生没年・出身地・歿地・墓地
ジョアキーノ・ロッシーニ(ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ)生誕 Gioachino Antonio Rossini
(1792年2月29日アドリア海沿岸の小さな町ペーザロ生)
(1868年11月13日パリ郊外で歿)
1.職業
イタリアの作曲家・美食家
2.称号
フランス国王第一作曲家・フランス声楽総監督
3.経歴
父ジュゼップ・アントニオ・ロッシーニは役所の勤めの他に町の歌劇場のホルン奏者、母アンナ・グイダリーニはパン屋の娘。本格的な教育を受けなかったがソプラノ歌手としての短期の経験がある
両親は早くから音楽を教え1798年6才頃には父の歌劇場でトライアングルの演奏をしている
1802年ラヴェンナ近郊の町ルーゴに移住し教会音楽家に音楽を学び伴奏や教会での音楽活動が出来るようになる
1804年ボローニャに移住しボーイソプラノとして又、劇場のチェンバロ奏者として勤めている
1806年ボローニャのリセオ音楽院に入りカベターニュにチェロを学ぶ
この年、家庭教師のドメニコ・モンペッリに委託されて試作オペラ「Demetrio e Polibio]作曲、モンペッリと娘二人の個人的な演奏で本格的なオペラではない
1807年音楽院院長のバドレ・スタニスラオ・マッティーに作曲法・音楽理論を学ぶ
1810年音楽院を卒業し、ヴェネツィアで1幕オペラ「結婚手形」初演し作曲家デビュー
1811年ボローニャでオペラ「ひどい誤解」初演
1812年4本の初演があった。内9月26日初演のオペラ「試金石」のミラノ・スカラ座は大当たりとなり兵役を免除される
1813年4本のオペラが初演され、6月2日ヴェネツィアでの「タンクレーディ」と5月22日ヴェネツィアでの「アルジェのイタリア女」初演は大ヒットとなりヨーロッパ
中に名声が広がる
1815年4月10日ナポリ、サン・カルロ劇場でオペラ「イングランドの女王エリザベッタ」初演し、同劇場の音楽監督に就任する
1816年2月20日ローマ、アルゼンチン劇場で「セビリアの理髪師」初演
1817年1月25日ローマ、ヴァッレ劇場で「チェネレントラ」初演、同年5月31日ミラノ・スカラ座で「泥棒かささぎ」初演
1819年9月24日ナポリ、サン・カルロ劇場で「湖上の美人」初演
1822年ウイーンで晩年のベートーヴェンを訪ね会う
1822年歌手のイザベラ・コルブランと結婚
1823年3月2日ヴェネツィア、フェニーチェ劇場でオペラ「セミラーミデ」初演
1823年イギリス・ロンドンに招かれ翌年パリに移り、その後フランス国王の第一作曲家及びフランス声楽総監督の称号を授与される
1824年パリのイタリア劇場音楽監督就任
1825年6月19日パリ、イタリア劇場で「ランスへの旅」初演
1826年10月9日パリ、王立音楽アカデミーで「コリントの包囲」初演
1929年8月3日パリ、王立音楽アカデミーでオペラ「ウイリアム・テル」初演
1832年頃腰痛疾患、坐骨神経痛を患う
1835年頃健康を害す
1836年44才で音楽界から引退しイタリアのボローニャに戻り、のちフィレンツェで暮らす
1839年母校ボローニャ音楽院名誉院長
1839年神経衰弱になる
1842年慢性尿道炎が悪化する
1844年パリで膀胱の手術を受ける。その後、温泉療法で健康を回復し、パリで毎土曜日自分のサロンて美食と音楽の会を開き評判になる
1845年妻イザベラの死
1846年愛人であった美術モデルのオランプ・ペリシエと再婚
1855~68年の間に186曲作曲している。ピアノ少品集には「小さな胡瓜」、「バター」、「干しぶどう」、とか「痙攣前奏曲」、「我が朝の健康前奏曲」などユニークな題名の曲がある
1868年誕生祝いのあと、病床に伏し、直腸瘻の手術が行われたあと敗血症状が現れ13日の夜、76年の人生を閉じる。
遺体はパリのペール・ラシェーズ霊園に埋葬されたが、19年後に祖国イタリア、フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂へ移されている。
4.主な作品
オペラ39曲、管弦楽曲、小ミサ・ソレムニス、歌曲、器楽曲等々