父JアンブロジウスとJSバッハの家族

<父 J・アンブロジウス・バッハの家族The Family of J・Ambrosius・Bach>
父ヨハン・アンブロジウス・バッハJohann Ambrosius Bach1645年2月22日-1694年5月1日(49歳歿)
アイゼナハでは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの父ヨハン・アンブロジウスは1667年からエアフルトの町楽団でヴァイオリン奏者を務めた。1671年10月から1695年に亡くなるまで、町の音楽監督として働いていた。1672年にザクセン=ワイマール公ヨハン・ゲオルク一世が自身のザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ公国を設立すると、ヨハン・アンブロジウスを宮廷音楽家に任命した。アンブロジウスはアルンシュタットの市議会議員を務め、宮廷トランペット奏者であった。
町の音楽監督としての職務には、市庁舎の塔から一日二回コラールを演奏し、祝祭日には教会の音楽家を補佐し、市民や自治体の行事に音楽を提供することが求められた。彼は傑出した多才な音楽家であったに違いない。アイゼナハの町の年代記作者は『1672年、新しい町の音楽監督はイースターにオルガン、ヴァイオリン、声楽、トランペット、ケトルドラムで音楽を演奏したが、これはアイゼナハの歴史上それまでに知られていなかったことである』と記されている。
アンブロジウスはクリストフ・バッハ(1613-1661)宮廷兼町の音楽家の息子で、ヨハン・クリストフ・バッハ二世と双子の兄弟であった。カール・フィリップ・エマヌエル・バッハが1774年に家系図を更新したとき、双子は容姿も癖もそっくりで、妻たちですら見分けがつかないほどだったと記している。
妻マリア・エリザベート・レンマーヒルトMaria Elisabetha Bach(Lämmerhirt)1644年2月24日エアフルト生-1694年5月1日アイゼナハ(50歳歿)
マリアは、エアフルトの毛皮商人で御者だったヴァレンティン・レマーヒルト(1605年-1665年)の娘。1668年4月8日、マリアは幼なじみのヨハン・アンブロジウス・バッハと結婚した。夫婦は1671年にエアフルトを離れ、アイゼナハに定住し、1685年に8人目の息子、ヨハン・セバスチャン・バッハが生まれた。
1. 1670年1月19日-1670年7月17日長男Johann Rudolf Bach/Erfurt, Thuringia, Germany生まれ。半年後に歿。
2. 1671年6月16日-1721年2月22日二男ヨハン・クリストフ・バッハJohann Christoph Bach, III/母マリア・エリーザベト・レマーヒルトはその年の初めに亡くなり、父ヨハン・アンブロジウス・バッハも翌年3月に亡くなった。それまでアイゼナハで父と暮らしていた2人の弟、ヨハン・ヤコブとヨハン・セバスチャンは、オールドルフのヨハン・クリストフの家族と一緒に暮らすようになった。当時、ヨハン・ヤコブは13歳、ヨハン・セバスチャンは10歳にもなっていなかった。
3. 1673年3月6日-1691年4月05日三男ヨハン・バルタザール・バッハJohann Balthasar Bach/Eisenach, TH, Prussia, Germany生まれ。
4. 1675年-1685年四男Johann Jonas Bach/Eisenach, Thuringia, Germany生まれ。
5. 1677年5月28日-1728年12月28日長女マリア ・サロメ・ ヴィーガント( 旧姓バッハ)Maria Salome Bach/エアフルトの毛皮商人でレマーヒルト家のビジネスパートナーであるヨハン・アンドレアス・ヴィーガントと結婚した。
6. 1680年1月26日-1686年5月3日二女ヨハンナ・ジュディタ・バッハJohanna Juditha Bach/Eisenach, TH, Germany生まれ。
7. 1682年2月9日-1722年4月16日五男Johann Jacob Bach/Eisenach, TH,生まれの音楽家、作曲家であり、ヨハン・セバスチャン・バッハの兄であった。
8. 1685年3月21日-1750年7月28日六男ヨハン・セバスティアン・バッハJohann Sebastian Bach
9. 推定1650年頃から1706年頃生/七男ヨハン・クリスティアン・バッハJohann Christian Bach
・ 1694年11月7日父、バルバラ・マルガレータと再婚

<ヨハン・セバスティアン・バッハの家族>  
Ⅰ・最初の妻:マリア・バルバラ・バッハ(Maria Barbara Bach(1684年10月20日ゲーレン、チューリンゲン生-1720年7月5日-ケーテン(アンハルト歿)は、作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハの又従姉。ハインリヒ・バッハの孫に当たり、父親はヨハン・ミヒャエル・バッハ(1708-1774)であった。
Ⅱ・<ヨハン・セバスティアン・バッハとマリア・バルバラ・バッハの子>
1. 1708年12月28日-1774年1月14日長女カタリーナ・ドルテア・バッハCatharina Dorothea Bach:ワイマール、テューリンゲン州生まれ。
2. 1710年11月22日-1784年7月1日長男ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハトWilhelm Friedemann Bach:ワイマール、テューリンゲン州生まれの作曲家、オルガニス。
3. 1713年2月23日-1713年2月23日二女マリア・ソフィア・バッハMaria Sophia Bachワイマール、テューリンゲン州生まれ。
4. 1714年3月8日-1788年12月14日二男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハCarl Philipp Emanuel Bachワイマール、テューリンゲン州生まれ。父の友人ゲオルク・フィリップ・テレマンの作曲様式を受け継ぎ、ギャラント様式や多感様式を追究して、古典派音楽の基礎を築き、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンやベートーヴェンにも影響を与えたといわれている。
5. 1715年5月11日-1739年5月27日三男ヨハン・ゴットフリート・ベルンハルト・バッハJohann Gottfried Bernhard Bach:ライプツィヒ生まれのオルガニスト・作曲家。
6. 1718年11月15日-1719年9月29日四レオポルト・アウグストゥス・バッハLeopold Augustus Bach:ケーテン、ザクセン アンハルト州生まれ。
・後妻:アンナ・マグダレーナ・バッハ(Anna Magdalena Bach, 1701年9月22日-1760年2月22日)ライプツィヒ出身/旧姓ヴィルケ Wilcke)。ザクセン=ヴァイセンフェルス公の宮廷トランペット奏者、ヨハン・カスパール・ヴィルケと、オルガニストの娘であったマルガレータ・エリーザベトの7人兄弟の末子(姉5人、兄1人)としてツァイツに生れる。1721年JSバッハと結婚。
Ⅲ・<ヨハン・セバスチャン・バッハとアンナ・マグダレーナ・バッハの子>
7. 1723年クリスティアナ・ソフィア・ヘンリエッタ・バッハ Christiana Sophia Henrietta Bach:ケーテン、ザクセン アンハルト州生まれ。
8. 1724年2月26日-1763年2月12日Gottfried Henrich Bach/Leipzig, Sachsen, Deutschland/死亡:1763年2月12日Naumburg (Saale), Sachsen-Anhalt, Deutschland
9. 1725年4月12日-1728年9月21日Christian Gottlieb Bach誕生/Leipzig, Leipzig, Saxony,/死亡:Leipzig, Leipzig, Saxony,
10. 1726年4月5-1781年8月24日日Elisabeth Juliana Fredrica Altnikol誕生/Johann Christoph Altnikol の妻
11. 1727年10月30日-1727年11月1日Ernestus Andreas Bach誕生/Leipzig, Leipzig, Saxony, Germany/死亡:Leipzig, Leipzig, Saxony, Germany
12. 1728年10月10日-1733年4月25日Regina Johanna Bach誕生/Leipzig, Leipzig, Saxony,/死亡:Leipzig, Leipzig, Saxony
13. 1730年1月1日-1730年1月4日Christiana Benedicta Louise Bach誕生/Leipzig, Leipzig, Saxony,/死亡:Leipzig, Leipzig, S,axony
14. 1731年3月18日-1732年8月13日Christiana Dorothea Bach誕生誕生/Leipzig, Leipzig, Saxon/死亡:Leipzig, Leipzig, S,axony
15. 1732年6月21日-1795年1月26日ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハJohann Cristoph Friedrich Bach:ライプツィヒ生まれの前古典派作曲家/死亡:Bückeburg, Germany
16. 1733年11月5日-1733年11月6日Johann August Abraham Bach誕生/Leipzig, Leipzig, Saxony,/死亡:Leipzig, Leipzig, S,axony
17. 1735年9月5日-1782年1月1日ヨハン・クリスティアン・バッハJohann Christian Bach:ライプツィヒ生まれの作曲家、クラヴィーア奏者/死亡:London, England
18. 1737年10月30日-1781年8月16日Johanna Carolina Bach誕生/Leipzig, Leipzig, Saxony,/死亡:Leipzig, Leipzig, Saxony,
19. 1742年10月14日-1809年5月15日Regina Susanna Bach誕生/Leipzig, Leipzig, Saxony,/死亡:Leipzig, Leipzig, Saxony,

Ⅳ・<先妻:マリア バルバラ バッハ(Maria Barbara Bach)概略>(1684年10月20日ゲーレン、チューリンゲン生-1720年7月5日-ケーテン(アンハルト歿)
マリア・バルバラは、バッハ家の音楽家の子孫の始まりといわれているヨハネス・バッハ一世を曾祖父にもち、祖父ハインリヒ・バッハ(ハインリヒは、音楽家バッハ家のいわゆるアルンシュタット系の祖)である。マリア・バルバラの父ヨハン・ミヒャエル・バッハは(ヨハン・ゼバスティアン・バッハの大叔父)でアルンシュタットのカントルを務め、その後ゲーレンのオルガン奏者および市職員を務めた。父ミヒャエルはマリア・バルバラが九歳の時に亡くなった。アルンシュタット出身の母、カタリーナ・ヴェーデマンは 1704年に亡くなった。その後、マリア・バルバラは 二人の姉、フリーダレーナ・マルガレータとバルバラ・カタリーナ・バッハとともに、アルンシュタット市長マルティン・フェルドハウスとその妻マルガレーテ(旧姓ヴェーデマン)の家に住んでいた。

Ⅴ・<後妻:アンナ・マグダレーナ・バッハ旧姓ヴィルケ(Anna Magdalena Bach概略>(1701年9月22日-1760年2月22日)ライプツィヒ出身
1701年9月22日マグダレーナは、ツァイツの宮廷トランペット奏者ヨハン・カスパー・ヴィルケとマルガレータ・エリザベート・ヴィルケ(旧姓リーベ)の娘として生まれた。9月23日に宮殿の礼拝堂でアンナ・マグダレーナとして洗礼を受けた。
マグダレーナは兄弟姉妹の中で末っ子(彼女の兄は1717年にツェルプストの宮廷トランペット奏者になり三人の姉妹は宮廷トランペット奏者と結婚しした。)
1718年ツァイツの家が売却され、父親はヴァイセンフェルスの宮廷トランペット奏者の地位に就いた。
1721年6月、アンナ・マグダレーナ・ヴィルケの名前が、ケーテンの文書に初めて登場する(聖体拝領の際、誤ってマル・マグダレーナ・ヴィルケと記載される)。
9月、彼女は洗礼名簿に「宮廷歌手」または「室内楽奏者」として登録され、名付け親の役割を引き受けた。
彼女が宮廷の記録に初めて登場するのは結婚後であり、彼女の給与はバッハ首席楽長とシュピース・コンサートマスターに次ぐ額であった。
1721年12月3日(ケーテン)「ザクセンおよびヴァイセンフェルスの高位公爵家の宮廷および野戦トランペット奏者、ヨハン・カスパー・ヴュルケ氏の末娘、アンナ・マグダレーナ嬢」が「高位公爵家の宮廷楽長ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」と結婚(結婚登録簿の記載)。結婚式は公爵の許可を得て自宅で行われた。
ヨハン・セバスチャン・バッハの最初の妻は1720年7月に亡くなり、彼には6歳、7歳、11歳、12歳の4人の子供がいた。
マグダレーナ・バッハは13人の子供を出産した。
1723年5月22日ライプツィヒ聖トーマス学校のアパートメントに移転し、バッハが聖トーマス学校のカントル(音楽教育だけでなく他のレッスンも担当) とライプツィヒ市の音楽監督に就任した。
1724年、1725年、1729年:ケーテンの宮廷でアンナ・マグダレーナ・バッハが演奏した証拠が残されている。
1732年夫とカッセルへ旅する
1741年ライプツィヒでマグダレーナは重病に陥るが、回復した。
1750年7月28日ライプツィヒでバッハが亡くなり、8月31日に聖ヨハネ教会の墓地に埋葬された。
1750年8月ライプツィヒでアンナ・マグダレーナ・バッハが市議会の交代を祝う式典でカンタータの演奏を担当した。
夫の死後、彼女は、父親の死の時点で8歳と12歳だった二人の末娘と、知的障害のある26歳の息子ゴットフリート・ハインリッヒの世話をした。
彼女は未成年の子供たちの遺産を管理していた。
財産の分配中の彼女の行動は、彼女には家族を養う必要がないほどの余裕のあるお金があることをはっきりと示していた。
未亡人のアンナ・マグダレーナ・バッハは、ライプツィヒ大学とライプツィヒ市を通じて遺産から援助を受けていたが、後者は彼女が自立することを条件としていた。
財産の分配中に、彼女は居住スペースを貸し出せるような条件を整えた。
家族はノイアー・キルヒホフ通りに住んでいた。
アンナ・マグダレーナは『フーガの技法』の出版に参加し、この作品の配給業者として活動した。
1752年未亡人は義理の息子カール・フィリップ・エマヌエルによってライプツィヒの作品『Veruch über die wahre Art das Clavier zu spielen』の配給者に指名され、1752年、1754年、1759年の広告で興味のある人は彼女に連絡するよう呼びかけた。
1760年2月27日(ライプツィヒ)アンナ・マグダレーナ・バッハが亡くなり、2月29日に埋葬された。