生没年・出身地・歿地・墓地
ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 生誕 Ludwig-Van-Beethoven
(1770年12月16日頃ボンのボンガッセ515番地生・洗礼は12月17日)
(1827年3月26日ウイーンで歿)ヴェーリンガー墓地に埋葬。
1.職業
1.ドイツの作曲家
2.称号
3.経歴
⑴ 曾祖父ミシェル・ヴァン・ベートーヴェンは1684年フランダースのメッヒェレン(現ベルギ-)に生まれ、パン屋となりその後絵画や骨董品、レース貿易業で財をなしたが多額の負債を抱えてしまう。1740年頃息子の暮らすボンへ移った。
⑵ 祖父のルードウイッヒ・ヴァン・ベートーヴェンは1712年フランダースのメッヒェレンに生まれ、1717年聖ロンボー合唱学校に入り少年聖歌隊員にな
る。1727年合唱団の歌手及びオルガン奏者その後副テナーとなった。後にリエージュのサン・ランベール大聖堂聖歌隊副指揮者になる。リエージュの司教
でもあったケルン大司教の王子に才能を認められて、1733年ボン宮廷に移りバス歌手になる。1761年宮廷楽長になり宮廷劇場用の作品やオペラを作曲
した。
⑶ 父ヨーハン・ヴァン・ベートーヴェンは1740年ボンに生まれイエズス学校で学んだ。12才で宮廷礼拝堂ボーイソプラノになり、1764年宮廷楽士になる。1767年ボン、レミー教会でマリア・マグダネーラと結婚した。マリアはトリーア大司教宮廷料理長の娘で、16才で結婚したが夫と死別していた。
⑷ ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは長兄が出生後数日して死亡したため、二男であったが実質的な長男として育つ。
1773年 3才、祖父の死。
1775年 5才、父から音楽を習う。
1776年 6才、ヴァイオリンとピアノ演奏に急速な進歩を見せる。
1777年 7才、最初の演奏会をケルンで開催。宮廷オルガニストのハインリッヒ・ヴァン・エーデンに師事したがすぐ中止.
1779年 9才、フランツ・ゲオルグ・ロヴァンティーニ、テナーのトビアス・フリードリヒ・ファイファー等にクラヴィーア、ヴァイオリン、ヴィオラを師事。
1781年 11才、リスティアン・ゴットローブ・ネーフェにピアノ、作曲理論、和声学を師事。小学校を退めヴィリルト・コッホ修道士にオルガン奏法、ミュンスター寺院のオルガニストのツェンザーにオルガン演奏学ぶ。
1782年 12才、ネーフェの代理宮廷オルガニストに任命される。
1783年 13才、ボン宮廷歌劇場でネーフェの代わりにチェンバロを担当。
1784年 14才、宮廷礼拝堂副オルガン奏者。
1785年 15才、フランツ・リースにヴァイオリンを習う。ヴェーゲラーの紹介でブロイニング家のピアノ教師になる。
1787年 17才、モーツァルトを訪ねてウイーン訪問しモーツァルトの前で演奏し、ほんのわずかの時間教えを受けただけで母が他界したためボンに帰る。
1788年 18才、ワルトシュタイン伯爵の知己を得る。宮廷オーケストラのヴィオラ奏者となる。
1789年 19才、宮廷正オルガニストに就任。父の給料の半分を家族に支払うよう裁定される。
1790年 20才、ハイドンに会見。
1792年 22才、ネーフェやワルトシュタイン伯のはからいでボンに立寄ったハイドンに再会い才能を認められ選帝侯の援助を受けハイドンに対位法を学ぶ為ウイーンへ留学。父が他界す。
1793年 23才、ハイドンの指導を断りヨハン・シェンクに対位法、アントニオ・サリエリからイタリア歌曲作曲を1802年頃まで学ぶ。
1794年 24才、アルブレヒツベルガーに師事。アロイス・フェルスターに弦楽四重奏の作曲法を学ぶ。カール・リヒノウスキー候邸に住む。
1795年 25才、ブルグ劇場で自作のピアノ協奏曲第2番初演。歌手ヴィルマンに求婚し断られる。
1796年 プラハ、ベルリンで演奏。
1797年 作品の出版とピアノ教師で生活が安定。プレスブルク、ブタペストの都市で公演する。
1797年 27才、この頃から聴覚障害に罹る。
1799年 ブルンスヴィック家のテレーゼと妹ヨゼフィーネにピアノを教える。
1800年 30才、ブルグ劇場で交響曲第1番初演。カール・チェルニーが弟子入りする。ジュリエッタ・グィッチャルディにピアノを教える。
1801年 31才、カール・アメングとヴェーゲラーに耳の障害を訴える。ヴェーゲラーに宛てた6月29日の手紙に「耳の聴こえがが三年来悪くなってきている。原因は腸からきているという。腸は前から弱かったが、最近は常習的な下痢に悩まされている」と書く。ジュリエッタ・グィッチャルディに恋しピアノソナタ「月光」を捧げる。
1802年 32才、ハイリゲンシュタットに転地し10月6日弟に遺書(ウィーンのプローブス・ガッセのベートーヴェン記念館に陳列)を書く。この頃はうつ病の状態にあったと言われている。この頃から1808年にかけ発熱と下痢が続き消化の悪いものを食べると悪化した。このような下痢は死ぬまで続き種々の療法や薬剤は効かなかったと記録に残されている
1803~04年 33才、ウイーン劇場作曲家として契約。
1805年 35才、交響曲第3番アン・デァ・ウィーンで公開初演。
1806年 36才、ブルンスヴィック家のテレーゼと婚約。ヴァイオリン協奏曲初演。
1807年 アン・デァ・ウィーン劇場付作曲家の契約ならず。
1808年 38才、ルドルフ大公に音楽理論を教え始める。カッセル宮廷楽長就任の交渉を受ける。
1809年 39才、カッセル宮廷楽長を断るためルドルフ大公等が年金を与える契約を結ぶ。
1810年 40才、テレーゼとの婚約解消。ベッティーナ・ブレンターノに会う。
1811年 41才、ボヘミアのテブリッツに湯治。
1812年 健康を害しテブリッツ、カルルスパード、フランツェンブルンで湯治。テブリッツでアマリエ・ゼーパルドに会い恋に落ちる。当地でゲーテに会う。年金とまる。彫刻家クラインが胸像を作る。
1813年 43才、ウィーン大学講堂で交響曲第7番(ウエリントンの勝利)初演。
1815年 45才病床の弟カールに頼まれ甥カールの後見を引き受ける。弟カールが他界。
1816年 46才、甥カールの後見人になり私塾に入れる。カールの母訴訟。会話帳を使いはじめる。
1817年 47才、カールをめぐる長い訴訟がはじまる。
1818年 ロンドンのブロードウッドからピアノを贈られる。甥カールを私塾から手もとにひきとる。
1819年 49才、甥カールの後見を裁判所に否認され翌1920年上告し勝訴。カ-ルは手もとに帰る。
1821年 51才、貧困と病苦の生活が続く。黄疸にかかる。ロッシーニ、ベートーヴェンを訪問。シューベルト自作曲を持ちベートーヴェンを訪問。
1824年 54才、 交響曲第9番完成し5月自身の指揮でウィーン初演。
1825年 10月ウィーンのシュヴァルツシュバニエルハウスに住む。11月ウィーン楽友協会名誉会員。鼻出血と吐血があり肝硬変が進行。その後肝臓部の疼痛が起こり足に浮腫が現われ腹水もたまってくる。
1826年 甥カールの自殺未遂。7月健康を害す。ウィーンへの帰途かぜを引き肺炎と腹水腫併発。12月かぜから肺炎をおこす。黄疸と腹水が増え20日 初めて腹膜に針をさして腹水の排除を行う。
1827年1月、2月56才、腹水排除。2月末四回目の腹水排除。生活困窮しイギリスに資金援助依頼。ロンドンのフィルハーモニー協会から100ポンド届く
3月 シューベルト病床を見舞う。
3月24日頃より意識不明となり臨終の儀式を行う。
3月26日午後5時45分56才の生涯を終わらせる。死因は肝硬変からおこった肝性昏睡と言われているが近年、鉛中毒説が浮上
3月29日29日葬儀。
4.主な作品
交響曲(第1番~9番)、ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、 オペラ「フィデリオ」、荘厳ミサ、ピアノソナタ、弦楽四重奏曲、弦楽五重奏曲ほか多数
5.その他
6.初演
1798 ※ピアノソナタ「熱情」作曲、初期を代表する傑作、ベートーヴェンの三大ピアノソナタのひとつ。自筆楽譜は現在、パリ音楽院に保存
1801 ※ピアノソナタ「月光」作曲、ベートーヴェンの三大ピアノソナタのひとつ
1804 ※交響曲第3番「英雄」初演翌年4月自身の指揮・アン・デア・ウイーン劇場
1805 ※オペラ「フィデリオ」2幕(初稿3幕)11月アン・デア・ウイーン劇場で(2時間分)
1806 ※ヴァイオリン協奏曲ニ長調 12月23日著名なヴァイオリニス、トフランツ・クレメントにより演奏。翌年クレメントの勧めでピアノ協奏曲に編曲した
1808 ※交響曲第5番「運命」交響曲第6番「田園」12月22日自身の指揮、アン・デア・ウイーン劇場で
1809 ※ピアノ協奏曲「皇帝」初演1811年11月28日ヨハン・シュナイダ-のピアノ、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏
1812 ※交響曲第8番 初演翌年4月20日自身の指揮、ルドルフ大公邸(非公開)で
1813 ※交響曲第7番 4月20日自身の指揮、ルドルフ大公邸(非公開)
1823 ※「荘厳ミサ曲」1824年4月7日サンクトペテルブルクの「未亡人のための慈善演奏会」で
1824 ※交響曲第9番「合唱」5月7日自身とウムラウフの指揮、ケルントネル劇場