ジョフレ・リュデル

生没年・出身地・歿地・墓地  2025年9月15日作成

ジョフル・リュデル(日本ではジョフレ・リュデル)生誕(ジャウフル・リュデルともいう)  
Jaufre Rudel
有名なトロバドゥールのひとり
トルバドゥール、ジョフロワ・リュデル、ジョフル・リュデルⅡ世とも呼ばれている
Geoffroy Jaufré le Troubadour Rudel, II

先祖は推定720年頃生まれた「ゲロルト、クライヒガウおよびアングラッハガウの伯爵」まで遡ることができる。

1100年頃フランスのヌーヴェル=アキテーヌ地域圏ジロンド県ブライ城で生れた
1148年頃レバノンのトリポリで歿

1.職業


Composer作曲家
吟遊詩人
中世フランスの貴族、ブライ領、

2.称号


騎士
ブライ公

3.家系


1. 高祖父の高祖父の高祖父の父:ゲロルト、クライヒガウおよびアングラッハガウの伯爵(推定720年頃生-779年5月08日没)
Gerold, count in Kraichgau and Anglachgau
別名:「ヴィンツガウのゲロルト」、「ゲロルト・フォン・アングラッハガウ」、「ヴィンツガウ」、「シュヴァーベンのゲロルト1世」、「ゲラルト」、「ジェルード」、「ヴィンツガウ」、「アレマニア公ゲロルト1世、またはゲラルド1世、またはチャイルドブランド、またはシュヴァーベンのデジデリウス1世」、「アレマニア公シュヴァーベン伯」
“Gerold of Vinzgouw”, “Gerold von Anglachgau”, “Vintzgau”, “Gerold I of Swabia”, “Gerald”, “Geroud”, “Vinzgau”, “Duke Of Allemania Gerold I or Gerald I or Childebrand or Desiderius I Of Swabia”, “count of Swabia duke of Allemania”
出生地:アングラッハガウ(現在のバーデン=ヴュルテンベルク州内)、シュヴァーベン、フランク王国(現在のドイツ)
Anglachgau (within present Baden-Württemberg), Schwaben, Frankish Empire (present Germany)
妻:アレマニアのエマ、シュヴァーベン公爵夫人エマ(727年生-798年4月30日)
Emma, of Alemannia, Duchess of Swabia
出生地:アレマニア(現バーデン=ヴュルテンベルク州)、フランク帝国
Alemannia (present Baden-Württemberg), Frankish Empire
没地:アーヘン、ラインラント=プファルツ州、フランク王国
Aachen, Rheinland-Pfalz, Frankish Empire

2. 高祖父の高祖父の高祖父:ヴィンツガウのウダルリッヒ1世アルゲンガウ伯(763生-推定824没)
ブライスガウのパノニエン オブ ボーデン湖、ド フラヴィニー・シュル・オズラン
Udalrich I of Vinsgau, Count of Argengau Pannonien of Breisgau of Bodensee, de Flavigny-sur-Ozerain
ウダルリヒ1世フォン・ヴィンツガウ、アルゲンガウ伯爵、ブライスガウ・フォン・ボーデン湖、フランドル
Udalrich I von Vinzgau, Count Count of Argengau Pannonien of Breisgau of Bodensee, de Fl
別名:「ヴィンツガウのウダルリヒッ」、「アルゲンガウ」
出生地:クライヒガウ(現在のバーデン=ヴュルテンベルク州内)(現在のドイツ)
Kraichgau (Within present Baden-Württemberg), (Present Germany)
没地:ブライスガウ=ホッホシュヴァルツヴァルト、アルゲンガウ(現在のバイエルン州およびバーデン=ヴュルテンベルク州)(現在のドイツ)
Breisgau-Hochschwarzwald, Argengau (Present Bavaria and Baden-Württemberg), (Present Germany)
妻:ブライスガウのウダルリッヒの妻(780-d.)
Wife of Udalrich im Breisgau

3. 高祖父の高祖父の曾祖父:ブライスガウ伯ウダルリヒ2世(783年生-推定817年頃没)
Udalrich II, Graf im Breisgau
ウダルリヒ2世(アルゲンガウ王)ブライスガウ伯

4. 高祖父の高祖父の祖父:フラヴィニー伯ウルフハルト(推定803年頃パリ、イル=ド=フランス生-832以降没)
Wulfhard, count of Flavigny
「ウルフハルト・ヴァン・アングレーム・ペリゴール」、「フラヴィニー伯爵」
妻:スザンナ(推定807年頃生‐865年没)
Susanna
「パリのスザンナ・ベゴ・ド・フリウル(ウルフハルトの妻)」
“Susanna Bego de Friul of Paris (wife of Wulfhard)”

5. 高祖父の高祖父の父:アングレーム伯ウルグリン(推定828年頃アヴィントン、ヴィエンヌ、ポワトゥー シャラント地域圏、フランス生-886年5月3日)タイユフェール家
Wulgrin, count of Angoulême
アングレーム伯とペリゴール伯ヴァルグラン
フランス西部のアングレーム(L’Angoumois)は、アキテーヌ王国としてカロリング朝の一部であった。カール大帝の後継者の下では、地元のアングレーム伯は独立しており、1308年までフランス王室に併合されなかった。ウルグリン1世アングレーム伯は、Charles the Baldによって任命された最初の世襲伯である。
高祖父の高祖父の母:ローゼリンデ・ギルヘミデル(推定843年頃生-d.不詳)
子:アルドゥイン1世Alduin I(886年-916年)
子:ウィリアム2世(タイユフェール1世)William II(“Taillefer” I) (926年-945年頃)

6. 高祖父の高祖父アングレーム伯アルドゥイン(推定866年頃アングレーム, シャラント, ポワトゥー シャラント, フランス生-916年3月27日)
Alduin, count of Angoulêmeタイユフェール家
別名:「アルドゥイン」、「ヒルドゥイン」、「アルドウィン」
没地:St Cybard,Angouleme,Charente, France
妻:タイユフェール伯爵夫人(推定883年頃生‐推定943‐953年頃没)
子:アルナルド1世「ヴォラティオ」(950年以降-952年以前)

7. 高祖父の曾祖父:アングレーム伯ウィリアム1世「タイユフェール」(推定895年頃アングレーム、ポワトゥー シャラント、フランス生-962年8月6日没)タイユフェール家
Guillaume I “Taillefer”, count of Angoulême
没地:Angoulême, Aquitaine, France
高祖父の曾祖母:アングレームのギヨーム「タイユフェール」の妻(推定推定815‐951年頃生‐没年不詳)

8. 高祖父の祖父:アングレーム伯アルノー「マンゼール」(推定927年頃アングレーム, シャラント, ポワトゥー シャラント, フランス生-992年3月4日没)タイユフェール家
Arnaud “Manzer”, count of Angoulême
別名:「アルノー・マンサー」、「アルノー」、「マンザー」、「ル・バタール」
没地:Rue Saint-Cybard, Angoulême, Charente, Poitou-Charentes, France
高祖父の祖母:アルデアルド・ダルネー、トゥアール伯爵夫人(推定940年頃生-1020年頃没)

9. 高祖父の父:アングレーム伯ウィリアム2世(推定960年頃アングレーム, シャラント, ポワトゥー シャラント, フランス生-1028年4月6日)
William II, count of Angoulêmeタイユフェール家
ウィリアム・タイユフェール、アングレーム伯爵
William Taillefer, comte d’Angoulême (960 – 1028)
フランス語: Guillaume Taillefer, comte d’Angoulême
Also Known As: “Comte d’Angouleme”, “Count of Angouleme”, “William /Taillefer/”, “Guillermo”
別名:「アングレーム伯爵」、「ウィリアム・タイユフェール」、「ギレルモ」
没地:St Amand De Bois, Angouleme, Aquitaine, France
妻:エルメンガルド=ジェルベルガ・ド・アンジュー(推定974年頃生-1041年頃没)
Ermengarde-Gerberga d’Anjou

10. 高祖父:アングレーム伯ジョフロワⅠ世(推定991年頃アングレーム、アキテーヌ、シャラント、フランス生-1048年12月没)タイユフェール家
Geoffrey I, count of Angoulême
「アングレームのタイユフェル」
没地:Angoulême, Charente, Poitou-Charentes, France
高祖母:アングレームのペトロニラ(ダルキアック)(推定994年頃Bonteville, France生-1043年9月24日没)
Pétronille d’Angoulême (ダルキアック)d’Archiac)
没地:Angoulême, Charente, Poitou-Charentes, France
・ジョフロワは1032年からアングレーム伯であった。1028年、兄のアルドゥイン2世が父ウィリアム2世の跡を継いでアングレーム伯となったが、兄弟はボルドー地方における相続地をめぐって争いを起こした。同年の和解において、アルドゥインはブラヴィア(ブライエ)にあった新しい城(古い城はまだ残っていた)の4分の3をジョフロワに恩恵として与え、残りの4分の1を自らの所有地として確保した。この争いはサントンジュ家の反乱の機会を与え、伯たちはサントンジュ家の支配権を失い、「アキテーヌ公爵に従属する小貴族」へと成り下がった。
1047年、アンジュー伯ジョフロワ1世は、前回の反乱の際に父が引き継いだサントに新たに造幣局を開設するため、アングレームから貨幣鋳造者を招いた。彼にはダルキアックのペトロニラとの間に息子がおり、息子は爵位と領地を継承した。
子供
男:アグレーム伯爵フルク(推定1015年頃アングレーム、シャラント、ニューアキテーヌ、フランス生‐1087‐1089年頃没)
Fulk, count of Agoulême
没地:アングレーム、シャラント、ニューアキテーヌ、フランス
男:アングレームのジェフロワ「リュデル」、ブライの領主(推定不詳‐1043年頃生‐1089年7月29日没)
男:アルノー・モントージエ・タイユフェール(推定1019年頃アングレーム、アキテーヌ、フランス生-1101年没)
別名:「アルノー/タイユフェール/」、「アデマール/タイユフェール/ダングレーム」
男:アングレーム伯フルク「タイユフェール」(1029年9月24日アングレーム、アキテーヌ、フランス生‐1089年6月23日没 )
没地:アングレーム, シャラント, ポワトゥー シャラント, フランス

11. 曾祖父:アングレーム伯ジョフロワ「リュデル」(推定1020年頃アングレーム、シャラント、フランス生‐1089年7月29日没)タイユフェール家
Geoffroy d’Angoulême, Baron of Blaye
ジョフロワ・ダングレーム、ブライ男爵、ブライの領主
別名:「ガルフリダス/タイユフェル/ド・リデル」、「ジェフリー・ルーデル」
Also Known As:”Galfridus /Taillefer/de Ridel”, “Geoffrey Rudel”
没地:ウィタリング、スタンフォード、ノーサンプトンシャー、イングランド
Wittering, Stamford, Northamptonshire, England
曾祖母:アグネス・ペリゴール?(推定1020年頃生-推定1076年頃没)
Agnes Perigord?
男:ジェフリー・リデル(推定1044年頃ブライ、ジロンド、アキテーヌ、フランス生-1098年頃没)
Geoffrey Ridel
没地:ウィッタリング、スタンフォード、ノーサンプトンシャー、イングランド
男:アングレームのウィリアム「フレデラン」、ブライの領主(推定1050年頃ブライ、ジロンド、アキテーヌ、フランス生-1100年頃没)
Guillaume “Frédéland” d’Angoulême, seigneur de Blaye

12. 祖父:ブライ公・ウィリアム・フレデラン、ブライの領主(推定1050年頃生‐推定1100年頃没)タイユフェール家
Guillaume “Frédéland” d’Angoulême, seigneur de Blaye
アングレームのウィリアム・フレデラン,プリンケプス・ブラヴィエンシス
Guillaume Frédeland d’Angoulême
祖母:ヒラリアHilaria XXXX (推定1050年頃生- d.)

13. 父:ブライ公・ジェラール・リュデル (推定1075年頃生‐推定1145-1155年頃没)タイユフェール家
Gérard Ier Rudel, I
ジェラール1世、ウィリアム・オブ・アングレーム、ブライ領主
トルバドゥール、ジョフレ・リュデルの父
母:妻:不詳
推定1040〜1100年頃生

ブライ公・吟遊詩人ジョフル・リュデル(推定1100年頃生-1148年頃没)
Jaufré Rudel
別名:ジョフロワ・リュデル、トルバドゥール、リュデルⅡ世
出身地:フランス、アキテーヌ地域圏ジロンド県ブライ
Blaye, Gironde, Aquitaine, France
没地:トリポリ、タラブルス、リビア
Tripoli, Tarabulus, Libya
妻:不詳
<家族>
長男:ジェラ-ル・リュデル(推定1130年頃生-推定1199年頃没)
ジョフロワのジェラール、ブレイⅢ世
Geoffroy Gérard de Blaye, III
長男の妻:アングレームのアグネス(1130-d.)
Agnès D’ANGOULÊME
女子:アグネス・リュデル(1155年-没)
トネー三世のジェフリー・クラウディカンテの妻
Agnès Rudel
男子:ジョフロワ4世リュデル(1170年-1254年)
Geoffroy IV Rudel

4.家族


ブライ公・吟遊詩人ジョフル・リュデル(推定1100年頃生-1148年頃没)
Jaufré Rudel
別名:ジョフロワ・リュデル、トルバドゥール、リュデル2世
出身地:フランス、アキテーヌ地域圏ジロンド県ブライ
Blaye, Gironde, Aquitaine, France
没地:トリポリ、タラブルス、リビア
Tripoli, Tarabulus, Libya
妻:不詳
長男:ジェラ-ル・リュデル(推定1130年頃生-推定1199年頃没)
ジョフロワのジェラール、ブレイ3世
Geoffroy Gérard de Blaye, III
長男の妻:アングレームのアグネス(1130-d.)
Agnès Rudel
Agnès D’ANGOULÊME
女子:アグネス・リュデル(1155年-没)
Mabilie de Mirambeau
(トネー三世のジェフリー・クラウディカンテの妻)
男子:ジョフロワ4世リュデル(1170年-1254年)
Geoffroy IV Rudel
孫:ジェフリー・リュデル四世(1170-1254)、IGeoffroy IV IV Rudel
孫の妻:ミランボーのマビリーMabilie de Mirambeau

6.歴史年譜


ジョフル・リュデル(現代オック語ではJaufré)はジョフレ、またはジャウフレと表記される。
彼の生涯についてはほとんど知られていない。
12世紀初頭中期のブライ公(Princes de Blaia)であり、吟遊詩人であった。
おそらく第2回十字軍従軍の際、宗主アングレーム伯 Guillaume VI Taillefer に従い、トゥルーズ伯 Alphonse Jourdin と共に Port-de-Bouc
を船出し、1148年4月13日に Saint-Jean-d’Acre に到着した。その後の足跡は絶えているが、1147年以降に没したとされる。
彼は歌曲の中で「遥かなる愛」(amor de lonhまたはamour de loin)という詩を作ったことで知られる。
彼の生涯についてはほとんど知られていないが、マルカブリュ(Marcabrun)による同時代の歌曲には、彼が「oltra mar」(海の向こう)にいたと記されており、おそらく1147年の第2回十字軍の遠征中にいたとされている。
ジョフル・リュデルはおそらく、同じくブライの城主で、1106年の勅許状で「貴族」の称号を与えられたジェラ-ルの息子であった。ジョフル・リュデルの祖父は、この称号を初めて授けられた人物であり、1090年にはすでにブラヴィエンシス公(princeps Blaviensis)と呼ばれていた。
父の存命中、ブライの宗主権はポワトゥー伯とアングレーム伯の間で争われていた。父から領地を継承していたポワトゥー伯ウィリアム8世の即位直後、ブライはアングレーム伯ウルグラン2世に奪われ、ウルグラン2世がジョフレに領地を与えたとみられる。根拠の薄い一説によると、ウルグランがジョフルの父であるという。
伝説的な伝記「ヴィダ」によると、十字軍遠征に赴くきっかけは、帰還した巡礼者たちからトリポリのオディエルナ伯爵夫人の美しさ、そして彼女が彼の「アモール・ド・ロン」(遥かなる愛)であることを聞かされたことだった。伝説的伝記Vidaによると、彼は旅の途中で病に倒れ、瀕死の状態でトリポリの海岸に運ばれた。オディエルナ伯爵夫人は知らせを聞いて城から下りてきて、リュデルは彼女の腕の中で息を引き取ったと言われている。このロマンチックだがあり得ない物語は、リュデルの詩の謎めいた性質と、彼が十字軍で死亡したと推定されることから生まれたようである。

1. ジョフル・リュデルおよそ1100年頃、フランス、アキテーヌ地域、ジロンド県ブライに生まれた。
父はブライ領主ジェラール・リュデル1世である。
ジョフル・リュデルの生涯につい知っていることは、十三世紀に書かれた「Vidade Jaufré Rudèl」による。
リュデルは非常に高貴な男、アキテーヌのブライ領ボルドー近郊の町、 ガロンヌ河口にあるブライ王子であった。彼はブライ領主であり、元々はサントンジュ出身のアキテーヌのエレノア宮廷の騎士であり、アルフォンス・ヨルダン・デ・トロサとヒューゴ・ブルーノ七世と関係があった

2. ジョフル・リュデルについての最も古いものは、テナイユ修道院の憲章で、十七世紀の終わりからの要約によると、サンジェムの修道院の記録は、ブライの王子が1100年頃に生まれたことを示している。

3.ジョフル・リュデルがどこの学校に学んだのか、正確にはわかっていない。彼はギヨーム・ド・ポワチエの宮廷か、あるいはヴェンタドールの子爵であるエブル二世の宮廷で訓練を受けていただろうと推測できる。その後、教会は彼にとって音楽だけでなく詩においてもインスピレーションの源となったように推測できるという。

1125年頃
伝説的な伝記「ヴィダVida」によると は古文書にその名が残されているという。

5.フランスの吟遊詩人(troubadour)


1. ブライ公ジョフル・リュデルは、12世紀初頭から中期にかけての吟遊詩人で、おそらく第2回十字軍中の1147年以降に亡くなった。彼は歌の中で「遠くからの愛」(amor de lonhまたはl’amour de loin)というテーマを展開したことで知られている
2. アキテーヌ地方は、十二世紀初頭から中期にかけ、トルバドゥールで知られる南仏文化の中心地だった。トルバドゥールの詩は、宮廷文化が栄えたプロヴァンスで始まり、そこからフランスやヨーロッパの他の地域に広がった。その繰り返しのテーマは、春の到来と愛の目覚めであった。最愛の人は神の美しさ、善良さ、そして知恵を反映しており、最愛の人への道は苦難と放棄に満ちていた。トルバドゥールの詩は1150年から1200年の間にピークに達し、その主要な代表者の中には、ポワチエのウィリアム著『Gesta Guillelmi』、ジョフル・リュデル、ベルトラン・ド・ボルン(Bertran de Bornがいる。
3.中世フランス王国の貴族でアキテーヌ公ギヨーム9世は最初のトルバドゥールであった。12世紀の前半、ガスコンのセルカモンは牧歌を作曲し、彼の弟子マルカブリュは約40点を書いた。
アモール・デ・ロン(遥かなる愛)のブライ公ジョフル・リュデルは、それほど有名ではなかった。同じ世紀の少し後に、ベルナルト・デ・ベンタドールは、エレガントでシンプルな曲を作曲した。そのうちのいくつかは、プロヴァンスの詩の完璧な見本と見なされた。
4. トルバドゥールの叙情的な愛の詩は、中世のプロヴァンス文学の最高の栄光となった。トルバドゥールの愛の歌は、封建制下のミディ(南フランス)の社会的状況を反映していた。領主の娘たちは政治的な理由で結婚し、彼らに愛の歌を歓迎した。詩人は通常、社会的地位の女性のはるか下にいた。この職業「宮廷」または「騎士道」の愛は慣習の問題になったが、このようにトルバドゥールの歌の中で高貴な女性に向けられた尊敬、情熱、献身の感情は、ヨーロッパの文学と社会的慣習の両方に永続的な影響を与えるようになった。
5. トルバドゥールという語は、最終的にはオック語の「見つける」、「発明する」という意味のtrobarから派生したフランス語。トルバドゥールとは、新しい詩を発明し、精巧な愛の歌詞に合う新しい詩節を見つける人であった。トルバドゥールの作品の多くは現存し、シャンソニエ「歌集」として知られる写本に保存されており、彼らの芸術を規定した規則はLeys d’amors (1340) という著作に示されている。

amour courtois/遥かなる愛 Marcabrun が 1148年につくった詩に、
ジョフル・リュデルは、1147年の第2回十字軍遠征に参加していたことが記されている。1148年に弟子のマルカブル(Marcabru)作った詩に海の彼方のジョフレ・リュデルにおくりたいお書かれている。彼が oltra mar(海の向こう)にいたとその名が記されている。彼の伝説的な伝記であるヴィーダ(架空の伝記)によると、彼は帰還する巡礼者からトリポリのオディエルナ伯爵夫人の美しさについて聞き、彼女が彼の amor de lonh(遥かなる愛)であると悟ったという。伝説によると、彼は旅の途中で船の中で病気になり、死にかけ、トリポリのホテルに連れて行かれた。病気になり、瀕死の状態でトリポリに上陸した。知らせを聞いたオディエルナ伯爵夫人は城を出て彼のところに来た。彼のベッドのすぐ傍に来て、彼を彼女の腕に抱いた。彼はそれが伯爵夫人であると覚り、すぐに彼の聴覚と嗅覚(彼女の香水の匂いを嗅ぐため)を回復し、神を讃え、彼女に会うまで十分長く生き続けたことを神に感謝した。それから彼は彼女の腕に包まれ、リビアのトリポリで彼女の腕の中で息を引き取ったと言われている。彼女は彼を聖堂騎士団の僧院に葬らせ、彼を大いに称えた。それから、彼女は彼の死について感じた悲しみのために、その同じ日に尼僧になったという伝説が残されている。このロマンチックだが信じ難い物語は、リュデルの詩の謎めいた性質と、十字軍遠征での彼の推定される死から生まれたものと思われる。
ジョフル・リュデルは、フランスで最も偉大な詩人のひとりであり、当時のプロヴァンス文学は「トルバドゥール」と定義されていた。リュデルの詩は「愛のパラドックス」と定義されている。なぜなら、他の「トルバドゥール」と同様に、それは純粋にプラトニックな愛である「礼儀正しい愛」を歌っていたからだ。今日まで、六つの愛の歌が残っており、そのうち四つはメロディックな記譜法を持っている。
それらは中世学者のアルフレッド・ジャンロイによって編集された。彼の最も重要な作曲の一つは、トリポリ伯爵夫人に対する彼の情熱を表している。伝説によると、アンティオキア帰りの巡礼者が美貌のトリポリ伯爵夫人オディエルナについてほめ讃える言葉を聞き、彼はトリポリ伯爵夫人に会うことなく恋に落ち、(アムール・クルトワとして)自分の「遥かなる愛」という理想から美貌のトリポリ伯爵夫人オディエルナを自分の女神とした。彼は彼女に会いたがっていたので、エデッサ奪還のためエレサルムへ遠征するへルイ七世とエレノア(トロバドゥール、ギョウム九世の息子アキテーヌ公ギョウム十世の長女、母はエレノア・シャテルロー・アキテーヌ公夫人)率いる第二回十字軍(1147-49)に参加して海を航海した。
リュデルの詩は7編が今日まで残っており、そのうち4編には音楽が付けられている。彼の作品『Lanquan li jorn』は、ミンネジンガーのヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデの十字軍歌『Allerest lebe ich mir werde(パレスチナ人への祈り)』のモデルになったと考えられている。
(注・・アムール・クルトワ(amour courtois) : 自分より身分の高い高貴な女性を慕い献身的に尽くす気持ちのことで主君に仕える騎士道の理念に、つうじると言われたこの時代の宮廷の風潮であったらしい)

7.作品


1. 「遥かなる愛」 Jaufre Rudel, 「L’amor de Lonh」
『日が長く続くとき、私は美しく、遠くの鳥の甘い歌を聞きます。そしてそこを去ったとき、遠くの愛を思い出すのです。私はそのようなエンブロンスとクリムゾンの歌やアルベスピナの花が、冬の愛ほど私を喜ばせることは決してありません。私がこの遠くからの愛を楽しまなければ、私は楽しむことはないでしょう。
5月になり日が長くなるにつれ、遠くで鳥の優しい歌声が聞こえてくる。
その歌声から目を背けると、心は遠く離れた恋人に向く。
曇り空で陰鬱に歩く。歌もシロツメクサの花も、
冬の寒さ以上に私に触れることはできない。
遠く離れた恋人がいなければ、恋にこの世の喜びを見つけることは決してないだろう。
彼女は他のすべての価値を超えて輝いている。近くも遠くも他のすべてのものよりも、彼女の美徳は真実で純粋に君臨している。
私は彼女の意志に従うためなら、ムーア人の地で捕虜になって死んでも構わない。
遠く離れた恋人を一度見たら、私たちはいつ会えるだろうか。分からないよ。我々の二つの国はあまりにも遠く離れているから。
陸と海には非常に多くの道がある。この先に何が待ち受けているのか、私には分からない。
しかし全ては神の善意に従う。神への愛のための至福は、遠く離れた愛のロッジにあるだろう。
彼女が私を欲しがるなら、私は彼女と共に宿る。
遠くからの見知らぬ人であっても、私が遠くから彼女の愛に会う日には、ああ、会話は大切になるだろう。愛の言葉を聞き、その感動を感じるために。
私は彼女を主と呼ぶ。私が信じる彼女は、私に遠く離れた愛を見させてくれるだろう。
私が受け取る喜びごとに、彼女が遠くにいることから二つの災難を受けるとしても。
私は巡礼者としてその神社に行くだろう。埃のように黒いチュニックの輝きを、その澄んだ瞳に今も映し出すため。
全てのものを素早く、そして静かに創造し、私に遠く離れた愛を形作った神。
私に道をお与えください。私には意志がある。まもなく、そのような恵みの現実の空間で、遠く離れた愛を見たい。
その部屋の壁と庭の場所は、丘の上の宮殿のように見えるだろう。
私が切望し、遠く離れた愛だけを渇望していると言う彼は真実を語っている。
この世に何という喜びがあるのだろう。
ただ遠く離れた愛を楽しむためだけに、私は拒絶しないだろうか?でも私の望むことは憎しみによって阻まれている私の名付け親が私の運命を決めたよく愛すればひどい扱いを受けるああ、私が望むものは決して見つからない私の名付け親を呪ってやる私の愛が私に災いをもたらすように定めた 』
《L’amor De Lonh(遥かなる愛)》
ドミニク・ヴェラール(指揮)/アンサンブル:ジル・バンショワ

2. 森の中でナイチンゲールのとき Quanlo rossinhols el folhos…– Jaufre Rudel
3. 彼は歌えない、歌わない彼 Non sap chantar qui so non di…– Jaufre Rudel
4. 私には良い歌のメンターがいます Pro ai del chan essenhadors…– Jaufre Rudel
5. ソースのリルのときQuan lo rius de la fontana…– Jaufre Rudel
6. 五月の陽の長くなる頃Belhs m’es l’estius e’l temps floritz…– Jaufre Rudel

Quan lo rossinhol el follos (When, in the woods, the nightingale) With original melody
Quan lo rius de la fontana (When the rill of the source)
Pro ai del chan essenhadors (I have good singing mentors)
Belhs m’es l’estius e·l temps floritz (I enjoy the Summer and the flowers’ season)
Lanquan li jorn son lonc e may (During May, when the days are long) With original melody
No sap chantar qui so non di (He can’t sing, he who doesn’t utter a sound)
Lanquan lo temps renovelha (When the season renews itself)
Qui non sap esser chantaire (He who cannot be a singer)

8.その他


1.1906年メキシコの作曲家リカルド・カストロ Ricardo Castro (1864-1907)は、ヘンリー・ブロディの台本によるオペラ《ジョフル・リュデルの伝説La leyenda de Jaufré Rudel》と題のオペラを初演した。
2.オペラ「遥かなる恋人」はリュデルを題材にフィンランドの女性作曲家カイヤ・サーリアホの作。
3.ジョフル・リュデルの伝説は、ロマン主義の詩人にとって魅力的なテーマであった。彼はルートヴィヒ・ウーラント、ハインリヒ・ハイネ、ロバート・ブラウニング(トリポリの女性へのリュデル)、ジョズエ・カルドゥッチ (ジョフレ・リュデル)によって書かれた。
4.トルバドール(1071-1127)として知られるギヨーム・ド・ポワチエ伯爵が、ジョフル・リュデルの父からブライの要塞を奪い、部分的に破壊し,間もなく彼に返したとある。

9.関連動画


カイヤ・サーリアホ:曲 オペラ《遥かなる恋人》
ジョフル・リュデル/ブライ王子:ジェラルド・フィンリー
クレマンス/トリポリ伯爵夫人
フィンランド国立オペラバレエ管弦楽団・合唱団
指揮:エサ=ペッカ・サロネン
L’amour de loin (2000; opera)
Jaufre Rudel, Prince de Blaye – Gerald Finley
Clemance, Comtesse de Tripoil – Dawn Upshaw
Le Pelerin – Monica Groop
Orchestra and Chorus of the
Finnish National Opera
Dir. Esa-Pekka Salonen
Peter Sellars

《森の中でナイチンゲールが Quan lo rossinhol el follos 》
https://youtu.be/lXqL82nqJp8<

《五月の季節は日も長く Lanquan li jorn 》
歌:マリア・ラフィット
アンサンブル・ユニコーン
オニ・ウィタルス・アンサンブル
指揮:ミヒャエル・ポッシュ

《五月の陽の長くなる頃 Lanquan li jorn》
歌:イバン・ロペス
ラバーブ:エフレン・ロペス
ラバーブrababトルコ語:レバプ、インドネシア語: ルバブ)は擦弦楽器のひとつ

《遥かなる愛 L’amour de loin》
歌とギター:ジャメリナ
1976年

《 Belhs m’es l’estius e.l temps floritz》
ハープ:アンドリュー・ローレンス=キング
読:ポール・ヒリヤー(バリトン歌手)
シアター・オブ・ボイス

《ソースのリルのとき Quan lo rius de la fontana》
歌:モーリス・モンコゼット
アンサンブレ トレ フォンターネ

《彼は歌えない、歌わない彼 No sap chantar qui so non di 》
Institut occitan de cultura

《歌手になれない彼 Qui non sap esser chantaire 》

ジョフル・リュデル「人生、仕事:遠い愛」
中世のフランスの詩人に捧げられた日。
ギレーヌ・マヴィッドによる番組「Une Vie、uneŒuvre」
ルーデルによって書かれた最高の詩の素晴らしい
ゲスト:ヨルン・グルーバー、ガイ・ロバート、ジェラール・ズシェット。
フランス・キュルチュール
1998年9月17日にフランス文化で放送

《その日が Lanquan li jorn》

参考
Jaufré Rudel: Complete Works / https://gw.geneanet.org/pierfit?lang=fr&p=geoffroy&n=d+angouleme / https://www.geni.com/people/Geoffrey-I-count-of-Angoul%C3%AAme/6000000002172770826 / file:///C:/Users/%E3%81%A8%E3%81%BF%E3%81%95%E3%81%A8/Downloads/KJ00004138893%20(3).pdf / https://de.wikipedia.org/wiki/Jaufr%C3%A9_Rudel / https://www.persee.fr/doc/roma_0035-8029_1950_num_71_282_3702 /  https://www.insulaeuropea.eu/2020/09/28/jaufre-rudel-in-baudolino/  / https://choralejaufrerudel.fr/qui-sommes-nous/historique/jaufre-rudel/ / https://snl.no/Frankrikes_litteratur / 

参考文献:Jaufré Rudel: Complete Works / https://gw.geneanet.org/pierfit?lang=fr&p=geoffroy&n=d+angouleme / https://www.geni.com/people/Geoffrey-I-count-of-Angoul%C3%AAme/6000000002172770826 / file:///C:/Users/%E3%81%A8%E3%81%BF%E3%81%95%E3%81%A8/Downloads/KJ00004138893%20(3).pdf / https://de.wikipedia.org/wiki/Jaufr%C3%A9_Rudel / https://www.persee.fr/doc/roma_0035-8029_1950_num_71_282_3702 /  https://www.insulaeuropea.eu/2020/09/28/jaufre-rudel-in-baudolino/  / https://choralejaufrerudel.fr/qui-sommes-nous/historique/jaufre-rudel/ / https://snl.no/Frankrikes_litteratur / 

生年代:1113年 

没年代:1148年

日本の元号:永久元年

時代:平安時代