グスタフ・マーラー

生没年・出身地・歿地・墓地
グスタフ・マーラー生誕 Gustav Mahler

(1860年7月7日ボヘミア南部モラヴィア国境に近いイグラウ(Iglau、現・チェコ イフラヴァ Jihlava)、カリシュト村で生まれる)
(1911年5月18日ウィーンで歿)

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1.職業

ボヘミア出身のオーストリアの作曲家・指揮者

2.称号

3.年譜

1860年
7月7日、ユダヤ人のブランデー酒造業兼商人であった父ベルンハルト・マーラーと、母マリー・ヘルマンの間の第2子として、オーストリア帝国に属するボヘミア王国のイグラウ(Iglau、現チェコのイフラヴァ Jihlava)近郊のカリシュト村(Kalischt、現チェコのカリシュチェ Kaliště)に生まれた。
生後5ヶ月で一家はイフラヴァに移る。
1866年
六歳で地元の小学校に通い、ピアノを学びはじめた。

1868年
指揮者のヴィクトリーンとピアノ教師ブロッシュから音楽教育を受ける。

1869年
地元の中高等学校の生徒になる。

1870年
十歳で最初のピアノ演奏会を行う。

1871年
プラハの中高等学校に転校。

1875年
十五歳でウィ-ン楽友協会音楽院入学し和声学をフックス、ピアノをエプシュタイン、作曲法をクレンに師事。

1876年
《ピアノ四重奏曲》作曲。ウィーン楽友協会音楽院フランツ・シューベルト、ピアノ・ソナタ演奏によりピアノ演奏部門一等賞、ピアノ曲作曲部門で一等賞を受ける。

1877年
ウィーン大学でアントン・ブルックナーの和声学の講義を受け、2人の間に深い交流が始まる。ブルックナーから自身の《交響曲第三番》のピアノ編曲を依頼される。

1878年
作曲賞を受け七月十一日音楽院卒業。

1880年
夏バート・ハルでオペレッタを指揮。

1881年
ライバッハ市立歌劇場指揮者。

1883年
オルミュッツ歌劇場指揮者に就任し名が広まる、六月カッセル王立劇場指揮者、カルル劇場合唱団指揮者兼務。

1885年
カッセルを去りプラハのドイツ劇場次席指揮者となるが生活は困窮。

1886年
ライプツィヒ市立歌劇場でニキシュとシュテーゲマンの下で次席指揮者就任。

1887年
フォン・ウェーバー夫人と恋愛関係になる。

1888年
二月交響曲第一番「巨人」完成。夏ミュンヘンで胃腸の手術。
十月ブタペスト王立歌劇場の音楽監督就任。

1889年
二月父の死。
十月母の死。
健康は優れず。

1890年
イタリア旅行で健康回復。

1891年
ブタペスト王立劇場辞任。ハンブルク市立劇場主席指揮者。

1892年
ブルーノ・ワルターが同劇場合唱指揮者就任。

1893年
アッター湖にあるシュタインバッハで作曲に専念し《交響曲第二番》四楽章まで仕上げ、完成は翌年。バート・イシュルに滞在中のブラームスを訪問。

1895年
ハンブルク、ビューロー・コンサート指揮者就任。

1897年
五月ウイーン宮廷歌劇場の楽長就任し、七月次席監督、十月終身芸術監督に任命される。

1898
ウィーン・フィル常任指揮者就任。

1900年
六月同楽団を率いてパリ万博参加、団員との関係悪化。
夏ウェルター湖畔マイヤーニッヒに購入した地で休暇を過ごし南チロルへの旅行を楽しみ《交響曲第四番》完成。

1901年
大出血を起こし三月アッパージアで病気静養。
四月ウィーン・フィル辞任。
十一月アルマ・シンドラーとの出会う

1902年
三月アルマ・シンドラーと結婚。
六月《交響曲第三番》初演が大成功を収める。
夏、マイヤーニッヒの作曲小屋で交響曲第5番完成。
十一月長女マリーア誕生。

1903年
夏、マイヤーニッヒの作曲小屋で《交響曲第六番》三楽章迄完成。
オランダに旅行しロイヤルコンセルトヘボー管で自作曲を指揮。

1906年
ニキシュ、メンゲルベルク、フリートの指揮でマーラーの作品は多く演奏されるようになる。
ベルリンでメトロポリタン歌劇場支配人ハインリヒ・コンリートに会い同歌劇場指揮者就任を承諾。

1907年
七月長女マリーアの死。ブルメンタール医師はマーラーを心臓病と診断。
十月旅行先でストラヴィンスキー、シベリウスに会う。
十二月ウィーン宮廷歌劇場を辞任し妻と娘と共に渡米。

1908年
ニューヨークで指揮して大成功。
同年夏トプラッハ(イタリア)近郊アルト・シュルダーバッハで《交響曲第九番》完成。
メトロポリタン歌劇場で《トリスタンとイゾルデ》で指揮者デビュー。

1909年
設立されたばかりのニューヨ-ク・フィルハーモニック協会指揮者就任。その冬四十六回の演奏会を指揮。

1910年
四月ヨーロッパに戻りパリで指揮、ドビュッシー、デュカスに会う。ウィーンで出版契約。
九月《交響曲第八番》「千人の交響曲」をミュンヘンで初演を指揮。再び健康が悪化。
十一月渡米。その冬四十八回指揮する。

1911年
団員との摩擦発生。
二月二十一日指揮後に病床につく。医師フレンケルの診断は死病。
四月重態の身でアメリカを立ちパリで治療後、五月ウィーン着。

4.主な作品

4.交響曲第1~10番(未完)、交響曲「大地の歌」等。

5.その他

6.初演

7.関連動画


Symphony No. 2 ‘Auferstehung’
 


Symphony No. 4 / Abbado
 


Symphony No. 9 Bruno Walter & Wiener Philharmoniker
 


Fragment eines Klavierquartettsatz Eriko Sumi
 

参考文献:「クラシック作曲家辞典」中河原理監修、フェニックス企画編 東京出版堂 「音楽史(音楽講座)」堀内敬三著 音楽之友社 「偉大なる作曲家のためのカルテ」五島雄一郎著 医療ジャーナル社 「wikipedia」 「glennmie.blog.s0-net.ne.jp」 「robortkelloyphd.com」 「dictionary/composer/alkan」 「maucamedus.net/solmization/gawut」 「www.tcat.ne.jp/eden/music」 「www.cadenza-od.com」 「www.coara.or.jp/-doraemon/gagaku/nenpyoz.htm」 「www.gecities.jp/gzgaku.ryuteki」 「www.univesal-music,co.jp」 「maokato.jp/bihoro/bihoro 「homepage3.nifty.com/cio/a-alta」 「www.wagnerdailas.com」 「江戸東京年表」吉原健一郎・大濱徹也編 小学館 「日本史・世界史 同時代比較年表」楠木誠一郎著 朝日新聞出 「音楽文庫・日本音楽史」伊庭孝著 講談社 「tsuzu/asakusaopera-nenpu.html」 「tsuzu/operetta-kafu.html」 「グスタフ・マーラー」クルシュネク・レートリヒ著 和田 旦訳 みすず書房