ヨハン・セバスチャン・バッハ

生没年・出身地・歿地・墓地

ヨハン・セバスチャン・バッハ生誕
Johann Sebastian Bach

(1685年3月21日ドイツ アイゼナハ生)
(1750年7月28日ライプツィヒで没)

1.職業


ドイツの作曲家・オルガニスト

「音楽の父」、「大バッハ」、「ドイツ三大B」とも

2.称号


ザクセン選帝侯宮廷音楽家

3.家系


⑴ 高祖父の父 ハンス・バッハ Hans Bach(バッハ一族の始祖)
   ↓
⑵ 高祖父 ファイト・バッハ Veit・Bach
   ↓
⑶ 曾祖父 ヨハネス・バッハ一世  Johannes・Bach(バッハ家の音楽家の子孫の始まり)
   ↓
⑷ 祖 父 クリストフ・バッハ Christoph Bach
   ↓
⑸ 父 ヨハン・アンブロジウス・バッハ Johann Ambrosius Bach
   ↓
⑹ 六代目ヨハン・セバスチャン・バッハ Johann Sebastian Bach

4ヨハン・セバスチャン・バッハ経歴

1685年
3月21日(通説)ヨハン・セバスチャン・バッハは、チューリンゲン地方アイゼナハ市に、ヨハン・アンブロジウス・バッハとその妻エリーザベト(旧姓レンマーヒルト)の間の六子として生まれた。父の徒弟や職人の住む音楽的環境のなかで育った

<アイゼナハの町>

1693~5年
アイゼナハの聖ゲオルク教会付属ラテン語学校に通う。グレンデ合唱団に入りボーイソプラノを歌いながら音楽の基礎を身につけた。その後コルス・シンフォニア-クス合唱団に入りゲオルク教会で多声の教会音楽を歌う。

<聖ゲオルグ教会附属ラテン語学校>

1694年
3月5日母の死。
11月7日父はバルバラ・マルガレータと再婚。

1695年2月24日父の死。
3月義母バルバラ・マルガレータの死。
10才のバッハは、兄ヤーコブと一緒にオールドルフに住む教会オルガニストの長兄ヨハン・クリストフ三世に引き取られる。長兄は、エアフルトでヨハン・パッヘルベルJohann・Pachelbel(1653~1706)の弟子で優秀な音楽家であった。兄の家に身を寄せ、町のリュツェーウム・ラテン語学校に通い、学校の合唱団に入り、宗教教育、数学、論理学、歴史、修辞学、音楽を学び上級クラスでは1~2番の席次を占めていた。ここで兄クリストフの指導でクラヴィーア演奏の基礎を学び、学校カントールのアルノルトとエリーアス・ヘルダにクラヴィーア、オルガン、ヴァイオリン、ヴィオラ及び音楽理論を学んだ。

1700年
3月15日ラテン語学校を退学し兄のもとを離れ、北ドイツのハンザ都市リュ-ネブルクの聖ミカエル教会付属ミカエル学校の給費生となった。ミカエル修道院の朝礼合唱団に入る。やがて有給のボーイソプラノ歌手よなり寄宿を許され生計費を支給される。変声後礼拝や学校祭にヴァイオリン、オルガン、チェンバロを担当し、オルガン演奏技能に磨きをかけ始める

<ヨハン・ゼバスティアン・バッハはこの教会の附属学校に2年間通った>

1702年
春頃テューリンゲンに戻り職探しを始める。

1703年
ヴァイマールのヨハン・エルンスト公宮廷で楽師兼従僕を5か月務め、7月アルンシュタットの新教会(現バッハ協会)ミュールハウゼンの製作家ヴェンダーの新しいオルガンの試験演奏で優れた能力を示し、8月9日18才の若さでこの教会のオルガニスト兼学校及び合唱指導者として就任した。同年から1707年アルンシュタットの聖職会議とたびたびトラブルを起こす。

1704年

<カプリッチョ《最愛の兄の旅立ちによせて」》BWV992>
作品、《トッカータとフーガニ短調》BWV565、《幻想曲ハ長調》BWV570、《前奏曲とフーガホ短調》BWV533、カプリッチョ《最愛の兄の旅立ちによせて」》BWV992ほか。

1705年
聖歌隊員と暴力事件を起こす。
10月リューベックへ旅行し聖マリエンヌ教会オルガニストのディートリヒ・ブクステフーデのオルガン演奏を聴く。翌年1月まで四ヶ月無断で休暇を延長し2月聖職会議で喚問される。

1706年
11月アルンシュタットの聖職会議の審問を受ける。11月末ランゲヴィーゼンのオルガン試奏。

1707~08年
ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会のオルガニストを務める。
10月17日アルンシュタット近郊ドルンハイムの聖バルトロメオ教会でマリア・バルバラと挙式。マリア・バルバラの祖父は作曲家ヨハン・クリストフ・バッハ(1642~1703年)でアイゼナハ宮廷オーケストラのチェンバロ奏者を務めた。バッハの曾祖父クリストフ・バッハの弟ハインリッヒ・バッハの長男にあたる。

1708~17年
6月ワイマールへ移住しザクセン=ヴァイマル、ヴィルヘルム・エルンスト公宮廷音楽家兼宮廷オルガニストに就任した。カタリーナ・ドロテーア誕生。

<ワイマールの町>

1713年
12月ハレの聖母教会オルガニストに応募し任命されるが、ヴァイマール公は解雇を拒み、昇進と昇給でバッハの引き留めに成功した。

1714年
宮廷楽師長昇進。毎月1曲の教会カンタータの作曲上演が義務付けられる。 後に「ベルリンのバッハ」「ハンブルクのバッハ」といわれているカールフィリップ・エマヌエル誕生(1788年歿)。

1715年
ヨハン・ゴットフリ-ト・ベルンハルト誕生(1739年歿)。

1716年
ハレの聖母教会オルガン鑑定書をクーナウ等と提出。エアフルトの聖アウグスティヌス教会のオルガン鑑定。

1717年
9月ドレスデン宮廷に招待される。フランスのオルガニスト、ルイ・マルシャンLouis Marchand(1669~1732)と即興演奏の競演のためであった。帰国後、ワイマール宮廷では老楽長が他界し息子が後を継ぎ、バッハの昇進の可能背が絶たれた。辞職願を出すがヴァイマール公は解雇を認めず対立し、禁錮処分に処され11月拘禁され12月解雇され拘禁を解かれる。
12月ライプツィヒ聖パウロ教会オルガン検査。ケーテンに移住しレオポルド侯のアンハルト=ケーテン侯宮廷楽長に就任した。

1718年
カールスパートに旅行。

1720年
5月から7月にかけ領主がボヘミアの保養地カールスバートに楽師たちと旅行し、我が家に帰ってきたバッハを待っていたのは妻バルバラが世を去り既に埋葬されており、悲嘆に暮れた4人の子供たちの出迎えであった。
11月ハンブルク聖ヤコブ教会のオルガニストの応募をした。聖カタリナ教会での試験演奏は大成功であったが、ハンブルク独自の採用されたものは多額の寄付を申し出なければならず、バッハには受け入れがたかったために採用にはならなかった。

1721年
3月ブランデンブルク辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒに《ブランデンブルク協奏曲》BWV1046~1051を献呈。
12月三十六歳のバッハは、ヴァイセンフェルスの宮廷トランペット奏者のヨハン・カスポル・ヴィルケの末娘で、二十歳のヴァイセンフェルス宮廷の歌手アンナ・マグダレーナ・ヴィルケ(1710-1760)とケーテン城内の礼拝堂で結婚式を挙げ再婚した。
アンナの三人の兄もそろってトランペット奏者で姉もトランペット奏者に嫁ぐという音楽一家の出だった。結婚後のアンナはケーテンの宮廷歌手になりバッハのおよそ半分くらいの収入を得るようになった。後に十三人の子供をもうけ先妻の子供を含め二十人の子沢山となる。
レオポルド侯が華燭の宴を挙げフリーデリカ侯妃の音楽嫌いでレオポルド侯の音楽熱も冷めていった。《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》BWV1001~1006、《無伴奏チェロ組曲》BWV1007~1012等々作曲。

1722年
《平均律クラヴィーア曲集第1巻》BWV846~869作曲。
ライプツィヒのトーマスカントールに応募。

<ライプツィヒ トーマス教会>

1723年
2月7日トーマス教会で試験演奏。
4月23日ケ-テン宮廷辞職。
5月5日トーマスカントールの職務契約書にサインしトーマス教会カントールに就任。
5月22日バッハ一家はライプツィヒに到着した。バッハ38才だった。音楽監督兼聖トーマス教会カントールに就任した。
6月カントール就任式。
11月シュテルムタールでオルガン鑑定。

1724年
聖ニコライ教会で《ヨハネ受難曲》BWV245初演。
ゴットフリート・ハインリヒ誕生(1763年歿)。

1725年
《復活祭オラトリオ》BWV249作曲。

1726年
ライプツィヒの新聞に《クラヴィーア練習曲集》の広告掲載。

1727年
聖トーマス教会で《マタイ受難曲》BWV244初演。

<《マタイ受難曲》>カール・リヒター指揮/ミュンヘン・バッハ管弦楽団・合唱団
ミュンヘン少年合唱団、ペーター・シュライヤーほか 
1971年5月 ミュンヘン・パヴァリア・スタジオ

1729年
3月ライプツィヒ大学生を中心とする音楽団体「コレギウム・ムジクム」の指導を始める。夏場はグリンマ門の前のコーヒー・ガーデンで水曜の午後に、冬場はツィンマーマンのコーヒー店で金曜の夜に定期演奏会が行われた。《コーヒー・カンタータ》BWV211などもこれらを題材にして作曲したと思われる。

1730年
職務権限をめぐる市長ならびに市参事会との対立が深刻化した。
8月23日バッハは市参事会に上申書(それによれば、合唱団と楽師の中には音楽がまるでわからない者、訓練らしい訓練を受けたとは思えない楽師が混じっている。自分の考えている礼拝音楽を上演するには少なくとも20名の楽師が必要なのに、市が雇っているのはわずか8名しかいなく、足りない分はトーマス学校や大学生で補わなければならずなかった。このような補助要員に報酬が支払われていたが、この年からカットされてしまった等々)の具体的な内容を記して提出し窮状の打開を試みるが改善されなかった。二ヶ月後、バッハはリューネブルクのゲオルク・エルトマンに手紙を送り伝手で就職口を見つけられないかとうつたえた。

1732年
「ビュッケブルクのバッハ」といわれているヨハン・クリストフ・フリードリヒ(1732~1795)生まれる。

1733年
長男フリーデマンがドレスデン聖ソフィア教会オルガニスト就任する。ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト二世に《ミサ曲ロ短調》〈キリエ〉〈グロリア〉を献呈しザクセン宮廷での官職を願い出た。

1734年
トーマス学校の校長となったヨハン・アウスグトエルネスティが音楽に理解を示さないことから対立が深まる。

1735年
「音楽家バッハ一族の起源」年代記を執筆。

1736年
トーマス合唱団と問題が起きトーマス学校長エルネスティが市参事会でバッハを非難。
11月19日ザクセン選帝侯宮廷音楽家の称号を授かる。

1737年
ハンブルクで新たに発行された音楽雑誌「批判的音楽家」に名指しこそなかったが、バッハの音楽とわかる「仰々しく混乱した書法が作品から自然な感じを奪っている」とする記事が、ライプツィヒ生まれの30才の音楽家ヨハン・アドルフ・シャイベJohann・Adolph・Scheibeにより投稿掲載された。当時ハンブルクで活躍していたテレマンの音楽は耳になじみ、聴きやすく、美しいメロディを追及した軽やかな音楽であった。シャイベをはじめとする若い世代にとって、バッハは時代遅れの古い音楽と感じられたようだ。このことで何かを感じ自覚したバッハは、以後自分の芸術の集大成に心を砕くことになった。三男ベルンハルト、ザンガーハウゼン聖ヤコビ教会オルガニスト就任する。ライプツィヒの音楽団体「コレギウム・ムジクム」の指導を辞任する。

1738年
二男エマヌエル、フリードリヒ皇太子のチェンバロ奏者になる。

1739~41年
音楽団体「コレギウム・ムジクム」の指揮者就任。

1741年
《ゴルトベルク変奏曲》BWV988出版。《平均律クラヴィーア曲集第2巻》BWV870-893作曲。

1742年
8月30日ライプツィヒ近郊のクライン・チョッハ村では新領主のカール・ハインリヒ・ディスカウを迎える祭りが催された。領主の徴税官ヘンリーチが歌詞を書き、バッハに作曲を依頼して出来たのが、《農民カンタータ》「おいらは新しい領主さまをいただいた」BWV212初演。

1746年
長男フリ-デマン、ハレ聖母教会オルガニスト就任。

1747年
ベルリン・ボツダム旅行。《音楽の捧げもの》BWV1079がプロイセン王フリードリヒ二世に捧げられた。

1749年
5月脳卒中の発作。
10月《ミサ曲 ロ短調》BWV232全曲完成。

<《ミサ曲 ロ短調》BWV232 マゼール指揮/ベルリン放送響>

1750年
3月~4月頃ライプツィヒでイギリス人名眼科医といわれたジョン・テイラーに白内障の手術を2度受け失明状態となり手術は失敗。
7月18日頃一時的には視力が回復。その後脳卒中の発作を起こし体力も弱まり糖尿病を患う。
7月28日卒中により午後8時過ぎ死去。
ライプツィヒ聖ヨハネ墓地に埋葬されたが、後に改葬され現在はトーマス教会祭壇前の床下に眠っている。
<ライプツィヒ聖ヨハネ教会のバッハの墓地>

4.主な作品


<歌曲>
439-507 シェメッリ賛美歌集 (Schemellisches Gesangbuch) 1736以前
478 快い死よ来たれ、至福のいこいよ来たれ (Komm, susser Tod, Komm, selge Ruh!) 1725以降
505 われを忘れたもうことなかれ (Vergiss mein nicht)
508-518 『アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳』に含まれる歌曲 1725-40 全11曲
519-523 5つの宗教歌曲 1736? 偽作?
524 クォドリベット 1707頃 12曲の断片、4声と通奏低音

<ミサ曲・マニフィカト、他>
232 ミサ ロ短調 Messe h-Moll 1724-49
233 ミサ曲 ヘ長調 Messe F-Dur 1738? 『ルーテル・ミサ』とも
233a キリエ ヘ長調 Kyrie 1708-17 BWV233の初稿
234 ミサ曲 イ長調 Messe A-Dur 1708-17 『ルーテル・ミサ』とも
235 ミサ曲 ト短調 Messe g-Moll 1737? 『ルーテル・ミサ』とも
236 ミサ曲 ト長調 Messe G-Dur 1737-42 『ルーテル・ミサ』とも
237 サンクトゥス ハ長調 Sanctus 1723 疑作?
238 サンクトゥス ニ長調 Sanctus 1723/24
239 サンクトゥス ニ短調 Sanctus 1735-46 偽作?
240 サンクトゥス ト長調 Sanctus 1735-46 偽作?
241 サンクトゥス ニ長調 Sanctus 1730-45
242 キリストよ、憐れみたまえ 1727-31
243 マニフィカト ニ長調 1728-31
243a マニフィカト 変ホ長調 1728-31   BWV243の初稿

<受難曲>
BWV 作品タイトル
244 マタイ受難曲
(Matthäus-Passion)   1727-29
245 ヨハネ受難曲
(Johannes-Passion)   1724/25-29 1746/49年改作
246 ルカ受難曲
(Lukas-Passion) ?
247 マルコ受難曲
(Markus-Passion)   1731
<オラトリオ>
248 クリスマス・オラトリオ
(Weihnachts-Oratorium)   1734
249 復活祭オラトリオ
(Oster-Oratorium)   1725/35    1740年頃改訂

<オルガン曲>
525 トリオ・ソナタ第1番 変ホ長調 1730頃 6つのトリオ・ソナタ
526 トリオ・ソナタ第2番 ハ短調 1730頃 6つのトリオ・ソナタ
527 トリオ・ソナタ第3番 ニ短調 1730頃 6つのトリオ・ソナタ
528 トリオ・ソナタ第4番 ホ短調 1730頃 6つのトリオ・ソナタ
529 トリオ・ソナタ第5番 ハ長調 1730頃 6つのトリオ・ソナタ
530 トリオ・ソナタ第6番 ト長調 1730頃 6つのトリオ・ソナタ
531 前奏曲とフーガ ハ長調  1700-07
532 前奏曲とフーガ ニ長調  1708-12頃
532a フーガ ニ長調 BWV532のフーガの異稿
533 前奏曲とフーガ ホ短調 1704頃
534 前奏曲とフーガ ヘ短調  1712-17
535 前奏曲とフーガ ト短調  1717以降
535a 前奏曲とフーガ ト短調  1708-17 BWV535の初稿
536 前奏曲とフーガ イ長調  1716頃? フーガの主題の原型はBWV152の序曲
537 前奏曲(幻想曲)とフーガ ハ短調 ?
538 トッカータとフーガ「ドリア調」 ニ短調
(Präludium (Toccata) und Fuge)  1712-17
539 前奏曲とフーガ ニ短調  1720-25
540 前奏曲とフーガ ヘ長調  1712-17
541 前奏曲とフーガ ト長調  1712以降
542 幻想曲とフーガ ト短調
(Präludium (Fantasie) und Fuge)  1720頃 『大フーガ』とも呼ばれる
543 前奏曲とフーガ イ短調  1730頃
544 前奏曲とフーガ ロ短調  1725-28
545 前奏曲とフーガ ハ長調  1712-17
545a 前奏曲とフーガ ハ長調  1712-17? BWV.545の初稿
545b 前奏曲、トリオとフーガ 変ロ長調 ?BWV.545の初稿、ラルゴはトリオソナタ第5番より
546 前奏曲とフーガ ハ短調  1712-17 フーガは1716年頃作曲
547 前奏曲とフーガ ハ長調  1712以降
548 前奏曲とフーガ ホ短調『楔』
(Präludium und Fuge, The wedge)  1725-28
549 前奏曲とフーガ ハ短調  1723以降
550 前奏曲とフーガ ト長調  1706-08?
551 前奏曲とフーガ イ短調  1703-04?
552 前奏曲とフーガ 変ホ長調『聖アン』 1739 『クラヴィーア練習曲集 第3巻』に収録。
『聖アンのフーガ』(St.Anne)とも呼ばれる
553 – 560 8つの小前奏曲とフーガ ? 偽作
561 幻想曲とフーガ イ短調 ? 偽作
562 幻想曲とフーガ ハ短調  1730-45? フーガのみ未完
563 幻想曲と模倣曲 ロ短調 ?
564 トッカータ、アダージョとフーガ ハ長調 1708-12
565 トッカータとフーガ ニ短調 1704頃
566 トッカータとフーガ ホ長調 1706頃
567 前奏曲 ハ長調 ? 偽作
568 前奏曲 ト長調   1703-07?
569 前奏曲 イ短調   1703-04?
570 幻想曲 ハ長調   1704頃
571 幻想曲 ト長調 ? 偽作
572 幻想曲 ト長調   1708-12?
573 幻想曲 ハ長調   1722頃 未完
574 フーガ ハ短調   1708頃 G.レグレンツィの主題による
574a フーガ ハ短調   1708頃 BWV.574の異稿
575 フーガ ハ短調   1703-07 1708-17改訂
576 フーガ ト長調 ? 偽作
577 フーガ ト長調 ? 偽作。「ジーグ風フーガ」とも。
578 フーガ ト短調   1703-07 BWV542と比較され、小フーガとも呼ばれる
579 フーガ ロ短調   1708-17 A.コレッリ作のソナタロ短調(Op.3-4)第2楽章の主題による
580 フーガ ニ長調 ? 偽作?
580a アルペジオ・フーガ イ短調 1748?
581 フーガ ト長調 ? 偽作?
582 パッサカリアとフーガ ハ短調 1706-12
583 – 591 オルガンのためのトリオと種々の小曲集 1723-30?
583 トリオ ニ短調     1723-30?
584 トリオ ト短調 ? 偽作
585 トリオ ハ短調 1726-27? 原曲=J.F.ファッシュ
586 トリオ ト長調 ? 原曲=G.F.テレマン
587 アリア ヘ長調 1726以降 原曲=F.クープランの「諸国の人々」
588 カンツォーナ ニ短調 1715頃
589 アラ・ブレーヴェ ニ長調 1703-07/09? 偽作?
590 パストラーレ ヘ長調 1703-07 1708-17年改訂。ペダル付きチェンバロのための
591 小さな和声の迷宮 ? J.D.ハイニヒェン作?
592 – 597 オルガン協奏曲 1713-14 ヴィヴァルディ他の編曲
592 協奏曲第1番 ト長調 1713-14 原曲=J.エルンスト公
593 協奏曲第2番 イ短調 1713-14 原曲=A.ヴィヴァルディ(Op.3-8)
594 協奏曲第3番 ハ長調 1713-14 原曲=A.ヴィヴァルディ (Op.7-11)
595 協奏曲第4番 ハ長調 1713-14 原曲=J.エルンスト公
596 協奏曲第5番 ニ短調 1713-14 原曲=A.ヴィヴァルディ (Op.3-11)
597 協奏曲第6番 変ホ長調 1708-17頃? 原曲不明
598 ペダル練習曲 ト短調 1730以前 未完、ペダルのパートのみ
599 – 644 オルガン小曲集 1713-16
645 – 650 シューブラー・コラール集 1748
651 – 668 18のコラール 1708-17
669 – 689 21のコラール前奏曲 1739以前 クラヴィーア練習曲集第3巻収録
690 – 713 キルンベルガー・コラール集 ?
714 – 740 27のコラール編曲 ?
741 – 765 25のコラール編曲 ?
766 パルティータ『汝、明るき日なるキリスト』 1700-03?
767 パルティータ『おお、汝正しくて善なる神よ』 1700-03?
768 コラール変奏曲『慈しみ深きイエスよ』 1700-17頃 またはパルティータ
769 クリスマスの歌『高き天より我きたりて』によるカノン風変奏曲 1747
769a カノン変奏曲 1747 BWV.769の異稿
770 パルティータ『おお罪人なるわれ、何をなすべきか』 ? 疑作?
771 コラール変奏曲『いと高きところにいます神にのみ栄光あれ』 ? 偽作
1090 – 1120 ノイマイスター・コラール集 1703-07 全31曲

<クラヴィーア曲>
772 – 801 2声のインヴェンションと3声のシンフォニア 1720-23
802 – 805 4つのデュエット 1739? クラヴィーア練習曲集第3巻収録
806 – 811 イギリス組曲 1717
812 – 817 フランス組曲 1715
825 – 830 パルティータ 1726-31 クラヴィーア練習曲集第1巻
831 フランス風序曲 ロ短調 1734 クラヴィーア練習曲集第2巻収録
846 – 869 平均律クラヴィーア曲集第1巻 1722-23 24の前奏曲とフーガ
870 – 893 平均律クラヴィーア曲集第2巻 1738-42 24の前奏曲とフーガ
903 半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 1719 1730頃改作
903a 幻想曲 ? BWV903の幻想曲の初稿
904 幻想曲とフーガ イ短調 1725頃
905 幻想曲とフーガ ニ短調 ?
906 幻想曲とフーガ ハ短調 1726-40 フーガのみ未完
907 幻想曲とフーガ 変ロ長調 ? 偽作=G.キルヒホール作?
908 幻想曲とフーガ ニ長調 ? 偽作=G.キルヒホール作?
909 協奏曲とフーガ ハ短調 1703?
910 – 916 7つのトッカータ 1710頃
917 幻想曲 ト短調 ? 偽作
918 ロンドによる幻想曲 ハ短調 ?
919 幻想曲 ハ短調 1712以降 偽作?
920 幻想曲 ト短調 ? 偽作?
921 前奏曲(幻想曲) ハ短調 1703-17 cemb 偽作?
922 前奏曲(幻想曲) ト短調 1710-14 cemb 偽作?
923 前奏曲 ロ短調 1725以前
923a 前奏曲 ロ短調 ? 異稿
924 – 932 9つの小前奏曲 1720-26 cemb
933 – 938 6つの小前奏曲 1720? cemb
939 – 943 5つの小前奏曲 1703-20 cemb
944 フーガ イ短調 1708以前?
945 フーガ ホ短調 ? 偽作
946 フーガ ハ長調 1708頃 cemb アルビノーニの主題による
947 フーガ イ短調 1703-10 cemb 偽作?
948 フーガ ニ短調 ? 偽作?
949 フーガ イ長調 1703-10 cemb 偽作?
971 イタリア協奏曲 ヘ長調 1734 クラヴィーア練習曲集第2巻収録
972 協奏曲第1番 ニ長調 1708-17 原曲=A.ヴィヴァルディのOp.3-9
973 協奏曲第2番 ト長調 1708-17 原曲=A.ヴィヴァルディのOp.7-8
974 協奏曲第3番 ニ短調 1708-17 原曲=A.マルチェッロのオーボエ協奏曲
975 協奏曲第4番 ト短調 1708-17 原曲=A.ヴィヴァルディのOp.4-6
976 協奏曲第5番 ハ長調 1708-17 原曲=A.ヴィヴァルディのOp.3-12
977 協奏曲第6番 ハ長調 1708-17 原曲=B.マルチェッロ?
978 協奏曲第7番 ヘ長調 1708-17 原曲=A.ヴィヴァルディのOp.3-3
979 協奏曲第8番 ロ短調 1708-17 原曲=G.トレッリ
980 協奏曲第9番 ト長調 1708-17 原曲=A.ヴィヴァルディのOp.4-1
981 協奏曲第10番 ハ短調 1708-17 原曲=B.マルチェッロ
982 協奏曲第11番 変ロ長調 1708-17 原曲=J.エルンスト公
983 協奏曲第12番 ト短調 1708-17 原曲不明
984 協奏曲第13番 ハ長調 1708-17 原曲=J.エルンスト公
985 協奏曲第14番 ト短調 1708-17 テレマンのヴァイオリン協奏曲
986 協奏曲第15番 ト長調 1708-17 原曲=G.P.テレマン?
987 協奏曲第16番 ニ短調 1708-17 原曲=J.エルンスト公
988 ゴルトベルク変奏曲 1742 クラヴィーア練習曲集第4巻
989 イタリア風のアリアと変奏 イ短調 1709頃
990 サラバンドと変奏 ハ長調 ? cemb 偽作
991 アリアと変奏 ハ短調 1722 断片のみ
992 カプリッチョ『最愛なる兄の旅立ちに寄せて』 1704
993 カプリッチョ ホ長調『ヨハン・クリストフを讃えて』 1704頃
994 運指練習曲 ハ長調 1720-21
<リュート曲>
995 組曲 ト短調 1722頃
996 組曲 ホ短調 1740頃
997 組曲(パルティータ)ハ短調      1720頃
998 前奏曲、フーガとアレグロ 変ホ長調 1740-45
999 プレリュード ハ短調 1723頃
1000 フーガ ト短調       1725頃 BWV1001-2の編曲

<室内楽曲>
1001 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番 ト短調 1720
1002 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第1番 ロ短調 1720
1003 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第2番 イ短調 1720
1004 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番 ニ短調 1720 パルティータ第2番は『シャコンヌ』を含む
1005 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第3番 ハ長調 1720
1006 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番 ホ長調 1720
1006a リュート組曲 ホ長調 1735-40 BWV1006の編曲
1007 無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調 1717-23
1008 無伴奏チェロ組曲第2番 ニ短調 1717-23
1009 無伴奏チェロ組曲第3番 ハ長調 1717-23
1010 無伴奏チェロ組曲第4番 変ホ長調 1717-23
1011 無伴奏チェロ組曲第5番 ハ短調 1717-23
1012 無伴奏チェロ組曲第6番 ニ長調 1717-23
1013 無伴奏フルートのためのパルティータ イ短調 1720初頭
1014 ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第1番 ロ短調 1717-23
1015 ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第2番 イ長調 1717-23
1016 ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第3番 ホ長調 1717-23
1017 ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第4番 ハ短調 1717-23
1018 ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第5番 ヘ短調 1717-23
1019 ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第6番 ト長調 1717-23
1019a ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ ト長調 ?
1020 ヴァイオリンソナタ ト短調 ? またはフルートソナタ。偽作=C.P.E.バッハ作?
1021 ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ト長調 1720以前?
1022 ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ヘ長調 1720頃?
1023 ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ホ短調 1720頃?
1024 ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ハ短調 1720頃?
1025 ヴァイオリンとチェンバロのための組曲 イ長調 1720頃
1026 ヴァイオリンとチェンバロのためのフーガ ト短調 1712頃
1027 ヴィオラ・ダ・ガンバのためのソナタ第1番 ト長調 1720-39頃
1027a ヴィオラ・ダ・ガンバのためのソナタ ライプツィヒ時代の作品か?
1028 ヴィオラ・ダ・ガンバのためのソナタ第2番 ニ長調 1720-39頃
1029 ヴィオラ・ダ・ガンバのためのソナタ第3番 ト短調 1730-39頃
1030 フルートとチェンバロのためのソナタ第1番 ロ短調 1735頃
1031 フルートとチェンバロのためのソナタ第2番 変ホ長調 1734以前
1032 フルートとチェンバロのためのソナタ第3番 イ長調 1717-23
1033 フルートと通奏低音のためのソナタ第1番 ハ長調 1720頃
1034 フルートと通奏低音のためのソナタ第2番 ホ短調 1717-20頃
1035 フルートと通奏低音のためのソナタ第3番 ホ長調 1717-20?
1036 トリオ ニ短調 ? 偽作=C.P.E.バッハ作?
1037 ソナタ ハ長調 ? 偽作=J.G.ゴルトベルク作?
1038 ソナタ ト長調 ? 偽作。低音部はBWV1021と同一
1039 2本のフルートと通奏低音のためのソナタ ト長調 1720頃
1040 トリオ楽章 ヘ長調 1713?

<協奏曲>>
1041 ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 1717-23頃 BWV1058に編曲
1042 ヴァイオリン協奏曲第2番 ホ長調 1717-23頃 BWV1054に編曲
1043 2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 1718頃 BWV1062に編曲
1044 三重協奏曲 イ短調 1738-40
1045 シンフォニア ニ長調 ? 未完のヴァイオリン協奏曲の楽章か
カンタータの一部とされる
1046 ブランデンブルク協奏曲第1番 ヘ長調 1717?
1046a ブランデンブルク協奏曲第1番 ヘ長調 1717?
1047 ブランデンブルク協奏曲第2番 ヘ長調 1717-18?
1048 ブランデンブルク協奏曲第3番 ト長調 1711-13頃
1049 ブランデンブルク協奏曲第4番 ト長調 1720頃?
1050 ブランデンブルク協奏曲第5番 ニ長調 1720-21頃?
1050a ブランデンブルク協奏曲第5番 ニ長調 1720-21頃? 第1稿
1051 ブランデンブルク協奏曲第6番 変ロ長調 1708-10頃? C
1052 チェンバロ協奏曲第1番 ニ短調 1738-39頃
1053 チェンバロ協奏曲第2番 ホ長調 1738-39
1054 チェンバロ協奏曲第3番 ニ長調 1738-42頃
1055 チェンバロ協奏曲第4番 イ長調 1738-42頃
1056 チェンバロ協奏曲第5番 ヘ短調 1738-42頃
1057 チェンバロ協奏曲第6番 ヘ長調 1738-42頃
1058 チェンバロ協奏曲第7番 ト短調 1727-42
1059 チェンバロ協奏曲第8番 ニ短調 1726以降 断片のみ
1060 2台のチェンバロのための協奏曲第1番 ハ短調 1730-45
1061 2台のチェンバロのための協奏曲第2番 ハ長調 1727-34
1062 2台のチェンバロのための協奏曲第3番 ハ短調 1732-36頃
1063 3台のチェンバロのための協奏曲第1番 ニ短調 1735-45
1064 3台のチェンバロのための協奏曲第2番 ハ長調 1730頃
1065 4台のチェンバロのための協奏曲 イ短調 1730頃
<管弦楽組曲>
1066 管弦楽組曲第1番 ハ長調 1717-23頃
1067 管弦楽組曲第2番 ロ短調 1730頃
1068 管弦楽組曲第3番 「G線上のアリア」ニ長調 1729-31頃
1069 管弦楽組曲第4番 ニ長調 1717-23頃
1070 管弦楽組 偽作=W.F.バッハ作
1071 シンフォニア 1717頃?

5.その他

6.初演

7.関連動画


《マタイ受難曲》BWV244
StMatthewPassion BWV244
フリッツ・ヴェルナー指揮/プフォルツハイム南西ドイツ室内管弦楽団
ハイルブロン・ハインリッヒ・シュルツ合唱団・ハイルブロン・ロベルト・メイヤー学校少年合唱団
ヘルムート・クレープス、フランツ・ケルヒほか

《ヨハネ受難曲》
フリーダー・ベルニウス指揮/ シュトゥットガルト・バロック室内管弦楽団・シュトゥットガルト室内管弦楽団
BRIXNER INITIATIVE MUSIK UND KIRCHE 2016年3月21日

カンタータ《主よ人の望みの喜びよ》 BWV 147
Jesus bleibet meine Freude BWV 147 Ton Koopman 480p

《フーガト短調》 BWV 578
Fugue in G minor BWV 578

《管弦楽組曲第3番》「G線上のアリア」 ニ長調 BWV 1068
Orchestral Suite No. 3 in D Major, BWV 1068, Air & Gavotte – Croatian Baroque
Ensemble & Catherine Mackintosh
5-12-2010 – Croatian Music Institute Zagreb

「G線上のアリア」 ニ長調 BWV 1068
Classical guitar:ペア=オラブ・カインドグレン
Swedish classical guitarist Per- Olov Kindgrenペア=オラブ・カインドグレン

《ブランデンブルグ協奏曲第5番》 in D BWV1050
Brandenburg Concerto No.5 in D BWV1050
Croatian Baroque Ensemble

《2つのヴァイオリンのための協奏曲》 ニ短調 KWV.1043 メニューイン、オイストラフ
Bach Double Violin Concerto in D minor – BWV 1043 – Vivace
Yehudi Menuhin And David Oistrakh.

《ヨハネ受難曲》 BWV 245
オランダ・バッハ協会合唱団 / 指揮:ヨス・ファン・フェルトホーフェン
Passion BWV 245
Jos van Veldhoven, conductor / Netherlands Bach Society
Soloists:Raphael Höhn, evangelist (tenor)、Myriam Arbouz, soprano、Maria Valdmaa (Maid), soprano、Daniël Elgersma, alto、Marine Fribourg, alto、Gwilym Bowen, tenor、Guy Cutting (Servant), tenor、Felix Schwandtke (Jesus), bass、Drew Santini (Peter), bass、Angus Mc Phee (Pilate), bass

《ミサ曲 ロ短調》 BWV.232 2000年8月27日 小澤征爾 サイトウキネンOrch. 長野県松本文化会館
BACH Messe h-moll BWV 232 Sitou Kinen Orchestra,Seiji Ozawa, 小澤征爾 サイトウキネンOrch.
Soprano: Barbara Bonney; Alto: Angelika Kirchschlager; Tenor: John Mark Ainsley; Bass: Alastair Miles
Tokyo Opera Singers,Sitou Kinen Orchestra,Seiji Ozawa,
Matsumoto. Nagano Japan (2000.8.27 Movie Live)
https://youtu.be/JHcf3xeU4xQ

《クリスマス・オラトリオ》 BWV 248
アンナ・ルチア・リヒター(S.)、ステファニー・イラーニ (A.)、マクシミリアン・シュミット(T.)、ロデリック・ウィリアムズ (B.)、IASチャンバー合唱団
指揮:ハンス=クリストフ・ラーデマン / フライブルクバロックオーケストラ
2016年12月17日 KKL Luzern、コンサートホール(ライブ)
eihnachtsoratorium, BWV 248
RIAS Kammerchor、Hans-Christoph Rademann, Leitung / Freiburger Barockorchester
Anna Lucia Richter, Sopran、Stefanie Irányi, Alt、Maximilian Schmitt, Tenor、Roderick Williams, Bass
Live-Mitschnitt von Samstag, 17. Dezember 2016 KKL Luzern, Konzertsaal

《Cantata “Verjaget, zerstreuet, zerrüttet, ihr Sterne》” BWV 249b (Alexander Grychtolik)
ソプラノ:グドルン・ジドニー・オットー、アルト:エルヴィラ・ビル、テノール:ダニエル・ヨハンセン、バス:ステファン・マクラウド
ドニー・オットーが指揮を兼任する室内楽アンサンブル、GSOコンソート
2021年6月23日にシュトゥットガルト大学教会で行われたシュトゥットガルト音楽祭で演奏

カンタータ《全地よ、神に捧げる》BWV 51.
ヨーロッパ連合バロック管弦楽団、ラース・ウルリク・モーテンセン(指揮兼チェンバロ)、マリア・ケオヘイン(ソプラノ)
セバスティアン・フィルポット(トランペット)、ヒュー・ダニエル(コンサートマスター)
ライブレコーディング:2011年11月、ルクセンブルク

カンタータ第4番. 「キリスト 死に繋がれしが」. BWV 4.

カンタータ「神よ、あなたに感謝を捧げます」. BWV 29
ソプラノ:ルーシー・ド・バッツ、テノール:バレリオ・コンタルド、バス:リサンドロ・アバディ
Laurent Gendre, conductor/アンサンブル・オルランド・フリブール
スイス、フライブルク、聖ミシェル教会でのコンサート、2016年7月3日

カンタータ《甘き慰め、我がイエスは来ませり》BWV 151 
マリア・ケオヘイン(ソプラノ)
ラース・ウルリク・モーテンセン/オルガン兼指揮
コペンハーゲンコンサート

《フランス組曲》 BWV 812-817 シフ,アンドラーシュ(ピアノ)
The French Suites, BWV 812 813 814 815 816 817
Andras Schiff – Piano

《 Piano Partita No. 2 In C Minor》 BWV 826
Martha Argerich
VERBIER FESTIVAL 2008

《ゴルトベルク変奏曲》BWV988
グレン・グールド Glenn Gould 1955

チェンバロ協奏曲第1番 ニ短調 BWV.1052
オルガン:イヴェタ・アプカルナ
指揮:リッカルド・ミナーシ / フランクフルト・ラジオ交響楽団
Konzert d-Moll BWV 1052 für Orgel ∙ hr-Sinfonieorchester ∙ Iveta Apkalna ∙ Riccardo Minasi

協奏曲第3番 ニ短調
Johann Sebastian BACH: Adagio, BWV 974

《オーボエ協奏曲》ニ短調
Oboenkonzert d-Moll BWV 1059R
ソロ・オーボエ:フランソワ・ルルー
指揮:アンドレス・オロスコ=エストラーダ / フランクフルト放送交響楽団
hr-Sinfonieorchester ∙ François Leleux ∙ Andrés Orozco-Estrada

マニフィカト ニ長調 BWV 243
Magnificat BWV 243 – Van Veldhoven | Netherlands Bach Society

教会カンタータ BWV.106 《神の時こそいと良き時》
Cantate BWV106 “Actus Tragicus” “Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit”

モテット《主に向かって歌え、新しい歌を》 BWV225
Singet dem Herrn BWV 225

8.バッハ家の起源について諸説


1.高祖父の父:ハンス・バッハHans Bach一族は、1520年頃にはチューリンゲン地方に住んでいたといわれている。ファイトの父親らしいといわれている。
ハンス・バッハは音楽家ではなかった。彼はヴェヒマールWechmarの役場に勤めていた役人とされ、推定する限りヴェヒマール住んでいたバッハ一族の始祖ということになる。
その息子がバッハの高祖父:ファイト・バッハ(1550~60年頃-1619年頃)で、ファイトという名はヴェヒマールの教会にSt. Vitusという聖人の名が祀られており、その名から付けられたといわれている。
ファイトには弟(J・S・バッハの曾祖父叔父)カスパール・バッハ(1570頃~1642年頃)がいた

<ヴェヒマル村 看板>

2.ヨハン・セバスチャン・バッハの手書きで残した『 Ursprung der musicalisch-Bachischen family / バッハ家の音楽家の家族の起源』によると、バッハ家の音楽家53人の家族の編集記録があり、それによると先祖は、ハンガリーで製粉所を営んでいたファイト・バッハVeit・Bachである
バッハの高祖父ファイト・バッハVeit・Bachは、1550年頃ドイツ、チューリンゲン州ランドクライス ゴータ、ヴェヒマールに生まれ、1619年3月18日(63〜64歳)ヴェヒマールで没し同地の聖ヴィート教会の墓地に埋葬された
ファイト・バッハは1578年頃に結婚したが、彼の妻の名前は不明。彼らには少なくとも2人の子供がいた。ヨハネス・ハンス一世(1580年頃~1626年頃)とリップス(1590年頃~1620年頃)である。
ファイトは、父親から製粉業とパン屋を学び、ドイツからの移住者が多かったハンガリーのプレスブルクに移住したようだ。父が亡くなった後、相続した。ファイトは製粉所で働いている間、「Cythringe」ツィトリンゲンと呼ばれる五弦のリュートに似た楽器を演奏するのが好きであった。
1590年ごろ、ファイト・バッハは、反宗教改革によるプロテスタント弾圧が起こった時、ハンガリーからの脱出を余儀なくされ、財産の中から持ち出せる物を持って、自由と安全が見出せる場所を探し求め、ルター派の牙城であり故郷であるなチューリンゲン地方に移動し、ゴータ近郊ヴェヒマール村に定住した
彼はやがてこの村で元の製粉業とパン屋を営み始めた。かたわら暇を見ては、何よりも五弦のリュートに似た楽器Cythringeツィトリンゲン(ツィターと書いてある著書もある)を弾いて楽しんだ。臼挽きの待ち時間の間中、演奏するほど音楽好きで、最大の楽しみであったようだ。この方法によってリズムを自分の体内に刻み込むことができ、これが子孫に受け継がれる音楽の始まりであったという。彼はこの音楽を2人の息子(ヨハネス・バッハJohannes Bachとフィリップス・バッハLips Bach)に教え、これを二人の子は彼らの息子に教えた
彼はまた、いくつかの製粉所を建設した。彼は自分が作ったパンを、犬が引っ張る二輪カートで工場から市場に運んで販売した。
それから200年後、ヨハン・セバスチャン・バッハは、『Ursprung der musicalisch-Bachischen Familie(音楽家バッハ一族の起源・年代記)』に、「バッハの高祖父:ファイト・バッハは、バッハ一族の創業者と見なす」と書いてある。ファイト・バッハはバッハ家の最初の音楽を演奏したメンバーとなる。彼以前に於いて一族の中に音楽活動に関わった記録は無い
そして”これは、その子孫の音楽の始まりであり” という文言があり、曾祖父ヨハネスと曾祖父の弟フィリップス・バッハ(1552年頃~1620年頃)が後にバッハ家の音楽家の子孫の始まりとなる。
現在のドイツ、チューリンゲン地方ヴェヒマールWechmar村に行くとバッハ博物館があり、ファイト・バッハがハンガリーから移住して来て、粉挽き所とパン屋を経営したとある。内部を見れるようだ。バッハの家系図やCythringeツィトリンゲらしい楽器も陳列されている。博物館前に鉄製のBACHの4文字の置物、説明文の書かれたプレートなどや、ファイト・バッハの粉挽き所やバッハの時代の学校だった建物もあり内部も見られるようだ

3.曾祖父:ヨハネス・バッハ一世Johannes・Bach(1580年頃~1626年12月26日)は、ゴータの町の音楽家が弟子として連れて行ったほどの著しい音楽的才能を持っていた。ヨハネスは弟子終了後もそこに住み続けた。
ヨハネスは父のパン屋・製粉業を引き継ぐ前は、叔父カスパル・バッハのもとで音楽の修業を積んだ。1599年頃ヴェヒマールに定住し、地元の宿屋の娘アンナ・シュミットと結婚した。1619年父ファイト・バッハが亡くなり父親の遺産を継いだ。家業のパン職人のかたわら、ゴータの管楽師長マッツ・ツイースェッキに音楽を学びながら、町楽師として一緒に近隣のゴータ、エアフルト、アルンシュタットアイゼナハ、シュマルカルデン、ズールの町などの音楽家に請われて頻繁に出演した。ヨハネスはペストの蔓延した1626年12月26日亡くなり、その妻アンナは1635年9月18日に亡くなった。音楽家として評判は、死後の記録に”ミンストレル”として残っている。
ヨハネスには音楽家になった3人の息子、ヨハネス二世(1604年11月26日~1673年)、ハンス・クリストフ(1613年4月19日~1661年)、ハインリッヒ(1615年9月16日~1692年)を生んだ。他にハンスジュニア(1600年頃生まれ)。 ハインリッヒ(1602年頃生まれ)、 ハインリッヒ(1615年9月16日生まれ)、ゲオルク(1617年生まれ)、ハンス・ セバスチャン(1622年頃~1631年)と、名前がわからない少なくとも3人の娘が生まれていたようだ。
弟のリップス・バッハは絨毯織職人だったがマイニンゲン・バッハ家系の祖となり、この家系の末裔は20世紀へ続いている

4.祖父:クリストフ・バッハChristoph Bach(1613年4月19日ヴェヒマール生まれ~1661年頃アルンシュタットで歿)の音楽的教育は、はじめ父から学び、後にスーラー市シュタットプファイフェンのホフマンHoffmannに学んだといわれている。1633年ヴェヒマール宮廷の王子の音楽家になる。1640年ザクセンのプレッテインに移りヴァイオリン奏者になる。1641年スーラー市シュタットプファイフェンの娘、アンナ・マグダレーナ・グラブラーと知り合い結婚。1641年ドロシア・マリアを出産。1642年エアフルトに移り宮廷音楽家になり、同年から1652年までの間、エアフルト楽師評議員だった。1642年9月長男ゲオルグ・クリストフ誕生(1697歿)。1645年ヨハン・セバスチャン・バッハの父となるヨハン・アンブロジウス誕生(1695歿)、そして双子の兄弟ヨハン・クリストフ誕生(1693年歿)。1654年アルンシュタットに移りアルンシュタット市と伯爵宮廷の音楽家となり生涯をその地でおくった

5.父:ヨハン・アンブロジウス・バッハJohann Ambrosius Bachは、1645年にエアフルトで生まれ~1695年2月20日アイゼナハで歿した。アンブロジウスは歌を歌い、オルガンを弾き、ヴァイオリンやトランペットを演奏したといわれている。1667年からエアフルトでヴァイオリン奏者兼市参事会付楽師を務め、1668年4月8日子供の頃からの友達で、市参事会員、毛皮加工職人ヴァレンティン・レンマーヒルトの娘マリア・エリーザペト・レンマーヒルト(1644~1694)と結婚した。夫婦にはヨハン・クリストフ三世(1671=~1721)とヨハン・ヤーコブ(1682~1722)、ヨハン・セバスチャン(1685~1750)という息子が生まれた後に音楽家になった。1671年アイゼナッハに移住してザクセン選帝侯のヴァルトブルク城(16世紀初頭、宗教改革者マルティン・ルターMartin・Lutherがフリードリヒ賢侯にかくまわれた城)のラッパ手及び宮廷楽団首席トランペット奏者を務めた。彼は「カノン」で知られる著名な作曲家ヨハン・パッヘルベルと親交があった。その縁でバッハの兄ヨハン・クリストフの音楽の師でもあった。1694年5月1日母マリア・エリザベートが亡くなり、11月7日バルバラ・マルガレッタ・ネクェルと再婚。翌年1695年3月2日父アンブロジウスが50才で亡くなると、その24日後に義母バルバラ・マーガレッタも後を追うように亡くなった

<この項、参考資料>
1. ヨハン・ニコラウス・フォルケルJohann Nikolaus Forkelの著書、1802年刊行ライプツィヒ、ホッフマイスター&キューネル社『 ヨハン・セバスチャン・バッハの生涯と芸術と作品について ŪBER JOHANN SEBASTIAN BACHS LEBEN,KUNST UND KUNSTWERKE 』原書によると次のように書かれている
Wenn es je eine Familie gegeben hat, in welcher eine ausgezeichnete Anlage zu einer und eben derselben Kunst gleichsam erblich zu seyn schien, so war es gewiß die Bachische. Durch sechs Generationen hindurch haben sich kaum zwey oder drey Glieder derselben gefunden, die nicht die Gabe eines vorzüglichen Talents zur Musik von der Natur erhalten hatten, und die Ausbildung dieser Kunst zu der Hauptbeschäftigung ihres Lebens machten.Der Stammvater dieser in musikalischer Hinsicht so merkwürdig gewordenen Familie hieß Veit Bach. Er war ein Bäcker zu Presburg in Ungarn. Beym Ausbruch der Religions-Unruhen im sechszehnten Jahrhundert wurde er aber genöthigt, sich einen andern Wohnort aufzusuchen. Er rettete von seinem Vermögen, was er konnte, und zog damit nach Thüringen, wo er Ruhe und Sicherheit zu finden hoffte. Der Ort, an welchem er sich in dieser Gegend niederließ, ist Wechmar, ein nahe bey Gotha liegendes Dorf. Er fing hier bald an, sich wieder mit seiner Bäcker-Profession zu beschäftigen, vergnügte sich aber nebenher bey müßigen Stunden sehr gerne mit der Cyther, die er sogar mit in die Mühle nahm, und während dem Mahlen unter allem Getöse und Geklapper der Mühle darauf spielte. Diese Neigung zur Musik pflanzte er auf seine beyden Söhne, diese wieder auf die ihrigen fort, bis nach und nach eine sehr ausgebreitete Familie entstand, die in allen ihren Zweigen nicht nur musikalisch war, sondern auch ihr Hauptgeschäft aus der Musik machte, und bald die meisten Cantor-, Organisten- und Stadtmusikanten-Stellen der Thüringischen Gegenden in ihrem Besitz hatte.
《訳:同じ芸術への優れた気質が遺伝的であるように思われる家族がいたとしたら、それは確かにバッハでした。 6世代の間に、音楽の優れた才能の賜物を自然から受けず、この芸術の教育を彼らの人生の主な職業にしなかった同じグループのメンバーはほとんどいませんでした》
《訳:この音楽的に注目に値する家族の祖先は、[Veit Bach]と呼ばれていました。彼はハンガリーのプレスバーグのパン屋でした。しかし、16世紀の宗教不安の勃発で、彼は別の居住地を探すことを余儀なくされました。彼は自分の財産を救い、平和と安全を見つけることを望んでいたチューリンゲン(Thüringen)に移りました。彼がこの地域に定住した場所は、ゴータの近くの村、ヴェヒマール(Wechmar)です。彼はすぐに再びパン屋の職業に就き始めましたが、待ち時間の間、彼はCythringe(中世のcitoleシトルの子孫であるといわれている)をとても楽しんでいた。Cythringeは彼と一緒に製粉工場に持っていき、工場の喧騒の中でそれを粉砕しながら遊んだ。彼はこの音楽を2人の息子に教え、これを二人の子は彼らの息子に教えた。それは、後にカントル、オルガニスト、町の音楽士としてほとんどはチューリンゲン地方を中心に活躍している。》
2. クリストフ・オルフ Christoph Wolffによって、「The New Grove Bach Family(1997)」の第3の理論が発表された。この理論によると、バッハ家はもともとテューリンゲン自由州出身。そこでは最初のバッハの名を冠した人が14世紀に早くも言及された。しかし、バッハの先祖の父ファイト・バッハはモラビアまたは、スロバキアの元移民の息子として生まれた。ヨハン・セバスチャン・バッハの家族記録の中の「ハンガリー」という場所は文字通りに解釈されるべきではなく、ハプスブルク家君主制の中央地域を指す一般的な言語使用法の中にあるべきだという。1784年のコラビンスキーの証言(上記参照)がファイト・バッハがハンガリーのブラチスラバに住んでいたことにするならば、それはおそらく彼の出身地でもあった。オルフはおおよその生年を挙げていないが、彼の理論によれば、ファイト・バッハは第一と第二の理論で想定されたよりも早い世代に生まれる必要があった(およそ1520年)。オルフはシュヴァルカルディック戦争(1545-47)の間にファイト・バッハはすでに追放されヴェヒマールに行ったと仮定しているからである。そこで彼はすでに1577年頃に亡くなった。現在、 彼の息子ヨハネス・バッハJohannes Bachとリップス・バッハLips BachがヴェヒマールWechmarの住宅所有者として言及されるようになったからである(彼らはおそらく当時彼らの父親の財産を相続していたのだろう)。 1561年に言及されたハンス・バッハはこのファイト・バッハの兄弟または従兄弟であったに違いない。1619年にヴェヒマールWechmarの教会書にその死が記録されているファイト・バッハはその家族のもう一人のメンバーであり、おそらく先祖ファイト・バッハVeit Bachの従兄弟であった 』と書かれている
3. 引用「バッハの生涯と芸術」Johann Nikolaus Forkel著 柴田治三郎 訳23P、24P
4. (https://de.wikipedia.org/wiki/Veit_Bachから引用                               
5. 「バッハの生涯と芸術」Johann Nikolaus Forkel著 柴田治三郎 訳23P、24P
(https://de.wikipedia.org/wiki/Veit_Bachから引用                               
※Christoph・Wolff クリストフ・オルフ:(1940年ドイツ生まれの音楽学者・ハーバード大学名誉教授、2001~2013年Bach Archiv Leipzig Direktorバッハ・アルヒーフ・ライプツィヒ所長、2004~2013年RISM総裁、現名誉総裁)
※J・M・Korabinskyは彼の本 ” Pressburg1784”(Pressburg都市の説明1784)で当時のハンガリーに属していたBratislavaの都市はファイト・バッハVeit・Bachのハンガリーの住居であると主張した

参考文献:「バッハの生涯と芸術」Johann Nikolaus Forkel著 柴田治三郎 訳 「 " Ursprung der musicalisch-Bachischen family " (https://archive.org/details/originoffamilyof00bach)」 「『 " Ursprung der musicalisch-Bachischen family 』、https://jsbach.de/bachs-welt/dokumente/1735-ende-des-jahres-ursprung-der-musicalisch-bachischen-familie」 「バッハ」角倉一郎著 音楽之友社発行 「クラシック作曲家辞典」中河原理監修、フェニックス企画編 東京出版堂 「音楽史(音楽講座)」堀内敬三著 音楽之友社 「偉大なる作曲家のためのカルテ」五島雄一郎著 医療ジャーナル社 「バッハ魂のエヴァンゲリスト」礒山雅著 東京書籍 「バッハへの旅」その生涯と由縁の街を巡る加藤浩子(文)若月伸一(写真)東京書籍発行 「バッハからの贈りもの」鈴木政雅明/加藤浩子(聞き手)春秋社発行 「大作曲家の生涯」ハロルド・C・ショーンバーグ著/亀井旭・玉木裕(共訳)共同通信社発行 「作曲家別/名曲解説ライブラリー⑫J・S・バッハ」音楽之友社 編者 「大作曲家たちの履歴書(上)」三枝成彰 著 中央公論新社 「https://de.wikipedia.org/wiki/Veit_Bach」 「https://en.wikipedia.org/wiki/Bach_family」 「http://www.classichistory.net/archives/bach-family-tree」 「wikipedia」 「glennmie.blog.s0-net.ne.jp」 「robortkelloyphd.com」 「dictionary/composer/alkan」 「maucamedus.net/solmization/gawut」 「www.tcat.ne.jp/eden/music」 「www.cadenza-od.com」 「http://www.bach-cantatas.com/Lib/Family-Tree.htm」 「www.coara.or.jp/-doraemon/gagaku/nenpyoz.htm」 「https://gw.geneanet.org/rivallainf?lang=en&n=bach&oc=0&p=johann+sebastian」 「www.gecities.jp/gzgaku.ryuteki」 「www.univesal-music,co.jp」 「maokato.jp/bihoro/bihoro 「homepage3.nifty.com/cio/a-alta」 「www.wagnerdailas.com」 「https://www.findagrave.com/memorial/182884355/christoph-bach」 「https://ja.wikipedia.org/wiki/」 「https://de.wikipedia.org/wiki/Christoph_Bach_(Musiker)」