生没年・出身地・歿地・墓地
ジョージ・ガーシュウィン(以降ガーシュウインという)
George Gershwin
本名
ヤーコブ・ガーショウィッツ
Jacob Gershowitz
(1898年9月26日ニューヨーク、ブルックリン生)
(1937年7月11日ロサンゼルス、ハリウッドで没)
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1.職業
アメリカの作曲家・ピアニスト
2.称号
サンタ・チェチーリア音楽院名誉会員
<受章・受賞など>
1937年、ガーシュウインは、1937年の映画『踊ろう』のために兄のアイラと共作した「They Can’t Take That Away from Me 」で、1937年のアカデミー賞で唯一の最優秀オリジナル歌曲賞にノミネートされた。ノミネートは死後のものであり、ガーシュウインは映画公開の2か月後に亡くなった。
1982年ガーシュウィンはユダヤ系アメリカ人の殿堂入りを果たした。
1985年議会黄金勲章が授与された。
1998年ピューリッツァー賞特別賞が授与(ガーシュインの生誕100周年を記念して、アメリカ音楽への卓越した永続的な貢献を称え、死後に授与された。
2006年ガーシュインはロングアイランド音楽の殿堂入りを果たした。
2007年アメリカ議会図書館はガーシュウインとアイラ・ガーシュイン(アイラという)の両者に敬意を表して、アメリカ議会図書館ガーシュイン・ポピュラーソング賞(別名ガーシュイン賞)を創設した。
<楽歴>
1910年ピアノ教師グリーンやゴールド・ファーブのレッスンを受ける。
1912年頃‐1918年チャールズ・ハンビッツァーからピアノの技巧ばかりでなく音楽の基本を教わる。
1915年エドワード・キレニーに作曲法を師事。
1917年センチュリー劇場のリハーサルピアニストになる。
1921年コロンビア大学の夏季講座を聴講し作曲家ロチェスター・グリーソン・コールに楽器、作曲等の技法を学ぶ。
1923年ルービン・ゴールドコークに作曲のレッスンを受ける。
1927-1929年作曲家ヘンリー・カウエルのレッスンを受ける。
1929年ウィリアム・デイリーやエドワード・キレニーの指揮法の助言を得る。
1932-1936音楽理論家ヨーゼフ・シリンガーに作曲法を師事。
3.プロフィールprofile
・ガーシュウインは1898年9月26日ニューヨーク、ブルックリンで生まれ、1937年7月11日ロサンゼルス、ハリウッドで病没した。
・両親は 1891年にロシアから移住し米国で結婚し三男一女を育て、マンハッタンのローワー イースト サイドの貧しい地域に定住した。
・ユダヤ系ロシヤ移民の家庭に育ち、幼年時代はブルックリンのローワーイーストサイドなど様々な場所に移り住んだ。
・幼いころ、ガーシュウインは勉強熱心とは程遠く、音楽にほとんど触れることもなかった。ストリート スポーツに熱中していた。
・11歳のとき、家族はアップライト ピアノを購入した。ガーシュウインはすぐにこの楽器にのめり込んだ。彼は「耳で」演奏していた。
・15歳のとき、学校を辞めてティン・パン・アレーでピアニストとソングライターになった。ティン・パン・アレーは5番街と6番街の間の西28番街にあった音楽出版社の集まりで、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、この一角から多くの人気曲が生まれた。
・1920年にガーシュウインが作曲し、アル・ジョルソンが録音した歌曲《スワニー》で最初の大ヒットを記録した。
・ガーシュウインには音楽学校で学んだという記録はない。さまざまな講師から作曲、理論、対位法のレッスンを受けたが、初見で上手に弾けるようになることはなかった。音楽の世界に飛び込んだ17歳頃、エドワード・キレニーに作曲法のレッスンを受け始め、ロチェスター・グリーソン・コール、ルービン・ゴールドコーク、ヘンリー・カウエル、また1932年34歳頃にはヨーゼフ・シリンガーに作曲法の師事して音楽の研鑽を続けた。
・ガーシュウインは自分の足りない部分は個人レッスンと独学により身に付けていった。1925年パリ滞在中、ガーシュウインはラヴェルに『師事したい』と申し出たが、ラヴェルはガーシュウインの収入を聞くと、『私にレッスンをしてほしい』と返答した。(この物語のいくつかのバージョンでは、作曲家としてラヴェルではなくイーゴリ・ストラヴィンスキーが取り上げられているが、ストラヴィンスキーは元々この物語をラヴェルから聞いたことを認めている。)
・1923年ロンドン旅行
・1924年ポール・ホワイトマンから依頼され、ガーシュウインは新作《ラプソディ・イン・ブルー》の作曲に取組んだ。ジャズの要素が盛り込まれたこの陽気な作品は、アメリカのミュージシャンや作曲家の世代に影響を与えた。
・1924年ガーシュウインは作詞家である兄のアイラとチームを組む。二人はブロードウェイ史上最大のスターとなった。彼らの初期のヒット作には《レディ・ビー・グッド》、《ファニー・フェイス》、ミュージカル・コメディ《君がために歌わんOF THEE I SING》などがあった。
・1925年パリ旅行。パリ滞在中に《巴里のアメリカ人》の作曲をはじめた。
・イギリス、パリ旅行。タクシーのクラクションを購入し《パリのアメリカ人》の効果音で使用した。
・1928年ロンドンンとパリを旅行し、ドミトリー・テオムキン、ラヴェル、プーランク、ミヨー、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ等に会った。
・《パリのアメリカ人》ウォルター・ダムロッシュの指揮によるニューヨーク交響楽団の演奏、カーネギーホールで初演。
・ルイゾーン・スタジアムで指揮者デビュー。
・1932年ミュージカル作詞家としてのアイラは、ミュージカル・コメディ《君がために歌わんOF THEE I SING》が演劇部門でピューリッツア賞受賞した。受賞者はジョージ・S・カウフマン、モリー・ライスキンドピューリッツァー、アイラであった。
・ガーシュウインはブロードウェイの舞台だけでなく、映画やコンサートホール向けの作品も書き始めた。彼は《協奏曲ヘ長調》や管弦楽曲《巴里のアメリカ人》で成功を収めた。
・1934年、彼はアフリカ系アメリカ人を主人公にしたオペラを創作するという生涯の夢をかなえた。オペラ《ポーギーとベス》は記憶に残るヒット曲を数多く生み出したが、観客や評論家からの評価はまちまちだった。しかし、今日では、アメリカのミュージカル劇場の試金石となっている。
・1935年9月30日オペラ《ポーギーとベス》がボストンのコロニアル劇場で初演したが好評を得なかった。10月10日オペラ《ポーギーとベス》が、ニューヨークのアルヴィン劇場で初演され公演は成功を収めた。
・ガーシュウインは、貧しい家庭に生まれたにもかかわらず、1930年代のキャリアの絶頂期にはハリウッドのエリートたちの間で贅沢な生活を送っていた。
・1937年原因不明のめまいに悩まされるようになった。
・1937年7月、脳腫瘍の摘出手術中に亡くなった。享年39歳であった。
4.ガーシュウインの家系
、マンハッタンのローワー イースト サイド、ヘスター ストリートの交差点にあるエルドリッジ ストリート 60 番地のシンプソンズ ポーン ショップの向かいで生まれました。
5.ジョージ・ガーシュウイン年譜
1896年
12月6日長兄:アイラ・ガーショヴィッツIra Gershwin(以降アイラという)がニューヨーク、マンハッタンのローワー イースト サイド、ヘスター ストリートの交差点にあるエルドリッジ ストリート60番地のシンプソンズ ポーン ショップの向かいで生まれた。
ガーシュイン一家は、子供たちが成長する間、20軒以上のアパートに住んでいた。父モリスは、自分が働いている場所の近くに住み、職業を変え続けたからである。靴業界で働いた後、彼は葉巻店、ビリヤード場、パン屋、レストラン、トルコ式およびロシア式浴場で働き、三週間だけブライトン ビーチで賭け屋をしていた。20世紀初頭には東ヨーロッパからアメリカに逃れてきたユダヤ人移民が皆住んでいた場所である。
↓ アイラの生れたアパート
(Ira, was born on the lower east side of Manhattan, over Simpsons Pawn Shop at 60 Eldridge Street at the junction of Hester Street.)
1898年
1898年9月26日ガーシュウイン(ヤーコブ・ガーショヴィヤー)は、ロシア系ユダヤ人の移民の子としてニューヨーク、スネディッカー アベニューにある二階建ての家に生まれた。この静かなユダヤ人街の、木々に囲まれた、シナゴーグの向かいにある家である。
↓ ガーシュウインの生れた二階建アパートとプレート(George Gershwin was born in a two-storey house in Snedicker Avenue in Brooklyn)
出生証明書には、ヤーコブ・ガーシュインと記載されている。ロシア人とイディッシュ人(ユダヤ人)の移民コミュニティでは「ガーシュイン」と発音される姓である。
彼は祖父にちなんで名付けられ、アメリカの慣習に反してミドルネームはなかった。すぐにジョージと呼ばれるようになり、プロの音楽家になった頃に姓の綴りを「ガーシュウィン」に変更した。
↓両親
<幼少年時代>
ガーシュウインは、ユダヤ系ロシヤ移民の家庭に育ち、幼年時代はブルックリンのローワーイーストサイドなど様々な場所に住んだ。
音楽学校で学んだという記録はない。
少年時代は街に流れるラグタイム(1900年前後に酒場やダンスホールに流行った黒人ピアニストの演奏スタイルで、左手でウン・パ、ウン・パ・・と繰り返し、右手は鋭いシンコペーションをもったメロディであった。ジャズの源流となったといわれている)を聴きながら兄アイラとイディッシュ劇場地区を中心に育った。
他の家族もアイラとガーシュウイン、もう一人の男の子アーサー・ガーシュイン(1900–1981)、女の子フランシス・ガーシュイン(1906–1999)が生まれた後、それに倣った 。父親が関わる新しい事業ごとに住居を変えたため、家族はさまざまな住居に住んでいた。彼らは主にイディッシュ劇場街で育った。
ガーシュウインとアイラは地元のイディッシュ劇場に通い、ガーシュウインは時々エキストラとして舞台に出演していた。
ガーシュウインはニューヨークのアパートで、友達と走り回ったり、ローラースケートをしたり、路上で行儀が悪かったりと、よくある少年時代を過ごした。
1908年まで、彼は音楽には全く興味がなかった。しかし、10歳のとき、友人のマキシー・ローゼンツヴァイクのバイオリンのリサイタルを聞いて興味をそそられた。その音色と友人の演奏に、彼は魅了された。
同じ頃、ガーシュウインの両親は兄のアイラにピアノを買ってあげた。しかし、両親が驚いたことに、そしてアイラがほっとしたことに、ピアノを弾くのに時間を費やしたのはガーシュウインだった。彼はピアノを楽しみ続けた。
妹のフランシス・ガーシュインは一家で初めて音楽の才能で生計を立てたが、若くして結婚し、母親と主婦としての生活に専念したため、音楽活動に真剣に取り組むことはできなかった。彼女は演奏活動をあきらめ、創作の手段として絵画に落ち着いた。これはガーシュウインも短期間趣味としていたものだった。アーサー・ガーシュインもガーシュウインとアイラの道をたどり、歌曲、ミュージカル、短いピアノ曲の作曲家となった。ガーシュウインは様々なピアノ教師のもとで約2年間(1911年頃)学んだ後、ベートーヴェン交響楽団のピアニスト、ジャック・ミラー(1913年頃)からチャールズ・ハンビッツァーを紹介された。1918年に亡くなるまで、ハンビッツァーはガーシュウインの音楽指導者であり、伝統的なピアノテクニックを教え、ヨーロッパのクラシック音楽の伝統を紹介し、オーケストラのコンサートに行くよう勧めた。
1900年2歳
3月14日弟:アーサー・ガーシュインArthur Gershwin別名:オットー・ガーシュイン”Otto”生まれる。
6月ブラウンストーンのアパートが立ち並ぶ静かなブルックリン地区、パーク スロープにあったガーシュイン家の家があった。(1310 8th Avenue)
↓ ガーシュウイン一家の住んでいたアパート
1904年6歳
自動ピアノが演奏する《へ調の旋律》を聴いたり、二歳下のマキシー・ローゼンツヴァイクと出会い、彼の弾くユーモレスクのヴァイオリンを聴き、音楽に関心を示すようになる。
ガーシュイン一家は、ソール・バーンのレコード店の上の賑やかなセカンドアベニューにある二階建てのアパートに住んでいた。家族はようやくピアノを買えるようになり、両親は兄アイラのレッスン用にピアノを買った。ピアノは居間の窓から持ち上げられた。皆が驚いたことに、ガーシュウインはすぐに座り、7番街の友人の家でピアノを弾いていたとき、当時人気のあった曲の1つを弾いた。
↓ ガーシュウイン一家の住んだアパート セカンドアベニュー91番地のアパート
1906年8歳
12月26日妹:フランシス・ゴドフスキー(旧姓ガーシュイン)Frances Godowsky (Gershwin)別名:フランキー”Frankie”生まれる。
1910年12歳
近所のピアノ教師グリーンやゴールド・ファーブのレッスンを受けオペラ抜粋や序曲を弾き学ぶ、ベートーヴェン協会交響楽団のアルバイトを始める。
↓ ガーシュイン家の住んでいたアパート。グランド ストリート 25391 Second Avenue.
1912年14歳
この楽団のピアニスト、ジャック・ミラーから自分の師チャールズ・ハンビッツアーを紹介されピアノの技巧ばかりでなく音楽の基本を無料で教わる。
ニューヨーク、キャッツキル・マウンテン・オーケストラでアルバイト演奏をした。
1913年15歳
母の勧めで商業高等学校に通う。この年《君に会ってから》、《ラグタイム・トロイトライ》作曲した。
7月1日ガーシュウインは15歳で学校を中退した。ニューヨーク市のティン・パン・アレーTin Pan Alleyで「ソング・プラガー」として働き始めた。彼はデトロイトに本社を置き、ニューヨークにも支店を持つジェローム・H・レミック・アンド・カンパニーという出版社で「ソング・プラッガー」として週15ドル最初の仕事を得た。
この仕事のソング・プラッガーは、音楽店で雇われて新しい楽譜の宣伝と販売を手伝うピアノ奏者のことであった。
↓ 1910年頃のティン パン アレー ガーシュウイン一はこの地域でソング・プラガーの仕事に就いた
1914年16歳
ティン・パン・アレーのソングプラッガー(朝から店頭に出て曲を弾いて客に売り込む人)となる。
その後ジェローム・H・リミック音楽出版社に入りジェローム・カーン、アーヴィング・バーリン、フレッド・アステア兄弟等と知り会った。
1915年17歳
ハンビッツアの紹介でエドワード・キレニーに作曲法を師事。
2月、ガーシュイン家は 111 番街のずっと上流に住んでいた。モリスが 111 番街とレノックス アベニューにあるセント・ニコラス バスの経営者だったとき、彼らはここに住んでいた。
↓ ガーシュウイン一家の住んでいたアパート 108西111番街
1916年18歳、マレー・ロスの詩に作曲し出版。ボードビルのソフィー・タッカーの目にとまった。
ガーシュウインはニューヨークのエオリアン・カンパニーとスタンダード・ミュージック・ロールズでレコーディングと編曲の仕事を始めた。
彼は自身の名義や変名で、数百とは言わないまでも数十ものロールを制作した(ガーシュウインの変名にはフレッド・マーサやバート・ウィンなどがある)。
また、デュオ・アートとウェルテ・ミニョンのピアノ複製用に自作のロールも録音した。ピアノロールの録音のほかに、ガーシュウインは短期間ながらヴォードヴィルにも進出し、ノラ・ベイズとルイーズ・ドレッサーのピアノ伴奏を務めた。
ブロードウェイで初めて披露した曲は、1916年にジークムント・ロンバーグと共作しハロルド・アテリッジが作詞した《メイキング・オブ・ア・ガール》である。これは1916年の「パッシング・ショー」で歌われた。音楽活動に加えて、彼は兄のアイラとともに、人気の高い有名なゲイ浴場ラファイエット・バスの経営を引き継いた。
彼の最初の出版曲は1916年の《When You Want ‘Em, You Can’t Get ‘Em, When You’ve Got ‘Em, You Don’t Want ‘Em》で、当時17歳だった彼は50セントを稼いだ。
1917年19歳
センチュリー劇場のリハーサルピアニストになる。
この年のノベルティ・ラグタイム《リアルトの波紋》は商業的に成功した。
1918年20歳
2月T・B・ハームズ社と作曲家契約した。
ミュージカル《8時半 Half Past Eight》、ミュージカル《1918年のヒッチワークHitch-Koo of 1918》、作曲。
10月24日ジョージとアイラの最初の共演曲《The Real American Folk Song (Is a Rag)》は、ブロードウェイの『LADIES FIRST』でノラ・ベイズが歌った。
1919年21歳
5月ミュージカル《ラ・ラ・ルシール》をヘンリー・ミラー劇場で初演されブロードウェイ作曲家デビューした。
同年キャピトル劇場で《スワニー》初演、アル・ジョンソンがウインター・ガーデンのレヴューで歌い成功を収め、翌年レコード化され225万枚売れた。
10月24日ジョージ作曲、アーヴィング・シーザー作詞の《スワニー》がキャピトル・レビューで初演。アル・ジョルソンがウィンター・ガーデン劇場で上演したレビュー「シンドバッド」に挿入され、大ヒットとなり、ガーシュウインに初めて本当の名声をもたらした。
ガーシュウインはアーヴィング・シーザーの作詞による《スワニー》で初の全国的大ヒットを記録した。
ブロードウェイのスターで元ミンストレル歌手のアル・ジョルソンは、パーティーでガーシュインが《スワニー》を歌うのを聞き、自分のショーで歌うことを決めた。1919年代後半、ガーシュウインは作詞家で音楽監督のウィリアム・デイリーと出会った。二人はブロードウェイミュージカル《ピカデリー・トゥ・ブロードウェイ》(1920年)と《フォー・グッドネス・セイク》(1922年)でコラボレーションし、《アワ・ネル》(1923年)のスコアを共同で作曲した。これが長い友情の始まりだった。デイリーはガーシュウインの曲の編曲、オーケストラ、指揮を頻繁に手掛け、ガーシュインは定期的に彼に音楽に関するアドバイスを求めた。
ガーシュイン一家は 144th Street のさらに上流に住んでいた。ガーシュウイン一は、当時のヒット曲「ヒンドゥスタン」のスタイルで人気曲を書こうと思いついて、友人のアーヴィング シーザーとこの地に戻った。彼らはタイムズ スクエアで夕食をとり、バスに乗って、家に着いてから15分ほどで《スワニー》という曲を仕上げた。モリスは隣の部屋でポーカーをやっていたところから戻ってきて、ティッシュ ペーパーで包んだコームを弾きながら参加した。
↓ ガーシュウイン一家の住んでいたアパート ここはブロードウェイとアムステルダムアベニューの間の144番街 520 West 144th Street
↓《スワニー》
1920年22歳
6月7日ガーシュウインは、ジークフェルド・フォリーズのライバルであるジョージ・ホワイトのスキャンダルズのために、5曲のうち最初の曲を書いた。スキャンダルズの最も有名な曲は、アイラと BG デシルバが作詞した《I’ll Build a) Stairway to Paradise》である。
ジョージ・ホワイトの《スキャンダル》(1920年-1924年)には、1922年の1幕オペラ《ブルー・マンデー》が一部登場している。
1921年23歳
5月3日アイラは、アーサー・フランシスというペンネームで、ヴィンセント・ユーマンズとポール・ラニンの音楽、フレッド・ジャクソンの脚本による《TWO LITTLE GIRLS IN BLUE》でブロードウェイ初のヒット作を出した。
コロンビア大学の夏季講座を聴講し作曲家ロチェスター・グリーソン・コールに楽器、作曲等の技法を学んだ。
作品:ミュージカル《危険なメイドA Dangerous Maid 》作曲。
1922年24歳
1幕物オペラ《ブルー・マンディ》、を音楽監督ポール・ホワイトマン指揮で初演された。
作品:ミュージカル《お願だから For Goodness Sake 》、《レディ、グッド・ビー・グッド》、オペラ《ブルーマンデー》一幕
1923年25歳
ロンドン旅行。歌手エヴァ・ゴーチェのピアノ伴奏をした。
この頃ルービン・ゴールドコークに作曲のレッスンを受けた。
オペラ《135番街135th Street 》(全1幕)作曲。ミュージカル《虹 the Rainbow 》作曲。
1924年26歳
ポール・ホワイトマンからジャズコンサート用作曲を依頼され、ガーシュウインは最初の大作である管弦楽とピアノのための《ラプソディ・イン・ブルー》を作曲したが、オーケストレーションに精通していなかったため、この曲を当時ホワイトマン楽団のピアニスト兼編曲者のグローフェがガーシュウィンの作曲している傍らから即座に編曲を担当し完成させた。この作品はその後、彼の最も人気のある作品となり、ジャズやクラシックなど、まったく異なる音楽スタイルを革新的な方法で 融合させるというガーシュウインの特徴的なスタイルと才能を確立した。
↓ ここはジョージが『ラプソディ・イン・ブルー』を書いたアパート。彼はスワニーがもたらした成功を受け、いくつかのミュージカルの曲を書き、タイム誌の表紙を飾った。
2月12日《ラプソディ・イン・ブルー》は、ポール・ホワイトマン指揮、パレ・ロワイヤル管弦楽団の演奏によってニューヨーク、エオリアン・ホールの「新しい音楽の試み」と題されたコンサートにおいて初演された。招待客にはストラヴィンスキー、ラフマニノフ、スーザ等著名人の名があった。
同年ロンドンからパリに立ち寄りフランシス・クープラン等を知り会った。これはガーシュウインの最初のクラシック曲となった。
ガーシュウインは兄アイラとチームを組んだとき、「ガーシュウイン兄弟」はブロードウェイの作曲家として君臨し、メロディーに「手袋のような」忠実さで歌詞を合わせ、人を惹きつけるリズムナンバーや感動的なバラードを生み出した。
12月1日ガーシュウインとアイラの歌のみで上演される初のショー《LADY, BE GOOD!》が、ブロードウェイのリバティ劇場で初演された。
1920年代初頭から、ガーシュウインは作詞家のバディ・デシルバと頻繁に仕事をしていた。二人はハーレムを舞台にした実験的な一幕ジャズオペラ《ブルーマンデー》を共同で創作した。この作品は1935年に発表された画期的なオペラ《ポーギーとベス》の先駆けとして広く知られている。
ガーシュウインとアイラは舞台ミュージカルコメディ《レディ・ビー・グッド》で共演し、この中には《ファッシネイティング・リズム》や《オー、レディ・ビー・グッド! 》などの将来のスタンダード曲が含まれていた。
作品:ピアノと管弦楽のための《ラプソディ・イン・ブルー》、ミュージカル《プリムローズ Primrose(さくら草)》、《レディ・ビー・グッドLady be Good(淑女よ善良なれ)》、ロンドンミュージカル《プリムローズ》
↓《ラプソディ・イン・ブルー》ポスター
1925年27歳
1月1日ケイ・スウィフトとガーシュウインは出会い、彼女とは長い付き合いになって行く。ガーシュウインの母親が許さなかったため、二人は結婚できなかった。ガーシュウインが亡くなった後、ケイはアイラとともにガーシュウィンの未完成作品を完成させるために一生懸命働いた。
7月20日号でガーシュインはTIMEタイム誌の表紙を飾った
著名な指揮者ウォルター・ダムロッシュは、ニューヨーク交響楽団のためにピアノ協奏曲を作曲するようガーシュインに依頼した。この《協奏曲ヘ長調》は、ガーシュインの最高傑作であると多くの人が感じている。
12月カーネギー・ホールでピアノと管弦楽のための《協奏曲ヘ調》がウォルター・ダムロッシュ指揮で初演された。
1920年代半ば、ガーシュウインは短期間パリに滞在し、その間に著名なナディア・ブーランジェに作曲の勉強を申し込んだが、モーリス・ラヴェルなど他の数人の教師候補とともに断られ、厳格なクラシック音楽の勉強はジャズの影響を受けた彼のスタイルを台無しにすることを恐れた。
モーリス・ラヴェルがガーシュウインに送った拒否状では、『すでに一流のガーシュウインであるのに、なぜ二流のラヴェルになるのか』と書かれていた。
ガーシュウインはパリ滞在中に《巴里のアメリカ人》を作曲をはじめた。この作品は1928年12月13日にカーネギーホールで初演された際に賛否両論の評価を受けたが、すぐにヨーロッパやアメリカで標準的なレパートリーとなった。
作品:ピアノと管弦楽のための《協奏曲ヘ長》、ミュージカル《ティップ・トー Tip-toes 》、《つま先立ち》、《もっと教えて!》
ガーシュイン一家はセント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂のすぐ近くの、カテドラル・パークウェイとも呼ばれる110番街に住んでいた。
↓ ガーシュウイン一家の住んでいたアパート カテドラル・パークウェイ110番街 501 West 110th Street
↓ カーネギーホールのガーシュウイン
1926年28歳
イギリス、パリ旅行。タクシーのクラクションを購入し後年《パリのアメリカ人》の効果音で使用。
クラシック曲《巴里のアメリカ人》はガーシュウインがフランス滞在中にスケッチした。その後オーケストレーションし、1928年12月13日にカーネギー ホールで初演された。
9月14日兄:アイラがニューヨーク市でレオノーレ・ストランスキーと結婚した。
作品:《Oh, Kay!》、ピアノ曲《三つの前奏曲》
110番街のアパートが2台のグランドピアノを置くには狭すぎると感じたため、ガーシュウインはリバーサイド ドライブ近くの5階建てのこの家を購入した。この静かなニューヨークの通りと、家族全員がそれぞれの階で一緒に暮らしていたという事実がある。地下だった1階には、キッチンとビリヤード台のある広い部屋があり、後には卓球台も設置されました。誰もがここに集まり、両親があまりよく知らない近所の人たちも集まることもあったが、彼らはとても親切で、ドアに鍵をかけることはなかった。
2台のスタインウェイは2階のリビングルームにあった。ここは両親の寝室と小さな居間もあった。日曜日の夕方には定期的に集まり、ガーシュウインはいつもそこでピアノを弾いていた。弟アーサーと妹フランシスは3階に部屋があり、4階はアイラと妻のレオノーレの部屋だった。
↓ ガーシュウィンの購入した103番街のアパート
↓ 同上プレート(1925-1931年まで住んていたようだ)
1927年29歳
フリッツ・ライナー指揮シンシナティ交響楽団と競演した。
11月ニューヨーク、アルヴィン劇場杮落としで《ファニー・フェイス》上演。
同い年の作曲家ヘンリー・カウエルのレッスンを受ける(1929年迄まで3年間続く)カウエルはカリフォルニア大学バークレー校でチャールズ・シーガーに作曲法を学び修めている。カウエル門下にはガーシュウインの他、ジョン・ケージ、ルー・ハリソン等がいた。ファニー・フェイス (1927)、ストライク・アップ・ザ・バンド (1927年と1930年)
作品:《ストライク・アップ・ザ・バンド》、《変な顔》、《ファニー・フェイス》、《ストライク・アップ・ザ・バンド》
1928年30歳
ロンドンン、パリ旅行しドミトリー・テオムキン、ラヴェル、プーランク、ミヨー、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、に会った。
4月ドイツ旅行でクルト・ヴァイル、フランツ・レハール、ウィーンではエマーリッヒ・カールマン、アルバン・ベルクに会った。
12月13日管弦楽のための交響詩《パリのアメリカ人》が、ウォルター・ダムロッシュの指揮によるニューヨーク交響楽団の演奏でカーネギーホールで初演し大喝采を受け、多くの好評を博した。
ミュージカル《ロザリーRosalie 》作曲。『ガール・クレイジー』(1930年)
作品:《パリのアメリカ人》(管弦楽版)、《ロザリー》、《宝物少女》
↓ 1928年3月8日、ニューヨーク市でモーリス ラヴェルの誕生日を祝うパーティーが開かれた。左から、オスカー フリード、エヴァ ゴーティエ、ピアノを弾くラヴェル、マノア レイデ テデスコ、ジョージ ガーシュイン。
↓《巴里のアメリカ人》ポスター
↓《巴里のアメリカ人》
1929年31歳
春、ローザとモリスは冬のほとんどをフロリダで過ごし、夏はニューヨーク州北部で過ごすため、家族は103番街の家を引き払った。ガーシュウインとアイラは、75番街の北西角にある17階建てのアパートの隣接するペントハウスを借りた。アイラの家は東側にあり、ブロードウェイとセントラル パーク ウェストに面していた。ガーシュウインの家は西にニュージャージーを見渡せ、ハドソン川に沈む夕日を眺めるのを楽しめた。二人の兄弟はどちらも絵を描き、美術品を収集していた。ガーシュウインはユトリロ、モディリアーニ、ルオー、ゴーギャン、ルソー、ピカソのほか、多くのアメリカ人芸術家の絵画を収集した。
8月ルイゾーン・スタジアムでウィリアム・デイリーやエドワード・キレニーの指揮法の助言を得て指揮者デビューした。
ガーシュウイン兄弟は《ショー・ガール》を発表した。
作品:《ショーガール》
↓ ガーシュウインの借りた33 Riverside Driveのアパート
1930年32歳
1月14日1927年に初演が失敗に終わった《ストライク・アップ・ザ・バンド》の改訂版が、ブロードウェイのタイムズスクエア劇場で上演された。
10月14日《ガール・クレイジー》がニューヨークのアルヴィン劇場で開幕し、ジンジャー・ロジャースとエセル・マーマンが主演を務めた。
ストライク・アップ・マンハッタン交響楽団指揮者、フォックス映画と作曲家契約した。
《ガール・クレイジー》を発表し、ジンジャー・ロジャースが歌う《エンブレイサブル・ユー》や《アイ・ガット・リズム》といったスタンダード曲を導入した
作品:《ガール・クレイジー》
これは、アイラとガーシュウインが同じ建物に住んでいなかった最初で唯一の時でした。125は72番街の132の真向かいにあり、アイラはガーシュウインと一緒に仕事に行くために広い道路を渡らなければなりませんでした。彼は絶対に必要だと感じた場合のみ、その旅に出ました。
↓ 125イースト72番街
↓ 1930年頃のブロードウェイ
1931年33歳
12月26日ミュージカル・コメディ《君がために歌わんOF THEE I SING》がブロードウェイのミュージック ボックス シアターで上演され、ガーシュインの音楽とアイラ、ジョージ S. カウフマンとモリー ライスキンドの脚本が使われた。
ガーシュウィンがオリジナル音楽を書いた映画「デリシャス」のセカンドラプソディの初期バージョンと他の1つの音楽シーケンスがこの映画で使用されたが、残りはスタジオによって使われなかった。
クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団では、ピアニストとしてガーシュうインが発表された。曲はガーシュウインのピアノと管弦楽のための《Rhapsody No.2》を選ばれた。
作品:合唱と管弦楽のための『ドリーム・シーケンス/メルティング・ポット》、《汝の歌》、《ピアノと管弦楽のための第2狂詩曲(原題は「リベットの狂詩曲」》、《オブ・ジー・アイ・シング》(原題はルンバ)、《ストライク・アップ・ザ・バンド》
1932年34歳
1月29日ガーシュウインのピアノ、セルゲイ・クーセヴィツキー指揮《狂詩曲第二番Rhapsody No.2》がボストンのシンフォニーホールで初演された。
5月2日ガーシュインの音楽とアイラの歌詞、ジョージ S. カウフマンとモリー ライスキンドの脚本が使われたミュージカル《君がために歌わんOF THEE I SING》は演劇部門でピューリッツア賞受賞した。受賞者はジョージ・S・カウフマン、モリー・ライスキンド、アイラ・ガーシュインであった。ミュージカルが受賞したのはこれが初めてだった。残念ながら、ガーシュウインの作曲貢献は認められなかったがその後、ミュージカルに贈られるピューリッツァー賞にはすべて作曲家が含まれるようになった。
5月14日父の死。
音楽理論家ヨーゼフ・シリンガーに作曲法を師事(1932年-1936年)。
作品:「ジョージ・ガーシュインのソングブック」、18曲のピアノ独奏編曲、《管弦楽のためのキューバ序曲》
1933年35歳
春、ジョージは独身者向けの究極のアパートで14室の二世帯住宅を借りた。天井が高く、彼の膨大な美術コレクション、スタインウェイ3台を置くのに十分なスペースがあった。彼は自分でデザインした特別な机を製作した。作業面は傾斜し、足置きがあり、原稿用紙用の引き出し、スライド式の棚、使用していないときはしまえる鉛筆削りが付いていた。
↓ ガーシュウインの借りた14室のアパート
1934年36歳
夏、ガーシュウインは小説『ポーギー』の著者デュボーズ・ヘイワードに招待され、サウスカロライナ州のフォリー島で過ごした。このワーキングバケーション中に、彼はオペラ《ポーギーとベス》の音楽を書くインスピレーションを得た。《ラプソディ・イン・ブルー》の作曲家は《ポーギーとベス》をアメリカの古典とみなしたが、批評家たちはこの作品をどう評価していいのか、オペラなのか、それとも単に野心的なブロードウェイミュージカルなのか判断できなかった。『この作品は境界を越えた』と演劇史家ロバート・キンボールは言う。『この作品は音楽作品そのものでも、ドラマそのものでもなかったが、音楽評論家とドラマ評論家の両方から反応を引き出しました。しかし、この作品は常にカテゴリーの外側にあったのです。』と語った。
作品:オーケストラのための《ストライク・アップ・ザ・バンド》からの行進曲、ピアノとオーケストラのための《I Got Rhythm」変奏曲》
1935年37歳
8月25日オペラ《ポーギーとベス》完成。原作はエドワード・デュポーズ・ヘイワードの小説『ポーギー』で兄のアイラと作者ヘイワードがオペラ化に八年間にわたり取り組んだ。アルバムには「サマータイム」、「女はいつか消える」、「男はもういない」がある。デュボーズ・ヘイワードの小説『ポーギー』に魅了されたガーシュウインは、ブルースとジャズの表現法を使ったオペラに最適な手段だと認識した。ガーシュウインの最も野心的な作品となった。
彼が「フォークオペラ」と呼んだ《ポーギーとベス》(デュボーズ、ドロシー・ヘイワード、アイラ・ガーシュインとの共作)は、ガーシュウイン兄弟の最高の作品と言える。第一幕で歌われる「サマータイム」はよく知られている。
9月30日デュボーズ・ヘイワードの著書『ポーギー』とデュボーズ・ヘイワードと妻ドロシー、アイラによるの戯曲に基づいたオペラ《ポーギーとベス》がボストンのコロニアル劇場で初演したが好評を得なかった。興行的に失敗した後、ガーシュウインはカリフォルニア州ハリウッドに移住した。
10月10日オペラ《ポーギーとベス》が、ニューヨーク ブロードウェイのアルヴィン劇場で初演され公演は成功を収めた。
作品:パードン・マイ・イングリッシュ(1933)
ケーキを食べよう(1933)
↓オペラ《ポギーとベス》
↓オペラ《ポギーとベス》より「サマータイム」
1936年38歳
この年、彼はRKO映画からフレッド・アステアとジンジャー・ロジャース主演の映画『踊ろうよ』の音楽を書くよう依頼された。バレエとジャズを新しい形で融合させたガーシュウインの長編スコアは1時間以上に及ぶ。ガーシュウインは作曲と編曲に数ヶ月を要した。ガーシュウインは作曲家のケイ・スウィフトと10年間不倫関係にあり、頻繁に音楽について相談していた。2人は結婚することはなかったが、彼女は最終的に夫のジェームズ・ウォーバーグと離婚して関係を続けた。スウィフトの孫娘、キャサリン・ウェーバーは、2人が結婚しなかったのはジョージの母ローズが「ケイ・スウィフトがユダヤ人でないことに不満を抱いていた」ためではないかと示唆している。ガーシュイン兄弟の1926年のミュージカル《オー・ケイ》は彼女にちなんで名付けられた。ガーシュインの死後、スウィフトはガーシュインの曲の一部を編曲し、いくつかの録音を書き起こし、兄のアイラといくつかのプロジェクトでコラボレーションした。1942年と1953年に再演され、その後世界ツアーを行ったほか、1959年には映画化された。
管弦楽のための《キャットフィッシュ・ロウ》、《『ポーギーとベス》の音楽に基づく組曲
↓ 指揮するガーシュウイン(1937年頃)
1937年39歳
2月11日彼はフランスの巨匠ピエール・モントゥーの指揮の下、サンフランシスコ交響楽団と《ピアノ協奏曲ヘ長》を特別演奏会で演奏した。
5月7日ガーシュウインとアイラ兄弟が手がけたフレッド・アステアの最初の映画『シャル・ウィ・ダンス』が RKO から公開された。
7月ローマ、サンタ・チェチーリア音楽院名誉会員となった。
年の初め、ガーシュウインはひどい頭痛と、ゴムの焦げた臭いが繰り返し感じられると訴え始めた。1934年2月にはすでに、デトロイト駅でゴミの焦げた臭いがすると言っていたが、一緒にいた人たちは気づかなかった。普段は自作のピアニストとして優れた才能を発揮するガーシュウインだが、演奏中に協調運動障害や意識消失に見舞われた。当時、彼はビバリーヒルズの借家でアイラと妻のレオノーレと暮らしながら、他のハリウッド映画のプロジェクトに取り組んでいた。
レオノーレ・ガーシュインは、ガーシュウインの気分のむらや、食卓で食べ物をこぼさずに食べられない様子に悩まされはじめた。彼女は精神疾患を疑い、息子を家から出して、近くにある作詞家イップ・ハーバーグの空き部屋に移すよう主張した。そこで息子は、彼の従者であるポール・ミューラーの世話になった。頭痛と幻覚は続いた。
7月9日の夜、ガーシュウインはハーバーグの家で倒れた。彼はそこでゴールドウィン・フォリーズの楽譜を書いていた。彼はロサンゼルスのシーダーズ・オブ・レバノン病院に緊急搬送されたが、昏睡状態に陥った。その時になって初めて、医師たちは彼が脳腫瘍を患っていると信じるに至った。
レオノーレはガーシュウインの親友エミール・モスバッハーに電話し、神経外科医を早急に探す必要があることを説明した。モスバッハーはすぐにボストンの先駆的神経外科医ハーヴェイ・カッシングに電話した。カッシングは当時すでに数年引退しており、メリーランド州知事ハリー・ナイスとともにチェサピーク湾で漁をしていたウォルター・ダンディを推薦した。モスバッハーはホワイトハウスに電話し、沿岸警備隊の巡視船を派遣して知事のヨットを探し、ダンディを急いで岸に引き上げさせた
その後、モスバッハーはチャーター機でダンディをニューアーク空港まで運び、そこで彼はロサンゼルス行きの飛行機に乗ることになっていた。
その時にはガーシュインの容態は危篤で、すぐに手術が必要だった。
7月11日日曜日の早朝、ダンディが到着する前に、シーダーズの医師らが神経膠芽腫と思われる大きな脳腫瘍を摘出したが、ガーシュウインはその日の朝、38歳で亡くなった。
7月9日に立ち上がった後に突然倒れて昏睡状態に陥ったという事実は、デュレ出血を伴う脳ヘルニアと解釈されている。
ガーシュインの友人や崇拝者たちは衝撃を受け、悲嘆に暮れた。
ジョン・オハラは「ガーシュウインは1937年7月11日脳腫瘍の手術後に38才の若さでこの世を去ったが、信じたくなければ信じなくてもいい」と述べた。ガーシュウインはニューヨーク州ヘイスティングス・オン・ハドソンのウエストチェスターヒルズ墓地に埋葬された。
9月8日にはハリウッドボウルで追悼コンサートが開催され、オットー・クレンペラーがガーシュインの三つの前奏曲のうち二曲目を自ら編曲して指揮した。
墓地はウエストチェスターヒルズ墓地にあるガーシュインの霊廟にある。
《They Can’t Take That Away from Me》アカデミー賞最優秀オリジナル歌曲賞にノミネートされた。
作品:《窮地に陥った乙女》、映画音楽付き長編バレエ《Shall We Dance》、《ゴールドウィン・フォリーズ》(1938年)死後に公開された。
ショッキング・ミス・ピルグリム(1947年)では、これまで未発表だった曲が使われている。
↓ 墓
1948年12月16日母の死
6.主な作品
<オペラ>
《ブルー・マンディ》(1922年)1幕物
《135番街》 135th Street(1923) 全1幕のアフロ・アメリカン風オペラ
《ポーギーとベス》 Porgy and Bess(1934-35) 全3幕9場のオペラ
<ミュージカル>
《8時半》 Half Past Eight(1918)
《1918年のヒッチー=クー》 Hitchy-Koo of 1918(1918)
《危険なメイド》 A Dangerous Maid(1921)
《お願いだから》 For Goodness Sake(1922)
《虹》 The Rainbow(1923)
《プリムローズ(さくら草》 Primrose(1924)
《レディー・ビー・グッド》 Lady be Good(1924)
《ティップ・トー》 Tip-toes(1925)
《トレジャー・ガール》 Treasure Girl(1928)
《ロザリー》 Rosalie(1928)
《ショー・ガール》 Show Girl(1929)
《ストライク・アップ・ザ・バンド》 Strike up the Band(1930)
《ガール・クレイジー》 Girl Crazy(1930)
《オブ・ジー・アイ・シング》 Of Thee I Sing(1931)
《レットエム・イート・ケーク》 Let ’em eat cake(1933)
《ショー・イズ・オン》 The Show is On(1936)
<映画音楽>
《デリシャス Delicious》(1931) デイヴィッド・バトラー監督の映画のための
《踊らん哉》(1937) マーク・サンドリッチ監督の映画のための。原題は「Shall We Dance」
《踊る騎士 A Damsel In Distress》(1937) ジョージ・スティーヴンス監督の映画のための
《ゴールドウィン・フォリーズ The Goldwyn Follies》(1937) ジョージ・マシャール監督の映画のための
<管弦楽曲・協奏曲>
《ラプソディ・イン・ブルー》 Rhapsody in Blue(1924)
《ピアノ協奏曲 ヘ調》(1925)
《パリのアメリカ人》 An American in Paris(1928)
《ラプソディ第2番》 Rhapsody No.2(1931)
《キューバ序曲》 Cuban overture(1932)
《アイ・ガット・リズム変奏曲》 Variations on a original theme “I got rhythm”(1934)
交響組曲《キャットフィッシュ・ロウ》 Catfish Row(1936)
<室内楽曲>
《子守歌》(1919)
《弦楽四重奏のための作品》1968年に出版
《ピアノ曲》
《タンゴ》(1914)
《リアルトのさざ波 – ラグ》 Rialto Ripples Rag(1917) ウィル・ドナルドソン(Will Donaldson)との共作
《3つの前奏曲》(1926)
《プロムナード》(1937)
《2つの調のための即興曲》(1929)
<歌曲>
シンス・アイ・ファウンド・ユー Since I found you(1913)
ホエン・ユー・ウォント・エム、ユー・キャント・ゲット・エム When you want’em, you can’t get ’em(1916)
ザ・リアル・アメリカン・フォーク・ソング The real American folk song(1918)
ミュージカル『レディース・ファースト』より
香港 Hong Kong(1918)
ミュージカル『8時半』より
ドーナッツ Doughnuts(1919)
ミュージカル『モリス・ジェストの深夜の騒ぎ』より
スワニー Swanee(1919)
『キャピトル・レヴュー』より
ヤンキー Yan-Kee(1920)
ミュージカル『モリス・ジェストの深夜の騒ぎ』より
バックホーム Back home(1920)
ミュージカル『Dere Mable』より
サムワン Someone(1922)
サムワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー Someone To Watch Over Me(1926)
ミュージカル『Oh, Kay!』より
アイル・ビルド・ア・ステアウェイ・トゥ・パラダイス I’ll Build A Stairway To Paradise(1928)
ミュージカル『For Goodness Sake』より
アイ・ガット・リズム I got rhythm(1930) 作詞は兄のアイラ。
ジャスト・アナザー・ルンバ Just another rhumba(1938)
<ガーシュウィン作品を扱ったミュージカル映画>
『踊る騎士』(A Damsel in Distress、1937年 アメリカ、RKO製作)
『華麗なるミュージカル』(The Goldwyn Follies、1938年 アメリカ、サミュエル・ゴールドウィン製作)
『アメリカ交響楽』(Rhapsody in Blue、1945年 アメリカ)
『巴里のアメリカ人』(An American In Paris、1951年 アメリカ、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー製作)
『ポーギーとベス』(Porgy and Bess、1959年 アメリカ、MGM製作)
7.アイラとジョージのガーシュウイン兄弟について
↓ガーシュウインと兄のアイラ
ジョージ・ガーシュウイン(以降ガーシュウインという)と兄アイラ・ガーシュイン(以降アイラという)
・アイラは、ニューヨーク市のブルックリンで、アイラ・ガーショヴィッツとしてモリス(モイシェ)とローズ・ガーショヴィッツの子として生まれた。
・両親は、子供たちが有名になるずっと前から姓をガーシュインに変更していた(「ガーシュイン」と綴られるようになったのは後になってからである)。
・アイラの若い頃は内気で、家で読書に多くの時間を費やしていたが、小学校から大学まで、いくつかの学校新聞や雑誌で重要な役割を担った。
・アイラは1914年にタウンゼント・ハリス高校を卒業し、そこでイップ・ハーバーグと出会った。
・アイラはニューヨーク市立大学に通ったが、中退した。
・アイラの弟ガーシュウインが十八歳からティン・パン・アレーで作曲と「宣伝」を始める一方で、アイラは父親のトルコ風呂のレジ係として働いていた。
・アイラが音楽業界に関わるようになったのは1921年になってからだった。
・アイラとアレックス・アーロンズはと契約し、彼の次のショー「Two Little Girls in Blue」(「アーサー・フランシス」というペンネームで書かれた)の音楽を作曲した。このショーは最終的にエイブラハム・アーランガーがプロデュースし、ヴィンセント・ユーマンズとポール・ラニンが共同作曲した。アイラの歌詞は好評で、彼はたった一回のショーで演劇界に進出することができた。
・アイラと弟ガーシュウインが初めてブロードウェイでヒットした《レディ・ビー・グッド!》の曲を書くためにタッグを組んだのは1924年になってからだった。・
・兄弟が一緒になってからは、彼らの才能はアメリカミュージカル史上最も影響力のあるものとなった。
・ガーシュウイン兄弟が《レディ・ビー・グッド》の曲を書くためにタッグを組んだとき、このアメリカのミュージカルは本来の表現方法を見出した。彼らは一緒に12以上のショーと4本の映画の音楽を書いた。彼らの最も有名な作品には「The Man I Love」「Fascinating Rhythm」「Someone to Watch Over Me」「I Got Rhythm」「They Can’t Take That Away from Me」などがある。
・兄弟の協力関係は1937年にガーシュウインが脳腫瘍で突然亡くなるまで続いた。
・弟の死後、アイラは再び曲を書くまでに三年近く待った。
・この休止期間の後、彼はジェローム・カーン(カバーガール)、クルト・ヴァイル(「ここからどこへ行くの?」「レディ・イン・ザ・ダーク」)、ハロルド・アーレン(「人生は8時40分に始まる」「アリー/ スター誕生」)といった優れた作曲家たちとチームを組んだ。
・その後14年間、アイラ・ガーシュインは多くの映画音楽やいくつかのブロードウェイショーの歌詞を書き続けた。しかし、1946年に作曲家アーサー・シュワルツと共同で書いた離婚をテーマにした「スマートな」ショー「パーク・アベニュー」が失敗し、ブロードウェイに別れを告げた。当時彼は「ミュージカル化のためにいくつかの物語を読んでいた。
・1947年、彼とジョージが書いたが使われなかった11曲がベティ・グレイブルの映画『ショッキング・ミス・ピルグリム』に組み込まれ、後に彼はビリー・ワイルダーの映画『キス・ミー・ステューピッド』の喜劇的な歌詞を書いた。
・アメリカの歌手、ピアニスト、音楽史家であるマイケル・ファインスタインは、作詞家の晩年にアイラのもとで働き、彼のアーカイブの整理を手伝った。この時期には、失われた音楽の宝物がいくつか発掘され、ファインスタインはそのうちのいくつかを演奏した。
<アイラとガーシュウィン受賞・受章>
・ガーシュウインの歌曲のうち三曲《They Can’t Take That Away From Me》(1937 年)、《Long Ago and Far Away》(1944 年)、《The Man That Got Away》(1954 年)) はアカデミー賞最優秀オリジナル歌曲賞にノミネートされたが、受賞しなかった。
・アイラは、ジョージ S カウフマン、モリー ライスキンドとともに、1932年に《Of Thee I Sing》でピューリッツァー賞演劇部門で受賞した。
・ジョージ・ガーシュウイン&アイラ・ガーシュイン生涯音楽功労賞は、音楽への貢献と、UCLAへの応援歌《Strike Up the Band for UCLA》の寄贈を称えるために、UCLAによって1988年に設立された。過去の受賞者には、アンジェラ・ランズベリー(1988年)、レイ・チャールズ(1991年)、メル・トーメ(1994年)、バーナデット・ピーターズ(1995年)、フランク・シナトラ(2000年)、スティーヴィー・ワンダー(2002年)、k.d.ラング(2003年)、ジェイムス・テイラー(2004年)、ベイビーフェイス(2005年)、バート・バカラック(2006年)、クインシー・ジョーンズ(2007年)、ライオネル・リッチー(2008年)、ジュリー・アンドリュース(2009年)などがいる。
<アイラとガーシュウィン遺産>
・アイラとガーシュウィンの作品は、アメリカ人の意識に深く根付いている。ジョージの《ラプソディ・イン・ブルー》の冒頭のクラリネットのグリッサンド、《パリのアメリカ人》のタクシークラクションのテーマ、そして兄弟の作品《I Got Rhythm》《Embraceable You》《The Man I Love》《Someone to Watch Over Me》《Fascinating Rhythm》など、すぐにわかる。
・アイラは、現代世界の音を喜んで聴きいた。「彼は、生活の細部に鋭い目と耳を持っていた。」彼は日記にこう記している。『一日で聞こえた音は、エレベーターのゴロゴロという音、電話のベルの音、電話のブザー音、赤ちゃんのうめき声、歓喜の叫び声、フラットホイールの金切り声、しわがれたクラクション、しわがれた声、チリンチリンという音、サンドペーパーを擦るマッチの音、迫りくる地下鉄で爆破される重たい爆音、溝に引っかかる鉄のフック。』
・1987年、アイラの未亡人レオノーレ・ガーシュインは、ニューヨーク市ローワーイーストサイドのエルドリッジストリート185番地にある100年の歴史を持つ施設、ユニバーシティ・セトルメントにアイラ・ガーシュイン・リテラシー・センターを設立した。センターは、主にヒスパニック系と中国系アメリカ人に英語プログラムを提供する目的で設立された。アイラと弟のガーシュウインは、放課後の多くの時間をセトルメントで過ごしていた。
・2007年、議会図書館はポピュラーソング賞にアイラ・ガーシュインとジョージ・ガーシュウインにちなんで名付けた。この賞は、ポピュラー音楽が世界の文化に与えた深遠かつ前向きな影響を認め、生涯にわたる貢献がガーシュウイン家の卓越性の基準を体現する作曲家または演奏家に毎年授与される。
・2007年3月1日、議会図書館は、アメリカで最も尊敬されている作詞家およびミュージシャンの ひとりであるポール サイモンが、毎年開催される議会図書館「ポピュラーソング・ガーシュウイン賞」の初受賞者になったと発表した。「第二回ポピュラーソング・ガーシュウイン賞」は、2009年2月25日にバラク オバマ大統領によってスティーヴィー ワンダーに授与された。
8.その他
・1998年ピューリッツァー賞授与
・2006年ロングアイランド音楽殿堂入り
・ガーシュウィン音楽特別功労賞はULCAによって設立
・1973年ガーシュインを称える米国記念切手発売。
・伝記映画「ラプソディ・イン・ブルー」日本題名「アメリカ交響楽」がある。
・ガーシュウイン自身の協奏曲ヘ長調は、予想されていたジャズスタイルというよりも、クロード・ドビュッシーの作品に関連があると批判された。しかし、この比較は彼がフランス風のスタイルを探求し続けることを阻止することはなかった。 《巴里のアメリカ人》のタイトルは、作曲家として意識的に辿った道のりそのものを反映している。「曲はオリジナルだが、冒頭部分はドビュッシーや六人組のやり方で典型的なフランス風に展開される。」
・ガーシュウインは、アルバン・ベルク、ドミトリ・ショスタコーヴィチ、イーゴリ・ストラヴィンスキー、ダリウス・ミヨー、アルノルド・シェーンベルクの作品に興味をそそられた。また、シェーンベルクに作曲のレッスンを依頼したが、シェーンベルクは「君を悪いシェーンベルクにするだけだ。君はすでに素晴らしいガーシュインだ」と言って断った。(この引用は、1928年にガーシュウインがフランスを訪れた際にモーリス・ラヴェルが言ったとされる『一流のガーシュインであるのに、なぜ二流のラヴェルでいるんだ?』という言葉に似ている。)。
・ガーシュウインは特にベルクの音楽に感銘を受け、ベルクは彼に抒情組曲の楽譜を贈った。1931年にレオポルド・ストコフスキーが指揮したヴォツェックのアメリカ初演に出席し、『興奮し、深く感銘を受けた』という。
・ロシア人のジョセフ・シリンガーはガーシュウインの作曲教師(1932年-1936年)として、作曲法をガーシュウインに教えるという点で多大な影響を与えた。シリンガーがガーシュインに与えた影響の性質については意見の相違がある。シリンガーは死後にオペラ《ポーギーとベス》が成功した後、オペラの制作を監督する上で大きな直接的影響を与えたと主張した。一方アイラは、兄がこの作品にそのような援助をしたことを全面的に否定した。ガーシュインと師の音楽的関係についての三つ目の記述は、ガーシュウインの親友でシリンガーの教え子でもあったヴァーノン・デュークが1947年にミュージカル・クォータリー誌に寄稿した記事である。
・ガーシュウインが他と一線を画していたのは、音楽の形式を独自の声に操る能力だった。ティン・パン・アレーで発見したジャズを、当時の人気曲のリズムや音色と融合させることで主流に押し上げた。ガーシュウインは自分の音楽について大げさな発言をすることはほとんどなかったが、『真の音楽は人々と時代の思想や願望を反映したものでなければならない。私の人々はアメリカ人であり、私の時代は今日だ』と信じていた。
・2007年、アメリカ議会図書館はガーシュウインとアイラにちなんで、ポピュラーソングのためのガーシュウィン賞と名付けた。ポピュラー音楽が文化に与えた深遠で前向きな影響を認め、この賞は生涯の貢献がガーシュウイン家の卓越性の基準を体現する作曲家や演奏家に毎年贈られる。2007年3月1日、第1回ガーシュウイン賞がポール・サイモンに授与された。
<録音と映画>
・ガーシュウインはキャリアの初期に、本名と変名の両方で140曲以上の自動ピアノ ロールを録音しており、これが主な収入源となっていた。そのほとんどは当時のポピュラー音楽で、少数は彼自身の作品であった。ミュージカル脚本家としての収入が相当なものになると、定期的なロール録音の仕事は不要になった。
・1920年代を通して、エオリアン・カンパニーの再生ピアノ用に主なヒット曲のロールを追加録音したが、その中には《ラプソディ・イン・ブルー》の完全版も含まれていた。
・ピアノロールに比べると、ガーシュウインの演奏を録音したものはほとんどない。最初の録音は、1919年のフレッド・ヴァン・エプス・トリオとの《スワニー》である。録音のバランスは、ヴァン・エプスのバンジョーの演奏が際立ち、ピアノは影に隠れている。この録音は、1920年初頭に《スワニー》がアル・ジョルスンの名物曲として有名になる前に行われた。
・ガーシュウインは、世界初演直後の1924年に、ポール・ホワイトマンとそのオーケストラと共にビクター・トーキング・マシーン・カンパニーのために《ラプソディ・イン・ブルー》の短縮版を録音した。ガーシュウインと同オーケストラは、1927年にビクターのために短縮版の電子録音を行った。しかし、スタジオ内での解釈をめぐる論争でホワイトマンは怒り、セッションを途中で抜けた。ビクターの専属指揮者兼編曲家のナサニエル・シルクレットがオーケストラを率いたが、オリジナルのレコードレーベルではホワイトマンが指揮者としてクレジットされている。
・ガーシュウインは、ミュージカルの曲をピアノ独奏で多数録音しており、その中にはフレッドとアデルのアステアのボーカルやピアノのための3つの前奏曲も含まれている。
・1929年、ガーシュウインはナサニエル・シルクレットとビクター交響楽団による《巴里のアメリカ人》の世界初録音を「監督」した。特にシルクレットが指揮を執り、音楽について独自の考えを持っていたため、録音におけるガーシュウインの役割はかなり限定されていた。短いチェレスタのソロを演奏する人が誰も雇われていないことがわかったとき、ガーシュウインに楽器を演奏できるか、また演奏するつもりがあるか尋ねられ、彼は同意した。録音のスローセクションでは、ガーシュウインの演奏がかなり短時間だけ聞こえる。
・ガーシュウインはまた、ルディ・ヴァリーの番組を含むいくつかのラジオ番組に出演し、自身の作曲作品のいくつかを演奏した。これには、ヴァリーがスタジオオーケストラを指揮して演奏したヘ長調協奏曲の第3楽章も含まれている。これらの演奏の一部は転写ディスクに保存され「LP」 や「CD」でリリースされている。
<ポギーとベス>
・1934年、計画していたオペラ《ポギーとベス》の資金を稼ぐため、ガーシュウインはMusic by Gershwinと題した自身のラジオ番組の司会を務めた。この番組はNBCブルーネットワークで2月から5月まで、そして9月に再び放送され、1934年12月23日の最終回まで放送された。ガーシュウインは自身の作品だけでなく他の作曲家の作品も紹介した。このラジオ放送や他のラジオ放送からの録音には、《I Got Rhythmによる変奏曲》、《協奏曲ヘ長調》の一部、ミュージカルコメディからの多数の曲が含まれていた。また、オーケストラを指揮しピアノソロを弾いて、《狂詩曲第二Second Rhapsody》の通し演奏も録音している。ガーシュウインは、オリジナルキャストのメンバーと《ポーギーとベス》の抜粋を録音し、キーボードでオーケストラを指揮した。選曲と出演者の名前もアナウンスした。1935年、RCAビクターはガーシュウインに《ポーギーとベス》のハイライト部分の録音を監督するよう依頼した。これらは彼の最後の録音となった。
・RCAビクターは、1938年7月10日にNBCラジオネットワークで放送されたRCAマジックキー番組から録音された5枚組12インチ78回転メモリアルアルバム(C-29)を発売した。ナサニエル・シルクレット指揮のビクターサロングループと歌手のジェーン・フロマンが出演した。1931年8月のマンハッタン劇場(現在のエドサリバン劇場)のオープニングで撮影された、ガーシュウィンが《アイ・ガット・リズム》を演奏する74秒のニュース映画のフィルムクリップが現存している。ガーシュウィンの無声ホームビデオもあり、その一部はコダクロームカラーフィルムで撮影されており、作曲家へのトリビュートで取り上げられている。さらに、1930年のプロダクション《ストライク・アップ・ザ・バンド》のブロードウェイリハーサル中に、ガーシュウィンがピアノで《マドモアゼル・フロム・ニューロシェル》と《ストライク・アップ・ザ・バンド》を演奏するニュース映画の映像もある。 30年代半ば、《ストライク アップ ザ バンド》は UCLA にフットボールの応援歌として提供され、《ストライク アップ ザ バンド フォー UCLA》となった。クラークとマッカローのコメディ チームがガーシュインと会話し、演奏に合わせて歌っている様子が映し出されている。
<『ラプソディ・イン・ブルー』>
・1945年、ロバート・アルダがジョージ・ガーシュウイン役で主演した伝記映画『ラプソディ・イン・ブルー(日本題名「アメリカ交響楽」)』が製作された。この映画にはガーシュウインの生涯に関する多くの事実誤認が含まれているが、ラプソディ・イン・ブルーのほぼ完全な演奏など、彼の音楽の例も多数取り上げられている。
・1965年、ムービートーン・レコードは、ガーシュウインが演奏する《ラプソディ・イン・ブルー》と題されたガーシュウインのピアノロールとその他のお気に入りの作品を収録したアルバム『MTM 1009』をリリースした。LPのB面には、他の9つの録音が収録されている。
・1975年、コロンビア・レコードは、マイケル・ティルソン・トーマスが指揮するコロンビア・ジャズ・バンドのオリジナルのジャズバンド伴奏による、ガーシュウインの《ラプソディ・イン・ブルー》のピアノロールを収録したアルバムをリリースした。
・コロンビア・マスターワークス・リリースのB面には、ティルソン・トーマスがニューヨーク・フィルハーモニックを指揮して《巴里のアメリカ人》演奏した。
・1976年RCAレコードはガーシュインのオリジナル録音のコレクションをアルバム「ガーシュウイン・プレイズ・ガーシュウイン、ヒストリック・ファースト・レコーディングス」(RCAビクトローラAVM1-1740)で再リリースした。これには、ポール・ホワイトマン・オーケストラとガーシュウインのピアノによる1924年の《ラプソディ・イン・ブルー》の初LPリリース、ナサニエル・シルクレット指揮、ガーシュウインのチェレスタによる1929年の《巴里のアメリカ人》などが含まれている。また、《スリー・プレリュード》、《クラップ・ヨー・ハンズ》、《サムワン・トゥ・ウォッチ・オーバー・ミー》なども含まれている。
・ウディ・アレンの1979年の映画『マンハッタン』のサウンドトラックは、ラプソディ・イン・ブルー、愛は国を席巻する、そして『バット・ノット・フォー・ミー』を含むガーシュウインの作品のみで構成されており、ズービン・メータ指揮のニューヨーク・フィルハーモニックとマイケル・ティルソン・トーマス指揮のバッファロー・フィルハーモニックの両指揮者によって演奏されている。映画は、作家役のアレンが著書の登場人物について語るモノローグで始まる。「彼はニューヨークを愛していた…彼にとって、季節に関係なく、ここは白黒で存在し、ガーシュウインの素晴らしい曲で脈動する街だった。」。
・1993年アーティス・ウッドハウスの尽力により、ノンサッチ・レコードからガーシュウインのピアノロールを収録した2枚のオーディオCDが発売され、タイトルは『ガーシュイン・プレイズ・ガーシュウイン:ザ・ピアノ・ロールズ』である。
・2010年、ブライアン・ウィルソンは、ガーシュウインとアイラの10曲と、《ラプソディ・イン・ブルー》の一部で挟まれた、ブライアン・ウィルソン・リイマジンズ・ガーシュウィンをリリースした。また、ウィルソンとバンドメンバーのスコット・ベネットが未完成のガーシュウィンの断片から完成させた2曲の新曲も収録されている。
<同名人物>
・ブロードウェイの「ガーシュウイン劇場」はガーシュウインとアイラにちなんで名付けられた。
・ニューヨーク市マンハッタンのフラットアイアン地区にあるガーシュウイン ホテルは、ガーシュウインとアイラにちなんで名付けられた。
・ブルックリンでは、ガーシュウィン中学校166号が彼の名にちなんで名付けられている。
・ポーランド・アメリカララインの船の一つ、「MSコーニングスダム」にはガーシュうインデッキ(デッキ5)がある。
9.初演
10.関連動画
《ヘ調の協奏曲》
ガーシュウィン, ジョージ(Pf.)
George Gershwin – Concerto in F
《巴里のアメリカ人》
小澤征爾 / ベルリンフィル
George Gershwin: An American in Paris
Berliner Philharmoniker Conducted by Seiji Ozawa
Gershwin Night, 2003
《ラプソディ・イン・ブルー》
指揮・ピアノ:レナード・バーンスタイン
演奏:ニューヨーク・フィルハーモニック
1976年
George Gershwin – Rhapsody in Blue –
Leonard Bernstein, New York Philharmonic (1976)
《Gershwin Documentary》
ガーシュウィンの作曲はポピュラーとクラシックの両方のジャンルにまたがり、彼の最も人気のあるメロディーは広く知られています。彼の最も有名な作品の中には、オーケストラ作品のラプソディ・イン・ブルー(1924)とパリのアメリカ人(1928)、そして現代オペラのポーギーとベス(1935)がある
《Gershwin in Focus with Jack Gibbons and Sir Ben Kingsley》
受賞歴のあるガーシュウィンのスペシャリストであるジャック・ギボンズが、ベン・キングスリー卿をジョージ・ガーシュウィンの声として執筆し、発表した、ジョージ・ガーシュウィンの生涯と仕事についての1時間のイラスト付きトーク。
歌劇《ポギーとベス》よりサマータイム
Porgy & Bess “Summertime”
歌劇《ポギーとベス》全幕2:34:32
Porgy and bess
歌劇《ポギーとベス》全幕 2:32:41
George and Ira Gershwin’s Porgy and Bess- The complete 2002 Lincoln Center Production
《アイ・ガット・リズム》
George Gershwin – I Got Rhythm
《Lullaby》
Indianapolis Symphony Orchestra / Leppard, Raymond
《キス・ミー・ケート》
Kiss me Kate @ BBC Proms
《三つの変奏曲》
ガーシュウィン, ジョージ(Pf.)
Gershwin plays Gershwin 3 Preludes
《ラプソディ・イン・ブルー》
ガーシュウィン, ジョージ(Pf.)
Gershwin plays Gershwin: Rhapsody in Blue (solo piano)
映画《アメリカ交響楽》より
歌劇《ポーギーとベス》 より「ベス、お前は俺のものだ」
ハイッフェツ, ヤッシャ(Vn)
Jascha Heifetz – “Bess you is my woman now” (Gershwin’s Porgy and Bess)
《ヘ調の協奏曲》
Marc-André Hamelin,
Leonard Slatkin.
《メイビー》
ガーシュウィン, ジョージ(Pf.)
George Gershwin, Piano – Maybe (1926)
《ああ、ケイ!より》
George Gershwin – 4 songs from Oh Kay
《Catfish Row》
原曲は」「ポーギーとベスからの組曲でオペラ「ポーギーとベス」の音楽を基にした管弦楽曲
ステファノ・ボラーニ – ピアニスト
ルクセンブルク・フィルハーモニー管弦楽団
グスタボ・ヒメノ – 指揮者
Stefano Bollani – pianist
Orchestre Philharmonique du Luxembourg
Gustavo Gimeno – conductor
↓<画面下の(youtubeで見る)をタップすると再生します。>
「The Best of Gershwin」
0:00 Cuban Overture
11:20 Piano Concerto In F – Andante Con Moto, Adagio
22:34 Porgy & Bess
36:09 3 Preludes For Piano – Prelude #1
37:36 3 Preludes For Piano – Preludes #2
41:48 3 Preludes For Piano – Prelude #3
43:03 Girl Crazy (Selections)
48:53 They Can’t Take That Away From Me
51:53 Rhapsody In Blue
「The Best Of George Gershwin」
00:00:00 Summertime
00:03:47 Strike up the band
00:07:01 The man I love
0:14:31 Oh lady be good
00:18:07 I got a rhythm
00:23:04 A foggy day
00:28:17 Embraceable you
00:33:20 I have a crush on you
00:37:09 Of thee I sing
00:44:20 S wonderful
00:49:33 They can’t take away from me
00:59:17 Liza
01:04:45 Swanee
01:12:31 Love is here to stay
01:17:30 Maybe
01:21:44 But not for me
レオナルド・ロカテリ | ピアノLeonardo Locatelli | Piano
《Strike Up the Band》
指揮: ヨエル・レヴィ/ハイファ交響楽団(イスラエル)
HAIFA SYMPHONY ORCHESTRA