生没年・出身地・歿地・墓地
クレメンス・ハインリッヒ・クラウス生誕 Clemens Heinrich Krauss
(1893年3月31日ウィーン生)
(1954年5月16日訪問中のメキシコで演奏会後、急逝)
1.職業
オーストリアの指揮者
2.称号
3.経歴
父ヘクター・バルタッツィ侯爵は貴族・ウィーンの裕福な銀行家一族の三男で当時42。母クレメンティーネ・クラウスは17才でウィーン宮廷歌劇場のソロ・バレリーナ
クレメンスは私生児として生まれ、外交官であった母の祖父の家庭に育つ
ウィーン合唱団に入団、ウィーン音楽院でヒューゴ・ラインホルトにピアノ、ヘルマン・グレーデナーに作曲法、リヒャルト・ホイベルガーに音楽理論を学ぶ
1912年卒業しブルノ劇場合唱指揮者
1913~14年リガのドイツ劇場で指揮者デビュー
1915~16年ニュルンベルク歌劇場指揮者
1916~21年シュテッテイン歌劇場指揮者
1921~22年グラーツ歌劇場音楽監督
1922~24年ウィーン歌劇場指揮者・ウィーン音楽院指揮科教師
1923~27年ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団指揮者
1924~29年フランクフルト市立歌劇場総監督
1926~34年ザルツブルク音楽祭指揮者
1929年渡米しフィラデルフィア管弦楽団客演指揮者、ニューヨークフィル客演指揮者
1929~34年ウィーン国立歌劇場総監督
1930~33年ウィーンフィル首席指揮者
1934年ロンドン、コヴェントガーデン歌劇場客演指揮者
1935~36年ベルリン国立歌劇場音楽監督
1937~44年バイエルン国立歌劇場総監督
1939~44年・1948~54年ウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサート指揮者
1939~44年モーツァルテウム大学教授
1939年ザルツブルク音楽祭総監督
1941~44年ナチス党によりザルツブルク音楽祭総監督をナチから任命される。戦後ナチスに協力した容疑で連合軍から演奏活動停止
1947年非ナチ化裁判で無罪となり再活動開始
1948~54年ザルツブルク音楽祭総監督
1951~53年バイロイト音楽祭出演
1953~54年コヴェントガーデン歌劇場出演
1955年再建中のウィーン国立歌劇場の音楽監督の復職を切望していたクレメンスは、時の文部大臣の指示によりカール・ベームに決まった直後に失意のなか、メキシコ演奏旅行に出発する。そして演奏会直後に心臓発作の為ため急逝してしまう。ウィーン市民は半旗を掲げたといわれている
4.主な作品
5.その他
クラウスは私生児として生まれ、父親についてはいろいろな噂が当時あったようだ。冒頭のバルタッツィ侯爵説が有力だが、他にクラウスの容姿から噂に上ったのは、ヨハン・サルヴァトール公と皇帝フランツ・ヨーゼフ一世である
6.初演
7.関連動画
Johann & Josef Strauss – Waltzes/Polkas
Brahms: Symphony No. 3, Krauss & VPO (1930)
Wilhelm Backhaus & Clemens Krauss Beethoven Piano Concerto No.5, Op.73 ”Emperor”
Clemens Krauss – Johann Strauss : Thousand and One Nights Waltz
Wagner – Die Walküre – Bayreuth / Krauss
Richard Strauss “Der Rosenkavalier” (Lisa Della Casa & Clemens Krauss • Wiener Philharmoniker, 1953)
Krauss/Vienna Philharmonic – J Strauss Jr: Roses from the South