
ヨハン・クリューガーjohann-Cruger
ドイツ、バロックの作曲家。有名な賛美歌の作曲で知られるドイツの作曲家である。彼はまた、17世紀に最も広く使用されたルター派の賛美歌集「Praxis pietatis melica」の編集者でもった。
1.生没年
1598年4月9日現・ブランデンブルク州ラウジッツ、グーベン近郊の町グロース・ブレーゼン生
1662年2月23日ベルリンで歿
2.称号
3.記録
4月9日現・ブランデンブルク州ラウジッツ、グーベン近郊の町グロース・ブレーゼンで、宿屋を営むゲオルク・クリューガーの息子として生まれた。彼はソルブSorb人(スラブ民族)であり、ヤン・クリガー(Jan Krygar)として洗礼を受けている。
1613年まで近隣のラテン語学校(当時はグーベンに所在)で学んだが、同校の教育課程には音楽や歌唱も含まれていた。
・その後、彼はさらなる教育を受けるためにソラウSorauやブレスラウへBreslau赴き、最終的にレーゲンスブルクRegensburgでパウルス・ホンベルガーPaulus Homberger(1560–1634)から音楽の指導を受けた。
1615年にはベルリンへ移り、ベルリン・グラウエス・クロスター・ギムナジウムBerlinisches Gymnasium zum Grauen Klosterで神学を学んだ。
1616年にはフォン・ブルーメンタール家von Blumenthalの家庭教師として雇われ、ヨアヒム・フリードリヒ・フォン・ブルーメンタールJoachim Friedrich von Blumenthalらを指導した。
1620年からはヴィッテンベルク大学University of Wittenbergで神学を学ぶ傍ら、独学で音楽の研鑽を積んだ。
1622年から亡くなるまでの40年間、彼はベルリンのギムナジウム「Zum Grauen Klosterツム・グラウエン・クロスター」の教師とニコライ教会Nikolaikircheのカントルを兼任した。
1628年、彼は市参事会員の未亡人と結婚した。三十年戦争の期間中、クリューガーとその家族は飢えを含む多くの苦難に見舞われた。彼はペストに罹患して危篤状態に陥り、1636年には妻と5人の子供を亡くした。病から回復した後の1637年、彼は宿屋の主人の17歳の娘と再婚し、彼女との間に14人の子供をもうけたが、その多くは若くして亡くなった。娘の一人は宮廷画家のミヒャエル・コンラート・ヒルトと結婚し、ヒルトは1663年にクリューガーの肖像画を制作した。
1643年、彼は著名な賛美歌作家パウル・ゲルハルトと知り合い、「Wie soll ich dich empfangenいかにして我は汝を迎えん」をはじめとする様々な賛美歌の作曲を手がけた。
1647年、彼は17世紀ドイツ・ルター派で最も重要な賛美歌集「Praxis pietatis melica敬虔な生活の歌」を編集し、この賛美歌集はその後も幾度も版を重ねた。
作品:日本語讃美歌、2番「いざやともに」、13番「こころのよろこびわれらはうたわん」、18番「聖なる御神は」、153番「わがたまよ、きけ」、クルーガーは数多くの演奏会用楽曲を作曲し、音楽教育に関する著作も多数残した。
4.主な作品
日本語讃美歌、2番「いざやともに」、13番「こころのよろこびわれらはうたわん」、18番「聖なる御神は」、153番「わがたまよ、きけ」、クルーガーは数多くの演奏会用楽曲を作曲し、音楽教育に関する著作も多数残した。
5.その他
6.初演
7.関連動画
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