ヨハン・セバスチャン・バッハ

生没年・出身地・歿地・墓地
ヨハン・セバスチャン・バッハ生誕
Johann Sebastian Bach

(1685年3月21日ドイツ アイゼナハ生)
(1750年7月28日ライプツィヒで没)

1.職業

ドイツの作曲家・オルガニスト

「音楽の父」、「大バッハ」、「ドイツ三大B」とも

2.称号

ザクセン選帝侯宮廷音楽家

3.経歴

ヨハン・セバスチャン・バッハ家の音楽家 系図
⑴ 始 祖 ハンス・バッハ  Hans Bachは、1520年頃生まれてチューリンゲン地方に住んでいたとされている。音楽家ではなかった。その子がファイト・バッハ(1550~60年頃-1619年頃)とカスパール・バッハ(1570年頃~1640年頃)であるとされている
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⑵ 曾曾祖父 ファイト・バッハ Veit・Bachは、1550~60年頃ヴェヒマール又はプレスブルク(ハンガリーのブラチスラバ)に生まれ~1619年3月18日頃 エアフルトに没したとされている。 ヨハネス一世(~1626年頃)とリップス(1590年頃~1620年頃)という息子がいたとされている
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⑶ 曾祖父 ヨハネス・バッハ  Johannes・Bachは、1580年頃ヴェヒマール生まれ~1626年頃ヴェヒマール歿。 ヨハネス二世(1604~1673)とクリストフ(1613~1661)、ハインリヒ(1615~1692)という子供がいた
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⑷ 祖 父 クリストフ・バッハ Christoph Bachは、1613年4月9日頃ヴェヒマール生まれ~1661年9月12日アルンシュタットで歿。 ゲオルク・クリストフ(1642~1697)とヨハン・クリストフ(1645~1693)ヨハン・アンブロジウス(1645~1695)という息子がいた
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⑸ 父 ヨハン・アンブロジウス・バッハ Johann Ambrosius Bachは、1645年2月22日にエアフルトで生まれ~1695年2月20日アイゼナハで歿。 ヨハン・クリストフ三世(1671=~1721)とヨハン・ヤーコブ(1682~1722)、ヨハン・セバスチャン(1685~1750)という息子がいた
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⑹ 六代目ヨハン・セバシチャン・バッハ  1685年3月21日ドイツ アイゼナハ生まれ~1750年7月28日ライプツィヒで没。 カタリーナ・ドロテーア(1708~?)、ヴィルヘルム・フリーデマン(1710~1784)「ドレスデンのバッハ」、カールフィリップ・エマヌエル(1714~1788)「ベルリンのバッハ」「ハンブルクのバッハ」、ヨハン・ゴットフリ-ト・ベルンハルト(1715~1739)、ゴットフリート・ハインリヒ(1724~1763)、ヨハン・クリストフ・フリードリヒ(1732~1795)「ビュッケブルクのバッハ」、ヨハン・クリスティアン(1735~1782)「ミラノのバッハ」「ロンドンのバッハ」という子供等がいる

先祖
1.ヨハン・セバスチャン・バッハ家のもっとも古い先祖とされるハンス・バッハHans Bachは、一説では1504年頃生まれ、1561年頃歿したといわれている。彼はヴェヒマールWechmarの役場に勤めた役人とされている
現在のドイツ、チューリンゲン地方ヴェヒマールWechmar村に行くとバッハ博物館があり、1555年にファイト・バッハがハンガリーからこの村に移住して来て、粉挽き所とパン屋を経営した・・となっている。内部を見られるようだ。バッハの家系図、ツィターらしき楽器も陳列されている。博物館前に鉄製のBACHの4文字の置物、説明文の書かれたプレートなどや、ファイト・バッハの粉挽き所やバッハの時代の学校だった建物もあり内部も見られるようだ
そのファイト・バッハ(Veit Bach)の起源は
⓵ ヨハン・セバスチャン・バッハの残した「 ” Ursprung der musicalisch-Bachischen family / バッハ家の音楽家の家族の起源」に一族の記録があり、ファイト・バッハVeit・Bachは16世紀にルター派の信仰をしてていたためハンガリーから追いやられて、彼はできるだけ多くの財産を持ち出し、お金を稼ぐためにドイツにやって来た。チューリンゲンで彼の宗教信仰の安全を見つけ、彼は自分の製粉所を再開し、ゴータ近くのヴェヒマールに定住したが1619年3月8日に死亡したとある
⓶ ヨハン・ニコラウス・フォルケルJohann Nikolaus Forkelの著書(柴田治三郎訳)、1802年刊行ライプツィヒ、ホッフマイスター&キューネル社《 ŪBER JOHANN SEBASTIAN BACHS LEBEN,KUNST UND KUNSTWERKE 》「ヨハン・セバスチャン・バッハの生涯と芸術と作品について」によれば、【 一族の元祖は、ファイト・バッハ(1550~60年頃ー1619)という名の人であった。彼はハンガリーのブレスブルクでパン屋を営んでいた。しかし、16世紀(1590年ごろ)に宗教上の騒乱(反宗教改革)が起こった時、他の居住地を探すことを余儀なくされた。財産の中から持ち出せるだけのものを持ち出し休息と安全が見出されると信じた(元来の故郷)チューリンゲン(今日の東ドイツの南西部)に移った。その地方で彼が腰を据えた土地は、ゴータの近くのヴェヒマルという村であった。彼はやがてこの村で元のパン焼き業をやり始めたが、かたわら暇を見ては、何よりもツィターを弾いて楽しみ、それを粉ひき小屋まで持ち込み、ひき臼のガッタンゴトンしているところで弾奏をつづけた 】とある
⓷クリストフ・オルフ Christoph Wolffによって、『「The New Grove Bach Family(1997)」の第3の理論が発表されました。この理論によると、バッハ家はもともとテューリンゲン自由州から来ました。そこでは最初のバッハの名を冠した人が14世紀に早くも言及されました。しかし、バッハの先祖の父ファイト・バッハはモラビアまたはスロバキアの元移民の息子として生まれました。ヨハン・セバスチャン・バッハの家族記録の中の「ハンガリー」という場所は文字通りに解釈されるべきではなく、ハプスブルク家君主制の中央地域を指す一般的な言語使用法の中にあるべきです。1784年からのコラビンスキーの証言(上記参照)がファイト・バッハがハンガリーのブラチスラバに住んでいたことに同意するならば、それはおそらく彼の出身地でもあった。オルフはおおよその生年を挙げていませんが、彼の理論によれば、ファイト・バッハは第一と第二の理論で想定されたよりも早い世代に生まれる必要があります(およそ1520年)。オルフはシュヴァルカルディック戦争(1545-47)の間にファイト・バッハはすでに追放されヴェヒマールに行ったと仮定しているからです。そこで彼はすでに1577年頃に亡くなりました。今年、 彼の息子ヨハネス・バッハJohannes Bachとリップス・バッハLips BachがヴェヒマールWechmarの住宅所有者として言及されるようになったからです(彼らはおそらく当時彼らの父親を相続していたでしょう)。 1561年に言及されたハンス・バッハはこのファイト・バッハの兄弟または従兄弟であったに違いありません。1619年にヴェヒマールWechmarの教会書にその死が記録されたファイト・バッハはその家族のもう一人のメンバーであり、おそらく先祖ファイト・バッハVeit Bachの従兄弟であった 』とある
【】内引用「バッハの生涯と芸術」Johann Nikolaus Forkel著 柴田治三郎 訳23P、24P
『』内引用(https://de.wikipedia.org/wiki/Veit_Bachから引用                               
※注1./Christoph・Wolff クリストフ・オルフ:(1940年ドイツ生まれの音楽学者・ハーバード大学名誉教授、2001~2013年Bach Archiv Leipzig Direktorバッハ・アルヒーフ・ライプツィヒ所長、2004~2013年RISM総裁、現名誉総裁)。
※注2./J・M・Korabinskyは彼の本 ” Pressburg1784”(Pressburg都市の説明1784)で当時のハンガリーに属していたBratislavaの都市はファイト・バッハVeit・Bachのハンガリーの住居であると主張した).
※注3./シュマルカルデン戦争とは、神聖ローマ帝国内において1546年7月10日に勃発し1547年5月23日まで戦われたカトリック教会を支持する神聖ローマ皇帝カール五世とプロテスタント勢力(シュマルカルデン同盟)の間で争われた

2.曾曾祖父ファイト・バッハVeit・Bachは、反宗教改革によるプロテスタント追放により、ルター派を信仰したためハンガリーの脱出を余儀なくされ、ルター派の牙城でありしかも安全なチューリンゲン地方に移動し、ゴータ近郊ヴェヒマール村に定住した。ヨハン・セバスチャン・バッハの『Ursprung der musicalisch-Bachischen Familie(音楽家バッハ一族の起源・年代記)』によれば曾曾祖父ファイト・バッハは、バッハ家を設立し西洋音楽史上最も重要な家のひとつになったという。バッハ家の初期の家族の中に音楽活動に関わった記録は無い。白パン職人と製粉業者を営み、粉を挽きながらおそらく五弦のリュートに似た楽器ツィトリンゲンと「記録」にあるが、Citherなのか、(編者※もしかしたらThūringen Citherチューリンゲン・ツィターか?)を製粉所まで持ち込んで、臼挽きの間中、曲を演奏するほど音楽好きで、最大の楽しみであった。この方法によってリズムを自分の体内に刻み込むことができ、これが子孫に受け継がれる音楽の始まりであったという。バッハ家の年代記には ”これは、その子孫の音楽の始まりであり、そうであったように” という文言があるので、ファイトの先祖はプロの音楽家ではなかったと考えられる

3.曾祖父ヨハネス・バッハJohannes・Bach(1580年頃~1626年12月26日)は、ゴータの町の音楽家が弟子として連れて行ったほどの著しい音楽的才能を持っていた。ヨハネスは終了後もそこに住み続けた。その間に父ファイト・バッハも亡くなり、ヴェヒマールに定住し、宿屋の娘であるアンナ・シュミットと結婚し父親の遺産を継いだ。ヨハネスは、ゴータ、アルンshタット、エアフルト、アイゼナハ、シュマルカルデン、ズールの町の音楽家に請われて頻繁に出演した。ヨハネスはペストの蔓延した1626年亡くなり、その妻アンナは1635年9月18日に亡くなった。ヨハネスひは3人の音楽家になった息子がいた。ヨハネス・バッハ二世(1604~1673)、クリストフ・バッハ(1613~1661)、ハインリッヒ・バッハ(1615~1692)を生んだ。曾祖父ヨハネスと弟リップス・バッハ(1552年頃~1620年頃)が後にバッハ家の音楽家の子孫の始まりとなる。
曾祖父ヨハネスは父のパン職人・製粉業を引き継ぐ前は、叔父カスパル・バッハのもとで音楽の修業を積んだ。ヴェヒマールに戻ってからは家業のパン職人のかたわら、ゴータの管楽師長マッツ・ツイースェッキに音楽を学びながら、町楽師として一緒に近隣のゴータ、エアフルト、アルンシュタット等の町でバンド演奏をして活躍していた。アマチュア音楽家として評判は、死後の記録に”ミンストレル”として残っている。
弟のリップス・バッハは絨毯織職人だったがマイニンゲン・バッハ家系の祖となり、この家系の末裔は20世紀へ続いている

4.祖父クリストフ・バッハChristoph Bach(1613年頃ヴェヒマール生まれ~1661年頃アルンシュタットで歿)の音楽的教育は、はじめ父から学び、後にスーラー市シュタットプファイフェンのホフマンHoffmannに学んだといわれている。1633年ヴェヒマール宮廷の王子の音楽家になる。1640年ザクセンのプレッテインに移りヴァイオリン奏者になる。1641年スーラー市シュタットプファイフェンの娘、アンナ・マグダレーナ・グラブラーと知り合い結婚。1641年ドロシア・マリアを出産。1642年エアフルトに移り宮廷音楽家、同年から1652年までの間、エアフルト楽師評議員だった。1642年9月長男ゲオルグ誕生。1645年ヨハン・セバスチャン・バッハの父となるヨハン・アンブロジウス、そして双子の兄弟ヨハン・クリストフ誕生。1654年アルンシュタットに移りアルンシュタット市と伯爵宮廷の音楽家となり生涯をその地でおくった

5.父ヨハン・アンブロジウス・バッハJohann Ambrosius Bachは、1645年にエアフルトで生まれ~1695年2月20日アイゼナハで歿した。アンブロジウスは歌を歌い、オルガンを弾き、ヴァイオリンやトランペットを演奏したといわれている。1667年からエアフルトでヴァイオリン奏者兼市参事会付楽師を務め、1668年4月8日子供の頃からの友達で、市参事会員、毛皮加工職人ヴァレンティン・レンマーヒルトの娘マリア・エリーザペト・レンマーヒルト(1644~1694)と結婚した。内、4人が後に音楽家になった。その一人がヨハン・セバスチャン・バッハである。1671年アイゼナッハに移住してザクセン選帝侯のヴァルトブルク城(16世紀初頭、宗教改革者マルティン・ルターMartin・Lutherがフリードリヒ賢侯にかくまわれた城)のラッパ手及び宮廷楽団首席トランペット奏者を務めた。彼は「カノン」で知られる著名な作曲家ヨハン・パッヘルベルと親交があった。その縁でバッハの兄ヨハン・クリストフの音楽の師でもあった。1694年5月1日母マリア・エリザベートが亡くなり、11月7日バルバラ・マルガレータ・ネクェルと再婚。翌年1695年3月2日父アンブロジウスが50才で亡くなると、その24日後に義母バルバラ・マーガレッタも後を追うように亡くなった

6.ヨハン・セバスチャン・バッハ
1685年3月21日(通説)ヨハン・セバスチャン・バッハは、チューリンゲン地方アイゼナハ市に、ヨハン・アンブロジウス・バッハとその妻エリーザベト(旧姓レンマーヒルト)の間の六子として生まれた。父の徒弟や職人の住む音楽的環境のなかで育った

1693~5年、アイゼナハの聖ゲオルク教会付属ラテン語学校に通う。グレンデ合唱団に入りボーイソプラノを歌いながら音楽の基礎を身につけた。その後コルス・シンフォニア-クス合唱団に入りゲオルク教会で多声の教会音楽を歌う

1694年3月5日母の死。11月7日父はバルバラ・マルガレータと再婚

1695年2月24日父の死。3月義母バルバラ・マルガレータの死。10才のバッハは、兄ヤーコブと一緒にオールドルフに住む教会オルガニストの長兄ヨハン・クリストフ三世に引き取られる。長兄は、エアフルトでヨハン・パッヘルベルJohann・Pachelbel(1653~1706)の弟子で優秀な音楽家であった。兄の家に身を寄せ、町のリュツェーウム・ラテン語学校に通い、学校の合唱団に入り、宗教教育、数学、論理学、歴史、修辞学、音楽を学び上級クラスでは1~2番の席次を占めていた。ここで兄クリストフの指導でクラヴィーア演奏の基礎を学び、学校カントールのアルノルトとエリーアス・ヘルダにクラヴィーア、オルガン、ヴァイオリン、ヴィオラ及び音楽理論を学んだ

1700年3月15日ラテン語学校を退学し兄のもとを離れ、北ドイツのハンザ都市リュ-ネブルクの聖ミカエル教会付属ミカエル学校の給費生となった。ミカエル修道院の朝礼合唱団に入る。やがて有給のボーイソプラノ歌手よなり寄宿を許され生計費を支給される。変声後礼拝や学校祭にヴァイオリン、オルガン、チェンバロを担当し、オルガン演奏技能に磨きをかけ始める

1702年春頃テューリンゲンに戻り職探しを始める

1703年ヴァイマールのヨハン・エルンスト公宮廷で楽師兼従僕を5か月務め、7月アルンシュタットの新教会(現バッハ協会)ミュールハウゼンの製作家ヴェンダーの新しいオルガンの試験演奏で優れた能力を示し、8月9日18才の若さでこの教会のオルガニスト兼学校及び合唱指導者として就任した。同年から1707年アルンシュタットの聖職会議とたびたびトラブル

1704年頃の作品、トッカータとフーガニ短調BWV565、幻想曲ハ長調BWV570、前奏曲とフーガホ短調BWV533、カプリッチョ《最愛の兄の旅立ちによせて」》BWV992ほか

1705年聖歌隊員と暴力事件を起こす。10月リューベックへ旅行し聖マリエンヌ教会オルガニストのディートリヒ・ブクステフーデのオルガン演奏を聴く。翌年1月まで四ヶ月無断で休暇を延長し2月聖職会議で喚問される

1706年11月アルンシュタットの聖職会議の審問を受ける。11月末ランゲヴィーゼンのオルガン試奏

1707~08年ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会のオルガニストを務める。1707年10月17日アルンシュタット近郊ドルンハイムの聖バルトロメオ教会でマリア・バルバラと挙式

1708~17年6月ワイマールへ移住しザクセン=ヴァイマル、ヴィルヘルム・エルンスト公宮廷音楽家兼宮廷オルガニストに就任した

1713年12月ハレの聖母教会オルガニストに応募し任命されるが、ヴァイマール公は解雇を拒み、昇進と昇給でバッハの引き留めに成功した

1714年宮廷楽師長昇進。毎月1曲の教会カンタータの作曲上演が義務付けられる

1716年ハレの聖母教会オルガン鑑定書をクーナウ等と提出。エアフルトの聖アウグスティヌス教会のオルガン鑑定

1717年9月ドレスデン宮廷に招待される。フランスのオルガニスト、ルイ・マルシャンLouis Marchand(1669~1732)と即興演奏の競演のためであった。帰国後、ワイマール宮廷では老楽長が他界し息子が後を継ぎ、バッハの昇進の可能背が絶たれた。辞職願を出すがヴァイマール公は解雇を認めず対立し、禁錮処分に処され11月拘禁され12月解雇され拘禁を解かれる。12月ライプツィヒ聖パウロ教会オルガン検査。ケーテンに移住しレオポルド侯のアンハルト=ケーテン侯宮廷楽長に就任した。

1718年カールスパートに旅行

1720年5月から7月にかけ領主がボヘミアの保養地カールスバートに楽師たちと旅行し、我が家に帰ってきたバッハを待っていたのは妻バルバラが世を去り既に埋葬されており、悲嘆に暮れた4人の子供たちの出迎えであった。11月ハンブルク聖ヤコブ教会のオルガニストの応募をした。聖カタリナ教会での試験演奏は大成功であったが、ハンブルク独自の採用されたものは多額の寄付を申し出なければならず、バッハには受け入れがたかったために採用にはならなかった

1721年3月ブランデンブルク辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒに”ブランデンブルク協奏曲”BWV1046~1051を献呈。12月36才のバッハは、ヴァイセンフェルスの宮廷トランペット奏者のヨハン・カスポル・ヴィルケの末娘で20歳のヴァイセンフェルス宮廷の歌手アンナ・マグダレーナ・ヴィルケ(1710-1760)とケーテン城内の礼拝堂で結婚式を挙げ再婚した。アンナの3人の兄もそろってトランペット奏者で姉もトランペット奏者に嫁ぐという音楽一家の出だった。結婚後のアンナはケーテンの宮廷歌手になりバッハのおよそ半分くらいの収入を得るようになった。後に13人の子供をもうけ先妻の子供を含め20人の子沢山となる。レオポルド侯が華燭の宴を挙げフリーデリカ侯妃の音楽嫌いでレオポルド侯の音楽熱も冷めていった。”無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ”BWV1001~1006、”無伴奏チェロ組曲”BWV1007~1012等々作曲

1722年”平均律クラヴィーア曲集”第1巻BWV846~869作曲。ライプツィヒのトーマスカントールに応募

1723年2月7日トーマス教会で試験演奏。4月23日ケ-テン宮廷辞職。5月5日トーマスカントールの職務契約書にサインしトーマス教会カントールに就任。5月22日バッハ一家はライプツィヒに到着した。バッハ38才だった。音楽監督兼聖トーマス教会カントールに就任した。6月カントール就任式。11月シュテルムタールでオルガン鑑定

1724年聖ニコライ教会で”ヨハネ受難曲”BWV245初演

1725年”復活祭オラトリオ”BWV249作曲

1726年ライプツィヒの新聞に「クラヴィーア練習曲集」の広告掲載

1727年聖トーマス教会で”マタイ受難曲”BWV244初演

1729年3月ライプツィヒ大学生を中心とする音楽団体「コレギウム・ムジクム」の指導を始める。夏場はグリンマ門の前のコーヒー・ガーデンで水曜の午後に、冬場はツィンマーマンのコーヒー店で金曜の夜に定期演奏会が行われた。”コーヒー・カンタータ”BWV211などもこれらを題材にして作曲したと思われる

1730年職務権限をめぐる市長ならびに市参事会との対立が深刻化していた。8月23日バッハは市参事会に上申書(それによれば、合唱団と楽師の中には音楽がまるでわからない者、訓練らしい訓練を受けたとは思えない楽師が混じっている。自分の考えている礼拝音楽を上演するには少なくとも20名の楽師が必要なのに、市が雇っているのはわずか8名しかいなく、足りない分はトーマス学校や大学生で補わなければならずなかった。このような補助要員に報酬が支払われていたが、この年からカットされてしまった等々)の具体的な内容を記して提出し窮状の打開を試みるが改善されなかった。2か月後、バッハはリューネブルクのゲオルク・エルトマンに手紙を送り伝手で就職口を見つけられないかとうつたえた

1733年長男フリーデマンがドレスデン聖ソフィア教会オルガニスト就任する。ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世に”ミサ曲ロ短調”の〈キリエ〉と〈グロリア〉を献呈しザクセン宮廷での官職を願い出た

1734年トーマス学校の校長となったヨハン・アウスグトエルネスティが音楽に理解を示さないことから対立が深まる

1735年「音楽家バッハ一族の起源」年代記を執筆

1736年トーマス合唱団と問題が起きトーマス学校長エルネスティが市参事会でバッハを非難。11月19日ザクセン選帝侯宮廷音楽家の称号を授かる

1737年ハンブルクで新たに発行された音楽雑誌「批判的音楽家」に名指しこそなかったが、バッハの音楽とわかる「仰々しく混乱した書法が作品から自然な感じを奪っている」とする記事が、ライプツィヒ生まれの30才の音楽家ヨハン・アドルフ・シャイベJohann・Adolph・Scheibeにより投稿掲載された。当時ハンブルクで活躍していたテレマンの音楽は耳になじみ、聴きやすく、美しいメロディを追及した軽やかな音楽であった。シャイベをはじめとする若い世代にとって、バッハは時代遅れの古い音楽と感じられたようだ。このことで何かを感じ自覚したバッハは、以後自分の芸術の集大成に心を砕くことになった。三男ベルンハルト、ザンガーハウゼン聖ヤコビ教会オルガニスト就任する。ライプツィヒの音楽団体「コレギウム・ムジクム」の指導を辞任する

1738年二男エマヌエル、フリードリヒ皇太子のチェンバロ奏者になる

1739~41年音楽団体「コレギウム・ムジクム」指揮者就任

1741年”ゴルトベルク変奏曲”BWV988出版。”平均律クラヴィーア曲集”第2巻BWV870-893作曲

1742年8月30日ライプツィヒ近郊のクライン・チョッハ村では新領主のカール・ハインリヒ・ディスカウを迎える祭りが催された。領主の徴税官ヘンリーチが歌詞を書き、バッハに作曲を依頼して出来たのが、”農民カンタータ”〈おいらは新しい領主さまをいただいた〉BWV212初演

1746年長男フリ-デマン、ハレ聖母教会オルガニスト就任

1747年ベルリン・ボツダム旅行。”音楽の捧げもの”BWV1079がプロイセン王フリードリヒ二世に捧げられた

1749年5月脳卒中の発作。10月”ミサ曲 ロ短調”BWV232全曲完成

1750年3月~4月頃ライプツィヒでイギリス人名眼科医といわれたジョン・テイラーに白内障の手術を2度受け失明状態となり手術は失敗。7月18日頃一時的には視力が回復。その後脳卒中の発作を起こし体力も弱まり糖尿病を患う。7月28日卒中により午後8時過ぎ死去。ライプツィヒ聖ヨハネ墓地に埋葬されたが、後に改葬され現在はトーマス教会祭壇前の床下に眠っている

4.主な作品

「G線上のアリア」、「平均律クラヴィーア曲集」「ミサ曲ロ短調」、「マタイ受難曲」、管弦楽組曲協奏曲、室内楽曲、オルガン曲、教会カンタータなど多くの作品を残す

5.その他

6.初演

7.関連動画

カンタータ”主よ人の望みの喜びよ” BWV 147
Jesus bleibet meine Freude BWV 147 Ton Koopman 480p

小フーガト短調 BWV 578
Fugue in G minor BWV 578

管弦楽組曲第3番「G線上のアリア」 ニ長調 BWV 1068
Orchestral Suite No. 3 in D Major, BWV 1068, Air & Gavotte – Croatian Baroque
Ensemble & Catherine Mackintosh
5-12-2010 – Croatian Music Institute Zagreb

トッカータとフーガ 二短調 BWV565 ロレンツォ・ギエルミ(Or)
Toccata and Fugue in D Minor BWV565 Lorenzo Ghielm(Or)

教会カンタータ BWV.106 ”神の時こそいと良き時”
Cantate BWV106 “Actus Tragicus” “Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit”

モテット”主に向かって歌え、新しい歌を” BWV225
Singet dem Herrn BWV 225

マタイ受難曲 BWV.244 [Part.1] 1997年9月7日 小澤征爾 サイトウキネンOrch. 長野県松本文化会館
J.S.Bach: Matthäus-Passion BWV.244 [Part.1] /
John Mark Ainsley [T]、Thomas Quasthoff [Bs]、Christiane Oelze [S]、Nathalie Stutzmann [A]、
Stanford Olsen [T]、Michael Volle [Bs]、
Tokyo Opera Singers,Sitou Kinen Orchestra,Seiji Ozawa,
1997.9.7 Matsumoto. Nagano Japan (1997 Movie Live)

マタイ受難曲 BWV.244 [Part.2] 1997年9月7日 小澤征爾 サイトウキネンOrch. 長野県松本文化会館
J.S.Bach: Matthäus-Passion BWV.244 [Part.2](1997 Movie Live)
John Mark Ainsley [T]、Thomas Quasthoff [Bs]、Christiane Oelze [S]
Nathalie Stutzmann [A]、Stanford Olsen [T]、Michael Volle [Bs]
Tokyo Opera Singers,Sitou Kinen Orchestra,Seiji Ozawa,
1997.9.7 Matsumoto. Nagano Japan (1997 Movie Live)

ミサ曲 ロ短調 BWV.232 2000年8月27日 小澤征爾 サイトウキネンOrch. 長野県松本文化会館
BACH Messe h-moll BWV 232 Sitou Kinen Orchestra,Seiji Ozawa, 小澤征爾 サイトウキネンOrch.
Soprano: Barbara Bonney; Alto: Angelika Kirchschlager; Tenor: John Mark Ainsley; Bass: Alastair Miles
Tokyo Opera Singers,Sitou Kinen Orchestra,Seiji Ozawa,
Matsumoto. Nagano Japan (2000.8.27 Movie Live)
https://youtu.be/JHcf3xeU4xQ

フランス組曲 BWV 812-817 シフ,アンドラーシュ(ピアノ)
The French Suites, BWV 812 813 814 815 816 817
Andras Schiff – Piano

平均律クラヴィーア曲集第1巻 BWV.846-869 シフ,アンドラーシュ(ピアノ)
Bach: The Well-Tempered Clavier, Book I.
Sir András Schiff, piano. BBC Proms 2017.

平均律クラヴィーア曲集第2巻 BWV.870-893 シフ,アンドラーシュ(ピアノ)
Bach: The Well-Tempered Clavier, Book II.
Sir András Schiff, piano. BBC Proms 2018.

ハープシコード協奏曲 ハ長調 BWV.1052
J.S.Bach HARPSICHORD Concerto in D Minor BWV 1052
Polina Osetinskaya piano
The Mariinsky String Orchestra / Conductor: Anton Gakkel (2015)

2ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 KWV.1043 メニューイン、オイストラフ
Bach Double Violin Concerto in D minor – BWV 1043 – Vivace
Yehudi Menuhin And David Oistrakh.

ヴァイオリン協奏曲第1番 BWV.1041 アイザック・スターン 1996年宮崎県
Violin Concerto No.1 BWV.1041
Isaac Stern / Orchestra (Student Orchestra)
1996.3.14 Miyazaki. Japan Live

ブランデンブルグ協奏曲 No.5 in D BWV1050
Brandenburg Concerto No.5 in D BWV1050
Croatian Baroque Ensemble

参考文献:「バッハの生涯と芸術」Johann Nikolaus Forkel著 柴田治三郎 訳 「 " Ursprung der musicalisch-Bachischen family " (https://archive.org/details/originoffamilyof00bach)」 「バッハ」角倉一郎著 音楽之友社発行 「クラシック作曲家辞典」中河原理監修、フェニックス企画編 東京出版堂 「音楽史(音楽講座)」堀内敬三著 音楽之友社 「偉大なる作曲家のためのカルテ」五島雄一郎著 医療ジャーナル社 「バッハ魂のエヴァンゲリスト」礒山雅著 東京書籍 「バッハへの旅」その生涯と由縁の街を巡る加藤浩子(文)若月伸一(写真)東京書籍発行 「バッハからの贈りもの」鈴木政雅明/加藤浩子(聞き手)春秋社発行 「大作曲家の生涯」ハロルド・C・ショーンバーグ著/亀井旭・玉木裕(共訳)共同通信社発行 「作曲家別/名曲解説ライブラリー⑫J・S・バッハ」音楽之友社 編者 「大作曲家たちの履歴書(上)」三枝成彰 著 中央公論新社 「https://de.wikipedia.org/wiki/Veit_Bach」 「https://en.wikipedia.org/wiki/Bach_family」 「http://www.classichistory.net/archives/bach-family-tree」 「wikipedia」 「glennmie.blog.s0-net.ne.jp」 「robortkelloyphd.com」 「dictionary/composer/alkan」 「maucamedus.net/solmization/gawut」 「www.tcat.ne.jp/eden/music」 「www.cadenza-od.com」 「http://www.bach-cantatas.com/Lib/Family-Tree.htm」 「www.coara.or.jp/-doraemon/gagaku/nenpyoz.htm」 「https://gw.geneanet.org/rivallainf?lang=en&n=bach&oc=0&p=johann+sebastian」 「www.gecities.jp/gzgaku.ryuteki」 「www.univesal-music,co.jp」 「maokato.jp/bihoro/bihoro 「homepage3.nifty.com/cio/a-alta」 「www.wagnerdailas.com」 「https://www.findagrave.com/memorial/182884355/christoph-bach」 「https://ja.wikipedia.org/wiki/」 「https://de.wikipedia.org/wiki/Christoph_Bach_(Musiker)」