〈小澤征爾Seiji Ozawa Timeline〉
小澤征爾物語 シリーズ-3. 1935年誕生-1941
1935年(昭和10年)
満州奉天で誕生から幼稚園時代
【生立ち】
1935年9月1日小澤征爾は、満州国奉天、奉天医大病院で小澤家の三男として生まれ、奉天の平安通りの家で育った。
・母さくらが語る『前日の夜おそく産気づいたので、トランクに荷物を入れて、一恵さんといっしょに馬車に乗って医大病院に行きました。生まれたのは明け方でした。一恵さんは病院の廊下でひとり征爾の産声第一声を聞いたのです。お産は難産でなく、安産でした。とても大きくて、一貫目(4キロ)以上でした、大連病院の病院中で一番大きな赤ちゃんで、「大関」と言われました。生まれてからもとても元気に育ちました。一週間ぐらい入院していたと思います。』。
・「征爾の名前の由来」
父開作は、毎日会って親しくしていた関東軍参謀・板垣征四郎と同じく参謀の石原莞爾の二人から一字ずつもらって「征爾」と名付けた。板垣は[少年老い易く学成り難し]の書を書いてくれた。
のちに兄弟たちは、長兄・克己は彫刻家、次兄・俊夫はドイツ文学者・筑波大副学長を務め弟・幹雄は司会・講師・音楽ジャーナリスト・著作者となった。
・母さくらが語る『征爾は生まれた時、離乳期にお腹をこわしたりして体調をくずし、あんまり笑わない子でした。のちに征爾が教えていただくことになる斉藤秀雄先生のお母さんのあとらおばさんも、私が満州に行く途中、東京で挨拶に行った時に、こう言ってくれました。"若い人は結婚をすごく華やかな、幸せ一杯のものと思っていると思うけど、悲しいことや苦しいことがいっぱい待ち構えているものです。でもそれはみんな神様があなたを試す試練なんだから、それに耐えていかなくてはいけません"この言葉を私は、何か事あるにごとに、いつも思い出して、すごく心の支えにしていました。だから私は母や叔母たちに弱音を言ったことは一度もありません。それは自分でもとてもよかった、と思っているんです。だって遠くにいる母たちにぐちを言ったって、心配かけるだけだし……。』
・後年になるが、『斉藤秀雄先生がおとらおばさんの写真を送ってくれました。今でも大事に手元に持っています。その写真は征爾たちも小さい時から見ているわけで、征爾が中学三年の時、一人で斉藤先生に弟子入りをお願いしに行った際に"おとらおばさんという親戚がいるらしいけど、先生の何ですか"と聞いて斉藤先生を苦笑させたということです。』
以下、「私の履歴書」より要約
『僕は1935年9月1日、今の中国瀋陽市、旧満州国奉天に生まれた。おやじの開作は山梨県西八代郡高田村の生まれだ。
東京で苦学して歯医者になり長春で開業したが、僕が生まれた頃にはもうやめていた。
当時共産革命でできたばかりのソ連の脅威に立ち向かうには、アジアの民族が一つにならなければならないとの信念から、政治活動にのめり込んだ。
おやじは百姓の息子なので、田植えでは村中が団結して、協力し合わなければならないことを体験していたからである。
満州青年連盟長春支部長を務めていた時に関東軍作戦参謀の石原莞爾さんと板垣征四郎さんに目をかけられ、やがて親しく交わる。
二人の名前から一字ずつもらい僕に「征爾」と名付けた。おふくろのさくらによれば、出生の知らせを聞いた時にちょうど二人と一緒にいたらしい。
子供のころは書けなくてよく「征雨」と間違えたものだ。
おやじが新しい政治団体「新民会」を作るというので、僕たち一家は翌年、中国・北京の新開路に引っ越す。落ち着いた先は胡同(フートン)の中にある四合院造りの屋敷。中庭を取り囲むように建物が立ち、立派な門の両脇には狛犬(こまいぬ)がいた。』
1936年(昭和11年)1歳
長男克己が東単の北京日本小学校二年転入学。
10月一家は奉天から北京に移り北京市東単新開路35号 に移り住んだ。
父開作が北京で協和会と同じものを作ることになった。
1937年(昭和12年)2歳
4月二男俊夫が東単の北京日本小学校入学した。
父開作は石原莞爾と再会することになる。石原莞爾の支那事変不拡大方針が参謀本部内の統制を乱した責任を問われ関東軍副参謀長に左遷され満洲に赴任、北京駅に小澤が出迎えた。
小澤たちと同様に、石原はもともと民族協和の理想を持ち満州を「五族協和」のスローガンがやがて世界平和再建への途となることを見通して行動に移した。しかし、石原の言行への軍部の反発は極めて強かった。軍部のある者は、この国が関東軍の武力で出来上がってきたのである以上、逐次自制する以外に方法がないのではないかと言う者もいた。戦後石原の側近であった田村真作は「満人の伝統も習慣も、無視して、日本流の法規をやたらに作っては、満人の生活の隅々まで、干渉し強制していた」と批判をしている。
軍部は北支地域の治安と秩序を確立するため、新政権の指導精神を持った思想団体を設立する協議がなされ、小澤は民衆組織を作らねば勝てないと特務部根本大佐に話した。華北人民の自衛・自給・自治実践組織団「中華民国新民会」の創立委員となる
12月「中華民国新民会」の創立式典は北京において山下奉文北支派遣参謀長らの出席のもと開作も出席し挙行された。副会長に張燕卿、中央指導部長に根本大佐、開作は中華民国新民会/総務部長に就任した。
歯科医院を閉鎖した。
1938年(昭和13年)3歳
開作は、日系の職員養成機関の新民塾開設し塾長就任した。日本軍の占領地区は拡大し、活動箇所も広くなる。会務職員も増やさなければいけなかった。新民精神を理解する日本青年が必要だった。
4月第一期生が入所した。ここでは講師による中国語会話や社会学、空手、乗馬、武道訓練、農作業、冬でも暖房なし、しごきやビンタなどの訓練が行われた。
半年の訓練で半数が脱落、逃亡した。同時に中国人も育成のためほぼ同時に始まった。こうして鍛えられた日系と華系の若者たちはそれぞれに新しい中国を作ろうという使命感を持って北支の各地に派遣されていった。
やがて、開作は関東軍憲兵隊にマークされ始めた。
山中湖に別荘を建て、ゴルフ場の会員になった
1939年(昭和14年)4歳
1月開作たちの宣撫班本部が北京に移った。その責任者は八木沼で北支方面軍特務部宣撫派班総班長であった。宣撫班は日本軍の中の組織であった。一方、開作の活動する新民会は「中華民国新民会」であった。宣撫班員のように軍服、軍刀という格好で民衆の前に立つことはなかった。開作と八木沼は宣撫方法で対立する関係に立った。
開作は日本軍をバックにするようでは中国人の心を捉えられないと考えていた。新民会のように、中国人を前面に立てて指導を行うのが正当だとかんがえていた。
開作は人民を背後にした強さを持っていた。日本軍が広く中国国内に侵入してくれば、そこに自ずと隙が生じる。八路軍の毛沢東は抗日人民を作り、日本軍が点と線しか押さえられない状況を作り、共産ゲリラに有利な情勢を作り出そうとしていた。日本軍がこうした人民を敵に回せば、それは共産党の思う壺であったからである。新民会や宣撫班の活動が有意義であり、共産党にとっては目障りだった。人民を敵にすることは自らの破滅を意味していた。毛沢東は率直にその危惧を表明していた。
新民塾はこの年から毎年拓殖大学や東亜同文書院出身の学生など、意欲のある青年を募集し、半年の厳しい訓練を受けて各地に赴任という形式が確立した。1943年の六期生までが募集された。しかし北支那方面軍には、その新民会工作を全く理解しない軍人が多かった。理由は満州の協和会崩れで持て余しの定評ある人々をもってこの種精神運動が出来るはずがない。「満州の協和会崩れ」「持て余しの定評ある」と評されているのは、小澤開作であった。新民会は開作の意志が強く反映する団体であったが、本質的に中国人の組織であった。開作は『いたずらに軍事行動に偏向している』という日本軍の批判を遠慮なくやったから日本軍の評判は悪かった。軍事行動の偏重は中国民衆の生活基盤を壊すだけだ。結果的に毛沢東に振り回されることに繋がった。
開作は「”日支事変は、ゴールのないマラソン競争の悲劇だ。苦しむのは北支の民衆だ。東京の日本の当局者に反省をもとめ、日支事変の結末をつける他に途はない”と悟り、東京に飛んだ。軍部の一部では”開作は反軍思想者だ。小澤は反戦思想にとりつかれている”の私語さえ漏れ始めた」。
参考/要約:田中秀雄著『石原莞爾と小澤開作』扶養書房出版、2008年、194-195頁「父を語る」より
1940年(昭和15年)5歳 アコーディオンとの出会い
3月1日開作たちの新民会は宣撫班を強引に合体させ日本軍の管理下におくという指示に、宣撫班との統合問題で辞任を決意し、小澤開作委員ほか数名が辞表を出し、9月10日付けで1年7か月の新民会の会務職員としての任務から解放され、結果的に追放された。
新開路35の自宅/小澤公館で日本語言論雑誌「華北評論」の創刊号発行した。社主兼編集長は小澤開作である。
『うちは男ばかり4人兄弟で、上から克己、俊夫、僕、幹雄(あだ名はポン)の順だ。北京の家にいたのは両親と僕たち兄弟のほか、おやじの郷里から呼び寄せた2人のお手伝いさん、中国人のお手伝いの李さん一家。「新民会」の青年たちもしじゅう出入りしていた。おやじは彼らを中国のあちこちへ派遣し、貧しい農村があれば懸命に手助けをした。なかには内地で何年も牢獄(ろうごく)に入っていたような元共産主義者もいて、うちには朝から晩まで憲兵が張り付いていた。
小山さんというその憲兵は丸顔のかわいい人で、兄貴たちとチャンバラごっこで遊んでいた。おふくろは人を分け隔てしないタチだから、食事になると小山さんも呼んで一緒に円卓を囲む。
そのうちすっかり仲良くなり、しまいにはうちにいたお手伝いのきよじさんと結婚した。
幼い僕の好物は中国の蒸しパン、饅頭(マントウ)。朝は「要幾個(ヤオジーガ)饅頭(饅頭いくついるかね)ー」という饅頭売りのラッパと声で目を覚ました。朝飯はいつもほかほかの饅頭だ。中庭にゴザをしいて、みんなで頬張った。
兄貴たちが学校へ行くと、うちで李さんの娘の亜林(ヤーレン)とばかり遊んでいた。一度、一人で門の外へ出たら、自転車にひかれて目の上を切ってしまった。全く間抜けな話だ。その傷は今も残っている。
北京の冬の思い出はなんと言ってもスケートだ。中庭に水をまいて凍らせて、みんなで滑る。最初は兄貴たちの手につかまっていたのが、すぐに上手になった。北海公園や中南海の池でもよく滑った。
日曜になるとクリスチャンのおふくろに連れられて教会で賛美歌を歌う。
ふ家でもみんなで合唱だ。おふくろが歌うとどういうわけか少しずつ調子が上ずっていく。合わせるのが大変だった。
5歳のクリスマス。おふくろが大雪の中、大通りの王府井(ワンフーチン)まで行き、アコーディオンを買ってきた。克己兄貴はみるみるうちに上達し、僕らの合唱の伴奏をするようになった。僕と音楽の出合いだ。
おやじは官僚政治や権威主義を心底嫌っていた。理念も持たず中国人を蔑視する政治家や軍人が増えると、手厳しく批判した。この年には言論雑誌「華北評論」を創刊した。「この戦争は負ける。民衆を敵に回して勝てるはずがない」とおおっぴらに主張し、今度は軍部に目を付けられるようになった。
「華北評論」は検閲で真っ黒に塗りつぶされ、何度も発禁処分を受けた。』
1941年(昭和16年)6歳 帰国
『日中戦争を底なしの泥沼と見たおやじはおふくろと僕たち兄弟を日本に帰すことに決める。
「軍の輸送に迷惑をかけるから余計なものは持って行くな」と厳命され、家財道具はほとんど置いてきた。持ち帰ったのは着替えと中国の火鍋子、家族の写真アルバム。それからアコーディオンもあった。僕が生まれて初めて触った楽器だ。
船と列車を乗り継いで日本に引き揚げた。41年5月だった。』
立川市柴崎町三丁目の貸家に住む。
自宅の前にあった若草幼稚園入園。
参考文献:小澤征爾・大江健三郎『同じ年に生まれて』、中央公論新社、2001年、P14~15
要約:『私の履歴書』、日本経済新聞社