J・S・バッハBach

生没年・出身地・歿地・墓地

ヨハン・セバスチャン・バッハ生誕
Johann Sebastian Bach

(1685年3月21日ドイツ アイゼナハ生)
(1750年7月28日ライプツィヒで没)

1.職業


ドイツの作曲家・オルガニスト

「音楽の父」、「大バッハ」、「ドイツ三大B」とも

2.称号


ポーランド王兼ザクセン選帝侯作曲家

3.家系



(0) 高祖父の祖父 ハンス・フレデリック・フォン・デ・バッハHans Frederick von der Bach/1500頃生-1564頃歿/
ギュンタースレーベン=ヴェヒマールGünthersleben Wechmar, TH, Germany出身
・ハンスは音楽家ではなかった。彼はヴェヒマールWechmarの役場に勤めていた役人とされ、推定する限りヴェヒマール住んでいたバッハ一族の祖先ということになる。
・ギュンタースレーベン=ヴェヒマールは、ドイツ連邦共和国テューリンゲン地方ゴータの旧自治体である。テューリンゲンは一般に宗教改革を受け入れ、ローマ・カトリックは1520年にはすでに弾圧されていた。カトリックに忠誠を誓い続けた司祭たちは追放され、教会や修道院は、特に1524年のドイツ農民戦争中に大々的に破壊された。    
   高祖父の祖父の妻アンナ・フォン・デ・バッハAnna von der Bach (急性メッセラーMesserer)/1503頃生/ラインラント=プファルツ州ツヴァイブリュッケンZweibrücken, RP, Germany出身
参考:https://www.geni.com/people/Hans-Frederick-von-der-Bach/6000000200776843834
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(バッハ一族の始祖)
(1) 高祖父の父ハンス・バッハHans Bach/1520頃生-1580頃歿/テューリンゲンのゴータGotha, Thuringia, Germany出身。
・1520年頃、ハンス・バッハはチューリンゲン地方に生まれた。
・ヨハン・セバスチャン・バッハの高祖父ファイト・バッハの父親であると考えられる。
・ハンス・バッハには長男ハンス・バッハ(関係性は証明されていない)と二男ファイト・バッハ、長女バルバラ・バッハBarbaraBarbara Bach(1560年頃生)が生まれた。
・ゴータは、肥沃なテューリンゲン盆地内の平坦な地形で、北西から南東にかけて地殻変動が街を横切っている。エアフルトの西20キロメートル、アイゼナハの東25キロメートルに位置する。1524年のドイツ農民戦争でゴータで宗教改革が行われ、城は1530年から1541年にかけてより大きな要塞として再建された。1485年のライプツィヒ条約後、ゴータはすでにエルネスティーネ・ヴェッティンス家の領土となっていた。
しかし、1547年のシュマルカルデン戦争、 1572年のエアフルト条約でゴータがザクセン=コーブルク家の一部となり、三十年戦争を経てエルネスティーネ家が勢力を失ってゴータは衰退した。地元の城、グリムメンシュタインは1572年に帝国軍によって破壊された。 
1640年の領土分割でゴータが公爵の居城として選ばれ、エルンスト一世ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公(敬虔王という異名がある)がザクセン=ゴータ公国を建国したことで、この転機が訪れた。
プロテスタントで絶対主義的なこの君主は、戦争が終わる前からすぐに小さな国家の再編に着手し、特に学校制度を奨励し、例えば1642年には12歳までの義務教育を導入した。
   高祖父の父の妻 ブリギッテ・バッハ Brigitta Bach (ミュラーMüllers)/1521頃生
参考:https://www.geni.com/people/Hans-Bach/6000000033611405411
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(バッハ家の音楽家の子孫の始まり)
(2) 高祖父 ファイト・バッハ Veit/Vitus Bach/1550-55頃生-1619年3月8日歿/ドイツ、チューリンゲン ゴータ、ヴェヒマール出身
・Veit/Vitus Bachのファイトという名はヴェヒマールの教会にSt. Vitusという聖人の名が祀られており、おそらくその名から付けられたといわれている。
・父親から製粉業と白パン専門職人としての技能を教えられた。ドイツからの移住者が多かったスロバキア(ハンガリー)のプレスブルク(ブラチスラヴァ)Bratislava, Bratislava, Bratislava Region, Slovakiaに移住した。
・1590年ごろ、ハンガリーンの白パン専門職人のファイトは、反宗教改革によるプロテスタント弾圧が起こった時、スロバキアのブラチスラヴァ(ハンガリー)からの脱出を余儀なくされ、財産の中から持ち出せる物を持って、自由と安全が見出せる場所を探し求め、ルター派の牙城であり故郷であるなチューリンゲン地方に移動し、ゴータ近郊ヴェヒマール村に定住しパン職人の仕事を続けた。
・16世紀、宗教改革においてテューリンゲンは重要な役割を演じた。マルティン・ルターはヴァルトブルク城で聖書のドイツ語訳を行い、1524年のドイツ農民戦争では最後の戦闘となるフランケンハウゼンの戦いの舞台となった。またシュマルカルデン同盟(プロテスタントの7諸侯と、11都市が同盟したもの)の主導者の一人ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒはテューリンゲンを領有しており、この地は反神聖ローマ皇帝カールⅤ世・親プロテスタントの牙城であった
・父が亡くなった後、相続したファイトは製粉所で働いている間、ツィトリンゲンCythringeと呼ばれる五弦のリュートに似た楽器を演奏するのが好きであった。彼はやがてこの村で元の製粉業とパン屋を営み始めた。かたわら暇を見ては、何よりも五弦のリュートに似た楽器Cythringeツィトリンゲン(ツィターと書いてある著書もある)を弾いて楽しんだ。
・臼挽きの待ち時間の間中、演奏するほど音楽好きで、最大の楽しみであった。この方法によってリズムを自分の体内に刻み込むことができ、これが子孫に受け継がれる音楽の始まりであった。彼はこの音楽を二人の息子(ヨハネス・バッハJohannes Bachとフィリップス・バッハLips Bach)に教え、これを二人の子は彼らの息子に教えた。
JSバッハの残した『Ursprung der musicalisch-Bachischen Familie』には、高祖父ファイト・バッハは、バッハ一族の創業者と見なすと書いてある。ファイト・バッハはバッハ家の最初の音楽を演奏したメンバーとなる。彼以前に於いて一族の中に音楽活動に関わった記録は無い。そしてそこに”これは、その子孫の音楽の始まりであり” という文言があり、曾祖父ヨハネスと曾祖父の弟フィリップス・バッハ(1552年頃~1620年頃)が後にバッハ家の音楽家の子孫の始まりとなったと言われる由縁である。
・現在のドイツ、チューリンゲン地方ヴェヒマールWechmar村に行くとバッハ博物館があり、ファイト・バッハがブラチスラヴァ(ハンガリーUngern)から移住して来て、粉挽き所とパン屋を経営したとある。内部も見られるようだ。バッハの家系図やCythringeツィトリンゲらしい楽器も陳列されている。博物館前に鉄製のBACHの四文字の置物、説明文の書かれたプレートなどや、ファイト・バッハの粉挽き所やバッハの時代の学校だった建物もあり内部も見学できるという。
   高祖父の妻 グレタ・バッハGreta Bach/推定1518年〜1578年生まれ。ハンガリーUngarn, Hungary出身
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(3) 曾祖父 ヨハネス・バッハ一世またはハンス・バッハ Johannes “Hans” Bach I/1580頃生-1626頃歿/Wechmar, Günthersleben-Wechmar, Thüringen, Germany出身
・ヨハネスはゴータで町の笛吹き職人として見習いをし、ウェチマーに戻るまでしばらく町の笛吹き男としてここに滞在した。彼は三十年戦争中にペストで亡くなった。ヨハン・バッハとクリストフ・バッハ(ヨハン・セバスティアン・バッハの祖父)、ハインリヒ・バッハの三人の息子がいた。
・ヨハン・セバスチャン・バッハは、1735年に書かれた家族の年代記の中で曽祖父について次のように書いた。
『先代の息子であるヨハネス・バッハは、最初はBeckerパン専門職人という職業に就いた。しかし、音楽に特別な愛着を持っていたため、ゴータのシュタットペーファーStadtPfeifferが彼を弟子として採用した。当時、古いグリメンシュタイン城Schloß | Grimmensteinはまだ残っており、当時の慣習に従って、彼の師匠はトゥルメ城Schloß Thurmeに住んでいました。彼は、弟子としての年月を終えた後も、しばらくの間、トゥルメ城で健康に過ごしていました。しかし、城が破壊された後、そしてその間に父ファイトが亡くなったため、彼はヴェヒマーに行き、そこでヴェヒマーの宿屋の娘であるアンナ・シュミーディンと結婚し、彼女の父の土地を所有しました。彼はここに来てから、ゴータ、アルンシュタット、エアフュルト、アイゼナハ、シュマルカルデン、ズールに頻繁に出向き、そこで定められたシュタット音楽の手伝いをしました。 1626年、当時流行していた伝染病[5]の流行中に亡くなった。しかし、彼の妻は彼の死後九年間未亡人として生き、1635年に亡くなった。』
   曾祖父の妻 アンナ・バッハ Anna Bach (シュミートSchmied)/1582頃生-1635頃歿
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(4) 祖父 クリストフ・バッハ Christoph Bach(1613年4月19日-1661年9月12日)ギュンタースレーベン=ヴェヒマールWechmar, Deutschland, Günthersleben-Wechmar, Thüringen, Germany出身/祖父クリストフ・バッハは、エアフルトの市音楽家としての地位に就く前にヴェヒマールで育ち宮廷音楽家となった。
・バロック時代のドイツの音楽家である。ヨハネス・バッハ1世の次男、ヨハン・セバスチャン・バッハの祖父である。
・エアフルトとアルンシュタットの町の音楽家も務めた。クリストフ・バッハはマリア・マグダレーナ・グラブラーと結婚した。二人の間には三人の息子がおり、全員音楽家であった。ゲオルク・クリストフ・バッハ(1642-1697年)と双子のヨハン・アンブロジウス・バッハ(1645-1695年)(ヨハン・セバスチャン・バッハ)の父)とヨハン・クリストフ・バッハ(1645-1693年)である。クリストフ・バッハはアルンシュタットで死去した。
   祖父の妻 マリア・マグダレーナ・バッハ Maria Magdalena Bach (クラブラーKrabler)1614年10月26日ザクセン州トルガウ郡プレッティンで生-1661年10月6日テューリンゲン州イルム郡アルンシュタット47歳歿
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(5) 父 ヨハン・アンブロジウス・バッハ Johann Ambrosius Bach(1645年2月22日-1694年5月1日)
・ヨハン・アンブロジウス当初エアフルトでバイオリニストとして働いた。
・1667年からエアフルトの町楽団でヴァイオリン奏者を務めた。
・1668年4月1日、最初の妻マリア・エリザベート・レマーヒルトと結婚し、8人の子供をもうけた。そのうち4人は音楽家となり、その中には有名なドイツ・バロック音楽の作曲家で音楽家のヨハン・セバスチャン・バッハである
・1671年、彼は家族とともに現在のテューリンゲン州アイゼナハに移り、そこで宮廷トランペット奏者および町の音楽隊の指揮者として雇われ、1671年10月から1695年に亡くなるまで、町の音楽監督として働いていた。
・1672年にザクセン=ワイマール公ヨハン・ゲオルク一世が自身のザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ公国を設立すると、ヨハン・アンブロジウスを宮廷音楽家に任命した。アンブロジウスはアルンシュタットの市議会議員を務め、宮廷トランペット奏者であった。
・町の音楽監督としての職務には、市庁舎の塔から一日二回コラールを演奏し、祝祭日には教会の音楽家を補佐し、市民や自治体の行事に音楽を提供することが求められた。彼は傑出した多才な音楽家であったに違いない。
・アイゼナハの町の年代記作者は『1672年、新しい町の音楽監督はイースターにオルガン、ヴァイオリン、声楽、トランペット、ケトルドラムで音楽を演奏したが、これはアイゼナハの歴史上それまでに知られていなかったことである』と記されている。
アンブロジウスはクリストフ・バッハ(1613-1661)宮廷兼町の音楽家の息子で、ヨハン・クリストフ・バッハ二世と双子の兄弟であった。カール・フィリップ・エマヌエル・バッハが1774年に家系図を更新したとき、双子は容姿も癖もそっくりで、妻たちですら見分けがつかないほどだったと記している。
・マリア・エリザベートは1644年2月24日エアフルトで生まれ、1694年5月バッハが旅行中にアイゼナハで病死し、3日に埋葬された。
・1694年11月27日、彼は36歳のバーバラ・マルガレータ・ケウルと再婚した。バーバラ・マルガレータは一度結婚し未亡人になっていた。アルンシュタットのいとこであるヨハン・ギュンター・バッハと再婚し最近未亡人になったばかりでもあった。彼女は二人の小さな娘の母親であった。しかし、ヨハン・アンブロジウスは50歳の誕生日の二日前である2月20日、結婚後わずか三か月で亡くなった。未亡人は、アイゼナハ市議会に六か月の猶予期間を申請したが、この猶予期間はアイゼナハ市のカントルであるアンドレアス・クリスティアン・デデキントが定めたもので、当時女性として自分の意見を代弁することができなかったためである。しかし、彼女の猶予要求は半分しか承認されなかった。彼女はアンブロジウス・バッハの今四半期の残りと次の四半期の給与、合計11ターラー強を受け取っただけだった。バルバラ・マルガレータは二回の結婚で生まれた娘たちとともにアルンシュタットに戻ったと言われているが、その後彼女の痕跡は失われた。
    先妻 マリア・エリザベート・レンマーヒルト Maria Elisabetha Bach(Lämmerhirt)1644年2月24日エアフルト生-1694年5月1日アイゼナハ歿
  後妻 バルバラ・マルガレータBarbara Margaretha(旧姓ケウル)
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(6) ヨハン・セバスチャン・バッハ Johann Sebastian Bach(1685年3月21日アイゼナハ生-1750年7月28日ライプツィヒ没)
   先妻:マリア・バルバラ・バッハ(Maria Barbara Bach(1684年10月20日ゲーレン、チューリンゲン生-1720年7月5日-ケーテン(アンハルト歿)
   後妻:アンナ・マグダレーナ・バッハ(Anna Magdalena Bach(1701年9月22日-1760年2月22日)ライプツィヒ出身/旧姓ヴィルケ

<バッハ音楽家一家の系列>

4.バッハの父アンブロジウスとj・s・バッハの家族


バッハの父と子j-sバッハの家族

<ヨハン・セバスチャン・バッハ プロフィール>
1685年3月21日ヨハン・セバスティアン・バッハ(以降バッハという)は、ヨハン・アンブロジウス・バッハとエリザベート(旧姓レンマーヒルト)の第六男としてアイゼナハで生まれた。
バッハは、人生のほぼ半分に当たる32年間をチューリンゲンで過ごした。チューリンゲンには彼の親戚のほぼ全員が住んでいた。
バッハはアイゼナハで生まれ、オルドルフの学校に通い、アルンシュタットで恋に落ち、最初に録音されたカンタータはミュールハウゼンで書かれ、七人の子供はワイマールで生まれた。バッハ家の大部分はエアフルトに住んでいたが、バッハ家の起源はヴェヒマールにある。父親のアンブロジウスはヨハン・セバスティアンにヴァイオリン演奏の基礎を教え、二兄のヨハン・クリストフ・バッハはアイゼナハのゲオルゲン教会のオルガニストとして、バッハと教会音楽およびオルガン音楽との最初の出会いにおいて重要な役割を果たした。バッハは、八歳のときに旧ドミニコ会修道院のラテン語学校に通ったが、以前はおそらく「ドイツ語学校」にいた。この間、バッハは学校で週に四回音楽の授業を受け、それが彼の音楽的能力に恩恵をもたらした。バッハは聡明な子供とみなされ、学校の一年生から最も優秀な生徒の一人であった。しかし、1693年から1695 年にかけて、(96件、59件、103件)という驚くほど多くの欠席の届けを出した、これはおそらく父親の音楽事業を手伝ったことが原因と考えられている。1694年に母親が亡くなり、1695年に父親が亡くなった後、バッハは兄と一緒に暮らすためにオルドルフに引っ越した。
バッハは、少年期に故郷を去ったにもかかわらず、生涯を通してアイゼナハとのつながりを保ち、常に自分自身を「イセナクス」(アイゼナハ)と呼んでいた。
1685年 アイゼナハ生まれ、聖ゲオルゲン教会で洗礼を受ける
1693-95年 アイゼナハのドミニコ会修道院のラテン語学校
1695-1700年 オルドルフのリツェウ ラテン語学校
1703年 ワイマール宮廷楽師兼従者
1703年 アルンシュタットで最初のオルガニストの職に就く
1707年 ミュールハウゼンのオルガン奏者
1707年 ドルンハイムでの結婚
1708年 ワイマール宮廷オルガン奏者
1717年 ケーテンへ移住
1723年 ライプツィヒのトーマスカントール
1750年 ライプツィヒで死去
↓<アイゼナハの町>

↓J. S. バッハ – アイゼナハ、ケーテン、ライプツィヒ/J. S. Bach – in Eisenach, Köthen & Leipzig | Hin & weg

5.ヨハン・セバスチャン・バッハ年譜


1685年出生
3月21日バッハは、チューリンゲン地方アイゼナハ市で、アイゼナハ市および宮廷楽師である父:ヨハン・アンブロジウス・バッハと、チューリンゲン地方出身でエルフルトの皮革製造人兼市参事会員の娘で母:エリーザベト(旧姓レンマーヒルト)の間に第六男として生まれた。
3月23日バッハはアイゼナハの聖ゲオルゲン教会で洗礼を受けた。
バッハは、父の徒弟や職人の住む音楽的環境のなかで育った。
バッハの家族は音楽的才能で知られ、特に父親のヨハン・アンブロジウスはヴァイオリニストであり、アイゼナハの町の音楽家のリーダーであった。父親は息子に幼い頃からヴァイオリンを教えた。彼の兄ヨハン・クリストフは彼にオルガンとピアノの演奏の魅力を教えた。しかし、彼は独立して作曲を始めた。バッハの音楽的才能は早い段階から明らかになった。バッハは子供の頃、兄の音楽を研究したようであようであった。この音楽の伝統は、バッハ自身が約20人の子供をもうけ、そのうち4人が有名な音楽家になった後も続いた。
ヨハン・セバスティアンの実家では、特に父親のアンブロジウス・バッハがオルガン、ヴァイオリン、トランペットを演奏していたため、たくさんの音楽が流れていた。
↓<アイゼナハの町>

1692年7歳

1693年8歳
バッハはアイゼナハのラテン語学校に入学。
合唱団に入りボーイソプラノを歌いながら音楽の基礎を身につけていった。
その後コルス・シンフォニア-クス合唱団に入りゲオルク教会で多声の教会音楽を歌う。
↓<聖ゲオルグ教会附属ラテン語学校>

1694年9歳
バッハはこの年、59件の欠席届を出した。これはおそらく父親の音楽の務めを手伝ったことが原因と考えられる。
5月1日バッハの母エリザベート・バッハが死去。
11月7日父はバルバラ・マルガレータと再婚。

1695年10歳
彼はこの年、103件の欠席届を出した。これはおそらく父親の音楽事業を手伝ったことが原因と考えられる。
2月20日バッハの父ヨハン・アンブロジウス・バッハがアイゼナハで死去。
3月義母バルバラ・マルガレータが死去。
4月10歳のバッハは、兄ヨハン・ヤーコブと一緒にアイゼナハを離れ、近くの町オルドルフOrdorfに住む教会オルガニストの長兄ヨハン・クリストフ三世に引き取られる。
長兄は、エアフルトでヨハン・パッヘルベルJohann・Pachelbel(1653~1706)の弟子で優秀な音楽家であった。
兄の家に身を寄せ、町のリツェウムLyceum(ラテン語学校)に通い、ルター派の厳格な教育を受けた。宗教教育、数学、論理学、歴史、修辞学、音楽を学び上級クラスでは1~2番の席次を占めていた。
学校の合唱団に入る。ここで兄クリストフの指導でクラヴィーア演奏の基礎を学び、学校カントールのアルノルトと音楽教師エリアス ヘルダElias Herdaにクラヴィーア、オルガン、ヴァイオリン、ヴィオラ及び音楽理論を学んだ。
14歳のとき、彼は2番目に成績の良い生徒として学校を卒業した。

1700年15歳 
3月15日バッハはラテン語学校を卒業し、兄のもとオールドルフを離れリューネブルクへ向かう。
4月バッハは北ドイツのハンザ都市リューネブルクの聖ミヒャエリス教会(サンミッシェル学校)に入学した。
バッハのは奨学金給費生となった。そこでバッハは、少年合唱団員として、そして声が出なくなった後は弦楽奏者としての最初の仕事を得た。修道院の音楽図書館では、バッハは約175人の作曲家による多数の原稿にもアクセスでき、そのさまざまなスタイルを熱心に研究した。しかし、リューネブルクでの学習は音楽教育だけではなく、古代言語、論理学、数学、修辞学、神学、音楽、文化や宮廷習慣の分野までしっかりとした教育を受け知識を習得した。彼はイタリア語とフランス語だけでなく、衣服の正しい使い方など、宮廷での地位に役立つものを学んだ。
ミヒャエリス修道院教会の聖歌隊の歌手になる。
聖ミヒャエリス教会の音楽生活にオルガン奏者として貢献したと思われる。
バッハもリューネブルクのオルガン製作者と友人になり、オルガンを学びこの分野での知識を広げ、後にオルガン製作の最高の専門家の一人となった。
やがて有給のボーイソプラノ歌手となり寄宿を許され生計費を支給される。変声後は礼拝や学校祭にヴァイオリン、オルガン、チェンバロを担当しオルガン演奏技能の研鑽に努めた。またハンブルク、ツェレ等に遠出して多くの音楽家に接した。
7月バッハはザンガーハウゼンの聖ヤコビ教会のオルガニストの候補者になった。
<バッハはこの教会の附属学校に二年間通った>

1702年17歳
リューネブルク聖ミヒャエリスシューレ修道院教会附属学校のオルガン奏者として卒業。
春頃テューリンゲンに戻り職探しを始めた。
12月19日バッハはヴァイオリニストとなり、ワイマール宮廷の従者となった。

1703年18歳
3-9月リューネブルクから戻ったばかりのバッハは、ザクセン=ワイマール公ヨハン・エルンストHerzogs Johann Ernst von Sachsen-Weimarの音楽の召使いとして、小さな公爵室内楽団に入りヴァイオリンとヴィオラを受け持ち、宮廷オルガン奏者ヨハン・エフラーJohann Efflerの代理を務めることも許可されたバッハは、オルガン演奏の訓練を続ける機会を得た。彼の給与明細には年間27ギルダーと9グロッシェンが記載されており、この役職の平均給与であり、高貴な使用人の収入に匹敵した。独身のバッハ生活は確保された。住宅都市で六か月間過ごした。
ワイマール市は二重指導者によって統治されていた。ヴィルヘルム・エルンストWilhelm Ernst公爵と弟のヨハン・エルンストJohann Ernstは正式に対等であり、二人で統治をしていた。しかし、兄弟はそれぞれ自分の宮廷、自分の使用人、自分のオーケストラを持っていた。ヨハン・エルンスト公爵は音楽愛好家であり、公爵の二人の息子エルンスト・アウグストErnst Augus、特にヨハン・エルンストJohann Ernstも音楽の才能に恵まれていた。リューネブルクとハンブルクではフランス風の音楽が人気であり、ワイマールの宮廷ではイタリアのアーティストに焦点を当てていた。バッハは、コレッリ、タルティーニ、 アントニオ・ヴィヴァルディの作品を演奏していた。
7月アルンシュタットの新教会(現バッハ協会)ミュールハウゼンの製作家ヴェンダーの新しいオルガンの試験演奏で彼の卓越した能力を示し、8月9日18歳の若さでアルンシュタットの教会オルガニスト兼学校及び合唱指導者に任命された。(1707年までアルンシュタット教会に仕えた)。。評議会の議事録では、バッハがザクセンの宮廷オルガン奏者であることが特定されており、その給料は4ターラーであったと記されている。
多くの同時代人によると、バッハはまだ非常に若い(オルガンの専門家としては異例の若さ)が、18歳の時点ですでにこの楽器の最も偉大な専門家の一人だという。バッハは、完璧主義的な熱意を持って試奏をした後、彼のレポートが非の打ち所がないだけでなく、彼のオルガン演奏もアルンシュタットの人々を喜ばせてた。市議会議員らは非常に熱心で、そのポジションを宣伝したり、他の音楽家にオーディションをさせたりすることなく、バッハにオルガニストとして推薦した。
バッハは教会のオルガン奏者に任命された後、アルンシュタットでマリア・バルバラと出会い、しばらく同じ家に住んでいた。歴史家たちは、アルンシュタット当局が1706 年にJ.S.バッハが「見知らぬ乙女」を教会のオルガン室に招き入れて「音楽を奏でた」として叱責したとき、その女性がマリアであったと考えている。
アルンシュタットからリューベックへ行き、年上の有名なオルガニストであるディートリッヒ・ブクステフーデから話を聞き、学んだ。また、バッハはディートリッヒ・ブクステフーデから大きな影響を受けた。リューベックで彼の話を聞いた後、バッハは彼からレッスンを受けた。

1704年19歳
↓カプリッチョ第一作/第十五番《最愛の兄の旅立ちによせて」》BWV992作曲

作品、《トッカータとフーガニ短調》BWV565、《幻想曲ハ長調》BWV570、《前奏曲とフーガホ短調》BWV533、カプリッチョ《最愛の兄の旅立ちによせて」》BWV992ほか。

1705年20歳 
聖歌隊員と暴力事件を起こす。 
10月バッハは聖マリエンヌ教会オルガニストのディーテリッヒ・ブクステフーデDieterich Buxtehude(1637年頃-1707年5月9日)に会い、オルガン演奏を聴くため、アルンシュタットからリューベックまで徒歩の旅を始めまた。旅は翌年1月まで続いた。
翌年1月まで四ヶ月無断で休暇を延長したバッハはアルンシュタットに帰ると、二月に聖職会議で喚問された。
註:ディーテリッヒ・ブクステフーデは、1705年当時約400キロ離れたアルンシュタットに住んでいた若きバッハの訪問を受けた。
バッハは優れたオルガニストについてできる限り多くのことを聞きたいという強い衝動にかられ、徒歩で約400キロ離れたリューベックまで旅し、マリエン教会の有名なオルガニストに会い、話を聞いたのだった。バッハは自らの判断で滞在を四週間から四か月に延長した。
ディーテリッヒ・ブクステフーデ協会というのがありディーテリッヒ・ブクステフーデ作品の研究活動をしている。それによると、協会は1932年に最初の協会 (ディートリッヒ・ブクステフーデ協会) がリューベックに設立された。会員の中には、当時の代表的なブクステフーデ研究家 (ブルーノ・グルスニック、ウォルター・クラフトなど) がいた。この協会は長く存続しなかった。2007年のブクステフーデ記念年に備えて、2004年5月8日「国際ディーテリッヒ・ブクステフーデ協会」は設立された。協会の使命は、定款 (ドイツ語) で読むことができるようだ。
国際ディーテリッヒ・ブクステフーデ協会
Internationale Dieterich-Buxtehude-Gesellschaft (IDBG)
c/o Ev.-Luth. Kirchengemeinde St. Marien
Marienkirchhof 2-3
D-23552 Lübeck
c/o Ev.-Luth. 聖マリエン教区 マリエンキルヒホーフ 2-3 D-23552 リューベック
電子メール: webmaster@dieterich-buxtehude.org

1706年21歳
2月5日リューベックから戻った。
2月と11月アルンシュタットの聖職会議の審問を受ける。
11月末ランゲヴィーゼンのオルガン試奏。
12月聖ブラージウス教会のオルガニストを長年務めてきたヨハン・ゲオルク・アーレが亡くなり、後継者探しが始まっていた。それは、ちょうどその年の二月にリューベック旅行からアルンシュタットに帰ってきていろいろともめ事を起こし、面白くない生活を送っていたバッハにとって願ってもないチャンスであった。
作品:幾つかのコラール前奏曲 1707年に彼はアルンシュタットを離れる機会を捉え、ミュールハウゼンの聖ブレイズ教会のオルガニストになりました。同年、いとこのマリア・バーバラと結婚した。

1707年22歳
4月バッハはミュールハウゼンの聖ブラージウスSt.-Blasius-Kirche教会のオルガン試奏。六月には就任を決めた。アルンシュタットに辞表を出したのは、次の職場が決まった後の六月の終わり頃で、最後の給料の翌日であった。
6月15日バッハはミュールハウゼンの聖ブラージウス教会のオルガニストに任命された。
10月17日ミュールハウゼンでバッハは、またいとこマリア・バルバラ(1684-1720)とアルンシュタット近郊ドルンハイムの聖バルトロメオ教会で結婚した。夫婦は満足した関係を築き、1708-1718年までに五人の男児と二人の女児が生まれ、内男女の双生児と五男は早世した。
妻マリア・バルバラの祖父は作曲家ヨハン・クリストフ・バッハ(1642~1703年)でアイゼナハ宮廷オーケストラのチェンバロ奏者を務めた。バッハの曾祖父クリストフ・バッハの弟ハインリッヒ・バッハの長男にあたる。
当時、ルター派には敬虔派と正統派といわれる二つの派の対立があり、バッハは音楽を重んじる正統派を支持していた。だが、彼の務める聖ブラジウス教会の牧師は敬虔派で、音楽の役割を軽視していた。バッハは自身のルター正統派の考え方と教区民の敬虔主義の相違から、教区民との間にいろいろと緊張関係が生じていた。
作品:《カンタータ第131番》「深き淵よりわれ汝に呼ばわる、主よ」、《カンタータ第71番》「神はいにしえよりわが王なり」。
<ミュールハウゼンの聖ブラージウス教会>

1708年23歳  
宗教の違いと将来性の欠如のため、ミュールハウゼンの聖ブラージウス教会のオルガニストの職を辞す。
7月ミュールハウゼンを去ったバッハは、ワイマールに引っ越した。
7月14日、彼は妊娠中の妻バルバラ、介護が必要な義理の妹、そして学生のヨハンマルティン シューバルト(27歳)とともにワイマールに到着した。
バッハの最初のアパートはアム マルクト16にあり、赤い城、エルンスト アウグスト公爵の邸宅の真向かいにあった。バッハは1713年まで年下の王子の近くに住んで教えた。バッハの弟子であるフィリップ・デイヴィッド・クロイターは、彼の教師について次のように絶賛している。
『彼は作曲とピアノ、そして他の楽器の両方において、優秀であり、また非常に忠実な人です。確かに彼は情報のために 一日六時間を費やしており、私はその時間を作曲やピアノにも時々使います。私は他の楽器で練習する必要が非常にあり、残りの時間を一人で練習したり装飾したりするのに費やします。その後、彼は私が求めるすべての音楽を私に伝えてくれます。また、私は彼のすべての曲に目を通す自由もあります。』
バッハはワイマール公ヴィルヘルム・エルンストのオルガニスト兼室内楽奏者となった。
バッハは当初、ザクセン=ワイマールのヴィルヘルム・エルンストHerzog Wilhelm Ernst公爵の宮廷で教会の礼拝でオルガンを演奏し、宮廷で室内楽やオーケストラの音楽を作曲するという両方を行うことができた。自由市民バッハは再び王子の従者(宮廷オルガン奏者および室内楽奏者)となり、主人に厳しく従う義務を負った。加えてバッハには作曲する時間が得られた。バッハは教会音楽家から室内楽奏者および宮廷オルガニストに転身した。
ワイマールでは、ヴィルヘルム・エルンストとヨハン・エルンストの二人の兄弟が宮廷を統治していた。
バッハは音楽の好みが異なる二人の王子の下で働いた。ひとりは教会のコラールを高く評価し、もう一人は世俗的な音楽を好んだ。彼は厳格なヴィルヘルム・エルンスト・フォン・ワイマール公爵(1662年-1728年の宮廷で「室内楽奏者兼コンサートマスター」となった。
宮廷のオルガニストとして、宮廷室内楽でもチェンバロとヴィオラを演奏した。宮廷オルガニストとして、またエルンスト・アウグストの室内楽奏者として彼のキャリアは成功した。
1708年から1717年までは宮廷オルガニスト、ヴァイオリニストとして、1714年以降はコンサートマスターとして、九年間ワイマールに住み、活動した。滞在の最後の四年間、彼は実質的に宮廷音楽監督の職を務めた。この時期にバッハは多くの有名なカンタータを作曲した。
バッハの息子であるヴィルヘルム・フリーデマン (1710-1784) とカール・フィリップ・エマヌエル(1714-1788)もワイマールで生まれた。
ルー・ホーマンとウィニフレッド・ケーニッヒ¹は、バッハがワイマールで得たものについて次のように語っている。
『人口5,000人の住宅都市ワイマールで、バッハは宮廷オルガン奏者およびザクセン・ワイマール公ヴィルヘルム・アウグストの「室内楽奏者」になった。全体として彼の給料は2倍になり、150ギルダー、穀物18ブッシェル、大麦12ブッシェル、木材4ファゾム、ビール30バケツ、つまり1日あたり5リットルで、飲料税は免除される。』
バッハがカンタータを書き始めたのはここで、有名なカンタータ「神は我が王」を創作し、その楽譜は劣悪な労働環境にもかかわらず、今でもオリジナルで保存されており、バッハはここで最も有名な作品を書いたと言われている。
12月28日長女カタリーナ・ドルテア・バッハCatharina Dorothea Bachワイマール誕生。
教会音楽の革新と向上に努めはじめたが、バッハ自身のルター正統派の考え方と教区民の敬虔主義とのギャップから、教区民との間にいろいろな緊張関係が生じ出はじめていた。
作品:カンタータ《神は我が王》

1709年24歳
ヨハン・エルンストが亡くなり、息子のエルンスト・アウグストが政府の一部を引き継いた。若いエルンスト・アウグストは自らヴァイオリンとトランペットを演奏した。彼は宮廷音楽の拡大に尽力し、個人的に楽器や音楽のコレクションの拡大に取り組み、城の教会でオルガンコンサートを企画し、新しく登場した現代的なイタリアのコンサートスタイルがワイマール宮廷で確実に確立されるように努めた。ヴィルヘルム・エルンストの大きな情熱は、何よりも教会音楽の育成にあった。このため、ワイマールには12-18人のプロの歌手が異常に多くいた。
秋、ミュールハウゼンに行き、ブラージウス教会の改造されたオルガン鑑定。

1710年25歳
10月バッハはイルム川を 5 キロ上流したタウバッハ村でオルガン試奏をした。
11月22日長男ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハトWilhelm Friedemann Bachがワイマールで誕生。後に作曲家、ドレスデン、ハレのオルガニスト。

1711年
給料が50ギルダーの増額

1713年28歳
給料が13ギルダーまたは15ギルダーの増加
2月23日二女マリア・ソフィア誕生。
12月バッハはハレの教会オルガニストの候補者となり、バッハはハレの聖マリア教会のオルガニストの職に応募し明らかに教会評議会を納得させるカンタータを作曲した。ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの教師の一人であり、彼自身も偉大な作曲家であったフリードリヒ・ヴィルヘルム・ザッハウは1713年の秋に亡くなった。バッハが宿屋「ツム・ゴールデン・リング」に滞在したことは記録に残っており、教会が部屋代と食事代を支払っている。
12月13日、バッハは新しい役職に就くことを認められた。しかし数か月間考えた後、彼は給料が低すぎるという理由でその仕事を断った
『小さなオルガンの本』と訳されるオルゲルビューラインを書き始める。バッハが1708年から1717年までワイマール宮廷のオルガン奏者として在任中に書いた46曲のコラール前奏曲からなっている。

1714年29歳
3月2日、正式な要請を受けて、ヴィルヘルム・エルンスト公爵は彼に新たに創設された「コンサートマスター」の称号を授与した。これに付随して「毎月新作を上演する」という義務も発生した。バッハは公爵から高く評価されており、これほど優秀なオルガニストはこれまでにいなかった。
給料が250ギルダーの増額
3月25日カンタータ第182番《天の王よ、あなたを歓迎します„Himmelskönig, sei willkommen” 》BWV.182初演。BWV.182は受胎告知の祝日/主日に演奏される。
伊・仏・独の作曲家フレスコバルディ、コレリ、アルビノーニ、マルチェロ、ヴィヴァルディ、フローベルガー、テーレマン等々の作品を研究し、写譜した。
10月二男カール・フィリップ・エマヌエル誕生。後に「ベルリンのバッハ」「ハンブルクのバッハ」といわれているカールフィリップ・エマヌエル誕生(1788年歿)。

1715年30歳
5月12日三男:ヨハン・ゴットフリート・ベルンハルト誕生。(1739年歿)。ゴットフリートは、後にミュールハウゼン、ザンガースハーゼンのオルガニスト。

1716年
4-5月ハレの聖母教会のオルガン試奏、鑑定書をクーナウ等と提出。エアフルトの聖アウグスト派教会のオルガン鑑定。
ヴィルヘルム・エルンスト王子との関係が冷え込む中、オルガンの名手として、彼はドイツの他の宮廷でも知られるようになった。ワイマールでの九年間に、彼は最も偉大で今日最も有名なオルガン作品を作曲した。
バッハはコンサートマスターとしてエアフルトとハレを訪れに旅行した。
12月1日、老楽団長ドレーセが亡くなった。バッハ氏は自分が後継者になると想定していた。ヴィルヘルム・エルンストは、もう一人の偉大な作曲家、バッハと同時代のゲオルク・フィリップ・テレマン(1712年以来フランクフルトの市音楽監督)を考えていた。バッハとテレマンという二人の作曲家が知り合いであるため、事態は興味深い方向に進んだ。公爵がテレマンにオファーをしたとき、彼はバッハには宮廷指揮者として想像できる最高の音楽家がいると伝えた。そこでバッハはヴィルヘルム・エルンストに指揮者の職を正式に要請した。しかし公爵は答えなかった。この時点でバッハと公爵の関係はかなり冷え込んでいたと考えられる。
バッハは、自分の技術を他の人に伝えるために、バッハは生涯を通じてさまざまな教育的作品を書いた。最初に作られたのがオルガン奏者を目指す者への指導書『オルゲルビューライン』である。
作品:狩りのカンタータ第208番 

1717年32歳
バッハはコンサートマスターとしてライプツィヒに招待され、同年にはゴータのフリードリヒ2世公爵の宮廷で宮廷音楽監督クリスティアン・フリードリヒ・ヴィットの代理を務めた。
帰国後、ワイマール宮廷では老楽長が他界した後を息子が継ぎ、バッハの楽長昇進の可能背が絶たれた。
8月5日ケーテンのレオポルト・フォン・ケーテン侯がバッハのチューリンゲンでの出来事を知ったとき、彼はバッハに宮廷音楽監督の職を喜んで招聘した。より高い賃金(400ギルダー以上)に加えて、従僕から宮廷職員への社会的昇進もあるだろうと。レオポルド侯はまた、宮廷音楽、室内楽、そして侯の音楽の伴奏と指導については彼に単独で責任を負うことを約束した。
8月5日バッハはケーテンのアンハルト=ケーテン・レオポルト侯の楽長に任命された。
9月ドレスデン宮廷に招待される。フランスのオルガニスト、ルイ・マルシャンLouis Marchand(1669~1732)と即興演奏の競演のためであったが実現されなかった。
バッハは辞職願を出すがワイマール公は解雇を認めず対立した。ワイマール州の法律によれば、公爵の明示的な許可がない限り、誰も国外に出ることは許可されないのだ。
11月6日、"前コンサートマスターで宮廷オルガン奏者のバッハが、その頑固な証言と強制解雇を理由にリヒターシュトゥーベの地で逮捕され、12月2日、裁判所書記官は不名誉を示すと同時に彼を解雇した。"と記録がある。
ヴィルヘルム・エルンスト・フォン・ワイマール公爵はバッハをほぼ1か月間投獄した。理由はバッハの解職要求をめぐる争いだった。禁錮処分に処され11月6日から拘禁され12月2日になって拘禁を解かれ解職された。
パンと水でほぼ4週間を過ごした後、バッハ氏はついに外出を許可された。彼は妻と4人の子供たちを連れてワイマールを離れ、北へ向かいはケーテンに引っ越した。
バッハの弟子であるシューバルトは、師の足跡をたどり、宮廷オルガニストになった。空席となった楽長の座はドレーゼの息子ヨハン・ヴィルヘルムに引き継がれ、コンサートマスターの座は廃止される。
12月10日バッハはレオポルド侯の誕生日を記念してカンタータBWV.66aを演奏した。
12月16日ライプツィヒ聖パウロ教会オルガン試奏。アンハルト・ケーテンに移った。
ケーテンでレオポルト・フォン・アンハルト=ケーテン侯 (1694-1728年) の宮廷音楽監督として新しい仕事をはじめた。
当時、ケーテン市自体の住民はわずか約3,000人であったが、州の領土全体には約10,000人がいた)。バッハは、就任時に15名の優秀な宮廷楽団を自由に使えるようにしていたが、その主なメンバーはベルリン宮廷楽団の音楽家たちであった。
侯は音楽に大きな興味を示しした。彼自身もヴァイオリン、ガンバ、チェンバロを演奏しました。バッハは、友好的で家族的な関係を通じて侯とのつながりを感じていった。
バッハの重要な器楽曲は、おそらくケーテン時代に作られたものと考えられる。ケーテン王家の大多数は改革派の信仰を公言しており、その信仰によれば、教会の礼拝は神の言葉の宣言を支持して簡素で飾り気のないものでなければならなかった。したがって、バッハは主に世俗的な作品に集中した。彼の主な仕事には、侯の誕生日や新年のお祝いのための祝賀カンタータの作曲が含まれていた。また、バッハにはケーテン宮殿での室内楽の夜会で侯が宮廷楽団と一緒に演奏するための新しい作品を提供する必要もあった。
バッハはレオポルド侯に従いたびたび旅行した。
バッハのピアノ作品と室内楽作品のほとんどはケーテンで作られた。最もよく知られているのは、《ヴァイオリン協奏曲》と六つの《ブランデンブルク協奏曲》である。
作品:《ブランデンブルク協奏曲》、《平均律クラヴィーア曲集》、『オイゲル・ビューヒライン』、《オルガンのためのパッサカリアとフーガ》ハ短調BWV.582

1718年33歳
カールスパートに旅行。
11月17日バッハのレオポルト・アウグストゥス誕生。

1719年34歳
音楽に精通したレオポルド侯は宮廷音楽監督バッハをベルリンに派遣し、 宮廷楽器製作者ミヒャエル・ミートケの工房から新しい二連チェンバロを引き取りに行った 。この機会にバッハはブランデンブルク辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒのために演奏し、1721年にバッハは彼のために、おそらくワイマールとケーテン時代の個々の演奏会の楽章を、異なる楽器編成による六つの音楽にまとめた。バッハが 「複数の楽器を使ってAvec plusieurs Instruments」「いくつかの楽器による六つの音楽」と題したこれらの曲は、音楽学者フィリップ・スピッタが十九世紀にバッハの伝記で語ったように、後に ブランデンブルク協奏曲 (BWV 1046 ~ 1051)として知られるようになった。音楽の歴史の世紀。当時すでにケーテンを離れるつもりだったバッハは、おそらく献身的な活動を通じて辺境伯の仕事を約束したともいわれている。

1720年35歳
春、バッハはおそらく自分の子供たちに音楽を教えるために『クラヴィーアのための曲集』を使い始めた。これには、とりわけ、今日でもすべてのピアノ学習者のレパートリーの一部である二部構成および三部構成の《インヴェンションとシンフォニア》BWV. 772 ~ 801が含まれる。
5月から7月にかけバッハは領主レオポルド侯ボヘミアの保養地カールスバートに楽師たちと旅行し滞在した。我が家に帰ってきたバッハを待っていたのはマリア・バルバラが7月5日急病で35歳の若さで亡くなり、7月7日ケーテンの旧墓地(現在はフリーデンスパークと呼ばれている)に埋葬されていた。彼女はまだ35歳だった。悲嘆に暮れた四人の子供たちの出迎えであった。
悲しみの中で、彼は独奏ヴァイオリンのためのパルティータニ短調の第5楽章で最後の楽章である記念碑的な「シャコンヌ」を作曲した。これは今でも器楽レパートリーの中で最も困難で奥深い作品の1つと考えられている。
11月ハンブルク聖ヤコブ教会のオルガニストの応募をした。聖カタリナ教会での試験演奏は大成功であったが、ハンブルク独自の採用されたものは多額の寄付を申し出なければならず、バッハには受け入れがたかったために採用にはならなかった。
作品:《ヴァイオリンのためのパルティータニ短調》、子供たちに音楽を教えるための『クラヴィーアのための曲集』
↓<マリア・バルバラの記念碑>
マリア・バルバラ・バッハの記念碑。彼女が埋葬されたケーテンの旧墓地は1800年代後半に放棄されたが、彼女の墓所は標識が立てられ、記憶に残っている。敷地は現在、公共公園になっており、マリアの墓所は人里離れた森林地帯にぽつんと立っている。資料出典:Find A Grave ウェブサイト

SLUG: ST/BACH21
INPUTDATE: 2007-03-19 13:11:47.950
CREDIT: Stan Barouh/FROM_PHOTOPOST/Rep Stage
LOCATION: x, , x
CAPTION: David Marks and Bruce Nelson in “Bach at Leipzig” at Rep Stage.
Sent by: Rachel Beckman
Photo Editor:

1721年36歳
2月22日オーアドルフで長兄ヨハン・クリストフ死去。
3月24日ベルリン在住のブランデンブルク辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒ(1677-1734年)に、《ブランデンブルク協奏曲》BWV1046~1051を献呈した。
この名前は、後にバッハの伝記作家によって付けられた。さまざまな形式、音色を使って演奏する実験的な楽しさ、妙技、ポリフォニックな作曲技法などを備え、クラシック以前のオーケストラ音楽を健全に要約したものとみなされていると言われている。
12月3日36歳のバッハは、同じ宮廷に雇われていたソプラノ歌手のアンナ・マグダレーナ・ヴィルケと結婚し、合計13人の子供をもうけたが、そのうち7人は乳児期に亡くなった。マグダレーナは、ヴァイセンフェルスの宮廷トランペット奏者のヨハン・カスポル・ヴィルケの末娘で、二十歳のヴァイセンフェルス宮廷の歌手アンナ・マグダレーナ・ヴィルケ(1710-1760)とケーテン城内の礼拝堂で結婚式を挙げ再婚し、マリアの子供たちと彼女の娘を育てた。
アンナの三人の兄もそろってトランペット奏者で姉もトランペット奏者に嫁ぐという音楽一家の出だった。結婚後の美声のソプラノ歌手:アンナはケーテンの宮廷歌手となりバッハのおよそ半分くらいの収入を得るようになった。後に十三人の子供をもうけ先妻の子供を含め二十人の子沢山となる。
同時期にレオポルド侯が華燭の宴を挙げフリーデリカ侯妃の音楽嫌いでレオポルド侯の音楽熱も冷めていった。ほぼ同時に音楽との関係も変化した。バッハによれば、彼は以前は宮廷オーケストラでヴァイオリニストとして頻繁に演奏していたものの、フリーデリケ・ヘンリエッテ王女との結婚後は宮廷オーケストラへの興味を失ったようだという。しかし、今日の評価に基づくと、バッハの労働条件の悪化につながったのは、新王女の影響や予算の逼迫ではなく、主にレオポルト侯の健康状態の悪さと侯のいくつかの重病によるものと推測できるといわれるようになった。
バッハ《ブランデンブルク協奏曲》BWV 1046-1051-六曲を初演。
作品:《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》BWV. 1001~1006、《無伴奏チェロ組曲》BWV. 1007~1012等々

1722年37歳
6月ライプツィヒの聖トーマス教会のカントルのクーナウKuhnau(1660-1722)が亡くなった。後任選びをしているのをバッハは知っていた。内定していたテレマンTelemann(1681-1767)が辞退した。
バッハはアンナ・マグダレーナに二冊のピアノ本を彼女に捧げた(1722年と1725 年)。これら二冊の小さな本は、バッハの家族や友人の中でどのような音楽が演奏されていたかを示している。
《平均律クラヴィーア曲集》第一巻は教育作品として作成された。これは、名手による演奏技術を促進するために役立つ24の前奏曲とフーガのコレクションである。彼らによって、バッハは考えられるすべての長調と短調で音楽を作ることができることを証明した。コレクション名の「平均律」は、バッハの時代には目新しいものであった鍵盤楽器の新しい調律システムに由来していると言われている。
レオポルド王子がアンハルト・ベルンブルク王女と結婚した後、音楽への関心は薄れたように見えた。この理由と、息子たちが大学で学べるようにするために、バッハはライプツィヒのトーマス教会カントールの職に応募の決意をした。
作品:《平均律クラヴィーア曲集第一巻》BWV846~869、『アンナ・マグダレーナのための楽譜帳』
↓<ライプツィヒ トーマス教会>

1723年38歳
バッハがケーテンを離れたいと考え、慎重に検討した結果、ヨハン・クーナウの死後に空席となっていたライプツィヒのトーマスカントールに応募した。当時の宮廷指揮者の地位は名誉あるものであったにもかかわらずであった。カントルと校長。 「第三の選択肢」として、ゲオルク・フィリップ・テレマンが給与の高さからハンブルクに残ることを好み、ダルムシュタット出身のクリストフ・グラウプナーが雇用主から解雇されなかったため、ヨハン・ゼバスティアン・バッハがトーマスカントールの職を受け。家族は1750年に亡くなるまでライプツィヒに住んでいたが、亡くなるまで前君主ケ-テンのレオポルド侯に忠実であった。1728年に亡くなったケ-テンのレオポルド侯の葬儀音楽を演奏するまで楽長としてさらに数回ケーテンに滞在した。
1月ライプツィヒの聖トーマス教会の音楽監督兼カントル職に立候補した。
2月7日バッハはライプツィヒの聖トーマス教会のカントル職の見習い試験に合格し、ケーテンで作曲されたカンタータBWV 22と23を演奏した。
3月26日ライプツィヒのトーマス教会でバッハの指揮で《ヨハネ受難曲》初演。
3月バッハとマグダレーナの娘、クリスティーナ・ソフィア・ヘンリエッタ誕生。
4月23日ケ-テンのレオポルド侯、バッハの宮廷楽長職辞任を承認。
5月バッハはケーテンを去った。
5月バッハはライプツィヒの聖トーマス教会の音楽監督兼カントルに任命された。
5月5日トーマスカントールの職務契約書にサインしトーマス教会カントールに就任。これがバッハにとっては最後の務め先となった。聖トーマス教会のカントルは、トーマス教会付属のトーマス学校の教師と市の全教会の音楽監督という二重の職務である。たいへんな重責であった。
5月27日バッハ一家はライプツィヒに到着、トーマス学校の一・二階の一部に住む。バッハ38才だった。音楽監督兼聖トーマス教会カントールに就任した。
5月30日バッハはライプツィヒの聖トーマス教会の音楽監督兼カントルの仕事を始めた。カンタータ《乏しき者は食らいてDie Elenden sollen essen》BWV.75を作曲
6月カントール就任式。バッハは作曲家、合唱団監督、楽長、音楽監督、教師、ヴァイオリニスト、オルガン奏者として働き、聖トーマス・カントールとして教会運営を主導し、常にオルガン製作の専門家でもあった。
11月2日バッハはシュトルムタールでカンタータ「Höchsterwünschtes Freudenfest」(BWV 194)の演奏でオルガン試奏。
大學付属教会との争いがはじまる。
ライプツィヒ、トーマス教会およびトーマス学校のカントルとなる。付帯して市の公共音楽全体の責任者を負わされた。多数の弟子を抱えるようになる。
ニコライ教会のオルガニスト:ヨハン・ゴットリープ・ゲルナーとの争い。バッハはゲルトナーを無能だとして大学音楽監督の地位から追い落とそうとしたが、結局、妥協に終わった。
トーマス教会のカントルとしての最初の数年間、バッハは毎週日曜日の日曜礼拝のために新しいカンタータを作曲し、それを研究し、トーマスの生徒たちと演奏した。バッハは合計で約300のカンタータを作曲したと言われている。
12月25日クリスマスイブにライプツィヒで演奏された重要な《マニフィカト 変ホ長調 BWV.243 “Magnificat en mi bémol” BWV.243a》を発表した。
作品:《Magnificat BWV 243》、《教会カンタータ》二十曲以上

1724年39歳
2月27日バッハとマグダレーナの息子ゴットフリート・ハインリヒ誕生。
4月7日バッハがライプツィヒの聖ニコラス教会でカンタータ《ヨハネ受難曲》BWV245初演。
6月ゲーラのヨハネ教会のオルガン鑑定。
6月11日バッハはライプツィヒでカンタータ《おお永遠、そは雷のことばO Ewigkeit, du Donnerwort》BWV.20を作曲。
ゴットフリート・ハインリヒ誕生(1763年歿)。
バッハはドレスデンの聖ソフィア教会でコンサートを開催。

1725年40歳
4月14日バッハの息子、クリスチャン・ゴットリーブ誕生。
9月ドレスデンのソフィア教会のジルバーマン・オルガンを演奏した。
9‐12月大学付属教会の問題に関してドレスデン宮廷に直訴した。
バッハはライプツィヒの聖トーマス教会でカンタータ《ヨハネ受難曲》を修正を加えて演奏した。
《復活祭オラトリオ》BWV249作曲、《アンナ・マグダレーナのための楽譜帳第二部》

1726年41歳
4月5日バッハの娘エリザベート・ユリアナ・フリーデリカ誕生。
ケーテン旅行。
ライプツィヒの新聞に《クラヴィーア練習曲集》の広告掲載。

1727年42歳
4月11日バッハはライプツィヒの聖トーマス教会でカンタータ《マタイ受難曲》BWV.244を初演。
《ヨハネ受難曲》改訂。
10月17日ライプツィヒ大学教会のザンクト・ポールで行われたザクセン選帝侯クリスティアーネ・エバーハルディーネの葬儀で、バッハは葬送の頌歌「「侯妃よ、さらに一条の光を」追悼’Lass, Furstin, lass noch einen Strahl’ (Trauenode).」BWV 198を演奏。
10月30日バッハの息子エルネストゥス・アンドレアス誕生。
↓<BWV 198>

↓<《マタイ受難曲》>カール・リヒター指揮/ミュンヘン・バッハ管弦楽団・合唱団
ミュンヘン少年合唱団、ペーター・シュライヤーほか 
1971年5月 ミュンヘン・パヴァリア・スタジオ

1728年43歳
秋、カントルの権利について宗教局と争う。
10月10日バッハの娘、レジーナ・ヨハンナ誕生。
11月19日アンハルト=ケーテン公レオポルドが天然痘によりケーテンで死去。

1729年44歳
2月ヴァイセンフェルス宮廷楽長の名義を与えられ、同地に赴いた。
3月ケーテンに赴き、前年11月に没したレオポルド侯のために《葬送カンタータ》BVW.244aを演奏した。
3月ライプツィヒ大学生を中心とする音楽団体「コレギウム・ムジクム」の主導権を引き継ぎ指導を始めた。これは、ジョージ・フィリップ・テレマン((1681–1767) によって1702年に設立された、市内に二つある市民「オーケストラ」のうちのひとつであった。ツィマーマンコーヒーハウスで毎週コンサートを開催していた。
3月バッハはライプツィヒ市のコレギウム・ムジクムの校長に任命された。
アンハルト=ケーテン公レオポルト侯の葬儀で、バッハは葬送音楽《嘆け、子らよ、全世界に向って嘆けKlagt, Kinder, klagt es aller Welt》BWV.244aを演奏。
4月15日聖金曜日に《マタイ受難曲》BWV244はライプツィヒのトーマス教会で初演された。
しかし、この作品の芸術的価値は、同時代の人々にはほとんど注目されなかった。バッハの死後、《マタイ受難曲》は忘れ去られ、フェリックス・メンデルスゾーン(1809-1847年)の指揮の下、ベルリン歌劇アカデミーによって創設されてから100年後の1829年にのみ再演されただけであった。
7月28日バッハの義妹フリーデリーナ・マルガレータ・バッハがライプツィヒで死去。
夏場はグリンマ門の前のコーヒー・ガーデンで水曜の午後に、冬場はツィンマーマンのコーヒー店で金曜の夜に定期演奏会が行われた。《コーヒー・カンタータ》BWV211などもこれらを題材にして作曲したと思われる。

1730年45歳
1月1日バッハの娘クリスティアーナ・ベネディクタ誕生。
4月7日バッハは《聖ルカ受難曲》BWV. 246は、書き始められた。曲は未完成のまま、息子のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハによって完成された楽譜として保存されている。
バッハの市議会への覚書の中で彼は都市音楽と教会音楽の現状を説明し、欠陥を解消するための方策を説明した。しかし、肯定的な反応は得られなかった。
職務権限をめぐる市議会ならびに市参事会との対立が深刻化していった。
8月バッハの職務怠慢を責めライプツィヒ市参事会は減俸処分を決定した。
8月23日バッハは市参事会に教会音楽の窮状、自分の報酬の不足を訴える上申書を提出した(それによれば、合唱団と楽師の中には音楽がまるでわからない者、訓練らしい訓練を受けたとは思えない楽師が混じっている。自分の考えている礼拝音楽を上演するには少なくとも20名の楽師が必要なのに、市が雇っているのはわずか八名しかいなく、足りない分はトーマス学校や大学生で補わなければならずなかった。このような補助要員に報酬が支払われていたが、この年からカットされてしまった等々)の具体的な内容を記して提出し窮状の打開を試みたが却下された。しかしバッハと親交のあるトマス学校長ゲスナーの仲裁で、市参事会との関係がやや緩和された。
8月23日バッハは、職務怠慢に対する批判に応えて、「非常に必要な、よく整えられた教会音楽の草案と、その衰退に関するいくつかの予期せぬ懸念を伴うKurtzer, jedoch höchstnöthiger Entwurff einer wohlbestallten Kirchen Music」という嘆願書を提出した。
10月28日バッハはリューネブルクのゲオルク・エルトマンに手紙を送り伝手で就職口を見つけられないかいう書簡を送った。
作品:《マグニフィカート》改作

1731年46歳
3月18日バッハの娘クリスティアーナ・ドロテア誕生。
3月23日トーマス教会で《マルコ受難曲》上演された。
5月トーマス学校増築工事始まる。
6月バッハ一家はライプツィヒのトーマス学校の改装工事のため、ハイン通りに引っ越した。(1732年4月完了しバッハ家の住居が広くなる)
9月14日、19日ドレスデンに赴きソフィア教会のジルバーマン・オルガンと宮廷での演奏を行なった。
《クラヴィーア練習曲第一部》出版。

1732年47歳
2月初旬シュテンチュのオルガン鑑定をした。
4月バッハ一家はライプツィヒの改装されたトーマス学校に戻った。
6月21日九男ヨハン・クリストフ・フリードリヒ(1732~1795)生まれる。後に「ビュッケブルク伯の宮廷楽師バッハ」といわれた。
9月終わりカッセルのマルティン教会のオルガン鑑定を行った。

1733年48歳 
2月アウグストゥス王の死後、国民的追悼のためバッハが教会音楽を中断。
7月2日バッハはライプツィヒの聖トーマス教会で声楽作品《マニフィカト》を初演。
長男ヴィルヘルム・フリーデマン(23歳)が、バッハの推薦によりドレスデン聖ソフィア教会オルガニストの職を得た。
度々ドレスデンに赴き世俗カンタータ等を献上して、ドレスデン宮廷との繋がりに努めた。
7月27日バッハは、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト二世(1696-1763年)が王位に就くと、バッハはこの機会にミサ曲の二楽章を王に贈り、後にミサ曲(キリエ)(グロリア)を献呈した。同封された手紙の中で、バッハはドレスデン宮廷管弦楽団の「Praedicat称号」を願い出た。後に《ロ短調ミサ曲》として完成した。
11月5日バッハの息子、ヨハン・アウグスト・アブラハム誕生。
作品:ミサ曲(キリエ、グローリ、クレード、サンクトゥース、アグヌス・ディー)後の《ロ短調ミサ曲》BWV.232作曲

1734年49歳
トーマス学校校長ゲスナー・エルネストが交代となった。
新たにトーマス学校校長となったヨハン・アウスグトエルネスティが音楽に理解を示さないことから対立が深まる。
7月バッハは、ヘンリチのテキストによるコーヒーへの賛歌である《コーヒー・カンタータ》BWV. 211をライプツィヒのカフェ ツィンマーマンで初演した。
12月暮から正月にかけ《クリスマス・オラトリオ》を上演をはじめた。
作品:《クリスマス・オラトリオ》、《クラヴィーア練習曲第二部》の「イタリア協奏曲」
別名「コーヒー・カンタータ」BW.V211は、「静かにおしゃべりしないで」とも呼ばれる。ドイツ語で《Schweigt stille, plaudert nicht》、ライプツィヒでのコーヒーの流行をユーモラスにほのめかしたバッハの世俗カンタータ、小喜歌劇である。
これもコレギウム・ムジクムのために作曲され、コレギウム・ムジクムのアンサンブルによって次のように演奏された。
↓<コーヒー・カンタータBW.V211>
1. ナレーター:「静かなる歌」
  (ナレーターは、シュレンドリアンとリーシェンを紹介する前に、聴衆に静かにして注意を払うように言います。)
2. シュレンドリアン:「帽子の男の日を祝う幼稚園」
  (シュレンドリアンは、10万回繰り返しても娘が自分の言うことを聞こうとしないことに嫌悪感を抱きながら歌っています。)
3. シュレンドリアンとリーシェン:「Du böses Kind」
  (シュレンドリアンは娘にコーヒーを飲むのをやめるように再度言い、リーシェンは反抗的に父親に落ち着くように言います。)
4. リーシェン:「えい!カフェを楽しむ​​ための情報」
  (リーシェンはコーヒーにラブソングを歌います。)
5. シュレンドリアンとリーシェン:「 カフェの物語: Wenn du mir nicht den Kaffee läst」
  (シュレンドリアンは娘に最後通告を突きつけ、食事や衣服、その他の楽しみを奪うと脅します。リーシェンは気にしていないようです。)
6. シュレンドリアン:「メッチェン、ディ・フォン・ハルテン・シネン」
  (この歌による独白で、シュレンドリアンは娘の弱点が何なのかを解明しようとしており、娘は絶対に二度とコーヒーを飲み たくないと思うはずだ。)
7. シュレンドリアンとリーシェン:「修道女はフォルゲ、これはまさにファーターの精神だった!」
  (シュレンドリアンは、コーヒーをやめなければ娘の結婚を阻止すると脅し、リーシェンは突然心変わりする。)
8. リーシェン:「Heute noch、lieber Vater」
  (リーシェンは、夫を見つけてくれると申し出てくれた父親に感謝し、恋人ができるならコーヒーをやめると誓う。)
9. ナレーター:「修道女とそのような者によるシュレンドリアン」
  (ナレーターは、シュレンドリアンが娘の夫を探しに出かけている間に、リーシェンは潜在的な求婚者たちに、自分と結婚したいなら自分のコーヒーを飲ませなければならないと密かに告げていると述べている。)
10. トゥッティ:「Die Katze läßt das Mausen nicht」
  (3 人の登場人物全員が、物語の教訓である「コーヒーを飲むのは自然なこと」を歌います。)
指揮: ペーター・シュライヤー
製作:テオ・アダム
ナレーター: エバーハルト・ビューヒナー
シュレンドリアン神父:ハンス=マルティン・ナウ
リーシェン:カロラ・ノセック
ドイツ国立歌劇場 ベルリン – アポロホール 1978年

1735年50歳
4月バッハ、『クラヴィーア練習曲第二部』出版。
四男ヨハン・ゴットフリート・ベルンハルトがミュールハウゼンのオルガニスト就任した。
9月5日十一男ヨハン・クリスティアン誕生。後に「ミラノのバッハ」「ロンドンのバッハ」と呼ばれた。
10月バッハは「音楽家バッハ一族の起源」年代記を執筆を始めた。
作品:教会カンタータ多数作曲

1736年51歳
トーマス合唱団指導者任命権で問題が起きトーマス学校長エルネスティが市参事会でバッハを非難。
8月12日ライプツィヒで、聖トーマス教会の牧師エルネスティと聖トーマス教会のカントルのバッハとの間で争いが起こった。
11月19日ドレスデン宮廷のザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト三世から「ポーランド宮廷とザクセン選帝侯宮廷の作曲家のPraedicat称号」の称号を授かった。
12月1日ドレスデンの聖母教会のジルバーマン・オルガンで《オルガン協奏曲》を演奏し高い評価を得た。
《マタイ受難曲》の二重合唱版を演奏。
作品:《復活祭オラトリオ》BWV.249

1737年52歳
10月バッハのいとこであるシュヴァインフルト出身のヨハン・エリアスは、家庭教師兼秘書としてライプツィヒでバッハに仕えた。
10月30日ヨハンナ・カロリーナはライプツィヒでバッハの娘として生まれた。
ハンブルクで新たに発行された音楽雑誌「批判的音楽家」に名指しこそなかったが、バッハの音楽とわかる「仰々しく混乱した書法が作品から自然な感じを奪っている」とする記事が、ライプツィヒ生まれの30才の音楽家ヨハン・アドルフ・シャイベJohann・Adolph・Scheibeにより投稿掲載された。
当時ハンブルクで活躍していたテレマンの音楽は耳になじみ、聴きやすく、美しいメロディを追及した軽やかな音楽であった。シャイベをはじめとする若い世代にとって、バッハは時代遅れの古い音楽と感じられたようだ。このことで何かを感じ自覚したバッハは、以後自分の芸術の集大成に心を砕くことになった。
三男ベルンハルト、ザンガーハウゼンの聖ヤコブ教会St.Jakobiオルガニストに就任した。
ライプツィヒの音楽団体「コレギウム・ムジクム」の指導を辞任した。
ザンガースハーゼンへ旅行。
↓<ザンガーハウゼンの聖ヤコブ教会>

1738年53歳
二男エマヌエル、フリードリヒ皇太子のチェンバロ奏者になる。
カンタータ《いざ、地上に君臨する神々よ》をドレスデンの選帝侯一門に敬意を表すために作曲し、バッハが演奏した。バッハは50ターラー下賜された。
《ヨハネ受難曲》最終版完成
バッハは「平均律クラヴィーア曲集」第二集(BWV 871 ~ 893)の作曲を開始。

1739年54歳
11月7日バッハはアンナ・マグダレーナとともにザクセン=アンハルト州ヴァイセンフェルスに訪問。
11月14日バッハ夫妻はヴァイセンフェルス訪問を終えた。
音楽団体「コレギウム・ムジクム」の指揮者就任。
テューリンゲン州の都市アルテンブルクを訪問。
《フーガの技法》BWV.1080を開始。
作品:《ヨハネ受難曲》改作、《クラヴィーア練習曲第三部》、『クラヴィーア練習曲』三冊目を出版、聖ミカエルのミサの機会に、オルガンのための楽譜《Dritter Theil der Clavier Übung》BWV. 552、669-689、802-805を出版。

1740年55歳
4月バッハがハレを訪問。
三男カール・フィリップ・エマヌエルがフリードリヒ大王の宮廷チェンバリストとしてベルリンに呼び寄せられた。

1741年56歳
8月バッハは三男カール・フィリップ・エマヌエルをベルリンに訪れた。
作品:《ゴルトベルク変奏曲》第四集BWV988出版。《平均律クラヴィーア曲集第2巻》BWV870-893作曲。

1742年57歳
2月22日バッハの娘、レジーナ・スザンナ誕生。
《ゴルトベルク変奏曲》をカール・ヘルマン・フォン・カイザーリング伯に献呈した。バッハの弟子ヨハン・テーオフィール・ゴルトベルクがカイザーリング伯のお抱えチェンバリストで仕えていた。
8月30日ライプツィヒ近郊のクライン・チョッハ村では新領主のカール・ハインリヒ・ディスカウを迎える祭りが催された。領主の徴税官ヘンリーチが歌詞を書き、バッハに作曲を依頼して出来たのが、《農民カンタータ》「おいらは新しい領主さまをいただいた」BWV212初演。
10月31日ヨハン・エリアス・バッハは、バッハ家の家庭教師および秘書としての活動を終了した。
作品:《クラヴィーア練習曲第四部》、世俗カンタータ《農民カンタータ》BWV.212

1743年58歳
12月13日ライプツィヒのヨハネ教会のオルガン鑑定を行った。

1744年59歳
ドレスデンへ旅行。
ライプツィヒのヨハネ教会のオルガン鑑定を行った。
12月カール・フィリップ・エマヌエル・バッハはベルリンでヨハンナ・マリア・ダンネマンと結婚。
作品:《平均律クラヴィーア第二部》

1745年60歳
4月長男ヴィルヘルム・フリーデマンがハレの聖母教会のオルガニストに任命された。
12月10日バッハの初孫、ヨハン・アウグスト誕生。
《マタイ受難曲》最終版完成

1746年61歳
9月26日バッハはザクセン=アンハルト州ナウムブルクで臓器検査を受けた。
チョルタウとナウムブルクのオルガン鑑定を行った。
「謎のカノン」(1748年、画家エリアス・ゴットロブ・ハウスマンによる油絵)ハウスマンは、手にカノンを手に持っている楽譜をバッハを描いた。
↓<手に楽譜を持つバッハの肖像画>

1747年62歳
春、バッハはフリードリヒ二世(1712-1786年)の宮廷楽長として雇われた息子カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714-1788年)を訪ねるためにベルリンとポツダムを訪れた。フリードリヒ二世は自身も優れたフルート奏者であり、バッハのオルガンの腕前と即興演奏の才能について聞いていた。旅行後、バッハは国王から受け取った音楽主題を厳密な三声と六声のポリフォニーで練り上げた。結果として得られたカノンは、バッハがこれまでに書いた中で最も芸術的作品となった。彼はそのコレクションを《音楽の捧げもの》というタイトルで国王に捧げました。
5月7-8日バッハは、ベルリンから南西約30kmにあるブランデンブルク州の州都ポツダム市ボツダムにあるサンスーン宮殿のフリードリヒ大王に招かれ即興演奏を行った。不可能なテーマの「フーガ」でチェンバロとピアノフォルテを試し、「六声のリチェルカーレ」まで即興で演奏したが、それ以上進められなかったことを謝罪した。
守備隊教会でオルガン演奏を行った。
6月ローレンツ・クリストフ・ミッツラーの主宰する「音楽学協会」に入会した。そのためバッハは《六声のカノン》BWV.1076と《高き天よりわれは来たる》を主題とする《カノン風変奏曲》BWV.769を携えていった。
7月7日フリードリヒ大王から与えられた主題による《音楽の捧げ物》BWV1079がプロイセン王フリードリヒ二世に捧げられた。
↓《音楽の捧げものMusikalisches Opfer BWV 1079》
Sebastian Wittiber, Flöte ∙
Maximilian Junghanns, Violine ∙
Christiane Steppan, Violoncello ∙
Flóra Fábri, Cembalo ∙
Konzert ohne Publikum ∙
hr-Sendesaal Frankfurt, 15. November 2020 ∙

1748年63歳
弟子」ヨハン・クリストフ・アルトニコルをナウムブルクの聖ヴェンツェル教会のオルガニストに推挙した。

1749年64歳
1月20日ヨハン・セバスティアンの四女エリザベート・ユリアナ・フリーデリカ・バッハElisabeth Juliana Fredrica(1726年生)が、ライプツィヒでヨハン・クリストフ・アルトニッコルAltnikolと結婚。
5月末脳卒中の発作し視力をほとんど失う。
10月《ミサ曲 ロ短調》BWV232全曲完成。
「フーガの技法」を書き始めた。
作品:《七声のカンタータ》BWV.1078、
↓<《ミサ曲 ロ短調》BWV232 マゼール指揮/ベルリン放送響>

1750年65歳
3月と4月頃ライプツィヒでイギリス人名眼科医といわれたジョン・テイラーに白内障の手術を二度受け、失明状態となり手術は失敗。全身衰弱する。
四女フリーデルケと夫アルトニコルがライプツィヒに来てバッハを看取る。
6月市参事会バッハの後任を決定。
7月最後の作品《汝の王座にわれ歩み寄る》を主旋律とするオルガン曲BWV.668を、アルトニコルに口授する。
「フーガの技法」を書き続けるが未完に終わった。
7月18日ほんの一時的に視力が回復。その後再び卒中の発作を起こし体力も弱まり糖尿病を患う。
7月22日バッハはライプツィヒの自宅で聴罪司祭大執事ヴォレから聖体拝領を受ける。
7月28日卒中により午後八時過ぎ死去。
7月30日あるいは31日ライプツィヒ聖ヨハネ教会墓地に埋葬された。後に改葬され現在はトーマス教会祭壇前の床下に眠っている。
同時代の目撃者からの記録によると、バッハはより厳格で抵抗力のある側面も持っていたという。バッハは、オルガンの名手、批評家、作曲家、作曲の教師として尊敬されていた。同時に、彼は衝動的で頑固な人物としても知られていた。これらの性格特性と彼の進歩的な音楽的アプローチにより、当局との緊張が高まりまった。彼は、雇用主が適切ではないと考えた内容を作成したため、教会や法廷で雇用主としばしば衝突したという。
↓<ライプツィヒ聖ヨハネ教会のバッハの墓地>

6.主な作品


<歌曲>
439-507 シェメッリ賛美歌集 (Schemellisches Gesangbuch) 1736以前
478 快い死よ来たれ、至福のいこいよ来たれ (Komm, susser Tod, Komm, selge Ruh!) 1725以降
505 われを忘れたもうことなかれ (Vergiss mein nicht)
508-518 『アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳』に含まれる歌曲 1725-40 全11曲
519-523 5つの宗教歌曲 1736? 偽作?
524 クォドリベット 1707頃 12曲の断片、4声と通奏低音

<ミサ曲・マニフィカト、他>
232 ミサ ロ短調 Messe h-Moll 1724-49
233 ミサ曲 ヘ長調 Messe F-Dur 1738? 『ルーテル・ミサ』とも
233a キリエ ヘ長調 Kyrie 1708-17 BWV233の初稿
234 ミサ曲 イ長調 Messe A-Dur 1708-17 『ルーテル・ミサ』とも
235 ミサ曲 ト短調 Messe g-Moll 1737? 『ルーテル・ミサ』とも
236 ミサ曲 ト長調 Messe G-Dur 1737-42 『ルーテル・ミサ』とも
237 サンクトゥス ハ長調 Sanctus 1723 疑作?
238 サンクトゥス ニ長調 Sanctus 1723/24
239 サンクトゥス ニ短調 Sanctus 1735-46 偽作?
240 サンクトゥス ト長調 Sanctus 1735-46 偽作?
241 サンクトゥス ニ長調 Sanctus 1730-45
242 キリストよ、憐れみたまえ 1727-31
243 マニフィカト ニ長調 1728-31
243a マニフィカト 変ホ長調 1728-31   BWV243の初稿

<受難曲>
BWV 作品タイトル
244 マタイ受難曲
(Matthäus-Passion)   1727-29
245 ヨハネ受難曲
(Johannes-Passion)   1724/25-29 1746/49年改作
246 ルカ受難曲
(Lukas-Passion) ?
247 マルコ受難曲
(Markus-Passion)   1731
<オラトリオ>
248 クリスマス・オラトリオ
(Weihnachts-Oratorium)   1734
249 復活祭オラトリオ
(Oster-Oratorium)   1725/35    1740年頃改訂

<オルガン曲>
525 トリオ・ソナタ第1番 変ホ長調 1730頃 6つのトリオ・ソナタ
526 トリオ・ソナタ第2番 ハ短調 1730頃 6つのトリオ・ソナタ
527 トリオ・ソナタ第3番 ニ短調 1730頃 6つのトリオ・ソナタ
528 トリオ・ソナタ第4番 ホ短調 1730頃 6つのトリオ・ソナタ
529 トリオ・ソナタ第5番 ハ長調 1730頃 6つのトリオ・ソナタ
530 トリオ・ソナタ第6番 ト長調 1730頃 6つのトリオ・ソナタ
531 前奏曲とフーガ ハ長調  1700-07
532 前奏曲とフーガ ニ長調  1708-12頃
532a フーガ ニ長調 BWV532のフーガの異稿
533 前奏曲とフーガ ホ短調 1704頃
534 前奏曲とフーガ ヘ短調  1712-17
535 前奏曲とフーガ ト短調  1717以降
535a 前奏曲とフーガ ト短調  1708-17 BWV535の初稿
536 前奏曲とフーガ イ長調  1716頃? フーガの主題の原型はBWV152の序曲
537 前奏曲(幻想曲)とフーガ ハ短調 ?
538 トッカータとフーガ「ドリア調」 ニ短調
(Präludium (Toccata) und Fuge)  1712-17
539 前奏曲とフーガ ニ短調  1720-25
540 前奏曲とフーガ ヘ長調  1712-17
541 前奏曲とフーガ ト長調  1712以降
542 幻想曲とフーガ ト短調
(Präludium (Fantasie) und Fuge)  1720頃 『大フーガ』とも呼ばれる
543 前奏曲とフーガ イ短調  1730頃
544 前奏曲とフーガ ロ短調  1725-28
545 前奏曲とフーガ ハ長調  1712-17
545a 前奏曲とフーガ ハ長調  1712-17? BWV.545の初稿
545b 前奏曲、トリオとフーガ 変ロ長調 ?BWV.545の初稿、ラルゴはトリオソナタ第5番より
546 前奏曲とフーガ ハ短調  1712-17 フーガは1716年頃作曲
547 前奏曲とフーガ ハ長調  1712以降
548 前奏曲とフーガ ホ短調『楔』
(Präludium und Fuge, The wedge)  1725-28
549 前奏曲とフーガ ハ短調  1723以降
550 前奏曲とフーガ ト長調  1706-08?
551 前奏曲とフーガ イ短調  1703-04?
552 前奏曲とフーガ 変ホ長調『聖アン』 1739 『クラヴィーア練習曲集 第3巻』に収録。
『聖アンのフーガ』(St.Anne)とも呼ばれる
553 – 560 8つの小前奏曲とフーガ ? 偽作
561 幻想曲とフーガ イ短調 ? 偽作
562 幻想曲とフーガ ハ短調  1730-45? フーガのみ未完
563 幻想曲と模倣曲 ロ短調 ?
564 トッカータ、アダージョとフーガ ハ長調 1708-12
565 トッカータとフーガ ニ短調 1704頃
566 トッカータとフーガ ホ長調 1706頃
567 前奏曲 ハ長調 ? 偽作
568 前奏曲 ト長調   1703-07?
569 前奏曲 イ短調   1703-04?
570 幻想曲 ハ長調   1704頃
571 幻想曲 ト長調 ? 偽作
572 幻想曲 ト長調   1708-12?
573 幻想曲 ハ長調   1722頃 未完
574 フーガ ハ短調   1708頃 G.レグレンツィの主題による
574a フーガ ハ短調   1708頃 BWV.574の異稿
575 フーガ ハ短調   1703-07 1708-17改訂
576 フーガ ト長調 ? 偽作
577 フーガ ト長調 ? 偽作。「ジーグ風フーガ」とも。
578 フーガ ト短調   1703-07 BWV542と比較され、小フーガとも呼ばれる
579 フーガ ロ短調   1708-17 A.コレッリ作のソナタロ短調(Op.3-4)第2楽章の主題による
580 フーガ ニ長調 ? 偽作?
580a アルペジオ・フーガ イ短調 1748?
581 フーガ ト長調 ? 偽作?
582 パッサカリアとフーガ ハ短調 1706-12
583 – 591 オルガンのためのトリオと種々の小曲集 1723-30?
583 トリオ ニ短調     1723-30?
584 トリオ ト短調 ? 偽作
585 トリオ ハ短調 1726-27? 原曲=J.F.ファッシュ
586 トリオ ト長調 ? 原曲=G.F.テレマン
587 アリア ヘ長調 1726以降 原曲=F.クープランの「諸国の人々」
588 カンツォーナ ニ短調 1715頃
589 アラ・ブレーヴェ ニ長調 1703-07/09? 偽作?
590 パストラーレ ヘ長調 1703-07 1708-17年改訂。ペダル付きチェンバロのための
591 小さな和声の迷宮 ? J.D.ハイニヒェン作?
592 – 597 オルガン協奏曲 1713-14 ヴィヴァルディ他の編曲
592 協奏曲第1番 ト長調 1713-14 原曲=J.エルンスト公
593 協奏曲第2番 イ短調 1713-14 原曲=A.ヴィヴァルディ(Op.3-8)
594 協奏曲第3番 ハ長調 1713-14 原曲=A.ヴィヴァルディ (Op.7-11)
595 協奏曲第4番 ハ長調 1713-14 原曲=J.エルンスト公
596 協奏曲第5番 ニ短調 1713-14 原曲=A.ヴィヴァルディ (Op.3-11)
597 協奏曲第6番 変ホ長調 1708-17頃? 原曲不明
598 ペダル練習曲 ト短調 1730以前 未完、ペダルのパートのみ
599 – 644 オルガン小曲集 1713-16
645 – 650 シューブラー・コラール集 1748
651 – 668 18のコラール 1708-17
669 – 689 21のコラール前奏曲 1739以前 クラヴィーア練習曲集第3巻収録
690 – 713 キルンベルガー・コラール集 ?
714 – 740 27のコラール編曲 ?
741 – 765 25のコラール編曲 ?
766 パルティータ『汝、明るき日なるキリスト』 1700-03?
767 パルティータ『おお、汝正しくて善なる神よ』 1700-03?
768 コラール変奏曲『慈しみ深きイエスよ』 1700-17頃 またはパルティータ
769 クリスマスの歌『高き天より我きたりて』によるカノン風変奏曲 1747
769a カノン変奏曲 1747 BWV.769の異稿
770 パルティータ『おお罪人なるわれ、何をなすべきか』 ? 疑作?
771 コラール変奏曲『いと高きところにいます神にのみ栄光あれ』 ? 偽作
1090 – 1120 ノイマイスター・コラール集 1703-07 全31曲

<クラヴィーア曲>
772 – 801 2声のインヴェンションと3声のシンフォニア 1720-23
802 – 805 4つのデュエット 1739? クラヴィーア練習曲集第3巻収録
806 – 811 イギリス組曲 1717
812 – 817 フランス組曲 1715
825 – 830 パルティータ 1726-31 クラヴィーア練習曲集第1巻
831 フランス風序曲 ロ短調 1734 クラヴィーア練習曲集第2巻収録
846 – 869 平均律クラヴィーア曲集第1巻 1722-23 24の前奏曲とフーガ
870 – 893 平均律クラヴィーア曲集第2巻 1738-42 24の前奏曲とフーガ
903 半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 1719 1730頃改作
903a 幻想曲 ? BWV903の幻想曲の初稿
904 幻想曲とフーガ イ短調 1725頃
905 幻想曲とフーガ ニ短調 ?
906 幻想曲とフーガ ハ短調 1726-40 フーガのみ未完
907 幻想曲とフーガ 変ロ長調 ? 偽作=G.キルヒホール作?
908 幻想曲とフーガ ニ長調 ? 偽作=G.キルヒホール作?
909 協奏曲とフーガ ハ短調 1703?
910 – 916 7つのトッカータ 1710頃
917 幻想曲 ト短調 ? 偽作
918 ロンドによる幻想曲 ハ短調 ?
919 幻想曲 ハ短調 1712以降 偽作?
920 幻想曲 ト短調 ? 偽作?
921 前奏曲(幻想曲) ハ短調 1703-17 cemb 偽作?
922 前奏曲(幻想曲) ト短調 1710-14 cemb 偽作?
923 前奏曲 ロ短調 1725以前
923a 前奏曲 ロ短調 ? 異稿
924 – 932 9つの小前奏曲 1720-26 cemb
933 – 938 6つの小前奏曲 1720? cemb
939 – 943 5つの小前奏曲 1703-20 cemb
944 フーガ イ短調 1708以前?
945 フーガ ホ短調 ? 偽作
946 フーガ ハ長調 1708頃 cemb アルビノーニの主題による
947 フーガ イ短調 1703-10 cemb 偽作?
948 フーガ ニ短調 ? 偽作?
949 フーガ イ長調 1703-10 cemb 偽作?
971 イタリア協奏曲 ヘ長調 1734 クラヴィーア練習曲集第2巻収録
972 協奏曲第1番 ニ長調 1708-17 原曲=A.ヴィヴァルディのOp.3-9
973 協奏曲第2番 ト長調 1708-17 原曲=A.ヴィヴァルディのOp.7-8
974 協奏曲第3番 ニ短調 1708-17 原曲=A.マルチェッロのオーボエ協奏曲
975 協奏曲第4番 ト短調 1708-17 原曲=A.ヴィヴァルディのOp.4-6
976 協奏曲第5番 ハ長調 1708-17 原曲=A.ヴィヴァルディのOp.3-12
977 協奏曲第6番 ハ長調 1708-17 原曲=B.マルチェッロ?
978 協奏曲第7番 ヘ長調 1708-17 原曲=A.ヴィヴァルディのOp.3-3
979 協奏曲第8番 ロ短調 1708-17 原曲=G.トレッリ
980 協奏曲第9番 ト長調 1708-17 原曲=A.ヴィヴァルディのOp.4-1
981 協奏曲第10番 ハ短調 1708-17 原曲=B.マルチェッロ
982 協奏曲第11番 変ロ長調 1708-17 原曲=J.エルンスト公
983 協奏曲第12番 ト短調 1708-17 原曲不明
984 協奏曲第13番 ハ長調 1708-17 原曲=J.エルンスト公
985 協奏曲第14番 ト短調 1708-17 テレマンのヴァイオリン協奏曲
986 協奏曲第15番 ト長調 1708-17 原曲=G.P.テレマン?
987 協奏曲第16番 ニ短調 1708-17 原曲=J.エルンスト公
988 ゴルトベルク変奏曲 1742 クラヴィーア練習曲集第4巻
989 イタリア風のアリアと変奏 イ短調 1709頃
990 サラバンドと変奏 ハ長調 ? cemb 偽作
991 アリアと変奏 ハ短調 1722 断片のみ
992 カプリッチョ『最愛なる兄の旅立ちに寄せて』 1704
993 カプリッチョ ホ長調『ヨハン・クリストフを讃えて』 1704頃
994 運指練習曲 ハ長調 1720-21
<リュート曲>
995 組曲 ト短調 1722頃
996 組曲 ホ短調 1740頃
997 組曲(パルティータ)ハ短調      1720頃
998 前奏曲、フーガとアレグロ 変ホ長調 1740-45
999 プレリュード ハ短調 1723頃
1000 フーガ ト短調       1725頃 BWV1001-2の編曲

<室内楽曲>
1001 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番 ト短調 1720
1002 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第1番 ロ短調 1720
1003 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第2番 イ短調 1720
1004 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番 ニ短調 1720 パルティータ第2番は『シャコンヌ』を含む
1005 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第3番 ハ長調 1720
1006 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番 ホ長調 1720
1006a リュート組曲 ホ長調 1735-40 BWV1006の編曲
1007 無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調 1717-23
1008 無伴奏チェロ組曲第2番 ニ短調 1717-23
1009 無伴奏チェロ組曲第3番 ハ長調 1717-23
1010 無伴奏チェロ組曲第4番 変ホ長調 1717-23
1011 無伴奏チェロ組曲第5番 ハ短調 1717-23
1012 無伴奏チェロ組曲第6番 ニ長調 1717-23
1013 無伴奏フルートのためのパルティータ イ短調 1720初頭
1014 ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第1番 ロ短調 1717-23
1015 ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第2番 イ長調 1717-23
1016 ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第3番 ホ長調 1717-23
1017 ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第4番 ハ短調 1717-23
1018 ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第5番 ヘ短調 1717-23
1019 ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第6番 ト長調 1717-23
1019a ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ ト長調 ?
1020 ヴァイオリンソナタ ト短調 ? またはフルートソナタ。偽作=C.P.E.バッハ作?
1021 ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ト長調 1720以前?
1022 ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ヘ長調 1720頃?
1023 ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ホ短調 1720頃?
1024 ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ハ短調 1720頃?
1025 ヴァイオリンとチェンバロのための組曲 イ長調 1720頃
1026 ヴァイオリンとチェンバロのためのフーガ ト短調 1712頃
1027 ヴィオラ・ダ・ガンバのためのソナタ第1番 ト長調 1720-39頃
1027a ヴィオラ・ダ・ガンバのためのソナタ ライプツィヒ時代の作品か?
1028 ヴィオラ・ダ・ガンバのためのソナタ第2番 ニ長調 1720-39頃
1029 ヴィオラ・ダ・ガンバのためのソナタ第3番 ト短調 1730-39頃
1030 フルートとチェンバロのためのソナタ第1番 ロ短調 1735頃
1031 フルートとチェンバロのためのソナタ第2番 変ホ長調 1734以前
1032 フルートとチェンバロのためのソナタ第3番 イ長調 1717-23
1033 フルートと通奏低音のためのソナタ第1番 ハ長調 1720頃
1034 フルートと通奏低音のためのソナタ第2番 ホ短調 1717-20頃
1035 フルートと通奏低音のためのソナタ第3番 ホ長調 1717-20?
1036 トリオ ニ短調 ? 偽作=C.P.E.バッハ作?
1037 ソナタ ハ長調 ? 偽作=J.G.ゴルトベルク作?
1038 ソナタ ト長調 ? 偽作。低音部はBWV1021と同一
1039 2本のフルートと通奏低音のためのソナタ ト長調 1720頃
1040 トリオ楽章 ヘ長調 1713?

<協奏曲>>
1041 ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 1717-23頃 BWV1058に編曲
1042 ヴァイオリン協奏曲第2番 ホ長調 1717-23頃 BWV1054に編曲
1043 2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 1718頃 BWV1062に編曲
1044 三重協奏曲 イ短調 1738-40
1045 シンフォニア ニ長調 ? 未完のヴァイオリン協奏曲の楽章か
カンタータの一部とされる
1046 ブランデンブルク協奏曲第1番 ヘ長調 1717?
1046a ブランデンブルク協奏曲第1番 ヘ長調 1717?
1047 ブランデンブルク協奏曲第2番 ヘ長調 1717-18?
1048 ブランデンブルク協奏曲第3番 ト長調 1711-13頃
1049 ブランデンブルク協奏曲第4番 ト長調 1720頃?
1050 ブランデンブルク協奏曲第5番 ニ長調 1720-21頃?
1050a ブランデンブルク協奏曲第5番 ニ長調 1720-21頃? 第1稿
1051 ブランデンブルク協奏曲第6番 変ロ長調 1708-10頃? C
1052 チェンバロ協奏曲第1番 ニ短調 1738-39頃
1053 チェンバロ協奏曲第2番 ホ長調 1738-39
1054 チェンバロ協奏曲第3番 ニ長調 1738-42頃
1055 チェンバロ協奏曲第4番 イ長調 1738-42頃
1056 チェンバロ協奏曲第5番 ヘ短調 1738-42頃
1057 チェンバロ協奏曲第6番 ヘ長調 1738-42頃
1058 チェンバロ協奏曲第7番 ト短調 1727-42
1059 チェンバロ協奏曲第8番 ニ短調 1726以降 断片のみ
1060 2台のチェンバロのための協奏曲第1番 ハ短調 1730-45
1061 2台のチェンバロのための協奏曲第2番 ハ長調 1727-34
1062 2台のチェンバロのための協奏曲第3番 ハ短調 1732-36頃
1063 3台のチェンバロのための協奏曲第1番 ニ短調 1735-45
1064 3台のチェンバロのための協奏曲第2番 ハ長調 1730頃
1065 4台のチェンバロのための協奏曲 イ短調 1730頃
<管弦楽組曲>
1066 管弦楽組曲第1番 ハ長調 1717-23頃
1067 管弦楽組曲第2番 ロ短調 1730頃
1068 管弦楽組曲第3番 「G線上のアリア」ニ長調 1729-31頃
1069 管弦楽組曲第4番 ニ長調 1717-23頃
1070 管弦楽組 偽作=W.F.バッハ作
1071 シンフォニア 1717頃?

7.その他


<バッハの病歴>
世界的に有名な作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハはおそらく糖尿病を患い、最終的には脳卒中で亡くなった。しかし、バッハの人生には多くの困難な運命が伴っていたため、バッハが克服しなければならなかった課題は糖尿病だけではなかった。
1748年半ばまでに、バッハの筆跡には深刻な目の病気の兆候が現れ始めていた。ヨハン・セバスティアン・バッハの生涯の最後の年は医師として、困難な経験として特徴づけられた。バッハは白内障を患い、作曲や演奏能力に大きな影響を及ぼした。それにもかかわらず、バッハは最後の作品「フーガの技法」を完成させる決意をしていた。
友人の勧めで、バッハの治療で間違いを犯した英国の眼外科医ジョン・テイラーを訪ねた。テイラーの不適切な治療と無能さにより、痛みを和らげ治癒を促進すると称してバッハの目に新鮮なハトの血を滴らせるなどの処置が行われた。ヨハン・セバスティアン・バッハは、手術後の合併症による激しい痛みと10日間の昏睡状態の後、65歳でライプツィヒで死去した。皮肉なことに、ジョン・テイラーも最終的には全盲となった。

8.関連動画

《シャコンヌ》(斎藤秀雄編曲)
小澤征爾/サイトウ・キネン・オーケストラ
2004年

https://youtu.be/0Z7GtGpaz-0?si=QS3QgFXGDkezOcV9

《管弦楽組曲第三番》より「アリア」
小澤征爾/NHK交響楽団Seiji Ozawa/NHK Symphony Orchestra(1995.1.23)

《無伴奏チェロ組曲第二番》ニ短調「サラバンド」
小澤征爾
チェロ:ロストロポーヴィチ
拍手のない静かな幕切れとなった理由?

《マタイ受難曲》BWV244
StMatthewPassion BWV244
フリッツ・ヴェルナー指揮/プフォルツハイム南西ドイツ室内管弦楽団
ハイルブロン・ハインリッヒ・シュルツ合唱団・ハイルブロン・ロベルト・メイヤー学校少年合唱団
ヘルムート・クレープス、フランツ・ケルヒほか

《ヨハネ受難曲》
フリーダー・ベルニウス指揮/シュトゥットガルト・バロック室内管弦楽団・シュトゥットガルト室内管弦楽団
BRIXNER INITIATIVE MUSIK UND KIRCHE 2016年3月21日

カンタータ《主よ人の望みの喜びよ》 BWV 147
Jesus bleibet meine Freude BWV 147 Ton Koopman 480p

《フーガト短調》 BWV 578
Fugue in G minor BWV 578

《管弦楽組曲第三番》より「アリア」 ニ長調 BWV 1068
Orchestral Suite No. 3 in D Major, BWV 1068, Air & Gavotte – Croatian Baroque
Ensemble & Catherine Mackintosh
5-12-2010 – Croatian Music Institute Zagreb

《管弦楽組曲第三番》より ニ長調 BWV 1068
Classical guitar:ペア=オラブ・カインドグレン
Swedish classical guitarist Per- Olov Kindgrenペア=オラブ・カインドグレン

《ブランデンブルグ協奏曲第五番》 in D BWV1050
Brandenburg Concerto No.5 in D BWV1050
Croatian Baroque Ensemble

《ヴァイオリン協奏曲第一番Violinkonzert No.1》 a-Moll BWV 1041
hr-Sinfonieorchester ∙ Vilde Frang ∙ Philippe Herreweghe
hr-Sendesaal Frankfurt, 3. Dezember 2021 ∙

《ヴァイオリン協奏曲第二番Violin Concerto No.2》 in E Major BWV 1042
Hilary Hahn plays – Deutsche Kammerphilharmonie Bremen

《二つのヴァイオリンのための協奏曲》 ニ短調 KWV.1043 メニューイン、オイストラフ
Bach Double Violin Concerto in D minor – BWV 1043 – Vivace
Yehudi Menuhin And David Oistrakh.

《ヨハネ受難曲》 BWV 245
オランダ・バッハ協会合唱団 / 指揮:ヨス・ファン・フェルトホーフェン
Passion BWV 245
Jos van Veldhoven, conductor / Netherlands Bach Society
Soloists:Raphael Höhn, evangelist (tenor)、Myriam Arbouz, soprano、Maria Valdmaa (Maid), soprano、Daniël Elgersma, alto、Marine Fribourg, alto、Gwilym Bowen, tenor、Guy Cutting (Servant), tenor、Felix Schwandtke (Jesus), bass、Drew Santini (Peter), bass、Angus Mc Phee (Pilate), bass

《ミサ曲 ロ短調》 BWV.232  
ソプラノ:サラ・ヤギ
アルト:マリー・ヘンリエット・ラインホルト
テノール:レミー・バーネンス
バス:ダニエル・オチョア
指揮:ハビエル・ウリセス・イラン
アカデミア バロッカ ルツェルネンシス
バロックオーケストラと声楽アンサンブル
2022年3月10日 ルツェルン・コンサート・ホール

《クリスマス・オラトリオ》BWV 248
ペーター・シュライアー
ロバート・ホール
トルザー・クナベンコール
指揮:ニコラウス・アーノンクール
コンツェントゥス・ムジクス・ウィーン

《Cantata “Verjaget, zerstreuet, zerrüttet, ihr Sterne》” BWV 249b (Alexander Grychtolik)
ソプラノ:グドルン・ジドニー・オットー、アルト:エルヴィラ・ビル、テノール:ダニエル・ヨハンセン、バス:ステファン・マクラウド
ドニー・オットーが指揮を兼任する室内楽アンサンブル、GSOコンソート
2021年6月23日にシュトゥットガルト大学教会で行われたシュトゥットガルト音楽祭で演奏

カンタータ《全地よ、神に捧げる》BWV 51.
ヨーロッパ連合バロック管弦楽団、ラース・ウルリク・モーテンセン(指揮兼チェンバロ)、マリア・ケオヘイン(ソプラノ)
セバスティアン・フィルポット(トランペット)、ヒュー・ダニエル(コンサートマスター)
ライブレコーディング:2011年11月、ルクセンブルク

《カンタータ第四番》 「キリスト 死に繋がれしが」. BWV 4.

カンタータ《神よ、あなたに感謝を捧げます」》BWV 29
ソプラノ:ルーシー・ド・バッツ、テノール:バレリオ・コンタルド、バス:リサンドロ・アバディ
Laurent Gendre, conductor/アンサンブル・オルランド・フリブール
スイス、フライブルク、聖ミシェル教会でのコンサート、2016年7月3日

カンタータ《甘き慰め、我がイエスは来ませり》BWV 151 
マリア・ケオヘイン(ソプラノ)
ラース・ウルリク・モーテンセン/オルガン兼指揮
コペンハーゲンコンサート

カンタータ:小喜歌劇《おしゃべりはやめて、お静かに(コーヒー・カンタータ)》 BWV 211 (J.S. バッハ財団)
Choir and Orchestra of the J. S. Bach Foundation
Rudolf Lutz – Conductor
Soloists:
Miriam Feuersinger – Soprano
Sören Richter – Tenor
Dominik Wörner – Bass

《フランス組曲》 BWV 812-817 シフ,アンドラーシュ(ピアノ)
The French Suites, BWV 812 813 814 815 816 817
Andras Schiff – Piano

《 Piano Partita No. 2 In C Minor》 BWV 826
Martha Argerich
VERBIER FESTIVAL 2008

《ゴルトベルク変奏曲》BWV988
グレン・グールド Glenn Gould 1955

《チェンバロ協奏曲第一番》ニ短調 BWV.1052
オルガン:イヴェタ・アプカルナ
指揮:リッカルド・ミナーシ / フランクフルト・ラジオ交響楽団
Konzert d-Moll BWV 1052 für Orgel ∙ hr-Sinfonieorchester ∙ Iveta Apkalna ∙ Riccardo Minasi

《協奏曲第三番》ニ短調
Johann Sebastian BACH: Adagio, BWV 974

《オーボエ協奏曲》ニ短調
Oboenkonzert d-Moll BWV 1059R
ソロ・オーボエ:フランソワ・ルルー
指揮:アンドレス・オロスコ=エストラーダ / フランクフルト放送交響楽団
hr-Sinfonieorchester ∙ François Leleux ∙ Andrés Orozco-Estrada

《マニフィカト》ニ長調 BWV 243
Magnificat BWV 243 – Van Veldhoven | Netherlands Bach Society

教会カンタータ《神の時こそいと良き時》BWV.106
Cantate BWV106 “Actus Tragicus” “Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit”

モテット《主に向かって歌え、新しい歌を》 BWV225
Singet dem Herrn BWV 225

9.バッハ家の起源について諸説


1.高祖父の父:ハンス・バッハHans Bach一族は、1520年頃にはチューリンゲン地方に住んでいたといわれている。ファイトの父親らしいといわれている。
ハンス・バッハは音楽家ではなかった。彼はヴェヒマールWechmarの役場に勤めていた役人とされ、推定する限りヴェヒマール住んでいたバッハ一族の始祖ということになる。
その息子がバッハの高祖父:ファイト・バッハ(1550~60年頃-1619年頃)で、ファイトという名はヴェヒマールの教会にSt. Vitusという聖人の名が祀られており、その名から付けられたといわれている。
ファイトには弟(J・S・バッハの曾祖父叔父)カスパール・バッハ(1570頃~1642年頃)がいた

<ヴェヒマル村 看板>

2.ヨハン・セバスチャン・バッハの手書きで残した『 Ursprung der musicalisch-Bachischen family / バッハ家の音楽家の家族の起源』によると、バッハ家の音楽家53人の家族の編集記録があり、それによると先祖は、ハンガリーで製粉所を営んでいた<ファイト・バッハVeit・Bach>である。
バッハの高祖父ファイト・バッハVeit・Bachは、1550年頃ドイツ、チューリンゲン州ランドクライス ゴータ、ヴェヒマールに生まれ、1619年3月18日(63〜64歳)ヴェヒマールで没し同地の聖ヴィート教会の墓地に埋葬された
ファイト・バッハは1578年頃に結婚したが、彼の妻の名前は不明。彼らには少なくとも2人の子供がいた。ヨハネス・ハンス一世(1580年頃~1626年頃)とリップス(1590年頃~1620年頃)である。
ファイトは、父親から製粉業とパン屋を学び、ドイツからの移住者が多かったハンガリーのプレスブルク(ブラチスラヴァ)に移住したようだ。父が亡くなった後、相続した。ファイトは製粉所で働いている間、「Cythringe」ツィトリンゲンと呼ばれる五弦のリュートに似た楽器を演奏するのが好きであった。
1590年ごろ、ファイト・バッハは、反宗教改革によるプロテスタント弾圧が起こった時、ハンガリーからの脱出を余儀なくされ、財産の中から持ち出せる物を持って、自由と安全が見出せる場所を探し求め、ルター派の牙城であり故郷であるなチューリンゲン地方に移動し、ゴータ近郊ヴェヒマール村に定住した
彼はやがてこの村で元の製粉業とパン屋を営み始めた。かたわら暇を見ては、何よりも五弦のリュートに似た楽器Cythringeツィトリンゲン(ツィターと書いてある著書もある)を弾いて楽しんだ。臼挽きの待ち時間の間中、演奏するほど音楽好きで、最大の楽しみであったようだ。この方法によってリズムを自分の体内に刻み込むことができ、これが子孫に受け継がれる音楽の始まりであったという。彼はこの音楽を2人の息子(ヨハネス・バッハJohannes Bachとフィリップス・バッハLips Bach)に教え、これを二人の子は彼らの息子に教えた
彼はまた、いくつかの製粉所を建設した。彼は自分が作ったパンを、犬が引っ張る二輪カートで工場から市場に運んで販売した。
それから200年後、ヨハン・セバスチャン・バッハは、『Ursprung der musicalisch-Bachischen Familie(音楽家バッハ一族の起源・年代記)』に、「バッハの高祖父:ファイト・バッハは、バッハ一族の創業者と見なす」と書いてある。ファイト・バッハはバッハ家の最初の音楽を演奏したメンバーとなる。彼以前に於いて一族の中に音楽活動に関わった記録は無い
そして”これは、その子孫の音楽の始まりであり” という文言があり、曾祖父ヨハネスと曾祖父の弟フィリップス・バッハ(1552年頃~1620年頃)が後にバッハ家の音楽家の子孫の始まりとなる。
現在のドイツ、チューリンゲン地方ヴェヒマールWechmar村に行くとバッハ博物館があり、ファイト・バッハがハンガリーから移住して来て、粉挽き所とパン屋を経営したとある。内部を見れるようだ。バッハの家系図やCythringeツィトリンゲらしい楽器も陳列されている。博物館前に鉄製のBACHの4文字の置物、説明文の書かれたプレートなどや、ファイト・バッハの粉挽き所やバッハの時代の学校だった建物もあり内部も見られるようだ
<音楽家バッハ家の起源>
参考:https://jsbach.de/bachs-welt/dokumente/1735-ende-des-jahres-ursprung-der-musicalisch-bachischen-familie
出典:Quelle: Bach-Dokumente, Band 1, Nr. 184(訳/バッハ文書、第1巻、第184号)
『1735, Ende des Jahres: Ursprung der musicalisch-Bachischen FamilieZum Kalendarium(訳/1735年末: 音楽バッハ家の起源)

                 Ursprung der musicalisch-Bachischen Familie(訳/バッハ家の音楽家の家族の起源)

No.1. Vitus Bach, ein Weißbecker in Ungern, hat im 16ten Seculo der lutherischen Religion halben aus Ungern entweichen müßen. Ist dannenhero, nachdem er seine Güter, so
viel es sich hat wollen thun laßen, zu Gelde gemacht, in Teütschland gezogen; und da er in Thüringen genugsame Sicherheit vor die lutherische Religion gefunden, hat er
sich in Wechmar, nahe bei Gotha niedergelaßen, und seine Beckers Profession fortgetrieben. Er hat sein meistes Vergnügen an einem Cythringen gehabt, welches er auch
mit in die Mühle genommen, und unter währendem Mahlen darauf gespielet. (Es muß doch hübsch zusammen geklungen haben! Wiewol er doch dabey den Tact sich hat
imprimiren lernen.) Und dieses ist gleichsam der Anfang zur Music bey seinen Nachkommen gewesen. Ist gestorben den

No. 2. Johannes Bach, des vorigen Sohn, hat anfänglich die Becker Profession ergriffen. Weilen er aber eine sonderliche Zuneigung zur Music gehabt, so hat ihn der StadtPfeiffer
in Gotha zu sich in die Lehre genommen. Zu der Zeit hat das alte Schloß | Grimmenstein noch gestanden, und hat sein Lehrherr, damaligem Gebrauch nach, auf dem
Schloß Thurme gewohnet. Bey welchem er auch nach ausgestandenen Lehrjahren noch einige Zeit in condition gewesen; nach Zerstöhrung des Schloßes aber, (so Anno
15 geschehen) und da auch mittelst der Zeit sein Vater Veit gestorben, hat er sich nach Wechmar gesetzt, allda Jfr. Anna Schmiedin, eines Gastwirths Tochter aus
Wechmar, geheirathet, und des Vaters Güter in Besitz genommen. Seit seinem Hierseyn ist er öffters nach Gotha, Arnstadt, Erffurth, Eisenach, Schmalkalden und Suhl,
um denen dasigen Stadt-Musicis zu helffen, verschrieben worden. Starb 1626 in damahlig grassirender contagion Zeit. Sein Weib aber lebte noch nach deßen Tode 9 Jahr
als Wittib, und starb 1635.

No. 3. Deßen Bruder —- Bach, ist ein Teppichmacher worden, und hat 3 Söhne gehabt, so die Music erlernet, und welche der damahligst regierende Graf zu Schwartzburg
Arnstadt auf seine Unkosten nach Italien hat reisen laßen, um die Music beßer zu excoliren. Unter diesen dreyen Brüdern ist der jüngste durch einen Unfall blind und der
blinde Jonas genennet worden, und von welchem man damahligst viel Abentheuerliches gesprochen hat. Da | nun dieser unverheyrathet gestorben, so stammen
vermuthlich von deßen andern 2 Brüdern die Nahmens- und Geschlechtsverwandten her, so ehedem in Mechterstädt (zwischen Eisenach und Gotha liegend) und der Orten
herum gewohnet. Der Anno 1730 in Meinungen verstorbene Capellmeister Johann Ludewig Bach, deßen seliger Vater, Jacob Bach, Cantor in der Ruhl gewesen, war von
diesem Stamme; ingleichen der vor etlichen Jahren verstorbene Dom-Cantor in Braunschweig, Stephan Bach, (dessen Bruder Bach Priester in Lähnstädt, ohnweit
Weimar, war). Es sollen auch von diesem Geschlechts Nahmen einige Inwohner unter deren Herrn von Seebach Herrschafften, besonders in Oepffershausen, sich befinden;
ob aber solche von jetzterwehnter Neben-Linie abstammen, ist unbekannt.

No. 4. Johannes Bach, ältester Sohn des sub No 2 erwehnten Hans Bachens, ist in Wechmar gebohren Anno 1604, den 26ten Nov. Da nun sein Vater Hans Bach, wenn er an
obbenannte Oerter ist verlanget worden, ihn vielfältig mitgenommen, so hat einsmahls der alte Stadt Pfeiffer in Suhl, Hoffmann genannt, | ihn persuadiret, seinen Sohn
ihm in die Lehre zu geben, welches auch geschehen; und hat er sich daselbst 5 Jahr als Lehr Knabe und 2 Jahr als Geselle aufgehalten. Von Suhl hat er sich nach
Schweinfurth gewendet, allwo er Organist worden. Anno 1635 ist er nach Erffurth als Director derer Raths-Musicanten beruffen worden, wohin er sich auch begeben; und
nach etlichen Jahren hat er auch den Organisten-Dienst ad Praedicat: zugleich mitbekommen. Starb 1673. Hat sich zweymal verehliget, als (1) mit Jungfr. Barbara
Hoffmännin, seines lieben Lehrherrn Tochter, und mit selbiger ein todtes Söhnlein gezeuget, welcher todten Frucht die Mutter eine halbe Stunde darauf nachgefolget.
(2) mit Jungfr. Hedewig Lemmerhirtin, Herrn Valentin Lemmerhirtens, Rathsverwandten in Erffurth Jgfr. Tochter, und hat mit selbiger folgende Söhne, Sub No 7, 8 u 9
gezeüget.

No. 5. Christoph Bach, mittlerer Sohn des Sub No. 2 berührten Hans Bachens, ist gleichfalls gebohren zu Wechmar Anno 1613, den 19ten April. Erlernete gleichfalls musicam
instrumentalem. War anfänglich fürstlicher Bedienter am Weimarischen Hofe; bekam hernach unter der Erffurthischen | und dann zuletzt unter der Arnstädtischen

musicalischen Compagnie Bestallung, allwo er auch Anno 1661, den 12 September verstorben. War verehliget mit Jfr. Maria Magdalena Grablerin, gebürtig aus Prettin in
Sachsen, mit welcher er die Sub No. 10, 11 u 12 folgenden 3 Söhne zeugte. Sie verstarb 24 Tage nach ihres seel. Mannes Christophori Tode, nehmlich den 6ten Octobr: 1661
in Arnstadt.

No. 6. Heinrich Bach, dritter Sohn des Sub No. 2 gedachten Hans Bachens, war gleich seinem mittlern Bruder, Christoph, in der Compagnie zu Arnstadt, und hatte darbey den
Stadt-Organisten-Dienst. Ist gleichfalls in Wechmar gebohren Anno 1615 den 16ten Decembr. Starb zu Arnstadt Anno 1692. War verheirathet mit Jfr. Eva Hoffmännin aus
Suhl, vermuthlich einer Schwester der Sub No. 4 gedachten Barbara Hoffmännin.

No. 7. Joh. Christian Bach, der älteste Sohn von Johann Bachen Sub No. 4. Ward in Erffurth gebohren 1640. Starb daselbst als Director derer RathsMusicanten Anno 1682. Deßen
2 Söhne folgen Sub. No. 16 u 17.

No. 8. Joh. Egydius Bach, der andere Sohn von Johann Bachen sub. No. 4. war gebohren zu Erffurth 1645. Starb daselbst als Director derer Raths-Musicanten und Organist zur St.
Michaelis Kirche Anno 1717. Deßen zwey Söhne folgen. Sub No. 18 u 19.

No. 9. Johann Nicolaus Bach, 3ter Sohn von Johann Bachen Sub No. 4. wurde jung zu Erffurth 1653. War ein sehr guter Viole da Gambiste und in der Raths compagnie daselbst.
Starb an der Pest 1682, u. hinterließ einen Posthumum, Joh. Nicolaus, sub No. 20.

No. 10. Georg Christoph Bach, war der erste Sohn von Christoph Bachen sub No. 5, gebohren Anno 1642 den 6. September. Wurde als Cantor nach Schweinfurth beruffen, u starb
daselbst Anno 16 . Deßen Söhne folgen Sub No. 21.

No. 11. Johann Ambrosius Bach, zweyter Sohn Christoph Bachens Sub No. 5. War Hoff- u StadtMusicus in Eisenach. Ist gebohren zu Erffurth An. 1645 d. 22 Febr. Starb in
Eisenach An. 1695. War verehlichet mit Jfr. Elisabetha Lemmerhirtin, Herrn Valentin Lemmerhirtens, E. E. Raths Verwandten in Erffurth, Jfr. Tochter; zeügete mit selbiger
8. Kinder, als 6. Söhne und 2. Töchter. Davon 3 Söhne unverheirathet gestorben, wie auch die jüngste Tochter. 3 Söhne aber und die älteste Tochter haben die Eltern
überlebet, u sich verehliget, wie folget Sub No. 22, 23 u 24.

No. 12. Johann Christoph Bach, vorigen Ambrosii Zwillingsbruder, u Christoph Bachens 3ter Sohn, war Hoff- und StadtMusicus in Arnstadt. Zeügete mit Jfr. Martha Elisabetha
Eisentrautin, Herrn Franz Eisentrauts, gewesenen Kirchners in Ohrdruf, Jfr. Tochter, folgende Sub No. 25 u 26 benannte Söhne.

No. 13. Johann Christoph Bach, erster Sohn von Heinrich Bachen Sub No. 6. war gebohren zu Arnstadt Anno . Starb zu Eisenach als Hoff- u Stadt Organist 1703. War ein profonder
Componist. Zeugete mit seinem Weibe, Frau gebohrnen Wiedemannin, Herrn Wiedemanns, StadtSchreibers zu Arnstadt, ältesten Tochter, die Sub No. 27, 28, 29 u
30. folgenden 4. Söhne.

No. 14. Johann Michael Bach, Heinrich Bachs Sub No. 6 anderer Sohn ist gleichfalls zu Arnstadt gebohren. An. War StadtSchreiber und Organist im Amte Gehren. War
gleich seinem ältern Bruder, ein habiler Componist. Hinterließ nach seinem Tode eine Wittib, nehmlich Herrn StadtSchreiber Wiedemanns von Arnstadt 2te Tochter, und
mit selbiger 4 unversorgte Töchter, aber keinen Sohn.

No. 15. Johann Günther Bach, dritter Sohn Heinrich Bachs Sub No. 6. Sublevirte seinen Vater. War ein guter Musicus, | und geschickter Verfertiger verschiedener neu inventirten
musikalischen Instrumenten. Starb ohne männliche Erben An. 16

No. 16. Johann Jacob Bach, ältester Sohn von Johann Christian Bachen Sub No. 7. gebohren in Erffurth 1668. Starb unverheirathet als Haußmanns Geselle beym seligen Johann
Ambrosio Bachen in Eisenach 1692.

No. 17. Johann Christoph Bach, Johann Christian Bachen Sub No. 7 zweyter Sohn. War gebohren in Erffurth 1673. Starb in Gehren als Cantor An. 1727. Seine Kinder folgen Sub No.
31, 32 u 33.

No. 18. Joh. Bernhard Bach, ältester Sohn von Johann Egydio Bachen Sub No. 8. ist in Erffurth An. 1676 gebohren. Lebet noch anjetzo (nehmlich 1735) als CammerMusicus u
Organist in Eisenach. Succedirte Joh. Christ. Bachen Sub. No. 13. Deßen einziger Sohn folget Sub No. 34.

No. 19. Joh: Christoph Bach, der andere Sohn von Joh. Egydio Bachen Sub. No. 8, ist in Erffurth gebohren 1685. Stehet jetzo noch als Director derer RathsMusicanten in Erffurth.
Deßen Söhne folgen Sub No. 35, 36 u 37.

No. 20. Joh. Nicolaus Bach, ein Posthumus des Sub No. 9. gedachten Joh. Nic. Bachens, wurde ein Chirurgus, u wohnet jetzo 10. Meilen hinter Königsberg in Preußen, im
Amte hat aber das ganze Haus voll Kinder.

No. 21. Joh. Valentin Bach, ein Sohn Georg Christoph Bachens Sub No. 10. Dessen Geschwister heißen:

No. 22. Joh: Christoph Bach, ältester Sohn von Joh. Ambrosio Bachen Sub No. 11. Ward gebohren in An. 167 . Starb in Ohrdruff als Organist u SchulCollega 17

No. 23. Joh: Jacob Bach, zweyter Sohn von Joh. Ambrosio Bachen Sub No. 11. Ward gebohren in Eisenach An. 1682. Lernete die StadtPfeiffer Kunst bey seines seligen Vaters
Successore, Herrn Heinrich Hallen; kam nach einigen Jahren, als An. 1704, in Königlich Schwedische Kriegs-Dienste, als Hautboiste. Hatte die Fatalitœt mit seinem
gnädigsten Könige Carolo d. 12ten nach der unglücklichen Pultavaischen Bataille das türckische Bender zu erreichen. Allwo er in die 8 bis 9 Jahr bey seinem Könige
ausgehalten; u sodann ein Jahr vor des Königes retour die Gnade genoßen als Königlicher Cammer u. HoffMusicus nach Stockholm in Ruhe zu gehen. Allwo er auch An.
17 gestorben, keine LeibesErben hinterlassend.

No. 24. Joh. Sebastian Bach, Joh. Ambrosii Bachens jüngster Sohn, ist gebohren in Eisenach An. 1685, den 21ten Martij. Ward (1) HoffMusicus in Weimar bey Herzog Johann
Ernsten, An. 1703. (2) Organist in der neüen Kirche zu Arnstadt 1704. (3) Organist zu St. Blasii Kirche in Mühlhausen An. 1707. (4) Cammer und HoffOrganist in Weimar, An.
1708. (5) an eben diesem Hoffa An. 1714 Concert-Meister zugleich. (6) Capell|meister u Director derer Cammer Masiquen am Hochfürstlich Anhalt Köthischen Hoffe. An.
1717. (7) Wurde von dar An. 1723. als Director Chori Musici u Cantor an der Thomas Schule nacher Leipzig vocirt; allwo er noch bis jetzo nach Gottes H. Willen lebet, u
zugleich von Haus aus als Capellmeister von Weißenfels u Cöthen in function ist. Deßen Familie folget

No. 25. Joh. Ernst Bach, erster Sohn Joh. Christoph Bachens Sub. No. 12., natus An. 1683, den 5ten Aug. ist Organist in Arnstadt an der Oberkirche. Dessen Kinder folgen Sub

No. 26. Joh. Christoph Bach, zweyter Sohn Joh. Christoph Bachens, lebet in Plankenhayn, und nähret sich mit einem Materialisten Kram, u ist zwar verheirathet, aber nicht
beerbet. Nat. An. 1689, den 12ten Sept.

No.27. Joh. Nicolaus Bach, dermaliger Senior aller noch leben|den Bachen, ist ältester Sohn von Joh. Christoph Bach Sub No. 13. Ist Organist sowol bey der Universitäts als
Stadtkirche in Jena.

No. 28. Joh. Christoph Bach, zweyter Sohn von Joh. Christoph Bachen Sub. No. 13. ist auch der Musik zugethan. Hat sich aber niemalen zu einer function begeben, sondern sein
meistes Plaisir in Reisen gesuchet.

No. 29. Joh. Friedrich Bach, war 3ter Sohn von Joh. Christoph Bachen Sub. No. 13. Starb An. 172 als Successor Organista J. S. Bachens der Blasii Kirche in Mühlhausen, u zwar
unbeerbet.

No. 30. Joh. Michael Bach, 4ter Sohn von Johann Christoph Bachen Sub No. 13. Erlernete die Orgelmachers Kunst, ist aber nach diesem in die Nordländer gereiset, u nicht wieder
retourniret, daß man also keine weitere Nachricht von ihm hat.

No. 31. Joh. Samuel Bach, ältester Sohn des Sub No. 17. erwähnten J . C. Bachens, starb in Sondershausen als Musicus frühzeitigen Todes.

No. 32. Joh. Christian Bach, zweyter Sohn J. C. Bachens Sub No. 17. war gleichfalls ein Musicus, u starb auch in Sondershausen frühzeitig.

No. 33. Joh. Günther Bach, 3ter Sohn J. C. Bachens Sub No. 17. ist ein guter Tenorist, und stehet jetzo noch als Schul Collega bey der Kaufmanns Gemeinde in Erffurth.

No. 34. Joh. Ernst Bach, einziger Sohn des Sub No. 18. gedachten Joh. Bernh. Bachens, ist gebohren An. 1722. Wird nebst denen Studiis der Music gleichfalls obliegen.

No. 35. Joh. Friedrich Bach, ältester Sohn des Sub No. 19 erwehnten J . C. Bachs, ist Schulmeister in Andisleben.

No. 36. Joh. Egydius Bach, anderer Sohn J. C. Bachs, Sub. No. 19. ist Schulmeister in großen Munra.

No. 37. Wilhelm Hieronymus Bach, J . C. Bachs Sub No. 19. 3ter Sohn

No. 38. Joh. Lorenz Bach, Joh. Valent. Bachs Sub. No. 21 ältester Sohn, ist Organist zu Lahme in Franken.

No. 39. Joh. Elias Bach, J. Valent. 2ter Sohn. p. t. Cantor in Schweinfurth.

No. 40. Tobias Friedrich Bach, Joh. Christoph Bachens Sub No. 22 ältester Sohn, ist Cantor in Udestädt, ohnweit Erffurth. Gebohren 1695.

No. 41. Joh. Bernhard Bach, jetzterwehnten J. C. Bachs Sub No. 22 zweyter Sohn, succedirte seinem seligen Vater als Organist in Ohrdruff. Gebohren 169

No. 42. Joh. Christoph Bach, 3ter Sohn J. C. Bachs No. 22, ist Cantor u Schul Collega in Ohrdruff gebohren An. 1

No. 43. Joh. Heinrich Bach, 4ter Sohn J. C. Bachs Sub No. 22. stehet in Diensten bey dem Herrn Grafen zu Hohenlohe als Musicus u Cantor in Öhringen, ist gebohren 17

No. 44. Joh. Andreas Bach, 5ter Sohn J. C. Bachs No. 22. ist in Fürstlich Gothaischen militair Diensten als Hautboiste. Gebohren 17

No. 45. Wilhelm Friedemann Bach, Joh. Seb. Bachens Sub No. 24 ältester Sohn, ist p. t. Organist an der Sophien Kirche in Dresden. Gebohren 1710. den 22ten Nov.

No. 46. Carl Philipp Emanuel Bach, 2ter Sohn Joh. Seb. Bachens Sub No. 24. Lebet in Frankfurth an der Oder p. t. als Studiosus u informiret auf dem Clavier. Gebohren den 14ten
März 1714.

No. 47. Joh. Gottfried Bernhard Bach, 3ter Sohn Joh. Seb. Bachs Sub No. 24. ist Organist in Mühlhausen an der Marien oder OberKirche. Gebohren den 11ten May 1715.

No. 48. Gottfried Heinrich Bach, 4ter Sohn Joh. Seb. Bachs Sub No. 24. Ist | gebohren den 26ten Febr. An. 1724. inclinirt gleichfalls zur Musik, inspecie zum Clavier.

No. 49. Joh. Christoph Friedrich Bach, 5ter Sohn Joh. Seb. Bachs, Sub No. 24. ist gebohren den 21ten Junii An. 1732.

No. 50. Joh. Christian Bach, 6ter Sohn Joh. Seb. Bachs Sub No. 24. nat. 1735 den 5ten Sept.

No. 51. Joh. Christoph Bach, Joh. Nicolai Bachs Sub No. 27 ältester Sohn

No. 52. Bach, Joh. Nic. Bachs Sub No. 27 zweyter Sohn

No. 53. Joh. Heinrich Bach, Joh. Christoph Bachs Sub No. 28. einziger Sohn. Ist ein guter Clavieriste An 173』

3.曾祖父:ヨハネス・バッハ一世Johannes・Bach(1580年頃~1626年12月26日)は、ゴータの町の音楽家が弟子として連れて行ったほどの著しい音楽的才能を持っていた。ヨハネスは弟子終了後もそこに住み続けた。
ファイト・バッハの息子ヨハネスは父のパン屋・製粉業を引き継ぐ前は、叔父カスパル・バッハのもとで音楽の修業を積んだ。1599年頃ヴェヒマールに定住し、地元の宿屋の娘アンナ・シュミットと結婚した。1619年父ファイト・バッハが亡くなり父親の遺産を継いだ。家業のパン職人のかたわら、ゴータの管楽師長マッツ・ツイースェッキに音楽を学びながら、町楽師として一緒に近隣のゴータ、エアフルト、アルンシュタットアイゼナハ、シュマルカルデン、ズールの町などの音楽家に請われて頻繁に出演した。ヨハネスはペストの蔓延した1626年12月26日亡くなり、その妻アンナは1635年9月18日に亡くなった。音楽家として評判は、死後の記録に”ミンストレル”として残っている。
ヨハネスには音楽家になった3人の息子、ヨハネス二世(1604年11月26日~1673年)、ハンス・クリストフ(1613年4月19日~1661年)、ハインリッヒ(1615年9月16日~1692年)を生んだ。他にハンスジュニア(1600年頃生まれ)。 ハインリッヒ(1602年頃生まれ)、 ハインリッヒ(1615年9月16日生まれ)、ゲオルク(1617年生まれ)、ハンス・ セバスチャン(1622年頃~1631年)と、名前がわからない少なくとも3人の娘が生まれていたようだ。
弟のリップス・バッハは絨毯織職人だったがマイニンゲン・バッハ家系の祖となり、この家系の末裔は20世紀へ続いている

4.祖父:クリストフ・バッハChristoph Bach(1613年4月19日ヴェヒマール生まれ~1661年頃アルンシュタットで歿)の音楽的教育は、はじめ父から学び、後にスーラー市シュタットプファイフェンのホフマンHoffmannに学んだといわれている。1633年ヴェヒマール宮廷の王子の音楽家になる。1640年ザクセンのプレッテインに移りヴァイオリン奏者になる。1641年スーラー市シュタットプファイフェンの娘、アンナ・マグダレーナ・グラブラーと知り合い結婚。1641年ドロシア・マリアを出産。1642年エアフルトに移り宮廷音楽家になり、同年から1652年までの間、エアフルト楽師評議員だった。1642年9月長男ゲオルグ・クリストフ誕生(1697歿)。1645年ヨハン・セバスチャン・バッハの父となるヨハン・アンブロジウス誕生(1695歿)、そして双子の兄弟ヨハン・クリストフ誕生(1693年歿)。1654年アルンシュタットに移りアルンシュタット市と伯爵宮廷の音楽家となり生涯をその地でおくった

5.父:ヨハン・アンブロジウス・バッハJohann Ambrosius Bachは、1645年にエアフルトで生まれ~1695年2月20日アイゼナハで歿した。アンブロジウスは歌を歌い、オルガンを弾き、ヴァイオリンやトランペットを演奏したといわれている。1667年からエアフルトでヴァイオリン奏者兼市参事会付楽師を務め、1668年4月8日子供の頃からの友達で、市参事会員、毛皮加工職人ヴァレンティン・レンマーヒルトの娘マリア・エリーザペト・レンマーヒルト(1644~1694)と結婚した。夫婦にはヨハン・クリストフ三世(1671=~1721)とヨハン・ヤーコブ(1682~1722)、ヨハン・セバスチャン(1685~1750)という息子が生まれた後に音楽家になった。1671年アイゼナッハに移住してザクセン選帝侯のヴァルトブルク城(16世紀初頭、宗教改革者マルティン・ルターMartin・Lutherがフリードリヒ賢侯にかくまわれた城)のラッパ手及び宮廷楽団首席トランペット奏者を務めた。彼は「カノン」で知られる著名な作曲家ヨハン・パッヘルベルと親交があった。その縁でバッハの兄ヨハン・クリストフの音楽の師でもあった。1694年5月1日母マリア・エリザベートが亡くなり、11月7日バルバラ・マルガレッタ・ネクェルと再婚。翌年1695年3月2日父アンブロジウスが50才で亡くなると、その24日後に義母バルバラ・マーガレッタも後を追うように亡くなった

<この項、参考資料>
1. ヨハン・ニコラウス・フォルケルJohann Nikolaus Forkelの著書、1802年刊行ライプツィヒ、ホッフマイスター&キューネル社『 ヨハン・セバスチャン・バッハの生涯と芸術と作品について ŪBER JOHANN SEBASTIAN BACHS LEBEN,KUNST UND KUNSTWERKE 』原書によると次のように書かれている
Wenn es je eine Familie gegeben hat, in welcher eine ausgezeichnete Anlage zu einer und eben derselben Kunst gleichsam erblich zu seyn schien, so war es gewiß die Bachische. Durch sechs Generationen hindurch haben sich kaum zwey oder drey Glieder derselben gefunden, die nicht die Gabe eines vorzüglichen Talents zur Musik von der Natur erhalten hatten, und die Ausbildung dieser Kunst zu der Hauptbeschäftigung ihres Lebens machten.Der Stammvater dieser in musikalischer Hinsicht so merkwürdig gewordenen Familie hieß Veit Bach. Er war ein Bäcker zu Presburg in Ungarn. Beym Ausbruch der Religions-Unruhen im sechszehnten Jahrhundert wurde er aber genöthigt, sich einen andern Wohnort aufzusuchen. Er rettete von seinem Vermögen, was er konnte, und zog damit nach Thüringen, wo er Ruhe und Sicherheit zu finden hoffte. Der Ort, an welchem er sich in dieser Gegend niederließ, ist Wechmar, ein nahe bey Gotha liegendes Dorf. Er fing hier bald an, sich wieder mit seiner Bäcker-Profession zu beschäftigen, vergnügte sich aber nebenher bey müßigen Stunden sehr gerne mit der Cyther, die er sogar mit in die Mühle nahm, und während dem Mahlen unter allem Getöse und Geklapper der Mühle darauf spielte. Diese Neigung zur Musik pflanzte er auf seine beyden Söhne, diese wieder auf die ihrigen fort, bis nach und nach eine sehr ausgebreitete Familie entstand, die in allen ihren Zweigen nicht nur musikalisch war, sondern auch ihr Hauptgeschäft aus der Musik machte, und bald die meisten Cantor-, Organisten- und Stadtmusikanten-Stellen der Thüringischen Gegenden in ihrem Besitz hatte.
《編者訳:同じ芸術への優れた気質が遺伝的であるように思われる家族がいたとしたら、それは確かにバッハでした。 六世代の間に、音楽の優れた才能の賜物を自然から受けず、この芸術の教育を彼らの人生の主な職業にしなかった同じグループのメンバーはほとんどいませんでした》
《編者訳:この音楽的に注目に値する家族の祖先は、[Veit Bach]と呼ばれていました。彼はハンガリーのプレスバーグのパン屋でした。しかし、十六世紀の宗教不安の勃発で、彼は別の居住地を探すことを余儀なくされました。彼は自分の財産を救い、平和と安全を見つけることを望んでいたチューリンゲン(Thüringen)に移りました。彼がこの地域に定住した場所は、ゴータの近くの村、ヴェヒマール(Wechmar)です。彼はすぐに再びパン屋の職業に就き始めましたが、待ち時間の間、彼はCythringe(中世のcitoleシトルの子孫であるといわれている)をとても楽しんでいた。Cythringeは彼と一緒に製粉工場に持っていき、工場の喧騒の中でそれを粉砕しながら遊んだ。彼はこの音楽を2人の息子に教え、これを二人の子は彼らの息子に教えた。それは、後にカントル、オルガニスト、町の音楽士としてほとんどはチューリンゲン地方を中心に活躍している。》
2. クリストフ・オルフ Christoph Wolffによって、「The New Grove Bach Family(1997)」の第3の理論が発表された。この理論によると、バッハ家はもともとテューリンゲン自由州出身。そこでは最初のバッハの名を冠した人が14世紀に早くも言及された。しかし、バッハの先祖の父ファイト・バッハはモラビアまたは、スロバキアの元移民の息子として生まれた。ヨハン・セバスチャン・バッハの家族記録の中の「ハンガリー」という場所は文字通りに解釈されるべきではなく、ハプスブルク家君主制の中央地域を指す一般的な言語使用法の中にあるべきだという。1784年のコラビンスキーの証言(上記参照)がファイト・バッハがハンガリーのブラチスラバに住んでいたことにするならば、それはおそらく彼の出身地でもあった。オルフはおおよその生年を挙げていないが、彼の理論によれば、ファイト・バッハは第一と第二の理論で想定されたよりも早い世代に生まれる必要があった(およそ1520年)。オルフはシュヴァルカルディック戦争(1545-47)の間にファイト・バッハはすでに追放されヴェヒマールに行ったと仮定しているからである。そこで彼はすでに1577年頃に亡くなった。現在、 彼の息子ヨハネス・バッハJohannes Bachとリップス・バッハLips BachがヴェヒマールWechmarの住宅所有者として言及されるようになったからである(彼らはおそらく当時彼らの父親の財産を相続していたのだろう)。 1561年に言及されたハンス・バッハはこのファイト・バッハの兄弟または従兄弟であったに違いない。1619年にヴェヒマールWechmarの教会書にその死が記録されているファイト・バッハはその家族のもう一人のメンバーであり、おそらく先祖ファイト・バッハVeit Bachの従兄弟であった 』と書かれている
3. 引用「バッハの生涯と芸術」Johann Nikolaus Forkel著 柴田治三郎 訳23P、24P
4. (https://de.wikipedia.org/wiki/Veit_Bachから引用                               
5. 「バッハの生涯と芸術」Johann Nikolaus Forkel著 柴田治三郎 訳23P、24P
(https://de.wikipedia.org/wiki/Veit_Bachから引用                               
※Christoph・Wolff クリストフ・オルフ:(1940年ドイツ生まれの音楽学者・ハーバード大学名誉教授、2001~2013年Bach Archiv Leipzig Direktorバッハ・アルヒーフ・ライプツィヒ所長、2004~2013年RISM総裁、現名誉総裁)
※J・M・Korabinskyは彼の本 ” Pressburg1784”(Pressburg都市の説明1784)で当時のハンガリーに属していたBratislavaの都市はファイト・バッハVeit・Bachのハンガリーの住居であると主張した

バッハ

バッハ家とは、 16 世紀後半から 19 世紀半ばにかけて中部ドイツで活躍した、数多くの男性の音楽家、オルガン奏者、作曲家を輩出した大家族を指します。その中で最も有名で影響力があったのはヨハン・セバスティアン・バッハでした。

この芸術家ファミリーには4 つの主要な系統 があり、世代を経ていくつかの枝分かれを形成しました。

1. エアフルト系
アメリカ支系
2. フランコニア系
オードルフ支系
3. アルンシュタット系
4. マイニンゲン系
バッハ家の男性メンバーは、一世紀にわたってエアフルトの音楽生活を支配し、1793 年には、その名前を持つ人が長い間住んでいなかったにもかかわらず、町のすべての笛吹きがまだ「バッハ」と呼ばれていたほどでした。[1]カウフマン教会の教会記録だけでも、家族の60件以上の子供の洗礼、結婚式、葬儀が記録されている。

1. ファイト・バッハ(1555 年頃 – 1619 年)、ヴェヒマールのパン屋、製粉業者、アマチュア音楽家- 音楽一家の先祖
1. ヨハン「ハンス」バッハ 1 世(1580 年頃 – 1626 年)、町の笛吹き男、⚭ アンナ、旧姓鍛冶屋
1. ヨハン「ハンス」バッハ 3 世(1604 ~ 1673 年)、作曲家、オルガン奏者、町の笛吹奏者。 ⚭ I.: バーバラ、旧姓ホフマン。 ⚭ II.: 1637 年、ヘ
ドヴィヒ、旧姓レンマーヒルト。 –エアフルト系
1. ヨハン・クリスチャン・バッハ(1640–1682)、市音楽監督、⚭ I.: アンナ・マルガレータ、旧姓シュミット。 ⚭ II: ドロテア、旧姓ピーター
1. ヨハン・クリストフ・バッハ 4 世(1673–1727)、カントール、オルガン奏者、作曲家
1. ヨハン・ザムエル・バッハ(1694–1720)、宮廷音楽家、教師
2, ヨハン・クリスティアン・バッハ2世 (1696–)、宮廷音楽家
2. ヨハン・アイギディウス・バッハ 1 世(1645 ~ 1716 年)、ヴィオラ奏者、アルト奏者、ラツムジークの監督。 ⚭ I.: マリア・スザンナ、旧姓シ
ュミット。 ⚭ II: ジュディス・カタリーナ、旧姓シリング
1. ヨハン・ベルンハルト・バッハ 1 世(1676–1749)、チェンバロ奏者、オルガン奏者、作曲家、⚭ ヨハンナ・ソフィア、旧姓ジーファー
1. ヨハン・エルンスト・バッハ(1722–1777)、作曲家、オルガニスト、⚭ フロレンティーナ・カタリーナ、旧姓マルシュ
1. ヨハン・ゲオルク・バッハ 1 世(1751–1797)、宮廷および市のオルガン奏者、法廷擁護者およびカースト管理者、⚭ ヨハンナ・エリザベート、旧姓ランギウス
ヨハン・クリストフ・バッハ 6 世 (1685 ~ 1740 年)、市音楽監督、⚭ I.: カタリーナ、旧姓シリング (またはシェル)、未亡人の貴族。 ⚭ II.: 1719年 レベッカ・レギーネ、旧姓ヴェルナー
ヨハン・フリードリヒ・バッハ2世(1706年 – 1743年)、カントル、⚭エレオノール・マリア、旧姓ラングラ。
ヨハン・クリストフ・バッハ9世 (1736–1808)、合唱団の音楽家、⚭ NN
ヨハン・フリードリヒ・ニコラウス・バッハ (1761–1829)、音楽家、⚭ NN – 彼の子孫は1848年にアメリカに移住しました[2]
ヨハン・クリストフ・バッハ
ヨハン・カール・フリードリヒ(シャルル・フレデリック・バッハ、1808–1876)、農家、⚭ スザンヌ・カタリーナ、旧姓ギュルドナー

ヨハン・アウグスト・ラインホルト・バッハと家族
ヨハン・アウグスト・ラインホルト・バッハ (1835–1914)、農民、大工、楽器製作者、音楽家、⚭ カタリーナ・バーバラ、旧姓バウアー
チャールズ・オーガスト・バッハ (1862–1938)、1898 年にブルッキングスのオーケストラの創設者、⚭ コーラ・イルマ、旧姓クランストン
レイノルド・ヘンリー・バック (1868–1923)、宝石商、オルガンディーラー、1892 年:バッハ音楽会社、オタワ (ミネソタ) 市長、⚭ ジェシー F.、旧姓ニューソルト
アドルフ・マティアス・バッハ (1879–1977)、ピアニスト、フルート奏者、1892 年:バッハ音楽会社、ロチェスター (ミネソタ州)市長、⚭ エセル・メイ、旧姓ベックリンガー
フィリップ・フレデリック・バッハ (1928–2008)、ピアニスト、オルガン奏者、ピアノおよびオルガン製作者[3]、⚭ シャーリー、旧姓ホーナー
ヨハン・ニコラウス・バッハ 1 世 (1653–1682)、市議会音楽家
クリストフ・バッハ(1613–1661)、町の笛吹き男、「伯爵の宮廷兼町の音楽家」、⚭ マグダレナ、旧姓グラブラー –フランケン系
ゲオルク・クリストフ・バッハ(1642–1697)、作曲家、オルガン奏者、⚭ アンナ・ジュディタ、旧姓プレッツェルン
ヨハン・ヴァレンティン・バッハ (1669–1720)、オルガン奏者、町の笛吹奏者、⚭ アンナ・クリスティアナ、旧姓ゴットベヒュット
ヨハン・ローレンツ・バッハ(1695–1773)、作曲家、オルガン奏者、⚭ カタリーナ、旧姓フロンベ
ヨハン・エリアス・バッハ(1705–1755)、作曲家、カントル、⚭ I.: ヨハンナ・ロジーナ、旧姓フリッチュ。 ⚭ II.: 1746 アンナ・マリア、旧姓ヒュルザー
ヨハン・クリストフ・バッハ 2 世(1645–1693)、ヴァイオリニスト、宮廷音楽家、⚭ マルタ・エリザベート、旧姓アイゼントラウト
ヨハン・エルンスト・バッハ(1683–1739)、オルガン奏者、⚭ I.: アンナ・ヘレナ・マルガレータ、旧姓ヴィルト。 ⚭ II.: マグダレナ・クリスティアナ、旧姓ショーバー
ヨハン・クリストフ・バッハ 7 世 (1689–1740)、⚭ ソフィー・エレノア、旧姓ローゼンベルガー

ヨハン・アンブロジウス・バッハ
ヨハン・アンブロジウス・バッハ(1645–1695)、町の笛吹き男、⚭エリザベート・レンマーヒルト
ヨハン・クリストフ・バッハ 3 世(1671–1721)、オルガニスト、⚭ ヨハンナ・ドロテア、宮廷出身 -オードルフ支部
トビアス・フリードリヒ・バッハ(1695–1768)、オルガン奏者、宮廷カントル、⚭ スザンナ・エリザベート、旧姓ヴェルクナー
ヨハン・ベルンハルト・バッハ 2 世(1700–1743)、オルガン奏者、作曲家、⚭ アンナ・クリスティーナ、旧姓ロート
ヨハン・クリストフ・バッハ 8 世(1702–1756)、教師兼カントル、⚭ ヨハンナ・クリスティーン・ソフィー、旧姓マイヤー
エルンスト・カール・ゴットフリート・バッハ (1738–1801)、⚭ エリザベート・マグダレナ、旧姓ヴォルフ
エルンスト・カール・クリスチャン・バッハ(1785–1859)、プロテスタントの聖職者および教師、⚭ ソフィー・シャルロット、旧姓バッハ、ヨハン・クリストフ・バッハ 8 世の孫娘 (いとこ結婚)
ヨハン・ハインリヒ・バッハ(1707–1783)、教師兼オルガン奏者、⚭ I.: マリア・スザンヌ、旧姓レンナー。 ⚭ II.: 1749 年、マリー・クリスティアーヌ、旧姓ブリンクマン
ヨハン・アンドレアス・バッハ(1713–1779)、オートボエ奏者、オルガン奏者
ヨハン・クリストフ・ゲオルク・バッハ(1747–1814)、オルガン奏者
ヨハン・ヤコブ・バッハ(1682–1722)、オーボエ奏者、⚭ I.: スザンナ・マリア、旧姓ガースト。 ⚭ II.: インゲボルグ・マグダレナ、旧姓ノレル

ヨハン・セバスティアン・バッハとその息子たち、カール・フィリップ・エマヌエル、ヨハン・クリスチャン、ヴィルヘルム・フリーデマン、ヨハン・クリストフ・d・バッハ。 J.
ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685–1750)、作曲家、チェンバロ奏者、オルガン奏者。 ⚭ I.:マリア・バルバラ・バッハ(1684–1720)、またいとこ。 ⚭ II.: 1721 年アンナ・マグダレナ、旧姓ヴィルケ(1701–1760)
ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(1710–1784)、作曲家、⚭ ドロテア・エリザベート、旧姓ゲオルク – (ドレスデン・バッハまたはハレッシャー・バッハ)
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714–1788)、作曲家、ピアニスト、⚭ ヨハンナ・マリア、旧姓ダンネマン – (ハンブルク・バッハまたはベルリン・バッハ)
ヨハン・セバスティアン・バッハ d. J. (1748–1778)、製図家、画家
ヨハン・ゴットフリート・ベルンハルト・バッハ(1715–1739)、オルガン奏者
ゴットフリート・ハインリヒ・バッハ(1724–1763)、音楽家
ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ(1732–1795)、作曲家、宮廷音楽家、⚭ ルチア・エリザベート、旧姓ミュンヒハウゼン – ( Bückeburger Bach )

ヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンスト・バッハ
ヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンスト・バッハ(1759–1845)、作曲家、チェンバロ奏者、宮廷指揮者。 ⚭ I.: シャルロット・フィリピナ・ヘンリエッタ、旧姓エラート。 ⚭ II.: ヴィルヘルミーネ・スザンヌ、旧姓アルブレヒト – いわゆる「ミンデナー・バッハ」
ヨハン・クリスティアン・バッハ(1735–1782)、作曲家兼オルガン奏者、⚭セシリア・グラッシ– いわゆる「ミラノのバッハ」または「ロンドンのバッハ」
ハインリヒ・バッハ 1 世(1615–1692)、オルガン奏者、⚭ エヴァ、旧姓ホフマン – いわゆるアルンシュタット・ライン
ヨハン・クリストフ・バッハ 1 世(1642–1703)、作曲家、⚭ マリア・エリザベート、旧姓ヴェーデマン
ヨハン・ニコラウス・バッハ 2 世(1669–1753)、作曲家、オルガン奏者。 ⚭ I.: アンナ・アマリア、旧姓バウラート。 ⚭ II.: 1713 アンナ・シビラ、旧姓ランゲ
ヨハン・クリストフ・バッハ 5 世 (1676–1740)、⚭ アンナ、旧姓メンク
ヨハン・フリードリヒ・バッハ 1 世 (1682–1730)、オルガニスト、⚭ I.: マルタ・マリー、旧姓シュレーダーはホルツを亡くしました。 ⚭ II.: アンナ・シドニア、旧姓メルバッハ
ヨハン・ミヒャエル・バッハ(1648–1694)、カントル兼オルガニスト、⚭ カタリーナ、旧姓ヴェーデマン – ( Gehrener Bach )
マリア・バルバラ・バッハ(1684–1720) –ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685–1750)と結婚
ヨハン・ギュンター・バッハ1世(1653–1683)、オルガン奏者、⚭アンナ・マルガレーテ、旧姓ケウル
フィリップス・“リップス”・バッハ (1580 年頃 – 1620 年頃) –マイニンガー線
ヴェンデル・バッハ (1617–1682)、ヴォルフスベーリンゲンの農民
ヤコブ・バッハ(1655–1718)、カントル、⚭ I.: アンナ・マルテ、旧姓シュミット。 ⚭ II: 1677 年、ドロテア・カタリーナ、旧姓ヘルヴィッヒ。 ⚭ III.: 1698 年 クリスティアーネ・レジーナ、旧姓フォーゲラー – いわゆる「ルーラー・バッハ」
ヨハン・ルートヴィヒ・バッハ(1677–1731)、作曲家兼バンドマスター、⚭ スザンナ・マリア、旧姓ルスト – (マイニンガー・バッハ)
サミュエル・アントン・バッハ (1713–1781)、法学者、画家
ゴットリープ・フリードリヒ・バッハ(1714–1785)、宮廷画家、宮廷オルガン奏者、⚭ ジュリアン・フリーデリケ・シャルロット、旧姓アンシング

ヨハン・フィリップ・バッハ
ヨハン・フィリップ・バッハ(1752–1846)、宮廷オルガン奏者、宮廷チェンバロ奏者、肖像画家。 ⚭ I.: アマリー、旧姓ブリーグレブ。 ⚭ II.: ヨハンナ・ロジーヌ、旧姓フランケンバーグ
フリードリヒ・カール・エドゥアルド・バッハ (1815–1903)、森林主任、⚭ アルマ・ヴィルヘルミナ、旧姓ヒルペルト
カール・ベルンハルト・パウル・バッハ (1878–1968)、音楽家
アナリース・バッハ (1912–2008)、⚭ルドルフ・オルトナー、バウハウス建築家
ニコラウス・エフライム・バッハ(1690–1760)、オルガニスト兼牧師、⚭ I.: ドロテ・エレオノール、旧姓スタール。 ⚭ II.: ソフィア・フリーデリカ、旧姓ハーバーストロフ – (ガンダースハイマー・バッハ)
ゲオルク・ミヒャエル・バッハ (1703–1771)、カントル、⚭ クララ・エリザベート、旧姓シュライヤー
ヨハン・クリスティアン・バッハ4世(1743–1814)、ピアニスト – (ハレーシェ・クラヴィーア・バッハ)
アンドレアス・バッハ (1587–1637)、テマール市議会議員
ヨハン・バッハ 4 世 (1621–1686)、牧師
ヨハン・シュテファン・バッハ(1665–1717)、音楽家、詩人。 ⚭ I.: ドロテア、旧姓シュルツェ。 ⚭ II.: 1701 年、ドロテア・カタリーナ、旧姓シャフェルト
ヨハン・アルブレヒト (1703–1782)、牧師および学長
カスパール・バッハ 1 世 (1570–1640)、町の笛吹き男、⚭ カタリーナ NN
カスパール・バッハ2世(1600年頃〜)、チェンバロ奏者

参考文献:「バッハの生涯と芸術」Johann Nikolaus Forkel著 柴田治三郎 訳 / 「 " Ursprung der musicalisch-Bachischen family " (https://archive.org/details/originoffamilyof00bach)」 / 「『 " Ursprung der musicalisch-Bachischen family 』、https://jsbach.de/bachs-welt/dokumente/1735-ende-des-jahres-ursprung-der-musicalisch-bachischen-familie」 / https://www.bach-leipzig.de/de/neutral/johann-sebastian-bach-%E2%80%93-eine-chronologie / https://www.koethen-anhalt.de/de/bach-eisenach/johannsebastianbachdiekindheitineisenach-104003008952.html / https://www.bach.de/leben/ / https://jsbach.de/bachorte/eisenach / 「バッハ」角倉一郎著 音楽之友社発行 / 「クラシック作曲家辞典」中河原理監修、フェニックス企画編 東京出版堂 / 「音楽史(音楽講座)」堀内敬三著 音楽之友社 /  「偉大なる作曲家のためのカルテ」五島雄一郎著 医療ジャーナル社 / 「バッハ魂のエヴァンゲリスト」礒山雅著 東京書籍 / 「バッハへの旅」その生涯と由縁の街を巡る加藤浩子(文)若月伸一(写真)東京書籍発行 / 「バッハからの贈りもの」鈴木政雅明/加藤浩子(聞き手)春秋社発行 / 「大作曲家の生涯」ハロルド・C・ショーンバーグ著/亀井旭・玉木裕(共訳)共同通信社発行 / 「作曲家別/名曲解説ライブラリー⑫J・S・バッハ」音楽之友社 編者 / 「大作曲家たちの履歴書(上)」三枝成彰 著 中央公論新社 / 「https://de.wikipedia.org/wiki/Veit_Bach」 / 「https://en.wikipedia.org/wiki/Bach_family」 / 「http://www.classichistory.net/archives/bach-family-tree」 / 「wikipedia」 / 「glennmie.blog.s0-net.ne.jp」 / 「robortkelloyphd.com」 / 「dictionary/composer/alkan」 / 「maucamedus.net/solmization/gawut」 / 「www.tcat.ne.jp/eden/music」 / 「www.cadenza-od.com」 / 「http://www.bach-cantatas.com/Lib/Family-Tree.htm」 / 「www.coara.or.jp/-doraemon/gagaku/nenpyoz.htm」 / 「https://gw.geneanet.org/rivallainf?lang=en&n=bach&oc=0&p=johann+sebastian」 / 「www.gecities.jp/gzgaku.ryuteki」 / 「www.univesal-music,co.jp」 / 「maokato.jp/bihoro/bihoro / 「homepage3.nifty.com/cio/a-alta」 / 「www.wagnerdailas.com」 / 「https://www.findagrave.com/memorial/182884355/christoph-bach」 / 「https://ja.wikipedia.org/wiki/」 / 「https://de.wikipedia.org/wiki/Christoph_Bach_(Musiker)」 / https://www.geni.com/people/Johann-Bach/6000000008174402366 / https://music2me.com/de/magazin/johann-sebastian-bach#bachs-erziehung-kindheit-familie / https://www.lernhelfer.de/schuelerlexikon/musik/artikel/johann-sebastian-bach / https://eisenach.life/de/orte/museen/bachhaus / https://www.kronobase.org/chronologie-categorie-Johann+Sebastian+Bach.html / https://www.br-klassik.de/themen/klassik-entdecken/alte-musik/stichwort-dietrich-buxtehude-102.html / https://www.bach-cantatas.com/Lib/Family-Tree.htm / https://www.bach.de/leben/weimar_1703.html / https://jsbach.de/bachs-welt/dokumente/1735-ende-des-jahres-ursprung-der-musicalisch-bachischen-familie / http://pietro.music.coocan.jp/storia/bach_vita.html / https://de.wikipedia.org/wiki/Bach_(Musikerfamilie)