生没年・出身地・歿地・墓地
ヤッシャ・ハイフェッツ生誕
リトアニア語: HEIFETZAS, Jascha
ローマ字翻字: Iosif (Yasha) Ruvimovich Heifetz
出生名 Иосиф Рувимович Хейфец
(1901年2月2日リトアニアのビルナ生)
(1987年12月10日ロサンゼルスで歿)
1.職業
ロシア(現リトアニア)のヴァイオリニスト
2.称号
3.経歴
⑴ まだ独身であった父ルーベン・ハイフェッツは、友人のイリア・ダビドヴィッチ・マルキンの招聘でピルナの劇場オーケストラに入ったが1年後の1898年には倒産してしまう。しかしマルキンの援助で地元ビルナ交響楽団に入る。やがてコンサート・マスターに就任し多くの人々から尊敬される。30才でアニーと結婚。一家の住むピルナ市は、ユダヤ人が深く根差している地域で18世紀の終わりごろポーランドからロシアが分割所有した。ロシア皇帝に併合された旧ポーランド地区には大勢のユダヤ人が居住していた。ここは居留地という名前で呼ばれ、居留地はラトビアとリトアニアを含み、バルチック海から黒海までの広さを保っていた。18世紀末には約500万人のユダヤ人がこの地に居住しており、彼らは事由が保証され宗教も容認されたいた。ピルナはリトアニアにあり町の人口の半分を占めていた。彼らはヘブライ語とイディッシュ語を使った。リトアニアを第二のイスラエル、ピルナをエルサレムと呼び心のよりどころとしていた、また文化の中心地でもあった。このピルナ市から、アンドレ・コステラネッツ、ミッシャ・エルマン、エフレム・ジンバリスト等が生まれた。この居留地からやがて一人の偉大なヴァイオリニストが誕生することになる
⑵ ヤッシャは居留地のユダヤ人の家庭に育つ。コンサートのチケットは容易に手に入れられたので音楽会へはヤッシャの音楽教育目的も含め頻繁に出かけていたようだ
1904年3才の誕生日に父から4分の1サイズのヴァイオリンをもらい手ほどきを受ける。父からの難しいレッスンを楽々とのみ込み、ごく自然にヴァイオリンを操作した
1905年4才頃には父と子は師弟関係になり専門的、高度なレッスンを受ける。父の教えを離れる頃には七つのポジションで演奏できたし、カイザーの練習曲も弾けたそして教えが終わるころにはすべてのポジションを習得していたし、短い曲とはいえかなりのレパートリーをこなせたので、1時間程度の演奏会なら容易に出演可能なであった
1906年5才、ピルノの帝室音楽院の入学資格に達していなかったが、マルキンの計らいで公開演奏会を開催した。ヤッシャはファンタジー・パストラーレを弾き聴衆を仰天させ入学反対派を納得させ音楽院入学を認められる。同校でイリア・ダヴィドヴィッチ・マルキン(レオポルド・アウアーに師事)から2年間の専門的音楽教育が始まる
1907年6才、コブノ市で公開演奏が開催されメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を弾く、聴衆は唖然となり、その音色は有頂天にさせるデビューとなる。噂はロシア中に広がり、ヤッシャの名前はコンサート業者に知れ渡り、ロシア中の大勢の親が子供にヤッシャと同じように弾けるように強要したと言われている。ヤッシャは音楽院の生徒であったが、ヴァイオリンのレッスンはマルキンの自宅で受けていた数年前にアウアーがヤッシャをオーデションした時に、あと1,2年ヤッシャをマルキンが教え続けるように助言していた。レオポルド・アウアーが演奏旅行でピルナに到着すると師のマルキンは面会を求めヤッショのオーデションを申し込むが拒絶されてしまう。だがピルナを去る前日、指定された時間に父ルーベンとマルキンに連れられヤッシャはホテルに行きオーデションを受ける。無造作にメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を弾き、パガニーニの第24番カプリースを弾いた。弾き終わったとき、アウワーは口がきけないほど感激し目は涙で一杯になっていた。長い沈黙の後、ヤッシャに近づき抱擁してこんなに美しいヴァイオリンの演奏は初めてだと言い、父ルーベンにペテルスブルクの自分のところにヤッシャを寄越すように頼んだ。こうしてヤッシャは二度目のオーデションでアウアー教授の教え子になった
1908年7才オデッサの国際博覧会でメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を弾いて聴衆を有頂天にさせるデビュー。春、一家はペテルブルクに移住しアウアーを訪ねるが、この年度の音楽院の願書受付は締め切られていた。アウアーの無理やりの命令に事務局も編入したがアウアーのチーフ・アシスタントのアイオネス・ナルバンジャンのクラスに入る。父ルーベンもアウアーの計らいでペテルブルクに永住する許可を得るため音楽院に入学し席を置く。ヤッシャは第二ヴァイオリンクラスに半年間学び半年後にレオポルド・アウアーのマスタークラスに進級した。同時にピアノクラスに入り、ヴィオラ、作曲の基礎を学ぶ。後にアウアーの自宅で個人レッスンを受けるなど約6年間師事する。父ルーベンが音楽院に籍を置いたのは、ユダヤ人は特定の村や地区に移住したり住んではならないというアレクサンダー二世が制定した、差別法があったからで、アウアーは抜け道を通ることにして総務部長にこの例外的な処理を手続きさせ、40才のルーベンとその家族の永住を許可が下りるように処理をした。
1911年4月30日ペテルブルクでコンサートを開催後キエフ、パブロフスク、オデッサと巡演した。オデッサでのコンサートは野外音楽堂で開かれたが聴衆の興奮は大変なものであった。大勢の聴衆に囲まれ警察が中に入ってホテルまで護衛するほどの出来事だった
1912~14年の夏、一家はザイデルの家族とアウアー教授とともにドレスデンに近いロッシュビッツで過ごしそこで開かれる音楽会で演奏し、次第に名がヨーロッパに広まる
1912年9月1日ニキシュ指揮するベルリンフィルの招待でチャイコクフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏しデビュー成功。終了後ヤッシャは批評家アーサー・アベルの晩餐会に招かれた。同時にその町にいたすべてのヴァイオリニストも招くよう手配した。晩餐会のあとメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を弾きましょうと申し出たが、伴奏用のピアノスコアを持ってこなかったことに気づく。すると「私に伴奏させていただけますか」紳士が立ち上がった。ゲストのヴァイオリニスト、フリッツ・クライスラーであった。彼の暗譜によるピアノ伴奏で弾き終わるとクライスラーは立ち上がって「さて、諸君。目下の状況では、めいめいのヴァイオリンを叩き壊しても、さしたる問題は起こりそうもないようですね」とゲストたちを見まわしながら言ったと言われている。二回目のコンサートが直ちに開かれブルッフのヴァイオリン協奏曲第一番を弾いた
1913年ライプツィヒでニキシュ指揮ゲヴァントハウス管弦楽団とブルッフのヴァイオリン協奏曲を演奏
1914年ウィーンでサファノフ指揮でメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を演奏しヨーロッパ中にその名が知られるようになる
1917年ドイツの侵攻を避けシベリアを横断し日本経由で渡米しサンフランシスコへ着。10月27日カーネギー・ホールでアメリカデビュー
1918年オーストラリア、インド、ヨーロッパ等で演奏旅行
1922年ニューヨークにアパートを購入し実家を出る
1923年銘器ガルネリ・デル・ジェス1742製(フェルディナンド・ダビッド)を購入。日本公演
1925年アメリカ市民権を得る
1926年パレスチナ、メルボルンへ演奏旅行
1928年映画スターのフローレンス・アート・ビドーと結婚。その後コネチカット州サンガトールに移住
1933年パレスチナで2度目の演奏旅行し演奏料を全額寄付
1934年故国ロシアへ演奏旅行
1935年コンスタンス・ホープ夫人を広報担当に採用
1937年ビバリー・ヒルズに家を購入
1938年ハーバード大学工芸研究所の楽器テストに参加。同年映画「彼らに音楽を」に出演
1939年レジオン勲章授与される
1940年南米へ3ヵ月の演奏旅行
1941年有名なアルミ製ヴァイオリンを武器製造用にニューヨーク市長に供出
1945年離婚
1946年フランシス・シールズ・スピーゲルバーグと再婚
1947年4月から1949年まで舞台休演を宣言
1949年舞台復帰
1953年4月エルサレムでの演奏でこの国では拒絶反応の強い二人のドイツ作曲家の内、R・シュトラウスの曲を演奏。終了後出発前の休息所ホテルから散歩に出る際に暴漢に襲われる。またマスコミにも脅迫電話が殺到。次のローボルトのコンサートは警察官が配置されるがR・シュトラウスの曲は外される
1954年来日
1955年ボストンでシャルル・ミンシュ指揮ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲ニ長調を演奏。7月左足骨折する
1960年カリフォルニア大学音楽教授就任
1963年離婚
1972年演奏活動から引退
1975年左肩手術
1987年ロサンゼルスで外科手術後に死去
4.主な作品
5.その他
Jim Hoyle(ジム・ホイル)名で作曲を行っている
映画「かれらに音楽を」に出演
ハイフェッツが生まれたビルナはロシアに併合された旧ポーランド領で大勢のユダヤ人が居留していた。ニコラス一世の統治化でラトビアとリトアニアを含む広大な地域には約500万人のユダヤ人が住んでいた。ビルナは「居留地」という名称で知られ、ユダヤ人たちはイディッシュ語やヘブライ語で書かれた本を発行し、リトアニアを「第二のイスラエル」と呼び、彼らはその地にしっかり根付いていた。居留地からは世界的な音楽家が輩出。オシップ・ガブリロビッチ、アンドレ・コステラネッツ、ミッシャ・エルマン、エフレム・ジンバリスト、ジョゼフ・アクロン等が生まれている
6.初演
7.関連動画
アンリ・ヴュータン ヴァイオリン協奏曲
Vieuxtemps:Violin Concertos#4 & #5- Heifetz/Barbirolli & LPO/ Sargent & LSO
カミーユ・サン=サーンス《序奏とロンド・カプリチオーソ》イ短調 作品28
Jascha Heifetz – Introduction and Rondo Capriccioso
《 G線上のアリア 》
Air on the G String – Jascha Heifetz
《 アヴェマリア 》
Jascha Heifetz Ave Maria
Heifetz plays Sinding Suite in A minor – I Presto
マスネ《 タイスの瞑想曲 〉
Jascha Heifetz Thais Meditation
Heifetz Sweet Remembrance
Jascha Heifetz plays Waxman-Carmen Fantasy
Jascha Heifetz Handel— Sonata Op 1, No 13 — Largo maestoso
Rate Heifetz, Elman & Kreisler playing Tchaikovsky Canzonetta
Jascha Heifetz plays Tchaikovsky Violin Concerto: 1st mov.
Jascha Heifetz – Brahms’ Violin Concerto in D major, Op. 77
Mendelssohn: Violin Concerto
Heifetz Mendelssohn Violin Concerto
Mendelssohn: Violin Concerto, Heifetz / Cantelli
Carnegie Hall 1947 Heifetz, Piatigorsky, Rubinstein, Reiner, Walter
Jascha Heifetz plays Brahms Sonatensatz
1-Heifetz playing Brahms Sonata 1
Jascha Heifetz plays Brahms Hungarian Dance #7
eifetz playing Grieg Sonata 3
BACH Double Violin Concerto (Largo) JASCHA HEIFETZ & ERICK FRIEDMAN 1962
Heifetz plays Tzigane by Ravel
Jascha Heifetz – Pablo de Sarasate, Zigeunerweisen Op.20
Caprice #24 di Paganini by Jascha Heifetz
Jascha Heifetz plays La ronde des lutins by Bazzini
Jascha Heifetz plays Saint-Saens Havanaise
Jascha Heifetz plays Falla (dance)
Jascha Heifetz Plays Zapateado
Jascha Heifetz – Archival Footage 1953 – Debussy + Wieniawski
Heifetz – Scherzo tarantelle – Wieniawsky
ascha Heifetz: God’s Fiddler
Heifetz – Piatigorsky – Rubinstein
Heifetz The last recital