シューベルト

生没年・出身地・歿地・墓地
フランツ・ペーター・シューベルト 生誕 
Franz Peter Schubert,

(1797年1月31日ウィーン郊外ヒンメルプフォルトグルント地区七二番地(当時)「ツム・ローテン・クレプス(赤蟹館)二階の一室で生まれた。(現シューベルト博物館:ヌスドルファーシュトラーセ54番)
         
(1828年11月19日ウィーン、兄フェルディナントの家で没した。)

1.職業


オーストリアの作曲家

【楽歴】
1802年五歳、父からヴァイオリンの初歩を、長兄イグナーツにピアノの手ほどきを受ける。
1804年七歳、リヒテンタ-ル教会の少年合唱隊に入り、教会オルガニストのミシャエル・ホルツァーに音楽全般の基礎教育を受ける。
1808-1813年十一歳、宮廷礼拝堂聖歌隊(のちのウィーン少年合唱団)に入る。
1808-1813年十月帝国カトリック系神学校、帝室王立寄宿制学校(コンヴィクト)に入学。宮廷楽長のアントニオ・サリエリから作曲を学ぶ。
1812-1816年アントニオ・サリエリから対位法やイタリア歌曲の作曲法のレッスンを受ける
【所属団体・受賞(章)歴】
ウィーン楽友協会会員/理事

2.名称


シュタイヤーマルク楽友協会名誉会員
リンツ楽友協会名誉会員
「歌曲王」と呼ばれている

<シューベルトについて>
1. 音楽史家ハンス・ヨアヒム・モーザーは、シューベルトのシュレージエンの血統を考えてこそ《未完成交響曲》や《冬の旅》や《ミサ曲変ホ長調》の作曲家の本質を理解することができると述べている。つまり要約すると、「シュレージエン人の暗い性格を持ち、放浪をいとわない」。ことをいってるようだ。
2. 小説家ロベルト・ホールバウムもシューベルトの暗い面をシュレージエンの出に求めた。彼はシューベルトを『北方の人間が南方に植えられた』のだという。
3. シューベルトはあるとき友人に言った『あなたは愉快な音楽というものをご存知ですか? 私は知りません』。
4. 『私は世界中で最も不幸で、最もみじめな人間という感じがする』と言ったシューベルトは、友人ショーバーに対しても自分が不治の病に冒されていることをくりかえし、彼の命は「受難行」だと言っている。しかし『このような暗さ、悲痛さが前面に押し出されることはなく、優美さと調和のとれた平穏さを失われることはなかった』とアレキサンダー・ヴィテシュニックはいう。
5. ロベルト・ラッハは《未完成交響曲》の第一楽章の第二主題がウィーン郊外の流行り歌から取られたものであることを証示した。
6. 《水車小屋の娘》についてシューベルトの友人たちはその中のいくつかのメロディがオーストリアの《擲弾兵行進曲》や民謡に似ていることを非難し、「このような下賤な調子は詩的歌曲に侵入する権利をもたない」と攻撃した。しかしシューベルトは答えた。『君たちは何がわかっているのかね? これはそういうものであり、そうでなければならんのだ』。アルフレート・オーベルは云う『シューベルトが民謡と外面的な関係を保つとか、シューベルトが民謡のメロディを借りてきたかどうかということは重要ではない。彼の書くすべての音がウィーン音楽なのである、すべてがこの町の精神から生まれたものであり、それと分かちがたく結びついており、民族的にウィーン的なのである』。
7. 父はシューベルトの死んだ翌年に、息子の回想録を残しているが、それによると、クラスでの成績はいつも一番、小さいころから人の輪のなかにいるのが好きで、クラスの友人とよく遊び、そんなときが一番幸せそうだったという。
8. コンヴィクト時代の級友エッケル(医師になった)はのちに以下のように述べている『シューベルトはどちらかというと内向的で、精神的で心情的な生き方をしており、それが外にあらわれるときは、言葉よりは音符であらわされることのほうが多かった。彼は生まれつきまじめで、落ち着いており、親切で思いやりがあったけれども、それはコンヴィクトの少年同士によく見られる友情とか対立とかには結びつかなかった。コンヴィクトの少年たちが散歩に出るとき、彼はたいていひとり離れて、目を伏せ気味に両手を後ろに組んで、指を(ピアノを弾くみたいに)動かしながら、自分ひとりの思いに耽りながら歩いていた。彼は声をたてて笑うことはめったになかったけれども、微笑はよく浮かべた。それはとくに外的なきっかけがなくても、内面のメンタルな生き方の反映としてあらわれてくるものだった。そして争いや悪口に加わらず、またそのきっかけを作ることもなかった。そのもの静かで落ち着いた態度のために、彼は先生からも級友からも愛されていた』。
9. ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウの著書「シューベルトの歌曲をたどって」のなかで、次のように述べている。『他の場合と同様、1816年6月13日の音楽会においても歌曲《アマーリア》《憩いのない愛》を歌たったのが分る。シューベルトのきれいな声は、たしかに魅惑的ではあったが、彼のリートの宣伝のために遠くまでとどくほどの効果は持っていなかった。彼の歌曲が一般社会に広められるためには、修行を重ねた声と表現力とをもって演奏することのできる歌手が見出されなければならなかったのである。しかしピアノ伴奏によるリートを専門に歌ういわるる「室内楽歌手」というものは、シューベルトがはじめて登場させたのである』。
10. その他、「シューベルト」という名は「靴屋」を意味するらしい。シューベルトはウィーン古典派の作曲家の中で、ただ一人、生粋のウィーンっ子であるという。シューベルトの身長は百五十六センチ。男性日本人十七歳の平均身長、百七十センチよりは低く、女性日本人十七歳の平均身長百五十七センチよりも若干低かったようである。十七歳ころには肖像画でも知られる、針金のようなフレームの眼鏡をかけていたという。シューベルトはタバコを吸い、口の手入れをしないので臭いがぷんぷんしていたという。着るものに無頓着で、いわゆる社交界に適用するタイプではなかったといわれている。

3.シューベルト年譜


1797年
1月31日午後一時三十分、フランツ・ペーター・シューベルトは、ウィーン郊外ヒンメルプフォルトグルント地区七二番地(当時)にある「ツム・ローテン・クレプス(赤蟹館)(現シューベルト博物館)で、カトリックの家庭に生まれた。生粋のウィーンっ子。
シューベルトが生まれたころのヒンメルプフォルトグルントは、以前は草地や畑であった。繊維産業の発達により、工場や家が建ちはじめて居住者が増えていった。
小学校の校長をしていた父フランツ・テオドール・シューベルトと、シュレージェン出身の母エリザベス・フィッツの間には十四人の子どもが生まれた。無事に成人したのはイグナーツ、フェルディナント、カール、十二番目のフランツ・ペーター、妹のテレジアの五人だけだった。シューベルト一家は、赤蟹館とよばれる二階建ての共同住宅の大小二部屋からなっている二つの住居を借りていた。大きい方の部屋が学校の教室になっていた。
祖母も元気で、祖父カール・シューベルトは、ノイドルフの農業家兼地方判事をしていた。
父は1786年から学校経営をしており百八十人ほどの生徒は、午前と午後に分けて一人で教えていた。貧しい人からは授業料を取らない結果、自らも貧しいという清らかな父親だった。
父はアマチュア音楽家で、学校経営者の傍らにチェロを嗜み、音楽好きの常として長男と二男に音楽を教え、子供に読み書きや算数などの一般科目を教ええると共に音楽を覚えさせた。
現在この建物はシューベルト記念館としてウィーンの観光名所の一つになっている。
<シューベルトの生まれた家>

1801年4才
父の経営している小学校の生徒が増えたため、生家からほど近いウィーン郊外リヒテンタールの、ヒンメルプフォルトグルントのゾイレンガッセの三階建ての大きな家(現シューベルト・ガラージュ)「黒駒館」に一家は移った。一階を教室として、二階に家族が住む集合住宅型の建物で幼少時代を過ごした。
父は教育者として躾は厳しいが、音楽好きで家族の弦楽合奏ではチェロを弾き、近隣の愛好家達とはオーケストラを組織して指揮をしていたと伝えられている。シューベルトはそうした家庭環境で育った。

1802年5才
五歳のときに父から普通教育を受け始めた。謹厳な父から宗教、読み書き計算、ペン習字を教わる。
父は末息子のフランツにヴァイオリンの初歩を、また長男イグナーツにピアノを教え始めた。フランツは七歳ごろになると父の手に余るほどの才能を発揮し始めたため、父はフランツをリヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーの指導する聖歌隊に預けることにした。ホルツァーは主として感動表現に主眼を置いて指導したという。聖歌隊の仲間たちは、フランツの音楽的才能に一目を置いた。当時は演奏家として聴衆に注目されなければ音楽家としての成功の機会はないという時代だったため、しばしば聖歌隊の建物に隣接するピアノ部屋にフランツを案内して、ピアノの練習を自由にできるように便宜を図った。そのおかげで、貧しい彼には触れられなかったような良質な楽器で練習、勉強をすることができた。

1803年6才
父が校長のヒンメルプフォルトグルント初等学校に入学。父からヴァイオリンを十二歳上の長兄イグナーツにピアノを習うが、すぐに驚くべき程進歩上達し、二人の手に負えないくらいになる。
日曜日と祝日ごとに、二人の兄がヴァイオリン、父がチェロ、自分がヴィオラを受け持って、自宅でカルテット演奏会が行われていた。

1804年7才
ボーイソプラノの声を持ち、リヒテンタ-ル教会の少年聖歌隊に入る。礼拝の音楽に参加するための予備教育を受ける。シューベルトは聖歌隊でソプラノを歌った。ここの教会オルガニストのミシャエル・ホルツァーにヴィオラとオルガン、声楽、通奏低音を学ぶ。兄の手ほどきを受けていたピアノの練習も続けた。
この年、宮廷礼拝堂付き合唱少年の制度ができた。父のテオドールは伝手を求めて宮廷楽長のアントニオ・サリエリに息子を合唱少年として採用してもらえないかと相談した。予備試験にサリエリも立ち合い、サリエリ署名入り手紙には「フランチェスコ・シューベルト、メゾソプラノ」と記されていた。本試験はまだまだ先になる。
<リヒテンタール教会>

1808年11才
リヒテンタール教会の第一ソプラノになる。フランツは合唱隊席でヴァイオリンソロを奏き、小さな歌曲、弦楽四重奏曲、ピアノの小品をすでに作曲していた。フランツの急速な進歩は父を驚かせた。そのため父はもっと教育の機会を与えることを考え、国立神学校(ギムナジウム)へ入学させることにした。
五月二十八日付けの「ウイーナー・ツイトゥング紙」に帝室宮廷礼拝堂の少年合唱団に三名欠員があるという記事が掲載された。「志願者は九月三十日の午後三時にウニヴェルジテーツプラッツ七九六番にある帝室王立寄宿神学校に来て、これまでの勉強の成果と、どれくらい音楽の知識が身についているかについて、学校の成績証明書を持参して、試験を受けなくてはならない。」とあった。さらにラテン語の受講資格を得るために年齢は十歳以上で、天然痘の心配がないことを証明しなくてはならなかった。
九月三十日帝室宮廷礼拝堂合唱隊児童(のちのウィーン少年合唱団)ボーイソプラノの少年三名募集選抜試験当日、シューベルトは父に連れられ会場に向かった。
採用試験でのシューベルトは空色の白っぽいフロックコートを着ていた。受験者には、ラテン語の基礎知識、歌唱力、歌唱理論の正しい知識が問われた。宮廷楽長サリエリとアイブラーの前で、また声楽教師コルナーの前で、出題された試験唱歌が見事だったために人々の注目をあびた。
当時の評価が残されている。サリエリは『ソプラノではフランツ・シューベルトとフランツ・ミュルナーが一番良い』。ラングは『シューベルトとミュルナーの二人のソプラノは、音楽の予備知識の点でも一歩先んじている』。
ボーイソプラノ少年歌手として採用され、シューベルトは同時に十月、帝室王立寄宿神学校(シュタット・コンヴィクト)の生徒になった。校長はフランツ・イノツェンツ・ラング博士であった。コンヴィクトには合唱隊児童からギムナジウム年齢層や神学専攻の大学生年齢の寄宿制がいて、ニ十歳の法律学生ヨーゼフ・フォン・シュバウンは学生オーケストラを組織して編成されていた。優れた音楽家が客員指揮者として指導していた。
コンヴィクトはシュテファン大聖堂の近くにあった。ここはヴィーンの事実上音楽教育として重要な施設であり、教育を受けていたのは中高校生くらいの年齢でラテン語学校 (Gymnasium)であった。コンヴィクトの在校生は百三十人、そのうち合唱団員は全部で十人だった。
ギムナジウムで一般教育を受けながら、歌唱の他にピアノとヴァイオリンを習った。音楽指導は宮廷オルガニストでブルク劇場管弦楽団のヴィオラ奏者として活躍していた作曲家のヴェンツェル・ルツィツカの授業を受けた。そして宮廷楽長のアントニオ・サリエリの指導のもと宮廷少年合唱隊で歌った。
学内オーケストラの第二ヴァイオリン奏者を務め、遊び仲間のヨーゼフ・フォン・シュパウンや、シュタッドラー、ホルツアプフェル、ゼンらと知り合いて少年時代を謳歌した。
ヨーゼフ・シュバウンの手紙から『1808年11月フランツ・シューベルトが十一歳の宮廷合唱少年として帝室コンヴィクトに入ってきた時に彼と知り合った。~省略~シューベルトはいつも生真面目で、あまり交際家ではなかった。彼はヴァイオリンをかなりうまく奏けたので、すぐに小さなオーケストラのメンバーになった。このオーケストラは毎晩、夕食後に集まって序曲やシンフォニーを演奏し、少年たちの合奏としてはなかなかのものだった。私は第二ヴァイオリンの首席に座り、小さなシューベルトは私の後ろで、立ったまま同じ譜面をのぞき込んで演奏したのだが、まもなく私にはこの小さな音楽家がリズムの正確さでは私より上であることがわかった。~省略~いつもは無口で消極的な少年が、私たちが演奏するシンフォニーに対しては、実に生き生きとわれを忘れて反応を示すことに気がついた。』。
<帝室王立寄宿神学校>

1809年12才
四月十七日、ギムナジウム第一学年を優秀な成績で終了した。成績証明書には修身:秀、学課:優、歌唱:秀、ピアノ:優、ヴァイオリン:秀、注:音楽的才能を有する。校長ラング。
五月十三日ナポレオン軍がオーストリア軍に撃退されたが、七月六日ヴァーグラムでオーストリア軍は敗れてしまう。シェーンブルンで締結された和平条約の結果、愛国的な政策はあとかたもなく抹消されてしまった。フランス軍がウィーンに近づいたとき、学生軍が組織され、国立神学校の生徒は登録を禁じられていたが、学生たちの熱狂のなか登録をしてしまう。シューベルトもその一員になったようだ。赤と白の縞のリボンを手に、歓声をあげながら神学校へ引き上げた。校長のラングは激しく叱責し、三日目には除隊命令が出された。数日間の蟄居を命ぜられ、シューベルトらの兵隊ごっこは終わった。
平和条約締結後も戦い続けたために、神学校に榴弾が落とされ校舎にも落ちた。シューベルトの友人ゼンは父がチロルの戦いの指導者であったが長靴の代わりに短靴で夕食の席に出てきたため、厳しい懲罰を受け神学校の席を失った。シューベルトは後(1822年)にゼンの詩を二つ作曲している。
九月、親しくしていた法律学生のシュバウンが卒業して任官しウィーンを去った。
神学校のオーケストラに使う諸々の保管管理などは、最高学年の生徒から一人が団長として、合唱団員から信頼しうる年少者の一人にインスペクター(リハーサルの管理や演奏に関わる仕事)の役を務めさせた。シューベルトはこの役を二年間を務めた。弦楽器の弦の張り具合から獣脂ローソクの明かり、パート譜世話、楽器や楽譜の整理、保管にいたるまでだった。それと同時にヴァイオリン奏者としても毎日演奏に加わった。毎日の演奏と、給費生としての少年合唱隊の教会での演奏、校長が許可した弦楽四重奏と四重唱のグループ、ピアノ伴奏の歌曲、まじめに音楽の勉強をし、シューベルトも熱心に練習しやっとピアノを弾くことが上手くなった。その後まもなく、シューベルトは第一ヴァイオリン奏者兼インスペクタから副指揮者に昇格した。指揮者はヴェンツェル・ルツィツカであった。
この頃のシューベルトについて、友人のフランツ・エッケルは後に次のように述べている『シューベルトは少年時代にすでにどちらかというと内面的で精神的な生き方をしていた。しかしそれが言葉という形をとって外界に現れることはめったになく、私の考えでは、ほとんど楽譜の形でのみ表現されたのである。神学校で作曲された彼のいくつかの初期の歌曲にインクのまだ乾かないうちに目を通し、それを歌ってみたほどの腹心の友(私やホルツアプフェル)に対してさえ、彼がその短い生涯のすべてを捧げた音楽という神性に関すること以外で口数が少なく、心を打ち明けることはめったになかった。まじめさと沈着、親切心と善良さなどを彼は生まれつき適度に持っていたので、このような教育施設にいる少年たちの間に生じるのが普通である友情関係も敵対関係もここでは生じなかった。勉強の時間と授業時間の他にわれわれに与えられていた自由時間を、シューベルトはいつも音楽室で、それもたいてい一人で、過ごしていた。ただ歌曲を作曲したあとだけは、私とホルツアプフェルが彼とともにいたのである。当時、神学校で作曲されたシューベルトの歌曲についてはごくわずかの人しか知らなかったが、宮廷教会の第一ソプラノ歌手、神学校オーケストラの優秀な第一ヴァイオリン奏者兼副指揮者シューベルトの価値は皆が知っていた』。

1810年13才
四月、ピアノ連弾のための《幻想曲ト長調》D1を作曲。続いて《弦楽四重奏曲》D2Cと《弦楽五重奏のための序曲》D8を作曲した。
かなり長いピアノ曲であるファンタジアを作曲するほど、五線紙に飢えていたシューベルトを見かねた友人たちが、五線紙を買ってプレゼントしたり、ピアノの廻りに群がっては歌いまくって(?)いる間に、後のシューベルティアーデ(シューベルトの作品を仲間内で楽しむ夕べの演奏会みたいなもの。)の様相を呈してきたのだという。モーツァルトを敬愛し、ベートーヴェンを殿上人と讃えては自らの作曲の糧にしていたシューベルト。
秋、シューベルトと父テオドールとの間に深刻ないさかいが生じた。自由な芸術家になろうとしている息子に対して、父親は教師とオルガン奏者の職業を強いようとしていた。逆らう息子に、両親のもとを訪れることをしばらく禁止した。
作品:ピアノ連弾のための《幻想曲ト長調》D1

1811年14才
三月三十日詩人シュッキングの詩によるシューベルト最初の記念すべき歌曲《荒野におけるハガールの嘆きHagars Klage》D5を作曲する。詩は旧約聖書創世記第十六章および二十一章にもとずいている。アブラハムは正妻サライに子ができないので、側女ハガールに子イシマエルを孕ませる。子を孕んだハガールはサライを見下すようになったため不興を買い荒野に追われる。主の使いの言葉にハガールはアブラハムのもとへ戻るが、その後サライに子が生まれたため、ハガールは再びイシマエルとともに荒野に追われる。食物がつきた時、ハガールは”この子の死ぬのを見るのは忍びない”と嘆く。この時の情景をシュッキングは詩によんだ。これにシューベルトが作曲した。この歌曲は宮廷音楽家兼宮廷聖歌隊指揮者のアントニオ・サリエリに見せたが、サリエリの親切な心遣いに勇気づけられたシューベルトが、のちにサリエリを教師に仰ぐという結果をもたらす。この歌の書かれた翌年にシューベルトの母は世を去る。
七月八日、シューベルトはシュバウンとケルントナートーア劇場で上演されたヨーゼフ・ヴァイグルのオペラ《孤児院Das Waisenhaus》と《スイス人一家Die Schweizerfamilie》を初めて見る。この頃のシューベルトはヘンデル、グルック、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどの作品を聴いていた。
作品:歌曲《ハガールの嘆き》D5、《乙女の嘆き》D6、《弔いの幻想》D7、《五重奏序曲》D8、《四手ピアノのためのファンタジア第二番》D9。《父殺し》D10、音楽劇《鏡の騎士》D11、《弦楽四重奏曲第一番 ハ短調(変ロ長調)》D18、《墓掘人の歌》D44、《交響曲ニ長調》D2B 未完、管楽器のための《六つのメヌエット》

1812年15才
成績証明書には注:声変わり。とある。
五月二十八日、シューベルトの母エリーザヴェトが腸チフスに罹り五十五歳で亡くなる。
父の経営する学校の生徒が三百人となり、助教師が六人いたが母に死なれ、シューベルトを自分の学校で働かせる口実になったが、シューベルトの作曲への意志も変わらず父子の対立は深まっていった。
シューベルトの友人シュパウンが仲裁役となりシューベルトの作品をほめたたえる記事を父親に見せ、ずば抜けた才能の持ち主だということを納得させようとしたことにより、父テオドールは息子の大きな才能を認め、息子のやりたいままに任せることにした。母親が亡くなった時に葬儀に使用するためか《《キリエ》(D-31)と《サルヴェ・レジーナ》(D-106)を作る。
コンヴィクト在籍中には溢れる楽才に任せ早くも八十曲ほどの作品を完成させ、多くの室内楽、歌曲、ピアノのための作品集を残した。小遣いで五線紙を買うにもままならず、親友のシュバウンから大量の五線紙をもらい受けたといわれている。
六月十八日から適任者としてシューベルトは宮廷楽長のアントニオ・サリエリを選び、対位法を学ぶことにした。週二回のレッスンを受けることになる。その上に、彼との師弟関係はさらに1816年迄の四年間を師事することになる。
しかし、サリエリはドイツリートという作曲ジャンルをまったく認めようとしなかった。サリエリはゲーテ、シラーなどの詩のなかに作曲に値しない粗野な言葉しか見いだせなかった。彼はシューベルトにこれからはそのような作曲をやめて、もっと年をとり成熟するまで旋律を大切にとっておくようにと一生懸命に説得した。
室内楽曲、二~三の教会カンタータ、弦楽四重奏曲、聖母讃歌、キリエ、管弦楽のための序曲といくつかの歌曲が作られた。
七月二十六日、宮廷礼拝堂でペーター・ヴィンダーのミサを歌った。その時はアルトのパートを歌っていた。これが少年合唱隊最後の歌となった。それから先のシューベルトは生涯を通じてハイ・バリトンの声で歌わねばならなくなった。その時のアルト・パートの下に次のような走り書きをしている。『フランツ・シューベルト、カラス声での歌い収め。1812年7月26日。』。翌日からシューベルトは《ピアノ三重奏曲》を書き始めた。ひと月後に第一楽章アレグロ D28が完成したが、作曲を中止した。
八月二十六日、二十一歳の詩人テオドール・ケルナーがガーデブッシュの解放戦争で戦死したというしらせは、シューベルトに大きな精神的打撃を与えた。解放戦争の経過に深い関心を寄せていたからであり、シューベルトは年の初めにシュバウンからケルナーを紹介されていた。シューベルトはケルナーの台本による劇作品をブルク劇場で観ておりケルナーとの出会いを待ち望んでいたからである。
九月二十四日、シラーの詩による歌曲《小川のほとりの若者》D30が作られた。この曲は真の意味で最初の歌曲と見なすことが出来るといわれている。
シューベルトはときおりシュバウンとともにケルントナートーア劇場の天井桟敷でボアルデューやイズアールのオペラ、グルックの《イフィゲーニ》、ケルビーニの《メディア》、モーツァルトの《魔笛》などを聴き、心を奪われた。ミルダー夫人や、のちにシューベルトの熱心な予言者となるミヒャエル・フォーグルの歌は、シューベルトを魅了した。少年合唱隊は一般のコンサートにもしばしば参加し、その際シューベルトはヨーゼフ・ハイドンの合唱曲を知るようになり、新しい視野をひらいた。
十月、変声期を経て合唱児童の役割を果たせなくなったため合唱団は辞めたが、作曲に深い関心を持っていたため、コンヴィクトの生徒として留まることを許され、大学の予科に進級出来ることになり、もう一年を過ごした。学校から新たに奨学金も支給された。
十月二十八日、最初の《交響曲第一番 ニ長調》D82が完成した。校長先生に献呈しようと考えていたようだ。パート譜は1880年代に入りウィーンのシューベルト蒐集家のニコラウス・ドゥンパの遺言でウィーン楽友協会に移された。
晩秋、サリエリは、ピエトロ・メタスタージオのイタリア語のテキストに三つのアリアと合唱曲を一つ作曲することをシューベルトに課した。この作品の出来は分らないが、シューベルトのイタリア語のテキストによる最高傑作はおそらくメスタージオの詩による《考えよ、この瞬間が(Pensa ehe questo istante,)》D76であろうとフィッシャウ=ディスカウは言っている。これはナポリ生まれのバス歌手ラブラッケのために作られた。作詞家メタスタージオは晩年をウィーンの、若きハイドンが住んでいたことのある家の、四階のみすぼらしい屋根裏部屋に引っ越したこともあった。メタスタージオの本名はトラパッシといい、かって大修道院長であった。ウィーンでは宮廷詩人の地位にあり八十四歳で亡くなった。
十一月二十四日、シューベルトは、兄のフェルディナントに金を無心する手紙を次のように書いた。『いつもの遠回しな言い方をやめて、単刀直入に要件に入ります。ここしばらく僕の生活は、全体としてはうまくいっていますが、あれこれの点でもっと良くなるはずだと思います。兄さんにも覚えがあるでしょう。お決まりの昼食、それもどこに入ったかわからないような量を食べた後、八時間半も経ってようやくみすぼらしい晩飯にありつけるとあっては、時々ゼンメルやりんごの一片も食べたいと思うのは無理もありません。ああ何か食べたい、という想いが片時も頭を離れず、結局は諦めるほかないのです。お父様に戴いた数枚の銀貨は、最初の日になくなってしまいました。それから後は一体どうしたらよいのでしょうか。「主を信じる者は、誰も失望することがない」(「マタイによる福音書」第三章第四節)。僕もそう思います。そこで相談なんですが、毎月二、三クロイツァーでいいですから送ってもらえないでしょうか。兄さんには気にもならない額でしょうが、そうしてもらえれば、僕は満足し、寮室で幸せな想いに浸ることができるのです。使徒マタイの言葉にも「下着を二枚持っている人は、一枚を貧しき人にやりなさい」とあるではありませんか。とにかく兄さんが僕の切なる願いを聞き届けてくれますように。』貧しき兄弟フランツ。
作品:《キリエ》D31、《サルヴェ・レジーナ》D106、《弦楽四重奏曲 ハ長調》D32

1813年16才
シューベルトはシュバウンと宮廷ブルク劇場でグルックの《タウリスとイフィゲニアIphigēie en Tauride》を観た。その後、シュバウンは、シューベルトに詩人テオドール・ケルナーを紹介し、三人でドロテーアガッセのイェーガーホルンに寄り先ほどお観たオペラの主役、女性歌手イフィゲニア役のアンナ・ミルダー=ハウプトマンとオレスト役のヨハン・ミヒャエル・フォーグルの話に熱中した。
四月、父がニ十歳年下のウィーンの製糸工場の娘で二十九歳のアンナ・クレイエンベックと再婚した。彼女はフランツにも折にふれて家計から小遣いを与えたので、心おきなく勉学に励むことが出来た。彼女にはさらに五人の子供が生まれることになる。
メーアフェルト財団の奨学生に選ばれるが辞退。
五月四日、ポープの詩「死にゆくキリストが自分の魂に」をヘルダーが翻訳した訳詞《変容 Verklārung,》D59を作曲した。ヘルダー(ヨハン・ゴットフリート・フォン・ヘルダー)は神学を学びハーマンとカントの影響を受けた。シュトラスブルクでゲーテと知り合い、その人文主義的理念でゲーテに大きな影響を与えたといわれている。ヘルダーを知ったシューベルトは形式原理と表現原理の多様性の上に統一された意味を得ようとする意図的な努力が始まったことを示しているといわれている。
三幕のオペラ《悪魔の悦楽城》D84の作曲に着手、そのかたわら《弦楽四重奏曲 変ホ長》D8を作曲。
シューベルトのコンヴィクト時代の友人アルベルト・シュタドラーはシューベルトについて次のように伝えている。『シューベルトが自作のクラヴィーア作品を弾くのを見たり聴いたりすることは、本当に楽しみだった。素晴らしいタッチ、穏やかな手の動き、明確で温かい演奏は、知的で感受性に富んでいたが、彼の奏法は優れたピアニストたちの中では旧式な方で、ハイタカのように指が哀れな鍵盤に襲いかかる、ということはまだなかった。一方彼の作曲の現場も興味深いものだった。ピアノを使って作曲することはほとんどなく、ピアノは気が散るから邪魔だ、とよく言っていた。コンヴィクトでは周りはいつも同級生のお喋りと騒音でうるさかったが、彼はそれをほとんど意に介せず、落ち着き払って机に向かうと、五線紙と詩のテキストにかがみこんでいた(シューベルトはひどい近視だった)。彼はペン先を噛みながら、時々頭の中でパッセージを試しているかのように、コツコツと指で机を叩き、それからほとんど訂正することもなくさらさらと一気にペンを走らせた。それは自信に満ちたものだった。』。
日曜日や祝日に自宅で行なう、シューベルト家の弦楽四重奏団でフェルディナンドはヴァイオリンを演奏し、兄弟のフランツとイグナーツはヴィオラとヴァイオリン、父親はチェロを演奏しました。フランツシューベルトはこのアンサンブルのために初期の弦楽四重奏曲の多くを作曲した。
父の聖名祝日のために、歌詞と音楽からなる《カンタータ》D80を作った。
十月十三日、《交響曲第一番ニ長調》D821 完成。
シューベルトは奨学金を受けてコンヴィクトに居続けてはどうか、という申し出を受けたが断り、コンヴィクトを去り家に戻った。
市の中心部のアンナガッセにある初等教員養成学校に入学し通い始めた。
十一月、《弦楽四重奏曲第十番変ホ長調》D87 完成し、暮れにシューベルトの自宅で私的に初演された。
作品:《カンタータ》D80、《交響曲第一番ニ長調》D82、《弦楽四重奏曲 変ロ長調》D36、《弦楽四重奏曲ハ長調》》D46、《弦楽四重奏曲変ロ長調》》D68、《弦楽四重奏曲ニ長調》》D74、《五つのメヌエットと六つのトリオ》 D89、《五つのドイツ舞曲》 D90(D89の一部)、《管楽八重奏曲変ホ短調》D79、《弦楽四重奏曲変ホ長調》D87
動画《交響曲第一番ニ長調》D82

1814年17才
サリエリから個人的なレッスンを続けたが、彼はハイドンやモーツァルトの真似だと非難してシューベルトを悩ませた。しかし、サリエリは他の教師の誰よりも多くを彼に教えた。
五月二十三日シューベルトは、ケルントナートーア劇場でベートーヴェンのオペラ《フィデリオ》を観た。シューベルトは教科書を売ってこのオペラのチケットを手に入れたという。
八月、詩人ヨハン・マイアホーファー(1787-1836年)がシューベルトの友人仲間に加わった。この出会いは間もなく温かで親密な友人関係に熟していった。二人の性質はかなり違っていた。シューベルトは明るく開放的で少々鬱のときもあったが、突然の燃えるような精神的高揚もあった。一方マイアホーファーは厳格で気難しく、人生を忍耐すべき試練の場とみなしている口数少ない男性だった。二人の関係は、シューベルトに対して一方的に奉仕するものだったという。この詩人は国家検閲官として務めていた。マイアホーファーの詩をシューベルトに渡したのはシュバウンだった。
マイアーホーファーは後に『シューベルトと私との関係は、彼の幼ともだちが私の詩「湖畔にてAm See,」を彼に渡したことから始まった。シューベルトはその友人に案内されて私の部屋に入って来たが、五年後にはその部屋でわれわれ二人の共同生活が始まったのだ。その部屋のある家はヴィップリング通りにあり、かなり古くなっていて、部屋の屋根は低く、陽あたりは向かいに立っている大きな建物にさえぎられ、その部屋には使い古したピアノとみすぼらしい本棚があった。部屋はそんな様子だったが、私はそこで過ごした月日とその部屋を忘れることはないだろう。』《湖畔にてAm See,》D124は12月7日に作曲された。
九月五日~十三日、《《弦楽四重奏曲》変ロ長調》D112を書き上げた。
秋、聖アンナ師範学校の教職課程修了。
十月、シューベルトは父の学校の助教員となる。彼はこの仕事に就いていたが、あまり関心を持てなかったようで、その代償を別の興味で補った。
シューベルトはグロープ一家と親密に交際しており、その家の娘テレーゼは、歌がうまくよい友人だった。
彼は時間があれば素早く大量に作曲をした。
十月四日、リヒテンタール教会百周年記念祝賀会のための《ミサ曲第一番ヘ長調》D105が生家近くのリヒテンタール教会とアウグスティーナ教会で、シューベルト指揮で初演演奏され、初めての公開演奏となり好評を博す。オルガンは兄のフェルディナント、ソプラノを歌ったテレーゼ・グロープとは幼馴じみで、シューベルトの初恋の人といわれている。
十月十九日の午後、歌曲《糸紡ぐグレートヒェンGretchen am Spinnrade》D118が書かれた。この曲は短時間で書き上げられたといわれている。詩はゲーテの「ファースト」第一部」グレートヒェンの部屋の場で、彼女が糸を紡ぎながらファーストを慕って口ずさむ歌である。初演は1823年二月二十日ウィーン楽友協会で初演された。初版は1821年四月三十日ウィ-ンのカッピ・ウント・ディアベッリ。『感激したサリエリは次のように叫んでシューベルトを認めざるを得なかった”彼は天才だ。彼はなんでもできる”!』。
父からはグラーフ製のピアノを贈られる。
アウグスト・フォン・コッツェブー台本のオペラ《悪魔の別荘Das Teufels Lustschloß》D84を書き、サリエリに見てもらい助言に従って第一幕と第三幕を書き直し仕上げた。シューベルトは楽譜の見開きに「ウィーンの宮廷楽長サリエリ氏の弟子」と記した。
十一月三十日頃、歌曲《羊飼いの嘆きの歌》D121 ゲーテの詩に作曲された。初演は1819年二月二十八日ウィ-ンのホテル、ツーム・レーミッシェン・カイザーで行われた。
ヒュッテンブレンナーは、シューベルトが自分の恋について次のように語ったと述べている『ぼくはある少女を心から愛し、彼女もぼくを愛していた。ぼくよりも少し年下で、すばらしい感受性でぼくのミサのソプラノ・ソロを歌った。彼女はけっして美人とはいえず、顔にはあばたがあったけれど、いい人で親切だった。三年の間、彼女はぼくが彼女と結婚することを望んでいたが、ぼくが二人が食べていけるような職を得ることができなかったので、彼女は両親の希望にそって他の人と結婚してしまった。ぼくはとても悲しかった。ぼくは今でも彼女を愛している。それ以来、彼女ほど、あるいは彼女以上に、ぼくの気に入る女の子はいない。だけど神様はきっと彼女をぼくにお定めではなかったのだろう』
十二月十日、《交響曲第二番変ロ長調》D125 の作曲に入る。
作品:《ミサ曲ヘ長調》D105、《夜の歌Der Nchtgesang,》D119、《糸紡ぐグレートヒェン》D118 、歌曲《羊飼いの嘆きの歌》D121 、歌劇《悪魔の別荘》(D84)、《弦楽四重奏曲》D46、《《弦楽四重奏曲》D74、《《弦楽四重奏曲》D87)、《《弦楽四重奏曲》変ロ長調》D112、《交響曲ニ長調》D82の第1楽章、《潜水者》D77を作曲。
動画 《糸紡ぐグレートヒェン》D-118

<シューベルト肖像画(ヨーゼフ・アイブルが描いた)>

The young Schubert.*oil on canvas.*83,3 x 70 cm.*early 19th century

1815年18才
サリエリのレッスンは続いた。
シューベルトは午前中、父の学校の助教員を続けた。
この年の作品はリートから交響曲など百八十九曲書いた。
シュバウン、ホルツアプフェル、シュタドラーアンゼルム・フッテンブレンナーとシュバウンの紹介でフランツ・フォン・ショーバーがシューベルトの仲間に加わった。しかし、シューベルトの父は彼等が郊外にあるシューベルトの家に集まることを喜ばなかった。父はそれが息子の授業の妨げになると思っていた。シュタドラーは次のように書いている。『日曜日にはわれわれは隣の大学の教会の礼拝に出席せねばならなかった。これがいつも三十分以上かかった。シューベルトが来ているときは、時間つぶしに彼に五線紙と手元にあった詩集をあてがっていた。帰ってみると、いつもリートが出来上がっており、それを気軽に私にくれた。』シュタドラーはシューベルトのピアノの印象を次のように語っている。『美しいタッチ、静かな手の動き、明快で精神と情感に満ちた気持ちのいい演奏。彼は、まるで猛禽類があわれな鍵盤を襲うような弾き方ではない、あの古き良き流派のピアノ奏者に属していた。』アンセルメ・ブレンナーがこれを補足して語っている。『彼はヴァイオリンとヴィオラも奏けた。どの音部記号も易々と読み取ったし、メゾ・ソプラノまたはバリトン記号でも重要な音符はひとつも見落とさなかった。彼の声は小さいながらもたいへん快いものだった。十九歳のときにはバリトンとテノールを歌い、また音域の広いファルセットが使えたので、女性が足りない場合には、まにあわせにアルトまたはソプラノのパートも歌った。』
二月二十七日、ゲーテの詩による、歌曲《恋人の近くに》D162 完成。
三月二十四日《交響曲第二番変ロ長調》D125 完成。パート譜は1816年六月から七月にかけて作成された。浄書した人の手により表紙にラング博士に捧げると記されている。パート譜は1829年ウィーン楽友協会に移された。
三月二十五日~四月一日、《弦楽四重奏曲第九番ト短調》D173 完成。
シューベルトは父親と一緒に家に住んでいた。シューベルトは学校での仕事に不満を持っていたが教え続け、個人的な音楽指導を行い、衣類、原稿用紙、ペン、インクなどの基本的なニーズに十分なお金を稼いだが、贅沢のためにほとんどまたはまったくお金が残らなかった。
商人フリッシュリング邸のサロンコンサートでヴィオラを奏く。このコンサートはやがてハートヴィヒ邸に移り、《交響曲第四番》や《交響曲第五番》の初演の場となる。
のちに親友となる貴族フランツ・フォン・ショーバーと知り会う。
五月十五日、シラーの詩による、歌曲《おとめの嘆き》D191 完成。
五月十七日、ヘルティの詩による、歌曲《月に寄す》D193 完成。
五月十九日、ゲーテの詩による、歌曲《たゆみなき愛》D138 完成。
五月二十四日、《交響曲第三番ニ長調》D200 作曲に入る。
テオドル・ケルナー台本の、一幕オペラ《四年間の歩哨兵勤務》は五月に十一日間で書き上げた。
六月十九日、《交響曲第三番ニ長調》D200 完成。
六月二十日、ゲーテの詩による、歌曲《海の静けさ》D216 完成。
七月五日に書かれたゲーテの詩による歌曲《漁師Dr Fischer,》D225はアントニオ・サリエリに捧げられた。同日、ゲーテの詩による、歌曲《さすらい人の夜の歌》D224 完成。
七月二十六日、ゲーテの台本、ジングシュピール《クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ》D239の作曲に着手。
七月は十八曲の歌曲を作曲した。
八月十五日、ゲーテの詩による、歌曲《野ばらHeidenröslein》D257、《ネズミ取りDer Rattenfänger》D255、《宝堀りDer Schatzgräber》D256、《同盟の歌Bundeslied》D258、《月に寄すAn den Mond》D259など、五つの歌曲を一日で書き上げた。
八月十九日シューベルトは友人の結婚式のために、ゲーテの《連帯の歌 Bundeslied,》D258を単純でだれにでも歌うことのできる形に作り上げた。
八月二十五日、六つの歌曲を作曲。
十月十五日、八つの歌曲を作曲。
十月十九日、シラーの詩によるリート《ヘクトルの別れ》D312.作曲。
十月二十三日、ゲーテの詩による、歌曲《ミニョンの歌》D321 完成
十一月十六日シュバウンは《魔王 Erlkōig》D328が作曲される場に居合わせた。『午後、私はマイヤーホーファーと、その頃ヒンメルプフォルトグルントの父親の家に住んでいたシューベルトのところに行った。彼はある本のなかの魔王の詩を大声で朗読しながら、興奮していた。本を手にして言ったり来たりしていたが、突然座り込んだかと思うと、ごく短時間のうちにすばらしいバラードが紙に書きつけられた。シューベルトはピアノを持っていなかったので、われわれはこの楽譜を手に神学校へ走って行った。「魔王」はその日の夕方のうちに神学校で歌われ、興奮で迎えられた。それから年老いたルージチェカが歌をつけずに、どの部分も注意深く通して弾いてみて、この作品に深く感動した。居合わせた人たちのいく人かが、たびたび繰り返される不協和音を非難しようとしたときも、ルージチェカはピアノでその音を弾きながら、その音がここではどれほど必然性をもってテキストに相応しているか、どれほど美しいか、またどれほど美しく消えていくかを説明した』
ウィーン生活を楽しみながらもこの一年間に150曲の歌曲をはじめ多くの作品を生み出した。シュバウンは次のように述べている『彼はすばらしいメロディーをふんだんに使って、貧しくなるどころかもっと大きな新しい豊かさを発見するように思えた。そして魔法の音楽の泉はますますさかんに湧き出てきた。』シューベルトはテレーゼのために、シラーの詩による《異国から来た少女Das Mādchen der Fremde,》D117を作曲した。
十一月十八日、マイヤーホーファーの台本、オペラ《サラマンカの友人たち》D326の作曲に着手し、その年の大晦日の夜にに完成させた。
作品:歌曲《おとめの嘆き》D191、歌曲《月に寄す》D193、歌曲《アマリアAmalia》D195、歌曲《野ばら》D257 、《憩いなき愛Rastlose Lebe》D138、歌曲《魔王》D328 、歌曲《さすらい人の夜の歌Wanderers Nachtlied》D224、歌曲《たゆみなき愛》D138、歌曲《海の静けさMeeres Stille》D216、歌曲《最初の喪失》D226、歌曲《ミニョンの歌》D321、歌曲《恋人のそばにNähe des Geliebten》D162、歌曲《流れのほとりにてAm Flusse》、《無限なるものにDem Unendlichen》D291、交響曲第二番 変ロ長調》D125、《交響曲第三番ニ長調》D200、《ミサ曲第二番ト長調》D167、《ミサ曲変ロ長調》D324、《ドナ・ノビス》D185、《悲しみの聖母》D383、《サルヴェ・レジナ》D379、ケルナーの台本によるクロプシュトックの詩による、歌曲《ばらの冠》D280、歌劇《4年間の歩哨兵勤務》(Der Vierjahrige Posten、D190)、ジングシュピール《フェルナンド》D220、歌劇《クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ》D239、歌劇《アドラスト》D137(研究により1819年の作曲と推定)、歌劇《サラマンカの友人たち》D326、(会話の部分が失われている)、《弦楽四重奏ト短調》D173、《ピアノのための4つのソナタ》(D-157、D279、D459)
動画《ト長調ミサ曲第二番》D-167

動画 歌曲《魔王》

1816年19才
二月頃、詩人のマイヤホーファーの紹介で三十才年長の宮廷オペラの首席バリトン歌手ヨハン・ミヒャエル・フォーグル(1768年-1840年)の知己を得る。フォーグルはグルックのオペラ《タウリスのイフィゲニア》のオレストと、モーツァルトのオペラ《フィガロの結婚》のアルマヴィーヴァ伯爵役で評判をとっていた。その後、彼はウィーンのサロンでシューベルトのリートを歌う機会を得た。フォーグルは作品に深い共感を示し、シューベルト・リートの世間に広める最初の中心的な紹介者のひとりとなった。またその後の歌曲作曲に役立つ意見などをシューベルトに述べ作品に反映されるようになったと言われている。フォーグルの歌とシューベルトのピアノによるリーダー・アーベントは、シューベルト愛好家の間で人気の的となり、ウィ-ンのあちらこちらのサロンからお呼びがかかると、二人は喜んで出かけて行った。二人は親交を深め、シューバルトが亡くなるまで、二人はせっせとリーダー・アーベントを続けた。
アンゼルムとヨーゼフのヒュッテンブレンナー兄弟はシューベルトに奉仕し崇めていた。ガヒーは卓越したピアニストでシューベルトのソナタや幻想曲を演奏した。
ゾンライトナー家は裕福な商人で、長男がコンヴィクトに所属していた縁もあって自宅を自由に使わせていたが、友人の輪が次第に広がっていった。それは間もなく「シューベルティアーデ」と呼ばれ、シューベルトを称えた音楽会へと組織されていった。
二月十七日のウイーンの官報にライバッハ・ドイツ師範学校の音楽教師募集の告示が出された。『志願者は十分な教育を受けた歌手、オルガニスト、ヴァイオリニストでなくてはならない。その他にも、一般の管楽器のすべてに最低限の知識を有するだけでなく、それらに関する授業を行う能力をもっていなければならない』。この告示はシューベルトにとってまさにうってつけのものであった。というのも彼は、自由に作曲ができるように、そろそろ音楽関係の職につきたがっていたのである。また他方、なんとなく結婚のことを考えていたので、父のもとで働いて得る小がねでは生活できなかった彼は、ぜひとも採用されたい一心に、出願書のなかで次の点を誇らしげに強調している。『第二に私は、同封の証明書によってもこの地位を求めている志願者の中で私が最も適していることが証明されましょうが、作曲のあらゆる分野での知識をもち、オルガン、ヴァイオリンの演奏および歌唱において完全な技術をもっております』。四月サリエリの人物証明書の他に、司教座聖堂参事会員のローゼフ・シュペンドウが、この志願者の教育能力に関する推薦の言葉を書いて出願を支援した。これらを得てライバッハの教員養成学校の音楽教師の職に応募したが採用されなかった。ライバッハの人々はフランツ・ゾコルという地元の音楽家に委ねることに決めたからだ。それにもかかわらず、シューベルトはその年の九月に、シュペンドウにカンタータを捧げて感謝の気持ちを示している。
シューベルトは正規の音楽教育を受けなかった。教会とコンヴィクトの音楽とサリエリからの個人レッスンのみであとは独学で学んだ。
四月、シュバウンがシューベルトのゲーテ歌曲十六曲をヴァイマルのゲーテに送るが、返事はなく楽譜が送り返される。
シューベルトの学校教師としての数年間の不幸は、おそらく初期のうつ病の兆候を示しており、シューベルトが生涯を通じて気分循環性​​障害に苦しんでいた時期であった。
コンヴィクト時代からの友人法律学生フランツ・ショーバー(1796-1882年)がシューベルトを訪問し、教師を辞め、平穏に芸術を追求しないかと提案した。
二十七日、《交響曲第四番ハ短調》「悲劇的」D417 完成。
五月、教室に縛りつけられているという思いが強まっていた。父親の了解はすぐに得られ、父の家を出た。友人のフランツ・ショーバー家の客人になった。
シュパウンがエルトベルクガッセに引っ越すと、この場所はじきに定期的に開かれる音楽サロンとなり、シューベルトの作品が演奏されたところから「シューベルティアーデ」として知られるようになった。
シューベルトは貧しかった。公演で稼ぐこともできなかったからである。しかも、音楽作品をただでももらうという出版社はなかった。しかし、友人たちは真のボヘミアンの寛大さで、ある者は宿を、ある者は食料を、他の者は必要な手伝いにやってきた。彼らは自分たちの食事を分け合って食べ、裕福な者は楽譜の代金を支払った。シューベルトは常にこのパーティーの指導者であった。この時期、友人の輪が次第に広がっていった。
この時期、友人の輪が次第に広がっていった。
しばらくの間、彼は音楽を教えることで家具類を買い増そうとしたが、じきにやめて作曲に専念した。「私は一日中作曲していて、ひとつ作品を完成させるとまた次を始めるのです」と、訪問者の質問に答えていたという。
サリエリの六月十六日記念祭のための《三つの儀式用カンタータ》D407作曲した。さらに《教員未亡人基金》の創立者で学長ヨーゼフ・シュペンドゥのための《カンタータ》D472を作曲した。
六月十四日、の日記『二、三ヵ月のちにまた、夕方散歩をした。暑い夏の一日が終わった夕べ、緑のなかを歩むことほど気持ちのいいことがあるだろうか、ヴェーリングとデーブリングの間の野原は、まるでそのことのために創造されたかのようだ。兄のカールと一緒に、ほの暗いたそがれの光のなかを歩くのは非常にいい気持だった。なんてきれいなんだと叫びながら、心慰められた気分で立っていた。墓地の近くでは、母のことを想いだした』。モーツァルトの音楽を聴いた日の日記でシューベルトはモーツァルトをこれ以上ないほど賞賛している。
この頃ヴァッテロート教授宅に一時寄居していた。
七月十二日、ヴァッテロート教授の洗礼日のためにカンタータ《プロメテウス》D451を作曲し、教授邸の庭で自身の指揮で初演された。初めて作曲によって報酬としてウィーン通貨で百フローリンを得た。この報酬の額が彼の年収の二倍であったことは、シューベルトを考えこませた。ヴァッテロートの誕生日のためにこのカンタータはシューベルト自ら指揮した。この下稽古の間にシューベルトは若いゾンライトナーと親しくなった。それ以来、ゾンライトナーはシューベルトの熱烈な支援者の一人に数えられるようになる。
九月、《交響曲第五番変ロ長調》D485 作曲に入る。
九月八日、シューベルトの日記『この暗い人生が明るくなるのはほんのわずかの瞬間だけだ。あの世界では至福の瞬間が永続する喜びとなる。そして、より幸福な世界へ向けられたまなざしはより幸福になる・・・真の友だちをもつ男は幸せだ。妻に真の友人を見出している男はもっと幸せだ。男は訴えることのできぬ不幸をになっており、それだけよけいにその不幸を強く感じている。何のために神はわれわれに共感という感情をお与えになったのだろうか?』。同じころヨハン・ゲオルク・ヤコービの詩によるピアノ伴奏付きカンタータ《冥界に下る時のオルフェウスの歌》D474を書いている。
十月三日、《交響曲第五番変ロ長調》D485 完成。
十二月、両親を説得することに成功し教師の仕事を辞め、父の家を出たシューベルトは、ウィーン市内ランツクローンガッセに母親と住んでいる友人のフランツ・ショーバーの自宅に転がり込んで、作曲に専念する。シューベルトは賄い付きの下宿代金をショーバー家に払わなければならなかった。しかし、シューベルトは貧しかった。公演で稼ぐこともできなかったからである。しかも、音楽作品をただでももらうという出版社はなかった。
しかし、友人たちは真のボヘミアンの寛大さで、ある者は宿を、ある者は食料を、他の者は必要な手伝いにやってきた。彼らは自分たちの食事を分け合って食べ、裕福な者は楽譜の代金を支払った。シューベルトは常にこのパーティーの指導者であった。
作品:《ミサ曲第四番ハ長調》D452、無伴奏合唱曲《サルヴェ・レジナ》D386、《弦楽四重奏曲イ短調》D353、歌曲《幸福》D433、歌曲《春の小川のほとりにて》D361、歌曲《音楽に寄す》D547、歌曲《トゥーレの王》D367、歌曲《子守唄》D498、歌曲《御者クロノスに》D369、歌曲《竪琴弾きの歌ⅠーⅢ》D478ーD480、《ヴァイオリン・ソナタ》D384、《ヴァイオリン・ソナタ》D385、《ヴァイオリン・ソナタ》D408、《ピアノ・ソナタ第三番ホ長調》D459、《ワルツ第二番》D365、《交響曲第四番ハ短調》「悲劇的」D417、「交響曲第五番変ロ長調》D485、歌曲《さすらい人》D489 、歌曲《ナイチンゲールに寄す》D497、歌曲《アンゼルモの墓に》D504、ほか100曲ほどの歌曲を作曲。
youtubeは、《交響曲第四番ハ短調》 D417「悲劇的」
ナタリー・シュトゥッツマン:指揮(Nathalie Stutzmann,は、フランスのコントラルト歌手、指揮者。)
OSESPサンパウロ州交響楽団
2016年9月17日、ブラジルのサラサンパウロ:録音

1817年20才
友人の勧めで《魔王》をライプツィヒの出版社ブライトコップ&ヘルテル社に送るが、同社は誤って楽譜をドレスデンの宮廷管弦楽団のコントラバス奏者・作曲家フランツ・アントン・シューベルトに返送してしまった。驚いたこの音楽家は『大変驚きました。わたしはこのカンタータを断じて作曲した覚えがありません。こんな無礼なやり方で私の名前を悪用して、件の駄作を貴社に送った人物を知るために、このコピーはわたしのとこどで補完することにしましょう』。その後ブライトコップ&ヘルテル社は、シューベルトの自筆譜を、何のコメントも加えず送りかえしてきた。
二月、M・クラウディウスの詩による、歌曲《死と乙女Der Tod und das Mädchen》D531作曲。
三月、ゲーテの詩による、歌曲《湖上にてAf dem See》D543、ゲーテの詩による、歌曲《ガニメートGanymed》D544、歌曲《音楽にAn die Musik》D547、《ピアノ・ソナタ第四番イ短調》D537を作曲した。
クリスティアン・シューバルト(Christian・F・D・Schubart)の詩による、歌曲「鱒」作曲。
五月、ゲーテの詩による、歌曲《あらゆる姿を取る恋人Liebhaber in allen Gestalten》D558、《ピアノ・ソナタ第五番変イ長調》D557を作曲。
六月、《ピアノ・ソナタ第六番ホ短調》D566、《ピアノ・ソナタ変ニ長調》D567(未完)、《ピアノ・ソナタ第七番変ホ長調》D568を作曲
七月、《ピアノ・ソナタ第八番嬰へ短調》D571(未完)
八月、ショーバーの家から父の元に戻る。《ピアノ・ソナタロ短調》D575を作曲。
十一月、《イタリア風序曲》D590、《イタリア風序曲》D591 完成。
シラーの詩による、歌曲《タルタロスの群れGruppe aus dem Tartarus》D583作曲。
秋以降はゾイレンガッセの父の家に戻り教員を続けながら作曲活動を行う。《交響曲第六番》作曲に着手。
12月、クリスマスにシューベルトの父は、ウィ-ン郊外リヒテンタールと同じ地域の町の中心部に近いロッサウの学校長に栄転した。シューベルトも父や継母や兄や妹とともにロッサウに引っ越した。マティソンの詩による《人生の歌》D508と《別れの苦しみ》D509を書き上げた。
作品:歌曲《死と乙女》D531、歌曲《湖上みて》D543、歌曲《ガニメート》D544、歌曲《楽に寄す》D547、歌曲《ます》D550、歌曲《あらゆる姿を取る恋人》D558、《ピアノ・ソナタ》D537、《イタリア風序曲ニ長調》D590、《イタリア風序曲ハ長調》D591、合唱曲《小さな村》D598

1818年21才
一月、学校教師として俸給のないシューベルトは、ピアノの個人教授として生活費を稼ぐことにした
歌手のカロリーネ・ウンガーの父であるヨハン・カール・ウンガーが、シューベルトをヨハン・エステルハージ・フォン・ガランタ伯爵に引き合わせ、彼を伯爵の二人の娘の音楽教師に推薦した。シューベルトは十六歳のマリーと十三歳のカロリーネに歌とピアノを教え、時々城で行われる家庭音楽会に出演することだった。
マイヤホーファーの詩による歌曲「エルラフ湖」が雑誌の付録として出版された。創作上は比較的実りがなかったものの、作品の公演が初めて行われた。
三月一日、ツム・レーミッシェン・カイザーホテルの広間で、特別編成のオーケストラにより《イタリア風序曲》D590は公開初演演奏された。新聞は好意的な批評が載る。ウィーナー・アルゲマイネ・テアター・ツァイトゥング紙の三月十四日付けの記事は『プログラムの第二部は、若き作曲家フランツ・シューベルト氏のなんとも魅力的な序曲で始まった。彼はわれらが敬愛する作曲家サリエリの弟子であり、聴衆を感動させるすべを心得ている。曲の主題は意外なほど簡潔だが、そこからまったく思いもかけない楽想が実に心地よく展開され、力強く達者に演奏された。この作曲家が今後またすぐにでも、新たな才能を発揮してわれわれを喜ばせてくれんことを願っている』「註1.」。
三月十二日、《イタリア風序曲》D590は、公開演奏会が前回と同じ場所で再演された。二台のクラヴィーア用に編曲され、ピアニストはシューベルトとアンゼルム・ヒュッテンブレナー、テレーゼとバベッテの姉妹の四人だった。テアター・ツァイトゥング紙の批評家は『深い情緒、鍛えられた中から自然に沸き上がる力強さ、快い感銘は、規模を問わずシューベルトのどの作品にも見られるものだ。人間の持つあらゆる完璧さの母体である練習がより徹底して行われれば、彼の作品の中で人気を勝ちえることは疑いない』「註2.」。
三月、ケルナーの詩による小カンタータ《リーゼンコッペ山上にて(Auf der Riesenkoppe)》D611を作曲。
五月一日、刑務所コンサートで作品が演奏された。
ウィーン音楽界に名前が出るようになる。
七月初めからヨハン・エステルハージ伯爵一家の令嬢マリーとカロリーネの音楽教師の地位で、ハンガリーのツェレスに滞在し、歌とピアノのレッスンをした。シューベルトは楽しく快適な環境で過ごした。ツェレスでは二人の伯爵令嬢のほか伯爵と夫人もシューベルトのレッスンを受けた。二人はアルトとバスで、シューベルトは二人のために歌の練習曲を書き、アリアやリートの伴奏をした。その中には自作曲もあった。二人の令嬢のために四手のピアノ曲や家庭音楽会用の声楽曲を書き、舞踏会やパーティで舞踊曲を即興で弾くこともあった。
八月三日、ツェレスに滞在中のシューベルトは、ショーバーと友人たちに手紙を書き送った。
八月二十四日、同じくツェレスから、兄フェルディナントの《ドイツ・レクイエム》を書き上げて送った。それには足りないところや、繰り返したいところは、問い合わせることなく仕上げてくれと書いてあった。作曲家としての道を模索していた兄のために書かれた《ドイツ・レクイエム》は、弟の許可を得て九月にフェルディナントは自作としてウィーンで演奏され、翌年十二月の音楽理論の試験に、自作として提出している。1826年に《ドイツ・レクイエム》は、フェルディナント作品として印刷された。この曲の本当の作曲者名を記した初版は1928年である。
九月八日、ウィ-ンの友人たちにそれぞれ手紙を書く。
十月《交響曲第六番ハ長調》D589 作曲に入る。
十月二十九日、ツェレスから兄フェルディナントへ長文の手紙を書く。
十一月、エステルハージ一家はツェレスからウィーンに戻った。シューベルトは父の家に戻り、父の反対にあうが教師を辞め、ショーバーのところに滞在する部屋がないことが分かり、詩人マイホーファーの下宿に転がり込み作曲に専念するようになる。ここでシューベルトの慣れた生活が継続された。
冬は父の家に戻らずヴィップリンガーシュトラーゼのマイヤーホーファーのところに寄居。
毎朝、起床するなり作曲を始め、午後二時まで書き、昼食のあと田舎道を散歩し、再び作曲に戻るか、あるいはそうした気分にならない場合は友人宅を訪問したり、コーヒー店で友人と会ったり、また、一人でコーヒーを飲みながらパイプをふかし、新聞を読むというような生活であった。シューベルトは小柄でちぢれっ毛であったようだ(肖像画)。ひどい近視で、寝るときも眼鏡を取り忘れることがしばしばだった。ワイン好きでもあったようだ。
作品:《ミサ曲ハ長調》D452、《交響曲第六番ハ長調》D589、《連弾のための四つのポロネーズ》D599、《孤独に》D620、《聖母マリア像》D623、《フランスの歌による八つの変奏曲》D624、《ピアノ・ソナタ》D625、《繰り言》(Litaney)などを含むすぐれた歌曲が生まれた。
参考:「註1.」「註2.」、「シューベルトとウイーンSCHUBERT AND HIS VIENNA」、チャールズ・オズボーンCharles osborne、岡美知子訳、音楽之友社、発行1998年、P82およびP84から引用。
動画《リーゼンコッペ山上にて(Auf der Riesenkoppe)》D611

1819年22才
一月、ゲオルク・フォン・ホフマン台本による「オペラ《双子の兄弟Die Zwillingsbrüder》D7647 作曲。
二月二十八日、ホテル、レーミッシャー・カイザーで歌曲の作曲家としての最初の公演が行われた。《羊飼いの嘆きの歌》D-121がイェーガーによって歌われた。「ウィナー・アルゲマイネ・テアターツァイトゥング紙」は『素晴らしい作品がイェーガー氏の魅力的な声で歌われた』と載せた。またベルリンの「ゲゼルシャフター紙」の批評家は『プログラムの中で最も評判がよかったのは、シューベルトのリートである。。われわれを十二分に楽しませてくれるであろう、この前途有望な芸術家のより規模の大きな作品を、私たちは心から楽しみにしている』。
シュヴィントと交友が始まる。
七月初めから九月の終わりにかけて、シューベルトは休暇を取り、友人のヨハン・ミヒャエル・フォーグルに誘われて、フォーグルの故郷である上部オーストリアの町シュタイアーを初めて訪れた。シューベルトは鉱業法の専門家アルベルト・シェルマン博士の家に滞在した。滞在中に町の鉱山長官ジルヴェスター・パウムガルトナーに紹介され、パウムガルトナーから五重奏曲を委嘱された。
シューベルトは、歌曲《ます》D550のメロディを用いて、シュタイアーで「鱒(ます)」として有名な《ピアノ五重奏曲イ長調》D667のパート譜をスコアなしで書き、友人を驚かせた。ウィーンに戻ってから完成させた。
八月リンツに立寄りシュバウンの母親の家に寄った。クレムスミュンスターを訪れている。
九月、ウィ-ンでに戻る。《ピアノ五重奏曲イ長調》D667の作曲に取りかかり、年末にパウムガルトナーと仲間たちによって、シュタイヤーで初演された。この作品はその後、十年間忘れられ、シューベルトの死後1829年兄フェルディナントがこの作品を出版業者ヨーゼフ・チェルニーに売り、広く世に知られるようになった。
秋に自作の三曲をゲーテに送ったが、返事はなかった。
十月、ゲーテの詩《プロメテウスPrometheus》の作曲に着手。
この年のシューベルトのウィーン生活について、アンゼルム・ヒュッテンブレナーは次のように語っている『シューベルトはヴィップリンガー通りで、マイヤーホーファーと一緒に住んでいた。彼は毎朝六時にテーブルに向かい、午後一時までパイプをふかしながら作曲に没頭していた。私が午前中に訪れると、彼はちょうど出来上がったばかりの曲を弾いて聴かせ、私の批評を聞きたがるのであった。私が何かの曲を特に誉めると、彼は言った ” うん、本当にいい詩なんだ。詩がいいからすぐに気の利いたメロディが浮かんでくる。メロディが浮かんでくるなんて、こんな嬉しいことはない。これがまずい詩だと、全然筆が進まないんだ。やっとの思いで書いても、味気ない作品しか出来ない。僕はこれまでにも、持ち込まれたたくさんの詩を断ってきた』。
作品:歌曲《乙女》D652、歌曲《夜曲》D672、歌曲《プロメトイス》D674、《ピアノ五重奏曲 イ長調》「ます」D667、ジングシュピール《アドラスト》D137未完、マイヤーホーファーの詩による歌曲 D669、D672、ノヴァーリス歌曲D659~D662、ゲーテの詩による多声声楽曲《憧れSehnsucht》D656。

1820年23才
グラーツとウィ-ンで各一回、公的演奏会でシューベルト作品が演奏された。
三月、チロルの友人ヨハン・ゼンが反体制文学活動の嫌疑で逮捕され、訪れたシューベルトを含む四人も一時拘束される。拘束され尋問を受けてゼンはチロルに強制退去させられた。
四月、兄フェルディナントが合唱指揮をしていたアルト・レルヒェンフェルト教会で復活祭にハイドンのネルソン・ミサを指揮する。
六月十四日、ケルントナートーア劇場でジングシュピール《双子の兄弟》D647は上演された。シューベルトはヒュッテンブレンナーと天井桟敷席に座った。カーテンコールで聴衆の喝采を受けたら、聴衆に挨拶するよう説得されたが応じなかった。彼は古ぼけたフロックコートを着ていたので、ヒュッテンブレンナーの燕尾服と取り替えてと言われていた。聴衆の拍手に応えて緞帳の前に立ったフォーグルは”シューベルトは来ていません。彼に代わってお礼申し上げます”と言った。シューベルトは天井桟敷でニコニコしながらこの言葉を聞いていた。彼は友人たちとシュテファン大聖堂近くのリリエンガッセにあるレンカイの酒場に繰り出し、安いハンガリー・ワインで祝杯をあげた。「ウィーン音楽新聞」にシューベルトの作品として初の長文の批評が載った。《双子の兄弟》ケルントナートーア劇場で六回上演され、七月二十一日を最後に幕を閉じた。その後このオペラはシューベルトの生前には再演されなかった。
八月十九日、アン・デア・ウイーン劇場で『魔法の竪琴』(D644)は初演された。八回上演され、十月で打ち切られた。
夏、シューベルトはアッツエンブルックで、フランツ・ショーバーの叔父の家に泊まり数日楽しいひと時を過ごした。昼間は集まった仲間とハイキングに行き楽しく過ごし、夜は小さな城でシューベルティアーデを催した。
十二月ころ、雑誌二つに歌曲二曲が掲載され「ドレスデン・アーベント紙」で歌曲作曲家として絶賛される。
この頃性病に罹患している。彼がピアノ教師をしているエステルハージ侯邸の小間使いからだという説がある。
十二月、《弦楽四重奏曲第十二番ハ短調》D703 一楽章完成。
シューベルトとテレーゼの関係は六年間続いた。シューベルトは貧しい芸術家でなかったら、喜んでテレーゼに結婚を申し込んでいただろう、と後になって明言している。平凡で気立てのいいテレーゼは、1820年にパン職人と結婚した。その時からシューベルトはグローブ家を避けるようになった。
この頃になると、シューベルトは著名人になり、ウィーンの音楽サロンばかりでなく、ウィ-ン以外の地方でも名前を知られるようななった。オーストリア以外の国にも彼の名は広まっていった。
作品:ジングシュピール《双子の兄弟》D647、劇音楽《魔法の竪琴》D644、カンタータ《ラザロ》D689(未完)、オペラ《シャクンタラ》D701(スケッチ)、《詩篇二十三番》D706、《弦楽四重奏 断章 ハ短調》D703(未完)、ピアノ曲《さすらい人幻想曲》D760、合唱曲《水上を飛ぶ霊たちの歌》D714、歌曲《夜曲》D672、歌曲《プロメトイス》D674、歌曲《春の思い》D686。

1821年24才
シューベルトはマイヤーホーファーとの仲が気まずくなりシューベルトは、ヴィップリンガーシュトラーセに住んでいた十六歳の画家モーリッツ・フォン・シュヴィントの部屋に引っ越した。
一月、ゲーテの詩による、テノールとバス各四人と弦楽器奏者のための《水の上に歌う精霊の歌》D714を作曲。
友人のひとりアンゼルム・ヒュッテンブレナーはテレーゼに振られてシューベルトはどうしても立ち直れなかった、と述べている。『1821年、公園を散歩しながら私は彼に、恋をしたことはないのかい、と聞いた。彼は日頃女性に素っ気ない態度をとっていたので、私は女性に興味がないのだろうと思っていたのだ。” そんなことはないよ ”と彼は言った。” とても好きだった人がいて、その人も僕のことを好きだった。学校の先生のお嬢さんで、年は僕より幾らか下だった。僕のミサ曲でソプラノのソロを歌ってくれてね。素晴らしい声で感情をこめて歌うんだ。天然痘の痕が顔に残っていて、美人ではなかったけれど、とても気持ちのきれいな人だった。彼女は僕を三年間待った。でも僕の方は、二人で不自由なぅ生活していける職を見つけることができなかったんだ。その後彼女は親の勧めるままに他の男と結婚したよ。とても悲しかった。今でも好きだし、あれ以来彼女以上の人は現れないんだ。要するに僕は彼女にふさわしくなかったんだろう ”」。
ヒュッテンブレナーは語る『私が知り合って以来、シューベルトには恋をした気配すらなかった。彼は女性に対してはそっけなく、不愛想そのものだったし、着るものに無頓着で特に歯の手入れを怠っていたので、タバコの臭いがぷんぷんしていた。求婚者としてはふさわしくないし、いわゆる社交界に通用するタイプではなかった。』。
十二回の公的な演奏会で作品が演奏され、新聞に六回作品広告が掲載された。
宮廷作曲家として宮廷オペラ劇場に推薦してもらうために署名を集めた。
二月八日、相変わらず出版社は冷淡だったが、友人のフォーグルがケルントナートーア劇場で歌曲《魔王》を歌い、ようやくアントニオ・ディアベリ(作曲家・出版業者、1781-1858年)がシューベルトの作品の取次販売に同意した。作品番号で最初の7曲(すべて歌曲)がこの契約に従って出版された。その後、この契約が終了し、大手出版社が彼に応じてわずかな版権を受け取り始めた。シューベルトは世間から問題にされないのを生涯気にしていたことについて、多くの記事が見られる。
三月七日、「福利と慈善事業保護のための貴婦人の会」主催の演奏会で、《魔王》、合唱曲《小さな村》D598、合唱曲《水上を飛ぶ霊たちの歌》D714、ウィーン、ケルントナートーア劇場で上演された。
三月三十一日、シューベルティアーデの音楽会の席で《魔王》の楽譜出版が告げられ、頒布される。
ショーバーと同居。
四月、ケルントナートーア劇場でコレペティトゥアとして臨時の仕事に就いた。友人らの尽力で《魔王》が出版され、売れ行きもよかった。
夏はショーバーとアッツェンブルク、ザンクト・ペルテンで過ごした。
九月、オクセンブルクで歌劇《アルフォンソとエストレラ》D732を作曲。この頃マイヤーホーファーの住まいの近くに住んだ。
二つの劇作品を生み出したことを契機に、シューベルトの関心がより舞台に向けられた。
年の瀬にかけて、シューベルトはおよそ三年来の屈辱感と失望感に浸っていた。ジングシュピール《アルフォンソとエストレラ》D732は受け入れられず、歌劇《フィエラブラス》D796も同じだった。ジングシュピール《陰謀者(Die Verschworenen)》D-787は検閲で禁止された。劇付随音楽《ロザムンデ》D797は二夜で上演が打ち切られた。これらのうちジングシュピール『アルフォンソとエストレラ』と歌劇『フィエラブラス』は、規模の点で公演が困難だった(たとえば歌劇『フィエラブラス』は1000ページを超える手書き楽譜)。しかしジングシュピール《陰謀者》は明るく魅力的な喜劇であり、劇付随音楽《ロザムンデ》はシューベルトが作曲した中でも素晴らしい曲が含まれていた。
作品:歌曲《魔王》D328 自費出版。歌曲《春の確信》D686、歌曲《鳥》D691、歌曲《ズライカⅠ》D720、歌曲《ズライカⅡ》D717、歌曲《ひめごと》D719、歌劇《アルフォンソとエストレルラ》、ゲーテの詩による歌曲《人間の限界》D716など、《交響曲の断片》D729ほか。

1822年25才
十二回の公的な演奏会で作品が演奏され、新聞に五回作品広告が掲載された。
二月、オペラ《アルファンソとエストレラ》作曲。
歌劇《魔弾の射手》のウィーン上演を機にカール・マリア・フォン・ウェーバーに会い歌劇のことで意見を対立させたまま、ウェーバーはウィーンを離れた。そしてベートーヴェンを訪問し知り合う。両者ともに親しい関係にはならなかったが、ベートーヴェンはシューベルトの才能を認めていた。シューベルトもベートーヴェンを尊敬しており、連弾のための《フランスの歌による変奏曲》D-624を同年に出版するにあたり献呈している。
三月シューベルトの歌曲に関する詳細な論評を新聞と雑誌が掲載した。
七月『僕の夢』書き上げる
夏、友人たちとアッツェンブルクで過ごす。
この年と翌年はショーバー家(ゲットヴァイガーホーフ)にしばしば寄居したり、ロッサウの家にも戻った。この二年は全体として、彼の人生でもっとも暗い年月だった。
十月三十日、《《交響曲第七番(旧8番) ロ短調》「未完成」 D759 の作曲に入る。
十一月、《幻想曲ハ長調》D760「さすらい人」完成。
暮れごろ梅毒が発症し重篤な症状となり入院した。梅毒疹のために頭髪を刈り取り、毛が生えるまでかつらをかぶっていて、世間付合いをまったく断った。この年は「未完成交響曲」を作曲中の時で。梅毒のため入院中で、ひどいうつ病にかかっていた。この曲を作曲した家は、ウィ-ンの中心街ケルントナー通りから二つ目の裏通りのシュピーゲル小路の角にある居酒屋の二階に残されている。その壁には【1822‐1823にここに住み、交響曲ロ短調を作曲した】と銘板が貼られている。その後、梅毒疹はよくなったが、うつ病は毎年繰り返し再発した。
作品:歌曲《竪琴に寄す》D737、歌曲《わたくしの挨拶を》D741、歌曲《ばら》D745、歌曲《愛はあざあむいた》D751、歌曲《夜のすみれ》D752、歌曲《あなたは私を愛していない》D756、歌曲《ミューズの子》D764、歌曲《さすらい人の夜の歌》D768、歌曲《小人》D771、歌曲《悲しみ》D772、《さすらい人幻想曲》D760、《ミサ曲変イ長調》D678(第一項)、《交響曲第七番(旧8番)ロ短調》「未完成」 D759、オペラ《アルファンソとエストレラ》D732

1823年26才
四回の公的演奏会で作品が演奏され、新聞に十二回作品広告が掲載された。
四月、グラーツのシュタイヤーマルク楽友協会から名誉会員に推薦された。カッピ&ディアヴェリ社と契約決裂。
五月、歌曲集《美しき水車小屋の娘》第一曲を作曲。入院し梅毒の治療を受け症状が安定する。
七月~九月にかけてフォーグルと一緒にシュタイヤーとリンツに旅行する。
八月、リンツ楽友協会はシューベルトとフォーグルを名誉会員に推薦した。
十月二日、オペラ《フィエラブラス》D796 完成。
十一月、ミュラーの詩による《美しき水車小屋の娘》D795完成。シュトゥベンバスタイに転居しフーバーと住む。
十二月、ヘルミーネ・フォン・シェジーの戯曲、劇音楽《ロザムンデ(正式:キプロスの女王、ロザムンデ)》完成。
十二月二十日、劇音楽《ロザムンデ(正式:キプロスの女王、ロザムンデ)》アン・デア・ウイーン劇場で初演され反響を呼ぶ。
作品:歌曲集「美しき水車小屋の娘」D795、歌劇《フィエラブラス》D796、ピアノ曲《楽興の時》D780、《ピアノ・ソナタ》D784、歌曲《水の上で歌う》D774、歌曲《美も愛もここにいたことを》D775、歌曲《君はわが想い》D776、歌曲《笑いと涙》D🎰、歌曲《老人の歌》D778、歌曲《夜と夢》D827、《十二のドイツ舞曲》D790
動画《美しき水車小屋の娘》

1824年27才
九回の公的演奏会で作品が演奏され、新聞に十一回作品広告が掲載された。
二月~三月、《弦楽四重奏曲第十三番イ短調》D804「ロザムンデ」 完成。
三月、弦楽四重奏曲《死と乙女》D810 完成。
三月十四日、シュパンツィック弦楽四重奏団が《ロザムンデ》D804をウィーン楽友協会ホールで演奏された。シューベルトの弦楽四重奏曲の中で、シューベルトの生前に全曲が公開演奏されたのはこの曲だけとなっている。
かなり健康を取り戻したがこの頃の日記や手紙には、苦悩と葛藤が綴られている。
春、シューベルトは壮麗な《八重奏曲》D803、《大交響曲のためのスケッチ》を書き、再びツェレスに戻った。
六月、エスターハージー伯爵家から家庭教師として招かれ、ハンガリーのツェルスに滞在し歌とピアノのレッスンを行なう。
エステルハージ伯爵令嬢カロリーネへの思いが伝えられる。
七月十八日、次兄フェルディナントへの手紙に『兄さん以外には、親愛なる心からの友である人はいません』と、家庭教師として滞在中のツェルスから書き送った。
十月十六日、シューベルトは、ツェルスを発ち、シェーンシュタイン男爵の馬車でウイーンへの帰途についた。二人はプレスブルクの途中、ディオツェクで一泊した。その数日後、ウィーンから戻った男爵はエステルハージー伯に手紙を書き、その中で馬車の旅の様子を次のように書いている『ディオツェクを出るとすぐ、無気力なシューベルトが馬車の後部の窓を叩き割ると、ぞっとするほど冷たい風が私たちの耳に吹き付けた。』。シューベルトはウィーンに戻るやいなや元気になった。シューベルトは父の学校に戻り、翌年の初めまでそこで生活した。
十一月八日、シュヴィントは、ショーバーの手紙に次のように書いている『シューベルトが帰った。彼は喜びと苦痛と愉快な生活で若返り、体調も良く浮かれている』。
秋以降はロッサウの父の家に戻る。
十一月、《アルベッジョーネ・ソナタイ短調》を作曲。
シューベルティアーデ(シューベルトを支えるために私的に行った夜会)が開催される
作品:歌曲《夕映えのなかに》D799、歌曲《解消》D807、《八重奏曲ヘ長調》D803、《弦楽四重奏曲第13番イ短調》-804「ロザムンデ」、 《弦楽四重奏曲第14番》D810「死と乙女」、《ハンガリー風喜遊曲》D818、《アルベッジョーネ・ソナタイ短調》D-821 
動画《弦楽四重奏曲イ短調》D804「ロザムンデ」

動画《弦楽四重奏曲第14番》D810「死と乙女」

1825年28才
十一回の公的演奏会で作品が演奏され、新聞に九回作品広告が掲載された。
シューベルトの名声は高まるようになって行った。
リートと四重奏曲が楽友協会ホールで演奏され、多くの作品が出版されると「シューベルティアーデ」の人気に再び火がつき催された。
一月と二月、宮廷書記官エンデラーとヴィッテチェクの家でシューベルティアーデが開催された。
二月、シュヴィントの住まいに近いカール教会脇のフルーヴィルトハウスに引っ越す。
ショーバーの母の家、ヴェーリング、ショーバーの家、ベッカーシュトラウセ六で過ごす
五月~十月にかけてシューベルトはフォーグルの誘いで初夏から秋にかけて熱望していた北オーストリアへの大休暇旅行に出かけた。シュタイヤー、グムンデンでは六週間過ごし、「そこは、天国のような本当に素晴らしい所です…」とグムンデンの印象を書き残している。六月、ヴァイマルのゲーテに《御者クロノスに》ほかに曲を献呈。リンツ、ガスタイン、ザルツブルクを訪れ、パウムガルトナー家、オッテンヴァルト家、トラウェーガー家、エーヴェンツヴァイヤー家で過ごし、小規模な音楽会を開いた。旅行中に、ウォルター・スコット原詩の歌曲《ノルマンの歌》D-846、《囚われし狩人の歌》D843や《ピアノ・ソナタイ短調》D-845を作曲、スコットの歌ではそれまでの作曲で最高額の収入を得た。
七月二十五日リンツを去る前に、コンヴィクト時代の友人アルベルト・シュタドラ(リンツ音楽協会の事務局長になっていた)と、シュタイアーエックのヴァイセンヴォルフ城などに行った。シュタドラーによると、この城のヨハン伯爵の夫人にウコットの詩による《湖上の美人》からの歌曲を夫人の希望により献呈したとある。
シューベルトは「オーバーエスターライヒ州では、どこに行っても私の作品に出会うことができます。特に、聖フロリアンとクレムスミュンスターの修道院では、…、」と書いている。
ウィーンに戻ってからは住まいが定まらない。
十二月人気が高まり肖像画が売り出される。
出版は急速に進められ、窮乏によるストレスからしばらくは解放され、過去数年の苦難は幸福に取って代わった年となった
作品:歌曲《孤独な男》D800、歌曲《若い尼》D828、《ノルマンの歌》D846、歌曲《エレンの歌Ⅰ》D837、歌曲《エレンの歌Ⅱ》D838、歌曲《エレンの歌Ⅲ》D839(アヴェ・マリア)、歌曲《全能》D852、《囚われし狩人の歌》D843、《ピアノ・ソナタ》D845とD850
<ヴィルヘルム・アウグストリーダーが描いたシューベルト>

1826年29才
八回の公的演奏会で作品が演奏され、新聞に八回作品広告が掲載された。
二月父がウィーン市の市民権を取得。
三月《ピアノ・ソナタ》D845が出版され「ライプツィヒ音楽新聞」に論評が掲載された。他にも多くの楽譜が出版され称賛を得た
四月サリエリが宮廷楽長を去り、副楽長であったヨーゼフ・レオポルド・アイブラーが後任として楽長となり、副楽長の席が空席となっていた。この一つのポストにシューベルトを含め十名程度が応募した。結果は宮廷歌劇場の指揮者をしていたヨーゼフ・ヴァイグルが就任し、シューベルトは採用されなかった。
六月二十日~三十日、《弦楽四重奏曲第十五番ト長調》D887 完成。
夏、ショーバーの母の家、ヴェーリング、ショーバーの家、ベッカーシュトラウセ六で過ごす
九月フルーヴィルトハウスの自室に戻る(秋から冬)。この頃はあちこちに泊まり歩いた。ショーバーの母の家(夏)、ベッカーシュトラウセ六、カロリーナートーア近くのバスタイ(秋から冬)など。
十二月十五日シュパウンの家で大きなシューベルティアーデがあった。ガーヒーとシューベルトの連弾、フォーグルが三十曲ものシューベルトの歌曲を歌った。その後もシューベルティアーデが盛んに開催された。
ウィーンに留まった。その間、たびたび体調不良に襲われている。
新しい交響曲をウィーン楽友協会に献呈し、その礼としてシューベルトに10ポンドが与えられた
作品:《交響曲第八番(旧第九番)ハ長調》「大ハ長調」「ザ・グレート」 D944、歌曲《月によせるさすらい人の歌》D870、歌曲《臨終を告げる鐘》D871、歌曲《ミニョンの歌》D877、歌曲《漁師の歌》D881、歌曲《春に》D882、歌曲《セレナード(きけきけ雲雀)》D889、歌曲《シルヴィアに》D891、《弦楽四重奏曲ト長調》D887、歌曲《シュエクスピア》D888、D889、D891《ソナタト長調》D894、ヴァイオリンとピアノのための《ロ短調ロンド》D895、

1827年30才
十八回の公的演奏会で作品が演奏され、十九回作品広告が新聞に掲載された。
二月、ショーバーと母親が、グラーベンに近いウンター・デン・トゥーフラウベンの新しい家に引っ越した。経済的な理由から気に入っていた自分の住居に住めなくなっていたシューベルトも居候となりついて行き、残された日のほとんどをここで暮らした。ショーバー家ではこれまで一番広い二部屋と音楽室を自由に使えた。ここで、シューベルトは歌曲集《冬の旅》Ⅾ911第一部となる十二曲が作曲された。第二部は十月同じくこの家で完成した。その間、たびたび体調不良に襲われていた。
ウィーン楽友協会会員に推薦される。
二月の終わりごろ、シューベルティアーデは緑の錨邸から、グラーベンにほど近い、ナークラ-ガッセのアイゼンシュタット宮殿邸に移された。
ベートーヴェンがシューベルトの《若き尼》《美しき水車小屋の娘》からの数曲を知る。
三月初め、ウィーンの町にベートーヴェンが死の床に臥しているというニュースが流れる。
十九日、シューベルトは、ヒュッテンブレンナー兄弟ほか数名とともに、病床のベートーヴェンを見舞った。同じ町に住みながら、言葉を交わしたのはこれが最初で最後となった。
フォン・ラスニー夫人にシューベルトとフォーグル、ワイマールの楽長フンメルが招かれる。
三月二十九日、シューベルトはアルザー教会で行われたベートヴェンの葬儀の行列に、黒づくめで松明持ちのひとりとして棺につきそった。
ワイマールの楽長フンメルがシューベルトを訪問。
シューベルティアーデの開催に訪れたヒラーは『部屋には深い、真の貴族的な静けさが満ちていた。シューベルトは技巧がなく、フォーグルも声が出なかったが、演奏は完全だった。人々はピアノのことも歌のことも考えなかった。音楽には物理的な音響など必要ないかのように、旋律は靈化した耳に靈のごとく現れた。』と残している。
ディアベリ社と交渉再開、ハスリンガー社も出版した。
五-六月、ドルンバッハシュトラーセ101で過ごす。
六月はじめ、ウィーン楽友協会の理事に選出される。
グラーツの弁護士カール・バハラー夫妻の招待を受ける。
九月三日夕刻、シューベルトと友人イェンガーは急行馬車でグラーツに着いた。六月に弁護士カール・バハラー夫妻の招待を受けての旅だった。バハラーのところでは大シューベルティアーデが開かれ、世間に名を知られたシューベルトに会う為、グラーツの音楽愛好家たちのエリートが参集した。シューベルトはヴィルトバハ城に遠出をするなどして三週間を過ごし、シューベルトとイェンガーは、シュタイア^マルクを見下ろす高い山に徒歩で登り、帽子を取って振り回し、歓迎してくれたシュタイアーマルクの人たちにありがとうを叫び、必ずまた来るからと約束してハンガリー沿いの道をとおり九月二十日にウィーンに戻った。
グラーツの度から帰ると再び病気が発症しはじめた。
秋、ノイマンの詩による《ドイツ ミサ曲》D872完成。
十一月、《ピアノ三重奏曲変ホ長調》D929 完成。
十二月、ライプツィヒ音楽新聞にピアノ・ソナタ《幻想》D894に関する論評をはじめ各地で称賛の声が高まる。
《ピアノ三重奏曲変ホ長調》D897「ノットゥルノ」完成。
十二月、《四つの即興曲》D935 完成。
作品:《ドイツ・ミサ曲ヘ長調》D872、歌曲《リュートに寄せて》D905、歌曲《緑野の歌》D917、歌曲《十字軍》D932、歌曲集《冬の旅》D911、《ピアノとヴァイオリンのための幻想曲》D934、《ピアノ三重奏曲》D-929、《4つの即興曲》D899、《4つの即興曲》D935
《冬の旅のオリジナル楽譜》

<シューベルト肖像画>(フランツ・マイブルが描いた)

<シューベルトのメガネ>

1828年31才
十一回の公的演奏会で作品が演奏され、十回の作品広告が新聞に掲載された。
一月、《冬の旅》第一部出版される。友人シュパウンの婚約を祝う集いでシューベルトは、ボクレットやシュパンツィ、リンケと激しい演奏をして夜遅くまで騒いだ。
二月、ウィ-ンのプロープストとマインツのショット社からなど、出版の依頼が相次いだ。
三月、《交響曲第八番》D944「グレート」完成し、ウィーン楽友協会に渡す。
二十六日、ウィーン楽友協会は、シューベルトの作品だけの生涯ただ一度の演奏会を開催した。立ち見が出るほどの盛況で、収入の面でも大成功し、一晩で三百二十フローリンの収益があった。借金を返し、シューベルトはグラーフ製作の新しいグランドピアノを買った。
当日の曲目は、
《弦楽四重奏曲ト長調》D887の第一楽章
歌曲《十字軍》D932
歌曲《星たち》D939
歌曲《漁師の歌》D881
歌曲《アイスキュロスからの断片》D450
アルト独唱と女声合唱《セレナード》D921
《ピアノ三重奏曲》D929
歌曲《流れの上で》D943
歌曲《全能の神》D852
男性二十合唱曲《戦いの歌》D912 であった。友人たちはこぞって応援協力し、ウィーン楽友協会は協会の「赤い針ねずみ」店を無償で貸し、ハスリンガー、ディアベリ、ライデスドルフの各社が請け負った三フローリンの入場券は、とぶように売れホールは満員になったという。
シューベルトはかなりの大金を得た。しかし、夏にはお金はすっかりなくなり、好きなグムンデンのトラヴェガーの招待にも、グラーツのバハラーの招待にも行くことはできなかった。
六月、ラハナーと下オーストリアのハイリゲン・クロイツ修道院に出かけ、オルガンを演奏した。
八月、歌曲《レルシュタープ》と《白鳥の歌》第一-十三曲の作曲に着手。
九月一日、夏の終わりには、頭痛やめまいが酷くなり、身体が弱まり今まで友人の家を転々と渡り歩き続けてきたが、健康がすぐれず医師のすすめで、ショーバーの家を出て、兄のフェルディナントが新しく建てた郊外のフィルミアンス通りの兄の住居に移った。
九月五日友人たちとブルク劇場で友人バウエルンフェルトの喜劇《媒酌人》を観る。
九月、《ピアノソナタ第十九番ハ短調》D958 (遺作) 完成。《ピアノソナタ第二十番イ長調》D959 (遺作)、《ピアノソナタ第二十一番変ロ長調》D960 (遺作)、三連作のピアノソナタは(遺作)となった。
十月、オーストリアの「交響曲の父」と称賛されるヨーゼフ・ハイドンの墓をゆっくりとお参りするために、兄のフェルディナンドと二人の友人と一緒に、片道約五十六キロ離れたアイゼンシュタットまで、三日間の徒歩旅行に出た。旅行中は気分は良かったが、ウィーンに戻ると再び不快な気分が襲った。
《ミサ曲》D950、《弦楽五重奏曲》D956、最後の三つの《ピアノ・ソナタ》D958、D959、D960、《交響曲》D936Aスケッチ、《岩の上の羊飼》D965、《鳩の便り》D965Aが最後の作品となる。
十月三十一日、レストラン「赤十字」で兄たちと魚料理を食して体調を崩す。
十一月三日、ヘルンアルザー教会で兄フェルディナントのレクイエムを聴きに出かけた。
十一月四日、シューベルトは対位法の理論家として高名だった作曲家ジーモン・ゼヒターのレッスンを受ける予定日を決めていたが、その日はランツが一人で行った。ゼヒター(のちにブルックナーの師となる)のレッスンを所望し、知人と一緒に彼の門を叩いていた。しかし何度かのレッスンのあと、ゼヒターはその知人からシューベルトは重病と知らされる。
十一月十一日、病の床で《冬の旅》第二部を校正。
十一月十二日付のショーバー宛の最後の手紙でシューベルトは「僕は病気だ。十一日間何も口にできず、何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまう」と著しい体調不良を訴えた。これがシューベルトの最後の手紙となった。その後、シューベルトは『冬の旅』などの校正を行っていた。
十一月十四日、病状が悪化して高熱に浮かされる。友人たちがベートーヴェンの《弦楽四重奏曲作品131》を演奏。
十一月十六日、発熱し衰弱がひどくなった。主治医リンナが病気になり、ヨーゼフ・ヴェーリングとヨハン・ヴィスグリルらがシューベルトの病気を「腸チフス」と診断した。一説には「梅毒性脳血管障害」の疑いがあると、五島雄一郎はその著書「偉大なる作曲家たちのカルテ」P65-66で述べている。
友人シュパウン、ランドハルティンガー、バウエルンフェルト、ラハナーらが見舞いに来る。
十一月十七日、「錯覚や幻覚に襲われる譫妄(せんもう)状態と意識障害とが現われる。
十一月十八日、フェルディナントが父へ宛てた手紙によると、死の前日に部屋の壁に手を当てて「これが、僕の最期だ」と呟いたのが最後の言葉だったという。
十一月十九日、高熱とうわごとが続いた後、兄のフェルディナンドのアパート Auf der neue Wieden N°694 で、フェルディナントと義妹ヨゼーファ・テレージアに、その最後を看取られこの世を去った。 二人は死の床についたシューベルトを献身的に看病した。彼は治癒していない梅毒に苦しんでいたが、直接の死因はチフスだったようだ。 アパートはきしむ木の床と白塗りの壁の小さな三部屋からなる建物で、現在は博物館となっている。本物のシューベルトの遺髪や、兄のピアノ、彼が最後に書いた歌曲《鳩の便り》を含むオリジナルの楽譜の複製などを見ることができる。
十一月二十一日、マルガレーテンの聖ヨーゼフ教会で葬儀が執り行われた。フェルディナントは遺言によりヴェーリング墓地のベートーヴェンが眠る墓の近くに埋葬された。
十二月十四日、《交響曲第六番ハ長調》D589 は指揮:シュミ―デルにより、ウィーン、レドゥーテンザールにて初演演奏された。
十二月二十三日、聖アウグスティヌス教会で盛大な追悼式典が行われた。
作品:歌曲《星》D939、歌曲《岩の上の羊飼》D965、連弾用《幻想曲へ短調》D940(エステルハージー伯爵令嬢カロリーネに献呈)、《ミサ曲変イ長調》D678(第二項)《交響曲第八番ハ長調》「グレイト」D944、ピアノ連弾曲《イ短調「人生の嵐」》D947、《ミサ曲第六番変ホ長調》D950、《弦楽五重奏曲ハ長調》D956、歌曲集《白鳥の歌十三曲》D957、《ピアノソナタ》D958、《ピアノソナタ》D959、《ピアノソナタ》D960
<ヴェーリングにある最初の墓地>

1929年
十月四日、《ミサ曲第六番変ホ長調》D950 初演、アルザーグルントの三位一体教会で。

1830年
三月二十一日、《イタリア風序曲》D591 ウィーン、ラントハウスザールにて、兄のフェルディナントの指揮で初演された。

1833年
三月十二日、《弦楽四重奏曲第十四番》D810「死と乙女」公開初演、ベルリン、カール・モーザー弦楽四重奏団の演奏。

1838年
シューマンがウィーンに立ち寄った際に、シューベルトの兄フェルディナントの家を訪問した。フェルディナントはシューベルトの書斎を亡くなった当時のままの状態で保存しており、シューマンはその机上で《(大)ハ長調の交響曲》がほこりに埋もれているのを発見し、ライプツィヒに持ち帰った。その後メンデルスゾーンの指揮によって演奏され、「ノイエ・ツァイトシュリフト」紙で絶賛された。

1839年
フェルディナント・シューベルトはこの頃、ウィーンの教員養成所の所長になっていたが次のようにシューベルトについて書いている『この善良なフランツはイグナーツからピアノのレッスンを受けはじめ、のちには歌ばかりでなくヴァイオリンとピアノも合唱指揮者のミヒャエル・ホルツァーのもとでレッスンを受けるようになる。ホルツァーはしばしば目に涙を浮かべて言った。【こんな生徒はいまだかって持ったことがない。なにか新しいことを教えようとしても彼はすでにそれを知っており、驚きのあまり私はただ黙って彼を見つめるだけということもしばしばあった。】』。イグナーツものとになって次のように回想している。『驚いたことにフランツは数か月もたたぬうちに、これ以上私のレッスンを必要でなく、これからは自分で勉強したいと申し出た。事実、彼は短期間のうちにはるかに私をしのぎ、もう追いつくことのできない大家であると私が認めざるをえないほどの成果を見せたのだ。』。
三月二十一日、《交響曲第七番(旧8番) ロ短調》「未完成」 D759 初演、指揮:メンデルスゾーン、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスにて。

1841年
十月十七日、《交響曲第五番変ロ長調》D485 初演、ウィーン、ヨーゼフ・シュタット劇場にて。

1849年
十一月十九日、《交響曲第四番ハ短調》「悲劇的」D417 ライプツィヒで公開初演。

1850年
十一月十七日、《弦楽五重奏曲》D956 ウィーン、ヘルメスベルガー四重奏団とヨーゼフ・ストランスキーのチェロで初演。
十二月八日、《弦楽四重奏曲第十五番ト長調》D887 全曲公開初演、ウィーン、ヘルメスベルガー四重奏団の演奏。

1854年
六月二十四日、オペラ《アルファンソとエストレラ》D732、ワイマール、リスト指揮で縮小され初演。

1863年
十一月二十九日、《弦楽四重奏曲第九番ト短調》D173 公開初演、ウィーン、ムジークフェラインザール、ヘルメスベルガー四重奏団の演奏。

1864年
二月二十三日、《《弦楽四重奏曲》変ロ長調》D112 公開初演は、ウィーン楽友協会ホールにてヘルメスベルガー四重奏団の演奏。

1865年
十二月十七日、《交響曲第7番ロ短調》「未完成」D759 初演、楽譜発見者のヨハン・ヘルベック指揮、ウィーン、ムジークフェラインザールにて。

1867年
三月一日、《弦楽四重奏曲第十二番ハ短調》D703 公開初演、ウィーン、ムジークフェラインザール、ヘルメスベルガー四重奏団の演奏。
ウィーンを旅行したジョージ・グローヴ(1820年 – 1900年)とアーサー・サリヴァン(1842年 – 1900年)の二人が大きな功績を挙げた。この二人は7曲の交響曲、《ロザムンデ》の音楽、数曲のミサ曲とオペラ、室内楽曲数曲、膨大な量の多様な曲と歌曲を発見し、世に送り出した。

<1872年公開されたウィーン男性合唱団から寄贈のシューベルト記念碑>

1877年
十月二十日、《交響曲第二番変ロ長調》D125 交響曲第二番初演、指揮:オーガスト・マンス、ロンドン、クリスタル・パレスにて。

1880年
一月三十日、《交響曲第一番ニ長調》D82 第一楽章のみ初演。

1881年
二月五日、《交響曲第一番ニ長調》D82 全曲初演
二月十九日、《交響曲第三番ニ長調》D200 公開初演、指揮:オーガスト・マンス?、ロンドン、クリスタル・パレスにて

1888年
墓地にブロンズの記念碑建立、グリルパルツァーの碑文が刻まれる。
遺骸はウィーン中央墓地(グループ32 A、番号28)に移されたが、ヴェーリング墓地跡のシューベルト公園には今も二人の当時の墓石が残っている。

1897年
二月九日、オペラ《フィエラブラス》D796 全曲初演、カールスルーエにて。

20世紀
小惑星(3917) Franz Schubertはフランツ・シューベルトの名前にちなんで命名された。

1928年
オペラ《サラマンカの友人たち》D326がハレで初演された

1988年
五月、オペラ《フィエラブラス》D796 アバド指揮、アン・デア・ウィーン劇場で演奏された。ライヴ録音(二時間二十三分)がある。

4.主な作品


<交響曲>
《交響曲 ニ長調》 D2B(断片)1811年頃?
《交響曲第一番 ニ長調》 D82 1813年
《交響曲第二番 変ロ長調》 D125 1814-1815年
《交響曲第三番 ニ長調》 D200 1815年
《交響曲第四番 ハ短調》「悲劇的」 D417 1816年
《交響曲第五番 変ロ長調》 D485 1816年
《交響曲第六番 ハ長調》 D589 1817 1818年
《交響曲 ニ長調》 D615(スケッチ) 1818年
《交響曲 ニ長調》 D708A(スケッチ) 1820年頃
《交響曲第七番 ホ長調》 D729(スケッチだがピアノ譜は最後まで完成) 1821年
《交響曲第八番(旧8番) ロ短調》「未完成」 D759 1822年
《交響曲第九番(旧第9番)ハ長調》「大ハ長調」「ザ・グレート」 D944 1825-1826年
《グムンデン・ガシュタイン交響曲?》 ホ長調 D849
《交響曲 ニ長調》 D936A(スケッチ) 1828年頃?
<管弦楽曲>
序曲 ニ長調》 D2a(未完)
序曲 ヒュドラリウスを弾く悪魔》 D4(「水オルガンを弾く悪魔」とも)
序曲 ハ短調》 D8
序曲 ニ長調》 D12
序曲 ニ長調》 D26
3つのメヌエットとトリオ》 D39a(消失)
管弦楽曲 ニ長調》 D71c(未完)
管弦楽曲 変ロ長調》 D94a(未完)
序曲 変ロ長調》 D470
序曲 ニ長調》 D556
イタリア風序曲 ニ長調 D590(第1番)
イタリア風序曲 ハ長調 D591(第2番)
序曲 ホ短調 D648
管弦楽曲 ニ長調 D996B(未完)
<オペラ>
《鏡の騎士》 D11(未完)
《悪魔の別荘》 D84
《アドラスト》 D137(未完)
《四年間の歩哨兵勤務》 D190
《フェルナンド》 D220
《クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ》 D239(序曲、第2幕、第3幕消失)
《サラマンカの友人たち》 D326
《人質》 D435(未完)
《双子の兄弟》 D647
《シャクンタラ》 D701(未完)
《アンフォンソとエストレッラ》 D732
《謀反人たち(家庭争議)》 D787 検閲で題名(謀反人たち)が不穏当であるとされ改名を要求されカッコ内に変わった。
《リューディガー》 D791(未完)
《フィエラブラス》 D796 検閲で召使が王と対話する箇所は削除を命じられた。
《グライヒェン伯爵》 D918(未完)検閲で、題材(貴族の重婚)が不穏当であるとされ公演全面禁止とされた。
《ミネゼンガー》 D981(断片、消失)
《オペラのスケッチ》 D982(3曲、題名不明)
<舞台付随音楽、挿入曲など>
付随音楽《魔法の竪琴》 D644
付随音楽《キプロスの女王ロザムンデ》 D717 Op.26
エロールの歌劇《魔法の鈴》(二重唱とアリアの挿入曲) D723
<協奏曲など>
ヴァイオリンと管弦楽のための《小協奏曲 ニ長調》 D345
ヴァイオリンと弦楽のための《ロンド イ長調》 D438
ヴァイオリンと管弦楽のための《ポロネーズ 変ロ長調 》D580
<弦楽四重奏曲>
《弦楽四重奏断章 ト長調》 D2(Anh.I-4、シュタードラー作)
《弦楽四重奏曲 ニ長調》 D2c(未完)
《弦楽四重奏のための楽章》 D3(未完)
《弦楽四重奏曲第1番 ハ短調》、変ロ長調 D18
《弦楽四重奏曲》 D19(消失)
《弦楽四重奏曲》 D19a(消失)
《弦楽四重奏曲第2番 ハ長調》 D32
《弦楽四重奏曲第3番 変ロ長調》 D36
《弦楽四重奏曲 変ホ長調》 D40(消失、偽作?)
《弦楽四重奏曲第4番 ハ短調》 D46
《弦楽四重奏曲第5番 変ロ長調》 D68
《弦楽四重奏曲第6番 ニ長調》 D74
《弦楽四重奏曲第7番 ニ長調》 D94
《弦楽四重奏断章 ハ短調》 D103(未完)
《弦楽四重奏曲 変ロ長調》 D111a(消失)
《弦楽四重奏曲第8番 変ロ長調》 D112 Op.168
《弦楽四重奏曲第9番 ト短調》 D173
《弦楽四重奏曲第10番 変ホ長調》 D87
《弦楽四重奏曲第11番 ホ長調》 D353
《弦楽四重奏曲第12番 ハ短調》(四重奏断章) D703
《弦楽四重奏曲第13番 イ短調》「ロザムンデ」 D804 Op.29
《弦楽四重奏曲第14番 ニ短調》「死と乙女」 D816
《弦楽四重奏曲第15番 ト長調》 D887
<その他室内楽曲>
序曲 ハ短調 D8A
序曲 変ロ長調 D20(消失)
メヌエット ニ長調 D86
アンダンテ ハ長調 D87a(弦楽四重奏曲ではない?)
5つのメヌエットと6つのトリオ D89
5つのドイツ舞曲 D90(D89の一部)
序曲 変ロ長調 D601(未完)
フーガ ハ長調 D.Anh.I-3(断片)
弦楽五重奏曲
フーガ ハ短調 D8
弦楽五重奏曲 ハ長調 D.956
弦楽三重奏曲
弦楽三重奏曲第1番 変ロ長調 D471(未完)
弦楽三重奏曲第2番 変ロ長調 D581
ピアノ三重奏曲 変ロ長調 (ソナタ楽章) D28
ピアノ三重奏曲 変ホ長調 『ノットゥルノ』 D897
ピアノ三重奏曲第1番 変ロ長調 D898
ピアノ三重奏曲第2番 変ホ長調 D929
ヴァイオリンソナタ(ソナチネ)第1番 ニ長調 D384
ヴァイオリンソナタ(ソナチネ)第2番 イ短調 D385
ヴァイオリンソナタ(ソナチネ)第3番 ト短調 D408
ヴァイオリンソナタ(第4番) イ長調 D574
6つのメヌエット D2d
管楽八重奏曲 ヘ長調 D72
アレグロ ヘ長調 D72a(未完)
九重奏曲 小葬送音楽 D79
5つのメヌエットと6つのドイツ舞曲 D94b(消失)
4つの愉快なレントラー ニ長調 D354
8つのレントラー 嬰ヘ短調 D355(未完)
新しいレントラー ニ長調 D370(未完)
11のレントラー 変ロ長調 D374(未完)
変奏曲 イ長調 D597a(消失)
ピアノ五重奏曲 イ長調 『鱒』 D667 Op.114
「萎れた花」の主題による序奏と変奏曲 ホ短調 D802
八重奏曲 ヘ長調 D803
アルペジョーネソナタ イ短調 D821
ロンド ロ短調 D895
幻想曲 ハ長調 D934
<ピアノソナタ>
ピアノソナタ第1番 ホ長調 D157(未完)
ピアノソナタ第2番 ハ長調 D279(未完)
ピアノソナタ第3番 ホ長調 D459
ピアノソナタ第4番 イ短調 D537
ピアノソナタ第5番 変イ長調 D557
ピアノソナタ第6番 ホ短調 D556(未完)
ピアノソナタ 変イ長調 D567(D568の別稿)
ピアノソナタ第7番 変ホ長調 D568
ピアノソナタ第8番 嬰ヘ短調 D571(未完)
ピアノソナタ第9番 ロ長調 D575
ピアノソナタ第10番 ハ長調 D613(未完)
ピアノソナタ第11番 ヘ短調 D625(未完)
ピアノソナタ第12番 嬰ハ短調 D655(未完)
ピアノソナタ第13番 イ長調 D664
ピアノソナタ ホ短調 D769a(未完)
ピアノソナタ第14番 イ短調 D784
ピアノソナタ第15番 ハ長調 『レリーク』 D840(未完)
ピアノソナタ第16番 イ短調 D845
ピアノソナタ第17番 ニ長調 D850
ピアノソナタ第18番 ト長調 幻想 D894
ピアノソナタ第19番 ハ短調 D958
ピアノソナタ第20番 イ長調 D959
ピアノソナタ第21番 変ロ長調 D960
<舞曲集>
12のワルツ、17のレントラーと9つのエコセーズ D145
20のワルツ D146
エコセーズ ニ短調 D158
メヌエット イ短調 D277a
12のエコセーズ D299
メヌエット イ長調 D334
メヌエット ホ長調 D335
36の舞曲 D365
17のレントラー D366
8つのレントラー 変ロ長調 D378
3つのメヌエット D380
12のドイツ舞曲 D420
6つのエコセーズ D421
ロンド ホ長調 D506
エコセーズ 変ホ長調 D511
8つのエコセーズ D529
4つのポロネーズ D599
メヌエット 嬰ハ短調 D600
ロンド ニ長調 D608
トリオ ホ長調 D610
ドイツ舞曲と2つのレントラー D618
ポロネーズ 変ロ長調 D618a
ドイツ舞曲とエコセーズ D643
12のレントラー D681(一部消失)
6つのエコセーズ D698
ドイツ舞曲 変ト長調 D722
16のレントラーと2つのエコセーズ(ウィーンの淑女たちのレントラー) D734
ギャロップと8つのエコセーズ D735
感傷的なワルツ集 D779
16のドイツ舞曲と2つのエコセーズ D783
12のドイツ舞曲(レントラー集) D790
12のグラーツのワルツ D924
グラーツのギャロップ D925
高雅なワルツ集(12のワルツ) D969
その他のピアノ独奏曲
幻想曲 ト長調 D1
幻想曲 ト長調 D1b(未完)
幻想曲 ハ短調 D2e
メヌエットのトリオ D2f
幻想曲 ト短調 D9
フーガ ニ短調 D13
序曲 D14(消失)
ワルツと行進曲 D19b(消失)
6つの変奏曲 変ホ長調 D21(消失)
2つのメヌエット D22(消失)
7つの変奏曲 ヘ長調 D24(未完)
フーガ ハ長調 D24a
フーガ ト長調 D24b
フーガ ニ短調 D24c
フーガ ハ長調 D24d(断片)
アンダンテ ハ長調 D29
幻想曲 ハ短調 D48
フーガ ホ短調 D71b(未完)
ピアノソナタ第1番 D157のスケッチ D154
10の変奏曲 ヘ長調 D156
エコセーズ ニ短調 D158
アダージョ ト長調 D178
12のエコセーズ D299
アレグレット ハ長調 D346(未完)
アレグロ・モデラート ハ長調 D347(未完)
アンダンティーノ ハ長調 D348(未完)
アダージョ ハ長調 D349(未完)
3つのピアノ曲 D459a
アダージョ 変ニ長調 D505 Op.145-1
ロンド ホ長調 D506 Op.145-2
エコセーズ 変ホ長調 D511
8つのエコセーズ D529
スケルツォとアレグロ D570
ヒュッテンブレンナーの主題による13の変奏曲 イ短調 D576
イタリア風序曲 ニ長調 D592(編曲)
2つのスケルツォ D593
イタリア風序曲 ハ長調 D597(編曲)
3つの英雄的行進曲 D602
ピアノ小品 イ長調 D604
幻想曲 ハ長調 『さすらい人幻想曲』 D760
楽興の時 D780
4つの即興曲 D899
エロルドの歌劇『マリー』の主題による変奏曲 ハ長調 D908
アレグレット ハ短調 D915
ピアノ小品 ハ長調 D916b
ピアノ小品 ハ短調 D916c
4つの即興曲 D935
3つのピアノ曲 D946
アレグロ イ短調『人生の嵐』 D947
フーガ ホ短調 D952
アレグロ・モデラートとアンダンテ D968
序奏、自作の主題による4つの変奏曲と終曲 変ロ長調 D968a
2つの性格的な行進曲 ハ長調 D968b
コティヨン 変ホ長調 D976
行進曲 ト長調 D980f
幻想曲 変ホ長調 D.AnhI-10
アレグロ ト長調 D.AnhI-11
7つの快活な変奏曲 ト長調 D.AnhI-12
クペルヴィーザー・ワルツ D.AnhI-14
Ecossaisede Vienne D.AnhI-16
<ピアノ連弾曲>
四手のためのピアノソナタ ヘ長調 D1c(未完)
四手のためのピアノソナタ 変ロ長調 D617
3つの軍隊行進曲 D733
歌劇 フィエラブラス 序曲 D798
<宗教曲>
ミサ曲 ヘ長調 D24e(未完)
ミサ曲第1番 ヘ長調 D105
ミサ曲第1番「ドナ・ノピス・パチェム」第2稿 D185
ミサ曲第2番 ト長調 D167
ミサ曲第3番 変ロ長調 D324
ミサ曲第4番 ハ長調 D452
ミサ曲第5番 変イ長調 D678
ドイツ・ミサ曲 ヘ長調 D872
ミサ曲第6番 変ホ長調 D950
レクイエム ハ短調 D453(未完)
キリエ ニ短調 D27
キリエ 変ロ長調 D31
キリエ ニ短調 D45
サンクトゥス D56(カノン)
キリエ ヘ長調 D66
アレルヤ D71A
サルヴェ・レジナ 変ロ長調 D106
オッフェルトリウム ハ長調 D136
スターバト・マーテル ト短調 D175
オッフェルトリウム イ短調 3つなり D181
グラドゥアーレ ハ長調 D184 Op.150
サルヴェ・レジナ イ長調 D223 Op.47
サルヴェ・レジナ ヘ長調 D379
スターバト・マーテル イ短調「十字架につかせ給いしイエス・キリスト」D383
サルヴェ・レジナ 変ロ長調 D386
タントゥム・エルゴ ハ長調 D460
タントゥム・エルゴ ハ長調 D461
マニフィカト ハ長調 D486
ヨハネ福音書第6章 第55~58節 D607
サルヴェ・レジナ イ長調 D676
タントゥム・エルゴ 変ロ長調 D730
タントゥム・エルゴ ハ長調 D739
タントゥム・エルゴ ニ長調 D750
キリエ イ短調 D755(未完)
サルヴェ・レジナ ハ長調 D811
タントゥム・エルゴ 変ホ長調 D962
オッフェルトリウム 変ロ長調「声をはり上げよ」D963
スターバト・マーテル D992(草稿)
タントゥム・エルゴ 変ロ長調 D.Anh.I-17
<管弦楽伴奏付き合唱曲/合唱曲>
偉大なるものは誰か D110
フランツ・ミヒャエル・フィールターラーの命名祭 D292
プロメテウス D451(消失)
ヨゼフ・シュペンドゥを讃えるカンタータ D472
宗教劇「ラザロ、または復活の祝日」D 689(未完)
皇帝の誕生日に D748
信仰、希望、愛 D954
酒神讃歌 D47(未完)
酒宴の歌「友よ、輪になれ」 D75
酒宴の歌「兄弟たちよ、わが人生の行路」 D148
今や肉体を埋めた D168
死に勝ち給いし救い主イエス・キリスト D168A
戦に臨む酒宴の歌 D169
剣の歌 D170
酒宴の歌 D183
酒宴の歌 D356(未完)
殺戮 D387(未完)
天使の合唱 D440
大ハレルヤ D442
戦いの歌 D443
墓 D569
兵士の歌 D822
イレーネ・フォン・キーゼヴェッターの全快祝いのためのカンタータ D936
ミリアムの勝利 D942 Op.74
精霊への讃歌 D948
詩篇第92編 D953
<重唱曲>
弁護士 D37
墓掘人の歌 D38
時は3倍の速さで D43
限りない喜び D51
痛ましい嘆きは過ぎ去り D53
心の喜び D55
疲れを癒す巡礼者 D57
彼の旗は雷雨を突いてゆく D58
忠実な夫婦はお互いに抱擁して D60
王座に座って D62
険しき星の道 D63
威厳にみちる太陽の馬 D64
苦悩 D65(未完)
朝は新鮮な空気を吸っている D67
父の聖名の祝日のために D80
ドイツ人の勝利で苦しみは去った D88
5月の歌 D130
輪舞の歌 D132(偽作)
野外の歌 D133(偽作)
アリ・ベイ、哀悼歌 D140
詩人の歌 D147
5月の歌 D199
5月の歌 D202
朝の星 D203
狩人の歌 D204
リュッツォウの勇猛なる追撃隊 D205
無限なるものへの讃歌 D232
墓 D377
世界創造の神 D986
<歌曲集>
美しき水車小屋の娘 D795
冬の旅 D911
白鳥の歌 D957
<歌曲(リート)>
バスのための歌曲のスケッチ D1a
ハガルの嘆き D5
乙女の嘆き D6
弔いの幻想 D7
父親殺し D10
亡霊の踊り D15(第1作、未完)
亡霊の踊り D15a(第2作、未完)
あの無邪気な息子が D17(習作)
嘆きの歌 D23 Op.131-3
小川のほとりの若者 D30
彼、入り来りて D33(習作)
君のみを賞ず D34(習作)
神々よ、守りたまえ D35(習作)
人生の夢 D39(未完)
哀れな子 D42(未完)
墓掘り人の歌 D44
冥府の影たち D50
憧れ D52
変容「天の炎の生命の火」 D59
永遠な静けさ D70
徳への2つの歌 D71
テクラ、霊の声 D73
今こそ用心せよ D76
潜水者 D77
波の間に D78
ドイツの戦勝に寄せて D81
アンドレアス・ジラー氏の命名日に D83
ドン・ガイゼロス D93
アデライーデ D95
慰め、エリーザへ D97
回想 D98
追憶 D99
心の近さ D100
回想 D101
祈る女 D102
パリに入ったヨーロッパの解放者 D104
遠方からの歌 D107
夕べ D108
愛の歌 D109
偉大なるものは D110
エンマに D113
ロマンツェ D115
ラウラに D116
異国から来た乙女 D117
糸を紡ぐグレートヒェン D118
夜の歌 D119
涙の中にある慰め D120
羊飼いの嘆きの歌 D121
子守歌 D122
憧れ D123
湖のほとりで D124
ゲーテの『ファウスト』の一場面 D126
バラード D134
憩いなき愛 D138
アリ・ベイの嘆き D140
月の夕べ D141
霊の呼びかけ D142
満足 D143
ロマンツェ D144(未完)
歌びと D149
ローダの亡霊 D150
墓場に寄せて D151
ミノーナ D152
彼女が頬を赤らしめるのを見たときに D153
絵姿 D155
期待 D159
川辺にて D160
ミニョンに D161 Op.19-2
恋人の近くに D162 Op.5-2
歌びとの朝の歌 D163
恋の陶酔 D164
歌びとの朝の歌 D165
アンフィアラオス D166
戦時の祈り D171
朝の星 D172
それは私だった D174
星 D176
叶わぬ恋 D177
恋の陶酔 D179
恋の憧れ D180
初恋 D182
瀕死の女 D186
愛の声 D187
自然の喜び D188
歓喜に寄せて D189
乙女の嘆き D191
小川のほとりの若者 D192
月に寄す D193
5月の歌 D194
アマーリア D195
夜鶯に D196
林檎の木に D197
嘆息 D198
夜鶯の死に D201
夢の姿 D204a
愛の戯れ D206
恋する男 D207
尼僧 D208
吟遊詩人 D209
クレールヒェンの歌(愛) D210
アーデルヴォルトとエンマ D211
尼僧 D212
夢 D213
木陰の休憩所(緑陰) D214
狩人の夕べの歌 D215
海の静寂 D215a
海の静寂 D216
コルマの嘆き D217
埋葬の歌 D218
発見 D219
夕べ D221
愛しきミンナ D222
さすらい人の夜の歌 D224
漁師 D225
最初の喪失 D226
イーデンの夜の歌 D227
イーダから D228
幻影 D229
幻覚 D230
憧れ D231
愛の精 D233
宴席の歌 D234
夕べに菩提樹の下で D235
夕映え D236
夕べに菩提樹の下で D237
月の夜 D238
誓い D240
恋のために全て D241
人質 D246
糸を紡ぐ女 D247
トカイ酒讃歌 D248
殺戮 D249(スケッチ)
ひめごと D250
希望 D251
異国から来た乙女 D252
ポンス酒の歌 D253
神と踊り子、インドの伝説 D254
鼠捕り D255
宝を掘る人 D256
野ばら D257
連帯の歌 D258
月に寄せて D259
悲しみの喜び D260
恋の神を貰うのは誰? D261
陽気さ D262
太陽への讃歌 D263
朝の接吻 D264
夕べのセレナード-リーナに D265
朝の歌 D266
太陽に寄せて D270
女好き D271
太陽に寄せて D272
曙を讃えるリラ D273
指物師の歌 D274
子供の死を悼む花輪 D275
夕べの歌 D276
ナトス滅亡後のオシアンの歌 D278
薔薇の花冠 D280
イストニアの乙女 D281
クロンナン D282
春に寄せて D283
歌「そんなに快く」 D284
恋人の憂い D285
ゼルマとゼルマール D286
祖国の歌 D287
かの人に D288
夏の夜 D289
夜明けの墓 D290
無限なるものに D291
シルリックとヴィンヴェラ D293
希望 D295
月に寄せて D296(第2作)
眼差しの歌 D297
リアーネ D298
泉のほとりの若者 D300
ランベルディーネ D301
愛の清涼飲料水 D302
恋人に D303
子守歌 D304
5月の挨拶 D305
宴席の歌 D306
星の世界 D307
恋の力 D308
妨げられた幸福 D309
憧れ D310
月に D311(未完)
ヘクトルの別れ D312
星 D313
夜の歌 D314
ローザにⅠ D315
ローザにⅡ D316
イーデンの白鳥の歌 D317
白鳥の歌 D318
ルイーゼの答え D319
満足している男 D320
ミニョン「君を知るや南の国」 D321
ヘルマンとトゥスネルダ D322
セレスの嘆き D323
竪琴弾きⅠ D325
ロルマ D327
魔王 D328
騎士ドッケンブルク D397
至福 D433
ゲーテの小説「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」による3つの竪琴弾きの歌 D478
さすらい人 D489
羊飼い D490
秘密 D491
ポンス酒に D492
お妃の夕べの歌 D495
私の父の墓の傍らで D496
アリ・ベイの嘆き D496a
夜鶯に寄せて D497
子守歌 D498
夕べの歌 D499
フィデレ D500
満足 D501
秋の歌 D502
5月の歌 D503
アンゼルモの墓で D504
宴会の歌 D507
人生の歌 D508
別れの辛さ D509
ああ、我を見捨てずに D510
嘆き D512(Anh.I-28/偽作)
愛を知る者だけが D513a(未完)
花の散った菩提樹に D514
過ぎ行く人 D515
死と乙女 D531
湖上にて D543
ガニュメート D544
若者と死 D545
歌による慰め D546
音楽に寄せて D547
タウリスのオレステス D548
マホメットの歌 D549(未完)
鱒 D550
リートのスケッチ D555
千変万化する恋人 D558
スイス人の歌 D559
金細工師 D560
雷雨のあと D561
漁師の歌 D562
グレートヒェンの祈り D564(未完)
川 D565
イフィゲニア D573
別れ D578
揺りかごの子供 D579(第2稿未完)
タルタルスの群れ D583
戦い D594
歌唱練習曲 D619
孤独に D620
花の便り D622
マリアの肖像 D623
ブロンデルからマリアへ D626
ブランカ D631
マリアの苦悩を思って D632
蝶々 D633
山々 D634
憧れ D636
希望 D637
小川のほとりの若者 D638
水鏡 D639
夕べ D645(未完)
茂み D646
さすらい人 D649
夕べの情景 D650
沈む喜び D700
森にて D708
彼女の墓 D736
薔薇 D745
小人 D771
巡礼 D778a
独りずまい D800
勝利 D805
夕星 D806
エレンの歌第3番(アヴェ・マリア) D839
墓掘人の郷愁 D842
捕らわれし狩人の歌 D843
ノルマンの歌 D846
郷愁 D851
全能の神 D852
ブルックの丘にて D853
溢れる愛 D854
再会 D855
私の心へ D860
愛らしい星 D861
真夜中に D862
神に D863(紛失)
死装束 D864(紛失)
矛盾(反抗) D865
セレナード D920
セレナード D921(D920の別稿)
泣く D926
私の揺りかごに D927
酒を飲むヴァレンシュタインの槍兵 D931
十字軍 D932
漁夫の愛の幸せ D933
生きる勇気 D937
冬の夕べ D938
星 D939
流れを下る船上で D943
秋 D945
信仰、希望、愛 D955
岩の上の羊飼い D965
鳩の便り D965A
ハプスブルク伯爵 D990(断片)
マルティンスヴィントのマクシミリアン皇帝 D990a
つかの間の楽園 D990b(消失)
山びこ D990c Op.130
航海 D990d(消失)
瞳の魔力 D990e
欺かれた裏切り者 D990f(消失)
人生の歌 AnhI-23(断片)
カイザー・フェルディナント2世 AnhI-29(偽作)
我が平安 AnhI-30
さようなら! AnhI-31
<未完成作品>
フーガ ホ短調 D41a
フーガ ホ短調 D71b
<習作>
対位法の習作 D16
フーガの練習 D965b
<編曲>
グルックの歌劇「アウリスのイフィゲニア」序曲の編曲 D.Anh.Ⅱ-2

<作品番号について>
1951年、オーストリアの音楽学者オットー・エーリヒ・ドイチュによってシューベルトの作品が整理された。作品目録整理番号のドイチュ番号(D)が作られ「ホ長調交響曲」D 729に第七番、「未完成」D 759に第八番、「大ハ長調」D 944に第九番を割り当てられ世界中で使われるようになった。
1978年、国際シューベルト協会(Internationale Schubert-Gesellschaft)、ヴァルター・デュル、アーノルド・ファイル氏等がドイチュ目録改訂の見直しをした。改訂版”Franz Schubert – Thematisches Verzeichnis seiner Werke in chronologischer Folge”(時系列作品リスト)が作られ、それによると「ホ長調交響曲」D 729 第7番は目録作品番号から外れ次のようになった。
第一番-交響曲ニ長調 D 82
第二番-交響曲変ロ長調 D 125
第三番-交響曲ニ長調 D 200
第四番-交響曲ハ短調 D 417
第五番-交響曲変ロ長調 D 485
第六番-交響曲小ハ長調 D 589「ディ・クライネ」
第七番-交響曲ホ長調 1821年未完、スケッチのみ。ヴァインガルトナー補筆作曲版は[[ウニヴェルザール出版社]]から出版、他にブライアン・ニューボールド補筆版がある。
第八番-交響曲ロ短調 D 759「未完成」
第九番-大ハ長調 D 944「ザ・グレート」
日本ではNHK・FMもドイチュ番号をアナウンスしている
《交響曲第一番》ニ長調 D 82 1813年
《交響曲第二番》変ロ長調 D 125 1814年-1815年
《交響曲第三番》ニ長調 D 200 1815年
《交響曲第四番》ハ短調 D 417「悲劇的」(唯一、シューベルト自身による副題)
《交響曲第五番》変ロ長調 D 485 1816年
《交響曲第六番》ハ長調 D 589 1817年-1818年「小ハ長調」
《交響曲第七番》ホ長調 1821年未完、スケッチのみ。
《交響曲第八番》ロ短調 D 759 1822年「未完成」。第1・2楽章のみ完成、第3楽章は冒頭のみオーケストレーション、続くトリオの最初の反復までのスケッチが残存。
《交響曲第九番》ハ長調 D 944「ザ・グレート」(大ハ長調

2.シューベルトが1822年7月3日25才のときに書いた作文「私の夢」全文
「 私には兄弟姉妹がたくさんいた。父も母も良い人だった。私はみんなを深く愛していた。ある時父が私たちをさる祝宴に連れて行ってくれた。他の兄弟たちはとても楽しんでいた。でも私は悲しかった。父は私の所へきて、高価なごちそうを味わうように命じた。でも私には出来なかったので、父は私を目の届かないところへ追い払った。私は歩みの向きを変え、愛を受け入れてくれなかった人たちへの限りない愛で胸をいっぱいにして、遠くの土地へとさすらっていった。何年もの間、私の気持ちは、この上ない苦悩と愛とに引き裂かれていた。そこへ母の死の知らせが届いた。私は一目、母に会おうと急いだ。父は悲しみに心を和らげ、私が入っていくのを拒まなかった。母の亡骸が見えた。涙があふれ出た。私たち皆が、亡き人の言うとおりに振る舞っていた古き良き昔と同じように、あのころのままの姿で母が横たわっているのが見えた。
 私たちは涙ながらに亡骸の後をついていき、棺を埋めた。この時から私は再び家に戻った。そしてある時、父はまた私を自分のお気に入りの庭園に連れて行った。父は私に気に入ったかと尋ねた。しかし私はその庭を嫌いだったので何も言えなかった。すると父はかっとなって、もう一度私にきいた。この庭が気に入ったか? 私はびくびくしながら否定した。すると父は私を殴り、私は逃げ去った。そして私はもう一度歩みの向きを変え、愛を受け入れてくれなかった人たちへの限りない愛で胸をいっぱいにして、再び遠くの土地へとさすらっていった。もう何年も何年も私は歌を歌った。愛を歌おうとすると、愛は苦悩となった。そして今度は苦悩だけを歌おうとすると、苦悩は愛になるのだった。こうして私の気持ちは、苦悩と愛とに引き裂かれていた 」
 「 そしてある時、私は一人の敬虔な乙女が近頃亡くなったという知らせを受けた。彼女の墓の周りには、たくさんの若者たちや老人たちが輪をなして、至福に包まれたようにいつまでも歩き続けていた。彼らは乙女を起こさぬように静かに話していた。
 神々しい想念が絶え間なく乙女の墓から若者たちのほうへ、きらめく火花のように飛び散っては、柔らかな音を立てていた。私もそこで輪になって歩きたいと強く願った。しかし人々は、奇蹟だけが輪に導いてくれるのだ、と言った。私はそれでもゆっくりとした足取りで、心の中で祈り、信仰を確かめて、目を伏せたまま墓のほうへと進んだ。気がついたら私は輪の中にいた。輪は不思議な音を立てていた。永遠の至福が一瞬の間に凝縮したような感じがした。父とも和解し、愛情を抱いて会った。父は私を腕の中に抱いて泣いた。でも私はもっと泣いた 」

1938年にアルノルト・シェーリングの論文「 フランツ・シューベルトのロ短調交響曲『未完成』とその秘密 」で「未完成交響曲」がシューベルトの作文「私の夢」の音楽化であり、したがって未完成ではなく2楽章で完成したものと言っている。
 指揮者アーノン・クールはウィーン交響楽団との旧録音においては、この説を全面的に採用し、作文に即して曲を解釈したらしい。

5.初演


初演
歌曲集《美しき水車小屋の娘》D795 1856年5月 ウィーン。
歌曲集《冬の旅》D911 1828年1月10日、第一曲のみ ウィーン楽友協会。
歌曲集《白鳥の歌》D957 1829年1月30日、ウィーン楽友協会。
リート《糸を紡ぐグレートヒェン》D118 1823年2月20日、ウィーン楽友協会。
リート《羊飼いの嘆きの歌》D121-b 1819年2月28日、ホテル「ツーム・レーミッシェン・カイザー」(ウィ-ン)。
リート《たゆみなき愛》D138 1824年1月29日、ウィーン音楽愛好者協会(ゲゼルシャフト・デア・ムジークフロインデ)。
リート《魔王》D328 1821年1月25日(公開初演)、ウィーン楽友協会。
リート《さすらい人》D489 1821年11月18日、ホテル「ツーム・レーミッシェン・カイザー」(ウィ-ン)。
リート《ズライカⅡ》D717 1825年6月9日、ベルリン、ヤゴルシャー・ザール。
リート《若い尼》D828 1826年12月28日、ウィーン楽友協会。
リート《全能》D852 1828年3月26日、ウィーン楽友協会。
リート《岩の上の羊飼い》D965 1830年3月、リガ。
弦楽四重奏曲《第十番変ホ長調》D87 1813年暮れ、シューベルトの自宅で私的。
弦楽四重奏曲《第八番変ロ長調》D112 1814年秋、自宅。1864年2月23日(公開初演)、演奏:ヘルメスベルガー四重奏団、ウィーン楽友協会。
弦楽四重奏曲《第九番ト短調》D173 1815年自宅、私的。1863年11月29日(公開初演)、ヘルメスベルガー四重奏団、ウィーンムジークフェライン・ザール。
弦楽四重奏曲《第十一番ホ長調》D353 1816年私的。
弦楽四重奏曲《第十二番ハ短調》「四重奏断章」D703 1821年私的。1867年3月1日(公開初演)、演奏:ヘルメスベルガー四重奏団、ウィーンムジークフェライン・ザール。
弦楽四重奏曲《第十三番イ短調》「ロザムンデ」D804 1824年3月14日、演奏:シュパンツィヒ四重奏団、ウィ-ン。
弦楽四重奏曲《第十四番ニ短調》「死と乙女」D810 1826年2月1日(私的)、ヨーゼフ・バルト邸、ウィ-ン。1833年3月12日(公開初演)、カール・モーザー四重奏団、ベルリン。
弦楽四重奏曲《第十五番ト長調》D887 1850年12月8日(全曲公開初演、ヘルメスベルガー四重奏団、ウィ-ン。
弦楽三重奏曲《変ロ長調》D581 1869年2月15日、ロンドン、聖ジェームス・ホール。
ヴァイオリン・ソナタ《第四番イ長調》D574 1864年3月6日(公開初演)、ウィーン楽友協会ホール。
ヴァイオリンとピアノのための幻想曲《ハ長調》D934 1828年2月7日、ウィ-ン。
ヴァイオリンとピアノのためのロンド《ロ短調》D895 1827年早春、アルタリアの別荘。
アルペッジョーネ・ソナタ《イ短調》D821 1724年暮れ、ウィ-ン。
ピアノ・ソナタ《第十六番イ短調》D845 1525年8月25日以前。
幻想曲《ハ長調》D760 1832年頃、ウィ-ン・ムジークフェラインザール。
幻想曲《ヘ短調》D940 1828年5月9日(私的)、シューベルトとF・ラハナーの連弾。
歌劇《アルフォンゾとエストレルラ》D732 1854年6月24日、指揮:F・リスト、ワイマール。
歌劇《フィエラブラス》D796 1897年2月9日(全曲初演)、カールスルーエ
ミサ曲《第二番ト長調》D167 1815年春、リヒテンタール教会。
ミサ曲《第六番変ホ長調》D950 1829年10月4日、ライターマイヤー:指揮、アルザーグルントの三位一体教会。
宗教曲《スターバト・マーテルへ短調》D383 1833年3月24日、ウィ-ン。
合唱曲《小さな村》D598 1821年3月7日(無伴奏)、ウィーン、ケルントナートーア劇場。
合唱曲《水上を飛ぶ霊たちの歌》D714 1821年3月7日、ウィーン、ケルントナートーア劇場。
《交響曲第一番ニ長調》D82 1881年2月5日(全曲公開初演)、クリスタル・パレス。
《交響曲第二番変ロ長調》D125 1877年10月20日(公開初演)、クリスタル・パレス。
《交響曲第三番ニ長調》D200 1881年2月19日(全曲公開初演)、オーガスト・マンス:指揮、クリスタル・パレス。
《交響曲第四番ハ短調》「悲劇的」D417 1849年11月19日(公開初演)、ライプツィヒ。
《交響曲第五番変ロ長調》D485 1841年10月17日、ウィーン、ヨーゼフ・シュタット劇場。
《交響曲第六番ハ長調》D589 1828年12月14日、シュミーデル:指揮、ウィーン、ドゥテンザール。
《交響曲第八番ロ短調》D759<未完成> 1865年12月17日、ヨハン・ヘルベック:指揮、ウィーン、ムジークフェラインザール。
《交響曲第九番ハ長調》D944<大ハ長調・グレート> 1839年3月21日、メンデルスゾーン:指揮、ライプツィヒ・ゲヴァント・ハウス。
劇音楽《ロザムンデ》D797 1823年12月20日、アン・デア・ウイーン劇場。
《イタリア風序曲》D591 1830年3月21日、フェルディナント(兄):指揮、ウィーン、ラントハウスザール。 
八重奏曲《ヘ長調》D803 1823年3月頃(私的)、ウィーン、トライヤー伯爵邸。1827年4月16日(公開初演)、シュバンツィヒ四重奏団、ウィ-ン。
弦楽五重奏曲《ハ長調》D956 1850年11月17日、ヘルメスベルガー四重奏団とヨーゼフ・ストランスキーのチェロ、ウィーン。

6.関連動画


《糸紡ぐグレートヒェン Gretchen am Spinnrade》
メゾソプラノ(Ms.)ジェイミーバートンJamie Barton

《弦楽四重奏曲 第1番 ハ短調(変ロ長調) 》D18  
ウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団
 第1ヴァイオリン:アントン・カンパー
 第2ヴァイオリン:カール・マリア・ティッツェ
 ヴィオラ:エーリヒ・ヴァイス
 チェロ:フランツ・クヴァルダ
録音:1952年
1811年14歳の作品。(1812年の作品ともいわれている)

《弦楽四重奏曲 第12番 ハ短調》 D703「断章」
《String Quartet Nr.12 in c,》 D-703 “Quartettsatz”
Amadeus Quartet

《弦楽四重奏曲 第13番 イ短調》D804「ロザムンデ」  
Carmel Quartet –
Rachel Ringelstein / Tali Goldberg / Yoel Greenberg / Tami Waterman
1824年3月14日に、ベートーヴェン最晩年の弦楽四重奏曲の初演者として歴史に名を残したシュパンツィヒ弦楽四重奏団によって初演された。

《弦楽四重奏曲 第14番 ニ短調》D810「死と乙女」   
クァルテット・インテグラ
1stvl Kyoka Misawa 三澤響果
2nd Rintaro Kikuno 菊野凜太郎
Va Itsuki Yamamoto 山本一輝
Vc Anri Tsukij 築地杏里
Recording: March 14th, 2021 in Dai-ichi Seimei Hall
第二楽章が自身の歌曲《死と乙女》を引用していることから「死と乙女」と呼ばれている。

《弦楽四重奏曲 第14番 ニ短調》D810「死と乙女」
String Quartet No.14 in D minor, D.810
Alban Berg Quartett

《弦楽四重奏曲 第15番 ト長調》D887
クァルテット・インテグラ
1st : Kyoka Misawa 三澤響果
2nd : Rintaro Kikuno 菊野凜太郎
va : Itsuki Yamamoto  山本一輝
vc : Anri Tsukiji  築地杏里
第102回桐朋室内楽演奏会 in くすのきホール
自筆譜に書き込まれた日付によれば、1826年6月20日から30日にかけて作曲され完成している。遺作

《弦楽五重奏曲 ハ長調》D956
<オーランド室内楽10周年フェスティバル>
Norbert Brainin – Primarius Amadeus Quartet
Earl Carlyss – second violin Juilliard Quartet
Piero Farulli – viola Quartetto Italiano
Stefan Metz – cello Orlando Quartet
Valentin Berlinsky – cello Borodin Quartet
オランダ、ケルクラーデ

《弦楽五重奏曲ハ長調》 D956      
ピンカス・ズッカーマンほか
Pinchas Zukerman and WDR Soloists play Schubert Quintet in C, D.956; Op.163 – 1st Mvt

《スヴャトスラフ・リヒテル シュールトを弾く》
Sviatoslav Richter – Schubert (Aldeburgh, 1977)
オールドバラ音楽祭 1977年9月27日
Sonata D 566
Scherzo No. 2, D 593
Andante D 604
4 Landler D 366
Allegretto D 915
Sonata D 894
ENCORE:
Sonata D 894 ( only the last movement )

《ピアノソナタ 第21番 変ロ長調》D960
《Sonata in B-flat Major, 》D960 
Arthur Rubinstein
Warsaw, Poland Live in 1966

《ピアノソナタ 第16番 イ短調》 D845  37:46
Piano Sonata No 16 D845 A minor
アルフレート・ブレンデル(ピアノ)Alfred Brendel

《ピアノ五重奏曲イ長調》 D667 鱒(ます)
Das Forellen Quintett/Trout Quintet D667 from Esbjerg EnergiMetropol

《ピアノ五重奏曲イ長調》 D667 鱒(ます)
F. Schubert – Piano Quintet in A major, D667 “Trout Quintet (Die Forelle)”

《ハガルの嘆き》 D5
グンドゥラ・ヤノヴィッツ(ベルリン生まれのオーストリアのオペラ、オラトリオ、コンサート歌手)

《野ばら》   
ペーター・シュライヤー
Schubert Heidenröslein Peter Schreier

《野ばら》     
アーリーン・オジェ(米国:ソプラノ歌手、1939年9月13日生まれ~1993年6月1お日没)
“Heidenröslein” Arleen Auger Salzburg 11 May 1978

《春に》D 882    
フィッシャー=ディスカウ  
Im Frühling D882- Fischer-Dieskau / Moore 1957

《音楽に寄せて》
エリーザベート・シュヴァルツコップ  ジェラルド・ムーア(Pf)
“An die Musik”  Soprano Elisabeth Schwarzkopf Gerald Moore(Pf) From a 1961 BBC broadcast

《菩提樹》
“Der Lindenbaum” – Winterreise Eilika Wünsch – Soprano / Bernhard Wuensch – Piano

《菩提樹》   
フィッシャー=ディスカウ
Dietrich Fischer Dieskau Der Lindenbaum Die Winterreise

《菩提樹》   
トーマス・ハンプソン
Thomas Hampson sings Schubert’s “Der Lindenbaum”

歌曲《魔王》   
フィッシャー=ディスカウ
Schubert – Der Erlkönig / Baritone: Dietrich Fischer-Dieskau.

歌曲《魔王》   
ショルト・カイノック(pf) / ダニエル・ノーマン(T)
Franz Schubert: Erlkönig  (pf)Sholt Kynoch / Daniel Norman(T)

《アヴェ マリア》
エリザベス・クレマン ドレスデン国立歌劇場合唱団
指揮:ペーター・シュライヤー / ドレスデン国立歌劇場管弦楽団
Schubert: Ave Maria – Elisabeth Kulman / Chor der Sächsischen Staatsoper
Sächsische Staatskapelle Dresden / Conductor: Peter Schreier

《糸を紡ぐグレートヒェン》 Gretchen am Spinnrade 作詩:ゲーテ
エリー・アーメリング
Elly Ameling,  Dalton Baldwin(Pf.)

歌曲集《美しき水車小屋の娘》
フィッシャー=ディスカウ

歌曲集《冬の旅》 
フィッシャー=ディスカウ
“Winterreise” Dietrich Fisher-Dieskau – Alfred Brendel

歌曲集《冬の旅》
Schubert: Winterreise – Thomas Oliemans & Malcolm Martineau – Live concert HD

《楽興の時》D780 Moments Musicaux,
Six moments musicaux, D 780 Alfred Brendel

「Schubert Lieder」
Jessye Norman.
1. Der Musensohn, Op.92-1, D.764
2. Ganymed, Op.19-3, D.544
3. Die Allmacht, Op.79-2, D.852
4. Der Tod und das Madchen, Op.7-3, D.531
5. Erlkonig, Op.1, D.328
6. Gretchen am Spinnrade, Op.2, D.118
7. An die Natur, D.372
8. Der Zwerg, Op.22-1, D.771
9. Rastlose Liebe, Op.5-1, D.138
10. Auf dem See, Op.92-2, D.543
11. Auflosung, D.807
12. Suleika I, Op.14-1, D.720

《軍隊行進曲》
Schubert Fantasia 4 manos Lang Lang Baremboim, pianoforte

《交響曲第一番ニ長調》 D 82  
シャーンドル・ヴェーグ指揮 / カメラータ・アカデミカ・ザルツブルク
Schubert Symphony No.1 D82  Sandor Vegh Dirigent  Camerata Academica des Mozarteums Salzburg

《交響曲第二番変ロ長調》 D125  
ホセ・フェレイラ・ロヴォ指揮/ビャウィストク・ポドラシェ歌劇場フィルハーモニー管弦楽団 ヨーロッパ芸術センター
F. Schubert – II Symfonia B-dur D125/F. Schubert – Symphony No. 2 in B major, D 125 
Opera i Filharmonia Podlaska Europejskie Centrum Sztuki/The Podlasie Opera and Philharmonic European Art Centre.

《交響曲第二番変ロ長調》 D125 
シャルル・ミンシュ ボストン交響楽団 1949年
Symphony n°2 D.125
Boston Symphony Orchestra
Charles Munch
Studio recording, Boston, 1949

《交響曲第二番変ロ長調》 D125  指揮:サヴァリッシュ
指揮:ヴォルフガング・サヴァリッシュ / シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1967年 ドレスデン [フィリップス]

《交響曲第三番ニ長調》 D.200 指揮:サヴァリッシュ
指揮 ヴォルフガング・サヴァリッシュ シュターツカペレ・ドレスデン 1967年録音

《交響曲第三番ニ長調》 D.200
指揮:ロリン・マゼール ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 録音:1962年3月
Lorin Maazel (1930-2014), Conductor Berlin Philharmonic Orchestra
Rec. March 1962

《交響曲第四番ハ短調》 D417「悲劇的」     
ニコラウス・アーノンクール指揮 / ウィーン・フィル
Symphony N°4 F Schubert D° N Harnoncourt Vienna Ph Orch

《交響曲第四番ハ短調》 D417「悲劇的」
ナタリー・シュトゥッツマン:指揮(Nathalie Stutzmann,は、フランスのコントラルト歌手、指揮者。)
OSESPサンパウロ州交響楽団
2016年9月17日、ブラジルのサラサンパウロ:録音

《交響曲 第五番 変ロ長調 》D485 音声のみ
ブルーノ・ワルター指揮 Bruno Walter
コロンビア交響楽団 Columbia Symphony Orchestra
1960年録音

《交響曲 第五番 変ロ長調 》D485 音声のみ
カール・ベーム ベルリン・フィルハーモニー
Symphony n°5 D.485
Berliner Philharmoniker
Karl Böhm
Studio recording, Berlin, II & III.1966

《交響曲 第五番 変ロ長調 》D485
ロリーン・マゼール バイエルン放送交響楽団
Bavarian RSO Lorin Maazel

《交響曲第六番小ハ長調》 D589      
アントネッロ・マナコルダ指揮 / フランクフルト放送交響楽団
Schubert: 6. Sinfonie D 589 ∙ hr-Sinfonieorchester ∙ Antonello Manacorda

《交響曲第七番ホ長調》 D 729 (ブライアン・ニューボールドによる)
Symphony No 7 in E major D 729
アンドルー・マンゼ DR放送交響楽団

《交響曲第七番ホ長調》 D 729
Symphony No.7 in E, D.729
ハインツ・レーグナー ベルリン放送交響楽団

《交響曲第八番ロ短調》 D759「未完成」 指揮:ショルティ 
ショルティ シカゴ響 1979年12月5-6日
Sir Georg Solti
Chicago Symphony Orchestra
5-6 Dec. 1979

《交響曲第八番ロ短調》 D759「未完成」 指揮:アバド 
クラウディオ・アバド指揮 / ベルリン・フィル
SCHUBERT INCOMPIUTA – BERLINER ABBADO 1989

《交響曲第八番ロ短調》 D759「未完成」指揮:ミハイル・ユロフスキ
Michail Jurowski, director Orquesta Sinfónica de Galicia
Grabación realizada el 27 de marzo de 2015 en el Palacio de la Ópera de A Coruña, Galicia.

《交響曲第八番ロ短調》 D759「未完成」 
Orchestra Sinfonica “Gruppo d’Archi Veneto”
Direttore Maffeo Scarpis
Concerto di S.Cecilia
Teatro Comunale Treviso
27 novembre 2018

《交響曲第八番ロ短調》 D759「未完成」 音声のみ 指揮:サヴァリッシュ
Wolfgang Sawallisch / Staatskapelle Dresden
Studio recording, Dresden, 1967

《交響曲第八番ロ短調》 D759「未完成」 音声のみ 指揮:カラヤン
ヘルベルト・フォン・カラヤン ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
ザルツブルク音楽祭 1987

《交響曲第九番》 D944「ザ・グレート」又は「大ハ長調」 指揮:カール・ベーム
カール・ベーム(指揮)ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1973年ウィーン楽友協会大ホール
Karl Böhm
Wiener Philharmoniker
1973, Musikverein Grosser Saal, Wien

《交響曲第九番》 D944「ザ・グレート」又は「大ハ長調」 指揮:サヴァリッシュ
Published in 1840 as “Symphony No.7 in C Major”
Wolfgang Sawallisch (conductor) / Staatskapelle Dresden
1967

《交響曲第九番》 D944「ザ・グレート」又は「大ハ長調」 指揮:小澤征爾
小澤征爾/サイトウ・キネン・オーケストラ
1996年8月31日 長野・松本文化会館

7.家系


高祖父の父:カスパー・シューベルト Kaspar Schubert, (1593年-1657年3月26日)(Birth of Kaspar Schubert ”Waltersdorf”, Hanušovice, Šumperk District, Olomouc Region, Czech Republic)モラビア地方のオロモウツ州シュムペルク区域ハヌショヴィツェのヴァルタースドルフに生まれた。
モラビア地方のオロモウツ州シュンペルク地区マラーモラヴォのノイドルフで没した。(Death of Kaspar Schubert at “Waltersdorf”, Hanušovice, Šumperk District, Olomouc Region, Czech Republic)。
高祖父の母:不詳。

高祖父:カスパーの二男、クリストフ・シューベルト Christoph Schubert, (1632年12月5日-1693年)(Birth of Christoph Schubert ”Waltersdorf”, Hanušovice, Šumperk District, Olomouc Region, Czech Republic)は、モラビア地方のオロモウツ州シュムペルク区域ハヌショヴィツェのヴァルタースドルフに生まれた。
クリストフは隣村のモラビア地方オロモウツ州シュンペルク地区マラーモラヴォ、ノイドルフで農夫となった。
1657年11月28日息子Andreas schubertが生まれた。
1678年12月17日息子Johannes Schubert(シューベルトの曾祖父)が生まれた。
クリストフ Christoph Schubert,は九人の子をもうけて没した。(Death of Christoph Schubert at “Neudorf”, Malá Morava, Šumperk District, Olomouc Region, Czech Republic)。
高祖母:シビュラ・シューベルト Sibille Schubert, (Bührend) (推定1607年〜1667年-1678以降) (after 1678 ”Neudorf”, Malá Morava, Šumperk District, Olomouc Region, Czech Republic)。

曾祖父:クリストフの末っ子、ヨハネス・ハンス・シューベルト Johannes Hans Schubert, ((1678年12月17日-1760年11月27日81歳)(1678年12月17日Birth of Johannes Schubert”Neudorf”, Malá Morava, Šumperk District, Olomouc Region, Czech Republic)モラビア地方のオロモウツ州シュンペルク地区マラーモラヴォのノイドルフで生まれ、農業と牧畜を営み一家の生活はよくなった。
1704年息子 Josef schubertが生まれた。
1723年5月6日息子Karl Schubert, Neudorf, Neusiedl am See District, Burgenland, Austria(シューベルトの祖父)が生まれた。
推定1683年〜1743年(Birth date) 息子Andreas schubertが生まれた。
推定1683年〜1743年(Birth date) 息子Johann schubertが生まれた。
1760年11月27日Death of Johannes Schubert at “Neudorf”, Malá Morava, Šumperk District, Olomouc Region, Czech Republic、同地で没した(60歳)。Death:1760年11月27日 (81)”Neudorf”, Malá Morava, Šumperk District, Olomouc Region, Czech Republic。
曾祖母:エリザベス・シューベルト Elisabeth Schubert, (Birthdate: 推定1653年〜1713年)、Death:1751年7月5日以前。

祖父:カール・シューベルト Karl Schubert, (1723年5月6日-1787年12月16日64歳)オーストリア国ベルゲンラント州ノイジードアムゼー地区ノイドルフ(Birthplace: Neudorf, Neusiedl am See District, Burgenland, Austria)村に生まれた。
シュタイアーマルク州ヴァイツの町で歿した。Death:1787年12月16日 (64) Neudorf, Weiz, Steiermark, Austria。
1754年にスザンナ・ミュックと結婚し、その後義父の農場を買った。カールはノイドルフで人望厚く、時にはある種の下級管理者のような仕事をこなしていた。十三人の子どもは四人を残して幼い時に亡くなった。
1755年4月3日息子 Johann Karl Schubert Neudorf, Altsdat, Moraviaが生まれた。
カールの長男カール(Johann CARL Alois Schubert,(1755-1804)は成人し農夫になった。カールは三十歳前に農場を手放した。兄のカールがウィーンに出たのは、シューベルト家の知り合いで、隣村のベッカーがウィーンに出て、郊外のレオポルトシュタットで教師をはじめ、ある程度成功を収めたのでテオドールの兄カールにウィーンに出て来ないかと声をかけたのが始まりである。カールはベッカー亡きあと後継者となりベッカー未亡人アンナと結婚した。
1757年1月6日息子 Franz Anton schubertが生まれた。
1763年7月11日息子 Franz Theodor Florian Schubert(シューベルトの父)Vysoká, Malá Morava, Šumperk District, Olomouc Region, Czech Republicが生まれた。
1774年2月12日息子 Johann Christian Schubertが生まれた。
1775年10月4日 Johann Josef schubertが生まれた。
祖母:スザンナ・シューベルト(ミュック) Susanna Schubert, (Mück) (1733年1月19日-1806年8月2日73歳)オーストリア国ベルゲンラント州ノイジードアムゼー地区ノイドルフ村に生まれた。Birt:1733年1月19日Birthplace:Neudorf, Austria。
同地で没した。1806年8月2日73歳、Death of Susanna Schubert Neudorf, Austria。

:フランツ・テオドール・シューベルト Franz Theodor Florian Schubert,
(1763年7月11日-1830年7月9日66歳)オーストリア国ベルゲンラント州ノイジードアムゼー地区ノイドルフ村の農家の息子として生まれた。
1830年7月9日ウィ-ンで没した。
1783年、メーレンで助教師をしていたテオドール(ニ十歳)は、兄カールの誘いでウィーンに出て来てベッカーの助手になった。傍らウィーン大学の哲学科に一学期ほど籍をおき勉強した。
1784年、エリーザベト・フィーツと知り合う。
1785年1月17日、テオドール(21歳)はエリーザベト・フィーツ(28歳)と結婚した。
1785年3月8日、長兄 イグナーツ・フランツ・シューベルトIgnaz Schubert, Vienna, Austriaが生まれた。Death:1844 (58-59) Vienna, Austria。ウィーンで歿。
1786年、テオドールは、ウイーン北西のヒンメルプフォルトグルントで教師に任命され、私設学校経営の認可が下りた。
1786年3月1日長姉 エリーザベト・シューベルト Elisabeth Schubert, Vienna, Austriaが生まれた。Death:1788年8月13日2歳で没。
1786年ハウプトシュトラーゼ七二番地(当時)にある「ツム・ローテン・クレプス(赤蟹館)」と呼ばれる家に引っ越した。ここは後に通りの名称と家の番号が変わり「ヌスドルフシュトラーセ語五四番地」となる。当時この家は十六戸に仕切られ、それぞれに居間と台所がある独立した住居になっていた。両親はその中の二戸を使っていた。テオドールは、実父の相続分から校舎を購入し、数人の教師を雇い入れ、学校を経営した。公的な扶助は若干受けていたが、生徒の授業料により経費をまかなっていた。貧しい家庭からは授業とらないことが評判を呼び、200人を超える生徒を集めた。
1787年4月23日二兄 カール・シューベルト Birth of Karl Schubert, Vienna, Austriaが生まれた。Death:1788年2月06日 (9ヶ月) Vienna, Austria。ウィーンで歿。
1788年1月6日二姉 フランチスカ・マグダレーナI. IBirth of Franziska Magdalena Schubert,I. Vienna, Austriaが生まれた。Death:1788年8月13日0歳で没。
1789年7月5日三姉 フランチスカ・マグダレーナII. IIBirth of Franziska Magdalena Schubert,II. Vienna, Austriaが生まれた。Death:1792年1月1日2歳で没。
1790年8月10日三兄 フランツ・カール I・シューベルトBirth of Franz Karl I Schubert, Vienna, Austriaが生まれた。Death:1790年9月19日0歳で没。
1791年7月11日四兄 アンナ・カロリーナ・シューベルトBirth of Anna Karoline Schubert, Vienna, Austriaが生まれた。Death:1791年7月29日0歳で没。
1792年6月29日五兄 ペトルス・シューベルトBirth of Petrus Schubert, Vienna, Austriaが生まれた。Death:1793年1月14日0歳で没。
1793年9月16日六兄 ヨーゼフ・シューベルト Josef Schubert,が生まれた。Death:1798年10月18日天然痘にかかり5歳で没。
1794年10月18日七兄 フェルディナント・ルーカス・シューベル Ferdinand Lukas Schubert,が生まれた。Death:1859年2月26日64歳で没。
1795年11月5日八兄 フランツ・カール・シューベルト Franz Karl II Schubert,が生まれた。Death:1855年5月20日59歳で没。
1797年1月31日フランツ・ペーター・シューベルト Franz Peter Schubert生まれた。Death:1828年11月19日31歳で歿。
1799年12月17日次妹 アロイジア・マグダレーナ・シューベルト Aloisia Magdalena Schubert,が生まれた。Death:1799年12月18日0歳で没。
1801年9月17日次妹 次妹:マリア・テレジア・シューベルト Maria Theresia Schneider, (Schubert,)が生まれた。Death:1878年頃77才で没。
1801年秋、学校経営が順調に進み、生徒も増加したので、それまでの家の近くのヒンメルプフォルトグルント十番地、現ゾイレンガッセ三番地の「ツム・シュヴァルツェン・レッセル」(黒馭者館)を買い、引っ越した。
1804年、兄カールが死ぬと、未亡人となったマグダレーナ(妻:エリーザベトの妹)と二人の遺児を引き取って世話をする。エリーザベトの兄も一時ここに身を寄せていた。
1812年5月28日妻:エリーザベトは腸チフスにかかり他界する。
1813年4月25日、アンナ・クライエンベックと再婚。五人の子をもうけ二男二女、長男:アンドレアス・シューベルト(財政事務官)、二男:アントン・シューベルト(神父)、長女:マリー・シューベルト(21歳で歿)、二女:ヨゼファ・シューベルト(シューベルト晩年の世話をした)が成長した。
1817年ウィ-ン郊外リヒテンタールと同じ地域の町の中心部に近いロッサウの学校長に栄転した。

:マリヤ・エリーザヴェト・フィーツElisabeth Katharina Schubert, (Vietz) (1756年10月30日オーストリア領シュレージエン地方のツックマンテルに生まれた)。彼女の父フランツ・ヨハンフィーツは名の知られた錠前・鉄砲組合の親方で組合長であった。そのころオーストリアとプロイセンは、王位継承戦争と七年戦争を継続して戦っておりツックマンテルが戦乱に巻き込まれたとき、彼はその難曲をしのぐために組合の公金に手を付けてしまった。刑事裁判にかけられたが温情により無罪となったが、地元に居られなくなり、一家は夜逃げ同然、ウィーンにやって来た。彼女の母は心労のあまり、その途上で息絶え、父もウィーンに着き間もなく息を引き取った。残された息子フェリックスと娘二人マリア・エリーザベト・カテリーナとマリアマグダレーナはウィーン郊外のリヒテンタールに居つき、息子は職工となり娘二人は奉公に出て生計を立てることになった。エリザベトはその時15歳だった。エリザベトは結婚前、リヒテンタールで家政婦をしていた。テオドールと1785年に結婚。エリザベトは、1812年5月28日55歳、ウィ-ンで没した。
継母:アンナ・マティアス・シューベルト Anna Schubert, (Kleyenbock)Birthdate:1783年6月01日Birthplace:Vienna, Vienna, Austria 。Death:1860年1月25日76歳 Vienna, Austria。ウィーンで歿。

長兄:イグナーツ・フランツ・シューベルト Ignaz Schubert, (1785年3月8日-1844年)教師。父の死後、父のロッサウの小学校の経営を引き継いだ。
シューベルトにピアノの手ほどきをした。家庭内の演奏会では第二ヴァイオリンを担当した記録がある。58か59歳で歿。
長姉:エリーザベト・シューベルト Elisabeth Schubert, (1786年3月1日-1788年8月13日)2歳で歿。
二兄:カール・シューベルト Karl Schubert, (1787年4月23日-1788年2月06日)0歳で歿。
二姉:フランチスカ・マグダレーナ I・シューベルト Franziska Magdalena Schubert, I (1788年1月6日-1788年8月14日)0歳で歿。
三姉:フランチスカ・マグダレーナ II・シューベルト Franziska Magdalena Schubert, II (1789年7月05日-1792年1月1日)2歳で歿。
三兄:フランツ・カール I・シューベルト Franz Karl I Schubert, (1790年8月10日‐1790年9月19日)0歳で歿。
四兄:アンナ・カロリーナ・シューベルト Anna Karoline Schubert, (1791年7月11日-1791年7月29日)0歳で歿。
五兄:ペトルス・シューベルト Petrus Schubert, (1792年6月29日-1793年1月14日)0歳で歿。
六兄:ヨーゼフ・シューベルト Josef Schubert, (1793年9月16日-1798年10月18日)5歳で歿。
七兄:フェルディナント・ルーカス・シューベル Ferdinand Lukas Schubert,(1794年10月18日-1859年2月26日)音楽教師、オルガン奏者、作曲家。
1838年音楽院でオルガンの名誉教授。1851年セントアンナ普通小学校の校長。彼は彼の作曲と彼の弟フランツシューベルトの全作品を出版することにおける彼の役割で有名Wikipedia site:japan2.wiki三歳年下の弟に最も影響力を持ったよき導き手。シューベルト同様、父からヴァイオリンの手ほどきを受け、ホルツァーについた。ヨーゼフ・ドレスラーに作曲を学んだ。オルガニスト、合唱指揮、声楽家(テノール)、ヴァイオリニストとして高い技量を示した。ウィーン教会学校のオルガン科の教授を勤めた。父親に忠実に教師としての仕事を引き継ぎ、教頭や校長も勤めた。《レクイエム》ト短調(作品9)などを作曲している。64歳で歿。
八兄:フランツ・カール・シューベルト Franz Karl II Schubert,(1795年11月5日-1855年5月20日)画家。59歳で歿。
本人:フランツ・ペーター・シューベルト Franz Peter Schubert, (1797年1月31日-1828年11月19日)31歳で歿。
次妹:アロイジア・マグダレーナ・シューベルト Aloisia Magdalena Schubert, (1799年12月17日-1799年12月18日)0歳で歿。
次妹:マリア・テレジア・シューベルト Maria Theresia Schneider, (Schubert,) (1801年9月17日-1878年頃)77歳で歿。
父と義母マティアス・シュレーダーとの間の子
アンドレアス・テオドールス・シューベルト Andreas Theodor Schubert, (1823年11月07日-1893年4月20日)69歳で歿。
参考:「Historical records matching Franz Theodor Florian Schubert」https://www.geni.com/people/Franz-Schubert/6000000015691292044

参考文献:「シューベルト」、パリー・カーソン・ターナー、訳:橘高弓枝、偕成社、発行1998年 / 「フランツ・シューベルト」、ハンス・ヨアヒム・ヒンリセン、訳:堀朋平、ARTES、発行2017年 / 「シューベルトとウィーン」、チャールズ・オズボーン、訳:岡美知子、音楽之友社、発行1998年 / 「シューベルト生涯と作品」、藤田晴子、音楽之友社、発行2002年 / 名曲解説ライブラリー / 「シューベルト」、村田千尋、音楽之友社、発行2018年 / 「シューベルト」、音楽之友社、音楽之友社、発行2003年 / 「クラシック作曲家辞典」、中河原理監修・フェニックス企画編 、東京出版堂、発行平成4年 / 「音楽史(音楽講座)」、堀内敬三著、 音楽之友社、発行昭和31年 / 「偉大なる作曲家のためのカルテ」、五島雄一郎著 、医療ジャーナル社、発行2012年 / 「名曲辞典」、属啓成著、音楽之友社、発行昭和44年 / 「シューベルト」、前田昭雄、新潮文庫、発行平成五年 /  「シューベルトの歌曲をたどって」、フィッシャウ=ディスカウ著、訳:原田茂雄、白水社、発行1976年 / 「https://ja.wikipedia.org/wiki/フランツ・シューベルト」、最終アクセス2019年8月 / 「http://classic.music.coocan.jp/sym/schubert/schubert8.htm」、最終アクセス2019年8月 / 「http://classic.music.coocan.jp/sym/schubert/schubert8.htm」、最終アクセス2019年8月 / 「we-love-classic.com/kaisetu/koukyoukyoku/k-koukyou-schubert-sym7.html」、最終アクセス2019年8月 /     「wikipedia」、最終アクセス2021年10月 / 「dictionary/composer/alkan」、最終アクセス2019年8月 / 「https://imslp.org/wiki/Category:Schubert,_Franz」、最終アクセス2021年10月 / 「https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88」、2021年10月 / 「https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E6%A5%BD%E6%9B%B2%E4%B8%80%E8%A6%A7」、2021年10月 / 「http://schubertiade.info/3jiten/yuujinn.html」、2021年10月 /  www.austria.info/jp/art-and.../travel-through-austria、最終アクセス2021年10月 / 「Franz Theodor Florian Schubert」、https://www.geni.com/people/Franz-Schubert/6000000015691292044、最終アクセス2021年11月 / ウィーン音楽文化史(上)、渡辺護著作、音楽之友社、刊行1989年、271-283頁 / 

生年代:1797年 寛政9年

没年代:1828年 文政11年

日本の元号:寛政~享和~文化~文政

時代:江戸時代

日本の出来事:1797年1月31日 フランツ・シューベルト  誕生
                   
1797 寛政9年 ◎ロシア人が択捉島に上陸

1798 寛政10年 ◎林家が経営していた湯島聖堂を官学「昌平坂学問所」に改める。 ◎本居宣長の「古事記伝」完成。 ◎本居宣長の「古事記伝」完成。 ◎幕臣で探検家の近藤
重蔵が択捉島に「大日本恵土呂府」の標柱を建て日本領土であると宣言

1799 寛政11年 ◎江戸幕府が北方の防備を固めるため松前藩の東蝦夷地を仮直轄地とした。 ◎高田屋嘉兵衛、択捉航路を開く

1800 寛政12年 ◎伊能忠敬、蝦夷地の測量開始

1801 享和元年 ◎日本で「鎖国」という言葉が使われる。 ◎富士元十郎ウルップ島に大日本属島の標柱を建つ

1802 享和2年 ◎十返舎一九が「東海道中膝栗毛」を出版、ベストセラーになる。 ◎幕府が蝦夷地奉行〔後の函館奉行)を設置

1805 文化2年 ◎華岡青洲がマンダラゲ配合の内服全身麻酔剤「通仙散」を発明、麻酔を使って乳がん手術に成功

1806 文化3年 ◎浮世絵師喜多川歌麿歿(1753年頃生)

1807 文化4年 ◎隅田川にかかる永代橋崩落死者多数。 ◎曲亭馬琴が「椿説弓張月」前編出版

1808 文化5年 ◎江戸湾沿岸の下田、浦賀に砲台設置。 ◎間宮林蔵が樺太を探検。間宮海峡確認。 ◎長崎港にイギリス軍艦フェートン号侵入

1809 文化6年 ◎間宮林蔵一行が樺太・大陸間に海峡を確認する(間宮海峡)。 ◎徳川実記〔徳川家の歴史)の編纂が始まる

1810 文化7年 ◎堀田正睦誕生・五代下総佐倉藩主幕府老中首座(1864年4月26日歿)。 ◎水戸家、「大日本史紀伝」を朝廷に献上

1811 文化8年 ◎長唄「越後獅子」初演。 ◎天文方に蕃書和解御用を設置。 ◎幕府、倹約令。 ◎幕府、入れ墨禁止令。 ◎ロシアの測量艦長ゴローニンを国後島で逮捕し
松前に移送。 ◎思想家、佐久間象山誕生(1864年歿)

1812 文化9年 ◎伊能忠敬が屋久島・種子島の測量に出発。 ◎高田屋嘉兵衛、国後沖でロシア拿捕されるが翌年両国の間に立ちゴローニン事件を解決

1813 文化10年 ◎幕府、大阪商人に御用金を命ず

1814 文化11年 ◎「清元節」創始。 ◎伊能忠敬「沿海実測全図」完成。 ◎曲亭馬琴が「南総里見八犬伝」第一輯を出版。 ◎根岸鎮衛が歿(江戸町奉行1737年生)

1815 文化12年 ◎井伊直弼誕生・十五代近江彦根藩主 幕府大老(1860年3月24日歿)。 ◎杉田玄白「蘭学事始」完成

1816 文化13年 ◎イギリス船、琉球に来る。 ◎戯作者の山東京伝が歿(1761年生)

181 文化14年 ◎山田検校(筝曲山田流始祖)歿。 ◎イギリス船、浦賀に来る。 ◎儒学者の広瀬淡窓(1782~1856)が郷里、豊後・

1819 文政2年 ◎阿部正弘誕生・七代備後福山藩主・幕府老中首座(1857年8月6日歿)。 ◎国学者の塙保己一が「群書類従」を完成

1820 文政3年 ◎文人画家、浦上玉堂が死去。 ◎浮世絵師、北尾重政が歿(1739年生)。 ◎侠客、清水次郎長誕生(1893年歿)

1822 文政5年 ◎イギリス船が浦賀に来航。 ◎松浦検校(京流手事物始祖)歿。 ◎上杉鷹山歿。 ◎江戸、山谷の料理茶屋「八百善」の主人が「江戸流行料理通」を出版、
酒井抱一、 大田南畝、谷文晁らが挿絵を描いた

1823 文政6年 ◎ドイツ人シーボルト、オランダ商館医師 として来日。 ◎葛飾北斎、「富嶽三十六景」完成

1824 文政7年 ◎シーボルト、長崎郊外の鳴滝に診療所及び鳴滝塾を開く、門人は全国から集まり高野長英や伊藤玄朴等がいた。 ◎江戸に麻疹が流行

1825 文政8年 ◎江戸幕府「異国船打払令」を発する。 ◎シーボルト将軍家定に謁見。 ◎雷電為右衛門が歿。 ◎鶴屋南北「東海道四谷怪談」初演

1826 文政9年 ◎シーボルトが十一代将軍家斉に謁見。 ◎頼山陽、「日本外史」を著わす。 ◎江戸に大地震が発生

1827 文政10年 ◎頼山陽が「日本外史」を松平定信に献上

1828 文政11年 ◎伊東玄朴、本所番場町に初の西洋医院を開業

1828年11月19日ウィーンで没 31才

世界の出来事:1797年1月31日 フランツ・シューベルト  誕生
                   

1797 ※オペラ「メデ」3幕。ルイジ・ケルビーニ作曲。初演3月13日パリ、フェードー劇場。 ※ヴェネツィア共和国の滅亡

1798 ※オラトリオ「天地創造」ハイドン作曲、1798年4月29日ウイーン、シュヴァルツェンベルク侯爵邸でハイドン自身の指揮で非公開初演(公開初演1799年3月19日ケルントナートア劇場で。現在でもウイーンでは新年初めの演奏会で恒例として演奏されている)。 ※ピアノソナタ「悲愴」ベートーヴェン作曲開始、初期を代表する傑作、ベートーヴェンの三大ピアノソナタのひとつ。自筆楽譜は現在、パリ音楽院に保存。 ※ベートーヴェン、サリエリから声楽書法を学ぶ。 ※司令官ナポレオン、オスマン帝国領エジプト遠征、マルムーク軍を破りカイロ占領。 ※フランスの画家ドラクロワ誕生

1799 ※テアトル・フランセ開業(現コメディ・フランセ)1680年8月18日太陽王ルイ14世は、パリのゲネゴー劇団(Hôtel de Guénégaud)とブルゴーニュ劇団(Hôtel de Bourgogne)との統合を命じ、王立コメディ・フランセーズ劇団結成。 ※ナポレオンのエジプト遠征中にナイル河口で「ロゼッタ・ストーン」が発見される

1800 ※オペラ「ニ日間」3幕。ルイージ・ケルビーニ作曲。初演1月16日パリ、フェドー座で。 ※ベートーヴェン「交響曲第一番」ウィーンで初演。 ※ナポレオン率いるフランス軍がアルプスを超える。 ※イタリアの物理学者ヴォルタが電池を発明する

1801 ※オラトリオ「四季」ハイドン作曲、1801年4月24日ウイーン、メールマルクトのシュヴァルツェンベルク侯爵邸で自身の指揮で初演。 ※オーストリア、アンデア・ウイーン劇場開館、シカネーダーが建設し芸術監督就任ベートーヴェンは音楽監督に就任、英雄、フィデリオ、運命、田園を初演している。 ※トリエステ、ヌオヴォ劇場(現市立ジュゼッペ・ヴェルディ劇場)建築。 ※ピアノソナタ「月光」ベートーヴェン作曲、ベートーヴェンの三大ピアノソナタのひとつ。 ※グレート・ブリテン・アンド・アイルランド連合王国成立(1922年迄公式国名)

1802 ※ナポレオンがレジオン・ドヌール勲章を創設。 ※ドイツのグローテフェントが古代オリエントの楔形文字を解読する鍵が発見。 ※リンツ、ブルックナー管弦楽団創立。 ※パリ郊外に隕石落下。 ※アメリカのフルトンがセーヌ川で蒸気船の実験に成功

1803 ※アメリカがフランスからルイジアナを買収

1804 ※交響曲第3番「英雄」ベートーヴェン作曲、初演翌年4月自身の指揮・アン・デア・ウイーン劇場。 ※ナポレオンが皇帝に推戴され、みずからノートルダム寺院で戴冠式を行った。※フランス人の民法典(ナポレオン法典)が成立する。 ※オーストリア帝国と改称。 ※ドイツ、シラー「ヴィルヘルム・テル」完成

1805 ※ボローニャ、コルソ劇場開場。この時ロッシーニは端役で出演している。 ※オペラ「フィデリオ」2幕(初稿3幕)ベートーヴェン作曲、初演同年11月アン・デア・ウイーン劇場で(2時間分)。スイスの作曲家ネーゲリがチューリッヒに声楽教室を作る。 ※トラファルガーの戦い、ネルソン提督戦死。 ※フランス皇帝ナポレオン一世がイタリア国王に就任。 ※フランス軍オーストリアの首都ウイーンに入城。 ※ドイツの薬剤師ゼルチュナーがアヘンからモルヒネ抽出に成功。 ※デンマークの童話作家アンデルセン誕生。※ドイツの詩人・劇作家シラー歿(1759年生)

1806 ※スイス、ルツェルン交響楽団創立。 ※ヴァイオリン協奏曲ニ長調、ベートーヴェン作曲、初演12月23日著名なヴァイオリニストフランツ・クレメントにより演奏翌年クレメントの勧めでピアノ協奏曲に編曲した。 ※フランツ二世が退位し神聖ローマ帝国が滅亡する。※ナポレオン一世ベルリン入城。 ※ナポレオンが大陸封鎖令を出す。 ※ドイツの詩人・劇作家シラー歿

1807 ※パリ、ヴェリエテ座建築。※プレイエル、ピアノ製作会社をパリに創立。 ※ベートーヴェンの友人でドイツ人メルツェルが自動演奏機パンハルモニコンを発明。 ※ナポレオン一世がワルシャワ大公国を創設。 ※英国、奴隷貿易廃止※アメリカのフルトンが外輪式蒸気船「クラーモント号」をつくる

1808 ※ドイツ、カールスルーエ・バーデン州立劇場創立。 ※イタリアの楽譜出版社リコルディ創立。 ※メルツェル、自動トランペット発明。 ※交響曲第5番「運命」・交響曲第6番「田園」ベートーヴェン作曲、初演12月22日自身の指揮、アン・デア・ウイーン劇場で。 ※アメリカが奴隷の輸入を禁止。 ※ローマ教皇がナポレオン一世を破門。 ※パリのカルーゼル広場に凱旋門落成※パリ大学創立。 ※ドイツの作家ゲーテ、戯曲「ファースト」第一部を出版。 ※フランス、ローマ占領

1809 ※9月18日二代目コヴェント・ガーデン(王立オペラ)完成し「マクベス」上演される。 ※ナポレオン一世がローマ教皇ピウス七世をフランスに幽閉する。 ※メッテルニヒがオーストリア外相に就任※ナポレオン一世が皇后ジョセフィーヌ(47歳)と離婚。 ※アメリカの作家エドガー・アラン・ポー誕生。 ※スウェーデンがロシアにフィンランドを割譲する

1810 ※オペラ「結婚手形」ロッシーニ18歳の時の作曲、初演5月サン・モイゼ劇場。 ※ベルリン大学創立。 ※フランス、オランダを合併。  ※カメハメ大王ハワイ諸島を統一。 ※シュレジンガー、ベルリンに楽譜出版社創立。 ※ナポレオン一世がオーストリア皇女マリールイーゼ(19歳)と結婚

1811 ※ピアノ協奏曲「皇帝」ベートーヴェン作曲、初演11月28日ヨハン・シュナイダ-のピアノ、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏で。 ※フランスのセバスチャン・エラールが現在 のペダルハープの原形となるダブルアクション・ハープを製作。 ※オペラ「奇妙な誤解」2幕ロッシーニ作曲初演10月26日コンタヴァッリ劇場。 ※ベネズエラがスペインから独立。 ※英国王ジョージ三世が精神障害のため、皇太子ジョージが摂生ととなり即位後英国王ジョージ4世となる。 ※ドイツ人フリードリヒ・クルップ、製鋼所「フリードリヒ・クルップ商会」エッセンに設立。 ※ドイツ人フリードリヒ・ケーニヒ、輪転式印刷機を発明

1812 ※ウイーン楽友協会創立。※オペラ「幸せな間違い」ロッシーニ作曲初演1月8日サン・モイゼ劇場で。 ※オペラ「バビロニアのキュロス」2幕ロッシーニ作曲。初演3月14日フェッラーラで。 ※ベートーヴェンとルドルフ大公、ヴァイオリン・ソナタ「作品96」共演。 ※ナポレオン、ロシア遠征失敗。 ※ライプツィヒの戦いでナポレオン軍敗退。 ※ヘーゲル「論理学」完成。 ※ドイツのグリム兄弟「グリム兄弟「グリム童話集」出版。 ※アメリカがイギリスに宣戦布告

1813 ※交響曲第8番ベートーヴェン作曲、初演翌年4月20日自身の指揮、ルドルフ大公邸(非公開)で。 ※ロンドン・フィルハーモニー協会創立。 ※オペラ「タンクレーディ」2幕。ロッシーニ作曲。初演2月6日ヴェネツィア、フェニーチェ劇場。 ※オペラ「アルジェのイタリア女」2幕。ロッシーニ作曲、初演5月22日ヴェネッツィア、サン・ベネデット劇場で※交響曲第7番ベートーヴェン作曲、初演4月20日自身の指揮、ルドルフ大公邸(非公開)。 ※イギリスの探検家リヴィングストン誕生

1814 ※ベートーヴェンオペラ「フィデリオ」ウィーンで初演。※ベルギーのアントワーヌ・ジョセフがバスクラリネットの設計で特許取得。 ※コンタヴァッリ劇場(ボローニャ)開場。 ※初夏オーストリアの首都ウイーンでフランスを裁くためのウイーン会議始まる。 ※英米戦争で8月イギリス軍ワシントンを占領、12月戦争終結。 ※フランスが王政復古。※英米戦争で8月イギリス軍ワシントンを占領、12月戦争終結。 ※4月ナポレオン、エルバ島へ流される。 ※イギリスのスチブンソンが蒸気機関車を発明。 ※フランスの画家、ミレー誕生(1875年歿)。 ※ローマ教皇イエズス会を復興。 ※反仏連合軍がパリ入城。 ※ギヨタン歿(フランスの解剖学者・ギロチンの考案者)。 ※ウィーン会議はじまる

1815 ※シューベルト歌曲「野ばら」作曲。 ※2月ナポレオン一世がエルバ島を脱出。 ※ナポレオン軍がワーテルローの戦いで イギリス・プロイセン連合軍に敗れる。 ※ウイーン会議終る。 ※10月ナポレオンがセント・ヘレナ島へ流される。 ※ビスマルク誕生((ドイツの政治家)。 ※ドイツ連邦成立

1816 ※メルツェル、メトロノーム発明。 ※オペラ「セビリアの理髪師」ロッシーニ作曲、初演2月ローマ・アルジェンティーナ劇場で(2時間30分)。 ※オペラ「イングランドの女王エリザベッタ」2幕。ロッシーニ作曲。初演10月4日ナポリ、サン・カルロ劇場。 ※オペラ「ヴェネツィアのムーア人」3幕ロッシーニ作曲、初演12月メルカダンテ劇場。 ※アルゼンチンがスペインから独立。 ※フランス人医師ルネ・ラエンネックが聴診器を発明。※アルゼンチンがスペインから独立

1817 ※オペラ「チェネレントラ」2幕。G・ロッシーニ作曲、初演1月ローマ・ヴァッレ劇場原作・童話「サンドリオン」。 ※オペラ「ブルグンドのアデラーイデ」2幕G・ロッシーニ作曲、初演12月27日ローマ、テアトロ・アルジェンティーナで。 ※クレメンティ、「ピアノ演奏の技法」出版。 ※英国の医師パーキンソンが「パーキンソン」病について発表。 ※アメリカ合衆国五代大統領にジェームス・モンローが就任。 ※イギリスがインドをほぼ支配下に置く

1818 ※ミュンヘン、ナティオナル劇場(バイエルン宮廷劇場/シュターツオパー)開場。 ※オランダ、ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団創立。 ※英国の女流作家シェリーが21歳で処女作「フランケンシュタイン」を出版。 ※ロシアの作家ツルゲーネフ誕生

1819 ※オペラ「湖上の美人」2幕。ロッシーニ作曲。初演10月24日サン・カルロ劇場。 ※フランスの画家クールベ生誕(1877年歿。 ※アメリカがスペインからフロリダを購入。 ※シンガポールがイギリスの植民地になる。 ※アメリカのサヴァンナ号がj蒸気船として初めて大西洋を横断(26日間)。 ※スペインの画家ゴヤ「わが子を食うサツルヌス」を発表。 ※フランスの医師ラネエクが「間接聴診法」を発表

1820 ※オペラ「ふたご兄弟」F・シューベルト作曲初演6月14日ケルントナートア劇場。 ※オペラ「コリントの包囲(マホメット二世)」2幕ロッシーニ作曲。初演12月3日ナポリ、テアトロ・サン・カルロ劇場。 ※初めて指揮棒が使われるルイ・シュポーアがロンドンのフィルハーモニック・ソサエティー演奏会で振る。 ※ロンドン、王立ヘイマーケット劇場開場。 ※エーゲ海のミロス島で「ミロのヴィーナ」が発見。現在はルーブル美術館で所蔵し公開。 ※ピアノに初めて鉄製枠をを使用

1821 ※オペラ「魔弾の射手」2幕。ウエーバー作曲。初演6月18日自身の指揮ベルリン、シャウシュピルハウス。 ※ウィーン音楽学校創立。 ※ナポレオン一世、セント・ヘレナ島で歿。 ※ぺルーがスペインから独立。 ※メキシコがスペインから独立。 ※パナマがスペインから独立。※英国の物理学者・化学者ファラデーが電気モーターを発明。 ※ドイツの哲学者ヘーゲルが「法の哲学」を出版

1822 ※交響曲第8番「未完成」シューベルト作曲の未完の交響曲といわれている。それは第3楽章の初めのスケルツォはわずか9小節だけがオーケストレーションされ、後の一部分がピアノ曲の形のままの書きかけで第4楽章は下書きもないところから、後世の人に名付けられた。 ※ブラジルがポルトガルから独立。※ギリシャがオスマン帝国から独立。 ※フランスの歴史学者シャンポリオンがロゼッタ・ストーンのヒエログリフ解読に成功

1823 ※オペラ「セミラーミデ」2幕ロッシーニ作曲初演2月3日ヴェネツィア、フェニーチェ劇場(2時間40分)。 ※オペラ「オイリュアンテ」3幕ウエーバー作曲、初演10月25日ケルントナートア劇場。 ※アメリカ大統領モンローが対外政策の 基本原則「モンロー主義」を宣言

1824 ※「荘厳ミサ曲」ベートーヴェン作曲、初演4月7日サンクトペテルブルクの「未亡人のための慈善演奏会」で。 ※ワイマール、大公宮廷歌劇場(現ナティオナル劇場)創建。※ オペラ「オベロン」3幕。ウエーバー作曲、初演4月12日ロンドン、コヴェントガーデン王立歌劇場。 ※交響曲第9番「合唱」ベートーヴェン作曲、初演5月7日自身とウムラウフの指揮、ケルントネル劇場で。 ※「荘厳ミサ曲」ベートーヴェン作曲、初演4月7日サンクトペテルブルクの「未亡人のための慈善演奏会」で。 ※イギリスがビルマに宣戦布告しラングーンを占領し終戦

1825 ※オペラ「ランスへの旅」1幕ロッシーニ作曲、初演6月19日パリ、イタリア劇場。 ※ジュネーブ音楽院の前身がカジノ内に設立される。 ※アメリカの五大湖のひとつエリー湖とハドソン川を結ぶエリー運河完成。フランスの食通評論家ブリヤ・サヴァランが美食の古典「味覚の生理学」出版。 ※ロシア、サンクトペテルブルクで反乱が起こる

1826 ※オペラ「オベロン」3幕ウェーバー作曲、初演4月12日自身の指揮、コヴェントガーデン劇場。 ※オペラ「ビアンカとフェルナンド」2幕ベッリーニ作曲、初演5月30日ナポリ、サン・カルロ劇場。 ※オペラ「エルヴィーダ」1幕、ドニゼッティ作曲。初演7月6日ナポリ、テアトロ・ディ・サン・カルロ。 ※スイスの作曲家ネーゲリが「音楽講義」出版。 ※アメリカの作家クーパーが「モヒカン族の最後の者」を出版。 ※ドイツの教育者フレーベルが「人間の教育」を出版、(1876年東京女子師範学校現、御茶ノ水女子大にフレーベル主義の幼稚園が布設された)。※ロンドン大学創立※トマス・ジェファーソンが歿(アメリカ合衆国3代大統領)

1827 ※ケルン、ギュルツェニヒ管弦楽団発祥。 ※歌曲「冬の旅」全24曲シューベルト作曲、ドイツの詩人ミュラーの詩集から。 ※アメリカ最初の鉄道開通。※ ドイツのオームが「オームの法則」を発表

1828 ※オペラ「カレーの包囲」3幕。ドニゼッティ作曲。初演8月2日ナポリ、テアトロ・デル・フォンド。 ※オーストリアのイグナーツ・ベーゼンドルファーがピアノ製造会社を創業、(2008年業績不振で日本のヤマハ傘下に入る)。 ※ジェノヴァ、カルロ・フェリーチェ劇場開場。 ※アメリカのノア・ウェブスター(1758~1843年)が「アメリカ版英語辞典」を出版。 ※ドイツの化学者フリードリヒ・ヴェーラーが尿素の合成に成功


1828年11月19日、フランツ・シューベルト ウィーンで没 31才