10.中田喜直 家系
<家族>
祖父:中田平吉
祖母:中田タツ
父:中田 章 45才で歿。作曲家・オルガニスト、東京音楽学校(元東京芸術大学)教授。唱歌《早春賦》の作曲で知られている
母:中田こう(日本画家・奥村土牛の従姉)
長兄・中田肇は一才の誕生日前に夭折
二兄・中田一次 80才で歿。作曲家・指揮者・ファゴット奏者。東京音楽学校卒(東京藝術大学)、東京音楽学校講師、東京藝術大学助教授、山形大学音楽科教授、昭和音楽大学短期大学部教授、昭和音楽大学短期大学部名誉教授、東京フィルハーモニー管弦楽団ファゴット奏者、日本ファゴット協会会長(元名誉会長)昭和30~40年代NHKラジオ「音楽の泉」のテーマ曲《楽興の時》の編曲者として知られている。
三男・中田喜直 作曲家・ピアニスト、テレビ朝日番組審議委員、日本作曲家協議会理事、フェリス女学院大学音楽学部教授・名誉教授
弟・中田民夫 教師・学校長
<中田喜直の家族>
中田喜直
最初の妻・高橋浄子
後の妻:中田幸子:フェリス女学院大学音楽科及び専攻科卒業。声楽を三宅 春惠氏、江口元子氏に師事。指揮法を山田一雄氏に学ぶ。フランス、ナント市での国際声楽コンクールをはじめ、合唱、オペラオーディション等の審査員を数多く務める。又、多くの合唱の指導、声のトレーナーとしても活躍している。
現在、ナカダ音楽事務所・音楽出版ハピーエコー代表者。神戸市混声合唱団音楽監督、女声合唱団「みずばしょう」「アンサンブル・フリージア」、混声合唱「アンサンブル・メイ」等の指導及び指揮者
フェリス女学院評議員。神戸市演奏会協会理事、国際ソロプチミスト会員。横浜音楽文化協会会員、2020年日本歌曲コンクールin薬師寺/審査員(主 催:公益財団法人 日本ドイツ歌曲協会)
祖父:中田平吉について
旧会津藩士・皇宮警察警部
中田家は代々会津藩で鉄砲頭を務めてきた。
中田平吉は旧会津藩士。明治維新後に東京に出て現在の皇宮警察に務め警部であったが、50才で公務死した。
平吉の妻タツも会津藩士の娘で、タツの兄は白虎隊の隊員だった。
父:中田 章について
東京府士族
日本の作曲家・オルガニスト・東京音楽学校助教授(教授に昇任の翌日退官)・教育者
1886年(明治19年)8月7日中田家の長男として東京市四谷区大番町十番地生。1931年45才没。
1900年(明治33年)4月10日 早稲田中学校入学。
1903年(明治36年)3月31日 同校卒業。
高嶺秀夫の奨めで父の反対を押し切って東京音楽学校(現・東京藝術大学)を受験した。
音楽家の道を選べたのは母・タツの理解があったからと伝えられている。
1904年(明治37年)4月23日 東京音楽学校甲種師範科入学。
中田章には七人の弟姉妹がおり末の雪江は東京音楽学校で学んだ。
1907年(明治40年)3月23日甲種師範科卒業。
4月10日東京音楽学校授業補助。私立高輪中学校唱歌授業嘱託。
4月11日東京音楽学校研究科に進む
7月6日明治40年(1907年)開設の師範学校中学校高等女学校等夏期講習会講師補助を命ぜらる。
翌1908年には山田耕筰が、1909年には本居長世が卒業している。
1909年(明治42年)9月29日東京音楽学校研究科卒業。
10月1日本校オルガン講師補助嘱託。オルガン、唱歌、和声論などを教えた
1912年(大正元年)10月16日任東京音楽学校補助教授。
11月2日東京音楽学校教授の吉丸一昌が学生の作曲用テキストとして書いた詞に、当時、東京音楽学校補助教授だった中田章が依頼され曲を付けた。歌詞は1913年(大正2年)2月発行、吉丸一昌編『新作唱歌第三集』(東京敬文館発行)第三版に初出版した。
1913年(大正2年)唱歌《早春賦》発表される(作詞:吉丸一昌※註.1)
<昭和二十二年発行の『六年生の音楽』(文部省)には、「早春の歌」のタイトルで掲載された。へ長調から変ホ長調に下げられ、三番が削除された。現在は三番まで歌われています。>
1919年(大正8年)7月4日大正七年度師範学校中学校高等女学校教員等講習会講師嘱託。音楽教師を養成する東京音楽学校予科の主任を務め音楽教師養成にも尽くした。
1920年(大正9年)11月22日日本最初の音楽ホール・南葵楽堂(※註.3)が完成し、お披露目音楽会で東京音楽学校助教授・中田章がバッハ「ニ短調プレリュード」と、ライケルバーガーの「イ短調ソナタから間奏曲」を演奏した
1923年(大正12年)6月25日東京音楽学校助教授兼、任第四臨時教員養成所教授。
1928年(昭和3年)10月病気のため退官を願い出たところ、多年勤続成績優秀と認められ、10月30日東京音楽学校教授に昇任した。音楽学校では1912年(大正元年)10月から助教授であり、教授職を務めていないが、最終経歴は音楽学校教授と称しうるとした。
10月31日依願免本官。
1929年大礼記念章受章(大正天皇即位の大礼記念の表彰として制定された。践祚の式並びに即位の大礼および大嘗祭に招かれた者、在所各地において餐餌を賜った者、大礼の事務に及び伴う要務に関与した者が受章した)
1931年(昭和6年)11月27日結核を患い病床にいることが多くなった。45才で没。
卒業生が全国の小学校に赴任し、《早春賦》を歌い広めたと言われている。また大韓帝国皇太子に唱歌を教えたと言われている。
当時、中田章といえばオルガンの名演奏家として知られていた
『「東京藝術大学百年史」「東京音楽学校一覧」および国立公文書館蔵「任免裁可書」によると、
“東京音楽学校で授業補助-講師補助-助教授と昇格し、オルガン、唱歌、和声論などを教え、大正十二年六月、東京音楽学校助教授 兼 第四臨時教員養成所教授(この養成所は大正十一年四月音楽学校内に設置された)となった。昭和三年十月病気のため退官を願い出たところ、多年勤続成績優秀と認められ、十月三十日東京音楽学校教授に昇任、翌日退官した。音楽学校では大正元年十月から助教授であり、教授職を務めていないが、最終経歴は音楽学校教授と称しうる。”』
『』内引用/https://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyo00meiji2.htm#soshunfu/なっとく童謡・唱歌メニューページより
<早春賦歌碑>
長野県大町市文化会館前庭に「早春賦発祥の地」の歌碑が平成十二年十一月建立された。
安曇野市の早春賦公園は穂高川堤防に三基の歌碑があり、ゆかりの説明の銅版がはめ込まれている詞碑と説明碑が昭和1984年(昭和59年)にできた。この年の4月29日から毎年、(「早春賦まつり」※註.2)
がおこなわれるようになった。
写真は建立された当時のものと思われる>
。
(早春賦の歌詞※註.1)は東京音楽学校国語と作歌の教授であった吉丸一昌(かずまさ)の作詞である。
東京音楽学校の教え子で、当時旧制長野県立大町中学校音楽教師であった島田顕治郎の語る「春遅き大町地方の情景」から詩想を得て作詞したといわれているが、明治44年大町中学創立十周年記念として校歌の作詞を頼まれ、雪どけの大町を訪れているので、その情景もふまえ大町付近を題材にしていると考えられる。その歌碑がいま安曇野市の大町文化会館、穂高川河川敷のほとりに建っている。
吉丸の早春賦は二曲存在する。最初は1912年(大正元年)11月2日に「待たるゝ春」と題し作詞した。歌詞の一番は、”春は名のみの風の寒さや。谷の鶯、うたは思へど。時にあらずと音も立てず”」である。そして「早春賦」と題して作曲を東京音楽学校研究科生で授業補助の船橋榮吉に依頼した。出来上がった曲は、変ホ長調、6/8拍子。この曲を12月14日開催「東京音楽学校学友会主催」の「第三回土曜演奏会」第一部最後の番外として本科声楽部学生、安藤文子が独唱した。この楽譜は雑誌「音楽」第4巻1号の中に付録として掲載され現存する。尋常小学唱歌の作詞委員会代表でもあった吉丸一昌が、この歌を聴いて急きょ、同僚の中田章に作曲を依頼した理由は定かではない。中田章作曲の”早春賦”歌詞は、”春は名のみの風の寒さや。谷の鶯、うたは思へど。時にあらずと聲も立てず”で音は聲に変わっている。中田の曲は”時に”からの部分を、リフレイン(反復句)となっている。中田作曲の早春賦は1913年(大正2年)2月5日「新作唱歌」全10集として発表した中の一作で第三集に掲載され敬文館から発売された。
作詞した吉丸一昌は1873年(明治6年)9月15日豊後国北海部郡海添村(現・大分県臼杵市海添)に生まれた。1879年(明治12年臼杵学校へ入学。臼杵学校卒業後、大分県尋常中学校(現・大分上野丘高校)、熊本の第五高等学校(現・熊本大学)で学び、ここで夏目漱石と出会う。第五高等学校卒~東京帝国大学文科大学国文学科入学。1901年(明治34年)7月10日東京帝国大学文科大学国文科を卒業~1902年(明治35年)東京府立第三中学校(現・両国高校)授業嘱託。5月16日東京府立第三中学校教諭に任ぜられた。ここでは芥川龍之介を教えている。後~東京音楽学校に奉職し国語を教えた。1908年(明治41年)東京音楽学校教授。東京音楽学校生徒監に任命された。作詞に桃太郎、日の丸、池の鯉、かたつむり等々がある。
<写真、1993年(平成五年)吉丸一昌生誕百二十年記念に大分県臼杵市の州崎中央公民館に、音譜碑建立された。>
(「早春賦まつり」※註.2)は、NHKが名曲アルバムを企画し早春賦の歌碑のある臼杵市へ問い合わせたところ臼杵市の元図書館長・高橋長一は「臼杵には雪は無いよ。早春賦の舞台は安曇野だよ」と返事した。昭和58年の春、NHKテレビで安曇野を背景にした《早春賦》が流れた。この放送がきっかけとなり、西川久寿男が主導し1984年(昭和59年)春、穂高川右岸の堤防に歌碑が建った。この年の4月29日から毎年、歌碑の前で「早春賦」の作詞者・吉丸一昌の長男と長男の妻と長男の娘、と中田章の二男で作曲家の一次、一次の妻・英子とともに章の四男・民夫とを迎えて「早春賦まつり」がおこなわれるようになった。1985年(昭和60年)からは、一次の長女・中田順子(ソプラノ歌手・二期会会員)が毎年出席している。2001年(平成13)4月9日一次が亡くなってからは一次の長男・基彦(中田音楽事務所社長)、吉丸一昌の孫・吉丸昌昭が出席するようになる。
「早春賦祭り」とはべつに、2004年(平成16年)に国営の「アルプスあづみの公園」ができ、翌年5月4日に市民参加型の「早春賦音楽祭」が開かれるようになった
➀写真は長野県安曇野、穂高川堤防沿いに建立されている「早春賦の碑」➀➁⓷とも2018年7月16日編者撮影。
➁写真は長野県安曇野、穂高川堤防沿いに建立されている作詞者吉丸一昌と作曲者中田章の「早春賦」の楽譜碑
⓷写真は長野県安曇野、穂高川堤防沿いに建立されている「早春賦ふるさと碑」
(※註.3南葵楽堂)は、1916年(大正5年)紀州徳川家の第16代当主・徳川頼貞は楽堂の設計をサー・ブルメル・トーマスに依頼した。
米人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズに建築を依頼。(※註.4)
1918年(大正7年)7月30日徳川頼貞飯倉邸内(現・港区麻布飯倉6ー14、麻布小学校がある)に、日本最初の音楽ホール、座席数350席の南葵楽堂が完成した。
<写真、現在は和歌山県で管理>
2年後1920年(大正9年)春、イギリス製パイプオルガンが日本に到着し11月初旬に完成した。同年11月22日そのお披露目音楽会第一日の招待日は、午後2時半開場、伏見宮貞愛親王はじめ多数の皇族方が出席された。初めにグスターヴ・クローン教授/指揮・東京音楽学校管弦楽団によるベートーヴェンの《エグモンド序曲》、次いでベートーヴェン《交響曲第三番》「英雄」を演奏。三番目に東京音楽学校助教授・中田章がバッハ《ニ短調プレリュード》と、ライケルバーガーの《イ短調ソナタ》「間奏曲」を演奏した。これが日本初のパイプオルガン演奏だった。音楽会は第2日、第3日と続いた。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で南葵楽堂は被害を受け取り壊され、1928年(昭和3年)9月東京音楽学校にパイプオルガンは引き取られた。今は上野の旧奏楽堂にある
<写真、大正年間「南葵文庫」奏楽堂内部>
(※註.4ウィリアム・メレル・ヴォーリズ)(William Merrell Voriesは近江兄弟社「メンソレータム」の創業者である。
1880年10月28日カンザス州レブンワースに生まれた。
1900年イーストデンバー高校を卒業。コロラドカレッジ理工系課程に入学し、YMCA活動を開始する。
1902年学生宣教義勇軍大会での講演に感激し、外国伝道への献身を決意する。
1904年コロラドカレッジ哲学科卒業。コロラドスプリングYMCAの主事補。
1905年滋賀県立商業高校英語教師として来日。
1908年京都で建築設計監督事務所を開業する(後のヴォーリズ建築事務所)。
1918年結核療養所「近江療養院」(近江サナトリアム、現ヴォーリズ記念病院)開設。
1919年子爵令嬢一柳満喜子と結婚。結婚式は自らが設計した明治学院の礼拝堂で挙げた。
1920年建築家のレスター・チェーピン、吉田悦蔵と三人で「ヴォーリズ合名会社」設立する。
同年ヴォーリズ合名会社を解散し「W・M・ヴォーリズ建築事務所」および「近江セールズ株式会社」を設立。
1930年母校コロラドカレッジよりLLD(名誉法学博士号)を受ける。
1934年 「近江ミッション」を「近江兄弟社」と改称、また「湖畔プレス社」を設立する。
1941年日本国籍を取得し、一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と改名。ヴォーリズ建築事務所を一柳建築事務所と改称する。
1945年マッカーサーと近衛文麿との仲介工作をおこなう。
1951年藍綬褒章を受章(社会公共事業に対する功績による)。また、「失敗者の自叙伝」を「湖畔の声」に連載(1957年まで)。1957年くも膜下出血のため、軽井沢で倒れ、療養生活に入る。
1958年近江八幡市名誉市民第1号に選ばれる。
写真、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ夫妻
<もう一つの早春賦>
船橋栄吉:作曲の『早春賦』
一、春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思へど
時にあらずと 音(ね)もたてず
二、氷解け去り 急(いそ)な角ぐむ
さては時ぞと なおもあやにく
昨日も今日も 雪の空
三、春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急かるゝ もゆる思を
梅はそよげの つれなしや