生没年・出身地・歿地・墓地
アキテーヌ公ギョウム・ペイチュ九世 生誕 Guilhen de Peitieus、又はポワティエ伯爵ギョウム七世 Guilhen de Peitou、アキテーヌのウィリアム九世 Guillaume IX d’Aquitaineとも呼ばれる
(1071年10月22日生)
(1127年2月11日歿)
1.職業
中世フランスの貴族・最古のトロバドゥール
2.称号
ポワトウのギヨーム七世伯爵
アキテーヌのウィリアム九世
アキテーヌ公国ポワティエ伯爵
3.家系
高祖父の曾祖父:Duke Ranulf I Of Aquitaine ラナルフ1世(815-866)、ポワティエ家、866年からポワトウ伯爵、887年からアキテーヌ公爵。 888年アキテーヌ公尊称。
高祖母の曾祖母:Bilichilde Of Maineメイン州のビリキルド(820-c870)
高祖父の祖父: Ranulf Ⅱ of AquitaineアキテーヌのラヌルフⅡ(850-890)ポワティエ家、866年からポワトウ伯爵、 887年からアキテーヌ公爵
高祖母の祖母:Ermengardeエルメンガルド(†935)
高祖父の父:Ebalus、or Ebles Manzer、or Manser(870-935)ポワトウ伯爵とアキテーヌ公爵。ポワティエ家 AremburgaEmilienneAdele
高祖母の母:Emilienneエミリエンヌ(†913/915),最初の妻:Aremburgaアレンブルガ。2番目の妻:Emilienneエミリエンヌ。エミリエンヌが913/915年に亡くなった後、Adeleアデルと再婚した
高祖父:Guillaume ウィリアム三世(913-963) アキテーヌ公ウィリアム三世、ポワティエ家、アキテーヌ公、ポワチエ伯爵は、900年 にアキテーヌのエバルス(c870-935)とエミリエンヌの間に生まれた。
高祖母:Gerloc de Normandieアデル・ド・ノルマンディー(912-962)ノルマンディーのロロ公爵の娘:ゲロック
曽祖父:Guillaume ウィリアム四世(937-995)アキテーヌ公ウィリアム四世、ポワティエ家
曾祖母:Emma of Bloisエマ・ド・ブロワ(947-1003)、ブロワ伯爵ティボー・ル・トリチュールの娘:エマ
祖父:Guillaume Ⅴウィリアム五世(969-1030)、アキテーヌ公とポワトウ伯爵、ポワティエ家
祖母:Agnes of Burgundyブルゴーニュのアグネス(またはアグネスデマコン)(990-1068)、アキテーヌ公爵夫人、ジョフロワ2世との結婚によりアンジュー伯爵夫人となる。
父:Guillaume Ⅷウィリアム八世(1025-1086)、アキテーヌ公、ポワティエ家、
母:Hildegarde of Burgundyブルゴーニュのヒルデガルド(1056-1104)、ブルゴーニュ公ロベール1世の一人娘:三番目の妻。アキテーヌの公爵夫人。
4.家族
父:アキテーヌ公ギヨーム八世(アキテーヌのウィリアム八世)(1025年-1086年9月25日)
母:ヒルドガルド・ド・ブルゴーニュ( 1056年頃-1104年9月9日、ブルゴーニュ公ロベール一世の娘、ガスコーニュ公及びアキテーヌ公ギヨーム八世と結婚し3人目の妻となり、ガスコーニュ公妃兼アキテーヌ公妃となった。)
妻:エルマンガルド・ダンジュー(1068/72年-1146年6月1日、アンジューのフルク4世の娘、アキテーヌ公妃・ポワティエ伯夫人:1089年-1093年、ブルターニュ公妃:1093年-1112年)
2度目の妻:フィリッパ・ド・トゥールーズ(1073年頃-1117年11月28日、トゥールーズ伯ギヨーム四世の娘、アキテーヌ公妃、ガスコーニュ公妃、ポワティエ伯夫人)。
再婚した妻:フィリッパとの間のもうけたとされる子女
ギヨーム10世(1099年-1137年)アキテーヌ公。
レーモン(1099年?-1149年)アンティオキア公。ダンジュルーズを生母とする説有。
アニェス(1103年-1159年)トゥアール子爵エメリー5世と結婚、アラゴン王ラミロ2世と再婚。
オーデアルド-修道女
愛妾シャテルロー副伯妃アモーベルジュとの間のもうけたとされる子女
アンリ(?-1132年以降)-クリュニー修道院次長
アデライード
シビーユ-サント修道院女子修道院長
5.トルバドゥールとして
ギョウム九世は、吟遊詩人として最古のオック語の歌詞詩人として知られ、彼は彼自身が詩人であり、音楽的に詩を書いている。最初の「トルバドゥール」とも呼ばれる。十一編の詩が伝わっているものの楽譜が残っていないため、音楽の実体については不明とされている。アキテーヌでギヨーム・ド・ポワチエ九世によって始められたトロバルの芸術は、中世後期の騎士文化の詩人や歌手の重要な例のひとつと見なされている。
リチャード・クール・ド・ライオン(1157-1199)、アキテーヌ公、当時のイングランド王、アキテーヌのエレノアの息子、そして彼女を通してギヨーム・ル・トルバドールの子孫は、オック語で詩を残した。
6.歴史年譜
ポワティエ家王朝。当時のポワティエ家はポワティエ・ガスコーニュの他、リムーザンとアングーモワなどを含む、ロワール川からピレネー山脈、トゥールーズ伯領の国境付近にまでおよぶ、フランス国王を凌ぐほどの広大な領土を持つ大貴族であり、フランスの3分の1を占めていた。
中世フランス王国の裕福なアキテーヌ宮廷で生まれ育つ。彼は、グレゴリオ聖歌の教育を含む、ポワティエで優れた教育を受けた。詩を作成して曲にするのが簡単であることに、教師や仲間の生徒を驚かせた。彼は後に、より多くの聴衆に自分自身を理解させるために、ラテン語ではなくオック語で書いたり歌ったりした。一方、粗野で快楽にふける生活をしていたといわれる。
1071年
ギヨーム八世とイルドガルド夫妻の子として誕生。
父はアキテーヌ公国ギョーム八世、母は三番目の妻でブルゴーニュ公国ロベール一世の娘イルドガルド・ド・ブルゴーニュ。ギョウム九世の生まれた時は、先妻との離婚が成立せず教会は非嫡出子と判断していた。父はローマ教皇の承認を得るためローマへの旅に出る
1086年
父の死により十五歳で父親のウィリアム8世を継承し、彼の治世の初めにウィリアム・ザ・ヤンガーの名称を得て、ガスコーニュ公とアキテーヌ公国のポワティエ伯爵領主となる。これらを相続したギヨーム九世はトゥールーズ伯領併合へ野心を燃やす一方で、リモージュのサン=マルシャル修道院で勉強し身に着けたラテン語の教養が詩人としての素地を形成した。
1087年
行政組織に裁判官、森林官を加える。
1088年
母方の従妹に当たるアンジュー公国フルク四世の娘、エルマンガードと結婚のちに離婚(エルマンガアードは1093年ブルターニュ公国アラン4世と結婚)。
1091年
夫のふしだらな女性関係のせいでエルマンガルドは情緒不安定となり離婚。
1094年
トゥールーズ公国ギョーム四世の娘、フィリッパと再婚し、トゥールーズ公国領主を兼ねる。二人の息子と5人の娘をなす。
1095年
クリスマスにローマ教皇ウルバヌス二世を招待。
1096年
妻フィリッパの叔父レーモン四世が第一回十字軍に参加しエルサレムへ向けて出発。
1098年
叔父レーモン四世が不在にしたことで、フィリッパのトゥールーズ公国の継承権を主張して軍をトゥールーズに派遣、占領。
1100年
十字軍参加者の財産保全を司っていたローマ教皇パスカリス2世から圧力を受けたため、トゥールーズ公国をレーモン四世の息子ベルトランへ返還。
1101~02年
エルサレム十字軍に軍事指導者として参加し、アナトリアでは無謀な戦いで敗れ、9月のヘラクレアでセルジュークにより完敗し、十字軍は全滅に近い負け方をするが、運良く生き残ったギヨーム九世はほうほうの体でアンティオキア公国に脱出した。
アンティオキアの宮廷へ逗留していた時に、アラブの吟遊詩人達から影響を受けたという説があり、ギヨーム9世が詩作に打ち込んでトルバドゥールとして姿を現すのはこの十字軍から戻って来た後のことであるとされる。一方彼の詩に、当時イベリア半島のほとんどを支配していたアラブのベルベル人に引っ掛けて自分を述べている箇所があり、このことからイベリア半島のイスラム文化から影響されたのではないかという説もある。
1102年
エルサレムを訪れたが帰路、船が嵐に遭いアンティオキアへ引き返す。その後アシュケロンの包囲戦に参加し10月29日にポワティエへ帰還。
1112年
トゥールーズ公国のベルトランが父に倣い東方へ行き、トリポリ伯国で没したため再度トゥールーズに侵攻。
この頃からシャテルロー副伯妃アモーベルジュと不倫関係になる。
1114年
ベルトランの弟アルフォンス・ジュルダンと対決、激しい市街戦の末にトゥールーズを占領。
シャテルロー伯夫人と不倫など身持ちの悪さを理由に教会と対立し、ポワティエ司教から2度の破門を言い渡される。
1115年
シャテルロー副伯妃アモーベルジュをポワティエの居城の敷地内のモーベルジョン塔に住まわせて堂々と通うなど、あまりの仕打ちにフィリッパは同年にフォントヴロー修道院へこもってしまった。娘のオーデアルドも後を追うようにフォントヴロー修道院へ入り、母子は修道院で過ごした。前妻エルマンガルドもこの修道院に入り、ギヨーム九世は彼女たちを引き取ったロベール・ダルブリッセルと確執を生じた。
1116年
妻のフィリッパは、フォンドヴローの修道院に入り1118年修道院で没する。
1117年
二度目の破門を解かれ教会と和解し、イベリア半島のサンティアゴ・デ・コンポステーラへ巡礼した。
1119年
トゥールーズに残した代官ギヨーム・ド・モンモーレルが民衆反乱で追放された。
1120年
スペインへの十字軍に参加。アラゴン王アルフォンソ一世の支援へ赴き一緒にイスラム教徒と戦い、クタンダの戦いで勝利に貢献した。
1123年
残った拠点ナルボンヌをトゥールーズ市民軍に包囲・落とされトゥルーズ領の統治権を失う。
晩年は行状を悔い改め修道院で余生をおくる。
1126年
2月10日、自分の宮廷で54歳で死去。ポワティエのサン=ジャン=ド=モンティエルヌフ修道院に葬られた。
7.主な作品
《1:will make a verseどちらが適しているか》《2:Companhononpos mudar qu’eo m’effreiコンパニオン、私は動揺せずにはいられない》《3:Companho、tant ai d’avuls coures コンパニオン、悪い食べ物がたくさんありました》《4:Nothingness私は純粋な無についての詩を作ります》《5:Farai un verse pos mi sonelh私は寝ているので詩を作ります》《6:Ben vuelh que sapchon li pluzorみんなに知らせたい》《7:Pusvezem de Novelhflorirまた咲くのを見たので》《8:Farai a chansoneta nueva私は新しいディティーを作ります》《9:Molt jauzens、mi prenc en amar《強烈な喜びで、私は愛する》《10:Ab la dol-chor del temps navel 新しい時代の甘さで》《Pos de chantar m’esprestalentz欲望が私を歌わせたので》
8.関連動画
《Ab la dolçor》
《Farai un vers de dreyt nien》
《POS DE CHANTAR M’ES PRES TALENZ》
《Pos de chantar m´es pres talenz》
《Farai un vers、pos mi sonelh》
《Farai un vers pos mi sonelh》
《Ab la dolçor》
ハミド・ケズリ:ボーカルとドーター
キャロライン・デュファウ:ボーカル
Ensenhas 《Pos de chantar》 (Guilhèm de Peitieus)
《Farai un vers pos mi sonelh》
Farai chansoneta nueva、 私は彼女だけを愛します!
Ans que vent ni gel ni plueva 風が吹いたり、雨が降ったり、凍ったりする前に、新しいディティーを作ります。
Ma dona m’assaya em prueva、 私の女性は私を試し、試します
Quossi de qual guiza l’am; そして、彼女は私と喧嘩するかもしれません、
E ja per plag que m’en mueva 私は決して彼女をあきらめません。
No-m solutionra de sonliam。
Qu’ans mi lent a lieys em liure、
Qu’en sa carta-m potescriure。
E no m’en tenguatz per yure、
S’ieu ma bona dompna am!
Quar senesは、非puesc viure、
Tant ai pres de s’amor granfam
aquesta fri e trembleによると、Quar
de tam bon’amor l’am、
Qu’anc no cug qu’ennasquesは
Ensemblan del gran linhn’Adam
Que plus es blanca qu’evori、
Per qu’ieu autra non azori:
Si-m breu non ai aiutori、
Cum ma bona dompna m’am、
Morrai、pel cap sanh Gregori、
Si no-m bayza en cambr’o sotz ram。
Qual pro-y auretz、dompna conja、
Si vostr’amors mi deslonja
Par que-us vulhatz Meter monja!
E sapchatz、quar tan vos am、
Tem que la dolors me ponja、
Si no-m faitz dreg dels tortz q’ie-usclam。
Qual pro i auretz s’ieu m’enclosre
E no-m retenetz per
vostre Totz lo joys del mon es nostre、
Dompna、s’amduy nosamam。
Lay al mieu amic Daurostre、
Dic e miss que chan ebram。