セルゲイ・クーセヴィツキー

生没年・出身地・歿地・墓地
セルゲイ・クーセヴィツキー生誕 Sergei Aleksandrovich Koussevitzky

(1874年7月13日ヴィシュニ・ヴォロシェク生)
(1951年6月4日ボストンに歿)

1.職業

アメリカで活躍したユダヤ系ロシア人指揮者・作曲家

2.称号

3.経歴

両親はユダヤ人の音楽家で音楽的に恵まれた環境で育つ
両親からヴァイオリン、チェロ、ピアノ、トランペットを学ぶ
14才でモスクワ・フィルハーモニー協会音楽アカデミーに奨学金を受けて入り、音楽理論、ラングセクにコントラバスを師事
1894年ボリショイ劇場管弦楽団コントラバス奏者として師のラングセクの下に入団
1896年3月25日コントラバスソロデビュー
1901年師の後を継ぎ首席コントラヴァス奏者
1902年踊り子のナグジダ・ガラと結婚
1905年ナグジダと離婚し、裕福な商人の娘ナタリー・ウシュコヴァと再婚しボリショイを辞めベルリンに行く。ニキシュに指揮法を学びながら自宅に学生オーケストラを編成し指揮の練習を続ける
1908年ベルリン・フィルを雇い作曲者自身のピアノ演奏でラフマニノフ作曲のピアノ協奏曲第1番、第2番を指揮してデビュー
1909年ソ連に戻り、出版事業に参入しラフマニノフ、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ等の版権を得る
1909年~1920年の間は主にヨーロッパでコントラバスソリストとして活動しながら、自身が編成したオーケストラを率いて1910、1912、1914年にはソ連、ボルガ川沿いの町を巡って演奏会を開き、指揮を続ける
1917~20年ペトログラード国立管弦楽団音楽監督
1920年ロシア革命によりソヴィエト連邦を去りベルリンとパリに渡る
1921~29年コンサートを指揮してプロコフィエフ、ストラヴィンスキー、ラヴェル等の新作発表に務める
1924~49年ボストン交響楽団常任指揮者に就任
1929年までは夏になるとパリに渡りコンサートを続ける
1941年アメリカ市民権を得る
1942年妻、ナタリーの死
1947年ナタリーの姪でフランス政府の農務大臣を務めた父を持つオルガ・ナウモワと再婚
1951年ボストンで亡くなり、レノックス、ヒル墓地の教会に妻ナタリーと共に埋葬される

4.主な作品

5.その他

門下にレナード・バーンスタイン
タングルウッド音楽祭の教育プログラムを発案している

6.初演

7.関連動画


Koussevitzky, Double-Bass Concerto, Op.3, Martin Raška, Janáček Philharmonic Ostrava
 


Serge Koussevitzky:Chanson Triste
 


Serge Koussevitzky Valse Miniature 1928
 


Koussevitzky Plays Koussevitzky (Concerto Op. 3, II. Andante)
 


Koussevitzky: Andante
 


Koussevitzky: Humoresque
 


Serge Koussevitzky conducts..
 


Rachmaninoff: Vocalise, Koussevitzky & BSO