生没年・出身地・歿地・墓地
ヘルベルト・フォン・カラヤン生誕
Herbert von KARAJAN
本名
ヘリベルト・リッター・フォン・カラヤン
(1908年4月5日ザルツブルク生)
(1989年7月16日ザルツブルク郊外アニフの自宅で没)
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1.職業
オーストリアの指揮者
2.称号
3.経歴
⑴ カラヤンの先祖はアナトリアの滅亡したキリキア・アルメニア王国からのアルメニア系亡命者かも知れない。アルマニア人は中世の東ローマ帝国時代にギリシャ北部、マケドニアなどの山岳部に住んでいた、ラテン語系統の言葉を話す少数民族でヴラフ人とも呼ばれ、ルーマニア人の先祖ではないかといわれ、その子孫という説である。父方の高祖父の父ヨハネス・カラヤニスはオスマン・トルコ支配下のギリシャ系マケドニア人で、マケドニアのカルスト山岳地帯オリンポス近くのコザニに居住したしていたようだ
⑵ 高祖父ゲオルグ・ヨーハン・カラヤニスはおそらく1750年前後頃にコザニで生まれたと推定される。24才頃弟のテオドル・ヨハンとウィーンを目指して旅立つ。やがてザクセンのケムニッツへ定住し、綿織物・紡績工場を始めた。財をなしザクセン選帝侯国の経済発展にも貢献したとして、弟と共にフリードリヒ・アウグスト三世から、1792年神聖ロ-マ帝国貴族の地位を与えられ、貴族の称号であるフォンを名のりカラヤンという姓に変えた
⑶ 曽祖父テオドール・フォン・カラヤンはおそらく1800年前後頃生まれたらしい。ウィーン大学で中世古文書学と歴史学を教える教授であり、宮廷図書館司書を務めた。またウィーン皇室アカデミー会長、貴族院議員を務め1869年その功績によりオーストリア・レオポルト騎士十字勲章を授与された
⑷ 祖父ルートヴィヒ・マリヤ・フォン・カラヤンは1835年に生まれ医学博士・宮廷顧問官を務め1906年に没した
⑸ 父エルンストは1868年に長男として生まれ、医師となる。1905年スロヴェニア人の家系で民族的にはスラブ人の血を引くグラーツ出身のマルタ・コスマチと結婚。ザルツブルク州立病院外科部長に就任した時に一家でウィーンからザルツブルクに移住。その後ザルツブルクの聖ヨハネ病院院長、ザルツブルク州立病院院長、ザルツブルク州衛生担当官を歴任した。父の弟エマヌエル・リッター・フォン・カラヤンはウィーン国立歌劇場の建物管理者・監督官で、歌劇場での非公開指揮演奏のリハーサルをカラヤンが学べるように配慮したようだ
⑹ カラヤンにはヴォルフガングという2才上の兄がいる。カラヤンは二男としてザルツブルクのザルツァッハ川右岸の中心地、シュヴァルツ通り1番地に生まれた。住まいはバロック様式で2階にカラヤン一家は暮した。父は音楽好きで自宅では仲間と毎週のように演奏した。3才頃兄のピアノレッスンを聞き自分で弾いているのが見つかり、両親は音楽の才能を認める
1912年4才頃、フランツ・レドヴィンカにピアノを学び始める
1913年5才頃、慈善演奏会出演
1916年モーツァルテウム音楽院に入りフランツ・レドヴィンカ、フランツ・ザウアー、ベルンハルト・パウムガルトナー等に師事。フマニスティッシェン中高等学校を卒業する
1826年ウィーン工科大学入学の傍らピアノをヨーゼフ・ホフマンに師事。その後両親の同意を得て工科大学を退学しウィーン国立音楽院に入る。クレメンス・クラウス、アレックス・ヴンデラーに指揮法を師事
1929年1月モーツァルテウム管弦楽団を指揮してデビュー。 3月~34年ウルム市立歌劇場オペラ指揮者就任
1933年ザルツブルク音楽祭でパウムガルトナーの指揮助手。 4月8日ナチス党入党登録(党員番号1607525)ザルツブルクで第5地方支部「インシュタット」所属になる。 5月1日ドイツでナチス党入党登録(党員番号3430914)ヴュルテンブルク大管区ウルム地方所属
1934年アーヘン市立歌劇場指揮者。 8月ザルツブルクでウィーン・フィルを初めて指揮する
1935~41年アーヘン歌劇場音楽監督。
1936年ベルリン国立歌劇場指揮
1937年ワルターの招きでウィーン国立歌劇場の「トリスタン」で指揮デビュー
1938年4月ベルリン・フィルを初めて指揮する(ブラームス交響曲第4番など)。 7月ソプラノ歌手エルミー・ホルガーレフと結婚。 9月ベルリン国立歌劇場で「フィデリオ」指揮
1939年ベルリン・フィルとレコーディング。 2月ベルリン国立歌劇場管弦楽団のコンサートの指揮を任される。 4月国家指揮者の称号を受ける
1940年6月ベルリン国立歌劇場でヒトラー臨席のもと「マイスタージンガー」指揮するが、暗譜で指揮したことでヒトラーに嫌われるようになったらしい。 6月ナチス占領下のフランスへ派遣される
1942年4月アーヘンで「マタイ受難曲」指揮。 トリノ交響楽団とレコーディング。 10月ユダヤ系のアニータ・ギューターマンと再婚
1943年コンセルトヘボウ管弦楽団とレコーディング。
1945年3月末、敗戦6週間前にミラノ公演契約し出演のためミラノへ出発。ドイツ脱出に成功。 イタリアで終戦を迎えるがナチス党員疑惑で連合軍によりドイツ・オーストリアでの指揮活動を禁止される。 12月アメリカ軍によりユダヤ系夫人の擁護したことで償いを果たしたとして指揮活動の許可が出る
1946年1月ウィーン・フィルを指揮。 3月のコンサートはオーストリア委員会の決定に任せるとアメリカ軍が声明したため予定は禁止になる。 9月ウォルター・レッグとイギリス・コロンビアとの録音開始
1947年5月フルトヴェングラーの復帰に伴いザルツブルク音楽祭でのオペラ指揮はできなくなる。 10月指揮活動禁止解除。 EMIとレコーディング契約。 10月「ドイツ・レクイエム」録音時にウィーン楽友協会から指揮者就任の要請を受ける
1948年楽友協会芸術監督、ウィーン交響楽団指揮者就任。 ウィーン響初指揮。イギリス、ロイヤル・アルバートホールでデビュー。ザルツブルグ音楽祭復帰。ミラノ・スカラ座ドイツ・オペラ部門総監督就任
1950年フルトヴェングラーと対立が表面化しウィーン・フィル演奏会とザルツブルグ音楽祭から締め出される。 フィルハーモニア管弦楽団首席指揮者就任
1951年バイロイト音楽祭初出演し「マイスタージンガー」指揮
1952年フィルハーモニア管弦楽団を率いてヨーロッパツアー。 バイロイト音楽祭で「トリスタン」の指揮を最後にヴィーラント・ヴァーグナーと対立しバイロイトを離れる
1954年4月2日単身来日し4月7日~5月9日日比谷公会堂、宝塚大劇場でN響を指揮して15回の公演を行う。ベルリンフィル演奏会に再登場
1955年2~4月ベルリン・フィルアメリカ公演旅行に指揮者として同行中の3月3日、ペンシルヴェニア州ピッツバーグに滞在中、演奏家たちにより芸術監督に選ばれ、4月5日のベルリン・フィル評議員会により承認される
1956年3月ザルツブルク音楽祭芸術総監督として4年間の契約をする。 6月ウィーン国立歌劇場でマリア・カラス出演の「ルチア」を演出と客演指揮。 7月ウィーン国立歌劇場の芸術監督就任の契約をする。 これにより肩書は、ロンドン・フィル首席指揮者・ベルリン・フィル芸術監督・ウィーン楽友協会芸術監督・ザルツブルク音楽祭芸術監督・スカラ座ドイツ・オペラ監督となる
1957年1月1日ウィーン国立歌劇場芸術監督就任。 1月16日にトスカニーニが亡くなり直後のウィーン・フィル演奏会で急遽モーツァルトの「フリーメーソンのための葬送の音楽」演奏。 ベルリンフィルを率いて来日し11月3日~22日日比谷公会堂などで公演、N饗との合同演奏を実施。11月3日の特別演奏会はDVDで発売されている
1958年フランス人のエリエッテ・ムレーと再婚
1959年ウィーンフィルを率いて来日し10月27日~11月7日日比谷公会堂、フェスティバルホール等で公演
1960年ザルツブルク音楽祭で新しい祝祭大劇場の杮落とし「ばらの騎士」上演
1964年ドイツグラモフォンと専属契約。 4月2日ヨーゼフ・クラウスがドイツ首相に就任後に首相に会いウィーン国立歌劇場から手を引くつもりと報告する。 5月8日健康上の理由でウィーン国立歌劇場の監督を辞任すると発表。 6月ウィーン国立歌劇場音楽監督辞任
1965年音楽映画会社「コスモテル」設立
1966年4月ベルリンフィルを率いて来日し12日~5月3日東京文化会館等で公演。この公園の一部がNHK‐FMで関東・甲信越、静岡にステレオ放送される
1967年3月ザルツブルク・イースター音楽祭を創設し芸術監督就任。ベルリン・フィルを指揮して「ワルキューレ」上演
1968年ザルツブルク市名誉市民、ザルツブルク大学名誉理事任命される
1969年2月パリ管弦楽団芸術監督就任
1970年ベルリンフィルを率いて来日し5月8日~22日東京文化会館、日比谷公会堂、フェスティバルホールで公演
1973年ベルリン市名誉市民。 ベルリンフィルを率いて来日し10月25日~11月4日NHKホール、フェスティバルホールで公演
1974年体調不良でスイスで静養
1977年ベルリンフィルを率いて来日し11月6日~18日フェスティバルホール、普門館で公演
1978年ウィーン市名誉市民。9月リハーサル中落とした指揮棒を拾おうとして指揮台から転落12月まで静養
1979年ベルリンフィルとウィーン楽友協会合唱団、ソリストを率いて来日し10月16日~25日普門館で公演
1981年ベルリンフィルを率いて来日し10月28日~11月8日東京文化会館、NHKホールで公演。TBSより公演の様子がテレビ中継され、ゲストに野球の野村克也が招かれ話題になる
1982年映像プロダクション「テレモンディアル」設立。
1983年ウィーンフィル名誉指揮者に楽員全員の意志により推挙される。6月6日ハノーファーでおそらく頚椎症性脊髄症と思われる手術を受ける。8月ザルツブルク音楽祭でオペラ「ばらの騎士」指揮・演出。女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーの入団を巡り、加入を認めないベルリン・フィルと対立す。翌年和解に至り結局マイヤーは自ら退団する。その後は、ベルリン・フィルとの距離を置くようになり、ウィーン・フィルとの演奏が多くなる
1984年ザルツブルク・イースター音楽祭に初めてウィーン・フィルを出演させる。 ベルリンフィルを率いて来日し10月18日~24日東京文化会館、普門館、ザ・シンフォニーホールで公演
1987年「ニューイヤー・コンサート」初指揮
1988年ベルリンフィルを率いて最後の来日になる、4月29日~5月5日ザ・シンフォニーホール、東京文化会館、サントリーホールで公演。 ドイツの雑誌『デア・シュピーゲル』はカラヤン批判の特集記事を組む。その内容とは、コロンビア・アーティスト・マネージメントがカラヤンとベルリン・フィルの台湾への演奏旅行の条件として法外な出演料と、カラヤンとウィーン・フィルとの演奏フィルムの購入を台湾側に要求したというものだった。カラヤンのベルリンでの演奏回数が減っていたという事情もあり、カラヤンへの批判が噴出。ベルリン市当局もカラヤン不在を批判し、ベルリン・フィルやドイツの野党からも退任を求める声が出る。年末のジルベスター・コンサートが最後のベルリン・フィル公演
1989年4月24日ウィーン・フィルとのブルックナー交響曲第7番演奏会出演がラストコンサートになる。翌日、健康上の理由でベルリン・フィルの芸術監督と終身指揮者を辞任する。 7月16日、当時ソニーの社長だった大賀典雄がザルツブルグ、アニフのカラヤンの自宅を訪ねた時、カラヤンは ” 左胸のあたりが調子悪いから、自宅の温水プールで泳いだ ” と語る。エリエッテ夫人がシャワーを浴びている時に、カラヤンが突然ぐったりとなり、大賀の腕に抱かれたまま心停止となった。緊急のヘリコプターが呼ばれたが間に合わなかった
4.主な作品
5.その他
楽壇の帝王といわれている
没後の1995年に発売された「アダージョ・カラヤン」はラテン系諸国を中心に大ヒットを記録、ヨーロッパ、日本でも売られアルバム年間売上第1位となる
ベルリンフィルとのラストコンサートは、ザルツブルク復活音楽祭でのヴェルディのレクイエム
生涯最後の録音と演奏はウィーン・フィルとのブルックナーの交響曲第7番の録音。 逝去前日に行った夏のザルツブルク祝祭大劇場でのヴェルディのオペラ「仮面舞踏会」のリハーサルだったといわれている
6.初演
7.関連動画
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Karajan Documentary English
Herbert von Karajan : Documentaire sur ARTE :
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Karajan – Interview with Seiji Ozawa – 1981 – Paris?