フルトヴェングラー

生没年・出身地・歿地・墓地
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー生誕 Wilhelm Furtwängler
正しくは グスタフ・ハインリヒ・エルンスト・マルチン・ヴィルヘルム・フルトヴェングラー

(1886年1月25日ベルリン生)
(1954年11月30日バーデン=バーデンに歿)

1.職業

ドイツの指揮者・作曲家・ピアニスト

2.称号

3.経歴

⑴ フルトヴェングラーという長い姓は南西ドイツ、フライブルク近くのフルトヴァンゲン近郊にある標高1,000mという山間部の農地(フルトヴェングレ)に由来する。フルトヴェングラーの父方の先祖たちは、神聖ローマ帝国時代の15世紀から17世紀まで同地で代々農業に従事していたと思われる。
「18世紀終わりのバルトロメウス(曾祖父)の代には、山間集落から抜け出して近隣の町に暮らした。馬車によって時計などを運ぶ運送業のほか、穀物商も営んで」いたようだ。「そのため時計に縁のあったバルトロメウスは、子供たちの大半に時計職人の技術を学ばせ、12人の子供の半数は時計職人と」なった。フィリップはオルガン製作者になった。
「大学で文献学と考古学を学んだヴィルヘルム(1809-1875)」はフルトヴェングラーの祖父にあたる。祖父は「学生の時にギリシャの陸軍大臣の家で家庭教師として働き、考古学の博士号を取得してからは各地転々、最後はフライブルクのギムナジウム(中高等学校)で教師になり、後に(校長を務め)た
参考文献:HMV、『ヴィルヘルム・フルトヴェングラー&ベルリン・フィル 定期演奏会の … – HMV』「ヴィルヘルム・フルトヴェングラー&ベルリン・フィル 定期演奏会のベートーヴェン:交響曲第1番、第3番、第5番、第6番、第7番、第8番(1947-54)(6CD) 」人物フルトヴェングラー年譜

⑵ 父アドルフ・フルトヴェングラーは、ギリシャ・ローマ時代を専門とする有名な考古学者、ベルリン大学教授、ベルリン考古博物館館長であった。
1894年ミュンヘン大学に招かれ、ベルリンでの職を辞し、一家はミュンヘンに移った。父はミュンヘン大学考古学教授、古代彫刻館、古壺および鋳造博物館の館長に任命された。ロマン派の音楽に深い理解をもっていたという。
1907年ギリシャのエギーナで赤痢にかかり、54才で客死した。遺体はアテネで丁重に埋葬された

⑶ 母アーデルハイト・ヴェント(1863-1944)の祖父は、プロイセン王立学校の教育行政官で、のちに枢密顧問官になった。
父も教育者で中高等学校の「校長のあと、バーデン教育委員会の枢密顧問官を務め」た。母アーデルハイトの母方であるドルーン家の家族には、『教育関係者のほか、音楽家も多く、中にはプレスラウ音楽学校長になった従兄のゲオルク・ドルーン(1867-1942)』がいて、「フルトヴェングラーにヴァイオリンを教えたり、作品を指揮して初演したり、仕事の支援をしてくれたり」した。「ヴェント家には音楽サロンがあって、多くのアーティストの交流の場となっており、ブラームスが訪れたこともあった」ようだ。
母アーデルハイトはそうした環境の中で育ち、音楽的才能を持った女流画家であった。
参考文献:HMV、『ヴィルヘルム・フルトヴェングラー&ベルリン・フィル 定期演奏会の … – HMV』「ヴィルヘルム・フルトヴェングラー&ベルリン・フィル 定期演奏会のベートーヴェン:交響曲第1番、第3番、第5番、第6番、第7番、第8番(1947-54)(6CD) 」人物フルトヴェングラー年譜

⑷ ヴィルヘルム・フルトヴェングラーFurtwängler(以下、フルトヴェングラーとする)は、1886年1月25日朝7時30分ベルリン、シェーネベルク地区マーセン通り23番地で生まれた。彼には弟のヴァルター(1887~1967)、二人の妹、マルテ・エディト(1891~1974)およびアンナ(1900~1974)がいた。家族で音楽家になったのはフルトヴェングラーひとりだけであったようだ
両親は英語を見事に駆使できた人たちで、母はフルトヴェングラーに本を英語に翻訳させたり、英語から翻訳するよう教えた。ごく幼い時から自然に対して強い関心を示した。
4才で母から音階とピアノの手ほどきを受けたとき「とっくに昔からすべてを知っていたかのようだった」という。次いで叔母のミンナ・フルトヴェングラーにピアノを学んだ。生まれつきの高い知能を持っていたのが原因のようで、同じ年頃の子供たちと親しく遊ぶことができず、孤立していることを楽しむようなことさえあったようだ。また、遊び友たちの中では、しばしば虐めの対象に選ばれることもあったようだ。知性が高く、頭の回転が速かった。他の子供たちとの才能が比較にならないがために、我慢したりしていたようだ。また、知識人としての天賦の才能には、教師の中に太刀打ちできない者が大勢いたりしたようだ。やがて両親はそれらに気づき、ありきたりの学校教育では適切な教育が受けられないと判断した。
両親はフルトヴェングラーが12才になったら、全面的に家庭で教育することに考えが至ったようだ。
ミュンヘンに移り、父親はテーガンゼーTegernsee近くのテーガン湖の景色が気に入り土地を買い、小さな家を建て(タンネック)の家と呼ばれたこの家で、フルトヴェングラーは夏休みを弟のワルターや妹のメリートたちと過ごした。
ミュンヘンの家には立派な芝生のテニスコートがあり、父は兄、妹、フルトヴェングラーたちを相手に毎日テニスを楽しんだがフルトヴェングラーには敵わなかったようだ。
フルトヴェングラーは、敏捷な身体を、水泳、ヨット、山登りで鍛えさらに、父親がスキーの道具を取り寄せてからは、スキーも上達した。フルトヴェングラーはいつも好んで乗馬、水泳、徒歩旅行に出かけたという。
演奏会のある日でも1~2時間散歩することを最後までやめなかったという

1892年6才、ルリンの初等学校入学

1893年7才で作曲を始めた。現存する作品は《動物についての小品⦆など24曲を完成し、音楽的才能が注目された

1894年フルトヴェングラー8才の時、父アドルフがベルリン考古博物館館長の職を辞し、招かれてミュンヘン大学考古学教授に任命された。一家はミュンヘン、シュヴァービング地区に移る。ルートヴィヒ二世の狩猟小屋を購入。テニス・コートと大きな噴水ある庭園付きであった。父親は好んで子供たちと山野を歩き、ミュンヘンに移ってからも学校の通学は自転車で通わせた。この頃イタリアではアルトゥーロ・トスカニーニは27才でルッカで幾つかのオペラを指揮して名が知られていた。ついでに書くと、リヒャルト・シュトラウスはハンス・フォン・ビューローの後任としてベルリン・フィルの指揮者に、28才のアルトゥア・ニキシュはブタペスト歌劇場の音楽監督に任命されたばかり、ヴェルディはオテロを、マーラーは最初の交響曲を作曲し『た。

1896年10才、ミュンヘンの初等学校を卒業し、ミュンヘンの中高等学校(ギムナジウム)入学。《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》《ピアノとヴァイオリンとチェロのための三重奏曲》《弦楽四重奏曲》《六つのピアノソナタ集》を作曲

1897年11才、ミュンヘンのヴァルター四重奏団が、フルトヴェングラーの家で、10才のフルトヴェングラーが作曲した《弦楽四重奏曲》を演奏した。音楽的才能の確認が専門家により行われた。マックス・シリングス、ヘルマン・レーヴィ等が審査にあたりその才能を認めた。
アントン・ベーア=ヴァルブルンに対位法、管楽器法を学び始める。

1898年12才になったとき、両親はミュンヘンの中高等学校(ギムナジウム)を退させ、個人教授を受けさせた。家庭教師の学生のヴァルター・リーツラー(1878-1965)20才が着任。哲学と芸術に関して教えた。リーツラーはのちに音楽学者となった。リーツラーの後任に24才のルートヴィヒ・クルティウス(1874-1954)がなった。彼はローマ文化を中心に教えた。クルティウスはのちに考古学者となりローマ考古学協会会長になった、彼は1952年にドイツ政府より文化功労賞を授与さた。
この頃にはベートーヴェンの作品をほとんど全部記憶し、どの作品も暗譜でピアノを弾くことができたようだ。

1899年13才6月母に連れられドルーン家の人々とベルリンに行った。マックス・ブルッフ、ヨーゼフ・ヨアヒムに会う。ヨアヒムからヨーゼフ・ラインベルガーを紹介された。
父アドルフは、ミュンヘン郊外テーガンゼーTegernseeテーガン湖Lake にのほとりに土地を取得し、森の木を使って1人の大工と共に自力で別荘(タンネック)を建て毎夏、四週間の休暇を過ごすようになる。その後、フルトヴェングラーは、ヨットや登山、スキー、乗馬を楽しむようになる。

1900年14才からヨーゼフ・ラインベルガー(オルガン奏者・作曲家・当時ミュンヘン音楽学校校長)に作曲法を師事。
ミュンヘン・オーケストラ協会自作の《序曲》を指揮、《ピアノ四重奏曲》を自身のピアノで初演

1901年15才、父に連れられギリシャのアイギナ島のアファイア神殿の調査に行く
11月25日ラインベルガーは肺疾患で亡くなり、代わりにマックス・フォン・シリングス(作曲家、1919年にベルリン国立歌劇常任指揮者就任)が作曲法の教師となる。シリングスからは指揮法の教えを同時に受けた。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲について徹底的に学ぶ
彫刻家ベルテル・フォン・ヒルデブラントの家に招かれ、娘のベルテルと意気投合する

1902年16才、2月ベルテル・フォン・ヒルデブラントと婚約。家庭教師のクレティウスとフィレンツェに旅行し半年ほど滞在した

1903年17才、母の従兄ゲオルク・ドールンの縁故で11月、自作の《交響曲ニ長調》がプレスラウで演奏された。初演は失敗に終わる。この経験から作曲で生計を立てることは出来ないと知る。冬、ベルリンで一人暮らしを始め、翌年まで滞在した。

1904年18才、母方の叔父ヴォルフ・ドールンと母方の親戚ハラルト・ドールンとロシアに旅行。(一年志願兵資格試験)を受けるが不合格

1905年19才秋、母の従兄ゲオルク・ドールンの紹介でプレスラウ市立歌劇場コレペティートルの仕事に就く。リリー・ディークマン夫人と知己になり、集まりに招かれるようになり、著名人に出会った。母の友人の小説家イーダ・ボイ=エド夫人に気に入られ、ヴォルフ=ザックス社を経営しているヴォルフ家に紹介され出入りできるようになったことが、出征の糸口になる。(一年志願兵資格試験)を受け不合格

1906年2月19日婚約者のベルテルに結婚の意思がないことを話す。父の力添えでミュンヘンのカイム管弦楽団で、初めて演奏会の全プログラムを指揮してデビューし成功を収めた。秋、チューリヒに移り、マックス・フォン・シリングスの推薦で、チューリヒ歌劇場第3指揮者兼合唱指揮者になった。(一年志願兵資格試験)を受けるが、不合格。ベルテルとの婚約を正式に解消
参考文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年

1907年2月チューリヒ市立歌劇場で《メリー・ウィドウ》のスイス初演を指揮中に集中力を失うという失態をし、立ち会ったレハールも落胆させる。
4月チューリヒ歌劇場との契約を解消。夏をタンネックで過ごす。秋、(一年志願兵資格試験)を受けるが、不合格
10月10日父アドルフがギリシャで赤痢に罹り54才で亡くなり、ギリシャへの貢献が称えられ同地で国葬が営まれた。寡婦となった母親、弟と二人の妹と自分自身の生計を立てなければならなくなった

1909年ミュンヘン宮廷歌劇場の音楽監督フェリックス・モットルのアシスタントとして、コレペティトア・副指揮者に任命され週給500マルクの給与を得た。ここで2年間励みモットルという偉大な指揮者のもとで、基本的なオペラのレパートリーを学びながら、モットルの歌劇場における芸術上の諸々の実務を管理し、その多方面にわたる才能を展開させていく様子を注意深く見つめた

1910年シュトラスブルク市立歌劇場第3指揮者・監督助手に任命された。ここで17才年上のハンス・ブフィッツナーという優れた指揮者で著名な作曲家の指導を受けることになる。ブフィッツナーとの結びつきは、1949年にブフィッツナーが亡くなるまで友好的な関係を続けた。やがて9才年上のブルーノ・ワルターの注意を引いた。そして友人、助言者のような存在となった。歌劇場でのオペラ指揮者としての働きは、作品は二流のものばかりで、受けた批評は大好評とはほど遠かった。新聞の論評も満足できるものではなく、解任されるに十分な機会を提供したが、ブフィッツナーは指揮を続けるよう勧め、ヴィルヘルムはその助言に従った
9月27日、ドニゼッティのオペラ《愛の妙薬》シュトラスブルク市立歌劇場デビュー
自作《テ・デウム》を作曲し、11月ブレスラウで叔父のゲオルク・ドールン指揮とシュレジア・フィルの演奏によって初演された

1911年1月シュトラスブルク市立歌劇場でオペレッタ《可愛いミシュ》・喜歌劇《マルタ》。
2月オペレッタ《ヴィラールの竜騎兵》・《可愛いミシュ》・《マルタ》等を指揮し、27-28日シュトラスブルク市立歌劇場で喜歌劇《こうもり》指揮
「春、ブフィッツナーの推薦とリリー・ディークマンおよびイーダー・ボイ=エド両夫人の勧めにより、リューベックの楽友協会指揮者ヘルマン・アーベントロートの後を継ごうと応募した。97人の応募の中『4人の候補者の競争となったが、(略)無名でさして経験があるわけではなかっので、(略)彼は音楽が始まった途端にあまりにも熱中したため、自分が見守られていることを完全に忘れた。中休みになると、オーケストラの団員の中から、その場で代表が選ばれ委員たちのところに行き、ほとんどの者がフルトヴェングラーを雇うよう希望していると伝えた」。
4月「リューベックでのオーケストラ音楽監督の地位を26才で与えられた。しかし、フルトヴェングラーは優柔不断の精神状態に陥り、自分はこのような責任を負うには経験不足であり、経営や管理のことは何も分からないと何度も繰り返したが、「ボイ=エド夫人が彼に自信を持つよう激励したり、彼自身の不利になる論拠に辛抱強く反論したおかげで、ようやく彼はその地位を受け入れた」。またリューベック市立歌劇場からの指揮依頼もありスケジュールは多忙を極めることになった。
エリーザベト・フーフと交際が始まり、10年後の1921年に3番目の婚外子フリーデリケが生まれることになる
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、45~46頁

1912年リリー・ディークマン領事夫人に連れられてアルトゥール・ニキシュの公演を聴きにハンブルクに行った。終演後にマエストロを囲む食事会に出席し、崇敬するニキシュに紹介された。ニキシュとの出会いであり、生涯で最も影響を受ける経験となった。「ニキシュのスタイルは音楽の形式に関する感覚を育てるのに実際に役立つ規範だったが、その土台となるべきものを必要とした」。「ウィーンの著名な理論家ハインリヒ・シェンカーの著書を見つけ、その中のベートーヴェンの《交響曲第9番》と題する評釈が、音楽理論へのアプローチの仕方にきわめて深く感動し、解釈の展開は説得力があるものと感じられた。このことがあって後に、友人のヴェルナー・ヴォルフにニキュシュの後継者になりたいと打ち明ける。ヴォルフはその話を自分の母親が支配していたヴォルフ=ザックス音楽事務所の母ルイーゼ・ヴォルフに、フルトヴェングラーの語った、この打ち明け話を話した。母親は音楽界にも影響力があり(ルイーゼ女王)と呼ばれていた」。
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、50頁

1913年1月26日ウィーン演奏協会管弦楽団と初の国外公演を指揮
4月ベートーヴェン《交響曲第9番》「合唱」を初めて指揮

1914年7月ミュンヘン演奏協会管弦楽団を指揮
11月ハンブルクでベートーヴェン・コンサートを指揮

1915年3月23日リューベックの劇場で、フルトヴェングラー指揮する《フィデリオ》公演を聴きに、マンハイム宮廷歌劇場総監督アルトゥア・ボタンスキーに率いられた5人の調査委員会が出席していた。彼らに認められフルトヴェングラーはマンハイム宮廷歌劇場音楽監督に就任し、9月マンハイムに着任した。マンハイム在任中に有名な音楽家が客演するようになり、その一人がフィラデルフィア管弦楽団を率いていた指揮者レオポルド・ストコフスキーだったが、「長い生涯を通してストコフスキーが真に偉大であるとみなす指揮者として名を挙げたのは、三人しかいない。アルトゥア・ニキシュ、ハンス・リヒター、そしてフルトヴェングラーである」と語っている。「オペラにおいてフルトヴェングラーが任されていたのは、レパートリーを選び、配役をおこない、指揮者を割り当てることで、また新しい作品や舞台装置家、その他演出の細目に関する選定についてインテンダント(劇場支配人)と協議することだった」。9月7日《フィデリオ》を指揮してマンハイムデビュー。
10月マンハイム宮廷歌劇場でベートーヴェン《交響曲第5番》ほか、ワーグナーのオペラ《さまよえるオランダ人》、ウエーバーのオペラ《魔弾の射手》を指揮
11月マンハイム宮廷歌劇場でブルックナー《交響曲第4番》、《フィデリオ》、《モナ・リザ》《ワルキューレ》を指揮
12月マンハイム宮廷歌劇場でブルックナー《交響曲第4番》、ウエーバーのオペラ《魔弾の射手》、《モナ・リザ》、《ワルキューレ》、《ジークフリート》、《神々の黄昏》を指揮。後に秘書となるガイスマールに会う
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年

1916年マンハイム宮廷歌劇場1月ブラームス《交響曲第1番》ほか、《トリスタンとイゾルデ》、《モナ・リザ》、《ワルキューレ》、《さまよえるオランダ人》、《ウィンザーの陽気な女房たち》を指揮
2月マンハイム宮廷歌劇場ベルリオーズ《幻想交響曲》ほか、オペラ《ドン・ジョヴァンニ》、《ウィンザーの陽気な女房たち》、《モナ・リザ》を指揮
3月マンハイム宮廷歌劇場R・シュトラウス《死と変容ほか》、《ウィンザーの陽気な女房たち》、《モナ・リザ》、《ワルキューレ》、《ジークフリート》、《神々の黄昏》、《ラインの黄金》を指揮
4月マンハイム宮廷歌劇場《さまよえるオランダ人》、《パルジハル》を指揮。北フランスリに引っ越し公演で《フィデリオ》、ベートーヴェン《エグモンド序曲》と《交響曲第5番》「運命」を指揮
5月16日マンハイム宮廷歌劇場《トリスタンとイゾルデ》、《パルジハル》、《哀れなハインリヒ》、《シュラミート》を指揮
ニキシュがマンハイム宮廷歌劇場に客演し《カルメン》と《こうもり》を指揮した。崇敬するニキシュとの会話を交わした。
6月マンハイム宮廷歌劇場《パルジハル》、《哀れなハインリヒ》、《シュラミート》、《ワルキューレ》、《ウィンザーの陽気な女房たち》、《さまよえるオランダ人》、《フィデリオ》を指揮
9月マンハイム宮廷歌劇場《さまよえるオランダ人》、《ワルキューレ》、《タンホイザー》、《カルメン》を指揮
10月マンハイム宮廷歌劇場シューベルト《交響曲グレート》、《タンホイザー》、《カルメン》、《ウィンザーの陽気な女房たち》、《さまよえるオランダ人》、《こうもり》、《魔弾の射手》、《後宮からの誘拐》、《モナ・リザ》を指揮
11月マンハイム宮廷歌劇場マーラー《大地の歌》、オペラ《アイーダ》、《後宮からの誘拐》、《魔弾の射手》、《ワルキューレ》を指揮
12月マンハイム宮廷歌劇場クレーナウ《ダンテ交響曲》、オペラ《アイーダ》、《カルメン》、《こうもり》、《ナクソス島のアリアドネ》、《シュラミート》を指揮
この頃からフルトヴェングラーは演奏会の公演後の情事が始まりケテルス夫人に非嫡出子ヴィルヘルムが生まれる。後年認知

1917年1月マンハイム宮廷歌劇場ベートーヴェン《交響曲第4番》、《ナクソス島のアリアドネ》、《サロメ》を指揮
2月マンハイム宮廷歌劇場《こうもり》、《タンホイザー》、《サロメ》を指揮
3月マンハイム宮廷歌劇場ベートーヴェン《交響曲第3番》、《ジークフリート》、《カルメン》、《こうもり》、《カルメン》を指揮
4月マンハイム宮廷歌劇場《フィデリオ》、《魔弾の射手》、《パルジハル》、《ラインの黄金》、《ワルキューレ》、《ジークフリート》を指揮
5月マンハイム宮廷歌劇場オペラ《魔笛》、《フィデリオ》、《魔弾の射手》、《こうもり》、《パルジハル》、《タンホイザー》を指揮
6月マンハイム宮廷歌劇場オペラ《魔笛》、《アイーダ》、《ヴィオランタ》、《トリスタンとイゾルデ》、《ラインの黄金》を指揮
7月マンハイム宮廷歌劇場《ワルキューレ》、《ヴィオランタ》、《神々の黄昏》を指揮
9月マンハイム宮廷歌劇場オペラ《魔笛》、《ラインの黄金》、《ワルキューレ》、《ジークフリート》、《神々の黄昏》
『バーデンバーデンにおけるこの「リング」四部作の特別公演に客演指揮者として招聘を受けた』。
10月マンハイム宮廷歌劇場ベートーヴェン《交響曲第7番》、《さまよえるオランダ人》を指揮
11月マンハイム宮廷歌劇場ブルックナー《交響曲第8番》、《カルメン》、《ウィンザーの陽気な女房たち》、《魔弾の射手》、ゼクレス《シェエラザード》を指揮
12月マンハイム宮廷歌劇場ブラームス《交響曲第4番》、オペラ《魔笛》、《ナクソス島のアリアドネ》を指揮
12月14日ベルリン・フィルに指揮デビューし、《タンホイザー序曲》と《ドン・ファン》、「著名なワーグナー歌手ハインリヒ・ヘンゼルとフリッツ・ファインハルスがワーグナーの曲の中から6曲、R・シュトラウスの2曲を歌った。デビューについて批評家は激賞した」。
1917/18のシーズンはベートーヴェン《第5番》を繰り返し、《第1番》と《第7番》を加えた。ブルックナーの《第8番》、リストの《ダンテ》、シューベルトの《未完成》、《グレート》を公演した。同時代の作品マックス・レーガーの《モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ》、ジョージ・セルの《変奏曲集》を選んだ。次シーズンを通し特別興行としてR・シュトラウス祭を取り仕切り、R・シュトラウス自身が登場してオペラ《サロメ》とオペラ《ばらの騎士》、オペラ《アリアドネ》その他自作の管弦楽曲の演奏会を指揮した。「第一次世界大戦の間、音楽の特定の分野に近づかないよう特に気を配った。自分が指揮することで自分自身や音楽の持つ力を政治的行事に関わらせることを許せなかった」。
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、64頁

1918年1月18日ベルリン・フィルを指揮しブルックナーの交響曲第4番の公演で大成功を収めた。
4月4日ハンス・フォン・クレーナウのオペラ《キャルタンとグドルーン》世界初演を指揮。9月15日フランクフルト・ミュージアムコンサートの定期公演シリーズの客演指揮者となり、最初のコンサートでレオニード・クロイツァーと初めて共演しラフマニノフの《ピアノ協奏曲第2番》を指揮した。このコンサートを、フルトヴェングラーは1920年に音楽監督(首席指揮者)を引継ぎ1922年まで続けた

1919年5月ウィーンの音楽理論家ハインリヒ・シェンカーの個人的知遇を得て弟子になる。同時に長年にわたる友人にもなる。個別指導はシェンカーの家かウィーンで常連だったカフェで行われた。数多くのスコアーを、特にベートーヴェンのスコアを繰り返し勉強した。またウイーンを訪れる際には、いつもあらゆる機会をとらえてシェンカーに会った。在任中にニキシュが客演し《カルメン》と《こうもり》を指揮したトンキュンストラー管弦楽団客演指揮。ハンブルク、ストックホルム・フィルなどで客演指揮をした

1920年シーズン終了とともにマンハイムの職を辞す。ドイツおよびオーストリアの主要都市に客演指揮者として登場。聖週間の4月2日に、ベルリン州立歌劇場管弦楽団のコンサートでワーグナーの《パルジファル》前奏曲、バッハの《組曲第3番》、ベートーヴェンの《交響曲第3番》「英雄」を指揮。次の日の午後と夜には、ヘンデルの《合奏協奏曲》とベートーヴェンの《交響曲第9番》「合唱付き」を指揮した。そしてベルリン州立歌劇場管弦楽団コンサートの音楽監督に就任し、一流指揮者の一人としての地位を確立した

1921年8月30日ニキシュのいるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団にデビュー。曲目はウェーバー《魔弾の射手》序曲、シューマン《交響曲第四番》、シュトラウスの《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》、リスト《ハンガリー幻想曲》・《ピアノ協奏曲第一番》を指揮。

1922年1月23日ベルリン・フィルとライプツィヒ・ゲバントハウス管両オーケストラの音楽監督ニキシュが急死。
「ニキシュはドイツで、世界でとさえいった人もいるが、議論の余地のない指揮者の帝王だった。そして当時の国際的音楽界でそのような名称に対する本格的なライバルはトスカニーニだけだった」。ベルリンは後継者選びという賭けに沸き立った。
「R・シュトラウス、ブルーノ・ワルター、エーリヒ・クライバー、オットー・クレンペラー、それにフェリックス・ワインガルトナーが本命であり、これに対抗するのがウィレム・メンゲルベルク、フリッツ・ブッシュ、ジークムント・フォン・ハウゼネガー、カール・シューリストだった」。
1月26日フルトヴェングラーはゲヴァントハウス管の客演指揮を終わらせるとベルリンに向かい、ルイーゼ・ヴォルフにベルリン・フィルで「ニキシュの後継者になりたいと申し出た」。「ルイーゼ・ヴォルフ(~略~)。彼女は、ドイツでもっとも力があった音楽事務所ヴォルフ=ザックスの重役で、その傘下には、当時の、そして二十世紀を通して活躍した、一流演奏家が多数いた。(~略~)、エドヴィン・フィッシャー、アドルフ・ブッシュ、ジークフリート・オネーギン、ゲオルク・クーレンカンプ、カール・ムック、フェリックス・ワインガルトナー、テレーザ・シュナーベルとアルトゥア・シュナーベル、エンミ・ライスナー、カリン・ブランツェル、ヤッシャ・スピヴァコフスキーとトッシー・スピヴァコフスキー、クレール・デュー、カール・フレッシュなどがいた」。
1895年からベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者だったアーサー・ニキッシュの後継者として、ベルリン・フィルのオーケストラのメンバーと経営者の両方は36歳のウィルヘルム・フルトヴェングラーを後継に選んだ
ベルリン・フィルはニキシュの追悼演奏会を2月6日と発表。フルトヴェングラーのベルリン・フィル就任にはルイーゼの働きもあり、またベルリン州立歌劇場管弦楽団コンサート音楽監督の座を円満に辞せるよう働いてくれた。
3月27日ウィーン・フィルの「ブラームス没後25周年記念」演奏会に初めて出演し指揮デビュー。
一方、ライプツィヒでは「マックス・ブロックハウス率いるゲヴァントハウス管弦楽団の理事たちは、フルトヴェングラーが5年契約に署名するよう望んだ」。フルトヴェングラーは、ゲヴァントハウスにおける巡業での音楽監督の持つ力はあまりにも小さかったため、「同じ形で窮地に陥るまいと決意した」。そうした中で、「オーケストラの何人かの団員が複数の理事に宛てた陳情書を公表した。ニキシュの後継者として自分たちが第一に選択したヘルマン・アーベントロートが、考慮されなかったと苦情を述べたものだった。この公表によってフルトヴェングラーは深く傷つけられ、このため彼はもう少しで身を引くところだった」。理事会はオーケストラに対して、フルトヴェングラーを音楽総監督として選定したことに、オーケストラの団員が同意する声明を出すよう説得にあたり、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団音楽監督に就任した。
ライプツィヒのすべての団員が表面的には収まったが、フルトヴェングラーとライプツィヒ団員との不安定な関係は、ベルリン・フィルとの巡業やウイーン、ミラノでの客演指揮等々の理由もあり、在任期間中を通して正しくは改善されなかった。
私生活においてはサンモリッツに家を購入した。独身だったが既に3人の非嫡出子が生まれていた。非嫡出子は、ヴィルヘルムが結婚を望まなかった女性たちとの間にできた子供で、二人にはヴィルヘルムとフレデリカと名づけ、全員を認知していた
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、85~89頁、103~104頁

1923年ミラノ・スカラ座管弦楽団に客演指揮デビューし成功を収める。
5月22日デンマーク人の女性ツィトラ・ルントと結婚した。民事婚であった。結婚の3ヵ月後に別の非嫡出子イーヴァが生まれた。
「フルトヴェングラーの度し難い漁食家として評判は、今日まで噂となって広がっていて、彼の死後、認知を請求された数は少なくとも13名であるという」
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、106頁

1924年渡英し、ロイヤル・フィル管弦楽団とロンドン・フィル管弦楽団で指揮。
12月クリスマス休暇に妻ツィトラと秘書ガイスマールを伴って渡米し、ニューヨーク・フィルとニューヨーク交響楽団で指揮者デビューするためニューヨークに到着。フルトヴェングラーのニューヨーク・フィル初登場は、チャールズ・マッケイ等の経営陣によるオーケストラ大強化計画の一環であり、また最高レベルの指揮者と契約して、楽団の規模を110名に増やし、さらに教育と子供のためのプログラムを含めることで、聴衆の範囲を拡大はかり、ニューヨーク交響楽協会などライバルオーケストラに優位に立つためであった。そのためにも観客が群れをなして来てくれる魅力あるスター指揮者を必要とし、音楽の面だけでなく人間として人を惹きつける魅力的な音楽家が必要だった。

1925年1月3日フルトヴェングラーは、カーネギーホールでニューヨーク・フィルを指揮してブラームスの交響曲第1番など演奏し、米国デビューを果たし大成功を収めた。批評家の中でも重要な人物、ニューヨーク・タイムズのオリン・ダウネスは好意的に受け入れてくれた。このほか有力な批評家ローレンズ・ギルマンやW・J・ヘンダーソン等が高い評価をしてくれた。米国にやって来た芸術家の大半は上流階級の集まりや優雅な晩餐会に出席し順応していたが、フルトヴェングラーはいつものごとく社交的には不器用で、社交界での音楽談義等々には努力しなかった。
1月22日のカーネギーホールでストラヴィンスキーの「春の祭典」を指揮。新聞の論評は無条件の成功とは言えなかった。一方、ニューヨーク・フィルの経営陣マッケイは首席指揮者メンゲルベルクに替えてフルトヴェングラーを後継者にさせようとしたが、日程の関係で叶わず翌年の客演指揮契約を結ぶ

1926年2月11日~4月2日、フルトヴェングラーの米国でのシーズンはニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルベニア、デラウェア、メリーランドの各都市で、ニューヨーク・フィルを指揮してまずまずの成功を収めていた。聴衆が彼の公演に熱狂したが、音楽解釈上や他の要素などで批評家たちの評価は厳しくなり、「ニューヨークタイムズのオリン・ダウネスはフルトヴェングラー攻撃の先頭に立ち、フルトヴェングラーの(個人的な偏向)について粗探しをおこない、(略)やがてダウネスはフルトヴェングラーが演奏会常連者のエチケットをレッスンするがのごとく説くようになり ( 交響曲の各楽章の間で拍手しないよう ) 強く要求したことを、たしなめたりして正面攻撃へと転じた」。「さらにフルトヴェングラーの報酬支払いに寄与した名士たちとの、フルトヴェングラーの社交的不器用さがニューヨーク・フィル理事会からも阻害され始めていた。理事会主催の重要なパーティーその一つは後援者のパーティーを避けたのではなく、演奏会の後、理事会主催の重要なパーティーに出席することになっていたのに、美しい崇拝者(ベリーヌ・フラインシュマン)と連れだってそっと抜け出したからだった。待ちぼうけをくわされた後援者たちは、このひじ鉄砲とさらにニューヨーク滞在中別行動をとっていた妻ツィトラと彼の表向きの関係にも不快感を覚えていた」。
この年、初めてのレコーディングをポリド-ルと契約し《魔弾の射手》序曲とベートーヴェンの《交響曲第5番》をベルリン・フィルを指揮しスタジオ録音を行った
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、138~139頁

1927年1月フルトヴェングラーは渡米し3度目のニューヨーク・フィルとのシーズンを迎えた。
4月3日メトロポリタン歌劇場で予定されていたベートーヴェンの《交響曲第9番》「合唱付き」をトスカニーの希望で取られ、ブラームスのドイツ・レクイエムへの変更を説き伏せられ、トスカニーニの望みに屈服して好きなようにさせたことで、ニューヨーク・フィルとの最後の公演となる。
フルトヴェングラーは米国で指揮したいとの思いを暗黙の内に取り下げた。これが転機となりフルトヴェングラーはヨーロッパに君臨するようになる。
フルトヴェングラーは米国での3シーズンの間にニューヨーク、フィラデルフィア、ハリスバーグ、レディング、ピッツバーグ、ボルティモア、ワシントン等で51のプログラムで、70を超えるコンサートを公演した。ニューヨーク・フィルが1927/28のシーズンをフルトヴェングラーが戻らないという声明に、「すぐに騒ぎが起こった。怒り狂った手紙が(ニューヨークタイムズ)に殺到した。そのうちの一通はフルトヴェングラーに対する陰謀を嗅ぎ取っていた、手紙には “ウイルヘルム・ フルトヴェングラーに対する共同謀議があったのでしょうか・・トスカニーニが指揮するとなったら、なぜこんなに突然、とくにフルトヴェングラーを叩くのでしょう。これはフェアプレーではありません。この誠実な芸術家は拍手喝采を求めたり、批評家に媚びたりするために自分の芸術の魂を売ることを常に拒否しているのです。このような人がいなくなることは、きわめて遺憾であります”」 とこの手紙が紙面に掲載された。
ベルリン・フィルを率いてロンドン、12月2日クインズホールでブラームス《交響曲第二番》ほか、4日ロイヤルアルバートホールベートーヴェンの<交響曲第一番》ほか、マンチェスター12月3日ブラームス《交響曲第二番》ほかを指揮。
フェリックス・ワインガルトナーがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者を辞任し、オーケストラは後継としてフルトヴェングラーを指名し、フルトヴェングラーは就任した
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、153~154頁

1928年3月28日ベートーヴェンの《交響曲第9番》の指揮を最後に、ライプツィッヒ・ゲヴァント管を辞した。
「彼は、ウィーン・フィルを磨き上げることと、ベルリン・フィルを彼がニキシュから受け継いだ以上に偉大なオーケストラに仕立て上げるのに、精力を注ぐことにした」。
5月11日午後9時パリ公演をサル・プレイエル劇場でヘンッデル《合奏交響曲第10番》、ベートーヴェン《交響曲第5番》、R・シュトラウス《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》、ワーグナー《マイスタージンガー》序曲をベルリン・フィルを指揮した。
10月17日《ラインの黄金》指揮してウィーン国立歌劇場デビュー。ハイデルベルク大学から名誉博士号を受ける。ベルリン・フィルを率いて中欧、英国へのコンサートツァー。12月2日シェーンベルクの《管弦楽のための変奏曲》をベルリン・フィルを指揮して世界初演
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、172頁

1929年4月29日、30日ベルリン・フィルを率いてパリ公演をシャンゼリゼ劇場で指揮。6月13日ベルリンのシャウシュピールハウスで《フィガロの結婚》の特別祝祭公演を指揮してベルリン、オペラデビューを果たす。
ドイツ政府から(メダーユ・プール・ル・メリット賞)を授与される。
「フルトヴェングラーの手記より ” 指揮者はこれまでなかったような、いっそう重い責任という荷物を肩に担いでいる。それというのも、もはや時代のスタイルを形作る偉大な創造者がいないからであり、いるのはただ個々の作品の内側から、またこれらの異質な作品の内側から作品のスタイルを形作らなけれなならない指揮者だけだからだ。このことは指揮者がいかに重要な存在であるか、そして今日そういう指揮者が何と少ないかをも説明している。事実、指揮者と時代は必然的につながっている。さらにこの二つの関係が本来の形を成していないことを説明している。すなわち際限のない虚栄心や、いかさま精神で効果を出そうとしている。見込みのない必死の試みのあれこれを見せているのだ “」
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、227頁

1930年「バイロイト音楽祭の指揮者はカール・ムックが長年に渡り指揮者として君臨していたがウィニフレッド・ワーグナーがトスカニーニを指揮者として招聘したためムックとの間が悪化した。ワーグナーの子息で音楽監督ジークフリート・ワーグナーが8月のリハーサル中に倒れて死んだ。事態はますます悪化したので、ジークフリートの未亡人ウィニフレッドは、ムックがトスカニーニをひどく嫌っており、ムックとフルトヴェングラーの仲は良好で、フルトヴェングラーはトスカニーニを尊敬していたから、ムックの敵意を鎮められると期待してフルトヴェングラーをバイロイト音楽祭の音楽監督に任命した」。ベルリン・フィル音楽総監督に任命される。
5月ウィーン・フィルを率いて英国ツァーは大成功に終わった。その後「間もなくウィーン・フィル理事会宛てに電報で首席指揮者を辞任することを伝えた。ウィーン・フィルの理事会は驚き、常務理事アレクサンダー・ヴンデラーがフルトヴェングラーが滞在しているという、ハイデルベルクの母親の家に行き、説得したが無駄に終わった」。二つの音楽の都でそれぞれ高水準を維持するという二重の責務はあまりにも重すぎると悟ったからだ。また、ベルリン・フィルは歌劇場の楽団を務めなくてよいという条件がフルトヴェングラーには魅力的な条件だった。辞任にあたりウィーンに客演指揮者として行くことを約束した。そしてニコライ記念演奏会には毎年戻ることを約束し、無報酬で指揮するつもりでいた
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、214~215頁

1931年バイロイト音楽祭リハーサル初日、フルトヴェングラーは飛行機でバイロイトへ向かったがエンジントラブルでリハーサル開始時刻に遅刻してしまった。遅刻した事件は新聞に面白おかしく報道された。7月23日《トリスタンとイゾルデ》を指揮してバイロイト音楽祭デビュー。バイロイトはジークフリート・ワーグナー特別記念演奏会を8月4日に予定し、「トスカニーニがリスト《ファーストの序曲》、フルトヴェングラーがベートーヴェンの《交響曲第3番》を振って終わる予定であった。トスカニーニはフルトヴェングラーが一番いいとこをろを手にしたと感じた。そのことが夏の間ずっとトスカニーニの不満を煽っていた。記念演奏会に備えたリハーサルのとき、トスカニーニの癇癪玉が破裂した。リハーサルの最中にイタリア語で何かを叫び始め、指揮棒を折り、それから出て行った。立ち去ったまま、再びバイロイトには戻らなかった。リハーサルのとき当然見学者などいないと思ったのだ。劇場は歌手や合唱団、そしてスタッフで満員だった。そのことに怒り狂ったのだ。フルトヴェングラーはトスカニーニの分も指揮した。トスカニーニ不在で、フルトヴェングラーは今まで以上にやった。コージマの娘ダニエラさえ彼の指揮の暖かさと色彩にうっとりさせられた」。夏の終わりにフルトヴェングラーはバイロイト音楽祭の音楽監督を辞した。
妻ツィトラと離婚。
11月12日ベルリン州立歌劇場オペラデビュー
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、225~226頁

1933年1月30日ヒトラーは政治の支配権を奪った。
3月の選挙でナチNazisに投票したのは国民の半数に当たる51%となった。それからまもなく人種政策が発効され、ユダヤ人は全ドイツの文化と教育の持ち場でのあらゆる仕事を失い始めた。
ヒトラーによるユダヤ系芸術家Jewish artistの粛清が始まり、強制的に辞職させられたり、追放された。音楽界は追放されたリストが際立った。「アーノルド・シェーンベルク、アルバン・ベルク、エルンスト・クルシュネ、クルト・ワイル、カール・エーベルト、フリッツ・ブッシュ、アルトゥール・シュナーベル、アルフレート・アインシュタイン、ブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラー、エーリヒ・クライバー、リヒャルト・タウバー、オペラ界ではローゼアードラー、ジッタ・アルバー、イレーネ・アイジンガー、メリッタ・ハイム、フリツッィ・ヨーケル、ザビーネ・カルター、ロッテ・レオンハルト、フリッツィ・マサリー、デリア・ラインハルト、ロッテ・シェーネ、ヴェラ・シュヴァルツ、エマヌエル・リスト、ベノ・ツァイグラー、ジョセフ・シュミット、リヒャルト・タウバー等は一部の音楽家だが突然追放された」。また「ユダヤ人Jewish peopleや半分ユダヤ人の血の混じる人と結婚していた芸術家も危険にさらされていた」。
フルトヴェングラーは新聞をほとんど読まず、音楽と政治の分離を頑固に主張していた。
「ユダヤ人の音楽家やユダヤ人に関係のある芸術家が列をなして、フルトヴェングラーに出国ビザの取得で自分のために仲介してくれるよう懇願した」。「ベルリン・フィルの団員でその名がブラックリストに載っているメンバー(~略~)半分ユダヤ人の血が流れている、ハンス・ボタールムント、マックス・ツイモロングおよびマルク・ヘンドリク・ロイシュナー(~略~)フルトヴェングラーはこのひとたちのために特別許可証を獲得した。そのおかげで彼ら自身とその肉親は1945年まで無事に生き延びることができた」
「ナチスJewish peopleが権力を握ると、プロイセンのすべての州立劇場とベルリン州立歌劇場はゲーリングの管理下に入った。ベルリン・フィルを含むオーケストラ、市立歌劇場、マスメディアはゲッベルス宣伝相の支配下に入った。ゲーリングは内務大臣に就任し、プロイセン州立劇場とウンター・デン・リンデン州立歌劇場はゲーリングの支配下になった」。
フルトヴェングラーはベルリン・フィルのユダヤ人団員を解雇する意思がまったくなく、その見解を明らかにしていた。
「フルトヴェングラーは4月11日にゲッペレス宛に公開質問状を書き、(フォシッシェ・ツァイトゥンク)紙に掲載された。それには ”自分の芸術がどう評価されているのかに無関係に、自分自身の仕方で常に創造的で建設的である真の芸術家に対しては、戦いの矛先を向けてはなりません” 」とあった。これに対し「ゲッベルスは同じ日の(ベルリーナ・ローカル=アンツァイガー)紙に、フルトヴェングラーの手紙に対する回答を掲載した。それには”それ自体よいとか悪いとかいうことはありえないもので、それは人種によって左右されます”と述べた。その上で、”真の芸術家は稀であります”と譲歩した。(~略~)”多くのドイツ人音楽家はそのユダヤ人ライバルのため過去14年間にわたって沈黙を余儀なくされていました”という主張に基づくものだった」。「またフルトヴェングラーはみずから数えきれないほど政府の最高幹部や下級幕僚の執務室を訪れ懇請した」。「親友である医師がはっきりしない容疑で逮捕されたときのこと、フルトヴェングラーは警察のトップのハインリヒ・ヒムラーという名の男だと知ったが、この人物が何者であるかまったく知りもせず、(~略~)「電話をかけて友人の医師を即時釈放するよう要求した」。(~略~)「怒鳴りあいとなった。ついに二人とも受話器を叩きつけた。もちろん後になってフルトヴェングラーは、あの恐ろしいゲシュタポ長官がどのような人物であるのかを十二分に認識するのだが」。「ヒムラーは決して忘れなかった」。「このころすでにフルトヴェングラーのもとには数多くの郵便物が舞い込んできて、彼は助けを求めるその訴えの一つ一つに自分自身で応じていた」。「彼はこの多数の訴えをみずから当局に持って行き、ゲッベルスと話し合った。それはゲッペルスがうんざりするほど頻繁であった」。
4月26日にベルリン・フィルはマンハイム管弦楽団と共演した。「マンハイム管弦楽団の委員会はフルトヴェングラーに、ベルリン・フィルハーモニーのコンサートマスター、シモン・ゴルトベルクをはずして自分たちの団員に代えるよう要請した」。フルトヴェングラーはこれを拒否し、全曲を指揮して演奏会を終わらせた。終了後、委員たちがフルトヴェングラーの楽屋に現れて、あなたには愛国心がないのかと激しく非難した。フルトヴェングラーは何も言わず委員たちの足元にスコアを投げつけて会場を去った」。このマンハイム事件はマンハイムの役人たちを激怒させることになった。
「5月2日から7日にかけてフルトヴェングラーは、オーケストラをパリ、マルセーユ、リヨンに伴った」。「最初に迎えたのは、(ナチスのオーケストラ)の訪仏に反対するデモ隊や新聞の社説だった」。「しかし、一方でフルトヴェングラーが党員ではなく、またオーケストラからユダヤ人を排斥することに反対した話も急速に広まった」。ツァー後、フランスに残りパリのオペラ座で《トリスタンとイゾルデ》と《ワルキューレ》を指揮した。
ゲーリングの発案で7月8日法制化されたプロイセン枢密院顧問官制度により、フルトヴェングラーは枢密院顧問官の称号を与えられる。この称号は拒否することも放棄することも出来ない終身の称号であった。枢密院顧問官会議は9月15日にゲーリングの挨拶で始まったが、この時を除いて枢密院は二度と招集されなかった。こうしたゲーリングやゲッベルスの支配下で音楽監督の座に就任し、枢密院顧問官の地位に就いたフルトヴェングラーについて、彼の思惑とは別に国内外の反ナチスの多くの人々は、彼はナチスだと非難するに十分な理由となった。
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]「下」』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、263~266頁、268頁274頁

1934年初冬、フルトヴェングラーはベルリン・フィル率いて英国、オランダ、ベルギー等へコンサート・ツァーに出発した。ブリュッセルでは演奏会場外で激しい反独デモが起き、アントワープでは演奏中に悪臭弾が爆発した。ベルリン・フィルを伴ってドイツ国内、フランス、スイス、オーストリアへのコンサートツァーに出発。5月ベルリン・フィルとイタリア公演。フルトヴェングラーはムッソリー公邸で丁重に迎えられ、世界中に報道された。
ゲッベルスは自分に従わせようとニュルンベルク党大会に指揮させようと招請したが、「フルトヴェングラーとしては(~略~)自分が何らかの政治的儀式(~略~)で指揮することとなったら、芸術と政治の分離という自分の信条を永久に捨て去ることになるのを、(~略~)党大会で指揮することに気乗りしない旨をヒトラーに伝えた。ヒトラーは共感を示した。ヒトラーの音楽顧問で外国人記者団担当責任者であるエルンスト・ハンフシュテンゲ(はフルトヴェングラーを音楽家として非常に尊敬していた)が、フルトヴェングラーが指揮をしたがらなくても、それを問題にしないよう、恐らくあらかじめヒトラーに伝えておいたのである」。「ヒトラーは招請なるものについて自分は何も知らなかったと強く主張した」。この頃から、フルトヴェングラーのユダヤ人秘書ガイスマールに対してナチスは干渉を始めるようになった。
8月2日パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領が逝去し、ヒトラーが第三帝国の首相兼国家元首となった。
アーリア人のベルリン音楽大学教授・作曲家ヒンデミットはドイツの画家マティスの生涯に基づいてオペラ《画家マティス》を作曲していた。「ヒンデミット(~略~)は1920年代を通じてその厳しい表現主義的な作品のためにかなり評判が悪かった」。「彼は、ヒトラーがヒンデミットの音楽を嫌っていたことに気づかず、また気にもしなかった」。特にナチス党は、理想に合わない作品には常に(退廃)という言葉を使った。これはナチスが最悪の芸術に浴びせかける罵倒用語だった。「ゲーリングは早速、州立劇場での《画家マティス》を上演予定表からはずした。(~略~)フルトヴェングラーは激しく抗議した。ゲーリングはこのオペラの許可をできるのはヒトラーだけであると説明した」。
フルトヴェングラーは、3月11日、12日ベルリン・フィル定期演奏会でヒンデミットの《画家マチス》管弦楽版組曲を指揮した。
3月20日からベルリン州立歌劇場でオペラ《魔弾の射手》を指揮。
5月下旬から6月にかけてパリで《トリスタン》と《マイスタージンガー》を指揮。フルトヴェングラーは、「夏の間(ヒンデミット事件)と題する長論文を書いた。これは11月25日付けの(ドイッチェ・アルゲマイネ・ツァオトゥンク)日曜版に掲載された。(~略~)ナチスは怒り狂った」。記事はベルリン市民を驚かせた。夜のベルリン州立劇場の《トリスタン》で「フルトヴェングラーが登場すると、雷鳴のような喝さいが起こった。(~略~)それは論文を市民は支持することの表れだ。(~略~)ゲーリングは自分のボックス席に友人たちと一緒に座っていて、嵐のような賛同の拍手を聞いた。(~略~)公演後ヒトラーに電話をかけて、フルトヴェングラーが政府の威信を危険に陥れていますと告げた」。
フルトヴェングラーは州立劇場音楽監督、ベルリン・フィル音楽監督、全国音楽院副総裁、枢密顧問官を辞任するとゲーリングに会見し伝えた。ゲーリングは枢密院顧問官の称号以外のフルトヴェングラーのすべての職務を免除した。「フルトヴェングラーの辞任後、彼を公然と支援したのは、ドイツに留まっている音楽家の中で高く評価されているベルリン州立歌劇場常任指揮者エーリヒ・クライバーだけだった」。
ゲーリングは後任として「ウィーン州立劇場のクレーメンス・クラウスを呼び出し、音楽監督として契約した。クラウスは根っからのナチスで、R・シュトラウスと親友でもあり、またオーストリアの優れた芸術家たちに影響力をもっていた」。
12月6日「ベルリン・スポーツパラストでゲッベルスの演説はフルトヴェングラーとその論文、ヒンデミットに噛みついた」。「演説は、当時オランダにいたR・シュトラウスからの(電報)の到着で有終の美を飾った。R・シュトラウスの( 好ましからず異分子<フルトヴェングラー>を取り除い )とする祝詞を含むこの電報をゲッベルスは大声で読み上げた」。「R・シュトラウスはその時は異議を唱えなかったが、後になって電報を書いたことを否定した」。
オペラ《無口な女》のユダヤ人台本作家シュテファン・ツヴァイクはR・シュトラウスのナチスへの迎合的な態度に露骨な不快感を示していたといわれており、その後の共同作業を拒否した。「ツヴァイクのR・シュトラウスに宛てた手紙で、(~略~)ブルーノ・ワルターがナチスによって公演キャンセルに追い詰められた後、シュトラウスが喜んでその穴を埋めたことを指摘した。(~略~)トスカニーニがナチスの文化政策に対して抗議して1933年バイロイトに行くのを拒絶したとき、R・シュトラウスがその代理を演じたことにも言及したはずである」。R・シュトラウスは返信で「私が政治に身をさらしたなどと誰があなたに告げたのですか。私がブルーノ・ワルターの代わりに演奏会を指揮したからですか。オーケストラのために指揮したのですよ。トスカニーニの代理をしたからですか。バイロイトのために代理を務めたのですよ。すべて政治とは何の関係もありません。私がしていることを巷の新聞がどのように解釈しようと、私には無関係です。あなたにも無関係なはずです。私が全国音楽院総裁をおもしろがっているからですか。この職にいるのは、もっぱら善意のためであり、またこれ以上の災難を予防するためなのですよ」。
「7月6日ゲシュタポ職員が二人、R・シュトラウス家を訪れた。(~略~)音楽院総裁を即時辞任するよう要求した。(~略~)シュトラウスはナチスの最高幹部全員に懇願したほか、ヒトラー宛にご機嫌とりの屈辱的な手紙を書いて、平身低頭して許しを請うた」。「間もなくツヴァイクはアメリカに渡った。(~略~)。1942年2月ブラジルのペトロポリスで二度目の妻ロッテと共に自殺した」。R・シュトラウスの「息子の妻アリスはユダヤ人であるため、(~略~)パルテンキルの山荘に一緒に住まわせていた孫たちも、ユダヤ人とみなされるからだ」。そうした弱みがナチスへ表面的な忠勤に励む理由となったようだ。一方政権に協力的ではなかった、フルトヴェングラーはベルリン・フィルとベルリン州立歌劇場の職を失い自分が孤立し無視されていることを悟った。
12月12日のベルリン州立歌劇場最後の公演《トリスタン》を指揮した。「エジプトにいる友人を訪ねようとしていたとき、ヒトラーから緊急連絡があった。ヒンデミット事件が鎮まるまでドイツに残るよう要請するというものだった。旅券には総統自身が承認するまで許可のスタンプが押されないからである」。
そして年末には自国では、自分の仕事の世界では存在しない人物、追放された者であることも悟った。非嫡出子アルムートが生まれた
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]「下」』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、300~301頁、306~307頁、311~313頁、316頁、318~320頁

1935年「フルトヴェングラーは二つの結論を得て(ゲッベルスとの:注編者)会見を終えた。ヒトラーを、文化その他あらゆる事柄の上に立つ最高権力者と認識することは、すでに一つの事実であると理解した。どう表現しようとも事実を事実として、認めているに過ぎない。ナチスが権力を握っている以上、そのことについて云々することはない。(~略~)ヒトラーを認め、そしてヒトラーが政策を完全に支配していることを認める代償として、フルトヴェングラーはフリーランスの指揮者としてドイツで仕事を続けるだけの許可を求めた。(~略~)そしてどのような公職も受け入れる義務がなく、国の儀式で公演しなくてよいとするものだった」。「ゲッベルスは実際にその約束を少なくとも一部を守った」。
4月ウィーンで指揮。4月25日ベルリン・フィルを指揮してベートーヴェンの作品《エグモンド序曲》、《交響曲第5番》と《第6番》で終わった。拍手喝采は鳴りやまず1時間も続き、17回も舞台に呼び戻された。次の公演にはヒトラーが臨席したが、フルトヴェングラーはナチスNazis式敬礼をせず右手に指揮棒を持ちそそくさと聴衆にお辞儀して指揮に入った。
数か月後フルトヴェングラーはベートーヴェンの《第9番》の公演を三回指揮した。直前になってヒトラーが再び臨席した。フルトヴェングラーは指揮棒を右手に持って聴衆に挨拶をした。演奏が終わるとソリストたちは、それぞれ呼び戻されナチスNazis式敬礼をしたが、フルトヴェングラーはしなかった。ヒトラーが立ち上がって舞台に近づき、フルトヴェングラーに手を差し出した。その手を握るしか他に道はなかった。このニュースは翌日、世界中の新聞に報道され、「フルトヴェングラーはナチスの指揮者になってしまった」。政治が芸術と実際に手を握り合う決定的な瞬間とした。ゲッベルスはこの和解を利用して、早速フルトヴェングラーとベルリン・フィルの英国コンサートツァーを目論んだが、それが国の後援によるツァーと知ったフルトヴェングラーは即座にキャンセルした。
5月ロンドンで《トリスタン》を指揮、6月パリ・オペラ座で《トリスタン》と《ワルキューレ》を指揮した。
10月上旬にはウィーン国立歌劇場で《タンホイザー》を3回指揮した。
フルトヴェングラーの生活を管理していた、秘書のベルタ・ガイスマールはユダヤ人であったため、フルトヴェングラーが特別就業許可書を申請したが文化行政担当官のハンス・ヒンケルは秘書が居なくなればフルトヴェングラーの勇気をくじく効果的な作戦としてガイスマールの旅券を押収したり、残酷な仕打ちを繰り返していた。フルトヴェングラーがゲーリングに抗議した結果、ガイスマールは直ちにドイツを離れることになった。ガイスマールはしばらくの間、アメリカに滞在し、ロンドンに赴いてトーマス・ビーチャムのところで働いた
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、325~326頁、332頁

1936年1月9日ウィーンで《タンホイザー》を指揮。25日フルトヴェングラーは50才の誕生日を迎えた。それを祝ってベートーヴェンの《交響曲第5番》を含む特別演奏会を指揮した。フィルハーモニーの演奏者たちはリハーサルに先立って署名入りのスコアの写しをフルトヴェングラーに贈った。ゲッベルスGoebbelsは銀の指揮棒を届けてよこし、ヒトラーHitlerは自分自身の写真に署名して額縁に入れたものを贈った。フルトヴェングラーはようやく旅券を返却してもらえ、再び自由に旅行できるようになった
2月13日、15日、17日ウィーンで《ワルキューレ》を指揮。
ニューヨーク・フィルNYPではトスカニーニが任期満了で退任するため、後任をフルトヴェングラーに打診してきた。交渉の結果フルトヴェングラーは受け入れた。ところがそれを知ったゲーリングは激しい衝撃に襲われ、アメリカの新聞に別の記事を載せた。フルトヴェングラーが正式にナチスに参加していると仄めかす内容だった。アメリカのユダヤ人の敵意は激しくなり、この任命を非難した。敵意は、新しい避難民が毎週到着していることや、ドイツ製品不買運動が大いに喧伝されていることによって、ますます高まっていった。また、選択の余地なしにドイツからアメリカに、逃げてきた人たちは、何故フルトヴェングラーだけが、いずれの道も許されたのか、その理由が分からなかった。(アメリカン・ジューイッシュ・ワールド)は何千人という人々の見解を明瞭に伝えた。ナチスと非ナチスNon-Nazisとを識別する唯一の基準は、今となっては移住すること、そして移住すること以外に、ないとする見解である。フルトヴェングラーがアメリカから追いやられた窮地を、これほど正確に描写できたものは、他にないだろう。こうした意見が匿名で ” そうです、フルトヴェングラー、私たちは政治を音楽から切り離したいと思います。まさにその理由で、私たちはナチスと手を組んでつながっている音楽指揮者のニューヨーク・フィル任命を反対したのです3月20日 とあった。フルトヴェングラーは国を離れるべきだと思っていた人もいた。 結局フルトヴェングラーは、3月15日アメリカ人とこれ以上政治的論争をする気もなくニューヨーク・フィル宛てに一時延期すると電報 ” 私フルトヴェングラーは政治的人間ではなく、政治と無関係な全人類のためのドイツ音楽の演奏家であります。貴フィルのために、一般大衆が音楽と政治は互いにまったく無関係であると理解するようになるまで、私はアメリカ合衆国に姿を見せることを一時延期する旨ここに申し入れます ” と書いて送った。アメリカ合衆国ではフルトヴェングラーに対する怒りと恨みは、たしかに多くの亡命者たちの間にますます増大していった。中にはこうした手紙もあった ” 妻も私もフルトヴェングラーがナチスではないことは知っていました。しかし私たちは彼に当時の我々の苦境を共に分かち合ってもらいたかったのです。つまり、私たちと一緒にいてもらいたかった “。
NYPのトスカニーニの後継は英国人ジョン・バルビローニに決まった。
フルトヴェングラーはベルリンに戻ると、ニューヨーク・フィル事件全体の背後にゲーリングいたことを知る。フルトヴェングラーの演奏会に臨席しているヒトラーの写真は単なる宣伝戦略以上のものになっていた。3月29日に国民投票を実施して、芸術家たちの支持を求めた。全国文化院は必要に追られて連帯布告を公布した。するとフルトヴェングラーがその布告を支持する電報を打ったと「ベルリーナ・ローカル=アンツァイク」に3月24日報道された。この行為はナチスに魂を売った証拠であると、彼は批判者たちに激しく攻撃された。この電報はナチスの新聞に要約されたが、引用ではない。その電報の証拠が現在もまだ発見されていない。
フルトヴェングラーは最後の抵抗のため、1937年中頃まで長期休暇を取り、公演スケジュールを厳しく制限し、作曲活動に専念した。
5月19日と28日パリ・オペラ座で《マイスタージンガー》を指揮。7月ウィーンで《タンホイザー》を指揮。バイロイト音楽祭で《ローエングリン》と《パルジファル》を指揮
参考文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上][下]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、

1937年3月25日ロンドン、ロイヤル・アルバートホールでロンドン・フィルとベートーヴェン《交響曲第9番》演奏。
自作の《ヴァイオリン・ソナタ第1番》をベルリン・フィルのコンサートマスター、フーゴー・コルベルクにより初演。
5月1日ロンドン、クイーンズホールで英国王ジョージ六世戴冠記念コンサートをベルリン・フィルとベートーヴェン《交響曲第9番》を指揮した(BBCで放送され、ライブ音源から市販用アセテート盤が録音された。現存する最初の完全ライブ演奏となった)。
この夏の8月24日ザルツブルク音楽祭でトスカニーニがウイーン・フィルを指揮して、ベートーヴェン《交響曲第6番》、27日の演奏会は音楽祭特別記念で、前ドイツ皇太子、イタリア皇太子妃、オーストリア政府の面々が臨席した中で、フルトヴェングラーはウイーン・フィルを指揮してベートーヴェンの《第9番》を、リア・ヒンスター、ロゼッテ・アンダイ、ヘルゲ・ロスヴェング、ヘルベルト・アルゼんを起用して指揮し大好評であった。フルトヴェングラーはトスカニーニの《田園》を聴きに来て、演奏会後トスカニーニについて良かったと賞賛しているが、あれは私の《田園》ではなかったと、解釈は自分の好みではないということであった。
「トスカニーニは、ザルツブルクがフルトヴェングラーとは今後再び契約しない、という条件で、今回の契約を果たすことに契約した。(~略~)。ある噂話によれば、フルトヴェングラーは広大な祝祭劇場で公演された演奏会後にトスカニーニの楽屋を訪ねた。トスカニーニは素っ気なく言った。(出て行きなさい君とは関わりたくないのだ)(なぜですか)とフルトヴェングラーが尋ねた。(君がナチスだから)(とんでもないことです)(本当だよ。もちろん私は君が党員でないことは承知している。君がユダヤ人の友人たちを援助したことも知っている。君はドイツ以外のところでユダヤ人たちと会ってさえいる。しかし、それもみんな重要ではなくなってしまった。君がヒトラーのために働いている事実が分かったからだ。さあ、出ていきなさい)」。「トスカニーニが微笑みながら、ステッキをくるくるまわして近づいてきた。(今日のような世界では、奴隷化された国で演奏した演奏家は、自由な国でおこなうわけにはいかない。バイロイトで指揮をするのなら、ザルツブルクで指揮をしてはいけない)とトスカニーニは言った。(~略~)音楽家にとって奴隷化された国とか自由な国とか、そういうものはありません。個人としてそう信じています。ヴァーグナーやベートーヴェンが演奏されていればどこであろうと、人類は自由なのです。初めのうちは自由でなくても、その作品に耳を傾けているうちに解放されます。音楽によって人類が運ばれるところは、ゲシュタポといえども何ら危害を加えることができないところです)。トスカニーニは何も答えなかった。(私がある国で偉大な音楽を指揮したとします。その国がたまたまヒトラーの支配下にあるとします。だから私がヒトラーを代表している、そんなことになるのですか。逆に偉大な音楽は、私を彼の敵対者に仕立てるのではないのですか。偉大な音楽は高貴な魂のないナチズムに完全に敵対するものではないのですか)。老人は頭を振った。(第三帝国で指揮する者は誰でもみんなナチスなのだ)。フルトヴェングラーは答えた(それでは、美術も、音楽も、たまたま権力の座にある政府のために単なる宣伝、いわば偽装した表看板となるに過ぎないとの意味ですね。つまり、ナチスの政府が権力の座にあれば、指揮者として私はナチスであり、共産党政権下では共産主義者であり、また民主主義政府では私は民主主義信奉者ということになります。そんなことは絶対にありません。音楽は異なる世界に属しているのです。政治上の偶然の出来事を超越したところにあるのです)。再びトスカニーニは頭を振った(いや、私は賛成しない)といって歩みを続けた」。
9月上旬オーストリアの新聞がこの騒動を発表した。フルトヴェングラーはウィーンの新聞(ノイエ・フライエ・プレッセ)に書簡を送り「私が今日バイロイトで指揮して、明日ザルツブルクで指揮しても、政治とはまったく無関係である。バイロイトとザルツブルクが芸術以外の手段のために用いられていると、決め込んでいるらしい人がいるが、その人たちは芸術が政治目的に向けられていくという非難に対して責任を取るべきである。もし我々芸術家までが、我々の偉大な巨匠たちの中にある超民族的な重要性を見落としてしまったとしたら、いったい我々に何が残るのか」。
ナチス党から9月7日の党大会にベルリン・フィルと共に指揮するようゲッペルスの行政担当者から要請を受けるが、「先約がありと」これを断っている。9月7日この日はパリ博覧会でベルリン・フィルとベートーヴェン《交響曲第9番》演奏を公演し、翌日ベルリン州立歌劇場で《リング》全曲を上演した
自作の《交響的ピアノ協奏曲》をエドウィン・フィッシャーの独奏で初演
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、361~365頁

1938年アーヘン歌劇場音楽監督のヘルベルト・フォン・カラヤンはナチスのゲーリング内務大臣の目に留まり、4月8日ベルリン・フィルの客演指揮者としてデビューした。
カラヤンは5月1日にウルムでナチスの党員(党員番号3430914)になった。
2月28日70才を超えたトスカニーニは突然ザルツブルクの自分の仕事、オペラ五つとコンサートをキャンセルして、音楽祭の運営側をパニック状態に陥れた。春、ナチス大隊の戦車がウィーンに乗り入れるとゲッペレスはオーストリアの文化を自分の支配下におくべき実現に取り掛かりウィーン・フィルに楽譜も読めない者を公式に認可された音楽監督して送り込んできた。
ウィーンの指導層はナチスからウィーンを魔手に触れさせないようにしておけるのはフルトヴェングラーしかいないと結論に達し、市長ヨーゼフ・ビュケルがフルトヴェングラーと会見し、ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督になって頂きたいと懇請した。非公式の名誉職で契約書も文書も作らず無報酬ということでフルトヴェングラーは引き受けた。楽団長オットー・シュトラッサーには、オーケストラが国家の手に落ちたら、自分はまったく無関係になると手紙を送った。楽団長シュトラッサーはゲッペレスに会い、オーケストラは指揮者を招聘するには認可を得なければならないが、それを別にすれば何をしてもよいということになった。
3月11日ドイツはオーストリアを併合した。フルトヴェングラー、クナッパーブッシュ、カール・ベーム、ヴィットリオ・グイ等がその穴を埋めた。この時フルトヴェングラーは《マイスタージンガー》を引き受け、大物ユダヤ人歌手ワルター・グロスマンをハンス・ザックス役に起用するという条件を出し承認された。カラヤンは9月から12月にかけてベルリン州立歌劇場で《フィデリオ》で指揮デビュー、10月21日《トリスタン》を指揮したときには、そのシーズンの音楽界における大きな話題となった。その後《魔笛》を指揮した。
11月(水晶の夜)によってドイツからオーストリアに逃れていたユダヤ人への襲撃が頂点に達し、ユダヤ人の移住が難しくなった。そしてユダヤ人音楽家、リヒャルト・タウバー、ヴェラ・シュヴァルツ、アルトゥア・シュナーベルその他多くのユダヤ人音楽家が強制的に出国させられた。ブルーノ・ワルターもオーストリアに安全な避難場所を見つけ出せると考えた一人だったが、親衛隊に長い間つけ狙われ、粛清リストに入っていた。警察がブルーノ・ワルター逮捕に踏み込んだとき妻とパリにいた。代わりに長女が人質として連行された。やがて長女は釈放されたとの知らせは、ニースに居るときだった。妻が電話で娘の声を聞いて知った。それから先もワルター夫妻は、長女のオーストリア脱出を実現させる努力をした。出国する業務上の必要性が証明できれば外国へ行く許可が降りることがわかり、プラハの知人の尽力で歌手としての架空のリサイタルのためという理由で4月中旬長女の許可書が発行された。
カラヤンはゲーリングとベルリン州立歌劇場のインテンダント、ハインツ・ティーティエンによってフルトヴェングラーの嫉妬心をたきつけるために利用された。
フルトヴェングラーのゲーリングへの書簡「ティーティエンが私に対して攻撃的になったのは、バイロイトでティーティエンと組んで《ローエングリン》の公演した際に、ヒトラー総統が臨席し、私に(あなたがたを、同列にして比べることはできない)の賛辞に刺激されてから、ティーティエンがその後に報道を通じて、ワーグナー一族を通じて執拗に私を傷つけようと工作し始めた」とゲーリングに抗議している。そして二人の企てを言葉巧みにそそのかしたのがルドルフ・フェダーである。この策略は功を奏し、新聞などで大規模なキャンペーンがされた。
フェダーは、スタインウェイ社のコンサート管理部門を担当していたが辞めて自分の事務所を作った。フェダーはフルトヴェングラーを欲しがったが獲得できないならと、ベルリン・フィルを狙ったが、ベルリン・フィルには女王ルイーゼ経営のヴォルフ・ザックス社という強敵が担当していた。ベルリン・フィルも獲得できないとなった。そしてフェダーはフルトヴェングラーを破滅させようと企てた。ナチ秘密警察である親衛隊のハインリヒ・ヒムラーの親密な仲間の一員になっていたフェダーは、全国音楽院RMKの演奏会事業部門の長に任命された。そしてその年の終わりには親衛隊の後ろ盾を得て、報道関係を手中に収め、ベルリン・フィルを動かしてヴォルフ・ザックス音楽事務所を自分のものにした。ところがマックス・ミュラーが仕事の仕方が不公正であるとしてフェダーを全国音楽院RMKに告訴し、結果フェダーはRMKを辞任した。フェダーは自分の音楽事務所を稼働したがカリスマ性のある指揮者を探していた。
ゲーリングの目に留まったカラヤンはその後、ゲーリング内務大臣の管理下にあるベルリン州立歌劇場の音楽監督に任命され、州立歌劇場管弦楽団の年8回のコンサート責任者となった。フェダーは30才を過ぎたカラヤンを見つけ契約を結んだ。カラヤンの成功の支えとなったのは、ゲーリングにそそのかされてカラヤンを賛美した野心的な評論家のエドヴィン・フォン・デア・ニュルだった。この事実に気づいたフルトヴェングラーの怒りを買うことになった。カラヤンの才能とカリスマ性は本物であった。その上さらにカラヤンはナチスの党員証を持つ正式な党員であって、ゲーリングとフェダーは確実にフルトヴェングラーに挑戦できる勝利者を手に入れた。フルトヴェングラーはずっと以前にナチスに対して、すべての音楽的地位を放棄していたため、手元には小競り合いの武器など残っていなかった。なんの権力もなくなった今となっては、自分を守ってくれるものはないに等しかった。何かを望む際には何事によらず、宣伝省かベルリン州立歌劇場インテンダントのティーティエンを通さなければならなかった。
エリーザベト・フルトヴェングラーは「夫は、カラヤンが一度も会いに来なかったことに傷つけられ、不快感を抱いていました。そのことが実際にトラブルの始まりでした。夫はカラヤンが陰で自分をひそかに傷つけようとしていると感じました」と回想している。
「ティーティエンはカラヤンに一度ならず(フルトヴェングラーが表口から入って来たら、あなたは裏口から出ていきなさい)と言っていたという」。
12月14日ゲッペルスの日記に「フルトヴェングラーは、カラヤンが新聞であまりにも多く書き立てられていることに異を唱えた。私はこれを停止させた。フルトヴェングラーはその他の点では非常に礼儀正しく振舞っている。結局、彼が現代のもっとも偉大な指揮者である」。再びこの件で12月22日付け日記には「フルトヴェングラーとカラヤンとの騒動。カラヤンは新聞などでますます誉められている。フルトヴェングラーが正しい。ともかく世界的な人物だ。私はストップをかけた」。
この年のベルリン州立歌劇場における《マイスタージンガー》を指揮したカラヤンはヒトラー総統の臨席のなか、致命的大失敗に終わったため、総統はこの後、カラヤンを嫌悪するようになった。
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、401頁

1939年フルトヴェングラーは、チューリヒで《フィデリオ》、《ワルキューレ》、《マイスタージンガー》指揮

1941年「4月9日の夜から10日にかけて連合国軍の爆撃によってベルリン州立歌劇場が破壊された際、カラヤンは州立歌劇場管弦楽団をボツダム広場近くにあるベルリン・フィルハーモニーの建物で指揮すると主張して、その許可を得たのだった」。ベルンブルガー通りにあるベルリン・フィル生誕の地である建物の、同じホールでフルトヴェングラーとカラヤンの定期的に指揮するようになり、どの新聞もフルトヴェングラーの紙面をあまりとらず、フルトヴェングラーが劣っているように見せた。
「しかしヒトラーは政権にある間ずっとフルトヴェングラーに絶えず崇敬の念を捧げていた。総統はフルトヴェングラーに船を一隻そっくり提供してドイツと友好的な関係にあるいくつかの国々で自分のオーケストラ、または地元のオーケストラのコンサートを指揮するため世界一周させるという計画を持ち出してきた。ゲッペルスもヒトラーの命令で、フルトヴェングラーに関し大規模な広報宣伝活動を展開した。ゲッペルスはドイツ人の生活のあらゆる部分を、特に文化活動を軍事目的のために動員しようと準備していた。そしてゲッペルスはフルトヴェングラーを大規模な軍事攻勢の先頭に据えるつもりだった」。
年の瀬にスキー好きなフルトヴェングラーはザンクト・アントンのスキー場のゲレンデで、斜面を横滑りしてバランスを失い、転げ落ちて片腕骨折、脳震盪、打撲傷16か所の怪我で、数日間危篤状態に陥った。医師たちは右腕に神経系の損傷を発見したため、仮に生き延びたとしても指揮することはできなくなるだろうと予測した
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上][下]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、68頁

1942年2月フルトヴェングラーは、デンマークのコペンハーゲンとスウェーデンのコンサートでベルリン・フィルを指揮した。
3月22~24日ベートーヴェン《交響曲 第9番》ニ短調「合唱付き」ブルーノ・キッテル合唱団、ティラ・ブリーム (ソプラノ) 、エリーザベト・ヘンゲン (アルト)、ペーター・アンデルス (テノール) 、ルドルフ・ヴァッケ (バス)、ベルリン・フィルを指揮し録音した。
「フルトヴェングラーとフェダー音楽事務所が争うことになる。フェダーは演奏会業界を完全に支配する道を探し求めて極端に走りすぎた。相変わらず顧客の金を着服し続け、自分を避けようとした芸術家や気に入らない芸術家の邪魔をした。フェダーのところにいた指揮者は、カラヤン、パウル・ファン・ケンペン、クレーメンス・クラウス、ウィレム・メンゲルベルク、ハンス・フォン・ベンダ、ハンス・スワロウスキー、グスタフ・ケーニヒ、オイゲン・ヨッフム、フェルディナント・ライトナー等だった。フルトヴェングラーが18才のヴァイオリニスト、ゲルハルト・タッシュナーという才能ある若者をを見つけ出し、次席コンサートマスターに任命したところ、フェダーがそのタッシュナーを引き抜こうとした。(略)タッシュナーからフルトヴェングラーの耳に入り、フルトヴェングラーは宣伝省に強硬な抗議を申し入れた。結局フェダーの音楽事務所の免許は取り上げられた。カラヤンもその権力基盤を失ってしまう。そしてカラヤンは定職のない音楽家となった」。
「フルトヴェングラーはそれまで9年間にわたってナチスの公式行事で演奏することを何とか巧みに避けていた。
4月19日のヒトラーの誕生日の式典もフルトヴェングラーはすでに“”病気””という理由で公演を数多くキャンセルした上に、ヒトラーの誕生日一週間前に、ウイーン・フィルとベートーヴェン《交響曲第9番》「合唱」を指揮するためにウィーンにいた。(~略~)ウィーン大管区指導者の許可がなければフルトヴェングラーはウィーンを離れることできず、ヒトラーの(誕生日前夜祭)に出なくて済む。ましてやオーストリアを離れることは不可能だった。大管区指導者はバルドゥア・フォン・シーラハだった。(~略~)「フルトヴェングラーをヒトラー誕生日前夜祭に指揮させるため」、ゲッペルスがシーラハに電話をかけてきた。彼は譲歩するよう脅迫した。1942年4月19日の誕生日前夜祭、フルトヴェングラーを「党の高官全員が会場に待ちかまえていた。ニュース映画の」撮影機が動き始めると、フルトヴェングラーは会場に入って来た。彼は指揮台に登ってナチス式敬礼をせず、簡単に頭を下げ、そして指揮を始めた。フルトヴェングラーの意に反してベートーヴェン《交響曲第9番》「合唱」の演奏は壮麗なものだった。(~略~)ドイツのあらゆるニュース映画や一部の外国ニュース映画に登場した。終了後、フルトヴェングラーは突然に中断させられたベートーヴェンの《交響曲第9番》「合唱」を演奏するためにウィーンに戻った。この演奏会はヒトラーに深い印象を与えた。ヒトラーは折にふれて、談話の中でフルトヴェングラーに言及した。それが1941年から1944年にかけて、マルティン・ボアマンによって忠実に記録されている」。
ヒトラーの談「演奏会の十日後の4月30日、ヒトラーはベルクホフでの夕食会の折、当時のドイツにおける音楽の情勢について詳述した。” 大指揮者は大歌手と同じように重要である。もしヴァイマール共和国時代に優れた指揮者が十分にいたのであれば、我々はウィーンではまったく取るに足らない人物とみなされていた。ブルーノ・ワルターのような男が有名になってしまうなどという茶番劇を見ずに済んだはずである。あの男(ブルーノ・ワルター)に注目して、突然この男こそドイツでもっとも偉大な指揮者だと宣言したのは、ミュンヘンのユダヤ人新聞だった。これに付和雷同したのがウィーンのユダヤ人新聞だった。しかし最後に笑ったのはウィーンではなかった。というのは、ウィーン最高のオーケストラの指揮者として雇われたのに、あの男(ブルーノ・ワルター)が作り出すことができたのは、せいぜいビアホール音楽だったからだ。もちろん奴は解雇された。そしてウィーンは解雇という事態によって、優れた指揮者がどれほど不足しているかに気付き始めて、今度はハンス・クナッパーツブッシュを呼び寄せた。この男(クナッパーツブッシュ)は髪がブロンドで目が青く、たしかにドイツ人だったが、不幸なことに耳がなくても自分の激しい気性で立派な音楽を生み出すことができると信じていた。奴が歌劇場で指揮するところに居合わせるのは、まったく難行苦行だった。オーケストラの演奏は音がやかましすぎたし、ヴァイオリンは金管楽器の音に遮断され、歌手の声は息が詰まりそうだった。メロディではなく金切り声が断続して聞こえてきたという具合だった。哀れなソリストたちは、まるでオタマジャクシがそこに沢山いるみたいに見えた。この指揮者たるや、あのひどい狂気じみた身振りで夢中になっていたので、ソリストなど見もしない。そっちを見たら、卒倒していたかもしれないね。だからまったく見ないほうがよかったのだ。指揮者の中で身振りがまともなのは、唯一人、フルトヴェングラーだけだった。彼の動きは心の奥底から霊感を受けていたようなものだ。彼が得ていた財政援助は乏しかったが、それにもかかわらずベルリン・フィルハーモニーを、ウィーン・フィルハーモニーよりはるかに優れたアンサンブルに変質させることができた。その点フルトヴェングラーは大変な功績を残している(ヒトラーの秘密の談話264頁) 」。
この頃、18才のウォルフガング・サヴァリッシュは、無線分隊長用の下士官養成コースをミュンヘンのフライマンで受け、無線分隊長となり対戦車部隊の前哨偵察係として、パリ近くへ配置された。その後ベルギーのオストエンデ、やがてオランダのヴァルヘレスへと回され、そしてイタリアのアペンニン山脈へと配置された
12月12日ベルリン州立歌劇場杮落としで、フルトヴェングラーは、ボッケルマン、ローレンツ、ミュラーを起用して《マイスタージンガー》を指揮した。カラヤンも1942~1943年のシーズンの間、ベルリン・フィルと三回のチャリティ・コンサートを指揮した
この年、チューリヒで《神々の黄昏》公演
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上][下]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、55~58頁

1943年1月2日ウィーン国立歌劇場でフルトヴェングラー演出・指揮の《トリスタンとイゾルデ》上演。
後半、ウィーン・フィルとスカンジナヴィア全土をコンサート・ツァー巡業。
「11月ベルリンに戻ったフルトヴェングラーは、ベルリン・フィルハーモニーの建物が連合国軍による爆撃を受けていたことを知った。内部は無傷だったが、正面はひどい損傷を受けていて、しかも火災のため図書館はほぼ完全に破壊されていた。貴重なスコア、計り知れない価値のある原稿、そしてフルトヴェングラー個人ファイルと仕事場のファイルの大半があった図書館である」。
この年フルトヴェングラーは、ヒトラー誕生日の式典演奏会の指揮をゲッペルスとの巧みな会話で避けることに成功した。
二人目の妻、エリーザベト・アルバート・アッカーマンと再婚
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上][下]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、67頁

1944年「演奏会の準備のために瓦礫の山が十分に取り除かれて、1月12日ベルリン・フィルの公演が行われたが、これが最後の公演となった。
1月30日またもや建物に爆弾が落とされ今度は完全に破壊された。ベルリン・フィルは州立歌劇場を使用することになった。
2月20日この日、ウィーン国立歌劇場での指揮活動は戦前最後となった。
3月16日ベルリン・フィルを率いてプラハで指揮。
連合国軍による集中爆撃が頻繁になり、ゲッペレスは夏にはすべての劇場の閉鎖を命じた。
アルバート・シュペーア(シュペーアはヒトラーの親友でヒトラーの軍需品関連統括者でフルトヴェングラーの崇拝者でもあった)。はヒトラーに近い存在だったが、永い間フルトヴェングラーの崇拝者だった。シュペーアは毎日ブラックリストを改訂している関係者に近い立場にいたので、ゲシュタポがフルトヴェングラーを狙っていることを知った」。「その後シュペーアは二度のわたり秘密裡に警告メッセージをフルトヴェングラー宛に送ったが、これはついに届かなかった。この間ゲシュタポ長官ヒムラーの家族と縁故関係にある女性が、3月、ひそかにフルトヴェングラーに連絡を取って、ヒムラーはフルトヴェングラーが第三帝国に生き延びることを許すつもりがないと告げている」。「その後再びこの女性が早朝彼の家にやって来た。
7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に加担したとして、すでにフルトヴェングラーは党によって法による保護の外に置かれていると告げた。(~略~)フルトヴェングラーはこのときにはすでに妻や子供たちをスイスに移住させていた」
この年、チューリヒで《ジークフリート》公演。妻との間に息子アンドレアスが生まれた。息子は考古学者になった
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上][下]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、76~77頁

1945年「1月のある日の演奏会の最中、停電のため1時間以上にわたって公演が中断された。シュペーアはこの合間に何気ない様子ではフルトヴェングラーに話しかけることができた。早速、この直ぐ後の演奏会の計画について尋ねた。フルトヴェングラーは、間もなくスイスで指揮することになっていると答えた。シュペーアはさりげなく、それならばそのまま暫く外国に留まっていた方がよいと仄めかした。このとき、フルトヴェングラーは、言われた事柄の含意を即座に理解した」。
1月24日ウィーン・フィルの演奏会を指揮するため、音響技師フリードリヒ・シュナップと一緒に夜行列車でベルリンを離れた。翌日ウィーンに着き、ホテル・インペリアルに投宿し59才の誕生日を祝った。三日間ウィーン・フィルとのリハーサル室、演奏会、録音のために費やされた。曲目はブラームス《交響曲第2番》、ベートーヴェンの序曲《レオノーレ》、セザールの《交響曲ニ短調》だった。フルトヴェングラーは、同行のシュナップに2月4日と5日のベルリン・フィルを指揮するのでベルリンに戻ると伝えた。しかし、2月3日にベルリン州立歌劇場は連合軍の爆撃により破壊されていた。「そのころロシア軍がオーストリアに向かい進撃していて、間もなくウィーンに到達することになっていた。ウィーンはパニック状態になった。フルトヴェングラーは、オーケストラの楽団長オットー・シュトラッサーを呼び寄せた。全団員に対し冷静にして、みんな一緒にいるようにしなさいと指示した。ソ連軍が文化問題について正しい理解力をもっているから、それを損なうことはないはずだと信じていた」。
フルトヴェングラーが亡命のためウィーンを離れる前日、秘書が真夜中にベルリンの外務省から電話で呼び出された。シャッツ博士は” いったい誰がフルトヴェングラーに出国ビザを交付したのか” と詰問してきた。そのような許可書は、すぜてこの男の職権で認可されることになっていた。ウィーン駐在のスイス総領事がいち早く状況を把握して、総領事自身の権限で出国ビザを、フルトヴェングラーに交付していた。
その朝早くフルトヴェングラーは外に出て、西に向かう牛乳運搬列車に乗って、いくつか乗り換えた後、ついにスイス国境付近のドルンビルンで降車した。ここでフルトヴェングラーはウィーンの友人たちが紹介した、見知らぬ人たちと一緒にしばらく滞在した。
「フルトヴェングラーは国境に着いたとき、他の人々の旅券にはすでにスタンプが押されていることに気付いた。そこで検問所の職員になぜ自分の旅券にはスタンプが押してないのかと尋ねると、男は長い間その旅券類を熟視していたが、結局見落としだったに違いないと判断して、スタンプを押してくれた」。
フルトヴェングラーは、スイスに亡命した。「2月20日、労働者党の一党員が市議会でフルトヴェングラーの公演はスイスの対外政策を脅かすものになるという理由で、これを禁止するよう提案した。これに対して社民党は政敵に負けるものかとばかりに四日後(フォルクスレヒト)紙に声明を発表して、フルトヴェングラーを(彼自身の人柄と、また彼の政治的心情ゆえに)追放すべきだと提案した。しかし、ある新聞は論説でその真意に疑念を表明した。その他の市議会議員から説明を求めるよう要求があったにもかかわらず、2月20日に予定されていたフルトヴェングラーのチューリヒでの最初の公演は、市議会および州議会により即決で中止となった。地方新聞の大半がこの恐怖と偽善の露骨なショーに激しく抗議した。(~略~)数日後フルトヴェングラーはヴィンテルトゥールで指揮することを許可された。(~略~)フルトヴェングラーはチューリヒに行き、1944年11月に息子アンドレアスを出産していた妻に会った。友人たちはしばらくの間、公の生活から離れるよう勧めていた。今度もフルトヴェングラーはその助言を快く受け入れた。主な理由はウィーンで倒れた時に受けた脳震盪の後遺症に今なお苦しんでいたためだが、それだけでなく、彼の生命は極度の疲労のため、また粛清を狙っているナチスの工作員のため危険にさらされていたからである。皮肉なことに、彼はスイスでは法の保護を受けられない立場にいた」。
後年、フルトヴェングラーは妻エリザーベトに語ったという””あの国境の男が私の命を救ったわけだ。私が誰なのか、あの職員が気付いたかどうか、それは分からない。彼はじっと旅券を見つめていた。それから顔を上げて私を見た。結局何も言わずに、先に進むよう身振りで私に合図した””。『後になってフルトヴェングラーが知らされたことだが、スイスの出入国管理当局は国境のありとあらゆる入国地点で、彼の到着を待ち構えていた(~略~)たとえ彼がスキーでやって来たとしても、そのまま入国させることになっていたのだ』。フルトヴェングラーがウィーンを脱出後、連合国軍がホテル・インペリアルを攻撃し、市の中心部を破壊した。スイスでの亡命者フルトヴェングラーの立場は、枢密顧問官フルトヴェングラーが第三帝国の指導的立場にいる人物と見なされていた。
2月クラランにある療養所に入院し健康の回復を待った。
3月12日ウィーン国立歌劇場は爆撃により破壊された。
4月30日ヒトラーの死がナチスのラジオ放送で発表された。
「戦争が終わるとすぐ、彼は自分が再び犯罪人となったことを知った。今度は勝利者である連合国軍の目から見た犯罪人である。(~略~)ゲーリングがフルトヴェングラーに押し付け、辞職を許さなかった枢密顧問官という地位のことで、その身分が、(~略~)芸術界の327名が第三帝国を支えた重要な人物の一人として、容疑をかけられていたが、その中にフルトヴェングラーの名前が記載されていた」
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上][下]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、76~77頁、79頁、82~85頁

1946年フルトヴェングラーに対する(非ナチ化)の審理始がまった。「オーストリアの場合、(~略~)新規に再編成されたウィーン国立歌劇場や市立劇場に応募した将来性のある芸術家、演出家、指揮者その他舞台で働く人々の政治的背景を調査するためのものである。ナチス支配下におけるフルトヴェングラーの経歴も丹念に調査された。
3月9日、オーストリアの委員会は二つの結論に達した。
1. フルトヴェングラーは、これまで一度も党員だったことがなく、また党に従属するどのような下部組織の成員だったこともない。数多くの機会においてナチスの世界観や文化政策に明確に反抗する者であることを自ずから立証した、しかも個人として、また仕事の上で自分自身にもたらされる不利益を願慮せず、この立場を堅持した
2. フルトヴェングラーの活動を再開させることはオーストリア音楽界の再建に貢献する
しかし、在独連合国司令部は、オーストリアの委員会の調査報告を却下して、フルトヴェングラー自身がベルリンで無罪であることを立証すべきであると決定した」。その結果フルトヴェングラーは依然戦犯容疑者であり、音楽家としての活動を再開することはできなかった
4月初旬「連合国はベルリンでフルトヴェングラーに対する法的訴追手続きを始めた。彼は自身に関する覚書を(略)(芸術家非ナチ化審理法廷)に提出するよう命じる信書を受け取った。(~略~)いつ自分の事件が審理されるのかは知らされなかった。(~略~)この間フルトヴェングラーはクラランにおり、(~略~)《第二交響曲ホ短調》を完成した。(~略~)ソ連がウンター・デン・リンデンの州立劇場を引き受けてはどうかとの話を持ち掛けてきた。英国はフルトヴェングラーはがベルリンの英国側に位置していたベルリン・フィルで元の地位に戻れるようにという希望を表明していた。(~略~)彼は友人の助言に従って、結局ソ連の申し出を断った(~略~)。フルトヴェングラーに同情し共鳴する人は、外国に、特に米国にいたが、その中で公然と彼を強く弁護したのは、結局二人だけだった。(~略~)ヴァイオリニストのユーディ・メニューインである。(~略~)メニューインの他にフルトヴェングラー擁護のために積極的に活動したひとは、事実上たった一人しかいなかった。ワーグナーの孫娘フリーデリント・ワーグナーである」。「フリーデリント・ワーグナーの記述した記事が米国の定期刊行物(ミュージカル・クーリエ)1945年3月15日号に掲載された。「1936年、私の家でおこなわれた大規模なレセプションで、ゲッペレス、ゲーリングおよびヒトラーが彼を窮地に追い詰めて、すべての条件を受け入れさせようとした。そして、承諾しなければ強制収容所へ送るぞという、ヒトラーの甲高い声の脅迫でその場の緊張感は最高潮に達しました。しかしフルトヴェングラーは静かに答えました。”” 総統閣下、私があそこへ行けば、同じような人が他にもいるのだ、と思うだけですよ”” これにはヒトラーもひどく驚いて、何も答えることができず、部屋から姿を消しました」。
ブルーノ・ワルターはフルトヴェングラーをナチスではないと承知していたが支持したり、公然と擁護することもしなかった。
ここに、フルトヴェングラーが非ナチ化の際に公表しドイツ語新聞(アウフバウ)に掲載された声明の要約がある。「私はナチスのイデオロギーに抵抗してドイツの優れた知的生活を守った。私は党に直接抵抗したわけではない。なぜならばそれは私の任ではない、と自分に言いきかせたからだ。もし私が積極的に抵抗したら、誰のプラスにもならなかったろう。しかし絶対に自分の意見を隠さなかった。芸術家として、少なくとも私の音楽だけは無傷のままにしておくべきだと決意した。もし自分が政治の場で積極的な役割を担えば、ドイツに残ることはできなかったであろう。偉大なドイツの傑作を一回でも公演すれば、それがブーヘンヴァルトやアウシュヴィッツの亡霊を、言葉よりもいっそう強力に、徹底的に否定し去るものだということが私には分かっていた。どうか私の真意を正しく理解して頂きたい。芸術家は完全に非政治的になることはできない。芸術家は要するに一人の人間である。それゆえ何らかの政治的信念を持っているはずだ。そのような信念を一市民として表明するのが芸術家の義務である。しかしながら、私は音楽家として単なる市民以上の存在である。私は一人のドイツ人である。偉大なる音楽の天才が示している不滅の意味において」。
フルトヴェングラーは戦中活動停止期間は暮らしができたが、戦犯になり無収入の時期にあって、経済的支援を友人に頼らなければならず、その二年間無収入のままクラランで暮らしていた。
裁判所の管轄範囲がイタリアにまで及んでいなかったため、フィレンツェ市立歌劇場からの招聘を受け、4月6日ローマ、サンタ・チェチリア管弦楽団を指揮してベートーヴェンの《レオノーレ序曲第3番》、シューベルト《未完成》、ブラームス《交響曲第2番》を戦後初めて演奏した。
11月クルト・リース(ドイツ生まれのジャーナリストでナチス政権時代スイスに亡命)はスイスに亡命してきたフルトヴェングラーと出会う。リースは戦後の非ナチ化裁判に尽力した。彼はベルリンに赴いて連合国司令部の職員にフルトヴェングラーの審理について尋ねた。まだ数年先のことであろうと言われたので、リースは「それでは、ロシアが大部前からフルトヴェングラーにベルリン州立歌劇場の職を受諾するよう執拗に追っているので、これを承諾するよう勧めましょうと告げて立ち去った」。
「12月11日早朝から、フルトヴェングラー事件を審理する芸術家裁判がシュリッター街に召集された。小さな法廷は芸術界の著名人、外国記者団、ベルリン・フィルの演奏家、カメラマンの一団、(~略~)歌手、(略)でいっぱいだった。審理は男性5名、女性2名、および共産主義者のアレックス・フォーゲル委員長のもとにおこなわれることとなった。フルトヴェングラーに問われていた罪」
「1.音楽活動でナチス政権に奉仕した罪 
2.彼は別のドイツ人作曲家との論争の折に、(サバタはユダヤ人だからブラームスを演奏できないだろう)と言ったと伝えられている、反ユダヤ主義の中傷を口にした罪 
3.彼はニュルンベルクの国家社会主義党党大会で開会式序曲を指揮したという公的職務をを(一つ)果した罪 
4.プロイセン枢密顧問官だった罪。
(~略~)審理は11日と17日の2日行われた。12月17日の委員会側の準備不十分だったようで確実な証拠でフルトヴェングラーを追い詰めることはできなかった。(~略~)フォーゲルは静粛にと命じた後、フルトヴェングラー事件の要約を朗読した 」「 調査の結果、次のことが判明した。フルトヴェングラーがいかなる国家社会主義者の機関の成員だったことはない。人種ゆえに迫害された人々の救出に努め、ある種の外面的な儀礼、たとえばヒトラーが臨席した演奏会の後ヒトラーに敬礼するといったことを避けた。以上である 」 」。
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上][下]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、53頁、94~99頁、109~111頁

1947年2月26日に少年時代の恩師ルートヴィヒ・クルティウス に宛てたフルトヴェングラーの手紙は、「4月にローマで聖チェチーリア音楽院管弦楽団を2回指揮することが決ったことを伝えている」。
4月6日と9日ローマで聖チェチーリアオペラ音楽院管弦楽団の客演として、フルトヴェングラーは戦後最初に迎えられ、ハイドン《交響曲第100番》、R・シュトラウス《死と変容》、ベートーヴェン《交響曲第5番》指揮をした。
4月13日と20日フィレンツェで5月祭管弦楽団を指揮してハイドン《交響曲101番》、ベートーヴェンの《交響曲第3番》と《交響曲第5番》を演奏
5月1日、フルトヴェングラーの非ナチ化委員会は、(同調者)という判決となったが全面無罪を宣告した。占領軍地区ドイツおよびオーストリアを含め、音楽活動には何ら影響はなく、音楽界に復帰することができた
5月25日(日)聖霊降臨祭で復帰コンサートを、ベルリン・フィルハーモニーを客演指揮して映画館だったティタニア・パラストでベートーヴェン《エグモンド》序曲、ベートーヴェン《交響曲第6番》「田園」、ベートーヴェン《第5番》「運命」を指揮。同じ演目で26日、27日(この日のみ、旧帝国放送協会ホールという説あり)と29日指揮。
6月9日ハンブルク、ムジークハーレでハンブルク・フィル・ハーモニーを客演してベートーヴェン《レオノーレ第2番》、R・シュトラウスの交響詩《死と変容》、ブラームス《交響曲第2番》を指揮。
8月10日ザルツブルク音楽祭に復帰し、ウィーン・フィルを指揮してウエーバー《魔弾の射手》、R・シュトラウス《死と変容》、シューベルト《グレート》。13日ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルとヒンデミット《交響的変容》、ブラームス《交響曲第1番》、ブラームス《ヴァイオリン協奏曲》(Vn.)メニュ-インで演奏。
8月20日スイス、ルツェルン音楽祭で、ブラームスの《ドイツ・レクイエム》をエリーザベト・シュヴァルツコップ(S.)、ハンス・ホッター(Br.)の独唱、ルツェルン祝祭管弦楽団、同合唱団、を指揮した。27日スイス、ルツェルン音楽祭でルツェルン祝祭管弦楽団を指揮してベートーヴェン《ピアノ協奏曲第1番》アドリアン・エッシュバッハー(Pf.)、ベートーヴェン《レオノーレ第3番》、ブラームス《交響曲第1番》演奏。
8月30日スイス、ルツェルン音楽祭でルツェルン祝祭管弦楽団を指揮してワーグナー《ローエングリン》前奏曲、ブラームス《交響曲第1番》、ベートーヴェン《ヴァイオリン協奏曲》(Vn.)メニューインで演奏
9月28日ベルリン・フィルを客演指揮してとティタニア・パラストでメンデルスゾーン《真夏の夜の夢》、ベートーヴェン《ヴァイオリン協奏曲》(Vn.)メニューインで演奏
10月3日ベルリン、アドミラルパラストで《トリスタンとイゾルデ》第2幕・第3幕を指揮してオペラ復帰。トリスタン役:ルートヴィヒ・ズートハウス、イゾルデ役:エルナ・シュルターほか、ベルリン国立歌劇場管弦楽団・合唱団を指揮して演奏
11月4日ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を客演指揮しメンデルスゾーンの《フィンガル序曲》と《交響曲第4番》を演奏した
11月8日ウィーン楽友協会ホールで戦後初復帰のウィーン・フィルを指揮してメンデルスゾーン《真夏の夜の夢序曲》とメンデルスゾーン《ヴァイオリン協奏曲》(Vn.)ウォルフガング・シュナイダーハンで演奏。
11月ウィーン交響楽団を客演指揮してブラームス《ドイツ・レクイエム》をエリーザベト・シュヴァルツコップ(S.)、パウル・シェッファー(Br.)の独唱で演奏。
12月スイス、ロマンド管弦楽団を客演指揮、ウィンタートゥール国立劇場管弦楽団を客演指揮、ベルン国立劇場管弦楽団を客演指揮。

1948年2月10日カルラ・ヘッカーが、(ノイエ・ツァイトゥング紙)に発表したインタビュー記事に「 あなたのお考えでは、いったい指揮者の身振りは聴衆にどの程度影響を与えるのでしょうか」。 これに対しフルトヴェングラーは、「ポーズ、とりわけ指揮者にあってはただ望ましいというだけのものでなく、むしろ彼の役柄になくてはならないものです。だから指揮者についての報道が、たいてい写真付きであるのも不思議でありません。それを見て公平な人々は、表情ある手の動作、荒々しい目の光、恍惚としたまなざしなどから、大体この指揮者が蛇使い類なのか、催眠術師の類なのか、などという印象を与えらるのです。自身も一人の指揮者であるこの私が、このような考え方の伴う危険性を指摘しても、人は曲解しないでしょう。まず第一に言わねばならないのは、指揮者の身振りはオーケストラに向けられ、オーケストラのために定められたものだということです。それは目的を持った身振りなので、正しいかどうか、良いか悪いかは聴衆への効果からではなく、それがオーケストラからどのような音を引き出すかによって、示されるものなのです。学問がしばしば確認したように、生理的にもっとも目的にかなった身振りが、たいてい美学的にっもっとも美しい。よく駆けている馬、正しく御している騎士、あるいはスキーヤーの身振りは、それらが目的をもった身振りであるにもかかわらず・・・いやまさにそのゆえにこそ・・・それ自体で美しいものなのです。指揮者の身振りはリズムののった音楽的生起の構成に参与しています。それはもっぱらオーケストラに向けられているがゆえにこそ、聴衆に対しても何かを訴えることができる。元来聴衆のためのものでないから、それは聴衆に対してより深い意味を持つのです。芸術家が聴衆の前に立った自分の特殊な立場をあまりにも意識するのは、もちろん大いに危険なことです。この意識はすぐ彼の身振りに現れます。一口に言って、元来そのためにこそ彼がそこにいるはずの作品に対する関係よりも、聴衆との関係の方が強くなってしまうのです」
2月22日、23日ベルリンでに自作の《交響曲第2番》の初演を行う。月末から3月にかけ渡英しロンドン・フィルを10回の客演指揮をした。ロンドン滞在中、イギリス・デッカのためにロンドン・フィルハーモニー管弦楽団とブラームスの《交響曲第2番》を録音。EMIのためにワーグナーの《神々の黄昏~ブリュンヒルデの自己犠牲》をキルステン・フラグシュタットとフィルハーモニア管弦楽団との共演で録音。
「春が近づいたころ、シカゴ交響楽団理事会は首席指揮者アルトゥール・ロジンスキーを解雇した」。8月10日、「(~略~)フルトヴェングラーが音楽監督のポストに関心があるかどうか探りを入れた。(~略~)結局、彼は1949/50年シーズンにおける契約に署名した。契約の話が新聞に出ると世間は大騒ぎになった。理事会には様々な著名な演奏家からの電報が殺到した。フルトヴェングラーと本当に契約したら、自分は出演しないと告げるものだった。抗議した人たちは(~略~))」。(抗議者の中にはホロヴィッツ、ルービンシュタイン、コステラネッツ、ハイフェッツなどがいた。がブルーノ・ワルターやメニューインは抗議していない)「ギーゼキングは1949年1月下旬、ニューヨーク到着後すぐに反対の声を浴び、出入国係官により検挙されたため、即刻、自発的にドイツに戻った。その後、彼がこう語ったという記事が出た 「 どうやら〈アメリカ人は〉、7千万人のドイツ人がみんなドイツから立ち退いて、ヒトラーだけをそこに残しておくべきだったと思っているらしい 」 。ルービンシュタインが打った電報の内容 「 ヒトラーやゲーリング、あるいはゲッペルスに同調した人と共演するのはお断りだ。フルトヴェングラーが立派な民主主義者であれば、たとえばトーマス・マンがそうしたようにドイツに背を向けるべきだった。フルトヴェングラーが残ったのは、ドイツが戦争に勝つと考えたからだ。ギーゼキングの行動も同様である。フルトヴェングラーが一部の人々をナチスの支配から救いだしたと言われているが、それは未確認だ(~略~)」。これらは、当時フルトヴェングラーの立場に何ら共感を覚えなかった多くの人々の気持ちを代表していた。ドイツを立ち去らなかった人はすべてナチスで〈あったに違いない〉とするものだ 」。「(~略~)一方、(トリビューン)の記者でナチス政権の間ベルリンに駐在していたジークフリート・シュミットが、論争の最高潮のころ、当時の個人的な出来事を回想している。私がドイツにいたとき、フルトヴェングラーはヨハネス・ルートヴィヒ・シュミットという著名なドイツ人医師を主治医としていた。この人は激しい反ナチスで、私が個人的に知る限り、ゲシュタポが1939年と40年の二回にわたって殺害しようと試みたほどである。その後、シュミットは逮捕されて強制収容所に投げ込まれた。フルトヴェングラーは病気になると、自分のお抱え医師に治療を受けなければ指揮することができないと当局に訴えた。そこでシュミットはフルトヴェングラーの治療のために数時間釈放された。アメリカ人は恐怖政治を知らないから、ある指揮者がナチスに逮捕されている医師を自分の治療のために要請したことが、どんなに勇気があることか理解できないであろうが、ドイツではみな、ナチスの犠牲になった人たちのことを一刻も早く忘れたがっていた。強制収容所にいる人と知り合いであること自体が危険だったのだ」。「結局、同オーケストラの理事会はフルトヴェングラーに(略)解約を要請した」。
4月6日からテアトロ・コロン管弦楽団と8回の客演指揮。
5月12日からローマの聖チェチーリア音楽院管弦楽団を客演指揮。フィレンツェのテアトロ・コムナーレ管弦楽団を客演指揮、ミラノのスカラ座管弦楽団を客演指揮
6月ウィーン・フィルハーモニーと戦後初めてのスイスへの海外演奏をした。モントルーでフルトヴェングラーとウィーン・フィルハーモニーのメンバーは、ホテルに滞在していたリヒャルト・シュトラウスと会う。
8月5日ザルツブルク音楽祭出演し《フィデリオ》指揮。
9月ローマの聖チェチーリア音楽院管弦楽団を率いて、イギリスへわたりエディンバラ音楽祭で2回の公演。
10月3日ウィーン・フィル率いて、ロンドンでベートーヴェン《交響曲第2番》、ベートーヴェン《ヴァイオリン協奏曲》Vn.)メニューインを演奏
10月17日、18日、ハンブルク・フィルに客演指揮し、自作の《交響曲第2番》を演奏
10月24日から26日にベルリン・フィルに客演指揮しバッハの《管弦楽組曲第3番》、シューベルトの《交響曲第8番》、ブラームスの《交響曲第4番》を演奏
11月12日ストックホルムで、ストックホルム・フィルを客演指揮して、ベートーヴェン《レオノーレ》序曲第3番、ベートーヴェン《交響曲第8番》、.ベートーヴェン《交響曲第7番》を演奏
11月19日ストックホルム にて、ブラームス《ドイツ・レクイエム》をストックホルム・フィルを指揮して演奏。ケルスティン・リンドバーグ‐トールリンク(s.)、ベルンハルト・ゼンナーシュテット(B.)
11月はベルリン・フィルとイギリス公演、ロンドン、リヴァプール、バーミンガム、オックスフォードで演奏
自作の「交響曲第2番ホ短調」ベルリンで初演した
引用文献:カルラ・ヘッカー『フルトヴェングラーとの対話』、カルラ・ヘッカー著/薗田宗人(訳)154、155p、
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上][下]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、175~176頁、187~188頁

1949年1月26日-29日ミュンヘン・フィルとベートーヴェン《交響曲第4番》ほか演奏。
2月8日ウィーン・フィルとモーツァルト《交響曲第40番》、《ピアオノ協奏曲10番》ほか。(P.)ベッラ・パドゥラ=スコダ、ムジーク・フェアラインで指揮。
2月15日から23日まで、ウィーン・フィルを指揮してEMIとレコーディング。メンデルスゾーン《フィンガルの洞窟》、ワーグナー《ジークフリート牧歌》、《タンホイザー序曲》、《神々の黄昏~葬送行進曲》、《神々の黄昏~ジークフリートのラインの旅》。
3月15日ベルリン・フィルで客演指揮してブルックナー《交響曲第8番》ほかをティタニア・パラストで演奏。
3月30日から4月4日ウィーン・フィルを指揮して、EMIとレコーディング。ワーグナー《オランダ人序曲》、《ワルキューレの騎行》、《マイスタージンガー序曲》、《マイスタージンガー~徒弟たちの踊り》、ブラームス《ハイドン・ヴァリエーション》、《ハンガリアン・ダンス1番、3番、10番》、ベルリオーズ《ラコッツィ・マーチ》、モーツァルト《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》。
5月28日ミラノスカラ座管弦楽団を客演指揮してベートーヴェン《交響曲第9番》「合唱」を演奏。セスト・ブルスカンティーニ、ジュリエッタ・シミオナート、チェーザレ・シエピ等が出演。
6月1日から19日、ベルリン・フィルと西ドイツ国内ツアー。ウィスバーデンでプフィツナー《パレストリーナの3つの前奏曲》、モーツァルトの《交響曲第40番》、ブラームス《交響曲第4番》を演奏。
8月7日、ザルツブルクにてコンサ-トを指揮、プフィツナーの《交響曲ハ長調》、ブルックナーの《交響曲第8番》を演奏。
6月10日ヴィースバーデン国立劇場で、ベルリン・フィルを客演指揮してブフィッツナー《パレストリーナ~3つの前奏曲》、モーツアルト《交響曲第40番指揮、ブラームス《交響曲第4番》を指揮。
7月27日ザルツブルク音楽祭に出演。ウィーン・フィルを指揮して《魔笛》全曲を上演
8月3日ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮して《フィデリオ》全曲を上演
8月7日ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮してブフィッツナー《交響曲ハ長調》,ブルックナーの《交響曲第8番》等を演奏を
8月24日ルツェルン音楽祭でブラームス《ヴァイオリンとチェロのための協奏曲》(Vn.)シュナイダーハン(Vc.)マイナルティ、チャイコフスキー《交響曲第4番》ほかをルツェルン・クンストハウスで指揮。
8月29-31日ルツェルン・クンストハウスでブラームス《ヴァイオリン協奏曲》(Vn.)メニューイン、他を演奏
9月パリのブザンソン音楽祭でコロンヌ管弦楽団を客演指揮
9月イギリス(ロンドン、オックスフォード)、フランス(パリ)、スイス(ジェノヴァ、チューリッヒ)への演奏旅行
10月18日ダーレムゲマインデハウスでベルリン・フィル客演指揮して、ベートーヴェン《レオノーレ2番》、ブルックナー《交響曲第7番》他を演奏。
12月18日ベルリン・フィルを指揮してシューマン《マンフレッド序曲》、ブラームス《交響曲第3番》、フォルトナー《ヴァイオリン協奏曲》(Vn.)タシュナー。ティタニア・パラストで録音。

1950年3月4日スカラ座でミラノ・スカラ座管弦楽団を指揮し、ワーグナー《ラインの黄金》出演ヴォータン:フェルディナント・フランツほか
3月9日スカラ座でミラノ・スカラ座管弦楽団を指揮し、ワーグナー《ワルキューレ》出演ジークムント:ギュンター・トレプトウほか
3月22日スカラ座でミラノ・スカラ座管弦楽団を指揮し、ワーグナー《ジークフリート》出演ジークフリート:セット・スヴァンホルムほか
4月2日スカラ座でミラノ・スカラ座管弦楽団を指揮し、ワーグナー《神々の黄昏》出演ブリュンヒルデ:キルステン・フラグスタートほか
4月4日スカラ座でミラノ・スカラ座管弦楽団を指揮し、ワーグナー《神々の黄昏》出演ブリュンヒルデ:キルステン・フラグスタートほか
4月14日ブエノスアイレス・テアトロコロンでハイドン《ロンドン》他を指揮。
4月18日から25日、エジプトのカイロとアレクサンドリアへの演奏旅行
4月30日からはイタリア、フランス、西ドイツで指揮
5月2日ブエノスアイレス・テアトロコロンで、バッハ《マタイ受難曲》をテアトロ・コロン管弦楽団、出演アントン・デルモータ(T.)、アンジェル・マッティエロ(Br.)、ニルダ・ホフマン(S.)、マルガレーテ・クローゼ(Alt)、ヨーゼフ・グラインドル(Bs.)、カルロス・フェラー(Br.)、テアトロ・コロン合唱団、児童合唱団で演奏
5月22日にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでフィルハーモニア管弦楽団を指揮。ワーグナーの管弦楽曲と《ブリュンヒルデの自己犠牲》、《トリスタン~愛の死》、R・シュトラウス《四つの最後の歌》を演奏。独唱(S.)キルステン・フラグシュタット。《四つの最後の歌》世界初演。
5月24日から6月15日にかけてベルリン・フィルハーモニーと西ドイツ国内ツアー。スイス、フランスへのツアー
6月4日パリオペラ座でベルリン・フィルを指揮してベートーヴェン《交響曲第3番英雄》を録音。
6月17日から20日ティタニア・パラストでベルリン・フィルを客演指揮。シューベルト《交響曲第9番》、ヘンデル《コンチェルト・グロッソ第10番》、ブラームス《ハイドン・ヴァリエーション》、ヒンデミット《管弦楽のための協奏曲》、ベートーヴェン《交響曲第3番》を演奏した。
6月20日はティタニア・パラストでヘンデル《合奏協奏曲》作品6-10、ブラームス《ハイドン変奏曲》、ベートーヴェン交響曲第3番英雄)》の演奏だった。
6月22日《フルトヴェングラー音楽を語る》ベルリン音楽大学で講演した。
7月13日オランダ音楽祭に招かれアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮して、ベートーベン《レオノーレ序曲第3番》、ベートーヴェン《交響曲第1番》、ブラームス《交響曲第1番》上演。
7月27日ザルツブルク音楽祭出演しウィーン・フィルを指揮してモーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》
7月31日ザルツブルク音楽祭出演しウィーン・フィルを指揮してモーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》
ドン・ジョヴァンニ:ティト・ゴッビ、ドンナ・アンナ:リューバ・ヴェリッチュ、ドンナ・エルヴィラ:エリーザベト・シュヴァルツコップ、ツェルリ―ナ:イルムガルト・ゼーフリート、ドン・オッターヴィオ:アントン・デルモータ、レポレロ:エーリッヒ・クンツ、騎士長:ヨーゼフ・グラインドル、マゼット:アルフレート・ペル、ウィーン国立歌劇場合唱団
8月4日ザルツブルク音楽祭出演しウィーン・フィルを指揮して、モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》
8月5日ザルツブルク音楽祭出演しウィーン・フィルを指揮して、ベートーヴェン《フィデリオ》
8月9日スイス、ルツェルン音楽祭でルツェルン祝祭管弦楽団を指揮してグルック《アルチェステ序曲》、《ハイドン・ヴァリエーション》、ヒンデミットのヴィオラとオーケストラによる《デア・シュヴァーネンドレーア》(Vla.)ウィリアム・プリムローズ(Vla.)、ベートーヴェン《交響曲第5番)を演奏。
8月15日ザルツブルク音楽祭出演しウィーン・フィルを指揮して、ストラヴィンスキー《3楽章の交響曲》、ブラームス《交響曲第4番》ほか。
8月16日ザルツブルク音楽祭出演しウィーン・フィルを指揮して《魔笛》
8月18日ザルツブルク音楽祭出演しウィーン・フィルを指揮してモーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》
8月22日ザルツブルク音楽祭出演しウィーン・フィルを指揮してベートーヴェン《フィデリオ》出演レオノーレ:キルステン・フラグシュタット、マルツェリーネ:エリーザベト・シュヴァルツコップ、フロレスタン:ユリアス・パツァーク、ヤキーノ:アントン・デルモータ、ドン・ピツァロ:パウル・シェフラー)、ロッコ:ヨーゼフ・グラインドル、ドン・フェルナンド:ハンス・ブラウン、ウィーン国立歌劇場合唱団
8月26日ルツェルン音楽祭でベルリオーズ《ファウストのごう罰》ほか上演。
8月31日ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮してバッハ《ブランデンブルク協奏曲》3番、5番、ベートーヴェン《交響曲第3番》ほか上演。
9月25日から10月22日までウィーン・フィルとスウェーデン、フィンランド、デンマーク、西ドイツ、オランダ、スイスで22回のコンサ-トツアー。
9月25日、ストックホルムにおけるハイドンの《交響曲第94番》、シベリウスの《エン・サガ》、《ドン・ファン》、ベートーヴェンの《交響曲第5番》
10月1日、コペンハーゲンでのシューベルトの《交響曲第8番》、ベートーヴェンの《交響曲第5番》のライブ録音がある。
11月から12月にかけてイタリアとイギリスを訪問し、聖チェチーリア音楽院管弦楽団、ミラノ・スカラ座管弦楽団、フィルハーモニア管弦楽団へ客演した。
10月1日デンマーク、コペンハーゲン・オド・フェロー・パレスでウィーン・フィルを指揮してベートーヴェン《交響曲第5番》、シューベルト《交響曲第8番》ほかを上演。
12月20-22日ティタニア・パラストでベルリン・フィルを指揮してベートーヴェン《交響曲第9番》「合唱」上演

1951年1月7日ウィーンで、ウィーン・フィルを指揮してベートーヴェン《交響曲第9番》を出演イルムガルト・ゼーフリート(S.)、ロゼッテ・アンダイ(Alt)、ユリウス・パツァーク(T.)オットー・エーデルマン(Bs.)、ウィーン・ジングアカデミー合唱団で演奏
1月25日ウィーンでウィーン・フィルを指揮してブラームス《ドイツ・レクイエム》イルムガルト・ゼーフリート(s.)、ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウ(Br.)、ウィーン・ジングアカデミー合唱団で演奏
2月フルトヴェングラーは、「ベルリン音楽大学の討論会に招かれた。小ホールは押し掛けた音楽学生で超満員になっていた。司会の当時学長であったヴェルナー・エックに討論会の主導権があった。(略)エックはもう一度話を魔笛に戻した。彼はこの曲になされた、さまざまの解釈の試みを指摘してから””あなたはどの解釈が一番優れているとお思いですか ”” とフルトヴェングラーに尋ねた。フルトヴェングラーは、”” 魔笛は実に独特なジャンルの作品ですから、これを一口に断定してしまうのは不可能です。ドイツのジングシュピール、フリーメーソン劇の要素をもっているし、神聖劇として、いや高級なオペレッタの先駆としてさえ上演できます。しかしただ、モーツァルトの目指した高い意図を放棄して、この曲をまったく通俗的に上演しようとする試みだけは、どんな場合も失敗に帰すること、前もって明らかです。それは誤った知性主義です。現今の人間は、常に何事にも一つの「理念」を必要とするのです。だがこの曲の理念とはまさしく、何の理念もないということ、あるのはもっと偉大なあるもの、すなわち一つの現実であるということなのです。魔笛こそは、おそらく全音楽史の中でもっとも深遠な、もっとも不可解な作品でしょう”” 。(以下略)」
2月22日ロンドンでロンドン・フィルに客演し、ウェーバー《魔弾の射手序曲》、ブルックナー《交響曲第7番》、エトヴィン・フィッシャーの独奏でベートーヴェン《ピアノ協奏曲第5番》(Pf.)エトヴィン・フィッシャーで演奏。
3月24日(土)スカラ座でミラノ・スカラ座管弦楽団を指揮し、ワーグナー《パルジファル》出演パルジファル:ハンス・バイラー、グルネマンツ:オットー・エーデルマン、クンドリー:マルタ・メードルほか、ミラノ・スカラ座合唱団
3月27日(火)スカラ座でミラノ・スカラ座管弦楽団を指揮し、ワーグナー《パルジファル》
3月29日(木)スカラ座でミラノ・スカラ座管弦楽団を指揮し、ワーグナー《パルジファル》
4月1日(日)スカラ座でミラノ・スカラ座管弦楽団を指揮し、ワーグナー《パルジファル》
4月4日(水) スカラ座でミラノ・スカラ座管弦楽団を指揮し、ワーグナー《パルジファル》
4月7日(土) スカラ座でミラノ・スカラ座管弦楽団を指揮し、グルック《オルフェオとエウリディーチェ》出演オルフェオ:フェドーラ・バルビエリ、エウリディーチェ:ヒルデ・ギューデン、アモール:マグダ・ガボリー、ミラノ・スカラ座合唱団
4月11日(水)スカラ座でミラノ・スカラ座管弦楽団を指揮し、グルック《オルフェオとエウリディーチェ》
4月13日(金)スカラ座でミラノ・スカラ座管弦楽団を指揮し、グルック《オルフェオとエウリディーチェ》
4月15日(日)スカラ座でミラノ・スカラ座管弦楽団を指揮し、グルック《オルフェオとエウリディーチェ》
7月29日バイロイト祝祭大劇場でフルトヴェングラーは、バイロイト音楽祭再開記念演奏会でベートーヴェン《交響曲第9番》「合唱」の指揮。出演エリーザベト・シュヴァルツコップ(S)、エリーザベト・ヘンゲン(A)、ハンス・ホップ(T)、オットー・エーデルマン(B) 、バイロイト祝祭管弦楽団・合唱団。
8月1日ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮して、モーツァルト《魔笛》出演タミーノ:ヴァルター・ルートヴィッヒ、パミーナ:イルムガルト・ゼーフリート、夜の女王:ヴィルマ・リップ、ザラストロ:ヨーゼフ・グラインドル、パパゲーノ:カール・シュミット‐ヴァルター、パパゲーナ:エディット・オラヴェツ、第1の侍女:クリステル・ゴルツ、第2の侍女:マルゲリータ・ケニー、第3の侍女:ジークリンデ・ヴァーグナー)他、ウィーン国立歌劇場合唱団
8月6日ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮して、モーツァルト《魔笛》出演タミーノ:アントン・デルモータ、パミーナ:イルムガルト・ゼーフリード、夜の女王:ヴェルマ・リップほか
8月7日ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮して、ヴェルディ《オテロ》出演オテロ:ラモン・ヴィナイ、デズデーモナ:カルラ・マルティニス、イアーゴ:パウル・シェフラー、エミーリア:ジークリンデ・ヴァーグナー、カッシオ:アントン・デルモータ、ロデリーゴ:アウグスト・ヤレッシュ、ロドヴィーコ:ヨーゼフ・グラインドル他、ウィーン国立歌劇場合唱団
ベートーヴェン// 《交響曲第7番》
8月15日ルツェルン音楽祭でルツェルン音楽祭管弦楽団を指揮して、ウェーバー《魔弾の射手》序曲、バルトーク《オーケストラのための協奏曲》、ベートーヴェン《交響曲第7番》を演奏
8月19日ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮して、メンデルスゾーン序曲《フィンガルの洞窟》、マーラー《さすらう若人の歌》
(Br.)ディートリッヒ・フィッシャーディースカウ、ブルックナー《交響曲第5番》を演奏
8月31日ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮して、ベートーヴェン《交響曲第9番》「合唱」を出演(S.)イルムガルト・ゼーフリート、(Alt.)ジークリンデ・ワーグナー、(T.)アントン・デルモータ、(Bs.)ヨーゼフ・グラインドル、ウィーン国立歌劇場合唱団、ザルツブルク寺院合唱団で演奏
9月5日、シラー劇場のこけら落としでベルリン・フィルを指揮して、グルック《アルチェステ序曲》、ベートーヴェン《交響曲第9番》「合唱」を演奏
10月5日~29日ウィーン・フィルとスイス、フランス、西ドイツ国内ツアーへ出発した
10月22日シュトゥットガルトでウィーン・フィルを指揮して、ラヴェル《スペイン狂詩曲》、ハイドン《交響曲第88番》、ブルックナー《交響曲第4番》「ロマンティック」を演奏
10月27日ハンブルク・ムジークハレで北ドイツ放送交響楽団を指揮して、ブラームス《ハイドンの主題による変奏曲》、ブラームス《交響曲第1番》を演奏
10月29日(日)ツアー最終日ミュンヘンでウィーン・フィル指揮して、ベートーヴェン《コリオラン序曲》、シューマン《交響曲第1番》「春」、ブルックナー《交響曲第4番》「ロマンティック」を演奏
引用文献:カルラ・ヘッカー著、『フルトヴェングラーとの対話』、薗田宗人(訳)、音楽之友社、昭和42年、173~179頁

1952年1月10日ローマでローマ・イタリア放送管弦楽団を指揮して、ベートーヴェン《交響曲第6番》「田園」と《交響曲第5番》「運命」を指揮
1952年1月14日、ローマ・イタリア放送管弦楽団に客演《ワルキューレ~第1幕》を放送録音。ジークリンデ:ヒルデ・コネツィニ、ジークムント:ギュンター・トレプトウ、フンディング:オットー・フォン・ローアほか、ローマ・イタリア放送管弦楽団
1月19日ローマでローマ・イタリア放送管弦楽団を指揮して、ベートーヴェンピアノ協奏曲第4番》(Pf.)ピエトロ・スカルピーニ、ベートーヴェン《交響曲第3番》「英雄」を演奏
1月27日ウィーンでウィーン・フィルを指揮して、ブラームス《ハイドンの主題による変奏曲》、モーツァルト《ピアノ協奏曲第22番》(Pf.)パウル・バドゥラ・スコダ)、ブラームス《二重協奏曲》(Vn.)ウィリー・ボスコフスキー、(Vc.)エマヌエル・ブラベッツ、ブラームス《交響曲第1番》を演奏
2月3日ウィーン・ムジークフェライザールで、ウィーン・フィルを指揮してベートーヴェン《交響曲第9番》「合唱」出演(S)ヒルデ・ギューテン、(A)ロゼッテ・アンダイ、(T)ユリウス・オアツァーク、(Bs)アルフレード・ベル、ウィーン・ジングアカデミー合唱団
2月8日ティタニア・パラストでベルリン・フィルを指揮して、ベートーヴェン《大フーガ》、オネゲル《交響的楽章》第3番、シューベルト《交響曲第8番》「未完成」、ブラームス《交響曲第1番》を演奏
2月9日ティタニア・パラストでベルリン・フィルを指揮して、ベートーヴェン《大フーガ》、オネゲル《交響的楽章》第3番、シューベルト《交響曲第8番》「未完成」、ブラームス《交響曲第1番》を演奏
2月10日ティタニア・パラストにおけるベルリン・フィル創立70周年記念演奏会で、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団終身首席指揮者就任し、ベルリン・フィルを指揮して、ベートーヴェン《大フーガ》、オネゲル《交響的楽章》第3番、シューベルト《交響曲第8番》「未完成」、ブラームス《交響曲第1番》を演奏
2月29日スカラ座でミラノ・スカラ座管弦楽団を指揮してワーグナー《マイスタージンガー》
3月3日トリノでトリノ・イタリア放送管弦楽団を指揮して、ハイドン《交響曲第88番》、ベートーヴェン《レオノーレ》序曲第3番、ラヴェル《スペイン狂詩曲》、リヒャルト・シュトラウス/交響詩《死と変容》
7日トリノでトリノ・イタリア放送管弦楽団を指揮して、ブラームス《ヴァイオリン協奏曲》、ブラームス《交響曲第1番》を演奏
11日トリノでトリノ・イタリア放送管弦楽団を指揮して、シューベルト《ロザムンデ序曲》、ワーグナー《トリスタン》「前奏曲と愛の死」、メンデルスゾーン《ヴァイオリン協奏曲》(Vn.)ジョコンダ・デ・ヴィート、シューベルト《交響曲第番》「未完成」を演奏
4月9日ウィーンでウィーン・フィルを指揮して、バッハ《マタイ受難曲》出演(S.)イルムガルト・ゼーフリート、(Alt.)ヒルデ・レッセルマイダン、(T.)ユリウス・パツァーク、(Br.)ハンス・ブラウン、(Bs.)オットー・ヴィーナー)、ウィーン・ジングアカデミー合唱団、ウィーン少年合唱団で演奏
4月24日ロンドン、ロイヤル・アルバート・ホールでフィルハーモニア管弦楽団を指揮
4月26日~5月17日ベルリン・フィルハーモニーを率いて西ドイツ国内、フランスへのツアー・コンサート出発
5月3日のパリ公演では、ヨ-ゼフ・シゲティとピエール・フルニエの独奏でブラームスの《二重協奏曲》が演奏された。このツアーの録音で5月7日ミュンヘンでベルリン・フィルを指揮して、ブラームスの《交響曲第2番》他を演奏
5月24日ベルリンでベルリン・フィルを指揮して、ベルリオーズ《ローマの謝肉祭》、ドビッシー《ノクチュルヌ》、メンデルスゾーン《ヴァイオリン協奏曲》(Vn.)ユーディ・メニューイン、ベートーヴェン《交響曲第7番》を演奏
5月25日ベルリンでベルリン・フィルを指揮して、ハイドン《交響曲第94番》「驚愕」、メンデルスゾーン《ヴァイオリン協奏曲》ニ短調(Vn.)ユーディ・メニューイン、バッハ《ヴァイオリン協奏曲第2番》(Vn.)ユーディ・メニューイン、ベートーヴェン《交響曲第7番》を演奏
5月26日ベルリンでベルリン・フィルを指揮して、ベートーヴェン《レオノーレ》序曲第2番、ベートーヴェン《ヴァイオリン協奏曲》(Vn.)ユーディ・メニューイン、ベートーヴェン《交響曲第5番》を演奏
6月4日、トリノ・イタリア放送管弦楽団に客演指揮して、ブラームス《交響曲第2番》、ブラームス《二重協奏曲》(Vn.)ヴォルフガング・シュナイダーハンと(Vc.)エンリコ・マイナルディ《二重協奏曲》を演奏
6月6日トリノ・イタリア放送管弦楽団に客演指揮して、ワーグナー《さまよえるオランダ人》序曲、ワーグナー《ジークフリート牧歌》、《神々の黄昏》「ジークフリートのラインの旅」、チャイコフスキー《交響曲第5番》を演奏
6月10日ロンドン、キングズウェイ・ホールで楽劇《トリスタンとイゾルデ》全曲の録音(EMI)をイゾルデ役キルステン・フラグスタート、トリスタン役ルートヴィヒ・ズートハウス、クルヴェナール役ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ等出演、フィルハーモニア管弦楽団を指揮
6月21日ロンドン、キングズウェイ・ホールで楽劇《トリスタンとイゾルデ》全曲の録音(EMI)をイゾルデ役キルステン・フラグスタート、トリスタン役ルートヴィヒ・ズートハウス、クルヴェナール役ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ等出演、フィルハーモニア管弦楽団を指揮
6月23日ロンドン、キングズウェイ・ホールで楽劇《トリスタンとイゾルデ》全曲の録音(EMI)をイゾルデ役キルステン・フラグスタート、トリスタン役ルートヴィヒ・ズートハウス、クルヴェナール役ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ等出演、フィルハーモニア管弦楽団を指揮
7月、ザルツブルク音楽祭で《魔笛》、《オテロ》、《フィガロの結婚》の予定だったがザルツブルクのリハーサル中に倒れ、重い肺炎に罹り病気は長引いた。
11月24日ウィーン・フィルを指揮して、ベートーヴェン《交響曲第6番》「田園」、ベートーヴェン《交響曲第1番》を演奏
11月27日から12月3日にかけてウィーン・フィルとベートーヴェンの《交響曲全曲》録音
11月30日ウィーン、ムジークフェライン大ホールでウイーン・フィルを指揮して、マーラー《さすらう若人の歌》、ベートーヴェン《交響曲第1番》、ベートーヴェン《交響曲第3番》を演奏
12月7日ティタニア・パラストでベルリン・フィル定期演奏会を指揮して、ウェーバー《魔弾の射手》序曲、ヒンデミット《世界の調和》、ベートーヴェン《交響曲第3番》を演奏
12月8日ティタニア・パラストでベルリン・フィル定期演奏会を指揮して、ウェーバー《魔弾の射手》序曲、ヒンデミット《世界の調和》、ベートーヴェン《交響曲第3番》
12月16日フランクフルトでヘッセン放送交響楽団を指揮し、グルック《アウリスのイフィゲニア》、自作《交響曲第2番》を演奏

1953年1月15日~20日ベルリン・フィルを率いて、西ドイツの6都市でベートーヴェン《交響曲第1番》、自作の《交響曲第2番》を演奏
7月27日ザルツブルク音楽祭に出演して新演出の《ドン・ジョヴァンニ》を5回上演した。ドン・ジョヴァンニ:ミラノの歌手チェーザレ・シエピ、レボレッロ:オットー・エーデルマン、ドンナ・アンナ:エリーザベト・グリュンマー、騎士長:ラファエル・アリエ、ドンナ・エルヴィラ:シュヴァルツコップ、ドン・オッターヴィオ:アントン・デルモータ、ツェリーナ:エルナ・ベルガー、マゼット:ワルター・ベリー等が出演。
8月7日ドイツ語による《フィガロの結婚》を指揮。演出ヘルベルト・グラーフ、舞台装置シュテファン・ハルバ。出演は、伯爵夫人:エリーザベト・シュヴァルツコップ、伯爵:パウル・シェッフラー、フィガロ:エーリッヒ・クンツ、スザンナ:イルムガルト・ゼーフリート、ケルビーノ:ヒルデ・ギューデン等であった。
8月11日ドイツ語による《フィガロの結婚》を指揮。
8月12日フーゴー・ヴォルフ没後50年記念《歌曲の夕べ》リサイタルにヴォルフの歌曲20曲をエリザベート・シュヴァルツコップ (S.)とヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Pf.)の二人はザルツブルクのモーツァルテウムに出演した。
10月26日ローマに行き《ラインの黄金》
10月29日、11月3日と6日《ワルキューレ》
11月10日、13日、17日《ジークフリート》
11月20日、24日27日《神々の黄昏》をスタジオに招待された聴衆を前に演奏しテープに収録され、全曲が四日間にわたりイタリアでラジオ放送された。
ウォルター・レッグと結婚した「エリーザベト・シュヴァルツコプは(略)私に話してくれた ” フルトヴェングラーはカラヤンに対する不安な気持ちを見せたり、他の指揮者にそういう感情を示したりしたことがありますか ” 。「私たちはカラヤンと親密でしたから、フルトヴェングラーが成し遂げたことについて、カラヤンがどんなに羨ましく、妬ましく思っているかをよく話していたことを覚えています。(略)」。” それに対してフルトヴェングラーの方は・・・” 。「あまり多くは語りませんでした。ただ[K]とだけ言ってました。(略)。カラヤンはフルトヴェングラーについて悪口は絶対に言いませんでした。それどころか賞賛の気持ちを抱いていました」」。
引用文献:カルラ・ヘッカー「フルトヴェングラーとの対話」薗田宗人(訳)、音楽之友社、昭和42年、228~229頁

1954年1月インフルエンザでバーデン=バーデンの病院に入院し2月に回復
3月ロンドンでベートーヴェン《交響曲第4番》と《交響曲第5番》をフィルハーモニー客演指揮。
その後ベネズエラに空路向かい、19日と21日カラカスでブラームス《交響曲第1番》ほかをヴェネズエラ交響楽団指揮
3月26日にはチューリッヒで客演指揮。
3月30日自作《交響曲第2番》ほかをシュトゥットガルト放送交響楽団を指揮。
4月1日と2日はハンブルクで指揮。
4月4日から6日までベルリンでコンサートを指揮した。ベートーヴェン《交響曲第2番》、ブラームス《ピアノ協奏曲第1番》ほか
4月10日-17日までウイーンでコンサート。ブルックナー《交響曲第8番》、バッハ《マタイ受難曲》
4月25日-27日までベルリン・フィルを指揮。
4月28日からツアー巡業でハノーファ、ドイツ、フランス、スイス、イタリアなど19都市で公演指揮。
5月23日-25日までベルリン・フィルを指揮してベートーヴェン《交響曲第5番》「運命」、《交響曲第6番》「田園」他をティタニア・パラストで上演。
6月にジュネーブとローザンヌでスイス・ロマンド管弦楽団を客演指揮。ベートーヴェン《交響曲第3番》ほか
ウィーン。フィルを指揮してシューベルト《未完成》と《グレート》
7月26日ザルツブルク音楽祭に出演《魔弾の射手》指揮。同じく8月3日《ドン・ジョヴァンニ》を指揮の公演中に聴力の衰えが認められたことがあった。「《ドン・ジョヴァンニ》公演中の事で、ハープシコードのカデンツァが終わってから、オーケストラの他の人たちに演奏開始のキューを出すまでの間に意味深長な途切れがあった」。
8月9日バイロイト音楽祭に出演してベートーヴェンの《第九》「合唱」を指揮。
8月22日スイス、ルツェルン音楽祭でルツェルン祝祭管弦楽団を指揮してベートーヴェンの《第九》「合唱」指揮。
8月ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮して《ドン・ジョヴァンニ》、《魔弾の射手》
30日のザルツブルク音楽祭でベートーヴェン《交響曲第7番》と《第8番》を指揮したのが、聴衆の前でのウイーン・フィルとのラスト・コンサートになった。
9月フランス国立放送管弦楽団を指揮してベートーヴェン《交響曲第5番》と《交響曲第6番》
19日と20日ベルリン音楽祭でベートーヴェンの《交響曲第1番》と自作の《交響曲第2番》をベルリン・フィルを指揮しティターニア館で二つの演奏会の指揮をとったのが、聴衆の前でのベルリン・フィルとのラスト・コンサートになった。
「ベルリンでは、リハーサルの際には指揮台の周りにマイクロフォンが配置された。彼の耳にはヘッドフォンがあてがわれ、音が増幅されるようにしたが、結局役に立たなかった。彼はオーケストラにストップをかけて静かに言った。「では、これで終わりましょう」本番は何事もなかったように万事うまくいった』。9月28日から10月6日《ワルキューレ》をヴォータン役フェルディナント・フランツ、ジークムント役をルートヴィヒ・ズートハウス等の出演し、ウィーン・フィルを指揮してムジークフェラインザールでHMV / EMIの録音を終えた。『それから自作の交響曲第3番を仕上げるためにクラランに戻ったが、月末に悪性の風邪と思われるもので寝込むようになった。医師は、再び肺炎にかかっているが回復するであろうと言った。フルトヴェングラーは妻に向かって、自分は死ぬだろうと静かに語った」。 
11月30日、バーデン=バーデン近郊のエバーシュタインブルク病院で肺炎により息を引き取った。
12月4日「ハイデルベルクの精霊教会でで葬儀』が執り行われた。『オイゲン・ヨッフムの指揮でモーツァルトの《フリーメーソンのための葬送音楽》とバッハの《管弦楽組曲第3番》アリアが演奏」。
遺体はハイデルベルクの名誉墓地に埋葬された
引用資料:HMV「ヴィルヘルム・フルトヴェングラー&ベルリン・フィル 定期演奏会のベートーヴェン:交響曲第1番、第3番、第5番、第6番、第7番、第8番(1947-54)(6CD) 」人物フルトヴェングラー年譜、最終アクセス2019年5月14日
引用文献:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上][下]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、381~382頁

没後の1956年1月、フルトヴェングラーの70才の誕生日に、フルトヴェングラーが終戦時に避難していたジュネーブ湖畔クラランで作曲した「交響曲第3番」3楽章、ヨーゼフ・カイベルトが指揮して初演した

4.主な作品

1.自作
交響曲第1番、交響曲第2番、交響曲第3番(1~3楽章)、交響的楽章 ニ長調、交響的楽章 ロ短調
ピアノ五重奏曲 ハ長調、ヴァイオリン・ソナタ第1番・第2番、交響的ピアノ協奏曲、デ・テウム
序曲 変ホ長調、ピアノと管弦楽のための交響的協奏曲 ロ短調 、2つの幻想曲(ピアノ作品)

2.主なレコーディング
ベートーヴェン/交響曲第5番「運命」(ベルリン・フィル 1937年スタジオ録音)
シューベルト/交響曲第9番「ザ・グレイト」(ベルリン・フィル 1942年演奏会ライヴ録音)
ベートーヴェン/交響曲第9番「合唱付」(ベルリン・フィル 1942年演奏会ライヴ録音)
ベートーヴェン/交響曲第3番「英雄」(ウィーン・フィル 1944年放送録音)
ベートーヴェン/交響曲第5番「運命」(ベルリン・フィル 1947年5月25〜29日 演奏会ライヴ録音
ワーグナー/「ニーベルングの指環」全曲(スカラ座 1950年ライヴ録音&ローマRAI放送 1953年放送録音)
ベートーベン/交響曲第7番(ウィーン・フィル 1950年スタジオ録音)
ベートーヴェン/交響曲第9番「合唱付」(1951年7月29日 バイロイト音楽祭再開記念演奏会ライヴ録音
ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」(1952年 スタジオ録音)
ベートーヴェン/交響曲第3番「英雄」(ウィーン・フィル 1952年11月26、27日スタジオ録音)
シューマン/交響曲第4番(ベルリン・フィル 1953年5月スタジオ録音)
ベートーヴェン/交響曲第5番「運命」(ウィーン・フィル 1954年2月28日&3月1日 スタジオ録音[9]
ワーグナー/「ワルキューレ」全曲(ウィーン・フィル 1954年スタジオ録音)
ベートーヴェン/交響曲第9番「合唱付」(*フィルハーモニア管弦楽団 1954年、ルツェルン音楽祭ライヴ録音。)

5.その他

栄誉:ゲーテ勲章、プール・ル・メリット平和勲章、レジョン・ドヌール勲章、ハイデルベルク大学博士号等々を受章
2013年3月5日妻のエリーザベト,102才で死去。日本フルトヴェングラー・センター名誉会長を務めていた

6.初演

1927年7月1日 フランクフルト バルトーク/ピアノ協奏曲第1番 / 作曲者自身のピアノ 国際現代音楽協会のフランクフルト大会
1928年12月2日 ベルリン シェーンベルク/管弦楽のための変奏曲作品31 /ベルリン・フィル  
1931年11月12日 ベルリン プフィッツナー/楽劇『こころ(Das Herz)』/ ベルリン国立歌劇場
1932年10月30日 ベルリン プロコフィエフ/ピアノ協奏曲第5番 / 作曲者のピアノ、ベルリン・フィル
1933年3月26日 ベルリン オネゲル/交響的運動第3番 / ベルリン・フィル 
1934年3月11日 ベルリンヒンデミット/交響曲『画家マティス』/ ベルリン・フィル 
1939年11月17日 ハンブルク プフィッツナー/小交響曲 ト短調 作品44 / ベルリン・フィル 
1950年5月22日 ロンドン R・シュトラウス/『4つの最後の歌』/ ソプラノ:キルステン・フラグスタート、フィルハーモニア管

7.関連動画

フルトヴェングラー作曲《デ・テウム》
Wilhelm Furtwängler – Te Deum (1902-1909) Live in Berlin, 12 March 1967
Edith Mathis (soprano), Sieglinde Wagner (alto), Georg Jelden (tenor), William Dooley (bass)
Hans Chemin-Petit, Berliner Philharmoniker & Choir

フルトヴェングラー作曲《交響的ピアノ協奏曲》1939年1月19日録音
エドウィン・フィッシャー(Pf.) ベルリン・フィル フルトヴェングラー指揮
Furtwängler – Symphonic Concerto for Piano and Orchestra in B minor
Edwin Fischer,(Pf.) 
Berlin Philharmonic Orchestra conducted by Wilhelm Furtwängler
(Recorded 19 January.1939) (Remastered 2012)

フルトヴェングラー作曲《交響曲第1番》
BeschreibungSymphony No 1 in B minor by Wilhelm Furtwängler
Staatskapelle Weimar ワイマール・シュターツカペレ管
George Alexander Albrecht, conductorゲオルゲ・アレクサンダー・アルブレヒト指揮

フルトヴェングラー作曲《交響曲第2番》
Symphony No 2 -in E minor by Wilhelm Furtwängler 22/02/1953
Vienna Philharmonic Orchestra conducted by Wilhelm Furtwängler
Recorded Live 22 February 1953, Grosser Saal, Musikverein, Vienna

フルトヴェングラー作曲《交響曲第3番》第三楽章まで
ウォルフガング・サヴァリッシュ指揮 / バイエルン国立歌劇場管弦楽団
Furtwängler – Symphony No. 3 in C-sharp minor
1. Largo (mesto, pesante)
“Fate” (Diary: Verhängnis) (00:00 to 14:21)
2. Allegro
“The Compulsion of Life” (Diary: Der Zwang des Lebens) (14:21 to 32:38)
3. Adagio
“Beyond” (Diary: Jenseits) (32:38 to 48:53)
Note that this recording only contains the first three movements of this symphony
Bayerisches Staatsorchester conducted by Wolfgang Sawallisch

フルトヴェングラー作曲《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第1番》
Sonata for violin and piano No. 1 in D minor
by Wilhelm Furtwängler (1886-1954)
1. Movement “Allegro moderato”
Dong-Suk Kang, violin
Francois Kerdoncuff, piano

R・シュトラウス/『4つの最後の歌』 世界初演 
1950年5月22日 ローヤル・アルバート・ホール
キルステン・フラグスタート(S)フィルハーモニア管
Richard Strauss – Vier letzte Lieder (Four Last Songs), Op. post.
(s)Kirsten Flagstad, Philharmonia Orchestra conducted by Wilhelm Furtwängler
World Première, Royal Albert Hall, London, Recorded Live 22 May, 1950

映像 / ワーグナー《マイスタージンガー》第一幕前奏曲 1942年 AEG工場内 (live)
“Furtwängler Dirigiert” – NAZI Germany propaganda film ナチス、ゲーリングの宣伝用に使われた映像
Wilhelm Furtwängler conducting the Berlin Philharmonic Orchestra
Wagner – Die Meistersinger von Nürnberg, Prelude to Act I: Sehr mäßig Bewegt
Berliner Philharmoniker & Wilhelm Furtwängler
at a 1942 concert given at an AEG company plant(Live)

映像短編 / フルトヴェングラー 第九 Aug.31.1951,in ザルツブルグSalzburg
Furtwangler conducts Beethoven Sym.9 on Aug.31.1951,in Salzburg

映像短編 / フルトヴェングラー 第九
Furtwangler conducts Beethoven Sym.9

映像短編 / フルトヴェングラー ベートヴェンSy 9 戦中 flv 9
Furtwangler conducts Beethoven Sym.9

カラー映像 / モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》序曲 ザルツブルク音楽祭1954年8月3日
ドン・ジョヴァンニ:チェーザレ・シエピ、ドンナ・エルヴィーラ:エリーザベト・シュヴァルツコップ、
レポッレロ:オットー・エーデルマン、騎士長:デジュー・エルンスターほか、ウィーン・フィル
Furtwängler conducting Mozart’s Don Giovanni Overture Salzburg 3 Aug.1954 (In Colour)
 

カラー映像 / モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》全曲 1954年
《Don Giovanni,》 Furtwängler, Salzburg 1954
Don Giovanni – Cesare Siepiチェーザレ・シエピ
Leporello – Otto Edelmannオットー・エーデルマン
Donna Anna – Elisabeth Grümmerエリザベート・グリュンマー
Don Ottavio – Anton Dermotaアントン・デルモータ
Donna Elvira – Lisa della Casaリーザ・デラ・カーザ
Zerlina – Erna Bergerエルナ・ベルガーエルナ・ベルガー
Masetto – Walter Berryヴァルター・ベリー / Vienna State Opera Chorus
Il commendatore – Dezső Ernsterデジュー・エルンスター
Conductor – Wilhelm Furtwängler / Vienna Philharmonic Orchestra

映像 / R・シュトラウス《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》
Richard Strauss – Till Eulenspiegels lustige Streiche (Till Eulenspiegel’s Merry Pranks)
Berlin Philharmonic Orchestra conducted by Wilhelm Furtwängler
Berlin: Titania Plast, 1950

映像短編 / フルトヴェングラー
MUSIKSTADT BERLIN 1945-1947 tonfilm, Menuhin, Blech, Furtwängler in Berlin..

映像短編 / フルトヴェングラー
Furtwangler rehearsals Brahms Symphony No.4 in 1948,London

映像短編 / フルトヴェングラー
rare footage of W. Furtwangler rehearsing Schubert’s Unfinished Symphony

J・S・バッハ 管弦楽組曲 第3番
Johann Sebastian Bach Orchestral Suite No 3 in D Major, BWV 1068
Berliner Philharmoniker / Wilhelm Furtwängler

クリストフ・グルック:オペラ《アウリスのイフィゲニア》序曲
‘IPHIGENIE EN AULIDE’ Gluck, Overture
Wiener Philharmoniker, diretti da Wilhelm Furtwangler, è del 1954.

モーツァルト 交響曲第40番 1949年6月10日
Mozart / Symphony n°40 K.550
Berliner Philharmoniker / Wilhelm Furtwängler
Live recording, Wiesbaden, 10.VI.1949

モーツァルト: 歌劇 「フィガロの結婚」 序曲 ザルツブルク音楽祭1953年8月7日
フルトヴェングラー, ウィーン・フィル
Mozart : ”Le nozze di Figaro” Ouvertüre, K.492
Wilhelm Furtwängler / Wiener Philharmoniker 7 Aug.1953

1949年7月27日ザルツブルク音楽祭 オペラ《魔笛》
Mozart – Die Zauberflöte / The Magic Flute KV 620
Wiener Philharmoniker – Wilhelm Furtwängler, conductor.
Salzburg August 27, 1949

ベートーヴェン交響曲第3番 英雄 1952年12月8日
Beethoven《Symphony No. 3 in E-Flat Major,》 Op. 55 ‘Eroica'(1952 Recording) [Live] Dec. 8, 1952
Berliner Philharmoniker & Wilhelm Furtwängler
Furtwängler Eroica most lively! Special transfer
https://youtu.be/voz8NTrNUT0

ベートーヴェン《交響曲第4番 変ロ長調》 作品60
フルトヴェングラー / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1943年6月27~30日 旧フィルハーモニー (ベルリン)
Beethoven: Symphony No. 4, Furtwängler & BPO (1943)

ベートーヴェン交響曲第5番 運命
Beethoven《Symphony No. 5 in C Minor,》 Op. 67  (1954 recording) [Live]
Berliner Philharmoniker & Wilhelm Furtwängler

ベートーヴェン交響曲第6番 田園
Beethoven《Symphony No.6 in F Major》, Op.68 ‘Pastoral’
Wilhelm Furtwängler, Berliner Philharmoniker
Recorded live at Titania Palast, 25-5-1947

ベートーヴェン《交響曲第7番 イ長調》 作品92
指揮:ヴィルヘルム・フルトヴェングラー / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1950年1月18~19日
Furtwängler Conductor / Vienna Philharmonic Orchestra
Rec. 18-19 January 1950

ベートーヴェン 《交響曲第8番》  1948年11月13日ライブ録画
ストックホルム国立フィルハーモニ管弦楽団 1948年11月13日ライブ録画
Beethoven: Symphony No. 8,
Stockholms Konsertföreningens Orkester (Royal Stockholm Philharmonic Orchestra)
Rec. 13 November 1948 (Live Recording)

ベートーヴェン交響曲第9番 1937年5月1日(土) ジョージ六世戴冠式記念演奏会
Symphony No 9 in D minor op 125 “Choral” Live concert 1 May 1937 in London,Quenn’s Hall
by Ludwig van Beethoven
Erna Berger Soprano / Gertrud Pitzinger Alto / Walther Ludwig Tenor
Rudolf Watzke Bass / The Philharmonia Choir
Charles kennedy-Scott, Chorusmaster
Wilhelm Furtwängler, Conductor / Berlin Philharmonic Orchestra

ベートーヴェン交響曲第9番 1942年3月22日(日) ベルリン・フィル定期演奏会
Beethoven Sympony No. 9 in D minor, Op. 125 – Wilhelm Furtwängler – March 22, 1942 
Tilla Briem, soprano / Elisabeth Höngen, alto / Peter Anders, tenor
Rudolf Watzke, bass / Bruno Kittel Choir
WILHELM FURTWÄNGLER,Conductor / Berlin Philharmonic Orchestra

ベートーヴェン交響曲第9番 1942年3月22-24日
Beethoven’s Symphony No. 9 in D minor op 125.
Tilla Briem, soprano、Elisabeth Höngen, alto、Peter Anders, tenor
Rudolf Watzke, bass 、Bruno Kittel Choir
Berlin Philharmonic Orchestra / conductor Wilhelm Furtwängler
This recording was made in Berlin, recorded live 22-24 March, 1942.

ベートーヴェン交響曲第9番 1951年7月29日(日)バイロイト音楽祭
Beethoven: Symphony no. 9 “Choral” (Furtwangler, Bayreuth 1951) 
Elisabeth Schwarzkopf, soprano / Elisabeth Höngen, alto
Hans Hopf, tenor / Otto Edelmann, bass
Bayreuth Festival Orchestra, Wilhelm Furtwangler
Recorded live* on July 29. 1951

ベートーヴェン交響曲第9番 1942年4月19日/ヒトラー生誕・前夜祭コンサート
Symphony No 9 in D minor op 125 by Ludwig van Beethoven
Erna Berger, (S.)/Gerrude Pitzinger,(Contralto)
Helge Rosvaenge, (T.)/Rudolf Watzke, (Bs.)
Bruno Kittel Chorus
Wilhelm Furtwängler, conductor/Berlin Philharmonic Orchestra
Berlin (Philharmonie), 19.04.1942

ベートーヴェン交響曲第9番 1953年5月31日 ニコライ記念演奏会
Beethoven – Symphony No.9 – Furtwängler, WPO
Irmgard Seefried, soprano / Rosette Anday, alto Anton Dermota, tenor
Paul Schöffler, bass / Wiener Singakademie
Wiener Philharmoniker – Wilhelm Furtwängler, conductor.
Recorded live at the Musikverein, Vienna, May 31 1953

ベートーヴェン交響曲第9番 1954年8月22日 ルツェルン音楽祭
Symphony No 9 in D minor op 125 “Choral” by Ludwig van Beethoven
Elisabeth Schwarzkopf, Soprano / Elsa Cavelti, Alto / Ernst Haefliger, Tenor
Otto Edelmann, Bass / Lucerne Festival Chorus
Wilhelm Furtwängler, Conductor / Philharmonia ‘Orchestra
Live concert 22.VIII.1954
Lucerne Festival

ベートーヴェン交響曲第3番(ウラニアのエロイカ)1944年12月19日ウィーン、ムジークフェラインザール録音
Ludwig van Beethoven Symphony n°3 op.55 “Eroica”
Wilhelm Furtwängler / Wiener Philharmoniker
Live recording, Vienna, 19.XII.1944

ベートーヴェン交響曲第5番 1943年
Beethoven 5th Symphony
Furtwängler Berlin Philharmonic Orchestra, Alte Philharmonie 1943. Special transfer

ベートーヴェン交響曲第6番 1947年5月25日ティタニア・パラスト
Beethoven – Symphony No.6 in F Major, Op.68 ‘Pastoral’ – Furtwangler (1947 live)
Wilhelm Furtwängler, Berliner Philharmoniker
Recorded live at Titania Palast, 25-V-1947

ベートーヴェン交響曲第6番田園 1944年3月20-22日ベルリン国立歌劇場
Ludwig van Beethoven:Symphony n°6 op.68 “Pastorale”
Berliner Philharmoniker / Wilhelm Furtwängler
Live recording, Berlin, 20/22.III.1944

ベートーヴェン《ピアノ協奏曲第5番》1951年エドヴィン・フィッシャー(Pf.)
Beethoven – Piano Concerto No.5. I. Allegro //
Edwin Fischer, piano
Philharmonia Orchestra – Wilhelm Furtwangler, cond.
recorded 1951

ベートーヴェン《ヴァイオリン協奏曲》1953年ユーディ・メニューイン(Vn.)
Beethoven – Violin Concerto in D, Op. 61 – I. Allegro ma non troppo
Yehudi Menuhin, violin;
Wilhelm Furtwängler, cond. – Philharmonia Orchestra //
Studio recording, 1953

ブラームス 交響曲第1番 ベルリン・フィル 1952年2月10日 / ティタニア・パラスト
J・Brahms (1833-1897) / Symphony No. 1 in C minor, Op. 68
Wilhelm Furtwängler (1886-1954), Conductor
Berlin Philharmonic Orchestra
Rec. 10 February 1952, at Titania Palast, in Berlin (Live Recording)

ブラームス / 交響曲第2番ニ長調 ウィーン・フィル 1945年1月28日
Johannes Brahms / Symphony No. 2 in D major, Op. 73
Wilhelm Furtwängler (1886-1954), Conductor
Vienna Philharmonic Orchestra
Rec. 28 January 1945, in Vienna

ブラームス 交響曲第3番 ベルリン・フィル 1954年4月27日ティタニア・パラスト(ライブ録音)
Brahms Symphony No. 3 in F major, Op. 90
Wilhelm Furtwängler, Conductor / Berlin Philharmonic Orchestra
Rec. 27 April 1954, at Titania Palast, in Berlin (Live Recording)

ブラームス 交響曲第4番 ベルリン・フィル 1943年6月27 & 30日
Johannes Brahms Symphony n°4 op.98
Berliner Philharmoniker / Wilhelm Furtwängler
Recorded in Berlin, 27 & 30.VI.1943

ブラームス 交響曲第4番 ウィーン・フィル 1950年8月15日 / ザルツブルク
Johannes Brahms / Symphony n°4 op.98
Wiener Philharmoniker / Wilhelm Furtwängler
Live recording, Salzburg, 15.VIII.1950

ブルックナー: 交響曲 第4番 ロマティック
ウイーン・フィル 1951年10月22日
Symphony No 4 in E flat Major by Anton Bruckner
“Romantic” (Ed.: Ferdinand Löwe)
Wiener Philharmoniker / Wilhelm Furtwängler, conductor
Stuttgart, 22.X.1951

ブルックナー: 交響曲 第5番 変ロ長調 (ハース版)  1942年10月28日
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
Wilhelm Furtwängler / Berliner Philharmoniker 28 Oct.1942

ブルックナー交響曲第8番 ウイーン・フィル 1944年10月17日ウィーン楽友協会大ホール
Bruckner – Symphony No 8, Furtwängler, VPO (17th October, 1944)
Vienna Philharmonic Orchestra conducted by Wilhelm Furtwängler
Recorded live at Großer Saal, Musikverein, Vienna, 17th October, 1944

ブルックナー交響曲第8番 ベルリンフィル Aufnahme/recorded on:1949年3月15日
Symphony n°8 (ed. Furtwängler based on Haas 1890)
Wilhelm Furtwängler / Berliner Philharmoniker
Live recording, Berlin, 15.III.1949

ブルックナー《交響曲第9番ニ短調》 (オーレル版(ハース版と呼ばれることもある))
指揮:ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1944年10月7日 ベートーヴェン・ザール (放送用実況録音)
Josef Anton Bruckner 《Symphony No. 9 in D minor 》(Orel edition (Haas edition))
Wilhelm Furtwängler (1886-1954), Conductor/Berlin Philharmonic Orchestra
Rec. 7 October 1944 (Live Recording)

メンデルスゾーン 序曲《フィンガルの洞窟》1951年8月19日ザルツブルク 
Furtwangler Fingals Cave 1951 Salzburg

ワーグナー 《トリスタンとイゾルデ》前奏曲~愛の死
WAGNER – Tristan und Isolde: Prelude & Liebestod (Furtwängler/Flagstad)
Ludwig Suthaus, Kirsten Flagstad, Blanche Thebom, Josef Greindl, Dietrich Fisher-Dieskau,
Rudolf Schock, Edgar Evans, Rhydderch Davies,
Wilhelm Furtwängler, Covent Garden Chorus, Philarmonia Orchestra

R・シュトラウス ドン・ファン 1954年3月2日ウィーン・フィル
Richard Strauss – Don Juan, Op. 20
Vienna Philharmonic Orchestra conducted by Wilhelm Furtwängler
Recorded at the Musikvereinssaal, Vienna, 2 March 1954

フルトヴェングラーへのインタビュー
Furtwängler Documentary
Wilhelm Furtwängler interviews, biography in English
I. Allegro: Brandenburgisches Konzert Nr. 5 D-Dur BWV 1050
アーティスト Wilhelm Furtwaengler
アルバム Wilhelm Furtwaengler Vol. 1
IV. Finale: Presto – Allegro assai
アーティスト Peter Anders, Berlin Philharmonic Orchestra, Tilla Briem, Bruno Kittel Choir, Furtwangler, Wilhelm,Hongen, Elisabeth, Rudolf Watzke
Dirigenten-Probleme, Konzertpubliken, Bruckners Musik, das Begleiten, Sänger [Wilhelm Furtwängler spricht über Musik 2. Teil]
アーティスト Wilhelm Furtwängler

フルトヴェングラーと学生との対話
1951年2月27日ベルリン音楽大学小ホールにて(司会・学長ヴェルナー・エック)
(Recorded 27th February, 1951, the “Hochschule für Musik”, Berlin)
00:00 — Criteria for casting singers
00:00 -<質問>手の問題を指揮ははどう解決するのか
05:44 — Relationship between conductor and director
05:44 –<質問> 監督と監督の関係
15:50 — Length of breaks/Overture to “Die Zauberflöte”
15:50 – 休憩時間/ “The Magic Flute”への序曲
24:00 — Musical tempo
24:00 –<質問>オペラないし交響曲のテンポを大きい会場と小さい会場でやるときでどう考えているか
25:27 — Audience/musical intelligence
25:27 – オーディエンス/ミュージカルインテリジェンス
28:40 — General pauses in Bruckner’s works/Principle of the symphony/Future of music
28:40 – ブルックナーの作品の一般休止/交響楽団の原理/音楽の未来
34:20 — “Emotional music”/freedom in music
34:20 – “感情的な音楽” /音楽の自由
40:29 — Universality of interpretations/Sound volume and size of concert hall
40:29 – 通訳の普遍性/コンサートホールの音量と大きさ
46:19 — Acoustics of opera houses and concert halls
46:19 – オペラハウスやコンサートホールの音響
47:54 — Casting of Wagnerian roles/impact of gender/perfection and charisma
47:54 – Wagnerianの役割のキャスティング/性別の影響/完璧さとカリスマ性
57:44 — Orchestra pit—covered or open?/The orchestra as an accompanying instrument
57:44 – オーケストラはピットカバーかオープンか?/付随楽器としてのオーケストラ
1:01:49 — The art of accompaniment
1:01:49 – 伴奏の芸術

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参考文献:参考文献  サム・H・白川,『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]・[下]』,藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳),アルファベータ,2004年  /  HMV、『ヴィルヘルム・フルトヴェングラー&ベルリン・フィル 定期演奏会の ... - HMV』、【販売元情報】、フルトヴェングラー×ベルリン・フィル×定期演奏会=最強のベートーヴェン、、【人間フルトヴェングラー】、【年表】、最終アクセス2019年5月10日、  / カルラ・ヘッカー、『フルトヴェングラーとの対話』、薗田宗人 訳、 音楽之友社、1967年 / 谷河儀和、『「第6章 オペラ指揮者フルトヴェングラー - フルトヴェングラー ルネサンス|表紙 」』、最終アクセス2019年5月10日、http://furtrenaissance.web.fc2.com/chapter6.html、 /  谷河儀和、『「フルトヴェングラー ルネサンス|第5章|第2次世界大戦後」』、最終アクセス2019年5月10日、http://furtrenaissance.web.fc2.com/chapter5.html / 出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)、『ヴィルヘルム・フルトヴェングラー』、「文献資料」サム・H・シラカワ、中矢一義訳・桧山浩介協力「作曲家フルトヴェングラーと現在の評価」『悪魔の楽匠 レコーディングから探る巨匠フルトヴェングラーの実像』 - 『レコード芸術』1994年12月号、音楽之友社、1994年、報道資料、『読売新聞』2010年11月3日東京朝刊、最終アクセス2019年5月10日、https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴィルヘルム・フルトヴェングラー / 『Wilhelm Furtwängler』、最終アクセス2019年5月10日、https://de.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_Furtwängler / Liste deutscher Komponisten klassischer Musik、最終アクセス2019年5月10日、https://de.wikipedia.org/wiki/Liste_deutscher_Komponisten_klassischer_Musik  / Home The Orchestra History of the Berliner Philharmoniker The era of Wilhelm Furtwängler 、『A magician of sound caught between the times[Wilhelm Furtwängler]1886–1954, principal conductor 1922–1934 and 1952–1954、』、最終アクセス2019年5月11日、https://www.berliner-philharmoniker.de/en/history/wilhelm-furtwaengler/#event-furtwangler-becomes-chief-conductor /