シベリウス

ジャン・シベリウス生誕 Jean Sibelius

生没年・出身地・歿地・墓地
(1865年12月8日ロシア帝国の自治領であったフィンランド大公国ヘルシンキの北方ハメーンリンナ(タヴォステフース)に生まれる)
(1957年9月20日ヘルシンキ郊外ヤルヴェンパーのアイノラの自邸で歿。91歳)

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1.職業


フィンランドの作曲家(国民楽派)、ヴァイオリニスト

【楽歴】
1885年ヘルシンキ音楽院入学
1889年ヘルシンキ音楽院卒業
1889年-1990年奨学金を受け、ベルリンへ留学
1990年-1991年ウィーン留学
1892年~1901年母校ヘルシンキ音楽院の作曲、ヴァイオリンの教師
1892年-1901年カヤヌス指揮学校の教師
師事:グスタフ・レヴァンダー、マルティン・ヴェゲリウス、フェルッチョ・ブゾーニ、アルベルト・ベッカー、ロベルト・フックス、カール・ゴルトマルク

2.称号


イェール大学名誉博士号
ヘルシンキ大学名誉博士号
ダンネブロ勲章ナイトに叙される

3.家系


フィンランド、Sibbe の出であるといわれている

4.家族


高祖父の祖父:Olli Heikinpoika Pekkala, (推定1627年〜1687年-およそ1693年 Männistö Pekkola, Artjärvi, Finland)
高祖父の祖母:Anna Heikintytär Pekkala, (推定1627年〜1687年)
高祖父の父:Mårten Olofsson Pekkala, (1692Männistö, Artjärvi, Finland-1742年8月01日Männistö Pekkola, Artjärvi, Finland) 45-54歳
高祖母の母:Elisabet Thomasdotter, (1680-1740年6月02日Männistö Pekola (Pekkola), Artjärvi, Finland) 55-64歳
高祖父:Matti Martinpoika Pekkala, (1721年9月19日Männistö Pekkola, Artjärvi, Finland-1782年3月08日Norrby, Lappträsk, Finland) 60歳。
高祖母:Anna Andersdotter Silfvast, (Lassila) (1724年8月11日Artsjö, Finland-1789年8月11日Norrby Silvastas, Lappträsk, Finland) 65歳。
曾祖父:Juho Matinpoika Sibbe, (1759年8月26日Silfvast, Norrby, Lappträsk, Finland-1820年5月20日Sibbes, Kapellby, Lapinjärvi, Finland)60歳。
曾祖母:Maria Mattsdotter Sibbe, (1763年11月17日-1804年10月12日) 40歳
祖父:ヨハン・シベリウス
Johan Sibelius, (Sibbe) (1785年11月16日~1844年12月20日) 59歳
祖母:カタリーナ・フレドリカ・シベリウス
Fredrika Catharina Åkerberg, (1792年7月10日~1879年4月24日) 86歳
父:クリスチャン・グスタフ・シベリウス
Christian Gustaf Sibelius, (1821年12月10日-1868年7月31日ハメーンリンナ市で歿) 47歳。外科医・医学博士、ハメーンリンナ市保険局長 

<写真は、父:グスタフ・シベリウス>
母:マリア・シャルロッタ・シベリウス
Maria Charlotta Borg Sibelius, (1841年8月18日-1897年12月29日) 56歳
叔母:エヴェリーナ・シベリウス
Christina Wilhelmina Evelina Sibelius, (1832年6月13日Lovisa, Finland -1893年8月20日Loviisa, Finland) 61歳

<写真は、叔母:エヴェリーナ・シベリウス>
<ジャン・シベリウス>
Johan Christian Julius “Jean” Sibelius,
次弟:クリスチャン・シベリウス
Christian Sibelius, (1869年11月16日-1922年7月2日)52歳。医学博士、ヘルシンキ大学精神医学の教授
長姉:リンダ・マリア・シベリウス
Linda Maria Sibelius, (1863年11月27日-1932年5月15日)
<ジャン・シベリウスの家族>
妻:アイノ・シベリウス
Aino Sibelius, (1871年8月10日– 1969年6月8日にヤルヴェンパーのアイノラで亡くなり、そこの庭に埋葬されました)
長女:エヴァ・パロヘイモ
Eva Sibelius Paloheimo,(1893–1978)85歳。アルヴィ・パロヘイモ(Arvi Paloheimo)実業家と1913年結婚しサンクトペテルブルクに住み、革命後しばらくしてヘルシンキに定住した
二女:ルース・シベリウス
Ruth Sibelius Snellman,(1894–1976)82歳。女優としてフィンランド国立劇場に所属。1916年俳優のユッシ・スネルマン(Samuli Johannes Jussi)Snellman)と結婚
三女:キルスティ・シベリウス
Kirsti Maria Sibelius,(1898–1900)2歳
四女:カタリナ・シベリウス
Katarina Elisabeth Sibelius Ilves,(1903–1984)81歳。銀行役員エーロ・イルヴェ(Eero Ilves,)と結婚
五女:マルガレータ・シベリウス
Margareta Sibelius Jalas,(1908–1988)80歳。指揮者ユッシ・ヤラス(Jussi Jalas,)と1929年8月結婚
六女:ハイジ・ブロムシュテット
Heidi Kristiina Sibelius Blomstedt,(1911–1982)71歳。陶芸家。建築家アウリス・ブロムシュテット( Aulis Blomstedt,)と結婚

5.歴史年譜

1865年0才
12月8日ジャンヌ・シベリウスはロシア帝国の自治領であったフィンランド大公国のハメーンリンナ(タヴォステフース)に生まれた。
洗礼名はヨハン・ユリウス・クリスチャン・シベリウス・(Johan Julius Christian Sibelius,)。
両親はスウェーデン人の血が混じった、スウェーデン語を母語とする家系の出であった。
父は44歳の外科医・医学博士、ハメーンリンナ市保険局長であり、ハメーンリンナ大隊の医師でった。母親は24歳のマリア・シャーロッタ・シベリウス(旧姓ボーリ Borg)という名であった。
夫婦は、生まれたジャンに、商船の船長を務めていた父シベリウスの兄弟、ヨハン「ジャン」シベリウスを偲んで、息子の名をジャンと命名した。
二歳上に姉:リンダ・マリア・シベリウスがいた。
ジャンはその後、「Janne」という正式な名を変更し、Johan Julius Christianの順序で名前を書くのが習慣になった。
名前はヤンと表記されることもあるが、ここでは「ジャン」とする。シベリウスも学生時代以降は「ジャン」と名乗った
ジャン・シベリウスは、外の気温が-17度というとても寒い日に、古風で趣のある木造の小さな家で生まれた。
現在は博物館になっている。シベリウスがこの家に住んでいたのは、短い期間だが、シベリウスは、しばしば、この頃のこと、この家で嗅いだ父の葉巻のにおいを、子供時代の懐かしい思い出として語っていた。
博物館の壁には、シベリウスの子供部屋と、ピアノの絵が飾られています。
また、博物館では、ハメーンリンナ・シベリウス・カレッジの学生が、しばしばコンサートを開いている。

~<写真は、シベリウスの生家、現在は博物館になっている >~

1868年3才
7月軍医の父が腸チフスで他界し、あとには多額の借金が遺された。父シベリウス博士は、彼が保証人を務めていた友人の借金を清算するために、約13,500ユーロ(現在のユーロに変換)を支払わなければならなかった。さらに、葬儀費用を伴う不動産の負債は15,000ユーロに達した。財産は破産したと宣言され、個人資産のほとんどは債権者に引き継がれた。
マリア・シベリウス未亡人の年金は、彼女自身の家を維持するのに十分ではなかった。彼女と子供たちは、ディーンの妻であった母親のカタリーナ・ボルグ(旧姓ハートマン)と一緒に引っ越すことなった。
そのため、当時妊娠していた母は所有していた不動産を売却し、同じくハメーンリンナで夫に先立たれて暮らしていた彼女の母親、カタリーナ・ボーリの家に一家で身を寄せねばならなかった。
その後のシベリウスは完全な女性中心の環境に育つことになる。
唯一、男性的な影響を与えたのは、おじのペール・フェルディナンド・シベリウス(Pehr Ferdinand -)で、彼は音楽、とりわけヴァイオリンに関心を持っていた。

<写真は、1867年シベリウスの母マリア、姉リンダ、ジャン>

1869年4才
3月28日弟クリスチャン・シベリウスが誕生した。彼は、後に医学博士、ヘルシンキ大学精神医学の教授となる。1922年7月2日ヘルシンキ・ウシマで歿。
ジャンの親戚は幼い頃からシベリウスをコンサートに連れて行き、4歳から彼はピアノでコードとメロディーを見つけようとした。

1870年5才
シベリウスは自然に強い関心を示し、家族で夏季をロヴィーサの海岸沿いで過ごしにやってくると、頻繁に田舎を歩き回りに出かけていた。
彼自身の言葉が残っている。「私にとってロヴィーサは太陽と幸福の象徴だった。ハメーンリンナは学校へ行く場所、ロヴィーサは自由な場所だった。」

1872年7才
秋、ジャンはスウェーデンのエヴァサボニウス予備校に入学した。シベリウスは落ち着きがなく、罰として教師の机の下に置かれることが多かったという。
同じ家に住む叔母ユリア(Julia)が、ハメーンリンナの家にあったアップライトピアノで、シベリウスにピアノを教える。伯母は間違った音符を弾くといつも拳をコツンと叩いた。シベリウスは即興演奏によって上達を見せたが、音楽を解釈する勉強も続けた

1874年9才
ジャンの母国語はスウェーデン語でしたが、ハメーンリンナ普通中高等学校(Hämeenlinna Normal Lyceum.)に入学するためにフィンランド語を学ばなければならなかったため、フィンランド語のグラマースクールであるルキナ・ハグマン(Lucina Hagman)のフィンランド語予備校に転校した。ハメーンリンナは当時としては珍しいフィンランドの町であった。
フィンランド語では中等学校を卒業することはできたが、スウェーデン語ではできなかった。フィンランドは1809年までスウェーデンの一部であり、教育を受けたクラスの主要言語は依然としてスウェーデン語であり、フィンランド語ではなかった。

1875年10才
10才になったシベリウスに、おじのペール・フェルディナンド・シベリウスがヴァイオリンを与え、後に作曲への興味を持ち続けるよう激励した。シベリウスにとって、おじのペールは父親代わりだったのみならず音楽上の助言者でもあった

「10才のシベリウスが12月に叔母のエヴェリーナに宛てた手紙の絵」

1876年11才
フィンランドド語によるハメーンリンナの普通中高等学校に入学した。
シベリウスは、練習帳の余白に音符を書くことを好み、勉強に興味のない生徒と見なされていた。しかし、数学と植物学でようく出来た。余暇には、本の虫でした、そして後に狩猟を始めました。彼は多くのことを読み、詩人である抒情詩人ヨハン・ルードヴィグ・ルーンベルクに非常に傾倒したので、詩人の墓を訪れたとき、ルーンベルクの魂が彼に流れ込んだと感じたという。

「中学生時代のジャン・シベリウス」

1879年14才
ヴァイオリンを習う。その後、独学でA・B・マルクスの「作曲の手引き」を頼りに作曲法をマスターし、室内楽曲を試作している。
姉のリンダがピアノ、弟のクリスチャンがチェロを弾いて三重奏を行うこともあった。さらに近所の家々を交えて四重奏を行うこともあり、これによって室内楽の経験を培った。この時期の彼の作品として三重奏が1曲、ピアノ四重奏が1曲、ヴァイオリンとピアノのための《組曲 ニ短調》の断片が現存している

1881年16才
地元の楽長であったグスタフ・レヴァンダー(Gustaf Levander)からヴァイオリンの指導を受けるようになる。偉大なヴァイオリンのヴィルトゥオーソになると心に決め、たちまち腕利きの奏者として頭角を現した。
この頃、ヴァイオリンとチェロのための《水滴》作曲

1885年20才
ハメーンリンナの普通中高等学校の最終試験に合格し、これによって大学への入学資格を得た。ジャンと母と妹はヘルシンキに移った。そこで家族を喜ばせるために帝国アレクサンダー大学(後にヘルシンキ大学)で法律を学び始めた。音楽への興味の方が圧倒的に大きかったため、すぐさまヘルシンキ音楽院(現シベリウス音楽院)に転入して、ヴァイオリンおよび作曲法、理論、対位法、和声学をマルティン・ヴェゲリウスとのフェルッチョ・ブゾー等に学んだ

「ヘルシンき音楽院(現在、シベリウス音楽院)

1886年
に彼は叔父のジャンの名刺を使い始め、「ジャン(シベリウス)は今では私の音楽名です」と名乗った。

1887年22才
ヘルシンキでメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲から後半2楽章を演奏
秋、音楽院の友人だったアルマス・ヤルネフェルトから自宅への招待を受けた。そこで彼は当時17歳のアイノと恋に落ちた。父はヴァーサの長官であったアレクサンデル・ヤルネフェルト大将、母はバルト諸国の貴族を出自とするエリザベト・クロット=フォン=ユルゲンスブルクである

1889年24才
ヘルシンキ音楽院卒業
奨学金を受け、ベルリンへ留学し、1889年-1890年、アルベルト・ベッカーに学ぶ。ベルリンではリヒャルト・シュトラウスの交響詩『ドン・ファン』の初演をはじめとした多様な演奏会や、オペラに足を運び音楽の見識を広める機会に恵まれた。さらにフィンランドの作曲家であるロベルト・カヤヌスが自作の交響詩『アイノ』を含むプログラムでベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した演奏会を聴いている

「1889年24歳のシベリウス」

1890年25才
いったん帰国、
1890年-1891年ウィーンに留学し、ウィーン音楽院においてさらにロベルト・フックス、カール・ゴルトマルクに師事して研鑽を積んだ。ウィーン時代には作品を発表しており、ブラームスに認められ、ブラームスと出会った。一方、ブルックナーの音楽にとりわけ強い関心を示し、一時は彼のことを「もっとも偉大な存命の作曲家」であるとみなした。

1892年27才
6月10日フィンランドの名門の令嬢、アイノ・ヤルネフェルトとマクスモで結婚した。アイノ・ヤルネフェルトは、1871年にヘルシンキでアレクサンダー・ヤルネフェルト将軍とその妻エリサベト(旧姓クロット・フォン・ユルゲンスブルク)の家族に生まれた。 ヤルネフェルト家は、フィンランドの国民的ロマン主義運動に非常に影響力を持っていた。
シベリウスは、新婚旅行にカレリア地方を訪れた。カレリアは、フィン人の発祥の地であった。シベリウスはカレリア地方の民謡や伝説に、作曲のインスピレーションを得た。翌年、シベリウスはヘルシンキ大学のヴィープリ出身の学生の団体から、その年の秋に行う野外歴史劇のための音楽を依頼された。この歴史劇は、カレリア地方の13世紀から19世紀までの歴史を7つの場面で、描くものであった。6女を儲けるも、1人は2歳で他界
田園交響曲ともいわれる《交響曲第二番》を初演し高く評価される。
交響詩《伝説》作曲
4月28日にヘルシンキで演奏された、フィンランドの民族的大叙事詩「カレワラ」から着想を得たものであるが、ソプラノとバリトン、男声合唱とオーケストラのための《クレルヴォ交響曲》の初演は大成功の作曲家デビューを飾り高く評価され、母校ヘルシンキ音楽院の作曲、およびヴァイオリン教師として迎えられた。
母校ヘルシンキ音楽院の作曲、ヴァイオリンを、カヤヌスの指揮学校で教鞭を執るようになる
6月10日二人の結婚式はマクスモで執り行われた。新婚旅行は『カレワラ』発祥の地であるカレリアで過ごした。この体験が交響詩『エン・サガ』、『レンミンカイネン組曲』、『カレリア』の着想を与えることになる。
暮れに祖母のカタリーナ・ボーリが他界、その葬儀に参列したシベリウスはハメーンリンナの家を訪れ、その後は家が古くなるまで立ち寄ることはなかった

「シベリウスの妻:アイノ・シベリウス」

1893年28才
ヤルヴェンパーのトゥースラ湖畔に2人の住まいであるアイノラが完成。結婚生活の中で、2人は6人の娘を授かった。エーヴァ、ルート、キルスティ、カタリーナ、マルガレータ、ヘイディである。エーヴァは工場の跡取りで後にパロヘイモ社の最高経営責任者となるアルヴィ・パロヘイモ(Arvi Paloheimo)と結婚。ルート・スネルマンは著名な女優となり、カタリーナ・イヴェスは銀行家と結婚、ヘイディ・ブロムシュテットは建築家のアウリス・ブロムシュテットの妻となった。マルガレータの夫となったユッシ・ヤラスはアウリス・ブロムシュテットの兄弟である
11月13日、ヘルシンキ大学出身の学生団体主催のガラ・コンサートが、ヴィープリのセウラフオネで行われ《カレリア》の全曲版が初演された。この公演には画家のアクセリ・ガッレン=カッレラと彫刻家のエミール・ヴィークストレーム(英語版)も舞台装置の設計のために招かれて協力していた
19日と23日にはヘルシンキに於いて、この作品シベリウス自身が指揮するフィルハーモニック協会管弦楽団の演奏で披露された
《エン・サガ(古潭)》作曲、組曲《カレリア》作曲
シベリウスは自然を愛し、フィンランドの風景はしばしば彼の音楽の素材として役立った。彼はかつて彼の《交響曲第六番》について、「それはいつも私に最初の雪の香りを思い出させる」と言った。アイノラを取り巻く森は、彼のタピオラの構成に影響を与えたとよく言われる

1894年29才
1894年-1895年のシーズンには《エン・サガ》、《カレリア》、《春の歌》がヘルシンキで、少なくとも16回の演奏会で取り上げられた

1895年30才
交響詩集 四つの伝説曲《レンミンカイネン組曲》)作曲。(第2曲「トゥオネラの白鳥」は有名)

1897年32才
フィンランド政府から2000マルク(現在の日本円110万円ほど)の国家終身年金を受けるようになり、教職を退き作曲に専念するようになる
(多額の年金が交付されるようになってから、当初は10年間の有期であったが、後に生涯の交付へと延長される)
(註:19世紀のフィンランド貨幣、1マルッカは現在の日本円ではおよそ570円)
註参考:「歴代作曲家ギャラ比べ」、山根悟郎著、学研プラス、2020年発行、091頁による

1898年33才
2月24日にアドルフ・パウルの戯曲付随音楽『クリスティアン二世』が初演された。戯曲中で人気の高い四つの場面に付された楽曲はドイツで出版され、フィンランドで好調な売れ行きを見せた

1899年34才
交響詩《フィンランディア》作曲により不朽の名を残す
4月26日《交響曲第一番》がヘルシンキで初演され、各方面から好評を博した

~ 交響詩《フィンランディア》 ~
指揮:シャルル・デュトワ 

1900年35才
2月、シベリウス夫妻は、末娘のキルスティを失う
春、カヤヌス、並びに彼の管弦楽団を率いてヨーロッパを演奏旅行し、最後にパリ万博会場で自作曲《フィンランディア》を指揮し、大好評を博し、一躍シベリウスの名がヨーロッパ中に広まる
イタリアへ行き一年を家族とともに過ごした。スカンジナビアの国々、イギリス、フランス、ドイツで活発に作曲し、指揮をし、社交生活を送り、後にはアメリカ合衆国へも足を運んでいる

1901年36才
イタリアのラパッロを一家で訪れたシベリウスは交響曲第2番の作曲に取り掛かる
教師を退き、作曲に専念

1902年37才
《交響曲第二番》は初頭に完成されて3月8日にヘルシンキ初演された
夏の間をハンコに程近いトヴァルミンネで過ごしたシベリウスは、同地で歌曲『それは夢か』作品37-4を作曲すると同時に『エン・サガ』の書き直しを行った。
11月にベルリンにおいて、《エン・サガ(古潭)》がベルリン・フィルにより演奏されると、ドイツでのシベリウスの名声は揺るがぬものとなり、そのすぐ後の交響曲第1番の出版につながることとなる
ベルリン演奏旅行

~ 《交響曲第二番》 ~   
指揮:スザンナ・マルッキ 演奏:hr交響楽団は(旧称:フランクフルト放送交響楽団)
2019年5月17日 旧フランクフルト・オペラ座

1903年38才
この年の大半をヘルシンキで過ごしたシベリウスは過度に飲み食いに耽り、飲食店で大金を支払っている
11月、シベリウスはヘルシンキからおよそ45キロメートル北へ離れたトゥースラ湖のほとりにアイノラ(アイノの居場所)と名付けた邸宅を建築し始める。
イギリス演奏旅行
《ヴァイオリン協奏曲》ニ短調 作曲

~ 1915年頃のアイノラの自邸 ~

1904年39才
建築費用を工面するため、年の前半からヘルシンキ、トゥルク、ヴァーサ、その他タリンやエストニアで演奏会を開き、夏にはラトビアにも赴いた。
2月8日《ヴァイオリン協奏曲》が完成してに初演を迎えたが、評判は芳しくなかった。このため改訂を経て凝縮度を高めた版が作製されて翌年にベルリンで披露されることになった
9月24日ヘルシンキ郊外のヤルヴェンパーのトゥースラ湖近くに自邸アイノラを建て、新居に移ることができ、画家のエーロ・ヤルネフェルト、ペッカ・ハロネン、小説家のユハニ・アホら近所の芸術家のコミュニティーの中で交流を深めていった

~ ヘルシンキ郊外のヤルヴェンパー、アイノラの自邸 ~

1905年40才
1月、シベリウスは再びベルリンを訪れて《交響曲第二番》を自ら指揮した
11月、初めてイギリスへと渡り、リヴァプールでヘンリー・ウッドと会う。
12月2日、《交響曲第一番》と《フィンランディア》を指揮したシベリウスは、アイノに宛てて演奏会は大成功を収め大いに喝采を浴びたと手紙で伝えている

1906年41才
年の初めの短い期間をパリで特に何事もなく過ごしてから、続く数か月をアイノラで作曲に費やした。
交響詩《ポホヨラの娘》、付随音楽《ベルシャザールの饗宴》作曲
暮に、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で行った《ポホヨラの娘》の初となる公開演奏は大成功を収めた

1907年42才
年の年初から再びヘルシンキにて暴飲暴食に耽るようになり、途方もない金額をシャンパンとロブスターに費やした。彼のこの生活習慣がアイノの健康状態に深刻な影響を与え、彼女を極端な疲労による療養施設入居に至らしめた。妻が不在の間にシベリウスは禁酒を決意し、かわりに《交響曲第三番》の作曲へと意識を集中させた。
9月25日ヘルシンキでの初演に臨んだ《交響曲第三番》の頃から喉の異常を気にし始める
11月マーラーがフィンランドへの演奏旅行を引き受け、ヘルシンキを訪れたグスタフ・マーラーと出会う。この2人の作曲家は連れ立って長い散歩に出ることができた。

~ 《交響曲第三番》 ~  
指揮:ハイメ・マルティン 演奏:hr交響楽団(旧称フランクフルト放送交響楽団)
2018年2月2日 フランクフルト放送ホール

1908年43才
ベルリンでシベリウスは喉の癌の疑いにより大きな手術を受けおり、年のはじめは病院で過ごさねばならなくなった。喫煙、飲酒はいまや生命を脅かすものとなっていた
5月にはシベリウスの体調はますます悪化し、彼は妻とともにベルリン入りして喉の腫瘍の除去手術を受けた。術後、彼は今後一切の煙草と酒を断つと誓いを立てた
《交響曲第4番》作曲

1909年44才
喉の手術が成功したことによりシベリウスとアイノは自宅で穏やかな生活を取り戻した
イギリスでは自らの指揮で《エン・サガ》、《フィンランディア》、《悲しきワルツ》、《春の歌》を演奏した。クロード・ドビュッシーとの出会いも大きな支えとなった。パリで静かに過ごした後でベルリンに向かったシベリウスは、そこで喉の手術が完全に成功したという旨を聞かされて安堵する

1910年45才
《交響曲第四番》にはのはじめに着手していたものの、生活費が乏しくなっていっていたため数多くの小規模な楽曲や歌曲も書かねばならなかった。
10月にクリスチャニア(現オスロ)で開かれた演奏会では《森の精》と《追憶のために》を自ら初演。《悲しきワルツ》や《第二交響曲》はとりわけ好評だった。それからベルリンに赴いて《第四交響曲》の仕事を続け、ヤルヴェンパーに戻ってから終楽章に取り組んだ

1911年46才
スウェーデンでの初めてのコンサートで指揮した《交響曲第三番》など評論家から好評を得る
《交響曲第四番》作曲

1912年47才
組曲「歴史的情景」の第2番が完成
9月《交響曲第四番》バーミンガムで初演され、好意的な評価を得た

~ 《交響曲第四番》イ短調 作品63 ~
指揮:ダニエル・ハーディング 演奏:パリ管弦楽団
2019年6月20日 パリ、フィルハーモニーで録音

1913年48才
3月米国ニューヨークで《交響曲第四番》は演奏されたものの大部分の聴衆が楽章間に演奏会場から出て行ってしまう。
ヘルシンキで、交響詩《吟遊詩人》指揮した。
イングランドのグロスターで開催された<スリー・クアイアズ・フェスティバル>において《ソプラノと管弦楽のためのルオンノタル》初演された
10月にカール・ムックが指揮した際には「ボストン・アメリカン」紙が<哀れな失敗作>の烙印を押した
続く作品は『カレワラ』から詞を採ったソプラノと管弦楽のための『ルオンノタル』である。初演はアイノ・アクテのフィンランド語による独唱で行われた

1914年49才
年の初めにひと月をベルリンで過ごしたシベリウスはとりわけシェーンベルクに惹きつけられた。フィンランド帰国後、アメリカの億万長者カール・ステッケルからノーフォーク室内楽音楽祭のためにと委嘱された《大洋の女神》の作曲を開始する。この作品は喝采を浴びた。音楽批評家のヘンリー・エドワード・クレービールは《大洋の女神》がかつて海を題材に作曲された音楽の中で最も美しい作品であると看做し、「ニューヨーク・タイムズ」紙はシベリウスの音楽が音楽祭にとって最大の貢献となったと評した。シベリウスがアメリカでイェール大学から名誉博士号を授与されていたのとほぼ同じ頃、ヘルシンキ大学ではアイノが彼の代理として同じく名誉博士号の授与式に臨んでいた
米国からの帰途、シベリウスはサラエボ事件について耳にした。彼自身は戦地から遠くにあったものの、国外からの印税収入が滞るようになった。生計を立てるため、フィンランド国内での出版向けに多量の小規模作品を作曲することを余儀なくされた

1915年50才
3月に訪れたスウェーデンのヨーテボリでは《大洋の女神》が非常に高い評価を受けた。
4月に《交響曲第五番》に取り組むさなか16羽の白鳥が飛んでいくのを目にし、これに触発されて終楽章を書いた。彼は『人生の中でも素晴らしい体験の一つだった』との言葉を残している。《交響曲第五番》に関する夏の間の進捗はわずかだった。
12月8日50歳の誕生日を迎えるまでには曲を完成させることができた(シベリウス50歳の誕生日の記念行事のために交響曲第五番が作曲された)
誕生日の晩、シベリウスはヘルシンキ証券取引所(現:ナスダック・ヘルシンキ)のホールにて自らの指揮で《交響曲第五番》を初演した。カヤヌスの絶賛にもかかわらず作曲者自身は作品に満足しておらず、間もなくして改訂に取り掛かった。この頃、シベリウスはこれまでを遥かに上回る負債を抱えつつあった。歌手のイダ・エクマンが基金の立ち上げ事業に成功して借金の大部分を返済したが、その際に彼に贈られたグランドピアノは差し押さえられる寸前であった

1916年51才
12月8日、シベリウスはトゥルクにて改訂版の《交響曲第五番》を披露した

~ 《交響曲第五番》 ~
指揮:ヒュー・ウルフ 演奏:hr交響楽団(旧称フランクフルト放送交響楽団)
2016年1月15日 旧オペラ座フランクフルト

1917年52才
年の初めからシベリウスは飲酒を再開し、アイノとの間で口論となった。
《フィンランド軽歩兵隊の行進曲》を作曲、12月にフィンランド議会が上院のロシアからの独立宣言を承認すると曲はとりわけ人気を博した。

1918年53才
1月19日《フィンランド軽歩兵隊の行進曲》初演された。フィンランド内戦が発生する。右派白衛軍と左派赤衛軍による内戦で、帝政ドイツの支援を受けた白衛軍がヘルシンキを陥落させ、東方問題の前線であるサンクトペテルブルクの英仏資本を牽制した。
シベリウスは自然と白衛軍の支援に回ったが、トルストイ運動家であったアイノは赤衛軍にも幾ばくか共鳴するところがあった
2月、アイノラの家は2回にわたって武器を探す赤衛軍の地元部隊による捜索を受ける
開戦からの数週間の間にシベリウスの知人の中には暴力行為を受けて落命した者もおり、彼の弟で精神科医のクリスティアン・シベリウスは前線で戦争神経症を負った赤衛軍の兵士のために病床を確保しておくことを拒否したために逮捕された。ヘルシンキにいたシベリウスの友人たちは彼の身の安全を案じていた。ロベルト・カヤヌスが赤衛軍の総司令官エーロ・ハーパライネンと交渉を行い、シベリウスがアイノラから首都まで安全に移動できる保証を取り付けた。
2月20日、赤衛軍の兵士の一団が一家をヘルシンキまで護衛した。
4月12日、13日にヘルシンキの戦いでドイツ軍がヘルシンキを占領、赤衛軍の支配は終わりを告げた。1週間後、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団がドイツの指揮官リューディガー・フォン・デア・ゴルツを称えるコンサートを開催、これはシベリウスの指揮による《フィンランド軽歩兵隊の行進曲》にて幕を閉じた

1919年54才
6月フィンランドを離れてアイノとともにコペンハーゲンを訪れると、交響曲第二番を演奏して成功を収めた。11月に交響曲第五番の最終稿を指揮し、聴衆から幾度にもわたる喝采を浴びた。同年の暮れには彼は既に交響曲第6番の仕事を進めていた

1920年55才
手の震えが大きくなる中、ワインの力を借りつつスオメン・ラウル合唱団のために詩人のエイノ・レイノの詞を基にカンタータ《大地への賛歌》を作曲。《抒情的なワルツ》を管弦楽に編曲した。
12月の誕生日に63,000マルクの寄付を受け取った。この大金はテノールのワイネ・ソラがフィンランドでの事業により築き上げたものだった。資金の一部は借金の返済に使われたが、ヘルシンキで行われた過度な祝賀会は一週間に及んだ

1921年56才
年の初めにはイングランドへの演奏旅行が大きな成功を収めた。シベリウスはイングランド国内の複数の都市で《交響曲第四番》、《交響曲第五番》、《大洋の女神》、《フィンランディア》、《悲しきワルツ》を指揮した。 そのすぐ後、今度はノルウェーで《交響曲第二番》と《悲しきワルツ》を指揮した。
4月にフィンランドへ帰国すると、<Nordic Music Days>にて《レンミンカイネンの帰郷》と《交響曲第五番》を指揮した。

1922年57才
初頭に頭痛に苦しんだシベリウスは眼鏡をかけることを決意する。しかし彼はその後も写真撮影の際にはいつも眼鏡を外していた。
7月に弟のクリスティアンが永眠し、シベリウスは悲しみに暮れた。
8月にフィンランドのフリーメイソン、スモイ・ロッジ1番の創立メンバーとなり、後にフィンランドのグランド・ロッジのグランド・オルガニストとなっている。1927年にはフィンランドで用いられる儀式用音楽(作品113)を作曲しており、1946年にも2曲を加えている。1948年の儀式用音楽の改訂新版は彼の最後の作品のひとつ

1923年58才
2月《交響曲第六番》が初演された。エーヴェルト・カティラは「純粋な田園詩」だとしてこれを称賛した。
年の暮れにはストックホルムとローマで演奏会で指揮指揮したが、ストックホルムでは大絶賛を浴びた一方、ローマでは様々な評価がついた。
続いてヨーテボリに向かい、演奏会場に到着した時には暴飲暴食し放題で苦しい状態だったにもかかわらず、迎えた聴衆は恍惚となった。

~ 《交響曲第六番》ニ短調 作品104 映像なし ~
指揮:渡邉暁雄 演奏:日本フィルハーモニー交響楽団
録音:1962年 文京公会堂 (東京)   27:30分

1924年59才
飲酒を続けてアイノを狼狽させながらも、ベリウスは、年の初めにはどうにか《交響曲第七番》を完成させた。
3月交響的幻想曲という標題による、《交響曲第七番》の初演がストックホルムで行われの好評を博した。
9月の終わりにコペンハーゲンで開催された<コンサート・シリーズ>において《交響曲第七番》が演奏され、初演より遥かに上回る喝采を浴びた。
シベリウスはダンネブロ勲章のナイトに叙される栄誉に与った
この頃の多忙な活動は彼の心臓と神経を痛めていたため、同年の残り大半を休暇に充てることにした。小規模な作品をいくつか作曲しつつ、次第にアルコールに頼るようになっていった。

~ 《交響曲第七番》 ハ長調 作品105  映像なし ~
指揮:セルゲイ・クーセヴィツキー 演奏:BBC交響楽団  1933年

1925年60才
5月、デンマークの出版者のヴィルヘルム・ハンゼンとコペンハーゲンの王立劇場がシェイクスピアの『テンペスト』上演のための付随音楽を作曲の依頼を受ける。
交響詩《タピオラ》作曲
付随音楽《テンペスト》作曲
年金を増額される

1926年61才
3月付随音楽《テンペスト》初演。コペンハーゲンでの評判は上々だったが作曲者自身はその場に居合わせなかった
シベリウスの創作活動は急激に落ち込み上昇の気配を見せなかった
この年以降85才までの間は作曲をしていない。多分、うつ病に悩まされたのが筆をたった原因ではないかといわれている

1939年74才
1月1日、シベリウスは国内外向けのラジオ放送に出演し、その中で弦楽合奏曲《アンダンテ・フェスティーヴォ》を自ら指揮した。放送音源として残されたこの演奏は後年CD化されている。これがおそらく唯一の現存するシベリウスの自作自演だろうといわれている。この作品はシベリウスのお気に入りの曲だったらしく、しばしば自らが指揮する演奏会のプログラムやアンコールで取り上げていた
シベリウスとアイノは再びヘルシンキに住まいを持って暮らしていた

「シベリウス」

1941年76才
この年から、再びアイノラへと戻って時おり街を訪れるだけの暮らしとなった。

~ アイノラに立てた自邸の書斎 ~

1945年80才
年金を増額され安楽な生活をヘルシンキ近郊の田舎で暮らす

1955年90才
90歳の誕生日を迎えた1955年は盛大に祝われ、ユージン・オーマンディの指揮するフィラデルフィア管弦楽団、トーマス・ビーチャムの指揮するロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の両楽団が彼の音楽による特別演奏を行った

1957年91才
9月18日シベリウスが習慣にしている朝の散歩から帰ってきた。浮き立った様子のシベリウスは、妻のアイノに鶴の群れが近づいてくるのを見たのだと話した。『来たんだよ、私の若いころの鳥たちが。』彼は声をあげた。突然、鳥たちの中から1羽が陣形を離れてアイノラ上空でいちど円を描いた。するとその鳥はまた群れに戻って旅を続けていったのである。
9月20日の夜、シベリウスはアイノラの家で91年の生涯を閉じた。
死因は脳内出血だった。彼が息を引き取ったその時、マルコム・サージェントの指揮による彼の交響曲第5番がヘルシンキからラジオ放送された。
また時を同じくして開催されていた国連総会では、議長でニュージーランド代表のレスリー・マンローが黙祷を呼びかけ、こう語りかけた。『シベリウスはこの全世界の一部でした。音楽を通して彼は全人類の暮らしを豊かなものにしてくれたのです』
同じ日には、やはり著名なフィンランドの作曲家だったヘイノ・カスキが永眠しているが、彼の死はシベリウスの訃報の陰に隠れてしまった。
シベリウスはヘルシンキ大聖堂で国葬が営まれた。
フィンランド、ウーシマー、ヤルヴェンパー市、
墓棺はアイノラのジャン・シベリウスの家の庭、リンゴの木の下の葬られた(フィンランド、ウーシマー、ヤルヴェンパー市)。
アイノ・シベリウスはその後12年間を同じ家で暮らし、1969年6月8日に97歳で夫の後を追った。彼女も夫の側に眠っている

~ アイノラ自邸の庭に葬られたシベリウス夫妻の墓地 ~
12月フィンランド・シベリウス協会設立

1965年8年後
第1回から年ごとに<シベリウス国際ヴァイオリン・コンクール>開催されている

~ 10th “Jean Sibelius” International Violin Competition  ~

1967年10年後
シベリウス・モニュメントがヘルシンキのシベリウス公園で除幕された

1968年11年後
シベリウス博物館がトゥルクので開館

1972年15年後
存命のシベリウスの娘たちがアイノラをフィンランド政府へと売却した。教育省とフィンランド・シベリウス協会が1974年から施設を博物館として公開している。

1974年
フィンランド・シベリウス協会と文部省は、アイノラの家を博物館として開設した。

2000年43年後
シベリウス・ホールがラハティでこけら落としとなったのは、全てシベリウスを記念して名付けられたものである。小惑星シベリウスも同様である

2002年
フィンランド100マルッカ紙幣には、のユーロ導入までシベリウスの肖像が描かれていた。

2011年54年後
この年からはフィンランドではシベリウスの誕生日である12月8日は「フィンランド音楽の日」としても知られている。

Finnish flag waving in the wind.

~ 毎年12月18日のシベリウスの誕生日は「フィンランド音楽の日」として祝福されフィンランド国旗が町になびく ~

2015年58年後
生誕150周年をヘルシンキ市内を中心に数多くの特別演奏会や行事が行われ、国旗が掲揚された
シベリウス生誕150周年の記念として、2015年にはフィンランド語でも日記の全編が出版されている
11月29日にオール・シベリウス・プログラムによるリサイタルを終えたばかりのピアニスト渡邉規久雄が、フィンランドのシベリウス協会から、歴史と栄誉ある《シベリウス・メダル》を授与され、12月8日のシベリウス150回目の誕生日に、東京のフィンランド大使館においてマヌ・ヴィルタモ駐日フィンランド大使より伝達された。フィンランドの血を引く渡邉規久雄は、父でありシベリウス演奏の権威であった指揮者の故・渡邉曉雄の影響もあって北欧、特にフィンランドの音楽に造詣が深く、なかでもシベリウスの演奏をライフワークとしてその紹介に務めてきた。「シベリウス・メダル」はシベリウス作品の演奏や紹介に貢献した個人や団体の功績を称え、フィンランド・シベリウス協会が授与する。第1回は当時のフィンランド大統領ウルホ・ケッコネン、第2回はシベリウス夫人であるアイノ・シベリウス、第3回は指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤン、日本人では2006年の舘野泉に続いて二人目、2015年は指揮者のサー・サイモン・ラトルとパーヴォ・ヤルヴィ、渡邉規久雄等が受賞者した

~ 「シベリウス・メダル」 ~

2020年(2004年作成)
2004年のテレビ番組「フィンランド史上最も偉大な人物」ランキング第八位に選ばれた。シベリウスは32歳で、人口500万人ほどの国、フィンランド政府から2000マルッカ(現在の日本円110万円ほど)の国家終身年金を受けるほど、フィンランド国内では偉大な作曲家として国民に尊敬され広く認められている。
フィンランド国営放送による2004年のテレビ番組で、視聴者により2004年10月から12月までの期間に選ばれた、フィンランド史上もっとも偉大な人物100人のランキングが作成された。
1-10位は
5位までは大統領経験者と軍人経験者、6位アルヴォ・ユルッポ:小児科医、7位ミカエル・アグリコラ:宗教改革者、8位ジャン・シベリウス:作曲家、9位アレクシス・キヴィ:劇作家、10位エリアス・リョンロート:言語学者
100位以内には音楽家は選ばれていない。以降の音楽家に、エサ=ペッカ・サロネン:指揮者、エルッキ・メラルティン:作曲家、サカリ・オラモ:指揮者、セリム・パルムグレン:ピアニスト(北欧のショパンとも呼ばれる)の名がある

6.主な作品


<オペラ>
《塔の乙女》
<交響曲>
《クレルヴォ交響曲》
《交響曲第一番》 ホ短調
《交響曲第二番》 ニ長調
《交響曲第三番》 ハ長調
《交響曲第四番》 イ短調
《交響曲第五番》 変ホ長調
《交響曲第六番》 ニ短調
《交響曲第七番》 ハ長調
<協奏曲>
《ヴァイオリン協奏曲》 ニ短調
《二つのセレナード》
《荘重な旋律》
《二つのユーモレスク》
《四つのユーモレスク》
<交響詩>
《エン・サガ》
《フィンランディア》
《森の精》
《ポホヨラの娘》
《夜の騎行と日の出》
《吟遊詩人》
《海の精》
《タピオラ》
<組曲>
《カレリア》
《レンミンカイネン》
《歴史的情景第一番》
《歴史的情景第二番》
《かわいらしい組曲》
<その他の管弦楽作品>
《序曲イ短調》
《序曲ホ長調》
《バレエの情景》
《カレリア 序曲》
《森の精》(交響詩の作品とは異なる)
メヌエット《テンポ・ディ・メヌエット》
《カッサシオン》
即興曲《春の歌》
《行列》
《悲しきワルツ》
《鶴のいる風景》
《舞踏間奏曲》
舞踏間奏曲《パンとエコー》
《イン・メモリアム》
《ロマンチックなワルツ》
《アカデミー行進曲》
《三つの小品》
<付随音楽>
《水の精》
《カレリア》
《クリスチャン二世》
《クオレマ》
《ペレアスとメリザンド》
《ベルシャザール王の饗宴》
《白鳥姫》
《鳥の言葉》
《スカラムーシュ》
《だれもかも》
《テンペスト》
<弦楽合奏曲>
《肖像》
《ロマンス》 ハ長調
組曲《恋人》
《カンツォネッタ》
《田園組曲》
《特徴的な組曲》
《アンダンテ・フェスティーボ》
《アンダンテ・リリコ》
<吹奏楽曲>
交響詩《ティエラ》
《カンタータ》
《ニコライ2世の戴冠式のためのカンタータ》
《大学祝典のカンタータ》(1894年)
《大学祝典のカンタータ》(1897年)
《放たれた王》
《我が祖国》
《大地の歌》
《大地の讃歌》
《カンタータ》(1911年)
<合唱曲>
《即興曲》 作品19
《サンデルス》
即興曲《スネフリード》
即興曲《ウレオ川の雪解け》
《レンミンカイネンの歌》
《アテネ人の歌》
《おまえに勇気があるか》
《火の起源》
《フィンランド狙撃兵行進曲》
《デンマークの少年団の行進曲》
讃歌《主のめぐみ》
《讃歌》 作品107
《ヴァイノ讃歌》
《フリーメイソンの典礼音楽》
《カレリアの運命》
《労働者の行進曲》
《恋人》
《朝霧に濡れて》
《六つの合唱曲》
讃歌《苦しみの世界に生まれたもう》
《つぐみのよう慌ただしく》
《カルミナリア》
《祖国に》
《テレーゼ・ハールに》
《郷愁》
《異郷にいる私の兄弟》
《小学生の行進曲》
《二つの合唱曲》 作品65
《夢》
《ウースマーの人々の歌》
《祝典行進曲》
《アメリカ人学校のための3つの歌》
《五つの合唱曲》
《月光を浴びて》
《フリードリンの愚行》
《フィンランドのイェガタイ大隊行進曲》
《ヨナの航海》
《戸外の嵐をきく》
《ヴィープリの合唱団の祝賀行進曲》
《我が兄弟》
《肖像》
《二つの合唱曲》 作品108
《三つのアンティフォナ》
《学校への道》
《主よ、汝は偉大なり》
《橋の警備兵》
<重唱曲>
二重唱曲《思い》
《独唱と管弦楽のための作品》
《アリオーソ》
《セレナード》
《急流下りの名人の花嫁たち》
交響詩《大気の精》
<室内楽曲>
ヴァイオリン曲
《ヴァイオリンソナタ》 ニ短調
《ヴァイオリンソナタ》 ヘ長調
《アンダンテ・カンタービレ》
《二つの小品》
《子守唄》
《四つの小品》 作品78
《六つの小品》
《ソナティナ》 ホ長調
《ノヴェレッテ》
《五つの田園舞曲》
《四つの小品》 作品115
《三つの小品》
ヴィオラ曲
《ロンド》
チェロ曲
《幻想曲》
《アンダンティーノ》
《メランコリー》
ピアノ曲
《夕暮れに》
《アンダンティーノ》
組曲《フロレスタン》
《アレグレット》
《六つの即興曲》
《ピアノソナタ》 ヘ長調
《騎士》
《10の小品》 作品24
《六つのフィンランド民謡》
《叙情的瞑想》
《10のバガテル》
《キュリッキ/三つの叙情的小品》
《10の小品》 作品58
《三つのソナティナ》
《二つのロンディーノ》
《スペイン風》
《憧れに》
《四つの叙情的小品》
《五つの小品》(樹木の組曲) 作品75
《13の小品》
《五つの小品》(花の組曲) 作品85
《マンドリナート》
《六つの小品》
《六つのバガテル》
《八つの小品》
《五つのロマンチックな小品》
《五つの特徴的な小品》
《M.ジャコブ・ド・ジュランのモチーフによるロマンチックな小品》
《五つのスケッチ》
オルガン曲
《二つの小品》
<歌曲>
《セレナード》
《五つのクリスマスの歌》
《七つの歌》
《帆走》
《泳げ、青い鴨》
《タイスへの讃歌》
《喪失》
《二つの歌》
《六つの歌》 作品36
《五つの歌》 作品37
《五つの歌》 作品38
《六つの歌》 作品50
《八つの歌》
《二つの歌/シェイクスピアの「十二夜」による》
《八つの歌》
《六つの歌》 作品72
《》六つの歌 作品86
《》六つの歌 作品88
《》六つの歌 作品90
《水仙》
《少女》
《朗読とピアノ伴奏による作品》
《あこがれ》
《妬ましきよる》
《伯爵夫人の肖像》
《一筋のスキーの跡》
弦楽四重奏
《弦楽四重奏曲》 変ホ長調
《弦楽四重奏曲》 イ短調
《弦楽四重奏曲》 変ロ長調
《弦楽四重奏曲》 ニ短調「親愛なる声」
《主題と変奏》 嬰ハ短調
弦楽三重奏
《組曲 イ長調》
《ピアノ五重奏》
《ピアノ五重奏曲》 ト短調
《ピアノ四重奏》
《ピアノ四重奏曲》 ホ短調
《ピアノ四重奏曲》 ハ長調
《ピアノ三重奏》
《ピアノ三重奏曲》 イ短調
《ピアノ三重奏曲》 ト長調
ピアノ三重奏曲《コルポ・トリオ》
ピアノ三重奏曲《ロヴィーサ・トリオ》 ハ長調
その他の室内楽作品
《メヌエット》(クラリネット、2本のコルネット、2本のホルン、バリトン・サクソルンとテューバのための作品)
《アンダンティーノ》(同上の編成のための作品)
《水滴》(ヴァイオリンとチェロのための作品)

7.その他


1. シベリウスは1909年から1944年にかけて日記を付けており、2005年に遺族から未省略での出版の許可が出された。そこでファビアン・ダールストレムが編集を行い、同年にスウェーデン語版が出版された
2.

8.初演


1899年4月26日《交響曲第一番》 ホ短調 作品39、作曲者自身の指揮によりヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で初演
1902年3月8日《交響曲第二番》、作曲者自身の指揮によりヘルシンキ・フィルハーモニック協会の演奏で初演
1907年9月25日《交響曲第三番》、作曲者自身の指揮によりヘルシンキ・フィルハーモニック協会の演奏で初演
1911年4月3日《交響曲第四番》、ヘルシンキにて作曲者の指揮により、フィルハーモニア協会の演奏で初演
1915年12月8日《交響曲第五番》、シベリウスの50回目の誕生日にヘルシンキで作曲者自身の指揮により初演
1923年《交響曲第六番》作曲者自身の指揮により初演した
1924年3月《交響曲第七番》は当初『交響的幻想曲』と名付けられ、ストックホルムでシベリウス自身の指揮により初演
1892年4月28日《クレルヴォ交響曲》シベリウス自身がヘルシンキ管弦楽協会のオーケストラと合唱、独唱:エミー・アクテとアブラハム・オヤンペラでを指揮して初演
1893年《エン・サガ》(「おとぎ話」の意)はシベリウス自身の指揮により初演
1899年11月《フィンランディア》初演
1914年6月4日《大洋の女神》にアメリカ合衆国、コネチカット州のノーフォークで催されたノーフォーク室内楽音楽祭においてシベリウス自身の指揮によより初演
1926年12月26日《タピオラ》はウォルター・ダムロッシュによりニューヨーク・フィルハーモニック協会のためにとして委嘱され、同管弦楽団によりに初演
1904年2月8日《ヴァイオリン協奏曲 ニ短調》ヴィクトル・ノヴァチェクの独奏で初演

9.関連動画

《交響曲第一番》   
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ 演奏:パリ管弦楽団

《交響曲第一番》   
レナード・バーンスタイン指揮 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団

《交響曲第二番》   
<立教大学交響楽団2019年度卒業記念演奏会>
指揮:家田厚志 演奏:立教大学交響楽団
2020年2月21日なかのZERO大ホールにて収録

《交響曲第二番》   
指揮:ヘルベルト・ブロムシュテット
NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団(旧称:ハンブルク北ドイツ放送交響楽団)
2016年ハンブルク ライスハレ

《交響曲第二番》   
指揮:スザンナ・マルッキ 演奏:hr交響楽団は(旧称:フランクフルト放送交響楽団)
2019年5月17日 旧フランクフルト・オペラ座

《交響曲第二番〉     映像なし
指揮:ジョン・バルビローリ 演奏:ハレ管弦楽団
1966年録音

《交響曲第三番》   
指揮:ハイメ・マルティン 演奏:hr交響楽団(旧称フランクフルト放送交響楽団)
2018年2月2日 フランクフルト放送ホール

《交響曲第四番》イ短調 作品63   
指揮:ダニエル・ハーディング 演奏:パリ管弦楽団
2019年6月20日 パリ、フィルハーモニーで録音

《交響曲第四番》イ短調 作品63      映像なし
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン 演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1965年2、5、9月 イエス・キリスト教会 (ベルリン) [ドイツ・グラモフォン] 36:17分

《交響曲第五番》   
指揮:レナード・バーンスタイン 演奏:ロンドン交響楽団  34:13分

《交響曲第五番》   
指揮:レナード・バーンスタイン 演奏:ウィーン・フィル  37:09分

《交響曲第五番》   
指揮:ヒュー・ウルフ 演奏:hr交響楽団(旧称フランクフルト放送交響楽団)
2016年1月15日 旧オペラ座フランクフルト

《交響曲第六番》ニ短調 作品104   
指揮:レイフ・セーゲルスタム 演奏:トゥルク・フィルハーモニー管弦楽団.
2015年12月11日、トゥルク・コンサートホール

《交響曲第六番》ニ短調 作品104   
指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団
1986年5月録音   28:52分

《交響曲第六番》ニ短調 作品104      映像なし
指揮:渡邉暁雄 演奏:日本フィルハーモニー交響楽団
録音:1962年 文京公会堂 (東京)   27:30分

《交響曲第七番》 ハ長調 作品105   
指揮:レナード・バーンスタイン ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
1988年10月01日 ウィーン楽友協会大ホール

《交響曲第七番》 ハ長調 作品105      映像なし
指揮:セルゲイ・クーセヴィツキー 演奏:BBC交響楽団
1933年

《交響曲第七番》 ハ長調 作品105      映像なし
指揮:ユージン・オーマンディ 演奏:フィラデルフィア管弦楽団
録音:1960年5月1日 ブロードウッド・ホテル (フィラデルフィア)  22:45分

《クレルヴォ交響曲》
指揮:ユッカ=ペッカ・サラステ 演奏:フィンランド放送交響楽団
メゾソプラノ:リリ・パーシキヴィ バリトン:ヨルマ・ヒニネン
合唱:ポリテク合唱団
<75th Jubilee Concert>
2002年9月14日 フィンランディア・ホール

《ヴァイオリン協奏曲》ニ短調 
ヴァイオリン:ヒラリー・ハーン
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ 演奏:ジョルジェ・エネスク国立フィルハーモニー管弦楽団
2021年

《ヴァイオリン協奏曲》ニ短調   
<125th anniversary concert of Jean Sibelius, >
ヴァイオリン:レオニダス・カヴァコス
指揮:ユッカ=ペッカサラステ 演奏:フィンランド放送交響楽団

《ヴァイオリン協奏曲》ニ短調   
<1995年シベリウス・ヴァイオリン・コンクール>
ヴァイオリン:優勝者ペッカ・クーシスト
指揮:レイフ・セーゲルスタム 演奏:ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団
1995年、クシストはフィンランド人として初めて国際ジャン・シベリウスヴァイオリンコンクールで優勝し、シベリウス ヴァイオリン協奏曲の最高の演奏に対して特別賞を受賞

《アンダンテ・フェスティーヴォ》
NEWシンフォニアは「ノースウェールズ国際音楽祭」のオーケストラ・イン・レジデンスであり、ウェールズ国立オペラと提携している
2015年9月

《アンダンテ・フェスティーヴォ》
指揮:尾高忠明 演奏:東京フィルハーモニー交響楽団
2019.5.13

交響詩《フィンランディア》合唱付き
<ニュー・ヘルシンキ音楽ホール 開場>
指揮:ユッカ=ペッカサラステ 演奏:ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団
/フィンランド放送交響楽団
シベリウス音楽院合唱団

交響詩《フィンランディア》合唱付き
<東急ジルベスターコンサート 2014-2015>
指揮:山田和樹 演奏:演奏:東京フィルハーモニー交響楽団
合唱:東京混声合唱団

交響詩《フィンランディア》
指揮:シャルル・デュトワ 

《トゥオネラの白鳥》 Op.22-2
指揮:トマス・セナゴー 演奏:BBCウェールズ・ナショナル管弦楽団
コーラングレ(イングリッシュホルン):サラ=ジェイン・ポースモガー
BBCプロムス2014

《トゥオネラの白鳥》 Op.22-2   映像なし
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン 演奏:ベルリンフィルハーモニー管弦楽団

《トゥオネラの白鳥》 Op.22-2   映像なし
指揮:ユージン・オーマンディ 演奏:フィラデルフィア管弦楽団   9:57分

《5つの小品 樹の組曲》op.75全5曲
<高橋希代子ピアノリサイタル 〜グリーグ:抒情小曲集 全曲演奏会 vol.4>
1.「ピヒラヤの花咲く時」
2.「孤独な松の木」
3.「はこやなぎ」
4.「白樺」
5.「もみの木
2015年3月1日 ムジカーザ

《樹の組曲》作品75より第5曲「樅の木」
ピアノ:志鷹美紗
2017/9/2 銀座王子ホールリサイタル

<森本麻衣>>ピアニストはこうやって譜読みする③シベリウス「もみの木」 
【森本麻衣プロフィール】
東京藝術大学音楽学部ピアノ科卒業。
東京藝術大学大学院音楽研究科修士課程器楽科修了。
ドイツ国立ミュンヘン音楽・演劇大学大学院(マイスタークラッセ)修了。
イタリアで行われた第3回ロケッタ市国際ピアノコンクールと
第1回マデージモ国際ピアノコンクールで第1位受賞。
テレビ朝日放送《関ジャニ∞のTheモーツァルト音楽王No.1決定戦》では強豪ピアニストを勝ち抜き見事優勝、第3回「ピアノ王」となる。
現在、東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校非常勤講師。
ピティナ正会員。フコク生命パートナーアーティスト

《5つの小品》 Op. 81 – 第2曲 ロンディーノ(チェロとピアノ版)
ライト・カルム(ピアノ)/ユッシ・マッコネン(チェロ)
Rait Karm (piano)/Jussi Makkonen(Cello)

《フィンランド狙撃兵行進曲 》Op. 91a(管弦楽版)
指揮:ロベルト・カヤヌス 演奏:ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団
1928年5月30日録音  3:09分

管弦楽のための葬送行進曲《追憶のために》 作品59 
指揮:レイフ・セーゲルスタム 演奏:DR放送交響楽団(デンマーク放送交響楽団)
録音:1990年から1992年の間  13:39分

《悲しきワルツValse triste,》 Op. 44, No. 1
指揮:ヨルマ・パヌラ 演奏:トゥルク・フィルハーモニー管弦楽団

参考文献:「クラシック作曲家辞典」、中河原理監修、フェニックス企画編、 東京出版堂、平成4年発行 / 「音楽史(音楽講座)」堀内敬三著、 音楽之友社、昭和31年発行 / 「wikipedia」 / 「偉大なる作曲家のためのカルテ」、五島雄一郎著、 医療ジャーナル社、2012年発行 / 「北欧音楽入門」大束省三著、音楽之友社、2000年発行 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9 / 「robortkelloyphd.com」 / 「glennmie.blog.s0-net.ne.jp」 / 「dictionary/composer/alkan」 / 「maucamedus.net/solmization/gawut」 / 「www.tcat.ne.jp/eden/music」 / 「www.cadenza-od.com」 / 「www.coara.or.jp/-doraemon/gagaku/nenpyoz.htm」 / 「www.gecities.jp/gzgaku.ryuteki」 / 「www.univesal-music,co.jp」 / 「maokato.jp/bihoro/bihoro / 「homepage3.nifty.com/cio/a-alta」 /  www.japanarts.co.jp/news/p1706/ 「www.wagnerdailas.com」 / 「tsuzu/asakusaopera-nenpu.html」 / 「tsuzu/operetta-kafu.html」 / www.japanarts.co.jp/news/p1706/ピアニスト渡邉規久雄にシベリウス・メダルを授与  /   「http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/index.htm」 / 「https://kansallisbiografia.fi/english/person/3630」 / https://history-of-music.com/wp-admin/post.php?post=2321&action=edit  / https://www.geni.com/people/Jean-Sibelius/6000000000556985495 /