肖像画提供:寄川靖宏 様(FBグループ「クラシックを聴こう」メンバー)
團 伊玖磨
DAN, Ikuma
(1924年4月7日東京、豊多摩郡原宿村、現・四谷の慶応病院で生れる)
(2001年5月17日午前1時40分頃、日中文化交流協会代表団団長として訪れていた中国で、心不全を起こし救急車で搬送された江蘇省蘇州市第二人民病院で没する。遺体は翌日、上海から神奈川県横須賀市秋谷の自宅に帰る。葬儀は6月21日東京、文京区の護国寺において行われた)
Birth place:Tokyo Japan
Date of Birth:7/4/1924
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1.職業
日本の作曲家
2.家族
祖父・琢磨(1858~1932年)男爵、三井合名会社理事長、日本工業倶楽部初代理事長
祖母・美智子(明治の政治家・金子堅太郎の妹)
父・伊能(1892~1973年)男爵、美術史家、東大助教授、参議院議員、現ブリジストンサイクル社長、日産自動車社長、九州朝日放送会長
母・美智子(宮内省大膳頭を務めた上野季三郎の五女)
伊玖磨の妹・朗子はブロヂストン会長の石橋幹一郎に嫁いだ
<團伊玖磨の家族>
最初の妻:桑原瑛子(ソプラノ歌手)
長男・名保紀は群馬大学教授
二番目の妻:藤枝和子(ピアニスト)
二男・紀彦は建築家、その娘の遥香は女優
3.歴史年譜
1924年(大正13年)
4月7日東京、豊多摩郡原宿村、現・四谷の慶応病院で、父・伊能(31歳)、母・美智子〔20歳)の長男として生まれる。父は東京帝国大学で西洋美術史を講じていた。父の弟、勝麿は都立大学名誉教授
1931年(昭和6年)7才
4月青山師範学校付属小学校入学する
父母は独特な教養教育を子供達に与えていて呉れた。文学、美術、一般教養、その中に音楽もあった。男でもピアノ位弾けなくてはと、妹達とピアノを8才頃から習っている。初歩的な作曲も教養として実習している。伊玖磨は ” それに、どういう訳か僕の心からはいつも旋律が流れ出していた。下地はあったのである ” と自伝に書いている。
團家の家訓に「代々親の職業を継がない」というのがある。祖父は生前、伊玖磨の父に ” 家には家業が無い。世襲は人間を楽にしてしまう。楽では無いだろうが、しっかり自分でやる事だ ” と述べたという。また伊玖磨の息子にも似たような話が伝わっていて伊玖磨がそれを自伝のなかで語っている ” 僕の子供が葉山の小学校の一年生だった時、余りにも音楽の点が悪いのを怪しんだ先生が僕と家内を呼んだ事があった 。” お宅では音楽教育をどう思っていらっしゃるのですか ” すぐ傍で先生の話を聞いていた息子が ” 先生うちじゃ音楽は間に合ってます ” と言った。先生は笑い出してこの話はそのままになった。帰ってから僕は息子を褒めた。 ” 君は今日立派な事を言った。君がいくら音楽を勉強しても僕の二番煎じになる。君はうちで間に合っていないものをやれ ” うちでは世襲は御法度
1932年(昭和7年)8才
3月祖父團琢磨暗殺される
1935年(昭和10年)11才
小学校5年生の時、小児結核を患って半年程葉山で静養する
1937年(昭和12年)13才
青山学院中等部に入学。病気のために既に大学を辞めてしまった父をはじめ家中が暗い顔をし始め、祖父を失った家庭には、既に没落の陰がさし始め、原宿の家を売り麻布の材木町へと引っ越す
1938年(昭和13年)14才
中学2年の時、ピアノを一宮三千子先生に習う。ノクターン、間奏曲、前奏曲、藤村の「初恋」歌曲等幾つもの作品を仕上げていた。ある時、ピアノの上に置いたまま出掛けてしまった留守に妹のピアノのレッスンに見えた一宮三千子先生(東京音楽学校ピアノ科を出てお茶の水の教授)に見られる。帰ってきた伊玖磨に ” あなたは素晴らしいことをしています。美しいわ、ただ、基礎的な間違いがまだ数カ所あります、ちゃんとした先生に就いて基礎の勉強をなさい、私応援しますわ ” 先生から母へ、母から父へ、作曲の本格的な勉強するかどうかの話が進む。母は心から賛成、父は危惧を持つ。父はそんなに作曲をしたいのなら、日本一の山田耕筰先生に君の書いたものを見て貰え、そして、山田がやれと言えば勉強するが良い、駄目だと言えばやめるのだ、良いねという事になる
伊玖磨の自伝から引用する 「 1939年の梅雨の頃だった。原宿から移って当時住んでいた麻布材木町の家から僕は父に連れられて赤坂檜町の山田耕筰邸まで歩いて行った。実は、僕を連れて行く事に就いて、父と山田耕筰との間には僕の知らない取り決めが交わされていた。全部後で知ったことだが父は、息子が作曲をしたいとか言ってじたばたしているが、時代も時代だし、才能も判らないから、連れて行った時に反対してくれるように頼んだそうである。それに対し山田耕筰は何と ” ようがす ” と言ったのだ。そうである。これが、この間お話した息子です。山田先生は ” これ出来たばかりのオペラ「Bllack Shhip」の総譜 ” と父に示されたりし、そうした話の中にも、先生の鋭い視線がちら、ちらと僕に注がれているのを意識していた。そのうちに、先生は急に ” 坊や、こっちに来なさい ” と僕を応接室から奥の座敷に続いていた縁側に連れて行き、僕の顔を両手に挟んでじっと見下ろした。恐ろしい眼だった。突然、先生は僕にとも、父にとも無く、然しはっきりした声で言われた ” この子には作曲をやらせましょう ” 帰り道、父はぷんぷんしていた。亡くなられるまで、山田先生はこの時の事をしばしば楽しそうに話された。 ” あれはヒットだったね、親父のおろおろしている顔が今でも眼に浮かぶよ、良い親父だったね、面白かったね ” 先生のこの一言で僕の将来が決まったのである 」と伊玖磨は語っている
1940年(昭和15年)16才
当時ベルリンでヒンデミットの薫陶を受けて帰国されたばかりの下総皖一に和声学を、一方ピアノもベルリンでシュナーベルに師事して帰国された福井直俊につき東京音楽学校受験のための勉強を開始する
1942年(昭和17年)18才
音楽学校受験の前日父から ” いいかね、明日は君の一生が決まる受験だ。入学したならば在学中は一応の面倒を見るが、卒業したら君がふやけた人間にならぬために一切の援助はしない。いいね ” と言われる。伊玖磨は ” 結構です。自分で選んだ道ですから ” そう約束する
東京音楽学校作曲家に入学。下総皖一に和声学と対位法、橋本国彦に近代和声学と管弦楽法、細川碧に楽式論を学び校外では山田耕筰に実作指導を受ける。その年歌曲「朱き木の実」他作曲
1943年(昭和18年)19才
歌曲「向日葵の歌」、混声合唱「わすれなぐさ」、歌曲「しぐれに寄する抒情」など作曲
1944年(昭和19年)20才
東京音楽学校在籍のまま、陸軍戸山学校軍楽隊入隊、鼓手をつとめるかたわら吹奏楽編曲を行う
1945年(昭和20年)21才
軍楽学術優秀之証授与される
復員後、東京音楽学校作曲科卒業
諸井三郎に対位法と楽曲分析学ぶ
歌曲集《六つの子供の歌》作曲
《さより》「六つの子供の歌」より 北原白秋作詞
演奏:ソプラノ・間庭小枝 伴奏・米山知里
1946年(昭和21年)22才
近衛秀麿に管弦楽法、指揮法を学ぶ
1947年(昭和22年)23才
桑原瑛子と結婚。東京音楽学校お茶の水分校教官となる
横浜フェリス女学院音楽科助教授となる。
歌曲《花の街》作曲
演奏:小川明子(アルト)山田啓明(ピアノ)
平成27年度東京藝術大学音楽学部同声会徳島県支部主催演奏会
1948年(昭和23年)24才
NHK専属作曲家となり教育番組、ラジオドラマ等の作曲指揮を行う
1949年(昭和24年)25才
民話劇《夕鶴》演劇付帯音楽作曲
1950年(昭和25年)26才
東京音楽学校お茶の水分教場教官を辞任。童謡《ぞうさん》作曲。桑原瑛子と協議離婚なる
1951年(昭和26年)27才。藤枝和子と結婚
NHK創立25周年記念管弦楽曲コンクールで《交響曲第一番》特賞受賞
指揮:上田仁 / 演奏:東京交響楽団
1952年(昭和27年)28才
演劇付帯音楽「夕鶴」毎日演劇賞受賞
オペラ《夕鶴》大阪で初演し毎日音楽賞・伊庭歌劇賞・山田耕筰作曲賞受賞
オペラ《夕鶴》600回公演記念 1994年3月2・9日新宿文化センター
鮫島有美子(つう)/立川清登(運ず)/平野 忠彦(惣ど)
團 伊玖磨(指揮)東京フィルハーモニー交響楽団
1953年(昭和28年)29歳
6月芥川也寸志、團伊玖磨と「3人の会」を結成。管弦楽作品を中心に華々しく演奏会を開催し、以後作曲家として活動をはじめるなど戦後の作曲界を牽引した。(事務所は新橋の第一ホテル横のビルの地下にあったようだ)。
『 三人の会に話を移せば、われわれは相前後して上野を卒業したわけだが、私はすぐパリへ留学し、昭和二十七年に帰国した。それを待ちかまえていたのが芥川さんで、パリの話をいろいろ聞かせろという。~省略~これから大いにひとつ、今までの日本の作曲界になかった様な、大きな運動を起こそうということになり、早速、團さんに話したら大賛成だという。まず手はじめに、それぞれ自作を指揮してオーケストラの作品発表をやることになった。幸い、三人とも、当時黄金時代を迎えていた映画や放送など、コマーシャルな音楽の場にも進出していて、他の作曲家に比べれば、経済的にも幾らか恵まれた状態にあったが、さりとて一人でオーケストラの作品発表をやるのは大変な負担だから、三人で分担すれば三分の一で出来るではないか、というのも「三人の会」結成の別な理由でもあった。「三人の会」という名前は、一見なんの変哲もない平凡な名前だが、これからの日本の音楽はわれわれ三人で背負って立つのだという気概が秘められていたことは勿論である(註1) 』と黛は語る。『 三人が京都で顔を合わせたのは、全くの偶然だったのです。~省略~当時は映画会社が各社とも、かなりの数の映画を京都撮影所で作っておりましたので、三人とも映画音楽の仕事で京都に来合わせたのです。加茂川沿い、木屋町五条の宿屋で、何となく話が始りました。” 三人で共同して作品発表会をやれば、プログラムも面白くなるし、第一、経費が三分の一で済む。三人で会でも作ろうか・・・” 偶然顔を合わせ、何となく始まった話は、たちまち会の結成から<三人の会>という名前を決めるところまで行きました』と芥川は語っている(註2)
(註1)「芥川也寸志」 その芸術と行動 「三人の会」は不滅である 黛敏郎 東京新聞出版局 26頁引用
(註2)「自伝抄Ⅱ 歌の旅」 芥川也寸志著作 読売新聞社発行 277~278頁引用
写真 黛敏郎、伊福部昭、芥川也寸志、團伊玖磨
《NHKラジオ体操第二の曲》作曲
《北海道美幌農業高等学校校歌》を作曲する
1954年(昭和29年)30才
1月芥川也寸志、黛敏郎と團伊玖磨の<三人の会>第一回演奏会を日比谷公会堂で開催
以降、日比谷公会堂、新宿コマ劇場、よみうりホール、大阪フェスティヴァルホールと一年おきに五回の作品演奏会を開いた
初めて映画音楽を手掛ける
NHK専属作曲家を辞す
1955年(昭和30年)31才
フランス、ドイツ、オーストリア、イタリアを訪れオペラ50数曲聴く
東宝映画専属音楽監督就任
オペラ《聴耳頭巾》大阪で初演。映画「ここに泉あり」音楽担当する
1956年(昭和31年)32才
アメリカ、ドイツ、フランスを旅し、イギリスに渡り半年間滞在する。イラン、イラクを旅しペルシャ、アラビア音楽を研究する
1957年(昭和32年)33才
映画音楽「雪国」と「メソポタミア」でブルーリボン賞受賞
オペラ《夕鶴》スイス、チューリッヒ市立歌劇場でヨーロッパ初演、出演砂原美智子(ソプラノ)
1958年(昭和33年)34才
オペラ《楊貴妃》東京で初演
《祝典行進曲》作曲
演奏:陸上自衛隊中央音楽隊
1960年(昭和35年)36才
オペラ《夕鶴》ニューヨークでアメリカ初演、出演大谷洌子(ソプラノ)
1964年(昭和39年)40才
第18回東京オリンピック開催、序曲《東京オリンピック》・《祝典序曲》演奏
八丈島に仕事場を構える。東宝映画専属音楽監督を辞す
雑誌「アサヒグラフ」に随筆パイプのけむり」の連載始まる
吹奏楽作品集 Vol.2 《オリンピック序曲》
1965年41才
7月28日《交響曲第四番》八丈島で完成
指揮:團伊玖磨 演奏:ウィーン交響楽団
1966年(昭和41年)42才
日本芸術院賞を受ける
1970~75(昭和45年)46才
年團伊玖磨ポップスコンサート、日本テレビ系で放映
1972年(昭和47年)48才
オペラ《ひかりごけ》大阪初演、芸術選奨・文部大臣賞受賞
1973年(昭和48年)49才
父の死(81才)
日中文化交流協会常任理事就任。日本芸術院会員に選ばれる
1975年(昭和50年)51才
外務省の文化使節団としてニュージランド、オーストラリアに訪問。週刊読売に「にっぽんの歌」連載開始。オペラ《チャンチキ》東京で初演。連載開始
1976年(昭和51年)52才
文化庁委託事業「オペラ研修所」所長に就任
第一回日本音楽家代表団団長として訪中
1977年(昭和52年)53才
日中文化交流協会代表団員として訪中、シルクロードを旅す
1978年(昭和53年)54才
第2回日本音楽家代表団団長として訪中、北京・西安・上海を訪問
1979年(昭和54年)55才
オペラ「夕鶴」北京、天津、上海で公演
1981年(昭和56年)57才
第3回日本音楽家代表団団長として訪中、北京・洛陽・西安・上海を訪問
1982年
合唱と管弦楽のための《横須賀》
作詞:栗原一登
指揮:團伊玖磨 / 演奏:横須賀交響楽団
合唱:横須賀市合唱団体連絡協議会合唱団、横須賀少年少女合唱団
1983年(昭和58年)59才
日中文化交流協会代表団団員として訪中、北京、開封、成都、上海訪問
1985年(昭和60年)61才
日本中国文化交流協会代表理事に就任。日本音楽家代表団団長として訪中
《交響曲第6番》「HIROSHIMA」広島平和コンサートで初演
1987年(昭和62年)63才
ユーゴスラビア等東欧三カ国に文化使節団団長として派遣される
11月9日東京ステーション・コンサートを開始(246回開催)2000年終了
1989年(平成元年・昭和64年)65才
日本経済新聞紙上に「私の履歴書」掲載
日本中国文化交流協会「代表団団長として訪中
1990年(平成2年)66才
母の死(86才)
NHK文化賞受賞。
1991年(平成3年)67才
日本芸術院第三部(音楽・演劇・舞踏)部長に就任
1993年(平成5年)69才
中国日本友好協会から「中日友好使者」の称号授与される
1994年(平成6年)70才
新潟市民芸術文化会館の芸術顧問に任命される
1995年(平成7年)71才
日本文化交流協会代表団団長として訪中、江沢民国家首席と会見。中国人民対外友好協会から「人民友好使者」の商号を授与
1997年(平成9年)73才
日本中国文化交流協会会長に就任。中華人民共和国文化部から「文化交流後見奨」を授与
9月3日急性心筋梗塞を起こし約一カ月入院する
10月10日 オペラ《建・TAKERU》全三幕を作曲
<こけら落とし公演> オペラ《建・TAKERU》第一幕
<こけら落とし公演> オペラ《建・TAKERU》第三幕
1998年(平成10年)74才
国際交流基金賞受賞
1999年(平成11年)75才
文化功労者に選出
日本中国文化交流協会代表団団長として訪中
2000年(平成12年)76才
妻・和子急性心筋梗塞で急死(75才)
2001年(平成元年)77才
5月17日日本中国文化交流協会代表団団長として中国訪問中に心不全を起こし、江蘇省蘇州市の病院で死す。
6月21日東京、文京区の護国寺において葬儀が行われる
神奈川文化賞授与される
4.主な作品
5.主要作品-演奏会記録
6.初演
1950年3月21日 交響曲第1番 指揮:近衛秀麿 / 日本交響楽団 日比谷公会堂
1952年1月30日 オペラ「夕鶴」藤原歌劇団 大阪朝日会館
1955年6月23日 管絃楽組曲「シルクロード」 指揮:團伊玖磨 / 東京交響楽団 第2回演奏会 日比谷公会堂
1956年4月5日 交響曲第2番 指揮:上田仁 / 東京交響楽団 第77回定期演奏会
1960年3月27日 交響曲第3番 指揮:岩城宏之 / NHK交響楽団 第4回「三人の会」演奏会
1965年10月13日 交響曲第4番 指揮:團伊玖磨 / 読売日本交響楽団 神奈川県立音楽堂
1965年10月19日 交響曲第5番 指揮:團伊玖磨 / 読売日本交響楽団 沼津市公会堂
1972年4月27日 オペラ《ひかりごけ》大阪国際フェスティバルホール
1985年10月4日 交響曲第6番 指揮:團伊玖磨 / 広島交響楽団 赤尾三千子(笛)、曽我栄子(S.) 「平和コンサート」
1997年10月10日 《建・TAKERU》 指揮:星出豊 / 東京交響楽団 新国立劇場こけら落とし公演(天覧公演)
※病のため、公演冒頭の「君が代」のみ團伊玖磨が指揮を行なった
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8.祖父と父
1.祖父・團琢磨
1858年(安政5年)、福岡藩馬廻200石の下級武士・神屋宅之丞の三男として出生。幼少から利発を理由に福岡藩権大参事團尚静の養子となるが養父母に実子が誕生し分家される。
1871年福岡藩の留学生として岩倉具視の遣米使節団に同行。米国ボストンのマサチューセッツ工科大学で鉱山学を修め、
1878年帰国。工部省三池炭鉱の開発に就く。民間払下げで三井の実力者・増田孝に実力を買われ三井鉱山へ就職入社。
25才で親友金子堅太郎の妹・ヨシ(父親は金子清蔵)と結婚。その後三井の全国の鉱山長となり、後に三井合名会社理事長就任のほか日本工業倶楽部理事長、日本経済連盟会長。
1928年男爵に叙せられる
1932年農民血盟団員菱沼五郎に射殺される。祖父は世襲を認めず、自分の将来は自分自分で責任を持ち、職業も自分で決めるのが家憲と定めにより伊玖磨の一生に影響を与えた人物の一人となる
2.父・伊能
1892年2月21日福岡県大牟田で出生した。実業家・政治家・美術史家、男爵
1917年東京帝国大学文化大学哲学科美術史科卒業。翌年3月宮内省嘱託としてハーバード大学、ロンドン大学、リヨン大学に留学し
1921年8月帰国。同年11月欧米視察実業団随員として外遊
1922年5月帰国
1923年4月東京帝国大学講師となり美術史を講義。その頃宮内省大膳頭を務めた上野季三郎の五女、美智子と結ばれたと考えられる
1928年助教授
1932年爵位を襲爵
1933年病気の為退官。国際文化振興会に入り常務理事就任
1938年パリ万博理事として渡仏
1940年ニューヨーク万博日本事務総長として渡米
1946年貴族院議員となる
1947年参議院議員となり厚生政務次官
1950年富士精密工業社長
1954年日本美術協会会長
1955年国際文化振興会副会長ブリジストンタイヤ取締役、プリンス自動車社長、九州朝日放送社長を歴任
1957年箱根ハイランドホテル開業
1956~1957年文化勲章並びに文化功労章選考委員を務める
3.父母の兄弟姉妹
父・伊能の長姉・めいは三井鉱山社長を務めたた牧田環に嫁いだ
父・伊能の三姉・スミは日本石油社長を務めた小倉房蔵嫁いだ
伊能の妻・美智子の二姉・エイは服部玄三に嫁いだ。玄三の父・金太郎は服部時計店の創業者。玄三は服部時計店二代目社長となった
美智子の三姉・富美は加藤厚太郎に嫁いだ。厚太郎の父・高明は第24代内閣総理大臣、母・春路は三菱の創業者・岩崎弥太郎の長女。厚太郎は日新火災海上・取締役になった
美智子の四姉・米子は佐々木行忠に嫁いだ。行忠は伊勢神宮大宮司を務めた後、神社本庁統理、国学院大学理事長・学長になった