ジョージ・ガーシュウィンGeorge Gershwin

生没年・出身地・歿地・墓地
ジョージ・ガーシュウィン(以降ガーシュウインという) 
 George Gershwin

本名
ヤーコブ・ガーショウィッツ 
 Jacob Gershowitz
(1898年9月26日ニューヨーク、ブルックリン生)
(1937年7月11日ロサンゼルス、ハリウッドで没)

1.職業


アメリカの作曲家・ピアニスト

2.称号


サンタ・チェチーリア音楽院名誉会員

<受章・受賞など>
1937年、ガーシュウインは、1937年の映画『踊ろう』のために兄のアイラと共作した「They Can’t Take That Away from Me 」で、1937年のアカデミー賞で唯一の最優秀オリジナル歌曲賞にノミネートされた。ノミネートは死後のものであり、ガーシュウインは映画公開の2か月後に亡くなった。
1982年ガーシュウィンはユダヤ系アメリカ人の殿堂入りを果たした。
1985年議会黄金勲章が授与された。
1998年ピューリッツァー賞特別賞が授与(ガーシュインの生誕100周年を記念して、アメリカ音楽への卓越した永続的な貢献を称え、死後に授与された。
2006年ガーシュインはロングアイランド音楽の殿堂入りを果たした。
2007年アメリカ議会図書館はガーシュウインとアイラ・ガーシュイン(アイラという)の両者に敬意を表して、アメリカ議会図書館ガーシュイン・ポピュラーソング賞(別名ガーシュイン賞)を創設した。

<楽歴>
1910年ピアノ教師グリーンやゴールド・ファーブのレッスンを受ける。
1912年頃‐1918年チャールズ・ハンビッツァーからピアノの技巧ばかりでなく音楽の基本を教わる。
1915年エドワード・キレニーに作曲法を師事。
1917年センチュリー劇場のリハーサルピアニストになる。
1921年コロンビア大学の夏季講座を聴講し作曲家ロチェスター・グリーソン・コールに楽器、作曲等の技法を学ぶ。
1923年ルービン・ゴールドコークに作曲のレッスンを受ける。
1927-1929年作曲家ヘンリー・カウエルのレッスンを受ける。
1929年ウィリアム・デイリーやエドワード・キレニーの指揮法の助言を得る。
1932-1936音楽理論家ヨーゼフ・シリンガーに作曲法を師事。

3.プロフィールprofile


・ガーシュウインは1898年9月26日ニューヨーク、ブルックリンで生まれ、1937年7月11日ロサンゼルス、ハリウッドで病没した。
・両親は 1891年にロシアから移住し米国で結婚し三男一女を育て、マンハッタンのローワー イースト サイドの貧しい地域に定住した。
・ユダヤ系ロシヤ移民の家庭に育ち、幼年時代はブルックリンのローワーイーストサイドなど様々な場所に移り住んだ。
・幼いころ、ガーシュウインは勉強熱心とは程遠く、音楽にほとんど触れることもなかった。ストリート スポーツに熱中していた。
・11歳のとき、家族はアップライト ピアノを購入した。ガーシュウインはすぐにこの楽器にのめり込んだ。彼は「耳で」演奏していた。
・15歳のとき、学校を辞めてティン・パン・アレーでピアニストとソングライターになった。ティン・パン・アレーは5番街と6番街の間の西28番街にあった音楽出版社の集まりで、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、この一角から多くの人気曲が生まれた。
・1920年にガーシュウインが作曲し、アル・ジョルソンが録音した歌曲《スワニー》で最初の大ヒットを記録した。
・ガーシュウインには音楽学校で学んだという記録はない。さまざまな講師から作曲、理論、対位法のレッスンを受けたが、初見で上手に弾けるようになることはなかった。音楽の世界に飛び込んだ17歳頃、エドワード・キレニーに作曲法のレッスンを受け始め、ロチェスター・グリーソン・コール、ルービン・ゴールドコーク、ヘンリー・カウエル、また1932年34歳頃にはヨーゼフ・シリンガーに作曲法の師事して音楽の研鑽を続けた。
・ガーシュウインは自分の足りない部分は個人レッスンと独学により身に付けていった。1925年パリ滞在中、ガーシュウインはラヴェルに『師事したい』と申し出たが、ラヴェルはガーシュウインの収入を聞くと、『私にレッスンをしてほしい』と返答した。(この物語のいくつかのバージョンでは、作曲家としてラヴェルではなくイーゴリ・ストラヴィンスキーが取り上げられているが、ストラヴィンスキーは元々この物語をラヴェルから聞いたことを認めている。)
・1923年ロンドン旅行
・1924年ポール・ホワイトマンから依頼され、ガーシュウインは新作《ラプソディ・イン・ブルー》の作曲に取組んだ。ジャズの要素が盛り込まれたこの陽気な作品は、アメリカのミュージシャンや作曲家の世代に影響を与えた。
・1924年ガーシュウインは作詞家である兄のアイラとチームを組む。二人はブロードウェイ史上最大のスターとなった。彼らの初期のヒット作には《レディ・ビー・グッド》、《ファニー・フェイス》、ミュージカル・コメディ《君がために歌わんOF THEE I SING》などがあった。
・1925年パリ旅行。パリ滞在中に《巴里のアメリカ人》の作曲をはじめた。
・イギリス、パリ旅行。タクシーのクラクションを購入し《パリのアメリカ人》の効果音で使用した。
・1928年ロンドンンとパリを旅行し、ドミトリー・テオムキン、ラヴェル、プーランク、ミヨー、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ等に会った。
・《パリのアメリカ人》ウォルター・ダムロッシュの指揮によるニューヨーク交響楽団の演奏、カーネギーホールで初演。
・ルイゾーン・スタジアムで指揮者デビュー。
・1932年ミュージカル作詞家としてのアイラは、ミュージカル・コメディ《君がために歌わんOF THEE I SING》が演劇部門でピューリッツア賞受賞した。受賞者はジョージ・S・カウフマン、モリー・ライスキンドピューリッツァー、アイラであった。
・ガーシュウインはブロードウェイの舞台だけでなく、映画やコンサートホール向けの作品も書き始めた。彼は《協奏曲ヘ長調》や管弦楽曲《巴里のアメリカ人》で成功を収めた。
・1934年、彼はアフリカ系アメリカ人を主人公にしたオペラを創作するという生涯の夢をかなえた。オペラ《ポーギーとベス》は記憶に残るヒット曲を数多く生み出したが、観客や評論家からの評価はまちまちだった。しかし、今日では、アメリカのミュージカル劇場の試金石となっている。
・1935年9月30日オペラ《ポーギーとベス》がボストンのコロニアル劇場で初演したが好評を得なかった。10月10日オペラ《ポーギーとベス》が、ニューヨークのアルヴィン劇場で初演され公演は成功を収めた。
・ガーシュウインは、貧しい家庭に生まれたにもかかわらず、1930年代のキャリアの絶頂期にはハリウッドのエリートたちの間で贅沢な生活を送っていた。
・1937年原因不明のめまいに悩まされるようになった。
・1937年7月、脳腫瘍の摘出手術中に亡くなった。享年39歳であった。

4.ガーシュウインの家系


ガーシュウイン家系

、マンハッタンのローワー イースト サイド、ヘスター ストリートの交差点にあるエルドリッジ ストリート 60 番地のシンプソンズ ポーン ショップの向かいで生まれました。

5.ジョージ・ガーシュウイン年譜


1896年
12月6日長兄:アイラ・ガーショヴィッツIra Gershwin(以降アイラという)がニューヨーク、マンハッタンのローワー イースト サイド、ヘスター ストリートの交差点にあるエルドリッジ ストリート60番地のシンプソンズ ポーン ショップの向かいで生まれた。
ガーシュイン一家は、子供たちが成長する間、20軒以上のアパートに住んでいた。父モリスは、自分が働いている場所の近くに住み、職業を変え続けたからである。靴業界で働いた後、彼は葉巻店、ビリヤード場、パン屋、レストラン、トルコ式およびロシア式浴場で働き、三週間だけブライトン ビーチで賭け屋をしていた。20世紀初頭には東ヨーロッパからアメリカに逃れ​​てきたユダヤ人移民が皆住んでいた場所である。
↓ アイラの生れたアパート
(Ira, was born on the lower east side of Manhattan, over Simpsons Pawn Shop at 60 Eldridge Street at the junction of Hester Street.)

1898年
1898年9月26日ガーシュウイン(ヤーコブ・ガーショヴィヤー)は、ロシア系ユダヤ人の移民の子としてニューヨーク、スネディッカー アベニューにある二階建ての家に生まれた。この静かなユダヤ人街の、木々に囲まれた、シナゴーグの向かいにある家である。
↓ ガーシュウインの生れた二階建アパートとプレート(George Gershwin was born in a two-storey house in Snedicker Avenue in Brooklyn)


出生証明書には、ヤーコブ・ガーシュインと記載されている。ロシア人とイディッシュ人(ユダヤ人)の移民コミュニティでは「ガーシュイン」と発音される姓である。
彼は祖父にちなんで名付けられ、アメリカの慣習に反してミドルネームはなかった。すぐにジョージと呼ばれるようになり、プロの音楽家になった頃に姓の綴りを「ガーシュウィン」に変更した。
↓両親

<幼少年時代>
ガーシュウインは、ユダヤ系ロシヤ移民の家庭に育ち、幼年時代はブルックリンのローワーイーストサイドなど様々な場所に住んだ。
音楽学校で学んだという記録はない。
少年時代は街に流れるラグタイム(1900年前後に酒場やダンスホールに流行った黒人ピアニストの演奏スタイルで、左手でウン・パ、ウン・パ・・と繰り返し、右手は鋭いシンコペーションをもったメロディであった。ジャズの源流となったといわれている)を聴きながら兄アイラとイディッシュ劇場地区を中心に育った。
他の家族もアイラとガーシュウイン、もう一人の男の子アーサー・ガーシュイン(1900–1981)、女の子フランシス・ガーシュイン(1906–1999)が生まれた後、それに倣った 。父親が関わる新しい事業ごとに住居を変えたため、家族はさまざまな住居に住んでいた。彼らは主にイディッシュ劇場街で育った。
ガーシュウインとアイラは地元のイディッシュ劇場に通い、ガーシュウインは時々エキストラとして舞台に出演していた。
ガーシュウインはニューヨークのアパートで、友達と走り回ったり、ローラースケートをしたり、路上で行儀が悪かったりと、よくある少年時代を過ごした。
1908年まで、彼は音楽には全く興味がなかった。しかし、10歳のとき、友人のマキシー・ローゼンツヴァイクのバイオリンのリサイタルを聞いて興味をそそられた。その音色と友人の演奏に、彼は魅了された。
同じ頃、ガーシュウインの両親は兄のアイラにピアノを買ってあげた。しかし、両親が驚いたことに、そしてアイラがほっとしたことに、ピアノを弾くのに時間を費やしたのはガーシュウインだった。彼はピアノを楽しみ続けた。
妹のフランシス・ガーシュインは一家で初めて音楽の才能で生計を立てたが、若くして結婚し、母親と主婦としての生活に専念したため、音楽活動に真剣に取り組むことはできなかった。彼女は演奏活動をあきらめ、創作の手段として絵画に落ち着いた。これはガーシュウインも短期間趣味としていたものだった。アーサー・ガーシュインもガーシュウインとアイラの道をたどり、歌曲、ミュージカル、短いピアノ曲の作曲家となった。ガーシュウインは様々なピアノ教師のもとで約2年間(1911年頃)学んだ後、ベートーヴェン交響楽団のピアニスト、ジャック・ミラー(1913年頃)からチャールズ・ハンビッツァーを紹介された。1918年に亡くなるまで、ハンビッツァーはガーシュウインの音楽指導者であり、伝統的なピアノテクニックを教え、ヨーロッパのクラシック音楽の伝統を紹介し、オーケストラのコンサートに行くよう勧めた。

1900年2歳
3月14日弟:アーサー・ガーシュインArthur Gershwin別名:オットー・ガーシュイン”Otto”生まれる。
6月ブラウンストーンのアパートが立ち並ぶ静かなブルックリン地区、パーク スロープにあったガーシュイン家の家があった。(1310 8th Avenue)
↓ ガーシュウイン一家の住んでいたアパート

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1904年6歳
自動ピアノが演奏する《へ調の旋律》を聴いたり、二歳下のマキシー・ローゼンツヴァイクと出会い、彼の弾くユーモレスクのヴァイオリンを聴き、音楽に関心を示すようになる。
ガーシュイン一家は、ソール・バーンのレコード店の上の賑やかなセカンドアベニューにある二階建てのアパートに住んでいた。家族はようやくピアノを買えるようになり、両親は兄アイラのレッスン用にピアノを買った。ピアノは居間の窓から持ち上げられた。皆が驚いたことに、ガーシュウインはすぐに座り、7番街の友人の家でピアノを弾いていたとき、当時人気のあった曲の1つを弾いた。
↓ ガーシュウイン一家の住んだアパート セカンドアベニュー91番地のアパート

1906年8歳
12月26日妹:フランシス・ゴドフスキー(旧姓ガーシュイン)Frances Godowsky (Gershwin)別名:フランキー”Frankie”生まれる。

1910年12歳
近所のピアノ教師グリーンやゴールド・ファーブのレッスンを受けオペラ抜粋や序曲を弾き学ぶ、ベートーヴェン協会交響楽団のアルバイトを始める。
↓ ガーシュイン家の住んでいたアパート。グランド ストリート 25391 Second Avenue.

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1912年14歳
この楽団のピアニスト、ジャック・ミラーから自分の師チャールズ・ハンビッツアーを紹介されピアノの技巧ばかりでなく音楽の基本を無料で教わる。
ニューヨーク、キャッツキル・マウンテン・オーケストラでアルバイト演奏をした。

1913年15歳
母の勧めで商業高等学校に通う。この年《君に会ってから》、《ラグタイム・トロイトライ》作曲した。
7月1日ガーシュウインは15歳で学校を中退した。ニューヨーク市のティン・パン・アレーTin Pan Alleyで「ソング・プラガー」として働き始めた。彼はデトロイトに本社を置き、ニューヨークにも支店を持つジェローム・H・レミック・アンド・カンパニーという出版社で「ソング・プラッガー」として週15ドル最初の仕事を得た。
この仕事のソング・プラッガーは、音楽店で雇われて新しい楽譜の宣伝と販売を手伝うピアノ奏者のことであった。
↓ 1910年頃のティン パン アレー ガーシュウイン一はこの地域でソング・プラガーの仕事に就いた 

1914年16歳
ティン・パン・アレーのソングプラッガー(朝から店頭に出て曲を弾いて客に売り込む人)となる。
その後ジェローム・H・リミック音楽出版社に入りジェローム・カーン、アーヴィング・バーリン、フレッド・アステア兄弟等と知り会った。

1915年17歳
ハンビッツアの紹介でエドワード・キレニーに作曲法を師事。
2月、ガーシュイン家は 111 番街のずっと上流に住んでいた。モリスが 111 番街とレノックス アベニューにあるセント・ニコラス バスの経営者だったとき、彼らはここに住んでいた。
↓ ガーシュウイン一家の住んでいたアパート 108西111番街

1916年18歳、マレー・ロスの詩に作曲し出版。ボードビルのソフィー・タッカーの目にとまった。
ガーシュウインはニューヨークのエオリアン・カンパニーとスタンダード・ミュージック・ロールズでレコーディングと編曲の仕事を始めた。
彼は自身の名義や変名で、数百とは言わないまでも数十ものロールを制作した(ガーシュウインの変名にはフレッド・マーサやバート・ウィンなどがある)。
また、デュオ・アートとウェルテ・ミニョンのピアノ複製用に自作のロールも録音した。ピアノロールの録音のほかに、ガーシュウインは短期間ながらヴォードヴィルにも進出し、ノラ・ベイズとルイーズ・ドレッサーのピアノ伴奏を務めた。
ブロードウェイで初めて披露した曲は、1916年にジークムント・ロンバーグと共作しハロルド・アテリッジが作詞した《メイキング・オブ・ア・ガール》である。これは1916年の「パッシング・ショー」で歌われた。音楽活動に加えて、彼は兄のアイラとともに、人気の高い有名なゲイ浴場ラファイエット・バスの経営を引き継いた。
彼の最初の出版曲は1916年の《When You Want ‘Em, You Can’t Get ‘Em, When You’ve Got ‘Em, You Don’t Want ‘Em》で、当時17歳だった彼は50セントを稼いだ。

1917年19歳
センチュリー劇場のリハーサルピアニストになる。
この年のノベルティ・ラグタイム《リアルトの波紋》は商業的に成功した。

1918年20歳
2月T・B・ハームズ社と作曲家契約した。
ミュージカル《8時半 Half Past Eight》、ミュージカル《1918年のヒッチワークHitch-Koo of 1918》、作曲。
10月24日ジョージとアイラの最初の共演曲《The Real American Folk Song (Is a Rag)》は、ブロードウェイの『LADIES FIRST』でノラ・ベイズが歌った。

1919年21歳
5月ミュージカル《ラ・ラ・ルシール》をヘンリー・ミラー劇場で初演されブロードウェイ作曲家デビューした。
同年キャピトル劇場で《スワニー》初演、アル・ジョンソンがウインター・ガーデンのレヴューで歌い成功を収め、翌年レコード化され225万枚売れた。
10月24日ジョージ作曲、アーヴィング・シーザー作詞の《スワニー》がキャピトル・レビューで初演。アル・ジョルソンがウィンター・ガーデン劇場で上演したレビュー「シンドバッド」に挿入され、大ヒットとなり、ガーシュウインに初めて本当の名声をもたらした。
ガーシュウインはアーヴィング・シーザーの作詞による《スワニー》で初の全国的大ヒットを記録した。
ブロードウェイのスターで元ミンストレル歌手のアル・ジョルソンは、パーティーでガーシュインが《スワニー》を歌うのを聞き、自分のショーで歌うことを決めた。1919年代後半、ガーシュウインは作詞家で音楽監督のウィリアム・デイリーと出会った。二人はブロードウェイミュージカル《ピカデリー・トゥ・ブロードウェイ》(1920年)と《フォー・グッドネス・セイク》(1922年)でコラボレーションし、《アワ・ネル》(1923年)のスコアを共同で作曲した。これが長い友情の始まりだった。デイリーはガーシュウインの曲の編曲、オーケストラ、指揮を頻繁に手掛け、ガーシュインは定期的に彼に音楽に関するアドバイスを求めた。
ガーシュイン一家は 144th Street のさらに上流に住んでいた。ガーシュウイン一は、当時のヒット曲「ヒンドゥスタン」のスタイルで人気曲を書こうと思いついて、友人のアーヴィング シーザーとこの地に戻った。彼らはタイムズ スクエアで夕食をとり、バスに乗って、家に着いてから15分ほどで《スワニー》という曲を仕上げた。モリスは隣の部屋でポーカーをやっていたところから戻ってきて、ティッシュ ペーパーで包んだコームを弾きながら参加した。
↓ ガーシュウイン一家の住んでいたアパート ここはブロードウェイとアムステルダムアベニューの間の144番街 520 West 144th Street

↓《スワニー》

1920年22歳
6月7日ガーシュウインは、ジークフェルド・フォリーズのライバルであるジョージ・ホワイトのスキャンダルズのために、5曲のうち最初の曲を書いた。スキャンダルズの最も有名な曲は、アイラと BG デシルバが作詞した《I’ll Build a) Stairway to Paradise》である。
ジョージ・ホワイトの《スキャンダル》(1920年-1924年)には、1922年の1幕オペラ《ブルー・マンデー》が一部登場している。

1921年23歳
5月3日アイラは、アーサー・フランシスというペンネームで、ヴィンセント・ユーマンズとポール・ラニンの音楽、フレッド・ジャクソンの脚本による《TWO LITTLE GIRLS IN BLUE》でブロードウェイ初のヒット作を出した。
コロンビア大学の夏季講座を聴講し作曲家ロチェスター・グリーソン・コールに楽器、作曲等の技法を学んだ。
作品:ミュージカル《危険なメイドA Dangerous Maid 》作曲。

1922年24歳
1幕物オペラ《ブルー・マンディ》、を音楽監督ポール・ホワイトマン指揮で初演された。
作品:ミュージカル《お願だから For Goodness Sake 》、《レディ、グッド・ビー・グッド》、オペラ《ブルーマンデー》一幕

1923年25歳
ロンドン旅行。歌手エヴァ・ゴーチェのピアノ伴奏をした。
この頃ルービン・ゴールドコークに作曲のレッスンを受けた。
オペラ《135番街135th Street 》(全1幕)作曲。ミュージカル《虹 the Rainbow 》作曲。

1924年26歳
ポール・ホワイトマンからジャズコンサート用作曲を依頼され、ガーシュウインは最初の大作である管弦楽とピアノのための《ラプソディ・イン・ブルー》を作曲したが、オーケストレーションに精通していなかったため、この曲を当時ホワイトマン楽団のピアニスト兼編曲者のグローフェがガーシュウィンの作曲している傍らから即座に編曲を担当し完成させた。この作品はその後、彼の最も人気のある作品となり、ジャズやクラシックなど、まったく異なる音楽スタイルを革新的な方法で 融合させるというガーシュウインの特徴的なスタイルと才能を確立した。
↓ ここはジョージが『ラプソディ・イン・ブルー』を書いたアパート。彼はスワニーがもたらした成功を受け、いくつかのミュージカルの曲を書き、タイム誌の表紙を飾った。

2月12日《ラプソディ・イン・ブルー》は、ポール・ホワイトマン指揮、パレ・ロワイヤル管弦楽団の演奏によってニューヨーク、エオリアン・ホールの「新しい音楽の試み」と題されたコンサートにおいて初演された。招待客にはストラヴィンスキー、ラフマニノフ、スーザ等著名人の名があった。
同年ロンドンからパリに立ち寄りフランシス・クープラン等を知り会った。これはガーシュウインの最初のクラシック曲となった。
ガーシュウインは兄アイラとチームを組んだとき、「ガーシュウイン兄弟」はブロードウェイの作曲家として君臨し、メロディーに「手袋のような」忠実さで歌詞を合わせ、人を惹きつけるリズムナンバーや感動的なバラードを生み出した。
12月1日ガーシュウインとアイラの歌のみで上演される初のショー《LADY, BE GOOD!》が、ブロードウェイのリバティ劇場で初演された。
1920年代初頭から、ガーシュウインは作詞家のバディ・デシルバと頻繁に仕事をしていた。二人はハーレムを舞台にした実験的な一幕ジャズオペラ《ブルーマンデー》を共同で創作した。この作品は1935年に発表された画期的なオペラ《ポーギーとベス》の先駆けとして広く知られている。
ガーシュウインとアイラは舞台ミュージカルコメディ《レディ・ビー・グッド》で共演し、この中には《ファッシネイティング・リズム》や《オー、レディ・ビー・グッド! 》などの将来のスタンダード曲が含まれていた。
作品:ピアノと管弦楽のための《ラプソディ・イン・ブルー》、ミュージカル《プリムローズ Primrose(さくら草)》、《レディ・ビー・グッドLady be Good(淑女よ善良なれ)》、ロンドンミュージカル《プリムローズ》
↓《ラプソディ・イン・ブルー》ポスター

1925年27歳
1月1日ケイ・スウィフトとガーシュウインは出会い、彼女とは長い付き合いになって行く。ガーシュウインの母親が許さなかったため、二人は結婚できなかった。ガーシュウインが亡くなった後、ケイはアイラとともにガーシュウィンの未完成作品を完成させるために一生懸命働いた。
7月20日号でガーシュインはTIMEタイム誌の表紙を飾った
著名な指揮者ウォルター・ダムロッシュは、ニューヨーク交響楽団のためにピアノ協奏曲を作曲するようガーシュインに依頼した。この《協奏曲ヘ長調》は、ガーシュインの最高傑作であると多くの人が感じている。
12月カーネギー・ホールでピアノと管弦楽のための《協奏曲ヘ調》がウォルター・ダムロッシュ指揮で初演された。
1920年代半ば、ガーシュウインは短期間パリに滞在し、その間に著名なナディア・ブーランジェに作曲の勉強を申し込んだが、モーリス・ラヴェルなど他の数人の教師候補とともに断られ、厳格なクラシック音楽の勉強はジャズの影響を受けた彼のスタイルを台無しにすることを恐れた。
モーリス・ラヴェルがガーシュウインに送った拒否状では、『すでに一流のガーシュウインであるのに、なぜ二流のラヴェルになるのか』と書かれていた。
ガーシュウインはパリ滞在中に《巴里のアメリカ人》を作曲をはじめた。この作品は1928年12月13日にカーネギーホールで初演された際に賛否両論の評価を受けたが、すぐにヨーロッパやアメリカで標準的なレパートリーとなった。
作品:ピアノと管弦楽のための《協奏曲ヘ長》、ミュージカル《ティップ・トー Tip-toes 》、《つま先立ち》、《もっと教えて!》
ガーシュイン一家はセント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂のすぐ近くの、カテドラル・パークウェイとも呼ばれる110番街に住んでいた。
↓ ガーシュウイン一家の住んでいたアパート カテドラル・パークウェイ110番街 501 West 110th Street

↓ カーネギーホールのガーシュウイン

1926年28歳
イギリス、パリ旅行。タクシーのクラクションを購入し後年《パリのアメリカ人》の効果音で使用。
クラシック曲《巴里のアメリカ人》はガーシュウインがフランス滞在中にスケッチした。その後オーケストレーションし、1928年12月13日にカーネギー ホールで初演された。
9月14日兄:アイラがニューヨーク市でレオノーレ・ストランスキーと結婚した。
作品:《Oh, Kay!》、ピアノ曲《三つの前奏曲》
110番街のアパートが2台のグランドピアノを置くには狭すぎると感じたため、ガーシュウインはリバーサイド ドライブ近くの5階建てのこの家を購入した。この静かなニューヨークの通りと、家族全員がそれぞれの階で一緒に暮らしていたという事実がある。地下だった1階には、キッチンとビリヤード台のある広い部屋があり、後には卓球台も設置されました。誰もがここに集まり、両親があまりよく知らない近所の人たちも集まることもあったが、彼らはとても親切で、ドアに鍵をかけることはなかった。
2台のスタインウェイは2階のリビングルームにあった。ここは両親の寝室と小さな居間もあった。日曜日の夕方には定期的に集まり、ガーシュウインはいつもそこでピアノを弾いていた。弟アーサーと妹フランシスは3階に部屋があり、4階はアイラと妻のレオノーレの部屋だった。
↓ ガーシュウィンの購入した103番街のアパート

↓ 同上プレート(1925-1931年まで住んていたようだ)

1927年29歳
フリッツ・ライナー指揮シンシナティ交響楽団と競演した。
11月ニューヨーク、アルヴィン劇場杮落としで《ファニー・フェイス》上演。
同い年の作曲家ヘンリー・カウエルのレッスンを受ける(1929年迄まで3年間続く)カウエルはカリフォルニア大学バークレー校でチャールズ・シーガーに作曲法を学び修めている。カウエル門下にはガーシュウインの他、ジョン・ケージ、ルー・ハリソン等がいた。ファニー・フェイス (1927)、ストライク・アップ・ザ・バンド (1927年と1930年)
作品:《ストライク・アップ・ザ・バンド》、《変な顔》、《ファニー・フェイス》、《ストライク・アップ・ザ・バンド》

1928年30歳
ロンドンン、パリ旅行しドミトリー・テオムキン、ラヴェル、プーランク、ミヨー、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、に会った。
4月ドイツ旅行でクルト・ヴァイル、フランツ・レハール、ウィーンではエマーリッヒ・カールマン、アルバン・ベルクに会った。
12月13日管弦楽のための交響詩《パリのアメリカ人》が、ウォルター・ダムロッシュの指揮によるニューヨーク交響楽団の演奏でカーネギーホールで初演し大喝采を受け、多くの好評を博した。
ミュージカル《ロザリーRosalie 》作曲。『ガール・クレイジー』(1930年)
作品:《パリのアメリカ人》(管弦楽版)、《ロザリー》、《宝物少女》
↓ 1928年3月8日、ニューヨーク市でモーリス ラヴェルの誕生日を祝うパーティーが開かれた。左から、オスカー フリード、エヴァ ゴーティエ、ピアノを弾くラヴェル、マノア レイデ テデスコ、ジョージ ガーシュイン。

↓《巴里のアメリカ人》ポスター

↓《巴里のアメリカ人》

1929年31歳
春、ローザとモリスは冬のほとんどをフロリダで過ごし、夏はニューヨーク州北部で過ごすため、家族は103番街の家を引き払った。ガーシュウインとアイラは、75番街の北西角にある17階建てのアパートの隣接するペントハウスを借りた。アイラの家は東側にあり、ブロードウェイとセントラル パーク ウェストに面していた。ガーシュウインの家は西にニュージャージーを見渡せ、ハドソン川に沈む夕日を眺めるのを楽しめた。二人の兄弟はどちらも絵を描き、美術品を収集していた。ガーシュウインはユトリロ、モディリアーニ、ルオー、ゴーギャン、ルソー、ピカソのほか、多くのアメリカ人芸術家の絵画を収集した。
8月ルイゾーン・スタジアムでウィリアム・デイリーやエドワード・キレニーの指揮法の助言を得て指揮者デビューした。
ガーシュウイン兄弟は《ショー・ガール》を発表した。
作品:《ショーガール》
↓ ガーシュウインの借りた33 Riverside Driveのアパート

1930年32歳
1月14日1927年に初演が失敗に終わった《ストライク・アップ・ザ・バンド》の改訂版が、ブロードウェイのタイムズスクエア劇場で上演された。
10月14日《ガール・クレイジー》がニューヨークのアルヴィン劇場で開幕し、ジンジャー・ロジャースとエセル・マーマンが主演を務めた。
ストライク・アップ・マンハッタン交響楽団指揮者、フォックス映画と作曲家契約した。
《ガール・クレイジー》を発表し、ジンジャー・ロジャースが歌う《エンブレイサブル・ユー》や《アイ・ガット・リズム》といったスタンダード曲を導入した
作品:《ガール・クレイジー》
これは、アイラとガーシュウインが同じ建物に住んでいなかった最初で唯一の時でした。125は72番街の132の真向かいにあり、アイラはガーシュウインと一緒に仕事に行くために広い道路を渡らなければなりませんでした。彼は絶対に必要だと感じた場合のみ、その旅に出ました。
↓ 125イースト72番街

↓ 1930年頃のブロードウェイ

1931年33歳
12月26日ミュージカル・コメディ《君がために歌わんOF THEE I SING》がブロードウェイのミュージック ボックス シアターで上演され、ガーシュインの音楽とアイラ、ジョージ S. カウフマンとモリー ライスキンドの脚本が使われた。
ガーシュウィンがオリジナル音楽を書いた映画「デリシャス」のセカンドラプソディの初期バージョンと他の1つの音楽シーケンスがこの映画で使用されたが、残りはスタジオによって使われなかった。
クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団では、ピアニストとしてガーシュうインが発表された。曲はガーシュウインのピアノと管弦楽のための《Rhapsody No.2》を選ばれた。
作品:合唱と管弦楽のための『ドリーム・シーケンス/メルティング・ポット》、《汝の歌》、《ピアノと管弦楽のための第2狂詩曲(原題は「リベットの狂詩曲」》、《オブ・ジー・アイ・シング》(原題はルンバ)、《ストライク・アップ・ザ・バンド》

1932年34歳
1月29日ガーシュウインのピアノ、セルゲイ・クーセヴィツキー指揮《狂詩曲第二番Rhapsody No.2》がボストンのシンフォニーホールで初演された。
5月2日ガーシュインの音楽とアイラの歌詞、ジョージ S. カウフマンとモリー ライスキンドの脚本が使われたミュージカル《君がために歌わんOF THEE I SING》は演劇部門でピューリッツア賞受賞した。受賞者はジョージ・S・カウフマン、モリー・ライスキンド、アイラ・ガーシュインであった。ミュージカルが受賞したのはこれが初めてだった。残念ながら、ガーシュウインの作曲貢献は認められなかったがその後、ミュージカルに贈られるピューリッツァー賞にはすべて作曲家が含まれるようになった。
5月14日父の死。
音楽理論家ヨーゼフ・シリンガーに作曲法を師事(1932年-1936年)。
作品:「ジョージ・ガーシュインのソングブック」、18曲のピアノ独奏編曲、《管弦楽のためのキューバ序曲》

1933年35歳
春、ジョージは独身者向けの究極のアパートで14室の二世帯住宅を借りた。天井が高く、彼の膨大な美術コレクション、スタインウェイ3台を置くのに十分なスペースがあった。彼は自分でデザインした特別な机を製作した。作業面は傾斜し、足置きがあり、原稿用紙用の引き出し、スライド式の棚、使用していないときはしまえる鉛筆削りが付いていた。
↓ ガーシュウインの借りた14室のアパート

1934年36歳
夏、ガーシュウインは小説『ポーギー』の著者デュボーズ・ヘイワードに招待され、サウスカロライナ州のフォリー島で過ごした。このワーキングバケーション中に、彼はオペラ《ポーギーとベス》の音楽を書くインスピレーションを得た。《ラプソディ・イン・ブルー》の作曲家は《ポーギーとベス》をアメリカの古典とみなしたが、批評家たちはこの作品をどう評価していいのか、オペラなのか、それとも単に野心的なブロードウェイミュージカルなのか判断できなかった。『この作品は境界を越えた』と演劇史家ロバート・キンボールは言う。『この作品は音楽作品そのものでも、ドラマそのものでもなかったが、音楽評論家とドラマ評論家の両方から反応を引き出しました。しかし、この作品は常にカテゴリーの外側にあったのです。』と語った。
作品:オーケストラのための《ストライク・アップ・ザ・バンド》からの行進曲、ピアノとオーケストラのための《I Got Rhythm」変奏曲》

1935年37歳
8月25日オペラ《ポーギーとベス》完成。原作はエドワード・デュポーズ・ヘイワードの小説『ポーギー』で兄のアイラと作者ヘイワードがオペラ化に八年間にわたり取り組んだ。アルバムには「サマータイム」、「女はいつか消える」、「男はもういない」がある。デュボーズ・ヘイワードの小説『ポーギー』に魅了されたガーシュウインは、ブルースとジャズの表現法を使ったオペラに最適な手段だと認識した。ガーシュウインの最も野心的な作品となった。
彼が「フォークオペラ」と呼んだ《ポーギーとベス》(デュボーズ、ドロシー・ヘイワード、アイラ・ガーシュインとの共作)は、ガーシュウイン兄弟の最高の作品と言える。第一幕で歌われる「サマータイム」はよく知られている。
9月30日デュボーズ・ヘイワードの著書『ポーギー』とデュボーズ・ヘイワードと妻ドロシー、アイラによるの戯曲に基づいたオペラ《ポーギーとベス》がボストンのコロニアル劇場で初演したが好評を得なかった。興行的に失敗した後、ガーシュウインはカリフォルニア州ハリウッドに移住した。
10月10日オペラ《ポーギーとベス》が、ニューヨーク ブロードウェイのアルヴィン劇場で初演され公演は成功を収めた。
作品:パードン・マイ・イングリッシュ(1933)
ケーキを食べよう(1933)
↓オペラ《ポギーとベス》

↓オペラ《ポギーとベス》より「サマータイム」

1936年38歳
この年、彼はRKO映画からフレッド・アステアとジンジャー・ロジャース主演の映画『踊ろうよ』の音楽を書くよう依頼された。バレエとジャズを新しい形で融合させたガーシュウインの長編スコアは1時間以上に及ぶ。ガーシュウインは作曲と編曲に数ヶ月を要した。ガーシュウインは作曲家のケイ・スウィフトと10年間不倫関係にあり、頻繁に音楽について相談していた。2人は結婚することはなかったが、彼女は最終的に夫のジェームズ・ウォーバーグと離婚して関係を続けた。スウィフトの孫娘、キャサリン・ウェーバーは、2人が結婚しなかったのはジョージの母ローズが「ケイ・スウィフトがユダヤ人でないことに不満を抱いていた」ためではないかと示唆している。ガーシュイン兄弟の1926年のミュージカル《オー・ケイ》は彼女にちなんで名付けられた。ガーシュインの死後、スウィフトはガーシュインの曲の一部を編曲し、いくつかの録音を書き起こし、兄のアイラといくつかのプロジェクトでコラボレーションした。1942年と1953年に再演され、その後世界ツアーを行ったほか、1959年には映画化された。
管弦楽のための《キャットフィッシュ・ロウ》、《『ポーギーとベス》の音楽に基づく組曲
↓ 指揮するガーシュウイン(1937年頃)

1937年39歳
2月11日彼はフランスの巨匠ピエール・モントゥーの指揮の下、サンフランシスコ交響楽団と《ピアノ協奏曲ヘ長》を特別演奏会で演奏した。
5月7日ガーシュウインとアイラ兄弟が手がけたフレッド・アステアの最初の映画『シャル・ウィ・ダンス』が RKO から公開された。
7月ローマ、サンタ・チェチーリア音楽院名誉会員となった。
年の初め、ガーシュウインはひどい頭痛と、ゴムの焦げた臭いが繰り返し感じられると訴え始めた。1934年2月にはすでに、デトロイト駅でゴミの焦げた臭いがすると言っていたが、一緒にいた人たちは気づかなかった。普段は自作のピアニストとして優れた才能を発揮するガーシュウインだが、演奏中に協調運動障害や意識消失に見舞われた。当時、彼はビバリーヒルズの借家でアイラと妻のレオノーレと暮らしながら、他のハリウッド映画のプロジェクトに取り組んでいた。
レオノーレ・ガーシュインは、ガーシュウインの気分のむらや、食卓で食べ物をこぼさずに食べられない様子に悩まされはじめた。彼女は精神疾患を疑い、息子を家から出して、近くにある作詞家イップ・ハーバーグの空き部屋に移すよう主張した。そこで息子は、彼の従者であるポール・ミューラーの世話になった。頭痛と幻覚は続いた。
7月9日の夜、ガーシュウインはハーバーグの家で倒れた。彼はそこでゴールドウィン・フォリーズの楽譜を書いていた。彼はロサンゼルスのシーダーズ・オブ・レバノン病院に緊急搬送されたが、昏睡状態に陥った。その時になって初めて、医師たちは彼が脳腫瘍を患っていると信じるに至った。
レオノーレはガーシュウインの親友エミール・モスバッハーに電話し、神経外科医を早急に探す必要があることを説明した。モスバッハーはすぐにボストンの先駆的神経外科医ハーヴェイ・カッシングに電話した。カッシングは当時すでに数年引退しており、メリーランド州知事ハリー・ナイスとともにチェサピーク湾で漁をしていたウォルター・ダンディを推薦した。モスバッハーはホワイトハウスに電話し、沿岸警備隊の巡視船を派遣して知事のヨットを探し、ダンディを急いで岸に引き上げさせた
その後、モスバッハーはチャーター機でダンディをニューアーク空港まで運び、そこで彼はロサンゼルス行きの飛行機に乗ることになっていた。
その時にはガーシュインの容態は危篤で、すぐに手術が必要だった。
7月11日日曜日の早朝、ダンディが到着する前に、シーダーズの医師らが神経膠芽腫と思われる大きな脳腫瘍を摘出したが、ガーシュウインはその日の朝、38歳で亡くなった。
7月9日に立ち上がった後に突然倒れて昏睡状態に陥ったという事実は、デュレ出血を伴う脳ヘルニアと解釈されている。
ガーシュインの友人や崇拝者たちは衝撃を受け、悲嘆に暮れた。
ジョン・オハラは「ガーシュウインは1937年7月11日脳腫瘍の手術後に38才の若さでこの世を去ったが、信じたくなければ信じなくてもいい」と述べた。ガーシュウインはニューヨーク州ヘイスティングス・オン・ハドソンのウエストチェスターヒルズ墓地に埋葬された。
9月8日にはハリウッドボウルで追悼コンサートが開催され、オットー・クレンペラーがガーシュインの三つの前奏曲のうち二曲目を自ら編曲して指揮した。
墓地はウエストチェスターヒルズ墓地にあるガーシュインの霊廟にある。
《They Can’t Take That Away from Me》アカデミー賞最優秀オリジナル歌曲賞にノミネートされた。
作品:《窮地に陥った乙女》、映画音楽付き長編バレエ《Shall We Dance》、《ゴールドウィン・フォリーズ》(1938年)死後に公開された。
ショッキング・ミス・ピルグリム(1947年)では、これまで未発表だった曲が使われている。
↓ 墓

1948年12月16日母の死

6.主な作品

<オペラ>
《ブルー・マンディ》(1922年)1幕物
《135番街》 135th Street(1923) 全1幕のアフロ・アメリカン風オペラ
《ポーギーとベス》 Porgy and Bess(1934-35) 全3幕9場のオペラ

<ミュージカル>
《8時半》 Half Past Eight(1918)
《1918年のヒッチー=クー》 Hitchy-Koo of 1918(1918)
《危険なメイド》 A Dangerous Maid(1921)
《お願いだから》 For Goodness Sake(1922)
《虹》 The Rainbow(1923)
《プリムローズ(さくら草》 Primrose(1924)
《レディー・ビー・グッド》 Lady be Good(1924)
《ティップ・トー》 Tip-toes(1925)
《トレジャー・ガール》 Treasure Girl(1928)
《ロザリー》 Rosalie(1928)
《ショー・ガール》 Show Girl(1929)
《ストライク・アップ・ザ・バンド》 Strike up the Band(1930)
《ガール・クレイジー》 Girl Crazy(1930)
《オブ・ジー・アイ・シング》 Of Thee I Sing(1931)
《レットエム・イート・ケーク》 Let ’em eat cake(1933)
《ショー・イズ・オン》 The Show is On(1936)

<映画音楽>
《デリシャス Delicious》(1931) デイヴィッド・バトラー監督の映画のための
《踊らん哉》(1937) マーク・サンドリッチ監督の映画のための。原題は「Shall We Dance」
《踊る騎士 A Damsel In Distress》(1937) ジョージ・スティーヴンス監督の映画のための
《ゴールドウィン・フォリーズ The Goldwyn Follies》(1937) ジョージ・マシャール監督の映画のための

<管弦楽曲・協奏曲>
《ラプソディ・イン・ブルー》 Rhapsody in Blue(1924)
《ピアノ協奏曲 ヘ調》(1925)
《パリのアメリカ人》 An American in Paris(1928)
《ラプソディ第2番》 Rhapsody No.2(1931)
《キューバ序曲》 Cuban overture(1932)
《アイ・ガット・リズム変奏曲》 Variations on a original theme “I got rhythm”(1934)
交響組曲《キャットフィッシュ・ロウ》 Catfish Row(1936)

<室内楽曲>
《子守歌》(1919)
《弦楽四重奏のための作品》1968年に出版
《ピアノ曲》
《タンゴ》(1914)
《リアルトのさざ波 – ラグ》 Rialto Ripples Rag(1917) ウィル・ドナルドソン(Will Donaldson)との共作
《3つの前奏曲》(1926)
《プロムナード》(1937)
《2つの調のための即興曲》(1929)

<歌曲>
シンス・アイ・ファウンド・ユー Since I found you(1913)
ホエン・ユー・ウォント・エム、ユー・キャント・ゲット・エム When you want’em, you can’t get ’em(1916)
ザ・リアル・アメリカン・フォーク・ソング The real American folk song(1918)
ミュージカル『レディース・ファースト』より
香港 Hong Kong(1918)
ミュージカル『8時半』より
ドーナッツ Doughnuts(1919)
ミュージカル『モリス・ジェストの深夜の騒ぎ』より
スワニー Swanee(1919)
『キャピトル・レヴュー』より
ヤンキー Yan-Kee(1920)
ミュージカル『モリス・ジェストの深夜の騒ぎ』より
バックホーム Back home(1920)
ミュージカル『Dere Mable』より
サムワン Someone(1922)
サムワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー Someone To Watch Over Me(1926)
ミュージカル『Oh, Kay!』より
アイル・ビルド・ア・ステアウェイ・トゥ・パラダイス I’ll Build A Stairway To Paradise(1928)
ミュージカル『For Goodness Sake』より
アイ・ガット・リズム I got rhythm(1930) 作詞は兄のアイラ。
ジャスト・アナザー・ルンバ Just another rhumba(1938)
<ガーシュウィン作品を扱ったミュージカル映画>
『踊る騎士』(A Damsel in Distress、1937年 アメリカ、RKO製作)


『華麗なるミュージカル』(The Goldwyn Follies、1938年 アメリカ、サミュエル・ゴールドウィン製作)

『アメリカ交響楽』(Rhapsody in Blue、1945年 アメリカ)

『巴里のアメリカ人』(An American In Paris、1951年 アメリカ、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー製作)
『ポーギーとベス』(Porgy and Bess、1959年 アメリカ、MGM製作)

7.アイラとジョージのガーシュウイン兄弟について


↓ガーシュウインと兄のアイラ

ジョージ・ガーシュウイン(以降ガーシュウインという)と兄アイラ・ガーシュイン(以降アイラという)
・アイラは、ニューヨーク市のブルックリンで、アイラ・ガーショヴィッツとしてモリス(モイシェ)とローズ・ガーショヴィッツの子として生まれた。
・両親は、子供たちが有名になるずっと前から姓をガーシュインに変更していた(「ガーシュイン」と綴られるようになったのは後になってからである)。
・アイラの若い頃は内気で、家で読書に多くの時間を費やしていたが、小学校から大学まで、いくつかの学校新聞や雑誌で重要な役割を担った。
・アイラは1914年にタウンゼント・ハリス高校を卒業し、そこでイップ・ハーバーグと出会った。
・アイラはニューヨーク市立大学に通ったが、中退した。
・アイラの弟ガーシュウインが十八歳からティン・パン・アレーで作曲と「宣伝」を始める一方で、アイラは父親のトルコ風呂のレジ係として働いていた。
・アイラが音楽業界に関わるようになったのは1921年になってからだった。
・アイラとアレックス・アーロンズはと契約し、彼の次のショー「Two Little Girls in Blue」(「アーサー・フランシス」というペンネームで書かれた)の音楽を作曲した。このショーは最終的にエイブラハム・アーランガーがプロデュースし、ヴィンセント・ユーマンズとポール・ラニンが共同作曲した。アイラの歌詞は好評で、彼はたった一回のショーで演劇界に進出することができた。
・アイラと弟ガーシュウインが初めてブロードウェイでヒットした《レディ・ビー・グッド!》の曲を書くためにタッグを組んだのは1924年になってからだった。・
・兄弟が一緒になってからは、彼らの才​​能はアメリカミュージカル史上最も影響力のあるものとなった。
・ガーシュウイン兄弟が《レディ・ビー・グッド》の曲を書くためにタッグを組んだとき、このアメリカのミュージカルは本来の表現方法を見出した。彼らは一緒に12以上のショーと4本の映画の音楽を書いた。彼らの最も有名な作品には「The Man I Love」「Fascinating Rhythm」「Someone to Watch Over Me」「I Got Rhythm」「They Can’t Take That Away from Me」などがある。
・兄弟の協力関係は1937年にガーシュウインが脳腫瘍で突然亡くなるまで続いた。
・弟の死後、アイラは再び曲を書くまでに三年近く待った。
・この休止期間の後、彼はジェローム・カーン(カバーガール)、クルト・ヴァイル(「ここからどこへ行くの?」「レディ・イン・ザ・ダーク」)、ハロルド・アーレン(「人生は8時40分に始まる」「アリー/ スター誕生」)といった優れた作曲家たちとチームを組んだ。
・その後14年間、アイラ・ガーシュインは多くの映画音楽やいくつかのブロードウェイショーの歌詞を書き続けた。しかし、1946年に作曲家アーサー・シュワルツと共同で書いた離婚をテーマにした「スマートな」ショー「パーク・アベニュー」が失敗し、ブロードウェイに別れを告げた。当時彼は「ミュージカル化のためにいくつかの物語を読んでいた。
・1947年、彼とジョージが書いたが使われなかった11曲がベティ・グレイブルの映画『ショッキング・ミス・ピルグリム』に組み込まれ、後に彼はビリー・ワイルダーの映画『キス・ミー・ステューピッド』の喜劇的な歌詞を書いた。
・アメリカの歌手、ピアニスト、音楽史家であるマイケル・ファインスタインは、作詞家の晩年にアイラのもとで働き、彼のアーカイブの整理を手伝った。この時期には、失われた音楽の宝物がいくつか発掘され、ファインスタインはそのうちのいくつかを演奏した。

<アイラとガーシュウィン受賞・受章>
・ガーシュウインの歌曲のうち三曲《They Can’t Take That Away From Me》(1937 年)、《Long Ago and Far Away》(1944 年)、《The Man That Got Away》(1954 年)) はアカデミー賞最優秀オリジナル歌曲賞にノミネートされたが、受賞しなかった。
・アイラは、ジョージ S カウフマン、モリー ライスキンドとともに、1932年に《Of Thee I Sing》でピューリッツァー賞演劇部門で受賞した。
・ジョージ・ガーシュウイン&アイラ・ガーシュイン生涯音楽功労賞は、音楽への貢献と、UCLAへの応援歌《Strike Up the Band for UCLA》の寄贈を称えるために、UCLAによって1988年に設立された。過去の受賞者には、アンジェラ・ランズベリー(1988年)、レイ・チャールズ(1991年)、メル・トーメ(1994年)、バーナデット・ピーターズ(1995年)、フランク・シナトラ(2000年)、スティーヴィー・ワンダー(2002年)、k.d.ラング(2003年)、ジェイムス・テイラー(2004年)、ベイビーフェイス(2005年)、バート・バカラック(2006年)、クインシー・ジョーンズ(2007年)、ライオネル・リッチー(2008年)、ジュリー・アンドリュース(2009年)などがいる。

<アイラとガーシュウィン遺産>
・アイラとガーシュウィンの作品は、アメリカ人の意識に深く根付いている。ジョージの《ラプソディ・イン・ブルー》の冒頭のクラリネットのグリッサンド、《パリのアメリカ人》のタクシークラクションのテーマ、そして兄弟の作品《I Got Rhythm》《Embraceable You》《The Man I Love》《Someone to Watch Over Me》《Fascinating Rhythm》など、すぐにわかる。
・アイラは、現代世界の音を喜んで聴きいた。「彼は、生活の細部に鋭い目と耳を持っていた。」彼は日記にこう記している。『一日で聞こえた音は、エレベーターのゴロゴロという音、電話のベルの音、電話のブザー音、赤ちゃんのうめき声、歓喜の叫び声、フラットホイールの金切り声、しわがれたクラクション、しわがれた声、チリンチリンという音、サンドペーパーを擦るマッチの音、迫りくる地下鉄で爆破される重たい爆音、溝に引っかかる鉄のフック。』
・1987年、アイラの未亡人レオノーレ・ガーシュインは、ニューヨーク市ローワーイーストサイドのエルドリッジストリート185番地にある100年の歴史を持つ施設、ユニバーシティ・セトルメントにアイラ・ガーシュイン・リテラシー・センターを設立した。センターは、主にヒスパニック系と中国系アメリカ人に英語プログラムを提供する目的で設立された。アイラと弟のガーシュウインは、放課後の多くの時間をセトルメントで過ごしていた。
・2007年、議会図書館はポピュラーソング賞にアイラ・ガーシュインとジョージ・ガーシュウインにちなんで名付けた。この賞は、ポピュラー音楽が世界の文化に与えた深遠かつ前向きな影響を認め、生涯にわたる貢献がガーシュウイン家の卓越性の基準を体現する作曲家または演奏家に毎年授与される。
・2007年3月1日、議会図書館は、アメリカで最も尊敬されている作詞家およびミュージシャンの ひとりであるポール サイモンが、毎年開催される議会図書館「ポピュラーソング・ガーシュウイン賞」の初受賞者になったと発表した。「第二回ポピュラーソング・ガーシュウイン賞」は、2009年2月25日にバラク オバマ大統領によってスティーヴィー ワンダーに授与された。

8.その他


・1998年ピューリッツァー賞授与
・2006年ロングアイランド音楽殿堂入り
・ガーシュウィン音楽特別功労賞はULCAによって設立
・1973年ガーシュインを称える米国記念切手発売。
・伝記映画「ラプソディ・イン・ブルー」日本題名「アメリカ交響楽」がある。

・ガーシュウイン自身の協奏曲ヘ長調は、予想されていたジャズスタイルというよりも、クロード・ドビュッシーの作品に関連があると批判された。しかし、この比較は彼がフランス風のスタイルを探求し続けることを阻止することはなかった。 《巴里のアメリカ人》のタイトルは、作曲家として意識的に辿った道のりそのものを反映している。「曲はオリジナルだが、冒頭部分はドビュッシーや六人組のやり方で典型的なフランス風に展開される。」

・ガーシュウインは、アルバン・ベルク、ドミトリ・ショスタコーヴィチ、イーゴリ・ストラヴィンスキー、ダリウス・ミヨー、アルノルド・シェーンベルクの作品に興味をそそられた。また、シェーンベルクに作曲のレッスンを依頼したが、シェーンベルクは「君を悪いシェーンベルクにするだけだ。君はすでに素晴らしいガーシュインだ」と言って断った。(この引用は、1928年にガーシュウインがフランスを訪れた際にモーリス・ラヴェルが言ったとされる『一流のガーシュインであるのに、なぜ二流のラヴェルでいるんだ?』という言葉に似ている。)。
・ガーシュウインは特にベルクの音楽に感銘を受け、ベルクは彼に抒情組曲の楽譜を贈った。1931年にレオポルド・ストコフスキーが指揮したヴォツェックのアメリカ初演に出席し、『興奮し、深く感銘を受けた』という。

・ロシア人のジョセフ・シリンガーはガーシュウインの作曲教師(1932年-1936年)として、作曲法をガーシュウインに教えるという点で多大な影響を与えた。シリンガーがガーシュインに与えた影響の性質については意見の相違がある。シリンガーは死後にオペラ《ポーギーとベス》が成功した後、オペラの制作を監督する上で大きな直接的影響を与えたと主張した。一方アイラは、兄がこの作品にそのような援助をしたことを全面的に否定した。ガーシュインと師の音楽的関係についての三つ目の記述は、ガーシュウインの親友でシリンガーの教え子でもあったヴァーノン・デュークが1947年にミュージカル・クォータリー誌に寄稿した記事である。

・ガーシュウインが他と一線を画していたのは、音楽の形式を独自の声に操る能力だった。ティン・パン・アレーで発見したジャズを、当時の人気曲のリズムや音色と融合させることで主流に押し上げた。ガーシュウインは自分の音楽について大げさな発言をすることはほとんどなかったが、『真の音楽は人々と時代の思想や願望を反映したものでなければならない。私の人々はアメリカ人であり、私の時代は今日だ』と信じていた。

・2007年、アメリカ議会図書館はガーシュウインとアイラにちなんで、ポピュラーソングのためのガーシュウィン賞と名付けた。ポピュラー音楽が文化に与えた深遠で前向きな影響を認め、この賞は生涯の貢献がガーシュウイン家の卓越性の基準を体現する作曲家や演奏家に毎年贈られる。2007年3月1日、第1回ガーシュウイン賞がポール・サイモンに授与された。

<録音と映画>
・ガーシュウインはキャリアの初期に、本名と変名の両方で140曲以上の自動ピアノ ロールを録音しており、これが主な収入源となっていた。そのほとんどは当時のポピュラー音楽で、少数は彼自身の作品であった。ミュージカル脚本家としての収入が相当なものになると、定期的なロール録音の仕事は不要になった。
・1920年代を通して、エオリアン・カンパニーの再生ピアノ用に主なヒット曲のロールを追加録音したが、その中には《ラプソディ・イン・ブルー》の完全版も含まれていた。
・ピアノロールに比べると、ガーシュウインの演奏を録音したものはほとんどない。最初の録音は、1919年のフレッド・ヴァン・エプス・トリオとの《スワニー》である。録音のバランスは、ヴァン・エプスのバンジョーの演奏が際立ち、ピアノは影に隠れている。この録音は、1920年初頭に《スワニー》がアル・ジョルスンの名物曲として有名になる前に行われた。
・ガーシュウインは、世界初演直後の1924年に、ポール・ホワイトマンとそのオーケストラと共にビクター・トーキング・マシーン・カンパニーのために《ラプソディ・イン・ブルー》の短縮版を録音した。ガーシュウインと同オーケストラは、1927年にビクターのために短縮版の電子録音を行った。しかし、スタジオ内での解釈をめぐる論争でホワイトマンは怒り、セッションを途中で抜けた。ビクターの専属指揮者兼編曲家のナサニエル・シルクレットがオーケストラを率いたが、オリジナルのレコードレーベルではホワイトマンが指揮者としてクレジットされている。
・ガーシュウインは、ミュージカルの曲をピアノ独奏で多数録音しており、その中にはフレッドとアデルのアステアのボーカルやピアノのための3つの前奏曲も含まれている。
・1929年、ガーシュウインはナサニエル・シルクレットとビクター交響楽団による《巴里のアメリカ人》の世界初録音を「監督」した。特にシルクレットが指揮を執り、音楽について独自の考えを持っていたため、録音におけるガーシュウインの役割はかなり限定されていた。短いチェレスタのソロを演奏する人が誰も雇われていないことがわかったとき、ガーシュウインに楽器を演奏できるか、また演奏するつもりがあるか尋ねられ、彼は同意した。録音のスローセクションでは、ガーシュウインの演奏がかなり短時間だけ聞こえる。
・ガーシュウインはまた、ルディ・ヴァリーの番組を含むいくつかのラジオ番組に出演し、自身の作曲作品のいくつかを演奏した。これには、ヴァリーがスタジオオーケストラを指揮して演奏したヘ長調協奏曲の第3楽章も含まれている。これらの演奏の一部は転写ディスクに保存され「LP」 や「CD」でリリースされている。
<ポギーとベス>
・1934年、計画していたオペラ《ポギーとベス》の資金を稼ぐため、ガーシュウインはMusic by Gershwinと題した自身のラジオ番組の司会を務めた。この番組はNBCブルーネットワークで2月から5月まで、そして9月に再び放送され、1934年12月23日の最終回まで放送された。ガーシュウインは自身の作品だけでなく他の作曲家の作品も紹介した。このラジオ放送や他のラジオ放送からの録音には、《I Got Rhythmによる変奏曲》、《協奏曲ヘ長調》の一部、ミュージカルコメディからの多数の曲が含まれていた。また、オーケストラを指揮しピアノソロを弾いて、《狂詩曲第二Second Rhapsody》の通し演奏も録音している。ガーシュウインは、オリジナルキャストのメンバーと《ポーギーとベス》の抜粋を録音し、キーボードでオーケストラを指揮した。選曲と出演者の名前もアナウンスした。1935年、RCAビクターはガーシュウインに《ポーギーとベス》のハイライト部分の録音を監督するよう依頼した。これらは彼の最後の録音となった。

・RCAビクターは、1938年7月10日にNBCラジオネットワークで放送されたRCAマジックキー番組から録音された5枚組12インチ78回転メモリアルアルバム(C-29)を発売した。ナサニエル・シルクレット指揮のビクターサロングループと歌手のジェーン・フロマンが出演した。1931年8月のマンハッタン劇場(現在のエドサリバン劇場)のオープニングで撮影された、ガーシュウィンが《アイ・ガット・リズム》を演奏する74秒のニュース映画のフィルムクリップが現存している。ガーシュウィンの無声ホームビデオもあり、その一部はコダクロームカラーフィルムで撮影されており、作曲家へのトリビュートで取り上げられている。さらに、1930年のプロダクション《ストライク・アップ・ザ・バンド》のブロードウェイリハーサル中に、ガーシュウィンがピアノで《マドモアゼル・フロム・ニューロシェル》と《ストライク・アップ・ザ・バンド》を演奏するニュース映画の映像もある。 30年代半ば、《ストライク アップ ザ バンド》は UCLA にフットボールの応援歌として提供され、《ストライク アップ ザ バンド フォー UCLA》となった。クラークとマッカローのコメディ チームがガーシュインと会話し、演奏に合わせて歌っている様子が映し出されている。

<『ラプソディ・イン・ブルー』>
・1945年、ロバート・アルダがジョージ・ガーシュウイン役で主演した伝記映画『ラプソディ・イン・ブルー(日本題名「アメリカ交響楽」)』が製作された。この映画にはガーシュウインの生涯に関する多くの事実誤認が含まれているが、ラプソディ・イン・ブルーのほぼ完全な演奏など、彼の音楽の例も多数取り上げられている。
・1965年、ムービートーン・レコードは、ガーシュウインが演奏する《ラプソディ・イン・ブルー》と題されたガーシュウインのピアノロールとその他のお気に入りの作品を収録したアルバム『MTM 1009』をリリースした。LPのB面には、他の9つの録音が収録されている。
・1975年、コロンビア・レコードは、マイケル・ティルソン・トーマスが指揮するコロンビア・ジャズ・バンドのオリジナルのジャズバンド伴奏による、ガーシュウインの《ラプソディ・イン・ブルー》のピアノロールを収録したアルバムをリリースした。
・コロンビア・マスターワークス・リリースのB面には、ティルソン・トーマスがニューヨーク・フィルハーモニックを指揮して《巴里のアメリカ人》演奏した。
・1976年RCAレコードはガーシュインのオリジナル録音のコレクションをアルバム「ガーシュウイン・プレイズ・ガーシュウイン、ヒストリック・ファースト・レコーディングス」(RCAビクトローラAVM1-1740)で再リリースした。これには、ポール・ホワイトマン・オーケストラとガーシュウインのピアノによる1924年の《ラプソディ・イン・ブルー》の初LPリリース、ナサニエル・シルクレット指揮、ガーシュウインのチェレスタによる1929年の《巴里のアメリカ人》などが含まれている。また、《スリー・プレリュード》、《クラップ・ヨー・ハンズ》、《サムワン・トゥ・ウォッチ・オーバー・ミー》なども含まれている。

・ウディ・アレンの1979年の映画『マンハッタン』のサウンドトラックは、ラプソディ・イン・ブルー、愛は国を席巻する、そして『バット・ノット・フォー・ミー』を含むガーシュウインの作品のみで構成されており、ズービン・メータ指揮のニューヨーク・フィルハーモニックとマイケル・ティルソン・トーマス指揮のバッファロー・フィルハーモニックの両指揮者によって演奏されている。映画は、作家役のアレンが著書の登場人物について語るモノローグで始まる。「彼はニューヨークを愛していた…彼にとって、季節に関係なく、ここは白黒で存在し、ガーシュウインの素晴らしい曲で脈動する街だった。」。
・1993年アーティス・ウッドハウスの尽力により、ノンサッチ・レコードからガーシュウインのピアノロールを収録した2枚のオーディオCDが発売され、タイトルは『ガーシュイン・プレイズ・ガーシュウイン:ザ・ピアノ・ロールズ』である。
・2010年、ブライアン・ウィルソンは、ガーシュウインとアイラの10曲と、《ラプソディ・イン・ブルー》の一部で挟まれた、ブライアン・ウィルソン・リイマジンズ・ガーシュウィンをリリースした。また、ウィルソンとバンドメンバーのスコット・ベネットが未完成のガーシュウィンの断片から完成させた2曲の新曲も収録されている。

<同名人物>
・ブロードウェイの「ガーシュウイン劇場」はガーシュウインとアイラにちなんで名付けられた。
・ニューヨーク市マンハッタンのフラットアイアン地区にあるガーシュウイン ホテルは、ガーシュウインとアイラにちなんで名付けられた。
・ブルックリンでは、ガーシュウィン中学校166号が彼の名にちなんで名付けられている。
・ポーランド・アメリカララインの船の一つ、「MSコーニングスダム」にはガーシュうインデッキ(デッキ5)がある。

9.初演

10.関連動画

《ヘ調の協奏曲》
ガーシュウィン, ジョージ(Pf.)
George Gershwin – Concerto in F

《巴里のアメリカ人》
小澤征爾 / ベルリンフィル
George Gershwin: An American in Paris
Berliner Philharmoniker  Conducted by Seiji Ozawa
Gershwin Night, 2003

《ラプソディ・イン・ブルー》
指揮・ピアノ:レナード・バーンスタイン
演奏:ニューヨーク・フィルハーモニック
1976年
George Gershwin – Rhapsody in Blue –
Leonard Bernstein, New York Philharmonic (1976)

《Gershwin Documentary》
ガーシュウィンの作曲はポピュラーとクラシックの両方のジャンルにまたがり、彼の最も人気のあるメロディーは広く知られています。彼の最も有名な作品の中には、オーケストラ作品のラプソディ・イン・ブルー(1924)とパリのアメリカ人(1928)、そして現代オペラのポーギーとベス(1935)がある

《Gershwin in Focus with Jack Gibbons and Sir Ben Kingsley》
受賞歴のあるガーシュウィンのスペシャリストであるジャック・ギボンズが、ベン・キングスリー卿をジョージ・ガーシュウィンの声として執筆し、発表した、ジョージ・ガーシュウィンの生涯と仕事についての1時間のイラスト付きトーク。

歌劇《ポギーとベス》よりサマータイム
Porgy & Bess “Summertime”

歌劇《ポギーとベス》全幕2:34:32
Porgy and bess

歌劇《ポギーとベス》全幕 2:32:41
George and Ira Gershwin’s Porgy and Bess- The complete 2002 Lincoln Center Production

《アイ・ガット・リズム》
George Gershwin – I Got Rhythm

《Lullaby》
Indianapolis Symphony Orchestra / Leppard, Raymond

《キス・ミー・ケート》
Kiss me Kate @ BBC Proms

《三つの変奏曲》 
ガーシュウィン, ジョージ(Pf.)
Gershwin plays Gershwin 3 Preludes

《ラプソディ・イン・ブルー》
ガーシュウィン, ジョージ(Pf.)
Gershwin plays Gershwin: Rhapsody in Blue (solo piano)

映画《アメリカ交響楽》より

歌劇《ポーギーとベス》 より「ベス、お前は俺のものだ」
ハイッフェツ, ヤッシャ(Vn)
Jascha Heifetz – “Bess you is my woman now” (Gershwin’s Porgy and Bess)

《ヘ調の協奏曲》
Marc-André Hamelin,
Leonard Slatkin.

《メイビー》
ガーシュウィン, ジョージ(Pf.)
George Gershwin, Piano – Maybe (1926)

《ああ、ケイ!より》
George Gershwin – 4 songs from Oh Kay

《Catfish Row》
原曲は」「ポーギーとベスからの組曲でオペラ「ポーギーとベス」の音楽を基にした管弦楽曲
ステファノ・ボラーニ – ピアニスト
ルクセンブルク・フィルハーモニー管弦楽団
グスタボ・ヒメノ – 指揮者
Stefano Bollani – pianist
Orchestre Philharmonique du Luxembourg
Gustavo Gimeno – conductor
↓<画面下の(youtubeで見る)をタップすると再生します。>

「The Best of Gershwin」
0:00 Cuban Overture
11:20 Piano Concerto In F – Andante Con Moto, Adagio
22:34 Porgy & Bess
36:09 3 Preludes For Piano – Prelude #1
37:36 3 Preludes For Piano – Preludes #2
41:48 3 Preludes For Piano – Prelude #3
43:03 Girl Crazy (Selections)
48:53 They Can’t Take That Away From Me
51:53 Rhapsody In Blue

「The Best Of George Gershwin」
00:00:00 Summertime
00:03:47 Strike up the band
00:07:01 The man I love
0:14:31 Oh lady be good
00:18:07 I got a rhythm
00:23:04 A foggy day
00:28:17 Embraceable you
00:33:20 I have a crush on you
00:37:09 Of thee I sing
00:44:20 S wonderful
00:49:33 They can’t take away from me
00:59:17 Liza
01:04:45 Swanee
01:12:31 Love is here to stay
01:17:30 Maybe
01:21:44 But not for me
レオナルド・ロカテリ | ピアノLeonardo Locatelli | Piano

《Strike Up the Band》
指揮: ヨエル・レヴィ/ハイファ交響楽団(イスラエル)
HAIFA SYMPHONY ORCHESTRA

参考文献:「クラシック作曲家辞典」中河原理監修、フェニックス企画編 東京出版堂 / 「音楽史(音楽講座)」堀内敬三著 音楽之友社 / 「偉大なる作曲家のためのカルテ」五島雄一郎著 医療ジャーナル社 /  https://www.geni.com/people/George-Gershwin/6000000010555712441  / 「wikipedia」  / https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=mcafeess1&p=George%20Gershwin%27s%20Life%20Timeline&x=nl&b=11 / 「glennmie.blog.s0-net.ne.jp」 / 「robortkelloyphd.com」 / 「dictionary/composer/alkan」 / 「maucamedus.net/solmization/gawut」「www.tcat.ne.jp/eden/music」 / 「www.cadenza-od.com」 / 「www.coara.or.jp/-doraemon/gagaku/nenpyoz.htm」 / 「www.gecities.jp/gzgaku.ryuteki」 / 「www.univesal-music,co.jp」 / 「maokato.jp/bihoro/bihoro / 「homepage3.nifty.com/cio/a-alta」 / 「www.wagnerdailas.com」 / 「tsuzu/asakusaopera-nenpu.html」 / 「tsuzu/asakusaopera-nenpu.html」 / 「tsuzu/operetta-kafu.html」 / https://gershwininnewyork.wordpress.com/gershwin-homes/ 「江戸東京年表」吉原健一郎・大濱徹也編 小学館 / 「日本史・世界史 同時代比較年表」楠木誠一郎著 朝日新聞出 / 「音楽文庫・日本音楽史」伊庭孝著 講談社

生年代:1898年 明治31年 日本の首相 伊藤博文

没年代:1937年 昭和12年 日本の首相 近衛文麿

日本の元号:明治~大正~昭和

時代:明治時代~大正時代~昭和時代

日本の出来事:1898年 明治31年 ガーシュウィン 生まれる

1898 明治31年 ◎岡倉天心らが日本美術院を創設。 ◎上野公園で西郷隆盛像(高村光雲作)の除幕式。 ◎日本橋通の丸善がインキを製造販売。 ◎浅沼稲次郎誕生(社会運動家・政治家)。 ◎中浜万次郎(71歳)歿

1899 明治32年 ◎日本最初の蓄音機専門店、三光堂が浅草に開業。 ◎日本最初の南米移民がペルーへ出発。 ◎「中央公論」発刊。 ◎東京~大阪・神戸間に長距離電話開通。 ◎銀座に御木本幸吉が真珠店を開店。 ◎歌舞伎座で日本初の活動写真が上映。 ◎浅草に蓄音機専門店が開店。 ◎新橋に恵比寿ビールのビヤホール開店。 ◎赤坂溜池で森永太一郎(後の森永製菓)がキャンディ、ケ-キの製造開始。 ◎東武鉄道の北千住~久喜間が開通。 ◎丸の内に東京商業会議所落成。 ◎東京市の水道工事完成。 ◎池田勇人誕生(後の首相)。 ◎勝海舟(77歳)歿

1900 明治33年 ◎麹町に二葉幼稚園開設。 ◎神田小川町に東京歯科医学校開校。 ◎下谷二長町に凸版印刷合資会社設立。 ◎治安警察法が公布。 ◎伊豆七島航路が開設。 ◎警視庁が道路取締規則を制定し車両は左側通行となる。 ◎上野・新橋に公衆電話が設置。 ◎津田梅子が女子英語塾(後の津田塾大学)を開校。 ◎東京商船学校の練習船月島丸が駿河湾で暴風雨のため沈没、死者122名。 ◎飯田町に私立東京女医学校(後の東京女子医科大学)を開設。 ◎新渡戸稲造「武士道」を出版。 ◎黒田清隆(61歳)歿

1901 明治34年 ◎「音楽之友」創刊。 ◎日本女子大学校(後の日本女子大学)創立。 ◎日本広告会社・電報通信社(後の電通)創立◎東海道線急行列車に食堂車が登場。 ◎官営八幡製鉄所が操業開始 ◎福沢諭吉(68歳)歿。 ◎歌「箱根八里」

1902 明治35年 ◎東京音楽学校学生の「オペラ研究会」と東京帝大学生の「ワグネル会」が中心となって歌劇研究会結成。 ◎歩兵第五連隊の将兵が八甲田山で遭難。 ◎日本興業銀行設立。 ◎一高記念祭で東寮寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」を発表(3月1日)。  ◎鳥島が大爆発し島民125名全員死亡。 ◎西郷従道(60歳)歿。 ◎正岡子規(36歳)歿。 ◎「日英同盟」=軍事同盟締結(1923年失効)。 ◎歌「嗚呼玉杯に花受けて」歌われる

1903 明治36年 ◎歌劇研究会がグルックのオペラ「オルフォイス」を上演、指揮ノエル=ペリー、ピアノ伴奏ケーベル、出演柴田環、吉田やま等。 ◎滝廉太郎(25歳)歿。 ◎天賞堂が日本初のレコード盤を米国コロンビアから輸入し、「写声機平円盤」名で販売、1枚1円75銭~5円(当時はがき1枚1円)。 ◎小学校国定教科書制が成立。 ◎2月、日本最古の夜間中学校「私立開成夜学校(後の昌平高等学校)」東京市神田区淡路町二丁目四番町に開成中学校の内に、私立開成夜学校として昼間働き、夜学業を志す人の為に、夜間中学として田辺新之助、橋健三等により創設される。12月開成予備学校に改称し新入学生22名を一学級として開校。明治36年4月第二開成中学(のちの逗子開成中学)創設。明治39年3月第一回卒業生16名であった。明治40年修業年限を四ヵ年に、大正5年に修業年限を五年に改め、大正12年には生徒数1,597名に達したが、9月の間東大震災により校舎は焼失。大正15年4月夜間部新校舎を神田駿河台二丁目三番地に新築移転、第三代校長に橋健三就任。昭和7年橋校長は私財を全て学校に寄付し昌平財団を組織、12月「専門学校入学資格者検定試験の資格」を得て中学校の卒業生と同等の資格を得る。その後昭和37年橋行蔵校長の死により親子二代に渡る神田駿河台の夜学校は人手に渡り終焉を迎える。同校の毎年秋開催の音楽祭は夜学校において同校のみといわれている。 ◎日比谷公園が開園。 ◎目黒にエビスビヤホール開店。 ◎新橋~品川間が電車運転開始。 ◎数寄屋橋~神田間に路面電車が開通。 ◎数寄屋橋~神田間に路面電車が開通。 ◎笹子トンネル完成。 ◎日本橋の小西本店(後のコニカ)が写真機チェリーカメラを発売。 ◎浅草に常設映画館「電気館」開業。 ◎第一回早慶対抗野球試合開催

1904 明治37年 ◎東京音楽学校秋季演奏会でグルックのオペラ「オルフォイス」を演奏会形式で上演。 ◎2月10日、日露戦争勃発。 ◎甲武鉄道の飯田町~中野間運転開始日本で初めて自動信号機を設置。 ◎与謝野晶子「君死に給ふこと勿れ」発表。 ◎日本橋中洲の真砂座で日露戦争実地活動写真を上映。 ◎小泉八雲(55歳)歿

1905 明治38年 ◎東京府教育会内で和強楽堂で第1回音楽会開催される。 ◎日比谷公園内音楽堂開堂。  ◎2月1日、日本軍旅順を陥落。 ◎3月10日、日本軍奉天占領。 ◎日本海海戦で日本海軍連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破。 ◎日露お講和条約調印。 ◎京橋に理容館(美容院)開業。 ◎日本基督教女子青年会YWCA(会長津田梅子)が創立される。 ◎歌「美しき天然」歌われる

1906 明治39年 ◎小松耕輔らにより楽苑会結成。 ◎日本初の創作オペラ「羽衣」が楽苑会公演で神田YMCAにて上演、作詞作曲小松耕輔小松耕輔。 ◎オペラ「常闇」歌舞伎座で上演、坪内逍遥作、東儀鉄笛作曲。 ◎鉄道国有法公布 ◎南満州鉄道(株)設立(翌年4月開業)。 ◎夏目漱石が雑誌「ホトトギス」に「坊ちゃん」を掲載。 ◎日本社会党が結成される。 ◎児玉源太郎(55歳)歿。 ◎歌「紅も萌ゆる岡の花」歌われる

1907 明治40年 ◎楽苑会第二回公演が東京牛込高等演劇館でオペラ「霊鐘」等を上演、小林愛雄作小松耕輔作曲。 ◎3月5日ミスコンテストを開催し初のミス日本が決定。 ◎日露講和条約=米国ニューハンプシャー州ポーツマスで締結。 ◎麒麟麦酒が創立される。 ◎玉川電気鉄道、道玄坂~三軒茶屋間が開通。 ◎東京自動車製作所技師、内山駒之助がガソリン自動車第一号を製作。 ◎日米蓄音機製造(後の日本コロムビア)が設立。 ◎歌「デカンシょ節」「旅愁」歌われる

1908 明治41年 ◎東京音楽学校5月公演予定のグルックのオペラ「オルフォイス」が文部省により中止させられる。 ◎天賞堂、「「平円盤」を「レコード」という名称に変更。 ◎市立日比谷図書館開館。 ◎東京数寄屋橋に有楽座が開場。 ◎日本からブラジル移民がはじまる。 ◎短歌雑誌「アララギ」創刊。 ◎歌「人を恋うる歌」歌われる

1909 明治42年 ◎小歌劇「誓いの星」芝四国町のユニテリアン教会で上演、作・作曲山田耕筰。 ◎伊藤博文がハルピン駅頭で韓国人にピストルで撃たれ暗殺される。 ◎東京帝国大学医科大学に癌研究会創立。 ◎東宮御所(現迎賓館赤坂離宮)完成。 ◎東京で山手線運転開始。 ◎三越少年音楽隊結成。 ◎「野中の薔薇」「ローレライ」歌われる

1910 明治43年 ◎岩崎小弥太が東京フィルハーモニック・ソサエティを設立。 ◎日本初ののレコード会社、日本蓄音機商会設立し最初は「秋田おばこ節」を吹き込も発売。 ◎伊藤博文を暗殺した韓国人安重根が処刑される。 ◎ハレー彗星大接近。 ◎「韓国併合条約」を締結し朝鮮を植民地化。 ◎公設職業紹介所が浅草と芝に開設。 ◎聖心女子学院(後の聖心女子大学)開校。 ◎白木屋にエレベーターが業界初設置。 ◎武者小路実篤らが「白樺」を創刊。 ◎歌「真白き富士の嶺」歌われる

1911 明治44年 ◎丸の内に帝国劇場(帝劇)が開場。 ◎名古屋のいとう呉服店が少年音楽隊(後の東京フィルハーモニー交響楽団)を結成。 ◎帝国劇場に歌劇部を新設。 ◎帝劇でマスカーニのオペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」の一部を上演。 ◎歌「鳩」「桃太郎」歌われる

1912大正時代はじまる~1926年

1912 大正元年 ◎「大正世代~1926年生まれまで」。 ◎帝劇がロンドンからジョバンニ・ヴィットリオ・ローシーをオペラ指導者として招聘。 ◎歌劇「ドンブラコ」が歌舞伎座で演奏会形式上演、作・作曲北村季晴。  ◎オペラ「釈迦」帝劇で上演、松居松葉作ウェルクマイスター作曲。 ◎交響曲「かちどきと平和」山田耕筰作曲。 ◎中野~昌平橋間に朝夕婦人専用電車運転。 ◎新橋~下関間に展望車付特急列車運転開始。 ◎有楽町にタクシー会社設立。 ◎日本活動写真(後の日活)設立。 ◎成蹊実務学校(後の成蹊大学)開校。 ◎明治天皇大喪、乃木希典夫妻殉死。 ◎石川啄木歿(詩人・歌人)。 ◎「都ぞ弥生」

1913 大正2年 ◎帝劇でフンパーディンクのオペラ「夜の森」(ヘンゼルト・グレーテル)、プッチーニのオペラ「トスカ」、モーツァルトのオペラ「魔笛」、グノー「ファースト」を上演。 ◎東京音楽学校が奏楽堂でワーグナー百 年記念演奏会開催。 ◎帝国ホテルでヴェルディ百年記念音楽会開催。 ◎宝塚唱歌隊((後の宝塚歌劇)設立。 ◎京王電気鉄道の笹塚~調布間開通。 ◎小川春之助商店がトンボ鉛筆発売。 ◎上智大学が授業を開始。 ◎神田に岩波書店が開業。 ◎米大リーグのジャイアンツとホワイトソッスの模範試合が三田網町で開催。 ◎森永ミルクキャラメル発売。 ◎歌「早春賦」「城ヶ島の雨」歌われる

1914 大正3年 ◎帝劇でプッチーニのオペラ「マダム・バタフライ」、ドニゼッティのオペラ「連隊の娘」オッヘンバックのオペレッタ「天国と地獄」ベルリーニのオペラ「夢遊病の女」を上演。 ◎桜島大噴火。 ◎東京駅が開業。 ◎第一次世界大戦勃発。 ◎改進社が国産小型乗用車を発表。  ◎雑誌「少年倶楽部」刊行。 ◎三越呉服店改装しエスカレーター、青銅のライオン像ができる。 ◎早・慶・明3大学野球リーグできる。 ◎大正琴が流行る。 ◎「カチューシャの歌」「朧月夜」「故郷」歌われる

1915 大正4年 ◎帝劇がオッヘンバックのオペレッタ「天国と地獄」、ベルニーニのオペラ「夢遊病の女」、ブランケットのオペレッタ「古城の鐘」(コルヌーヴィーユの鐘)、オッフェンバックのオペレッタ「ブン大将」(当初は戦争と平和)初演、スッペのオペレッタ「ボッカッチョ」初演等を上演。 ◎日本~ハワイ間に無線通信に成功。 ◎武蔵野鉄道(後の西武池袋線)池袋~飯能間開通。 ◎歌「旅人の唄」歌われる

1916 大正5年 ◎帝国劇場歌劇部解散 ◎ローシー夫妻が赤坂ローヤル館創設しオペレッタ「天国と地獄」、「ルコックのオペレッタ「アンゴー夫人の娘」、ルイージ・リッチ、フェデリコ・リッチ兄弟の「オペラ「クリスピーノと死神」など上演。 ◎日本蓄音機商会が商標を「ニッポノホン」に統一しレコードを両面盤にする。 ◎カフェ女給の白エプロン姿が始まる。 ◎市電が値上げ片道4銭を5銭に、往復8銭を9銭になる。 ◎ユニバーサル日本支社が業務開始 東京菓子(明治製菓)設立。 ◎立川飛行場開設。 ◎若い男性にオールバック流行る。 ◎婦人公論(中央公論)創刊。 ◎チャップリンの喜劇映画が上映され人気を博す。 ◎竹久夢二が人気を集め夢二調美人があこがれの的となる。 ◎夏目漱石胃潰瘍で没。 ◎歌曲「恋はやさし野辺の花よ」、「ゴンドラの唄」流行る

1917 大正6年 ◎ローヤル館がルコックのオペレッタ「小公爵」・「アンゴー夫人の娘」、リッチ兄弟の「クリスピーノと死神」、オッヘンバックのオペレッタ「美しきヘレナ」、同「ブン大将」プランケットのオペレッタ「コルヌビルの鐘」、マスカーニのオペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」、アイヒベルクのオペレッタ「アルカンタラの医師」、ロッシーニのオペラ「セビリアの理髪師」初演、ルコックのオペレッタ「マスコット」等を上演 ◎市内で電話で「火事」といえば消防署へ接続する制度始まる。 ◎活動写真館が市内に69軒となる。 ◎井の頭公園開園。 ◎警視庁が活動写真フィルムの検閲と男女客席の分離決める。 ◎YMCAに温水プール開場。 ◎坂田三吉と関根金次郎将棋八段対局で坂田三吉が勝利す。 ◎両国国技館全焼。 ◎夏、避暑旅行に出かける者増える。 ◎目玉の松ちゃん主演忍者映画人気博す。 ◎歌「コロッケの歌」「琵琶湖周航の歌 (作曲者の吉田千秋は明治28年生れ新潟県新津出身、若くして肺結核を患い24才で没、現東京京農業大学に学びながら雑誌に投稿。大正4年雑誌”音楽界”8月号に自作 ”ひつじぐさ” が掲載。作詞の小口太郎は明治30年生れ長野県岡谷市出身26才で没、第三高等学校在学時にボートで琵琶湖周航途次、今津の宿で周航の歌の詩を仲間に披露、クルルーの仲間が当時流行っていた歌の節に小口の詩をのせるとよく合ったので喜んで合唱したという )。  ◎歌「さすらいの唄」流行る

1918 大正7年 ◎浅草観音劇場で原信子歌劇団がアイヒベルクのオペレッタ「アルカンタラの医師」上演、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「サロメ」初演、ヴェルディのオペラ「リゴレット」を初演。 ◎日本、オペラ座がグノーのオペラ「ロメオとジュリエット」を上演。 ◎日本軍シベリア出兵。 ◎東京女子大学開校。 ◎警視庁が交通巡査100人のオートバイ隊(赤バイ)を配置する。 ◎三菱商事開業。 ◎コリントゲームが流行る。 ◎歌:活動節「ノンキ節」、東京節「宵待草」「浜辺の歌」「金色夜叉の唄」流行る

1919 大正8年 ◎ローヤル館がヴェルディのオペラ「椿姫」初演を後、赤坂ローヤル館を解散 ◎帝劇がロシア大歌劇団を招聘しヴェルディのオペラ「アイーダ」、ビゼーのオペラ「カルメン」を上演。 ◎カチューシャの歌で評判の新劇女優松井須磨子がカルメン公演中に自殺。 ◎新橋~上野間で青バス運行始まる。 ◎中央本線の東京~万世橋間開業。 ◎サラリーメンズユニオン発会。 ◎カルピス発売。 ◎上野広小路に警視庁が木製回転交通信号台(止レ、進メ)を設置。 ◎府立松沢病院設立。 ◎日暮里に公設質屋開設。 ◎帝国美術院第1回美術展覧会(帝展)開催。 ◎歌「別れの唄」流行る

1920 大正9年 ◎藤原義江、ミラノに留学。 ◎山田耕筰、日本楽劇協会を結成。 ◎国際連盟発足日本は英仏伊とともに常任理事国になる。 ◎日本で株価大暴落。 ◎上野公園で労組主催最初のメーデー。 ◎松竹キネマ合名社設立される。 ◎蒲田撮影所完成。 ◎東京帝大が翌年から学年開始を4月に変更。 ◎歌「船頭小唄」「あわて床屋」流行る

1921 大正10年 ◎帝劇がロシア大歌劇団を招聘し有楽座でチャイコフスキーのオペラ「エフゲニー・オネーギン」、プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」を初演。 ◎原敬が東京駅で刺殺される。 ◎東京など五市に借地法・借家法が施行される。 ◎東京帝大付設の東京天文台設置される。 ◎東京帝大付設の東京天文台設置さる。 ◎お茶の水の東京教育博物館が東京博物館(現国立)として上野に移転。 ◎歌「青い目の人形」流行る

1922 大正11年 ◎根岸歌劇団が金竜館でヴェルディのオペラ「アイーダ」を本格的に上演、ビゼーのオペラ「カルメン」を(2回に分けて)初演。 ◎日本政府がシベリア撤兵を声明。 ◎堺利彦らが日本共産党を結成。 ◎アインシュタイン来日し国内に相対性理論ブーム起きる週刊朝日創刊。 ◎サンデー毎日創刊。 ◎最初の私立高校、武蔵高等学校開校。 ◎牛込に文化裁縫学院(現文化服装学院)開院

1923 大正12年 ◎帝劇がイタリアのカーピ歌劇団を招聘しヴェルディのオペラ「リゴレット」・「アイーダ」、プッチーニのオペラ「トスカ」を上演。 ◎藤原義江、帰国。 ◎関東大震災発生。 ◎丸ビル完成。 ◎丸ビル内に山野千恵子が丸の内美容院開設。 ◎丸の内日本郵船ビル竣工する。 ◎目黒蒲田電鉄丸子玉川~蒲田間開通。 ◎築地魚河岸の開場式。 ◎東京~下関間に三等特急列車運行する。 ◎ライト設計の帝国ホテル開館。 ◎憲兵大尉甘粕正彦が大杉栄らを扼殺する。
◎日本基督教連盟創立大会行われる。 ◎歌「どこかで春が」歌われる

1924 大正13年 ◎山田耕筰、日本交響楽協会を設立。 ◎築地小劇場開場。 ◎荒川放水路の通水式。 ◎明治神宮外苑競技場竣工。 ◎東京市営乗合自動車運航開始。 ◎元警視庁警務部長正力松太郎が「読売新聞」を買収し社長就任。 ◎明星学園開校。 ◎宮沢賢治「注文の多い料理店」など自費出版。 ◎歌「あの町この町」「ストトン節」「籠の鳥」歌われる

1925 大正14年 ◎東京放送局が芝愛宕山新局より本放送開始。 ◎東京電力設立。 ◎東京~大阪~福岡間逓信省が定期航空便を開始。 ◎村山貯水池完成。 ◎銀座に松屋呉服店開店。 ◎新橋演舞場開場。 ◎東京六大学野球リーグ開始。 ◎山手線電車環状運転実施される。 ◎東京市街鉄道が遊覧乗合自動車営業開始。 ◎大日本相撲協会設立。 ◎福井和喜蔵が「女工哀史」出版。 ◎歌「出船の港」流行る

1926昭和時代はじる~1989年

1926 昭和元年 ◎「昭和一桁世代~1934年迄生まれまで」。◎日本交響楽協会内紛で山田耕筰派と近衛秀麿派に分裂し近衛は40人を率いて組織を去る。 ◎帝劇がロシア大歌劇団を招聘しチャイコフスキーのオペラ「スペードの女王」初演。 ◎日本青年館で日本交響楽協会第一回予約演奏会で近衛秀麿指揮「英雄」。 ◎京橋電話局で最初のダイヤル式自動電話制実施。 ◎上野に東京府美術館落成。 ◎東京音楽楽院(現国立音楽大学)設立認可。 ◎日本放送協会(NHK)設立。 ◎明治神宮表参道に脇に青山アパート建築。 ◎円タク登場。 ◎歌「月は無情」流行る

1927 昭和2年 ◎田谷力三等がボーカル・フォアを結成しNHKラジオ放送によるオペラが開始。 ◎帝劇がイタリア歌劇団招聘。 ◎帝劇がロシア大歌劇団招聘。 ◎日本青年館で国民音楽協会主催第一回合唱音楽祭。 ◎金融恐慌始まる。 ◎岩波文庫刊行開始。 ◎日本ビクター蓄音機設立。 ◎目黒にアメリカンスクール開校。 ◎浅草~上野間に日本初の地下鉄開業。 ◎上野寛永寺の除夜の鐘初放送される。 ◎歌「ちゃっきり節」流行る

1928 昭和3年 ◎初の普通選挙実施される。 ◎麻布市兵衛町に簡易舗装を試験施工し全国に広まる。 ◎東京松竹楽劇部(後のSSK)設立される。 ◎数寄屋橋の朝日新聞に流動式電光ニュース装置設置。 ◎歌「出船」「鉾をおさめて」「波浮の港」「出船の港」流行る

1929 昭和4年 ◎山田耕筰、日本楽劇協会第2回公演オペラ「堕ちたる天女」を歌舞伎座で上演。 ◎武蔵野音楽学校設立。 ◎日比谷公会堂開場。 ◎東京帝大の就職率3割に就職難に。 ◎ドイツの飛行船ツェッペリン飛来。 ◎東京駅に八重洲口開設。 ◎歌「東京行進曲」「紅谷の娘」「愛して頂戴」「黒い眸よ今いずこ」「沓掛小唄」流行る

1930 昭和5年 ◎日英米がロンドン海軍条約締結。 ◎浅草の永松武雄が初の平絵式紙芝居を作成「黄金バット」など登場する。 ◎神宮プール一般公開される。 ◎講談社レコード事業部発足。 ◎歌「祇園小唄」「すみれの花咲く頃」「酋長の娘」「麗人の唄」「女給の唄」流行る

1931 昭和6年 ◎浅草オペラ館開場。 ◎ロングスカートが流行し始める。 ◎東京電気が国産初の電気洗濯機・冷蔵庫を製作販売。 ◎銀座で柳並木が復活。 ◎満州事変始まり初の臨時ニュースとして放送される。 ◎羽田に東京国際飛行場開場。 ◎田河水泡「のらくろ二等卒」少年俱楽部に掲載開始。 ◎神宮競技場で南部忠平(走幅跳)、織田幹雄(三段跳び)が世界新。 ◎歌「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」流行る

1932 昭和7年 ◎日本青年館で諏訪根自子〔12才)がヴァイオリン独奏会。 ◎日比谷公会堂で第一回音楽コンクール本選会行う。 ◎満州国建国。 ◎「五・一五事件」で浜口首相射殺される。 ◎4月24日、日本で初めてのダービー開催される。 ◎上海事件発生。 ◎チャップリン来日。 ◎米映画「類人猿ターザン」が人気。 ◎日本橋の白木屋出火。 ◎歌「影を慕いて」「東京音頭」「涙の渡り鳥」流行る

1933 昭和8年 ◎日比谷公会堂で原千恵子(パリ音楽院ピアノ科第一席)帰国リサイタル開催。 ◎英国の劇作家バーナード・ショウ来日。 ◎関東地方防空大演習実施する。 ◎「東京音頭」盆踊りで流行る。 ◎府中に東京競馬場開設。 ◎日本劇場(日劇)開場。 ◎歌「十九の春」「天竜下れば」「僕の青春」流行る

1934 昭和9年 ◎藤原歌劇団旗揚げ公演でプッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」を日比谷公会堂で上演。 ◎日比谷に東京宝塚劇場開場。 ◎渋谷駅前の忠犬ハチ公除幕式。 ◎日比谷公園で東郷元帥の国葬行う。 ◎日活が多摩川撮影所買収。 ◎渋谷に初のターミナルデパート東急百貨店開店。 ◎米大リーグチーム、ベーブ・ルースほか来日。 ◎日本プロ野球創立。 ◎「満州国」に帝政しかれ執政愛愛新覚羅溥儀が皇帝に就任。 ◎日本政府がワシントン軍縮会議の破棄を米国に通告。 ◎室戸台風。 ◎歌「赤城の子守歌」「国境の町」「急げ幌馬車」「並木の雨」流行る

1935 昭和10年 ◎「焼け跡世代~1946年生まれまで」。 ◎藤原歌劇団がプッチーニのオペラ「トスカ」を新橋演舞場で上演。 ◎日比谷公会堂でルービンシュタインのピアノ演奏会行う。 ◎忠犬ハチ公死ぬ。 ◎第一回芥川賞・直木賞発表。 ◎東京中央卸売市場完成。 ◎米国映画「ポパイ」上映され人気になる。 ◎東京発声映画製作所設立。 ◎有楽座開場。 ◎歌「平城山」「野崎小唄」「明治一代女」「二人は若い」「大江戸出世小唄」流行る

1936 昭和11年 ◎東京音楽学校に邦楽科設置。 ◎日劇ダンシングチーム初公演。 ◎鉄道記念館が万世橋に移転。 ◎国会議事堂完成。 ◎陸軍皇道派によるクーデター「ニ・ニ六事件」発生し翌日市内に戒厳令出る。 ◎日独防共協定(反ソ反共)締結。 ◎日本、ロンドン軍縮会議から脱退通告。 ◎東京地方54年来の大雪降る。 ◎アルマイト製弁当箱普及。 ◎女性マフラーが流行する。 ◎満州国留日学生会が発会。 ◎歌「東京ラプソディー」「忘れちゃいやよ」「ああそれなのに」「うちの女房に髭がある」「東京娘」「愛の小窓」流行る

1937 昭和12年 ◎東京音楽学校、ウェーバーのオペラ「魔弾の射手」を上野奏楽堂で初演。 ◎日比谷劇場で米映画「オーケストラの少女」公開。 ◎文化勲章制定。 ◎ヘレン・ケラー来日。 ◎朝日新聞社の訪欧機「神風号」出発。 ◎盧溝橋で日中戦争勃発。 ◎後楽園球場開場。 ◎日本軍が南京占領し各地で祝賀行事を行う。 ◎市バスに木炭車が出現。 ◎軍歌「露営の歌」「進軍の歌」「軍国の母」が発表される。 ◎千人袋・慰問袋が作られる。 ◎歌「人世の並木道」「タバコ屋の娘」「もしも月給が上がったら」「青い背広で」「すみだ川」「青春日記」「妻恋道中」流行る


1937年 昭和12年 ガーシュウィン 没

世界の出来事:1898年 明治31年 ガーシュウィン 生まれる

1898 ※ウイーン、フォルクスオパー開館。 ※オペラ「サトコ」7場。リムスキー・コルサコフ作曲。初演1月27日モスクワ、ソロドーヴニコフ劇場。 ※交響詩「英雄の生涯」Rシュトラウス作曲、初演翌年自身の指揮、フランクフルトで。 ※フランスのキューリー夫妻がラジウムを発見。 ※アメリカがスペインと戦い=ハワイとフィリピンを併合

1899 ※交響曲第1番シベリウス作曲、初演自身の指揮、ヘルシンキで。 ※交響詩「フィンランディア」シベリウス作曲、初演自身の指揮、ヘルシンキで。 ※交響曲第2番ツェムリンスキー作曲、初演、3月5日自身の指揮で。 ※ドイツのバイエル社が解熱剤「アスピリン」を発売。 ※オランダのハーグで第一回国際平和会議が開催

1900 オペラ「トスカ」3幕プッチーニ作曲、初演1月ローマ・コスタンツィ劇場。 ※オーストリアの精神病学者フロイドが「夢判断」を出版。 ※ピアノ協奏曲第1番ラフマニノフ(18歳)作曲、初稿版版全曲初演12月2日自身のピアノ、ジロティ指揮モスクワフィルハーモニー

1901 ※オペラ「ルサルカ」3幕、A・ドボルザーク作曲、初演3月31日プラハ国民劇場(約2時間40分)。 ※ピアノ協奏曲第2番ラフマニノフ作曲、初演自身のピアノ、モスクワで。 ※オペラ「火の消えた街」R・シュトラウス作曲、初演11月21日ドレスデン・ゼンパーオパー。 ※交響曲第4番「大いなる喜びの賛歌」マ-ラー作曲、初演11月25日ミュンヘン、自身の指揮カイム管弦楽団で。 ※第一回ノーベル賞発表=受賞者は, ドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲン(X線の発見)

1902 ※オペラ「ペレアスとメリザンド」5幕サン=サーンス作曲、初演4月パリ、オペラ・コミーク座(約2時間30分)。 ※オペラ「アドリアーナ・ルクヴルール」4幕フランチェスコ・チレア作曲、初演11月6日ミラノ・リリコ劇場、クレフォンテ・カンパニーニ指揮で(約2時間20分)。 ※交響曲第5番マーラー作曲、初演自身の指揮ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団、ケルンで。 ※イギリスの絵本作家ビクトリア・ポター「ピーターラビットのおはなし」刊行

1903 ※ヴァイオリン協奏曲ニ短調シベリウス作曲、初演翌年自身の指揮、ヴィクトル・ノヴァチェクのヴァイオリン、ヘルシンキで。 ※ルーマニア狂詩曲第1番イ長調エネスク作曲、初演ブカレスト、アテネ音楽堂、自身の指揮で(約12分)。 ※スイス、ベルン市立歌劇場開場9月25日ワーグナーの「タンホイザー」でこけら落とし。 ※ロシアが満州占領。 ※アメリカのライト兄弟が飛行機を発明。 ※アメリカ、大リーグ野球が発足

1904 ※オペラ「イエヌーファ」3幕ヤナーチェク作曲、初演1月21日ブルノ、ヴェヴェジー劇場で。※ オペラ「蝶々夫人」2幕プッチーニ作曲、初演2月17日ミラノ・スカラ座で

1905 ※交響詩「海」ドビュッシー作曲、初演パリ、カミーユ・シュヴィヤール指揮で。 ※オペレッタ「メリー・ウイドー」3幕レハール作曲、初演12月ウイーン、アン・デア・デア・ウイーン劇場(約2時間20分)。 ※交響詩「ペレアスとメリザンド」シェーンベルク作曲、初演自身の指揮、ウイーン・コツェルトライン、ウイーンで。 ※オペラ「サロメ」1幕R・シュトラウス作曲、初演12月9日ドレスデンゼン・パー・オパー(約1時間45分)。 ※スイス、バーゼル音楽院創設される。 ※ドイツの物理学者アインシュタインが「相対性理論」を発表

1906 ※オペラ「フランチェスカ・ダ・リミニ」セルゲイ・ラフマニノフ作曲。初演1月24日モスクワ、ボリショイ劇場。 ※交響曲第6番「悲劇的」マーラー作曲、初演5月27日自身の指揮、エッセンで初演。 ※ドイツの細菌学者ワッサーマンが梅毒の血清反応を発明。 ※フランスの画家セザンヌ歿

1907 ※「室内交響曲」第1番シェーンベルク作曲、初演2月8日ウイーン宮廷歌劇場管弦楽団、ロゼー弦楽四重奏団、ウイーンで。 ※アメリカでUP通信社が創立。 ※スペインの画家ピカソが「アヴィニヨンの娘たち」を完成

1908 ※交響曲第7番マーラー作曲、初演9月19日自身の指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団演奏、プラハで。 ※交響曲第2番ラフマニノフ作曲、初演1月26日、自身の指揮、ペテルブルクのマリインスキー劇場で。 ※アメリカでゼネラル・モーターズ社が設立。※ アメリカで「T型フォード」発売

1909 ※オペラ「エレクトラ」1幕Rシュトラウス作曲、初演1月25日エルンスト・フォン・シューフ指揮ドレスデン・ゼンパーオパー(約1時間45分) ※ピアノ協奏曲第3番ラフマニノフ作曲、初演、11月28日後自身のピアノ、ニューヨークで。 ※オペラ「ドン・キショット」5幕マスネ作曲、初演2月モンテカルロ、カジノ劇場で(約2時間)。 ※ピアノ協奏曲第3番ニ短調ラフマニノフ作曲、初演11月自身のピアノ、ダムロッシュ指揮ニューヨークフィル演奏で。 ※「管弦楽のためのパッサカリア」ウエーベルン作曲、初演11月8日ウイーンで。 ※オペラ「スザンナの秘密」1幕。ヴォルフ・=フェラーリ作曲。初演12月4日ミュンヘン、ホーフテアター。指揮F・モットル。 ※アメリカ人ピアリーが北極点に初到達

1910  ※オペラ「西部の娘」3幕プッチーニ作曲、初演2月ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で。 ※交響曲第8番「千人の交響曲」マーラー作曲、初演9月12日、自身の指揮カイム管弦楽団(現ミュンヘンフィル)ミュンヘンで。 ※舞踏組曲「火の鳥」ストラヴィンスキー作 曲、初演6月25日パリ・オペラ座、ガブリエル・ピエル指揮で。 ※アメリカでカーネギー平和財団が設立

1911 ※交響曲第2番エルガー作曲5月24日、自身の指揮、クイーンズ・ホール管、ロンドン音楽祭で初演。 ※「大地の歌」マーラー作曲、初演11月20日弟子のブルーノ・ワルター指揮、カイム管弦楽団、ミュンヘンで。 ※オペラ「ばらの騎士」3幕R・シュトラウス作曲、初演1月26日ドレスデン・ゼンパ-オパー(約3時間15分)。 ※舞踏組曲「ペトルーシュカ」ストラヴィンスキー作曲、初演6月13日パリ・シャトレ座。 ※オペラ「マドンナの宝石」3幕フェラーリ作曲、初演12月23日ベルリン、選帝侯歌劇場で(約2時間30分)。 ※スイス、ルツェルンにRシュトラウス等の提唱で小さな音楽祭が始まる。 ※ノルウエーのアムンゼンが南極点に初到達。※メキシコ革命始まる

1912 ※オペラ「ナクソス島のアリアドネ」R・シュトラウス作曲、初演10月25日シュトウットガルト宮廷劇場小劇場。 ※交響曲第9番マーラー作曲、初演、死後の6月26日ブルーノ・ワルター指揮ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウイーンで。 ※5つの管弦楽曲シェーンベルク作曲。初演9月3日ロンドン、H・ウッド指揮。  ※シュトゥットガルト宮廷劇場(現州立)創立  ※ベルリン市立劇場(ドイツオパー)開場。 ※イギリスのスコットが南極点に到達したが 帰路、吹雪で遭難死。 ※アルトゥール・ニキシュ、ベルリンフィルを指揮してベートーヴェンの交響曲第5番を録音(アコースティク録音)。  ※タイタニック号が北大西洋で衝突沈没

1913 ※オペラ「ペネロプ」3幕。ガブリエル・フォ-レ作曲。初演3月4日モンテカルロ、サル・ガルニエ。 ※舞踏組曲「春の祭典」ストラヴィンスキー作曲、初演5月29日パリ、シャンゼリゼ劇場、ピエール・モントー指揮で。 ※モンテネグロをのぞくバルカン同盟諸国とオスマン帝国が休戦条約を締結。 ※ブルガリアとオスマン帝国が講和条約締結。 ※中国とロシアの間でモンゴルの自治に関する協定締結

1914 ※第一次世界大戦勃発。※パナマ運河完成。 ※アメリカと中国が第一次世界大戦に中立を宣言。 ※ボスニアのサラエボでオーストリア皇太子夫妻が暗殺される

1915 ※オペラ「マダム・サン・ジェーヌ」3幕。ジョルダーノ作曲。初演1月25日ニューヨーク、メトロポリタン歌劇場。 ※「アルプス交響曲」Rシュトラウス作曲、初演10月28日自身の指揮、シュターツカペレ・ドレスデン演奏、ベルリン、フィルハーモニー楽堂で。 ※交響曲第5番シベリウス作曲、初演12月8日自分の50才の祝賀演奏会に自身の指揮で。 ※オペラ「チャールダーシュの女王」3幕エメリヒ・カールマン作曲、初演11月17日ウイーン、ヨハン・シュトラウス劇場で(約2時 間10分)。 ※アイルランド沖でドイツUボートが英国の豪華客船ルシタニア号を撃沈し1198人の犠牲者が出る。 ※アメリカの歌手ビリー・ホリデー誕生

1916 ※オペラ「ナクソス島のアリアドネ」1幕(改定版)Rシュトラウス作曲。初演10月4日ウイーン宮廷歌劇場で(約2時間)。 ※英国が一般徴兵制実施。 ※スイス、チューリヒでダダイズム運動起こる。 ※ダブリンで武装蜂起しアイルランド共和国を宣言。 ※袁世凱没。※ロシアの怪僧ラスプーチン暗殺される。 ※英国の探検家・考古学者・軍人のロレンス(通称アラビアのロレンス)陸軍情報将校としてトルコで活躍

1917 ※オペラ「パレストリーナ」3幕。ハンス・プフィッツナー作曲。初演6月12日ミュンヘン、プリンツレゲンテン劇場、ブルーノ・ワルターの指揮。 ※交響詩「ローマの噴水」レスピーギ作曲、初演3月11日アントニオ・グァルニエリ指揮、ローマのアウグステオ楽堂で。 ※ロシアに二月革命、皇帝ニコライ二世退位。 ※ロシアに十月革命、レーニン実権を握る革命によりラフマニノフ、プロコフィエフ、ストラヴィンスキー、ハイフェッツら多くの音楽家がロシアを去る。 ※中立を唱えていたアメリカが第一次世界大戦に参戦。 ※アメリカでジャズが流行る。 ※オランダの美貌のダンサー「マタ・ハリ」がドイツ側のスパイ容疑で銃殺される

1918 ※組曲「惑星」ホルスト作曲。初演9月29日自身の指揮・ニュー・クイーンズ管弦楽団、ロンドンで非公式演奏会で。 ※オペラ「ジャンニ・スキッキ」1幕プッチーニ作曲。初演12月14日ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で(約50分)。 ※オペラ「外套」1幕プッチーニ作曲、初演12月14日ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で(約55分)。 ※オペラ「青ヒゲ公の城」1幕1場バルトーク作曲、初演5月エギスト・タンゴ指揮、ブタペスト歌劇場で(約1時間)。 ※オペラ「修道女アンジェリカ」1幕プッチーニ作曲。初演12月14日ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で(約55分)。  ※スイス、ジュネーブにエルネスト・アンセルメにより「スイス・ロマンド管弦楽団」創設※ロシア国内内戦状態となり混乱が続く。 ※ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世とその家族が処刑される。 ※第一次大戦終結。 ※ドイツが連合国との休戦協定に調印。 ※第一次世界大戦終わる

1919 ※舞踏組曲「三角帽子」ファリャ作曲。初演7月22日ロンドン、アルハンブラ劇場で(約40分)。 ※オペラ「影のない女」3幕Rシュトラウス作曲、初演10月10日ウイーン宮廷歌劇場(約3時間15分)。 ※第一次世界大戦のパリ講和会議開会。連合国とオーストリアの間でサン・ジェルマン条約が締結され、オーストリア=ハンガりー帝国政府が存在しないことなどが確認された。ボヘミア、モラヴィア等のいくつかの都市は新たに成立したチェコスロバキアに、南チロル、トレンティーノはイタリア王国に等々が決められた。 ※インドのガンディーが第一次サティヤーグラハ闘争において「非暴力」で抵抗。 ※ドイツ国民会議がワイマール憲法を採択。 ※ドイツ労働者党(のちのナチス)結成。 ※ロシアでレーニン発案のコミンテルン創立。 ※孫文の中華革命党が中国国民党に改組

1920 ※第一回ザルツブルク音楽祭開催。 ※オペラ「死の都」3幕エーリヒ・コルンゴルト(22歳)作曲。初演権を巡り初演はハンブルクでエゴン・ポラータ指揮とケルンのクレンペラー指揮の同時に行われた。 ※国際連盟発足=アメリカ大統領ウイルソンが提案。 ※アメリカで婦人参政権承認。 ※ドイツにナチスができる。 ※アメリカで禁酒法実施。※アメリカ上院議会がヴェルサイユ条約批准を否決

1921 ※ピアノ協奏曲第3番ハ長調プロコフィエフ作曲。初演自身のピアノ独奏、フレデリック・ストック指揮でシカゴ交響楽団と。 ※「管楽器のための交響曲」ストラヴィンスキー作曲、他界したドビュッシーの追悼に捧げられた。初演6月10日クーセヴィッツキー指揮、ロンドンにて。 ※オペラ「カーチャ・カバノヴァー」3幕ヤナーチェク作曲。初演11月ブルノ国民劇場で(約1時間40分)。 ※イタリアにファシスト党が結成される。 ※四カ国条約=日・米・英・仏が太平洋域の領土と権益の相互尊重。 ※フランス、パスツール研究所のカルメットとゲランが結核予防ワクチンBCG発見。 ※カナダの医学者バンティングが糖尿病治療に使うインシュリンを発見

1922 ※組曲「展覧会の絵」ムソルグスキー作曲(ボストン交響楽団の指揮者クーセヴィツキーの依頼でラヴェル編曲)パリ初演、10月19日クーセヴィッキー(48歳)指揮で。※スターリン、ソヴィエト共産党書記長就任。※ソビエト社会主義共和国連邦成立。※ワシントン海軍軍縮条約=米国、日本, 英国、フランス、イタリアの艦船保有制限を決定。※イタリアでムッソリーニによるファシスト政権成立。※エジプトの王家の谷でツタンカーメンの墓が発掘される。※チェコの陸上選手ザトペック誕生

1923 ※ドイツでインフレーションが進む。※「タイム」創刊。※トルコ共和国成立

1924 ※オペラ「伯爵令嬢マリツァ」3幕エメリヒ・カールマン作曲、初演2月アン・デア・ウイ-ン劇場で(約2時間)。 ※「パシフィック231」オネゲル作曲、初演5月8日クーセヴィッキー指揮、パリ・オペラ座管弦楽団、パリで。 ※「抒情交響曲」アレクサンダー・ツェムリンスキー作曲、初演プラハで。 ※オペラ「利口な女狐の物語」3幕ヤナーチェク作曲・台本、初演翌年11月フランティシェク・ノイマン指揮、ブルノ劇場で。 ※「ラプソディ・イン・ブルー」ガーシュイン作曲。初演、グローフェが管弦楽パート編曲しニューヨークで。 ※オペラ「期待」1幕シェーンベルク作曲初演6月6日プラハ、ドイツ劇場(ソプラノ歌手たった1人出演のオペラ)。 ※オペラ「幸運な手」1幕シェーンベルク作曲、初演10月14日ウイーン・フォルクスオパー。 ※オペラ「ヴォツェック」3幕アルパン・ベルク作曲、初演6月ヘルマン・シェルヘン指揮、フランクフルトで(約1時間35分)。 ※交響詩「ローマの松」レスピーギ作曲。初演、ローマで。※オペラ「ネローネ」アリゴ・ボーイト作曲、初演5月1日ミラノ・スカラ座。 ※オペラ「インテルメッツォ」R・シュトラウス作曲、初演11月4日ドレスデン・ゼンパーオパー。※レーニン死去。  ※ペトログラードをレニングラードに改称。 ※ドイツの作家トマス・マンが「魔の山」出版。 ※アメリカの作家トルーマン・カポーティ誕生

1925 ※アルフレッド・コルトーの演奏でピアノ曲を初の電気録音(SP盤)3月21日(ショパン、シューベルトの曲目)。 ※交響詩「ペレアスとメリザンド」シェーンベルク作曲、初演1月25日ウイーン、自身の指揮で。 ※渡米中のアルフレッド・コルトーが3月21日ショパンとシューベルトのピアノ曲クラシック音楽としては初の電気録音を行う。 ※ストコフスキー指揮でオーケストラ演奏を世界初の電気録音(SP盤)4月29日)フィラデルフィア管=サン・サーンス「死の舞踏」行う。 ※指揮者ワインガルトナー、11月ロンドン交響楽団とベルリオーズ「幻想交響曲」を電気録音(SP盤)。 ※オペラ「子供と魔法」1幕ラヴェル作曲、初演3月モンテ・カルロ、カジノ劇場で(45分)。 ※オペラ「ファウスト博士」フェルッチョ・プゾ-ニ作曲、初演5月21日ドレスデン・ゼンパーオパー(未完で逝去、フィリップ・ヤルナハが補完)。 ※ソ連、レーニン死後スターリンと対立したトロッキーは軍の外務人民委員を解任され1929年には国外追放される。 ※ドイツのヒトラーが「わが闘争」上巻を出版

1926 ※オペラ「トゥランドット」3幕プッチーニ作曲、初演4月トスカニーニ指揮、ミラノ・スカラ座で(約2時間)(第3幕「リューの死」の場面作曲中死去したため、没後アルファーノが補筆完成)。 ※ピアノ協奏曲第1番バルトーク作曲、初演自身のピアノ、フルトヴェングラー指揮、フランクフルトで。 ※交響曲第1番ショスタコーヴィチ(18歳)作曲、初演5月ニコライ・マルコ指揮レニングラード・フィル、レニングラードで。※組曲「ハリ・ヤーノシュ」コダーイ作曲。初演ブタペスト、王室オペラ劇場で。 ※ピアノ協奏曲第4番ラフマニノフ作曲、初演翌年、自身のピアノ、ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団で。 ※オペラ「ロゲル王」3幕カルロ・シマノフスキ作曲。初演6月19日ワルシャワ。※スイス、パウル・ザーハーによりバーゼル室内管弦楽団創設される(1987年解散)、1984年設立した同名の団体とは違う。 ※スペインの建築家ガウディ没。 ※ドイツが国際連盟に加入し常任理事国になる。 ※アメリカの作家ヘミングウェイが「陽はまた昇る」出版。 ※ロシアの映画監督エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」公開。 ※イギリス女王エリザベス2世誕生。 ※キューバの政治家カストロ誕生。※中国の政治家江沢民誕生

1927 ※オペラ「ジョニイは演奏する」エルンスト・クルシェネク作曲、初演2月10日ライプツィヒ・オペラハウス。 ※3月18日アメリカから「青い目の人形」到着。 ※ドイツの哲学者ハイデッガーが「存在と時間」出版。 ※アメリカの飛行家リンドバーグがニューヨーク郊外の飛行場を離陸しパリ近郊のル・ブールージュ飛行場に着陸し大西洋無着陸横断に成功。 ※ベーブ・ルースがシーズン本塁打記録(60本)

1928 ※「ボレロ」ラヴェル作曲。初演11月22日、ワルテル・ストララム指揮、イダ・ルビンシュタイン・バレエ団、パリ・オペラ座で。 ※オペラ「オイディプス王」2幕ストラヴィンスキー作曲。初演2月23日ウイーン宮廷劇場(約1時間)。※オペラ「エジプトのヘレナ」2幕。リヒャルト・シュトラウス作曲。初演6月6日ドレスデン、ゼンパーオーパー。 ※オペラ「三文オペラ」3幕クルト・ワイル作曲。初演8月31日ベルリン、シフバウアダム劇場で(約2時間)。 ※「パリのアメリカ人」ガーシュイン作曲、初演12月13日ウォルター・ダムロッシュ指揮・ニューヨーク・フィル、ニューヨークのカーネギー・ホールで。 ※「管弦楽のための変奏曲」シェーンベルク作曲。初演12月2日フルトヴェングラー指揮、ベルリン・フィル演奏で。 ※ディズニーアニメにミッキー・マウス初登場。 ※英国の細菌学者フレミングがペニシリンを発見

1929 ※交響詩「ローマの祭り」レスピーギ作曲、初演2月22日、アルトゥール・トスカニーニ指揮、ニューヨーク・フィル演奏で。 ※アメリカ、ウオール街での株価大暴落をきっかけに世界各国の経済に波及した金融恐慌(世界恐慌)が発生した。 ※ムッソリーニとローマ教皇ピウス十一世がラテラノ協定締結しバチカン市国が成立。 ※イギリス委任統治領エルサレム「嘆きの壁」でアラブ人とユダヤ人が武力衝突「嘆きの壁」事件起こる。 ※アメリカの作家ヘミングウェイ「武器よさらば」出版

1930 ※オペラ「鼻」ショスタコーヴィッチ作曲。初演1月サモスード指揮、レニングラード、マールイ・オペラ劇場で(1時間45分)。 ※オペラ「マハゴニー市の興亡」クルト・ヴァイル作曲、初演3月9日ライプツィヒ・オペラハウス。 ※ロンドン海軍軍縮会議=日本、米国、英国、フランス、イタリア列強が参加した補助艦の制限を主な目的とした会議。 ※アメリカのトンボーが冥王星発見。 ※ウルフアイでサッカーの第一回ワールドカップ開催

1931 ※「グランド・キャニオン組曲」グローフェ作曲。初演11月22日ポール・ホワイトマン指揮の楽団シカゴで。 ※「左手のためのピアノ協奏曲」ニ長ラヴェル作曲。初演、ウイーンでロベルト・ベーガー指揮、依頼を受けたバウル・ウィトゲンシュタイン独奏で。 ※ニューヨークでエンパイア・ステートビルディング完成。 ※中国共産党が中華ソビエト共和国臨時政府樹立。※英国議会がウエストミンスター憲章可決。 ※仏作家サン・テグジュペリが「夜間飛行」出版。 ※米国俳優ジェームズ・ディーン誕生。 ※ヴァイオリニストのイーゴリ・オイストラフ誕生

1932 ※シドニー、ハーバーブリッジ開通。フランス大統領ポール・ドゥメール暗殺される。 ※ボリビアがパラグアイに宣戦布告。 ※第10回ロサンゼルスオリンピック開幕。 ※ヴェネツィア国際映画祭開催。 ※米国民主党ルーズベルトが現職フーヴァーを破り当選。 ※仏ソ不可侵条約調印。 ※ジュネーブ軍縮会議開催。 ※ホー・チ・ミンがインドシナ共産党を結成。 ※ドイツの大統領選挙でヒンデンブルクが、ナチ党ヒットラー、共和党テールマンを破り再選。 ※ドイツ総選挙でナチス党が圧勝。 ※バーレーンで石油が発見される。 ※マハトマ・ガンジーが獄中でハンストに入る。 ※ヒジャーズとナジュドの両国が統合されサウジアラビア王国が成立。 ※アメリカで映画「類人猿ターザン(主演ジョニー・ワイズミュラー)」公開

1933 ※ピアノ協奏曲第二番バルトーク作曲初演1月23日フランクフルトでバルトーク独奏ハンス・ロスバウト指揮で。 ※オペラ「アラベラ」3幕R・シュトラウス作曲、初演7月1日ドレスデン・ゼンパーオパー(3時間)。 ※ヴァイオリン協奏曲マリピエロ作曲初演3月5日ピエール・モントー指揮コンセルトヘボー管、ミッチェル独奏で。 ※スイス・イタリア語放送管弦楽団創設。 ※ギリスでネッシーの撮影に成功。 ※ヒトラー首相就任、ナチスのユダヤ人迫害始まる。 ※ヒトラーが国際連盟・ジュネーヴ軍縮会議から脱退宣言。 ※アメリカで「ニューズ・ウイーク」創刊される。 ※アメリカで禁酒法撤廃される。 ※アメリカで映画「キング・コング」公開される

1934 ※交響曲「画家マチス」ヒンデミット作曲、初演3月フルトヴェングラー指揮、ベルリンフィルで(約26分)。 ※オペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」4幕ショスタコーヴィッチ作曲初演1月レニングラード・マールイ劇場(初版)(2時 間40分)。 ※交響的組曲「キージェ中尉」プロコフィエフ作曲、初演7月8日(映画”キージェ中尉”封切り3月7日。この映画音楽用に書いた曲を演奏会用に改作)。  ※パガニーニの主題による狂詩曲ラフマニノフ作曲。初演11月作曲者自身独奏、ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団で。 ※旧チュリッヒ歌劇場創設。  ※アメリカ、マスターズゴルフトーナメント創設。  ※ドイツ、ゲシュタポ(国家秘密警察)設立。  ※ドイツのヒトラー初代総統就任。 ※ロシア、国際連盟に加入。  ※イギリスの作家アガサ・クリスティの「オリエント急行殺人事件」ベストセラーに。

1935 ※オペラ「ボギーとベス」3幕。ジョージ・ガーシュイ作曲。初演9月30日ボストン・コロニアル劇場(3時間)。 ※オペラ「無口な女」3幕。R・シュトラウス作曲、初演6月24日日ドレスデン・ゼンパーオパー(3時間)。 ※ドイツの総統ヒトラーが再軍備宣言。 ※ナチスがニュルンベルク法制定しユダヤ人の公民権を剥奪

1936 ※交響曲第1番ドヴォルザーク作曲、初演10月4日ブルノで。 ※音楽童話「ピーターと狼」プロコフィエフ作曲、初演5月2日モスクワフィル、モスクワの児童劇場で。 ※交響曲第16番「航空交響曲」ミヤスコフスキー作曲。初演10月24日指揮オイゲン・セーンカル、モスクワフィル演奏、モスクワで。※プロコフィエフソ連に帰国し定住。 ※アメリカの作家マーガレット・ミッチェル「風と共に去りぬ」出版。 ※スペイン内乱勃発。アメリカでライフが創刊。 ※張学良らが西安で蒋介石を監禁

1937 ※オペラ「ルル」序幕・3幕アルバン・ベルク作曲、第1幕・2幕の初演6月2日チューリヒ州立劇場、フリードリヒ・ツエルハの第3幕楽譜完成による初演1979年2月24日国立オペラ劇場連合(現パリ・オペラ座)。 ※交響曲第5番ショスタコーヴィチ作曲、初演ソヴィエト革命20周年記念祭でエフゲニー・ムラヴィンスキー指揮で。 ※「カルミナ・ブラーナ」カール・オルフ作曲、初演7月8日フランクフルト・アム・マインで。  ※「盧溝橋事件」が起こる、戦闘は支那事変と名づけられ中国各地に拡大。 ※イタリア国連脱退。 ※スペイン北部のゲルニカをドイツ空軍が爆撃。 ※スペインの画家ピカソが「ゲルニカ」を発表。 ※イラクの政治家フセイン誕生。  ※アメリカの石油王ロックフェラー没

1937年 昭和31年 ガーシュウィン 没