらでもあった。会社員の月収が300円位のとき、喜直の収入は10倍の3000円もあった。

1946年(昭和21年)23才
1月、中古のピアノを2000円で買ったと語っている。仕事は夜が遅いので、昼間は作曲をすることにした
喜直は畑中良輔と一緒に若手作曲家グループ「新声会」に入会した。メンバーに柴田南雄、入野義郎、別宮貞雄、戸田邦雄、石桁真禮生、宮城衛らがいた
7月14日<新声会第3回試演会>文部省内試写室にて開かれた試演会で、作曲したピアノ曲《バラード一番》を出品し自身で演奏した。これが作曲家デビュー作となる。恩師・豊増昇に献呈された
他に
石桁真礼生:《小径》《笛を吹く女》《みぞれの降る小さな町》《小さい命》
清水脩:《抒情曲集》より

1947年(昭和22年)24才
5月10日、父・章が購入していた三鷹市上連雀の土地に、兄・一次が家を新築し母、弟と転居
7月5日新声会第五回試演会で代表作となる《六つの子供の歌》(注3)を発表、初演したのはソプラノ畑中更予。川端康成も来ていて「中田さんはすばらしい歌を書かれましたね」と称賛してくれた。この曲は日本歌曲の新しい方向を示すものとして注目を集め、高い評価を得た。この歌は柴田南雄によって楽譜集が作られ東京音楽書院から出版された。この頃より本格的に作曲活動とピアノ伴奏者としての演奏活動をはじめる
《すずしきうなじ》、《みみずく》、合唱曲《7つのフランスの子供の歌》など代表作を作曲
(※注3)昭和33年8月NHKが日本歌曲の埋もれた名曲を発掘する企画をたて、選考委員を有馬大五郎、伊藤武雄、大島正泰、木下保、内田るり子、野村光一、畑中良輔、増沢健美、山根銀二、四谷文子の10人の音楽家・評論家に委嘱し、日本の現代作曲家60名(山田耕筰・信時潔を除く以後の作曲家)の歌曲作品の中から、アンケート形式で推薦を求めた。その結果24作品が選ばれ、さらに決選投票の結果ベスト20を決定した。これは特集番組「現代日本の歌曲、ベスト20」として3回にわたって放送された。ここで第一位に選ばれたのが、中田喜直の《六つの子供の歌》である。一位から五位までの中に、もうひとつ、中田作品が入っている。
第一位 中田喜直《六つの子供の歌》ソプラノ歌手・伊藤京子が歌った
第二位 橋本国彦《斑猫》
第三位 平井康三郎《平城山》
第四位 柴田南雄《優しき歌》
第五位同点八作品 伊福部昭《ギリヤーク族の古き吟誦歌》、宅孝二《女の24時間》、團伊玖磨《五つの断章》・《美濃人》・《ひぐらし》、中田喜直《木兎》、箕作秋吉《非歌》、服部正《野の羊》
《六つの子供の歌》より「おやすみ」詩:三木露風 歌:小川明子(A.) 、山田啓明(Pf.)2011年7月24日

1948年(昭和23年)25才
9月、中田25才。毎日ホールで第一回作品発表会・ピアノリサイタル開催。この時《六つの子供の歌》は東京音楽学校教授で声楽界の大御所的な存在だった浅野千鶴子が歌った。リサイタルは好評だった。
混声合唱曲《午後の庭園》、女性合唱曲《秋のうた》無伴奏混声合唱曲《多感》、男声合唱曲《焚火》など作曲

1949年(昭和24年)26才
10月、中田26才。第18回日本音楽コンクール(NHK・毎日新聞社共催)作曲部門(室内楽曲)で《ピアノ・ソナタ》が第二位入賞。演奏したのは音楽学校同期の田村宏であった。田村は音楽学校入学前から天才といわれていた。この時の第一位は一柳慧、第二位中田喜直、第三位宇賀神光利であった。ちなみに管弦楽曲部門の第一位石井歓、第二位入野義朗、第三位戸田邦雄で、六名中三名が「新声会」の同人であった。
11月新声会が第一回毎日音楽賞を受賞(※注4)。
NHKの「ラジオ歌謡」として依頼され《夏の思い出》作曲。《夏の思い出》作詞者の江間章子(注5)は、昭和21年疎開先から東京に帰ってきた詩人。NHKに呼ばれて「ラジオ歌謡」の作家陣に加わるよう依頼され、さっそく何編か書いた。昭和24年の春にまた依頼がまわってきた。このとき、戦争中の昭和19年に訪れた群馬県の片品村を思い出し、水芭蕉の咲く尾瀬を舞台に「夏の思い出」と題する一編の詩をまとめた。水芭蕉は彼女の育った岩手県平館村の岩手山のふもとにも、可憐な群生を見せていた。彼女の頭のなかに故郷と尾瀬の二つの情景が重なった。この《夏の思い出》をNHKは新進作曲家として活躍を始めた喜直に白羽の矢をたてた。江間と中田は面識もなく、尾瀬にも行ったことがなかった。喜直が尾瀬に行ったのは40年後の平成2年のことであった
(※注4)昭和61年この時の「新声会」毎日音楽賞受賞について、当時を振り返って中田は「ベートーヴェンやショパンを弾くより、新しい曲を作ることが一番大切で、それを評価してくれた事が大事だ。いまポピュラーが盛んでクラシックは押され気味だ。それは創作を無視しているからだ。歌だけがたまに日本の曲をやるぐらいで、オーケストラにしても外国の昔の曲ばかり演奏している。合唱がものすごく盛んになったのは、どんどん新しい曲を創ったからだ。ポピュラーは殆どが新作である。だから盛んなのだ。沢山作るから名曲が残るのだ」(「教育音楽」昭和61年8月号、中山久民「春は名のみの‥‥早春賦の系譜」より要約(牛山剛著「夏がくれば思い出す」より引用)
《夏の思い出》詩:江間章子 / 指揮:松崎陽治 / ピアノ:島田桂子 / 女声合唱:コーロ・ヨコハマーレ

(※注5)江間章子・詩人は、1913年(大正2年)新潟縣高田市で生まれた。1915年(大正4年)父が急死すると、岩手県平館村の母の実家に移る。1925年(大正14年)12才静岡県に転居し、静岡高等女学校に入学。1930年17才、東京駿河台女学院入学(現・東京YMCA学院)。代表作《夏の思い出》(作曲・中田喜直)、《花の街》(作曲・團伊玖磨)。世田谷区の名誉区民。岩手県西根町の名誉町民、群馬県片品村名誉村民

1950年(昭和25年)27才
中田27才。この頃よりNHKから放送劇等の伴奏音楽の仕事が増え始める。NHK「歌のおばさん」から委嘱を受け関根栄一作詞の《いたずらすずめ》を作曲(昭和26年3月放送)。同じく秋に茶木滋作詞《めだかの学校》を作曲(昭和26年1月放送)

1951年(昭和26年)28才
1月、文学座研究生の高橋浄子と結婚し25日練馬区豊玉に引っ越す
サトウハチロー作詞《かわいいかくれんぼ》作曲。サトウハチローはこのとき作曲を誰に頼もうかと探していた、” 堀内敬三さんが中田喜直さんはどうか ”とハチローに言ったという。それ以来、サトウハチローに気に入られ二人のコンビが始まり100曲以上を作ることになった
3月、NHKのラジオ番組「幼児の時間」のコーナー「歌のおけいこ」で童謡《めだかの学校》発表
昭和24年にNHKで始まった内村直也作の「えり子とともに」の音楽は芥川也寸志が担当していたが主演のある女優との仲が噂され交代となり、喜直が音楽担当になったばかりの時の暮れのリハーサルのある日、台本が短かったため、二、三分の空白が出てしまった。台本を書いていた内村は空白を埋めるための窮余の策として、歌を作って流すことにした。内村はその場で歌詞を書いて、喜直に曲をつけてくれるように頼んだ。スタジオで内村から歌詞を受け取った喜直は、すぐにその場で30分位の時間でメロディをつけて曲を書き下ろした。それが《雪の降る街を》である。番組で歌ったのは阿里道子と南美江の二人だった。歌詞は一番だけだったのを、喜直は内村にアドバイスしながら二番以降の歌詞を完成させ、昭和28年2月、パリ帰りのシャンソン歌手、高英雄がNHKの「ラジオ歌謡」で歌って評判になった。サハリン出身の高は、楽譜を見て「雪におおわれた故郷を思って歌った」という
この《雪の降る街を》は山形県鶴岡市で毎年2月に開かれている「鶴岡音楽祭」で舞台と客席がひとつになって全員で歌っている。この音楽祭の始まった昭和61年から喜直は毎年特別ゲストとして招かれている。鶴岡音楽祭の基礎をつくり、喜直と鶴岡を結びつけたのは、鶴岡市勝福寺に住んだ菅原喜兵衛である。音楽好きで戦後、東京から多くの音楽家を招いて音楽会を開いた。その一人に喜直がいた。喜直が初めて鶴岡を訪れたのは終戦の翌年、昭和21年だった。それ以来、喜直は毎年鶴岡を訪れ、ピアノの演奏や歌手の伴奏をした。市内の小学校の校歌を頼まれ、発表会のために喜直が鶴岡に来たのは、雪の積もった白一色の、小雪の舞う冬の夜、出迎えた菅原が引く馬ぞりに乗った喜直がその情景を憶えていて、《雪の降る街を》の曲を作りながら頭のどこかに、この情景を思い浮かべながら作曲したとしても不思議はないだろう。この歌が評判になったとき、「あの夜をイメージして作曲したのではないですか」と聞く菅原に、喜直は「そう思ってくれるなら、それでいいんです」と答えた。この一言によって鶴岡は「雪の降る街を」の発想の原点の地となり、JR鶴岡駅前のロータリーに記念の歌碑が、モニュメントが鶴岡公園に建っている。平成11年「鶴岡音楽祭」は前年に亡くなった菅原追悼の音楽祭となった。鶴岡市の「大宝館」には喜直が使っていたピアノやスキー用具、メガネ、万年筆、時計、自筆の楽譜などをガラス・ケースに収めた中田喜直のコーナーがある
《雪の降る街を》歌:高 英男

《めだかの学校》 合唱:クラウン少女合唱団

1952年(昭和27年)29才
4月5日、武蔵野市御殿山の借地に自宅を新築
ピアノ組曲《時間》発表

1953年(昭和28年)30才
4月フェリス女学院短期大学専任講師(音楽理論担当)。フェリスのこの時の生徒数は、一、二年併せて34名、音楽家の教師は24名で、三宅洋一郎(ピアノ)、大宮真琴(音楽評論)、伊藤武雄(声楽)、入野義郎(作曲)、奥田耕天(オルガン)、田中規矩士(ピアノ)、團伊玖磨(作曲)、遠山一行(評論)、豊増昇(ピアノ)、針生一郎(芸術史)、前田幸市郎(指揮)、三宅春恵(声楽)、山田一雄(指揮)、山木康(キリスト教音楽)等がいた

1954年(昭和29年)31才
妻・浄子と離婚。
12月、フェリス女学院短期大学助教授(和声学担当)
《女声合唱曲集-1》11曲(ぶらんこ・おもい・早春・小さな手・忘れな草・夏河・青空の小径・夏の思い出・ねむの花・石臼の歌・雪のふるまちを)発刊
《女声合唱曲集》より「忘れなぐさ」ピアノ:山本佳世子 / 洗足学園音楽大学 / 2008年12月5日

1955年(昭和30年)32才
7月「自分たちが創りたい歌」を作ろうという主旨で磯部俶、宇賀神光利、中田一次、大中恩、等と「ろばの会」結成。
12月13日、歌曲集出版記念演奏会をヤマハホールで開催。童謡作品集《かわいいかくれんぼ》が野ばら社から出版され、童謡作曲家・中田喜直の名前が世間に知られるようになった。この頃の童謡の世界の詩人では、サトウハチロー、まど・みちお、佐藤義美、関根栄一、藤田圭雄、野上彰。作曲では團伊玖磨、芥川也寸志、山口保治、平岡照章、伊藤翁助がいた

1956年(昭和31年)33才
「新しいこどものうた」第一集が刊行された。そのなかにサトウハチロー作詞・中田喜直作曲《小さい秋みつけた》などがあった。11月、プロの女声合唱団「フェリス女声合唱団(後の日本女声合唱団)」の第一回演奏会が神奈川県立音楽堂で開催され、プログラムに喜直の合唱曲が三曲含まれていた。「フェリス女声合唱団」の活躍に合わせて喜直の合唱曲、特に女性合唱曲の作品は多くなっていった。この女声合唱団は1994年(平成6年)8月創立者の三宅洋一郎が亡くなり日本女声合唱団は解散した
《小さい秋みつけた》合唱:福岡鮮鶴合唱団

1957年(昭和32年)34才
9月27日銀座のガスホールで「ろばの会」第一回公演が開催された。山田耕筰、信時潔、堀内敬三、サトウハチローはじめ多くの作曲家、詩人、評論家、歌手たちがお祝と激励の言葉を寄せた。出演したのは安西愛子、松田トシ、水上房子、友竹正則、池田綾子、池田智恵子、伴久美子、小保内恭子らであった。第二回以降、新作発表会には、伊藤京子、友竹正則、岡村喬生、眞理ヨシコ、中野慶子、中川順子、中田順子、高木淑子、ダーク・ダックス、ポニー・ジャックス、ヴォーチェ・アンジェリカ、コール・Meg、フレーベル少年合唱団等多数の歌手が出演した。友竹正則はこの出演がきっかけとなりNHKから声がかかり、「歌のおじさん」として活躍を始めるようになる。ある日の「ろばの会」合評会に喜直が、助教授しているフェリス女学院短大の学生を連れて来て、まど・みちお作詞、中田喜直作曲の《ハンカチの歌》を連れてきた学生・中島幸子(フェリス女学院2年・後の中田喜直夫人)に歌わせた。三年後に喜直はこの女性・中島幸子と再婚する。音楽之友社から「実用和声学」出版。12月5日、中田喜直作品演奏会を読売ホールで開催した。女声合唱曲はフェリス女学院合唱団が歌った
ピアノのための組曲《光と影》発表

1958年(昭和33年)35才
「ろばの会」の音楽物語《チュウちゃんが動物園へいったお話》を文部省主催の芸術祭参加作品として、キング・レコードから発売した。このLPはその年の芸術祭賞(芸術祭大賞)を受賞した
12月に「NHK歳末たすけ合い運動」の一環として《心の窓にともし灯を》は作曲され、同月の「歌の広場」でザ・ピーナッツにより歌われた
《心の窓にともし灯を》歌:ザ・ピーナッツ

1960年(昭和35年)37才
伊藤京子の歌う中田喜直歌曲アルバム《六つの子供の歌》他が芸術祭奨励賞を受賞。アルバム《ゆうらんバス》がレコード大賞童謡賞を受賞。
10月18日、赤坂プリンスホテルで三宅洋一郎・春恵夫妻の媒酌で中島幸子と結婚式を挙げた

1961年(昭和36年)38才
「ろばの会」が作曲したアルバム《東京のうた》が芸術祭奨励賞を受賞

1962年(昭和37年)39才
《ちいさい秋みつけた》が日本レコード大賞童謡賞を受賞。
10月、社団法人日本作曲家協会理事に就任(1994年迄)。
11月27日、中田喜直「合唱曲の夕」演奏会を読売ホールにて開催
12月4日、中田喜直「ピアノ曲の夕」演奏会を開催
12月11日、中田喜直「歌曲の夕」演奏会を開催

1963年(昭和38年)40才
5月7日、木下保研究発表会による中田喜直「歌曲の夕」演奏会を御堂会館で開催
女性合唱組曲《美しい訣れの朝》で芸術祭奨励賞を受賞

1964年(昭和39年)41才
混声合唱組曲《昇天》で芸術祭奨励賞を受賞
11月、フェリス女学院短期大学音楽科教授に昇任

1965年(昭和40年)42才
10月、社団法人日本音楽著作権協会理事に就任(1995年迄)
女性合唱組曲《みえないものを》で芸術祭奨励賞を受賞

1966年(昭和41年)43才
月11日朝6時、母・こうが脳出血で亡くなる
混声合唱とピアノのための組曲《都会》で芸術祭奨励賞を受賞

1967年(昭和42年)44才
女声合唱組曲《北の歌》で芸術祭奨励賞を受賞

1968年(昭和43年)45才
5月3日、戸塚カントリー・ゴルフクラブに近い横浜市旭区柏町へ新築転居

1969年(昭和44年)46才
4月サトウハチロー、古関裕而、中田喜直等、童謡を作る詩人や作曲家等で日本童謡協会が設立され理事に就任
女声合唱組曲《蝶》で芸術祭優秀賞を受賞

1970年(昭和45年)47才
中田喜直《歌曲全集》レコードで芸術祭優秀賞を受賞

1971年(昭和46年)48才
混声合唱組曲《ダムサイト幻想》で芸術祭優秀賞を受賞
第一回日本童謡賞功労賞を受賞
10月27日東京都港区赤坂に(有)ナカダ音楽事務所を設立

1972年(昭和47年)49才
2月、札幌冬季オリンピック閉会式のテーマソング《別れの歌》作曲、作詞サトウハチロー
札幌冬季オリンピック閉会式のテーマソング《別れの歌》合唱: 淡江合唱團

1973年(昭和48年)50才
10月2日中田喜直「合唱の夕」
11月6日中田喜直「歌曲の夕」
12月4日中田喜直ピアノ曲の夕」をイイノホールで公演
5日青山葬儀場でサトウハチローの葬儀が行われた。参列者全員でサトウハチロー作詞・中田喜直作曲の《夕方のおかあさん》を歌って、サトウの霊に捧げた。喜直がピアノを弾いた

1974年(昭和49年)51才
3月スキー仲間とフランスへ。中田喜直の音楽《こどものうた百曲選集》がLP発売

1975年(昭和50年)52才
久留島武彦文化賞を受賞
第五回日本童謡賞をアルバム《こどもの歌100曲集》で受賞

1977年(昭和52年)54才
横浜文化賞を受賞
テレビ朝日番組審議委員に就任(1986年迄)

1978年(昭和53年)55才
第八回日本童謡賞を受賞
神奈川県文化賞受賞
モービル児童文化賞受賞(ロバの会)

1979年(昭和54年)56才
6月23日~30日、ピアノ・コンペティション審査及び自作品展示のため渡米
8月、東京都港区六本木に事務所移転
10月サトウハチローの死後、数年間空席だった日本童謡協会・会長に喜直が第二代会長として就任

1980年(昭和55年)57才
11月「ろばの会」結成25周年記念コンサートを渋谷公会堂で開催
禁煙運動に力を入れるようになる

1981年(昭和56年)58才
2月仕事で北海道に行き、旭川ですすめられ念願だったスキーの一級資格の検定試験を受け合格する

1982年(昭和57年)59才
5月31日中田喜直「合唱曲の夕」演奏会を都市センターホールで公演

1983年(昭和58年)60才
5月日本作曲家協議会理事就任
12月2日リレー・コンサート「コラールメッセージ83」が練馬文化センターホールで開催された
反核を主張する中田喜直はじめ50数名の音楽家が呼びかけ人になって、核兵器廃絶のために始めた

1984年(昭和59年)61才
7月1日「赤い鳥」創刊の日(※注6)が「童謡の日」に決める
(※注6)鈴木三重吉は小説家・児童文学者で日本の児童文化運動の父とされる人。1918年7月1日に創刊した童話と童謡の児童雑誌「赤い鳥」。創刊号には芥川龍之介、有島武郎、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子、徳田秋声らが賛同の意を表明した。1918年11月号に西条八十の童謡詩として掲載された「かなりや」に、成田為三の作曲した楽譜の付いた童謡が、翌1919年5月号に初めて掲載された。この楽譜掲載は大きな反響を呼び音楽運動として評判となった。以後、毎号歌としての童謡を掲載され、そののち多くの童謡雑誌が出版されることになった。雑誌「赤い鳥」は1936年8月廃刊

1985年(昭和60年)62才
7月1日「童謡の日」コンサート開催。テーマ・ソング《いま生きる子どもマーチ》が発表された
兵庫県龍野市(現・たつの市)が《赤とんぼ》の作詞者・三木露風の出身地であることから龍野を「童謡の里」と決める

1986年(昭和61年)63才
紫綬褒章受章

1988年(昭和63年)65才
4月、神戸山手女子短期大学講師に就任
「中田喜直 童謡名曲選(104曲)」CD発売

1989年(平成元年)66才
4月23日~5月2日、自作品コンサートのためブルガリアへ行く。
第一回サトウハチロー賞を受賞

1990年(平成2年)67才
4月、フェリス女学院大学音楽学部教授に就任。
4月23日~5月1日、日本女性合唱団の指導と演奏会出演のため渡米

1993年(平成5年)70才
3月4日午後から苗場のリゾート・マンションへ行きスキー場ですべる
フェリス女学院大学音楽学部の定年を迎え退職した
6月25日~30日「日本のうた中田喜直を歌おう」演奏会のためハワイへ
10月フェリス女学院大学音楽学部名誉教授就任

1994年(平成6年)71才
11月14日、中田喜直コンサート(歌曲・童謡集出版記念)をカザルスホールで公演
随筆集「音楽と人生」を上梓

1995年(平成7年)72才
NHK放送文化賞を受賞
苗場にリゾート・マンション購入し暮れから正月にかけてスキーをして過ごすようになる

1998年(平成10年)75才
8月1日、「中田喜直の宇宙」(作曲生活50周年記念コンサート)を津田ホールで公演
身体に異変を感じ、9月慶応病院に入院し直腸がんと診断され、直ぐに手術

1999年(平成11年)76才
がん再発し5月再入院し二回目の手術。
10月、ウィーン国立音楽大学の招きで、中田作品についてシンポジウム、公開講座、歌曲やピアノ作品のコンサートが開かれた。ウィーンではカラヤン・センターで、ケルンでは日本文化会館で「20世紀末の日欧音楽の変遷と展望」題して講演し、喜直の作品が演奏された。曲目は《ピアノ・ソナタ》、《六つの子供の歌》などで、喜直自身もピアノを弾き、他にソプラノ歌手の大島富士子(ウィーン)、釜洞祐子(ケルン)、バリトンの谷口伸、ピオノの森美加が出演した
日本音楽著作権協会60周年特別賞を受賞

2000年(平成12年)77才
3月25日「結成45周年・ろばの会さよならコンサート」を日比谷公会堂にて開催。岡村喬生、ボニー・ジャックス、眞理ヨシコ、中野慶子、中田順子、大和田りつこ、岡崎裕美、松倉とし子などが出演した。「ろばの会」解散。
4月5日急性肺炎で慶応病院に入院
5月3日午前2時40分眠るように息をひきとった。遺体は午後、横浜の自宅に戻った
5月5日密葬
5月23日東京・青山葬儀場で中田家と社団法人日本童謡協会による音楽葬が行われた。献花したのは十数名の歌手、合唱団、声楽家の畑中良輔、詩人の阪田寛夫等二千名を越えた
日本レコード大賞・日本作曲家協会功労賞を受賞この年から「かながわ音楽コンクール」ユース・ピアノ部門で法人作曲家の作品を最も印象的に演奏した若いピアニストに「中田喜直賞」が贈られるようになった

2002年(平成14年)
この年から「奏楽堂日本歌曲コンクール」に歌唱部門で優勝した声楽家に大賞とともに「中田喜直賞」が贈られるようになった

2004年(平成16年)
7月、河口湖ステラシアターで富士国際音楽祭「中田喜直メモリアル・花とふれあいの合唱祭2004夏」が開催された

2006年(平成18年)
この年から「奏楽堂日本歌曲コンクール」に作曲部門に一般の部とは別に新たに「中田喜直賞の部」が設けられた

JR三鷹駅の発車メロディーとして《めだかの学校》が使われている

6.主な作品


<歌曲・童謡・放送歌謡など>
 ≪六つの子供の歌≫〔1.うばぐるま、2.烏、3.たあんき ぽーんき、4.風の子供、5.ねむの木、6.おやすみ〕
 ≪歌曲集「海四章」>
 ≪マチネ・ポエティクによる四つの歌曲≫〔1.火の鳥、2.さくら横ちょう、3.髪、4.真昼の乙女たち〕
 ≪二人のモノローグによる歌曲集≫「木の匙」
 ≪夏の思い出≫
 ≪雪の降るまちを≫
 ≪心の窓にともし灯を≫
 ≪君よ八月に熱くなれ≫
 ≪かわいいかくれんぼ≫
 ≪あひるの行列≫
、≪めだかの学校≫
 ≪バナナのうた≫
 ≪夕方のおかあさん≫
 ≪わらいかわせみに話すなよ≫
 ≪ちいさい秋みつけた≫
 ≪さわると秋がさびしがる≫
 ≪手をたたきましょう≫(編曲)
 歌曲集≪魚とオレンジ≫〔1.はなやぐ朝、2.顔、3.あいつ、4.魔法のリンゴ、5.艶やかなる歌、6.ケッコン、7.祝辞、8.らくだの耳から(魚とオレンジ)〕

<器楽曲>
 ≪小さなヴァイオリニスト≫(ヴァイオリン・ピアノ)
 ≪フルートとピアノのための「日本の秋の歌」≫
 ≪2台のピアノのための音楽「無宗教者の讃美歌」≫
 ≪2台のピアノのための「軍艦マーチによるパラフレーズ」≫
 ≪雨の夜に≫(ピアノ)
 ≪ピアノ・ソナタ≫
 ≪ピアノのための組曲≫「光と影」
 ≪ピアノのための組曲≫「時間」
 ≪四手連弾のための組曲≫「日本の四季」
 ≪子どものための8手連弾ピアノ曲≫「日本ふうのメロディーによる主題と変奏曲」

<合唱曲>
 混声合唱曲集「午後の庭園」
 混声合唱組曲「海の構図」
 混声合唱組曲「昇天」
 合唱組曲「おかあさんのばか」(混声・男声・女声版あり。磯部俶との共作)
 混声合唱とピアノのための組曲「都会」
 女声合唱とバリトンソロ・管弦楽のためのカンタータ「新しい山河」
 女声合唱組曲「美しい訣れの朝」
 女声合唱組曲「蝶」
 朝のうた(第17回NHK全国学校音楽コンクール小学校の部課題曲)
 祭りの宵(第19回同小学校の部課題曲)
 美しい秋(第33回同中学校の部課題曲)
 心の馬(第50回同中学校の部課題曲)

校歌・園歌・市町村歌
浦和市歌
愛媛県歌
青森県立弘前中央高等学校校歌(作詞:谷川俊太郎)
青森県立八戸南高等学校校歌(作詞:三浦哲郎)
愛知県立丹羽高等学校校歌(作詞:小林純一)
愛知県立岡崎北高等学校校歌(作詞:畔柳稔)
愛知県立明和高等学校校歌(作詞:深尾須磨子)
愛知県立一宮興道高等学校校歌(作詞:小和瀬玉実)
足立区立西新井小学校校歌
岡山県美作高等学校校歌(作詞:大岩徳二)
厚木市立飯山小学校校歌(作詞:堀江和枝)
岩倉市立五条川小学校校歌「五条川の子らの歌」(作詞:田島穂積)
岩手大学教育学部附属小学校校歌
市原市立五所小学校校歌
糸魚川市立糸魚川東小学校校歌
入間市立金子小学校校歌
入間市立藤沢東小学校校歌(作詞:中村千栄子)
茨城大学教育学部附属中学校校歌(作詞:勝承夫)
板橋区立上板橋第三中学校校歌(作詞:勝承夫)
青木村立青木中学校校歌(作詞:宮沢章二、編曲:藤田玄播)
伊那市立東部中学校校歌(作詞:小西謙)
上田市立第六中学校校歌
魚沼市立守門中学校校歌
浦安市立日の出小学校校歌(作詞:岡田喜代子)
愛媛県立宇和島南中等教育学校校歌・愛媛県立宇和島南中等教育学校校歌(作詞:佐伯秀雄)
愛媛県立三島高等学校校歌(作詞:白木豊)
愛媛県立宇和島水産高等学校校歌(作詞:黒田定雄)
大阪教育大学附属天王寺小学校校歌(作詞:竹中郁)
茨木市立大池小学校校歌(作詞:竹中郁)
赤穂市立赤穂西小学校校歌(作詞:小林純一)
大田区立大森第二小学校校歌
大田区立大森東中学校校歌
大町市立八坂中学校校歌(作詞:高橋渡)
大町市立八坂小学校校歌(作詞:高橋渡)
大町市立美麻小中学校校歌
岡山市立岡北中学校校歌(作詞:永瀬清子)
生駒市立生駒台小学校校歌(作詞:石森延男)
宇部市立藤山中学校校歌(作詞:北川冬彦)
岡崎市立城北中学校校歌(作詞:清水孝之)
香川大学教育学部附属幼稚園高松園舎の歌(作詞:まど・みちお)
柏崎市立東中学校校歌(作詞:中村千栄子)
学校法人有明中央学園ひまわり幼稚園園歌(作詞:坂村真民)
葛飾区立南奥戸小学校校歌(作詞:小林純一)
葛飾区立綾南小学校校歌(作詞:小林純一)
葛飾区立西渋江小学校校歌
葛飾区立上千葉小学校校歌(作詞:小林純一)
神奈川県立相模田名高等学校校歌(作詞:こわせたまみ)
神奈川県立横浜立野高等学校校歌(作詞:神保光太郎)
神奈川県立氷取沢高等学校校歌→神奈川県立横浜氷取沢高等学校(作詞:岡野弘彦)
神奈川県立川崎北高等学校校歌(作詞:池田昂二)
刈谷市立亀城小学校校歌(作詞:丸山薫)
刈谷市立住吉小学校校歌
川越市立川越第一小学校校歌(作詞:小林純一)
川越市立広谷小学校校歌(作詞:こわせたまみ)
川越市立霞ヶ関北小学校校歌(作詞:宮澤章二)
川越市立高階南小学校校歌(作詞:小林純一)
川越市立古谷小学校校歌(作詞:小林純一)
川崎市立今井小学校校歌(作詞:小林純一)
川崎市立有馬小学校校歌
川崎市立金程中学校校歌(作詞:高良留美子)
川崎市立井田小学校校歌
川崎市立川崎中学校校歌(作詞:小林純一)
川崎市立西丸子小学校校歌
川崎市立平間中学校校歌(作詞:大井章)
久喜市立青毛小学校校歌
久喜市立太田小学校校歌
気仙沼市立松岩小学校校歌
気仙沼市立松岩中学校校歌(作詞:水上不二)
桐生市立西中学校校歌(作詞:村野四郎)
木更津市立清川中学校校歌(作詞:倉澤栄吉)
共立女子学園歌
川越市立東中学校校歌(作詞:小林純一)
川越市立大東中学校校歌(作詞:石森延男)
川口市立青木中学校校歌(作詞:服部嘉香)
共立女子第二中学校・高等学校旧校歌
岐阜県立池田高等学校校歌(作詞:こわせたまみ)
協同組合短期大学校歌(作詞:小林純一)
越谷市立武蔵野中学校校歌(作詞:山崎一男、監修:神保光太郎)
北区立赤羽台西小学校校歌(作詞:小林純一)
北区立八幡小学校校歌
小金井市立東小学校校歌(作詞:水上不二)
狛江市立狛江第四中学校校歌(作詞:こわせたまみ)
小平市立小平第一小学校校歌(作詞:土屋忠司)
小平市立小平第二中学校校歌(作詞:小林純一)
小平市立小平第十小学校校歌(作詞:与田準一)
小平市立小平第十五小学校校歌(作詞:小林純一)
小平市立花小金井小学校校歌
行田市立東小学校校歌(作詞:山口平八)
江東区立大島中学校校歌(作詞:深尾須磨子)
弘学館中学校・高等学校校歌(作詞:こわせたまみ)
古河市立三和東中学校校歌(作詞:こわせたまみ)
川口市立八幡木中学校校歌(作詞:小林純一)
越谷市立弥栄小学校校歌(作詞:宮中雲子)
川口市立安行小学校校歌(作詞:白鳥省吾)
川口市立根岸小学校校歌(作詞:勝承夫)
川口市立南鳩ヶ谷小学校校歌(作詞:小林純一)
御殿場市立南中学校校歌(作詞:浜野卓也)
埼玉県立所沢商業高等学校校歌
さいたま市立植竹小学校校歌(作詞:大木実)
さいたま市立植竹中学校校歌(作詞:大木実)
さいたま市立上里小学校校歌
さいたま市立栄小学校校歌(作詞:神保光太郎)
さいたま市立指扇中学校校歌
さいたま市立大東小学校校歌(作詞:勝承夫)
さいたま市立三室小学校校歌(作詞:勝承夫)
さいたま市立与野西中学校校歌(作詞:吉沢光平)
佐賀県立武雄青陵高等学校校歌→佐賀県立武雄青陵中学校(作詞:田坂守人)
坂戸市立坂戸中学校校歌(作詞:小林純一)
坂戸市立坂戸小学校校歌(作詞:小林純一)
相模原市立共和中学校校歌(作詞:こわせたまみ)
狭山市立東中学校校歌(作詞:小林純一)
志木市立志木第二中学校校歌(作詞:石森延男)
四国中央市立東中学校校歌
四条畷市四条畷西中学校校歌
静岡市立玉川小学校校歌(作詞:野田しげみ)
庄内町立余目中学校校歌
杉並区立永福南小学校校歌(作詞:藤田伸二)
草加市立稲荷小学校校歌(作詞:小林純一)
世田谷区立船橋中学校校歌
世田谷区立多聞小学校校歌(作詞:神川漁史)
高崎市立新町第一小学校校歌(作詞:小林純一)
高崎市立新町第二小学校校歌(作詞:小林純一)
高崎市立高松中学校校歌
高松市立紫雲中学校校歌(作詞:河西新太郎)
立川市立西砂小学校校歌(作詞:小林純一)
立山町立立山中央小学校校歌
茅野市立永明中学校校歌(作詞:尾崎喜八)
調布市立飛田給小学校校歌(作詞:小海永二)
都留市立都留第一中学校校歌(作詞:江間章子)
筑後市立下妻小学校校歌
豊島区立大成小学校校歌
所沢市立清進小学校校歌
所沢市立山口小学校校歌(作詞:小林純一)
富山大学人間発達科学部附属幼稚園園歌(作詞:笹倉修)
所沢市立並木小学校校歌(作詞:こわせたまみ)
所沢市立若狭小学校校歌(作詞:小林純一)
千葉市立千草台小学校校歌
千葉市立花園小学校校歌
千葉大学教育学部附属中学校校歌(作詞:白鳥省吾)
燕市立燕北中学校校歌
東京電機大学中学・高等学校校歌「風よ光よ」(作詞:宗左近)
東京都立国分寺高等学校校歌(作詞:仁平忠彦)
東京都立神津高等学校校歌(作詞:小林純一)
栃木県立足利高等学校校歌
富山県立高岡南高等学校校歌(作詞:谷川俊太郎)
富山医科薬科大学校歌
学校法人東京聖徳学園学園歌(作詞:サトウハチロー)
取手市立井野小学校校歌(作詞:川上宏昭)
取手市立白山西小学校校歌(作詞:川上宏昭)
登米市立佐沼中学校校歌(作詞:巽聖歌)
豊田市立豊南中学校校歌(作詞:清水孝之)
長浜市立長浜小学校校歌
長岡市立山本中学校校歌
長野市立東北中学校校歌(作詞:傳田青磁)
長野県梓川高等学校校歌(作詞:佐藤春夫)
長野県伊那弥生ヶ丘高等学校校歌(作詞:宮澤章二)
長野県豊科高等学校校歌(作詞:尾崎喜八)
名古屋市立清水小学校校歌(作詞:巽聖歌)
名古屋市立戸笠小学校校歌「戸笠の子」(作詞:青野静枝、校歌作成委員会補作)
習志野市立秋津小学校校歌「秋津のうた」(作詞:小林純一)
新潟県立新潟中央高等学校校歌(作詞:深尾須磨子)
新潟市立竹尾小学校校歌(作詞:こわせたまみ)
新潟市立牡丹山小学校校歌(作詞:石森延男)
新潟青陵大学・新潟青陵大学短期大学部学園歌(作詞:三好達治)
新潟大学教育学部附属新潟中学校校歌(作詞:金子彦二郎)
日本放送協会学園高等学校旧校歌(作詞:清水繁男)
ニューヨーク日本人学校校歌
練馬区立大泉学園小学校校歌(作詞:大泉学園小学校)
練馬区立関町小学校校歌
西尾市立中畑小学校校歌(作詞:サトウハチロー)
沼津市立長井崎中学校校歌→沼津市立長井崎小中一貫学校校歌(作詞:相磯和嘉)
羽村市立羽村第二中学校校歌[8](作詞:小林純一)
半田市立青山中学校校歌(作詞:倉沢栄吉)
東大和市立第四小学校校歌(作詞:小林純一)
広島県立呉商業高等学校校歌
広島県立広島工業高等学校校歌(作詞:葛原滋)
広島市立二葉中学校校歌
広島市立中島小学校校歌
平塚市立金目小学校校歌(作詞:清水みのる)
平塚市立南原小学校校歌(作詞:諸伏靖夫)
福岡県立久留米高等学校校歌(作詞:丸山豊)
富士市立原田小学校校歌(作詞:吉田とし)
富士見市立みずほ台小学校校歌(作詞:山本慎治、補作:吉田瑞穂)
文京区立本郷小学校校歌(作詞:宮中雲子)
東松山市立南中学校校歌(作詞:小林純一)
東久留米市立西中学校校歌(作詞:こわせたまみ)
東久留米市立小山小学校校歌
福山市立鷹取中学校校歌(作詞:木下夕爾)
福井県立福井商業高等学校校歌
福生市立福生第二小学校校歌
舞鶴市立若浦中学校校歌
みその幼稚園園歌
三次市立甲奴中学校校歌
水戸市立新荘小学校校歌(作詞:小林純一)
水戸市立双葉台小学校校歌(作詞:小林純一)
目黒区立宮前小学校校歌(作詞:曾野綾子)
町田市立忠生第五小学校校歌
山形県立鶴岡中央高等学校校歌(作詞:こわせたまみ)
八街市立実住小学校校歌(作詞:小林純一)
八街市立八街中学校校歌(作詞:小林純一)
大和市立上和田中学校校歌(作詞:こわせたまみ)
横須賀市立田戸小学校校歌
横須賀市立追浜中学校校歌(作詞:小林純一)
横浜国立大学教育学部附属鎌倉中学校・横浜国立大学教育学部附属鎌倉小学校 学園の歌「山のすがた」(作詞:深尾須磨子)
横浜市立新井中学校校歌(作詞:和多史雄)
横浜市立いずみ野小学校校歌(作詞:八木橋雄次郎)
横浜市立左近山第二小学校校歌(作詞:江間章子)
横浜市立東希望が丘小学校校歌「マーガレットの花」(作詞:江間章子)
横浜市立南希望が丘中学校校歌(作詞:こわせたまみ)
横浜市立つつじが丘小学校校歌(作詞:こわせたまみ)
横浜市立日野南小学校校歌(作詞:江間章子)
横浜市立峯小学校校歌
横浜市立矢部小学校校歌「わかぎ」(作詞:佐藤さとる)
横浜市立葛野小学校校歌(作詞:石本美由起)
横浜市立万騎が原小学校校歌(作詞:こわせたまみ)
横浜市立秋葉中学校校歌(作詞:椋鳩十)
横浜市立上飯田中学校校歌(作詞:江田祐吉)
横浜市立川和中学校校歌(作詞:江間章子)
横浜市立戸塚中学校校歌(作詞:高橋惇)

<著書>
1. 実用和声学(音楽之友社、1957年)
2. メロディーの作り方(音楽之友社、1960年)
3. だれでも弾けるやさしい伴奏(音楽之友社、1986年)
4. 音楽と人生(音楽之友社、1994年)
5. 中田喜直住居跡モニュメントは東京都渋谷区恵比寿4-16-9。2009年ここに中田喜直の住居跡に隣接して「景丘ちいさい秋公園」が整備された
  渋谷区立 景丘ちいさい秋公園(中田喜直住居跡) – 恵比寿 – 0個のTips

ちいさい秋見つけてしまいました


6. 2010年6月26日開催の中田喜直生誕90周年を記念セレモニーにて東京都立井の頭恩賜公園内に「中田喜直記念歌碑」が建立公開された
  ちいさい秋みつけた 作曲家・中田喜直氏の記念歌碑 … – 武蔵野市観光機構

♪ちいさい秋みつけた♪ 作曲家・中田喜直氏の記念歌碑(井の頭公園)


7. JR三鷹駅開業80周年記念したイベントの一環として、地元に縁のある作曲家・中田喜直(1923-2000)の代表作、童謡「めだかの学校」が2010年6月26日から同駅の発車メロディーに
使用されている…
JR三鷹駅-ご当地駅メロディー資料館-ご当地メロディー
http://7-pref.com/gotochi_mitaka.htm

7.その他

8.初演

9.関連動画

1.中田章 作曲 

早春賦

2.中田喜直 作曲

夏の思い出

ねむの花

よみがえる光 合唱:西南女子学院高校音楽部

霧と話した

六つの子供の歌より 風の子供

六つの子供の歌より おやすみ

六つの子供の歌より たあんきぽーんき

六つの子供の歌より うばぐるま

六つの子供の歌より ねむの木

六つの子供の歌より 鳥

くりやまの歌

こだまでしょうか

「ほしとたんぽぽ」より たいりょう

「ほしとたんぽぽ」より みんなすきに

ピアノ曲

小さい秋見つけた  福岡鮮鶴合唱団

雪の降る街を

めだかの学校

心の窓に灯を

べこの子うしの子

別れの歌(札幌冬季五輪閉会式テーマソング)

10.家系


祖父 中田平吉、旧会津藩士・皇宮警察警部
1.中田家は代々会津藩で鉄砲頭を務めてきた。
中田平吉は旧会津藩士。明治維新後に東京に出て現在の皇宮警察に務め警部であったが、50才で公務死している。
平吉の妻タツも会津藩士の娘で、タツの兄は白虎隊の隊員だった。

父 中田章、日本の作曲家・オルガニスト
2.1886年に生まれ~1931年45才で没した。
中田家の長男として東京に生まれ、他に7人の弟姉妹がおり末の雪江は東京音楽学校で学んだ。高嶺秀夫の奨めで父の反対を押し切って東京音楽学校(現・東京藝術大学)に進む。
1907年(明治40年)甲種師範科及び研究科卒業。
翌1908年には山田耕筰が、1909年には本居長世が卒業している。
音楽家の道を選べたのは母・タツの理解があったからと伝えられている。章の妻こうは、日本の代表的画家・奥村土牛の従姉。
やがて章は東京音楽学校助教授としてオルガンと音楽理論を教えた。また、音楽教師を養成する東京音楽学校予科の主任を務め音楽教師養成にも尽くした。、卒業生が全国の小学校に赴任し、《早春賦》を歌い広めたと言われている。また大韓帝国皇太子に唱歌を教えたと言われている。
当時、中田章といえばオルガンの名演奏家として知られていた
1913年(大正2年)、唱歌「早春賦」発表される(※注1-1)。「早春賦まつり」(※注1-2)
1920年(大正9年)11月22日、日本最初の音楽ホール・南葵楽堂(※注2-1)が完成し、お披露目・音楽会で東京音楽学校助教授・中田章がバッハ「ニ短調プレリュード」と、ライケルバーガーの「イ短調ソナタから間奏曲」を演奏した
1929年、大礼記念章受章する
1931年(昭和6年)11月27日結核を患い病床にいることが多かったが45才で没

(※注1-1)早春賦の歌詞は吉丸一昌(かずまさ)が東京音楽学校教え子の当時、旧制長野県立大町中学校音楽教師であった島田顕治郎の語る「春遅き大町地方の情景」から詩想を得て作詞したといわれているが、明治44年大町中学創立十周年記念として校歌の作詞を頼まれ、雪どけの大町を訪れているので、その情景もふまえ大町付近を題材にしていると考えられる。その歌碑がいま安曇野市の大町文化会館、穂高川河川敷のほとりに建っている。
吉丸の早春賦は2曲存在する。最初は1912年(大正元年)11月2日に「待たるゝ春」と題し作詞した。歌詞の一番は、”春は名のみの風の寒さや。谷の鶯、うたは思へど。時にあらずと音も立てず”」である。そして「早春賦」と題して作曲を東京音楽学校研究科生で授業補助の船橋榮吉に依頼した。出来上がった曲は、変ホ長調、6/8拍子。この曲を12月14日開催「東京音楽学校学友会主催」の「第3回土曜演奏会」第1部最後の番外として本科声楽部学生、安藤文子が独唱した。この楽譜は雑誌「音楽」第4巻1号の中に付録として掲載され現存する。尋常小学唱歌の作詞委員会代表でもあった吉丸一昌が、この歌を聴いて急きょ、同僚の中田章に作曲を依頼した理由は定かではない。中田章作曲の”早春賦”歌詞は、”春は名のみの風の寒さや。谷の鶯、うたは思へど。時にあらずと聲も立てず”で音は聲に変わっている。中田の曲は”時に”からの部分を、リフレイン(反復句)となっている。中田作曲の早春賦は1913年(大正2年)2月5日「新作唱歌」全10集として発表した中の一作で第三集に掲載され敬文館から発売された。
作詞した吉丸一昌は1873年、現・臼杵市海添に生まれた。大分中学卒~第五高等学校卒~東京帝大国文科卒~東京府立第三中学校に奉職後~東京音楽学校に奉職し国語を教えた。作詞に桃太郎、日の丸、池の鯉、かたつむり等々がある。

(※注1-2)「早春賦まつり)NHKが名曲アルバムを企画し早春賦の歌碑のある臼杵市へ問い合わせたところ臼杵市の元図書館長・高橋長一は「臼杵には雪は無いよ。早春賦の舞台は安曇野だよ」と返事した。昭和58年の春、NHKテレビで安曇野を背景にした「早春賦」が流れた。この放送がきっかけとなり、西川久寿男が主導し1984年(昭和59年)春、穂高川右岸の堤防に歌碑が建った。この年の4月29日から毎年、歌碑の前で早春賦の作詞者・吉丸一昌の長男と長男の妻と長男の娘、と中田章の二男で作曲家の一次、一次の妻・英子とともに章の四男・民夫とを迎えて「早春賦まつり」がおこなわれるようになった。1985年(昭和60年)からは、一次の長女・中田順子(ソプラノ歌手・二期会会員)が毎年出席している。2001年(平成13)4月9日一次が亡くなってからは一次の長男・基彦(中田音楽事務所社長)、吉丸一昌の孫・吉丸昌昭が出席するようになる。
「早春賦祭り」とはべつに、2004年(平成16年)に国営の「アルプスあづみの公園」ができ、翌年5月4日に市民参加型の「早春賦音楽祭」が開かれるようになった

(※注2-1)1916年(大正5年)紀州徳川家の第16代当主・徳川頼貞は楽堂の設計をサー・ブルメル・トーマスに依頼し、米人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(※注2-2)に建築を依頼した。1918年(大正7年)7月30日徳川頼貞・飯倉邸内(現・港区麻布飯倉6ー14、麻布小学校がある)に、日本最初の音楽ホール、座席数350名の南葵楽堂が完成した。2年後1920年(大正9年)春、イギリス製パイプオルガンが日本に到着し11月初旬に完成した。同年11月22日、そのお披露目音楽会第一日の招待日は、午後2時半開場、伏見宮貞愛親王はじめ多数の皇族方が出席された。初めにグスターヴ・クローン教授指揮・東京音楽学校管弦楽団によるベートーヴェンの「エグモンド序曲」、次いでベートーヴェンの交響曲第三番・英雄を演奏。三番目に東京音楽学校助教授・中田章がバッハ「ニ短調プレリュード」と、ライケルバーガーの「イ短調ソナタから間奏曲」を演奏した。これが日本初のパイプオルガン演奏だった。音楽会は第2日、第3日と続いた。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で南葵楽堂は被害を受け取り壊され、1928年(昭和3年)9月東京音楽学校にパイプオルガンは引き取られた。今も上野の旧奏楽堂にある

(※注2-2)ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories、1880年10月28日カンザス州レブンワースに生まれる。1900年イーストデンバー高校を卒業。コロラドカレッジ理工系課程に入学し、YMCA活動を開始する。1902年学生宣教義勇軍大会での講演に感激し、外国伝道への献身を決意する。1904年コロラドカレッジ哲学科卒業。コロラドスプリングYMCAの主事補。1905年滋賀県立商業高校英語教師として来日。1908年京都で建築設計監督事務所を開業する(後のヴォーリズ建築事務所)。1920年建築家のレスター・チェーピン、吉田悦蔵と3人で「ヴォーリズ合名会社」設立する。1918年結核療養所「近江療養院」(近江サナトリアム、現ヴォーリズ記念病院)開設1919年子爵令嬢一柳満喜子と結婚。結婚式は自らが設計した明治学院の礼拝堂で挙げた。1920年ヴォーリズ合名会社を解散し「W・M・ヴォーリズ建築事務所」および「近江セールズ株式会社」を設立。1930年母校コロラドカレッジよりLLD(名誉法学博士号)を受ける。1934年 「近江ミッション」を「近江兄弟社」と改称、また「湖畔プレス社」を設立する。1941年日本国籍を取得し、一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と改名。ヴォーリズ建築事務所を一柳建築事務所と改称する。1945年マッカーサーと近衛文麿との仲介工作をおこなう。1951年藍綬褒章を受章(社会公共事業に対する功績による)。また、「失敗者の自叙伝」を「湖畔の声」に連載(1957年まで)。1957年くも膜下出血のため、軽井沢で倒れ、療養生活に入る。1958年近江八幡市名誉市民第1号に選ばれる。1961

参考文献:「夏がくれば思い出す(評伝 中田喜直)」牛山剛著 新潮社 随筆集「音楽と人生」中田喜直著 音楽之友社 「クラシック作曲家辞典」中河原理監修、フェニックス企画編 東京出版堂 「音楽史(音楽講座)」堀内敬三著 音楽之友社 「音楽文庫・日本音楽史」伊庭孝著 講談社 「wikipedia」 https://ja.wikipedia.org/wiki/中田喜直 https://ja.wikipedia.org/wiki/中田一次 https://profile.ne.jp/w/g-8262/ http://www.kinet.or.jp/akazawa/ https://ja.wikipedia.org/wiki/吉丸一昌 http://www.chohoji.or.jp/tokugawa/raitei_gakudou.htm 「江戸東京年表」吉原健一郎・大濱徹也編 小学館 「日本史・世界史 同時代比較年表」楠木誠一郎著 朝日新聞出

生年代:1923年 大正12年

没年代:2000年 平成12年

日本の元号:大正~昭和~平成

時代:大正・昭和・平成