モーツァルト

生没年・出身地・歿地・墓地
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 生誕 Wolfgang Amadeus Mozart

(1756年1月27日ザルツブルク生)
(1791年12月5日ウィーン、ラウエンシュタイン通り小カイザー館、970番地で没)

1.職業

オーストリアの作曲家

2.称号

騎士アマデーオ・ヴォルフガンゴ・モーツァルト
ザルツブルク宮廷副楽長兼作曲家
オーストリア皇王室楽長にして宮廷室内作曲家

3.経歴

1.祖先はシュヴァーベン(現ドイツ、バイエルン州のアウクスブルク市とケンプテン市周辺)に1330年頃、Motzhardt、Motzhartという綴りの姓の記録が残っており、おそらくこの辺りの出身ではないかと記されている。

2.曾々々祖父ダーヴィッド・E・モッツハルトはアウクスブルクの農夫であった。

3.曾々祖父ダヴィット・モッツハルト(1620~85年)はアウクスブルクのバロック建築のレンガ職人で大工の親方であった。この頃にMozartに改姓したようだ。

4.曽祖父フランツ・モーツァルト(1649~94年)はレンガ職人で石工の親方、フッガー家の建てた世界最古の社会福祉住宅フッゲライに住んだ(現在もその銘板が残されている)。

5.祖父ヨハン・ゲオルグ・モ-ツァルト(1679~1766年)は製本師でアウクスブルク教会の近くに住んだ。織物師クリスティアン・ズルツァーの娘、アンナ・マリーア・ズルツァーと結婚した。

6.父ヨハン・ゲオルク・レオポルド・モーツァルトはアウクスブルクのフラウェントーア・シュトラーセ30番地で長男として出生し1737年ザルツブルクに定住。そこは現在モーツァルト記念館になっている。(別記あり)

7.ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは記録によると、体格は小さく150cm位で後年は肥満していたと記されている。また落ち着きがなく神経質で、短期、よく動き回り顔は天然痘のあとのあばた面、目は近視、鼻は丸く、性格的には変人だったとも記されている。1992年英国医学ジャーナル誌に「モーツァルトのスカトロジー(糞便談)障害」と題する論文が掲載された。モーツァルトが出した371通の手紙のうち39通がスカトロジーの表現「便をする」「屁」「尿」「肛門」などをあげている。従妹のベーズレにあてた手紙で ” 最愛のベーズレ・・略・・きみの鼻の上にウンチをするよ、そうすれば顎まで垂れるだろう・・略・・ベッドの中で大きな音をたててウンチをしてください。ぐっすりお休み、お尻に口をくっつけて・・略・・ああ、私の尻に火がついたようにほてってきた。これはいったい何なのだ、きっとウンチが出たいのだろう、そうだ、ウンチだ・・略・・ ” 。研究者によればスカトロジーは18世紀には一般に使われていたもので、決して下品ではなく、子供のときの言葉が大人にもそのまま使われていたようだ。モーツァルトの家では父も母もこのような言葉を普通に使っていたと思われている。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(以降ヴォルフガングという)の父は、ザルツブルグ大司教宮廷に仕えたヴァイオリン奏者(後にザルツブルグ宮廷作曲家兼副楽長)で、几帳面な厳格な教育家といわれている。ヴォルフガングはそうした音楽に恵まれた家庭に育つ。母(旧姓アンナ・マリ-ア・ペルトゥル)は、聖ヴォルフガング湖とも呼ばれる湖の西側入江の近くのザンクト・ギルゲンに生まれる。母親は早口にしゃべり、非常に嬉々として活気にあふれる話し手で生まれながらの笑い上手であったといわれている。ヴォルフガングはモーツァルト家の7人の子どもの末っ子として1756年1月27日夜8時に無事生まれる。5人の兄姉が夭折したため、生き残ったのは5才上の姉ナンネル・マリーアとヴァルフガングの二人。生れた時に父がアウグスブルクの出版社ヨハン・ヤーコブ・ロッターに宛てた手紙には、男児出産、名はヨアネス・クリソストムス・ヴォルフガング・ゴットリーブと記す。翌日10時半にザルツブルク大聖堂で洗礼を受ける

1759年3才ころ姉ナンネルのレッスンが終わったあと、クラヴィーアにひとりで上がり、三度の和音を探して響かせたりして楽しんでいたようだ。やがて姉の為に父親が創った「ナンネルの楽譜帳」をヴァルフガングも弾き父からレッスンを受け始める

1760年4才で8曲のメヌエットを学ぶ

1761年1月24日の夜9時から9時半まで「第27番ヴァーゲンザイルのスケルッオ」を学ぶ。ついで2月4日「第21番行進曲」を学び、この上なくきれいに、拍子もきわめて正確に弾いたという。5才で「アンダンテ ハ長調」「アレグロハ長調」「アレグロヘ長調」作曲する。9月ザルツブルク大学講堂で催されたエーベルリンの学校劇に踊り手として出演

1762年1月12日から3週間ミュンヘンのバイエルン選帝侯マクシミリアン3世の宮廷で演奏。9月18日から両親、姉と写譜師エストリンガーと共にウィーン演奏旅行にザルツブルクを出発。20~26日パッサウ、ここで司教の御前で演奏。26~10月4日リンツ、4~5日マウトハウゼンとイプス、5~6日シュタイン、10月6日ウィーン着。13日シェーンブルン宮殿に招かれマリア・テレジアと皇帝フランツ一世の前で姉弟で独奏したり、四手で競演し女帝から大礼服を贈られる。10月21日から結節性紅斑に罹患し2週間臥床。12月11日~24日プレスブルク、24~31日ウィーン、1763年1月2日リンツを経て1月5日ザルツブルク帰着。
 
1763年2月28日父レオポルドがザルツブルク宮廷楽団副楽長に昇進。6月9日から両親、姉と従僕のヴィンターと共に西方への演奏旅行にザルツブルクを出発。6月9~12日ヴァッサーブルク、6月12~22日ミュンヘン滞在、6月22~7月6日アウグスブルク、7月6~7日ウルム、7月9~12日ルートヴィヒスブルク、7月12~14日ブルフザール、7月14日~下旬頃シュヴェツィンゲンからハイデルベルク、7月末~8月初めマンハイムからヴォルムス、8月3~マインツ、8月10日頃~13日フランクフルト、8月13~14日マインツ、9月17日~27日コーブレンツここでヴォルフガングは上気道炎に罹患、27~28日ボンからブリュール、28~30日ケルン、9月30日~10月2日アーヘン、10月2~3日リエージュ、10月3~4日ティルルモン、10月4~5日ルーヴァン、10月5~11月15日ブリュッセル滞在、15~16日モンスとヴァランシエンヌからカンブレ、16~17日ボナヴィからペロンヌ、17~18日グールネ・シュル・アロンドからサンリス、1763年11月18日~12月24日フランス・パリ滞在しグリムはじめ多くの文化人や音楽家と知り会う。パリでのヴォルフガングの神童ぶりは(フリードリヒ・メルヒオン・グリムの「文芸通信」が ” あまりにも並はずれた現象なので耳目を疑うほどです。彼は難曲を正確に演奏するのは容易なことで、メヌエットにクラヴサンなしで低音をつけたり、指定の調に移したりして弾くことはなんでもないことです。先日はある夫人の歌うカヴァティーナに楽譜なしで伴奏をつけました。これらの奇跡を見ておかしくならないほうが難しいことと思われます ” )と12月1日に報じている。1763年12月24日~1764年1月8日ヴェルサイユ滞在し、宮殿での元旦の夜会では、フランス国王ルイ15世に拝謁し、国王のテーブルで王妃が通訳になってヴォルフガングの語ることを国王に伝えてくれたという

1764年1月8日~4月10日パリに滞在重篤な扁桃腺炎に罹患。4月19日頃カレー、4月23~8月6日イギリス・ロンドン滞在、三度にわたりバッキンガム宮殿に伺候し、国王ジョージ三世およびシャーロット王妃に拝謁を賜る。国王はヴァーゲンザイルの曲ばかりでなく、クリスティアン・バッハ、アーベル、ヘンデルの曲も差し出されたが全部を初見で弾き飛ばし見事に演奏したと父レオポルドが仰天する進歩であったという。クリスティアン・バッハらと親しく接する。7月父の過労のためロンドン郊外のチェルシーに8月6~9月25日頃滞在しここでヴォルフガングは「交響曲第一番変ホ長調」完成。9月25日頃~1765年7月24日ロンドン滞在。声楽曲モテットを完成し大英博物館に寄贈。

1765年7月24カンタベリーからドーヴァー海峡を渡って8月1日頃カレーに、8月5日リールに着く、この地でヴォルフガングはひどいカタルに罹る。9月9日ヘント、アントワープを経てロッテルダムに着く。9月10日オランダの首都デン・ハーク滞在ここで姉のナンネルが意識を失うほどの重篤の病に罹り、次いで11月15日ヴォルフガングも腸チフスに罹患し4週間重篤な状態に陥り意識を失いほとんど一週間眠ったままで、痩せ細る。回復し1766年1月26日頃デン・ハークを発つ

1766年1月26日~3月初旬アムステルダム滞在。3月初旬デン・ハークに戻り3月8日ウィルヘルム五世の即位を祝って「交響曲第5番変ロ長調」完成。「ヴァイオリン伴奏を伴うクラヴィーアの為のソナタ(K26-31)」を作曲しオランニエ公の姉に当たるヴァイルブルク妃に献呈。3月末デン・ハークからアムステルダムへ4月18日まで滞在。ロッテルダム、アントワープを経て5月8日ブリュッセルに着く。5月10日~28日までパリ滞在。その後ヴェルサイユへ、6月1日~7月9日パリ滞在7月文芸通信は ”永く忘れられることのない非凡な神童 “と絶賛したばかりか ” およそ出会うことのできる最も愛らしい存在のひとりであり、語ること、なすことのすべてに才気と真情があり、彼の年令にふさわしい魅力と気高さを持っている ” と報じている。ブルゴーニュ公に招かれて7月12日頃から26日までデイジョンに滞在。リヨンを経て8月20日ジュネーブに着く。ローザンヌ、チューリヒを経て10月20日ドーナウエッシンゲンに着く。アウグスブルクを経て11月8日ミュンヘンに着き27日まで滞在、関節リュウマチに罹る。11月29日3年6ヶ月余りに渡りヨーロッパ各地に多くの波紋を投げかけた旅を終わらせザルツブルクに戻る

1767年5月13日、11才で最初の幕間オペラ「アポロとヒュアキントゥス」をザルツブルク大学で初演。9月11日モーツァルト一家はウィーンに向かい15日ウィーンに到着したが天然痘が大流行しモーツァルト一家はオルミュッツに難を逃れるが、ヴォルフガングも姉のあとに罹患。ポトシュターツキー伯爵が部屋を提供し邸に引き受けてくれる。10月31日には完全に痘瘡が現われ腫れ上がって鼻まで膨らむ。「交響曲第6番ヘ長調」完成。12月23日オルミュッツを発ちブリュン24日着き、この地で「交響曲ト長調(新ランバッハ)」は完成したと思われる。(発見は1964年ランバッハの僧院の文庫。初演はサヴァリッシュ指揮ハンブルク国立フィルで1966年9月25日)。ブリュンで新年を迎え1768年1月9日ウィーンに向かう

1768年1月10日ウィーン到着。皇帝ヨーゼフ二世の発案で書き始めたオペラ・ブッファ「みてくれのばか娘」が上演できるかどうか様子がレオポルドにつかめなくなる。ウィーンの音楽界の裏事情を知らなかったからで、ブルク劇場とケルントナートール劇場の興行権ははジュゼッペ・アッフリジョなる支配人が握っており、皇帝は一文も出費していなかった。またいろいろな邪魔があったともいわれている。レオポルドにはザルツブルクを長期に離れており宮廷からの給料を差し止められており生計が厳しい状況にあった。9月下旬にレオポルドは皇帝ヨーゼフ二世に拝謁を許され興業主アッフリジョを訴える「事件供述書」を提出したが好転せず、怒りと失意のなか12月末にウィーンを発つ。10月オペラ「バスティアンとバスティエンネ(約40分)」ウィーン、モーツァルト一家と親しかった依頼者の医師フランツ・メスマー邸で初演。12月13日「交響曲第8番ニ長調」作曲。ザルツブルクに1769年1月5日到着。

1769年5月1日、オペラ「みてくれのばか娘(La finta semplice)」ザルツブルク宮廷で初演。10月15日ドミニクス神父の初ミサのため「ドミニクス・ミサ」完成。11月14日ジーギスムント大司教から無給の楽師長に任命される。肩書があればイタリアで役立つであろうとジーギスムント大司教の計らいであった。12月13日父と馬車に乗りザルツブルクを発ち、第1回イタリア旅行の旅へ。インスブルックを経てブレンナー峠を越えてヴェローナに12月27日到着し1770年1月10日まで滞在。

1770年1月10日~19日マントヴァ滞在、1月26日の妻に宛てたレオポルドの手紙には「マントヴァ新聞の ”拍手、喝采、ブラヴォーにつぐブラヴォーで、その驚嘆はうまく説明できない ” 」と掲載された記事を書き送っている。クレモナを経て1月23日~3月15日ミラノ滞在しアリア2曲作曲、2月7日総督府の長官カール・ヨーゼフ・フィルミアーン伯爵邸の演奏会に招かれに三つのアリアと一つのレチタティーヴォを作曲し演奏このとき作曲家ジョバンニ・バティスタ・サマルティーニも招待されていた。3月24日ボローニャ着、ボローニャのパッラヴィチーニ伯爵邸で有力貴族を150人集めた音楽会に対位法の権威ジョバンニ・バティスタ・マルティーニ神父が姿を見せヴォルフガングは会う。ヴォルフガングはこの神父を二度訪ね対位法やポリフォニーの技法を学ぶ。3月29日ボローニャを発ち、3月30日~4月6日フィレンツェ到着しレオポルド大公に謁見する。4月6日フィレンツェを発つ。4月11日~5月8日ローマ滞在し、サン・ピエトロのシスティーナ礼拝堂に行き朝課でグレゴリオ・アレグリの「ミゼーレ」を聴くこの曲は秘曲とされ写譜することは禁止されていたが、ヴォルフガングは一度聴いただけで暗譜しこれを書き取る。この話は教皇クレメンス14世の耳にも入り称賛されたと伝えられている。「交響曲ニ長調K.81=E.73」など交響曲3曲完成。5月14日~6月25日ナポリ滞在。6月26日~7月10日ローマ滞在。7月5日ローマ教皇クレメンス14世かパラヴィッチーニ卿を通じて黄金騎士勲章を授与され剣と拍車を同時に賜り以後「騎士アマデーオ・ヴォルフガンゴ・モーツァルト」という肩書を持つことになる。さらにパッラヴィチーニ枢機卿から勲章と賞状を授与され教皇自身にも拝謁している。7月20日ボローニャ到着。ボローニャには優れた音楽家や見識のある貴族、聖職者が会員となっているアカデミア・フィラルモニカ(楽友協会)があり、会員になるためには満20歳以上であったが、14才のヴォルフガングは、マルティーニ神父の推薦により特例として試験を受けることが認められる。試験で第一旋法のアンティフォナを与えられ1時間足らずで完成させ全員の賛同によって会員に認められる。次いでヴェローナのアカデミア・フィラルモニカの会員に認められる。10月13日ボローニャを発つ。「交響曲第11番ニ長調」完成。10月18日ミラノ到着。12月26日ミラノ宮廷から依頼されたオペラ「ポントの王ミトリダ-テ」(全3幕約3時間30分)をミラノのテアトロ・レージョ・ドゥカーレで14才のヴォルフガングがクラヴィーアを弾きながら初演を指揮。「交響曲第10番ト長調」作曲

1771年1月14日ミラノを発ち1月15日~1月末までトリノ滞在。再びミラノに戻り1月31日~2月4日滞在。2月11日~3月12日ヴェネツィア滞在しコルネール家、ドルフィン家等の名門貴族に招かれ毎日訪問する。ヴェローナを経て1年4ヶ月に渡ったイタリア旅行を終えて3月28日ザルツブルクに戻り「交響曲変ロ長調」「交響曲へ長調」「交響曲第9番ハ長調」「交響曲第12番ト長調」作曲。8月13日父とザルツブルク出発第二回イタリア旅行。8月18日~20日ヴェローナ滞在。8月21日~12月5日ミラノ滞在。トスカーナ大公の祝典は15日に行われ、作曲したオペラ「アルバのアスカーニョ」(2部約2時間50分)は10月17日ヴォルフガング指揮で初演され成功を収める。11月8日フィルミアーン伯爵の招きでアードル・ハッセとモーツァルト父子は訪問しダイヤモンドをちりばめた時計を賜る。「交響曲ハ長調」「交響曲に長調」「交響曲第13番ヘ長調」「ディヴェルティメント第1番」作曲。12月15日ザルツブルクに戻る。「交響曲第14番イ長調」作曲

1772年「ディヴェルティメント第2番」「ディヴェルティメントニ長調K.136」「交響曲第15番ト長調」作曲。3月14日ヒエロニムス・コロレド伯爵がザルツブルクの新大司教に決まり5月着任、8月21日付でザルツブルク宮廷、有給の楽師長に任命される。「交響曲「第16番~21番」作曲。大司教からのイタリア旅行の許可が下り、10月24日父と3回目のイタリア旅行にザルツブルクを出発。インスブルック2泊し、ヴェローナ経由で11月4日ミラノに到着しオペラ「ルーチョ・シッラ」の作曲を開始。12月26日ミラノ、テアトロ・レージョ・ドゥカーレでオペラ「ルーチョ・シッラ」(全3幕3時間30分)をヴォルフガング指揮で初演。

1773年ミラノに滞在中、フィレンツェでの就職先の活動も実らず3月4日ミラノを発つ。3月6日ヴェローナに着きルジアーティ家で2泊。3月13日ザルツブルクに戻り暮れまでに「交響曲第22番~第27番」作曲。7月14日父と宮廷に職を求める為、第3回目のウィーン旅行出発。7月15日ウィーン着。8月5日女帝マリア・テレジアに拝謁したが(女帝は息子のフェルディナンド大公に宛てて ” 乞食のように世を渡り歩いている連中など雇わないほうがいい ”という手紙を書いたことなどから)宮廷の態度は冷たく旅行は失敗であった。8月7日カエタヌス修道院に招かれる。8月18日メスマー邸の庭園で大音楽会を催す。8月21日~23日はバーデン。ウィーンに戻る。この間6曲の「弦楽四重奏曲(K.168-173)」を作曲。9月25日ウィーンを発ちランバッハ経由で9月26日ザルツブルクに戻る。晩秋頃手狭になった生家ゲトライデ通り9番地ハーゲナウアー家の持ち家から一家はザルツァッハ川対岸のハンニバル広場のタンツマイスターハウス2階の八部屋を借りて引っ越す。10月5日「交響曲第25番ト短調」作曲。12月「弦楽五重奏曲(K.174)」と「ピアノ協奏曲ニ長調(K.175)」作曲

1774年は12月までに「コンチェルトーネハ長調(K.190)」「ファゴット協奏曲変ロ長調(K.191)」「交響曲イ長調」「ミサ・ブレヴィスヘ長調(K.192)」「ピアノソナタ(K.279-283)」「セレナードニ長調(K.203)」など作曲。12月6日オペラ・ブッファ上演のため、父とザルツブルクを出発ミュンヘンへ向かう。12月7日ミュンヘン到着。

1775年1月13日(18歳)前年の9月バイエルン選帝侯マクシミリアン三世から依頼のあった喜歌劇「偽の女庭師」(全3幕約3時間20分)ミュンヘンのレドゥーテン・サール(宮廷内の大広間)で初演され、クリスティアン・シューバルトの「ドイツ年代記」にはミュンヘン通信員の報告「私はまた驚くべき天才モーツァルトの喜歌劇を聴いた。”偽りの女庭師”なる作品である。天才のきらめく焔がそこかしこにひらめいていた。彼が温室育ちの植物でないとすれば、生きた最も偉大な作曲家のひとりとなるにちがいない」と掲載。2月12日父親のレオポルドが息子の「ミサ・ブレヴィスヘ長調」を宮廷礼拝所で指揮。3月5日ヴォルフガングは「ミゼリコルディアス」を作曲し演奏。3月6日ミュンヘンを発ち3月7日ザルツブルクに戻る。大司教の依頼によりマクシミリアン・フランツ大公歓迎祝典劇を作曲し、4月23日オペラ「牧人の王」(全2幕約2時間30分)ザルツブルク宮廷で初演。4月24日宮廷の音楽会の最後にヴォルフガングは「クラヴィーアを弾いて聴かせ様々な曲を暗譜で実に見事に弾いた」とハルトック伯爵の日記に記されている。この年は、ロドゥロン伯爵夫人のために「ディヴェルティメント変ロ長調K.247」、リュッツォウ伯爵夫人のために「ピアノ協奏曲ハ長調K.246」、ハフナー市長の令嬢に「ハフナー・セレナードニ長調K.250」を作曲

1776年はザルツブルク宮廷仕える。「ミゼリコルディアス・ドミニニ短調K.222」作曲

1777年モーツァルト父子から出された旅行許可の求めに対しザルツブルク宮廷は父子を解雇。9月23日母と職探しの旅、9月24~10月11日ミュンヘン滞在し母マリーア・アンナが夫レオポルドに宛てた手紙には「私たちはまるで王子様のようなすてきな生活をしています。・・・・さようなら、いとしい方、お元気でね。お尻に口をつけて舐めてください。お休みなさい。ベッドに音を立ててウンチしてください」とスカトロジーな手紙を送っている。ツァイル伯爵を通してのミュンヘンでの就職活動は選帝侯から「まだ早すぎる、有名にならなければいかん。拒むわけではないが今は時期尚早」といわれ進展しない。9月26日父レオポルドの復職決まる。9月30日選帝侯に拝謁し選帝侯に仕えたいと願い出るが空席が無いと断られてしまう。10月2日ヴォルフガングから父に宛てた手紙には「ぼくはゼーアウ伯爵と次の契約をするつもりです。毎年、ブッファとセリアを合わせて四つのドイツ語オペラを提供する。そして、それぞれの曲について一晩分をもらう。そうすればそれだけで少なくとも500フローリンになりますから、ぼくの給料と合わせて、800フローリンになります。いや、きっとそれ以上になるでしょう。ぼくは当地でとても気に入られていますし、音楽の分野でドイツ国民演劇の向上に協力できたらどんなにぼくの人気が上がることでしょう」「追伸 ぼくがウンコをたれたり、彼女がそれを食べたりすることは・・・。でも、今はもっと驚くことがあります。10月3日にこれを書いています」「追伸 ぼくはお答えしました。ミュンヘンに留まりたいのですが、実を申しますと、選帝侯からなにがしかのお手当をいただけたらと願ったのは、ひたすら自分の作曲で、しかもなんの利害なしに、お仕えしたかったからです。そこに喜びが得られると思っていました・・・」と書き送っている。就職を果たせず10月11日母子はミュンヘンを発つ。10月11日父の故郷アウグスブルクに着き叔父同伴でランゲンマンテル市長を訪ねる。市長は父とザルツブルク大学で同級生であった。市長の息子と同地のクラヴィーア製作者ヨハン・アンドレアス・シュタインを訪ね消音装置付きのピアノフォルテに出会い気に入ってしまう。シュタインから、もしかしてモーツァルトさんじゃないですか?と名前を聞かれ「トラツォーモ」と答える。26日アウグスブルクを発つ。10月30日マンハイム着き滞在。11月14日の父に宛てた手紙には「私こと、ヨハネス・クリソストムス・アマデウス・ヴォルフガングス・ジギスムンドゥス・モーツァルトは、一昨日、および昨日(以前にも度々)深夜12時に帰宅いたし、しかも10時より前記の時刻まで、カンナビヒの家で、カンナビヒ(クリスチャン・カンナビヒ=ヨハン・シュターミッツの弟子でマンハイム宮廷器楽音楽の監督・楽長・ドイツの優れたヴァイオリニスト・指揮者・作曲家)、同婦人と令嬢、財務長官殿、ラム(オーボエ奏者)、ラング(ホルン奏者)氏らの面前でともどもに、しばしば、しかもいやいやではなくて、まったく浮き浮きと、それもただただ落ちる話、つまり、ウンコとか、クソたれとか、尻舐めとかで語呂遊びいたしましたことの罪状をここに告白いたします。‥略・・それ故に、聖なるお許しを、もしたやすく得られるものならばお願いしますが、もしそうでないならば、どちらでも結構です。遊びはやはり続くでしょう。・・以下略・・」と書き送っている。おそらくここでもマンハイムでの就職活動への望みがあったのではないか、その努力のあられではないかといわれている。ヴォルフガングはシュタインの楽器を踏まえた上でピアノソナタハ長調(K.309)を作曲し、マンハイムで親しく出入りしていたカンナビヒの令嬢ロジーナ・テレジア・ペトロネッラ・カンナビヒ(愛称ローザ)に捧げている。11月4日父に宛てた手紙に「彼(カンナビヒ)にはひとり娘(ローザ)がいて、クラヴィーアをじつに愛らしく弾きます。そこで僕は彼と親しくなるため、いま娘さんのためにソナタを一曲書いています・・以下略・・」。11月8日父に書いた手紙には「選帝侯、侯妃殿下、全宮廷がとても僕を気に入ってくれています。音楽会で僕が弾いていたときは二度とも、選帝侯と侯妃がクラヴィーアのすぐ近くに来られました。演奏会が終わったあと、カンナビヒは僕が宮廷の人達と歓談できるように取り計らってくれました・・以下略・・昨日、僕は選帝侯とまるで親友のように話しました。侯は実に寛大で善良な方です。侯は僕に言われました “君はミュンヘンでオペラを書いたそうじゃないか ” はい、殿下。失礼をかえりみず申し上げますなら、私の最大の願いは当地でオペラを書くことです。どうぞ私のことをお忘れにならないでください。ありがたいことに、私はドイツ語オペラを書くことができます。と僕は微笑みました。 ” それはむつかしい話ではないだろう ” 」と書き送っている。11月13日父からヴォルフガング宛ての手紙には「おまえは私の書いた書状を選帝侯に手渡すべきだったろう。ミサのあと、おまえは選帝侯妃に呼ばれたと書いているね。そのときこそ、巧みに取り入って、状況に応じては、以前からの計画を始めるチャンスだったのだろう。そこで完全に就職できる望みがないのなら、選帝侯は1年でも、あるいはせめてこの冬の間だけでも、おまえを手元に置いてくれないだろうか。おまえが選帝侯妃に、母親(57才)が年を取っていること、しかも年老いた婦人には旅がとても辛いことを訴えられるとすれば、なおさらのことだ」と書き送り、ヴォルフガングが受け取ったのは11月24日のことであった。11月24日父からヴォルフガングへの手紙には「お前たちは、ザルツブルクを発ってからミュンヘンに16日、アウクスブルクに14日、マンハイムに17日間、それも手紙の返事を待っていれば3週間にもなる。出発以来もう8週間、つまり2カ月もして、まだマンハイムにいるんだって?どれほどお金に羽根が生えて飛んでゆくことか」と書き送っている。

1778年1月23日マンハイムからキルヒハイムとボーランデンに行き2月4日再びマンハイムに戻る。3月14日マンハイムを発ち22才になったヴォルフガングと母は3月28日パリ到着。4月5日母から夫レオポルド宛ての手紙には「一日中、ひとりきりで、暗い部屋の中に座っていますが、まるで牢屋にでも入れられているようです。ヴォルフガングは、クラヴィーアのあるル・グロさんのお宅で作曲して、一日中、あの子に会いません。昼食には、野菜入りのスープがまず出ますが、私好きじゃありません。次はまずいお肉の切れはし、濁ったソースをかけた仔牛の足か、石のように硬いレバーです。もうお金も残り少なくなってきました」次いで5月1日同じく母から夫レオポルドに宛てた手紙には「私はこのところ3週間、歯痛、頭痛、首痛それに耳の痛みに苦しみました。私はあんまり外出しません。でも、部屋は火を焚いても同じようにさむいのです。私の為に、黒色粉薬と消化粉薬をことづけてくださると嬉しいのですが・・・」と書き送っている。6月18日コンセール・スピリチュエルの主宰者ル・グロの依頼で作曲された「交響曲第31番ニ長調(パリ交響曲)」初演。7月3日ヴォルフガングから父への手紙には「最愛なるお父さん!非常に悲しいお知らせをしなくてはなりません。お母さんが重態です。例のように、お母さんは瀉血してもらいました。そのあと、とても具合は良かったのです。ところが数日後、悪寒を訴え、同時に熱っぽいと言い出しました。それから下痢と頭痛が起こりました。とりあえず、我が家の家庭薬痙攣止めの粉薬だけを使いました。黒色粉薬を使いたかったのですが、ちょうど持ち合わせがなく、ここでは手に入りません。癲癇薬という名を言ってもわかりません。でもだんだん悪くなるばかりで、話すのはやっとで、叫ばなければ耳も聞こえなくなったので、グリム男爵が自分の医者をよこしてくれました。とても衰弱していて、まだ熱があり、うわごとを言います。望みはあると人は言いますが、僕はあまり期待していません・・以下略・・」その日7月3日の夜10時21分にヴォルフガングの母は息を引き取る。8月19~8月28日サン・ジェルマン滞在。8月28日パリに戻り9月26日パリを発つ。10月14~11月3日ストラスブール滞在。10月鼻アレルギーに罹る。11月6~12月9日マンハイム滞在。12月13~24日カイザースハイム滞在。12月25日ミュンヘン着。

1779年1月14日ミュンヘンを発ち1月15日頃ザルツブルクに戻る。1月17日父の請願書が受け入れられ宮廷への復職が叶い宮廷及び大聖堂オルガニストに任命される

1780年3月23日「戴冠ミサ曲(K.317)完成し6月5日マリア・プライン教会の聖母像の戴冠祭で初演。ミュンヘンから謝肉祭のためのオペラを作曲する依頼が来る。ミュンヘン宮廷の音楽監督がゼーアウ伯爵であったことが幸いしたともいわれている(1775年にミュンヘンのために書いたオペラ「偽の女庭師」の実績もあった)。バイエルン選帝侯カール・テオドールから依頼を受け作曲に入り残りを仕上げて11月5日第2回ミュンヘン旅行に出発し、11月6日ミュンヘン着。

1781年1月29日、オペラ「クレタの王イドメネオ」(全3幕約2時間50分)バイエルン選帝侯宮廷劇場(キュヴィリ劇場)でヴォルフガング指揮で初演し父と姉も出席。3月7日からヴォルフガングは父と姉ナンネルとアウクスブルクに立ち寄っていた。大司教の許可なしにミュンヘンで3ヶ月を過ごし、聞きつけた大司教にウィーンに呼び寄せられたため、3月12日ミュンヘンを発ち3月16日ウィーンに着き大司教が泊っている家に落ち着く。ザルツブルク大司教ヒエローニュムス・コロレードは重病の父コロレードを見舞いにウィーンに来ていた。5月9日のヴォルフガングから父への手紙には「僕はまだ腹が煮えくり返っています。僕の忍耐はあまりに長いこと試練にかけられていましたが、ついにがまんしきれなくなりました。ぼくはもうザルツブルクに仕える不幸な身ではなくなりました。今日は僕にとって幸福な日でした」と大司教と衝突したことを報告している。そして手紙には「一週間前に大司教の使いの者が現われて、僕に即刻出て行くように告げました。ウェーバー老夫人が親切に彼女の家を提供してくれました」と書き送っている。翌日、アルコ伯爵に大司教宛てのへの辞任請願書を手渡してくれるよう提出するが受理されなかった。ヴォルフガングはこうしてウィーン定住を決意するが、父が息子を説得し非を詫びて辞表を取り下げようとした。6月8日には仲介役のアルコ伯爵からヴォルフガングは足蹴りされ戸口の外に突き出される。ウィーンで弟子をとりレッスンを始める。最初はルンベック伯爵夫人、二人目がアウエルンハンマー家の娘、7月30日オペラ「ベルモンテとコンスタンツェ(後宮からの逃走)」作曲にかかる。8月末にグラーベン通り1175番地の4階に引っ越す。12月15日コンスタンツェ・ウェーバーと結婚することを父に手紙で知らせるが、父からは「結婚承諾書」は式当日までには届かなかった。

1782年7月16日オペラ「後宮からの逃走」(全3幕約2時間30分)ウィーンのブルク劇場で初演され、18日、26日、8月6日にはグルックの求めで上演され、ヴォルフガングはグルックの自宅に招かれている。8月4日聖シュテファン教会で司祭を含め6人の立ち合いのなかコンスタンツェ・ウェーバーと結婚(26歳)

1783年の年初にブランケンシュテルン男爵邸で台本作者ロレンツォ・ダ・ポンテに初めて紹介される。6月16日妻コンスタンツェが男児無事出産し洗礼名は名付け親のライムント・ヴェッラル・フォン・ブランケンシュテルン男爵と祖父レオポルトの双方から名を頂いてライムント・レオポルトとつけられる。7月12日の父へ宛てた手紙には「僕の友人たちは、僕がまだ解雇されていないので、大司教が僕を逮捕するのではないかとさえ案じています」と書き送り、7月末、コンスタンツェを伴いザルツブルクへ旅行に発ち7月29日前にはザルツブルクに着く。7月29日朝7時のミサにヴォルフガングは姉ナンネルとコンスタンツェと一緒に行っている。10月25日聖ペーター教会のミサ聖式で宮廷楽団員全員出席の中「ハ短調ミサ(K.427)]をあげる。10月27日9時30分ザルツブルクを発ちリンツのトゥーン伯爵邸へ向かう。11月4日の演奏会用に作曲したのが「交響曲第36番リンツ」。11月末ウィーンに戻り里子に預けた子供ライムント・レオポルトの死を知らされる。8月19日腸閉塞で生後2ヵ月の命であった

1784年、数年前ウィーンに定住した頃、最初のピアノレッスンの弟子であったマリーア・テレージア・フォン・トラットナー夫人は裕福な出版商と結婚していた。1784年1月から9月までヴォルフガングはこのトラットナー邸に住み込んで子供らの面倒を見てもらっている。9月リューマチ熱に罹る。9月21日二男カール・トーマスが生まれる。三男レオポルトが生まれた時にはフォン・トラットナー氏に名付け親になってもらうという親密な間柄であった。11月1日秘密結社フリーメイソンに加わることを申請し、12月14日「ツァ・ヴォルテーティヒカイト」(善行)分団への入社を認められ、翌年1月には「徒弟」から早くもフリーメイソンの第二級「聖人」へと進級を許されている。ヴォルフガングは結社員盟友の連帯感によって、こののち生活を事実上支えてもらうことになる

1785年2月16日父レオポルトから結婚した娘ナンネルに宛てた手紙には「ハイドンさんは私に、こう言われたのだ。 ” 誠実な人間として、神の前に誓って申し上げますが、ご子息は、私が名実ともに知る限りの最高の作曲家です。様式感に加えて、この上なく広い作曲上の知識をお持ちです ” 」と書き送っている。7月宮廷詩人ダ・ポンテに依頼していたオペラ・ブッファ「フィガロの結婚」の台本を手にした。初演のとき、パジリオとクルチオを歌ったテノール歌手マイケル・オケリーは回想録(1826年)の中で 「 <フィガロ> の初めてのリハーサルのときの、興奮を抑えながらも、天才の燃えるような光に輝いた彼の表情を、私は生涯忘れることは出来ません。それを描写するのは、太陽の光を描き出したいと望むほど不可能なことです。モーツァルトは深紅の上衣に金モールのついた山高帽をかぶって舞台に立ち、オーケストラにテンポを与えていました。フィガロ役のベヌッチが、あらん限りの声量と、無類の情熱をこめて “ もう飛べないぞ、恋の蝶々 ” を歌いました」「やがてフィナーレの < ケルビーノ、勝利を、栄えある軍人として > とトロイの戦士さながらに、大声で歌い始めたとき、舞台の歌手たちも、オーケストラの楽員たちも雷撃的なショックを受け、恍惚のあまり ” ブラヴォー!ヴラヴォー!マエストロ!万歳、大モーツァルト万歳! ” と叫びました。楽員たちは、いつまでも喝采をやめようとせず、譜面台を弓で叩いていたようでした。その小柄の青年は、自分に示された異常な熱狂ぶりに応えて、何度もおじぎをしながら感謝の気持ちを表していました」

1786年2月7日オペラ「劇場支配人」(1幕約27分)シェーンブルンのオランジュリー(熱帯植物用の大温室)で初演。5月1日オペラ「フィガロの結婚」(全4幕約3時間20分)ウィーン、ブルク劇場でチェンバロを弾きながらヴォルフガング指揮で初演されその年6回上演された

1787年1月8日ドゥーシェク夫人の招きでコンスタンツェを伴いウィーンを発ち、1月11日プラハに到着。2月8日プラハを発ち12日ウィーンに戻る。プラハ滞在中に劇場支配人パスカル・ボンディーニから新作オペラを依頼される。オペラ「ドン・ジョヴァンニ」である。4月24日フィガロハウスから郊外のラントシュトラッセに引っ越す。5月10日父が娘ナンネルに書いた手紙に「おまえの弟は引っ越した理由を私には書いてきません」これが父レオポルトの最後の手紙となる。6月2日ヴォルフガングから姉ナンネルへの手紙「僕のお父さんの突然の死を告げる悲しい知らせが、僕にとってどんなにか辛かったか、容易に想像してもらえるでしょう。失ったものは、僕ら二人にとって同じものなのですから」。父の遺産から1千グルデンを譲り受け父の手元にあった自分の作品を渡してもらう。10月1日コンスタンツェを伴いウィーンを発ちプラハへ向かう。10月4日プラハ到着。29日オペラ「ドン・ジョヴァンニ」(全2幕約3時間)プラハエステート劇場、ヴォルフガング指揮で初演。11月4日モーツァルトから友人のフォン・ジャカンに宛てた手紙に「 最愛、最上の友よ、10月29日、僕のオペラ<ドン・ジョヴァンニ>が上演された。しかもたいへんな拍手喝采を受けて。昨日四回目の(しかも収入は僕がもらえる)上演があった。もしかしたらウィーンでも上演されるかもしれない。それを願っているよ」 と書き送っている。あと数ヶ月プラハに滞在してオペラをもう一曲書くようにという要望があったが、それを断って11月12日頃プラハを発ちウィーンに11月16日ころ戻る。12月7日付けで4月に亡くなったシュタルツァーと11月15日にグルックが亡くなり、その空席を埋めるため、モーツァルトはヨーゼフ2世から「オーストリア宮廷作曲家」に任命される。

1788年2月9日にオーストリア帝国がトルコに宣戦布告する。その直前にケルントナートール劇場は閉鎖される。音楽会は少なくなり、モーツァルトは生活に必要な借金の申し込みを、フリーメイソンの同志で裕福な貴族プフベルクにおこなうようになる。「6月初めに100フローリン」「6月17日1千ないし2千グルデン」これに対しプフベルクは「100フローリン」「17日付けには200フローリン送るとメモしている」。6月27日「交響曲第39番変ホ長調」完成。6月29日長女テレージアが生後6ヶ月で亡くなる。7月「交響曲第40番ト短調ジュピター」完成。借金を返せない窮状のなか、お詫びにプフベルクに「ディヴェルティメント変ホ長調(K.563)」を贈っている。

1789年3月モーツァルトはクラヴィーアの弟子マグダレーナ・ホーフデーメルの夫フランツに100フローリンの借金を依頼している。4月8日カール・リヒノフスキー侯爵に勧められベルリン旅行に発つ。4月10日プラハ、4月12日~18日ドレスデン滞在。4月20日に着き22日ライプツィヒのトーマス教会で、大バッハの用いたオルガンを弾いて、後任者フリードリヒ・ドーレスをして「師の再来」と狂気させた。23日ライプツィヒを発つ。4月25日~5月6日ころボツダム滞在。プロシア王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の宮廷に伺候している。成果は国王から弦楽四重奏曲、王女フリデリーケの為のやさしいクラヴィーア・ソナタを6曲づつ依頼され900グルデンを受け取った。5月19日~28日ベルリン滞在。5月31日~6月2日プラハ滞在して6月4日ウィーンに戻る。「7月再びプフベルクに500フローリン借金を申し込む」この手紙を受け取ったプフベルクは「150フローリン」送金している。8月妻のコンスタンツェは足の感染症に罹り、医師の勧めでバーデンの硫黄泉で湯治をするようになる

1790年1月20日プフベルクに借金100フローリン依頼。「プフベルク100フローリンを送金」。1月26日オペラ「コジ・ファン・トゥッテ」(全2幕約2時間40分)ウィーン宮廷劇場初演。2月20日プフベルクに数ドゥガーテンの借金申し込む。「プフベルク25フローリン送金」。2月20日ヨーゼフ二世他界。オーストリア皇帝レオポルド2世の戴冠式にフランクフルトへ同行。おそらく4月初旬プフベルクに借金依頼。「プフベルク150フローリン送金」。同じく4月8日以前にプフベルクに借金依頼。「プフベルク4月8日25フローリン小切手で送金」。5月初めプフベルクに借金依頼。「プフベルク1000フローリン送金」。5月歯痛と頭痛。「プフベルク5月17日150フローリン送金」。8月痛みと不眠。「プフベルク8月14日10フローリン送金」。弟子二人と月額66グルデンの年金が唯一の収入源であったモーツァルトは、レオポルト二世の即位を機に、宮廷次席副楽長と皇太子のクラヴサン教師の地位を請願したが容れられなかった。10月26日モーツァルトにロンドで2曲のオペラ作曲依頼と300ポンドの謝礼の話が出るが決断できず。

1791年1月5日には最後の「ピアノ協奏曲変ロ長調」、「六つのドイツ舞曲」「リート」3曲の作曲を引き受け完成。2月、3月は残っていた宝石類や記念品など全てを売り払ってお金に変え生活費にする。「レントラー」や「ワルツ」、謝肉祭の仮面舞踏会用の「ドイツ舞曲」「田園舞曲」等を作曲。3月ピアノ協奏曲第27番を自らの演奏で初演、これが最後の演奏活動となる。3月下旬から4月上旬にオペラ「魔笛」の話が進展、「弦楽五重奏曲変ホ長調」の注文が入り、盲目の女流グラス・ハーモニカ奏者マリアンネ・キルヒゲスナーから協奏曲の依頼があり「五重奏曲アダージオとロンドハ短調・ハ長調」作曲。5月願い出た聖シュテファン大聖堂副楽長の職を無報酬で任命される。6月17日「アヴェ・ヴェルム・コルプス」完成。同月末に再び生活が苦しくなる。妻のホテル代に3フローリンを送る。プフベルクに25フローリン助けてもらい妻に届ける。7月に入り9月6日に行われる皇帝レオポルド二世のボヘミア王戴冠式のためオペラ「ティート帝の仁慈」の注文を受ける。弟子のジュスマイヤーに手伝ってもらい「皇帝ディートの慈悲」完成。同時期に鼠色の服を着た背の高い痩せた男が署名の無い手紙(実はヴァルゼック伯爵からの手紙で亡き妻の一周忌の為だった)を携えて現われる。それは愛好家からの鄭重な作曲の依頼で「鎮魂ミサ曲」作曲とお礼の額のとり決めを乞う。妻と相談し50ダカットの金額を求める。その男は完成をせかされていることと、時折進み具合をたずねに訪れることを付け加える。「魔笛」作曲中、毒殺されるという妄想がおこりまた腰痛と倦怠感を訴える。7月27日妻は男児出産。末に「魔笛」完成。8月幼いカールを寄宿学校に入れ、生まれた児は里子に出す。8月25日皇帝レオポルド2世のボヘミヤ王即位戴冠式を目指して、コンスタンツェとジェスマイヤーを伴いプラハに向かう。9月2日国立劇場で皇帝皇妃の臨席のもと、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」上演されモーツァルトは満員の聴衆に混じり大満足であった。。同6日夜、新しくボヘミアの王位についたレオポルド2世就任記念戴冠式祝典でオペラ・セリア「ティート帝の仁慈」(全2幕約2時間10分)をモーツァルト指揮でプラハの国立劇場で初演。9月の後半は「魔笛」の練習にかかりきりとなる。9月30日午後7時、オペラ「魔笛」(全2幕約2時間20分)ウィーン郊外のヴィーデン劇場で初演。出演はシカネーダーの一座に所属の歌手、ヴォルフガングがチェンバロを弾きながら指揮。その傍らではジェスマイヤーが譜めくりをする。10月ハンガリアの愛好家協会が相当数の新作に対し千フローリンの年金を提供すると申し出る。ロンドンのロレンツォ・ダ・ポンテは渡英した時の生活保証を約束してくる。11月15日「クラリネット協奏曲」完成。モーツァルトの手足はむくみ、一人では仕事が出来ずジュスマイヤーが口述を譜面に書き取るようになる。11月28日総合病院の医長サラーバ博士の診断を受ける。「魔笛」は大ヒットを続け、シカネーダーには8千フローリンという大金がころげこんだと言われている。妻コンスタンツェの手元には60フローリンのお金しか残っていなかった。晩秋頃に「リウマチ性炎症熱」におかされる。12月4日午後2時、周囲に義兄フランツ・ホーファー、ザラストロ役のフランツ・ゲルル、タミーノ役のベネディクト・シャックが集まる。ベッドに拡げられた「レクイエム」のスコアは「ラクリモサ」の出だしが書き込まれてある。義妹のゾフィーが司祭を連れずに戻ると、ジュスマイヤーが如何にして「ラクリモサ」を完結するかモーツァルトから消え入るような声で説明を受けていたとゾフィーは語る友人ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー(宮廷オルガニスト)に知らせるまでは自分の死を伏せておくよう妻に依頼する。最後にしていたことは、レクイエムのティンパニーのパッセージを口ずさもうとすることであった。早速、医者のグロセットは劇場で見つかったが芝居が跳ねるまでは来れないよいうことであった。医師がようやく来て火のような額に冷たい湿布をのせると、意識は遠くなり再び意識を取り戻すことはなかったとゾフィーは語る。12月5日金曜日午前零時55分息を引き取る。モーツァルトは棺に納められ、その上を葬儀組合の黒布で覆われ、遺体は仕事部屋のクラヴィーアのかたわらへ置かれた。翌6日の葬儀に加わったのはジュスマイヤー、サリエリ、ローザー、ヨーゼフ・ライナー、二人の義兄ホーファーとランゲ等ごくわずかだったといわれている。シカネーダーはいなかったといわれている。オットー・ヤーンの手記によれば、スヴィーテン男爵は未亡人の乏しい懐具合も考慮してできるだけ簡単に安く上げようとした。」葬儀費用は8フローリンと36クロイツェル、霊きゅう車代が3フローリンであった。午後3時にシュテファン大聖堂の十字架小聖堂で、この大聖堂の副楽長の地位にあったモーツァルトの葬儀は、ミサひとつ挙げずに遺体安置所から彼の棺を墓場へと送る簡単に執り行われた。みぞれ混じりの中、傘をさして棺のまわりに立った。棺は馬に引かれシュラー・シュトラッセを通ってマルクス墓地に運ぶ。貧しい共同墓地まで行ったのは葬儀人夫たちのみで、誰も立会人はいなかった。家族が見守らなかったため故人の名を刻んだ十字架すら立たず無名のままモーツァルトは墓地に眠った。三等級の葬式を出してくれたのはフリーメイソンの秘密結社員のファン・スヴィーテン男爵であった(スヴィーテン男爵はモーツァルトと最後まで親しく、葬儀の全てを取り仕切ったフリーメーソンの同志で宮廷の要職にあったが解任された)。
12月10日ウィーン聖ミハエル教会で友人たちにより追悼ミサが行われた。その費用の一部をシカネーダーが負担したという。このとき「レクイエム」の一部が弟子フライシュテットラーの補筆によって歌われる。
12月14日プラハでモーツァルト追悼ミサが行われ町中の人が教会前の広場に集まった。
聖シュテファン大聖堂事務局死者台帳によるとモーツァルトの死因は「急性粟粒疹熱」となっているが、後世の研究者は末期症状から推察し慢性腎臓病による尿毒症と診断するのが有力

モーツァルトの死にまつわる伝説
1.毒殺説 サリエリ説と秘密結社フリー・メースン説
2.リウマチ熱に感染しリウマチ性膝関節炎になり、更に心臓弁膜症が起こり死の直前に瀉血を繰り返し病状が悪化し大動脈弁口狭窄があったという説
3.ペスト説、当時ウィーンはペストが大流行していたからという説
4.水銀中毒説、女から梅毒に罹患し治療の為に昇汞(しょうこう)という水銀剤を服用した中毒死という説とアクア・トファーナという砒素とアンチモンなどで合成したものを飲まされていたという中毒説がある
5.腎臓病説、慢性腎臓病による尿毒症説。末期の浮腫は腎臓病によるという考えで研究者間では有力な死因
7.旋毛虫感染説、亡くなる44日前に「ポークカツ」を食べたとモーツァルトが妻に書き送った手紙からの新説で、当時豚肉に寄生する旋毛虫による集団食中毒が頻発しており症状が似ているとした説がある
        

4.主な作品

交響曲:第1番~第51番 (特に有名なもの 第25番、第29番、第35番『ハフナー』、第36番『リンツ』、第38番『プラハ』、第39番、第40番、第41番『ジュピター』)

管弦楽曲
  セレナード:セレナード第1番~第13番 (特に有名なもの 第13番 K.525 『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』、第6番 K.239『セレナータ・ノットゥルナ』)
  ディヴェルティメント
   
ピアノ協奏曲:第1番~第27番 

5大オペラ:『後宮からの誘拐』、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『コジ・ファン・トゥッテ(女はみなこうしたもの)』、『魔笛』

ヴァイオリン協奏曲:第3番、第5番『トルコ風』

管楽器のための協奏曲:クラリネット協奏曲、フルート協奏曲、フルートとハープのための協奏曲、オーボエ協奏曲、ホルン協奏曲、チェロ協奏曲、トランペット協奏曲、他多数

弦楽四重奏曲:ハイドン・セット、ディヴェルティメント K.136

弦楽五重奏曲:第3番、第4番

その他室内楽曲:クラリネット五重奏曲、オーボエ四重奏曲

ピアノソナタ:第11番『トルコ行進曲付き』

ピアノのための変奏曲: きらきら星変奏曲(フランスの歌曲『ああ、お母さん、あなたに申しましょう』による12の変奏曲)ハ長調 K.265

  宗教音楽:大ミサ曲、レクイエム、『アヴェ・ヴェルム・コルプス』

  教会ソナタ

  1791年亡くなる年の作品 1月「ピアノ協奏曲第27番K.595」、子供用の歌曲「春への憧れk.596」・「春の初めにk/597」・「子供の遊びk.598」「六つの舞踏用メヌエットk.599」「六つのドイツ舞曲k.600」、2月「4つのメヌエットk.601」「4つのドイツ舞曲k.602」「2つの田園舞曲k.603」「2つのメヌエットk.604」「3つのドイツ舞曲k.605」、田園舞曲「ご夫人の勝利k.607」「6つのレントラー舞曲k.606」、3月「自動オルガンの為の幻想曲k.608」、田園舞曲「意地悪娘たちk.610」、ドイツ舞曲「ライエルひきk.611」、アリア「この美しい御手と瞳にk.612」「8つのピアノ変奏曲k.613」、4月「弦楽五重奏曲第6番k.614」フォナーレ合唱「みんな幸福に生きようk.615」、5月「小さな自動オルガンのためのアンダンテk.616」「グラスハーモニカ五重奏曲アダージョとロンドk.617」、6月モテット「アヴェ・ヴェルム・コルプスk.618(この曲は妻のコンスタンツェが湯治に行った際の世話になったお礼として書かれた)」、7月小カンタータ「無限の宇宙の創造者を崇拝する君らよk.619」、9月オペラ・セリア「ティート帝の仁慈k.621」、オペラ・ブッファ「魔笛k.620」「クラリネット協奏曲イ長調k.622」、10月「ホルン協奏曲第1番ニ長調K.412」、11月フリーメーソンのためのカンタータ「我らの喜びを高らかに告げよk.623」、フリーメーソンの歌「固く手を結び合いk.623a」「レクイエムニ短調k.626」未完

5.その他

1.モーツァルト家その後
妻コンスタンツェとの間に8年間の結婚生活で4男2女をもうけたが、成人したのは男子2人、二男のカール・トーマス・モーツァルトは音楽家を断念し1858年73才でミラノに没した。
四男のフランツ・クサヴァー・ヴォルフガング・モーツァルトは父ゆかりの多くの人の温かな庇護の下に音楽家として自立し、やがてモーツァルティウムの指揮者になり1842年にはヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト二世を襲名した。1844年7月53才でドイツのカールスバードに没した。二人の兄弟の死はともに生涯独身を通したため直系の血筋は途絶えた。
未亡人となったコンスタンツェは、2人の子供の養育と夫の残した借金に貧困で苦しんでいたが、自筆譜を直ぐには手放さず、8年後の1799年に音楽出版社ヨハン・アントン・アンドレに売却したのが初めてであったといわれている。そして、それから10年後の1809年にデンマーク使節秘書・外交官のゲオルク・ニコラウス・ニッセンと再婚する。そして二人でモーツァルトの伝記を執筆した。1821年二人はザルツブルクへ引っ越す。1826年ニッセンは亡くなる。コンスタンツェはミハエル広場に面した住居に暮し、1841年にはモーツァルテウムの設立に関与する。コンスタンツェは1842年3月6日80才で没した。1842年9月4日ミハエル広場にモーツァルトの記念像が建てられ、モーツァルト広場と呼ばれるようになった。コンスタンツェの墓はザルツブルク新市街、モーツァルトの父レオポルトの眠る同じ、聖セバスティアン教会にある
傍系の血筋も1965年カロリーネ・クラウの死をもって途絶えた。
2.あとがき
こうしてモーツァルトの一生が終わった。モーツァルトにとって貴族からの庇護を受け作曲することが父から引き継いだ人生の目的であり、生活の手段であったようだ。もし、多分当時の社会構造からは無理であったかも知れないが、貴族の庇護から抜け出して独立した自由な音楽家として歩んでいたらもっと違った人生を過ごし、自分の書きたかった作品を残したかもしれない。

6.初演

7.関連動画

Lucia Popp: Marriage of Figaro








vhttps://youtu.be/kBXt9Bn4qns

モーツァルト: 交響曲第25番K.173 / 外山雄三 NHK交響楽団 1990年

日本語字幕/オペラ「魔笛」 1997年東京文化会館大ホール
ベルリン国立歌劇場日本公演 バレンボイム指揮

参考文献:「クラシック作曲家辞典」中河原理監修、フェニックス企画編 東京出版堂 「音楽史(音楽講座)」堀内敬三著 音楽之友社 「偉大なる作曲家のためのカルテ」五島雄一郎著 医療ジャーナル社 「モーツァルトとの散歩」アンリ・ゲオン著/高橋英雄訳 白水社 「モーツァルトの手紙」高橋英雄著 小学館 「作曲家別名曲解説ライビラリー⑭モーツァルトⅡ」音楽之友社編者・発行 「モーツァルト」西川尚生著 音楽之友社 「wikipedia」 「glennmie.blog.s0-net.ne.jp」 「robortkelloyphd.com」 「dictionary/composer/alkan」 「maucamedus.net/solmization/gawut」 「www.tcat.ne.jp/eden/music」 「www.cadenza-od.com」 「www.coara.or.jp/-doraemon/gagaku/nenpyoz.htm」 「www.gecities.jp/gzgaku.ryuteki」 「www.univesal-music,co.jp」 「maokato.jp/bihoro/bihoro 「homepage3.nifty.com/cio/a-alta」 「www.wagnerdailas.com」

生年代:1756年1月27日

没年代:1791年12月5日

日本の元号:宝暦5年~寛政3年

時代:江戸時代 第116代 桃園天皇、 第117代 後桜町天皇、第118代 後桃園天皇、第119代光格天皇  九代 徳川家重、十代 徳川家治、十一代 徳川家斉

日本の出来事:1756年モーツァルト誕生
1757 ◎若年寄大岡忠光が側用人になる。 ◎筝曲山田流の山田検校誕生
1759 ◎大相撲の番付が発刊される
1764 ◎海苔の山形屋、日本橋に開業
1767 ◎上杉鷹山が米沢藩主に就任。 ◎田沼意次、側用人となる
1771 ◎尺八、琴古流創始者、黒澤琴古歿。 ◎杉田玄白らが小塚原で刑死体解剖見学。 ◎「江戸っ子」ことばが川柳に登場
1772 ◎田沼意次老中となる。 ◎幕府、密貿易禁止令
1774 ◎飛騨に百姓一揆
1774 ◎杉田玄白、前野良沢「解体新書」を刊行。 ◎浅草川に吾妻橋を架ける
1776 ◎平賀源内、エレキテルを完成。 ◎上田秋成が「雨月物語」を出版
1778 ◎三原山噴火し江戸に灰が降る。 ◎ロシア船蝦夷地に来て通商を求める
1779 ◎三原山大噴火し爆音が江戸中にまでも。 ◎鹿児島藩校天文館設立
1781 ◎常磐津節の初代、常磐津文字太夫歿。 ◎佐賀藩校弘道館設立
1782 ◎天明の飢饉、始まる(~87)。 ◎幕府が印旛沼の干拓に着手。 ◎小田原で地震が発生し江戸で家屋倒壊。 ◎江戸近海で津波が発生し溺死者が出る。 ◎千川上水が完成。 ◎大雨で隅田川が叛乱
1783 ◎浅間山が大噴火し江戸に灰が降る
1784 ◎若年寄・田沼意知、殿中で斬られる。 ◎与謝蕪村(俳人・画家)歿。 ◎蝦夷地を調査
1785 ◎下総、手賀沼を開墾
1786 ◎新内節の祖、鶴賀若狭が歿。  ◎最上徳内らが蝦夷地の千島を探検。 ◎老中田沼意次、罷免される 
1787 ◎白河藩主、松平定信が老中となる。 ◎鬼平こと長谷川宣以・通称平蔵(1745~95年) 火付盗賊改に任ぜられる
1788 ◎二宮尊徳(農政家)誕生(1856年歿)。  ◎老中松平定信が将軍補佐役となり「寛政の改革」をはじめる
1789 ◎幕府が棄損令〔徳政令の一種)発布。 ◎谷風が横綱免許を取得、土俵入り
1790 ◎江戸、石川島に人足寄場を設置、火付盗賊改め長谷川平蔵の提案による
1791 ◎混浴禁止令が出される。 ◎米国商船ワシントン号、紀伊大島に来航。 ◎大黒屋光太夫、ロシア女帝エカチェリーナ二世に謁見、帰国を許される
1791年モーツァルト没

世界の出来事:1756年ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト誕生
1756 ※英仏植民地7年戦争(~1763年)。 ※フランス、リヨン歌劇場創設、現リヨン国立オペラはここで上演している。 ※レオポルド・モーツァルト「ヴァイオリン教程」
1759 ※大英博物館建設(王立学士院院長の医学者スローンが膨大なコレクションを国家に寄贈し世界初の公共博物館となる)
1762 ※オペラ「アルタクセルクセス」トマス・アーン作曲、初演2月2日コヴェント・ガーデン。 ※オペラ「オルフェオとエウリディーチェ」3幕クリストフ・W・グルック作曲、初演10月5日ウイーン、ブルク劇場。自身の指揮。 ※エマヌエル・バッハミラノからロンドンに移住。  ※6才のモーツァルトがヨーロッパへ旅行。 ※フランス、ジャンジャック・ルソー「社会契約論」、「エミール」出版
1763 ※イタリア、ボローニャ劇場設立。 ※7才のモーツァルト、パリで演奏。 ※アメリカを南部と北部に分ける境界線確定(ペンシルベニアとメリーランドの間を 走る境界線で両州の争いが始まり)。 ※ヨーロッパの7年戦争と北アメリカ大陸のフレンチ・インディアン戦争、インドのカーナティック戦争などの講和条約でイギリス、フランス、スペインの間で締結されパリ条約という。西欧諸国の中でイギリスが欧州外での覇権を握る時代の幕開けとなる
1764 ※8才のモーツァルト、ロンドンで演奏。 ※ロシア=プロイセン同盟成立
1765 ※ノルウエー、ベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団設立。 ※オペラ「アルミーダ」ジュセッペ・スカルラッティ作曲。初演ウイーン、ブルク劇場。※イギリス産業革命。 ※イギリスのワットが蒸気機関を改良
1766 ※ローザンヌ、ジュネーブにモーツァルト滞在。 ※ストックホルム、ドロットニングホルム王立歌劇場落成。 ※イタリア、サリエリがガスマンの弟子になりウィーンに移る。 ※ハイドン、エステルハージー宮廷楽長就任
1767 ※オペラ「アルチェステ」3幕 グルック作曲初演12月26日ウイーン、ブルク劇場
1768 ※ナポリ・コルテ劇場建築。 ※ジェノヴァ共和国がコルシカ島をフランスに売却。 ※オペラ「愛あるところ嫉妬あり」ジュセッペ ・スカルラッティ作曲。初演ウイーン、ブルク劇場。 ※英国の探検家キャプテン・クックが太平洋探検の航海に出発
1769 ※イタリア、マントヴァの音楽学校附属 シエンティフィコ劇場(ビビエナ劇場)建築。 ※モーツァルト、1771年までイタリア各地で演奏旅行。 ※英国のアークライトが水力紡績機を発明し全工程の一貫生産技術を確立、産業革命の発展に役立てた
1770 ※オペラ「パリスとヘレナ」5幕。クリストフ・V・グルック作曲。初演11月3日ウイーン、ブルク劇場。 ※オペラ「ティトス・ウコンドノ」ヨハン・ミヒァエル・ハイドン作曲、初演ザルツブルクで。日本の戦国武将高山右近と小西行長がテーマ。 ※マリー・アントワネットフランスの第一王太子(後のルイ16世)と結婚。 ※オペラ「ポンドの王ミトリダーテ」3幕。V・A・モーツァルト作曲。初演12月26日ミラノ、レージョ・ドゥカーレ劇場
1771 ※オペラ「シピオーネの夢」1幕。W・A・モーツァルト作曲。初演5月ザルツブルク。※オペラ「アルバのアスカーニオ」2幕。ヴォルフガング・A・モーツァルト作曲。初演1771年10月17日ミラノ、レージョ・ドゥカ-レ劇場。 ※フォークランド諸島がイギリス帰属となる。 ※英国で「ブリタニカ百科事典」が完結。  ※スウェーデン、グスタフ三世即位。 ※スウェーデンの薬剤師カール・ヴィルヘルム・シェーレが酸素を初めて見つけるがすぐに公にしなかった。1774年ジョセフ・プリーストリーが見つけてから知られるようになる、1778年ダニエル・ザフォードは「生命の空気(Viital air)」と呼んだ
1772 ※サンクトペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団設立。 ※ロンドン、ライセアム劇場開場。 ※オペラ「ルチオ・シッラ」3幕モーツァルト作曲。12月26日、ミラノの大公宮廷劇場でモーツァルト自身の指揮で初演。 ※ヒエロニムス・コロレード伯爵、ザルツブルク大司教に就任。モーツァルトに教会での典礼音楽を短く簡明にせよ、と求めたが出来ないと歯向かったモーツァルト、様々な制約のなかで大司教と決裂しモーツァルトは1781年ザルツブルクを去りウィーンに定住。後にモーツァルトの天敵といわれるようになる。 ※プロイセンとロシアによる第一次ポーランド分割。 ※フランス、「エンサイクロペディア百科全書」完結。 ※スコットランドの化学者・植物学者ダニエル・ラザフォドが窒素発見
1773 ※ストックホルム国立音楽院創立 ※ショット楽譜出版社マィンツに創立 ※ローマ教皇がイエズス会解散を命ずる
1774 ※オペラ「オーリドのイフィジェニー」3幕。クリストフ・V・グルック作曲。初演1774年4月19日パリ、オペラ座。 ※オペラ「アルタセルセ」3幕。ヨセフ・ミスリヴェチェク作曲。初演8月13日ナポリ、サン・カルロ劇場で。 ※サリエリがウィーン宮廷作曲家と宮廷歌劇場指揮者就任。 ※ゲーテ「若きヴェルテルの悩み」出版。  ※フランス国王ルイ16世即位 
1775 ※オペラ「偽の女庭師」W・A・モーツァルト作曲、初演1月13日ミュンヘン、サルファトアプラッツ劇場。  ※オペラ「牧人の王」3幕。W・A・モーツァルト作曲。初演4月23日ザルツブルク宮廷劇場。 ※アメリカの独立戦争はじまる。 ※スウェーデンの植物学者ツンベリー来日
1776 ※ロシア、ボリショイ劇場創立  ※7月アメリカ植民地政府は独立宣言を採択し「アメリカ合衆国」が誕生した。 ※アダム・スミス「国富論」を著す ※プロシア農奴解放。 ※イギリス、ギボン「ローマ帝国衰亡論」第一巻出版
1778 ※ミラノ・スカラ座落成、同管弦楽団創設アントニオ・サリエリ作曲のオペラ「見出されたエゥローバ」でこけら落とし。 ※皇帝ヨーゼフ二世は王宮そばの劇場を「国民劇場」と名付けて、ここでジングシュピールを上演させたが劇場の運営はうまくいかず、すぐに閉鎖され、やがてジングシュピールは再び市民の間の民俗芝居となりモーツァルトの「後宮からの誘拐」「魔笛」はこうした劇場のためにかかれた。 ※ウィーンの出版社アルタリア創立。 ※クックがハワイ群島発見。
1779 ※オペラ「タウリスのイフィゲニア」4幕クリストフ・グルック作曲、初演5月18日パリ王立音楽アカデミー(現パリ・オペラ座)。 ※エラール、パリでピアノ製作をはじめる。 ※フランスのルイ十六世が農奴解放令出す。 ※イギリスで走錘式紡績機発明
1780 ※オーストリア君主マリア・テレジア死去 ※英国で第一回ダービー開催
1781 ※プラハ、スタヴォフスケ劇場創建。  ※シュヴァーテン男爵等がウィーンに音楽協会(のちの楽友協会)創立。 ※イギリス人ブロードウッドが初のグランド・ピアノ製作 ※モーツァルト、ウィーンに定住。  ※天王星発見。 ※オペラ「イドメネオ」3幕モーツァルト作曲初演1月29日ミュンヘン・キュヴィリエ劇場(現旧レジデンツ劇場)(約2時間45分)。 ※ヨークタウンの戦いで英国軍降伏、アメリ カの独立戦争が終わる。 ※ドイツの哲学者カント「純粋理性批判」を出版
1782 ※コメディエンハウス(現フランクフルト歌劇場)開場。 ※フランス人トウルテ、ヴァイオリンの弓を改良。 ※モーツァルト結婚。 ※オペラ「後宮よりの逃走」3幕、初演同年7月16日ウイーン・ブルク劇場(2時間10分)。 ※交響曲第35番「ハフナー」モーツァルト作曲、ザルツブルク市長ハフナーの祝典行事の注文で作曲。 ※中国文化の集大成「四庫全書」完成
1783 ※ロシア、マリンスキー劇場開場。 ※英国のウイリアム・ピット史上最年少24歳で英国首相となる。  ※交響曲第36番「リンツ」モーツァルト作曲故郷ザルツブルクを訪れた帰りリンツでの演奏会用に4日間で仕上げる。 ※パリ条約(イギリスがアメリカ独立を承認)。 ※フランスのモンゴルフィエ兄弟が熱気球の飛行実験
1784 ※オペラ「獅子心王リシャール」3幕。アンドレ・E・M・グレトリー作曲。初演10月21日パリ、コメディ・イタリエンヌ。 ※フランスのポールマルシェの「フィガロの結婚」コメディ・フランセで初演
1785 ※英国で「デーリー・ユニヴァーサル・レジスター」(タイムズ)の前身が創刊。 ※フランスの化学者ラヴォアジエが水の化学構造を解明。 ※フランス王妃マリー・アントワネットが「首飾り」詐欺事件に巻き込まれる
1786 ※オペラ「劇場支配人」モーツァルト作曲初演2月7日シェーンブルン宮小劇場。 ※オペラ「フィガロの結婚」4幕モーツァルト作曲、初演同年5月1日ウイーン・ブルク劇場(約3時間)
1787 ※交響曲第38番「プラハ」モーツァルト作曲ウイーンの慈善音楽祭用に作曲、初演は1787年モーツァルトの指揮、ケルントナートーア劇場。 ※オペラ「ドン・ジョバンニ」2幕モーツァルト作曲、完成の翌10月29日に初演プラハ、スタヴォフスケ劇場(2時間10分)
1788 ※交響曲第39番、40番、41番(ジュピター)8月10日2ヶ月間で作曲。 ※オペラ「医師と薬剤師」カール・D・ディッタ-スドルフ作曲、初演ケルントナートーア劇場。 ※サリエリ、ウィーン宮廷楽長就任。 ※アメリカ合衆国憲法成立。 ※イギリス領オーストラリアが流刑植民地となり第一次船団到着(囚人798人)。 ※ゲーテ、「エグモンド」出版
1789 ※オペラ「クレオパトラ」2幕。ドメニコ・チマローザ作曲。初演サンクトペテルブルク、エルミタージュ劇場。 ※アメリカ初代大統領に独立戦争司令官であるジョージ・ワシントンが就任。 ※フランス革命(~1799年)はじまる パリの民衆がバスティーユ牢獄を占領
1790 ※オペラ「コジ・ファン・トゥッテ」2幕モーツァルト作曲、初演同年1月16日ウイーン・ブルク劇場(2時間45分)。 ※アメリカ、フィラデルフィアを首都とする
1791 ※リコルディ劇場(ドニゼッティ劇場)建築。 ※オペラ「皇帝ティートの慈悲」2幕モーツァルト作曲、初演同年9月6日プラハ、スタヴォフスケ劇場(約2時間)。 ※オペラ「魔笛」モーツァルト作曲、初演モーツァルトの死の3ヶ月前同年9月30日ウイーン・アン・デアウイーン劇場。 ※交響曲第94番「驚愕」ハイドン作曲、逸話として居眠りしている婦人方を起こすために書いたと言われている。 ※フランスの画家ジェリコ生誕(1824年歿)。 ※スイスの作曲家ハンス・ゲオルグ・ネーゲリがチューリッヒに楽譜店・貸楽譜店を設立
1791年モーツァルト没