モーツァルト家系

<モーツァルト家の家系>

モーツァルト家の先祖は、1320年から1324年頃にかけてドイツ南部のシュヴァーベン公国(現・バイエルン州南西部アウグスブルク市とドイツバイエルン州シュヴァーベン行政管区にある郡独立市)アルゴイ地方にさかのぼり、今日でもレヒ川(ドナウ河の支流)、アルゴイ高地などの地域に点在する。
1330年頃、Motzhardt、Motzhartという綴りの姓の記録が残っており、おそらくこの辺りの出身ではないかと記されている。
作曲家モーツァルトの父方の先祖もその地域の出身であり、元来はモッツハルト、モツハルト(Motzhardt, Motzhart)という綴りで、本来は「みすぼらしい者・卑しい者」や「湿地の藪」を起源とする意味であった。そのような蔑称的なイメージを避けるために、ある時期から姓を現在の「モーツァルト」としての語形を変えて、アウクスブルクから南方にあるシュタウデンを経て、プファーゼー(Pfersee)に移住した。そのモーツァルト家が有名になったのは、レオポルトと息子のヴォルフガング・アマデウスの音楽活動が世界的に認められたためである。

1. 高祖父の高祖父:ハインリヒ・モッツハルトHeinrich Motzhart
推定1320-1424年頃生まれ、1400年頃歿
高祖父の高祖父の妻:不詳
推定1305-1425年頃、長男:アンドリス・モッツハルトAndris Motzhart生まれた。

2. 高祖父の曾祖父:アンドリス・モッツハルトAndris Motzhart
推定1305-1425年生まれ、1485年頃歿
高祖父の曾祖父の妻:不詳
推定1425-1545年頃、長男:ハンス・モッツハルトHans Motzhart生まれた。

3. 高祖父の祖父:ハンス・モッツハルトHans Motzhart
推定1425-1545年頃生まれた。
高祖父の祖父の妻:不詳
推定1555-1615年頃、長男:ダーフィト・E・モツハルトDavid E. Motzhardt生まれた。

4. 高祖父の父:ダーフィト・E・モツハルトDavid E. Motzhardt
推定1555-1615年頃生まれ、1625年頃歿
ダーフィト・E・モツハルトアウクスブルクの農夫であった。
高祖父の父の妻:アンナ・モツハルトAnna Motzhardt(ウェラーWeller?)
推定1555-1615年頃生まれ、1636頃Augsburg, Swabia, Bavaria, Germanyで歿
1620年頃、長男ダーフィト・モツハルトDavid Motzhardt/Augsburg, Swabia, Bavaria, Germany生まれる

5. 高祖父:ダーフィト・モツハルトトDavid Motzhardt
別名:Mozart/Moszhart/Moszhardt/Moſzhart/Moſzhardt”
推定1620年頃Pfersee, Augsburg, Swabia, Bavaria, Germany生まれ
1685年1月28日頃(60-69歳)Augsburg, Swabia, Bavaria, Germanyで歿
1620年高祖父ダーフィト・モッツハルト/プフェルゼー、アウグスブルク、シュヴァーベン、バイエルンでドイツ生まれた。
アウクスブルク近郊のプファーゼー生まれの煉瓦職人で大工の棟梁。ディッリンゲンのプファール教会の尖塔を造った。同教会はアウクスブルク司教の夏場の宮殿であった。この頃にMozartに改姓したようだ。
高祖父の妻:マリア・ネゲラーMaria Negeler
愛称:”Negele”
1622年1月1日生-1697年4月24日(75歳)歿
<Maria Negeler年表>
1645年ダニエル・モーツァルト誕生
1647年ハンス・ゲオルク・モーツァルト誕生/アウグスブルク、シュヴァーベン、バイエルン、ドイツ
1649年10月3日フランツ・モーツァルト誕生/アウグスブルク、シュヴァーベン、バイエルン、ドイツ
1652年マリア・モーツァルト誕生
1653年ダヴィッド・モーツァルト誕生
1655年ヨハン・ミヒャエル・モーツァルト誕生
1657年アンナ・マリア・モーツァルト誕生
1659年カタリーナ・モーツァルト誕生
1685年1月28日夫デビッド・モッツハルト(65歳)アウグスブルク、シュヴァーベン、バイエルン、ドイツで歿。

6. 曽祖父:フランツ・モーツァルトFranz Mozart
1649年10月3日アウクスブルクAugsburg, Swabia, Bavaria, Germany生まれ
推定1694年頃(40-49歳)Augsburg, Swabia, Bavaria, Germanyで歿
フランツ・モーツァルは石工であった。
フランツはレンガ職人のダヴィド・モーツァルト(1621-1685)の息子で、レンガ職人、石工の親方として働き、1681年からフッガー家の建てた世界最古の社会福祉住宅フッゲライに住み、そこで亡くなった。現在、彼の家(Mittlere Gasse Nr. 14)には彼を記念する銘板が残されている)。
曽祖父の妻:アナ・ハラーAna Harrer
推定1617-1677年頃生まれ
<フランツ・モーツァルト年表>
1649年10月3日
フランツ・モーツァルト/アウグスブルク、シュヴァーベン、バイエルン、ドイツ生まれ
1679年5月4日長男:ヨハン・ゲオルク・モーツァルト誕生
1681年フランツ・モーツァルト誕生
1684年アンナ・カタリーナ・モーツァルト誕生
1694年フランツ・モーツァルト44歳アウグスブルク、シュヴァーベン、バイエルン、ドイツで歿

7. 祖父:ヨーハン・ゲオルク・モーツァルトJohann Georg Mozart
1679年5月4日‐1736年2月19日(56)
製本師でアウクスブルク教会の近くに住んだ。
ヨハン・ゲオルク・モーツァルトは石工の親方であるフランツ・モーツァルトの息子であった。しかし、ヨハン・ゲオルクは別の職業に就き、製本職人の親方となり、アウクスブルク教会の近くに住んだ。彼がキャリアを積んだのは、元親方の未亡人であるアンナ・マリア・バネッガーと結婚し、旧親方の組合員資格を得た時であった。最初の妻は子供を産まず、1718年に亡くなった。
1719年に結婚した二番目の妻:アンナ・マリア・ズルツァー(1696–1766)は、織物師クリスティアン・ズルツァーの娘アンナ・マリアと結婚した。
1719年から1735年にかけて八人の子供をもうけ、三人の男の子と二人の女の子が成人まで生き残った。
家族はカトリック教徒で、1722年以降はイエズス会所有の家に住んでいた。彼らは二人の息子をイエズス会の学校に通わせた。
祖父/最初の妻:アンナ・マリア・バネッガーAnna Maria Banegger
推定1649-1709頃年生まれ-1718年歿
祖父/二番目の妻:アンナ・マリア・ズルツァーAnna Maria Sulzer
1696年7月30日Augsburg, Swabia, Bavaria, Germany生まれ
1766年12月11日(70)Augsburg, Swabia, Bavaria, Germanyで歿
埋葬地:Augsburg, Swabia, Bavaria, Germany
<アンナ・マリア・ズルツァー年表>
1712年7月19日長男:フランツ・アロイス・モーツァルト誕生Franz Alois Mozart/Augsburg, Swabia, Bavaria, Germany。
フランツ・アロイス・モーツァルト(1727年-1791年)はアウクスブルクに留まり、父の跡を継いで製本屋となった
1719年11月14日二男:レオポルト・モーツァルトLeopold Mozart誕生/アウグスブルク、シュヴァーベン、バイエルン、ドイツ
1766年12月11日アンナ・マリア70歳で歿

8. 父:ヨーハン・ゲオルク・レオポルト・モーツァルトJohann Georg Leopold Mozart
1719年11月14日アウグスブルク、フラウェントーア・シュトラーセ30番地Augsburg, Schwaben, Bayern, Germany生まれ
1787年5月28日 (67)Salzburg, Salzburg, Salzburg, Austria歿
埋葬場所:Salzburg, Salzburg, Salzburg, Austria
<レオポルド・モーツァルト年表>
ヨハン・ゲオルク・レオポルト・モーツァルトJohann Georg Leopold Mozart(1719年11月14日-1787年5月28日)は、ドイツの作曲家、指揮者、教師、ヴァイオリニストであった。モーツァルトは今日、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの父であり教師として、そして徹底したヴァイオリン教師として、ヴァイオリン教科書「Veruch a grundliche Violinschule」はレッスン書として最もよく知られている。彼はアウグスブルクで、製本業者ヨハン・ゲオルク・モーツァルト(1679=1736)と二番目の妻アンナ・マリア・ズルツァー(1696-1766)の息子として生まれた。アウグスブルクの学生時代、俳優および歌手として学生演劇作品に出演し、熟練したヴァイオリニストおよびオルガン奏者となった。彼は聖サルバトール高校を1年も経たずに卒業した。
1737年彼は教育を再開するためにザルツブルクに移った(モーツァルト記念館になっている)。
11月哲学と法学を学ぶためにベネディクト会大学に入学した。当時ザルツブルクは神聖ローマ帝国(ザルツブルク大司教領)内の独立国家の首都であったが、現在はオーストリアの一部となっている。旅行期間を除いて、レオポルドは残りの人生をそこで過ごした。レオポルドは1738年に哲学学士の学位を取得した。
1739年9月彼は「自然科学には1回か2回しか出席しなかった」という出席不良を理由に大学から退学させられた。
1740年彼はプロの音楽家としてのキャリアを開始した。同年、彼は最初の音楽出版物である『Sonate sei da chiesa e da camera』と題された6つのトリオ・ソナタ作品集を作曲し、続いて一連のドイツ受難カンタータを作曲した。
1743年彼はザルツブルクの君主兼大司教であったレオポルト・アントン・フォン・フィルミアン伯爵の第4ヴァイオリン奏者に任命された。彼の任務には、作曲と、ザルツブルク大聖堂の聖歌隊少年たちへのヴァイオリンとピアノの指導が含まれていました。 1755 年に彼は、ヴァイオリン演奏に関する包括的な論文「Versuch einer grundliche Violinschule」を執筆し、翌年出版され、18世紀の演奏実践の教科書として今も使われている。
1747年にアンナ・マリア・ペルトル(Pertl)と結婚し、7人の子供をもうけたが、幼児期を過ぎて生き残ったのはマリア・アンナ・ヴァルブルガ・イグナティア(「ナンネル」と呼ばれる)とヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの2人だけだった。
1758年第2ヴァイオリン奏者に昇進した。
1759年頃、7歳のナンネルにキーボードのレッスンを始めたとき、二人の子供たちが音楽の才能に恵まれていることに気づいた。よちよち歩きのヴォルフガングはすぐに妹の真似をし始め、最初はキーボードで3度音符を選び、その後レオポルドの指導のもとで急速に上達した。 1762年までに、子供たちはコンサートの演奏家として働く準備ができており、レオポルドは家族を大規模なコンサートツアーに連れて行き始めた。レオポルト・モーツァルトは伝記作家の間で物議を醸す人物であり、成人した子供の親としての役割に関して最も大きな意見の相違が生じている。モーツァルトの伝記作家メイナード・ソロモンはレオポルドを特に厳しい見方をしており、彼を横暴で、陰険で、独占欲が強いと扱っている。ルース・ハリウェルは、はるかに同情的な見方を採用し、彼の往復書簡を、ひどく無責任なヴォルフガングの人生を導くための繊細な努力として描いている。
1762年このころ彼の子供たちはコンサート演奏家として働く準備ができており、彼は家族を大規模なコンサートツアーに連れて行き、中欧、西ヨーロッパ、イギリス全域で貴族と大衆の両方の前で演奏を始めまた。旅行は1770年代初頭まで続き、最後の3回はイタリアへ旅行したが、ヴォルフガングに同行したのはレオポルトだけだった。彼がザルツブルクで副楽長の地位を超えられなかったのは、旅のせいでザルツブルクから遠ざかっていた時間が長すぎたためであった)。
1763年宮廷副楽長に昇進した。
1773年イタリアから最後に帰国した後、彼はそれ以上昇進することはなく、他の人が繰り返し彼を上回って楽長の首席に昇進していった。
1781年3月、25歳のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレドの命でミュンヘンからウィーンへ移るが、5月9日、司教コロレドと衝突し、解雇され、ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住を決意した。1781年から1784年まで、レオポルトはナンネルとその使用人だけでザルツブルクに住んでいた。
1784年息子ヴォルフガングはコンスタンツェと結婚してオーストリアのザンクト・ギルゲンに移った。レオポルド・モーツァルトとヴォルフガングとの関係はしばしばいがみ合い、特に1782年のコンスタンツェ・ヴェーバーとの結婚など息子の決断を必ずしも承認しなかったため、二人は疎遠になることが多かった。
三女:マリア・アンナ(愛称:ナンネル)の結婚がなぜこれほど遅くなったのかはまったく分からないが、ナンネルは1784年8月、33歳でようやく結婚した。彼女はザルツブルクから東へ約6時間の小さな田舎町ザンクト・ギルゲンにある、夫であるヨハン・バプテストのフランツ・フォン・ベルヒトルト・ツ・ゾンネンブルクの家に移った。
1785年7月ナンネルは第一子である息子を出産するためにザルツブルクにやって来た。ナンネルが帰宅したとき、幼児はレオポルドのもとに残り、使用人の援助を受けてレオポルトはその子を育てた。
レオポルトはウィーンのヴォルフガングとコンスタンツェを訪問したが、その時ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの仕事の成功は頂点に達していた。彼は息子の演奏家としての成功を目の当たりにし、2月12日にはヴォルフガングが彼に捧げた弦楽四重奏曲を聴いたとき、広く引用されるヨーゼフ・ハイドンの賞賛の言葉を聞いた、「神の御前で、正直な人間として、あなたの息子は素晴らしいとお伝えします」私が個人的にまたは名前で知っている最も偉大な作曲家:彼はセンスがあり、さらに作曲に関して最も深い知識を持っています。」この訪問がレオポルドが息子に会った最後となった。
1787年初めにレオポルド・モーツァルトの健康状態が悪くなり始めた。
4月4日までに重篤な状態に陥っていた。この日、ヴォルフガングはその知らせに警戒して彼に手紙を書いたが、彼に会いにザルツブルクには行かなかった。
5月28日にレオポルト(67歳)が亡くなったとき、ヴォルフガングはザルツブルクまでの移動時間が長すぎたため葬儀に参列できなかった。
母:アンナ・マリア・ヴァルブルガ・モーツァルトAna Maria Walburga Mozart
別名:マリア・アンナAnna Maria。愛称:「ナンネル」
1720年12月25日St. Gilgen, Archbishopric of Salzburg, Holy Roman Empire
1778年3月7日 (57)Paris, France (Cemetery of Saint-Eustache)で病没
マリア・アンナは神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教区ザンクト・ギルゲンで、エヴァ・ロジーナEva Rosina(1681年-1755年)とヒルデンシュタイン副知事ヴォルフガング・ニコラウス・ペルトルWolfgang Nicolaus Pertl(1667年-1724年)の間に生まれた。ニコラウスはザルツブルクのベネディクト会大学で法学の学位を取得し、ザンクト・アンドレの地区監督を含む多くの責任ある職を歴任した。彼はどうやら熟練した音楽家だったらしい。彼は1714年に重病を患い、ヒュッテンシュタイン副監督というかなり低賃金 (年間 250フローリン) の職に異動しなければならなかった。彼は人生の最後の部分で多額の借金を抱え、1724年3月7日に亡くなった。ニコラウスの財産は借金返済のために清算され、残された家族(アンナ・マリアの母親とその姉のマリア・ロジーナ(1719年8月24日生まれ))は貧困に陥った。彼らは遠くないザルツブルクに移り、慈善年金で暮らした。アンナ・マリアの姉は1728年に9歳で亡くなり、当時の法的文書には彼女が「常に」と書かれていた。
彼らには7人の子供がいたが、そのうち幼児期に生き残ったのは2人だけであった。どちらの子供も名声を獲得した。 1751年に生まれた彼らの娘マリア・アンナは、子供の頃「ナンネル」と呼ばれていた。彼女は才能のあるミュージシャンで、ツアーで兄と一緒に演奏したが、その後の人生は経験と可能性が非常に限られていた。
夫婦の息子、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年1月27日に生まれ、最初は神童として名声を博し、後にすべての作曲家の中で最も有名な作曲家の一人として名声を博した。パリ滞在中に彼女は病気になり、1778年7月3日に診断不能の病気で亡くなった。彼女はサン=テュスタシュの墓地に埋葬された。
<マリア・アンナ年表>
1720年12月25日母:アンナ・マリア・ヴァルブルガ・モーツァルト/神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教区ザンクト・ギルゲンで誕生
1748年8月18日長男:ヨハン・レオポルト・ヨアヒム・モーツァルトJohann Leopold Joachim Mozart誕生。1749年2月2日 (5ヶ月)で死去
1749年6月18日長女:マリア・アンナ・コルドゥラ・モーツァルトMaria Anna Cordula Mozart/ザルツブルグ、ザルツブルグ、オーストリアで誕生。1749年6月24日 (6日)で死去
1750年5月13日二女:マリア・アンナ・ネポムセナ・イグナティア・モーツァルトMaria Anna Nepomucena Ignatia Mozart誕生。1750年7月29日 (11週)で死去
1751年7月30日三女:マリア・アンナ・ヴァルブルガ・モーツァルトMaria Anna Walburga Mozart/9 ゲトライデガッセ, ザルツブルク, オーストリアで誕生。1829年10月29日 (78)
1752年11月4日二男:ヨハン・カロルス・アマデウス・モーツァルトJohann Carolus Amadeus Mozart誕生。1753年2月02日 (12週)で死去
1754年5月9日四女:マリア・クレセンティア・フランチカ・デ・パウラ・モーツァルトMaria Crescentia Francica de Paula Mozart誕生。1754年6月27日 (7週)で死去
1756年1月27日三男:ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト/9 ゲトライデガッセ, ザルツブルク, オーストリアで誕生
1778年7月3日に診断不能の病気で歿

9. ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトWolfgang Amadeus Mozart
別名:Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart
1756年1月27日9 Getreidegasse, Salzburg, Austria生まれ
1791年12月05日 (35)Wien (Vienna), Wien, Austria (Österreich)で歿
参照:ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
妻:マリア・コンスタンツェ・モーツァルト(ヴェーバー)Maria Constanze Cäcilia Josepha Johanna Aloysia Mozart (Weber)
別名:Maria Constanze Cäcilia Josepha Johanna Aloysia Mozart”
1762年1月5日Zell im Wiesental, Freiburg, Holy Roman Empire生まれ
1842年3月6日 (80)Salzburg, Salzburg, Salzburg, Austriaで歿
埋葬地:Salzburg, Salzburg, Salzburg, Austria
コンスタンツェ・ウェーバーConstanze Weberはツェル・イム・ヴィーゼンタールZell im Wiesental.で生まれた。母はツェツィーリア・ヴェーバーCäcilia Weber、旧姓シュタムです。父フリドリン・ウェーバー Fridolin Weberはコントラバス奏者、プロンプター、楽譜写譜家として働いていた。フリドリンの異母兄弟は作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバーの父である。コンスタンツェには、ジョセファとアロイジアという二人の姉と、ゾフィーという一人の妹がいた。三人とも歌手として訓練を受け、ジョセファとアロイジアはどちらも音楽家として名声を博し、後にモーツァルトの作品の初演に数多く出演した。
モーツァルトとコンスタンツェは1782年8月4日に結婚した。結婚契約書では、コンスタンツェは「花婿に 500 グルデンを譲渡し、花婿はこれに 1,000 グルデンを加算することを約束」し、その合計額は「生存者に渡される」とされていた。さらに、結婚中に共同で獲得したすべての財産は、両者の共有財産のままとされていた。
モーツァルトは1791年に借金を残して亡くなり、コンスタンツェは困難な立場に立たされた。この時点でコンスタンツェの事業が実を結んだ。彼女は皇帝から年金を受け取り、利益の出る追悼コンサートを企画し、夫の作品を出版するキャンペーンに乗り出した。
1797年の終わりごろ、コンスタンツェはデンマークの外交官で作家のゲオルク・ニコラウス・フォン・ニッセンと出会う。当初はニッセンが彼女の借家人だった。
二人は1798年9月に同棲を始め、1809年にブラティスラバで結婚した。1810年から1820年までコペンハーゲンに住み、その後はドイツとイタリアを中心にヨーロッパ中を旅した。1824年にザルツブルクに定住した。二人ともモーツァルトの伝記を執筆し、コンスタンツェは二度目の夫の死から2年後の1828年にそれを出版した。
コンスタンツェがザルツブルクで過ごした晩年、彼女は生き残った二人の姉妹、アロイジアとゾフィーと一緒に過ごした。二人も未亡人で、ザルツブルクに移り住み、そこで余生を過ごした
<マリア・コンスタンツェの年表>
1762年1月5日マリア・コンスタンツェの誕生
1782年8月4日ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと結婚
1783年6月17日ライムント・レオポルト・モーツァルトRaimund Leopold Mozartの誕生。1783年8月19日歿
1784年9月21日カール・トーマス・モーツァルトCarl Thomas Mozart誕生。1858年10月31日歿
1786年10月18日ヨハン・トーマス・レオポルト・モーツァルトJohann Thomas Leopold Mozart誕生。1786年11月15日歿
1787年12月27日テレジア・コンスタンツィア・アーデルハイド・フリードリケ・マリア・アンナTheresia Constanzia Adelheid Friedericke Maria Anna Mozart誕生。1788年6月29日歿
1789年11月16日アンナ・マリア・モーツァルトAnna Maria Mozartの誕生後死去
1791年7月26日フランツ・クサヴァー・ヴォルフガング・モーツァルトFranz Xaver Wolfgang Mozart誕生。1844年7月29日歿
1791年12月05日夫:ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト歿
1809年デンマークの外交官で作家のゲオルク・ニコラウス・フォン・ニッセンGeorg Nikolaus von Nissenと再婚(2人はァ798年9月から同棲をはじめていた)
1842年3月6日80歳マリア・コンスタンツェ歿

10. モーツァルト家その後
・妻コンスタンツェとの間に八年間の結婚生活で四男二女をもうけたが、成人したのは男子二人、二男のカール・トーマス・モーツァルトは音楽家を断念し1858年73歳でミラノに没した。
・四男のフランツ・クサヴァー・ヴォルフガング・モーツァルトは、父ゆかりの多くの人の温かな庇護の下に音楽家として自立し、やがてモーツァルティウムの指揮者になり、1842年にはヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト二世を襲名した。1844年7月53歳でドイツのカールスバードに没した。二人の兄弟の死はともに生涯独身を通したため直系の血筋は途絶えた。
・未亡人となったコンスタンツェは、二人の子供の養育と夫の残した借金に貧困で苦しんでいたが、自筆譜を直ぐには手放さず、八年後の1799年に音楽出版社ヨハン・アントン・アンドレに売却したのが初めてであったといわれている。そして、それから10年後の1809年にデンマーク使節秘書・外交官のゲオルク・ニコラウス・ニッセンと再婚した。そして二人でモーツァルトの伝記を執筆した。1821年二人はザルツブルクへ引っ越す。1826年ニッセンは亡くなる。コンスタンツェはミハエル広場に面した住居に暮し、1841年にはモーツァルテウムの設立に関与する。コンスタンツェは1842年3月6日80歳で没した。1842年9月4日ミハエル広場にモーツァルトの記念像が建てられ、モーツァルト広場と呼ばれるようになった。コンスタンツェの墓はザルツブルク新市街、モーツァルトの父レオポルトの眠る同じ、聖セバスティアン教会にある
・傍系の血筋も1965年カロリーネ・クラウの死をもって途絶えた。

11. あとがき
こうしてモーツァルトの一生が終わった。モーツァルトにとって貴族からの庇護を受け作曲することが父から引き継いだ人生の目的であり、生活の手段であったようだ。もし、多分当時の社会構造からは無理であったかも知れないが、貴族の庇護から抜け出して独立した自由な音楽家として歩んでいたらもっと違った人生を過ごし、自分の書きたかった作品を残したかもしれない。

参考:https://www.geni.com/people/