ジュゼッペ・ヴェルディ

    生没年・出身地・歿地・墓地
    ジュゼッペ・ヴェルディ生誕 Giuseppe Fortunino Francesco Verdi
    オペラ王ともいわれる

    (1813年10月10日パルマ、ブッセート近郊の村レ・ロンコーレ生) 
    (1901年1月27日ミラノで歿)

    1.職業


    イタリアのオペラ作曲家

    2.称号


    生涯上院議員の称号をイタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ二世より授かる

    3.家系


    先祖を辿ると300年の間、エメリア=ロマーニャ州ピアチェンツァ県ヴィッラノヴァ・スッラルダのサンターガタに住んでいたといわれている
    高祖父の父:ヴィンチェンツォVincenzo Verdiは1660年イタリアで生まれた
    高祖父の妻:不明
    1686年に一番目の男子ヴィンチェンツォⅡVincenzo VerdiはサンターガタSant’ Agata, Italyで生まれた
    1696年に二番目の男子ジョヴァンGiovanni VerdiはサンターガタSant’ Agata, Italyで生まれた
    高祖父:ヴィンチェンツォⅡVincenzo Verdiは1686年サンターガタSant’ Agata, Italyで生まれた
    高祖母:不明
    1717年に一番目の男子マルカントニオMarcantonio Verdiはイタリアで生まれた
    1722年に二番目の男子マッテオMatteo VerdeはAvellino, Avellino, Campania, Italy南イタリアのカンパニア地方にあるアヴェッリーノ県の州都であるアヴェッリーノ町で生まれた
    曾祖父:マルカントニオMarcantonio Verdiは1717年イタリアで生まれた
    曾祖母:不明
    1742年に一番目の女子ジョヴァンナ・マリアGiovanna Maria VerdiはサンターガタSant’ Agata, Italyで生まれた
    1744年に二番目の男子ジュゼッペ・アントニオGiuseppe Antonio VerdiはサンターガタSant’ Agata, Italyで生まれた
    1746年に三番目の女子カロリーナ・ジュゼッパCarolina Giuseppa VerdiはサンターガタSant’ Agata, Italyで生まれた
    1748年に四番目の子カルロCarlo VerdiはサンターガタSant’ Agata, Italyで生まれた
    1751年に五番目の女子マリア・アントニアMaria Antonia VerdiはサンターガタSant’ Agata, Italyで生まれた
    祖父:ジュゼッペ・アントニオGiuseppe Antonio Verdiは1744年サンターガタSant’ Agata, Italyで生まれ、1798年3月1日Busseto, Italyでぼっした(53-54歳)
    祖母:フランチェスカ・ビアンキFrancesca Bianchiは1747年ヴィッラノーヴァVilanova, Italia で生まれ、1807年9月21日Madonna dei Prati, Italy(59-60歳)で没した
    1771年に一番目の男子マルカントニオMarcantonio VerdiはサンターガタSant’ Agata, Italyで生まれた
    1771年に二番目の男子ピエトロ・アントニオPietro Antonio VerdiはサンターガタSant’ Agata, Italyで生まれた
    1773年に三番目の男子マルカントニオMarcantonio VerdiはサンターガタSant’ Agata, Italyで生まれた
    1773年に四番目の女子マーリア・ローザMaria Rosa VerdiはサンターガタSant’ Agata, Italyで生まれた
    1775年に五番目の女子マーリア・ドメーニカMaria Domenica VerdiはサンターガタSant’ Agata, Italyで生まれた
    1777年に六番目の男子マルカントニオMarcantonio VerdiはサンターガタSant’ Agata, Italyで生まれた
    1778年に七番目の女子マリーア・マッダレー・Maria Maddalena VerdiはサンターガタSant’ Agata, Italyで生まれた
    1781年に八番目の女子マリーア・フランチェスカMaria Francesca VerdiはサンターガタSant’ Agata, Italyで生まれた
    1785年8月25日九番目の男子:カルロ・ヴェルディCarlo VerdiはロンコーレRoncole, Italyで生まれた
    父:カルロ・ジュゼッペ・ヴェルディ(1785年8月25日~1865年1月30日Busseto, 歿 (79歳))はエメリア=ロマーニャ州パルマ県ブーセットから南東約5kmの小さな村ロンコーレRoncole,で生まれ、貧しいながらも宿屋と食料品店を営んでいた
    母:ルイージャ・ウッティーニ・ヴェルディLuigia Uttiniは1787年9月28日Saliceto di Piacenza, Italyで生まれ、1851年(63-64歳)で没した。母は紡績女工として働く共働き夫婦であったという。
    1813年10月10日長男ジュゼッペ・フォルトゥニノ・フランチェスコ・ヴェルディGiuseppe Fortunino Francesco VerdiはLe Roncole, Bussetto, PR, Emilia Romagna, Italyで生まれた
    1816年3月20日長女 ジュゼッパ・フランチェスカGiuseppa Francesca VerdiはLe Roncole, Italyで生まれた   

    4.ヴェルディ記録年譜


    1813年
    10月10日ジュゼッペ・ヴェルディは生まれた。父:カルロ・ジュゼッペ・ヴェルディと母:ルイージャ・ウッティーニとの間に最初の子供である。ヴェルディは、当時フランス領になっていたパルマ公国、北イタリアのパルマ県にある小都市ブッセートの郊外からパルマへ向かう4km離れた寒村レ・ロンコーレ (当時の正式はフランス帝国、タロ地区レ・ロンコーレ村) の自宅で、農業以外にも食料品小売や宿、郵便取り扱いなどを行う貧しい家庭の長男として生まれた。この辺りは北イタリアに広がる肥沃なパダーナ平原のほぼ真ん中に位置し、すぐ近くにをポー川がゆるやかに蛇行している。
    レ・ロンコーレは、数十戸の鍛冶を主とする小さな村であった。それでも古くからクレモナからパルマへ抜ける行商人や旅音楽師たちの交通の要衝の地で、それなりににぎわいのある所であった。
    ヴェルディはカトリック教会で洗礼を受け、ヨセフ・フォルトゥニヌス・フランシスクス (Joseph Fortuninus Franciscus) のラテン名を受けた
    登録簿には10月11日付け記録に「昨日生まれた」とあるが、当時の教会歴の日付は日没で変更されていたため、誕生日は9日と10日のいずれの可能性もある。翌々日の木曜日、父は四キロ離れたブッセートの町で新生児の名前をジョセフ・フォルテュナン・フランソワ (Joseph Fortunin François) と申請し、吏員はフランス語で記録した。ブッセートは1808年にパルマ公国とピアチェンツァ公国を併合したフランス第一帝政のタロ地区に組み込まれていた。こうしてヴェルディは、偶然にもフランス市民として誕生することになった。
    後にヴェルディは、母親に続いて、常に10月9日に誕生日を祝っている。この日は、彼自身が自分が生まれた日と信じていたようだ。
    父カルロは、珍しく読み書きもできる人物だったようだ。
    ヴェルディも父の仕事を手伝う利発な少年だった。だが彼は早くも音楽に興味を覚え、旅回りの楽団や村のサン・ミケーレ教会のパイプオルガンを熱心に聴いた。
    下、ロンコーレの生家

    1816年3歳
    3月20日妹ジュゼッパGiuseppa Francesca Verdiがル・ロンコーレLe Roncole, Italyで生まれる。

    1817年4歳
    ヴェルディの音楽的才能は早い時期から認められていたようだ。
    四歳から、ヴェルディは村の校長・オルガニストのピエトロ・バイストロッキからラテン語とイタリア語の個人レッスンを受ける。

    1819年6歳
    地元の初等学校に入学
    レ・ロンコレ教会のオルガンに強い興味を示しバイストロッキからオルガンの演奏の手ほどきを受け学んだ。彼はオルガンが欲しいと父にねだり、父カルロの取引先で音楽好きの裕福な実業家アントニオ・バレッツィの助言もあり両親は息子の才能を伸ばす為、誕生祝に中古のスピネット(卓上型の小さななハープシコード)を買う。
    彼は熱中して弾いた

    1820年7歳
    ロンコーレ村のサン・ミケーレ教会オルガニストP・バイストロッキにオルガンと音楽の初歩を学ぶ。やがて教会のパイプオルガン演奏を任せられる程に上達し評判となる。
    聖歌隊で奉仕し、祭壇の少年として活動したときにすでに明らかであった。
    地元サン・ミケーレ教会のミサの侍童となり聖歌隊、祭壇の少年としてパイプオルガンのふいごを押すで活動に就く。
    下、サン・ミケーレ教会

    1821年8歳
    サン ミケーレ教会オルガニストのP・バイストロッキの死後、ヴェルディは正式な有給のオルガニストに就任する。
    <下は、ブッセートを中心に上下にヴェルディの生地ロンコーレ、青少年時代のブッセート、晩年過ごした先祖の地サンターガタがある。クレモナからサンターガタ、ブッセートを通過しロンコーレを通りパルマに向かう交通の要路であった>

    1823年10歳
    父は小学校を終えた息子の行く末を考え、知人のブッセートの雑貨と酒の卸商人アントニオ・バレッツィAntonio Barezzi(1787-67)に相談した。音楽愛好家であるバレッツィはヴェルディの能力を見抜き、ブッセートで勉強するよう勧めた。
    ヴェルディの両親は少年がブッセートのドン・ピエトロ・セレッティが運営するジンナシオ(公立中高等学校) に彼を入学させることに決め、ブッセートの靴屋の友人Pugnatta宅に預けることにした。
    11月10歳のジュゼッペ ヴェルディは公立中高等学校に進学した。学校に通うためにブッセートに到着し、靴職人プニャッタPugnattaの家に下宿してブッセートの中高等学校に通うようになる。下宿代の半額を稼ぐためにレ・ロンコーレに通ってサン・ミケーレ教会のオルガニストを務めることにした。
    彼を見込んだブッセートの富裕な商人で慈善家、アントニオ・バレッツィAntonio Barezzi(1787-1867))がヴェルディを彼の庇護を得た。
    バレッツィはヴェルディに、ブッセート市立音楽院長でありブッセートのバルトロメオ大聖堂St. Bartolomeo cathedral の楽長(合唱長・オルガニスト)であるすぐれた音楽家であったフェルディナンド・プロヴェシFerdinando Provesi,(1770-1833)に指導を受けさせた。
    ヴェルディはプロヴェシに初めて出会う。
    プロヴェシは、イタリアの著名なオペラ作曲家の一人と見なされていた。プロヴェシはブッセート市立音楽院院長でありブッセート大聖堂楽長(合唱長・オルガニスト)と地元フィルハーモニー協会の指揮者を務めていた。
    プロヴェシは後の有名な作曲家ヴェルディに和声や作曲の手ほどきを教え始める。
    ピエトロ・セレッティ1823年から1825年までブッセートの中高等学校でヴェルディの文法の教師を務めました。彼は情熱的な音楽愛好家であり(彼は単なるアマチュアとしてヴァイオリンを演奏し、神聖な作品の作曲に専念していた)、フェルディナンド・プロヴェシとアントニオ・バレッツィの希望とは対照的に、ヴェルディが教会のキャリアを引き受けることを望んでいた。
    ヴェルディは定期的にブッセートに戻って日曜日に協会のオルガンを演奏し、徒歩で数キロの距離を行き来した。
    すべての生徒と同じように、プロヴェシとともに、ヴェルディは大学教会の合唱団での合唱を通じて、歌唱、聴音などを学んだ。
    ブッセート バルトロメオ大聖堂

    1824年11歳
    ヴェルディは上級学校に入学するため、ラテン語やギリシャ・ラテン古典文学を学びはじめ、それは12歳になるまで続いた。

    1825年12歳
    プロヴェシに才能を認められ二年間の勉強(1823-25)の後、プロヴェシはヴェルディに四年間の作曲コース(1825-29)を許可した。
    その間に、弟子の典型的な関係が確立されていった。
    ヴェルディは、プロヴェシが大学教会での職務上の義務を果たすのを助けた。彼はオルガンの通奏低音(特殊な演奏習慣をともなう低音のパートをいう)を作成した。 写字生として、彼は合唱団とオーケストラのための独立したパートを書いた。 彼は先生が「パルティメント(与えられたバス上に旋律または全声部を即興演奏すること)」でスケッチした作品を完成させた。 彼は、フェルディナンド・パエル、ニコラ・アリアーニ、パオロ・ボンフィチ、アルフォンソ・サヴィ、ジュゼッペ・ニコリーニ、ジュゼッペ・アリノヴィなど、公国で活躍する音楽家による利用可能な声楽と楽器のアンサンブル作品に対応した。 彼は、プロヴェシが職務によって毎年書かなければならなかった多数の作品の代わりに、大学教会で演奏されるオリジナルの音楽も作曲した。

    1826年13歳
    最初の作品を書き始め、ブッセートの楽友協会のメンバーが集まるバレッツィ家に頻繁に通い始めた。ここでやっと本物のピアノに触れることができ、一日中入り浸るようになった。この厚遇に報いるためにバレッツィの商いの手伝い、つまり会計を手伝うことになる。帳簿をつけたり、請求書を発送もした。またバレッツィ家の長女マルゲリータ・バレッツィMargeherita Barezzi(1814-40)に歌とピアノを教えた。彼女はやさしくおとなしい内気な娘で、彼に惹かれていき、彼も同様であった。
    ロンコーレの公開演奏会に代理出演し自作曲を演奏し大成功を収め地元での好評は広まる

    1827年14歳
    ブーセットのバルトロメオ教会楽長兼ブーセット音楽院長のフェルディナンド・プロヴェジが音楽院の講義を聴講できるように図ってくれ、音楽の基礎を身につけることができるようになる
    6月までに、彼は Ginnasi市立中高等学校を優秀な成績で卒業し、フェルディナンド・プロヴェジ Ferdinando Provesi,の下で音楽だけに専念できるようにななった。偶然にも、ヴェルディは彼の故郷での彼の最初の公的なイベントとなったものに代役として参加するよう求められたヴェルディはすぐに成功し、主に自分の音楽を演奏して多くの人を驚かせ、地元で高い評価を得た。

    1829年16歳
    1830 年までに、ヴェルディはフィルハーモニー管弦楽団のリーダーとしての地位を確立した。協会の秘書であるジュゼッペ・デマルデは、『彼に匹敵する者は誰もいなかった』と報告している。ヴィットリオ・アルフィエーリの戯曲に基づいた八楽章のカンタータ《I deliri di Saul》は、ヴェルディが十五歳のときに作曲し、ベルガモで上演された。デマルデGiuseppe Demaldèとバレッツィ Antonio Barezziの両方から絶賛された。
    同年後半、ヴェルディはプロヴェシのもとでの勉強を終え、プロヴェシはもはや彼に教えることはないと宣言した。

    1831年18歳
    ブッセートでは強盗が頻繁に起こり、バレッツィの妻はヴェルディにバレッツィの家に部屋の提供を申し出る。用心のためだった。学業を終えるとプニャッタの所から引っ越し、バレッツィの自宅に引き取られ援助を受けた。
    ヴェルディの音楽の勉強も好調に進み、またますますバレッツィの信望も得ていった。
    そしてバレッツィは、ミラノの音楽院入学のためにブッセートの奨学金制度の申請や手続きを取り計った。

    1832年19歳
    奨学金は認可された。
    6月22日にミラノに着いた。しかし、ミラノ音楽院の入学試験に落ちた。入学の定員はわずかで、年齢制限は超えているし(14才以下が入学資格、彼は18歳だった)、また特別な資質も見出されなかったとされた。一般に不合格は年令のためであったと伝えられているが、実際ピアノの演奏能力や対位法において力不足でもあったこともたしかであった。いずれにせよこのことは彼には生涯忘れ得ぬ屈辱的な出来事となってしまった。
    バレッツィは、スカラ座の指揮者であり、ヴェルディの作曲を「非常に有望」と表現したヴィンチェンツォ・ラヴィーニャVincenzo Lavigna の個人的な弟子になるよう手配し、ヴェルディはミラノに留まり、ラヴィーニャから対位法、フーガのレッスンを受けた。
    ラヴィーニャは有名なオペラ作曲家で、以前はミラノ音楽院のソルフェージュの教師と、スカラ座の歌手の指導者/チェンバロのマエストロと言われていたを務めていた。特にヴェルディに対位法書法をしっかりと教え込んだ。明けても暮れてもカノンとフーガを勉強した。
    ラヴィーニャはヴェルディの才能を認め、各種類の作曲の指導、多くの演劇の鑑賞を勧め又、スカラ座のリハーサルの見学最中に、副指揮者が遅れ臨時にピアノ伴奏に駆り出されることもあった。
    ラヴィーニャはヴェルディにスカラ座の定期会員を勧め、ジョアキーノ・ロッシーニGioachino Rossiniとヴィンチェンツォ・ベッリーニVincenzo Belliniのオペラでマリア・マリブランMaria Malibranを聴いた。
    ヴェルディはミラノの音楽界とのつながりを築き始め、それが彼の役に立った。これらには、ピエトロ・マッシーニPietro Massiniが率いるアマチュア合唱グループ、ソシエタ・フィラルモニカhe Società Filarmonica,へのラヴィーニャによる紹介が含まれていた。
    ピエトロ・マッシーニの指揮するアマチュア合唱団Societa Fiilamonicaを紹介され、ここでロッシーニのオペラのリハーサル・ディレクターやピアノ伴奏を務める機会を得て貴重な経験をすることになる。
    アントニオ・ピアッツァの台本に、最初のオペラ《ロチェステルRocester》を書くように勧めたのはピエトロ・マッシーニだった。

    1833年20歳
    妹ジュゼッパ17 歳で亡くなる。
    7月26日ブーセットのバルトロメオ教会楽長兼ブーセット音楽学校長のフェルディナント・プロヴェージFerdinando Angelo Maria Provesiが亡くなるとブッセートに呼び戻されバルトロメオ教会楽長に就任した。

    1834年21歳
    年半ば、ヴェルディはブッセートにあるフィルハーモニー管弦楽団のリーダーとしての地位を取得しようとしたが、成功しなかった。しかし、バレッツィの助けを借りて、彼はマエストロ・ディ・ムジカの地位を獲得した。

    1835年22歳
    初頭にミラノに戻るまでの数か月間、フィルハーモニー管弦楽団の指導、レッスン、指揮を行った。
    ヴェルディは3年間の契約でブッセート学校の校長になった。

    1836年23歳
    2月恩師プロヴェジが亡くなるとブッセートに呼び戻され、ブッセート聖バルトロメオ大聖堂の楽長と市の音楽教師に任命された。
    4月16日バレッツィの長女マルゲリータとヴェルディは結婚届を役所に出した。
    5月質素な結婚式が行われた。
    二人はブッセートに居を構えた。しかし、ヴェルディの給料はわずかなので義父バレッツィから援助を受けた。
    ヴェルディの市の音楽教師の仕事も始まり、週に五日間、チェンバロ、ピアノ、オルガン、歌唱、対位法、作曲法を教える傍ら、ブッセートの音楽愛好家たちの演奏を念頭に、交響曲、ミサ曲、歌曲などの作品を書いた。

    1837年24歳
    3月26日最初の子供である長女ヴィルジニア・マリア・ルイジアVirginia Maria Luigia(1837-38)生まれた。
    9月バレッイに借金して学校の休暇を利用して60日間だけミラノへ行った。

    1838年25歳
    ミラノで聴いたオペラが忘れられず、最初のオペラ《オベルト、サン・ボニファーチョ伯爵Oberto》の楽譜をスカラ座の支配人メレッリに送った。
    7月11日長男イチリオ・ロマーノ・カルロ・アントニオIcilio Romano Carlo Antonio(1838-39)生まれた。
    ヴェルディはミラノ移住に向けて、ブッセートでの仕事を辞職することに決める。
    ミラノでオペラを上演するためにピエトロ・マッシーニの支援を求める。
    スカラ座の支配人バルトロメオ・メレリはヴェルディが書き上げたオペラ《オベルトOberto》に目をとめた。この作品はソプラノ歌手ジュゼッピーナ・ストレッポーニの指示を得た。
    オペラ《オベルト、サン・ボニファーチョ伯爵Oberto》を上演することに同意した(テミストクレス・ソレラによって台本が書き直され、現在ではこのオペラは再加工されたオペラと呼ばれている)
    下、歌手ジュゼッピーナ・ストレッポーニ

    1839年26歳
    2月6日に妻と長男を伴い、ミラノへ移住。
    8月12日長女ヴィルジニア死去。
    10月22日長男イチリオ死去。
    11月17日オペラ《オベルト、サン・ボニファーチョ伯爵Oberto》はスカラ座で初演され、ストレッポーニが歌った。無名の作曲家の作品に賭けたメレリは聴衆の熱狂によって報われ成功を収めた。
    メレリは八ヵ月おきに三本のオペラを書き上げる契約をヴェルディと交わした。
    下、ヴェルディ時代のミラノスカラ座

    1840年27歳
    6月18日妻マルゲリータ26歳が骨髄炎で亡くなる。ヴェルディがスカラ座から新作の委嘱を受け、二番目のオペラ《一日だけの王様(Un giorno di regno,》に取り組んでいたときだった。悲嘆の中で作曲を続けた。
    9月5日コミック・オペラ《一日だけの王様(あるいは偽のスタニスラオ)Un giorno di regno,》はミラノ・スカラ座で初演されたが失敗に終わった。
    一年のうちに妻子と二児を失い悲しみと失意のどん底を味わい、その後苦しい日々を送っていた厳しい時期に書かねばならなかったのだった。
    失敗による落胆はヴェルディに、二度と作曲しないと誓ったと言われている。『たとえこのオペラが凡作であるにせよ、この程度の出来栄えでも十分許容され、讃辞を浴びている作品は数多い』『たとえ拍手をしてくれなくとも、無言で聴き入ってくれたなら、何と言って感謝してよいかわからなかったでしょう。聴衆を非難するつもりは毛頭ないが、彼等の拍手に感謝しなくてもよいという条件でなくては、批判やヤジに甘んじるわけにはいかない』と書いた。
    ヴェルディに、スカラ座の劇場支配人メレッリが、一つの台本をヴェルディの外套のポケットに押し込んだといわれている。
    ヴェルディはスケッチの中でメレッリが新しいオペラを書くよう説得した方法を次のように語っている。『~私は敗北し、自信を失い音楽について考えることが出来ない状態だった。雪が降っていたある冬の夜、スカラ座のメレッリに偶然に会った。~彼は原稿を無理やりに私のポケットに入れた~帰宅の途中いうにいわれぬ不快感、深い悲しみ、死の恐怖感が襲ってきた。帰宅するとこの不快な台本を力いっぱいに机にたたきつけた。床に落ちたときに本が開いた。それにチラッと眼を向けたとき、詩の一節が目に入った。” 行け、わが思いよ、金色の翼に乗って” で端まる「ヘブライ人の合唱」詩篇の ”バビロン河にて” の一節だった。
    豊かな霊感がわくのをおぼえ、作曲に集中するようになった。この一行は私の心をうった。この聖書を物語にした台本を読みふけった。台本を閉じてベッドに入ったが眠ることができなかった。この台本~「ナブッコ」のことが脳裏から離れず起き上がっては何回も読み直した。翌日台本を返すためにメレッリを訪れた。彼は”どうだった”とたずねた。”素晴らしい” 、”じゃ作曲してくれ” 、”それは駄目だ、したくない” 、”作曲したまえ”こういって彼は原稿を渡しポケットに押し込み、ひと突きで部屋から押し出し、ドアを閉めてしまった。黙って台本をポケットに入れて帰宅し、今日は一節、明日は一節と少しずつ書いたが、このオペラは短期間で完成した~』
    下、オペラ《一日だけの王様(あるいは偽のスタニスラオ)Un giorno di regno》

    1841年28歳
    メレッリは『ヴェルディは、《ナブッコ》の音楽に徐々に取り組み始めたが、その台本はもともと有望と目されていたドイツ人作曲家オットー・ニコライによって拒否されていたリブレットをヴェルディに渡したのだった。そして少しずつオペラが書かれていった』と彼は後に回想している。いやいやながら作曲に入ったヴェルディは、わずか三ヶ月で完成させた。
    秋までに完成し、当初は《ナブコドノゾールNabucodonosor》というタイトルであった。

    1842年29歳
    オペラ《ナブッコ》のが与えた衝撃の大きさは、当時にしては画期的なものだった。同時代の記録によれば、リハーサル中、劇場内は「てんやわんや」の大騒ぎだった。この種の音楽を夢想だにしえた者は皆無だった。それはあまりに新しく、未知で、しかもスタイルが急進的で、異様だったので、誰もがあっけにとられた。聴こえてくる音楽のあまりにの物珍しさに、全ての雇員、職人、画工、技術者が仕事を放り出し、口をあんぐりあけてリハーサルを見物したので、裏方の仕事は全く進まなかった。噂はたちまちのうちにミラノに広まり、市民はわれを忘れて《ナブッコ》を聴きに出かけた。そしてオペラの目利き(この町の住民は誰もが、自らをオペラの鑑定家とみなしていた)は直ちに新たな、本物の才能の到来を知った。ヴェルディは” このオペラによって、私の真の芸術的経歴は始まった ”と言った。ドニゼッティは言った” 世界は新しい物を望んでいる。われわれに席を譲ってくれた人がいるように、われわれも席を譲らねばならぬ。ヴェルディのような才能の持ち主に城を明け渡せるのは、喜ばしいことだ ”と。』註1. 。
    この時代のイタリア・オペラ界はベル・カント・オペラと呼ばれる分野の支配者として、ジョアッキーノ・ロッシーニ、ガエタノ・ドニゼッティ、ヴィンチェンツォ・ベルニーニの三人の作曲家が君臨していた。
    3月9日オペラ《ナブッコ》は、ミラノ・スカラ座の初演でアビガイッレ役をスカラ座のプリマドンナだったソプラノ歌手ジュゼッピーナ・ストレッポーニが歌い好評を博し、オペラは誰もが予想しもしなかった熱狂的な興奮を巻き起こし、文字どおり決定的な大成功を収めた。
    下、オペラ《ナブッコ》より「ヘブライ人の合唱」

    この作品には愛国的なテーマが盛り込まれており、オーストリアの支配下にあって独立の機運が高まっていたミラノの人々に熱狂的に歓迎された。特に第三幕のヘブライ人たちの望郷と祖国への憧れを歌った合唱は、初演から聴衆の深い共感をよび、オーケストラ楽員も含む全員によりアンコールされ、以来、第二の国歌のように愛唱されるようになった。
    以降オペラ《ナブッコ》はヴェルディがオペラ界から引退するまで成功を支え、後に29のオペラ (いくつかの改訂版と更新版を含む) が上演された。成功後ヴェルディはストレッポーニと急速に親しくなっていった。
    オペラ《ナブッコ》は秋のシーズンにスカラ座で復活したとき、前例のない(そして後に比類のない)合計57回の公演が行われた。これがメレリから1843年シーズンの新しいオペラの依頼につながった。
    三年以内に(他の会場の中でも)ウィーン、リスボン、バルセロナ、ベルリン、パリ、ハンブルグに紹介された。
    1848年にはニューヨークで、1850年にはブエノスアイレスで聞かれました。ポーターは、『[ヴェルディの]他のすべての成功したオペラがどれほど広く急速に普及したかを示すために、同様の説明が提供される可能性がある』とコメントしている。
    《ナブッコ》の最初の成功の後、ヴェルディはミラノに定住し、多くの影響力のある知人得た。
    彼はミラノにあるクララ・マッフェイ伯爵夫人のサロンであるサロット・マッフェイに通い、彼女の生涯の友人となった。
    ヴェルディは金銭的な契約に細心の注意を払い、人気が高まるにつれて適切な報酬が支払われるようにした。
    ベニスでのロンバルディとエルナーニ(1844年) では、12,000 リラが支払われた (制作の監督を含む)。
    アッティラとマクベス(1847年) は、それぞれ 18,000リラを彼にもたらした。
    1847 年の出版社リコルディとの彼の契約は、彼が新しい作品、最初の作品、音楽の編曲などに対して受け取る金額について非常に具体的でした。[28]彼は成長する繁栄を利用して、生まれ故郷の近くの土地に投資し始めました。1844 年、彼は 62 エーカー (23 ヘクタール) の農地に農家と別棟を備えたイル プルガロを購入し、1844 年 5 月から両親に家を提供しました。ブッセートのメインストリート、ローマ通り。[29] 1848 年 5 月、ヴェルディはかつて彼の家族が所有していたブッセートのサンタガタの土地と家屋の契約に署名した。[30]ここに彼は自分の家を建て、1880 年に完成し、現在はヴィラ ヴェルディとして知られ、 1851 年から亡くなるまでそこに住んでいました。
    註1.『』要約:「大作曲家の生涯」H・C・ショーンバーグ著/亀井旭・玉木裕共訳、共同通信社、刊行1984年62-63頁

    1843年30歳
    2月11日オペラ《十字軍のロンバルディア人(I Lombardi alla prima crociata)》ミラノ・スカラ座の初演も大成功を収める
    下、I LOMBARDI ALLA PRIMA CROCIATA Lyric Drama in Four Acts

    3月ヴェルディは人生初となる外国旅行に出かけ、ウィーンへ行った。
    ウィーンのガエターノ・ドニゼッティが音楽監督を務めていた場所を訪れ、ナブッコの制作を監督した。年配の作曲家はヴェルディの才能を認め、1844年1月の手紙で次のように述べている。『ヴェルディのような才能のある人々に道を譲ることができて、とてもとても幸せです…優れたヴェルディがすぐに作曲家のコホートで最も名誉ある地位の一つに到達することを妨げるものは何もありません。』
    4月4-5日1年前にミラノで世界初演されたオペラ《ナブッコ》のウィーン初演を自身の指揮でおこなった。彼はこの街の宮廷歌劇場管弦楽団(それに先立つこと数年前、オットー・ニコライの指揮の下、楽団のメンバーが集まってウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が創設されていた)に熱狂し、オペラ上演は成功を収めた。人々は家庭でもこのオペラを楽しめるよう、ピアノ独奏用、ピアノ連弾用、さらには弦楽四重奏用等に編曲された楽譜を買い求め、オペラの中に登場する有名なメロディーはすぐさま巷に広まった。
    ヴェルディはオペラ《ナブッコ》を、当時のオーストリア皇帝フランツ1世の姪にあたるアーデルハイト大公妃に捧げた。
    その後もヴェルディの新作オペラは宮廷歌劇場で上演され、批評家たちは彼がロッシーニやドニゼッティの跡を継いでイタリアオペラの未来を担う偉大な作曲家になれるか否かを議論し合った。こうしてヴェルディのオペラは、世界初演から程なくして、ウィーンでも定期的に初演されるようになった。またそれを受けて、多くの作曲家がヴェルディのオペラの主題に基づいて変奏曲を作るようになった。
    ヴェルディはパルマに行き、そこではパルマ王立劇場はストレッポニをキャストに迎えてナブッコを上演していた。 ヴェルディにとって、この公演は彼の出身地での個人的な勝利であり、特に父親のカルロが最初の公演に参加した。 ヴェルディは、出発予定日を超えて数週間パルマに留まった。
    これにより、延期はヴェルディがジュゼッピーナ・ストレッポーニに興味を持ったためではないかという憶測が広がった (ストレッポーニは、彼らの関係は 1843 年に始まったと述べている)。 実際、ストレッポニは好色な関係(および多くの非嫡出子)で知られており、最終的に結婚に同意するまで、彼女の歴史は彼らの関係の厄介な要因であった。
    ヴェネツィアでの《ナブッコ》の上演が成功した後 (1842/43 シーズンに25回の公演が行われた)た。オペラ《第一回十字軍のロンバルディア人I Lombardi alla prima crociata》を上演し、新しいオペラを書いた。
    ヴェルディはヴェネツィアのフェニーチェ劇場からオペラを依頼されたがヴェルディはシェイクスピアの「リア王」などいくつか提案した。
    ちょうどミラノ・スカラ座との契約問題がこじれ、フェニーチェ劇場の新作委嘱に応じようとしていたヴェルディに、ピアーヴェは、ウォルター・スコットの小説「ウッドストック」に基づいて独自に台本を書き暖めていた「アラン・キャメロンAlain Cameron」を提案して、2人の20年にも及ぶ共同作業が開始されたのだった。なおこの「アラン・キャメロン」はこの時ヴェルディの関心を惹かなかった。結局フェニーチェ劇場の支配人モチェニーゴ伯爵が強く推薦したヴィクトル・ユーゴー原作「エルナニHernani」に決まった。フランチェスコ・マリア・ピアーヴェが台本を担当した。ピアーヴェはフェニーチェ劇場の舞台監督と座付作者で、ヴェルディは初めて彼と一緒に仕事をした。ピアーヴェはヴェルディの意向通りに、ある部分では大胆なカットを行い、またある部分ではユーゴーの台詞回しをそのまま活かした。ヴェルディ初期の傑作オペラ《エルナーニErnani》はこうして誕生する。ピアーヴェはこの「エルナーニ」を含め、他のどの台本作家よりも多い全九作のヴェルディ作品に台本を提供した。「アッティラ」(初演1846年、以下同じ)、「マクベス」(1847年)、「イル・コルサーロ」(1848年)、「スティッフェーリオ」(1850年)、「リゴレット」(1851年)、「椿姫」(1853年)、「シモン・ボッカネグラ」(1857年)、「運命の力」(1862年)である。ピアーヴェは上演監督として鋭い舞台感覚を培い、「どうすれば聴衆に受けるのか」のアイディアを具体化していったといわれている。
    またピアーヴェのもう一つの重要な任務は、短気で自己主張の強いヴェルディに代わっての、検閲当局との折衝であった。ドラマ展開が力強くなればなるほど、ヴェネツィアその他都市の劇場検閲官は問題を見出し、大幅な改変を要求するのが常であったが、ピアーヴェは粘り強く交渉を行い、例えば「リゴレット」で検閲側の大幅な譲歩を引き出すなど、三歳年下のヴェルディに忠実に奉仕したといわれている。
    ピアーヴェはフェニーチェ劇場監督の座に1860年まで在任、同年にはヴェルディの強い推薦もあってミラノ・スカラ座の同様のポストに移ることができた。もっともヴェルディとスカラ座との不和は継続しており、この後ピアーヴェがヴェルディ作品の台本作りに参加したのは、ロシア・サンクトペテルブルクからの委嘱作品である「運命の力」のみであった。

    1844年31歳
    3月9日オペラ《エルナーニErnani》四幕、ヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演され大成功を収めた。その後六か月以内にイタリアの他の二十の劇場とウィーンでも上演され、ヴェルディにとって初めてイタリア国外での成功を勝ち取る作品ともなったのである。第三幕の合唱は聴衆の愛国心を刺激し、終演後、帰宅する人々によって高らかに歌われたと伝えられている。
    下、オペラ《エルナーニ》第三幕より 「今一度目覚めるのだ、カスティーリアの獅子よ」

    この時期、ヴェルディは台本作家フランチェスコ・マリア・ピアーヴェFrancesco Maria Piaveとより一貫した仕事をするようになった。
    ヴェルディは妻の死別後は、独身を通していた。
    4月ヴェルディは八歳年下のエマヌエーレ・ムツィオEmanuele Muzio(ヴェルディの唯一の教え子)を弟子兼書記(スコアと編曲の準備を手伝い)として迎える。ヴェルディ1828年頃から、バレッツィの弟子として彼を知っていた。実際、ヴェルディの唯一の弟子だったムツィオは、作曲家にとって欠かせない存在となった。 ムツィオはバレッツィに、ヴェルディは『精神の幅広さ、寛大さ、知恵を持っている』と報告している。
    ムツィオはヴェルディとの関係を維持し、スコアと編曲の準備を手伝い、後に彼の作品の多くを米国やイタリア以外の場所での初演で指揮しました。
    11月3日ローマ・アルジェンティナ劇場で上演された《二人のフォスカリI due Foscari》三幕 台本は再びピアーヴェに頼った。
    ヴェルディは先祖の地サンターガタに農地を購入する。敷地内には農家があった。

    1845年32歳
    2月15日オペラ《ジョヴァンナ・ダルコ(ジャンヌ・ダルク)Giovanna d’Arco》三幕、シラー原作、台本テミストークレ・ソレーラTemistocle Solera, スカラ座で初演。
    スカラ座はオペラ《ジョヴァンナ・ダルコGiovanna d’Arco》を除いて、これらの新作を初演しなかった。
    8月12日オペラ《アルツィーラAlzira》二幕、ナポリ・サン・カルロ歌劇場で初演された。
    《アルツィーラAlzira》の台本でサルバドーレ・カンマラーノと仕事をすることができた。
    10月音楽出版社のフランチェスカ・ルッカの引き合わせでロンドン・王立歌劇場支配人ベンジャミン・ラムリーから新作オペラの依頼を受けた。ヴェルディは英国の詩人バイロンの長編叙事詩「海賊The Corsair」を考えた。

    1846年33歳
    3月17日オペラ《アッティラAttila》三幕 台本T.ソレーラ、ヴェネツィア・フェニーチェ劇場で初演された。
    冬の寒い時期に体調を崩したヴェルディは北イタリアの保養地レコアロ温泉で静養につとめていたが、病気治療中に死亡説や毒殺説が流される。
    9月病気から復帰後、ヴェルディはマクベスに取り組み始める。
    彼はオペラをブッセートの富裕な商人、アントニオ・バレッツィに捧げた『あなたは私にとって父であり、恩人であり、友人であったので、私は長い間あなたにオペラを捧げるつもりでした。さて、私は《マクベス》をお送りします。これは私の他のどのオペラよりも高く評価しており、したがって、あなたに捧げる価値があると考えています。』
    10月にはジュゼッピーナ・ストレッポーニの声は衰え、パリへ移住、声楽教師としての活動を始める。彼女が去る前に、ヴェルディは彼女に愛を誓う手紙を渡した。 10月5日か6日封筒に、ストレッポニは次のように書いている。『彼らは私を埋葬するとき、この手紙を私の心に置くでしょう。』
    11月ヴェルディの弟子ムツィオはヴェルディについて次のように書いている。『彼は私がそばにいなければどこにも行かない。 家には大きなテーブルがあり、私たちは一緒に書いているので、私はいつも彼のアドバイスを受けています』

    1847年34歳
    3月14日(またh10日)オペラ《マクベスMacbeth》四幕、原作シェクイスピア、台本F.ピアーヴェ(A.マッフェイ補筆) がフィレンツェ・ペルゴラ劇場で初演され成功を収めた。初演でマクベスを歌ったのは、後にリゴレット役や椿姫のジェルモン役を歌うフェリーチェ・ヴァレージ、マクベス夫人はマリアンナ・バルビエーリ=ニーニであった。
    1944年ロンドン・王立歌劇場支配人ベンジャミン・ラムリーから新作オペラの依頼を受け、シラーの「群盗」を選び、ヴェルディは、ロンドン・王立歌劇場で初演と二回目の公演を行うことに同意していた。
    5月オーケストレーションを除いて、ロンドン・王立歌劇場向けのオペラ《群盗I masnadieri》四幕、台本A.マッフェイを完成させ、ミラノでオペラ《群盗》四幕、台本A.マッフェイ、を書き上げ、弟子のエマヌエーレ・ムツィオとパリ経由で初めてロンドンへ向かった。
    7月22日オペラ《群盗I masnadieri》初演はヴィクトリア女王はじめウェリントン公、ルイ・ナポレオンらの臨席のもとにロンドン・王立歌劇場で行われた。計四回のうち、二回はヴェルディが指揮を、残りの二回はマイケル・パルフが指揮をした。キャストはルクレツィア:ジェニー・リンド、マッシミリアーノ:ルイジ・ラブラシュ、カルロ:イターロ・ガルドーニだった。
    ヴィクトリア女王とアルバート王子が最初の公演に出席し、ほとんどの場合、マスコミは惜しみなく賞賛した
    その後の二年間、政情不安の期間中の二回のイタリア訪問を除いて、ヴェルディはパリを拠点としていた。
    7月にパリに戻ってから 1 週間以内に、彼はパリ オペラ座から最初の依頼を受けた。
    ヴェルディは、《十字軍のロンバルディア人I Lombardi》の改作、およびフランス語版を新しいフランスの台本に適応させることに同意した。 その結果、パリの期待に応えるために、音楽と作品の構造に大幅な変更が加えられたイェルサレムが作曲された。
    夏頃、ヴェルディはストレッポーニの住居を訪れ、そのまま同棲生活に入ってしまった。ストレッポーニは同地でヴェルディが『十字軍のロンバルディア人』をフランス趣味の『イェルサレム』に改作するのを手伝い、また彼に社交界の礼儀作法を教え、フランス語の苦手な彼の通訳も務め、そしてオペラと切っても切れない関係のパリ社交界の面々に引き合わせるなど、ヴェルディがオペラ界で成功するためのさまざまの側面支援を行った。ヴェルディはストレッポーニと同棲するようになり、彼女の献身的な援助により作曲活動も順調にはかどる。
    11月26日オペラ《イェルサレムJérusalem》四幕、台本A.ロワイエ/G.ヴァエズ、パリ・オペラ座で初演された。
    ヴェルディはレジオン ドヌールのシュヴァリエ勲章を授与された。

    1848年35歳
    2月12日オペラ《海賊》の総譜をルッカ宛てに送付した。
    4月3日二年ぶりにミラノに帰った。3月にオーストリア軍と銃をとって戦ったジェノヴァ生まれの20歳の青年詩人ゴッフレード・マメーリ、青年イタリア党の盟主ジュゼッペ・マッチーニと共にミラノ人の精神的後盾として活躍した。
    5月初めミラノを離れてブッセートに帰った。
    サンターガタに所有していた農場に家を建築し、ヴィラ・サンターガタと名付ける。
    6月の初めにパリに帰ったヴェルディは、パッシーのラネラグ通りでジュゼッピーナと過ごした
    7月の終わり頃からオペラ《レニャーノの戦い》の作曲に入った。
    下、サンターガタのヴィラ・ヴェルディを紹介している動画
    (現在はヴィラは、ヴェルディと彼の妻が娘として育てた、ヴェルディの若い従兄弟であるマリア・フィロメナ・ヴェルディの子孫である四人の兄弟によって所有されている。これはカッラーラ・ヴェルディ家で、ヴィラの一部に一年中住んでいる)

    10月25日オペラ《海賊Il corsaro》三幕、台本F.ピアーヴェ、トリエステのグランド劇場で初演されたが、ヴェルディはパリのヴィクトワールの新居でオペラ《レニャーノの戦い》の作曲に専念していた。。
    ドニゼッティ歿
    下、《海賊Il corsaro》Vito Priante (Seid) – Il Corsaro (G.Verdi) “O Prodi miei… Salve Allah”

    1849年36歳
    1月27日オペラ《レニャーノの戦い》四幕、台本サルヴァトーレ・カンマラーノ、ローマ・アルジェンティナ劇場でベルディの指揮で初演された。愛国的な内容だけに大成功を収め、人々は終演後「ヴェルディ万歳」を唱えるとともに、ヴェルディを幕前に20回も呼び返したという。パリのオペラ座から作曲依頼が寄せられた。
    ヴェルディは《アルツィラ》の脚本を担当し、《レニャーニャの戦い》で協力した友人でナポリ・サン・カルロ歌劇場の座付作者であったサルヴァトーレ・カムマラーノに相談した。カムマラーノはシラーの「たくらみと恋」でヴェルディも同意した。
    5月パリのヴェルディのもとに「たくらみと恋《ルイーザ・ミラー》」第一幕の台本が届く。一方カムマラーノはサン・カルロ歌劇場の支配人と相談しこの新作の初演を10月末に計画した。
    10月ヴェルディとストレッポーニはパリを去りナポリへ向かった。しかし初演は延期された。直接の原因はコレラの発生であり、ヴェルディは直接ブッセートに行き、その年の後半にナポリで上演される最新のオペラ《ルイーザ・ミラー》を完成させる作業を続けた。
    12月8日オペラ《ルイーザ・ミラー》三幕、台本サルヴァトーレ・カンマラーノ、ナポリ・サン・カルロ歌劇場で初演され、成功を収めた。
    ヴェルディはブッセートに戻った。やるべきことが多かった。9月以来ブッセートで同棲していたジュゼッピーナとヴェルディの両親との問題が残っていた。この解決のためブッセート北4キロの農村ヴィダレンツィオに両親の住家と、生計が成立つよう養鶏場を造って贈った。

    1850年37歳
    ヴェルディは春にトリエステ・グランデ劇場のオペラ《スティッフェーリオ》のために出版社ジョヴァンニ・リコルディに契約した。
    11月16日オペラ《スティッフェーリオStiffelio》三幕、台本F.ピアーヴェ、トリエステ・グランデ劇場で初演された。これの失敗(特に当時の検閲官が、聖職者の妻の姦淫というタブーの題材に腹を立て、テキストと役割に干渉したことに起因する)は、ヴェルディにそれを作り直すように促した。
    数か月間、ヴェルディは家族の問題に夢中になった。 これらは、ブッセートの市民が、彼が未婚の関係で公然と同棲し、暮らしていたジュゼッピーナ・ストレッポニを扱っていた方法に起因していた。彼女は町や教会で敬遠され、ヴェルディは無関心に見えたが、そうではなかった。ヴェルディと彼の両親の間の疎遠の高まりは、おそらくストレッポニにも起因していた。
    ストレッポーニとは彼女がヴェルディの処女作オペラ《オベルト》を歌ったことで知り合った。二歳年下のストレッポーニは明確な歌唱と演技力、感受性に富んだソプラノ歌手としてイタリア最高の歌手の一人として注目されていた。二人の同棲生活は、当時のブッセートでは結婚もしていない男女の公然たる同棲に、住民は名指しで非難し始めた。ヴェルディはゴシップに憤激し、義父のバレッツイやブッセートの住民に対し余計なお節介をやくなと手紙に書いている。
    ジュゼッピーナ・クレリア・マリア・ストレッポーニ・ヴェルディGiuseppina Clelia Maria Strepponi Verdiイタリア(1815-97)は、モンツァの作曲家フェリチノの娘として生まれ、ミラノ音楽院に学んだ。
    トリエステでデビューして以来、27の劇場で歌った有名なプリマ・ドンナであった。
    イタリアの劇場やウィーン宮廷歌劇場でも大功を収め、母親と弟や妹たちの生活を支えていた。
    1842年《ナブッコ》初演では「アビガイッレ」を演じた。これはヴェルディが彼女のために想定した役であった。それは「ナブッコ」の作曲に当たって、彼女が困窮のヴェルディに果たした恩に報いるものでもあった。
    1845年彼女はパレルモ公演で大失敗し、1846年2月の舞台出演を最後に歌手活動から引退した。
    その後パリに住み、声楽を教えたり、ちょっとした演奏会にも出演していた。その曲目はほとんどがヴェルディのアリアだったいう。1847年パリで二人は再会する。その後愛を確かなものにし、ヴェルディは彼女と再婚した。

    1851年38歳
    1月ヴェルディは両親との関係を断ち切った。
    一緒に住んでいたオペラ歌手のジュゼッピーナ・ストレポーニとヴィラ・サンターガタに引っ越す。
    3月11日オペラ《リゴレットRigoletto》三幕、F.ピアーヴェ、ヴェネツィア・フェニーチェ劇場で初演された。
    「リゴレット」は、原作ヴィクトル・ユゴー、台本ピアーヴェ。原作の題名は「王様はお楽しみ」でフランス国王フランソワ一世を主人公にしたため、一日だけで上演禁止されていた。このことを知ったヴェルディはイタリアを支配していたオーストリアの検閲を危惧していた。しかしピアーヴェの当局との交渉により、場所と人物名、題名を「呪い」から「リゴレット」に変えるだけで妥協したのだが、作品のテーマと内容の変更は拒否した。初演はヴェルディ監督の下、リゴレット(背むしの宮廷道化師)にバリトンのヴァレージなど優れた声と演技力を備えた歌手を選び、周到なリハーサルもあり、かってない熱狂的な大成功を収めた。特に「女心の歌」は初演の日から町中で歌われたという。
    「女心の歌La donna è mobile」(女性は気まぐれ~)のメロディーが人気のヒット曲になることを知っていたヴェルディは、オペラのオーケストラ リハーサルからこのメロディーを除外し、テナーのマントヴァ公爵役を別にリハーサルした。
    4月この時、色々な問題とりわけ母の死と父親も病床に伏したりと、作曲は進まなかった。それに加えてジュゼッピーナとの同棲が、近隣の人々や前妻の父、恩人でもある義父バレッツィと摩擦を起していた。
    5月1日ヴェルディとストレッポニの永住の地となる以前買い求めた先祖の地、サンターガタSant’Agataに家を新築し、ヴィラ・サンタガータと名付け、居を移した。
    フェニーチェからの新しいオペラのオファーをヴェルディは最終的にそれを《椿姫》として作曲した。 その後、1853年1月に《イル トロヴァトーレ》を上演するというローマ オペラ座との契約が結ばれた。
    6月30日母が病死した。
    ヴェルディは母親が亡くなった後、オペラ《イル トロヴァトーレ》の作曲を始めた。これが「父親よりも母親に焦点を当てたヴェルディの唯一のオペラ」であるという事実は、おそらく彼女の死に関係しているといわれている。
    この年の暮れからジュゼッピーナとともにパリに出かけ滞在した。
    下、「女心の歌」オペラ《リゴレット》第三幕より1950 live Beniamino Gigli

    1852年39歳
    2月6日ジュゼッピーナともにパリの大市のヴォードヴィル(vaudeville)の「椿姫」を観て、いたく心打たれた。ヴェルディはピアーヴェに「椿姫」の台本を依頼した。
    パリオペラ座の支配人ロクブランと1855年パリで開催される第一回万国博覧会のためにオペラの作曲を依頼され契約した。早速スクリープの原作をデュヴェイリエが脚色したフランス語の「シチリア島の夕べの祈り」の台本を受け取った。
    5月4日イタリアに戻った。この時すでにヴェネツィアのフェニーチェ劇場と新作オペラの契約を結んでいた。同劇場では一年前に「リゴレット」で大当りをとっていたからである。フェニーチェ劇場側の座付き作者ピアーヴェの台本による新作初演は、1853年3月と予定されていた。だが、10月になってもヴェルディはまだ新作オペラの題材を決めていなかった。10月末、ヴェルディが住むサン・タガータに台本担当のフランチェスコ・マリア・ピアーヴェFrancesco Maria Piave(1810-76)が遣わされ、即刻決断を迫られる。そしてついにデュマ・フィスの「椿姫」に決めたのであった。イタリア語によるオペラの題名は《ラ・トラヴィアータ La traviata》とした。それは「道をふみはずした女=堕落した女」という意味である。ヴェネツィアの検閲局はオペラ《ラ・トラヴィアータ La traviata》の題名について異議が出され、ヴェルディと劇場側は「愛と死 Amore e Morte」という妥協案を出した。だが最終的に《ラ・トラヴィアータ La traviata》に落ちついた。
    ヴェルディは、引退するのに十分な収入を得ていたため、第三者からの委託に依存するのではなく、自分の思うようにオペラを作曲できる生活が出来ていた。
    7月17日「イル・トロヴァトーレ」の台本作者カムマラーノが台本を第三幕の終わり以降未完のままナポリで病死した。残った部分はナポリの若い詩人レオーネ・バルダーレにより完成した。
    《イル トロヴァトーレ》は、《オベルト》を除いて、彼が特別な依頼なしに書いた最初のオペラになった。
    11月1日から29日までの4週間でオペラ《イル・トロヴァトーレ》作曲したと、ヴェルディは言っている。そしてヴェルディは11月末に完成した総譜をもってローマ入りした。初演をローマのアポロ劇場と決定していたからである。そしてさらに手を加えたりして1852年末に完成した。この時期はヴェルディにとって多忙を極めていた。この二作は並行して作曲された。ローマでは昼間は《イル・トロヴァトーレ》の舞台稽古の練習を行い、そのためにアポロ劇場を訪れたりした。夜はホテルにピアノを入れ、《椿姫》の作曲を続けていた。

    1853年40歳
    ヴェルディは前年冬から、パリに滞在していた。
    1月「Il trovatore」のためにローマを訪れた後、ヴェルディは《椿姫》の台本を受け取りヴェルディはすぐに作曲を始めた。
    1月19日オペラ《イル・トロヴァトーレ》の初演は、カムマラーノの生前にはナポリのサン・カルロ劇場と予定されていた。だがこの作品にふさわしいアズチェーナのメゾ・ソプラノはじめ優れた歌手を集めているローマのアポロ劇場において初演が行われ、大成功を収めた。
    この《イル・トロヴァトーレ》の初演後二ヶ月足らずで、《椿姫ラ・トラヴィアータ》が初演される。
    3月6日オペラ《椿姫(ラ・トラヴィアータ)La Traviata》三幕、台本F.ピアーヴェ、ヴェネツィア・フェニーチェ劇場で初演された。だが前作の《リゴレット》とは違い大失敗に終った。
    下、「乾杯の歌」オペラ《椿姫》より第一幕

    下、《椿姫(ラ・トラヴィアータ)La Traviata》- ‘Sempre libera’ (Verdi; Renée Fleming, The Royal Opera)

    その理由は、舞台の時代設定を原作の十九世紀から二十世紀にヴェルディの強い意志に反して変更させられたことにもあった。つまり衣装や舞台装置についてで、それはフランス、ルイ十四世時代の十八世紀風の典雅な演技をしながら、衣装が当時代の十九世紀風となっていたのはたいへん不自然であった。もう一つは歌手たちの問題である。予想通りこのオペラを背負うタイトル・ロールのソプラノ歌手がミス・キャストであった。だが、たとえよい歌手群に恵まれたとしても、この短期間でのリハーサルでは無理な話だったかもしれない。
    経営陣は、オペラに現代的な設定ではなく、歴史的な設定を与えるよう主張したが、初演は確かに失敗した。それについて、ヴェルディは語っている『私のせいなのか、それとも歌手のせいなのか?時が経てばわかるだろう』
    10月オペラ座との新作の契約を果たすためパリに滞在する
    11月9日オペラ《イル・トロヴァトーレIl Trovatore》四幕、S.カンマラーノ(E.バルダーレ補筆)、ローマ・アポロ劇場で初演された。

    1854年41歳
    フランス語オペラ「シチリア島の夕べの祈り」の作曲に入る。
    5月6日オペラ《椿姫ラ・トラヴィアータ》はヴェネツィア、サン・ベネデット劇場の再演が圧倒的な成功を収めた。ヴェルディもスコアに何箇所かに手を入れた。この時は舞台や衣装を徹底して1700年代とし、歌手の人選もよかった。同年のうちにオペラ《椿姫ラ・トラヴィアータ》はイタリアの諸都市、ローマ、ナポリ、ボローニャなどで上演され大喝采を受ける。その後、1855年にはマドリード、ヴィーン、マルタ、バルセロナ、リスボン、リオ・デ・ジャネイロ、そしてイタリアの他の各地で初上演された。1856年、ロンドン(王立劇場)、パリ(イタリア劇場)、ブエノス・アイレス、ワルシャワ、モスクワ、ダブリン、ニューヨークで初上演された。1857年、ロンドンでは英語、ブタペストではハンガリー語、ハンブルグでドイツ語で上演された。
    12月23日オペラ《イル・トロヴァトーレ》はパリのイタリア劇場で上演された。

    1855年42歳
    5月17日オペラ《イル・トロヴァトーレ》がロンドン、コヴェント・ガーデン劇場で上演された。
    前年の冬、ヴェルディはストレッポニと共にパリに行くことを決め、オペラ座と契約を結び、グランド オペラ スタイルの彼の最初のオリジナル作品である《シチリアの晩鐘(シチリア島の夕べの祈り)Les vêpres siciliennes》 を作曲した。
    下、《シチリアの晩鐘(シチリア島の夕べの祈り)歌:レイチェル・ウィリス=ソレンセン „Merci, jeunes amies …“

    6月13日オペラ《シチリアの晩鐘(シチリア島の夕べの祈り)Les vêpres siciliennes》五幕、台本E.スクリーブAugustin Eugène Scribe,/C.デュヴェリエ、パリ・オペラ座で初演された。当時のオペラ座は現在より東方のル・ペルティエ通りとロッシーニ通りの角にあった。このオペラはフランス人好みのバレエの挿入もありその後10年間に62回上演された。
    フェニーチェ劇場から新作を依頼されていたヴェルディは、アントーニオ・グティエレスの戯曲「シモン・ボッカネグラ」を提案し、自分で散文の台本を書き、最終的に旧知のピアーヴェが完成し作曲に入った。

    1857年44歳
    1月12日オペラ《イル・トロヴァトーレ》がオペラ座でも上演された。オペラ座ではフランス語版となり、バレーも挿入され、それはそれで成功した。
    2月中旬にオペラ《シモン・ボッカネグラ》のリハーサルが始まってから完成した。
    下、ニコライ・ギャウロフが《「シモン・ボッカネグラ》の「フィエスコのアリア」リハーサル、クラウディオ・アバド、ミレッラ・フレーニ、ピエロ・カプッチルリand ヴェリアーノ・ルケッティ. 

    3月12日オペラ《シモン・ボッカネグラ》はヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演が行われ、失敗に終わった。
    オペラ《シモン・ボッカネグラ》の失敗後、ヴェルディはナポリの名門サン・カルロ劇場から作曲を依頼され、題材に
    フランスの劇作家ウジェーヌ・スクリーブの「グスタフ三世、または仮面舞踏会」(五幕)を選んだ。ある程度は評価しているものの、ありふれた従来通りの因習的なオペラ台本であると考えた。そこでヴェルディは作曲にあたってスクリーブの台本を原作として新しい台本を作ることにした。そしてソンマSomma(1809-64)に台本を依頼しほぼ並行して作曲を進めた。スウェーデン王グスタフⅢの歴史的ドキュメントに力点が置かれ、新しい台本には「スクリーブの歴史劇による」と付記された。
    10月下旬から新年にかけてのニヶ月あまりで作曲を完了した。

    1958年45歳
    オペラ《グスタフ三世、または仮面舞踏会》は当時、フランスの支配下にあったナポリでは、新作オペラ上演にあたっては国の厳しい検閲があった。最初の草案から検閲に引っかかった。それでもヴェルディは例外的な忍耐を示し、検閲の意見に従って変更を行っていッた。
    1月第ニ週にヴェルディは完成したスコアを携え、ジュゼッピーナとナポリへ向かった。ナポリに着いてまもなく、ブルボン家支配下のナポリでの検閲で却下されてしまった。ヴェルディは激怒した。おまけに検閲によって台本がすっかり変えられ、タイトルも「アディマーレのアデリア」となって戻されてきた。自宅に戻ってローマのアポロ劇場と書簡で交渉が行われたが、再び障害が持ち上がった。教皇庁の検閲である。また暗礁にのってしまった。ヴェルディはもんもんと不快な日々を送ることとなル。だが夏になると意外や意外で、ローマの検閲は2、3の詩句と言い回しの変更を要求するにとどまった。場所と国王を公爵とする以外、改変を一切拒否した。舞台をボストンにすればよいという案を出してきた。そして音楽と台本には殆ど手を入れられずに済んだので、ヴェルディはすべての点に同意した。そしてタイトルも最終的には「ドミノをまとった復讐」から変更して《仮面舞踏会》が認められた。

    1859年46歳
    2月17日オペラ《仮面舞踏会》はローマのアポロ劇場でヴェルディ第21番目のオペラとして彼生没年・出身地・歿地・墓地

    1.職業

    2.称号

    3.経歴

    4.主な作品

    5.その他

    6.初演

    7.関連動画

    自身の指揮で初演され、予想しなかった大成功を収め、熱狂した聴衆は一晩中「ヴェルディ万歳」を叫んで市内を行進したと伝えられている。近年は原作どおりスウェーデンを舞台にした上演も増えているという。
    下、《仮面舞踏会》Pavarotti – Cappuccilli – Ma se m’è forza perderti

    8月29日ヴェルディは、ヴァッレ・ダオスタ州、カステッロ・サヴォアのコロンジュ・ス・サレーヴ村でジュネーヴのメルミヨ神父の司式で正式に結婚式を挙げた。45歳の新郎と43歳の新婦は、馬車の御者と教会の鐘楼守だけしか参列しない簡単で質素な式だった。子宝に恵まれなかったが、子供の代わりに多くのペットがいた。猫、犬、オウム、孔雀のほかに、マルタ犬「ルールー」がいた。
    夫妻は平穏な生活を送った。
    緊張の高まる中でオーストリアは最後通牒を発し、第二次イタリア独立戦争が始まった。宰相カヴール伯爵は国王の一般人との再婚に反対し、国王の直接の戦争指揮を妨げて対立し、辞任を迫られた。だが内外からの信望の高さにより、国王は再任を認めざるを得なかった。イタリアは第二次独立戦争でオーストリアに勝利し、この知らせにはヴェルディも喜んだ。
    だがそれはすぐに失望へ変わった。
    フランスはイタリアと共同でオーストリアと戦い、北イタリアのうちロンバルディアはサルデーニャ王国の手中に落ちたが、ヴェネトはオーストリアに留まった。フランス軍の多大な犠牲とフランスの勢力拡大を恐れるイギリスの干渉により、イタリアを支援したナポレオン三世が秘かにオーストリアと通じ、ナポレオン三世は同年7月オーストリアと突如ヴィッラフランカの和議を結び、宰相カヴール伯爵を裏切った。これに対して宰相カヴールは抗議の辞任をした。エマヌエーレ二世はしぶしぶこれを呑み、宰相カミッロ・カヴール伯爵は辞任した。しかし、各公国の領主層はことごとく亡命し、民衆による暫定政府が立ち上げられていた。
    パルマ公国もモデナと合併されて議会が開かれることになり、ブッセート市の当局は地域の代表をヴェルディに打診した。政治家の資質などないと自覚していたが、彼はイタリアのためとこれを受けた。
    9月7日に開かれたパルマ議会はサルデーニャ王国との合併を決議し、ヴェルディはパルマの代表として王国首都のトリノでエマヌエーレ2世に謁見した。さらに彼は郊外で隠棲し農業をしていたカヴールと会い話し合った
    その後サンターガタに戻ったヴェルディは妻とジェノヴァ旅行を楽しむなど平穏に過ごした。

    1860年47歳
    イタリア情勢はまた動き始めた。事態を進められない内閣をエマヌエーレ二世は罷免した。
    1月カヴールが復帰し初代首相に就任した。
    ハプスブルク家が支配していたトスカーナやブルボン家支配のエミリアで住民投票を実施し、平和裏にイタリア中部のサルデーニャ王国併合を成功させた。これを黙認したフランスに報いるため、密約に基づいてサヴォアとニースを割譲した
    各小国との合併が進み、統一は成就した。彼はヴェルディに国会議員に立候補するよう薦めた。
    12月首相カヴールから国会議員になるよう要請を受けた。

    1861年48歳 
    1月イタリア全土で行われたイタリア国会の下院議員総選挙でヴェルディはに立候補し国会議員に当選した。
    2月にトリノで第一回イタリア国会が開催され、三月ヴィットリオ・エマヌエーレ二世に正式にイタリア国王の称号が与えられ、イタリア王国が成立した。これによってヴェネート州を除いてイタリアの統一が実現した。教皇領はそのまま残されることになった。
    6月6日首相カヴール死去
    6月ロシア、ペテルブルグ帝室劇場から新作オペラの依頼が舞い込む。この依頼は妻ジュゼッピーナの友人で、ペテルブルグ帝室劇場で活躍していたテノール歌手タムベリックによってもたらされた。ヴェルディの妻ジュゼッピーナも夫に承諾するよう勧める。まもなくヴェルディはユゴーHugoフランス(1802-85)の「リュイ・ブラス」のオペラ化をロシア側に提案して承諾を得た。しかし、その頃ヴェルディはスペインのリヴァス公爵ドン・アンヘル・デ・サーヴェドラの書いた戯曲「ドン・アルヴァーロ、または運命の力」に興味を移し決めnピアーヴェに台本を依頼した。この作家はユゴーの影響を受けており、すぐれた構成をもっていた。人間の及ぶことができない運命の冷酷さを主題としていて、これはヴェルディ好みの原作であった。
    作曲を秋までに完成させ、12月にペテルスブルクに出かけたが、ヴェルディが満足する歌手が揃わなかったため、初演を翌年に延期して帰国した。

    1862年49歳
    2月ロンドン万博用の作曲を依頼され諸国民の賛歌」作曲。
    秋、オペラ《運命の力》初演に向けヴェルディ夫妻はロシアに向かった。ヴェルディが選んだ歌手によりリハーサルを続けたが、しかし、レオノーラ役のラ・グリューアが病気で歌えないので上演は延期となった。
    11月10日オペラ《運命の力》ペテルブルグで初演され成功を収めた。初演版オペラ《運命の力》は、その後のロシア・オペラの道を切り開く作品となった。帰途にスペインでも上演して原作者を感激させた。その後マドリード、ローマ、ニューヨーク、ロンドンなどで上演されたが、芳しい結果ではなかった。
    その後はサンターガタ農場で農場経営に励み「昔から私は農民だ」と主張している。

    1864年51歳
    下院議員の一員となったヴェルディに能力も野心も無く、ただカヴールに賛成するだけで過ごしたが、カヴールが亡くなると意欲は失せ、四年の任期中に特に目立つ政治活動は行わなかった。

    1865年52歳
    1月30日父カルロが没する。カルロは弟(ヴェルディの叔父)の娘フィロメーナを養育していたが、彼女はヴェルディ夫妻が引き取り養女とした。
    4月21日改訂版オペラ《マクベスMacbeth》四幕、原作シェクイスピア、パリ リリック劇場で初演された。このパリ上演のためにバレエ音楽の追加を含め大幅な改定を行った。今はこの改訂版によって上演されているという。
    国会議員を辞したヴェルディは、オペラ《運命の力》の改訂上演のため、久しぶりに妻ジュゼッピーナを伴ってパリに向かった。
    しかし、彼の望む歌手を得られず上演計画は実現しなかった。オペラ座の支配人から翌年にパリで開催される第二回万国博覧会の新作をヴェルディは委嘱され、パリの支配人が提案した、ジョセフ・メリーとカミーユ・ロークルが台本をまとめたシラーSchiller原作「スペインの太子、ドン・カルロス」を選んだ。
    当時のパリは都市計画に従って街路も美しく整備されて、従来の石油にかわってガス灯が青白い光を放っていた。
    ヴェルディは、ヴァーグナー《タンホイザー》序曲とマイヤベーアのオペラ《アフリカの女》を観劇した。
    フランソワ・メリFrançois Mèryとカミーユ・ロクルCamille Lcle、二人のフランス人による合作仏語台本を持って、イタリアに戻った。傑作ではあったが、台本はひどい出来だった。オペラ《ドン・カルロ》の作曲に入る。

    1866年53歳
    3月から4月にかけてヴェルディは、ヴィラ・サンターガタの自宅で作曲に没頭した。
    5月になるとイタリアとプロシャの同盟軍と、オーストリアとの戦争が始まり、パルマとポー河流域が戦場となったので、ヴェルディはジェノヴァに逃れ、そこで作曲を続けることになった。この戦争はイタリア側の敗北に終わった。愛国者ヴェルディは、これを理由にオペラ座支配人に契約破棄を迫るが、受け入れられなかった。
    8月の最終の週に妻と共にパリに向うが、パリも戦火の直後で落ちつかなかった。そこで二人は、スペインの国境に近い硫黄泉で有名なカウテレーに移った。ここでヴェルディは喉のひどい腫れ物を治療した。そしてオーケストレーションを終えた。
    11月初演前にパリに戻り、オペラ座では稽古が行われた。喉の病気やイタリアとオーストリアの戦争などの影響もあり、結局、予定より遅れ12月に完成した。

    1867年54歳
    1月末予定の初演は2月末に延期された。しかし、本格的な舞台稽古は3月9日になってしまった。
    3月11日オペラ《ドン・カルロ》パリオペラ座のフランス語版が初演された。初日は、ナポレオン三世夫妻とマチルデ王女、各閣僚や各国の使臣たちの華やかな姿で満ちあふれた。
    下、Don Carlo: “Ella giammai m’amò” (Ferruccio Furlanetto)

    初演はあまり成功せず、一流の歌手を揃えたものの練習不足だったとか、臨席した皇后が内容に反感を示したからとも伝えられた。それは皇后はスペインのモンティホ伯爵の次女が熱心なカトリック信徒であったため、このオペラの中での国王フェリペ二世二世と異端審問官(高位聖職者)との確執に対して、激しい反感を示して荒々しく席を立ったといわれている。
    だが、先輩ロッシーニは称賛し、その年のボローニャとロンドンでの公演は成功を収めている。
    ヴェルディは再演を待たずにパリを出た。そして1週間後に故郷に着いた。《ドン・カルロス》は悪評にも関わらず、このシーズンに12回も上演された。作曲者の知らぬ間に三通りのカットが行われていたという。
    パリ初演後、ヴェルディの弟子マリアーニの指揮でボローニャでラウジエール訳によるイタリア語版が上演された。
    6月4日にロンドンの王立劇場でも上演されたが、いずれも大好評で迎えられた。ヴェルディはこうした知らせをサンタガータで農耕に熱中しながら聞いた。
    しかしヴェルディは初演の直後から改訂の必要を感じていたようだ。翌年のスカラ座上演にはヴェルディ自ら縮小と加筆を施し、1872年のナポリ上演に際してもさらに改訂を加えた。1875年ヴィーン宮廷歌劇場の要望でさらに改訂を加えている。
    その後上演の機会に応じてたびたび改訂を行った。そのため、このオペラには四幕版と五幕版、仏語と伊語版などいくつもの版がある。
    7月ヴェルディはミラノへ移り住んだが、バレッツィ氏の亡くなる数日前に呼び戻される。もうひとりの父であるアントーニオ・バレッツィの死を看取った。病に倒れてからは妻ジュゼッピーナも看病に通っていたが回復は叶わずサロンの隣室で臨終の床についていた彼のために、ヴェルディが弾くピアノ有名な合唱曲「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」を聴きながら息を引き取った。

    1868年55歳
    11月13日ジョアッキーノ・ロッシーニが没するとヴェルディは全土の著名作曲家に対し、「ロッシーニのために共同で、鎮魂ミサ曲を作ろう」と呼びかけた。ヴェルディは自分の分担部分として《リベラ・メ》を書いた。ヴェルディの呼びかけによって始められたロッシーニ追悼「レクイエム」の14人の連作による作曲計画は13人で完成したものの、その初演は果たされず、共同制作は実を結ばなかった。

    1869年56歳
    2月27日オペラ《運命の力》改定版をスカラ座で初演し大成功を収めた。主役歌手はストルツであった。改訂は病気のピアーヴェに代えて若いギスランツォーニの台本により大幅に改訂し、最後のアルヴァーロの自殺を現在のように改めたほか、序曲も作曲された。
    秋、ヴェルディはスエズ運河の開通を記念し、エジプトのカイロに新設される歌劇場の杮落とし公演を飾る新作オペラを依頼された。はじめ時間不足を理由に断った。
    下、オペラ《運命の力》序曲

    1870年57歳
    春、再度エジプトの総督パシャは、エジプトを舞台にした新作オペラ作曲をパリに住むロクルを通してヴェルディに申し入れて来た。題材としてパシャが用意したのは、考古学者オギュスト・マリエットの著した歴史的事実に基づく物語は23頁からなる物語であった。マリエットは1821年生まれのフランス人で、1849年からルーヴル美術館のエジプト考古部に勤務していた。彼は1851年からエジプトにわたり、研究を続けていた。ロクルはエジプト総督パシャによる信頼も篤く、ベイ(1858年)とパシャ(1879年)のエジプトの尊称を与えられた人物であった。
    パリで《ドン・カルロ》の台本作者の一人、ロークルがスエズ運河の開通記念のオペラを熱心に進めた時も断った。その新作の物語はフランスの著名な考古学者マリエット・ベイが書いた短いものだった。これに相応しい作曲家はヴェルディしかいないと信じていたロークルは、それをヴェルディに送りなおも熱心に依頼した。優れたオペラに発展する可能性を見つけたヴェルディは作曲を引き受けることにした。契約条件に常に細かく心を配るヴェルディは、作曲料やその受取り方などを決めてからでないと作曲にかからないのが常であった。「アイーダ」の報酬は台本料、カイロに指揮者を派遣する費用を含めて、当時としては史上最高の15万フランと決められた。エジプト国内における台本とスコアの所有権はヴェルディに属することにし、スコアをエジプト側に渡す時、15万フランがパリのロスチャイルド銀行に振込まれることを条件にした。そして最終的に台本作者はフランス人のロクルではなく、イタリア人アントニオ・ギスランツォーニA.Ghislanzoniと決められた。イタリア語による台本制作のために、当然のことながらギスランツォーニの方が適していたからである。
    ヴェルディはロークルと共に散文の台本を作った。
    7月《運命の力》の改訂に協力してくれたギスランツォーニにイタリア語の台本を依頼し、ほぼ同時に作曲に入った。
    11月完成し、題名を《アイーダ》とヴェルディ自ら命名した。またマリエットやロクルと手紙を交し、自身台本作りにも関わっていった。それまで全く知らなかった古代エジプトについてこの考古学者マリエットから詳しい助言を得て、その考古学者から得た知識やヴェルディのそうした意気込みが反映された台本となった。
    オペラ《アイーダ》の初演は1871年1月の予定だったが普仏戦争でフランスが敗れ、パリで制作する装置や衣装が間に合わなくなったこともあり、翌シーズンに延期された

    1871年58歳
    12月24日ヴェルディが選んだ歌手によって、<スエズ運河開通祝賀式典>の一環としてグランド・オペラ《アイーダ》はカイロ、オペラ座で初演され大成功を収めた。ムソルグスキーは『このオペラは壮大な規模で進行する。革新者はテレることを知らない。彼の「アイーダ」は、あらゆる音楽家、ひいては彼自身をも凌駕してしまった。「トロヴァトーレ」も、メンデルスゾーンも、ワーグナーも、「アイーダ」の前にたたきのめされた。』と持ち上げた。
    下、オペラ《アイーダ》第二幕第二場より 凱旋の場「凱旋行進曲」
    Metropolitan Opera Orchestra, James Levine メトロポリタン歌劇場

    1872年59歳
    2月オペラ《アイーダ》スカラ座でイタリア初演も圧倒的大成功を収め、大喝采を浴びた。
    イタリア以外での「アイーダ」初演の権利をめぐって、ベルリンとヴァイマールとヴィーンが争っていた間、ヴェルディは12月ナポリで「ドン・カルロス」(改訂前のフランス語版)の演出をした。しかし、《ドン・カルロ》公演中エリザベッタ役のストルツが途中で病気になり、大成功にも関わらず中止となってしまった。この時、意外にもヴェルディはナポリを楽しんだようだ。それを示す証しは、翌年1月にヴェルディ唯一の室内楽作品である《弦楽四重奏曲ホ短調》(1873年作曲初演)の作曲である。またオペラ上演中止が無かったら、この作品も生まれなかったかもしれない。そして彼自身もその出来に満足していたという。
    また他にジェミートという彫刻家志望の青年がヴェルディの前に現れ、その青年のたっての希望でヴェルディの胸像制作が行われた。そのできばえにヴェルディは驚き、満足したという。これは今も伝えられている。ジュゼッピーナのも合わせて作らせた。
    快復したストルツによる《アイーダ》がナポリのサン・カルロ劇場で上演され、大成功を収めた。

    1873年60歳
    4月1日に《弦楽四重奏曲ホ短調》がホテルのホールで、八人ほどの友人の前で初演された。
    4月にヴェルディ夫妻はナポリからヴィラ・サンターガタに帰るが、この時、長年の友人であり、台本作家ピアーヴェの病状をピアーヴェの妻の手紙で知る。彼はヴェルディのオペラ10作の台本を受持ち、ヴェルディの専制君主のようなやり方に耐え抜いた。そうした時、マンゾーニの健康状態の悪いことも知り、ヴェルディは不安な精神状態で過した。マンゾーニはこの年1月に教会に行く途中、倒れて石段で頭を打ち、植物状態になってしまった。
    5月22日88歳の詩人マンゾーニが亡くなる。ヴェルディにとってマンゾーニは特別の存在で、ヴェルディにとって生存する人間の中で唯一の尊敬する人間と言ってよかった。彼の思い入れは特別で、葬儀には参列する勇気もなく、しばらく経って後ミラノの墓地に秘かに誰にも知られず詣でた。マンゾーニのために「レクイエム」を作曲したいと考えた。

    1874年61歳
    ヴェルディは、前年5月22日に亡くなった尊敬する詩人アレッサンドロ・マンゾーニAlessandro Manzoni, を追悼するために《レクイエム》を書き上げた。
    5月22日《レクイエム》の初演は、ヴェルディ自身の指揮で、マンゾーニの一周忌にミラノのサン・マルコ教会で行われた。聴衆に与えた印象は強烈なものだった。その人気に応えて数日後、スカラ座でも三回演奏された。その一回目をヴェルディが指揮をした。
    それ以来故郷ブッセートに近いヴィラ・サンターガタの農園で隠遁生活を過ごすようになる。

    1875年62歳
    4月パリのオペラ・コミック座でヴェルディは、《レクイエム》を七回指揮した。これによりフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受章する。その後ロンドンのアルバート・ホールで三回、ヴィーンの宮廷歌劇場でⅡ回指揮したが、ヴェルディはその演奏の出来に大満足だったという。それぞれの地でストルツ(S.)とヴァルトマン(A.)が素晴らしい演奏をした。ウィーンでは、六年前に《ドイツ・レクイエム》を発表したブラームスもこの演奏を聴き、大天才ヴェルディと賞賛したという。フランツ・ヨーゼフ皇帝はヴェルディをホーフブルク宮殿に迎え、芸術と科学のための金メダルを授けた。皇帝はホーフブルク宮殿に宿泊の招待もするが、ヴェルディはこれを受けなかった。

    1876年63歳
    3月パリのイタリア劇場で全25回のオペラ《アイーダ》パリ初演の最初の三回と《レクイエム》を四回指揮し、ストルツとヴァルトマンが歌い、大喝采を受けたという。

    1877年64歳
    慢性気管支炎を患いモンテカルロで治療する

    1879年66歳
    11月音楽出版者でヴェルディのうしろだてでもあったティト・リコルディ(1811-88)は、「オテッロ」のオペラ化をヴェルディに勧め始めた。ある日、ファッチオ(《オテッロ》初演の指揮者となる)とボーイトBoito(1842-1918)をヴェルディの所へさし向けた。その時ボーイトが書いた「オテッロ」のオペラ化計画と台本の草稿を持たせた。こうしてヴェルディは11月から「オテッロ」の台本を手元に持っていたが、作曲の決心がつかなかいでいた。このボーイトとの出会い、「シモン・ボッカネグラ」の改訂と、ボーイトがヴェルディの最後の台本作家となる結果をもたらすことになった。
    《シモン・ボッカネグラ》はボーイトによる台本の加筆改訂によって、ヴェルディの意図が明確化された。改訂共同作業は、もっと重要で意味ある結果を生むことになる。この二人の協力関係は、六年後のオペラ《オテッロ》(1887年)と最後のオペラ《ファルスタッフ》(1893年)を生み出す契機となった。

    1880年67歳
    1月4日ワーグナー一家はナポリに到着し、滞在している噂は広まった。ナポリを見下ろすポジリッポの丘に建つアングリというヴィラをワーグナーはあらかじめ借りて置いたのだった。紺碧のナポリ湾も眼下に広がっていた。『ナポリはわが町だ』とワーグナーは大喜びで叫んだという。だが1月の末ごろには顔面丹毒が現われはじめ作曲の仕事も進まなくなっていった。
    サン・カルロ劇場でアレヴィのオペラ《ユダヤの女》を夫妻で見たり、イタリア音楽と接触する機会ができた。イタリア滞在は5月で終わることになっていたが、ワーグナーの健康のために、10月までの家賃に相当する5200リラをルートヴィヒ二世は贈ってくれた。ワーグナーはナポリからローマ、サン・マルチェロ、ピストイア、フィレンツェ、8月21日シエナに着く。9月16日リストがワーグナーを訪ねる。10月4日ワーグナー一家はヴェネツィアに移動。10月30日ヴェネツィアを発ちドイツへ向かった。

    1881年68歳
    3月24日改訂版《シモン・ボッカネグラ》(台本ピアーヴェ、ボーイト補筆改訂)はミラノ・スカラ座で上演され、大成功を納め、以来、このオペラは改訂版により上演されている。この作品に愛着を抱いていたヴェルディは、二十四年前の失敗を、ボイトの協力で台本も含め全面的に改訂したのだった。
    下、アッリーゴ・ボーイトとはかつての芸術上の確執を乗り越え、ヴェルディとの一連の共同作業に入ることになる

    下、「哀れなる父の胸は」オペラ《シモン・ボッカネグラ》プロローグ ジェノヴァの広場より

    1883年70歳
    オペラ《オテロ》の作曲に着手。
    2月13日ヴェネツィアでヴァーグナーが死ぬ。ヴェルディは出版業者ジュリオ・リコルディ宛ての2月24日の手紙を書いた『悲しい、悲しいことだ。ワーグナーが死んだのだ。昨日、子の知らせを読んだとき、私はまるで放心したようになった。何も言うことが出来ない。偉大なる人物がわれわれから去ったのだ。歴史の上に力強い足跡を残したひとつの名前が・・・』ヴェルディは深く悲しみ、”その名は芸術史上に深く刻まれる”と言った

    1884年71歳
    1月10日改訂版イタリア語オペラ《ドン・カルロ》四幕、スカラ座での上演は好評に終わる。主役ドン・カルロをフランチェスコ・タマニョが歌った。してこのタマーニョが初演のオテッロを歌うことになる。彼の歌唱は後のオテッロ役の規範となった。
    オペラ《ドン・カルロ》は、現在リコルディは五幕版と四幕版の両方を出版している。近年、昔のままの完全復活とさらにその後の改訂で加筆された部分まで全部入れた完璧版がミュンヘンやミラノで上演された。

    1885年72歳
    10月から翌年11月までの一年間は、改訂を繰り返し、入念なオーケストレーション作業で過ぎた。
    11月1日にオペラ《オテッロ》を完成したとジュリオ・リコルディに知らせている。スコアの紛失を恐れ、フィオレンツォーラまで直接取りに誰かをよこすよう頼んでいる。五年を越える制作に73歳を迎えたヴェルディは、神経質になったのだろうか。そしてその後はいつものように商人顔負けの細かい契約に入り、細かい手続きを交している。これがヴェルディ流なのである。またヴェルディはリハーサルにも立ち合い、舞台と演奏にたいへん細かな指示を出した。自らも舞台に立ち、演じて見せたりもした。

    1886年73歳
    秋、オペラ《オテロ》完成。
    上演に際し、伝説的名歌手タマーニョ(T)、モーレル(Br.)、バンタレオーニ(S.)など当時の最高のキャストを揃えて慎重なリハーサルを重ねた。
    フランツ・リストが病死。

    1887年74歳
    2月5日オペラ《オテロ》はフランコ・ファッチオの指揮により、ミラノスカラ座で初演され、圧倒的な大成功を収め大喝采を受けた。この時、後に指揮者となる二十歳のトスカニーニが同じ舞台で第二チェロ奏者として演奏していた。
    初演日、スカラ座には、オーストリアの音楽学者ハンスリック、評論家ベレーク、パリの画家ボルディーニとオペラ座監督ゲラール、ヴィーンとプラハの劇場監督、ロンドンとベルリンの劇場支配人などなど世界的な知識人でうめつくされた。幕が降りた時は、十九回のアンコールがあったという。
    下、オペラ《オテロ》より「愛の二重唱」リチャード・タッカーのオテロ、アイリーン・ファーレルのデズデモナ

    1888年75歳
    オペラ《オテロ》以降のヴェルディは、ヴィラ・サンターガタで農業に没頭していた。
    また、マラリアのための病院も故郷に建設した。
    さらにミラノに‘音楽家の憩いの家’の計画を立てていた。この家は、恵まれなかった音楽家たちの余生のための施設である。
    人里離れたサンターガタは、彼の孤独を楽しむにはふさわしい所であった。農場経営者として潅漑設備も整えたし、ポー河畔の空地に植林もした。零細農民たちの守護者ともいえるが、見方を変えれば彼は支配者でもあった。馬の飼育にも長け、自分で雑穀機や蒸気鍬を導入したりもしている。広大な所有地を馬で歩くヴェルディの姿は完璧に農夫であり、立派な紳士でもあったし、領主のようにもみえた。ヴェルディは経験的にも実績的にも専門的な大農場事業主そのものであった。そして完璧なプロ経営者としての才腕をもっていたのである。このことがオペラ制作や公演に際する対処の仕方にも現れている。
    また冬の数ヶ月は、ジェノヴァに所有するパラッツォ・ドーリアで夫妻で過した。ここは部屋数が20もあり、ジェノヴァの港の見える大屋敷である。これもあくまで自力でまかなった自分の持ち物であった。

    1889年76歳
    7月4日のロンドンのライセアム劇場でのオペラ《オテッロ》の成功は、ヴェルディをたいへん喜ばせた。それは自分の《オテッロ》がシェークスピアの本国で認められたからである
    7月初旬、ヴェルディは、妻ジュゼッピーナとモンテカティーニへ温泉治療のため出かけた。出発する前にボーイトから一冊のノートを受け取る。それは喜劇、シェークスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」と「ヘンリー四世」を下敷きにした「ファルスタッフ」の台本草案であった。ボーイトはちょっと目を通して、意見を聞かせて下さいと書いてきた。それは、ヴェルディがオペラ生活を、オペラ・ブッファで終りたいという考えを語っていたのを知っていたし、ヴェルディがシェイクスピアの「ヘンリー四世」と「ウィンザーの陽気な女房たち」に登場するフォルスタッフ(伊語読み)に興味を抱いているのを知ったボイトが、この作品をヴェルディに作曲をしてもらいたかったからである。ヴェルディはそれに感心し、創作意欲をかき立てられ、こうして台本の下書きやアイデアなどのホットな手紙のやりとりの往復が始った。
    夏の半ばにサンターガタに帰ってしばらくすると、ボーイトからかなりの量の原稿が届けられた。ヴェルディは“万歳、まるで夢のようです!”とボーイトへの手紙で書いている。二人は台本と作曲をはじめ完成の見通しがついた11月になって初めて公表した。

    1890年77歳
    3月中旬にはオペラ《ファルスタッフ》第1幕を仕上げた
    ニーチェは前年トリ-ノの街路で倒れ、発狂しヴァイマルで死去。

    1891年78歳
    老齢のヴェルディはオペラ《ファルスタッフFalstaff》の作曲に健康に気をつけながら少しづつ作曲していたが、暮から翌年冬にかけインフルエンザに罹り、心臓障害を起こす
    下、《FALSTAFF》Tito Gobbi canta “Ehi! Taverniere” Parigi 1970

    1892年79歳
    前年に引き続きオペラ《ファルスタッフFalstaff》の作曲を続け、秋に全曲を完成した。
    9月18日の日付でジュリオ・リコルディとオペラ《ファルスタッフ》上演の正式契約を結んだ。1892-93年の謝肉祭のシーズンにスカラ座で上演できるよう楽譜を渡すと話し合われた。キャストが練習で不適格だとヴェルディが判断すれば、変更の権利を有することが取り決められた。
    そして1893年1月2日から練習のため劇場が思い通りに使えるなら、初演は2月の初めであるとされた。いつもの通りしっかりと万全を記して整えられていった。それと細かい舞台の配置や演出に関する指示や演奏についての楽器の問題まで、気を回した。そして完成した。

    1893年80歳
    練習が始った。オペラ《ファルスタッフFalstaff》には、《オテロ》でイアーゴを歌ったモーレル(Br.)を主役のファルスタッフに起用し、その他の歌手もヴェルディが選び、周到な準備とリハーサルを重ねた。ヴェルディにとっては初演に向けて各パートのピアノ・リハーサルにも立合った。そして再三遠慮なく楽譜訂正も行っていった。ジュゼッピーナは姉バルバリーナへ1893年2月の初旬の手紙で、彼の仕事ぶりを驚きをもって次のように記している。
    『ヴェルディがやり終え、今も引き続き取り組んでいる仕事は、信じられないものです。‥‥‥(略)‥‥‥昨日の夜、初めてリハーサルに同席しました。私自身の意見を言わせてもらえるなら、このオペラはまったくあたらしいジャンルを予告するものです。つまり音楽と詩なのです! 上流社会がどう評価するか、あの尊敬に値する聴衆の反応を待ちましょう。』
    2月9日オペラ《ファルスタッフFalstaff》初演日のミラノスカラ座には、パリ、ベルリン、ロンドン、ニューヨーク、ヴィーンから批評家が集った。前売が売り切れてしまい、初演の日の朝から、ひどい寒さにも拘らず、天井桟敷の当日券求めて人々は列をつくった。客席には著名人がいっぱいいる。王家や貴族の人々、文部大臣、大実業家たち、音楽のプッチーニ、マスカーニ、文学のカルドゥッチ等であった。ウンベルトⅠ国王夫妻は初演に臨席のできないことを詫びて、祝電をよこした。
    初演は大成功を収めた。劇場全体が熱狂し、興奮し、大喝采した。
    第二幕第二場冒頭の女房たちの四重唱「法案を提出しましょう Presenteremo un bill」と同場のファルスタッフの「私が小姓だった時 Quando ero paggio」は、アンコールされた。第三幕第二場冒頭のフェントンの「唇から歌が Dal labbro il canto」にも割れるような拍手が起った。最後にはヴェルディもボーイトも舞台に呼出された。初日の収益は9万リラだった! これは記録であった。
    スカラ座の支配人のピオンテッリも出版業者ジュリオ・リコルディも大満足であった。
    下は、オペラ《ファルスタッフ》初演の批評。イギリスの作曲家でロンドンの<Daily Graphic>と<Fortnighty Revie>の通信員スタンフォードが書いた1893年2月15日の<Daily Graphic>に掲載した批評である。
    『全体として、大衆受けする効果は譲らず、彼の周囲の世界から切り離せる部分はほとんどない。この点からするとこのオペラは、ワーグナーの後期の作品以上に、旧来のオペラの軌道から外れている。イタリアにおける《オテッロ》と《ファルスタッフ》は、ドイツにおける《トリスタンTristan》と《マイスタージンガーMeistersinger》と対置される。しかし前者に共通の基本的特徴から判断すれば、類似点はなくなる。ヴェルディとワーグナーの作曲家としての手腕は、イタリアとドイツがまったく違うように、完璧に異なっているのだ。ヴェルディの作品は、全体がブッセートの彼の庭のように明るく輝いている。透明な造り、穏やかかと思うと駆け回り、ユーモアたっぷりかと思いきや才気ばしってみせるが、常軌をを逸した振る舞いの跡や、下品なニュアンスはない。どの幕も、ほとんどゆっくりしたテンポはとらず、立ち止らず電光石火のごとくに展開する。大ざっぱな印象は、音楽的な効果を狙ったり、歌手の腕前を賞賛したりしているオペラのそれではなく、音楽がその説明や強調や理想化に寄与している、素晴らしい喜劇といった感が強い。
    参考:アッテラ・チャンバイ、ディートマル・ホランド編/ヴェルディ ファルスタッフ/音楽之友社より[初演批評]p210-211』

    1897年84歳
    11月妻のジュゼッピーナが肺炎で死去

    1898年85歳85歳
    《聖歌四篇(Quattro Pezzi Sacri)》パリで初演された。
     1.《アヴェ・マリア(Ave Maria su scala enigmatica)》1889年作曲
     2.《スターバト・マーテル(Stabat mater)》1897年作曲
     3.《聖母マリアへの讃歌(Laudi alla Vergine Maria)》1886年作曲
     4.《テ・デウム(Te Deum)》1895年作曲

    1899年86歳
    「カーサ・ヴェルディ/音楽家のための憩いの家」完成
    下、「ヴェルディ永遠に」

    1900年
    下、サンターガタのヴィラ ヴェルディの敷地内における撮影
    「立っている:テレサ シュトルツ、ウンベルト カンパナリ、ジュリオ リコルディ、レオポルド メトリコヴィッツ。
    着席:マリア・カッラーラ・ヴェルディ、バルベリーナ・ストレッポーニ(ジュゼッピーナの妹)、ジュゼッペ・ヴェルディ、ジュディッタ・リコルディ(ジュリオの妻)」

    1901年88歳
    1月21日ミラノのホテルで卒中で倒れ、医師が往診し、異常がないことを確認したという。
    しばらくして意識を失いベッドに倒れているのを発見される。左脳内包部の大出血のために右半身麻痺をおこした。
    1月27日午前2時50分死去。養女マリーア、ストルツ、リコルディ夫妻らが看取った。
    「音楽家のための憩いの家」の礼拝堂にジュゼッピーナと共に埋葬された。
    葬儀では多くの群集と「行け、我が想いよ!」の合唱により、見送られたという。

    1902年
    下、「カーサ・ヴェルディ/音楽家のための憩いの家」晩年ヴェルディが私財を投じてミラノに建てた、恵まれない音楽家のための老人ホーム。その頃の音楽家は年金も何もなく、貧しいうちに亡くなるひとが多かった。その窮状を見かねて建築したが開業を待たず亡くなってしまった。カーサ・ヴェルディの主な収入源は、居住者からの家賃に加えて、初期はヴェルディの50年間の著作権収入、そして現在はこの施設の理念に共鳴する音楽家たちからの多額の寄付である。寄付者のパネルにはパバロッティ等名だたる音楽家の名前が並んでいる。
    「Casa di riposo per musicisti Fondazione Giuseppe Verdi」Piazza Buonarroti29,Milan

    ルチアーナ・ディンティーノ(Ms.)ピエトロ・マスカーニの《カヴァレリア・ルスティカーナ》より「ママも知るとおり」
    2011年7月ミラノ、カーサ ヴェルディ/音楽家のための憩いの家で

    下、ブッセート ヴェルディ公園

    5.主な作品


    <オペラ>
    1838以前?《ロチェステル》1838以前?の作
    1835年《グローリア・ミサMessa di Gloria》(フェルディナンド・プロヴェージの曲を補作完成した) ブッセート
    1839年《オベルト、サン・ボニファーチョ伯爵Oberto, conte di San Bonifacio》ミラノ・スカラ座
    1840年《一日だけの王様、あるいは偽のスタニスラオUn giorno di regno, ossia il finto Stanislao》ミラノ・スカラ座
    1842年《ナブッコNabucco》 ミラノ・スカラ座
    1843年《第一回十字軍のロンバルディア人I Lombardi alla prima crociata》ミラノ・スカ初演
    1844年《エルナーニErnani》ヴェネツィア・フェニーチェ劇場
    1844年《二人のフォスカリI due Foscari》ローマ・アルジェンティナ劇場
    1845年《ジョヴァンナ・ダルコGiovanna d’Arco》ミラノ・スカラ座
    1845年《アルツィーラAlzira》ナポリ・サン・カルロ劇場
    1846年《アッティラAttila》ヴェネツィア・フェニーチェ劇場
    1847年3月14日(または10日)《マクベスMacbeth》フィレンツェ・ペルゴラ劇場
    1847年7月22日《群盗I masnadieri》ロンドン・王立歌劇場
    1847年《イェルサレムJérusalem》パリ・オペラ座
    1848年《海賊(イル・コルサーロ)Il corsaro》トリエステ・グランデ劇場
    1849年《レニャーノの戦いLa battaglia di Legnano》ローマ・アルジェンティナ劇場
    1849年《ルイザ・ミラーLuisa Miller》ナポリ・サン・カルロ劇場
    1850年《スティッフェーリオStiffelio》トリエステ・グランデ劇場
    1851年《リゴレットRigoletto》ヴェネツィア・フェニーチェ劇場
    1853年《椿姫(ラ・トラヴィアータ)La Traviata》ヴェネツィア・フェニーチェ劇場
    1853年《イル・トロヴァトーレIl Trovatore》ローマ・アポロ劇場
    1855年《シチリアの晩鐘 (シチリア島の夕べの祈り)Les vêpres siciliennes》パリ・オペラ座
    1857年《シモン・ボッカネグラSimon Boccanegra》(初演版) ヴェネツィア・フェニーチェ劇場
    1857年《アロルドAroldo》(「スティッフェーリオ」の改作) リミニ・ヌオーヴォ劇場
    1859年《仮面舞踏会Un Ballo in Maschera》ローマ・アポロ劇場
    1862年《諸国民の賛歌Inno delle Nazioni》 ロンドン・王立歌劇場
    1862年《運命の力La forza del destino》ペテルブルク・帝室歌劇場
    1865年4月21日《マクベスMacbeth》(同改訂版) パリ・リリック劇場
    1867年《ドン・カルロスDon Carlos》(フランス語版) パリ・オペラ座
    1869年《運命の力La forza del destino》(同改訂版)(ミラノ・スカラ座
    1871年《アイーダAida》カイロ・オペラ座
    1874年《レクイエムMessa da Requiem》(文豪アレッサンドロ・マンゾーニ追悼のためのミサ曲) ミラノ
    1881年《シモン・ボッカネグラSimon Boccanegra》(ボーイトによる改訂版) ミラノ・スカラ座
    1884年《ドン・カルロDon Carlo》(同改訂版イタリア語版) ミラノ・スカラ座
    1887年《オテロOtello》ミラノ・スカラ座
    1988年《リベラ・メLibera me》 シュトゥットガルト
    1893年《ファルスタッフFalstaff》ミラノ・スカラ座
    <歌曲・声楽曲>
    1833年《私は彼女に会った(Io la vidi, scena lirica)》2T, Orch、作詩C.バッシ
    1835以前《5月5日(Il cinque maggio)》独唱,器楽? (1867年にヴェルディにより破棄)
    1835年《?乾杯(Brindisi)》独唱,pf、作詩アンドレア・マッフェイ
    1836年《5月5日(Il cinque maggio)》独唱,pf、作詩アレッサンドロ・マンゾーニ
    1838年《六つのロマンツァ(Sei Romanze)》独唱,pf、
     1.《墓に近寄るな (Non t’accostare all’urna)》、作詩ヤコポ・ヴィットレッリ
     2.《エリザよ、疲れた詩人は死にゆく (More, Elisa, lo stanco poeta)》、作詩トンマーゾ・ビアンキ
     3.《孤独な部屋で (In solitaria stanza)》、作詩ヤコポ・ヴィットレッリ
     4.《暗い夜の恐怖の中で (Nell’orror di notte oscura)》、作詩カルロ・アンジオリーニ
     5.《安らぎは失せて (Perduta ho la pace)》、作詩ルイージ・バレス
     6.《ああ、悲しみの聖母よ (Deh, pietoso, oh addolorata)》、作詩ルイージ・バレス
       (第5曲と第6曲の原詞はゲーテの『ファウスト』より)
    1839年《亡命者(L’esule)》Bs、作詩テミストークレ・ソレーラ
    1839年《誘惑(La seduzione)》Bs、作詩ルイージ・バレストラ
    1839《見よ、あの蒼白い月を(Guarda che bianca luna)》S,A,Bs,fl、作詩ヤコポ・ヴィットレッリ、三重唱のためのノットゥルノ。フルートのオブリガート付き
    1842年《あの素晴らしい日を誰が取り戻してくれるのか(Chi i bei di m’adduce ancora)》独唱,pf、作詩ルイージ・バレストラ訳?、(原詞はゲーテ)
    1845頃《六つのロマンツァ(Sei Romanze)》独唱,pf、(上記同名曲の改稿)
    1.《夕暮れ (Il tramonto)》、作詩アンドレア・マッフェイ
    2.《ジプシー女 (La zingara)》、作詩マンフレード・マッジオーニ
    3.《ひとつの星に (Ad una stella)》、作詩アンドレア・マッフェイ
    4.《煙突掃除屋 (Lo spazzacamino)》、作詩マンフレード・マッジオーニ
    5.《神秘 (Il mistero)》、作詩フェリーチェ・ロマーニ
    6.《乾杯 (Brindisi)》、作詩アンドレア・マッフェイ
    1847年《哀れな男(Il poveretto)》独唱,pf、作詩マンフレード・マッジオーニ 「こじき」とも
    1848年?《祖国(La Patria: Inno Nazionale a Ferdinando II)》独唱,pf、作詩ミケーレ・クッチニエッロ
    1849年《捨てられた女(L’abandonée)》独唱,pf、作詩マリー・エスクディエ/レオン・エスクディエ、(フランス語)
    1850年頃《咲き始めた小さな花(Fiorellin che sorge appena cosi fresco)》独唱,pf、作詩フランチェスコ・ピアーヴェ
    1853年《フィオラーラ(Fiorara)》独唱,pf、作詩ブヴォリ
    1858年頃《詩人の祈り(La preghiera del poeta)》独唱,pf、作詩ニコラ・ソーレ
    1869年頃《徽章(Il Brigidino)》独唱,pf、作詩フランチェスコ・ダロンガーロ
    1869年《ストルネッロ(Stornello)》独唱,pf、作詩不明、(ピアーヴェの記念アルバムのための歌曲)
    1869年頃《君は僕を愛さないと言う(Tu dici che non m’ami)》独唱,pf、作詩ジュゼッペ・ティグリ
    1873年以前《沈黙の墓は暗く(Cupo e il sepolcro mutolo)》独唱,pf、作詩不明
    1894年《主よ、憐れみたまえ(Pieta, Signor)》独唱,pf、作詩アッリーゴ・ボーイト、(シチリア及びカラブリア地方の大震災の被災者のための作品)
    <宗教的声楽曲>
    1833?-34年頃《グローリア・ミサ(Messa di Gloria)》cho,Orch、(師匠フェルディナンド・プロヴェージの曲を補作完成)
    1836年《大いなる秘跡(Tantum Ergo)》T,Orch、不明
    1848年?《トランペットを吹き鳴らせ(Suona la tromba, ondeggiano le insegne giallee)》男声cho,pf/Orch、または《民衆讃歌(Inno popolare)》作詩ゴッフレード・マメリ
    1862年《諸国民の賛歌(Inno delle Nazioni)》S/T,5部cho,Orch、作詩アッリーゴ・ボーイト(1862年のロンドン万博のため作曲)
    1868-69年《リベラ・メ(Libera me)》「ロッシーニのためのミサ」として12人の作曲家との合作(後に《レクイエム》に編入)
    1873年《レクイエム(Messa da Requiem)》S,A,T,Bs,cho,Orch、(尊敬したアレッサンドロ・マンゾーニ追悼ミサ曲)
    1880年《主の祈り(Pater Noster)》無伴奏混声cho、不明
    1880年《アヴェ・マリア(Ave Maria)》S,弦楽、不明、(詞はダンテによる)
    《聖歌四篇(Quattro Pezzi Sacri)》cho,Orch、(ボーイトによってまとめられた以下の4曲、一括して1898年にパリで初演)
     1.1889年《アヴェ・マリア(Ave Maria su scala enigmatica)》
     2.1897年《スターバト・マーテル(Stabat mater)》
     3.1886年《聖母マリアへの讃歌(Laudi alla Vergine Maria)》
     4.1895年《テ・デウム(Te Deum)》
    <器楽曲>
    1828年《ロッシーニの歌劇『セビリアの理髪師』のための序曲》Orch?、楽譜は散逸
    1836年以前《複数の行進曲》Orch、ヴェルディにより破棄
    1837年?《オーボエと管弦楽のための変奏曲》「ヴィルジニアの歌」ob,Orch、ジャコモ・モーリの楽曲を編曲したもの?
    1837-38年頃《、ピアノと管弦楽のための変奏曲》pf,Orch
    1838年?《カプリッチオ》hrn、ホルンのための作品、楽譜は散逸
    1838年《シンフォニア ハ長調》Orch
    1865年《歌のないロマンツァ(Romanza senza parole)》pf、1865年出版
    1873年《弦楽四重奏曲ホ短調》SQ
    1881年《ワルツ ヘ長調》pf、ピアノのための
    ?年《トランペットと管弦楽のためのアダージョ》tp,Orch
    ?年《ファゴットと管弦楽のためのカプリッチョ》fg,Orch、(ヴェルディ作かは疑問)

    6.その他

    7.初演

     
    1835年《グローリア・ミサMessa di Gloria》(フェルディナンド・プロヴェージの曲を補作完成した) ブッセート
    1839年11月17日オペラ《オベルト、サン・ボニファーチョ伯爵Oberto, conte di San Bonifacio》ミラノ・スカラ座
    1840年9月5日オペラ《一日だけの王様、あるいは偽のスタニスラオUn giorno di regno, ossia il finto Stanislao》ミラノ・スカラ座
    1842年3月9日オペラ《ナブッコNabucco》 ミラノ・スカラ座
    1843年2月11日オペラ《第一回十字軍のロンバルディア人I Lombardi alla prima crociata》ミラノ・スカ初演
    1844年3月9日オペラ《エルナーニErnani》ヴェネツィア・フェニーチェ劇場
    1844年11月3日オペラ《二人のフォスカリI due Foscari》ローマ・アルジェンティナ劇場
    1845年2月15日オペラ《ジョヴァンナ・ダルコGiovanna d’Arco》ミラノ・スカラ座
    1845年8月12日オペラ《アルツィーラAlzira》ナポリ・サン・カルロ劇場
    1846年3月17日オペラ《アッティラAttila》ヴェネツィア・フェニーチェ劇場
    1847年3月14日オペラ《群盗I masnadieri》ロンドン・王立歌劇場
    1847年3月17日オペラ《マクベスMacbeth》フィレンツェ・ペルゴラ劇場
    1847年11月26日オペラ《イェルサレムJérusalem》パリ・オペラ座
    1848年10月25日オペラ《海賊(イル・コルサーロ)Il corsaro》トリエステ・グランデ劇場
    1849年1月27日オペラ《レニャーノの戦いLa battaglia di Legnano》ローマ・アルジェンティナ劇場
    1849年12月8日オペラ《ルイザ・ミラーLuisa Miller》ナポリ・サン・カルロ劇場
    1850年11月16日オペラ《スティッフェーリオStiffelio》トリエステ・グランデ劇場
    1851年3月11日オペラ《リゴレットRigoletto》ヴェネツィア・フェニーチェ劇場
    1853年3月6日オペラ《椿姫(ラ・トラヴィアータ)La Traviata》ヴェネツィア・フェニーチェ劇場
    1853年11月9日オペラ《イル・トロヴァトーレIl Trovatore》ローマ・アポロ劇場
    1855年6月13日オペラ《シチリアの晩鐘 (シチリア島の夕べの祈り)Les vêpres siciliennes》パリ・オペラ座
    1857年3月12日オペラ《シモン・ボッカネグラSimon Boccanegra》(初演版) ヴェネツィア・フェニーチェ劇場
    1857年8月16日オペラ《アロルドAroldo》(「スティッフェーリオ」の改作) リミニ・ヌオーヴォ劇場
    1859年2月17日オペラ《仮面舞踏会Un Ballo in Maschera》ローマ・アポロ劇場
    1862年《諸国民の賛歌Inno delle Nazioni》 ロンドン・王立歌劇場
    1862年11月10日オペラ《運命の力La forza del destino》ペテルブルク・帝室歌劇場
    1865年4月21日オペラ《マクベスMacbeth》(同改訂版) パリ・リリック劇場
    1867年3月11日オペラ《ドン・カルロスDon Carlos》(フランス語版) パリ・オペラ座
    1869年2月27日オペラ《運命の力La forza del destino》ミラノ・スカラ座
    1871年12月24日オペラ《アイーダAida》カイロ・オペラ座
    1874年《レクイエムMessa da Requiem》(文豪アレッサンドロ・マンゾーニ追悼のためのミサ曲) ミラノ
    1881年3月24日オペラ《シモン・ボッカネグラSimon Boccanegra》(ボーイトによる改訂版) ミラノ・スカラ座
    1884年1月10日オペラ《ドン・カルロDon Carlo》(イタリア語版) ミラノ・スカラ座
    1887年2月5日オペラ《オテロOtello》ミラノ・スカラ座
    1988年《リベラ・メLibera me》 シュトゥットガルト
    1893年2月9日オペラ《ファルスタッフFalstaff》ミラノ・スカラ座

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参考文献:https://www.casaverdi.it/storia/biografia-di-giuseppe-verdi/ジュゼッペ・ヴェルディの伝記 / 「名曲解説辞典・8歌劇」目黒三策編者、音楽之友社発行、昭和31年刊行 / 「音楽史(音楽講座)」堀内敬三著 音楽之友社発行、昭和31年刊行 / 「名曲辞典」属啓成著、音楽之友社発行、昭和44年刊行 / 「クラシック作曲家辞典」中河原理監修、フェニックス企画編 東京出版堂発行、平成4年刊行 / 「オペラ鑑賞辞典」中河原理編者、東京出版堂発行、平成3年刊行 / 「オペラ名曲百貨」永竹由幸著、音楽之友社発行、1990年刊行 / 「大作曲家の生涯」、Harold C. Schonberg著、亀井旭・玉木裕共訳、共同通信社発行、1984年刊行 / 「作曲家別/名曲解説ライブラリー/ヴェルディ」音楽之友社編、音楽之友社発行、2002年刊行 / 「オペラの誕生と教会音楽」カーティス・プライス編、美山良夫訳、音楽之友社発行、1998年刊行 / 「トスカニーニの時代」ハーヴェイ・サックス著、高久暁訳、音楽之友社発行、1995年発行 / 「リヒャルト・ワーグナー激動の生涯」渡辺護著、音楽之友社発行、昭和62年刊行 / https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%BC%E3%83%83%E3%83%9A%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3ヴェルディ / 「glennmie.blog.s0-net.ne.jp」 / 「robortkelloyphd.com」 / 「dictionary/composer/alkan」 / 「www.cadenza-od.com」 / 「maucamedus.net/solmization/gawut」 / 「www.tcat.ne.jp/eden/music」 / 「www.coara.or.jp/-doraemon/gagaku/nenpyoz.htm」 / 「www.gecities.jp/gzgaku.ryuteki」 / 「www.univesal-music,co.jp」 / https://www.geni.com/people/Carlo-Verdi/6000000003816323888 / https://en.wikipedia.org/wiki/Giuseppe_Verdi / https://www.oglioponews.it/2022/09/15/approfondimento-ferdinando-provesi-alla-vigilia-del-concorso-a-torricella/Approfondimento: Ferdinando Provesi alla vigilia del Concorso a Torricellaフェルディナンド・プロヴェージ / https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=mcafeess1&p=Ferdinando%20Provesi&x=nl&b=11 / https://www.wikiwand.com/eo/Ferdinando_Provesi / https://www.organieorganisti.it/ferdinando-provesi / http://pietro.music.coocan.jp/storia/verdi_sue_moglie.html国本静三/ヴェルディの妻 / http://pietro.music.coocan.jp/storia/verdi_vita_opere.html国本静三ヴェルディの生涯と作品 / http://nagoyashimin.sakura.ne.jp/data/2007vereq/nenpu.html生涯チーム、ソプラノ天野、年譜でみるヴェルディの生涯 / https://en.wikipedia.org/wiki/Ferdinando_Provesiフェルディナンド・プロベシ / https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%81%AE%E4%BD%9C%E5%93%81%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7ヴェルディの作品の一覧 / https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%A7%93%E5%90%8Dイタリア人の姓名 / http://tuttomusei.blogspot.com/2013/05/tomba-di-giuseppe-verdi.htmlジュゼッペ・ヴェルディの墓 / https://en.wikipedia.org/wiki/Villa_Verdiヴィラ ヴェルディ /