ベートーヴェン肖像
生没年・出身地・歿地・墓地
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
Ludwig van Beethoven
1770年12月16日頃神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボンのボンガッセ515番地に生れた/12月17日洗礼
Bonn, Nordrhein-Westfalen, Deutschland (Germany)
1827年3月26日ウイーンで歿し、ヴェーリンガー墓地に埋葬された
Died on 26 March 1827 at the age of 56
Buried in the Währing cemetery, north-west of Vienna
中央墓地 グループ 32A、番号29
Moved in 1888 to Vienna’s Zentralfriedhof
目次(クリックまたはタップで各項目にジャンプします。)
1.職業
ドイツの作曲家、オルガニスト、ピアニスト
【ベートーヴェン楽歴Beethoven-Karriere】
1775年5歳父からピアノやヴァイオリン、音楽を学びはじめる
1779年9歳フランツ・ゲオルグ・ロヴァンティーニにヴァイオリン、ヴィオラを学ぶ。、
同年9歳テナーのトビアス・フリードリヒ・ファイファー等にクラヴィーアを学ぶ。
1781年11歳ネーフェに師事。演奏に加えて通奏低音と作曲を学ぶ。
同年11歳神父ヴィリルト・コッホ修道士にオルガン奏法を学ぶ。
同年11歳ミュンスター寺院オルガニストのツェンザーにオルガン演奏を学ぶ。
1782年12歳選帝侯礼拝堂のネーフェの代理宮廷オルガニストに任命される。
1783年13歳ボン宮廷歌劇場オーケストラでネーフェの代わりにチェンバロ奏者となる。
1784年14歳ボン宮廷礼拝堂副オルガン奏者任命される。
1785年15歳フランツ・リースにヴァイオリンを習う。
同年15歳ブロイニング家のピアノ教師になる。
1789年19歳ボンの歌劇場オーケストラのヴィオラ奏者となる。
同年19歳ボン宮廷正オルガニストに就任。
1792年22歳11月選帝侯マックス・フランツ(女帝マリア・テレジアの末息子)の援助を受けハイドンに対位法を学ぶ為ウイーンへ留学。(1795年までの3年間)
1793年23歳ヨハン・シェンクに対位法、アントニオ・サリエリ(1802年頃まで)にイタリア歌曲、作曲法を学ぶ。
1794年24歳1月アルブレヒツベルガーに師事。
同年24歳アロイス・フェルスターに弦楽四重奏曲の作曲法を学ぶ。
1803年33歳ウイーン劇場作曲家として契約。
2.称号Titel
日本では「楽聖」とも呼ばれる
宮廷音楽家
ウィーン楽友協会名誉会員(1825年11月)
3.ベートーヴェン家系family tree
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ベートーヴェン 家系
祖父ルドヴィカス・ヴァン・ベートーヴェン
祖母マリア・ヨセファ・ヴァン・ベートーヴェン
父ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン
母マリア・マグダレーナ・ヴァン・ベートーヴェン
註. <ケルン宮廷楽長を務めた祖父の呼称につて>
『ベルギーでは人口の約半数はオランダ語を話している。そのオランダ語では、ルートヴィッヒの祖父は【ルイス・ヴァン・ベートーヴェン(Louis van Beethovenという名前でよく知られている。洗礼台帳には、ルドヴィカスLudovicusとして登録されている。(この項では洗礼名ルドヴィカスLudovicusを使用する。一般的には、祖父ルドヴィカスの姓名をルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンとして使っているが、作曲家ベートーヴェンと文中で混同するおそれがありあえて使い分けた。)』
↓写真地図説明
➀ボンにおけるベートーベンの住居(BonngasseNo.515(現在はBonngasse20)。
➁アウフム ドライエック6(今日はトライアングル6)。
➂ラインガッセ934(現在はラインガッセ24)。
➃ノイガッセ912(現在の市庁舎通り)。
➄シュトッケンシュトラーレ
<ベートーヴェン/プロフィールProfil>
出身:Bonn, Nordrhein-Westfalen, Deutschland (Germany)ドイツ、ノルトライン-ヴェストファーレン州ケルン区ボン市ボンガッセ515番地
1770年12月16日、ベートーヴェン(以降、ルートヴィヒという)は神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンにおいて、父ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン(以降、父ヨハンという)と、母マリア・マグダレーナ・ケフェリヒ・ライム(以降、母マリアという)の第二子として生まれた。
マリアは七人の子供を産んだが成人したのは三人のみで、長男のルートヴィヒ・マリーア(1769年4月2日に洗礼)が生誕6日後に死去したため、その三人の中ではベートーヴェンは長男だった。他の二人は、カスパル・アントン・カール(以降、弟カスパルという)とニコラウス(以降、弟ニコラウスという)・ヨハンである。
ベートーヴェン一家の祖父ルドヴィカスは、ボンのケルン選帝侯宮廷の優れた歌手かつ鍵盤楽器奏者として知られ、楽長として宮廷の音楽家たちを率いていた。同時代人からも尊敬されていたという。父ヨハンも宮廷歌手(テノール)であった。
1782年12歳からクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事して音楽を学んだ。
1787年17歳の春、ウィーンに旅し、モーツァルトを訪問した。
1789年19歳には、家計を支えられるように父親の年収の半分を直接自分に渡してほしいという旨を、父親が無給になった場合にはどこかの村に追放するという条件付きで、選帝侯に嘆願した。しかし、このことを恥じた父ヨハンは自身の給料の半分を年4回の分割で、自らルートヴィヒに渡したという。そして、仕事ができなくなった父に代わっていくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、養育と学校教育が必要なニ人の弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。この頃リース家とブロイニング家から生活面で助けを得ていた。
1790年20歳の12月には、イギリスに行く途中で当時絶頂期だったハイドンに会った。
1792年22歳の11月から1794年1月までの日記には、買い物の支出の記録やハイドンのもとでのレッスン料の記録は残っている。
1793年23歳からヨハン・シェンクに作曲を師事し、彼の下でフックスの『パルナッソス山への階梯』を基に対位法を学び、対位法課題を添削してもらった。
1796年26歳の初頭、ルートヴィヒはプラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンを旅行し、六か月間に及ぶ演奏会を行った。20代後半頃より持病の難聴が徐々に悪化し、1798年28歳の頃には最高度難聴者となったという。絶望感から、1802年32歳の時『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたためて自殺も考えたという。
1804年34歳に交響曲第三番を発表したのを皮切りに、その後十年間にわたって中期を代表する作品が書かれた。
1826年56歳の12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後は病臥に伏す。
1827年3月26日、ルートヴィヒは肝硬変のため波乱にちた56年の生涯を閉じた。
~人物~
医師で慶應義塾大学医学部教授を務めた五島雄一郎はその著『偉大なる作曲家のためのカルテ』で『ベートーヴェンの強く突き出した前額、深くくぼんだ鼻根部、鞍鼻といわれるあぐら鼻などは先天性梅毒の特有の所見であり…聴力障害も梅毒が原因していたと考えた方が無理がないように思われる。』と述べている。
ベートーヴェンの身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質でがっしりとした体格をしていたようだ。
フォン・ベルンハルト夫人は『背が低く、醜く赤いあばた顔をした不器用な男。髪は真っ黒で、顔の周りにもじゃもじゃと垂れ下がっていた』と軽蔑的に述べている(註:ルイス・ロックウッドより引用)。
肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかといわれている。
表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。
基本的に服装には無頓着であり、若いころには着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。
フォン・ベルンハルト夫人は『服はとても平凡で、当時の流行とさほど違いはなかった』と回顧録に記している(註:ルイス・ロックウッドより引用)。
弟子のチェルニーは初めてベートーヴェンに会ったとき、『ロビンソン・クルーソーのよう』『黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている』という感想を抱いたと述べている。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者と誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こったという伝えがある。
部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。
当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでもほかのどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からもうかがえる。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。
潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。
性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人付きあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。
これもどこまで真実なのかは定かではないが、《ピアノソナタ》「ワルトシュタイン」や《弦楽四重奏曲》大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じたといわれている。
癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなど、しばしば暴力的な行動に出ることもあったという。
師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられたときは、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。
パトロンのカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、『侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!』と書き送っている。(1812年)このような「場をまったくわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。
また、後援者のリヒノフスキー家に下宿している際に正餐のために毎日4時に集まるように言われると、それを断り、『毎日、三時半に家に帰り、服を着替え、髭を剃ったりしなくてはならないのか?まっぴらごめんだ!』とヴェーゲラーに述べている。
テプリツェでゲーテとともに散歩をしていたところ、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ルートヴィヒは昂然として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。のちにゲーテは『その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈奔放な人柄だ』とルートヴィヒを評している。
《交響曲第五番》の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、《ピアノソナタ第17番》が「テンペスト」と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるルートヴィヒの逸話は、自称「ルートヴィヒの無給の秘書」のアントン・シンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ルートヴィヒの資料を破棄したり改竄を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。
聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。
死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が三通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説がある。テレーゼ・ブルンスヴィック やその妹ヨゼフィーネ・ブルンスヴィックなどとする説があったが、現在ではメイナード・ソロモンらが提唱するアントニー・ブレンターノ(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説がもっとも有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。
これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。
メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって《交響曲第九番》や《ハンマークラヴィーアソナタ》のメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。
彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。
パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであった。
コーヒーは必ず自ら豆を六十粒数えて淹れたという(この稿一部:wikipediaより要訳)
4.ベートーヴェン歴史年譜historische Chronologie
1769年4月2日長男ルドヴィカス・ヴァン・ベートーヴェン誕生(1769年4月8日生後7日で夭折)
1770年12月16日にルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンはボンで生まれた。
(英語圏では「Ludwig」を [ˈlʊdvɪg](ルドヴィグ)、[ˈlʊdwɪg](ルドウィグ)等と発音する。 日本では「ルートヴィヒ」と英語・ドイツ語混合で表記・発音することも多い。)参考:https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=mcafeess1&p=Lodewijk%E3%81%AE%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E8%AA%9E%E8%AA%AD%E3%81%BF%E6%96%B9
出身:Bonn, Nordrhein-Westfalen, Deutschland (Germany)ノルトライン=ヴェストファーレン州ケルン区ボン市ボンガッセ515番地
↓ <ボンガッセの生家(ボンガッセ515番地(現在ボンガッセ20番地)>
<ベートーヴェンの誕生日について>
1. ルートヴィヒの誕生日はどこにも記載されていない。 彼の洗礼の日、1770年12月17日だけが知られており、認定されている。
当時、カトリック教徒のラインラントとボンでは洗礼を生後24時間以上延期しない習慣があったため12月16日が誕生日であると考えられる可能性が高い。
洗礼証明書もこれを伝えている。
↓「ルートヴィヒの洗礼証明書」
『受洗証明書 一千七百七十年十二月十七日ルイは洗礼を受けた。 謄本に相違ないことを証明する。サン レミ・ア・ボン教会』とフランス語で書かれた証明書には名付け親たちの直筆サインがある。(編者要訳)
ルートヴィヒは1772年を自分の誕生年と考えており、古い伝記にはすべてこれだけが記載されている。
『Auf die Rückseite dieses Aktenstücks schrieb Beethoven:»Es scheint der Taufschein nicht richtig, da 1772noch ein Ludwig vor mir. Eine Baumgar-ten war glaube ich mein Pathe.』『(編者要訳)ベートーベンはこの文書の裏に次のように書いている。洗礼証明書が間違っているようです。1772年、私の前には別のルドヴィグがいた。パウムガルテンが私の名付け親だと思います』(編者要訳)
しかし、それはヴェーゲラーによる次の話によって払しょくされる。『祖父について… 小さなルイ(祖父はオランダ語のファーストネームがルイLouis van Beethovenであった)はこのおじいさんにとても愛着があり、どんなに早くにそれを失ったとしても、初期の印象は彼の中に非常に鮮明に残りました。彼は幼なじみと祖父のことを話すのが好きで、厳格な父親よりも敬虔で優しい母親が彼に祖父のことをたくさん話さなければなりませんでした。宮廷画家ラドゥーが描いたその絵は、彼がボンからウィーンに持ち帰った唯一のものであり、彼は死ぬまでこの絵を大切にしていました。もし 1772年が誕生の年だったら、少年は1773年12月24日に亡くなった祖父についての記憶を何ひとつ覚えていなかったはずです。』
2. ルートヴィヒはノルトライン=ヴェストファーレン州ケルン区ボン市ボンガッセ515番地に生まれた。
3. 父ヨハンはケルン選帝侯の宮廷付き歌手、母マリア・マグダレーナ(旧姓ケヴェリッチ)である。
4. 名付け親は、祖父ルドヴィカスと選帝侯書記官で隣家に住むヨハン・バウムの妻アンナ・ゲルトルート・バウムでった。
七人の子供が生まれたが、そのうち幼い頃生き残ったのは二人(弟カスパールと弟ニコラウス)だけであった。
他の兄弟は生まれては亡くなったが、弟カスパール(1774-1815)と弟ニコラウス(1776-1848)だけが生き残り、生涯を通じてルートヴィヒと親密な関係を持った。
長兄が出生後数日して死亡したため、弟ニコラウスであったが実質的な長男として育った。
12月17日に洗礼を受けた。
その他:8月ザルツブルクの新大司教ヒエロニムス・フランツ・ヨーゼフ・フォン・コロレドは、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトをザルツブルク宮廷管弦楽団の有給コンサートマスターに任命した。モーツァルトは10月24日に父親とともに三回目のイタリア旅行を開始し、旅行は1773年3月13日まで続くことになった。
1773年3歳
12月24日祖父ルドヴィカスがライン通りに隣接するベルダーベルクBelderberg,971番地で61歳で亡くなったとき、ルートヴィヒはまだ三歳であったが、のちにベートーベンは祖父を家族の象徴として称賛した。『父ヨハンは一人息子であり、したがって彼の遺産の唯一の相続人であった。そこで父ヨハンは、借金をしていた前述の農民たちのところへ行き、金を要求した。祖父ルドヴィカス多くの農家にお金を貸したり、ワインの前払いをしたりしていたが、結局返されることは。
ルートヴィヒが三歳のとき、メイドはよく夏の天気の良い日に子供たちをライン川や城の庭園に連れて行った。そこで彼らは降ろされ、砂場んだ。天気なら父ヨハンの子供たちは、同じく学童だったフィッシャーの息子カール・ヨーゼフとヨハン・ペーターと一緒に、フイッシャーの家の中庭で遊んだ。その後、両親が許可すれば、近所の少年たちも遊びに来た。庭にはブランコがあり、子どもたちはブランコで一生懸命揺れていたし、近所の子どもたちもおもちゃを持ってきて、思う存分遊んだ。父ヨハン家の子供たちは優しく育てられたわけではなかった。 彼らはメイドに任せられることが多っかた。父は厳格な父親であった。しかし、子どもたちは友達と遊ぶことができたときは、長く楽しく遊んでいた。 ルートヴィヒは、人々がおんぶしてくれるのが何よりも大好きで、よく笑いが止まらなかった。父ヨハン家の子供たちやメイドたちがフィッシャー家で大騒ぎを引き起こすことがよくあったため、家の所有者であるテオドール・フィッシャーは、家の規則を母マリアに非常に明確に説明しなければならないと感じた。説教に対して苛立ちと矛盾を持って反応したが、父ヨハンたちが状況を考え、やって来て、フィッシャーに、彼らの間違いを認めた。 彼らは子供たちとメイドに対して謝罪した』。
<母マリアの日常>
『母マリアは器用な女性であった。彼女は目上の人にも下の人にも話し、賢明な答えを話すことができました。こうしたことにより、彼女は尊敬され、非常に人気がありました。彼女は裁縫と編み物に従事していました。彼女と夫は義にかなった平和な結婚生活を送っていました。 彼らは家賃とパンを三か月ごとに期限通りに支払いました。母マリアは家庭的で良い女性でした。 彼女は正しい考えの持ち主でそれにふさわしい、付き合いの方法を知っていた。
<父ヨハンの日常>
父ヨハンは宮廷テノール歌手で、仕事に真剣に取り組み、常に時間厳守でした。 彼は地元のイギリス、フランス、帝国大使の息子や娘に歌やピアノのレッスンを与えた。そのため、宮廷テノール歌手はすぐに自分のできる以上のことをするようになった。 しかし、彼の生徒たちはしばしばそれに応え、しばしば彼の家を存続させるための謝礼をした。生徒たちは父ヨハンと良好な関係を築いていた。』(編者要訳)
1774年4歳
4月8日三男カスパル・アントン・カール誕生(1815年11月15日41歳で歿)
『1774年1月8日ボン。宮廷音楽家父ヨハンは、亡くなった父親の有給給与からの手当と、ケルンの修道院にいる母親への給料の支給を求めている。』 この報告書の欄外には、次のようなことが布告されている。『給料をもらって修道院に留まるべきである。故人が生涯を通じて捧げた多くの忠実な奉仕を考慮し、残こされた妻が現在入所している修道院に長期間入所していることを考慮し、今後、生活費として年60ライヒシュターラーRthl(註:) の給付金が四半期に分割して支給することにする。』
父ヨハンが、彼の父親の宮廷楽長の死後、修道院に入所している母親の生活費の支給について申請した上記の記録が残っている。『1776年の給料表(デュッセルドルフに存在)には、給料が記載されている。父ヨハンが36ライヒシュターラーRthlとある』(編者要訳)。
父ヨハンが極度の貧困の中で家族とともに暮らしていたことは、上記の文書から明らかであり、この記述によって裏付けられている。
父ヨハンの不幸な生き方は母の性格が息子ヨハンへと受け継がれていたことによる。 ヨハンの母は酔っていた。父親が残したものは彼にとって長くは続かなかった。残されたものは一つずつ家から出て行った。 頭にタッセルの帽子をかぶり、手に楽譜を持った父親がハンサムに描かれている、美しく大きな肖像画さえもがらくた業者がやって来て持ち去った。しかし、それはしばらく質屋にあったかもしれないが。 いずれにせよ、フィッシャー家の記録から想像すると、ヨハン・ファン・ベートーヴェンがまじめに生活していれば、かなり快適な環境で暮らすことができたであろうと推測できる。明らかに控えめな給料に加えて、彼には父親の遺産と収入もあったからだ。ヨハンの不安定で軽薄な性格が、彼が陥った不幸な状況の原因だった。
祖父ルドヴィカスの死後、アンドレア・ルッケージがボン選帝侯宮廷管弦楽団の楽長に任命された。
父ヨハン一家はボンガッセから、シュテルン通りからミュンスター広場に歩いていく途中の左側、ドライエッケ沿いの家ラインガッセ24番にパン屋のフィッシャーが所有していたツム・ヴァルフィッシュの家に引っ越した。ここはルートヴィッヒの父と祖父がかつて住んだこともある邸宅であった。
4月8日弟ガスパール受洗(4月8日に行われたガスパールの洗礼は、この家が属していたS.ガンゴルフ教区の登録簿に記載されている)。彼は、名付け親である牧師カスパー・アントン・フォン・ベルダーブッシュとヴィリッヒ修道院長カロリーネ・フォン・サッツェンホーフェンにちなんで名付けられた。
(註:)通貨ライヒシュターラー(Rthl)について参考:
⑴ 1763年のオーバーザクセン州およびニーダーザクセン州の金融規制
1763 年以来、オーバーザクセン州とニーダーザクセン州のほとんどの州で施行されていた。
1 マルク (234 g) 純銀 = 10 Speciestaler
1 スペシーシュターラー = 32 グロッシェン = 1 1/3 ライヒシュターラー
⑵ 1766年頃のヘキスト・アム・マイン: ヘキスト磁器工場では次の月給が支払われていた。
会計士としても働いていた取締役: 33 ギルダー、20 クロイツァー
労働者、日雇い労働者、荷車の管理者: 16 ギルダー、40 クロイツァー
花の絵師: 30-35 ギルダー
画家の見習い:5ギルダー
塗料メーカー: 20ギルダー
すべてのオーブンとストーブ用ヒーター: 26 ギルダー、40 クロイツァー
薪割りの日雇い労働者:8ギルダー
⑶ 1740年頃のフランクフルト・アム・マインの生活費の例
1ドミニオンミール: 36-48 クロイツァー
使用人1名分の食事とビール:12クロイツァー
フランクフルトの良いホステルの週家賃: 45 クロイツァー
馬1頭の安定したレンタル: クルーザー1台
フランクフルト内の朝から夕方までのレンタル馬車:4ギルダー、30クロイザー
森から街へ木材を運ぶ:2ギルダー
放火犯の通報に対する報酬: 75 ギルダー
通貨ライヒシュターラー(Rthl)について参考:https://www.beryllweb.de/baron-schmiedel/htm/kaufkraft.pdf/Punktuelle Einkommensbeispiele(選択的な収入の例)
https://de.wikipedia.org/wiki/Lippische_M%C3%BCnzgeschichtehttps://wiki.genealogy.net/Geld_und_Kaufkraft_ab_1750#Punktuelle_Einkommensbeispiele/(1750 年からのお金と購買力)
1775年5歳
<父ヨハンからレッスンを受ける>
ルートヴィヒの音楽教育がいつ始まったかについては、明確な資料はない。また、ヘンデル、ハイドン、モーツァルトと同様に、彼が幼い頃から顕著な音楽的才能を示したという明確な証拠もない。『ミュラーは、フランツ・リースFranz Rieとニコラウス・ジムロックNicolaus Simrock(ホルン奏者でヨハンの友人)から、父親のヨハンが息子に「幼少期」にピアノとヴァイオリンのレッスンを与え、「他のことはほとんどしない」ように勧めていたと聞いていた。』。『1783年13歳のとき、選帝侯への《ピアノ・ソナタ》の献呈の中で、ルートヴィヒは「四歳から音楽が私の若い頃の最初の職業になり始めた」と言うことが記されている』
最初は父から音楽の指導を受けたと言われている。フィッシャー家に引っ越した後、ルートヴィヒは音楽の勉強と練習を日課として課せられ、父親の容赦ない厳格さにより、早々にピアノの前の椅子に立つ幼いルートヴィヒは、涙を流しながらもそれらに専念せざるを得なかった。また、ピアノは目で見て正確に音符を演奏できるようになるために熱心に練習することが目的で学んだともいわれている。一方、父親が彼を膝の上に乗せ、ピアノで歌を歌うときに彼の指を伴奏させたとき、彼は最高の気分を与えられた。ルートヴィヒは早くからピアノの重要な技術を習得したため、父親の宮廷でピアノを弾くことができ、七歳の時にはケルンで生徒の一人と一緒に演奏した。
子供が三人になり、アパートが手狭になり、ヨハン一家はドライエッケから、祖父母が住んでいたラインガッセにあるパン職人フィッシャーが所有するボンのライン通り934番地フィッシャーズ・ハウスに引っ越した。そこは長い間ルートヴィッヒの出生地であると考えられていた。ずっと後に偽の碑文によってそのように特定されたからだ。この住宅建物は1944年に爆撃を受け、その残骸は取り壊されて久しいが、現在この場所にホテル「ベートーベン」が建っている。 当時は今よりも道路が低かったため、増水時にはすぐに足が濡れてしまった。 フィッシャー家に引っ越した後、ルートヴィッヒは音楽の勉強と練習を日課として課せられ、涙を流しながらもそれらに専念せざるを得なかったのは事実であった。そして、父親は息子の天才の兆しを見ていた。
9月30日祖母マリア・ヨセファ亡くなった。61歳
パン職人フィッシャーの息子でルートヴィッヒより10歳年上のゴットフリート・フィッシャーは後に彼の思い出を書き留めた記録に『ルイ(註1.)と弟カールも無茶苦茶ないたずらを楽しみ、同時に心から笑った』と明言している。『ルートヴィヒの側に身体的な欠陥があり、それに対してフィッシャー夫人の治療法が役に立ったことを知っている』が、それについて詳しくは述べていない。 『ヨハンの子供たちが三歳のとき、晴れた夏の日、メイドたちは子供たちをライン川や宮殿の庭園に連れて行き、そこで他の子供たちと砂地で遊び、その後適切な時間に戻らなければなりませんでした。』と彼は続けた。 『天気が良くないときは、フィッシャー家の農場の子供たちはフィッシャー家の子供たちや近所の他の子供たちと遊んだ。 父親が訪問者がいて、子供たちを脇に置いてほしいと思ったとき、子供たちはメイドと一緒にコモンズに送られ、末っ子のニコラウスはメイドの不注意によって負傷しました。 »ヨハンの子供たちは優しく育てられたわけではなかった。 彼らはしばしばメイドに任せられた。 父ヨハンはメイドにとても厳しかった。子どもたちは友達と一緒にいるといつも楽しく話すことができた。 ルートヴィヒはおんぶされるのが好きだったので、よく笑っていた。』『ルートヴィヒの練習が始まりました。 また、ヘンデル、ハイドン、モーツァルトと同様に、彼が幼い頃から顕著な音楽的才能を示したという明確な証拠はなかった。』(編者要訳)
註1.:宮廷楽長であった祖父ルドヴィカスのベルギーにおけるファーストネームはルイLouisと呼ばれていようだ。おそらく祖父が孫を呼ぶのに自分のファーストネームを使ったのではないかと推察する)
↓ 写真「子どもの頃住んでいた家」
1776年6歳
10月2日四男ニコラウス・ヨハン誕生(1848年1月12日71歳で歿)
ヴァイオリンとピアノ演奏に急速な進歩を見せる。
10月2日弟ニコラウス・ヨハンがサン・レミギウス教区で洗礼を受けた。
従兄弟の宮廷音楽家クリストフ・ブラントは、マリア・マグダレーナを説得して、一家はノイガッセ992番地の家に引っ越した。 そうすれば教会と市場、宮廷に近くなり、宮廷に近づくという利点があるだろうと。ヨハンはそれがまったく気に入らなかった。
フィッシャー家の記録によると、一家は1776年にこの家からノイガッセに短期間引っ越したが、1777年の城火災後にフィッシャー家に戻ったという。
1777年7歳
<ルートヴィヒの学校教育>
ルイラインガッセに隣接するノイガッセ1091番地の小学校に通いフォン・フェルム・ルパートvon Herrn Ruppertから教えを受けた。
ルートヴィヒの学校でのあだ名は、彼の色黒のため「デア・スパニョル(スペイン人)」だった。(註.)
次にミュンスターMünsterschule学校に通った。他の初等科目(算数と書き取りは除外されたと言われている)に加えて、生徒たちはラテン語での読み書きを学んだ。当時の教師はヨハン・クレンゲルで、市内で尊敬される教育者で、1783年に評議会によって「市の学校長」に任命された。
彼のクラスメートで後に地方裁判所長官となったヴュルツァーは回想録の中で『クレンゲル先生と私のクラスメートの一人にルートヴィヒがいたが、彼の父親は宮廷歌手として選帝侯に雇われていた。当時、彼が後に豊かに輝かせる天才の輝きの痕跡を見た人は誰もいませんでした。 彼の父親は幼い頃から音楽を練習するよう勧めただけだったと思います 』(編者要約)。
チェリストのマウラーVioloncellist Mäurerは『1777年、20歳のときにチェロ奏者としてボンの礼拝堂に来て、当時七歳だったはずのルートヴィヒに出会った。彼は子供の頃から内省的で真面目だった。彼のエンターテイメントは普通の子供の遊びは決してなかった』。
また、ミュラー博士は彼を『内気で単音節的だった』と説明している。 『彼は話すよりも観察し、考え、音によって、そして後に詩人によって呼び起こされる感情と陰鬱な想像力に身を委ねた』。
<フィッシャー家のヨハン一家の記録>
『ルートヴィヒと彼の弟カールも無茶苦茶ないたずらを楽しみ、同時に心から笑った』と明言している。
クルップ司法参事官は次のように記録した。『1847 年に亡くなった私の父は、幼なじみでした。ルートヴィヒとカールの同級生で、ルートヴィヒの名付け親と結婚によって多少の血縁関係にありました。 木曜日、学生たちは一日中休みをとり、その後、ルートヴィヒとカール・ベートーベン兄弟が私の祖父母の家にやって来ました。 28 Bonngasse u. は、的を狙って射撃することで、そこで他のゲームを楽しんでいた。 これは、私たちの家の庭に、私たちの庭とヴェンツェル通りの隣接する家々を隔てる壁に的が置かれ、その中心に矢が射られたという形で起こりました。 幸運な射手のためのピース(約4ペニヒ)が落ちました。夕方、ルートヴィヒ兄弟はグデナウアーゲッヒェンを通って帰宅しました。家族は当時、我が家のほぼ裏のヴェンツェルガッセに住んでいました。彼の父親は、特に酒に酔ったとき、地下室に閉じ込めるなどルートヴィヒを厳しく扱った。 私の父のこれらのことがあの家にどのようになされていたかをはっきりと覚えています。』。『彼の父親によれば、そこで彼はあまり学ばなかったので、父親は幼い頃から彼をピアノの前に立たせ、非常に厳しく教えた。』。
『ウィンデック市長も一度これを目撃しており、この出来事は 1838年7月15日の【ケルシェ新聞】第191号のフィーユトン欄にも掲載された。市長自身、小さなルートヴィヒがフィッシャー家の家のベンチに立ってピアノを弾きながら泣いているのを見た、と書かれている。 ウィンデック市長はまた、フィッシャー家の中庭にある幼いルートヴィヒと一緒に、子どもの頃よくブランコに乗ったものだった、とも語った。』『ルートヴィヒは後に、小学校で老教師ヘル・ルパートと過ごした時のことをよく話し、よく笑った。ルートヴィヒも毎日ヴァイオリンのレッスンを受けていた。 ある時、幼いルートヴィヒが音符もつけずに弾いていたとき、父親が入ってきてこう言いました。「愚かなことにまた何を引ッかいているのか? 私がまったく我慢できない。楽譜のとおり引っかきなさい。そうでなければすべての引っかきは役に立ちませんKratz nach Noten, sonst nützt das ganze Kratzen nichts!。」ヨハン・ヴァン・ベートーヴェンにたまたま来客があり、ルートヴィヒが部屋に入ってくると、たいていピアノの周りをうろうろしていた。 しかし、彼が右手で鍵盤に触れると、父親はこう言った。 立ち去れ、さもなければ顔を平手打ちされるぞ! ある時、ルートヴィヒがヴァイオリンを練習しているときに父親が注目した。 ルートヴィヒは再び音符を使わずに自分の感覚に従って演奏していた。 すると父親はまた怒った、「私の言うことを聞いていないのか!」ルートヴィヒは「でもそれはいけない?」と答えたところ、ヨハンこう言った。「それは目的ではない。 ピアノとヴァイオリンの練習を続けてテクニックを習得すると、さらに多くの成果が得られる。」 「ここまで到達したら、頭を使って十分に演奏することができるし、そうしなければならないが、今はそれができないので、そのままにしておこう!」ルートヴィヒも、その後毎日ヴィオラのレッスンを受けた』(編者要訳)
『クリスマスの夜、城の火災が発生し、ほとんど消すことができなかった。この悲しい出来事で21人が亡くなった。塔は崩壊し、灰の山となった。鐘楼はシュトッケン通りの建物の裏手にあった。 塔が崩壊して灰の山となったとき、彼はちょうど自分の曲を演奏し始めたところだった。シュトッケン通りは大きな危険にさらされており、家族はもはや自分たちを危険にさらしたくなかった。彼らにとって幸運なことに以前、フィッシャー家に借りた住居はまだ空き家であり、フィッシャー氏の迅速な好意により、一家はフィッシャー邸に戻ることが許るされた。フィッシャー家の借家に戻ってきて良かった、ここライン川沿いには、火を消すのに十分な水がある。ヨハンの子供たちはとても喜んだ。』(編者要訳)
『1780年にルートヴィヒは、数歳年上のザンボナZambonaに会った。ザンボナは『彼は音楽以外の社会生活に属することを何も理解していないと指摘し、それがルートヴィヒに非常に腹立たしかった理由です。他の人たちと引き合わせると、人々は彼を人間嫌いだとみなしました。 ルートヴィヒさんは、自分の教育が非常に無視されてきたことを残念そうに認めたが、教区の学校に戻ることはできなかった』。 ザンボナは、『彼に毎日、最初にラテン語文法の初歩から教えた。 ルートヴィヒはキケロン書簡を六週間で翻訳し、一年間ラテン語を勉強するほど急速な進歩を遂げた。それからルートヴィヒは、フェーダーのドイツ語大要とフランス語とイタリア語に従って論理的に考え、 ザンボナがミュールハイムのベルトルディの会計士として働くためにボンを離れなければならなくなるまで、ルートヴィヒは確かに九歳であったが、確かにまだ学校に通っていた。』上記の記録によると、ルートヴィヒは『他人の間でイライラし、引きこもりがちになった』という。 彼の個人的な行動に関するこの発言は、後の出来事であることを前提としているようだ。
1781年の秋、ヴュルツァーはグラマースクールに通ったが、ルートヴィヒは学校を退学した。したがって、それは彼が音楽家という職業に専念すべき時期だったに違いない。彼の学校教育が他の場所でどのように補われたのかは正確にはわからない。この欠点は、彼の生涯を通じての手紙の中で当惑するほど明らかであった。青年時代の彼は、晩年の不愉快な落書きとはまったく異なった、丁寧なな筆跡を書いていたため、当時のサインの信憑性を疑うほどだった。 しかし文字、重要な手紙を書くときの表現、句読点、さらには算術においても、悲しいことに彼は生涯を通じて自信が持てなかった。
ルートヴィヒはその後もフランス語を使うことができた。 彼は少なくとも、自分が作成しなければならない文章を理解するのに十分なラテン語を使っていた。 しかし、彼の学業が音楽活動の二の次になったのはまさに学生時代であり、明らかに学校外の時間のほとんどを音楽活動が占めていたようだ。しかし、ルートヴィヒは生涯を通じて、教育を続けたいという願望を捨てなかっ。
父親の最大の目的は、息子の音楽的才能を可能な限り早く、最も輝かしく発揮させ「稼げる音楽家」をすることであったため、ルートヴィヒが大学で受けられる教育以上の教育を息子に与えることは許さなかった。
ルートヴィヒは普段、公立小学校には行けず、可能な限りピアノを練習するよう言われていた。 その結果、彼は死ぬまで正しく計算したり書くことができなくなった。 夜中に父親に起こされるのはよくあることで、父親がレオポルト・モーツァルトに負けないことを示したいためか、同じように酔っている父親の友人たちにルートヴィヒが天才児としてピアノで何ができるかを見せなければならなかった。その他父親のヨハンについて、息子に対する暴力的な指導が伝えられている。
『ルートヴィヒがすでにピアノを弾くのが上手だったとき、父親は彼にオルガンを弾くことを勧めた。そこでルートヴィヒはオルガンのレッスンを受けたいと思い、フランシスコ会修道院に行き、とても良い先生だったフランシスコ会修道士のウィリバルト・コッホWillibald先生に会いに行った。ウィリバルトはヨハン・ファン・ルートヴィヒをよく知っており、ガーディアン神父の許可を得て、ルートヴィヒにオルガン演奏と教会の儀式を教え始めた。ルートヴィヒは意欲的な学生で、すぐに彼をとても尊敬していたウィリバルトの助手になった。ルートヴィヒが演奏し、よく座っていたオルガン椅子は、現在ボンのディートキルヒェンDietkirchenにあるペトリ教区の記念品として見ることができます。しばらくして、ルートヴィヒがオルガンの演奏がどんどん上達すると、より大きなオルガンを演奏したいと思い、地元のボンにある少数派の修道院に行った。そこで彼は地元のオルガン奏者と非常に親しくなり、朝六時のミサ聖祭でオルガンを弾くようにななった。ルートヴィヒがよく座っていたこのオルガン椅子は、記念として今も残っている。当時、ミノライト修道院にはハンスマンHansmann神父という優れたオルガン奏者もいた。そのため、ルートヴィヒが家でコンサートを開くと、ハンスマン神父はいつも耳を傾けていた。』
『ヨハンは、近所に住んでいた3人を除いて、家の中で生徒を教えなかった。 それはニコラス・ファイトとアウグスト・クンツだった。ガザネロ嬢も宮廷テノール歌手からピアノと歌のレッスンを受けた。ニコラ・ファイトは後にボンの旧レミギウス教区のオルガニストになった。.そもそも、これが彼をここまで導いたのだ。モンバウアーはボンのミュンスター教区教会のオルガニストとなり、ケルンでコンサートが開催されるとしばしばケルンに招かれた。
ルートヴィヒは、モンバウアー老人の息子も偉大な音楽家だったのでウィーンに連れて行きたかったが、そのような長旅は避けた。アウグスト・クンツはマーストリヒトに定住し、そこで楽器店を開いた。世評によれば、彼は優れたピアニストでありオルガニストであった。フランス時代にミノリテンオルガンMinoriten-Orgelの演奏会を開催し、高い評価を受けたことがある。二人の音楽家士はボンに来たとき、いつもフィッシャーの所有するラインガッセ934番のベートーヴェン家を訪れた。そして毎回、チェチーリア・フィッシャーCäcilia Fischer,、彼女の弟ゴットフリート・フィッシャーGottfried Fischer,、そしてヨハンの元生徒2人は、ヨハン一家との楽しい思い出について語り合った。ルートヴィヒは、当時まだ学生であったが、すでに彼らよりもはるかに優れた名手であった。しかし、ルートヴィヒは、時間が許す限り、アウグスト・クンツとニコラ・ファイトにできる限り手助けをした』
編者要訳『』内出典:https://www.beethoven.de/file/download/AMIfv94-vnf6ZLsVzGz0aOpEP8_nZOT993TN9DLbfRDA0DHaaJxeqXg0nnJG1Yp16NDWiMxnnU06FOSM4qi-L76DEokK809YxIYU4zwfU1TwifuLDRRp3tG3ZNa6MBAlL1MpWrVDJUmmAyyHNRU-ViJslMp1Lepzft5ze13qufTy-YHMnoVy3jCr-V3r-H76qQ5Iq3uCUO1AJFnzMcgMfFNjQt8J1C52Axg7QR0vK3MUgMJ6CHfH3hSdYN_xo17YK-CJ1ApcTRTqd_yBVYo-VXRhzFnrVgsO0J4K9h1T6T3AZATf-UVGTpkほか
(註.)祖先は現オランダ、フランドル、ディースト市出身。先祖は現オランダ、フランドル、ベルテム市出身。祖父はオランダ、ベルギー、アントワープ県メッヘレン出身と記録がある。その血筋からベートーヴェン家はオランダ占領時にスペイン軍に従軍していた先祖からムーア人の血を受け継いでいる可能性が高いともいわれている。(引用要約/https://www.classicfm.com/composers/beethoven/facts-things-you-didnt-know/)
1778年8歳
<宮廷オーケストラ楽員によるレッスンを受ける>
3月26日父親のチュルケルン宮廷テノール歌手ヨハンは、シュテルンガッセの音楽アカデミーホールで、アベルドンクの宮廷人クMdlleの美しいアリアと彼の八歳の息子の最初のピアノ演奏の公演をさせた。
父親の厳格さ、母親の深い愛、そして自分自身の音楽の目覚めによって、ルートヴィヒの才能は止まることのない速さで成長し、父親は息子の非凡な才能を早くから認識し、すぐに父親よりも有能な教師が必要になった。
宮廷オルガニストのハインリッヒ・ファン・デル・イーデンvan den Eedenは約五十年間選帝侯宮廷オルガニストで、祖父ルドヴィカスが就任する前からボンにいた彼が、ルートヴィヒを弟子として迎え入れたがすぐにやめた。父は宮廷オーケストラの同僚たちの協力を得て、ルートヴィヒにしっかりとした音楽教育を受けさせようとした。テナー歌手のトビアス・フリードリヒ・ファイファーや、ヴァイオリニストのフランツ・ゲオルク・ロヴァンティーニ、フランツ・リース等にレッスンを受けさせた。
ベートーベン家のいとこであるフランツ・ロヴァンティーニとクリストフ・ブラントはともに宮廷音楽家であった。特別な待遇で、選帝侯マクシミリアン・フリードリヒは彼らを費用負担でザクセン州のドレスデンに送り、音楽全般の教育を受けさせた。彼らはボンの選帝侯の宮廷礼拝堂に戻り、その名に恥じぬよう活動した。
1779年9歳
2月23日長女アンナ・マリア・フランツィス誕生(1779年2月27日生後5日で夭折)
<ネーフェに師事>
2月23日妹のアンナ・マリア・フランツィスカの洗礼(4日後に死亡)
フランツ・ゲオルグ・ロヴァンティーニ、テナーのトビアス・フリードリヒ・ファイファー等にクラヴィーア、ヴァイオリン、ヴィオラを師事。
10月ヨハン・ゴットローブ・ネーフェ、ボンに来る。
ネーフェ (1748-1798) は、宮廷オーケストラの初代オルガニストとなり、宮廷の新しい楽団の監督になった。 彼は幼いベートーヴェンにピアノ、オルガン、音楽理論、ベースなど、ピアノの伴奏やミサ曲の演奏に必要なことをすべて教えはじめた。 時間が経つにつれて、ルートヴィヒはオーケストラでの最初の伴奏の仕事に就いた。
1780年10歳
『ルートヴィヒは、数歳年上のザンボナZambonaに出会った。彼は音楽以外の社会生活に属することを何も理解していないと指摘し、それが彼に非常に腹立たしかった理由であった。他の人たちと引き合わせると、人々は彼を人間嫌いだとみなしました。 ルイさんは、自分の教育が非常に無視されてきたことを残念そうに認めたが、教区の学校に戻ることはできなかった。 ザンボナは、彼に毎日、最初にラテン語文法の初歩から教えた。 ルイはキケロン書簡を六週間で翻訳し、一年間ラテン語を勉強するほど急速な進歩を遂げました。それから彼は、フェーダーのドイツ語大要とフランス語とイタリア語に従って論理的に考え、 ザンボナがミュールハイムのベルトルディの会計士として働くためにボンを離れなければならなくなるまで、ベートーヴェンは確かに九歳であったが、確かにまだ学校に通っていた。』上記の記録によると、彼は『他人の間でイライラし、引きこもりがちになった』という。』(編者要訳)
1781年11歳
1月17日五男フランツ・ゲオルグ誕生(1783年8月16日2歳で夭折)
<個人レッスンを受けはじめる>
ヨハン・ゴットローブ・ネーフェに作曲、神父ヴィリルト・コッホ修道士にオルガン奏法、ミュンスター寺院のオルガニストのツェンザーにオルガン演奏、ロヴァンティーニにヴァイオリン、ヴィオラを学びはじめた。
1月17日弟フランツ・ゲオルクの洗礼(2年後に死去)
2月ネーフェはボンの選帝侯宮廷オルガニストとなった。
ネーフェはルートヴィヒの音楽的才能を認め、演奏に加えて通奏低音と作曲を彼に教えた。
音楽に専念するため学校を退め、神父ヴィリルト・コッホ修道士にオルガン奏法、ミュンスター寺院のオルガニストのツェンザーにオルガン演奏を学ぶ。ロヴァンティーニにヴァイオリン、ヴィオラを学ぶ。
『秋、ヴュルツァーはグラマースクールに通ったが、ルートヴィヒは学校を退学した。したがって、それは彼が音楽家という職業に専念すべき時期だったに違いない。彼の学校教育が他の場所でどのように補われたのかは正確にはわからない。この欠点は、彼の生涯を通じての手紙の中で当惑するほど明らかであった。青年時代の彼は、晩年の不愉快な落書きとはまったく異なった、丁寧なな筆跡を書いていたため、当時のサインの信憑性を疑うほどだった。 しかし文字、重要な手紙を書くときの表現、句読点、さらには算術においても、悲しいことに彼は生涯を通じて自信が持てなかった。』(編者要訳)
1782年12歳
<最初のピアノ作品/代理宮廷オルガニスト>
作曲家で指揮者のクリスチャン・ゴットローブ・ネーフェがファン・デン・イーデンの後任として代理宮廷オルガニストに任命された。ネーフェは時々ルートヴィヒにピアノと作曲のレッスンを与え、彼の最初のピアノ作品、《ドレスラーの行進曲による変奏曲》WoO 63と《クアフュルステン・ソナタ》 WoO 47の出版を手配した。
ルートヴィヒは、選帝侯礼拝堂でネーフェの代理宮廷オルガニストに任命された。
6月20日ネーフが短期間ボンを離れるて以来、ネーフェの代わりにオルガンをルートヴィヒが代わりを務めた。弦楽器の常任は残り、11歳のルートヴィヒは初の指揮者としての任務を引き受けなければならなかった。
ルートヴィヒはその年にラテン・ティロネス学校(グラマースクールの就学前学校)での教育を終えたため、ネーフェはルートヴィヒに社交術や一般教養を彼に教えようとした。
『ルートヴィヒはしばしば汚れていました。 彼は全く気にしませんでしたが、チェチーーリア・フィッシャーは彼にこう言った。「また汚い顔だね!」「清潔を保つようにしなければなりませんか?」ルートヴィヒはいつもこう答えた。「私が汚れているかどうかは関係ない。紳士になならなければ、そんなことは関係ないよ」「もう紳士だよ!」とセシリアは答えた。』
ルートヴィヒは、五歳年上の幼友だちフランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラー(Wegele Franz Gerhard/1675-1848)と友人になった。ヴェーゲラーはボンの名家ブロイニンク家と親しく、ルートヴィヒフォン・ブロイニンク未亡人に紹介した。(ヴェーゲラーはルートヴィヒの死後ベートーヴェンについての伝記的覚え書をフェルディナント・リース(Ries, Ferdinand/1784-1838)と共に書いた。)
ルートヴィヒは宮廷楽団のメンバー、ライヒ家やロンベルク家、リースやシムロックらと交友した。
《ドレスラー変奏曲》として知られるベートーヴェン生涯の最初の作品の出版
<ヨハンの日常>
ヨハンは、雷雨が終わる直前に通りに面した窓から雷雨を眺めるのが好きだった。彼の向かいに住んでいた宮廷魚屋のクラインも同じことをした。二人は良き飲み友達だった。ヨハンは拳で「トゥット、トゥット、トゥット、トゥット」と叫んだがこれは、「飲みすぎました」のような意味。これに対してクラインは「何が欲しいの、音楽好き?」と同じように答え、ヨハンは「トゥット、トゥット、トゥット、トゥット」と再び答えた。これらの「会話」は真剣な意味ではなかったので、二人はしばしば楽しくんだようだ。この出来事はいつもとても静かに起こったので、ほとんど誰も何も気づかず、後にこの話をしたのはチェチーリア・フィッシャーだけであった。
ヨハンは、それ以外はかなり真面目な人であった。彼が機嫌が良く、フィッシャー家の娘であるチェチーリア・フィッシャーが彼と一緒にいるとき、彼は彼女と冗談を言いながら、冗談めかして”私はあなたがとても好きです”と言った。 もちろん、チェチーリアはこの要求に抵抗した。「私は男性にキスするだけの女の子ではありません。 あなたにはキスしたい女性がいます! 「彼女らはキスすることができますが、私にはだめです!」と言うと、ヨハンは”あなたは機転の利く小魔女です。だから私はあなたが好きです!”と答えた。この事件からしばらくして、ヨハンは再びチェチーリア・フィッシャーと雑談していた。彼女が彼を避けたとき、彼はバランスを崩してストーブにぶつかった。ストーブは倒れ、ストーブの配管が壁から引き裂かれた。すると、チェチーリアは鼻を鳴らし始め、ヨハンも手を叩いて喜んで笑いが止まらなかった。ちょうどその瞬間、剣を脇に抱えたシュタインミュラーという学生が入ってきて、当然のことながら非常に驚いた。「火のついたストーブとコンロパイプが部屋の真ん中にあるんです!」するとヨハンはこう答えた。「これはチェチーリアのせいです!」 この言葉を聞いた後、三人全員が笑いが止まらなかった。スタインミュラーは「若い女の子にキスしようとする男性にはこういうことが起こるんだ!」と語った。ヨハンは、この話は自分にとって良い教訓になったと答えた。何年も経った今でも、彼らはこの状況について笑い、ヨハン自身も、この種のキスは長期的には高すぎるだろうと言った。
マリアはチェチーリアに、彼女はまさに正しいことをしたと語った。
父親が時々、宮廷で飲みすぎたとしたら(それはそれほど頻繁ではなかったが) 、彼の息子たちはそれを察知し、すぐに駆けつけて彼を安全に家に連れ帰った。
ヨハンの三人の息子(ルートヴィヒ、カスパール、ニコラウス)は、家族の名誉と良い評判を非常に気にしていたため、彼らはそれについて大騒ぎすることなく、礼儀正しくこれを行った。ヨハンは酔ったときに攻撃的でも短気でもなかったので、パン職人フィッシャーの家ではそのようなことにほとんど気づきかなかった。
作品:《ドレスラーの主題による九つの変奏曲》WO‐063(最初の作品を出版)
1783年13歳
<ボン宮廷歌劇場オーケストラのチェンバロ担当>
ネーフェ、音楽雑誌にルートヴィヒの紹介文を執筆。ボン宮廷歌劇場オーケストラでネーフェの代わりにチェンバロを受け持った。
10月14日《3つのソナタ》とその他の作品の出版
作品:《選帝候ソナタ第1番》変ホ長調WoO.47、《選帝候ソナタ第2番》ヘ短調WoO.47(ピアノ曲)この二曲はケルン選帝侯マクシミリアン・フリードリヒに献呈された。《ロンドハ選長調WoO.48》、《ロンドハ長調WoO.49》、《二声のフーガニ長調WoO.31、歌曲《ある乙女の描写WoO.107、歌曲《乳飲み子によすWoO.108
1784年14歳
<ルートヴィヒ、常任オルガニストに任命される>
1月19日からライン川は四週間にわたって凍結したため、大規模な氷詰が発生した。
2月23日に氷が割れて、流氷と高波が流れ込んだ、ボンで洪水が発生し、大聖堂の信徒席が浮き、市内中心部全体が浸水した。 オーバーウィンターでは牧師館が水に流され、多くの小さな橋が崩壊した。
父は酒におぼれ、家族の生活窮すようになる
4月15日選帝侯マクシミリアン・フリードリッヒ歿する
ネーフェはルートヴィヒについて、「最初の調子を続ければ間違いなく第二のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトになるだろう」と書いた。
1784年から選帝侯であり、モーツァルトの愛好家であると公言されていたマクシミリアン・フランツの場合、この評価は根拠のあるものだった。
新しい選帝侯の最初の仕事は、宮廷オーケストラの規模を縮小することであった。ネーフェの給料は半減された。
6月ルートヴィヒは常任オルガニストに任命された。彼は宮廷オーケストラのチェンバロ奏者およびヴィオラ奏者としても働いた。
ミサ、コンサート、劇場での定期的な演奏を通じて、ルートヴィヒはハイドン、モーツァルトの音楽、マンハイムとパリの楽派の作品に親しみ、バッハの作曲技法を学んだ。 ルートヴィヒのピアノ演奏はボンの宮廷で話題になり、選帝侯はルートヴィヒの教育に多大な関心を示し、皇弟にモーツァルトが彼を教えてくれるかどうか尋ねたりした。
ルートヴィヒの給料は年間150フロ―リン(中流のアパートなら年間60フロ―リン、一等地にあるアパートなら230フロ―リン)であった。
作品:
1785年15歳
<ブロイニング家のピアノ教師を務める>
ボンの宮廷楽長フランツ・リースにヴァイオリンを習う。
ヴェーゲラーの紹介でブロイニング家のピアノ教師になる。
ルートヴィヒの教育は、読み書き、算術の基礎を超えるものはほとんどなかった。さらに、ラテン語、フランス語、イタリア語の個人レッスンも時々受けた。彼はまた、ボンのブルジョワジーの友人たち、とりわけ医学生で後に医師となった医師フランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラーFranz Gerhard Wegeler(後にオーストリア陸軍省顧問官) や、ルートヴィヒと親密な家族関係を築いていたフォン・ブロイニング家からも知的刺激を受けた。ヴェーゲラーとシュテファン・フォン・ブロイニングStephan von Breuning との友情は、時折危機に直面したにもかかわらず生涯続いた。
ボン大学で教鞭をとったエウロジウス・シュナイダーEulogius Schneiderを通じて、ルートヴィヒは早い段階でフランス革命の思想に触れた。
ウィーンのモーツァルトはボンでの指揮者の職を望んでいたが、皇帝はそれを望まなかった。
作品:《三つのピアノ四重奏曲》wo-036「変ホ長調」「ニ長調」「ハ長調」、歌曲《八つの歌》op.52
1786年16歳
5月5日二女アンナ・マルガレーテ誕生(1787年11月26日1歳で夭折)
<最初の肖像画制作される>
5月5日:妹マリア・マルガレータの洗礼(1年後に死去)
ブロイニング家で画家ヨーゼフ・ネーゼンがルートヴィヒのの影絵を制作、最初の肖像画となった。
<ヨハン・ベートーヴェン夫人>
ヨハンは、月給や生徒たちからお金を受け取ると、それを持って妻のところに行ってからかっていた。それから彼はそのお金を彼女の膝に置き、「なんとかしてください!」と言い、彼女は彼にワインのボトルを買うお金を渡した。「男たちを手ぶらで帰させるわけにはいきません。私にはそんな勇気はありません。そして、空のグラスよりも満杯のグラスを飲みたいと思うのはわかっています」。「はい、そうです。女性は正しいです。これまでも正しかったように、そして今後も正し続けるでしょう!」と夫は答えた。
12月19日毎年この日、母マリアの誕生日および聖名日は盛大に祝われた。教会から譜面台を持ってきて、通りに面した両部屋の左右に置いた。花、葉、月桂樹の蔓で飾られ天蓋も部屋に持ち込まれ、宮廷楽長であった祖父ルドヴィカスの肖像画が美しく飾られた。祝いの前夜、マリアは早めに寝なければならず、夜10時までにすべての準備を終わらせた。祝いの日マリアは目覚めて、服を着け、天蓋の下の美しい装飾が施された肘掛け椅子に座り、近所中に聞こえるような素晴らしい音楽が奏でられ、始まるのだった。音楽が終わった後は、食卓を囲み、食べたり飲んだりした。ときにダンスもした。家の中であまり騒がないように靴を脱いで靴下を履いて、みんなが疲れて家に帰るまで踊った。宮廷で有名な俳優であるラックスLux氏は、聖名記念日にマリアに敬意を表して自ら作曲した歌をしばしば歌った。
1787年17歳
<ウィ-ンへ勉強の旅に向かう/モーツァルト家訪問/母の死/最初の手紙>
4月初めから6月ににかけてルートヴィヒは、師ネーフェがボンの選帝侯に要請してくれた。モーツァルトにピアノを聴いてもらうなど、三か月の本格的に音楽の勉強の旅が決まり、選帝侯の援助を受けウィーンへ出発した。
4月7日『ウィーンにやって来たルートヴィヒは、シュテファン寺院に隣接するドムガッセ5番地「フィガロハウス」でモーツァルトに紹介された。彼に促されてなにか弾いたものであった。ところがモーツァルトはそれが暗記でもして覚えた披露用の曲と思って、かなり冷淡なほめかたをした。それに気づいたルートヴィヒは、モーツァルトに乞うて即興用の主題を一つ出してくれるように言い、興が乗る時いつもそうだったように素晴らしい弾奏をしたが、とりわけ自分が尊敬してやまない巨匠の前だっただけに、それだけいっそう熱がこもるのであった。こうした没頭ぶりを見たモーツァルトは大いに注意を唆られ、かつ強い関心を抱いて、控えの間に座っている友人たちのところに足音をしのばせて行き、声をはずませて言うのであった。「彼に注目していたまえ、いつか世間をさわがせることだだう!ヤーンはこの報告をウィーンのたしかな出所から得たものと注記している』(海老沢敏著/『モーツァルトの生涯』/1984年刊行/白水社より464頁オットー・ヤーン「モーツァルト伝」より引用要約)」
一節には、『ウィーン滞在中にドムガッセ5番地にあるシュラー通りのアパートにモーツァルトを訪ねた。その頃、モーツァルトはプラハで上演するオペラ《ドン・ジョヴァンニ》の作曲に忙しかった。彼は何かを弾くようにと言った。ルートヴィヒの演奏は見事なものであったという。前々から練習してきたにちがいないから当然のことと思ったモーツァルトは通り一片のほめ言葉を送っただけだった。そうした心を察したルートヴィヒは即興演奏の主題をくれるようにと頼んだ。ルートヴィヒの即興演奏は前にもまして見事なものであった。モーツァルトはいつか注意を惹きつけられ、次第にきき耳をたてるようになった。そして、ついに幾人かの友だちのいる隣室に立って行った。モーツァルトは『彼に目をつけていろよ、いつかきっと彼は世界の話題になることだろう』と言った。しかし、レッスンは受けられなかったらしい。という逸話がある。
<ルートヴィヒとモーツァルトの出会い>
ルートヴィヒは、ボンで天才として活躍した初期の頃から、存命する最も偉大な作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトに会い、レッスンを受けるためにウィーンへ行くという大きな野望を抱いていた。
1787年、ルートヴィヒが17歳のとき 、宮廷楽団を六か月間休暇得てボンを離れ、一か月後にウィーンに到着した。モーツァルトの知り合いだったマックス・フランツからの紹介状を持って、彼はモーツァルト家を訪れ、音楽室に案内され彼の偉大な大作曲家に会えた。
モーツァルトは彼を受け入れる気分ではなかった。彼の健康は彼を悩ませていた。そして彼は、何百マイルも離れた所から来た神童の話を聞くために仕事を中断しなければならないことを喜ばなかった。「何か弾いてみろ」と彼はルートヴィヒに言った。ルートヴィヒはモーツァルトの《ピアノ協奏曲第24番》ハ短調の冒頭を演奏した。「~というわけじゃないんだけど…自分で何か弾いてみろ」とモーツァルトは言った。それでルートヴィヒは演奏を始めた。そしてそれは非常にうまくいった。モーツァルトは妻のコンスタンツェが友人たちをもてなしている隣の部屋に入った。「スタンツィ、スタンツィ」と彼は音楽室を指差して言った。「あの少年に気をつけろ。いつか彼は世界に何か話題を提供するだろう。」モーツァルトはルートヴィヒを弟子として迎えることに同意したが、ルートヴィヒが下宿に戻ると、ボンに戻るよう父親からの緊急の手紙が届いていた。母親は重篤な病気で、医師らは命の危険を感じていた。ルートヴィヒはキャンセルしてボンに戻ることにした。人生を変えると約束された旅のためにウィーンに到着してから二週間も経たないうちに、彼はモーツァルトのレッスンを受けるという野望を達成することなくボンに向けて出発した。1792年11月にウィーンに戻った時にはモーツァルトは亡くなっていた。
ルートヴィヒはモーツァルトからどのような影響を受けたのか?。ルートヴィヒのモーツァルトの音楽への賞賛と擁護は、生涯消えることはなかった。
1798年、彼はモーツァルトのオペラ《魔笛》のアリア《Ein Mädchen oder Weibchen(恋人か女房が)》から《チェロとピアノのための変奏曲》を出版した。
1802年には魔笛の別のアリアであるパパゲーノの《Bei Männern, welche Liebe fühlen「恋を知る男たちは」》から《魔笛から「恋を知る男たちは」の主題による七つの変奏曲》WoO46を出版した。
↓ベートーヴェン魔笛から《Bei Männern, welche Liebe fühlen「恋を知る男たちは」の主題による七つの変奏曲》WoO46
チェロ/羽川真介 ピアノ/田中美千子
ルートヴィヒは祖父と同じように、ボンの宮廷楽長になりたかったが、この準備として、ボン選帝侯マックス・フランツは、彼をハイドンのさらなる訓練のためにウィーンに送ったといわれている。
しかしルートヴィヒは、父の知らせで母親の重体を知った。ウィ-ン滞在を終わらせ、キャンセルし、急ぎボンの家に帰らねばならなかった。帰国の旅を始めたとき、旅行費用が予定よりも高額であることがわかった。ルートヴィヒはレーゲンスブルク、ミュンヘンからアウクスブルクに立寄り弁護士ヨーゼフ・ヴィルヘルム・フォン・シャーデン博士に会い旅費として3カロリーネを借りた。
ウィ-ンでモーツァルトとの出会いがあったかどうかは不明である。レッスンを受けたという証拠はなく、選帝侯も同様に旅行の結果に失望したといわれている。計画が失敗した理由は不明。
<ボンに戻る>
5月ルートヴィヒはボンに戻った。母は生きていた。
ボンに戻ったルートヴィヒは、家族の状況が劇的に変化することに遭遇した。 生活に苦しんでいた母親の健康状態は深刻に悪化していた。
7月17日母マリアは41歳で世を去った。ルートヴィヒは『母は肺結核だったのです。そして、結局、七週間ばかり後に、心身ともに苦悩にさいなまれながら死んでゆきました』とシャーデン博士宛ての手紙の中で述べている。
ルートヴィヒは母のために小さな墓標を建て『彼女は私にとって、やさしいよき母であり、最良の家族であった』と彫った。
家族は完全に崩壊した。 翌日、父親は亡くなった母の衣服をすべ売り払った。
父親はすでに多量のアルコール摂取をますますコントロールできなくなり、ついには三人の息子を養うことができなくなった。
7月24日にマックス・フランツに100ターラーの前払いを求めたが、受け入れられなかった。
父親は家族の世話を十分に行っておらず、ルートヴィヒは明らかに家族の生活の面倒をみることになった。
彼はまた、エレオノールEleonoreとシュテファン・フォン・ブルーニングStephan von Breuningと知り合い、生涯続く友情を築くことになる。
ウィーン出身のフェルディナント・エルンスト・フォン・ヴァルトシュタイン伯爵は、ドイツ騎士団に入団した際にボンにやって来た。 彼は才能豊かな音楽愛好者で、ボン時代の若いルートヴィヒの才能を高く評価し、最初の貴族の後援者となり、騎士のバレエ音楽 WoO 1 やヴァルトシュタイン伯爵の主題による変奏曲 WoO 67 などの作曲を奨励し、1792年のウィ-ン留学に尽力した一人で、選帝侯への影響力を利用してルートヴィヒを支援し続けるよう説得した。オーストリアの貴族たちと親しく、ルートヴィヒはその紹介によって、容易にウィ-ンの貴族たちの家に出入りし、名を広めることができた。
9月15日ルートヴィヒは現存する最初の手紙は、ボンからアウクスブルクに住む弁護士のヨーゼフ・ヴィルヘルム・フォン・シャーデン博士Joseph Wilhelm Schadenへ書いた。ルートヴィヒは博士から、ウィーンからボンまでの往復の旅費を借りていた。
シャーデン博士への手紙
(編者要訳)『母の健康状態があまりよくないので帰郷を父にせかされ、急ぎアウグスブルクからボンに戻ったこと。ルートヴィヒ自身も体調が悪くなり始めたので、できるだけ急いでだこと、母をもう一度見たいというルートヴィヒの切ない願いが、すべての障害を克服し、最大の困難を克服することを可能にしたこと。母は結核を患っており、激しい痛みと苦痛に耐えた末、約七週間前についに亡くなったこと。母はとても素敵な母親で、ルートヴィヒに対してとても優しかったこと。ベートーヴェンはずっと喘息に悩まされてきたこと。そしてこの病気が結核にまで発展するのではないかと不安になりさらに、憂鬱にも悩まされ、それは病気と同じくらい大きな苦痛だったこと。ルートヴィヒがアウグスブルクにいたとき、博士はとても親切でフレンドリーに3枚のキャロリン金貨を貸してくれたこと。しかし、返済はもう少し待って欲しいと。なぜなら、ルートヴィヒの旅行には多額の費用がかかり、ボンではたとえ少額であっても期待できないからであり、ここボンでは幸運がベートーヴェンに味方しない事。ルートヴィヒの連絡が非常に時間がかかったことをご許して欲しいこと。ルートヴィヒは次のように書いて手紙を終わらせた。” お願いだから、あなたの尊敬する友情をこれからも拒否しないでください。私はそれを、たとえある程度までであっても、維持し、維持するに値することを心から望んでいます。
最大限の敬意を込めて、私はこれからもあなたの最も従順な僕であり友人であります ケルン選帝侯宮廷オルガニスト、Lv ベートーヴェン ” と。』(編者要訳)
『 Mit seinem ersten erhaltenen Brief schreibt der 16-jährige Beethoven am 15. September 1787 Joseph Wilhelm von Schaden in Augsburg, von dem er Geld für die Rückreise von Wien nach Bonn geliehen hat.
Hochedelgeborner
insbesonders werter Freund!
ich muß Ihnen bekennen: daß, seitdem ich von Augsburg hinweg bin, meine Freude und mit ihr meine Gesundheit begann
aufzuhören; je näher ich meiner Vaterstadt kam, je mehr Briefe erhielte ich von meinem Vater, geschwinder zu reisen als gewöhnlich, da meine Mutter nicht in günstigen Gesundheitsumständen wär; ich eilte also, so sehr ich vermochte, da ich doch selbst unpäßlich wurde: das Verlangen meine kranke Mutter noch einmal sehen zu können, setzte alle Hindernisse bei mir hinweg, und half mir die größte Beschwernisse überwinden. Ich traf meine Mutter noch an, aber in den elendesten Gesundheitsumständen; sie hatte die Schwindsucht und starb endlich ungefähr vor sieben Wochen, nach vielen überstandenen Schmerzen und Leiden. Sie war mir eine so gute liebenswürdige Mutter, meine beste Freundin; o! wer war glücklicher als ich, da ich noch den süßen Namen Mutter aussprechen konnte, und er wurde gehört, und wem kann ich ihn jetzt sagen? den stummen ihr ähnlichen Bildern, die mir meine Einbildungskraft zusammensetzt? So lange ich hier bin, habe ich noch wenige vergnügte Stunden genossen; die ganze Zeit hindurch bin ich mit der Engbrüstigkeit behaftet gewesen, und ich muß fürchten, daß gar eine Schwindsucht daraus entstehet; dazu kömmt noch Melankolie, welche für mich ein fast ebenso großes Übel, als meine Krankheit selbst ist. denken Sie sich jetzt in meine Lage, und ich hoffe Vergebung, für mein langes Stillschweigen, von Ihnen zu erhalten. die außerordentliche Güte und Freundschaft, die Sie hatten mir in Augsburg drei Karolin zu leihen, muß ich Sie bitten, noch einige Nachsicht mit mir zu haben; meine Reise hat mich viel gekostet, und ich habe hier keinen Ersatz, auch den geringsten zu hoffen; das Schicksal hier in Bonn ist mir nicht günstig.
Sie werden verzeihen, daß ich Sie so lange mit meinem Geplauder aufgehalten, alles war nötig zu meiner Entschuldigung.
Ich bitte Sie mir Ihre verehrungswürdige Freundschaft weiter nicht zu versagen, der ich nichts so sehr wünsche, als mich Ihrer Freundschaft nur in etwas würdig zu machen.
Ich bin mit aller Hochachtung
Ihr gehorsamster Diener und Freund
L. v. Beethoven.
kurf.-kölnischer Hoforganist 』
↓ 「ルートヴィヒの手紙」
『1787秋、15日 – ボンにて。 高貴な生まれの特に大切な友人へ!
彼らが私についてどう思っているかは簡単に推測できます。 あなたが私を好意的に思わない十分な理由があることに私は反論できません。 しかし、原因を明らかにし、それによって私の謝罪が受け入れられるときまでは、私は謝罪しません。
私はあなたに告白しなければなりません。私がアウグスプルクを出て以来、私の喜びとそれとともに私の健康は衰え始めた。 故郷に近づくほど、母の健康状態が良くなかったので、いつもより早く旅行から戻るよう父からたくさんの手紙を受け取っていた。 病気の母にもう一度会いたいという願いがすべての障害を取り除き、最大の困難を克服するのに役立ちました。
母に会えてましたが、健康状態は最悪でした。 結核を患っており、多くの痛みと苦しみを耐え抜いた後、約七週間前についに亡くなりまし。
母は私の親友であり、私にとってとても愛情深い母親でした。 おお! 私がまだ母という甘い名前を言葉を云い、それが母に聞こえたとき、私より幸せだった人はいるだろうか。そして今になれば、誰に母と誰に言えようか?
私はずっと胸が締め付けられるような痛みに悩まされており、そこから病状が進展するのではないかと心配しています。 気がふさぐこともありますが、私にとっては病気そのものと同じくらい深刻です。(編者要訳)
Den 15ten herbstmonat- Bonn 1787
Hochedelgebohrener insonders werther freund!
was sie von mir denken, kann ich leicht schließen; daß sie gegründete ursachen haben, nicht vortheilhaft von mir zu denken, kann ich ihnen nicht widersprechen; doch ich will mich nicht eher entschuldigen, bis ich die ursache angezeigt habe, wodurch ich hoffen darf daß meine entschuldigung angenommen werde,
ich muß ihnen bekennen: daß, seitdem ich von augspurg hinweg bin, meine freud und mit ihr meine gesundheit begann aufzuhören; je näher ich meiner vaterstadt kam, je mehr briefe erhielt ich von meinem vater, geschwinder zu reisen als gewöhnlich, da meine mutter nicht in günstigen gesundheitsumständen wäre; das verlangen meine kranke mutter noch einmal sehen zu können, sezte alle hinderniße bej mir hinweg, und half mir die gröste beschwerniße übenwinden.
ich traf meine mutter noch an, aber in den elendsten gesundheitsumständen; sie hatte schwindsucht und starb endlich ungefähr vor sieben wochen, nach vielen überstandenen schmerzen und leiden.
sie war mir eine so gute liebenswürdige mutter, meine beste freundin; o! wer war glücklicher als ich, da ich noch den süßen namen mutter aussprechen konnte, und er wurde gehört, und wem kann ich ich ihn jetzt sagen?
die ganze zeit hindurch bin ich mit der engbrüstigkeit behaffet gewesen, und ich muß fürchten, daß gar eine schwindsucht daraus entsteht; dazu kömmt noch melankolie, welche für mich ein fast eben so großes übel, als meine krankheit selbst ist.』
作品:歌曲《別れに歌う酒の歌》WoO.109、歌曲《むく犬の死に寄せる悲歌》WoO.110
↓ <母マリア・マグダレーナの墓>
1788年18歳
<父の引退>
ウィーン出身のフェルディナント・エルンスト・フォン・ワルトシュタイン伯爵は、ドイツ騎士団に入団した際にボンにやって来た。彼はルートヴィヒの最初の貴族の後援者となり、《騎士のバレエ音楽》WoO 1や《ヴァルトシュタイン伯爵の主題による変奏曲》WoO 67 などの音楽を作曲するよう奨励し、選帝侯への影響力を利用してルートヴィヒを応援し続けた。
宮廷歌劇場オーケストラのヴィオラ奏者となる。
ブロイニング家への訪問が増えて行った。
11月ルートヴィヒの父ヨハンはより早く引退した。ヨハンはアルコール依存症になり、もはや家族の世話をすることができなくなり、ルートヴィヒは現在、二人の弟ヨハンとカスパールの世話をすることになっていた。 彼は父が年金を飲み干さないように、なんとか年金の半分を自分に支払ってもらうことにした。
1789年19歳
宮廷正オルガニストに就任。
1月ボンに国民劇場を創設され、ヨーゼフ・ライヒャが劇場の監督として任命された。 ルートヴィヒはこの劇場オーケストラで1792年までの三年間ヴァイオリン/ヴィオラ奏者として働いた。
この劇場ではドイツ演劇・オペラを上演し、更にサリエリやチマローザのオペラ、モーツァルトの《後宮からの誘拐》《フィガロの結》《ドン・ジョヴァンニ》や 作曲家ジョヴァンニ・パイジエッロ (1741-1816)、イグナス・ルンデ (1746-1796)などを上演した。1790年のクリスマスには、イギリスに行く途中で
5月ボン大学(現 ベートーベン・ギムナジウム)入学
当時絶頂期だったハイドンと興行主ザーロモンがボンに立ち寄り、マクシミリアン・フランツ選帝侯は彼らを丁重に歓迎している。
19歳のルートヴィヒは、ヨットでライン川を遡り、選帝侯の夏の宮殿へ向かう途中、宮廷楽団の最年少メンバーとして、最も下等な職である厨房係に任命された。
ベートーベンの父親ヨハンは例年より早く11月に引退した。 ヨハンはアルコール依存症になり、もはや家族の世話をすることができなくなり、ルートヴィヒは、2人の弟ヨハンとカスパールの世話をすることになっていた。
長男としてルートヴィヒは父親が年金を飲まないように、なんとか年金の半分を自分に受けられるように依頼した。そしてその権限が与えられ、実質的に家長の役割を与えられた。
作品:《ピアノまたはオルガンのための二つの前奏曲》作品39、
1790年20歳
<ハイドンと会見>
ヨーゼフ・ハイドンは、ロンドンへの最初のコンサートツアーで12月にボンに立ちよりルートヴィヒなどボンの音楽家と会見した。。
少なくとも1792年7月、ハイドンが再びウィーンへ向かう途中であったとき、ルートヴィヒはそこで初めて彼に会ったようだ。 会談はおそらくヨーゼフ・ハイドンがコンサートを行ったゴーデスベルガー・ルドゥーテで行われたと思われる。 選帝侯、ルートヴィヒ、ハイドンは、ルートヴィヒがウィーンでハイドンに師事し(モーツァルトは翌年12月に死去)、ルートヴィヒは当面ボンから給料を受け取り続けることに同意した。
作品:《ヨーゼフ二世葬送カンタータ》wo87、《レオポルド二世戴冠式カンタータ》wo88、《ソナチネの二つの楽章》ヘ長調WoO.50、《リギーニのアリエッタ「恋人よ来れ」の主題による24の変奏曲》ニ長調WoO.65、《愉快と悲哀》WoO.54、バス独唱《娘たちと仲よくして》WoO.90、《ポンス酒の歌(斉唱付)》WoO.113、歌曲《嘆きWoO.113、歌曲《八つの歌》op.52の
1791年21歳
選帝侯に従い、メルゲントハイム、アシャッフェンブルクに行き、ライン川沿岸の美しさに浸る。
モーツァルト《魔笛》ウィ-ン初演
ワルトシュタイン伯の代作《騎士のバレエ》を仮面舞踏会で初演
12月5日モーツァルトの死
作品:《騎士バレエのための音楽(管弦楽)》WoO.1、《ピアノ三重奏曲第9番》変ホ長調WoO.38
その他:➀1月14日ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが、クリスティアン・アドルフ・オーヴァーベックのテキストに基づいてピアノ曲《春に憧れて(さあ、親愛なる五月よ、そしてどうぞ)》KV596を作曲。https://youtu.be/1I7PbkRWpXA?si=IWZkT-uKBCNVHW9R
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの《クラリネット協奏曲》KV622は、彼の最後に完成した器楽作品。11月18日作曲家はすでにベッドに伏していた間に、最後の作品である小フリーメーソンの《カンタータ》KV623を完成させた。彼が始めた《レクイエム》は、フランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵の委嘱作品であり、最初は弟子のヨーゼフ・フォン・エイブラーに提供され、彼の死後、未亡人のコンスタンツェが完成させ、最終的にフランツ・クサーヴァー・ズュスマイヤーによって完成された。
➁モーツァルトは死の約6か月前に《魔笛》と《レクイエム》にも取り組んでいて、《Ave Verum Corpus》KV618、を作曲した。サインには1791年6月17日の日付があり、冒頭に「sotto voce (静かな声で)」という指示があった。この作品はおそらく、モーツァルトの友人であったウィーン近郊バーデンの聖シュテファン教区教会の学校教師兼聖歌隊指揮者であるアントン・ストールのコーパス・クリスティ・サービスのために作成されたものと思われる。https://youtu.be/1Qxrru15jfo?si=64Z7uu-W3jC5vB4e
➂ヨーゼフ・ハイドンはこの年ロンドンへ旅行中であった。そこで彼は《第94交響曲》、《交響曲第95番》、《交響曲第96番》を作曲した
➃9月5日ジャコモ・マイヤーベーア、ドイツの作曲家、指揮者生まれた
➄9月30日ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのオペラ《魔笛》の初演がウィーンのフライハウス劇場で行われた。台本エマヌエル・シカネーダーによる
1792年22歳
<ボンからウィーンへ移住>
6月ネーフェやワルトシュタイン伯のはからいでボンに立寄ったハイドンにと再会し、カンタータを褒められ才能を認められた。
ルートヴィヒのフリーランスの芸術家としての生活は、自身の作品の配布と販売、そして主に貴族であった後援者、とりわけ皇帝フランツ一世 (1768‐1835年) の弟であるルドルフ大公 (1788‐1831年) からの金銭的寄付に基づいていた。
7月にヨーゼフ・ハイドンがイギリス旅行からの帰りにボンに立ち寄ったとき、ルートヴィヒのウィーンへの二度目のレッスンが手配された。ワルトシュタインの家族募の記載によれば、モーツァルトはすでに亡くなっていたが、彼は「ハイドンの手からモーツァルトの精神」を受けとることになっていた。
ボン選帝侯マックス・フランツ(女帝マリア・テレジアの末息子)の援助を受けハイドンに対位法のレッスンを受けるためウィーン留学が決まる。
11月2日の早朝に出発し、フランクフルト、ニュルンベルク、レーゲンスブルク、パッサウ、リンツ等を経由しながら1週間かけてウィーンに到着した
11月10日ウィーンのハイドンも頻繁に宿泊しているカール・リヒノフスキー侯爵邸に到着。(馬車は一日あたり約100km 走行した)。そして、ルートヴィヒはこれ以降、二度とボンに戻ることはなかった。ルートヴィヒは1795年まで3年間このリヒノウスキー侯爵家に同居し、ハイドンからレッスンを受け続けた。そしてハイドンとは1809年に亡くなるまで友好的な関係が続いた。
リヒノウスキーは貴族で、裕福で優れたヴァイオリニストとみなされていた。またルートヴィヒを貴族仲間に紹介して、収入が得られるよう心を配った。ゴットフリート・ファン・スヴィーテン男爵(1733-1809)と出会う。
ルートヴィヒはウィーンで初めてピアノの名手として知られはじめたが、作曲家としては知られていなかった。
フリーランスの芸術家ルートヴィヒの収入はピアノレッスンによるものであった。
ルートヴィヒのお気に入りの居酒屋は、ウィーンのノイアーマルクトにあるシュワン・インで、そこで地元の赤ワインを飲んだ。
12月18日ルートヴィヒが到着して間もなく、父ヨハンが52歳で亡くなった。
ルートヴィヒはウィーンに定住したばかりであったが、兄弟たちがもう十分な年齢なので、ボンには戻ることはなかった。 そこで彼は、兄弟たちが経済的に援助されていることを知り、ルートヴィヒはハイドンから作曲のレッスンを受け続けた。
作品:未完《ヴァイオリン協奏曲》ハ長調WoO.5、《ピアノ三重奏曲第10番》変ホ長調op.44、《ロンディーノ》変ホ長調WoO.25、《弦楽三重奏曲》変ホ長調op.2、《フルート二重奏曲》WoO.26、《ピアノ・ソナタ》ハ長調WoO.51、歌曲《ラウラに》WoO.112、歌曲《独り言》WoO.114、歌曲《八つの歌》op.52、《ピアノのための変奏曲》wo66、《ロンド》ト長調 WoO 41
1793年23歳
<サリエリからレッスンを受ける>
ルートヴィヒとハイドンの関係は、特異で自信に満ちた生徒との関係であった。意見の相違や衝突がなかったわけではなく、たとえば、ハイドンがルートヴィヒのピアノ三重奏曲作品1第三番について理解するのが難しすぎると難色を示したときなどがあるという。ルートヴィヒはかつて師について「先生からは何も学ばなかった」と語ったと言われているが、実際、ハイドンは特に交響曲や室内楽の分野において、作曲家としてのルートヴィヒの進歩に永続的な影響を与えた。
しかし、ルートヴィヒは音楽教師としてのハイドンに不満を持っていたようで、ヨハン・バプティスト・シェンクから対位法のレッスンを受け、アントニオ・サリエリから(1802年頃まで)イタリア歌曲、作曲の指導を受けた。
ハイドンの指導を断りヨハン・シェンクに対位法、アントニオ・サリエリを学ぶ。
ウィーンではすぐに、ルートヴィヒはフランツ・ヨーゼフ・マクシミリアン・フォン・ロブコヴィッツ王子 Franz Joseph Maximilian von Lobkowitz unやゴットフリート・フライヘル・ファン・スヴィーテンGottfried Freiherr van Swietenなど、貴族の音楽愛好家たちの支援を得て、新しい故郷に落ち着くことができた。
カール・リヒノフスキー Karl Lichnowsky侯爵は特別な役割を果たした。1800年以降、リヒノフスキーはルートヴィヒに 六百FLの年俸を支払い、その後数年間に渡ってルートヴィヒが独立した音楽家として活動出来る基礎作りを支えた。
ルートヴィヒは自宅でウィーンの音楽家グループと連絡を取り、ヴァイオリニストのイグナーツ・シュパンツィヒ Ignaz Schuppanzighと出会い、彼は彼の作品の普及に多大な貢献をすることになった。
リヒノフスキー侯爵はルートヴィヒと同じ建物の一階に住んでいたので、ルートヴィヒに一階の住居のうち、広い二部屋を提供しここに住まわせることにした。リヒノウスキー侯爵はルートヴィヒを貴族仲間に紹介して多くの人に知られるよう、また才能にふさわしい収入が得られるよう心配りもした。さらに、パリのエラール製造のピアノを贈ったともいわあれている。
ルートヴィヒのウィーンでの生活はボンで思っていたよりも高かったので、ハイドンはしばしば彼にお金を貸さなければならなかった。
このため、ハイドンは怒りの手紙を選帝侯マックス・フランツに訴え、あまりにも少なすぎる資金でルートヴィヒをウィーンに送ったとして非難したという。
↓ 「ハイドンがボンにいる選帝侯に送った手紙」
要訳『ウィーン、1793年11月23日 選帝侯公爵殿下……ルートヴィヒはきっと偉大な音楽家の一人になるでしょうし。私は自分を彼の師匠と呼べることを誇りに思います。
そこで、選帝侯公爵殿下に経済事情について少しお話しさせていただきます。 過去1年間、100ターラーが彼に割り当てられました。この額では生きるだけでも十分ではありません。このような少額で彼を世に送り出す十分な理由があったのかもしれません。私は彼をあまりにも有名にさせたので、彼は私に500ギルダーの借りがあります…ハイドン』
『Wien, 23. November 1793
Euer Kurfürstliche Durchlaucht …. Kenner und Nichtkenner müssen eingestehen, daß Beethoven … einer der größten Tonkünstler {sein} werde und ich werde stolz sein, mich seinen Meister nennen zu können; nur wünscht ich, daß er noch geraume Zeit bei mir verbleiben dürfe….
…so erlauben Eure Kurfürstliche Durchlaucht, daß ich auch ein paar Worte von seinen ökonomischen Angelegenheiten sagen darf. Für das verflossene Jahr waren ihm 100 Taler angewiesen.
Daß diese Summe nicht hinreichend war, auch nur bloß um zu leben, davon sind E.D. wohl selbst überzeugt; indessen mögen HDS
ich habe ihm soviel vorgestreckt, daß er mir 500 Gulden schuldig ist, wovon kein Kreuzer ohne Notwendigkeit verwendet worden ist…Josef Haydn』
作品:ヴァイオリンとピアノのための《「フィガロの結婚」の主題による12の変奏曲》WoO.49、《八重奏曲》変ホ長調op.103、《五重奏曲》変ホ長調、《アルマンド》イ長調WoO.81、《スイスの歌の主題による易しい六つの変奏曲》ヘ長調WoO.64、歌曲/未完《親愛なヘンリエッテ》、歌曲《ミンナに》WoO.115、歌曲《その時を待って》WoO.116
その他:1月2日ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの《レクイエム》全曲の初演がウィーンのレストラン・ヤーンのホールで演奏された。
1794年24歳
<ナポレオン軍ボン占領>
1月19日ハイドンがロンドンに戻る。ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーに対位法のレッスンを受ける。
アロイス・フェルスターに弦楽四重奏曲の作曲法を学ぶ。
5月弟カール・カスパルがウィーンに到着しウィーンに移り住み、そこで足がかりを作り国政の財務官となった。弟ヨハン・ニコラウスはボンに残ったが、数か月後にウィーンに移り、ベートーヴェンとカール・カスパルと一緒に暮らすことになる。
ヨハン・ニコラウスは後に自営業の薬剤師となって富豪となる。
ナポレオン軍はヨーロッパ全土の発展を支配した。3月から特にライン川左岸のラインラント地域に進軍中であった。
10月8日ナポレオン率いる革命フランス軍はボンに進軍しラインラントを占領した。
ボン選帝侯マックス・フランツはウィーンにいる弟であり皇帝を訪問する途中だったのでボンを不在し、旅行中で何が起こるか誰も分からなかったため、ルートヴィヒへの給料支払いを停止した。
ボン大聖堂は馬小屋となり、兵士たちは城の庭(中庭の牧草地)でキャンプを張り、多くのボンの少女や女性がフランス兵たちと戯れ、フランス軍兵士の最初の女性が妊娠するということになった。
これはルートヴィヒがボンに戻れなくなっただけではなく、選帝侯からの給料も支払われなくなった。選帝侯からの給料も支払われなくなったが、しかし、それをあてにする必要がなくなっていた。
この頃になるとルートヴィヒはピアノ教師として非常に需要があり、裕福な貴族の多くの若い女性を教えていたからである。この状況は、後に双方の多くの失恋を招いた。
1792年からアルザーシュトラーセのカール・リヒノウスキーKarl Richnowsky侯爵一家(モーツァルトの弟子)邸に一緒に住むようになっていたルートヴィヒは、数年間ルートヴィヒに資金を提供してくれることになっていた。ルートヴィヒはそれにふさわしい服装を心がけるようにした。ルートヴィヒは、のちにウィーンで「„Beethoven Bonnensis”ベートーベン・ボネンシス」と手紙に署名し、亡くなる直前に自らを「ボン市民」と称した。
作品:《2本のオーボエとイングリッシュホルンのための三重奏曲ハ長調 Op.87》ハ長調 Op.87、《ピアノと管弦楽のためのロンド》変ロ長調 WoO 6
1795年25歳
<ハイドンと再会>
3月29日ウィーン、ブルグ劇場で最初の公開演奏会に出演し、ルートヴィヒは名手としての名声を築き上げ、自作の《ピアノ協奏曲変ホ長調》と《ピアノ協奏曲第ニ番変ロ長調》作品19の演奏でピアニストとして公の場にデビューし、卓越した能力でも話題を呼んだという。た。このコンサートの後、彼はついに娘たちにとって人気のピアノ教師とみなされ、多くの生徒や後援者に恵まれる。
《ピアノ三重奏曲》作品1はベートーヴェンが初めて作曲家になった気分になり、この作品を「作品1」としたといわれている。
7月アルブレヒツベルガーでの勉強を終える。
8月『ピアノのための三重奏曲(作品1)』出版。
9月ハイドンがウィーンに戻り、ルートヴィヒに会う。
12月26日弟のニコラウスもウィーンに移り、そこで薬局助手として働いた。ルートヴィヒは常に自分が彼らの親代わりであると考えていた。
12月ハイドンと共演。
アルト歌手マグダレーナ・ヴィルマンにプロポーズするが彼女は断る。
プラハへ行く。クルンプホルツと知り合う。
↓ 《ピアノ協奏曲第2番》 変ロ長調 作品19
小澤征爾/ボストン交響楽団
ルドルフ・ゼルキン Rudolf Serkin
作品:《ピアノ三重奏曲第1番》変ホ長調op.1の1、《ピアノ協奏曲第1番》ハ長調作品15、《ピアノ協奏曲第2番》op.19、《ピアノ・ソナタ》作品2、《弦楽五重奏曲 変ホ長調》《12のメヌエット(管弦楽)》WoO.7、《12のドイツ舞曲(管弦楽)WoO.8、《ピアノ三重奏曲第2番》ト長調op.1の2、《ピアノ三重奏曲第3番》ハ短調op.1の3、《ピアノ・ソナタ第1番》ヘ短調op.2の1、《ピアノ・ソナタ第2番》イ長調op.2の2、《ピアノ・ソナタ第3番》ハ長調op.2の3、《斉唱付独唱《おお懐かしい森よ》、歌曲《自由の人WoO.117、歌曲《愛されない者のため息と愛のこたえ》WoO.118
その他:➀8月13日ウィーンブルク劇場でアントニオ・サリエリのオペラ《エラクリトとデモクリト》初演された
➁10月14日ウィーンのケルントナートール劇場で、アントニオ・サリエリのオペラ《パルミラ、ペルシャの王妃》が初演された。
1796年26歳
<プラハ・ドレスデン・ライプツィヒ・ベルリンへ>
2月リヒノウスキー公爵と二回目のプラハを訪問し、いくつかのルートヴィヒ作品を演奏した。ベルリンに行き宮廷や、ジングアカデミーで演奏した。
7月プラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンを経て六か月間に及ぶ演奏会を終えてウィーンに戻り、さまざまなコンサートツアーに出演した。 そこで彼はプロイセン国王とルイ・フェルディナンド王子に出会ったが成果には結びつかなかった。
ブダペストでのコンサートに向けて出発。
ルートヴィヒはこの頃から、耳鳴りやブンブンという音を聞きはじめた。
この年、『風邪をひいたあとに初めて左の耳に聴力障害が生じたと記録にある。』(註:引用要訳/五島雄一郎著『偉大なる作曲家のためのカルテ』 医療ジャーナル社、2012年、59頁。『1796年に書かれた手紙のなかに一日三回蒸発性の軟膏を体にぬりこまなければならなかったと記されている。おそらく水銀軟膏の塗擦療法だったのだろう。筆者も昭和20年に大学を卒業した当時に受けもった患者が梅毒で、毎日水銀軟膏を手、胴、足にすり込んで治療をしていたことを想いだす。…ルートヴィヒの強く突き出した前額、深くくぼんだ鼻根部、鞍鼻といわれるあぐら鼻などは先天性梅毒の特有の所見であり…聴力障害も梅毒が原因していたと考えた方が無理がないように思われる。』註:要訳/五島雄一郎著「偉大なる作曲家のためのカルテ」 医療ジャーナル社、2012年、58頁59頁。)
三つの《ピアノ・ソナタ》作品1が付いた最初のピアノ ソナタを出版、ハイドンに捧げられている。
作品:《弦楽四重奏曲》作品4、《ピアノ四重奏曲》作品16、《チェロ・ソナタ》作品5、《ピアノ・ソナタ》作品7、《ピアノのためのロンド》作品51‐1、歌曲《アデライデ》作品46、《ピアノと管楽器のための五重奏曲 変ホ長調》作品16
その他:8月7日ウィーンのブルク劇場でアントニオ・サリエリのオペラ《イル・モロ》が初演された。台本はジョヴァンニ・デ・ガメラによる
1797年27歳
<難聴のきっかけ>
作品の出版とピアノ教師で生活が安定してくる。プレスブルク、ブタペストの都市で公演する。
重病を患い、難聴のきっかけとなった
作品:《弦楽三重奏曲》作品8 《弦楽五重奏曲 変ホ長調》 作品16、《三つのピアノソナタ》作品10
その他:➀1月31日フランツ・シューベルト、オーストリアの作曲家生れる
➁11月29日ガエターノ・ドニゼッティ、イタリアのオペラ作曲家生れる
1798年28歳
<プラハ旅行、聴覚障害>
この頃から聴覚障害に罹る。
ルートヴィヒはプラハ、ドレスデン、ベルリンなどへのコンサートツアーを実施し、芸術的にも経済的にも大きな成功を収めた。
ウィ-ンの貴族リヒノフスキー侯爵が始めたツアーは、1789年に侯爵(モーツァルトの弟子・保護者)がモーツァルトと行った旅のルートをたどった。
三回目のプラハ旅行に出る。若きピアノ名手ルートヴィヒはプラハ、ドレスデン、ベルリンなどへのコンサートツアーを実施し、芸術的にも経済的にも大きな成功を収めた。リヒノフスキー侯爵が始めたツアーは、1789年に王子がモーツァルトと行った旅のルートをたどった。
駐オーストリアのフランス大使ベルナドット邸でヴァイオリニストのクロイツァーに会う。
作品:《弦楽三重奏曲》作品9、《ピアノ・ソナタ》作品20、《クラリネット三重奏曲》作品11、《ピアノ協奏曲第一番》作品15、《ヴァイオリン・ソナタ》作品12
その他:4月29日・30日:ヨーゼフ・ハイドンのオラトリオ《天地創造》が、ウィーンのノイアー・マルクトにあるシュヴァルツェンベルク宮殿で、作曲家の指揮のもと、一般聴衆の前で初演された
1799年29歳
<ブルンスヴィック伯爵家子どもたちにレッスン開始>
1799年から1802年にかけて、ルートヴィヒは当時ウィーンの宮廷音楽監督だったアントニオ・サリエリからレッスンを受け、《交響曲第一番》の作曲を始める。
ハンガリーの名家アントン・ブルンスヴィック伯爵家の未亡人アンナ・エリザベートは、長男フランツ、長女テレーゼと二女ヨゼフィーネを連れウィ-ン訪れ、ルートヴィヒに三人のレッスン受けさせた。以降ルートヴィヒは三人とは親しい間柄となっていく。
ヴェルフルとピアノの競演
ルートヴィヒの天使であり恋人であったジョゼフィーヌ・ブルンスヴィク・デ・コロンパ伯爵未亡人はヨーゼフ・フォン・ダイム伯爵と再婚したため、ルートヴィヒと特別な関係が生まれた。結婚後もルートヴィヒはダイム宮殿に入場でき、そこで数多くの作品を初演した。ルートヴィヒはダイムのためにオルゴール用の曲を作曲した。
ダイム伯爵はウィーン皇帝と親戚関係にあるため、ルートヴィヒはウィーン宮廷と新たな関係を築いた。《七重奏曲 変ホ長調》作品20 は女帝マリア・テレジアに捧げられ、翌年4月2日に慈善コンサートで初演された。
作品:《ピアノ・ソナタ》作品13、二曲の《ピアノ・ソナタ》作品14
その他:1月3日アントニオ・サリエリのオペラ《ファルスタッフFalstaff ossia Le tre burle》の初演がウィーンのケルントナートーア劇場で行われ成功を収めた。アントニオ・サリエリが何度も幕前に立ち喝采を浴びた。カルロ・プロスペロ・デ・フランチェスキの脚本とウィリアム・シェイクスピアの喜劇『ウィンザーの陽気な妻たち』を基にしたこのオペラは成功を収めた
1800年30歳
<チェルニーが弟子に>
4月2日ウィ-ン、ブルグ劇場で《交響曲第一番》ハ長調作品21 ルートヴィヒの指揮により初演された。この作品は、ヨーゼフ・ハイドンの『天地創造』と『季節』の台本を書いたゴットフリート・ファン・スヴィーテン男爵に捧げられた。
シュタイベルトとピアノの即興演奏を競う。
ルートヴィヒはゲーテの詩「われ汝を思う」に曲をつけテレーゼに贈る。また《ピアノ・ソナタ》作品78を捧げた。テレーゼの方はその裏に『稀なる天才、偉大なる芸術家、よき人へT・Bより』と書いた自分の肖像をルートヴィヒに贈っている。二人の間柄の良さが普通以上であったことを示していると伝わる。ルートヴィヒの死後発見された宛名の無い『不滅の恋人への手紙』はテレーゼへ宛てた手紙ではなかったかと、テレーゼが生涯結婚しなかったことなどの結果などから、多くのベートーヴェン研究家に「ベートーヴェンの不滅の恋人」と考えられた根拠となった。
カール・チェルニーが弟子入りする。
年末、交響曲第ニ番の作曲に入る
作品:《交響曲第一番》作品21、《ホルン・ソナタ》作品17、《ピアノ・ソナタ》作品22、《ピアノ協奏曲第三番》作品37、《弦楽四重奏曲》作品18
その他:6月2日アントニオ・サリエリのオペラ《ファルマクーザのチェーザレ》がウィーンのケルントナートール劇場で初演され、大成功を収めた。
1801年31歳
3月28日舞踊音楽《プロメトイスの創造》は、ルートヴィヒとサルヴァトーレ・ヴィガノによるバレエ、プリマバレリーナのマリア・カッセンティーニのためにウィーン王宮劇場で初演された。
4月2日ルートヴィヒはウィーンのブルク劇場で《ピアノ協奏曲第一番ハ長調》作品15を初演。他に《ピアノ協奏曲ニ番ロ長調》作品19、《ヴァイオリン・ソナタ第4番》イ短調 Op. 23、《ピアノソナタ第14番》作品27、《ピアノ・ソナタ第2番「月光ソナタ」、《ピアノソナタ第15番》作品28などを演奏した。
6月1日カール・アメングに、6月29日ヴェーゲラーに耳の障害を訴える。ヴェーゲラーに宛てた6月29日の手紙に『耳の聴こえがが三年来悪くなってきている。原因は腸からきているという。腸は前から弱かったが、最近は常習的な下痢に悩まされている』と書く。
ジュリエッタ・グィッチャルディに恋し《ピアノソナタ》「月光」を捧げる。
ボンのコンサートマスター、フランツ・アントン・リースは、息子のフェルディナンドをウィーンに送り、ルートヴィヒからピアノのレッスンを受けさせ弟子となった。 徐々に、ボンから多くの知人や友人が到着するようになった。 ルートヴィヒは別のピアノの生徒と恋に落ちた。
6月29日ルートヴィヒはボンの少年時代の友人であり医師となったフランツ・ヴェーゲラーに宛てた手紙を書いた。
7月1日カール・アメンダKARL AMENDA, に手紙を送った。ルートヴィヒは聴覚が悪くなっているという大事を打ち明けた。アメンダは1799年に生まれ故郷のクールランドCOURLANDに戻ったが、アメンダはドイツのイエナで神学を学んだ後、1798年ウィーンに出た。優れたヴァイオリニストであったアメンダとは、ボヘミアの大貴族で非常な音楽愛好家ロブコヴィッツ侯爵フランツ・ヨーゼフのウィ-ンの邸宅で子どもたちの家庭教師として仕えていた頃に、ルートヴィヒもここに集まった一人でロブコヴィッツ侯爵を通じて知り合った仲だった。アメンダはウィーンでモーツァルトの子どもに音楽を教えたこともあった。1802年クールランドのミルベンに近いタルゼンの町で牧師になった。
7月6日ジュリエッタ・グィッチャルディGiuletta Guicciardi.女性伯爵にピアノを教える。
11月16日ウィーンからボンにいる友人ヴェーゲラーにジュリエッタ・グィッチャルディについて次のような手紙を書いた。
「ボンにいる友人で医師のヴェーゲラーに送った手紙」
要訳『…ここ三年の間、私の耳はだんだん弱くなってきた。この病気は私の腹の状態が原因だとおもわれるのだが、君も承知の通り、わたしはボンにいる時から腹が悪かった。それがウィーンでは絶えず下痢に悩まされるようになり、極度に衰弱してきたのです。』『…私の弱い聴覚はどこにいても幽霊のように私に現れ…私は人を避け、厭人主義でもないのに、まるでそのような人間のように振る舞わなければなりません。どれほど悲しい人生を送ってきたのか、信じられないでしょう。しかし、この変わりようは、ひとりの愛らしい魅惑的な娘のためです。彼女は私を愛してくれ、私もまた愛している。二年ぶりで幸福な瞬間が戻って来ました。人々の中にもっと自分を置くことができたので、今は少し楽に生きています。…今度は初めて、結婚して幸福になれるだろうと考えました。 そして、結婚が幸せをもたらすかもしれないと初めて感じました。ただ残念なことに身分が違うのだ。そして今、私は結婚できません。まだまだ勇敢にはしゃぎ回らなければなりませんが……』
『…Etwas angenehmer leb ich jetzt wieder, indem ich mich mehr unter Menschen gemacht. Du kannst kaum glauben, wie öde, wie traurig ich mein Leben seit zwei Jahren zugebracht; … wie ein Gespenst ist mir mein schwaches Gehör überall erschienen, und ich floh die Menschen, mußte Misanthrop scheinen und bin’s doch so wenig. – Diese Veränderung hat ein liebes, zaubrisches Mädchen hervor gebracht, die mich liebt, und die ich liebe; es sind seit zwei Jahren wieder einige selige Augenblicke; und es ist das erste Mal, daß ich fühle, daß Heiraten glücklich machen könnte; leider ist sie nicht von meinem Stande…und jetzt könnte ich nun freilich nicht heiraten; ich muß mich noch wacker herumtummeln…』
↓ <ベートーヴェンの思想断片より>青空文庫ファイル/インターネット図書館から引用
『あのばかな連中には、いいたいことをいわせて置くより他に仕様はない。彼らのむだが何人をも不滅にしないことだけは確かだ。同様にまた、アポロ神が不滅の
運命を与えた人々からその不滅性を彼らのむだ口が取り上げるちからは無いということも確かなことだ。』
ホーフマイスター宛てへの手紙から『「和声の父祖」dieser Urvater der Harmonieセバスチャン・バッハの気高い偉大な芸術に対して私の心は全的に鼓動する。』
ド・トレモン男爵宛てへの記録から『ベートーヴェンはピアニストとしては正確でなく、指の使い方もときどき誤っており、音質がぞんざいであった。しかし(彼が弾くのを聴いていると)演奏家のことなぞは誰も考えはしなかった。人は、ベートーヴェンの両手がとにかくそのやり方で最善に表現しょうと努めたところの思想によって、まったく心を奪われてしまうのだった』
<ルートヴィヒとシカネーダーについて>
※【エマヌエル・シカネーダーは1751年9月1日にバイエルン州シュトラウビングでヨハン・ヨーゼフ・シカネーダーとして生まれた。彼は小さな旅芸人一座で俳優としてキャリアをスタートした。当時流行していた即興の茶番劇や歌を演じたが、22歳までに最初のオペレッタを書き、主演した。
1773年シカネーダーはモーザーシェン・シャウシュピールゲゼルシャフトMoserschen Schauspielgesellschaftに加わり、後にその演出家になった。
1780年、シカネーダーはザルツブルクに行き、そこでヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと知り合った
1784年までにシカネーダーは皇帝ヨーゼフ二世の好意を受け、ウィーンに定住した。そこでシカネーダーはオペラに注目し、現代の作曲家に自身の台本に合う楽譜を依頼した。
ウィーンでは1785年からケルントナートル劇場団員を率い、ブルク劇場でも公演した。皇帝ヨーゼフ二世は市壁の前に劇場を建設することを拒否したため、バイエルン州のレーゲンスブルクに向かった。
しかし、すぐに彼はウィーンに戻り、そこで当時ウィーンで最大だった長屋、フライハウス・アウフ・デア・ヴィーデンに彼の要望に応じて劇場が建設された。この劇場は1789年7月12日に 彼が書いた戯曲『Der dumme Anton im Gebirge』でオープンした。
シカネーダーは1791年にオペラ《魔笛》の台本を執筆した。1791年9月30日、彼の最大の成功作であるモーツァルトの音楽によるオペラ《魔笛》の初演がフライハウス・アウフ・デア・ヴィーデンで行われた。シカネーダー自身がパパゲーノの役を演じた。伝えられるところによれば、この成功は莫大な収入をもたらした。
彼の作品はますます豪華になっていき、シカネーダーは(カウフマンのツィッターバルトの援助を得て)すぐ近くに新しい劇場、アン・デア・ウィーン劇場(1801年) は彼のために特別に建てられた。同年アン・デア・ウィーン劇場をオープンする頃には、その費用は莫大なものになっていた。
フライハウス劇場は1801年に閉鎖された。1801年、シカネーダーの劇団は《魔笛》が初演されたアウフ・デア・ヴィーデン劇場を放棄し、彼が建設したより大きく壮大な劇場であるアン・デア・ウィーン劇場に移転した。
この劇場は、精巧な風景や舞台効果を備えた演劇スペクタクルを好むシカネーダーの好みによく適していた。 アン・デア・ウィーン劇場は1801年6月13日にフランツ・ダイバー作曲によるシカネーダー台本のオペラ《アレクサンダー大王》で開館した。この台本はまずシカネーダーからルートヴィヒに提案されたが、ルートヴィヒはそれを拒否した。シカネーダーは、パフォーマンスに高価な装飾や効果を使用した。
館長エマヌエル・シカネーダーEmmanuel Schikaneder,は、1791年以来、モーツァルトの「魔笛」で莫大な金を稼いだため約2000席の新しい劇場を開設することができた。
ヴィーデン劇場で何年も過ごした間、シカネーダーは自分が働いている場所で生活するのが効率的であることに気づいていた。 つまり 劇場と同じアパート内に 彼の同僚の多くもそこに住んでいた。シカネーダーは、自分と劇団の多くのメンバーが住んでいた四建てのアパートを新しいアン・デア・ウィーン劇場に組み込むことで、この慣行を確実に継続できるようにした。
シカネーダーはルートヴィヒの芸術仲間であり、1803年初頭、シカネーダーはシカネーダーのオペラ台本『Vestas Feuerヴェスタの火』をルートヴィヒとの共同作業を仕立てようと再度試みた。ルートヴィヒとシカネーダーとの共同作業は、ルートヴィヒが1792年にウィーンに到着して以来、1791年に亡くなったモーツァルトの近くにいて彼が見てきたものであった。
彼は芸術的方向性は保持し、ほとんど耳が聞こえないルートヴィヒをアン・デア・ウィーン劇場の指揮者兼劇場作曲家として招いた。そして劇場複合施設の一部であるアパートを彼に無料で提供し、自分の劇場用にオペラを作曲するよう依頼した。ルートヴィヒはこれに同意し、このアパートに移り、毎年過ごすバーデンとオーバーデブリングの近くの田舎への夏の訪問を除いて、1803年4月頃から1804年5月までそこで暮らすことになった。そして劇場は彼にとってお気に入りの場所であり続けることになった。当時ルートヴィヒのビジネスマネージャーを務めていたルートヴィヒの弟カスパル・カールも、劇場のアパートのひとつに引っ越した。ルートヴィヒは主に訪問者を迎えるためにこのアパートを使用したが、作曲にも忙しくしていた。ルートヴィヒは4月に劇場で自身の作品のコンサートを予定していた。
シカネーダーは、ルートヴィヒに《Vestas Feuerヴェスタの火》を書くよう促した。
シカネーダーが台本を完成させたのは10月下旬だったため、当初、ルートヴィヒには共同作業における義務がなかった。彼は11月下旬にオペラ《Vestas Feuerヴェスタの火》の作業を開始し、約一か月間作業を続けました。
ルートヴィヒは最終的にオペラ《Vestas Feuerヴェスタの火》の台本とシカネーダーとの共同作業の両方に耐えられないと感じ、共同作業を中止した。 彼はヨハン・フリードリヒ・ロフリッツJohann Friedrich Rochlitzへの手紙の中で自分の意見を述べた。
ルートヴィヒ手紙/要訳『私はついにシカネーダーと決別しました。彼の世界は賢明で思慮深いフランス・オペラの光によって完全に影を落としました。 彼はもう丸半年も私を引き留めてきましたが、彼は間違いなく舞台効果を作るのが上手なので、いつもより賢いものを考え出すだろうと期待していた私は騙されていました。 私はなんと間違っていたのでしょう。 私は少なくとも、台本の詩と内容を誰かに修正して改善してもらいたいと願ったが、無駄だった。 この傲慢な男を説得するのは不可能だったからです。 さて、私はいくつか作曲したにもかかわらず、彼との合意を放棄しました。 ウィーンのリンゴ売りの口から出てくるかもしれないローマのテーマ(私は計画など何も知らされていなかった)や言語や詩を想像してみてください。』
『Ich habe endgültig mit Schikaneder gebrochen, dessen Reich vom Licht der klugen und nachdenklichen französischen Opern völlig in den Schatten gestellt wurde. Mittlerweile hat er mich ein ganzes halbes Jahr lang zurückgehalten, und ich habe mich täuschen lassen, nur weil ich gehofft hatte, dass er, da er unbestreitbar gut darin ist, Bühneneffekte zu erzeugen, etwas Klügeres als sonst hervorbringen würde. Wie falsch ich lag. Ich hoffte zumindest, dass er die Verse und den Inhalt des Librettos von jemand anderem korrigieren und verbessern ließe, aber vergebens. Denn es war unmöglich, diesen arroganten Kerl dazu zu überreden. Nun, ich habe meine Vereinbarung mit ihm aufgegeben, obwohl ich mehrere Nummern komponiert hatte. Stellen Sie sich einfach ein römisches Thema vor (von dem mir weder der Plan noch irgendetwas anderes erzählt worden war) und eine Sprache und Verse, wie sie aus dem Mund unserer Wiener Apfelverkäuferinnen kommen könnten.』
1804年の初め、ルートヴィヒのオペラ《Vestas Feuerヴェスタの火》は、結局一幕のみで未完のまま降りた。
シカネーダーは自分の台本を諦めずにヨーゼフ・ヴァイグルに提供し、ヴァイグルは作曲した。 このオペラは1805年8月にアン・デア・ウィーン劇場で上演されたが、その時点でシカネーダーの管理下になかった。オペラは十五回の公演を経てレパートリーから消え、出版されることもなかった。《Vestas Feuerヴェスタの火》は彼の最後の台本となった。
シカネーダーにとって、当時の出来事は終わりの始まりだった。
シカネーダーの残りの人生は、アン・デア・ウィーン劇場に短期間再雇用され、1806年まで劇場を管理した。その後ブリュンとシュタイアーに移った。シカネーダーが劇場の経営を続けたのは四年足らずで、その期間はルートヴィヒとのオペラの共同制作の試みが失敗に終わったことに特徴づけられた。
その後シカネーダーはブルノとペストの劇場を経営するためにウィーンを離れたが、オーストリアの首都に戻り、そこで1812年9月21日に精神異常と貧困の中61歳で死去した。エマヌエル・シカネーダーは、オペラと歌劇のために55の戯曲と44の台本を書いた。】
後、ルートヴィヒは別のオペラの制作に着手し、その後《Leonoraレオノーラ》と題されたが、最終的には《フィデリオ》となった。
↓《12のコントルダンス(管弦楽)》WoO.14
ヘルムート・コッホ指揮、ベルリン室内管弦楽団
Kammerorchester Berlin, Helmut Koch
↓ バレエ《プロメテウスの創造物》「序曲」op.43
指揮:アンドレ・クリュイタンス/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1959年4月 [EMI]
↓ モーツァルト「魔笛」から《「恋を知る殿方には」の主題による7つの変奏曲》変ホ長調 WoO.46
ヨーヨー・マ(チェロ)/エマニュエル・アックス(ピアノ)
Yo-Yo Ma, cello / Emanuel Ax, piano
27 & 28 Aug.1985
作品:《ヴァイオリンソナタ第5番》ヘ長調op.24「春」、《三重奏のためのセレナード》ニ長調op.25(fl,vl,va)、《ピアノソナタ第12番》変イ長調op.26、《ピアノソナタ第13番》変ホ長調op.27の1「幻想曲風ソナタ」、《ピアノソナタ第14番》嬰ハ短調op.27の2「月光」、《ピアノソナタ15番》ニ長調op.28「田園」、《弦楽五重奏曲》ハ長調op.29
1802年32歳
<ハイリゲンシュタットの遺書>
ジュリエッタ・グイッチャルディに《ピアノ・ソナタ第14番》嬰ハ短調「月光」を献呈。
ジュリエッタ・グイッチャルディとの恋愛は、父親も経済的理由(貧しい貴族)であった。不幸な恋愛はルートヴィヒを拒否し、ジュリエッタは家庭の事情で代わりにガレンブルクGrafen von Gallenburg伯爵と結婚した。
2月《交響曲第ニ番》を完成する。
4月医師のアドバイスにより、ルートヴィヒは聴覚が改善することを期待して10月までウィーン郊外にあるオーストリアの小さな町ハイリゲンシュタットに移住した。
10月6日から彼は、ウイーン郊外、ハイリゲンシュタット村のプロブスガッセ六番地にある大きな百姓家の二階の部屋を借りた。ここで10日まで、ルートヴィヒは「ハイリゲンシュタットの遺書」を書き、その中で自身の初期の聴覚障害に気づいた。「ハイリゲンシュタットの遺書」は、彼の死後に発見され、現在「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれている。(現物はウィーンのプローブス・ガッセのベートーヴェン記念館に陳列されている)
「ハイリゲンシュタットの遺書全文」
für meine Brüder Carl und Beethowen
『O ihr Menschen die ihr mich für Feindseelig störisch oder Misantropisch haltet oder erkläret, wie unrecht thut ihr mir, ihr wißt nicht die geheime ursache von dem, was euch so scheinet, mein Herz und mein Sinn waren von Kindheit an für das zarte Gefühl des Wohlwollens, selbst große Handlungen zu verrichten dazu war ich immer aufgelegt, aber bedenket nur daß seit 6 Jahren ein heilloser Zustand mich befallen,[2] durch unvernünftige Ärzte verschlimmert, von Jahr zu Jahr in der Hofnung gebessert zu werden, betrogen, endlich zu dem überblick eines daurenden Übels das (dessen Heilung vieleicht Jahre dauren oder gar unmöglich ist) gezwungen, mit einem feurigen Lebhaften Temperamente gebohren selbst empfänglich für die Zerstreuungen der Gesellschaft, muste ich früh mich absondern, einsam mein Leben zubringen, wollte ich auch zuweilen mich einmal über alles das hinaussezen, o wie hart wurde ich dur[ch] die verdoppelte traurige Erfahrung meines schlechten Gehör’s dann zurückgestoßen, und doch war’s mir noch nicht möglich den Menschen zu sagen: sprecht lauter, schreyt, denn ich bin Taub, ach wie wär es möglich [122] daß ich da die Schwäche eines Sinnes angeben sollte, der bey mir in einem Vollkommenern Grade als bey andern seyn sollte, einen Sinn denn ich einst in der grösten Vollkommenheit besaß, in einer Vollkommenheit, wie ihn wenige von meinem Fache gewiß haben noch gehabt haben – o ich kann es nicht, drum verzeiht, wenn ihr mich da zurückweichen sehen werdet, wo ich mich gerne unter euch mischte, doppelt Wehe thut mir mein unglück, indem ich dabey verkannt werden muß, für mich darf Erholung in Menschlicher Gesellschaft, feinere unterredungen, Wechselseitige Ergießungen nicht statt haben, ganz allein fast nur so viel als es die höchste Nothwendigkeit fodert, darf ich mich in Gesellschaft einlassen, wie ein Verbannter muß ich leben, nahe ich mich einer Gesellschaft, so überfällt mich eine heiße Ängstlichkeit, indem ich befürchte in Gefahr gesezt zu werden, meine[n] Zustand merken zu laßen – so war es denn auch dieses halbe Jahr, was ich auf dem Lande zubrachte, von meinem Vernünftigen Arzte[3] aufgefodert, so viel als möglich mein Gehör zu schonen, kamm er mir fast meiner jezigen natürlichen Disposizion entgegen, obschon, Vom Triebe zur Gesellschaft manchmal hingerissen, ich mich dazu verleiten ließ, aber welche Demüthigung wenn jemand neben mir stund und von weitem eine Flöte hörte und ich nichts hörte, oder jemand den Hirten Singen hörte, und ich auch nichts hörte,』
弟カールと( 宛名なし )に ベートーヴェン
(編者要訳) 『おお、私のことを敵対的なほど頑固だとか厭世的だと考えたり言いふらしたりする人たちよ、あなたはどれほど私を誤解していることか。あなたは、私のことについて、そんな風に見えるわけを知らないからなのだ。私の心と精神は子供の頃から優しい善意の気持ちを求めていました。私は常に偉大な仕事を行うよう心掛けていました。
しかし考えてください、この六年間、私は絶望的な病に悩まされ、理不尽な医師によって病は悪化し、年々回復するという期待を裏切られ、最終的に治癒の望みに絶たれたことを(治癒には何年もかかるか、慢性的になるだろうと覚悟しなければならなくなったのです。)。
私は生まれつき陽気で活発な性分で、会話の輪のなかに入るときは気遣いをして会話をしていました。しかし、難聴が進み早い段階で自分を孤立させなければならなくなり、人生を孤独に過ごさなければならなかった。それを乗り超えたいと思ったこともありましたが、その後、耳が遠いという悲しいことを思い知らされて、どれほど悲しい思いをしたことか。
わたしが難聴だからといって人々に向かって ”もっと大きな声で話してください、叫んでください、私はつんぼで耳が聞こえないのだから” と言うことはできなませんでした。 私は聴覚が弱いのです。他の人たちよりもより完璧なものであるべき聴覚が、私自身にそうあるべきもの、私がかつてあった最高の完璧の聴覚が。私のような職業では、ほとんどの人が確実に持っていなければならないような完璧な聴覚に欠陥がありました。
ああ、私は人に言うことはできませんでした。以前のように、私があなた会話をするのが好きだったころの付合いを、避けているように思われたら許してください。私の不幸は私を二重に苦しめました。なぜなら私は誤解されなければならないからです。私は以前のように、会話の輪のなかに入ったり、より愉しい会話をして寛いだり、互いにうちとけあけ合うことはもうできないのです。私は孤独に生きねばならず、必要なときだけ、会話の中に入っていくのです。日常は犯罪者のように生きなければならず、人々の集いに近づくと、私の難聴を気づかれるのではないかという強い不安な思いが私を襲います。
私が田舎で過ごしたこの六か月間、良識ある医師から言われました。彼は、私の聴力をできるだけ失わないよう励ましてくれた。私の現在と生来の性分にほぼ順応してくれました。とはいえ、時々社交的な衝動に駆られて、私はそうする誘惑に駆られましたが、誰かが私の隣にいて遠くからフルートの音が聞こえたのに、私には何も聞こえなかったとか、あるいは誰かが羊飼いの歌声を聞いていて、私にも何も聞こえなかったとしたら、どれほど恥ずかしい思いをするだろう。』
『solche Ereignisse brachten mich nahe an Verzweiflung, es fehlte wenig, und ich endigte selbst mein Leben – nur sie die Kunst, sie hielt mich zurück, ach es dünkte mir unmöglich, die Welt eher zu verlassen, bis ich das alles hervorgebracht, wozu ich mich aufgelegt fühlte, und so fristete ich dieses elende Leben – wahrhaft elend, einen so reizbaren Körper,[5] daß eine etwas schnelle Verändrung mich aus dem Besten Zustande in den schlechtesten versezen kann – Geduld – so heist es, Sie muß ich nun zur führerin wählen, ich habe es – daurend hoffe ich, soll mein Entschluß seyn, auszuharren, bis es den unerbittlichen Parzen gefällt, den Faden zu brechen, vieleicht geht’s besser, vieleicht nicht, ich bin gefaßt – schon in meinem 28 Jahre[6] gezwungen Philosoph zu werden, es ist nicht leicht, für den Künstler schwere[r] als für irgend jemand – Gottheit du siehst herab auf mein inneres, du kennst es, du weist, dasß menschenliebe und neigung zum Wohlthun drin Hausen, o Menschen, wenn ihr einst dieses leset, so denkt, daß ihr mir unrecht gethan, und der unglückliche, er tröste sich, einen seines gleichen zu finden, der troz allen Hindernissen der Natur, doch noch alles gethan, was in seinem Vermögen stand, um in die Reihe würdiger Künstler und Menschen aufgenommen zu werden – ihr meine Brüder Carl und {Leerraum}, sobald ich Tod bin und Professor schmid lebt noch, so bittet ihn in meinem Namen, daß er meine Krankheit beschreibe, und dieses hier geschriebene Blatt füget ihr dieser meiner Krankengeschichte bey, zu damit wenigstens so viel als möglich die Welt nach meinem Tode mit mir versöhnt werde – zugleich erkläre ich euch beyde hier für meine die Erben des kleinen Vermögens, (wenn man es so nennen kann) von mir, theilt es redlich, und vertragt und helft euch einander, was ihr mir zuwider gethan, das wist ihr, war euch schon längst [123] verziehen,[7] dir Bruder Carl danke ich noch in’s besondre für deine in dieser leztern spätern Zeit mir bewiesene Anhänglichkeit,[8] Mein Wunsch ist, daß ich euch ein bessers sorgenvolleresloseres Leben, als mir, werde, emphelt euren nach Kindern Tugend, sie nur allein kann glücklich machen, nicht Geld, ich spreche aus Erfahrung, sie war es, die mich selbst im Elende gehoben, ihr Danke』
(編者要訳) 『そのような出来事が私を絶望に追いやり、自分の命を断とうとしたのだった。 ただ音楽が私を思いとどまらせた。ああ、私が望むすべての作品を仕上げるまでこの世を去ることを、私にはできないのだと悟った。
それで私は本当に惨めで、ちょっとした変化が私を最良の状態から最悪の状態にしてしまいかねない、あまりにも過敏な体で、この惨めな人生を生き延びている。 – 忍耐 – と呼ばれているもの、それを導きとして選ばなければならなかった。
私は忍耐心を持っている。 願いは、容赦のない運命により、命の糸を断ち切られるまで、私の決意をもち続けられるますように。もしかしたらもっと良くなるかもしれないし、そうではないかもしれない。私の覚悟はできている。すでに二十八歳で悟りきった人になることを余儀なくされたのだ。それは簡単ではありませんでした。これは私にとっては、誰よりも難しいことだった。
天に祈ります我らの主よ、願わくは私の内なる心の奥底まで見させたまえ、私の心を知り給え。主よ、私の愛と徳行する心を知り給え。
おお、人々よ、この遺書を読んだとき、あなたがたは、どんなに不当に私を扱ったかということに思い至るだろう。そして不幸な人々は、自然のあらゆる障害をのり越えて、優れた音楽家や、よき人々の仲間に加わろうとして全力を尽くした一人の人間のいたことを知り、自から慰めることだろう。
――弟のカールと{ 宛名なし }よ、私が死んでシュミット博士がご健在ならば、博士に私の病歴を書いてくだるよう頼んでほしい。そしてこの遺書に付け加えてほしいのだ。そうすれば、少なくとも私の死後、私と世間が和解できるだろう。
同時に、お前たち二人に、私のささやかな財産(そう呼んでいいのなら)の相続人に指名する。公平に分かち合い、仲良く暮らし助け合え。お前たちが私に対し逆らったことは、ずっと前に許している。弟カールよ、近年私にしてくれた優しさに感謝する。私の願いは、お前たちがもっと幸せで、思い煩うことのない人生を送ることだ。子供たちに徳を重んじることを教えよ。お金ではなく、徳を重んじ行うことで幸せになれる。これは私の体験から伝える。私の惨めな生活のなかで、ささえとなったのは徳だった。』
『ich nebst meiner Kunst, daß ich durch keinen selbstmord mein Leben endigte – lebt wohl und liebt euch; – allen Freunden danke ich, besonders fürst Lichnovski und P[r]ofessor schmidt – die Instrumente von fürst L.[ichnowsky][9] wünsche ich, daß sie doch mögen aufbewahrt werden bey einem von euch, doch entstehe deswegen kein Streit unter euch, sobald sie euch aber zu was nüzlicherm dienen können, so verkauft sie nur, wie froh bin ich, wenn ich auch noch unter meinem Grabe euch nüzen kann – so wär’s geschehen – mit freuden eil ich dem Tode entgegen – kömmt er früher als ich Gelegenheit gehabt habe, noch alle meine Kunst-Fähigkeiten zu entfalten, so wird er mir troz meinem Harten Schicksaal doch noch zu frühe kommen, und ich würde ihn wohl später wünschen – doch auch dann bin ich zufrieden, befreyt er mich nicht von einem endlosen Leidenden Zustande? – Komm, wann du willst, ich gehe dir muthig entgegen – lebt wohl und Vergeßt mich nicht ganz im Tode, ich habe es um euch verdient, indem ich in meinem Leben oft an euch gedacht, euch glücklich zu machen, seyd es –
Ludwig van Beethowen
Heiglnstadt am 6ten october 1802』
(編者要訳) 『私が、自殺で自分の人生を終えなかったのは、徳の行いと自分の音楽心のお陰だったということを伝える。
さようなら、そして愛しています。私は友人すべてに感謝します。特にリヒノフスキー侯爵とシュミット教授に。 リヒノウスキー侯爵に戴いた楽器類(註1:)は、お前たちのどちらかが保管されることを願っているが、お前たちの間で争いが起きないようにしてほしい。でも、もっと役に立つことができたら、すぐに売ってもよい、墓の下でなお、お前たちの役に立つなら嬉しい – これでいい。 – 私は喜んで死に立ち向かおう。 – 私の死が私の音楽家としての才能のすべて出し切る前に来るとするならば、過酷な運命にさいなまれ続けている私だが、それはまだ早すぎるだろう。私は死の来るのを遅いことを望んでいる。 – しかし、死が速くても、私は満足だ。死は終わりのない苦しみの状態から私を解放してくれるだろうからだ。 – 死よ好きな時に来るがよい。私は勇気を持って死に立ち向かおう。 –
生前、私はよくお前たちのことを考えた。お前たちを幸せにしようと努力した。私が死んでも忘れさらないでほしい。
– さようなら –
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベン(サイン)
1802年10月6日 ハイリゲンシュタット』
出典:https://de.wikisource.org/wiki/Heiligenst%C3%A4dter_Testament/【Heiligenstädter Testament】
註1:遺書にあるリヒノウスキー侯爵から戴いた楽器類の一つは、イタリアの「クレモナのヴァイオリン製作者ジュゼッペ・グヮルネリ1718年製作」、もう一つは「グヮルネリの師ともいわれるクレモナのニコロ・アマティの1667年製作」、ヴィオラも「ニコロ・アマティの弟子ヴィンチェンゾ・ルゼリの1690年製作」、「チェロはジュゼッペ・グヮルネリの祖父にあたるアンドレア・グヮルネリの製作」だった。ルートヴィヒの印が各楽器のネックのところにおされ、それぞれの裏側にはルートヴィヒの大きなBの文字がしるされている。これらの楽器類は現在、ルートヴィヒの生家であるボンのベートーヴェンハウスに保管されている。
逸話がある。『一階の住人がルートヴィヒの部屋にやって来て、部屋の天井に大きなシミができたと文句を言った。ルートヴィヒの習慣を知っている人には不思議ではない。作曲の仕事の後に手元に汲んでおいた手桶の水を頭からざぶざぶかぶっていたのである。水は川のように床に流れた。ストレスと緊張の息抜きとしてルートヴィヒには欠かせないことであったのである。文句には従おうとしなかった。文句は絶え間がなかったという。(クリス・シュタットレンダーが伝えている)』
10月10日『Heiglnstadt am 10ten oktober 1802 – so nehme ich den Abschied von dir – und zwar traurig – ja dir geliebte Hofnung – die ich mit hieher nahm, wenigstens bis zu einem gewissen Punkte geheilet zu seyn – sie muß mich nun gänzlich verlassen, wie die blätter des Herbstes herabfallen, gewelkt sind, so ist – auch sie für mich dürr geworden, fast wie ich hieher kamm – gehe ich fort – selbst der Hohe Muth – dr mich oeft in den Schönen Sommertägen beseelte – er ist verschwunde fremd – o wann – o Wann o Gottheit – kann ich im Tempel der Natur und der Menschen ihn wider fühlen – Nie? – nein n – laß einmal einen reinen Tag der Freude mir erscheinen – so lange schon ist der wahren Freude inniger widerhall miro Vorsehung –– o es wäre zu hart』
(編者要訳) 『ハイリゲンシュタット – これでお前たちに別れを告げよう -悲しい。 – そう、最愛の希望よ – 少なくともある時点までは治るだろうという望み – 今では秋の紅葉の枯葉のように枯れてしまった。だから – 私がここに来たときとほぼ同じ病状のままで – 私は去るのだ。- 美しい夏の日にしばしば私にインスピレーションを与えた最高の勇気でさえ – 消えてしまった – 美しい夏の日、博士はよく私にインスピレーションを与えてくれた。
ああ、いつ – ああ、主よ – 自然の神殿のなかで再び主を感じることができるのでしょうか。永久にないのでしょうか? – いや、いいえ – 純粋な喜びの日が私に現れますように。長い間、本当の喜びは私にとって知らぬものでした。 – 決して? – いや – ああ、それでは残酷と言うものです。』
「ハイリゲンシュタットの遺書」は二人の弟カールとヨハン・ニコラウスに宛てて書かれた。ヨハン・ニコラウスと記入すべきところは空白になっている。
10月にウィーンに戻る。
この頃はうつ病の状態にあったと言われている。この頃から1808年にかけ発熱と下痢が続き消化の悪いものを食べると悪化した。このような下痢は死ぬまで続き種々の療法や薬剤は効かなかったと記録に残されている。
↓ <遺書を書いた「ハイリゲンシュタット家>
↓ <ハイリゲンシュタットの遺書(コピー1/4)>
↓ 《ピアノ・ソナタ第17番》ニ短調op.31の2「テンペスト」 Piano Sonata No. 17 “Tempest”
アンドラーシュ・シフAndrás Schiff
2008年, 東京Tokyo
作品:《六つのレントラー(管弦楽)》WoO.15、《交響曲第二番》ニ長調op.36、《ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第一番》ト長調、《弦楽四重奏ヘ長調》Hess34(op.14の1の編曲)、《弦楽四重奏のための前奏曲とフーガ》ハ長調、《ヴァイオリン・ソナタ第六番》イ長調op.39の1、《ヴァイオリン・ソナタ第七番》ハ短調op.39の2、《ヴァイオリン・ソナタ第八番》ト長調op.39の3、《ピアノ連弾のための行進曲第一番》ハ長調op.45の1、《ピアノ連弾のための行進曲第一番》ハ長調op.45の2、《ピアノ・ソナタ第16番》ト長調op.31の1、《ピアノ・ソナタ第17番》ニ短調op.31の2「テンペスト」、《ピアノのための創作主題による6つの変奏曲》ヘ長調op.34、《ピアノのための「プロメテウスの創造物」による15の変奏曲とフーガ》変ホ長調、《ピアノのための七つのバガテル》op.33、(1.変ホ長調/2.ハ長調/3.ヘ長調/4.イ長調/5.ハ長調/6.ニ長調/7.変イ長調)、《親愛なる伯爵(合唱曲)》WoO.101、二重唱曲《お前の幸福な日々に》WoO.9、シェーナとアリア《いいえ、心配しないで》WoO.92a、歌曲《ゲレルトによる六つの歌》op.48(1.願い/2.隣人の愛/3.死について/4.自然における神の栄光/5.神の力と摂理/6.懴悔の歌)。二重唱曲《美しい唇、なんという愛Bei Labbri, che amore》op.211(イタリア語)
1803年33歳
年初、シカネーダーはアン デア ウィーン劇場の作曲家としてルートヴィヒを任命した。そして劇場複合施設の一部であるアパートを彼に提供した。家賃が無料だったので、ルートヴィヒは弟のカールを連れて一緒に住ませた。ルートヴィヒは主に訪問者を迎えるためにこのアパートを使用したが、作曲にも忙しくしていた。
2月から3月にかけて、彼はオラトリオ《オリーブ山のキリスト》に取り組み、5月24日までに有名な《クロイツェル・ソナタ》作品2を完成させた。
↓ <ルートヴィヒの肖像画(メーラー画)1803年頃>
<夏、バーデンに>
4月5日ルートヴィヒの指揮により《交響曲第二番》ニ長調作品36、《オリーブ山のキリスト》作品85、作曲家自身の初めてのピアノ演奏で《ピアノ協奏曲第三番》ハ短調作品37がウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で初演された。交響曲はカール・フォン・リヒノフスキー侯爵に捧げられた。
5月24日《クロイツェル・ソナタ》をブリッジタワーGeiger George F. Bridgetowerが初演する。
6月‐10月《交響曲第三番》作曲に入る
8月6日パリのピアノ職人セバスチャン・エラールから新しいグランドピアノを受け取った。夏、バーデン、オーバー・デブリンクに転地。
ウイーン劇場作曲家として契約(1803‐1804年)。
11月3日ジュリエッタ・グイチャルディ伯爵はヴェンゼル・ロベルト・フォン・ガレンベルクWenzel Robert von Gallenbergと結婚。彼女はルートヴィヒの弟子。夫妻は1805年にナポリ王国へ移り住む。
ジュリエッタ・グィッチャルディはロベルト・フォン・ガレンベルク伯爵と結婚した。
↓ 《ピアノ協奏曲第三番》ハ短調op.37 Piano Concerto No 3
ファジル・サイ(ピアノ)/指揮:ジャナンドレア・ノセダFazıl Say ∙ Gianandrea Noseda/ hr Sinfonieorchester
《ヴァイオリン・ソナタ第九番》イ長調op.47「クロイツェル・ソナタ」2‐3楽章
コンラート・グラーフ(ピアノ)
ステファニア・ネオナト(フォルテピアノ)/クリスティーネ・ブッシュ(ヴァイオリン)
Im Museum “Fruchtkasten”, Stuttgart
作品:《ピアノ協奏曲第三番》ハ短調op.37、《ピアノ三重奏曲第11番》ト長調op.121a、《ヴァイオリン・ソナタ第九番》イ長調op.47「クロイツェル」、《三重奏曲》変ホ長調op.38、《セレナーデ》ニ長調op.41、《ピアノ連弾のための行進曲第一番》ハ長調op.45の3、《ピアノのための英国国歌による7つの変奏曲》ハ長調WoO.78《ピアノのための「ルール・ブリタニア」による5つの変奏曲》ニ長調WoO79、歌曲《友情の喜び》op.88、歌曲《うずらの鳴き声》WoO.129
その他:12月11日エクトル・ベルリオーズ、フランスの作曲家生れる
1804年34歳
《交響曲第三番》「英雄」
1月にカール・グラーフ・フォン・ダイムが亡くなると、ジョゼフィーヌは再び自由の身となり、ルートヴィヒは再度プロポーズをしたが、何年にもわたるやり取りの末、四人の子供がいる彼女の社会的地位をはるかに下回るルートヴィヒとの結婚は、彼女の経済的基盤を失うことを意味していた。ジョゼフィーヌは彼を断り、1810年にフォン・シュタッケルベルク伯爵と結婚する。
年初からオペラ《レオノーレ》の制作に着手した。
4月ブラウン男爵がアンデイアウィーン劇場を購入すると、ルートヴィヒは契約を解除され、再び別の生活環境を探すことを余儀なくされた。
同月ベートーヴェンは別のアカデミーコンサートを企画し、《ピアノ協奏曲第三番》作品37、オラトリオ《オリーブ山のキリスト》作品85、《交響曲第ニ番》作品36を初演した。《交響曲第三番》はまだ完成していず、仮題は「ナポレオン・ボナパルトの大交響曲」であった。
4月18日にナポレオンが自らフランス皇帝を宣言したとき、革命に失望したルートヴィヒは癇癪を起こし、献呈に取り消し線を引いた。以後第三番を《エロイカ交響曲》変ホ長調作品55を完成させ名付けた。
6月9日《エロイカ交響曲》変ホ長調作品55の初演は、ウィーン宮殿のプライベートな環境でFranz Joseph Maximilian von Lobkowitz(フランツ・ヨーゼフ・マクシミリアン・フォン・ロプコヴィッツ伯爵)が数か月間独占的に上演権を取得して行われた
この頃、ブルンスヴィック家の二女ヨゼフィーネ(1799年伯爵ヨーゼフ・ダイムと結婚したが1804年夫と死別して未亡人となった。1808年二人の子どもと姉テレーゼと共にハンガリーに去った。)とは親しく交際していたと伝わる。
この年から1807年にかけてのルートヴィヒからヨゼフィーネに宛てた手紙十三通が1949年にチューリヒのルートヴィヒの自筆譜その他遺品蒐集家ハンス・コンラート・ボドマー博士(Hans Conrad Bodmer)の手に入り、現在はボンのベートーヴェンハウスに保管されている。
画家メラー、ルートヴィヒの等身大の油彩肖像画を仕上げた。
ウィーン市内のパスカラーティハウスに引っ越す(1808年まで)
12月ロブコヴィッツ邸で《交響曲第三番》を試演する。
↓ 《交響曲第三番》「英雄」作品55
朝比奈隆=大阪フィル
1983/6/16 神戸文化ホール
作品:《交響曲第三番》「英雄」作品55、《ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲》、ハ長調、《セレナーデ》ニ長調op.42)、ピアノ連弾のための歌曲《「君を思いて」と6つの変奏曲》WoO.74、《ピアノ・ソナタ第18番》変ホ長調op.31の3、《ピアノ・ソナタ第21番》ハ長調op.53「ヴァルトシュタイン」、《ピアノ・ソナタ第22番》ヘ長調op.54、《ピアノのためのアレグレット(バガテル)》ハ長調WoO.56、《ピアノのためのアンダンテ・ファヴォリ》ヘ長調WoO.57、オラトリオ《橄欖山上のキリスト》op.85、歌曲《私を思い出して》WoO.130、歌曲《希望に寄す》op.32
その他:➀3月14日ヨハン・シュトラウス(父)、オーストリアの作曲家生れる
➁6月1日ミハイル・イワノヴィチ・グリンカ、ロシアの作曲家生れる
1805年35歳
4月7日《交響曲第三番》変ホ長調作品55「エロイカ」が、ルートヴィヒの指揮のもと、ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で初演された。この作品はフランツ・ヨーゼフ・フォン・ロブコヴィッツ侯爵に捧げられており、彼の最初の個人的な演奏会は1804年の夏に行われたと思われる。ナポレオン・ボナパルトへの最初の献呈文は、ベートーヴェンがナポレオンの戴冠式を知ったときに取り消された。
ベートーヴェンと弟カスパール・カールは、ウィーンのアパートでしばらく一緒に暮らしていた。 カスパール・カールはヨハンナ・リースと恋に落ち、12月にリースの妊娠がわかる。
ウィーンではフランス軍が初めて市内を占領し、貴族たちは市を離れる。
11月20,21,22日ジャン=ニコラ・ブイイの台本『レオノーレ、夫婦愛』をヨーゼフ・フォン・ゾンライトナーの台本に合わせた三幕のオペラ《フィデリオ》作品72は、《レオノーレ》「レオノーレ、勝利の勝利」(序曲「レオノーレ第2 番」付き)というタイトルでウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で、ルートヴィヒの指揮で初演されたが内容を理解する聴衆が来られず、ウィーンはナポレオン軍に占領され、観客のほとんどが革命に精通したフランス軍人だったため、フランス兵も理解できず、オペラは三回の公演で中止となった。主役はアンナ・ミルダー。
この作品は、台本作家シュテファン・フォン・ブルーニングとベートーヴェンによって初めて改訂され1806年3月29日にアン・デア・ウィーン劇場で二幕版で上演された(序曲「レオノーレ第 3番」付き)。
ゲオルク・フリードリヒ・トライシュケによって改訂された決定版は、1814年5月23日にウィーンのケルントナートル劇場で初演された (序曲「フィデリオ」付き)。
ルートヴィヒが《フィデリオ》の作曲作業を始めたとき、ルートヴィヒはいくつかの不幸な恋愛を経験していた。1799年5月にウィーンで彼はジョゼフィーヌ・フォン・ブランズウィックと恋に落ち、数週間後(1799年7月29日)、ジョゼフィーヌは貧しい音楽家のルートヴィヒではなく、経済的により強いカール・フォン・ダイム伯爵と結婚した。ジョセフィーヌには1800年から1804年の間に四人の子供がいが、彼女の社会的地位をはるかに下回るルートヴィヒと結婚すれば、彼女は親権を剥奪され、ディームスからの経済的援助も失われることを意味していた。それは1812年7月6日、ルートヴィヒとのことでカールスバートでアントニア・フォン・ブレンターノもこの日に記録されている。アントニアとベッティーナ・フォン・アルニム(本名B.フォン・ブルターノ)も1812年7月初めにJ・W・フォン・ゲーテと出会い、それが二人の巨人の有名な出会いであった。ベッティーナは後に冗談を言った「一人はもう話したくない、そしてもう一人もそれを聞くことができませんでした!」。1800年から1801年にかけて、ジュリエッタ・グイッチャルディとの不幸な恋愛があったが、彼の父親も経済的理由(貧しい貴族)でルートヴィヒを拒否し、家庭の事情で代わりにガレンブルク伯爵と結婚した。ルートヴィヒも1805年からヨハンナ・リースと恋仲だったが、末弟のカスパールは1806年5月25日に彼女と結婚したが、ルートヴィヒは決して許さなかった。1806年9月4日に生まれたカール・ヴァン・ベートーベンが結局ルートヴィヒの息子ではなかったのかどうかは今日に至るまで定かではない。1804年1月にカール・グラーフ・フォン・ダイムが亡くなると、ジョゼフィーヌは再び自由の身となり、ルートヴィヒは再度プロポーズをしたが、何年にもわたるやり取りの末、ジョゼフィーヌは彼を断り、1810年にフォン・シュタッケルベルク伯爵と結婚した。
12月ルートヴィヒとその友人、オペラ出演の歌手たちがメルケルバスタイのリヒノウスキー侯爵邸に集まってリヒノウスキー侯爵夫妻を中心に《フィデリオ》の改訂を論議した。
《レオノーレ》序曲第2番作品72aは、ルートヴィヒがオペラ《フィデリオ》(レオノーレ)のために作曲した序曲の一つである。《フィデリオ》初演ののち、ルートヴィヒは友人の勧めに従ってこのオペラを改訂することを決める。シュテファン・フォン・ブロイニングの協力を得て、「レオノーレ」を二幕のオペラへと改作し、さらに序曲も新しいものへ差し替えた。改訂は1805年暮れ頃から年明けにかけて行われ、1806年の3月29日にリッター・イグナーツ・ザイフリートの指揮により初演、4月10日に再演され、いずれも成功を収めた。しかし、ベートーヴェンとブラウン男爵との間の金銭トラブルから、それ以上は公演されなかった。このときの公演でも、ルートヴィヒのタイトル案『レオノーレ』は受け入れられなかった。
作品:《レオノーレ序曲第2番》op.72a、《ピアノ・ソナタ第23番》ヘ短調op.57「熱情」、《ピアノのための前奏曲》ヘ短調WoO.55、《ピアノのためのメヌエット》変ホ長調WoO.82、歌曲《希望に寄す》作品32、《ピアノ・ソナタ》作品57
1806年36歳
《ヴァイオリン協奏曲》ニ長調
《レオノーレ序曲第3番》 作品72bを作曲。オペラ《レオノーレ》(《フィデリオ》)の改訂上演(いわゆる第2稿)のために、その序曲として《レオノーレ序曲第2番》を改作するために作曲した。
3月29日《フィデリオ》(オペラ《レオノーレ》の改訂版)がアン デア ウィーン劇場で初演され、かなりの成功を収めたが、すぐに忘れ去られた。オペラ 《レオノレンLeonoren》はほぼ10年後の1814年5月23日にウィーンのケルントナートール劇場で上演された。 この演奏は革命的な考えをほとんど消し去り、夫婦の貞操よりも人間性の方が重要な問題であり、内容がより理解しやすくなったため、演奏は大成功となり、ルートヴィヒにとって経済的にも豊かになった。 今日、通常の《フィデリオ》作品はこのバージョンである。
↓ 《Leonoren-Ouvertüre №3 》
Günter Wand, Dirigent
NDR Sinfonieorchester
Schleswig-Holstein Musik Festival, Lübeck 1990
3月29日改訂されたオペラ《レオノーレ》アン デア ウィーン劇場でリッター・イグナーツ・ザイフリートの指揮により初演され、4月10日に再演され、いずれも成功を収めた。 序曲(今日では《レオノーレ第3番》「序曲」が演奏される。しかし、ルートヴィヒとブラウン男爵との間の金銭トラブルから、それ以上は公演されず、すぐに忘れ去られた。このときの公演でも、ルートヴィヒのタイトル案《レオノーレ』は受け入れられなかった。
5月ハンガリー・マルトンヴァンシャールにあるブルンスヴィック家の館でテレーゼと婚約。
9月弟ニコラウスにカールが生まれる。
10月リヒノウスキー侯爵と不和
ウィーンのロシア大使アンドレアス・ラズモフスキー伯爵からの依頼を受けて《弦楽四重奏曲第7番、第8番、第9番》「ラズモフスキー第1-3番」作曲
12月23日《ヴァイオリン協奏曲》ニ長調 op. 6161が、ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で初演さたが失敗。ソリストは、ルートヴィヒにこの曲を委嘱したコンサートマスターのフランツ=ヨーゼフ・クレメントであった。この曲はすぐに忘れ去られたが、1844年にメンデルスゾーンがロンドン・フィルハーモニーを指揮し、12歳の天才ヴァイオリンのヨーゼフ・ヨアヒムをソリストとして復活させた。
↓ 《レオノーレ序曲第3番》作品72b
カール・ベームKarl Böhm
ウィーンフィルハーモニー管弦楽団Wiener Philharmoniker
1977年3月2日 NHKホール2. Mar. 1977 NHK Hall, Tokyo
↓ 《ヴァイオリン協奏曲ニ長調》作品61
ベルリン・フィルBerliner Philharmoniker
小澤征爾Seiji Ozawa
アンネ=ゾフィー・ムターAnne-Sophie Mutter (violin)
カラヤン追悼コンサートKarajan Memorial Concert
2008, Wiener Musikverein
↓ Wiener Musikverein
作品:《交響曲第四番》作品60、《ピアノ協奏曲第四番》作品58、《ヴァイオリン協奏曲ニ長調》作品61、《弦楽四重奏曲第7番》ヘ長調作品59「ラズモフスキー」、《弦楽四重奏曲第8番》ホ短調、《弦楽四重奏曲第9番》ハ長調、《レオノーレ第三番》作品72a
1807年37歳
2月《ピアノソナタ第23番》ヘ短調op.23「熱情」はウィーンの美術工芸社から出版され、フランツ・フォン・ブルンスヴィック伯爵に献呈された。なお、「熱情」という副題は1838年にハンブルクの出版商クランツがピアノ連弾用の編曲版の出版に際してつけたもので、これが通称となり今日までそのまま通用している。引用:『ウィキペディア(Wikipedia)ピアノソナタ第23番ヘ短調 作品57』
3月《交響曲第四番》初演。《ピアノ協奏曲第四番》初演後好評を博したが、1836年フェリックス・メンデルスゾーンによって復活するまで、知られざる存在となっていたという。
アン・デァ・ウィーン劇場付き作曲家の契約ならず。
ルドルフ大公はキンスキー王子(1781-1812年)とロブコヴィッツ王子(1772-1816年)とともに、1807年からルートヴィヒに年金契約を結び、永久的な経済的援助を保証した。年金契約の草案には、「すべての真の芸術家の目的と目標は、大規模な作品の開発に完全に専念でき、他の義務や経済的考慮によって妨げられない地位を獲得することでなければならない」と述べられていた。この分野でも、音楽の創造性に新たな意味が与えられたが、その一方で、ルートヴィヒがウィーンを離れて他の場所で有利な立場に就くことができなくなった。https://www.dhm.de/Deutsches Historisches Museum
9月10日から16日までアイゼンシュタットに滞在。
ルートヴィヒはニコラウス二世エステルハージ侯爵から妻のためにミサ曲を書くよう誘われました。ルートヴィヒはこれに同意し、ハ長調のミサ曲を制作した。
9月13日にアイゼンシュタットのベルク教会で行われた《ハ長調ミサ》の初演で失敗。エステルハージ宮廷楽長ヨハン・ネポムク・フンメルは当時、ハイドンの後継者としてエステルハージ宮廷の楽長に任命されていた。演奏はうまくいかず、その後侯爵はルートヴィヒに対して辛辣な発言をしたと言われている。シンドラーによれば、フンメルは侯爵の言葉を笑い、常に敏感なルートヴィヒの屈辱と迫害の感情をさらに悪化させたという。ルートヴィヒはすぐにアイゼンシュタットを去り、その後何年も恨みを持ち続けた。しかし、この事件が二人の最終的な不仲を引き起こした可能性は低い。ルートヴィヒの死の床で二人の間に驚くべき和解が起こるまでルートヴィヒに再び会うことはなかった。ルートヴィヒの重病を聞いたフンメルは、かつての友人を訪ねるためにワイマールからウィーンへ旅行した。フンメルの当時の生徒、フェルディナンド・ヒラーが師に付き添って残した記述によると、フンメルの動機は同情以上のものだったのかもしれない。
11月15日《交響曲第四番》変ロ長調作品60がウィーンのホーフ劇場でルートヴィヒの指揮により初演された。後援者であるフランツ・フォン・オッペルスドルフ伯爵に捧げられている。最初の個人演奏は1807年3月、ウィーンのロブコヴィッツ宮殿で、《ピアノ協奏曲第4番》ト長調作品58の演奏と同時に行われた。
作品:《コリオラン序曲》作品62、《ミサ》作品86、《レオノーレ第一番》作品138、《ピアノ協奏曲第四番ト長調》op.68、
参考:CEFIDOM / フランス百科事典
1808年38歳
《交響曲第五番》「運命」/《交響曲第六番》「田園」/《合唱幻想曲》
3月ハイドン76回誕生祝賀に出席。
ルドルフ大公に音楽理論を教え始める。
春から夏にかけ《交響曲第六番》作曲にかる
秋からエルデーディー伯爵夫人の家に滞在
ヨハン・マルファッティ・フォン・モンテレッジが主治医となる。
ナポレオン・ボナパルト(註1.)の三番目の弟ウェストファリア王ジェローム・ボナパルトからカッセル宮廷楽長就任の交渉を受ける。
12月22日《交響曲第五番》ハ短調作品67が、ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場でルートヴィヒ指揮のもと初演された。
ロブコヴィッツ侯爵とアンドレアス・ラズモフスキー伯爵に捧げられた。このコンサートにおいて《交響曲第六番》ヘ長調作品68、《ピアノ協奏曲第四番》ト長調op.58、《合唱幻想曲》ハ短調 op. 80も演奏された
《ハ長調ミサ曲》はアン・デア・ウィーン劇場で初めてコンサートで演奏されたが、ここでもほとんど拍手は得られなかった。
作品:《交響曲第五番ハ短調》、《交響曲第六番ヘ長調》、合唱幻想曲ハ短調》op.80、《チェロ・ソナタ》作品69、《ピアノ三重奏曲》作品70、《合唱幻想曲》作品80
註1.『ジェローム・ボナパルトは、ナポレオン・ボナパルトの弟。コルシカ島で生まれ、他の家族と違い金銭的に恵まれた環境で育つ。ナポレオンにかわいがられ、薦められて海軍に入隊し、マルティニーク島の海戦に遭遇する。イギリスに追われ、独立後間もないアメリカ合衆国に逃亡してそこで歓迎される。同地で富豪の令嬢エリザベス・パターソンと恋におち、周囲の反対にもかかわらず1803年に結婚し、2人の子供をもうけた。1804年にナポレオンは皇帝に即位し、ジェローム夫妻は謁見のためにフランスに赴くが、エリザベスは上陸を許されなかった。1人でパリに着いたジェロームは離婚を強要され、やむなく同意した。エリザベスは失意のまま帰国した。その後、ヴュルテンベルク王フリードリヒ1世の娘カタリーナと政略結婚し、1808年6月6日、ティルジットの和約によってナポレオンが作ったヴェストファーレン王国の国王に即位した。その治世は、近代的な制度を取り入れたものの、フランス軍の兵站基地として国民に多大な負担をかけた。1812年のロシア遠征が始まると自国の軍勢7万を率いて参戦したが、途中でナポレオンと対立、勝手に戦線離脱をしてしまう。1813年のライプツィヒの戦いで敗北し、王国は消滅したが、逃亡して養父に匿われた。1815年の百日天下ではワーテルローの戦いに参戦している。ナポレオンの死後は安定した生活を送り、フランス第二帝政が成立すると政治に介入した。』参考:wikipedia
1809年39歳
ウェストファリア王ジェローム・ボナパルトのカッセル宮廷楽長を断るためルドルフ大公、ロブコヴィッツ侯爵、キンスキー侯爵等が年金を与える契約を結ぶ。
4月9日フランスに対して宣戦布告。
4月9日にナポレオン率いるフランス軍と戦闘状態に陥った。
5月4日神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世の弟にあたり皇族の身分であったルートヴィヒのパトロン、弟子であり友人でもあったルドルフ大公はウィーン脱出することになる。ルートヴィヒはピアノソナタの第1楽章の草稿に「Das Lebewohl(告別)」と記すとともに「1809年5月4日、ウィーンにて、敬愛するルドルフ大公殿下の出発に際して。」と書き入れた。
5月10日フランス軍がウィーンを包囲
5月11~12日フランスがウィーンを占領
5月12日までにナポレオンの軍勢はウィーンへと侵攻していた。
10月14日オーストリアの降伏によりに終戦、フランス軍が撤退した後の1810年1月30日にルドルフ大公はウィーンへと戻った。第2楽章の「Die Abwesenheit(不在)」はこの期間のことを示しており、さらに第3楽章には「Das Wiedersehen(再会)」、「敬愛するルドルフ大公殿下帰還、1810年1月30日」と書き込まれている。
永くルートヴィヒを支援し続けたワルトシュタインは、イギリス駐在の官吏となりイギリスの駐オーストリア軍司令部の官吏としてウィーンに住んでいたが、次第に没落していき、仲間から姿を消していった。ルートヴィヒの《ピアノ・ソナタ》「ワルトシュタイン」作品53は若い日の好意に報いるために捧げたものであった。
《ピアノ・ソナタ第24番》嬰ヘ長調作品78をハンガリーの伯爵令嬢テレーゼ・ブルンスヴィックに献呈
↓ 《4つのアリエッタと1つの二重唱曲》
ソプラノ:チェチーリア・バルトリ(第1~4曲)/パメラ・コバーン(第5曲)
テノール:ヘルマン・プライ(第5曲)
ピアノ:アンドラーシュ・シフ(第1~4曲)/レナード・ホカンソン(第5曲)
0:00 第1曲 「言っておくれ、愛しいひと」Hoffnung (イ長調)
2:11 第2曲 「お前のことはよくわかる」Liebes-Klage (ニ長調)
5:36 第3曲 「待ち焦がれる恋人」L’amante impaziente Arietta buffa (変ホ長調)
7:11 第4曲 「恋の苛立ち」L’amante impaziente (変ロ長調)
9:18 第5曲 「聞いてちょうだい、梢のざわめき」Lebens-Genuss (ホ長調)
↓ 《 ピアノソナタ第24番》Op.78「テレーゼ」 第1楽章
ヴィルヘルム・バックハウス
1952年録音
作品:《ピアノ協奏曲第五番》作品73「皇帝」、《弦楽四重奏曲》作品74、《ピアノ・ソナタ第24番》嬰ヘ長調作品78、《ピアノ・ソナタ第25番》ト長調「カッコウ」作品79
その他:➀6月15日ヨーゼフ・ハイドンのウィーンのショッテン教会で行われた葬儀では、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのレクイエムなどが演奏された。
➁2月3日フェリックス・メンデルスゾーン、ドイツの作曲家生れる
1810年40歳
テレーゼ・ブルンスヴィックとの婚約解消なる。
4月27日ルートヴィヒ、テレーズ・マルファッティに「エリーゼへの手紙」を贈呈
5月2日コブレンツに住む旧友ヴェーゲラーに手紙を書き送った。
5月ベッティーナ・ブレンターノに会う。
5月24日ゲーテの悲劇《エグモント》作品84の音楽がウィーンのブルク劇場で初演された。
難聴がますます悪化
引越し、パスカラティハウスに住む(1814年まで)
↓ <ベートーヴェンの思想断片より>青空文庫ファイル/インターネット図書館から引用
ベッティーナ宛てへの手紙から『音楽は人々の精神から炎を打ち出さなければならない』『音楽は、一切の智慧・一切の哲学よりもさらに高い啓示である。・・・私の音楽の意味をつかみ得た人は、他の人々がひきずっているあらゆる悲惨から脱却するに違いない。』
↓ 《ピアノソナタ第26番》変ホ長調作品81a「告別」
ボリス・ギルトブルグ(ピアノ)
2021年 フライ・オン・ザ・ウォール、ロンドン
作品:《ピアノソナタ第26番》変ホ長調作品81a「告別」、《エグモント》序曲作品84、《弦楽四重奏曲第11番》ヘ短調作品95「セリオーソ」作品95
その他:➀2月22日または3月1日フレデリック・ショパン、ポーランドに生れる
➁6月8日ロベルト・シューマン、ドイツのロマン派作曲家生れる
1811年41歳
春、ルートヴィヒは頭痛と高熱で重病になった。主治医のヨハン・マルファッティは、ボヘミアのテプリッツ(現在のチェコ共和国のテプリツェ)の温泉で療養するよう勧め、そこで彼はさらに二つの序曲と劇付随音楽 (今度はアウグスト・フォン・コッツェビュー作、シュテファン王作品 117 とアテネの廃墟作品113) を書いた。
《ピアノ協奏曲第5番変ホ長調》作品73「皇帝」の初演ルートヴィヒの後援者、友人、弟子であるルドルフ大公に捧げられた。
9月18日《ハ長調ミサ曲》が確実に成功したのは、リヒノフスキー公爵家によるグラーツ/トロッパウでの公演だけだった。続いて数回の《ハ長調ミサ曲》公演が行われ、好評を博した。
10月ルートヴィヒ、交響曲第7番を書き始める。
作品:《弦楽四重奏曲第11番》初版完成、《ピアノ三重奏曲》作品97、《アテネの遺跡》(祭典音楽)作品113、完成/初演1812年
その他:10月22日フランツ・リスト、ハンガリーのピアニスト・作曲家生れる
1812年42歳
《交響曲第七番》《交響曲第八番》
ルートヴィヒは、再びテプリッツを訪れるよう勧められ、そこでゲーテと会った。ゲーテは次のように書いている。『彼の才能には驚かされた。残念ながら彼はまったく野性的な性格で、世界を忌まわしいものと考えるのがまったく間違っているわけではないが、彼の態度によって世界をより楽しいものにすることは決してない…』ルートヴィヒは出版社のブライトコップフ・アンド・ヘルテルに次のように書いている。『ゲーテは宮廷の雰囲気をあまりにも楽しんでいるが、それは詩人にふさわしくないほどである』。しかし、彼らが出会った後、彼はゲーテの『穏やかな海と幸せな航海』作品112の合唱と管弦楽のための曲作りを始め、1815年に完成させた。1822年にこの曲がゲーテに献呈されて出版された後、ルートヴィヒはゲーテにこう書いている。『私が若い頃に抱いていた、唯一無二の不滅のゲーテへの憧れ、愛、尊敬は今も続いている。』
3月2日アントニー・ブレンターノに「愛する人へ」を贈呈
5月《交響曲第七番》を執筆
7月健康を害しボヘミアのテブリッツ、カルルスパード、フランツェンブルンで湯治。ルートヴィヒの生活状況は著しく悪化し始めた。不幸な恋に加えて、彼は物質的な心配と聴覚障害の悪化に悩まされていた。
テブリッツでソプラノ歌手アマリエ・ゼーパルドAmalie Sebald,に会い恋に落ちる。
7月6-7日不滅の恋人(Unsterbliche Geliebte)をルートヴィヒがテプリッツェでしたためた謎めいた手紙の宛名である(アマリエ・ゼーパルドはこの時期カルルスバードにいない)。全体で小さな便箋に鉛筆書きで10枚からなる肉筆。ルートヴィヒの死後、持ち物の中から発見され、アントン・シンドラーが手元に置いていた。シンドラーの遺言により彼の姉妹の手に渡り、その人物が1880年にベルリン州立図書館へ売却して今日に至る。
当地でゲーテに会う。
ボヘミアの貴族ロブコヴィッツ侯爵が破産し年金とまる(1809年皇帝レオポルド二世の末子後に大僧正ルドルフ大公とウィ-ンの貴族キンスキー侯爵とともにルートヴィヒに年金を与えることにしていた)。
彫刻家クラインが胸像を作る。
メルツェルと知り合う。
テレーゼ・ブルンスヴィックから油彩肖像画を贈られる。
10月末、ルートヴィヒは弟ニコラウスを訪ねた。彼はニコラウスと、すでに私生児がいる女性テレーゼ・オーバーマイヤーとの同棲を終わらせたいと思っていた。彼はニコラウスに関係を終わらせるよう説得することができず、地元の市当局や宗教当局に訴えたが、ニコラウスとテレーゼは11月8日に結婚した。
↓ 写真「テレーゼ」
↓ 「不滅の恋人への手紙Unsterbliche Geliebte」コピー
『7月6日の朝、私の天使、私のすべて、私の私( „Mein Engel, mein alles, mein Ich.“)。今日は鉛筆で(あなたのものと一緒に)一言だけ。私のアパートは明日まで分からない、室での何の価値もない時間の無駄だ。なぜ、必然性が語られるこの深い悲しみなのか。私たちの愛が、犠牲以外の方法で、すべてを求めないことで存在できるのなら、あなたは完全に私のものではなく、私も完全にあなたのものではないように、それを変えることができます。ああ神様、美しい自然を見て、自分が何をしなければならないか心を落ち着かせてください。愛はすべてを要求し、当然のことながら、それはあなたとともにあり、あなたも私とともにあります。私が私とあなたのために生きなければならないことを、あなただけが簡単に忘れてしまいます。もし私たちが完全に結ばれていれば、私と同じようにあなたもこれほど苦痛を感じないでしょう。私の旅はひどいものでした。昨日の午前四時にここに着いたばかりです。馬が不足していたため、馬車は別のルートを選択しました。しかし、なんとひどい旅だったのでしょうか。最後からニ番目の駅で夜間に移動しないように警告されました。私は森を恐れていましたが、それは私をイライラさせるだけでした、そして私は間違っていました、馬車はひどい道、理由のない単なる田舎道で故障してしまいました。二人の郵便馭者がいなければ、私は途中で立ち往生したでしょう。 エステルハージは、もう一つの道で、私が四頭の馬を連れていたのと同じ運命を、八頭の馬で負いました。しかし、何かを楽しく乗り越えたときはいつものことですが、また楽しかったです。さあ、もうすぐ会えるでしょう。今でも、この数日間の自分の人生についての発言を話すことはできません。もし私たちの心がいつも近くにあったなら、私は何も言わないでしょう。
あなたにたくさん話したいと胸がいっぱいです。ああ、言語がまったく意味のないものだと気づく瞬間があります。元気を出してください。私があなたにしたように、私の唯一の宝物、私のすべてを忠実であり続けてください。残りのものは神々によって遣わされるに違いありません。それは私たちのためにあるべきであり、そうあるべきです。あなたの忠実なルートヴィヒより。』(編者要訳)
『7月6日月曜日の夕方。あなたは私の最愛の人を苦しめます( „Du leidest du mein theuerstes Wesen“)。今、手紙は早朝に投函しなければならないことに気づきました。ここからここからK(カルルスバード)に郵便が届くのは月曜日から木曜日だけです。あなたは苦しんでいます。ああ、私がいるところ、あなたも私と一緒にいます。私とあなたと一緒に、あなたと一緒に暮らすことができるように話します。なんという人生!!!!。それで!!!!あなたなしで。あちこちの人々の善良さに取り憑かれています。つまり、彼らに値するだけのお金を稼ぎたいということです。人間に対する人間の謙虚さ、それは私にとって苦痛です。そして宇宙という文脈で自分自身を見つめると、私とは何なのか、そして最も偉大と呼ばれるそれとは何なのか。しかしここでもまた人間の神聖なものです。 私からの最初のメッセージはおそらく土曜日にしか受け取らないと思うと泣けてきます。どんなにあなたが私を愛していても、もっと愛しています。決して私から身を隠さないでください。おやすみ、入浴者して寝なければなりません。ああ、なんてことだ、とても近い!ここのところ!。私たちの愛は、それは私たちの愛の真の天の建造物ではありませんが、天国の要塞のように堅固でもあります。』(編者要訳)
『おはよう7月7日。私の不滅の恋人よ、ベッドの中でも思いはあなたのことばかり(„schon im Bette drängen sich die Ideen zu dir meine Unsterbliche Geliebte,“)。あちこちで喜び、そしてまた悲しみ、運命が私たちの声を聞くのを待っています。私はあなたと完全に一緒に暮らすことも、完全に一緒に暮らすこともできません。はい、あなたの腕の中に飛んでいけるまで、遠くをさまようことにしました。そして、あなたと一緒に自分を家と呼ぶことができ、あなたに囲まれた私の魂を精霊の領域に送ることができます。はい、残念ながら、そうに違いありません。あなたは私の忠誠心を知っているので、ますます気を引き締めるでしょう、他の誰も私の心を所有することはできません、決して、決して。ああ、神様、どうして人が愛するものはこんなに遠く離れたところにあるのに、V.での私の人生は今と同じくらい惨めなのです
あなたの愛は私を最も幸せにすると同時に、最も不幸にもします。私の年齢では、生活にある程度の均一性が必要です。私たちの状況でそれはあり得ますか?。天使、手紙が毎日届くことを今知りました。したがって、あなたがすぐに手紙を受け取ることができるように、私はやめなければなりません。(泣きながら)。冷静になりなさい、私たちの存在を冷静に熟考することによってのみ、私たちは一緒に生きるという目的を達成することができます。落ち着いて、愛してください、今日、昨日。涙を流しながら恋しいあなた。あなた – あなた – 私の人生 – 私のすべて。さようなら、愛してください、あなたの愛するルードヴィヒの本心を決して見誤らないようにしてください(„leb wohl – o liebe mich fort – verken[ne] nie das treuste Herz deines Geliebten L.“)。永遠にあなたのもの、永遠に私のもの、永遠に私たちのもの。』(編者要訳)
ゲーテと会見する
作品:《交響曲第七番》イ長調op.92(初演は1813年)、《交響曲第八番》ヘ長調op.93、《ピアノ三重奏曲第8番》変ロ長調WoO.39(ウィーン、6月26日作曲)、《ヴァイオリン・ソナタ第10番》ト長調op.96、 4本のトロンボーン《三つのエクヴァーレ―》、カノン《タ・タ・タ・・・親愛なるメルツェルよ、ご機嫌よう》WoO.162、《シュテファン王》作品117(祝祭音楽)、《アテネの遺跡》作品113 (1811年完成、1812年2月9日にスティーブン王とともに初演)
1813年43歳
年初頭、ルートヴィヒは明らかに感情的に困難な時期を経験し、作曲の成果は減少した。彼の外見は、普段はきちんとしていたが、食事のときなど人前でのマナーが悪くなった。家族の問題がこれに関係していたのかもしれない。
弟カスパルが結核で病気になり、やがて亡くなることがますます懸念されるようになった。カスパルはしばらく前から病気を患っており、ルートヴィヒはカスパーに1500フローリンを貸したが、返済のために最終的に複雑な法的手段に訴えることになっていった。
ルートヴィヒの難聴は悪化の一途をたどった。ヨハン・ネポムク・メルツェル(Johann Nepomuk MaelzelまたはMälzel)(メトロノームの発明者)がルートヴィヒの大きくなってゆくトランペット補聴器を作った。
12月8日《交響曲第七番》イ長調ウィーン大学講堂で初演。チャリティーコンサートでルートヴィヒが指揮した。テプリッツ滞在中に作曲され、音楽の後援者であるモーリッツ・フォン・フリース(Moritz von Fries)伯爵に捧げられたこの曲の初演は大成功を収め、ルートヴィヒ自身もこの曲に非常に満足した。同じ演奏会で初演された『ウェリントンの勝利』の方が聴衆の受けはよかったとされるが、それでも初演は成功であり、第2楽章はアンコールを求められた。
※のちに『ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに関する覚書』を執筆したフェルディナント・リース(Ferdinand Ries, )はこの年イギリスに渡った。リースの父はボン選帝侯マクシミリアン・フランツの宮廷楽長であった。1801年ウィーンに出てルートヴィヒからピアノの教えを受けた。リースのロンドンでの音楽活動の基盤を作ったのは、ボン出身で父の師であるヨハン・ペーター・ザロモン(Johann Peter Salomon,)であった。リースは11年間の滞在のなかで、ルートヴィヒと親しかった元ボン在住のヨハン・ペーター・ザロモンと二人で、ロンドンでのルートヴィヒ作品に非常に熱心に紹介に努めた。ザロモンは1780年代初頭にロンドンへ移住し、作曲家として活動すると共に、弦楽四重奏団でヴァイオリンを弾いた。1781年3月23日にコヴェント・ガーデンでロンドンにデビューした。1790年にエステルハージ家の楽団が解散し、楽長のフランツ・ヨーゼフ・ハイドンはウィーンに移った。ザロモンはこの機会を逃さず、自らの演奏会のためにハイドンをロンドンへと招いた。ハイドンは1791年から1792年にかけてと1794年から1795年にかけてロンドンを訪れ、ザロモンのコンサートで上演するために第93番から第104番までの12曲の交響曲「ロンドン・セット(ザロモン・セットとも)」を作曲した。ザロモンはロンドンで落馬事故のため死去し、ウェストミンスター寺院の回廊に葬られた。ボン時代からザロモンと親しかったルートヴィヒはザロモンの死を悲しみ、『私が子どものころから知っている人のうちで最も偉大な心の持ち主だった』と述べている。
この二人の紹介により、ルートヴィヒはイギリス諸島に数多くの交流を保ち、そこで彼の音楽は高く評価された。ルートヴィヒはロンドンとエディンバラの二人に自分の作品を販売し、彼らも民謡の編曲やヴァイオリン協奏曲のピアノ版などの特定の作品を依頼した。二人とはヴァイオリニスト兼コンサート主催者としてロンドンのコンサート生活で重要な役割を果たしたヨハン・ペーター・ザロモンと、ルートヴィヒの弟子で臨時秘書のフェルディナント・リースである。
12月8日《交響曲第七番》は、ルートヴィヒの指揮の下、反ナポレオン戦士のための慈善コンサートとしてウィーン大学の大規模なレドゥーテンザールで《 ウェリントンの勝利》とともに初演され、並外れた大成功を収めた。
ルートヴィヒの指示に従って広範な設備が整えられたオーケストラには、ベルンハルト・ロンベルク、ルイ・シュポーア、ヨハン・ネポムク・フンメル、ジャコモ・マイヤーベーア、アントニオ・サリエリ、そしておそらくマウロ・ジュリアーニなどの有名な音楽家が含まれていた。12月8日の第1回目、12月12日の第2回目でも、聴衆は第二楽章でダ・カーポを要求した。
5月22日リヒャルト・ワーグナー、ドイツの作曲家誕生
10月ジュゼッペ・ヴェルディ、イタリアの作曲家誕生
作品:《ウェリントンの勝利》(戦争交響曲)op.91、歌曲《夜鳴うぐいすの歌》WoO.141、歌曲《詩人の魂》WoO.142、カノン《苦しみは短く、喜びは長し》WoO.163
その他:➀フランツ・シューベルト《交響曲第一番》ニ長調作曲
➁5月22日ジョアキーノ・ロッシーニ初の大作オペラ《アルジェのイタリア人女性(L’italiana in Algeri)》の初演がヴェネツィアのサン・ベネデット劇場で行われ大成功を収めた。アンジェロ・アネッリ台本による
➂5月22日リヒャルト・ワーグナー、ドイツの作曲家生れる
➃10月9日または10月10日ジュゼッペ・ヴェルディ、イタリアの作曲家生れる
《二十五のアイルランドの歌》WoO.152、《二十のアイルランドの歌》WoO.153、《十二のアイルランドの歌》WoO.154
↓ <《交響曲第七番》イ長調>
1988年 W.サヴァリッシュ&N響
1814年44歳
オペラ《フィデリオ》
2月27日《交響曲第八番》作品93は、ウィーンの大きなレドゥーテンザールにあるルートヴィヒ主催の「アカデミー」で初演された。
5月23日《フィデリオ》という名前の改訂版《レオノレン》の前奏曲を変更したものなどが、ウィーンのケルントナートール劇場で上演された。 この演奏は革命的な考えをほとんど消し去り、夫婦の貞操よりも人間性の方が重要な問題であり、内容がより理解しやすくなったため、演奏は大成功となり、ルートヴィヒにとって経済的にも豊かになった。 現在でも、通常の《Fidelio》 作品はこのバージョンに固執している。
メトロノームの発明者であるヨハン・メルツェルは、ルートヴィヒにトランペットイヤーを製作して提供し、それが少し役に立った。
夏、イギリスのピアニスト/作曲家/指揮者/ロイヤル・フィルハーモニー協会の創設メンバーでもあったチャールズ・ニートCharles Neateに、音楽家でもあったウィーンの商人ヨハン・ヘリングが彼をルートヴィヒに紹介し、バーデン・バイ・ウィーンで会った。ニートは1815 年から1816年2月まで2年間ウィーンに住み、ルートヴィヒの友人になった。彼はフィルハーモニック協会でルートヴィヒや当時の他の作曲家の音楽を宣伝していた。
ルートヴィヒはニートにレッスンを与えることができず、彼をエマヌエル・アロイス・フェルスターに推薦したが、定期的にニートの勉強を指導した。
病床の弟カールに頼まれ甥カールの後見を引き受ける。弟カールが他界。
11月15日ルートヴィヒの弟カールが死去。いくつかの裁判の後、ルートヴィヒは甥の後見人として任命される。ルートヴィヒは、カールの親権争いをメッテルニヒに有利に決定するなら、交響曲を作ると約束していた。 メッテルニヒは宮廷控訴院にも同様の指示を出し、1820年4月8日、13歳のカールが叔父ルートヴィヒに移ることになった。 しかしメッテルニヒは交響曲を受け取ることはなく、1827年3月時点でカールはまだ21歳に達しておらず法定年齢に達していなかったため、死の床でルートヴィヒは親権をヨハンナに移した。
作品:《フィデリオ》op72.、《レオノーラ・プロハスカ》(全4曲ドゥンカーの劇のための音楽)、《ピアノ・ソナタ第27番》作品90、《メルケンシュタインの歌》作品100、《ポロネーズ ハ長調》作品89、カンタータ《栄光の瞬間》op.136、《連合した王侯たちへの合唱》WoO.95、《ゲルマニア》WoO.94(合作のジングシュピールの終末合唱)、合唱曲《別れの曲》WoO.102、合唱曲《野外カンタータ》「楽しい乾杯の辞」WoO.103、四重唱曲《悲歌、生けるごとく安らかに》op.118、三重唱曲《不信心な者よ、戦け》op.116(sop,ten,bas,orc)、歌曲《戦士の別れ》WoO.143、歌曲《メルケンシュタイン》WoO.144、カノン《友情は真の幸福の泉》WoO.164、《二十六のウェールズの歌》WoO.155
その他:➀5月22日リヒャルト・ワーグナー、ドイツの作曲家誕生
➁10月ジュゼッペ・ヴェルディ、イタリアの作曲家誕生
➂フランツ・シューベルト《糸を紡ぐグレートヒェンGretchen am Spinnrade》作曲
1815年45歳
11月15日弟カスパルが亡くなると、ベートーヴェンは直ちにカスパーの未亡人ヨハンナと、当時9歳だった息子カールの親権をめぐって長期にわたる法廷闘争に巻き込まれていく。
作品:《ピアノ協奏曲》変ホ長調WoO.4(ピアノ譜のみ現存)、《ピアノ協奏曲第6番》ニ長調(未完)、《チェロ・ソナタ第4番》ハ長調作品102.1、《チェロ・ソナタ第5番》ニ長調作品102.2、カンタータ《静かな海と楽しい航海》作品112、《命名祝日Zur Namensfeier》op. 115 (管弦楽のための演奏会用序曲)同年のクリスマスに初演され、芸術のパトロンとして知られるアントニ・ヘンリク・ラジヴィウへと献呈された。二重唱曲《メルケシュタイン》op.100、歌曲《希望に寄す》op.94、歌曲《ひめごと》WoO.145、カノン《新年おめでとう》WoO.165、カノン《苦しみは短く、喜びは長し》WoO.166、カノン《ブラウフレ、リンケ》WoO.167
その他:フランツ・シューベルト《ミサ曲第2番》ト長調、《ミサ曲第3番》ロ長調、《交響曲第二番》ロ長調、《交響曲第三番》ニ長調を作曲
1816年46歳
甥カールの後見人になり私塾に入れる。カールの後見人としてのルートヴィヒに対し、カールの母ヨハンナ・リースが醜い訴訟が起こり、ルートヴィヒは1820年まで不安を抱え続けることになる。
会話帳を使いはじめる。
10月ルートヴィヒが病気になる
作品:行進曲《軍隊行進曲》ニ長調(吹奏楽)WoO.24、《ピアノ・ソナタ第28番》イ長調op.101、歌曲《あこがれ》WoO.146、連作歌曲《はるかな恋人に寄す》言葉を守る男op.98、歌曲《約束を守る男》op.99、歌曲《山からの呼び声》WoO.147、カノン《沈黙を学べ》WoO.168の1、カノン《雄弁》WoO.168の2、カノン《私はあなたに接吻する》WoO.169、カノン《芸術は長く、人生は短し》WoO.170、《二十五のスコットランドの歌》op.108、《十二のスコットランドの歌》WoO.156
その他:➀2月20日:ジョアキーノ・ロッシーニのオペラ《セビリアの理髪師》が、作曲家の指揮のもと、ローマのアルゼンチン劇場で『Almaviva o sia L’inutile precauzione』という名前で初演された
➁フランツ・シューベルト《交響曲第四番》ハ短調、《交響曲第五番》ロ長調、《ミサ曲第4番》ハ長調を作曲
1817年47歳
年の初めルートヴィヒはまだ病気であった
9月10日《交響曲第九番》の最初の小節を執筆
カールをめぐる長い訴訟が続いていた。
10月ハスリンガーはルートヴィヒの引っ越しの手伝いをした。壁紙や箪笥に関する議論もこれに関連しているかもしれない。ルートヴィヒはハスリンガーHaslingerにたずねた『家事についてアドバイスしてください。私は完全に白い部屋(白い壁)があります、古い壁紙があるのでそれを覆いたいのですが、研ぎはもう時間がありません。費用が高すぎるのですが、そのような古い壁紙を(1 つの部屋) で修理してくれる人はどこで見つかりますか。また、費用はどれくらいかかりますか?』 。ハスリンガーは『これらの壁紙は、紙やすりで磨くよりも高くなります。そして、番号のない壁紙が来るでしょう。壁紙を使用しないことをアドバイスした。』。ルートヴィヒ:『あなたが今持っているような、柔らかい木または堅い木でできた大きな引き出しが付いた大きなライティングボックスはいくらしますか?』。ハスリンガー:『完成品はクルミ材かサクラ材しかありません、価格は80fから120fの間でしょう』。ルートヴィヒ:『あなたといつになったらこれを買いに行けるでしょう?』。ハスリンガー:『明日以降なら』。ベートーヴェン:『ヨハン・ネポムク・メルツェルJohann Nepomuk Maelzelからは何も聞いていないですか?』。ハスリンガー:『メトロノームの入った 二つつの箱が到着したこと以外は何もありません。』 ルートヴィヒは新聞がきっと何かを報じるだろうと疑っていた。
↓<ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、トビアス・ハスリンガーとの対話文/ボン、ベートーベン・ハウス NE 45>
(Ludwig van Beethoven, Schriftlicher Dialog mit Tobias Haslinger/Beethoven-Haus Bonn, NE 45)
ピアノ製作者、ロンドンのトーマス・ブロードウッドは、ベートーヴェンにフォルテピアノを贈った。ブロードウッドは尊敬される巨匠にふさわしい楽器を選ぶために、ロンドンで最も高名な五人の音楽家を自分の製作所に招いた。会社の銘板の上にあるサウンドポストの前端には、「Hoc Instrumentum est Thomae Broadwood (Londrini) donum propter ingenium illustrissime Beethoven.(この楽器は、最も輝かしい天才であるルートヴィヒを讃え、トーマス・ブロードウッド(ロンドン在住)から贈られたものである(編者訳)。)」と書かれてある。さらに、フリードリヒ・カルブレンナー、フェルディナント・リース、ヨハン・バプティスト・クラマー、ジャック=ゴデフロワ・フェラーリ、チャールズ・ナイベットがこの楽器に署名した。ブロードウッドは 1818年1月初旬に、この楽器が着くだろうとベートーベンに通知した。
12月27日頃にロンドンからグランドピアノは送られてきた。ルートヴィヒはすぐにモーリッツ・リヒノフスキー伯爵に相談し、楽器の関税と手数料を無料で受け取ることができるよう財務大臣との仲介を依頼した。翌年6月8日のウィーン新聞の報道が示すように、この要請は次のように認められた。『その高尚で遠大な音楽的天才を認め、オーストリアのみならず国外からも敬意を表されているルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベン氏がロンドンで受け入れられた。彼の崇拝者たちからは、非常に稀少で貴重なフォルテピアノが贈り物として、有料の馬車でウィーンに届けられた。帝国・宮廷議場は、外国の楽器には通常適用される関税と手数料を特別に寛大に免除した。ルートヴィヒはこの「名誉ある贈り物」に深く感謝し、『私はそれを、アポロンの神に最も美しい霊的捧げ物を捧げる祭壇として考える』と述べた。
《ピアノ・ソナタ第28番》イ長調作品101 初演。
作品:《弦楽五重奏曲のためのフーガ》ニ長調作品137、《2つのヴァイオリン、2つのヴィオラ、チェロのための五重奏曲》ニ短調(未完成)《弦楽五重奏曲》ハ短調op.104、合唱曲《僧侶たちの歌》WoO.104、歌曲《いずれにしても》WoO.148、歌曲《あきらめ》WoO.149、カノン《幸せは無くてもよし、健康は欠くべからず》WoO.171
その他:➀1月25日ジョアキーノ・ロッシーニのオペラ《ラ・チェネレントラ》がローマのヴァッレ劇場で初演される。
➁5月31日ジョアッキーノ・ロッシーニのオペラ《泥棒かささぎ》の初演がミラノのミラノ・スカラ座で行われた。
➂11月11日ジョアキーノ・ロッシーニのオペラ《アルミーダ》が、イザベラ・コルブランをタイトルロールに迎えナポリのサンカルロ劇場で初演された。
➃フレデリック・ショパン《ポロネーズ》ト短調作曲(印刷物として保存されている作曲家の最初の音楽)
1818年48歳
2月3日ウィーンのルートヴィヒは、ロンドンのピアノ製造会社トーマス ブロードウッド宛てに、6オクターブのフォルテピアノの贈呈をされフランス語で手紙を書き送った。
↓ <トーマス・ブロードウッド作「フォルテピアノ」1817年(本物はハンガリー国立博物館が所蔵し、写真は構造的に同一の楽器である)>
以下
『私の親愛なる友人ブロードウッド
あなたが私に贈り物として敬意を表してくださったこのピアノの到着を知らされたとき、私はこれ以上の喜びを感じたことはありません。私はそれを神聖なアポロへの私の精神の最も美しい捧げ物を置く祭壇として見ます。あなたの素晴らしい楽器を受け取り次第、私からあなたへのお土産として、私がその楽器で過ごした最初のインスピレーションの成果をすぐに送ります。そして、それらがあなたの楽器にふさわしいものになることを願っています。
親愛なる友人である閣下、あなたの友人であり非常に謙虚な僕からの、私の温かい配慮を受け入れてください。
ルイ・ヴァン・ベートーヴェン ウィーン、 1818年2月3日』
↓ <ルートヴィヒからブロードウッド宛て自筆手紙>
何年も後、ウィーンの音楽出版社カール・アントン・スピナがこのグランドピアノをフランツ・リストに贈り、リストはそれをハンガリー国立博物館に遺贈した。
2月14日ウィーンの新聞でルートヴィヒとサリエリがメトロノームを推奨。
2月ベートーベンは難聴のため、訪問者と会話するのにノートと鉛筆を使わなければなりません。
《ピアノ・ソナタ第29番》変ロ長調「ハンマークラヴィーア」は、同時代人には難しすぎたため、ルートヴィヒの死から九年後の1836年まで演奏することができなかった。
12月3日カールは母親の家に逃げるが、ルートヴィヒは警察にカールを連れ戻すよう要求する。
ロンドンのブロードウッドからピアノを贈られる。甥カールを私塾から手もとにひきとる。
聴覚の衰えがはげしくなる。甥カールの後見問題で神経をすり減らすルートヴィヒの難聴は徐々に悪化し、ピアニストとして演奏したり指揮したりすることができなくなった。
作品:《ピアノ・ソナタ第29番》変ロ長調「ハンマークラヴィーア」この作品は長い間演奏不可能と考えられており、ルートヴィヒの死後数十年後にフランツ・リストによって初めて公の場で演奏された。《6つの主題と変奏》た。op.195(flまたはvn,pf)、《10の主題と変奏》op.197(pf,flまたはvnの助奏自由)、ピアノ曲《ややいきいきと》WoO.60、カノン《お願いです、変ホ長調の音階を書いて下さい》WoO.172、《二十三の各国の歌》WoO.158a、《七つのイギリスの歌》WoO.158b、《六つの各国の歌》WoO.158c
フランツ・シューベルト《交響曲第六番》(交響曲草稿 ニ長調)
その他:12月24日村の学校教師フランツ・クサーバー・グルーバーが副牧師ヨーゼフ・モールのテキストに作曲したクリスマスキャロル《きよしこの夜、聖なる夜》が、ザルツブルク近郊のオーベルンドルフにある聖ニコラシッファー教会で初めて上演された。
1819年49歳
《ミサ・ソレムニス》
1月11日聴覚障害を理由に、カールの後見権を裁判所に否認されルートヴィヒから剥奪。彼との話し合いは書面でのみ可能となった。この時代の会話集は数多く保存されている。
11月《ミサ・ソレムニス》作曲
作品:《フルートとピアノのための六つの主題と変奏曲》作品105、11のウィーン舞《メードリング舞曲》(管弦楽曲)WoO.17、合唱曲《結婚の歌》「友らのために、婚姻の神をたたえん」WoO.105、カノン《死んでもいい、断じて違う》WoO.173、カノン《信じて望めよ》WoO.174、カノン《聖ペテロは岩なりき》、カノン《ベルナルドは聖者》WoO.175、カノン《おめでとう、新年おめでとう》WoO.176
その他:➀3月27日ジョアキーノ・ロッシーニのオペラ《エルミオーネ》がナポリのサン・カルロ劇場で初演された。
➁6月20日ジャック・オッフェンバック、ドイツ系フランス人の作曲家誕生
➂9月13日クララ・シューマン、ドイツのピアニスト、作曲家誕生
↓ <ベートーヴェンの思想断片より>青空文庫ファイル/インターネット図書館から引用
ルドルフ大公宛への手紙から『昔の巨匠の中で、ドイツ人ヘンデルとセバスチャン・バッハだけが真の天才を持っていました。』
1820年51歳
4月8日《ミサ・ソレムニス》は再びカール・ペータースとともにカールの家庭教師となる。
作品:《ピアノ・ソナタ第30番》ホ長調作品109、《フルートとピアノのための10の主題と変奏》作品107、歌曲《かわいい子ねこ》、歌曲《丘の上の子供》、歌曲《星空の下での夕べの歌》WoO.150、カノン《背景、参事会員殿、御寒う御座る》WoO.177、カノン《ホフマンよ、決してホーフマンになるなかれ》WoO.180、カノン《今日バーデンを思い出せWoO.181a》、カノン《ごきげんようWoO.181b、カノン《美徳は空虚な名目では無いWoO.181c
1821年51歳
ロッシーニ、シューベルトが訪問
1月、年のはじめから健康状態悪化、何度か病床につくとその後の数か月間、《ミサ・ソレムニス》は病気に罹った。貧困と病苦の生活が続く。黄疸にかかる。
1821年初頭、ベートーヴェンは再びリウマチと黄疸で体調を崩し、健康状態悪化、何度か病床についた。貧困と病苦の生活が続く。
それにもかかわらず、シュレジンガーに約束していた残りのピアノソナタ(ソナタ変イ長調作品110は12月に出版された)とミサ曲の制作を続けた
ロッシーニがルートヴィヒを訪問。
シューベルト自作曲を持ちルートヴィヒを訪問。
引越し、バーデン・バイ・ウィーン(1821-1823)に住む。
ジョゼフィーヌが亡くなると、ベートーヴェンは彼女のためにレクイエムとして《ピアノソナタ第31番 変イ長調》 作品110を作曲(12月25日)。
『1821 Josephine stirbt, Beethoven schreibt ihr als Requiem die Sonate op. 110.(Kulturgeschmchte – Klassik – Beethovens „Missa solemnis“ zusammengestellt von Martin Schlu 1999 (29. Mai 2001/ Januar 2009))
作品:《ピアノ・ソナタ第31番》変イ長調作品110(1821年完成、1822年出版)《ピアノのためのアレグレット》ロ短調WoO.61、カノン《おおトビアス、ハスリンガーの支配者》WoO.182
1822年52歳
ルートヴィヒは1812年の結婚に反対していた弟ニコラウスとの和解を模索し、ニコラウスは定期的にルートヴィヒを訪ねるようになり、作品の所有権を担保に金を貸すなど、仕事面での援助を始めた。また、亡くなった弟カスパルの妻との和解を模索し、彼女の収入を支援するなどしたが、甥カールはこれに賛成しなかった。
10月《交響曲第九番》と《交響曲第十番》の冒頭の作曲を開始。
年末の二つの委嘱により、ベートーヴェンの経済的な見通しはよくなった。
11月にロンドン・フィルハーモニック協会から交響曲の依頼があり、ルートヴィヒは喜んでこれを受諾した。これは、彼が取り組んでいた第九交響曲にふさわしいものだった。また11月には、サンクトペテルブルクのニコライ・ガリツィン公爵が、弦楽四重奏曲3曲に対してルートヴィヒの希望価格を支払うことを申ルートヴィヒベートーヴェンは、当時同居していた甥のカールに口述した手紙の中で、四重奏曲1曲あたり50ドゥカートという高額な価格を設定した。
作品:《ピアノ・ソナタ第31番》変イ長調作品110を出版、《ピアノ・ソナタ第32番》ハ短調作品111(ベートーヴェン最後のピアノ・ソナタとなった)、《献堂式》全6曲op.124、《祝賀メヌエット》変ホ長調WoO.3、ピアノ《11の新しいバガテル》op.119、行進曲と合唱《聖壇を飾れ》op.114、歌曲《接吻(アリアエッタ)》op.128
その他:➀2月16日ナポリでジョアキーノ・ロッシーニのオペラ《ゼルミラ》初演された
➁フランツ・シューベルト《交響曲第7番》ロ短調「未完成」をこの年に作曲した未完の交響曲である
1823年53歳
《荘厳ミサ曲》
3月6日ベートーヴェン、カールを後継者に指名
交響曲第9番に取り組む。
ある日、若きフランツ・リストがルートヴィヒを訪ねて玄関にやって来たが、彼は弟のニコラウスについてアントン・シンドラーと議論していたため、今は時間がないと断った。
↓ <ベートーヴェンの思想断片より>青空文庫ファイル/インターネット図書館から引用
ケルビーニへ宛てへの手紙から『舞台のための、他のすべての音楽作品にまさって、あなたの諸作を私は高く評価致します。あなたの新作品を聴くたびごとに私は恍惚として聴き入ります。そして私自身の作品に対する以上の興味をお作に対して感じます。つまり、私は貴方の価値を高く感銘し、貴方を愛しています。・・・あなたは私が最も傾倒する同時代の音楽家で常にあられることでしょう。もしも私にきわめて大きい喜びをお与え下さるお気持ちがおありならば、数行だけでも私にお書きください。(もしそうして下さるなら)私はどんなにか満足致すことでしょう。芸術はあらゆる人々を結合させます。いわんや真の芸術家たちを、です。そしてあなたはおそらく私をもその一人に値する者としてお考え下さることと思います。(原文はドイツ語とフラン語とを混ぜて書いてある)』
作品:《ディアベリ変奏曲》op.120、《荘厳ミサ曲》ニ長調op.123、《ピアノのためのディアベッリの主題による33の変奏曲》ハ長調op.129、《ピアノのための六つのバガテル》op.126、同志の歌「すべての良き時に」op.122(独唱・合唱・管弦楽)、合唱曲《ロブコヴィツ・カンタータ》「我等の良き殿万歳」WoO.106、歌曲《高貴な人は慈悲深く善良であれ》WoO.151、カノン《親愛なる伯爵殿、あなたはお人好しだ》WoO.183、カノン《ファルスタッフ役、出番だ》WoO.184、カノン《人は高貴で慈悲深く善良であれ》WoO.185
その他:フランツ・シューベルトの連作歌曲《美しい粉屋の妻》、フランツ・シューベルトのオペラ《陰謀者たち》(1823年完成、1861年初演)
1824年54歳
《交響曲第九番》「合唱付」
交響曲第十番の作業にはいる(第一楽章のみ詳細に書き上げた)
2月《交響曲第九番》ニ短調op.125「合唱付」の執筆完了
5月7日《交響曲第九番》ウィーン初演。ウィーンのケルントナートーア劇場で完全に聴覚障害者となったルートヴィヒは、ミヒャエル・ルンデとともに《交響曲第九番》初演を自身指揮した。声楽パートは、ヘンリエット・ソンタグ(S.)、カロリーヌ・ウンガー(A.)、アントン・ハイジンガー(T.)、ジョセフ・ザイペルト(Br.)によって演奏された。この作品は観客から熱狂的な歓声を呼び起こし大成功を収めた。
12月チャールズ・ニートはフィルハーモニー協会を代表してルートヴィヒにロンドンに来るよう招待する下記の手紙を書いた。
『The Philharmonic Society is willing to pay you three hundred guineas for your visit, expecting that you will yourself conduct the performances of your works, of which one must be heard in every concert. It is also expected that you will write a symphony and a concerto, to be performed during your visit, which you may regard afterwards as your property…. I profit from this occasion to tell you that I am your sincere friend, and that you will be surrounded here by a great many persons who will improve every opportunity to show their esteem and admiration of the great Beethoven, whose fame shines more than ever in this country.』
要訳『フィルハーモニック協会は、あなたが自分の作品の演奏を指揮してくれることを期待して、あなたの訪問に喜んで300ギニーを支払いますが、その作品は毎回のコンサートで必ず聴かれるはずです。また、あなたが訪問中に演奏する交響曲と協奏曲を書くことも期待されており、その後あなたは作品をあなたの物とすることになります。…この機会に、私はあなたの誠実な友人であることをお伝えしておきたいと思います。ここでは、この国でその名声がかつてないほど輝いている偉大なルートヴィヒの敬意と称賛をあらゆる機会を利用して示す非常に多くの人々に囲まれることになるでしょう。』
ルートヴィヒはその申し出を真剣に検討したが、イギリス訪問は実現しなかった。
作品:《弦楽四重奏曲第13番》ロ長調op.130(1826年初演)、《ピアノのためのワルツ》変ホ長調WoO.84、《ピアノのための六つのバガテル》op.126、歌曲《連邦歌》op.124、奉献歌《炎は燃え》op.121b(独唱・合唱・管弦楽)、カノン《あなただけを崇む》WoO.186、カノン《ふざけずに向きを変えろ》WoO.187
1825年55歳
ルートヴィヒはアルコール依存症、肝硬変、黄疸、その他の慢性疾患にも悩まされていた。
5月7日~10月15日ルートヴィヒ、バーデンに住む。
10月ウィーンのシュヴァルツシュバニエルハウスに住む。
11月ウィーン楽友協会名誉会員に推薦される。
鼻出血と吐血があり肝硬変が進行。その後肝臓部の疼痛が起こり足に浮腫が現われ腹水もたまってきた。
↓ <ベートーヴェンの思想断片より>青空文庫ファイル/インターネット図書館から引用
ショット宛てへの手紙から『芸術家としての私についていえば、私に関しての他人の批評に対してほんの少しの注意をすら私が払ったことがあるなぞとは、誰一人聴いたこともないはずだ。』
作品:《弦楽四重奏曲第13番》ロ長調op.130(1826年初演)、弦楽四重奏曲第12番変ホ長調op.127、《弦楽四重奏曲第15番イ短調op.132、《ピアノのためのワルツ》ニ長調WoO.84、《ピアノのためのエコセーズ》変ホ長調WoO.86、《ピアノのためのアレグレット・クアジ・アンダンテ》ト短調WoO.61a、《カノン)神はかたき砦》WoO.188、《カノン)医者は死への門を閉ざす》WoO.189、《カノン)御医者さん、お訪ねしました》WoO.190、《カノン)涼しくて、なまぬるくない》WoO.191、《カノン)芸術は長く、人生は短し》WoO.192、《カノン)芸術は長く、人生は短し》WoO.193、《カノン)門が通れなければ壁を通って》WoO.194、《カノン)人生を楽しめ》WoO.195
その他:➀6月19日パリのイタリア劇場でジョアキーノ・ロッシーニのオペラ《ランスへの旅》初演された
➁10月25日:ヨハン・シュトラウス、オーストリアの指揮者兼作曲家生れる
➂10月17日ジャン=ピエール・クラリス・ド・フロリアンの文学モデルに基づくフランツ・リストの唯一のオペラ《ドン・サンシュ、または愛の館》が、ロドルフ・クロイツァーの指揮によりパリ・オペラ座で初演された(リスト13歳の作品は熱狂的に受け入れられたものの、三回の上演後にプログラムから消え、忘れ去られた)
1826年56歳
1月激しい腹痛を訴える。視力の低下
ウィーンへの帰途かぜを引き肺炎と腹水腫併発。
3月21日《弦楽四重奏曲》op.130」作曲初演、失敗
7月下痢、腹痛がひどくなり、腹水もたまるようになる。
7月30日甥カール、ピストルで自殺未遂
8月6日甥カールは頭を撃って自殺未遂を図る。彼はただ怪我をしただけだった。カール、軍隊に入隊。
9月9日《弦楽四重奏曲第15番》op.132を初演
9月28日グナイクセンドルフの弟ヨハンの家にカールと滞在。グナイクセンドルフからの帰途、肺炎にかかる。
引越し、オーストリア・クレムスに住む
12月1日牛乳馬車でヴィーンに帰る
12月12日ルートヴィヒの健康状態が悪化し始める。かぜから肺炎をおこし、高熱に苦しむ。肺炎を引き起こし、肺炎は軽快したが、肝硬変の症状である黄疸症状が現れ、黄疸と腹水が増え病状悪化
12月20日初めて腹膜に針をさして腹水の排除をする第1回手術
↓ <ベートーヴェンの思想断片より>青空文庫ファイル/インターネット図書館から引用
『ぶよが刺した位では疾駆している馬を停められはしない、というヴォルテールの感想に私はまったく同感である。』
僧シュタットラー宛てへの手紙から『どんなときでも私はモーツァルトの最も熱心な讃嘆者の一人であった。私は生涯の最期の瞬間まで依然としてそうであるだろう。』
作品:《弦楽四重奏曲第13番》変ロ長調作品130、《弦楽四重奏曲第14番》嬰ハ短調作品131、《弦楽四重奏曲第16番》ヘ長調作品135、《大フーガ》変ロ長調op. 133、《ピアノのためのアンダンテ・マエストーソ》ハ長調WoO.62、カノン《「修道院長様、私は病気です(Signor Abate! io sono》(3声)WoO 178(作曲年不明)WoO.178、カノン《そうあらねばならぬ》WoO.196、カノン《これがその作品だ》WoO.197、カノン《我々は共に迷う、ただし迷いかたは異なる》WoO.198
その他:4月12日カール・マリア・フォン・ウェーバーのオペラ《オベロン》がロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスで初演。
1827年56歳
1月8日第2回腹膜に針をさし腹水の排除をする手術
2月2日第3回腹膜に針をさし腹水の排除をする手術
2月27日第4腹膜に針をさし腹水の排除をする回手術
生活困窮しイギリスに資金援助依頼する。ロンドンのフィルハーモニー協会から100ポンド届く
3月シューベルトが病床を見舞う。
3月18日ロンドン・フィルハーモニー協会の百ポンドの援助に礼状を口述筆記で書くが、最後の手紙となる
3月24日頃より意識不明となり臨終の儀式を行う。
3月26日午後5時45分56歳の生涯を終わらせる。死因は肝硬変からおこった肝性昏睡と言われているが近年、鉛中毒説が浮上している(競売されたルートヴィヒの頭髪の毛を調べたところ、大量の鉛が検出されたというが、頭髪が本物かどうか疑問という。そのような鉛中毒の症状が生前にはみられていないからだ)。
3月27日解剖
3月28日死の床のルートヴィヒのスケッチ、デスマスク取られる
3月29日アルザーシュトラーセのトリニテ教会で葬儀、ヴェーリング墓地に埋葬
ルートヴィヒが亡くなったとき、彼の葬儀はナポレオンの失脚以来最大の大規模な集会となった。二万人が棺を追ってヴェーリング墓地へ向かい、棺担ぎ者の一人にフランツ・シューベルトがいたが、彼は一年後にベートーヴェン自身の隣に埋葬されることになった。 フランツ・グリルパルツァーが追悼文を書き、ウィーン・ブルク劇場の俳優ハインリヒ・アンシュッツが朗読した。
『…. Ein Künstler war er, aber auch ein Mensch – Mensch in des Wortes vollkommenster Bedeutung. Weil er von der Welt sich abschloß, nannten sie ihn feindselig, und weil er der Empfindung aus dem Wege ging, gefühllos. Ach, wer sich hart weiß, der flieht nicht. Gerade das Übermaß der Empfindung weicht der Empfindung aus. – Wenn er die Welt floh, so wars, weil er in den Tiefen seines liebenden Gemüthes keine Waffe fand, sich ihr zu widersetzen; wenn er sich den Menschen entzog, so geschah’s, nachdem er ihnen alles gegeben und nichts zurück empfangen hatte. Er blieb einsam, weil er kein Zweytes fand.』
(編者要訳)『彼はアーティストであったと同時に人間でもあり、言葉の最も完璧な意味での人間でした。 彼らは彼を、世間から切り離しているため敵対的だと呼び、感情を避けるため無神経だと呼びました。 ああ、自分自身をよく知っている人は逃げません。 まさに、過剰な感覚が感覚に取って代わられるのです。 もし彼が世間から逃げたとしたら、それは彼の愛情深い心の奥底で世間に対抗する武器を見つけられなかったからである。 もし彼が人々から身を引くとしたら、それは彼らにすべてを与え、見返りに何も受け取らなかった後のことです。 次の子を見つけることができなかったので、彼は孤独なままでした。』
『Aber bis zum Tode bewahrte er ein menschliches Herz allen Menschen, ein väterliches den Seinen, Gut und Blut aller Welt. So war er, so starb er, so wird er leben für alle Zeiten. Ihr aber, die Ihr unserem Geleite gefolgt bis hierher, gebiethet Eurem Schmerz! – Nicht verloren habt Ihr ihn, Ihr habt ihn gewonnen. – Ihr wißt, wenn die Pforte des Lebens hinter uns sich schließt, springen auf die Pforten zum Tempel der Unsterblichkeit. Dort steht er nun bey den Großen aller Zeiten; unantastbar für immer.』
(編者要訳)『しかし彼は死ぬまで、すべての人のために人間の心を、自分自身、全世界の財産と血のために父親の心を守り続けました。 彼はそのようにして、そうして死に、そうして彼は永遠に生きるだろう。 しかし、ここまで我々の護衛を追ってきたあなた方は、痛みを我慢してください!。 ご存知のように、人生の門が私たちの後ろで閉まるとき、私たちは不死の神殿の門に飛び乗ります。 そこで彼は今、あらゆる時代の偉人たちと並んでいます。 永遠に。』
『Drum scheidet trauernd aber gefaßt von hier, und wenn euch je im Leben, wie der kommende Sturm, die Gewalt seiner Schöpfungen übermannt, wenn Eure Thränen fließen in der Mitte eines jetzt noch ungebornen Geschlechts, so erinnert euch dieser Stunde, und denkt: wir waren auch dabey, als sie ihn begruben, und als er starb, haben wir geweint.”』 (Zitiert nach einer Abschrift, die laut Max Unger auf einen Wiener Theatersouffleur zurückgehen soll, der für Grillparzer gearbeitet hat.)
(編者要訳)だから、悲しみながらも穏やかにここを去ってください、そしてもし人生で、来るべき嵐のように彼の創造の力があなたを圧倒することがあれば、今生まれていない世代の真っ只中にあなたの涙が流れるなら、この時間を思い出して考えてください:彼が埋葬されたとき、私たちもそこにいたのです。彼が死んだとき、私たちは泣きました。』(マックス・ウンガーによれば、グリルパルツァーで働いていたウィーンの劇場プロンプターに遡るコピーからの引用。)
ベートーベンが埋葬されると、アントン・シンドラーは「不滅の恋人」への手紙、多額の銀行株、そして未知の恋人が唯一の相続人であるという遺言書を発見する。 シンドラーは生涯ベートーベンの最初の伝記作家となったが、「不滅の恋人」の謎を解くことはなかった。
六十年後、新しい中央墓地が開設された。 墓地が受け入れられるためには著名な死者が必要であり、そのためベートーベンとシューベルトは1888年に移転し、彼らは掘り起こされ、儀式的に再埋葬された。 アントン・ブルックナーはベートーヴェンの発掘の目撃者の一人であった。
↓ <ヨーゼフ・ダンホイザー作のベートーベンのデスマスク>
↓ <写真ベートーヴェンの墓>
↓ <ベートーヴェンの思想断片より>青空文庫ファイル/インターネット図書館から引用
ツェルニー宛てへの手紙から『君のピアノの弟子が正しい指の使い方と正確なリズムとを会得して、譜を間違わずに弾けるようになったならば演奏法に注意を払いたまえ。そして小さな欠点があってもそこで演奏を停めさせず、終わりまで弾かせてから欠点について指摘したまえ。一この方法が「音楽家」を作り上げるのだ。そして結局、音楽家を作ろうとすることが、音楽の主要な目的の一つなのだ。また、技巧練習の過程では全部の指をこもごも使わせるようにしたまえ。・・・指の使い方が少ないと、いわゆる「真珠弾き」になってしまう。しかし、多くの場合他の宝玉の方がはるかに好ましい・・・』
オルガニストのフロイデンベルク宛てへの手紙から『純粋な教会音楽は、グロリア(神に栄あれ!)の部分、またはこの種の聖句の部分を例外として、ただ声楽だけで為さるべきだろう。私がパレストリーナを好むのはその故である。しかし、パレストリーナのような精神も宗教的信仰も無い者が彼を模倣するのは愚である。』
エディンバラの出版者ジョージ・トムスン宛てへの手紙から『私は作曲が一度でき上がると後からこれを修正するという習慣を持たない。私が決して修正しないのは、部分を変えると全作品の性格が変わるということは真理だと悟ったためである。』
ルドルフ大公宛てへの手紙から『自由と進歩とが藝術における目標であることは生活全体におけると同様であります。われわれが昔の巨匠たちほどに確乎としてはいないにしても、しかし少なくとも文明の洗練は私たち視野をはるかにひろく押し拡げました。』
ヴィルヘルム・ゲルハルト宛てへの手紙から『描写die Beschreibung eines Bildesは絵画に属することである。この点では詩作さえも、音楽に比べていっそうしあわせだといえるであろう。詩の領域ほどに制約せられていない。その代わり音楽は他のさまざまな領土の中までも入り込んで遠く拡がっている。人は音楽の王国へ容易には到達できない。』
オーストリアのルドルフ大公宛てへの手紙から『ピアノを用いないで作曲することは大切であります・・・人が望みまた感じていることがらを表現し得る能力は・・・こんな表現の要求は高貴な天性の人々の本質的な要求なのですが・・・少しずつ成長するものです。』
詩人トラウチュケ宛てへの手紙から『私のいつもの作曲の仕方によると、たとえ器楽のための作曲のときでも、常に全体を眼前に据えつけて作曲する。』
ヴァイオリニストのシュッバンツィッヒ宛てへの手紙から『「霊」が私に語りかけて、それが私に口授しているときに、愚にもつかぬヴァイオリンのことを私が考えるなぞと君は思っているのですか?(ベートーヴェンのヴぁいお曲は「tonschōnいい音色に弾きにくい」と不平をこぼしたのに対するベートーヴェンの答え)』
ゲーリング宛てへの手紙から『なぜ私が作曲するか?・・・(私は名声のために作曲しようとは考えなかった)私が心の中に持っているものが外え出なければならないのだ。私が作曲するのはそのためである。』
音楽について『Il n’y a pas de régle qūne ne peut blesser ā cause de Schōner「さらに美しい」ためならば、破り得ぬ(芸術的)規則は一つもない。ドイツ語とフランス語』
1888年ヴィーン中央墓地に移葬された
5.ハイリゲンシュタットの遺書
6.ベートーヴェン一家の記録(フイッシャー家の手稿)
『Im Haus der Fischers in der Rheingasse in Bonn wohnten mit kurzen Unterbrechungen drei Generationen der Familie Beethoven.
Ludwig van Beethoven und Gottfried waren ungefähr gleich alt und wurden Spielgefährten.
Mit der Hilfe seiner Schwester Cäcilia Fischer, schrieb Gottfried ab 1837 viele Erinnerungen an die gemeinsame Zeit auf.
Entstanden ist ein Dokument von unschätzbarem Wert, durch das wir viel über die Kindheit des später zu Weltruhm gekommenen Komponisten erfahren.』
「ボン選帝侯領のベートーヴェン一家」[ボンのパン職人ゴットフリート・フイッシャーの記録]は、マルゴット・ウェッツシュタイン版に基づくアンナ・フィッシャーによるフイッシャーのライン語方言からの翻訳(ドイツ語)全文から編者が日本語要訳した。
『楽聖ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンとゴットフリート・フイッシャーはほぼ同年代で、遊び友達であった。
ゴットフリートは妹のツェツィーリア・フィッシャーの助けを借りて、1837年からベートーヴェン一家と一緒に過ごした多くの思い出を書き留めた。
その結果、後に世界的な名声を獲得した作曲家の子供時代について多くを学ぶことができる貴重な文書が得られるようになった。』
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7.ベートーヴェン作品
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ベートーヴェン作品
8.その他
<ウィーン/ベートーヴェン作曲賞>
・1870年にベートーヴェン音楽祭を主催したウィーンの委員会がウィーン音楽友協会の運営に寄付した5,000ギルダーの寄付に基づいて、1875年にウィーン「ベートーヴェン作曲賞」が奨学金として寄付されました。
・500ギルダー相当の賞は2年ごとに授与され、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベンの誕生日である12月16日に授与されることになっている。
・応募者は、オペラ、オラトリオまたはカンタータ、交響曲、協奏曲、ソナタのいずれかの分野から 1 つの作品のみを提出する。(当初は音楽フロインデ音楽院の卒業生のみが対象だった)
・1879年12月18日ヒューゴ ラインホルト(Hugo Reinhold)が初めて受賞した。
・1896年ヨハネス・ブラームスの推薦により、ベートーヴェン作曲賞は全く新しい規定でウィーンの「音楽友協会の作曲賞」に改められ、元のベートーヴェン賞とは何の関係もなくなった。
<プロイセン芸術アカデミー/ベートーヴェン賞>
1926年12月13日ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの没後100周年を記念して、プロイセン国家は、当時の科学・芸術・公教育大臣 カール・ハインリヒ・ベッカーの署名により10,000ライヒスマルクを贈呈する「ベートーヴェン賞」を創設した。
この賞はプロイセン芸術アカデミーによって毎年「傑出した才能のある人々、野心的な若手またはドイツ帝国の市民権を有する認められた年配の作曲家」に授与される。
この賞はベートーベンの命日である毎年3月28日に授与されるようになった。
<ボン/ベートーヴェン作曲賞>
1961年に初めて作曲賞をハイモ・エルブセ(Heimo Erbseに授与した。
<ベートーヴェン ピアノコンクール>
2005年から2年ごとにボンで開催されている。
<ベートーヴェン賞>
2015年ベートーヴェン アカデミーは、人権、平和、自由、貧困削減、包摂を目的とした国際ベートーヴェン賞を創設した。
9.初演
1791年バレエ音楽《騎士バレエのための音楽》woO.1 (ワルトシュタイン伯爵作として初演した)
1795年《ピアノ協奏曲第2番》op.19
1798年《ピアノ協奏曲第1番》op.15
1798年《ピアノソナタ》「熱情」作曲、初期を代表する傑作、ベートーヴェンの三大ピアノソナタのひとつ。自筆楽譜は現在、パリ音楽院に保存されている
1800年《交響曲第一番》4月2日初演、スヴィーテン男爵に献呈
1801年バレエ音楽《プロメテウス創造物》op.43
1803年《交響曲第二番》 カール・リヒノスキー男爵に献呈
1803年《ピアノ協奏曲第3番》op.37
1803年《ヴァイオリン・ソナタ第9番》イ長調 op.47「クロイツェル」
1804年《交響曲第三番》「英雄」4月12日(非公開初演)、ロヴコヴィッツ侯爵に献呈
1805年オペラ《フィデリオ》二幕(初稿三幕)11月アン・デア・ウイーン劇場で初演(2時間分)
1805年序曲《レオノーレ第2番》op.72a
1805年オペラ《フィデリオ》第2版、11月20日初演
1806年序曲《レオノーレ第3番》op.72b
1806年《ヴァイオリン協奏曲》ニ長調、12月23日著名なヴァイオリニス、トフランツ・クレメントにより初演。翌年クレメントの勧めでピアノ協奏曲に編曲した
1807年《交響曲第四番》3月、オッペスドルフ侯爵に献呈
1807年《ピアノ協奏曲第4番》op.58
1808年《交響曲第五番》「運命」と《交響曲第六番》「田園」、12月22日自身の指揮、アン・デア・ウイーン劇場で初演
1808年《ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための協奏曲》ハ長調 op.56
1808年《ピアノ三重奏曲第5番》op.70-1
1808年《ピアノ三重奏曲第6番》op.70-2
1810年劇音楽《エグモント》op.84
1811年《ピアノ協奏曲第5番》op.73「皇帝」、11月28日ヨハン・シュナイダ-のピアノ、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏で初演
1812年《ヴァイオリン・ソナタ第10番》ト長調
1812年劇音楽《アテネの廃墟》op.113
1812年劇音楽《シュテファン王》op.117
1813年劇音楽《タルペイア》woO.2a
1813年《交響曲第七番》、4月20日自身の指揮、ルドルフ大公邸で初演(非公開)、12月8日公開初演、フリース伯爵に献呈
1813年《交響曲第八番》、4月20日自身の指揮、ルドルフ大公邸(非公開)で初演、1814年2月27日公開初演
1814年《ピアノ三重奏曲第7番》変ロ長調「大公」、ルドルフ大公に献呈された
1814年《弦楽四重奏曲第11番》op.95
1814年オペラ《フィデリオ》第3版初演
1815年劇音楽《レオノーレ・プロハスカ》woO.96
1815年序曲《命名祝日》op.115
1822年劇音楽《献堂式》op.114
1824年《荘厳ミサ曲》、4月7日サンクトペテルブルクの「未亡人のための慈善演奏会」で初演
1824年《交響曲第九番》「合唱」、5月7日自身とウムラウフの指揮により初演、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルムヘルム三世に献呈
1825年《弦楽四重奏曲第12番》op.127
1825年《弦楽四重奏曲第15番》op.132
1828年《弦楽四重奏曲第16番》op.135
1828年序曲《レオノーレ第1番》op.138
10.関連動画
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ボンのパン職人ゴットフリード・フィッシャー「ベートーヴェンの青春の記録」
[Des Bonner Bäckermeisters Gottfried Fischer Aufzeichnungen über Beethovens Jugend]
ベートーヴェンは1775年から約10年間フィッシャー邸に住んでいた。
これらの情報源には、ゴットフリードの回想などが含まれている。特に、彼の姉のチェチーリア (1762–1845) は、亡くなった二人の兄弟とともに、ベートーヴェン一家と親密に付き合っており彼らのすぐ近くで育った。
宮廷楽長の息子、宮廷テノールのヨハン・ヴァン・ベートーヴェンは、1767年11月12日にボンの古い聖レミギウス教区教会で、アンナ・マリア・マグダレーナ・ケヴェリヒ(47歳、現在ベートーヴェンと名乗る)と結婚した。
ヨハン・ヴァン・ベートーヴェンの身長、彼は中背で、面長、額が広く、丸い鼻、広い肩、真剣な目、髪型は細いおさげ髪でした。
マダム・ヴァン・ベートーヴェンの身長、彼女は背が高く、面長で、顔色は青白く、やや鷲鼻で、痩せていて、真剣な目をしていた。チェチーリア・フィッシャーはよく、マダム・ヴァン・ベートーヴェンが笑っているのを見た記憶は一度もない、と語っていた。彼女はいつも真剣でした。