10. <戸田家-家系>Toda Stammbaum
<戸田家とはÜber die Familie Toda>
〇尾崎三良の養祖父/戸田造酒は元「近藤」と称え三条家譜代の臣、京都三条通りの東蹴上に家を持ち、三条実万公に仕え用人を務めた
〇戸田造酒の娘(尾崎三良の養母)/戸田玉井は伏見親王家に仕え老女を務めた。玉井は伏見家では玉島と呼ばれた。山階宮晃親王は実家である伏見家にしばしば出入りしているうちに、父宮:邦家親王の末女の姫君、つまりは山階宮親王の実妹と姦淫し兄妹は駆け落ちし大騒動となる。終に姫路で掴まったが、この時、玉井は老女として奥向き不取締であるとされ、伏見家を放逐された
また当時の関白より内輪として、その父/近藤なるもの三条家に奉仕するのは、皇室に対して恐れありとの事でよんどころ無く、三条家よりもその父をも永の暇となり、浪人することになった
〇その後年月を経て世間の噂も薄らぎ元々父/近藤には何の過失もないことゆえ、三条家では再び召抱えることとした
しかし公儀を憚り、近藤を改めて【戸田】と称するようにとの命令に依り、以来【戸田造酒】と称した
〇その後、嘉永年に養子を迎え名を戸田秋太郎と称して三条家に仕えたが、不都合があって三条家を放逐され、戸田家を離縁された
〇その後、戸田造酒も老年に及び務めを為し難く、三条家を退隠した。八十有余となり嗣子がなく養子を考えていた
〇尾崎三良(21才)は1862年、世話人により戸田造酒の娘、戸田玉井の養子となり戸田家を継ぎ、戸田雅樂と称し三条家に仕えることになる
〇戸田造酒の娘:玉井の妹で千代浦という娘がいた。
〇千代浦は本願寺の連枝、江州種村本行寺の住職、上禅院沢証の妾となっていたが、子を数人生み亡くなった。上禅院に請われ戸田玉井は妹の子供の世話方々本行寺に行き、父を伴い同寺に寄食することとなった。
〇上禅院と千代浦の第三女が「八重」で後に尾崎三良に嫁ぎ妻となった。戸田造酒は本行寺で終焉するつもりの約束であった。その後、玉井は三条家へ仕えた。
〇その後、戸田雅樂(尾崎三良)の英国への留学中に廃藩置県の令が出て、三代相続の臣下は皆士族となり禄を賜り、三代に満たない者は原籍に復帰することになった。1873年(明治6年)西欧より帰朝したとき、原籍に復帰するよう三条家より申し渡される。家兄の若林家に復帰することを屑とせず、幸いにも祖先伝来の尾崎の家を復続し戸主となり尾崎三良と称した。
〇すると戸田家が断絶することになるため戸田玉井を戸田家の戸主と為し、藤木美知子(士族藤木行顕の娘)をその養女とし、戸田家を相続させることにした。後に三良の三男盛貞を美知子の養子として戸田家を相続させた
11. <父方-家系>Väterliche Abstammung
11-1. 高祖父:尾崎盛房(尾崎彦左衛門=代々相伝の名)
高祖母:
11-2. 曾祖父:尾崎盛之(尾崎彦左衛門)(1883~)の家は、山城国葛野郡西院村の農業を営む者で、代々郷士と称し、父祖の業を継ぎ里正(リセイ/郷里制の里長・庄屋・村長)であった。幼くして父母を失い、祖父母に育てられた。初め「尾崎彦左衛門」を称した。これは代々相伝の名前で、後に家督を継いだ後に尾崎主水と改めた。また「尾崎大進」といった。里正であることをいさぎよしとせず、40才前後に縁を求めて御室仁和寺宮の諸大夫の家「若林氏」の絶えたのを継ぎ、仁和寺宮に奉仕し「若林大進」と称した。但し西院村では尾崎彦左衛門または尾崎大進と称し、一人で二氏を称して来た。のち、従六位下に叙され「睦之介」に任じられた。1851年51才で没した。
曾祖母:桃華子トクコ(1891~1872年)は丹波国篠山の藩士中村某の娘。京都西町奉行組与力、熊倉市太夫の養妹となり嫁いで来た。盛之の死後「普明院」となる
11-3. 曾祖父:盛之-家族
先妻:
曾祖母(継室):桃華子
長兄(大伯父):先妻の子、尾崎盛栄は若林家を継ぎ、従六位下因幡介に任じられた
盛栄の嗣子(伯父):尾崎敬太郎、歿
盛栄の二男(従兄):尾崎駒之輔が若林家を継ぎ、日向国延岡に住んだ
次兄(大伯父):先妻の子、尾崎直達は仁和寺宮近臣六位侍村上氏の養子となり、村上直達という
三男(祖父):尾崎三良、戸田家の養子となり戸田雅樂と称した。西欧より帰朝後、原籍復帰により尾崎家を継ぎ尾崎三良と称した。男爵
同母弟(大叔父):尾崎九十九、夭折
同母弟(大叔父):尾崎和之助、夭折
長姉(大伯母):尾崎古仙、近衛家近臣菱木信之に嫁ぐ
二姉(大伯母):尾崎喜美、高槻藩士井出郡司に嫁ぐ
妾腹の弟(大叔父):尾崎久米松
妾腹の妹(大叔母):尾崎蓮
叔母:摂州高槻藩士/岡田語左衛門に嫁いだ
11-4. <祖父:尾崎三良-家族>(1842年3月3日~1918年10月13日)別に詳述する
11-4-1. 祖母:三良の最初の妻:バサイア・キャサリン・モリソン(1843~1936年) Bathia Catherine Morrison, 渡英中にロンドンでウィリアム・モリソンの娘と結婚。モリソンはロンドンで個人教師業と下宿屋を営んでいた。1869年に結婚し、三女をもうけたが1881年に離婚
長女(伯母):バサイアの子/英(O’yei Evlyn Theodora Kate)1870年生まれ。「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれる尾崎行雄(咢堂)と結婚。セオドラ英子とも呼ばれている。16歳で来日。慶應義塾幼稚舎の教師のほか、駐日英国公使夫人の秘書などを務める。日本の昔話の英訳で知られる。子に雲香(子爵/相馬氏第32代当主・相馬恵胤の妻)と品江。
二女(伯母):バサイアの子/政1872年生まれ。英国人、アルフレッド・ジェームス・ヒューイットに嫁ぐ
三女(伯母):バサイアの子/君(Kimie Florence Bathia Alexandra)(1873年尾崎帰国後に誕生)。尾崎が毎月バサイアに生活費を仕送りする代わりに君子を日本に送るという両親の生活援助協定により1889年に来日したが、日本の生活に馴染めず一年後に帰国、1904年に再来日して横浜のフレイザー商会で働いた。1909年にスウェーデン人商人のヘンリツク・オークテルロニHenrich Ouchterlony(1882-1948)と日本で結婚、スウェーデンで一女をもうけた。夫オークテルロニは1906年に来日し、Ouchterlony & Co Ltdを大阪で開業し、フィンランド・パルプの代理人を務めるほか、神戸と大阪でフィンランドとスウェーデンの領事館に勤務したのち、1940年にはフィンランド総領事となる。1946年、君子は夫と共にスウェーデンに戻り、1964年にヨーテボリで歿した
11-4-2. 祖母-継室:戸田八重(八重の母は、戸田造酒の二女・千代浦という。本行寺住職、上善院沢証の妾となり、その間に生まれた第三女が八重で、戸田玉井の養女となった)
嗣子(伯父):八重の子/男子(1875年死産)
四女(伯母):八重の子/寿子(1886~没年不詳) 小野義一に嫁ぐ。小野は東京帝国大学政治学科首席卒業、大蔵省に任官し主計局兼参事官付となる。同年11 月、文官高等試験行政科試験に次席合格。1906年11月、煙草専売局事務官に就任。以後、樺太民政署事務官兼大蔵書記官、大蔵省参事官、専売局製造部調査課長、同官房調査課長、大蔵省大臣官房会計課長、兼大蔵大臣秘書官、兼日本興業銀行監理官、大阪税関長、神戸税関長、大蔵省銀行局長、同理財局長などを歴任し、1924年1月に退官。1924年5月、第15回衆議院議員総選挙に当選。同年6月、大蔵次官に政治任用された。1928年東京市助役。拓殖大学教授。1916年勲四等瑞宝章受章、1920年旭日中綬章受賞。(1876年10月7日~1950年5月25日歿)
11-4-3. <実祖母:戸田美知子>(~1902年歿)。妻妾として1882年1月14日戸田玉井の養女として入籍した。美知子は京都上賀茂社家加茂氏(藤木姓)の一族、元禁中執次役で右兵衛大尉正四位下に叙された旧官家士族の一人、藤木行顕の娘である。三良が尾崎姓を復続し尾崎姓となり、戸田家が断絶するのを嫌がり、戸田玉井を以て戸田家の戸主とし、藤木美知子をその養女とし、後に三男:盛貞を美知子の養子として戸田家を相続させた (戸田邦雄の両親家族については、3. <家族>Familienhintergrundを参照
長男(伯父):美知子の子 / 洵盛 (1880年11月29日~1966年7月31日歿)、尾崎家を継ぐ
二男(伯父):美知子の子 / 琉二郎1882年夭折す
三男(父):美知子の子 / 盛貞 1883年生まれ。生後2か月にして、父・三良の養母・八重の伯母である戸田玉井の養子となり戸田家を継ぎ【戸田盛貞】となる(戸田邦雄の実父)
四男(叔父):美知子の子 / 昌盛 1884年生まれ、従五位。1911年東京帝國大学工科大学土木工学科を卒業し内務省に入り内務技師。1922年官を辭し直に尾崎工務所を創業。鉄道水力電氣その他土木建築一般の設計及工事を行う。後工学士/竹波喜久次を迎へ尾崎竹波工務所と改称し業務を拡張した
。長温電氣鉄道(株)、利根運河(株)顧問。家族は妻:稲葉ノブ(稲葉亀鶴の三女)、長男:、二男:尾崎良盛、長女:尾崎良子、二女:尾崎温子
五女(叔母):美知子の子 / 賀子 1886年生まれ、子爵倉橋泰昌に嫁す
五男(叔父):美知子の子 / 望盛 1887年生まれ、1才7か月の時に角筈村の高田友之助の養子となり【高田望盛】となる
六女(叔母):美知子の子 / 朝子 1887年生まれ、斎藤福之助に嫁す。斎藤は豊国銀行発起人
六男(叔父):美知子の子 / 繁盛 1890年生まれ、子に尾崎盛光
七男(叔父):美知子の子 / 雄盛 1891年生まれ、高田茂の養子となる
八男(叔父):美知子の子 / 弥盛 1892年夭折す
七女(叔母):美知子の子 / 元子 1895年生まれ、物部長穂と結婚。物部は東京帝国大学教授、工学博士
八女(叔母):美知子の子 / 季子 1896年夭折す
流産:1899年
流産:1900年
11-5.< 尾崎三良の長男(伯父):尾崎洵盛の家族>東京生まれ。正四位勲五等男爵。慶應義塾幼稚舎を経て、1903年東京高等商業学校卒業・1905同専門部(現一橋大学)卒業。1905年同専攻部卒業。1906年外交官及領事官試験に合格し、外務省に入省。在上海日本国総領事館総領事事務代理、在アメリカ合衆国日本国大使館三等書記官、外務省参事官、在ベルギー公使館二等書記官等を経て、1918年退官。陶磁器研究を行い、中国の陶磁器の権威として知られた。元文化財保護委員会文化財専門審議会専門委員。重要文化財旧日向家熱海別邸地下室の敷地など一帯はもともと尾崎洵盛の土地で、昭和に入り別荘開発が進められ「銀行村」と称された。日本の陶磁器研究家。中国の陶磁器の権威として知られた。著書に「支那陶磁小考」「『明代の陶磁」「支那古陶磁の鑑賞」「中国の陶器」「清朝の官窯」「陶器全集 16巻: 清朝の官窯」「陶説注解」。
妻(伯母):多嘉子(1890年生まれ)(元司法大臣/千家尊福男爵の四女)
長男(従兄):春盛(1919年生まれ)従五位、東京帝大法科出身。男爵・貴族院議員出羽重芳の長女:菊枝(1925年生まれ)と結婚
三男(従弟):福盛(1927年生まれ)、妻:千枝子(1934年生まれ)豊田栄治郎の二女と結婚
長女(従姉):尾崎華子(1910年生まれ)、女子学習院出身。萱場工業専務 庶子:千家活麿に嫁ぐ。克麿の父:千家尊澄は出雲大社宮司)
二女(従姉):尾崎龍子(1913年生まれ)、女子学習院出身。満蒙毛織重役・津田尚道に嫁ぐ
三女(従姉):尾崎京子(1921年生まれ)、女子学習院出身。星文七に嫁ぐ
四女(従妹):尾崎玉子(1923年生まれ)、女子学習院出身。千代田組取締役・木琴研究家朝吹英一(元三越社長朝吹常吉長男)に嫁ぐ
五女(従妹):尾崎百合子(1925年生まれ)、紀俊行に嫁ぐ
12. <母方-家系>Mütterliche Abstammung
祖父:喜多川平八(1864~1940年)。京都西陣織「俵屋」経営。染織工芸家Färben und Weben Handwerker
祖母:
長男(伯父):喜多川平郎 、「俵屋」を継ぐ
二男(伯父):富良(異母弟)
三男(伯父):明郎、日本画家Japanischer Maler
長女(伯母):おあい
二女(伯母):きくゑ、晩年、箏の師匠となった
三女(伯母):艶子、藤田家に嫁ぐ。西陣織工場を経営
四女(母):千代子、京都第一高等女学校卒。戸田盛貞に嫁。若いころは京都画壇の大御所:菊池契月に日本画を習っていた
五女(叔母):きくゑ?、上記の藤田家の弟に嫁ぐ。関西の商社の支店長になった
六女(叔母):品代、同志社女学校卒。小田島家に嫁ぐ。東京の銀行支店長になった
七女(叔母):八重、足が悪く晩年は二姉/きくゑ、六女/品代と三人で暮らした
13. <祖父:男爵・尾崎三良 / 歴史年譜>OZAKI, Saburou
尾崎三良(さぶろう)の略歴Biographie von Saburo Ozaki
1843年(天保13年)1月22日山城国葛野郡西院村で、父/盛之、母/桃華子の第四子として生まれた。父42才の子で厄年に産めば不詳であるといわれており、分家/尾崎彦次郎の門前に捨てられ、彦次郎の妻が拾い挙げ翌日家に連れて来るという習慣に習った。幼名/捨三郎(ツルサブロウ)と名付けられた。実の兄弟は4人と姉妹3人がいた。ほかに先妻の子(長兄/盛栄)、妾腹の弟妹がいた
家は富家ではなかったが村中では屈指の旧家で田畑家倉可也あった。下女下男四~五人位は使っていた
二人の姉は相応の教育を受け、琴三味線等も人並みには達した。
幼児時代、母は父の愛妾のために身心を労して哺乳足らず三良は虚弱であった
1844年2才、大きな病に罹り危篤になったという
1849年7才、近所の寺子屋に入り習字読み書きを学ぶ
1851年9才、寺子屋をやめ家で兄/盛栄から教育を受けることになるが父の病気もあり、当時は兄からの教育を受けるまでのゆとりはなかった
1852年10才、父の病気はますます悪くなり、9月に没した。長兄/盛栄は家督を相続し田畑財産を悉く収得したが、遺産を弟妹には分けることはなかった。次兄は村上家の戸主となり二姉は夫々婚嫁していたので、三良は家に残り常に食客の待遇を受けることとなった。長兄は異母兄の故を以てか三良を冷淡に扱い奴僕と同じ雑用に駆使し、掃除、草取り使い歩きに使役した。父に代わり教育する任を果たすことはなかった。時間を得て本を読んでいると取上げ「学者の金持ちになりたる例しなし」書物など読むべきものではないと厳禁された。幸いに母の愛情に恵まれ慰められた。三良は後に、『回顧すれば家兄の此厳酷なる待遇は却って予の奮発心を激励し、他日兄弟中頭角を顕したる素因を為したると思えば、家兄の此待遇は無限の恩恵なりしと感謝する所なり』と書き記している
1853年11才、京都小道下長者町上る亀屋町の商人/秦平次郎の養子となる。秦は徳川家の熨斗目織を業とし御用達商人で半商半士であった。秦平次郎に娘二人がいた。職工14~5人を使用し繁盛していた。近所の寺子屋に通い読み書きを習ったが数か月後には生徒中の上席になった
1854年12才、乱舞謡曲好きの養父により謡曲師について習い始めた。子供生まれ増えるという養母の家内の折り合い悪く離縁され12月家に戻ると、家兄/盛栄の益々の虐待により家族視されず、高槻に嫁いだ姉/喜美が憐れんで高槻に来るようにいわれる
1855年13才、3月高槻の井出家に寄る。高槻藩の岡田語左衛門に嫁いだ叔母夫婦に後継ぎがなく甥を養子にという話があったが三良は望まなかったので、高槻を離れ、京都新町上立売下る入江の御所に寄った。入江の御所は三時知音寺という比丘尼御所で、ここに官尼が数人いて歓香という名の家兄の縁類がいた。兄が自分を僧にすると歓喜に相談すると憐れんで、入江御所の中村主馬に計り、三良を同御所の家従とし玄関番に使ってくれ、中村主馬により教育をを受けられるようにしてくれた
1857年15才、家兄の勧めにより西本願寺の従臣山本弥左衛門の養子となる。名を改め「山本益太郎」となる。
1858年16才、算術と観世流の浅井清次郎に乱舞謡曲を学ぶが、ここも養父母との折り合いが悪く離縁となり家に帰るが兄の虐待により、家を出てな中村主馬や姉婿の菱木信之の家に寄宿し雑用を手伝い余暇を学問をした
1859年(安政5年)17才、5月中室主馬の紹介で烏丸大納言光政卿に奉仕することになる。烏丸家では尾崎棄之助を名のり後主税と改める。
1861年19才、3年間で夜の休息時に四書集註、五経集註、日本政記、日本外史、日本書紀、史記、漢書、古事記、太平記、太閤記、十二朝軍談、漢楚軍談、三国志等々を読んだ。伊勢国津の藤堂家の城下に斉藤拙堂という有名な儒者がおり学問を学ぼうとして、7月身の回りのものを売り払い三両三歩を得て無断で京都烏丸家を出奔した。結局拙堂に会えず仕舞いで京都に戻り、姉に相談。御室村に移住した若林家を訪ね母に会い、金一歩を貰い装束を改めて翌日、冷泉家の用人と会い翌日から住み込みの侍となった
1862年20才、三良は冷泉家に仕えたが「三石士」に終わらずに世に出る工夫を考え、数年来の勤皇攘夷家に対する幕府の処置暴虐に過ぎ、勤皇の公家を世に出さんと議論が盛んになり、勤皇の志士堅い三条少将実美に仕えて国家に用を為すの道を得んと考え伝手を求めた。世話する人があり、三条家譜代の家来に戸田造酒という八十有余の老人にて今は隠居の身分だが嗣子がなく養子を為さんとの意があり、世話人により戸田造酒の娘、戸田玉井の養子となった。戸田造酒は養祖父となり、玉井は養母となった。戸田家の養子となった三良は戸田雅楽と名を改めた。戸田雅楽は冷泉家に強く慰留されたが一か月後に去り、三条家に仕えることとなった。
8月には長州藩と土佐藩が、14代将軍の徳川家茂に攘夷を再度督促する勅使として実美を派遣するよう運動を開始した。8月10日、実美は攘夷督促のための勅使を再派遣する意見書を出し、10月上旬、三条公は一ヵ月の間に三位の中将を経て中納言に累進に至り、勅使の正使として副使の姉小路公知として江戸に赴き、毛利長門守、山内容堂の兵が護衛となった。雅樂は三条公に従い江戸に下る。実美と長州藩の関係はこの頃から密接となった。12月9日には国事御用掛が設置され、実美はその一員となった。、12月下旬京都に帰った。途中から病気になり帰京後、姉の家菱木の家で療養。実美は武市半平太の土佐勤王党によって土佐藩をまとめ、長州藩とともに薩摩藩に圧力を掛けるべく動いていた
1863年21才、8月17日長州藩は宮門の警衛を免ぜられる。守護職松平容保は中川宮及び薩摩藩と結託し8月18日朝、薩摩藩と会津藩などの兵が御所の九門を固め、攘夷急進派の公家を締め出した。実美の邸には久坂玄瑞や宮部鼎蔵、土方久元と御親兵が駆けつけた。実美は状況を把握するため関白鷹司邸に向かい、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修、錦小路頼徳、澤宣嘉と出会ったが、肝心の鷹司関白は参内したまま戻っていなかった。三良改め戸田雅楽は公の命で朝廷内外の事情を探知にしていたが、やがて彼らは参内を停止されたことを知り、長州藩も御所の警備から排除されたことが伝わった。真木や長州藩士と協議したのち、一旦妙法院に移り、ここで七卿は長州藩に向かうこととなった。
翌8月19日未明、七卿は京都を出発し、長州藩に向かった。慣れない徒歩のために三条実美は足から出血し、三良改め戸田雅樂等は住民を脅しつけて駕籠を用意させた。一方で徳島藩・広島藩・津和野藩に対し、義兵を挙げるため長州に有志を募る檄文を送った。
8月21日には湊川で楠木正成の墓に参拝した後、兵庫湊から船で長州を目指した。
8月24日、許可なく京都を離れたことによって実美ら七卿は官位を停止され、長州藩は京都での勢力を失った。長州藩の上層部は当初七卿を迎え入れることは望んでおらず、藩境で抑留して帰京を勧告するつもりであったが、8月26日と8月27日に七卿を乗せた船が長州藩領の三田尻港に入港した。このため長州藩は七卿を賓客として迎え入れることとなり、公邸である三田尻御茶屋の招賢閣を彼らの居館とした。この頃土佐藩士の中岡慎太郎は、土佐藩で土佐勤王党が排斥されたこともあり、七卿の傘下として動くこととなる。11月上旬ごろには朝夕の寒冷に単衣一枚の状態で着替えもなく毛利家の役人に談し七卿初め従者の防寒の衣服を給与を乞い、七卿へは銘仙の小袖井に絹の袴を新調して贈られ、従者へは金二歩づつ与えられ各自時給するよう言われる。近場の反物屋を呼び、木綿ゴツゴツの綿入れに襦袢一枚、小倉袴一つ、足袋一足を購い、この代金一分二朱くらいを費やし猶二朱を残した。宮市の天満宮や町を見物し気晴らしをする。
滞在中、戸田雅楽(三良)は毛利侯父子と互いに相往来来し、又藩の役人もしばしば往来して朝政挽回のことを謀り、諸国へ檄文を発し朝政状況を詳らかにし天下の志士皆長州へ参集すべきこと。依って諸国の有志数十百人馳せ参じ、皆長州侯の食客とした
1864年22才、正月27日には孝明天皇から七卿と長州藩攘夷派を批判する詔旨が出された。長州藩は六卿を三田尻から山口の近郊に移すこととし、実美のみは湯田の旅館に移り戸田雅楽(三良)も従った。ここでも公に近侍し朝夕の給仕清掃などの用をし、庭に出ては撃剣等をした。ほかの五卿は氷上山真光院に居を移した。戸田雅楽(三良)の居も氷上の山内にあり、公の湯田の旅館との間およそ一里余りを、隔日に交代出勤することになった。春過ぎて、藩士井上五郎兵衛く井上聞多(後の井上馨)の実家の宅に移り、庭園内に離れ屋一個を藩より新築し「何遠亭」と名付けら公は此処に過ごすこととなり、戸田雅楽(三良)等もこの家に移り、日夜公に奉侍することとなった。ここは字高田にあり高田御殿と人は称した。3月毛利父子、公等と共に戸田雅楽(三良)は矢原河原に観兵した。家老益田右衛門介、福原越後等皆従った。同月、馬関の砲台を一見するため公以下六卿、騎馬にて馬関に行く。壇ノ浦、前田、引島等の砲台を巡視し、奇兵隊その他の砲術操練を見た。砲台には大砲が大小幾十並べてある。のち四、五年して留学し英国ロンドンの博物館を見たとき大砲大小数十並べてあり、一英人戸田雅楽(三良)に説明して言うには、先年日本下関にて捕獲したものですと言ったので、思わず赤面したことがあったという。長州藩は藩主父子と五卿の赦免を求め、朝廷に働きかけていた。実美ら五卿もこの動きを支持し、7月の藩主父子の兵凡そ一万人を率い京を目指した。
三条公及び戸田雅楽(三良)等従者も従った。7月21日には讃岐国多度津に到着したが、ここで禁門の変の敗報を聞き、長州藩士の野村靖は内訌必至の長州藩に戻るよりは勤王派の強い岡山藩などに逃れるよう勧めたが、実美は藩主世子定広とは進退をともにすると約したと言って謝絶し、上関を目指した。
第一次長州征伐が迫る中、さらに長州には下関戦争による四カ国連合の攻撃も加えられた。五卿は「長州藩と死生存亡を共にする」決意を固めていたが、恭順派が台頭した藩内では五卿を引き渡すことも検討されていた。高杉晋作らは一時五卿を外国に留学させようとし、実美も一時応諾したが翌日になって断りを入れている。長州征伐総督府は五卿をそれぞればらばらの藩で預かる方針を決め、説得役を福岡藩に依頼した。五卿は条件として藩主父子の赦免と京都の尊攘派公家の処分解除をもとめて交渉していたが、次第に藩内でも五卿の立場は悪化していった。尊攘派の長州藩諸隊は五卿引き渡しと解隊方針に反抗し、五卿とともに長州藩支藩の長府藩にうつった。中岡慎太郎と征討総督府西郷隆盛の交渉の結果、いったん五卿を筑前に移すことで合意が行われた
1865年23才、正月14日馬関より乗船し筑前に渡ろうとした。15日筑前国黒崎に着き、五卿および三条公の従者戸田雅楽(三良)は等は福岡藩に上陸し、18日まで逗留。18日赤間宗像の唐津街道赤間宿に1ヵ月間逗留。その間の待遇は粗末で旅館の門戸を外より閉鎖し、施錠して番兵を置き、随伴者以下出入りを禁じるなど囚人のごとくであったと戸田雅楽(三良)は記している。西郷吉之助が来てこの状況を知り、筑前藩士を説破して長州と賓客の待遇になる。2月13日に五卿戸田雅楽(三良)等従者一統太宰府に到着した。天満宮の別当延寿王院の邸を旅寓となった。五卿の幽閉先の身柄は福岡藩が預かるが、薩摩藩・久留米藩・熊本藩・佐賀藩が人を派遣し、費用を提供するという形になっていた。随従約64、5人、酒田(三良)等家来30人、外に諸藩の有志者土佐の楠左衛門、久留米の水野渓雲斎外30人、馬が12、3頭、馬丁、小者もいた。五藩から一ヵ月金千両、一藩二百両づつだした。その中から酒田(三良)は小遣いとして月三両を給せられたと記している。学問や身体の鍛錬をおこたらず日々を過ごすこととなる。戸田雅楽(三良)は公の常侍近習として朝夕の給仕清掃、夜具の出入りなど行い、外出時は徒歩で馬蹄に従った。夜は酒宴に侍し読書の暇はなかったので、公が10時ごろに就寝についてから午前二時ごろまで延寿王院の蔵書を熟読し苦学なすこと数年と記している。この間諸国の勤皇有志の徒、大宰府に来た。西郷吉之助、桂小五郎、吉井幸輔、渡辺昇等である。福岡藩尊攘派の早川養敬らが薩摩藩と長州藩の提携を模索すると中岡慎太郎や実美も共鳴し、桂小五郎に対して薩摩藩への認識を改めるよう伝えている。桂は薩摩藩を信用するかを「條公(実美)御明察」を通じて見定めるとしており、この後も坂本龍馬・伊藤俊輔・井上聞多らと面会して薩長同盟成立の立役者の一人となった。
1867年25才、夏、酒田雅樂(三良)は公に、今までは勤皇攘夷を唱えていたがそれは誤りで、現在の形勢をを察するに西洋の文物大いに開け学理応用物質的の開花大いに進み、富国強兵の術東洋諸国の及ばないと考えが至った、鎖国の説を保持するは時勢に達しない。進んで開国進取の国是を定め皇運挽回の時期に来たなら朝政において内外の政務にあたるに際し、この事情を討知すること必要であると建言した。。8月25日、三条の諒解を得て見物の名目で薩州藩士小沢庄次と仮称し、薩摩の藩医前田杏斉と共に大宰府を発した。長崎に一月あまりの間に、外国人居留地に行き米国領事ウォールド他に面会、土佐藩士坂本竜馬、陸奥陽之介、中島作太郎等数人と芸州藩の汽船に乗り京都に上がる。馬関に上陸し翌日陸奥等と分かれ、坂本、中島、岡内俊馬等と共に高知に渡りその藩士と会合を計った。坂本龍馬の家に数日泊まり、土佐にては芸州藩小沢庄次と言った。浪速に着き10月上旬夜京に入る。事情を探聞くすると、後藤象二郎その藩主山内容堂のいにんを受け、幕府に建言して太政奉還するよう勧誘し、若年寄永井尚志と専ら周旋していた。10月14日、京都二条城で徳川慶喜により大政奉還がおこなわれた。その時戸田雅楽(三良)は坂本龍馬等と共に河原町四条上がる醤油屋某方に寓居して共に事を謀っていた。その時に戸田雅楽(三良)は『新たに職制を定め士人を収攬して朝廷の参議に為すべしと。坂本龍馬はっその職制とを聞きたいと言ったので、戸田雅楽はその職制案を草す。「関白、内大臣、議奏、参議、このほかに神祇官、内国官、外国官、会計官、刑部官、軍務官、以上長官は親王、諸王、公卿、諸侯を以て之に任じ、次官は公卿、諸侯、太夫、士庶人を以て之に任ず。」、坂本龍馬之を見て手を打って大いに喜んで曰く、是れ今日に行うべし。この時、雅樂は先ず大宰府に帰り今日の盛挙を主人に報告する。坂本龍馬、三条公へ報告するくらいのことは誰か外の人に託して君はここに残れと言ったが、自分で報告しなければ安心出来ないからと九州に下りたいと言うと、坂本龍馬少し怒り気味に勝手にしたまえと言った。そこで急遽西郷隆盛らと同船して大宰府に戻り、事態を三条実美に報告した。翌月11月14日坂本龍馬は中岡慎太郎と共にこの旅宿にて幕府新撰組のため斬殺せられたり。若し自分も坂本龍馬の言に従い京に同宿したりしたならば、必ず共に難に遇っていたろう。さすれば今日従四位を贈られ招魂社に祭られているだろう』と記している。職制案は坂本龍馬から後藤象二郎に託され朝廷に達した。朝議に採収する所となりその名を改めて職掌中の文字を取り、「総裁、議定、参与」として之を三職と言う。10月17日戸田雅楽は西郷等が帰ると聞き相国寺に方策を聞いた。西郷が言うには「帰途長州に立寄り毛利氏と将来の事を謀議し、国是を定めたいと望む。天下の諸侯召しに依って上京する。これらの諸侯と共に大いに国是を定むべきと言う。深意は兵力を以て幕府を討滅することにある」。
19日、戸田雅楽は中島作太郎と共に浪華に行き、西郷、大久保、小松帯刀、広沢等と同船して三田尻に着き、ここから一人陸路馬関、小倉を経て昼夜兼行、26日朝だ太宰府に着き、直ちに三条公に謁しつぶさに太政返上、容堂上書、後藤周旋の状、京師変動の状況、及び西郷の心事応接等の状況を報告した。
10月27日、大政奉還が成立し、12月8日には五卿の赦免と復位が達成された。12月14日にこの知らせを受け、戸田雅楽は三条公に従い大宰府を出発五卿は12月21日に出港し、長州藩を経て上洛、12月27日に参内し、議定に任ぜられた。反幕派の大物である三条の復権は、朝廷内における薩摩・長州の力となった
1868年(明治元年)26才、2月、戸田雅楽は三条公の命を受け東久世の用向きを帯び兵庫に出て開港場を見た。
去年外国の事情を知る必要を説いだためこれを促進する意向であった。終に洋行して欧米の事情を知悉したくなり、このことを東久世通禮(兵庫県知事)に謀る。東久世これを伊藤(兵庫県判事)に謀る。伊藤は三条公の子息を一緒にて洋行し頑固者の意識を一洗せよと。費用は出すから勅許を得る準備をするようにと言った。急ぎ京に帰り三条公にこのことを謀り、遂に勅許を乞うことになった。初め、三条公は世子公恭は16才で日本の事も知らない者を洋行させても役に立つまいと言った。戸田雅楽は自身が洋行したいので、色々言って三条公の同意を得て朝廷へ願いを出すと、朝廷では洋行の何たるかを知らず、洋行とはヨーロッパへ行くのだと説明すると、それでは唐天竺より遠いかと云うから、唐やり四、伍倍、天竺より二倍位遠いと言うと、皆仰天して只あきれて何も言わぬ状況になった。やっと勅許を得て出発することになった。中御門中納言の二男寛丸(17才)と徳山の世子毛利平六郎()18才も同行することになり、総勢8人、従者に戸田雅楽をはじめ森寺広三郎、中御門より一人、毛利より二人が従った。3月神戸より英国の商戦にて先ず英国に渡ることとなった。旅費として5千両が渡され、外に毛利分旅費として3千両を毛利家から渡された。
長崎に寄ったとき井上馨が府判事をしていた。ここで井上は「君等の衣服では船中及び途中所々立寄るにて甚だ不便なり、ここにて洋服を作るべし」と言い、同人の世話で裁縫屋を呼び、大急ぎにて羅紗の洋服を一着づつを作り着た。大小は剣つりを肩より掛けて携帯した。上海で乗換え、別船に乗船し4月上旬上海を出港した。今の5月上旬。
この間、三条実美は岩倉とともに新政府の事実上のトップである副総裁の一人となり、外国事務総督を兼ねた。この時期堺事件の対応にあたることとなり、「開国和親の布告」の作成にも携わるなど、かつての攘夷方針を完全に捨てることとなった。戊辰戦争においては、関東観察使として閏4月10日に江戸へ赴き、彰義隊の討伐を目指す大村益次郎を支持した。
『公子3人は一等船客、戸田雅楽等従者5人は二等船客にしたが食事万端非常に粗末で、一等に変更するよう談じたが「神戸にて定められた」として応じなかった。香港、シンガポール、セイロンの各港に上陸。公海の暑熱は随分甚だしかった。スエズ港で初めて汽車を見た。スズからアレキサンデリア港まで汽車で夜汽車で出発した。途中エジプトのカイロに30分間停車したので市内を歩き、車窓より有名なピラミッドを望み、翌日地中海東端にあるアレキサンデリア港に着く。直ちに連絡船に乗り込む。5月の初めでマルタ島に投錨し上陸見物、ジブラルタル海峡を経て英国サウサンプトンに着いた。西暦では6月19日、長崎を出て62日であった。新聞紙屋の目に付きたると見え、翌朝ロンドンの新聞紙に日本のプリンス三人と外ゼントルマン五人が来たと出た。汽車でロンドンに着きホテルに投宿すと、二年前にロンドンに来ていた長州人四、五人が尋ねてきた。音見清兵衛、福原、芳山、服部他一、二人だった。客室に入り三公子に会うと一同床に平伏したので、そこにいた旅客大いに驚き、翌日の新聞に今度来た日本のプリンスは余程意威権の尊き君公と見え、他の紳士が皆床に手上に跪いて礼をしたなりと出た』。
言葉が通じないため、それぞれが別所に住み英会話を勉強することになり、戸田雅楽は下宿を借りそこから近所の教師の家に通うことにしたが、互いに故與羽が通じず、リッチモンドにいる音見清兵衛のところに同居して同人に就いて先ずイロハから始め、卑近の会話を習得し、三か月計りにして片言交じりに日曜のことを話せるようになった
1869年27才、その後、英国人教師モリソン氏の宅へ同居し、朝夕の食事等家族と一緒に為し、ここに居ること凡そ二年余り、この間に刻苦勉励英語英書を務学し、英書歴史等の多くを習得した。
日本では、5月24日三条実美は右大臣・関八州鎮将となり、5月29日には官吏公選によって輔相に選出され、7月8日には新制の右大臣となった。7月15日に江戸が東京と改称され、鎮将府が置かれると鎮将を兼ねた。実美は岡谷繁実の意見を受けて東京への単独遷都を主張し、これを実現させた。実美は東国と奥州を重視しており、「たとえ京摂を失(うしなう)とも、東京を失わざれば、天下を失うことなし」と述べている。
徳川宗家(静岡藩)や奥羽越列藩同盟参加藩への処罰では厳罰を主張し、戦後の石高を低いものに抑えた。また箱館に籠もる榎本武揚を討伐する総督として前将軍徳川慶喜を起用する策が検討された際には、奇策を用いるべきではないと反対している
1870年28才、戸田雅楽(三良)は、『英国の法律を学ぶことを望み、英人法学博士バリストルに就き学び始めた。週二度通い一回の授業1時間半、月謝6ポンド、日本円で60円だった。1年半法律の勉強して英国法の大意を習得し、後オックスフォード大学に1年ほど入り講義を聞き、また英人アクワード氏の学風を聞きその高風潔情を慕い、隠棲家隠所スイスシャモニー山上に訪い留まること凡そ一ヵ月、その初志を聞きスイス国ベベーに寓居すること二、三か月、西園寺公望氏の来訪を受け英国に戻った』と記している
1871年29才、岩倉右大臣、木戸、大久保、伊藤、山口外百数十人を米欧へ派遣した。サンフランシスコ、シカゴ、ワシントンに至り滞在し、条約改正の談判をしたが大使の委任状を持たぬ人とはいかなる重大な人といえども相談に応ずることは出来にと言われ、委任状を到着を待っている有様であった。この条約改正交渉は中止となる
1872年30才、2月8日戸田雅樂の母が66才で逝去、訃報は海を越えロンドンに届いたのは11月二入ってからであった
1873年31才、夏友人らと欧州大陸の見物に出発。木戸孝允の要請により帰国
西欧より帰朝したとき、原籍に復帰するよう三条家より申し渡される。家兄の若林家に復帰することを屑とせず、幸いにも祖先伝来の尾崎の家を復続し戸主となり尾崎三良と称した
その後は、明治政府にて太政官左院、法制局、参事院などに出仕し、井上毅らと法律の整備・実務に携わった
1880年38才、ロシア駐在一等書記官としてサンクトペテルブルクに赴任
1881年39才、帰国を命ぜられると太政官大書記官、内務大丞などを歴任
1885年43才、一時、元老院議官として大日本帝国憲法の審議にも当たった
1890年48才、貴族院議員となる
1891年49才、第1次松方内閣にて法制局長官を務める
1896年54才、男爵を授けられると、以後は実業界にて尽力
1907年65才、宮中顧問官
晩年には文部省維新史料編纂委員を務めた