小澤征爾物語 シリーズ-6. 中学2年 1949年
” 指揮をやってみないか ? ”
1949年(昭和24年)14歳 中学二年
【活動記録】
・征爾はいたずらなどでは活発だったが、頭もよく勉強もできた。
クラス委員や学校全体の常任委員をやったり、ラクビーもレギュラーとして、青山の秩父宮ラクビー場で華々しく対外試合をやったりしていた。
・同学年の安生慶がヴァイオリン、奥田恵ニがフルートで初めて室内楽を演奏したのもこの時期、父の山中湖の別荘で合宿し、村の小学校のピアノを借りてバッハのブランデンブルク協奏曲第五番を練習した。征爾は仲間と音を合わせるという音楽の喜びをこの時初めて知った。
・金田村から成城の学校までの通学はあまりにも遠いため、成城の酒井広先生の家に下宿した時期があった。先生は日本人と結婚したイギリスの婦人で学校で英会話を教えていた。そこにはピアノがなかったので、夜になると成城の音楽室まで行って練習した。
・成城の学費滞納はしょっちゅうだったが、父開作の会社が失敗しすっからかんになるという事態になった。
家計を支えたのが母さくらの内職で、「九重織り」という毛糸を編んだ手編みのネクタイを作り、銀座の「モトキ」に卸して収入を得ていた。これは売れていたという。
母さくらからは"ピアノを弾いているんだから指を大切にしなさい"とラクビーを禁止された。
それからは練習が終わると汚れたジャージーを仲間たちにあずけ家に帰るようにした。
『おふくろは「ピアノを弾いているんだから指は大切にしないといけない」と言って、ラグビーを禁止した。それからは練習が終わると成城の銭湯で泥を洗い落とし、汚れたジャージーを仲間たちに預け、何食わぬ顔で帰った。おふくろは内職で忙しいから気付かない。が、とうとうバレた。
あれは中学3年になる直前だったと思う。成蹊との試合で両手の人さし指成蹊との試合で両手の人さし指を骨折し、顔を蹴られて鼻の中が口とつながった。そのまま救急車で病院に担ぎ込まれ、入院するはめになった。
それからはさんざんだ。両親と兄貴たちには叱られ、弟にはあきれられた。退院後、包帯だらけの情けない姿で豊増先生のお宅へ行った』
"もうピアノを続けられたなくなりました"征爾は言った。"音楽やめるのか?」といわれ「音楽続けたいけどどうしたらよいのか。ピアノはだめだから」と言い、黙った。先生が口を開いて「小澤君、『指揮者』というのがあるよ。日本人の指揮者が少ないから、指揮をやってみないか?"と言われた。初めて聞く職業だった
↓ ラグビー部の部員たち、中列でボールを抱えているのが小澤征爾さん