生没年・出身地・歿地・墓地
エンリコ・カルーソ生誕
Enrico Caruso
(1873年2月25日ナポリ生)
(1921年8月2日ナポリで歿)
1.職業
イタリアのオペラ(テノール)歌手
2.称号
3.経歴
父マルセリーノ・カルーソは綿実油などを精製するMeuricofine会社の工場で機械工として働いていたが貧しいながらも、仲間と酒を飲むことが楽しみだったと語られている。
母親のアンナ・バルディーニ・カルーソによれば、自分たちには子供が21人(男20人・女1人)が生まれたが、幼くして亡くなったと語っていたという。カルーソは7人の兄弟姉妹の3番目として育ち、子供が多く授業料が払えないため、母親から初等教育を少し受けたようだ。
1882年9才のとき、母アンナの主張で地元の教区の教会の聖歌隊に入り、Bronetti神父の指導を受け基礎教育を受ける。いっとき学校に通って脚本を書くことや、製図の技法を学んだようだ
1883年父マルセリーノは、カルーソーを、息子が自分と同じ熟練を要する機械工になるべきだと考え、自分の働く工場で一緒に働かせた。その間も昼間働き夜は聖歌隊で歌い続けその後も数年間続く
1884年カルーソは自分が優れた仕事をしていると分かっていたので、上司に昇給を望んだが拒否され会社を辞める。父は公園の大噴水を建設した技術者パルミエリに弟子入りさせる
1885年飲料水を作る会社に入る。(この辺の経歴は年月の前後に確かさを欠く)
1888年ナポリのサン・セヴェリーノ教会で初めてソロを歌う。母の死。この頃から家族に現金を稼ぐためナポリのストリート歌手として、カフェや夜会、お土産屋で歌手としての仕事を見つけ民謡などを歌い始める
1891年カルーソ18才。若いバリトン歌手エドゥアルト・ミザーノはカルーソのことを聞き自分の声楽の師グーリエルモ・ヴァシーヌのもとにカルーソを連れて行く、最初は駄目であったが、二度目の面接で出世払いを受け入れられ、授業料の代わりに歌手として稼いだ金額の25%を5年間支払うという契約を結びレッスンを受け始めた。それまでのカルーソは正規な音楽教育を受けていなかったといわれている。この契約はカルーソが認められて稼ぐようになり問題となった。ヴァシーヌは、実際の演奏会を1日と計算したために、実際の演奏会5年間分の支払いは、カルーソにとり大変長い期間膨大な金額を払わなければならなくなり、結局裁判所(時期不明)に持ち込まれ、解決金2万フラン(現代の日本円で7600万円ほど)支払うことで和解となる。カルーソはイタリアのリゾート地域で歌って得た金で初めて新しい靴を買う。その後、兵役でレッスンは中断した
1894年兵役完了後、再び歌のレッスンを再開する。
1895年1月2日カゼルタ大聖堂のヴェスパースで「タントゥム・エゴ(Tantum ergo)」を歌う。3月15日ナポリのヌォーヴォ劇場でアマチュア作曲家マリオ・モレルリが作曲・演出したオペラ「L’Amico Franceco」でプロデビューを果たした。その後の2年間は、地方の歌劇場に出演を続けながら、指揮者で声楽の教師ヴォンチェンツォ・ロンバルディ(Lombardi)の指導で更に高音域を改善し、レパートリを広げ自分のスタイルに磨きをかけた。このロンバルディに指導を受けたのは他にAntonio ScottiとPasquale Amatoがおり、後年共にメトでパートナーになった
1896年シチリアを訪問し宣伝写真を撮影している。それはトーガのようなドレーブを着た姿であった
1897年作曲家プッチーニはオペラ「ラ・ボエーム」公演のために主役のテナー、ロドルフォ役を探していた。カルーソをオーデションで聴いたプッチーニは、その歌声に感銘し目にとめる。11月10日ミラノス・スカラ座でジョルダーノのオペラ「誓い(イル・ヴォート( Il Voto) 」に初の主役で出演する。11月27日フランチェスコ・チリアのオペラ「アルルの女」主役出演
1898年ソプラノ歌手Ada Gachettiとは密通を続け二人の息子(RodolfoとEnrico Jr)が生まれていた。11月17日ミラノのオペラシ-ズンは、ジョウルダーノのオペラ「フェードラ」のローリス役で始まった。暮れから翌年にかけてミラノ、ジェノヴァ、リポルノなどのイタリア全土の主要劇場で休みなく出演する
1899年指揮者トスカニーニ等とイタリア、オペラ会社のツアーでブエノスアイレス、モンテカルロ、ワルシャワで公演した。サンクト・ペテルブルクのマリインスキー劇場では、ニコライ2世来臨の前、ヴェルディのオペラ「リゴレット」マントヴァ公を演じた
1900年12月26日ミラノ・スカラ座契約後の初舞台は、プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」をトスカニーニ指揮のもとロドルフォ役で出演
1901年1月オペラ「愛の妙薬」、アリゴ・ボーイトのオペラ「メフィストフェーレ(Mefisto Fele)」に出演し、1月17日マスカーニのオペラ「仮面(Le Maschere)」出演、いずれもトスカニーニの指揮でナポリ、サンカルロ劇場に出演した。2月に入り、1月に亡くなったヴェルディの追悼コンサートはトスカニーニの指揮のもとで出演する。トスカニーニ等とブエノスアイレスにツァーに出発
1902年モンテカルロとロンドンにコンサート・ツァー。5月14日コヴェントガーデンではヴェルディの歌劇「リゴレット」で英国デビューを果たす。コヴェント・ガ-デンの歌姫ネリー・ネルバは29才のカルーソをジルダ(リゴレットの娘)のパートナーにした。3月11日スカラ座でアルベルト・フランケッティのオペラ「Germania」出演、このオペラはワーグナーの楽劇をイタリアのヴァリズモ・オペラに融合させたといわれ、カルーソはこのオペラに取組み、ドイツ・オペラの主要テナー・パートの道筋を作ったと評価されている。11月6日チレアのオペラ「アドリアーナ・ルクヴルール」出演。グラモフォンとレコーディング契約を結ぶ。
1903年銀行家パレスケル・シモネッリの援助でニューヨークへ渡る。カルーソの契約は代理人、銀行家パレスケル・シモネッリにより交渉されていた。11月23日カルーソはメトロポリタン歌劇場でオペラ「リゴレット」でデビューを果たし、その後1906年を除き1920年までオープニングに出演を続けることになる。そしてその後の18年の間、異なる37のオペラで608回におよぶ出演を果たした。米国ビクターとレコーディング契約を結ぶ
1904年2月1日ビクターとアメリカ最初のレコーディングをする。レオンカヴァッロのオペラ「道化師」の中でカニオが歌う「衣装をつけろ(Vesti la giubba)」は世界史上初のミリオン・セラーになった。また、この年ビクターでレコーディングしたドニゼッティのオペラ「愛の妙薬」の中で歌う ” 人知れぬ涙(Una furtiva lagrima)” は多くの映画のサウンドトラックに使われ伝説的名曲になったと伝えられている。フィレンツエの近くに邸宅、ヴィラ・ベロスガルドを購入する。ヨーロッパ・ツァーでパリ・ロンドン・モンテカルロ・ドレスデン・ベルリンで公演
1906年ワシントンDCで聴衆とともにーズベルト大統領が臨席している会場で歌う。4月18日メトのサンフランシスコ公演で「カルメン」公演後カルーソはパレス・ホテルのスイートにいた。午前5時13分強烈な激震に襲われ、カルーソはルーズベルト大統領のサイン付き写真を手にしてホテルから走りセント・フランシス・ホテルにたどり着く。この地震によりメトはツァーで持ってきたすべてのセット、衣装、楽器を失う。11月カルーソはニューヨークのセントラルパーク動物園のサルの家であることをした行為で、告発され有罪判決を受け10ドルの罰金を科せられた。広く新聞報道されニューヨークのオペラ劇場の運営者の怒りをかってしまう。しかしすぐに忘れられ、カルーソはメト公演に出演を続けた。メトのカルーソのファンは富裕層、中産階級、50万人のイタリア人移民のフォローを受けていた。
1907年ブタペストでオペラ「アイーダ」ラダメス役、その2日後、ウィーンで同じ出し物で歌った。ロンドン、コヴェントガーデンに出演。イギリス、バッキンガム宮殿ではネリー・メルバと共演しエドワード7世とアレクサンドラ王妃を前に歌う
1910年メトのツァーでパリ公演。ヴェルディの「アイーダ(Aida)」、レオンカヴァッロの「道化師(Paglliacci)」、プッチーニの「マノン・レスコー(Manon・Lescaut)」に出演して歌った。12月10日プッチーニのオペラ「西部の娘(La Fanciulla del West)の世界初演で主役のディック・ジョンソン役で出演し、チェコのソプラノ歌手エミー・デスティン、バリトン歌手パスクアーレ・アマトと共演し、指揮はトスカニーニであった
1915年12月15日メトのオープニング・ナイトでサン・サーンスのオペラ「サムソンとデリア(Samson and Delila)」サムソン役で出演。
1916年以降、サンサーンスの「サムソンとデリラ(Samson and Delila)」、ジャコモ・マイアベーアの「予言者(Le Pr0nhete)」、ジャック・アレヴィの「ユダヤの女」をレパートリーに加えた
1917年アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジルなどの南米諸国をツァー。第一次世界大戦に入りアメリカはヨーロッパに軍隊を送り込む。カルーソはニューヨークの戦争慈善団体のコンサートや広範囲の戦争関連の愛国的な原因のためコンサートに出演し、資金調達に協力した。ある時はジョン・マコーマック、アル・ジョンソン、ジョージ・M・マーハン等と舞台で歌った。ボストンのニューイングランド音楽院の「Phi Mu Alpha Sinfonia」の名誉会員となる
1818年9月19日ドロシー・パーク・ベンジャミンと結婚。それまで密通を続け4人の子供を儲けてきたアダ・ジアチェッティとの11年間続いた関係は切れた。が密通相手のジアチェッティは訴訟を起こしたがそれは裁判所から却下される。カルーソはビジネスセンスもあり、収入の中から投資をしたりしてこの年の年間所得税申告書には15万4千ドルと書いてあったと伝記作家マイケル・スコットは語っている。アメリカの無声映画「My Cousin」(for Paramount Pictures)で主役の”アーチストのTommasco Longo役とオペラ歌手Cezare Caroliの二役を演じた(下欄にyouyube動画あり)。この映画にはレオンカヴァッロのオペラ「道化師」からアリア「衣装つけろ(Vesti la giubba)」を舞台で歌う(無声)シーンが含まれている。プロデューサーのJesse Laskyはカルーソに10万ドルを払ったが映画「My Cusin」は興行収入を上回ったという。
1919年3月22日メトはオペラ25周年を迎え、カルーソはガラ・コンサートに出演し2万5千人収容したメキシコシティーの闘牛場の観客の前で、「アイーダ」のラダメスのアリアや「ユダヤの女」のエレアザルがフィナーレで歌う有名なアリア ” ラシュエルよ、主の恵みにより(Rachel、quand du Seigneur) ”等などを歌う
1920年カルーソ47才。キューバのハバナで歌う、一晩で1万ドルもの膨大な出演料を受けた。9月16日ニュージャージー州カムデンのビクター・トリニティ教会スタジオで3日間のレコーディングをおこなったが、このレコーディングがカルーソにとって最後となってしまった。9月末モントリオール、トロント、シカゴ、セントポール、デンパー、オマハ、タルキ、フォートワース、ヒューストン、シャーロット、ノーフォークにコンサート・ツァーに出かける。妻ドロシーは北アメリカ・ツァーから帰国した後、カルーソの健康状態が悪くなっていったと指摘している。11月15日からメトのオペラシーズンが始まり、カルーソにとってこの出演がメトで歌う生涯最後のシーズンとなる。アレヴィの「ユダヤの女」のエレアザル役で出演しオペラシーズンの幕開けとなった。12月3日「サムソンとデリラ」のリハーサル中に、落ちて来る柱が左の腎臓を覆った背中に当たってしまった。その翌日の「サムソンとデリラ」のリハーサルに出てカルーソは寒さに苦しんで、咳と腹痛を起こしていた。カルーソの医師フィリップ・ホロヴィッツは、痛みが声の生成と動きを妨害して気管支炎を起こしていたが、初期の片頭痛の治療を施し肋間神経痛と診断した。12月11日ブルックリン音楽院でドニゼッティのオペラ「愛の妙薬」ネモリーノ役を演じている最中に喉から出血し、上演は1幕で中止された。12月24日アレヴィの「ユダヤの女」でエレアザル役で出演した。翌25日のクリスマスには痛みが酷く悲鳴を上げていたので、妻ドロシーはホテルに医師を呼びモルヒネ等を投与し、別の医師エヴァン・M・エバンスを呼んだ。エバンスは3人の他の医師を連れて来て、カルーソは5人の医師団から正しい診断を受けた。膿胸の胸膜炎と膿胸の病気と確定診断された。
1921年カルーソの健康は新年を迎え、さらに悪化した。激しい痛みが襲い、肺や胸から流体を抜くための7回の外科的処置を受ける。5月28日家族と共にアメリカを離れナポリに戻った。カルーソは肋骨の一部を取り除かれた。妻ドロシーにはカルーソが回復に向かっているように見えた。しかし非衛生的な地元の医師によって診断検査され、病状は急激に悪化し始めた。ローマの診療所から有名な医師バスタネッリ兄弟が往診に訪れ、左腎臓を取り除くことを勧めた。そこでカルーソは手術を受けにローマへと向かう途中で、ナポリのヴェズヴィオホテルに一晩宿泊したが、病状が悪化し眠れるようモルヒネを与えられた。8月2日午前9時頃カルーソはホテルで48才でこの世を去った。医師バスティアネッリは死因を腹膜炎と副腎膿瘍と診断した。イタリア王ビクター・エマニエル3世は、何千人もの人々が参加したカルーソの葬儀のために、ナポリのサン・フランチェスコ・ディ・ポオラ聖堂のロイヤル・バシリカを開いた。カルーソはナポレオン・のデルピアント墓地のガラスの石棺に保存された
葬儀のとき「ニューヨーク警察名誉キャプテン」の称号を授与された
1987年2月27日米国郵政公社は22セント郵便切手をカルーソの名誉として発行した。同年グラミー賞生涯功労賞を受賞
2012年グラモフォン・マガジンの殿堂入りをした
イタリア政府からイタリア騎士団勲章受章
4.主な作品
5.その他
6.初演
7.関連動画
Enrico Caruso – Various Movie Clips