生没年・出身地・歿地・墓地
グイード・ダレッツォ生誕
Guido d’Arezzo
生没年・出身地・歿地・墓地不詳
以下は憶測
(991~992年頃アレッツオで生まれ)
(1033年以降にアレッツォで没した)
一説には
(※生年、(990~999年頃。彼の出生地も年代も不明である。おそらくフェラーラ、ポンポーサ、タラ、アレッツォ近郊が出生地という説、又はフランス、パリ生まれ説もある)。彼自身がポンポーザで生まれたとか、「山育ち」であると言ったという説もある
(※没年、(1050~80年頃歿。歿地も年代も不明である。おそらくイタリア、アレッツオ近くのアヴェラーナ(Avellano)又はラヴェンナとも言われている)
最近のMicrologusの研究により、1025年か1026年、彼はある手紙の中で34歳と記していることから、生まれたのは991年か992年であることが推測されるともある。
1.職業
イタリアの修道士・音楽教育家・音楽理論家
2.記譜法
グイード・ダレッツォはイタリアのベネディクト会修道士であり、イタリアの音楽理論家であり、中世後期の音楽の教育者であった。
記譜法と実践の発展に多大な影響を与えた。五線譜の原型の最も重要な創設者の一人と見なされている。
歌手がグレゴリオ聖歌の音高(おんこう)を口伝による教育方法では覚えるのが難しいことを知り、彼はグレゴリオ聖歌をはるかに速く学ぶことを可能にする方法を考え、ポンポーザ修道院で教えはじめた。
現在の楽譜表記法のドレミの原案を考案したという。ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラの型の6音の記憶を基礎にして視唱を教える方法を完成した。ミとファとの間が半音であとは全音である。グイードはこの型を記憶する助けとして《「ヨハネ讃歌」の歌詞の「一番」原典はカトリック教会での「洗礼者聖ヨハネの誕生」の祝日、6月24日の第二晩課の時に歌われていた》というよく知られた賛歌で、6つの句のそれぞれがこの型の音符のひとつで始まり、しかも一句ごとに上昇するようになっている、一番目の句はut、re、mi、fa、sol、la(ウト、レ、ミ、ファ、ソル、ラ)が音符の名前になった。ウトの代わりにド、ラの上にシをつけ加えている点を除けば、今日でも音の名前はこの方法で学ばれている。
下、伝統的なグレゴリオ聖歌の記譜法は、四線譜表の「ネウマ」と呼ばれる単一の音節で歌われる音符に書かれている
《聖ヨハネ賛歌》
四本の線の上に四角い音符を書くという当時、聖歌を正確に記録し後世に伝えることが可能となった。
現在のソルフェージュの基となる歌唱法を、グイドは同僚のミカエル修道士に宛てた「知らない歌についての書簡」で視唱方法を書いた。グイドはヨハネ賛歌を完全に憶え、特にフレーズの最初の音符・音節を示しただけで、そのフレーズをすぐに歌いだせるようになっておくこと。新しい曲の楽譜を読む際に、ある音符をどの高さで歌えばよいのかを知るには、対応するヨハネ賛歌のフレーズの開始音を思い出せばよい。そして、そうすると曲の各音符に対してこれを繰り返せばその曲が歌えるようになると説く。これらができると聴音もでき楽譜に書きとめられてない賛歌の各音節が賛歌の、どのフレーズの開始音に当たるのかを聴き分けると、楽譜に正しく書き取ることができると書簡に書いている。
聖歌の歌い方等の音楽の指導書「ミクロログス」を著わした。
下は、古代アレッツォのグイドモナコ広場にある記念碑
3.グイド生涯の情報
グイドの生涯に関する情報はほとんどない。音楽史家のチャールズ・バーニーは、記録が不足しているのはグイドが修道僧だったからだと主張した。バーニーはさらに、音楽学者サミュエル・D・ミラーの言葉を借りれば、「グイドの謙虚さ、物質的利益からの無私無欲な放棄、そして権威への服従は、彼の行動、仕事、動機をあいまいにする傾向があった」
グイドは西暦990年から999年の間に生まれた。この生年の範囲はミクロログスMicrologusの写本から推測されたもので、ヨハネ十九世が教皇(1024-1033年)であったとき、グイドは34歳であったと述べている。
オーシュによる写本の年代は1025から1026年であるということは、学者のクロード・V・パリスカ、ドロレス・ペシェ、アンジュエロ・マフッチによって認められている。生誕地は学者の間で多くの意見の相違の対象となっている。主な候補はトスカーナ州アレッツォ、またはフェラーラ近くのアドリア海沿岸にあるポンポーザPomposa修道院である。
4.歴史年譜
アレッツォ大聖堂のベネディクト会修道院で音楽マエストロであるシギゾSigizoに教育を受けたと言われている。一説によると、パリ近郊のベネディクト派のサン・モール・デ・フォッセ修道院でグランフェイユのオド(Saint-Maur-sur-Loire)が、著した「サン・モール・デ・フォッセの音楽論」の教育を受けたという説もある。
グイドの時代、アレッツォ大聖堂は城壁近くのピオンタの丘の上にあった。 この丘には、約七世紀前にアレッツォの司教で殉教者のサン ドナートが埋葬されており、それ以来、その強い精神的呼びかけに惹かれた高位聖職者や教会員が大聖堂教会を建設し、そこに住居を構えていた。したがって、その丘には、教会、家屋、宮殿を備えた本物の城塞があり、壁や塔によって有効に保護されていた。
下、11 世紀の中世の写本に描かれたモノコードを手にしているグイード・ダレッツォ(左)とテオバルドゥス司教
1001年頃
11歳の少年はその年、夏の終わりに初めてアレッツォ大聖堂の聖職者の学校に入学し、実りある教育の道を歩み始めたようだ。
グイドは、最初の音楽マエストロであるシギゾSigizo聖歌隊カントールに委ねられた。シギゾは、その年、大聖堂カントールであり、聖歌隊学校の隊長であり、厳粛な典礼の音楽監督であった。グイドは、サン・モール・デ・フォッセのオドの音楽論文を利用し、彼の原則を発展させたという。
1013-26年頃
おそら22~23歳頃、約10年間の研究と準備の後、成人した若い聖職者は今度はカントールに任命され、副助祭に任命された。
司教はグイドに街を離れ、ポンポーザの修道士になるようにいわれる。
大人になったグイドはアレッツォを去り、最も有名なベネディクト修道院の 一つと見なされていた名声に、新しい精神的および音楽的生活への希望に満ちて、1013年末または翌年の初めにポンポーザに到着しポンポーザの修道院に入った。
23歳ぐらいのときである。彼はすでに副助祭に叙階されており、アレッツォ大聖堂のカントールとして長年の宗教的経験や音楽経験を積んでいた。
ポンポーザはイタリア全土で、特にその素晴らしい芸術的、文化的、音楽的活動でよく知られていた。
グイドは歌手がグレゴリオ聖歌の音高(おんこう)を口伝による教育方法では覚えるのが難しいことを知り、彼はグレゴリオ聖歌をはるかに速く学ぶことを可能にする方法を考え、ポンポーザ修道院で教えはじめた。グイドの考案した、かなりの量の音楽を迅速に教えることができるという関心と評判をイタリア全土から得た。グイドの考案に脅威を感じていた仲間の修道僧たちからかなりの嫉妬と抵抗を引き起こしたと伝えられている。
下、Guidonian Hand
ポンポーザ修道院では、彼の新しい歌唱法に抵抗し、従来の歌唱法にこだわる同僚やグイド修道院長との間にも指導方法の違いが表面化し始めた。これらは、何年にもわたって、グイドの尊大な道に悪影響を及ぼしていたであろう要素であった。一節によると、1020年頃彼はポンポサを離れることを余儀なくされた。おそらくフランスに行き、サン・モール・デ・フォッセの修道院に行き、そこで彼と同じくらい進んだ理論家と出合ったという伝えもある。やがて、グイドはポンポーザを去り1025年頃アレッツォに移動した。
「ポンポーザ修道院」
1025-32年頃
青春時代を過ごしたアレッツォに戻り、35歳のグイドはトスカーナ教区のテオダルドゥスTheodaldus司教に会った。
テオダルドゥス司教は、グイドの並外れた発明の歴史的重要性を感じ、彼の保護を申し出た。彼は司教のオフィスで彼をもてなし、大聖堂の音楽学校の指導を任せ、彼の牧師としての奉仕を結びつけた。
テオダルドゥス司教に命じられ、グイドは首都アレッツォの近郊バディクリーチェBadicroceに移り、大聖堂聖歌隊少年合唱団のカントールに任命された。
グイドは市壁の外のコッレデルピオンタにあるアレッツォ大聖堂で少年合唱団の音楽と歌の教師をはじめた。
五線譜を使用して、グイドは大量の音楽をすばやく教えることができた。
このようにしてグイドは、ポンポーザで受けたすべての苦しみと屈辱を一瞬にして償うと同時に、宗教界全体の正当な配慮を取り戻した。
テオダルドゥスTheodaldus司教から聖歌の歌い方等の音楽の技芸と訓練の指導書を公にするよう命じられた。数年後にグイドは音楽という技芸の諸規則を「ミクロログス(音楽小論)Micrologus」に著わし司教に捧げられた。
グイードの音楽指導法はイタリア中から注目を集め、高く評価された。グイドの考案は音楽を見たり、読んだり、メロディーを学んだりするには実用的な価値があった
「アレッツォ大聖堂」
「コッレデルピオンタ旧大聖堂」
1028~32年
彼の名声はすぐに現職の教皇ヨハネス十九世(1024-1033)に届き、教皇はグイドに関心を示し三人の使者を派遣し、グイドにローマに来て、彼の新しい作品、Micrologus の論文が完成した直後の教授法、典礼を含む彼のシンフォニアをを発表するよう招いた。
グイドは、グリマルドゥスGrimaldus修道院長とアレッツオの大聖堂首席司祭ペトルス師Petrusに同行してローマを訪問した。教皇はグイドを歓迎し、説明するグイドの話を熱心に聞き修得した。教皇ヨハネは、マスターの助けなしに簡単にメロディーを解読して学ぶことができたことに大喜びし、また多くの質問をして会話を楽しみ、理解を示したという。グイドをローマに住まわせ、ローマの聖職者に新しいシステムを教え、それを紹介するように勧めた。それは、少年たちが未知の聖歌を学ぶことに成果を上げた「アンティフォナリウム」作品などを聖職者に説明する必要があったからだ。
グイドはローマの夏の猛暑と湿気に苦しみ体調を崩したためローマを出立した。冬に再訪する約束をして作品を教皇と聖職者に説明する約束をした。結局アレッツォに戻ることになった。しかしこの時は400キロ離れたポンポーザのグイド修道院長に招かれポンポーザを訪れた。グイド修道院長はグイドの業績を認めた。ポンポーザ修道院時代の敵対関係も、教皇が理解を示したことを伝え、誤解の謝罪をしグイドにポンポーザへ戻ることを願った。
下は、「ヨハネス十九世」
1029年以降晩年
ポッピPoppiのカマルドレーゼComaldolesi修道院に行き歌唱法の指導を行った。その後グイドの名声はさらに広がるようになった。十一世紀の新しい歌唱法の写本の多くはこのカマルドレーゼ修道院であるため、晩年はアレッツォ近郊のポッピにあるカルマドリCamaldoliの修道会のアヴェッラーナAvellanaの修道院一つであるエルミタージュの修道院に移り、定住したと言われている。1050 年頃にそこで生涯を終えたといわれている。
グイドに関する最後の文書は、1033年5月20日になっており、グイドの死はその日付より後であると知られている。
「カマルドレーゼ修道院」
5.主な作品
1. 「ミクロログスMicrologus」(1025–1026年頃)
聖歌の歌い方等の音楽の指導書「ミクロログス」を著わした。
国内【グイド・ダレッツオ『ミクロログス(音楽小論)』、中世ルネサンス音楽史研究会訳、春秋社、2018年】がある
2. 「アンティフィフォナリウム序文Prologus in antiphonarium」(1030-1031年頃)
どんな楽曲を表記する場合にも標準的に使える記譜法を説明した音楽教師向けの実践的なテキストを著した。楽曲の記憶を補助するこの優れたテキストは巷間に流布し、多くの写本が作られた。
3. 「韻文規則Regulae rhythmicae」(1026年以降)
「内容(訳)」
記譜について[の説明が]始まる。 私たちは、聖歌を学ぶためには、少なくとも3ヶ月間まじめに使い続けるのであれば、音を文字だけで記すこと以上にやさしい[方法は]ないと考えてきた。
一方、ネウマも、文字に比べて場所を取らないので普通に使われている。ネウマは、注意深く使い、次のように線と共に文字がいっしょに書かれるのなら、文字の代わりになる。
そして学習が進んだら、2本の線の間に1つの音を置こう。もちろん、様々な状況において様々な置き方が存在することを理性は求めている。
(註:原著はネウマ譜があり説明されている。)
4. 「ミカエルへの未知の聖歌に関する書簡Epistola de ignoto cantu directa ad Michahelem」(1031-1032年頃)
グイドは同僚のミカエル修道士に宛てた「未知の聖歌に関する書簡」で視唱方法を書いた。グイドはヨハネ賛歌を完全に憶え、特にフレーズの最初の音符・音節を示しただけで、そのフレーズをすぐに歌いだせるようになっておくこと。新しい曲の楽譜を読む際に、ある音符をどの高さで歌えばよいのかを知るには、対応するヨハネ賛歌のフレーズの開始音を思い出せばよい。そして、そうすると曲の各音符に対してこれを繰り返せばその曲が歌えるようになると説く。これらができると聴音もでき楽譜に書きとめられてない賛歌の各音節が賛歌の、どのフレーズの開始音に当たるのかを聴き分けると、楽譜に正しく書き取ることができると書簡に書いている。
6.その他
ヨハネ賛歌
Ut queant laxis
Resonare fibris
Mira gestorum
Famuli tuorum
Solve Polluti
Labii reatum
Sancte Iohannes
‖Ut queant laxis ‖Resonare fibris Mira gestorum ‖Famuli tuorum、Solve polluti‖Labii reatum、Sancte Iohannes
それから、音符Ut-Re-Mi-Fa-Sol-La-の名前が出てくる
「ヨハネ賛歌の楽譜」
「グイドの手」
グイドの理論
<未知の歌の書簡Epistola de ignoto cantu>
グイドは、良く知られていた聖ヨハネの イムヌス(賛歌)、の最初の六章節の冒頭の歌詞を用いた以下の階名読みを考案した
ut re mi fa sol la
全音 全音 半音 全音 全音
その最初の六行は、2つの全音、半音、2つの全音の音階を形成している。 ヘキサコードと呼ばれ、六行で始まるラテン語の音節に歌われるこの対称的な一連の六つの音符、ut-re-mi-fa-sol-laは、耳の聴力と視唱のための彼の中心的なツールになった。 このヘキサコードをさまざまなピッチレベルにシフトすることで、歌い手は重要なハーフトーン間隔をどこで歌わなければならないかを常に判断できるようになった。
<ミクロログス>
グイドによって書かれた中世音楽に関する論文で、トスカーナ教区のテオダルドゥスTheodaldus司教に捧げられた。この論文は、グレゴリオ聖歌の歌と指導の実践を概説し、ポリフォニック音楽の作曲について記している
この書は中世を通じて修道院で使われた。それ以降も大学でも使われた。中世において最も実用的な功績を残した理論家であった
「Fondazione Guido d’Arezzo: Attività/グイド・ダレッツォ財団:活動」ホームページ
7.関連動画
《聖ヨハネ賛歌 UT QUEANT LAXIS》NATIVITÀ DI SAN GIOVANNI BATTISTA – B
Ut queant laxis resonare fibris
Mira gestorum famuli tuorum,
Solve polluti labiis reatum,
Sancte Joannes.
Himno a San Juan Bautista (Guido d’Arezzo)
Guido d’Arezzo – Ut queant laxis (2013)
グイドの手を使ったソルフェージュ歌唱法
William Mahrtミラー・マルハート教授による、バブテストのヨハネを賛歌した8世紀ラテン語の賛美歌
Guidonian Hand
Guido – Ut Queant_0001.wmv
The Guidonian hand medieval notation printed on palms, for people to sing
Guido of Arezzo
Guido D’Arezzo
Coro Iride – Concorso Nazionale Guido D’Arezzo 2009
Ut queant laxis resonare fibris – Guido d’Arezzo
《The Tale of Guido d’Arezzo: An Interactive Storybook about the Inventor of Music Notation》
「The Story of Guido」 Music History Crash Course