誕生から音大卒業まで
3. 小澤征爾 歴史年譜Seiji Ozawa:Career Timeline
1935年(昭和10年)誕生Birth
9月1日満州国奉天、奉天医大病院で小澤家の三男として生まれ、奉天の平安通りの家で育った。
・母さくらが語る『前日の夜おそく産気づいたので、トランクに荷物を入れて、一恵さんといっしょに馬車に乗って医大病院に行きました。生まれたのは明け方でした。一恵さんは病院の廊下でひとり征爾の産声第一声を聞いたのです。お産は難産でなく、安産でした。とても大きくて、一貫目(4キロ)以上でした、大連病院の病院中で一番大きな赤ちゃんで、「大関」と言われました。生まれてからもとても元気に育ちました。一週間ぐらい入院していたと思います。』。
・父開作は、毎日会って親しくしていた関東軍参謀・板垣征四郎と同じく参謀の石原莞爾の二人から一字ずつもらって「征爾」と名付けた。板垣は[少年老い易く学成り難し]の書を書いてくれた。のちに兄弟たちは、長兄・克己は彫刻家、次兄・俊夫はドイツ文学者・筑波大副学長を務め弟・幹雄は司会・講師・音楽ジャーナリスト・著作者となった。
・母さくらが語る『征爾は生まれた時、離乳期にお腹をこわしたりして体調をくずし、あんまり笑わない子でした。のちに征爾が教えていただくことになる斉藤秀雄先生のお母さんの「おとらおばさん」も、私が満州に行く途中、東京で挨拶に行った時に、こう言ってくれました。"若い人は結婚をすごく華やかな、幸せ一杯のものと思っていると思うけど、悲しいことや苦しいことがいっぱい待ち構えているものです。でもそれはみんな神様があなたを試す試練なんだから、それに耐えていかなくてはいけません"この言葉を私は、何か事あるにごとに、いつも思い出して、すごく心の支えにしていました。だから私は母や叔母たちに弱音を言ったことは一度もありません。それは自分でもとてもよかったと思っているんです。だって遠くにいる母たちにぐちを言ったって、心配かけるだけだし……。あとで斉藤秀雄先生がおとらおばさんの写真を送ってくれました。今でも大事に手元に持っています。その写真は征爾たちも小さい時から見ているわけで、征爾が中学三年の時、一人で斉藤先生に弟子入りをお願いしに行った際に"おとらおばさんという親戚がいるらしいけど、先生の何ですか"と聞いて斉藤先生を苦笑させたということです。』
・2000年8月長野県奥志賀高原で大江健三郎は、『小澤さんが西洋の音楽を学び始めた、そしてそれを外国に向かって出していった、そもそものきっかけは、どういうことでしたか』。小澤征爾はこう答えた、『おふくろはキリスト教徒なもんで、教会で賛美歌をうたう。子供たちを日曜学校に無理やり連れてって、そのうちに僕たちはだんだん面白くなってその日曜学校が大好きになった。男の子四人だったものですから、当然四人で賛美歌をうたう。だから音楽の最初はまったく賛美歌です。おふくろや日曜学校で教わった賛美歌。亡くなった一番上の兄貴はすごい音楽的才能のある男で、音楽を本気になって勉強し始めた。本当に物がないときで、ピアノもありませんから、ハーモニカとかアコーディオンとか、いまから思うと木琴のようなもので、名前忘れちゃったんだけど、鉄でできている楽器で叩くと音が出るわけですね(多分=鉄琴のこと編者)。一番手近にあったのがアコーディオンで、それが僕にとっては最初の音楽です。教会へ行ってオルガンを聴いて、下の兄弟三人の中で一番のめり込んでいったのが僕で、結局、長男と三男の僕が最後まで音楽を続けた』
引用文献:小澤征爾・大江健三郎『同じ年に生まれて』、中央公論新社、2001年、P14~15
1936年(昭和11年)1歳
10月一家は奉天から北京に移り北京市東単新開路35号に住む。父開作が北京で協和会と同じものを作ることのなった。
↓(写真)


昭和14年頃、山中湖の別荘にて
小澤征爾の幼年時代

1941年(昭和16年)6歳 幼稚園
『日中戦争を底なしの泥沼と見たおやじはおふくろと僕たち兄弟を日本に帰すことに決める。
「軍の輸送に迷惑をかけるから余計なものは持って行くな」と厳命され、家財道具はほとんど置いてきた。持ち帰ったのは着替えと中国の火鍋子、家族の写真アルバム。それからアコーディオンもあった。僕が生まれて初めて触った楽器だ。
船と列車を乗り継いで日本に引き揚げた。41年5月だった。』
北京から帰国し立川市柴崎町三丁目の貸家に住む。自宅の前にあった若草幼稚園に入園した。

児童劇団「つぼみ子供会」


写真:釜山近くの温泉、四兄弟
1942年(昭和17年)7歳 小学一年
・立川国民学校入学。
↓ 立川国民学校入学式後列右から七人目

・長兄からアコーディオンの手ほどきを受け、小学校4年頃には習得している。
・柴崎町三丁目に家を買い移った。
『柴崎小学校に入る。学校ではどうかすると「是(シ)(はい)」「不是(プシ)(いいえ)」とか中国語が出て悪ガキどもにからかわれた。頭に来て黙っていたら中国語はすっかり忘れてしまった。
北京に1人残ったおやじは「華北評論」の刊行を続ける。「小澤公館」の看板を掲げた家には従軍記者の小林秀雄さんや林房雄さんも訪れたらしい。』
1943年(昭18年)8歳 小学二年
やがて、父開作は関東軍により満州国退去勧告を受け帰国した。
帰国後は軍需大臣遠藤三郎の招きで軍需省顧問等を務め終戦を迎える。戦後は極東国際軍事裁判の弁護側証人として出廷し板垣征四郎の証人に立つ。その後はいろいろな仕事に手を出し、川崎の宮川病院に務め、歯科医院を開業した
・2000年8月長野県奥志賀高原で大江健三郎は、『小澤さんが西洋の音楽を学び始めた、そしてそれを外国に向かって出していった、そもそものきっかけは、どういうことでしたか』。小澤征爾はこう答えた、『おふくろはキリスト教徒なもんで、教会で賛美歌をうたう。子供たちを日曜学校に無理やり連れてって、そのうちに僕たちはだんだん面白くなってその日曜学校が大好きになった。男の子四人だったものですから、当然四人で賛美歌をうたう。だから音楽の最初はまったく賛美歌です。おふくろや日曜学校で教わった賛美歌。亡くなった一番上の兄貴はすごい音楽的才能のある男で、音楽を本気になって勉強し始めた。本当に物がないときで、ピアノもありませんから、ハーモニカとかアコーディオンとか、いまから思うと木琴のようなもので、名前忘れちゃったんだけど、鉄でできている楽器で叩くと音が出るわけですね(多分=鉄琴のこと編者)。一番手近にあったのがアコーディオンで、それが僕にとっては最初の音楽です。教会へ行ってオルガンを聴いて、下の兄弟三人の中で一番のめり込んでいったのが僕で、結局、長男と三男の僕が最後まで音楽を続けた』
参考文献:小澤征爾・大江健三郎『同じ年に生まれて』、中央公論新社、2001年、P14~15
1944年(昭19年)9歳 小学三年
『だんだん空襲がひどくなり、2人の兄貴が庭に掘った防空壕(ごう)にたびたび潜り込んだ。
ある日、警報のサイレンが鳴っても構わず、庭で弟のポンと遊んでいたら敵機がダダダダーッと撃ってきた。隣の桑畑に砂煙が上がった。腰を抜かしたポンがその場にへたりこんだ。低空飛行だったから操縦士の顔がぼんやり見えた。初めて見る西洋人だった。あの頃は食う物がなくて、よくおふくろとポンと多摩川まで雑草を摘みに行ったのを覚えている。
おやじは引き揚げ後、陸軍の遠藤三郎中将の委嘱で軍需省の顧問をやる一方、満州時代の仲間と対中和平工作を始めていた。国民党の蒋介石が交渉の条件として「天皇の特使として石原莞爾を出せ」と言ってきたらしい。そのために手分けして重臣たちの説得に当たっていたようだ。おやじは、敗戦後間もなく割腹自殺した陸軍の本庄繁大将の担当だと言っていた。だが工作は結局、失敗する。』
1945年昭和20年10歳 小学四年
『8月6日。広島に原子爆弾が落ちた。広島で軍医をしていた叔父の静は命こそ助かったものの被爆している。9日、長崎にも原爆が落とされた。15日、敗戦。玉音放送を家族で聞いた。おやじが僕たち兄弟に言った。
「日本人は日清戦争以来、勝ってばかりで涙を知らない冷酷な国民になってしまった。だから今ここで負けて涙を知るのはいいことなのだ。これからは、お前たちは好きなことをやれ」。
敗戦から何日かして、おやじが今度は突然「これからは野球だ」と言い出した。
おふくろにごわごわした布きれでグローブを作らせ、僕や近所の子供を集めて野球チームを作った。おやじが監督で、僕がピッチャーだった。小学四年の夏のことだ。』
・『敗戦から何日かして、おやじが今度は突然"これからは野球だ"と言い出した。おふくろのごわごわした布きれでグローブを作らせ、僕や近所の子供を集めて野球チームを作った。おやじが監督で、僕がピッチャーだった。小学四年生の夏のことだ』。
・『戦時中、上の克己兄貴からアコーディオン教わっていた僕は、だんだん物足りなくなった。小学生の担任の青木キヨ先生はピアノができる人で、ある日講堂で弾いているときに”触ってもいいよ”と言って隣に座らせてくれた。初めてピアノに触れたのはその時だ。小学校四年の終わりごろだった。』。
・克己兄が音楽の先生にピアノを習い始めていた。府立二中(現都立立川高校)に通っていたころで、小澤がピアノに触れた頃とほぼ同じ頃であった。
バイエル教則本で最初に手ほどきをしたのは克己兄からであった。
1946年(昭和21年)11歳 小学五年
4月頃長兄の通う府立二中の許しを得て、音楽室のピアノのを特別に使わせてもらい克己兄からレッスンを受け続けた。
・兄たちが"征爾にもっと本格的にピアノをやらせたいから家にもピアノが一台あるといいねと話し合っているのを、父開作が聞いた。征爾にピアノを手に入れて本格的にやらせようと小澤家は決めた。
・父開作は方々伝手を頼ってピアノを探した。静叔父の妻英子の横浜の実家にあるアップライトピアンを三千円で譲ってもらえることになる。開作は北京で買った愛用のライカを売って工面した。兄たちがリヤカーを借りて運ぶのを開作も途中から手伝う、三日かけて横浜から立川の家まで運んだのだった。途中農家に一晩ピアノを預けたり、親戚の家に泊めて貰ったりの道中だったようだ。
・柴崎小学校の五年生の学芸会でベートーヴェンの《エリーゼのために》を弾いて初めて人前での演奏だった。
・このとき兄からピアノの手ほどきを受けたのが後に征爾に音楽家として大事な縁となった。その頃、二中の大和先生からピアノを教わる。
・この頃征爾は小学校野球部のエースピッチャーとして活躍していた。上井草球場で東京都大会にも出場した。
1947年(昭和22年)12歳 小学六年
・小学校五年、卒業式で送辞を読む。
・父開作はミシン会社製造の白百合ミシン会社を小田原に設立し経営をはじめる。
『おやじは歯医者に戻ればいいものを「長いことやってないからもう忘れた」と言って、商売を始めてはことごとく失敗した。僕が小学校6年生の時にはミシン製造の会社を始めるというので、立川の家を売り払い、小田原の近くの神奈川県足柄上郡金田村へ移る。わらぶき屋根の古い農家に住み、おふくろが慣れない百姓仕事で米を作って育ち盛りの4人の息子を食わせた。』
・征爾は家から細道を少し行くと流れの急な小川があらり、夏は泳いで遊んだ。
・4月金田村小学校6年に転入学した。田んぼの中を三十分ぐらい歩くと金田小学校があった。
・征爾は担任の先生に、音楽の授業でオルガン弾きを任されるようになる。
・金田小学校の間、小田原市内の石黒先生にピアノのレッスンを受けた
・兄たちの所属する小田原の合唱団「シグナス」に征爾も時々ピアノ伴奏にかり出されていた
1948年(昭和23年13歳 中学一年
3月、金田小学校を卒業。

『中学に入学する段になって、慣れない農村の学校よりは私学のほうが良かろうということになった。どこの中学に通うかだいぶ家族で迷ったすえ、家からは二時間半もかかったが、おふくろが成城学園に決めた。』
・『ピアノの豊増昇先生に弟子入りしたのもその頃だ。不思議なもので、先生のお兄さんがおやじの新民会の仲間だったのだ。ドイツ帰りの高名な先生で、新しいお弟子はとっていなかったが、特別に見てもらえることになった。』
・小澤は成城に入る頃から、父の知人の紹介でピアノを豊増昇に師事しており世田谷の九品仏までレッスンに通った。
豊増先生のピアノのレッスンのある日は、泥まみれの姿で先生宅へ通った。先輩の舘野泉や他の者はリストやショパンを弾いていたが、小澤はバッハばかりを弾かされ課題も多く必死で練習した。この頃の小澤はピアニストを目指していた。見込みがあるからとある時から月謝をとらなくなりタダでレッスンを見てくれた。
先輩の舘野泉や他の者はリストやショパンを弾いていたが、征爾はバッハばかりを弾かされ課題も多く必死で練習した。
・4月成城学園中学校一学年入学
・小田急新松田駅から二時間もかかる遠距離通学だった。
・金田村の家に帰ってくるのは夜遅かった。
『小田急沿線の成城学園中学校に行くことになった。クラスは「柳組」で担任は今井信雄先生、三年間同じだった。隣のクラスには小坂一也がいた。朝六時前、小田急新松田からニ時間半もかかる遠距離通学だった。母のさくらは父兄会や授業参観日があると学校に来た。征爾は母を見つけると「おかあちゃーん、帰りにいっしょに帰ろうねぇー」と言って遠くから大声で呼びかけた。
・中学に入り当初はピアノをやるので危なくない卓球部に入った征爾だが、同級の松尾勝吾に誘われラグビーをはじめるようになった。ポジションはフォワードであった。放課後は連日夕方遅くまでラクビー部の猛練習が続いた。
・松尾勝吾は後年、新日鐵釜石の選手として活躍し、ラクビー日本一の社会人チームの監督になった。小澤はラクビー部の主要メンバーとなっていった。
・学校の事務所の前の掲示板には「右の者、授業料滞納につき・・・」という張り紙が出されるといつも小澤の名前が書かれてあった。『父の経営するミシン会社が失敗しスッカラカンになるという事態になってしまったから、途中から月謝は滞りがちとなりうちは本当に貧乏で、成城の学費滞納もしょっちゅうだった。豊増先生が最後はただで見てくれたのだからありがたい。家計を支えたのはおふくろの内職だ。母さくらが衣類の行商をしたり、毛糸を編んで「九重織」というネクタイを作り、銀座の洋品店「モトキ」に卸して収入を得ていた。これが結構はやり、売れていたという。機の両端を自分の腰と家の柱に結びつけて、一日中織っていた。』
・まだ薄暗い五時半ごろ起きた小澤は、六時には家を出て、田んぼ道を十数分歩いて新松田駅に着き、六時ニ十分くらいの新宿行き急行電車に乗って通った。母は道祖神の石碑が立っている村道のかどのところまで見送っていった。朝もやの中を、征爾は姿が見えなくなるまで、振り返りふり返り大きな声で、「行ってまいりまあッす」と言いながらでかけていった。
・『金田村から通学するのがあまりに大変なので、成城の酒井広(こう)先生のお宅に下宿した時期がある。先生は日本人と結婚したイギリスの貴婦人で、学校で英会話を教えていた。お宅にはピアノがなかったので、夜になると暗い森の中にある成城の音楽室まで行って練習した。その後は成城の教会の平出牧師の厚意で二階にも一時下宿し、オルガンでバッハを練習していた。』
『』内要約 「私の履歴書」、日本経済新聞社

成城中学校舎

昭和30年頃の成城学園前北口
中学一年
1949年(昭和24年)14歳 中学二年
・小澤はいたずらなどでは活発だったが、頭もよく勉強もできた。クラス委員や学校全体の常任委員をやったり、ラクビーもレギュラーとして、青山の秩父宮ラクビー場で華々しく対外試合をやったりしていた。
・同学年の安生慶がヴァイオリン、奥田恵ニがフルートで初めて室内楽を演奏したのもこの時期、父の山中湖の別荘で合宿し、村の小学校のピアノを借りてバッハのブランデンブルク協奏曲第五番を練習した。征爾は仲間と音を合わせるという音楽の喜びをこの時初めて知った。
・金田村から成城の学校までの通学はあまりにも遠いため、小澤は自分で決めて成城の酒井広先生の家に半年くらい下宿した時期があった。先生は日本人と結婚したイギリスの婦人で学校で英会話を教えていた。そこにはピアノがなかったので、夜になると成城の音楽室まで行ってピアノを使わせてもらって練習をした。
・その後、平出牧師とカナダから来た二世の牧師がいる教会にも下宿してアルバイトでオルガンを弾いていたこともあった。
・母さくらからは"ピアノを弾いているんだから指を大切にしなさい"とラクビーを禁止された。
『それからは練習が終わると成城の銭湯で泥を洗い落とし、汚れたジャージーを仲間たちに預け、何食わぬ顔で帰った。おふくろは内職で忙しいから気付かない。が、とうとうバレた。あれは中学三年になる直前だったと思う。成蹊との試合で両手の人さし指を骨折し、顔を蹴られて鼻の中が口とつながるという大怪我をし、そのまま救急車で病院に担ぎ込まれ、入院するはめになった。それからはさんざんだ。両親と兄貴たちには叱られ、弟にはあきれられた。退院後、包帯だらけの情けない姿で豊増先生のお宅へ行った。』
・"もうピアノを続けられたなくなりました"小澤は言った。"音楽やめるのか?」といわれ「音楽続けたいけどどうしたらよいのか。ピアノはだめだから」と言い、黙った。先生が口を開いて「小澤君、指揮者というのがあるよ。日本人の指揮者が少ないから、指揮をやってみないか?"と言われた。初めて聞く職業だった。
成城中学2年生
↓ ラグビー部の部員たち、中列でボールを抱えているのが征爾

1950年(昭和25年)15歳 中学三年
・弟の幹雄が一年生として成城中学に入学した。
・学校で急に盲腸になり正門前の木下病院に入院。
・秋、世田谷区代田引越
・指の怪我でピアノを弾けなくなっ小澤だが、『音楽はやりたいと思い、成城に昔からある男性合唱団「ユーロ・カステロ」に行きロシア民謡や黒人霊歌などを歌った。うねるハーモニー、アクセント、リズム、指揮で音楽が変わることを経験し衝撃を受けた小澤は、三年生のはじめ頃、同学年の安生慶と二級下の女子たち男女十人くらいで賛美歌を歌うグループを作った。同学年の清水敬允や山本逸郎、俊夫兄貴、弟のポンも加わった。』
授業が終わると中学の音楽堂に集まって練習をはじめた。小澤が指揮をしたのはこのときが初めてであった。今も「城の音」の名で活動している。
・12月23日兄に連れられ日比谷公会堂の日響コンサートで、ピアニストのレオニード・クロイツァーがベートーヴェンの《ピアノ協奏曲》「皇帝」を弾きながら指揮しているのを聴き感動した。指がまだ動ない征爾は本当に指揮者を目指すか悩んでいた。
『ゾクゾクした。やはりその頃、安生に連れられて四ツ谷の聖イグナチオ教会でパイプオルガンを聴き、胃袋がぶるぶる震えたことがあった。同じような感動があった。これだ!と思った。でも指はまだ思うように動かない。本当に指揮者を目指すか、すごく悩んだ。』
そんな姿をみた父開作はこっそり担任の今井先生に相談したところ、”彼はピアニストになるより、指揮者の方が向いています”と言った。先生は三年間ずっと受け持ちだった。『学校を出たてでまだ若く、その風貌から僕らは「山猿」と呼んでいた。おやじとは大酒飲み同士、気が合ったようだ。飲み屋で先生が断言したもんだから、おやじは安心し、僕が指揮者になるのを応援するようになった。』
作曲家か指揮者になることを決意し、小澤は母に相談したしたところ “うちの親戚に指揮者がいるよ” と教えてくれた。親戚の指揮者とは(はとこ)にあたる斉藤秀雄である。斉藤秀雄の祖母の前島久と母さくらの祖父大津義一郎が実の兄妹。斉藤秀雄の父斉藤秀三郎は、正則英語学校創設者で一高の教授、「サイトウ英和大辞典」などを編纂した
・小澤は母の紹介状を持ち弟子入りしようと、ひとり斎藤秀雄家を訪れた。
・斉藤秀雄は今手いっぱいで教えられないから ” 一年後に創設する普通高校の桐朋に音楽科を設けるから待ってそこに入りなさい ” と小澤に言った。
その間、小澤は柴田南雄に作曲、小林福子に聴音を、斉藤秀雄の弟子の山本直純に指揮の基本を教わり、月二回斉藤秀雄に見てもらった。
・斎藤秀雄は指揮の動作を徹底的に分析し、「たたき」「しゃくい」「せんにゅう」「はねあげ」などにわけ、どの動きもいつ力を抜き、力を入れるかは厳密にきまっている。それを頭で考えながら指揮なんてできないから、筋肉に全部覚えさせなければならない。”歩くときに坂を上がろう、角を曲がろう、といちいち考えないだろう?”と斉藤秀雄は言う。
・小澤は動作を体にたたき込むのに歩いている間も電車に乗っている間も腕を振った。周りの視線にも気づかないぐらい集中していた。
・斎藤秀雄は戦後、吉田秀和、柴田南雄、井口基成、伊藤武雄、井口秋子、井口愛子、畑中良輔、石桁真禮生、別宮貞雄、遠山一行らと市ヶ谷九段の東京家政学院が提供してくれた窓ガラスが割れた戦後のボロ校舎で「子供のための音楽教室」を土曜の午後だけソルフェージュ、音感教育、合唱練習を教室で集団授業として基礎から音楽を教えていた。あとのピアノや弦楽器の個人レッスンは都内各所に散らばった先生たちの家に通ってもらう。弦では鷲見三郎や小野アンナらも加わった。その成長を待ち兼ねるように斉藤は合奏訓練を始めた。後の桐朋学園オーケストラに発展してゆく。同時に指揮者の卵たちのまたとない実践訓練の場となった。その前から斉藤は目白の自由学園にも「斎藤秀雄指揮教室」をやっており両方の教室で多くの門下生を輩出させた。山本直純、小澤征爾、秋山和慶、尾高忠明、井上道義、飯森泰次郎、岩城宏之、紙屋一衛、久山恵子等々、弦では岩崎洸(チェロ)、菅野博文(チェロ)、倉田澄子(チェロ)、塚原みどり(チェロ)、堤剛(チェロ)、徳永兼一郎(チェロ)、林峰男(チェロ)、原田禎夫(チェロ)、平井丈一朗(チェロ)、藤原真理(チェロ)、堀了介(チェロ)、松波恵子(チェロ)、安田謙一郎(チェロ)、山崎伸子(チェロ)ほかにヴァイオリンも教えた。
吉田秀和は語る『それはまだガダルカナルやラバウルの攻防(1942年頃)が激しいころで、ある夜、斎藤秀雄さんに呼ばれていってみると、"戦争がここまで来ると、東京はきっと空襲され、ひどいことになる。いまから日本にある楽譜だとか特別高価な楽器だとか、大切なものはどこか安全なところに移しておかないと、戦後当分何もできなくなる。よく考えて、実行してちょうだい"といわれてびっくりした。それがどういう事態を意味するのか、考えも及ばないことだった。
戦後終わって、彼が私の家を訪ねて来た"子供のための音楽教育を始めるから、手伝ってほしい。今はろくに食べるものもないけど、そういうことは何とかなるよ。人間は食べないでいられないのだから。大事なのは、次代の教育だ。今度こそ、日本で音楽をやるんだ。それには、今が最適の時"と彼は言った。何日がかりで、しつこく口説かれ私は落城した。彼の基本理念は音楽早教育。"音楽は言葉と同じで、小さい時から始めれば始めるほど、無理なく、そうして、上までのぼってゆかれる。教育は五歳から始めてよいそうだから、われわれの学校は五歳から、おそくとも小学生までとする。"というもの。私は気に入った。』
成城中3年‐桐朋学園音楽科時代


1951年(昭和26年)16歳 成城学園高校一年
・家賃が払えなくなって一家は世田谷区経堂の東京農大の校舎に住み着いた。父開作の知り合いに農大の関係者がいて、空き教室を使わせてくれた。
・成城中学卒業後、成城学園高校に進学し、一年間待つことにした。
・当時、東京藝術大学の入試に失敗した山本直純(18歳)は、斉藤に言われ小澤の家に週一度出かけて、成城学園高校一年の小澤征爾に斉藤秀雄の指揮法の基本を教え始めていた。山本は藝大に絶対に入ると受験生の間で知れ渡っていた。山本の失敗は大ニュースになった。山本は自分が失敗するなんて思いもしなかったと言っている。藝大はコールユンブンゲンは60点以下はだめなのだ。山本は自分は音痴ではないかと考えるようになってしまったという。
斉藤指揮教室は、Aクラスの生徒がB、Cクラスの生徒の下練習を受け持っていたからそうなったようである。山本は小澤に教えるに「今日はこの曲をやろう」と言って、まず、二人でピアノを弾いて互いに指揮をする。すると山本が「お前の問題点はここだな」とすぐに見抜いて、そこを重点的に練習する。大事な事しか教えないから、レッスン時間が短い。世界の小澤に指揮を最初に教えたのは斉藤秀雄ではなく山本だった。
山本は以前斉藤に桐朋に指揮科が出来るから入らないかと言われていた。山本は一浪しておりこれ以上大学を遅らすことは出来ないと思い藝大を選ぶことになる。
その間、小澤は柴田南雄に作曲、小林福子に聴音を、斉藤秀雄の弟子の山本直純に指揮の基本を教わり、月二回斉藤秀雄に見てもらった。
小澤はインタビュアーに語る『弟子入りを志願した時に、斉藤は”今手いっぱいで教えられないから、しばらく山本直純という人に教えてもらいなさい”と言われた。これが直純との出会いです。当時、直純さんはすでに斉藤先生に師事していて、いわば僕の兄弟子でした。週に一度家に来て、一年間指揮を教えてくれました。』。
・小澤は動作を体にたたき込むのに歩いている間も電車に乗っている間も腕を振った。周りの視線にも気づかないぐらい集中していた。
↓山本直純については以下のアドレスから
https://history-of-music.com/naozumi-yamamoto
・「斎藤秀雄の指揮教室」斎藤秀雄は指揮の動作を徹底的に分析し、「たたき」「しゃくい」「せんにゅう」「はねあげ」などにわけ、どの動きもいつも力を抜き、どこで力を入れるか厳密にきまっている。それを頭で考えながら指揮なんてできないから、筋肉に全部覚えさせなければならない。”歩くときに坂を上がろう、角を曲がろう、といちいち考えないだろう?”と斉藤秀雄は言う。
・斎藤秀雄は戦後、吉田秀和、柴田南雄、井口基成、伊藤武雄、井口秋子、井口愛子、畑中良輔、石桁真禮生、別宮貞雄、遠山一行らと市ヶ谷九段の東京家政学院が提供してくれた窓ガラスが割れた戦後のボロ校舎で「子供のための音楽教室」を土曜の午後だけソルフェージュ、音感教育、合唱練習を教室で集団授業として基礎から音楽を教えていた。あとのピアノや弦楽器の個人レッスンは都内各所に散らばった先生たちの家に通ってもらう。弦では鷲見三郎や小野アンナらも加わった。その成長を待ち兼ねるように斉藤は合奏訓練を始めた。後の桐朋学園オーケストラに発展してゆく。同時に指揮者の卵たちのまたとない実践訓練の場となった。その前から斉藤は目白の自由学園にも「斎藤秀雄指揮教室」をやっており両方の教室で多くの門下生を輩出させた。
・吉田秀和は語る『それはまだガダルカナルやラバウルの攻防(1942年頃)が激しいころで、ある夜、斎藤秀雄さんに呼ばれていってみると、"戦争がここまで来ると、東京はきっと空襲され、ひどいことになる。いまから日本にある楽譜だとか特別高価な楽器だとか、大切なものはどこか安全なところに移しておかないと、戦後当分何もできなくなる。よく考えて、実行してちょうだい。" といわれてびっくりした。それがどういう事態を意味するのか、考えも及ばないことだった。
戦後終わって、彼が私の家を訪ねて来た"子供のための音楽教育を始めるから、手伝ってほしい。今はろくに食べるものもないけど、そういうことは何とかなるよ。人間は食べないでいられないのだから。大事なのは、次代の教育だ。今度こそ、日本で音楽をやるんだ。それには、今が最適の時"と彼は言った。何日がかりで、しつこく口説かれ私は落城した。彼の基本理念は音楽早教育。"音楽は言葉と同じで、小さい時から始めれば始めるほど、無理なく、そうして、上までのぼってゆかれる。教育は五歳から始めてよいそうだから、われわれの学校は五歳から、おそくとも小学生までとする。"というもの。私は気に入った』。
1952年(昭和27年)17歳 桐朋女子高等学校音楽科指揮科入学
4月8日成城高校を1年で中退した小澤は、新設された桐朋女子高等学校音楽科指揮科に入学した。第一期生女子生徒42名、男子生徒4名(村上綜/声楽科、林秀光/ピアノ科、堀伝/ヴァイオリン科と小澤/指揮科が入学した。先生一人に生徒一人という教育がはじまる。
『1952年、いよいよ桐朋学園の音楽高校に入学する。同期の男子は四人。頭が切れる村上綜(声楽)、まじめな林秀光(ピアノ)、スマートなホリデンこと堀伝(ただし)(バイオリン)、お山の大将の僕(指揮)、という顔ぶれだった。』
・小澤は道を歩きながらでもメロディを口ずさみ両手を振って指揮の練習をしたという。小澤は忙しかった。斉藤秀雄に桐朋の学生オーケストラの雑用を一切任され譜面台や楽譜の手配、椅子並べ、パート譜の印刷校正と次から次にやることがあった。指揮の勉強もあり休む暇がなかった。
『楽譜の間違いがあったり、譜面台が壊れてたりすると「小澤!」と怒鳴られた。見かねたホリデンが手伝ってくれることもあったが、仕事はいくらでもあった。帰る頃にはヘトヘトだ。ほかの生徒は楽器だけ練習していればいいのに、なんで僕ばかりこんなに大変なのか、と一時期は先生をうらんだものだ』
『土曜日の午後には「子供のための音楽教室」の生徒たちも加わって、オーケストラの練習がある。夏休みになれば北軽井沢で合宿だ。合宿所は地元の小学校。一日中練習し、夜は教室にむしろを敷いて寝た。先生は子供にも容赦せず、怒鳴りつけては震え上がらせた。保護者も何も言えなかった。
先生と生徒の間に立っていたのが桐朋の事務方の伊集院清三先生だ。よく生徒の味方になってくれた。怒られている僕に助け舟を出してくれたこともある。上品で優しい、本当の人格者だった。』
『高校時代の僕はいつも忙しく、ひょろひょろに痩せていた。ある日、胃が痛くなって固いものが喉を通らなくなった。十二指腸潰瘍だった。斎藤先生の親戚(つまり僕の親戚でもあるが)の橋本寛敏院長がいる聖路加病院で看(み)てもらったところ、食事療法で治すことになった。主治医は菅原虎雄先生と日野原重明先生。完治できたのは、この先生たちのおかげだ。』
・成城中学ではじめた合唱の練習は、桐朋音楽科に入ってからも続いた。小澤は仙川の桐朋音楽科の放課後、神代書店の前から都立神代高校の前を通り、坂を下り入間を通って三十分ほど歩いて成城に通って合唱練習を続けた。
『斎藤先生の自宅ではめちゃくちゃ厳しかった。指揮のレッスンはピアノをオーケストラに見立てて行う。女の弟子の久山恵子さんのレッスンで、僕と直純さんが連弾した。練習が足りず、弾けないところは口三味線で「ララララ~」なんて歌ってごまかしてたら、とうとう「バカにするな!」と雷が落ちた。あまりの剣幕に、2人して庭からお宅を飛び出し、近くの公衆トイレの陰に隠れたら、奥さんの秀子さんが僕らの靴を持って追いかけてきた。でもあのレッスンは後で役に立ったと思う。細かなニュアンスを弾き分け、オーケストラの音を想像する訓練になったからだ。バイオリンやチェロのピアノ伴奏もやれと言われて、ずいぶんやった。』
・土曜日の午後は「子供のための音楽教室」の生徒たちも加わって、オーケストラの練習があった。夏休みになれば北軽井沢で合宿した。地元の小学校を借りて一日中練習し、夜は教室にむしろを敷いてねた。
桐朋学園音楽部門の歴史、第一期新入生の中に若き小澤征爾が写っている(最後列)
https://www.tohomusic.ac.jp/about/history.html桐朋学園音楽部門の歴史、第一期新入生の中に若き小澤征爾が写っている(最後列)
1953年(昭和28年)18歳 桐朋女子高等学校音楽科二年
・小澤は語る『斉藤指揮教室で斉藤先生が直純のレッスンの時に、彼の楽譜を見ながら指導していました。レッスン後、"この楽譜の書き込み、僕も勉強になった。ありがとう”と真剣に直純に礼を言っていたのです。そのくらい、斉藤先生が山本直純をすごく認めているということは、みんなよくわかっていた。一番音楽的な信用があり、そして先生から音楽の才能に対する尊敬を受けていました。』。この年、山本直純は藝大作曲科に入学した。斉藤秀雄と山本直純のレッスンは山本直純が藝大を卒業するまで続いた。
1954年(昭和29年)
・桐朋女子高等学校音楽科三年進級
・桐朋音楽科学生オーケストラもできたばかりで人手がなく、小澤はひとりでみんなの譜面台や椅子の手配からパート譜の印刷まで一切やっていた。
・毎年夏休みになると、北軽井沢にある斉藤の別荘の近くにある小学校を借りて、オーケストラが合宿練習をやっていた。合宿にはオーケストラのメンバーの母親たちが大勢参加し、小澤の母さくらも行った。練習も寝泊りも村の小学校の教室を使った。合宿の最期にその小学校の生徒たちにお礼の演奏会を開き征爾は指揮をした。
・桐朋オーケストラの練習曲はバッハ《シャコンヌ》、チャイコフスキー《弦楽セレナーデ》、Jシュトラウス《こうもり》序曲が多かった。
・小澤は仙川の桐朋音楽科の放課後、神代書店の前から都立神代高校の前を通り、坂を下り入間を通って三十分ほど歩いて成城に通って合唱練習を続けた。
・高校三年の卒業公演で桐朋オーケストラを相手にバッハ《シャコンヌ》を振ることになり、斎藤秀雄はオーケストラ用に編曲した十数分の曲を半年かけて征爾に教えこんだ。
・小澤は語る『バッハの原典にはテンポの指定がない。音楽記号も書かれていない。でも先生は楽譜を読み尽くし、音楽を細かく構築した。しかも”一番音域が広いここが音楽の頂点”というようにすべて言葉で説明できた。後年、ベルリンでヴァイオリニストのヨゼフ・シゲティの引退公演を聴いたとき、《シャコンヌ》が先生のやり方と全く同じで驚いたことがある。』
『先生はそれだけ才能があったのに極端なあがり症だった。本番の演奏会で指揮する時は普段と全然違う。手が先走って「先入(せんにゅう)」という指揮法をやたらに使うのだ。何の気なしに「先生、今日は『先入』ばかりでしたね」と言ったら「そんなこと言うな!」とドヤされた。半年に一回くらいそれで怒られて、兄弟子の山本直純さんにあきれられた。』
・卒業公演の《シャコンヌ》は山本直純、岩城宏之も聴きに来て、終演後に”感動した”と言ってくれたのが征爾には嬉しかった。
桐朋学園女子高校付属音楽科指揮科卒業
1955年(昭和30年)20歳 桐朋学園短期大学音楽科一年
・高校三年の卒業公演で桐朋オーケストラを相手にバッハ《シャコンヌ》を振ることになり、斎藤秀雄はオーケストラ用に編曲した十数分の曲を半年かけて小澤に教えこんだ。小澤は語る『バッハの原典にはテンポの指定がない。音楽記号も書かれていない。でも先生は楽譜を読み尽くし、音楽を細かく構築した。しかも”一番音域が広いここが音楽の頂点”というようにすべて言葉で説明できた。後年、ベルリンでヴァイオリニストのヨゼフ・シゲティの引退公演を効いたとき、《シャコンヌ》が先生のやり方と全く同じで驚いたことがある。』。
・卒業公演の《シャコンヌ》は山本直純、岩城宏之も聴きに来て、終演後に”感動した”と言ってくれたのが征爾には嬉しかった。
・桐朋学園女子高校付属音楽科指揮科卒業。
4月出来たばかりの桐朋学園短期大学音楽科指揮科一年に入学した。男子生徒は四人だけで指揮科は小澤一人だった。
5月中旬頃、小澤の指揮する桐朋学園オーケストラの練習風景を、来日中のシンフォニー・オブ・ジ・エアのメンバーと指揮者ワルター・ヘンドル等数人が見学しに来た。
5月来日中のシンフォニー・オブ・ジ・エアの公開練習を斎藤秀雄に言われて聴きに行き響きの違いに衝撃を受ける。曲目はブラームス《交響曲第一番》ほかのリハーサルであった。
・音楽をやるなら外国へ行って勉強するしかないと小澤は心に決めた。
同期の江戸京子や桐朋の仲間たちは次々と留学して行き、征爾はいつも羽田空港で見送った。相変わらず斉藤秀雄のカバン持ちとして雑用に追い立てられる毎日を過ごしていた。征爾はその間、斉藤先生宅の個人レッスンや桐朋の学生オーケストラの指揮練習に明け暮れた。
・川崎市幸区戸手町に引越す

1956年(昭和31年)21歳 短大二年
・桐朋学園短期大学二年の頃、斎藤秀雄の厳しいレッスンと学生オーケストラの激務のため、神経性の十二指腸潰瘍に悩まされ、固いものが何も食べられないことがあった。
・この年日本青年館で征爾は、桐朋学園オーケストラを指揮してチャイコフスキー《弦楽セレナーデ》を振った
・毎年秋の「毎日音楽コンクール」が開かれ、征爾は応募した生徒からコンクール予選でのピアノ伴奏を頼まれていた。その練習は家でも行われた。
・暮れ、中学時代の仲間で作った成城の合唱団「城の音」のクリスマス音楽会のあと、恒例のキャロルに出発した征爾は手にローソクを持って讃美歌を歌いながら歩いた。数日前から風邪気味だった征爾は翌日から高熱を出し肺炎に罹ってしまった。年も明けた1957年になっても起きられず卒業目前に長期間欠席してしまった。そのため卒業試験の幾つかを受けることができなかった。
1957年(昭和32年)22歳 卒業見合わせ
・桐朋学園で指揮と作曲の両方で一等賞を受賞し、NHKと雑誌音楽の友により邦楽の「傑出した才能」に選ばれた。
3月迎えた卒業式でなぜか小澤の名前は呼ばれなかった。あるはずの卒業証書もない。卒業見合わせ、留年していたのだ。しかも誰も教えてくれなかった。
・暮の肺炎ダウンで単位不足となり一人だけ卒業できなかった。そうとは知らず母さくらも着物で晴れやかに卒業式に出席した。母さくらは泣きながら帰って行った。母は卒業式前日に行われた謝恩会の役員を引き受けていた。
・声楽の伊藤武雄先生が『いいんだ、卒業なんかしなくたって』と慰めてくれた。また学費を払うのにアルバイトをしなければいけなくなった。
しばらく伊藤武雄先生の紹介で日本橋の三友会合唱団を指揮者となった。征爾はこの合唱団の常任指揮者を数年勤め、全国合唱コンクールにも出場した。また斎藤秀雄先生に言われて群馬交響楽団へ行き、初めてプロのオーケストラを指揮した。北海道演奏旅行では指揮者を担当した。卒業してからも桐朋の助手として残り、斉藤秀雄のカバン持ちのようにして、いつも先生と行動を共にしていた。
・7月卒業を許可された。
・7月28日赤城山頂大沼湖畔「1000人の大合唱」で小澤は群馬フィルハーモニーオーケストラ(現:群馬交響楽団)を指揮
・夏まで桐朋学園音楽短期大学で斎藤秀雄に指揮法を師事し中学三年から始めた指揮の勉強でオ-ケストラを仕込む技術を身につけた。
12月設立間もない日本フィルハーモニー交響楽団第5回定期演奏会のラヴェル《子供と魔法》で、渡邉暁雄の下で副指揮者を務めたあ。アマチュア合唱団・三友合唱団を指揮。
誕生から音大卒業まで
3. 小澤征爾 歴史年譜Seiji Ozawa:Career Timeline
1935年(昭和10年)誕生Birth
9月1日満州国奉天、奉天医大病院で小澤家の三男として生まれ、奉天の平安通りの家で育った。
・母さくらが語る『前日の夜おそく産気づいたので、トランクに荷物を入れて、一恵さんといっしょに馬車に乗って医大病院に行きました。生まれたのは明け方でした。一恵さんは病院の廊下でひとり征爾の産声第一声を聞いたのです。お産は難産でなく、安産でした。とても大きくて、一貫目(4キロ)以上でした、大連病院の病院中で一番大きな赤ちゃんで、「大関」と言われました。生まれてからもとても元気に育ちました。一週間ぐらい入院していたと思います。』。
・父開作は、毎日会って親しくしていた関東軍参謀・板垣征四郎と同じく参謀の石原莞爾の二人から一字ずつもらって「征爾」と名付けた。板垣は[少年老い易く学成り難し]の書を書いてくれた。のちに兄弟たちは、長兄・克己は彫刻家、次兄・俊夫はドイツ文学者・筑波大副学長を務め弟・幹雄は司会・講師・音楽ジャーナリスト・著作者となった。
・母さくらが語る『征爾は生まれた時、離乳期にお腹をこわしたりして体調をくずし、あんまり笑わない子でした。のちに征爾が教えていただくことになる斉藤秀雄先生のお母さんの「おとらおばさん」も、私が満州に行く途中、東京で挨拶に行った時に、こう言ってくれました。"若い人は結婚をすごく華やかな、幸せ一杯のものと思っていると思うけど、悲しいことや苦しいことがいっぱい待ち構えているものです。でもそれはみんな神様があなたを試す試練なんだから、それに耐えていかなくてはいけません"この言葉を私は、何か事あるにごとに、いつも思い出して、すごく心の支えにしていました。だから私は母や叔母たちに弱音を言ったことは一度もありません。それは自分でもとてもよかったと思っているんです。だって遠くにいる母たちにぐちを言ったって、心配かけるだけだし……。あとで斉藤秀雄先生がおとらおばさんの写真を送ってくれました。今でも大事に手元に持っています。その写真は征爾たちも小さい時から見ているわけで、征爾が中学三年の時、一人で斉藤先生に弟子入りをお願いしに行った際に"おとらおばさんという親戚がいるらしいけど、先生の何ですか"と聞いて斉藤先生を苦笑させたということです。』
・2000年8月長野県奥志賀高原で大江健三郎は、『小澤さんが西洋の音楽を学び始めた、そしてそれを外国に向かって出していった、そもそものきっかけは、どういうことでしたか』。小澤征爾はこう答えた、『おふくろはキリスト教徒なもんで、教会で賛美歌をうたう。子供たちを日曜学校に無理やり連れてって、そのうちに僕たちはだんだん面白くなってその日曜学校が大好きになった。男の子四人だったものですから、当然四人で賛美歌をうたう。だから音楽の最初はまったく賛美歌です。おふくろや日曜学校で教わった賛美歌。亡くなった一番上の兄貴はすごい音楽的才能のある男で、音楽を本気になって勉強し始めた。本当に物がないときで、ピアノもありませんから、ハーモニカとかアコーディオンとか、いまから思うと木琴のようなもので、名前忘れちゃったんだけど、鉄でできている楽器で叩くと音が出るわけですね(多分=鉄琴のこと編者)。一番手近にあったのがアコーディオンで、それが僕にとっては最初の音楽です。教会へ行ってオルガンを聴いて、下の兄弟三人の中で一番のめり込んでいったのが僕で、結局、長男と三男の僕が最後まで音楽を続けた』
引用文献:小澤征爾・大江健三郎『同じ年に生まれて』、中央公論新社、2001年、P14~15
1936年(昭和11年)1歳
10月一家は奉天から北京に移り北京市東単新開路35号に住む。父開作が北京で協和会と同じものを作ることのなった。
↓(写真)


昭和14年頃、山中湖の別荘にて
小澤征爾の幼年時代

1941年(昭和16年)6歳 幼稚園
『日中戦争を底なしの泥沼と見たおやじはおふくろと僕たち兄弟を日本に帰すことに決める。
「軍の輸送に迷惑をかけるから余計なものは持って行くな」と厳命され、家財道具はほとんど置いてきた。持ち帰ったのは着替えと中国の火鍋子、家族の写真アルバム。それからアコーディオンもあった。僕が生まれて初めて触った楽器だ。
船と列車を乗り継いで日本に引き揚げた。41年5月だった。』
北京から帰国し立川市柴崎町三丁目の貸家に住む。自宅の前にあった若草幼稚園に入園した。

児童劇団「つぼみ子供会」


写真:釜山近くの温泉、四兄弟
1942年(昭和17年)7歳 小学一年
・立川国民学校入学。
↓ 立川国民学校入学式後列右から七人目

・長兄からアコーディオンの手ほどきを受け、小学校4年頃には習得している。
・柴崎町三丁目に家を買い移った。
『柴崎小学校に入る。学校ではどうかすると「是(シ)(はい)」「不是(プシ)(いいえ)」とか中国語が出て悪ガキどもにからかわれた。頭に来て黙っていたら中国語はすっかり忘れてしまった。
北京に1人残ったおやじは「華北評論」の刊行を続ける。「小澤公館」の看板を掲げた家には従軍記者の小林秀雄さんや林房雄さんも訪れたらしい。』
1943年(昭18年)8歳 小学二年
やがて、父開作は関東軍により満州国退去勧告を受け帰国した。
帰国後は軍需大臣遠藤三郎の招きで軍需省顧問等を務め終戦を迎える。戦後は極東国際軍事裁判の弁護側証人として出廷し板垣征四郎の証人に立つ。その後はいろいろな仕事に手を出し、川崎の宮川病院に務め、歯科医院を開業した
・2000年8月長野県奥志賀高原で大江健三郎は、『小澤さんが西洋の音楽を学び始めた、そしてそれを外国に向かって出していった、そもそものきっかけは、どういうことでしたか』。小澤征爾はこう答えた、『おふくろはキリスト教徒なもんで、教会で賛美歌をうたう。子供たちを日曜学校に無理やり連れてって、そのうちに僕たちはだんだん面白くなってその日曜学校が大好きになった。男の子四人だったものですから、当然四人で賛美歌をうたう。だから音楽の最初はまったく賛美歌です。おふくろや日曜学校で教わった賛美歌。亡くなった一番上の兄貴はすごい音楽的才能のある男で、音楽を本気になって勉強し始めた。本当に物がないときで、ピアノもありませんから、ハーモニカとかアコーディオンとか、いまから思うと木琴のようなもので、名前忘れちゃったんだけど、鉄でできている楽器で叩くと音が出るわけですね(多分=鉄琴のこと編者)。一番手近にあったのがアコーディオンで、それが僕にとっては最初の音楽です。教会へ行ってオルガンを聴いて、下の兄弟三人の中で一番のめり込んでいったのが僕で、結局、長男と三男の僕が最後まで音楽を続けた』
参考文献:小澤征爾・大江健三郎『同じ年に生まれて』、中央公論新社、2001年、P14~15
1944年(昭19年)9歳 小学三年
『だんだん空襲がひどくなり、2人の兄貴が庭に掘った防空壕(ごう)にたびたび潜り込んだ。
ある日、警報のサイレンが鳴っても構わず、庭で弟のポンと遊んでいたら敵機がダダダダーッと撃ってきた。隣の桑畑に砂煙が上がった。腰を抜かしたポンがその場にへたりこんだ。低空飛行だったから操縦士の顔がぼんやり見えた。初めて見る西洋人だった。あの頃は食う物がなくて、よくおふくろとポンと多摩川まで雑草を摘みに行ったのを覚えている。
おやじは引き揚げ後、陸軍の遠藤三郎中将の委嘱で軍需省の顧問をやる一方、満州時代の仲間と対中和平工作を始めていた。国民党の蒋介石が交渉の条件として「天皇の特使として石原莞爾を出せ」と言ってきたらしい。そのために手分けして重臣たちの説得に当たっていたようだ。おやじは、敗戦後間もなく割腹自殺した陸軍の本庄繁大将の担当だと言っていた。だが工作は結局、失敗する。』
1945年昭和20年10歳 小学四年
『8月6日。広島に原子爆弾が落ちた。広島で軍医をしていた叔父の静は命こそ助かったものの被爆している。9日、長崎にも原爆が落とされた。15日、敗戦。玉音放送を家族で聞いた。おやじが僕たち兄弟に言った。
「日本人は日清戦争以来、勝ってばかりで涙を知らない冷酷な国民になってしまった。だから今ここで負けて涙を知るのはいいことなのだ。これからは、お前たちは好きなことをやれ」。
敗戦から何日かして、おやじが今度は突然「これからは野球だ」と言い出した。
おふくろにごわごわした布きれでグローブを作らせ、僕や近所の子供を集めて野球チームを作った。おやじが監督で、僕がピッチャーだった。小学四年の夏のことだ。』
・『敗戦から何日かして、おやじが今度は突然"これからは野球だ"と言い出した。おふくろのごわごわした布きれでグローブを作らせ、僕や近所の子供を集めて野球チームを作った。おやじが監督で、僕がピッチャーだった。小学四年生の夏のことだ』。
・『戦時中、上の克己兄貴からアコーディオン教わっていた僕は、だんだん物足りなくなった。小学生の担任の青木キヨ先生はピアノができる人で、ある日講堂で弾いているときに”触ってもいいよ”と言って隣に座らせてくれた。初めてピアノに触れたのはその時だ。小学校四年の終わりごろだった。』。
・克己兄が音楽の先生にピアノを習い始めていた。府立二中(現都立立川高校)に通っていたころで、小澤がピアノに触れた頃とほぼ同じ頃であった。
バイエル教則本で最初に手ほどきをしたのは克己兄からであった。
1946年(昭和21年)11歳 小学五年
4月頃長兄の通う府立二中の許しを得て、音楽室のピアノのを特別に使わせてもらい克己兄からレッスンを受け続けた。
・兄たちが"征爾にもっと本格的にピアノをやらせたいから家にもピアノが一台あるといいねと話し合っているのを、父開作が聞いた。征爾にピアノを手に入れて本格的にやらせようと小澤家は決めた。
・父開作は方々伝手を頼ってピアノを探した。静叔父の妻英子の横浜の実家にあるアップライトピアンを三千円で譲ってもらえることになる。開作は北京で買った愛用のライカを売って工面した。兄たちがリヤカーを借りて運ぶのを開作も途中から手伝う、三日かけて横浜から立川の家まで運んだのだった。途中農家に一晩ピアノを預けたり、親戚の家に泊めて貰ったりの道中だったようだ。
・柴崎小学校の五年生の学芸会でベートーヴェンの《エリーゼのために》を弾いて初めて人前での演奏だった。
・このとき兄からピアノの手ほどきを受けたのが後に征爾に音楽家として大事な縁となった。その頃、二中の大和先生からピアノを教わる。
・この頃征爾は小学校野球部のエースピッチャーとして活躍していた。上井草球場で東京都大会にも出場した。
1947年(昭和22年)12歳 小学六年
・小学校五年、卒業式で送辞を読む。
・父開作はミシン会社製造の白百合ミシン会社を小田原に設立し経営をはじめる。
『おやじは歯医者に戻ればいいものを「長いことやってないからもう忘れた」と言って、商売を始めてはことごとく失敗した。僕が小学校6年生の時にはミシン製造の会社を始めるというので、立川の家を売り払い、小田原の近くの神奈川県足柄上郡金田村へ移る。わらぶき屋根の古い農家に住み、おふくろが慣れない百姓仕事で米を作って育ち盛りの4人の息子を食わせた。』
・征爾は家から細道を少し行くと流れの急な小川があらり、夏は泳いで遊んだ。
・4月金田村小学校6年に転入学した。田んぼの中を三十分ぐらい歩くと金田小学校があった。
・征爾は担任の先生に、音楽の授業でオルガン弾きを任されるようになる。
・金田小学校の間、小田原市内の石黒先生にピアノのレッスンを受けた
・兄たちの所属する小田原の合唱団「シグナス」に征爾も時々ピアノ伴奏にかり出されていた
1948年(昭和23年13歳 中学一年
3月、金田小学校を卒業。

『中学に入学する段になって、慣れない農村の学校よりは私学のほうが良かろうということになった。どこの中学に通うかだいぶ家族で迷ったすえ、家からは二時間半もかかったが、おふくろが成城学園に決めた。』
・『ピアノの豊増昇先生に弟子入りしたのもその頃だ。不思議なもので、先生のお兄さんがおやじの新民会の仲間だったのだ。ドイツ帰りの高名な先生で、新しいお弟子はとっていなかったが、特別に見てもらえることになった。』
・小澤は成城に入る頃から、父の知人の紹介でピアノを豊増昇に師事しており世田谷の九品仏までレッスンに通った。
豊増先生のピアノのレッスンのある日は、泥まみれの姿で先生宅へ通った。先輩の舘野泉や他の者はリストやショパンを弾いていたが、小澤はバッハばかりを弾かされ課題も多く必死で練習した。この頃の小澤はピアニストを目指していた。見込みがあるからとある時から月謝をとらなくなりタダでレッスンを見てくれた。
『同学年の安生慶、奥田恵二と初めて室内楽を演奏したのもこの時期だ。安生がバイオリンで奥田がフルート。山中湖にあったうちの別荘で合宿し、村の小学校のピアノを借りてバッハのブランデンブルク協奏曲第5番を練習した。1人のピアノ音楽ばかりやっていた僕は、仲間と音を合わせる喜びを知った。』
先輩の舘野泉や他の者はリストやショパンを弾いていたが、征爾はバッハばかりを弾かされ課題も多く必死で練習した。
・4月成城学園中学校一学年入学
・小田急新松田駅から二時間もかかる遠距離通学だった。
・金田村の家に帰ってくるのは夜遅かった。
『小田急沿線の成城学園中学校に行くことになった。クラスは「柳組」で担任は今井信雄先生、三年間同じだった。隣のクラスには小坂一也がいた。朝六時前、小田急新松田からニ時間半もかかる遠距離通学だった。母のさくらは父兄会や授業参観日があると学校に来た。征爾は母を見つけると「おかあちゃーん、帰りにいっしょに帰ろうねぇー」と言って遠くから大声で呼びかけた。
・中学に入り当初はピアノをやるので危なくない卓球部に入った征爾だが、同級の松尾勝吾に誘われラグビーをはじめるようになった。ポジションはフォワードであった。放課後は連日夕方遅くまでラクビー部の猛練習が続いた。
・松尾勝吾は後年、新日鐵釜石の選手として活躍し、ラクビー日本一の社会人チームの監督になった。小澤はラクビー部の主要メンバーとなっていった。
・学校の事務所の前の掲示板には「右の者、授業料滞納につき・・・」という張り紙が出されるといつも小澤の名前が書かれてあった。『父の経営するミシン会社が失敗しスッカラカンになるという事態になってしまったから、途中から月謝は滞りがちとなりうちは本当に貧乏で、成城の学費滞納もしょっちゅうだった。豊増先生が最後はただで見てくれたのだからありがたい。家計を支えたのはおふくろの内職だ。母さくらが衣類の行商をしたり、毛糸を編んで「九重織」というネクタイを作り、銀座の洋品店「モトキ」に卸して収入を得ていた。これが結構はやり、売れていたという。機の両端を自分の腰と家の柱に結びつけて、一日中織っていた。』
・まだ薄暗い五時半ごろ起きた小澤は、六時には家を出て、田んぼ道を十数分歩いて新松田駅に着き、六時ニ十分くらいの新宿行き急行電車に乗って通った。母は道祖神の石碑が立っている村道のかどおところまで見送っていった。朝もやの中を、征爾は姿が見えなくなるまで、振り返りふり返り大きな声で、「行ってまいりまあッす」と言いながらでかけていった。
・『金田村から通学するのがあまりに大変なので、成城の酒井広(こう)先生のお宅に下宿した時期がある。先生は日本人と結婚したイギリスの貴婦人で、学校で英会話を教えていた。お宅にはピアノがなかったので、夜になると暗い森の中にある成城の音楽室まで行って練習した。その後は成城の教会の平出牧師の厚意で二階にも一時下宿し、オルガンでバッハを練習していた。』
『』内要約 「私の履歴書」、日本経済新聞社

成城中学校舎

昭和30年頃の成城学園前北口
中学一年
1949年(昭和24年)14歳 中学二年
・小澤はいたずらなどでは活発だったが、頭もよく勉強もできた。クラス委員や学校全体の常任委員をやったり、ラクビーもレギュラーとして、青山の秩父宮ラクビー場で華々しく対外試合をやったりしていた。
・同学年の安生慶がヴァイオリン、奥田恵ニがフルートで初めて室内楽を演奏したのもこの時期、父の山中湖の別荘で合宿し、村の小学校のピアノを借りてバッハのブランデンブルク協奏曲第五番を練習した。征爾は仲間と音を合わせるという音楽の喜びをこの時初めて知った。
・金田村から成城の学校までの通学はあまりにも遠いため、小澤は自分で決めて成城の酒井広先生の家に半年くらい下宿した時期があった。先生は日本人と結婚したイギリスの婦人で学校で英会話を教えていた。そこにはピアノがなかったので、夜になると成城の音楽室まで行ってピアノを使わせてもらって練習をした。
・その後、平出牧師とカナダから来た二世の牧師がいる教会にも下宿してアルバイトでオルガンを弾いていたこともあった。
・母さくらからは"ピアノを弾いているんだから指を大切にしなさい"とラクビーを禁止された。それからは練習が終わると汚れたジャージーを仲間たちにあずけ家に帰るようにした。
『おふくろは「ピアノを弾いているんだから指は大切にしないといけない」と言って、ラグビーを禁止した。それからは練習が終わると成城の銭湯で泥を洗い落とし、汚れたジャージーを仲間たちに預け、何食わぬ顔で帰った。おふくろは内職で忙しいから気付かない。が、とうとうバレた。あれは中学三年になる直前だったと思う。成蹊との試合で両手の人さし指を骨折し、顔を蹴られて鼻の中が口とつながるという大怪我をし、そのまま救急車で病院に担ぎ込まれ、入院するはめになった。それからはさんざんだ。両親と兄貴たちには叱られ、弟にはあきれられた。退院後、包帯だらけの情けない姿で豊増先生のお宅へ行った。』
・"もうピアノを続けられたなくなりました"小澤は言った。"音楽やめるのか?」といわれ「音楽続けたいけどどうしたらよいのか。ピアノはだめだから」と言い、黙った。先生が口を開いて「小澤君、指揮者というのがあるよ。日本人の指揮者が少ないから、指揮をやってみないか?"と言われた。初めて聞く職業だった。
成城中学2年生
↓ ラグビー部の部員たち、中列でボールを抱えているのが征爾

1950年(昭和25年)15歳 中学三年
・弟の幹雄が一年生として成城中学に入学した。
・学校で急に盲腸になり正門前の木下病院に入院。
・秋、世田谷区代田引越
・指の怪我でピアノを弾けなくなっ小澤だが、『音楽はやりたいと思い、成城に昔からある男性合唱団「ユーロ・カステロ」に行きロシア民謡や黒人霊歌などを歌った。うねるハーモニー、アクセント、リズム、指揮で音楽が変わることを経験し衝撃を受けた小澤は、三年生のはじめ頃、同学年の安生慶と二級下の女子たち男女十人くらいで賛美歌を歌うグループを作った。同学年の清水敬允や山本逸郎、俊夫兄貴、弟のポンも加わった。』
授業が終わると中学の音楽堂に集まって練習をはじめた。小澤が指揮をしたのはこのときが初めてであった。今も「城(しろ)の音(ね)」の名で活動している。
・12月23日兄に連れられ日比谷公会堂の日響コンサートで、ピアニストのレオニード・クロイツァーがベートーヴェンの《ピアノ協奏曲》「皇帝」を弾きながら指揮しているのを聴き感動した。指がまだ動ない征爾は本当に指揮者を目指すか悩んでいた。
『ゾクゾクした。やはりその頃、安生に連れられて四ツ谷の聖イグナチオ教会でパイプオルガンを聴き、胃袋がぶるぶる震えたことがあった。同じような感動があった。これだ!と思った。でも指はまだ思うように動かない。本当に指揮者を目指すか、すごく悩んだ。』
そんな姿をみた父開作はこっそり担任の今井先生に相談したところ、”彼はピアニストになるより、指揮者の方が向いています”と言った。先生は三年間ずっと受け持ちだった。『学校を出たてでまだ若く、その風貌から僕らは「山猿」と呼んでいた。おやじとは大酒飲み同士、気が合ったようだ。「彼はピアノより指揮者の方が向いています」。飲み屋で先生が断言したもんだから、おやじは安心し、僕が指揮者になるのを応援するようになった。』
作曲家か指揮者になることを決意し、小澤は母に相談したしたところ “うちの親戚に指揮者がいるよ” と教えてくれた。親戚の指揮者とは(はとこ)にあたる斉藤秀雄である。斉藤秀雄の祖母の前島久と母さくらの祖父大津義一郎が実の兄妹。斉藤秀雄の父斉藤秀三郎は、正則英語学校創設者で一高の教授、「サイトウ英和大辞典」などを編纂した
・小澤は母の紹介状を持ち弟子入りしようと、ひとり斎藤秀雄家を訪れた。
・斉藤秀雄は今手いっぱいで教えられないから ” 一年後に創設する普通高校の桐朋に音楽科を設けるから待ってそこに入りなさい ” と小澤に言った。
その間、小澤は柴田南雄に作曲、小林福子に聴音を、斉藤秀雄の弟子の山本直純に指揮の基本を教わり、月二回斉藤秀雄に見てもらった。
・斎藤秀雄は指揮の動作を徹底的に分析し、「たたき」「しゃくい」「せんにゅう」「はねあげ」などにわけ、どの動きもいつ力を抜き、力を入れるかは厳密にきまっている。それを頭で考えながら指揮なんてできないから、筋肉に全部覚えさせなければならない。”歩くときに坂を上がろう、角を曲がろう、といちいち考えないだろう?”と斉藤秀雄は言う。
・小澤は動作を体にたたき込むのに歩いている間も電車に乗っている間も腕を振った。周りの視線にも気づかないぐらい集中していた。
・斎藤秀雄は戦後、吉田秀和、柴田南雄、井口基成、伊藤武雄、井口秋子、井口愛子、畑中良輔、石桁真禮生、別宮貞雄、遠山一行らと市ヶ谷九段の東京家政学院が提供してくれた窓ガラスが割れた戦後のボロ校舎で「子供のための音楽教室」を土曜の午後だけソルフェージュ、音感教育、合唱練習を教室で集団授業として基礎から音楽を教えていた。あとのピアノや弦楽器の個人レッスンは都内各所に散らばった先生たちの家に通ってもらう。弦では鷲見三郎や小野アンナらも加わった。その成長を待ち兼ねるように斉藤は合奏訓練を始めた。後の桐朋学園オーケストラに発展してゆく。同時に指揮者の卵たちのまたとない実践訓練の場となった。その前から斉藤は目白の自由学園にも「斎藤秀雄指揮教室」をやっており両方の教室で多くの門下生を輩出させた。山本直純、小澤征爾、秋山和慶、尾高忠明、井上道義、飯森泰次郎、岩城宏之、紙屋一衛、久山恵子等々、弦では岩崎洸(チェロ)、菅野博文(チェロ)、倉田澄子(チェロ)、塚原みどり(チェロ)、堤剛(チェロ)、徳永兼一郎(チェロ)、林峰男(チェロ)、原田禎夫(チェロ)、平井丈一朗(チェロ)、藤原真理(チェロ)、堀了介(チェロ)、松波恵子(チェロ)、安田謙一郎(チェロ)、山崎伸子(チェロ)ほかにヴァイオリンも教えた。
吉田秀和は語る『それはまだガダルカナルやラバウルの攻防(1942年頃)が激しいころで、ある夜、斎藤秀雄さんに呼ばれていってみると、"戦争がここまで来ると、東京はきっと空襲され、ひどいことになる。いまから日本にある楽譜だとか特別高価な楽器だとか、大切なものはどこか安全なところに移しておかないと、戦後当分何もできなくなる。よく考えて、実行してちょうだい。" といわれてびっくりした。それがどういう事態を意味するのか、考えも及ばないことだった。
戦後終わって、彼が私の家を訪ねて来た"子供のための音楽教育を始めるから、手伝ってほしい。今はろくに食べるものもないけど、そういうことは何とかなるよ。人間は食べないでいられないのだから。大事なのは、次代の教育だ。今度こそ、日本で音楽をやるんだ。それには、今が最適の時"と彼は言った。何日がかりで、しつこく口説かれ私は落城した。彼の基本理念は音楽早教育。"音楽は言葉と同じで、小さい時から始めれば始めるほど、無理なく、そうして、上までのぼってゆかれる。教育は五歳から始めてよいそうだから、われわれの学校は五歳から、おそくとも小学生までとする。"というもの。私は気に入った。』
成城中3年‐桐朋学園音楽科時代


1951年(昭和26年)16歳 成城学園高校一年
・家賃が払えなくなって一家は世田谷区経堂の東京農大の校舎に住み着いた。父開作の知り合いに農大の関係者がいて、空き教室を使わせてくれた。
・成城中学卒業後、成城学園高校に進学し、一年間待つことにした。
・当時、東京藝術大学の入試に失敗した山本直純(18歳)は、斉藤に言われ、この年から一年間、山本は小澤の家に週一度出かけて、成城学園高校一年の小澤征爾に斉藤秀雄の指揮法の基本を教え始めた。山本は藝大に絶対に入ると受験生の間で知れ渡っていた。山本の失敗は大ニュースになった。山本は自分が失敗するなんて思いもしなかったと言っている。藝大はコールユンブンゲンは60点以下はだめなのだ。山本は自分は音痴ではないかと考えるようになってしまったという。
斉藤指揮教室は、Aクラスの生徒がB、Cクラスの生徒の下練習を受け持っていたからそうなったようである。山本は小澤に教えるに「今日はこの曲をやろう」と言って、まず、二人でピアノを弾いて互いに指揮をする。すると山本が「お前の問題点はここだな」とすぐに見抜いて、そこを重点的に練習する。大事な事しか教えないから、レッスン時間が短い。世界の小澤に指揮を最初に教えたのは斉藤秀雄ではなく山本だった。
山本は以前斉藤に桐朋に指揮科が出来るから入らないかと言われていた。山本は一浪しておりこれ以上大学を遅らすことは出来ないと思い藝大を選ぶことになる。
その間、小澤は柴田南雄に作曲、小林福子に聴音を、斉藤秀雄の弟子の山本直純に指揮の基本を教わり、月二回斉藤秀雄に見てもらった。
小澤はインタビュアーに語る『弟子入りを志願した時に、斉藤は”今手いっぱいで教えられないから、しばらく山本直純という人に教えてもらいなさい”と言われた。これが直純との出会いです。当時、直純さんはすでに斉藤先生に師事していて、いわば僕の兄弟子でした。週に一度家に来て、一年間指揮を教えてくれました。』。
・小澤は動作を体にたたき込むのに歩いている間も電車に乗っている間も腕を振った。周りの視線にも気づかないぐらい集中していた。
↓山本直純については以下のアドレスから
https://history-of-music.com/naozumi-yamamoto
・「斎藤秀雄の指揮教室」斎藤秀雄は指揮の動作を徹底的に分析し、「たたき」「しゃくい」「せんにゅう」「はねあげ」などにわけ、どの動きもいつも力を抜き、どこで力を入れるか厳密にきまっている。それを頭で考えながら指揮なんてできないから、筋肉に全部覚えさせなければならない。”歩くときに坂を上がろう、角を曲がろう、といちいち考えないだろう?”と斉藤秀雄は言う。
・斎藤秀雄は戦後、吉田秀和、柴田南雄、井口基成、伊藤武雄、井口秋子、井口愛子、畑中良輔、石桁真禮生、別宮貞雄、遠山一行らと市ヶ谷九段の東京家政学院が提供してくれた窓ガラスが割れた戦後のボロ校舎で「子供のための音楽教室」を土曜の午後だけソルフェージュ、音感教育、合唱練習を教室で集団授業として基礎から音楽を教えていた。あとのピアノや弦楽器の個人レッスンは都内各所に散らばった先生たちの家に通ってもらう。弦では鷲見三郎や小野アンナらも加わった。その成長を待ち兼ねるように斉藤は合奏訓練を始めた。後の桐朋学園オーケストラに発展してゆく。同時に指揮者の卵たちのまたとない実践訓練の場となった。その前から斉藤は目白の自由学園にも「斎藤秀雄指揮教室」をやっており両方の教室で多くの門下生を輩出させた。
・吉田秀和は語る『それはまだガダルカナルやラバウルの攻防(1942年頃)が激しいころで、ある夜、斎藤秀雄さんに呼ばれていってみると、"戦争がここまで来ると、東京はきっと空襲され、ひどいことになる。いまから日本にある楽譜だとか特別高価な楽器だとか、大切なものはどこか安全なところに移しておかないと、戦後当分何もできなくなる。よく考えて、実行してちょうだい。" といわれてびっくりした。それがどういう事態を意味するのか、考えも及ばないことだった。
戦後終わって、彼が私の家を訪ねて来た"子供のための音楽教育を始めるから、手伝ってほしい。今はろくに食べるものもないけど、そういうことは何とかなるよ。人間は食べないでいられないのだから。大事なのは、次代の教育だ。今度こそ、日本で音楽をやるんだ。それには、今が最適の時"と彼は言った。何日がかりで、しつこく口説かれ私は落城した。彼の基本理念は音楽早教育。"音楽は言葉と同じで、小さい時から始めれば始めるほど、無理なく、そうして、上までのぼってゆかれる。教育は五歳から始めてよいそうだから、われわれの学校は五歳から、おそくとも小学生までとする。"というもの。私は気に入った』。
1952年(昭和27年)17歳
4月8日成城高校を1年で中退した小澤は、新設された桐朋女子高等学校音楽科指揮科に入学した。第一期生女子生徒42名、男子生徒4名(村上綜/声楽科、林秀光/ピアノ科、堀伝/ヴァイオリン科と小澤/指揮科が入学した。先生一人に生徒一人という教育がはじまる。
『1952年、いよいよ桐朋学園の音楽高校に入学する。同期の男子は四人。頭が切れる村上綜(声楽)、まじめな林秀光(ピアノ)、スマートなホリデンこと堀伝(ただし)(バイオリン)、お山の大将の僕(指揮)、という顔ぶれだった。』
・小澤は道を歩きながらでもメロディを口ずさみ両手を振って指揮の練習をしたという。小澤は忙しかった。斉藤秀雄に桐朋の学生オーケストラの雑用を一切任され譜面台や楽譜の手配、椅子並べ、パート譜の印刷校正と次から次にやることがあった。指揮の勉強もあり休む暇がなかった。
『楽譜の間違いがあったり、譜面台が壊れてたりすると「小澤!」と怒鳴られた。見かねたホリデンが手伝ってくれることもあったが、仕事はいくらでもあった。帰る頃にはヘトヘトだ。ほかの生徒は楽器だけ練習していればいいのに、なんで僕ばかりこんなに大変なのか、と一時期は先生をうらんだものだ』
『土曜日の午後には「子供のための音楽教室」の生徒たちも加わって、オーケストラの練習がある。夏休みになれば北軽井沢で合宿だ。合宿所は地元の小学校。一日中練習し、夜は教室にむしろを敷いて寝た。先生は子供にも容赦せず、怒鳴りつけては震え上がらせた。保護者も何も言えなかった。
先生と生徒の間に立っていたのが桐朋の事務方の伊集院清三先生だ。よく生徒の味方になってくれた。怒られている僕に助け舟を出してくれたこともある。上品で優しい、本当の人格者だった。』
『高校時代の僕はいつも忙しく、ひょろひょろに痩せていた。ある日、胃が痛くなって固いものが喉を通らなくなった。十二指腸潰瘍だった。斎藤先生の親戚(つまり僕の親戚でもあるが)の橋本寛敏院長がいる聖路加病院で看(み)てもらったところ、食事療法で治すことになった。主治医は菅原虎雄先生と日野原重明先生。完治できたのは、この先生たちのおかげだ。』
・成城中学ではじめた合唱の練習は、桐朋音楽科に入ってからも続いた。小澤は仙川の桐朋音楽科の放課後、神代書店の前から都立神代高校の前を通り、坂を下り入間を通って三十分ほど歩いて成城に通って合唱練習を続けた。
『斎藤先生の自宅ではめちゃくちゃ厳しかった。指揮のレッスンはピアノをオーケストラに見立てて行う。女の弟子の久山恵子さんのレッスンで、僕と直純さんが連弾した。練習が足りず、弾けないところは口三味線で「ララララ~」なんて歌ってごまかしてたら、とうとう「バカにするな!」と雷が落ちた。あまりの剣幕に、2人して庭からお宅を飛び出し、近くの公衆トイレの陰に隠れたら、奥さんの秀子さんが僕らの靴を持って追いかけてきた。でもあのレッスンは後で役に立ったと思う。細かなニュアンスを弾き分け、オーケストラの音を想像する訓練になったからだ。バイオリンやチェロのピアノ伴奏もやれと言われて、ずいぶんやった。』
・土曜日の午後は「子供のための音楽教室」の生徒たちも加わって、オーケストラの練習があった。夏休みになれば北軽井沢で合宿した。地元の小学校を借りて一日中練習し、夜は教室にむしろを敷いてねた。
桐朋学園音楽部門の歴史、第一期新入生の中に若き小澤征爾が写っている(最後列)
https://www.tohomusic.ac.jp/about/history.html桐朋学園音楽部門の歴史、第一期新入生の中に若き小澤征爾が写っている(最後列)
1953年(昭和28年)18歳 桐朋女子高等学校音楽科二年
・小澤は語る『斉藤指揮教室で斉藤先生が直純のレッスンの時に、彼の楽譜を見ながら指導していました。レッスン後、"この楽譜の書き込み、僕も勉強になった。ありがとう”と真剣に直純に礼を言っていたのです。そのくらい、斉藤先生が山本直純をすごく認めているということは、みんなよくわかっていた。一番音楽的な信用があり、そして先生から音楽の才能に対する尊敬を受けていました。』。この年、山本直純は藝大作曲科に入学した。斉藤秀雄と山本直純のレッスンは山本直純が藝大を卒業するまで続いた。
1954年(昭和29年)
・桐朋女子高等学校音楽科三年進級
・桐朋音楽科学生オーケストラもできたばかりで人手がなく、小澤はひとりでみんなの譜面台や椅子の手配からパート譜の印刷まで一切やっていた。
・毎年夏休みになると、北軽井沢にある斉藤の別荘の近くにある小学校を借りて、オーケストラが合宿練習をやっていた。合宿にはオーケストラのメンバーの母親たちが大勢参加し、小澤の母さくらも行った。練習も寝泊りも村の小学校の教室を使った。合宿の最期にその小学校の生徒たちにお礼の演奏会を開き征爾は指揮をした。
・桐朋オーケストラの練習曲はバッハ《シャコンヌ》、チャイコフスキー《弦楽セレナーデ》、Jシュトラウス《こうもり》序曲が多かった。
・小澤は仙川の桐朋音楽科の放課後、神代書店の前から都立神代高校の前を通り、坂を下り入間を通って三十分ほど歩いて成城に通って合唱練習を続けた。
・高校三年の卒業公演で桐朋オーケストラを相手にバッハ《シャコンヌ》を振ることになり、斎藤秀雄はオーケストラ用に編曲した十数分の曲を半年かけて征爾に教えこんだ。
・小澤は語る『バッハの原典にはテンポの指定がない。音楽記号も書かれていない。でも先生は楽譜を読み尽くし、音楽を細かく構築した。しかも”一番音域が広いここが音楽の頂点”というようにすべて言葉で説明できた。後年、ベルリンでヴァイオリニストのヨゼフ・シゲティの引退公演を聴いたとき、《シャコンヌ》が先生のやり方と全く同じで驚いたことがある。』
『先生はそれだけ才能があったのに極端なあがり症だった。本番の演奏会で指揮する時は普段と全然違う。手が先走って「先入(せんにゅう)」という指揮法をやたらに使うのだ。何の気なしに「先生、今日は『先入』ばかりでしたね」と言ったら「そんなこと言うな!」とドヤされた。半年に一回くらいそれで怒られて、兄弟子の山本直純さんにあきれられた。』
・卒業公演の《シャコンヌ》は山本直純、岩城宏之も聴きに来て、終演後に”感動した”と言ってくれたのが征爾には嬉しかった。
桐朋学園女子高校付属音楽科指揮科卒業
1955年(昭和30年)20歳 桐朋学園短期大学音楽科一年
・高校三年の卒業公演で桐朋オーケストラを相手にバッハ《シャコンヌ》を振ることになり、斎藤秀雄はオーケストラ用に編曲した十数分の曲を半年かけて小澤に教えこんだ。小澤は語る『バッハの原典にはテンポの指定がない。音楽記号も書かれていない。でも先生は楽譜を読み尽くし、音楽を細かく構築した。しかも”一番音域が広いここが音楽の頂点”というようにすべて言葉で説明できた。後年、ベルリンでヴァイオリニストのヨゼフ・シゲティの引退公演を効いたとき、《シャコンヌ》が先生のやり方と全く同じで驚いたことがある。』。
・卒業公演の《シャコンヌ》は山本直純、岩城宏之も聴きに来て、終演後に”感動した”と言ってくれたのが征爾には嬉しかった。
・桐朋学園女子高校付属音楽科指揮科卒業。
4月出来たばかりの桐朋学園短期大学音楽科指揮科一年に入学した。男子生徒は四人だけで指揮科は小澤一人だった。
5月中旬頃、小澤の指揮する桐朋学園オーケストラの練習風景を、来日中のシンフォニー・オブ・ジ・エアのメンバーと指揮者ワルター・ヘンドル等数人が見学しに来た。
5月来日中のシンフォニー・オブ・ジ・エアの公開練習を斎藤秀雄に言われて聴きに行き響きの違いに衝撃を受ける。曲目はブラームス《交響曲第一番》ほかのリハーサルであった。
・音楽をやるなら外国へ行って勉強するしかないと小澤は心に決めた。
同期の江戸京子や桐朋の仲間たちは次々と留学して行き、征爾はいつも羽田空港で見送った。相変わらず斉藤秀雄のカバン持ちとして雑用に追い立てられる毎日を過ごしていた。征爾はその間、斉藤先生宅の個人レッスンや桐朋の学生オーケストラの指揮練習に明け暮れた。
・川崎市幸区戸手町に引越す

1956年(昭和31年)21歳 短大二年
・桐朋学園短期大学二年の頃、斎藤秀雄の厳しいレッスンと学生オーケストラの激務のため、神経性の十二指腸潰瘍に悩まされ、固いものが何も食べられないことがあった。
・この年日本青年館で征爾は、桐朋学園オーケストラを指揮してチャイコフスキー《弦楽セレナーデ》を振った
・毎年秋の「毎日音楽コンクール」が開かれ、征爾は応募した生徒からコンクール予選でのピアノ伴奏を頼まれていた。その練習は家でも行われた。
・暮れ、中学時代の仲間で作った成城の合唱団「城の音」のクリスマス音楽会のあと、恒例のキャロルに出発した征爾は手にローソクを持って讃美歌を歌いながら歩いた。数日前から風邪気味だった征爾は翌日から高熱を出し肺炎に罹ってしまった。年も明けた1957年になっても起きられず卒業目前に長期間欠席してしまった。そのため卒業試験の幾つかを受けることができなかった。
1957年(昭和32年)22歳 卒業見合わせ
・桐朋学園で指揮と作曲の両方で一等賞を受賞し、NHKと雑誌音楽の友により邦楽の「傑出した才能」に選ばれた。
3月迎えた卒業式でなぜか小澤の名前は呼ばれなかった。あるはずの卒業証書もない。卒業見合わせ、留年していたのだ。しかも誰も教えてくれなかった。
・暮の肺炎ダウンで単位不足となり一人だけ卒業できなかった。そうとは知らず母さくらも着物で晴れやかに卒業式に出席した。母さくらは泣きながら帰って行った。母は卒業式前日に行われた謝恩会の役員を引き受けていた。
・声楽の伊藤武雄先生が『いいんだ、卒業なんかしなくたって』と慰めてくれた。また学費を払うのにアルバイトをしなければいけなくなった。
しばらく伊藤武雄先生の紹介で日本橋の三友会合唱団を指揮者となった。征爾はこの合唱団の常任指揮者を数年勤め、全国合唱コンクールにも出場した。また斎藤秀雄先生に言われて群馬交響楽団へ行き、初めてプロのオーケストラを指揮した。北海道演奏旅行では指揮者を担当した。卒業してからも桐朋の助手として残り、斉藤秀雄のカバン持ちのようにして、いつも先生と行動を共にしていた。
・7月卒業を許可された。
・7月28日赤城山頂大沼湖畔「1000人の大合唱」で小澤は群馬フィルハーモニーオーケストラ(現:群馬交響楽団)を指揮
・夏まで桐朋学園音楽短期大学で斎藤秀雄に指揮法を師事し中学三年から始めた指揮の勉強でオ-ケストラを仕込む技術を身につけた。
12月設立間もない日本フィルハーモニー交響楽団第5回定期演奏会のラヴェル《子供と魔法》で、渡邉暁雄の下で副指揮者を務めたあ。アマチュア合唱団・三友合唱団を指揮。