小澤征爾物語シリーズ‐5‐ 1948-49年

小澤征爾物語 シリーズ-5. 1948-1949年
成城中学時代

1948年(昭和23年)13歳 

・3月金田小学校を卒業。
『中学に入学する段になって、慣れない農村の学校よりは私学のほうが良かろうということになった。家からは2時間半もかかったが、おふくろが成城学園に決めた。
・4月成城学園中学校入学
ピアノの豊増昇先生に弟子入りしたのもその頃だ。不思議なもので、先生のお兄さんがおやじの新民会の仲間だったのだ。ドイツ帰りの高名な先生で、新しいお弟子はとっていなかったが、特別に見てもらえることになった。』
小田急新松田駅から2時間もかかる遠距離通学だった。
クラスは「柳組」で担任は今井信雄先生だった。
隣のクラスには小坂一也がいた。
・中学に入り当初はピアノをやるので危なくない卓球部に入った征爾だが、同級の松尾勝吾に誘われラグビーをはじめるようになった。ポジションはフォワードであった。放課後は連日夕方遅くまでラクビー部の猛練習が続いた。
✳松尾勝吾は後年、新日鐵釜石の選手として活躍し、ラクビー日本一の社会人チームの監督になった。征爾はラクビー部の主要メンバーとなっていった。
・征爾は成城に入る頃から、父の知人の紹介でピアノを豊増昇に師事しており世田谷の九品仏までレッスンに通った。
豊増先生のピアノのレッスンのある日は、泥まみれの姿で先生宅へ通った。
先輩の舘野泉や他の者はリストやショパンを弾いていたが、征爾はバッハばかりを弾かされ課題も多く必死で練習した。
この頃の征爾はピアニストを目指していた。
見込みがあるからとある時から月謝をとらなくなりタダでレッスンを見てくれた。
『同学年の安生慶、奥田恵二と初めて室内楽を演奏したのもこの時期だ。安生がバイオリンで奥田がフルート。山中湖にあったうちの別荘で合宿し、村の小学校のピアノを借りてバッハのブランデンブルク協奏曲第5番を練習した。1人のピアノ音楽ばかりやっていた僕は、仲間と音を合わせる喜びを知った。』
・家は、父の経営するミシン会社がうまくいかず、母さくらが衣類の行商をしたり、「九重織り」という手編みのネクタイ作って売ったりして生計を支えるようになっていた。
『しかもミシン会社が失敗してうちがスッカラカンになってしまったから、途中から月謝は滞りがち。豊増先生が最後はただで見てくれたのだからありがたい。
うちは本当に貧乏で、成城の学費を滞納するのもしょっちゅう。家計を支えたのはおふくろの内職だ。毛糸を編んで「九重織」というネクタイを作り、銀座の洋品店「モトキ」に卸していた。これが結構はやったのだ。機の両端を自分の腰と家の柱に結びつけて、一日中織っていた。

学校の事務所の前の掲示板には「右の者、授業料滞納につき・・・」という張り紙が出されるといつも征爾の名前が書かれてあったという。
まだ薄暗い五時半ごろ起きた征爾は、六時には家を出て、田んぼ道を十数分歩いて新松田駅に着き、六時ニ十分ぐらいの新宿行き急行電車に乗って通った。
母さくらは道祖神の石碑が立っている村道のかどのところまで見送りに行った。朝もやの中を、征爾は姿が見えなくなるまで、振り返りふり返り大きな声で、「行ってまいりまあッす」と言いながら出かけていった。
・金田村の家に帰ってくるのは夜遅かった。
『金田村から通学するのがあまりに大変なので、成城の酒井広(こう)先生のお宅に下宿した時期がある。先生は日本人と結婚したイギリスの貴婦人で、学校で英会話を教えていた。お宅にはピアノがなかったので、夜になると暗い森の中にある成城の音楽室まで行って練習した。その後は成城の教会の平出牧師の厚意で2階にも一時下宿し、オルガンでバッハを練習していた。』
参考要約「私の履歴書」、日本経済新聞社

1949年(昭和24年)14歳 中学二年 ” 指揮をやってみないか ? ”
・征爾はいたずらなどでは活発だったが、頭もよく勉強もできた。
クラス委員や学校全体の常任委員をやったり、ラクビーもレギュラーとして、青山の秩父宮ラクビー場で華々しく対外試合をやったりしていた。
・同学年の安生慶がヴァイオリン、奥田恵ニがフルートで初めて室内楽を演奏したのもこの時期、父の山中湖の別荘で合宿し、村の小学校のピアノを借りてバッハのブランデンブルク協奏曲第五番を練習した。征爾は仲間と音を合わせるという音楽の喜びをこの時初めて知った。
・金田村から成城の学校までの通学はあまりにも遠いため、成城の酒井広先生の家に下宿した時期があった。先生は日本人と結婚したイギリスの婦人で学校で英会話を教えていた。そこにはピアノがなかったので、夜になると成城の音楽室まで行って練習した。
・成城の学費滞納はしょっちゅうだったが、父開作の会社が失敗しすっからかんになるという事態になった。
家計を支えたのが母さくらの内職で、「九重織り」という毛糸を編んだ手編みのネクタイを作り、銀座の「モトキ」に卸して収入を得ていた。これは売れていたという。
母さくらからは"ピアノを弾いているんだから指を大切にしなさい"とラクビーを禁止された。
それからは練習が終わると汚れたジャージーを仲間たちにあずけ家に帰るようにした。
『おふくろは「ピアノを弾いているんだから指は大切にしないといけない」と言って、ラグビーを禁止した。それからは練習が終わると成城の銭湯で泥を洗い落とし、汚れたジャージーを仲間たちに預け、何食わぬ顔で帰った。おふくろは内職で忙しいから気付かない。が、とうとうバレた。
 あれは中学3年になる直前だったと思う。成蹊との試合で両手の人さし指成蹊との試合で両手の人さし指を骨折し、顔を蹴られて鼻の中が口とつながった。そのまま救急車で病院に担ぎ込まれ、入院するはめになった。
 それからはさんざんだ。両親と兄貴たちには叱られ、弟にはあきれられた。退院後、包帯だらけの情けない姿で豊増先生のお宅へ行った』
"もうピアノを続けられたなくなりました"征爾は言った。"音楽やめるのか?」といわれ「音楽続けたいけどどうしたらよいのか。ピアノはだめだから」と言い、黙った。先生が口を開いて「小澤君、『指揮者』というのがあるよ。日本人の指揮者が少ないから、指揮をやってみないか?"と言われた。初めて聞く職業だった

「小澤征爾歴史年譜」

Seiji Ozawa: Career Timeline