生没年・出身地・歿地・墓地
グイード・ダレッツォ生誕
Guido d’Arezzo
生没年・出身地・歿地・墓地不詳
以下は憶測
(おそらく990~999年頃月日不詳。彼の出生地は不明、フェラーラ、ポンポサ、タラ、アレッツォ近郊が出生地という説、又はフランス、パリ生まれ説もある)。彼自身がポンポーザで生まれたと言ったという説もある
(おそらく1050~80年頃歿。イタリア、アレッツオ近くのアヴェラーナ(Avellano)又はラヴェンナとも言われている)
一説には
(991~992年頃アレッツオ生)
(1033年以降にアレッツォで没)
1.職業
イタリアの伝説的音楽教育家・音楽理論家、修道士
2.記譜法
グイード・ダレッツォはイタリアのベネディクト会修道士であり、記譜法の最も重要な創設者の1人と見なされている。歌手がグレゴリオ聖歌のピッチを覚えるのが難しいことを知り、彼はグレゴリオ聖歌をはるかに速く学ぶことを可能にする方法を考えた。。
現在の楽譜表記法のドレミの原案を考案。四本の線の上に四角い音符を書くという当時、聖歌を正確に記録し後世に伝えることが可能となった。現在のソルフェージュの基となる歌唱法を、グイドは同僚のミカエル修道士に宛てた「知らない歌についての書簡」で視唱方法を書いた。グイドはヨハネ賛歌を完全に憶え、特にフレーズの最初の音符・音節を示しただけで、そのフレーズをすぐに歌いだせるようになっておくこと。新しい曲の楽譜を読む際に、ある音符をどの高さで歌えばよいのかを知るには、対応するヨハネ賛歌のフレーズの開始音を思い出せばよい。そして、そうすると曲の各音符に対してこれを繰り返せばその曲が歌えるようになると説く。これらができると聴音もでき楽譜に書きとめられてない賛歌の各音節が賛歌の、どのフレーズの開始音に当たるのかを聴き分けると、楽譜に正しく書き取ることができると書簡に書いている。聖歌の歌い方等の音楽の指導書「ミクロログス」を著わした。
《Antiphonale Monasticumの現代的なコピーからの「Utqueantlaxis」〜伝統的なグレゴリオ聖歌の記譜法は、四行譜表の「ネウマ」と呼ばれる単一の音節で歌われる音符に書かれている》
3.歴史年譜
ポンポーザ(フェラーラ近郊)のベネディクト会修道院で教育を受けたと言われている。一説によると、パリ近郊のベネディクト派のサン・モール・デ・フォッセの修道院でグランフェイユのオド(Saint-Maur-sur-Loire)が、著した「サン・モール・デ・フォッセの音楽論」で教育を受けたという説があるが、定かではない
1013年頃
おそらく22~23才、ラヴェンナの修道院長の指示を受けフェラーラ近くのポンポーザの修道院に移ったようだ。ここにいる間に聖歌隊の歌手たちがグレゴリオ聖歌を憶えることの難しさに苦労しているのを知り、聖歌を憶え、そして教えるための方法を考案し、指導を始めた。旧来の指導と違うやり方に仲間の修道士が彼の新しい歌唱法に抵抗した。また従来の歌唱法にこだわるグイド修道院長との間にも指導方法の違いが表面化し始めた。
「ポンポーザ修道院」
1020年頃
グイドはポンポーザ修道院で補助祭、カントールになったといわれている
1022年
ベネディクト八世に呼び出され新しい歌唱法の説明の為ローマへ行った
1023~1025年頃
トスカーナ教区のテオダルドゥスTheodaldus司教に命じられ首都アレッツォに移り、大聖堂聖歌隊少年合唱団のカントールに任命された。
グイドは市壁の外のコッレデルピオンタにあるアレッツォ大聖堂で少年合唱団の音楽と歌の教師をはじめた。
テオダルドゥス司教から聖歌の歌い方等の音楽の技芸と訓練の指導書を公にするよう命じられた。数年後にグイドは音楽という技芸の諸規則を「ミクロログス」に著わし司教に提出する。
「アレッツォ大聖堂」
「コッレデルピオンタ旧大聖堂」
1028年
ヨハネス十九世の招きでローマに行き、「ミクロログス」の説明をして指導内容を示した。グイドの考案は音楽を見たり、読んだり、メロディーを学んだりするには実用的な価値があった
「ヨハネス十九世」
1029年
ポッピPoppiのカマルドーレComaldolesi修道院に行き歌唱法の指導を行った。その後グイドの名声は広がるようになった。十一世紀の新しい歌唱法の写本の多くはこのカマルドーレ修道院から出たも言われている
「カマルドーレ修道院」
1030~32年
ヨハネス教皇は三人の使者を派遣し、グイドをローマに招いた。グリマルドゥスGrimaldus修道院長とアレッツオの大聖堂参事会長ペトルス師Petrusに同行して三回目のローマを訪問した。教皇はグイドを歓迎し、「アンティフォナリウム」の書を説明するグイドの話を熱心に聞き理解を示したという。それは、少年たちが未知の聖歌を学ぶことに成果を上げた「アンティフォナリウム」の作品を教皇や聖職者に説明する必要があったからだ。グイドはマラリアの病気に苦しみ、滞在できず冬に再訪する約束をして、結局アレッツォに戻ることになった。この時は400キロ離れたポンポーザのグイド修道院長に招かれていたため、会う機会がありポンポーザを訪れた、ポンポーザ修道院時代の敵対関係も、教皇が理解を示したことを伝え、誤解の謝罪を受けたグイドはポンポーザに戻った。その後アレッツォのポッピにあるカルマドーレ修道院に行く。晩年はアレッツォ近郊アベラーノの修道院へ行ったのではないかと言われているが、定かではない
4.主な作品
「ミカエルへの未知の聖歌に関する書簡Epistola de ignoto cantu directa ad Michaelem」
「ミクロログスMicrologus」著作
「アンテフィフォナ入門Proglogus in antiphonarium」著作
「リズミカルの規則Regulae rhythmicae」著作
5.その他
ヨハネ賛歌
Ut queant laxis
Resonare fibris
Mira gestorum
Famuli tuorum
Solve Polluti
Labii reatum
Sancte Iohannes
‖Ut queant laxis ‖Resonare fibris Mira gestorum ‖Famuli tuorum、Solve polluti‖Labii reatum、Sancte Iohannes
それから、音符Ut-Re-Mi-Fa-Sol-La-の名前が出てくる
「ヨハネ賛歌の楽譜」
「グイドの手」
グイドの理論
<未知の歌の書簡Epistola de ignoto cantu>
グイドは、良く知られていた聖ヨハネの イムヌス(賛歌)、の最初の六章節の冒頭の歌詞を用いた以下の階名読みを考案した
ut re mi fa sol la
全音 全音 半音 全音 全音
その最初の六行は、2つの全音、半音、2つの全音の音階を形成している。 ヘキサコードと呼ばれ、六行で始まるラテン語の音節に歌われるこの対称的な一連の六つの音符、ut-re-mi-fa-sol-laは、耳の聴力と視唱のための彼の中心的なツールになった。 このヘキサコードをさまざまなピッチレベルにシフトすることで、歌い手は重要なハーフトーン間隔をどこで歌わなければならないかを常に判断できるようになった。
<ミクロログス>
グイドによって書かれた中世音楽に関する論文で、トスカーナ教区のテオダルドゥスTheodaldus司教に捧げられた。この論文は、グレゴリオ聖歌の歌と指導の実践を概説し、ポリフォニック音楽の作曲について記している
この書は中世を通じて修道院で使われた。それ以降も大学でも使われた。中世において最も実用的な功績を残した理論家であった
6.関連動画
Himno a San Juan Bautista (Guido d’Arezzo)
Guido d’Arezzo – Ut queant laxis (2013)
グイドの手を使ったソルフェージュ歌唱法
William Mahrtミラー・マルハート教授による、バブテストのヨハネを賛歌した8世紀ラテン語の賛美歌
Guidonian Hand
Guido – Ut Queant_0001.wmv
The Guidonian hand medieval notation printed on palms, for people to sing
Guido of Arezzo
Guido D’Arezzo
Coro Iride – Concorso Nazionale Guido D’Arezzo 2009
Ut queant laxis resonare fibris – Guido d’Arezzo
《The Tale of Guido d’Arezzo: An Interactive Storybook about the Inventor of Music Notation》