ブルックナー


Edit Yukio IWATA, Japan

ヨーゼフ・アントン・ブルックナー 生誕 
Joseph Anton Bruckner

4. September 1824 in Ansfelden, Oberösterreich
† 11. Oktober 1896 in Wien

(1824年9月4日オーストリア、リンツ郊外アンスフェルデン生まれ)
(1896年10月11日ウイーンで歿)

1.職 業Beruf


österreichischer Komponist der Romantik sowie Organist und Musikpädagoge

オーストリアの作曲家・オルガニスト・音楽教師

2.称 号Titel


アンスフェルデン名誉市民 Ehrenbürger von Ansfelden 
リンツ名誉市民 Linzer von Ehrenbürger
ウイーン大学名誉哲学博士 Ehrendoktor der Universität Wien
ウィーン楽友協会名誉会員 Ehrenmitglied der Gesellschaft der Musikfreunde
ウィーン・アカデミー・ワーグナー協会名誉会員 Ehrenmitglied der Akademie der bildenden Künste Wien Wagner-Verband
ウィーン男性合唱団連盟名誉会員 Ehrenmitglied des Wiener Männerchorbundes
ワーグナー協会名誉会員 Ehrenmitglied des Wagner Verbandes
フロージン・リーダーターフェル名誉会員 Frosin Leader Tafel Ehrenmitglied
シュタイア・リーダーターフェル名誉団員 Ehrenmitglied der Steyrer Leader Tafel
フランツヨーゼフ騎士団の騎士鉄十字章 Ritterkreuz des Franz-Joseph-Ordens

3.人物Person Persönlichkeit


1.子供好きで小さな子供の合唱団員のためにポケットに菓子がいっぱいつまっていた
2.書棚には宗教書、音楽書のほかは興味のあったメキシコ、北極探検の本くらいしかなかった
3.ウィーンの住居は簡素であったがイギリス製の真鍮製のベットは当時としてモダンであった
4.家では夕方、大きなふた皿のスープを飲んでから作曲に取り掛かった
5.しばしば夜の10~11時過ぎには友人や弟子と行きつけのレストランで10杯をこえるビールを飲んだ
6.家で作曲するときは冷えたコーヒーをブラックのままで、がぶ飲みするのが習慣だった
7.レストランで好んで食べたのは、各種燻製と肉団子に野菜を添えたもの、シチューと魚肉と卵のスクランブルであった
8.土地特有の家庭料理とヌードル・スープやチョコレート・スープも好んでいた
9.デザートは、リンゴ、桜桃入りケーキ、ミルク・ヌードル、スモモの練り物であった
10.上部オーストリア(アンスヘルデン、リンツ等ウィーンに出るまで住んでいた土地)に出掛けた時は、ナシやリンゴの果実酒を愛飲していた
11.ビールはピルスナーを0.3㍑ジョッキで泡の入ったままのものを注文し、とまり木に陣取り十杯以上は普通だった
12.身長は170㎝くらいで太り気味、髪は黒っぽいブロンドで短め、のちに白髪。ひげはちょっぴりたくわえ「貴族のひげだ」と得意になっていた
13.スポーツは水泳もダイヴィングも得意で、ダンスもかなり上手かった
14.服装は自身「簡素、エレガント」と言っており気を使っていた、それに気心地のよさと活動の敏捷さを大切にしていた
15.服装はフィット感はなく、だぶだぶ気味の服で、オルガン演奏と運動のために短いズボンを選んだ
16.靴は横側にゴムのある長めを愛用し靴箱には3~40足あった
17.つばの広いソフト帽と大きめの赤か青のハンカチを使い、汗を拭いたり、食事に使った。ケーキ用の清潔なナプキンを持っていた
18.多くの点で、風習からずれていたが、けっして無頓着ということではなかったようだ

4.家 系Familie


ブルックナー家の先祖は14世紀に遡る。約400年にわたりリンツ近くで代々農業と手工業を生業にしていたようだ
先祖の一人と言われているイェルク・プルックナーJürg Pruckner(1400年頃の人物)という農民が、リンツ東方のエートOed辺りにプルックホーフPruckhofと呼ばれる土地を持っていた。ブルックナーという姓の由来らしい

曾祖父:ヨーゼフ・ブルックナー(1716頃~1775年)は、エート近くのピーラPyhraで生まれた。石職人のヤーコブ・ペルガーの娘マリア・テレジアと結婚後に家を持ち、一時採石所を経営し裕福になり、村の参事会員となり貴族階級と付き合うようになった。エートでは宿屋、樽や桶作り等の仕事をしていた。二人には9人の子供が生まれた。

祖父:ヨーゼフ・ブルックナー(1749~1831年)は、エートで生まれ父の仕事を継いだ
1765年16才の時に、教師となり各地を転勤した
1776年27才、にオーバーエスターライヒのアンスフェルデンの小学校の校長に転任した
1777年28才、8月アンスフェルデンの前任校長セバスティアン・クレッツアーの娘フランツィスカ・クレッツァー(Franziska Kletzer,)と結婚
1823年校長を辞めて引退した。二人には12人の子供が生まれたが、何人かは夭折した

父:アントーン・ブルックナー(1791~1837年)は十番目の子供として生まれた
1814年23才で教師となり父ヨーゼフの助手を務めた
1823年32才、引退した父のあとを継いで校長になった。シュタイヤー近郊ノイツォイクで、地方公務員を務めながら宿屋を経営していたフェルディナント・ヘルムの娘テレーゼ・ヘルムTherese Helm(1801~1860年)と結婚し、11人の子供が生まれ、5人が成人した

5.ブルックナー歴史年譜Bruckner Historische Chronologie


.1824年9月4日午前4時ころブルックナーは、上部オーストリアのオーバーエスターライヒ州アンスフェルデンAnsfeldenの自宅で、学校長兼オルガニストの父:アントンと母:テレーゼの長男として生まれた
祖父と父親の名をとってヨーゼフ・アントン・ブルックナーと名付けられた
幼少の頃は家族の間ではトーネル(Tonerl)と呼ばれていた。下に、妹三人、ロザーリエ、ヨゼフィーネ、マリーア・アンナ、そして弟のイグナーツ(イグナーツは1913年80才まで生きた)がいた
父は村の学校長の仕事のほかカトリック教会のオルガニストで、聖歌隊の指揮やオルガンを弾く務めがあった
父アントンは、リンツ楽友協会の会員でありヴァイオリンも上手かった
幼少期のトーネルは、オルガン椅子の父親の隣の席に座り、父の演奏するオルガンに耳を傾けて過ごしたようだ
母のテレーゼ(Therese)は美声の持ち主で歌唱の心得があった。日曜日の教会の礼拝にはトーネルを連れて行き、教会の聖歌隊メンバーとして歌っていた
家庭環境がこうした雰囲気にあり、トーネルは自然にミサ曲や宗教的音楽に慣れ親しみ音楽を身近に感じながら育った。教会には小さな楽団があり、小作品が演奏されていた。音楽を生で聴きながら育ったトーネルは、幼少期は恵まれた音楽環境の中で過ごしていた

1828年4才
父から音楽の手ほどきを受け、小型のヴァイオリンで聖歌を弾けるようになった。やがて家にあるスピネット(小型のチェンバロの一種)に向かい和音のある演奏を楽しんだ。

1830年6才
小学校入学

1831年7才
4月祖父ヨーゼフ歿
成績が良いため父の担任する上級クラスに進級した。放課後も父から歌のレッスン、ピアノ、オルガン、ヴァイオリンを学んだ。

1833年9才
6月7日リンツで堅信式(信仰告白式)を受けた。

1834年10才
この頃から時々父の代理として教会のオルガンを演奏するようになった。

1835年11才
息子の楽才に気付いていた父親の意思で音楽を勉強するため、春頃リンツ郊外のヘルシングHürschiing に住むトーネルの名付け親でもある、小学校教師の従兄のヨハン・バプティスト・ヴァイスJohann Baptist Weißのもとに預けられた。ヴァイスはオルガニスト・作曲家として知られていた。ここで1837年までの間、本格的な音楽教育を受けた。通奏低音法に基づいたオルガン奏法と、和声など音楽理論の基礎を本格的に学び、初等教育の基礎科目の勉強もした。教会ではハイドンのオラトリオやモーツァルトの宗教曲に触れる機会を得た。

1836年12才
ヘルシングで勉強していた秋ごろ、父の病気のためアンスフェルデンに戻り、父の代理を務めた。
作品:《パンジェ・リングァ/いざ歌え、わが舌よ》ハ長調(四声合唱曲)WAB31はこの1835~36年の作と言われている。
※作品番号の「WAB」は、音楽学者のレナート・グラスベルガーによる『ブルックナー作品目録』(Werkverzeichnis Anton Bruckner)の整理番号(149番まで)作品番号を付けなかったブルックナーの作品整理番号として使われている。

1837年13才
6月7日父が46才の誕生日の日に呼吸不全で亡くなった。
父の葬儀後直ぐに母テレーゼに連れられたブルックナーは、リンツ東南およそ15キロに位置するザンクト・フロ-リアンの修道院長ミヒャエル・アルネート(Michael Arneth)を訪れた。
母テレーゼは少年聖歌隊員にしたいと相談した。ブルックナーは院長の計らいで修道院附属小学校の給費制として預けられた。そこはローマ人の殉教者聖人フロリアンが埋葬された場所に建つ、バロック様式のカトリックの大修道院であり、フランツ・クサーヴァー・クリスマン製の大オルガンがあった(このオルガンはブルックナーが愛用したということで後に、「ブルックナー・オルガン」と呼ばれる)。
母テレーゼは家財を整理して四人の子供を連れて、エーベルスブルクの安い家賃の家に移り、洗濯婦をしながら残る四人の子供の面倒を見ることにした。
修道院の給費制となったブルックナーは寄宿生活を校長で少年聖歌隊長のミヒャエル・ボーグナーの家ではじめた。
8月27日付属小学校三学年に編入した。最初に、付属学校で音楽の基礎科目と一般教養の教育を受けた。通奏低音と音楽理論をボーグナーに、声楽をフランツ・ラープから、フランル・グルーバーからヴァイオリンを、修道院オルガニストのアントン・カッティンガーAnton Kattinger,からオルガンとピアノ、和声を学んだ。
作品:《前奏曲 変ホ長調》WAB127、《四つの前奏曲 変ホ長調》WAB128

1838年14才
学校でオルガンの勉強に励み、即興演奏の練習に専念した。

1839年15才
変声期を迎えた夏、修道院付属学校を修了した
その後もとどまり聖歌隊でヴァイオリンを弾いたり、カッティンガーのオルガン助手として修道院にとどまっていた
ブルックナーの進路希望は、父のような教員になりたいと知った修道院長アルネートは、教師ゲオルク・シュタインマイヤーを学習指導につけリンツの教員養成学校の勉強続けさせた。

1840年16才
音楽を職業にしようと考えていなかったブルックナーは、寄宿していたボーグナーのところを去った。
10月15日リンツの初等教育課程教員養成学校に入校し、10ヵ月の教育を受けることになった。そこは音楽の教育も重視していた。
修道院の室内楽団の指揮者をしていたデュルンベルガーDürrnberger, Johann Augustの指導を受け、教材はデュルンベルガーが著した和声、対位法やバッハのフーガの技法やアルブレヒツベルガーのフーガも含まれていた。
ブルックナー等の生徒たちは日曜日には近くのミノリーテン教会でハイドンやモーツァルトのミサを歌った。
リンツではベートーヴェンの交響曲第四番やモーツァルト、ハイドン等のミサ曲を聴くことができた。

1841年17才
7月30日ブルックナーは小学校の初等補助教員になるための試験を受けた
試験は二回あり、二回目の試験は終わり合格し、8月16日初等教員養成学校の全課程を終えた
母の住むエーベルスベルクに滞在後、ボヘミア国境に近く、フライシュタットから遠くない北部ミュールフィアテルの地域、ヴィントハークという貧しく荒れ果てた小さな村の、トリヴィアルシューレ=ラテン語学校の補助教員として10月3日に到着した。
18才になった補助教員ブルックナーは、10月10日から生徒数60~80人の教壇に立った。
小学校長のフックスの指示は授業のほか、教会でオルガンを弾き、フックスの住居の家事や畑仕事に及んだ。
ヴィントハークでは音楽好きの一家と出会い、楽団を結成してヴァイオリンを担当し、農民たちの結婚式や踊りの演奏をした。こうした素朴な農民たちの民族音楽にじかに接触する機会があったことは後々、ブルックナの創作に影響を与えることになっていった。
引き続バッハのフーガの技法の研究とヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーJohann Georg Albrechtsberger,(ベートーヴェンの師の一人)、マールプルクFriedrich W Marpurgのフーガの研究はここでも続けられた。

1842年18才
ザンクト・フローリアン修道院長のミヒャエル・アルネートが視察旅行の途次にヴィントハークに来た時、フックス校長はブルックナーについて不満を伝えた。
この地で、作曲とオルガン演奏に力を注ぎ《ヴィントハーク・ミサ曲》ハ長調WAB25が作られた

1843年19才
ミヒャエル・アルネート修道院長は1月23日ブルックナーを、シュタイアとエンスの町近郊の小さな村、クローンストルフの学校に転任させた。
そこの修道院にはザンクト・フローリアンにあるオルガンと同じクリスマン製のものがあった。
着任後にブルックナーは昇給した。
ザンクト・フロ-リアンに歩いて行ける距離にあったことでしばしば出かけた。
エンスの町には面識のあった聖歌隊長のツェネッティLeopold von Zenettiが住んでいたので、再会し音楽の指導を受けることになった。週に三回通いピアノ、オルガン、音楽理論を1846年まで受けることになる。教材はダニエル・ゴットロープ・テュルク(Daniel Gottlob Türk,)の「礼拝におけるオルガニストの役割(Von den wichtigsten Pflichten eines Organisten)」やバッハの《平均律クラヴィーア曲集》とコラールだった。
ブルックナーは、親切なヨーゼフ・フェルダーマイヤーという農夫から古いスピネットを贈られ自分の教室に置いてバッハなどを演奏した。さらにシュタイアの修道士と親しくなりそこのクリスマン製のオルガンに触れるチャンスを与えられた。
シュタイアでは忘れられない思い出もできた。フランスの将軍の娘カロリーネ・エバーシュタラーとの出会いであった。彼女はシューベルトが晩年にシュタイアに来ると二人で連弾を楽しんだという。そして今度は彼女はブルックナーを連弾に誘いシューベルトのときと同じ曲を懐かしんで演奏したという。
クローンストルフでは男性合唱団を作り第1バスを歌った。
9月19日に初演された《祝典にて》は最初の世俗合唱曲とされている。
作品:《祝典にて》 変ニ長調(男性四部合唱)WAB59、《祝典の歌》ニ長調(男性四部合唱)WAB67、《ターフェルリート》変ニ長調(男性四部合唱)WAB86

1844年20才
となり既に助教員を1年間務め、正教員の受験資格を満たしていたブルックナーは、来年教師認定試験を受けようと受験準備をはじめた。
作品:《聖木曜日のための合唱ミサ曲》ヘ長調(混声四部合唱)WAB9、《リーベラ・メ》WAB21

1845年21才
5月末にリンツで3日間の正教員となるための試験を受け合格した。29日の試験では対位法を豊かに取り入れたオルガンの即興演奏に恩師デュルンベルガーも驚嘆したという。
8月19日正教員に認定された。
9月23日クローンストルフを離任し、25日から聖フロ-リアン修道院付属学校の助教員となり1、2年のクラスと日曜日の補習、歌唱教員として何人かの歌のレッスンが課せられた。カッティンガーのオルガン助手を務める
ブルックナーは再び校長のボーグナーの家に寄宿した。収入は年36グルデン支給された
カッティンガーの指導で毎日2時間、オルガンの即興演奏とバッハの作品の演奏を行った。
ブルックナーは最初の1年間はエンスのツェネッティのもとに出かけオルガンや理論の指導を受け、音楽を聴くためにリンツにもしばしば出かけた。
作品:カンタータ《忘れな草》ニ長調(混声八部合唱)WAB93

1846年22才
作品:四つの《タントゥム・エルゴ》(混声四部合唱)WAB41、《タントゥム・エルゴ》ニ長調WAB42

1847年23才
生まれ故郷のアンスフェルデンでつき合っていたフランツ・ザイラーが修道院にいて、ブルックナーにいろいろ便宜を計ってくれた。ザイラーはベーゼンドルファーのピアノを購入し、ブルックナーはこのピアノで即興演奏をすることを楽しみにしていた。
リンツでメンデルスゾーンのオラトリオ《聖パウロ》を聴き感銘を受ける。
作品:オルガンのための《前奏曲とフーガ》WAB131、《二つのエクアーレ》ハ短調WAB114/149、男声合唱曲《教師の身分》

1848年24才
3月カッティンガーはブルックナーのオルガン能力を証明する証明書を書いた。
7月にはザイテンシュテッテンのオルガニスト、プファイファーもオルガン能力証明書を発行した。
民衆が蜂起した「ウィーン三月革命」はザンクト・フローリアンにもおよび、ブルックナーは国民軍に入り軍事教練を受けた。
9月15日修道院の裁判所書記官フランツ・ザイラーが没し、遺言書にベーゼンドルフ社のピアノをブルックナーに譲ると記されていた。このピアノによりブルックナーの数々の大曲が作られ、死の直前まで傍らにあった。
ザンクト・フローリアン修道院の臨時オルガニストになる。
作品:《流れ星》ヘ長調WAB85

1849年25才
3月14日ブルックナーは、ザイラーから遺言で贈られたピアノへの感謝の気持ちを込めて作曲した《レクイエム》ニ短調WAB39オーケストラ付きが完成。ザイラーの一周忌の9月15日に聖フローリアンで公開初演された。
少年聖歌隊員たちの個人レッスンを始め収入も増えはじめた。
秋ごろから上級教員を目指しリンツの下級実科学校に通い始めた。
12月24日カッティンガーが聖フローリアン修道院を去った。
※《レクイエム》ニ短調は1849年3月11日または14日に完成されたが、スケッチ程度のものが残ってしまっていた。これを1892年(あるいは94年)に完全なものに仕上げた。
下、《レクイエム》ニ短調
マイヤ・ブレクサ 指揮 / Chor Biberist / AdHoc Orchestra
Ilze Paegle(S) / Bernadeta Sonnleitner(A) / Matthias Müller(T) / Ralf Erns(B)

1850年26才
2月28日フローリアン修道院臨時オルガニストに任命された。オルガニストとしての収入がもらえるようになった。
下級実科学校の5月の試験はいずれも秀の評価であった
7月10日の朝、かっての恩師で作曲家、名付け親でもある従兄のヴァイスは、教会の基金の積立責者であったが、その金にかなりの額が紛失していることがわかり、警察官が捜査のためにヴァイスの住居に近づいたところ、ヴァイスは墓地に逃げ込み自殺してしまうという事件が起こった。ブルックナーは大きな衝撃を受けた。
ブルックナーは、ザンクト・フローリアン修道院学校長の娘アロイジア・ボーグナーに歌曲《春の歌》WAB68、ピアノのための舞曲《ランシエ=カドリーユ》ハ長調WAB120、《シュタイヤーマルクの人々》を献呈している。ブルックナーの初恋の相手だったかもしれない

1851年27才
9月13日フローリアン修道院長アルネートはブルックナーを修道院オルガニストに任命した。
10月リンツの下級実科学校のすべての学業を合格し修了した。
ブルックナーは美しい文字を書けたのでリンツの帝立地方裁判所の書記のアルバイトを始めた。
作品:男声合唱曲《気高き心》WAB65、歌曲《春の歌》WAB68、ピアノのための舞曲《ランシエ=カドリーユ》ハ長調WAB120、《シュタイアメルカー》ト長調WAB122

1852年28才
初めてウィーンを訪れ、ウィーン宮廷楽長イグナーツ・アッスマイヤーに会った。アッスマイヤーはザルツブルクに生まれ、ミヒャエル・ハイドンに学び、ザルツブルクでオルガン奏者を務めたのちにウィーンに出て、シューベルトと交友を結び、アントニオ・サリエリの門下となった人だ。
アッスマイヤーに《レクイエム》を見てもらったほかに、ウィーンの宮廷オルガン奏者で、ウィーン音楽院教授のジーモン・ゼヒターを紹介された。
7月30日アッスマイヤーにトロンボーンのための《詩編114篇》WAB36を献呈した。
8月15日独唱と混声四部合唱と小規模管弦楽のための《マニフィカト》変ロ長調WAB24を作曲し、聖フローリアン新任聖歌隊長イグナーツ・トラウミーラーに献呈した。
9月27日聖フローリアンの聖職者エルンスト・マリネッリの作詞による、カンタータ《神父さま、我らはあなたの気高き祭りを》ニ長調WAB61が完成した。修道院長ミヒャエル・アルネートの命名祝日の9月29日に初演された。
作品:トロンボーンのための《詩編114篇》WAB36、《マニフィカト>》WAB24「新約聖書ルカ伝第一章のマリアの讃歌を歌詞とする」、カンタータ《神父さま、我らはあなたの気高き祭りを》ニ長調WAB61

1853年29才
7月友人のシャール・シュミットから「仕事を変えるとかの考えを捨てるべきで、自分の進路のために、メンデルスゾーンだけをみつめているのなら間違っている。メンデルスゾーンの源泉はバッハなのであって、バッハを徹底的に勉強すべきだ」という忠告を受けた。

1854年30才
3月24日少年時代から何くれとなく面倒をみてくれた恩師ザンクト・フローリアン修道院長ミヒャエル・アルネートが死んだ。
3月28日のアルネートの埋葬式には、アダージョの五声部合唱曲《われを救いたまえ(リベラ・メ)》へ短調WAB22と、この時のために作曲した男声合唱と三本のトロンボーンのための《アルネートの墓の前で》へ短調WAB53の、この2曲とモーツァルトの《レクイエム》が演奏された。
4月2日にはブルックナーのニ短調の《レクイエム》WAB39が演奏された。
9月13日後任の修道院長フリードリヒ・テオフィール・マイヤーが着任して来た。
9月14日の就任式の祝賀のために混声合唱と二管編成の管弦楽とオルガンのための《ミサ・ソレムニス》変ロ短調WAB29が作られマイヤーに献呈され初演されたが、式後の宴席に招待されることがなかったことで分かるように、ブルックナーの評価は、従前同様にここでの音楽への関心の低さと、自分の生活の不満解消に彼が期待するようなことは起こらなかった
10月9日ウィーンで、オルガンの認定試験を受けた。試験委員はアッスマイヤー、ゼヒター、ゴットフリート・プライヤーだった。そのときに演奏した《二重フーガ》は高く評価され、「ブルックナーははかり知ることのできないほどに有能なオルガニストである」というアッスマイヤーの証書を受け取った
11月10日リンツの上級学校事務局に上級学校教員の試験を申請した
(注2.)《ミサ・ソレムニス》1930年旧全集のなかでハースによる校訂版が登場し翌年原典版として単独で刊行された。ブルックナーの新全集にはノヴァークによる1975年ノヴァーク版が収められているが、1977年に改訂されている
作品:アダージョの五声部合唱曲《われを救いたまえ(リベラ・メ)》へ短調WAB22、男声合唱と三本のトロンボーンのための《アルネートの墓の前で》へ短調WAB53、混声合唱と二管編成の管弦楽とオルガンのための《ミサ・ソレムニス》変ロ短調WAB29

1855年31才
1月25~26日リンツで上級学校教員のための個人試験を受け、28日合格証書が授与された
4月プラハの作曲家でオルガニストのロベルト・フューラーがザンクト・フローリアンにやって来た
ブルックナーはフューラーに自作の《ミサ・ソレムニス》変ロ短調を見せ、オルガンの即興演奏を披露したところ、フューラーは推薦状を書き、ゼヒターに師事して和声と対位法を勉強するよう助言した。
7月ウィーン音楽院教授ジーモン・ゼヒターを訪ね弟子入りを希望した。ゼヒターは《ミサ・ソレムニス》の楽譜を見て、その才能を高く評価し、とくにそこでのフーガの書法に感心し、ブルックナーを弟子にすることに決めた。
ゼヒターは、1825年ウィーンの宮廷第一オルガニストになり、1851年から死ぬまでウィーン音楽院の教授の地位を務めて、通奏低音と対位法を教えていた。ゼヒターを訪れたブルックナーの願いは受け入れられた。
ゼヒターは他の門下と同じ、フランスのフィリップ・ラモーを底本にした自分で著した三巻からなる「作曲の基本」を使わせた。ゼヒターの教えは他の作曲家の研究も含んでいたがブルックは完全にマスターした。修了以降もブルックナーはゼヒターに教えを請い学んだ。
11月9日リンツ大聖堂・市教区オルガニストのヴェンツェル・プラングフォーファーが死去した。
13日リンツ大聖堂・市教区は空席を補充するため暫定オルガニストを決める予備試験が行われ、かっての師デュルンベルガーの勧めを受け二人で大聖堂に出かけた。試験の課題は、「与えられた主題による即興演奏とその終末のフーガ」で受験者はうまく弾きこなすことができなかった。ブルックナーはオルガンに向かい演奏を終わらせた。結果は第一位に選ばれた。
12月8日大聖堂におけるマリアの受胎の祝日のミサでリンツにおける初めてのオルガンを弾いた。正式採用の選考会に田舎者のブルックナーは、都会での生活に申請を躊躇したが周囲の勧めもあり、またフローリアン修道院長のマイヤーがリンツに移っても2年間はオルガニストの身分を確保すると約束し、ブルックナーは願書を書いた。
ザンクト・フローリアンのオルガニストを辞任して、12月23日聖フローリアンを出立し翌日リンツ入りした。メスナーホイゼルに宿した。妹のロザーリエがザンクト・フローリアン修道院ので庭師をしていたヨハン・ネポムク・ヒューバーと結婚した。ヒューバーはブルックナーの結成した男性四重唱団の第2バスをしていたが1953年フェックラブルックの故郷に帰っていた。

1856年32才
1月23日の試験に際し、ブルックナーは普段、あまり服装に拘らない人間と思われていたが、友人たちから小綺麗な服装を心がけるよう忠告された。助言を守り試験にのぞんだ。
1月25日リンツ大聖堂及び市教区オルガニスト採用のための、応募者四人に対する選考会が行われブルックナーは「稀にみる才能を発揮した」と評された。
4月25日リンツ大聖堂オルガニストの正式な辞令が交付され、給料年額448グルデンとリンツに無料で住まいを借りられた。リンツの務めは、大聖堂のほかに教区のオルガンを演奏することを義務付けられた。他にもピアノを習う弟子たちのレッスンやその他の音楽理論の指導も行うようになった。これに伴い、恩師のゼヒターと文通し音楽理論の教えを受けるようになった。さらにリンツの男声合唱団のリーダーターフェル「フロージン」のメンバーとして活動をはじ、合唱団の文献担当から1860年には合唱団の指揮者に選ばれるようになる。
ゼヒターは17冊におよぶ宿題のノートを送ってよこした。ブルックナーは年に二回ウィーンに出かけ6~7週間滞在し、その時はゼヒターから毎日レッスンを受けることになった。
1858年からはゼヒターから毎年試験を受けなければならなくなった。学びながらもブルックナーは作曲は続けていた。
7月《アヴェ・マリア》ヘ長調WAB5を作曲し聖フローリアンの聖歌隊長のイグナーツ・トラウミーラーに献呈し、10月7日聖歌隊長指揮で初演された。
9月6~9日ザルツブルクで開催されたモーツァルト生誕100年祭にリーダー・ターフェル「フロージン」と共に参加し、オルガン演奏も行った。
ブルクハウゼンにはオルガン演奏で出かけた。
リンツで知り合いができた。公務員のモーリッツ・マイフェルトと妻のピアニストのバルバラ夫人、声楽教師のアロイス・ヴァインヴルムと弟の作曲家で後のウィーン音楽大学学部長になるルドルフ・ヴァインヴルム、ヴァイオリン奏者のイグナーツ・ドルン等とは、その後づっと親しく付き合うようになり、生涯の友人となった。
この頃、評論家エドゥアルト・ハンスリックとも知り合いになり、リンツ大聖堂の司教フランツ・ヨーゼフ・ルーディギーアとも親しくなった。
作品:《アヴェ・マリア》ヘ長調WAB5

1857年33才
リンツでピアノのレッスンを受けはじめた。

1858年34才
司教フランツ・ヨーゼフ・ルーディギーアの許可を得て1~2ヶ月間ウィーンに行くことが許され、ゼヒターのレッスンを受け7月10日、基本和声の試験が初めて行われた。
7月12日ウィーンのピアリスト教会で通奏低音とオルガンの試験を受け、ゼヒターから「優れたオルガニスト」としての証明を得た。

1859年35才
この年も休暇を取り、ウィーンに行きゼヒターのもとで毎日レッスンを受け、厳格対位法試験が行われ合格した。

1860年36才
休暇を取りレッスンを受けにウィーンに行き、4月ゼヒターから対位法試験合格証明書を授与された。ゼヒターの上級の対位法試験に合格
11月7日リーダーターフェル「フロージン」合唱団指揮者に選ばれた。
11月11日母テレーゼ・ヘルムが肺病で亡くなったと知らされる。

1861年37才
休暇を取りウィーンに行き、2月13日からゼヒターのレッスンがはじまり、3月26日終わった。カノンとフーガの試験を合格し、ゼヒターのもとで6年間師事したすべてのレッスンは修了した。
リンツでの友人イグナーツ・ドルン(リンツの劇場の楽長)の紹介でキッツラーを知り、次はオットー・キッツラーから楽式論と管弦楽法を学ぶ予定があった。
ブルックナーは合唱祭に参加するため多くの都市を巡り、各地で称賛された。
5月12日リーダーターフェルを中心とした合唱で《アヴェ・マリア》WAB6がリンツで初演された。
下、《アヴェ・マリア》WAB6
ハインリッヒ・シュッツ / アンサンブル・ヴォルンバッハ+ VIA・NOVA・CHOIR

6月29~30日ニーダーエスターラーイヒのクレムスで開催された第一回ドイツ・オーストリア合唱祭にリーダーターフェルを率いて参加した。
7月20~22日ニュルンベルクのドイツ合唱祭にリーダーターフェルを率いて参加し、絶賛された。この時、のちにウィーン楽友協会芸術監督・ウィーン宮廷歌劇場監督に就任するウィーン楽壇のヨハン・ヘルベックの注目を集め、知り合いとなり、やがて固い友情で結ばれるようになる。後にヘルベックは、ブルックナーのウィーンでの新しい職を探すことに尽力することになる。
9月リーダーターフェル「フロージン」合唱団を退団。
12月、ブルックナーの「キッツラー練習帳」によると、クリスマスの夜ごろからリンツ市立歌劇場の指揮者オットー・キッツラーに楽式論や管弦楽法等を学びはじめたことになる。
キッツラーとの勉強の内容が「キッツラー練習帳」としてブルックナーが記録してゆくことになる。キッツラーの「音楽の回想」には、『フリートリヒ・リヒターの理論書を教材にベートーヴェンのソナタを研究させ、それを交響曲に広げるよう指導した。楽器用法ではアドルフ・ベルンハルト・マルクスの著「作曲法課程」第三巻を使い、古典派の大家の総譜を研究させた』と書いている。
ブルックナーは自分より10才若いキッツラーに師事してベートーヴェンの研究や、リスト、ワーグナーのオーケストレーションを研究するため、あらためて総譜を根本から勉強することになった。二人は友情で結ばれ、ブルックナーがウィーンに定住してからは、キッツラーはいろいろな機会にブルックナーを訪れた。
ブルックナーはザルツブルク大聖堂音楽協会のモーツァルテウムのポストを得ようと9月20~21日受験するが、徒労に終わり、ウィーン楽友協会音楽院の和声学・対位法の教授の地位を得ようとした。
能力試験が11月19日に楽友協会で行われ、試験官には恩師ジーモン・ゼヒターを始め、音楽院長ヨーゼフ・ヘルメスベルガー、ヨハン・ヘルベック、ウィーン宮廷歌劇場(現・国立歌劇場)の指揮者オットー・デソフ、音楽院視学官のベッカーという面々だった。面接、書類審査、フーガの即興演奏の試験が行われた。
21日ピアリスト教会で行われ、課題はゼヒターがその場で四小節の主題を提示し、ヘルベックがそれに四小節加え、デソフが「これは厳しい!」と唸る程だったが、ブルックナーは見事な即興演奏を繰り広げ、試験官達を圧倒。翌日審査委員により音楽院教師に推薦できる音楽家であると証明された。この出来事は「ウィーン新聞」でも報じられたが、ブルックナーが実際に音楽院のポストに就くのはこれより7年後の1868年のことになる。
キッツラーのもとでのレッスンについて、クリスマス前までにはカデンツと転調などが「キッツラー練習帳」に記されている。

1862年38才
4月25日新聖堂建築の定礎式用に作られた《祝祭カンタータ》ニ長調WAB16が5月1日にエンゲルベルト・ランツ指揮でフロージン等合唱団と軍楽隊により演奏された。
6月キッツラーとのレッスンは主題と変奏、ロンド、ソナタ形式の練習と進んでいた。
6月29日、《ピアノソナタ》ト短調第一楽章が作られている。
8月7日《弦楽四重奏曲》ハ短調 WAB111完成。
8月26日からオーケストラの習作を開始。
10月12日《管弦楽のための行進曲》ニ短調WAB96完成。
10月中旬~11月16日《三つの管弦楽曲》WAB97完成。
11月18日《序曲ト短調》WAB98の作曲に着手。
作品:《祝祭カンタータ》ニ長調WAB16、《弦楽四重奏曲》ハ短調 WAB111、《管弦楽のための行進曲》ニ短調WAB96、《管弦楽のための3つの小品》WAB97
下、《序曲ト短調》WAB 98
マティアス・ギーゼン 指揮 / 聖フローリアン・アルトモンテ管弦楽団 2005年8月20日 聖フロリアン修道院

1863年39才
1月22日《序曲ト短調》WAB98完成。
1月に入りキッツラーのもとで《交響曲へ短調》WAB99のスケッチはじまる。
2月13日のキッツラー指揮による《タンホイザー》リンツ初演演奏会に先立って師弟で総譜を研究した。ブルックナーはこの演奏を聴いて大きな感銘を受け、音響効果に影響されるようになったようだ。
キッツラーの指導でリストやワグナーのオーケストレーションを研究し、総譜を根本から勉強した。
2月25日から交響曲の作曲に入り、5月26日《交響曲へ短調》がひととおり終了し7月に完成した。
7月10日、キッツラーを招いた食事を最後に、キッツラーのレッスンが終了した。
キッツラーはリンツを離れ、ルーマニア西部地域のティミショアラへ去った。
成果は326頁に及ぶ「キッツラー練習帳」で、1861年クリスマスの夜から1863年7月10日までの日付があり、練習課題とスケッチ、25曲の完成作品があった。管弦楽法の練習にはベートーヴェンの《悲愴ソナタ》第1楽章のオーケストラ編曲等々が含まれていた。
今日、「キッツラー練習帳」はミュンヘンに住む、トラウドル・クレス夫人の所有となっている。
ブルックナーはリンツ劇場のヴァイオリン奏者イグナーツ・ドルンのレッスンを受けはじめた。
9月末から10月初めに休暇をとりミュンヘンの第2回音楽祭を訪れ、音楽総監督フランツ・ラハナーに自作品をいくつか見せた。音楽祭にはクララ・シューマンもソリストとして訪れていた。
リンツに戻り10月10日ピアノ曲《秋の夕べの静かな思い》WAB123を作曲。
前年から初期の管弦楽曲として《序曲ト短調》WAB98、《交響曲ヘ短調)》WAB99、《詩篇112番》WAB35、《ゲルマン人の行進》WAB70等を作曲並びに着手している。
ブルックナーが1863年39才になってから《交響曲へ短調》に着手するまで、今まで書かなかったことについては
1. 地方に居てオーケストラに接することが少なかった
2. 教会オルガニストとして宗教的な環境が長かった
3. シンフォニーを作曲するだけの知識がなかった
4. ゼヒターやキッツラーによる勉強の途中であった
5. ワーグナーの存在を知り管弦楽曲に目覚めた等々いろいろといわれている。
作品:ピアノ曲《秋の夕べの静かな思い》WAB123、《序曲ト短調》WAB98、《交響曲ヘ短調)》WAB99、男声4部合唱と金管楽器《ゲルマン人の行進》WAB.70

1864年40才
5~6月ころから《ミサ曲第1番》ニ短調の作曲に入り、その年の9月29日には全曲書きあがった。
11月20日《ミサ曲第1番》ニ短調は、リンツの旧聖堂でブルックナーの指揮で初演された。
作品:《ミサ曲第1番》 ニ短調 WAB26 1864年第1稿、《ゲルマン人の行進》出版

1865年41才
1月《交響曲第1番》ハ短調WAB101に着手、第4楽章は1月26日に書き終え、5月14日第一楽章書き上げた。第三楽章スケルツォは5月25日にまとめた。
5月ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》初演に招待され、書きかけの交響曲を持参してミュンヘンに向かう。トリスタンの初演は2ヶ月延期され、ミュンヘンに2週間滞在しワーグナーに会ったり、同宿のロシアのピアニストのアントン・ルビンシテイン等を知り合い、その伝手でハンス・フォン・ビューローに接近して面識を得た。ハンス・フォン・ビューローに書きかけの交響曲第1番の草稿を見せたりして積極的に動いているが、ワーグナーには見せなかったようである。
第一回上部オーストリア合唱祭に応募したブルックナーの《ゲルマン人の行進》は、6月5日リンツで自身の指揮でリーダーターフェルによって初演されたが第二位に終わった。
6月19日ミュンヘンに向かい《トリスタンとイゾルデ》の初演を聴いた。
6月25日ヴェルス合唱連盟創立祭でリーダーターフェルを指揮して《ゲルマン人の行進》等を演奏。
8月6日オーバーエスターライヒ合唱同盟の創立祭がヴェルスで開催されリンツの歌手同盟を指揮した。
8月25日ブタペストにリストの《聖エリーザベト》初演を聴きに行きリストに会っている。
この年はウィーンにも行っている。リンツの楽長イグナーツ・ドルンの「進歩的な作曲家と絶えず関係を保つように努力するべきだ」というアドバイスによるものであった。

1866年42才
1月23日《交響曲第1番》三楽章完成。《交響曲第1番》第二楽章が1月27日から4月14日までかかった。補筆し4月14日完成。《交響曲第1番》WAB101(リンツ稿または第一稿といわれている)が完成。
ベートーヴェンの《交響曲第9番》を聴く。
8月ブルックナーに大恋愛があった。リンツの肉屋の娘ヨゼフィーネ・ラング、20才年下の相手であった。8月16日付けのヨゼフィーネ宛ての手紙に「お願いがあるのですが、ご両親にお会いして婚約を許していただきたい」と書いて送った。家族とは親密になりヨゼフィーネの兄はブルックナーを誠実な男と評している。結局、年が違い過ぎることでヨゼフィーネに拒まれてしまう。ブルックナーは失恋後知り合った、ヘンリエッテ・ライターにも片思いで終わる
年末神経疾患に悩む。一番下の妹マリーア・アンナ(愛称:ナニー、30才)が身の回りの世話をするようになる。
11月25日《ミサ曲第二番》ホ短調WAB27完成。
12月16日ウィーンに行きベルリオーズの指揮する《ファウストの劫罰》を聴き、ベルリオーズに会った。
作品:《交響曲第1番》WAB101(リンツ版)、《ミサ曲第二番》ホ短調WAB27

1867年43才
2月10日ブルックナーの《ミサ曲第一番》ニ短調がヨハン・ヘルベック指揮のウィーン宮廷管弦楽団によりウィーンで初めて演奏された。ブルックナーはウィーンに行きこの演奏会でオルガンを担当した。
5月8日から8月8日までの間、健康上の理由でバート・クロイツェンのサナトリウムで精神的疾患の治療を受ける。
退院後、ウィーン大学の和声と対位法の講師を志願し、同時にウィーン宮廷礼拝堂のオルガニストの職を求めたが実らなかった。
9月10日恩師のゼヒターが亡くなった。
9月14日ウィーン宮廷楽団から依頼されていた《ミサ曲第三番》へ短調WAB28の作曲を開始した。
下、《ミサ曲第3番》へ短調 WAB28 2001.4.12 NHKホール
ヘルベルト・ブロムシュテット 指揮/ NHK交響楽団 / 二期会合唱団
菅英三子(S.) / 加納悦子(A.) / ペーター・シュトラーカ(T.) / マーティン・スネル(B.)

1868年44才
1月6日《ミサ曲第一番》ニ短調がリンツ大聖堂で演奏され大成功を収めた。
1月17日リーダーターフェルの指揮者に再選出された知らせが届き復帰をする。
5月9日《交響曲第1番》リンツ稿がブルックナー自身の指揮で、リンツのレドゥーテンザールにおいて初演されが、不成功に終わった。
5月12日ヘルベックが恩師ゼヒターの後任としてウィーン音楽院の教師申請をするよう話を持ちかけた。
5月から7月にかけ軽度の精神分裂症を患う。
6月21日のミュンヘンでの《ニュルンベルグのマイスタージンガー》の全曲公演を聴きに出かけた。
7月6日ヘルベックの推薦でウィーン音楽院の採用通知が届いた。
妹のナニー(nanni=Maria Anna)とともにウィーンに移住。
8~9月バートクロイツェンで療養する。
前年9月ウィーン宮廷楽団の依頼で着手した《ミサ曲第3番》へ短調WAB28が9月9日に完成した。
9月末ウィーン、ヴェーリング通りの家に移る。
10月1日ウイーン音楽院(ウィーン楽友協会音楽院)教授に就任した。担当科目は音楽理論(和声学と対位法)とオルガンを教えることであった。週に各6時間、計12時間の授業で年額800グルデンが支給された。1870年には和声学の第2学年設置を申請し、週3時間の増加で240グルデンの加給になる。教授就任と同時に帝室王室宮廷楽団無給オルガニスト補に任命された。ウィーン宮廷礼拝堂に務めることはハプスブルク領内の教会音楽家にとって最高の名誉であった。ブルックナーは礼拝堂資料室副主任と合唱団の第二歌唱指導者になった。無給時代は宮廷楽団の正式会員にはなれない。
ブルックナーの講義は厳格だったが、ユーモアと説得力に富んでおり、身なりの無頓着さが学生たちに親しみを感じさせ評判は良かったようだ。
弟子たちを可愛がり、夜ともなればレストランや酒場で夜遅くまで飲んだり談笑したといわれている。彼らはやがてブルックネリアーナーを形成する。
音楽院の門下からはフェリックス・モットル(指揮者)、ヨーゼフとフランツ・シャルクの兄弟(指揮者)、フェルディナント・レーヴェ(指揮者)、ヴラディーミル・ド・パハマン(ピアニスト)、グイード・アードラー(音楽学者)、ハインリヒ・シェンカー(理論家)、エルンスト・デチェイ(評論家)、フランツ・シュミット(作曲家)はじめ多くの音楽家が輩出した。当時、アルトゥ―ル・ニキシュ(指揮者)は音楽院の学生であった。のちのことになるが弟子に、アウグスト・ゲルレーリヒ(ピアニスト/ブルックナーの伝記作者)、ルードルフ・クルシシャノフスキー(指揮者)、エミール・パウール(指揮者)、アルトゥ―ル・ニキシュ(指揮者)、フリートリヒ・クローゼ(作曲家)、カミロ・ホルン(作曲家)、ハンス・ロット(オルガニスト)等が育った。
ウィーン、ヴェーリンガーシュトラッセ41番 Wien Währinger Strasse41に移転。
クリスマス前に文化教育庁から交響曲作曲奨励金として500グルデンを受ける。
作品:《ミサ曲第3番》へ短調WAB28、

1869年45才
1月24日《交響曲第2番(第0番)》ニ短調WAB100 第一楽章ウィーンで着手。
4月ウィーンからフランスへオルガン演奏旅行に行く。28日ナンシーの聖エプヴル教会Saint Epvreの新しいオルガン、メルクリン&シュッツェ社製の完成を機に、聖エプヴル教会当局はヨーロッパ各地から優れたオルガニストを招いて競演会を催すことを計画した。ウイーンに招待状が届き、オーストリアからブルックナーが選ばれた。参加したオルガニストはフランス人以外ではブルックナーだけであった。大オルガン演奏でバッハの《平均律クラヴィーア曲集》第一巻の嬰ハ短調の《プレリュードとフーガ》と即興を演奏した。翌29日ハイドンの《皇帝讃歌》がテーマの即興演奏を行った。
メルクリン・シュッツェ社から招待を受け、旅行期間を3日間延長することのウィーン音楽院の許しを得て5月、パリに招かれ向かった。パリではノートルダム寺院の大オルガンが提供された。この演奏の客席にはセザール・フランク、カミーユ・サン=サーンス、ダニエル・フランソワ=エスプリ・オーベール、シャルル・フランソワ・グノーはじめ多くの著名な芸術家が招待されその姿がみられた。ブルックナーの即興演奏は称讃された。
6月9日「フロージン」リーダーターフェルの名誉団員に選出された。
6月28日(7月1日)ころ《交響曲第2番(第0番)》ニ短調WAB100 第一楽章ウィーンで終了。7月12日弦のスケッチ終了、8月21日《交響曲第2番(第0番)》ニ短調WAB100 第二楽章リンツで終了。7月16日《交響曲第2番(第0番)》ニ短調WAB100第三楽章トリオ、ウィーンで着手、8月25日《交響曲第2番(第0番)》ニ短調WAB100 第三楽章リンツで完成。8月19日《交響曲第2番(第0番)》ニ短調WAB100 第四楽章リンツで完了した。
9月12日《交響曲第2番(後にこの番号を削除し「無効annulirt」という文言を書き添えた)》ニ短調WAB100 終了したと総譜に書き込む(川崎高伸の説『ブルックナーが表紙に記した〇を後世の人が「0(ゼロ)」と読んだので「0番」が定着したのです』を採用し《第0番》と呼ぶ)。
9月29日リンツ大聖堂構内の広場において《ミサ曲第2番》ホ短調WAB27をブルックナーの指揮、フロージン、リンツ歌手同盟、軍楽隊により初演演奏された。
10月29日宗教合唱曲《この所は神により作られた(ロークス・イステ)》WAB23をリンツ大聖堂指揮者ヨハン・ブルクシュタッラーにより、リンツの新大聖堂で初演された。
11月22日生まれ故郷のアンスフェルデン名誉市民に選ばれる。
《交響曲第0番》ニ短調WAB100をウイーン・フィル首席指揮者オットー・デッソフに草稿を見せたが「いったい、どれが主要主題なんでしょうね?」と質問され、おじけついて作品を引っ込めてしまい、生存中に初演はされなかったといわれている。
下、《交響曲第0番》ニ短調WAB 100 フランクフルト アルテ・オーパー 2017年3月24日
パーヴォ・ヤルヴィ指揮 / hr-交響楽団-フランクフルト放送交響楽団

この《交響曲第0番》ニ短調WAB100は、ブルックナーの自筆譜上部に当初《交響曲第2番Symphonie №2》と書いてあった。のちに削除して「無効annnuliert」という文言を書き添えていた。
※これについて川崎高伸は『「無効」というのは「2番」という「番号」を無効にしただけだ。作品自体は全く「無効」ではない。「無効」という標題を世間に晒すと、何も知らない人たちが、「作曲者自身が廃棄した作品」と勘違いするので、絶対にこの標題を使うことはまかりならんということです。実際、この自筆稿をブルックナーは封印し後世に残そうとした。たぶん、そのときにブルックナーが表紙に記した〇を後世の人が「0」と読んだので「0番」が定着したのです』と述べている。
(出典:2020年3月27日13:40岩田幸雄宛メール/チェック(5))
※門馬直美は音楽之友社発行の作曲家別/名曲解説/ライブラリー「ブルックナー」<交響曲第0番ニ短調>の項目で『《ニ短調》のものは、晩年の1895年にブルックナーが青年時代の作品の整理をしているときに再発見された曲であって、破棄するにしのびないと認められた作品である。そのときに、ブルックナーは、この曲の草稿に「交響曲《第0番》、全然通用しないもので、たんなる試作」と記した。これ以来、この交響曲には《第0(ゼロ)番》という番号があたえられるようになった』と述べている

1870年46才
1月16日、同居の妹マリーア・アンナ(ナニー)が肺結核で亡くなる(33才)。
ひとりになったブルックナーは、ウィーン気質のカタリーナ・カッヘルマイヤー(愛称:カティ)を家政婦に雇う。その後、カタリーナは、ブルックナーが亡くなるまで世話をすることになる。彼女は多くの人たちから「カティおばさん」と呼ばれ親しまれた。彼女は健全な理性と判断力をそなえ、会話もうまくユーモアをもち当意即妙な受け答えができ、毎月7グルデンの手当で忍耐強く働き、信頼できる人物であったといわれている。
7月18日リンツ大聖堂オルガニストを辞任した。
11月に入り、5月に《ニ短調交響曲》の楽譜を添えて応募していた、文化教育庁の当年度芸術家奨励金400グルデンを受け取る。
この頃のブルックナーは本業のほかに、リング内聖アンナ通りの帝室王立教員養成所の助教員として、ピアノ、オルガンと理論のレッスンを受け持ち年俸540グルデンが支給されていた。さらに個人レッスンをはじめていた。
作品:独唱と男声合唱曲《真夜中に》WAB80第一稿完成

1871年47才
8月ロンドン万博委員会は翌年に追った万博に備えて、ロイヤル・アルバート・ホールに設置されたヘンリー・ウィリス製の新オルガン試演竣工披露リサイタルを計画した。各国にオルガンニストの派遣を求めた。オーストリアは三人の候補によるウィーンの審査会が開かれ、ブルックナーが選ばれた。
7月29日ロンドン到着。8月2日からブルックナーは7回のリサイタルに出演し演奏した。この時はバッハ、ヘンデル、メンデルスゾーンの作品演奏のあと、ヘンデルのメサイアから《ハレルヤ》、シューベルト《セレナーデ》、《ラインの守り》による即興演奏をした。ロンドンの新聞は好意的な記事を掲載した。
ロンドンでは特別仕立てのバスに乗り、興味のあったロンドン塔見物に出かけた。
さらにクリスタル・パレスで19日から7日間演奏に出演した。このときはウェーバー、アープト、マイヤベーア、ヘンデル、シュパイアー、モーツァルト、シューベルトの作品を演奏した。
英国で大成功を収め、ブリュッセル経由で聖フローリアンとリンツに滞在後、気分よくウイーンに戻った。
10月、聖アンナ通りの帝室王立教員養成所のブルックナーの授業で、教員志望の女子学生に「かわい子ちゃん(lieber Schatz)」などと親しげに話しかけたと、隣に座っていた生徒が学校当局に訴えた。調査が始まり、リンツやシュタイアの新聞に解雇と書かれるなどあったが、咎められることなしとされ、ブルックナーの希望で女子部を外され、男子部で教えることになった。
10月11日《交響曲第2番》ハ短調の作曲に着手。

1872年48才
6月16日ウィーン、アウグスティーナ教会で自作《ミサ曲ヘ短調第3番》を宮廷歌劇場オーケストラを指揮して初演。会場にはフランツ・リスト、文科教育庁長官のカール・フォン・シュトレーマイヤーの姿があった。
ハンスリックは6月29日のノイエ・フライエ・ブレッセの記事を載せ、ブルックナーは高い評価を得た。
7月8日《交響曲第2番》ハ短調、第一楽章を書き上げた。7月8日《交響曲第2番》ハ短調第三楽章に入り、7月18日終了。7月18日《交響曲第2番》ハ短調第二楽章に入り、7月25日終了。7月28日《交響曲第2番》ハ短調第四楽章に入り、9月11日第一稿完成。この交響曲は、指揮者オットー・デッソフが初演を試みたがウイーン・フィルとのリハーサルで演奏不可能という楽員が出て初演を見送られた。
ブルックナーは、この交響曲をウイーン・フィルに献呈しようとしたが冷遇され撤回してしまう。
その後1884年フランツ・リストに献呈しようとしたが、リストがブタペストに旅行したときこの総譜を置き忘れるという失態を演じ、ブルックナーはリストへの献呈をやめる。
秋ころから《交響曲第3番》ニ短調、作曲に着手。
この年ウィーン楽友協会大ホールと附属音楽院でオルガン献納式があり《ミサ曲第3番》ヘ短調 WAB28とハイドン《皇帝讃歌》を演奏し、即興演奏も披露した。ブラームスはじめウィーンの著名な音楽家たちも聴きに来ていた。

1873年49才
2月23日《交響曲第3番》ニ短調第一楽章スケッチ終了。5月24日《交響曲第3番》ニ短調第二楽章完成。7月27日《交響曲第3番》ニ短調第三楽章完成。
8月保養に来ていたカールスバートからマリエンバート近郊のバイロイトに行き、ワグナーを訪問したブルックナーは、《交響曲第2番》ハ短調と作曲中の《交響曲第3番》ニ短調の総譜をワグナーに見せた。
ワーグナーは祝祭劇場の建設にあたりながら《ニーベルングの指環》の完成を急いでいて多忙だったが、ブルックナーの二曲の楽譜を子細に検討した。まだ第四楽章がスケッチのままの《交響曲第3番》ニ短調の草稿に興味を示した。ブルックナーのこの曲の献呈をワーグナーは受諾する。
バイロイト祝祭劇場の建設に関与していた画家エルンスト・キーツによれば、ワグナーは《交響曲第3番》ニ短調の総譜を読むのを楽しみにしていたという。
10月26日ブルックナーの《交響曲第2番》ハ短調は、友人ヘルベックの尽力でウィーン万博の行事の中で楽友協会大ホールにおいてブルックナー指揮、ウィーン・フィルで初演された。
12月末ころ《交響曲第3番》ニ短調完成(ブルックナーはワグナー交響曲と呼んだが、ワグナー家ではブルックナーを「トランペットのブルックナー」というあだ名をつけたといわれている)。
ワーグナー協会に入会。
カールスバートの教会とマリーエンバートのオルガン演奏に訪れている。

1874年50才
1月2日《交響曲第4番》変ホ長調「ロマンティック(完成後にブルックナーがつけたという表題)」第一楽章のスケッチ開始、1月24日に《交響曲第4番》変ホ長調スケッチ終了。2月21までにオーケストレーションを済ませ、3月26日には細かい手直しを加えている。
4月文科教育庁にウィーン大学に音楽理論講座を開設し専任ポストの要請の手紙を発送した。文化教育庁はウィーン大学に諮問し、学部長エードゥアルト・ジュースから見解を聞かれたハンスリックに、理由をつけられ「ブルックナー氏の請願の却下を提議する」と反対される。
5月10日にウィーン大学に再度請願書を送ったが、ハンスリックに反対された。7月15日哲学部長に手紙を送り請願したが、10月31日教授会で反対多数により否決されてしまった。
6月7日までに《交響曲第4番》変ホ長調第二楽章のスケッチと作曲を終了。7月25日までに《交響曲第4番》変ホ長調第三楽章スケッチと作曲を終了。8月12日には《交響曲第4番》変ホ長調第四楽章のスケッチを終了。9月1日から《交響曲第4番》変ホ長調全曲のオーケストレーションをと《交響曲第4番》変ホ長調第一楽章の見直しをはじめている。
《交響曲第3番》ニ短調筆写譜をワグナーに贈る。
11月22日《交響曲第4番》変ホ長調第4楽章を総譜に仕上げ完成。《交響曲第4番》変ホ長調第一稿である。(全曲の初演は死後、1901年3月14日シュトゥットガルトでヴィルヘルム・ポーリヒ指揮による宮廷管弦楽団が演奏した)。
秋ごろ聖アンナ教員養成所の職を失う。
下の動画
《交響曲第4番》/ スタニスワフ・スクロヴァツェフスキ 指揮
ガリシア交響楽団
2014年3月21日にスペイン ア・コルーニャのオペラ ハウス
《Sinfonía nº 4》 en mi bemol mayor, “Romántica”
Orquesta Sinfónica de Galicia
Stanislaw Skrowaczewski, director
Grabación realizada el 21 de marzo de 2014 en el Palacio de la Ópera de A Coruña.

1875年51才
1月12日付けのモーリツ・マイフェルト宛ての手紙に自分がウィーンに出て来るべきではなかったと後悔し「私の人生は一切の喜びと楽しみを失いました」と書いている。
2月13日付けのマイフェルト宛ての手紙には昨秋、聖アンナ教員養成所の職を失い年額1000グルデンの収入が減ったこと、文科教育庁作曲奨励金を得られないこと、「《交響曲第4番》変ホ長調を写譜してもらうお金もない」ことを嘆いている。
2月14日からブルックナーは《交響曲第5番》変ロ長調の作曲は、第二楽章アダージョから書きはじめた。3月3日に《交響曲第5番》変ロ長調第一楽章が書きはじめられた。
4月17日にスケルツォ主部が終了。6月22日トリオが終了。翌23日からフィナーレを開始、1876年5月16日第一稿を書き上げた。
5月31日ヘルベックが、ウィーン宮廷楽団第二文書係と宮廷楽団少年聖歌隊代理歌唱教師に相応しい人物としてブルックナーを推薦し、6月10日宮廷長官からその承認を受けた。年俸300グルデンを受けることになった。
7月12日文化教育庁に対して、ウィーン大学における音楽教育の必要性を強調し、作曲理論の専任ポストを新設して自分を任命するよう四度目となる請願をした。このころになると教授会のメンバーにもブルックナーを支持する者も出てきていた。国会議員アウグスト・ゲレリヒの力添えもあり、文化教育庁長官を動かしウィーン大学哲学部に働きかけられた。
8月《交響曲第3番》ニ短調の初演をヘルベックの働きかけでウイーン・フィル演奏で決まったが、リハーサル段階で楽員たちから演奏不可能と決めつけられて流れてしまった。秋ごろから《交響曲第3番》ニ短調の改訂に入る。
全体的に、ブルックナーはウィーンでは不評であった。
ウィーンは音楽的に評論家のエドゥアルド・ハンスリックによって支配されていた。 当時、ワーグナーとブラームスの音楽の擁護者の間には確執があった。 ワグナーに同調することにより、ブルックナーはハンスリックから意図せぬ敵を作ってしまった。 しかし、彼には支持者がいた。 ドイツのツァイトゥングの音楽評論家テオドール・ヘルム(Theodor Otto Helm)と、ニキッシュ(Arthur Nikisch )やフランツ・シャルクなどの有名な指揮者は、常に彼の音楽を一般に公開しようとした。それはあくまでも聴衆に受け入れやすくするための提案であったが。 ブルックナーはこれらの提案を受け入れたが、後のことになるが彼の意志で、ウィーンのオーストリア国立図書館に自分の死後オリジナルのスコアを遺贈するように書き記し、それらの音楽的妥当性をブルックナーは確信していたと推察できる。
10月3日付けでウイーン・フィルから『 帝室王室宮廷歌劇場の団員、フィルハーモニカーは、貴殿の優れた作曲の才能に特別の敬意を抱いており、貴殿より当団に献呈された《交響曲第2番》ハ短調をお受けする 』という内容のハンス・リヒター署名の手紙が届いた。
10月29日ウィーン大学教授会で出席者全員賛成でブルックナーの講師採用が決議され、ブルックナーはウィーン大学の和声学・対位法の無給講師として採用されることになった。
11月8日付けでウィーン大学の和声学、対位法の講師採用が公示された。
12月ブルックナーはウィーン大学の最初の講義を行った。
ザンクト・フローリアン修道院でマトイス・マウラッヒャー一世の再現したオルガン開きに出演してした。
参考・引用要約:作曲家◎人と作品シリーズ「ブルックナー」、根岸明美著、音楽之友社、2006年発行、P74~75

1876年52才
2月20日ヘルベックの計らいで、ウィーン・ムジークフェライン大ホールの楽友協会演奏会で《交響曲第2番》の改訂版をブルックナーは指揮した。『この交響曲は各楽章が終わるたびに拍手があり全曲の終わったあとには大きな拍手が起こった』とヘルベックの息子、ルートヴィヒ・ヘルベックは伝えている。
4月24日ウィーン大学から講師就任講演の機会を与えられた。
5月16日《交響曲第5番》変ロ長調第四楽章終了。
ワーグナーが建設を進めていたバイロイト祝祭劇場開場式が5月22日に終えてから、リハーサルが行われていた。ブルックナーは8月13日からのバイロイトで初の四部作《ニーベルングの指環》連続上演を聴きに出かけた
祭典にはサン=サーンスやチャイコフスキー、グリーグも招かれていた。
秋ごろから《交響曲第3番》ニ短調の改訂をはじめた。
10月ウィーン、 オーパンリンク1-5 Wien Opernring1-5に引越した (ウィーン国立歌劇場の前)。
ミサ曲、《交響曲第3番》ニ短調、《交響曲第5番》変ロ長調の補筆

1877年53才
《交響曲第5番》変ロ長調『1876年5月16日完了。・・以下略~こうしてこの曲の原稿が一通り出来上がったのであるが・・以下略~。1877年4月20日に、ウィーンでヨーゼフ・シャルク編曲のによる2台のピアノのための形態による、シャルクとフランツ・ツォットマンのピアノで演奏された』(注1)。
4月28日、1875年秋ごろから取り組んでいた《交響曲第3番》ニ短調第二稿の改訂作業を中断。
5月16日から《交響曲第5番》変ロ長調の改訂作業を始める。『フィナーレ、第一楽章、アダージョの順に見直して、1878年1月4日にこれらの仕事を完了した。・・以下略~このように、途中に一度大きな空白の期間を含んでいるが、この作品は「稿」としては単一のものである』(注2)。
ブルックナーは《交響曲第3番》ニ短調をパート譜に写し、ウィーンフィルに演奏を要請したが拒否される
ウィーン・フィルの指揮者ヨハン・ヘルベックがオーケストラの代表者を集めて特別会議を開き、この作品を1877年12月16日に演奏することの同意を取り付けることに成功した。ところが10月28日にヘルベックが急死し、ブルックナーは自身で演奏することを求められた。
1877年12月16日、ついに彼がこの作品を指揮したときには、同時代の批評家達は何を表現しているか理解できなかった。
エドゥアルト・ハンスリックはこう書いている。「ブルックナー氏の巨人の様な大交響曲(《交響曲第3番》ニ短調)を理解できないことを謹んで告白しなければなりません。詩的な意図がよく分かりませんし――おそらくベートーヴェンの第九を意識し、ワーグナーの「ワルキューレ」と肩を並べようとしたのでしょうが、ワルキューレの乗る馬の群の蹄で踏みにじられて台無しにされていますね――純音楽的な構造も明瞭ではありません」。人々もまたこの作品を十分受け入れなかった。楽章が終わるごとに聴衆が席を立ち、終演後まで残っていたのは少しの人だけだったと報じられた。
17才のグスタフ・マーラーも最後に残ったなかの一人であった。初演は大失敗に終わった。
ブルックナーは大いに落胆し理解や支持を示す友人や弟子の慰めの言葉も失意のブルックナーにはなんの役にも立たなかった。
フェルディナント・レーヴェ、シャルク兄弟等のウイーンでの「ブルックナー・グループ」にフーゴ・ヴォルフが加わる。
ブルックナーはマーラーと親しくなる。
11月ウィーン、ヘスガッセ七番五階の住居に引越す Wien Heßgasse7(現在のホテルドフランス ウィーン)。
(出典要約引用(注1、注2):根岸一美/音楽之友社発行/作曲家別/名曲解説/ライブラリー「ブルックナー」<交響曲第5番変ロ長調>P.74より)

1878年54才
1月4日《交響曲第5番》変ロ長調新たにバス・テューバを加え、全曲の見直し作業完了。
1月18日から《交響曲第4番》変ホ長調の改訂作業に着手。
1月24日帝室王室宮廷楽団の正会員の空席によりオルガニストに採用され正式メンバーとなった。ブルックナーは亡くなったヘルベックの後継の宮廷楽長の地位を志願していたが叶わなかった。宮廷楽団正会員の年俸600グルデンと200グルデンの宿舎手当を支給されるようになる。それまでの第二文書係及び少年聖歌隊歌唱教師代理の職と年俸は無くなった。音楽院の年俸1200グルデンはそのまま支給された。
6月25日までに《交響曲第4番》変ホ長調第一楽章を改訂終了。7月31日までに《交響曲第4番》変ホ長調第二楽章を改訂終了。9月30日《交響曲第4番》変ホ長調第四楽章の大幅な改定終了。
11月《交響曲第4番》変ホ長調第三楽章の改訂に着手し新しい《交響曲第4番》変ホ長調スケルツォ楽章が作曲され終了「1878年稿」した。
12月《弦楽五重奏曲》の作曲に着手。

1879年55才
7月12日ヨーゼフ・ヘルメスベルガー(父)の依頼を受けていた《弦楽五重奏曲》ヘ長調WAB112完成。《交響曲第6番》イ長調第一楽章の作曲に着手している。
11月《交響曲第4番》変ホ長調第四楽章の大幅な手を入れはじめた。
12月21日弦楽四重奏にヴィオラを加えた《弦楽五重奏曲》へ長調WAB112完成。

1880年56才
8月13日休暇をとりウイーンを出発。ザンクト・フローリアンに着き、1週間逗留した。
8月20日バイエルンのオーバーアマガウに行き、22日、23日名物の受難劇を見た。ミュンヘンに戻り、リンダウで乗船しボーデン湖を渡り、ロマンスホルンから鉄道でヴィンタートゥールを経てシャッフハウゼンに着いた。
8~9月にかけチューリヒの大修道院大聖堂(フリートリヒ・ハースが設置したもの)、ジュネーブの教会(フランス製)、ローザンヌ(1773年製のスイス北部のユヒトラントのフライブルク聖堂のもの)、これらのオルガンを演奏している。ジュネーヴ、シャモニーに行き、モンブランの麓で山々の景観を楽しんだ。
ジュネーヴに戻り、9月5日サン・ピエール教会でオルガン演奏会に出てオルガンを弾いた。
ローザンヌ、ベルン、ルツェルンを廻り各地で多くのオルガニストに接した。ザンクト・フローリアン、リンツを経てウィーンに戻った。
9月27日《交響曲第6番》イ長調第一楽章完成。11月22日《交響曲第6番》イ長調第二楽章完成。12月17日《交響曲第6番》イ長調スケルツォのスケッチ書きはじめた。
無給だったウィーン大学講師職に300グルデンの年俸がついた。(オーストリアの1800年代頃の1グルデンは現在の日本円で約4000円くらいといわれているから300グルデンは年約120万円、月に直すと約10万円。因みに家具付き下宿は月10グルデンくらいだった、日本円で約4万円だから最低の生活費となる)。
この年までに《交響曲第4番》変ホ長調の改作(1878/80年稿)が行われ、《交響曲第6番》イ長調に取り組む。

1881年57才
1月17日《交響曲第6番》イ長調総譜が書きあがった。
2月20日《交響曲第4番》変ホ長調がハンス・リヒターの指揮で初演され成功を収めた。
《交響曲第4番》のリハーサルの終わったときの話が伝えられている。善意のブルックナーは指揮者ハンス・リヒターの手に硬貨を押し込め ”これを受け取ってください” といったという。そして ”私の健康のためにビールを一杯飲んでください ”。リヒターはこのマリア・テレジア銀貨を受け入れ、自分の時計の鎖に付け、その後ずっと身に付けていたといわれている。
5月3日《テ・デウム》のスケッチをはじめたが17日に歌と記入し作曲を中断。
6月28日《交響曲第6番》イ長調の終楽章のスケッチ完了。夏季休暇中の聖フローリアンで作曲し9月3日《交響曲第6番》イ長調完成させた。
この《交響曲第6番》イ長調を、ブルックナーにタダ同然で貸してくれた「親切な家主」エルツェルト=ネーヴィン夫妻に献呈した。
9月23日《交響曲第7番》ホ長調第一楽章の作曲に着手した。この《交響曲第7番》ホ長調第一楽章の第一主題のチェロ主体の楽想を、ハンス・リヒターはブルックナーに聞いたところ「夢の中にイグナーツ・ドルンが口笛を吹いて”ブルックナーさんこのテーマで幸せをつかんでください”と言ったんです。そこで起きて書き記した」と答えたといわれている。
11月17日《弦楽五重奏曲》ヘ長調が、フランツ・シャルクの兄ヨーゼフ・シャルクの尽力で、ユリウス・ヴィングラーのヴィングラー四重奏団を中心とする人により初演されたが、第四楽章は演奏できなかった。理由は、ハンス・リヒターがロンドンで出版しようと楽譜を持って行ったが、旅先に忘れてしまったからである。楽譜はほどなく回収されのちにオーストリア国立図書館に保管された。
12月7日ウィーンで初めて独唱と男声合唱曲《真夜中に》WAB80がウィーンで演奏され好評を博した。この曲は、ブルックナーの死後の1903年にウィーンのドブリンガー社から出版され、以来ブルックナー合唱曲の中で、広く歌われるひとつになった。
12月10日にカールスルーエでフェリックス・モットル指揮で《交響曲第4番》変ホ長調が上演された。

1882年58才
7~8月バイロイトでの《パルジファル》初演を聴く。ワーグナーに会ったときにワーグナーは「ベートーヴェンという山に登って到着できるただひとりの人を知っている。それはブルックナーだ」と語ったという。バイロイトでは、福音教会とかってのシトー教徒の修道院でオルガンを演奏した。
ウィーンの帰途ザンクト・フローリアンに寄り、ここで《交響曲第7番》ホ長調第三楽章を書き始め10月16日終えた。12月29日《交響曲第7番》ホ長調第一楽章終了。

1883年59才
1月22日《交響曲第7番》ホ長調第二楽章アダージョのスケッチが完成。
『「ある日、家にもどる途中、大変悲しい気持ちに襲われた。ワーグナーはもう長く生きていられないのではないか、と私は考えていた。そのとき、嬰ハ短調のアダージョ(第7番第二楽章)の楽想が浮かんできたのだ』(注1.)とフェリックス・モットルFelix Josef von Mottlに手紙を書いている。
《交響曲第7番》ホ長調第二楽章にはワーグナー・チューバ、テノールとバスが二本ずつ四本加えられている。練習記号Wのクライマックスは助言により、シンバル、トライアングル、ティンパニーで強調するよう、自筆譜にそれらの楽器のためのパート譜が挟まれた。ブルックナーはこれらの打楽器を使用しないように指示したとの説がある。ずっと後の国際ブルックナー協会の作業でブルックナー音楽のエディションを出版の際にハースはこれらを使わなかったが、ノヴァークは使用している。
2月11日ワーグナーが死去したこの日、ウイーンのフィルハーモニー・コンサートでヴィルヘルム・ヤーンWilhelm Jahn,指揮で《交響曲第6番》イ長調が演奏された。長大なため身勝手な配慮で中間の第二楽章と第三楽章だけが演奏された。(全曲は1899年2月26日39才のグスタフ・マーラー指揮で、同じフィルハーモニー・コンサートで演奏された。かなりカットして短縮し、楽器用法も変更して演奏した。完全な形での全曲初演は、1901年3月14日カール・ポーリヒKarl Pohlig指揮のシュトゥットガルト宮廷劇場でシュトゥットガルト宮廷楽団により演奏された。ブルックナーが他界後、5年が過ぎていた)。
2月22日ルドルフ・ワインヴルムRudolf Weinwurm指揮で歌われた《真夜中に》第二稿WAB.80 男声4部合唱に、作曲者ブルックナーは盛大な祝福を受けた。この曲はブルックナーの合唱曲の中で、広く歌われているひとつになっている。
4月21日《交響曲第7番》ホ長調第二楽書き上げる。
7月バイロイトでの《パルジファル》公演を聴きに行く。
8月亡くなったワーグナーの墓参りをした。帰途、シュタイヤー、ザンクト・フローリアンに滞在し、クレムスミュンスターを訪れたりした。
8月17日《交響曲第7番》ホ長調第四楽章完成。9月5日《交響曲第7番》ホ長調を完成させた。ブルックナーは、のちにバイエルン国王ルートヴィヒ二世に捧げた。
9月28日《テ・デウム》第二稿の総譜を書き上げた暮れころ、シャルクはライプツィヒにアルトゥール・ニキシュを訪ね《交響曲第7番》ホ長調を紹介し、ニキシュと連弾した。このことがきっかけとなりブルックナーとニキシュの間で何回かの手紙のやり取りがあった。
ウィーンの奉献教会で演奏会を開いた。
クリスマスはザンクト・フローリアンで祝った。
参考要約(注1.):門間直美著、「ブルックナー」、春秋社、1999年発行、156~157P

1884年60才
1月22日ワーグナー協会の名誉会員に推挙された。
1月29日ベーゼンドルファーザールのワーグナー協会演奏会で、《交響曲第4番第一楽章、第二楽章》をフランツ・ヨーゼフのシャルク兄弟のピアノで演奏された。
2月27日ベーゼンドルファーザールのワーグナー協会演奏会においてヨーゼフ・シャルクとフェルディナント・レーヴェによる《交響曲第7番》ホ長調がピアノ二重奏で演奏された。
3月16日《テ・デウム》第二稿のオルガンのパート譜が完成した。
下、《テデウム》WAB16
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 / ウィーン・フィル
Anna Tomowa-Sintow; soprano. / Agnes Baltsa; mezzo-soprano. / David Rendall; tenor. / José Van Dam; bass-baritone.
Wiener Singverein — chorus master: Helmuth Froschauer. / Der Großer Saal des Wiener Musikvereins.

プラハの復活祭でオルガン演奏をした。
4月5日《弦楽五重奏曲》がベーゼンドルファーでアカデミー合唱協会の演奏会で全曲初演された。
7月ころウィーン大学とウィーン音楽院の仕事が夏休みになりその期間を中心に《交響曲第8番》ハ短調の作曲に着手。
7~8月バイロイトでの《パルジファル》公演に出かけた。
8月21日ハーモニウムのための《プレリュード》ハ長調WAB129がクレムスミュンスター修道院でブルックナー自身により初演された(この時はハーモニウムでなく大オルガンを演奏した)。ミュンヘンを経てザンクト・フローリアンに寄り、フェツクラブルックに妹のロザーリエを訪ねて、9月4日自分の60才の誕生日を妹と祝った。
10月1日《交響曲第8番》ハ短調第一楽章のスケッチが完了し、《交響曲第8番》ハ短調第三楽章アダージョに着手。
11月9日宮廷礼拝堂ミサで《キリストは従順であられた》が初演された。
12月30日《交響曲第7番》ホ長調がライプツィヒでアルトゥール・ニキシュ指揮、ゲヴァントハウス管弦楽団により初演され大成功を収めた(この日を「ブルックナーの世界的名声の誕生の日(アウアー)」となった)。
ブルックナーはハンブルクの知人に宛てた手紙で「終了後15分間拍手が続きました」と書いている。ブルックナーの名声が上がりはじめた。ブルックナーの交響曲が各地で演奏されるようになる。
プラハのコンサートホール「ルドルフィヌムス」に設置されたオルガンを試奏し、シュトラホフのプレモンストラーテン修道院とヴァイツドムでオルガンを演奏している。
作品:《弦楽五重奏曲》ヘ長調WAB112の楽譜をアルベルト・グートマン出版社から出版された。

1885年61才
1月8日《弦楽五重奏曲》ヘ長調の全曲初演は、ウィーン楽友協会ホールで作曲依頼者のヘルメスベルガーらのヘルメスベルガー四重奏団によって演奏された。各楽章ごとに拍手がブルックナーに向けられた。初演は大成功を収めた。
1月27日ライプツィヒでザクセン王夫妻臨席の祝祭演奏会で《交響曲第7番》ホ長調第二、第三楽章が演奏された。
2月4日ブルックナー《交響曲第3番》ニ短調は、オランダのハーグでヨハン・フェアフルスト指揮で演奏された。
その他ブルックナーの交響曲に関心をみせる指揮者によってドレスデン、フランクフルト・アム・マイン、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場などで演奏された。
2月16日《交響曲第8番》ハ短調第三楽章アダージョのスケッチ終了。
3月10日ミュンヘンへ行き、オデオンザールで開催された王立宮廷楽団演奏会でヘルマン・レーヴィ指揮で《交響曲第7番》ホ長調が全曲演奏され大成功を収めた。
この《交響曲第7番》ホ長調はバイエルン国王ルートヴィヒ二世に献呈され、レーヴィがひと役買った。
3月11日ドイツの画家ヘルマン・フォン・カウルバッハのアトリエで肖像画を描かれた。
3月31日ミュンヘンで《弦楽五重奏曲》をワルター弦楽四重奏楽団等によって演奏された。
5月2日《テ・デウム》第二稿がブルックナーの指揮でウィーン・アカデミー・ワーグナー合唱団と2台のピアノ(シャルク編曲でシャルクとエルバン演奏)によりウィーンで初演された。《テ・デウム》の楽譜を出版。
5月30日《交響曲第7番》ホ長調第二楽章のみをカールスルーエで弟子であったフェリックス・モットル指揮により演奏された。
7月26日ウィーン大学とウィーン音楽院の仕事が夏休みになり、《交響曲第8番》ハ短調スケルツォのスケッチ終了し、フィナーレのスケッチは7月27日からかかり8月16日に終わり、四つの楽章の全ての草稿を完成させた。10月19日仕上げに入った。
8月28日ウィーンのザンクト・アウグスティン教会で、ザンクト・フローリアンからの支援を受けオルガン即興演奏会を開催した。主題はワーグナーの《神々の黄昏》からのものと、《交響曲第8番》ハ短調のスケッチからのものであった。
9月3日無伴奏4部合唱曲昇階唱《エサイの枝は芽を出し》WAB52が完成した。
10月13日のブルックナーが書いたウイーン・フィルへの手紙で《交響曲第7番》ホ長調のウィーンでの演奏の申し出を断っている。ハンスリックとその一派を恐れ自分が破滅されることができる人ゆえに戦いたくないというのが理由らしい「ウイーンではハンスリックと一派がいるので・・」と結んでいる。
10月19日~24日ころ《交響曲第8番》ハ短調スケルツォが仕上がった。同年12月8日ウイーンの宮廷礼拝堂でブルックナーの指揮により初演された。
12月5日アメリカ、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でウォルター・ダムロッシュ指揮によりブルックナーの《交響曲第3番》ニ短調が演奏されたアメリカ初演であった。
皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の臨席でウィーン、クロスターノイブルク修道院のオルガン、聖シュテファン教会の大オルガンを演奏している。
この頃から、ブルックナーは病気が出はじめ、水腫に侵され心臓の働きも弱くなってきた。歩行やオルガン演奏に障害が出はじめるようになる。
作品:《交響曲第7番》ホ長調楽譜をウイーンのアルベルト・グートマン社から自筆譜を印刷原稿として用い初出版された。

1886年62才
1月10日ウィーンのムジークフェラインで《テ・デウム》を、ハンス・リヒター指揮のオーケストラで初演された。
2月7日《交響曲第8番》第一楽章完了。《真夜中に》WAB52第二稿が完成。
3月21日《交響曲第7番》がハンス・リヒター指揮で初めてウィーンで演奏された。第一楽章のあと聴衆は、ブルックナーに盛大な拍手をおくったが、ハンスリックは「不自然で大げさで病的であり退廃的」だと評した。
4月にヘルマン・レーヴィがミュンヘンで《テ・デウム》を指揮することになり、ブルックナーはミュンヘンに向かった。
7月8日ブルックナーの「芸術と科学のための際立った業績」にフランツ・ヨーゼフ勲章の騎士十字章を授けられ、300グルデンの年金を受けられるようになった。ブルックナーはのちにこの皇帝に《交響曲第8番》を献呈した
ブルックナーは新しいオルガン演奏にプラハに出かけ、7~8月はバイロイトでの《トリスタンとイゾルデ》公演を聴きに行く。
バイロイトの城内の教会で死去したリストのためのレクイエムを演奏した。
指揮者レーヴィがバイエルンの貴族たちにブルックナーを紹介した中で、アメーリエ・マリーアという公爵夫人がいた。ブルックナーはアメーリエと知り合い、彼女の助力でウィーン皇帝フランツ・ヨーゼフ一世と親しくなった。
7月31日リストが他界した。リストの娘コジマ・ワーグナーはブルックナ-を父リストの葬儀に招き、ブルックナーは式に参列してオルガンの即興演奏をした。葬儀のあとバイロイト祝祭劇場で《パルジファル》の上演に出向いた
作曲家フーゴ・ヴォルフと親しくなる。
夏、アメリカに滞在しているアントン・ザイドルからの要請により《交響曲第4番》を小改訂して急送した。
8月26日または9月4日《交響曲第8番》アダージョ完了。
9月にミュンヘンにいるヘルマン・レヴィに宛てた手紙でブルックナーは「ザイドルがアメリカで出版社を探してくれると言っている」と書いている。(1940年代にニューヨークのコロムビア大学図書館から《交響曲第4番》楽譜資料を発見された)。

1887年63才
4月22日《交響曲第8番》フィナーレ完了。8月10日シュタイヤーで《交響曲第8番》第一稿が完成した。
8月12日《交響曲第9番》第一楽章のスケッチに着手した。
9月19日《交響曲第8番》第一稿写譜に「気に入って欲しい」と添え書きして、をヘルマン・レーヴィに送った。レーヴィからなかなか返事が来なかった。
リンツの新大聖堂でオルガンの奉納式があり向かった。
10月に入りブルックナーにレーヴィから「この曲について途方に暮れ、現在の形で第8を演奏することは不可能だと思います」と伝えるメッセージを、ヨーゼフ・シャルクを通して、変更を求める内容の手紙が来た。さらにシャルクをはじめブルックナーに親しい友人たちからも改作を要求された。シャルクはブルックナーの強力な支持者で、演奏会のプログラムにブルックナーの芸術を紹介したりして、ブルックナーの音楽の普及に努めており、ブルックナーはシャルクの活動をよく知っていただけに、信頼していたピアニストのシャルクからきつい苦言を言われたことは大きなショックであった。
10月7日ヘルマン・レーヴィはブルックナーに手紙を書き「演奏困難である」と伝えた。
10月20日になりブルックナーはレーヴィにスコアの見直しを確約する手紙を送った。こんなことからブルックナーは創作に対し、自己批判的になっていった。こうしたことが重なり、神経衰弱気味になる。この頃のブルックナーは、ウィーンでまだ注目されるところまではいってなかった。
ヘルマン・レーヴィから《交響曲第8番》を拒絶されたブルックナーは、《交響曲第9番》の作業を中断し、《交響曲第8番》第二稿にとりかかった。

1888年64才
1月22日ブルックナーだけの作品演奏会が開催され、《交響曲第4番》と《テ・デウム》をハンス・リヒター指揮、ウィーン・フィルによる演奏が大成功を収めた。
4月4日米国ニューヨークでアントン・ザイドル(Anton Seidl)指揮による《交響曲第4番》が演奏された。
4月13日キッツラーはブルックナーの《テ・デウム》をブルノで指揮することになり招待した。
7月下旬バイロイトでの《ニュルンベルグのマイスタージンガー》公演を聴きに出かけ、ワーグナーの墓参りを済ませた。
夏から翌年にかけて《交響曲第3番》第三稿といわれる改訂をはじめた。《交響曲第1番》の改訂、《交響曲第8番》の補筆も行われ完成した。

1889年65才
1月4日《交響曲第9番》第二楽章スケルツォのスケッチに着手。
2月24日ウィーン楽友協会ホールで《交響曲第7番》演奏された。
3月4日《交響曲第3番》第三稿の改訂が終わり、《交響曲第8番》の改作作業に専念することにした。《交響曲第8番》第三楽章アダージョが3月4日から5月8日までの間に手直しされた。
4月4日《交響曲第9番》スケルツォのスケッチを完了。これと並行して《交響曲第1番》、《交響曲第3番》、《交響曲第8番》の改作に取り組んでいたが、《交響曲第9番》の作曲を中断して、《交響曲第8番》の改訂に専念することになった。
7月バイロイトでの《トリスタンとイゾルデ》、《ニュルンベルグのマイスタージンガー》公演を聴きに出かけた。
7月31日《交響曲第8番》の終楽章の改訂が終了した。9月25日《交響曲第8番》第二楽章スケルツォは完了した(全体の改作は翌年1月29日に終わるが、また手を加え2月10日に終わったが、2月29日に加筆し3月10日に完了した)。
9月《交響曲第4番》第3稿がウィーンのアルベルト・グートマン社から出版された。その総譜の初版楽譜のタイトルページには【 アントン・ブルックナーの大オーケストラのための、《交響曲第4番》「ロマン的」変ホ長調 】だった。
10月25日ブラームスとブルックナー双方の友人らの計らいで、ブルックナーはブラームスと料理店「イゲル(赤い針鼠)」で初めて会食した。二人とも「団子(Knōdel)と野菜添え(Kraut)の燻製(Ge’rāucher·ts)」の料理が好物だったので話がはずんだ。ブラームスはブルックナーのブラームスに対するかっての不平の心情が振舞いにあらわれても、何事もないように、無礼ではなく終始丁重に対応していたといわれている。ただし、プライベート的にはブルックナーの交響曲を『交響的うわばみ』とか『にせものはすぐに忘れられてしまうだろう』と感想を口にしていたという。ブルックナーは”ブラームスの交響曲よりヨハン・シュトラウスの方がずっといい”と語っていたといわれている。
ヨハン・シュトラウスはブルックナーの《交響曲第7番》初演を聴いて”大変感動した。わが生涯で最も強い印象を受けたひとつだ”という電報をブルックナーに打っている、その後も同じ店で幾度か顔を合わせては、挨拶を交わすようになったと語られている。
ワーグナー協会の名誉会員となる。
オーストリアの実業家グループからの助成金を受けた。

1890年66才
1月29日《交響曲第8番》第二稿の改作が終わるが2月10日終了、さらに手を加え2月28日に終了。更に手を加え完全なものにして3月10日に第二稿改訂完了した。この《交響曲第8番》第二稿の献呈をオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世に申し入れした。
ブルックナーは医師のオトカル・キアーリとグスタフ・リールから「慢性咽喉咽頭カタル」「重度神経症」と診断される。
4月16日願い通り《交響曲第8番》第二稿は皇帝フランツ・ヨーゼフ一世に「深甚の敬意をもって」献呈された。
《交響曲第1番》の改訂に着手
4月プレスブルクでの《交響曲第7番》演奏に出かけた。
4月28日ブルックナーはヘルマン・レーヴィに手紙を送り第8番のために外国の出版社を探してくれるように頼み、レーヴィは出版社と指揮者を探すことに尽力した。
7月8日ウイーン音楽院に1年間の休職を申請する。この休職により収入が途切れ、マックス・オーバーライトナー等の働きかけで1000グルデンの支援基金が寄せられた。
7月31日ウィーン郊外のバート・イシュルで、オーストリア皇帝フランツ・サルヴァトールとマリー・ヴァレリーとの結婚式でオルガンを演奏した。
9月20日レーヴィはブルックナー宛に手紙を書き、マンハイムの宮廷楽長で27才になるワインガルトナーが11月か12月のころに演奏したいと伝えてきた。
10月30日オーバーエスターライヒ議会ではブルックナーに終身名誉給金として、11月1日から年間400グルデンを支給することを決めた。
12月10日《交響曲第4番》がミュンヘンにおいてフランツ・フィッシャーの指揮によってはじめて紹介された。
12月21日《交響曲第3番》第三稿、ハンス・リヒター指揮、ウィーン・フィル演奏によりムジークフェラインで初演され大喝采を受けた。
《交響曲第8番》第二稿完成。
ブルックナーは慢性の喉頭カタルで体調を崩し、神経系統の方も悪くなり、秋にはウィーン音楽院の教授を辞職した。
《交響曲第3番》第三稿の楽譜は、ブルックナーの弟子であった指揮者フランツ・シャルクの校閲により、オーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフ一世が印刷費を負担してレッティヒから出版された(ノヴァークはこの第三稿を根拠として1959年ノヴァーク第三版(N3)を刊行した)。
合唱団体のウィーン・アカデミー・ワーグナー連盟の名誉会員に選ばれる。

1891年67才
1月15日ウィーン音楽院を辞任した。ウィーン楽友協会名誉会員として年440グルデンの年金が支給されることになった。
1月25日ワーグナー協会演奏会でハンス・リヒター指揮で《交響曲第3番》が演奏された。
2月1日グラーツでヨーゼフ・シャルク指揮で《交響曲第4番》が演奏された。
2月14日プラハでカール・ムック指揮で《交響曲第3番》が演奏された。
4月18日《交響曲第1番》の改訂版(ウィーン稿)が完成し、ウィーン大学からの名誉哲学博士の称号を贈られることへの感謝の意味を込めてウィーン大学に献呈された。
5月31日ジークフリート・オックス指揮による《テ・デウム》演奏にベルリンへ出かけ、さらにドレスデンに行った。
5月のベルリン滞在中、カイザーホーフというホテルで部屋係のイーダ・ブーツと懇意になり、イーダもブルックナーと結婚してもいいと言い出した。彼女の両親にも会い、彼女と文通を重ねた。
友人で画家のヘルマン・フォン・カウルバッハがブルックナーの肖像画を描いた。
バイロイトでの《パルジファル》、《タンホイザー》公演に行く。
夏、ザンクト・フローリアン、シュタイヤー、リンツ、クレムスミュンスター、フェッツクラブルックに出かけた。
11月7日ウイーン大学総長アドルフ・エクスナー博士から音楽家として初めてブルックナーは、名誉哲学博士の称号を受けることになった。
11月14日ブルックナーの、博士号授与の答礼に《交響曲第1番》ウィーン版献呈の願いが受け入れられた。
12月11日ブルックナーに学位が授与されアカデミー歌唱協会は、学生主催の祝賀会をゾフィーエンザールで開催し、教授、芸術家、国会議員や報道関係者も集まった。
12月13日ウィーン大学に献呈した《交響曲第1番》(ウィーン版)はハンス・リヒター指揮のウイーン・フィル演奏によりムジークフェラインで初演された。
ウィーン楽友協会名誉会員に選出された。
ウィーン音楽院から年金が支給されはじめた。

1892年68才
4月15日《王の御旗は翻る》WAB51、聖フローリアンで初演された。同じ日マーラーが楽長を務めるハンブルクの市立劇場で《テ・デウム》を指揮して成功を収めた。
前年12月に委嘱を受けていた《詩篇150篇》作曲に取り掛かっていたが5月7日の「国際音楽演劇博覧会」開会式に間に合わなかった。
5月健康状態が悪化。浮腫で足が腫れれ、胸水が溜まったため呼吸困難がおこった。安静、食事及び飲料水の制限、強心剤の投与をして治療を続けられた。
6月5日ザルツブルクで開催されたドイツ・アカデミー合唱祭用の委嘱作《ドイツの歌》WAB63は、ザルツブルク大学講堂でウィーン・アカデミー歌唱協会により初演された。
6月15日「国際音楽演劇博覧会」でヨーゼフ・シャルク指揮/博覧会管弦楽団演奏で《交響曲第4番》が演奏され、7月9日にはフェルディナト・レーヴェ指揮で《交響曲第3番》が演奏されどちらも成功を収めた。
7月11日グイード・テレク、フリードリヒ・クラウス、オットー・カーラーの医師たちの診断書に、動脈硬化、心不全、下肢水腫、静脈瘤、肝硬変、真性糖尿病と診断された。
7月14日ヨーゼフ・エーベル社と交響曲第1番、第2番、第5番、第6番、ミサ曲第2番、ミサ曲第3番、詩篇150篇等の出版契約と今後作曲される全ての作品についても同社が出版権を有すると結んだ。
ワグナー協会専用列車でバイロイトに向かい《パルジファル》と《タンホイザー》を聴き、ワーグナーの墓参りをした。
10月5日オーバーエスターライヒでの休暇を過ごしウィーンに戻った。
10月9日「国際音楽演劇博覧会」の閉会式に《詩篇150篇》演奏初演予定だったが博覧会に多額の赤字が出たことから中止となったオーバーエスターライヒでの休暇を過ごしウィーンに戻った。
10月14日《交響曲第9番》第1楽章の完成。
10月28日ウイーン宮廷楽団の退職の願いが受理された。
11月13日第一回ウィーン楽友協会演奏会においてヴィルヘルム・ゲーリケ指揮で《詩篇150篇》初演された。
11月22日ヨーゼフ・シャルクがピアノ独奏用に編曲した《交響曲第8番》第一楽章が<ワーグナー協会の夕べ>でシャルクのピアノ演奏によって紹介された。
12月18日《交響曲第8番》第二稿は「第四回フィルハーモニー演奏会」でハンス・リヒター指揮ウイーン・フィル演奏により初演された。満員の楽友協会大ホールには大公妃マリア・テレジアが臨席し、ブラームスはボックス席に姿を見せヴォルフの姿もあった。
音楽と演劇の万国博に展示されたオルガンを演奏した。
宮廷礼拝堂オルガニストを辞任。

1893年69才
1月2日前年クリスマスを過ごしたフローリアンからウィーンに戻った。
2月27日《交響曲第9番》第二楽章スケルツォを作曲。
3月23日《ミサ曲第3番》を楽友協会ホールでヨーゼフ・シャルクの指揮により演奏した。ブラームスが姿を見せた。
キッツラーがブルノでブルックナー《交響曲第4番》を指揮することになりブルックナーを招待したが、病気であった。
8月7日《ヘルゴラント》WAB.71 男声4部合唱とオーケストラの作品が完成。
ブルックナーが以前、商人の娘ミンナ・ライシェルに好意を抱いていたが婚約を断られたことがあったが、この年二人の友情は復活した。
9月22日ウィーン男性合唱団連盟のために《ヘルゴラント》を作曲してくれたことでブルックナーを名誉会員にすることを決めた。この曲は10月8日同団創立五十周年を記念してエードゥアルト・クレムザー指揮で初演された。
11月10日「遺言書(Wollen)」を作成した。自筆の署名と三人の証人=フェルディナント・レーヴェ、シリル・ヒュナイス、テオドール・ライシュが署名した。『交響曲8つ、作曲中の第9番、3つの大ミサ曲、詩篇150篇、ヘルゴラント、弦楽五重奏曲、テ・デウムのオリジナル手稿譜をウィーンのオーストリア帝室図書館に遺贈と保管の願い、自分の埋葬場所の希望が書かれており、遺体を金属の棺に入れ、ザンクト・フローリアン修道院の大オルガンの下に埋めてほしいとあった。相続人を弟イグナーツと妹ロザーリア・ヒューバーにすること。永年にわたって身辺の世話を焼いてくれたカタリーナ・カッヘルマイヤーには、自分が死ぬときまで面倒をみてくれた場合は、700グルデン贈る』とあった。
12月23日《交響曲第9番》第一楽章完成。

1894年70才
1月3日健康が落ち着き、ウイーン・アカデミー連盟の演奏会で二人の作品が演奏されるためヴォルフとともにウィーンを発ちベルリンに着き、指揮をするカーム・ムックらの出迎えを受けた。
6日オペラハウスでブルックナーの《交響曲第7番》などが演奏された。8日にウイーン・アカデミー連盟合唱団の演奏会で、ブルックナーの《テ・デウム》等が演奏された。10日にはジング・アカデミーでベルリン・アカデミーの演奏会で、《弦楽五重奏曲》、11日は同じくジング・アカデミーで《テ・デウム》の演奏があった。
ベルリンではイーダ・ブーツと再会した。彼女と結婚するということで周囲には婚約者として紹介していたが、翌年それを放棄してしまう。彼女がルター派信仰に厚くカトリックへの改宗を承諾しなかったからだ。
2月15日《交響曲第9番》第二楽章スケルツォ完成。
3月フローリアンで過ごし、25日には復活祭のミサでオルガンを弾いた。
4月9日《交響曲第5番》をフランツ・シャルク指揮による演奏でグラーツ市立歌劇場で初演されたが、病身のブルックナーは聴くことをできなかった。
4月24日ウィーン大学の名誉功労金を年額800グルデンから、1200グルデン提供する事を教授会で承認された。
4月26日医師の同行でシュタイアに行き、30日弟のイグナーツに『暑さが辛いのでシュタイアに来たと』と手紙を出す。
7月11日リンツ市議会はブルックナーを名誉市民に推挙を決めた。
9月24日70才の誕生日をシュタイアで迎えた。シュタイアのリーダータ-フェルはブルックナーを名誉会員とした。
10月29日ウイーン大学で和声学の講義をはじめた。
10月31日《交響曲第9番》第三楽章アダージョを書き上げたが、完成は11月30日までかかって補筆した。
11月4日楽友協会の第一回演奏会で《ミサ曲第3番》へ短調をヴィルヘルム・ゲーリケ指揮で演奏され大成功を収めた。
11月6日文化教育庁は当年分150グルデンの補助金と来年度から年額600グルデンの名誉功労金を支給する事を決定した。
11月12日ウイーン大学で最後の講義を行い、これが最後の講義となった。ウイーン大学講師を辞任。
11月25日《交響曲第2番》をハンス・リヒター指揮の第二回フィルハーモニー演奏会で演奏され、楽章が終わるごとにブルックナーは聴衆に対し答礼をするほどの大成功であった。
11月30日《交響曲第9番》のアダージョを完成、三楽章が完成した。
12月に入り容体が悪化し、8日には胸水が再び溜り肋膜炎と診断された。医師たちも見放すようになり、9日には終油の秘蹟が執り行われた。
※:医師五島雄一郎によれば、『この肋膜炎は現代の知識から考えると心不全のうっ血によっておこった胸水貯留であると考えられる』とその著書「偉大なる作曲家たちのカルテ」、医薬ジャーナル社、2012年発行に書いている。

1895年71才
ブルックナーの外出には特別の椅子を利用して、二人掛かりで住居のある5階から、1階に下ろし車で送り迎えされていた。この上げ下ろしは限度もあり、主治医シュレッター教授は助手を伴い治療にあたっていたが、ブルックナーに、ウィーンに多くの資産を持つリヒテンシュタイン侯爵に部屋の願いを出すように勧めた。
1月28日ブルックナーは健康のために1階の庭に面した部屋を手配できないか願い出たが、良い返事はもらえなかった。
そこでブルックナーは皇帝に居城のひと部屋を提供いただけないか申請した。その結果ベルヴェデーレ宮殿に大きな部屋が空いており入居の準備をはじめた。
5月24日《交響曲第9番》第四楽章に着手しようとしていたと思われる。
7月4日18年間住んでいたヘスガッセの5階建ての住居から、皇帝より提供されたベルヴェデーレ宮殿の傍の管理人の建物に移る。住居の近くに礼拝堂があり日曜日には礼拝に向かった。住居に面した庭園も素晴らしく、カティが付き添い散策を楽しんだ。
11月15日ドレスデンで《交響曲第4番》が演奏された。
12月18日ブタペストで行われたフェルディナント・レーヴェ指揮によるブルックナー《交響曲第5番》の2回目となる演奏を聴きに行くことができなくなっていた。

1896年72才
1月5日「第五回フィルハーモニー演奏会」でブルックナー《交響曲第4番》のハンス・リヒター指揮による演奏を聴きに出かけた。
1月12日病をおして椅子に乗せられて《テ・デウム》をリヒャルト・フォンベルガー指揮の演奏会を聴きに行った。
3月25日キッツラーがブルックナーの《交響曲第2番》を指揮したがブルックナーは重病で臥していた。
3月29日ハンス・リヒター指揮の「フィルハーモニー演奏会」に椅子に乗せられ聴きに行った。このころになるとブルックナーは24時間介護が必要になっていたので、カティは学校を卒業したばかりの自分の娘を呼んで手伝わせた。
4月《交響曲第5番》の初版がウィーンのドブリンガー社から出版されたが全楽章にわたってフランツ・シャルクにより変更されたものであった。
6月肺炎に罹患し、いったん回復した。
10月7日弟イグナーツに手紙を書いた。
10月10日医師ヴァイスマイヤーが往診した時は、変化を認められなかった。夜、祈りを捧げて床に就いた。
10月11日この日は、気分よく目覚めた。朝食をすませ、午前中はピアノに向かって《交響曲第9番》第四楽章の作曲にかかっていた。
午後0時半医師ゾルゴが診察に訪れた。昼食はシュヴァーベン風のスープとソーセージを摂った。
午後3時ごろ寒気を起こしカティにお茶を頼んだ。カティが横になった方が良いと言い、カティの娘と介護人がベッドまで連れて行った。
突然介護人がお茶を持ってきたカティに「早く早く」と言った。
ブルックナーはカップに三回だけ口をつけ、そしてベットに横になり二回大きく息を吸いこんでから息を引き取った。。
兆候はまったくみられなかったようだ。午後3時半ころであった。
遺体はウィーンの中心部から豪華な行列に伴われ、ウィーン楽友協会ホール近くにあるカール教会に運ばれた。
13日参事会は葬儀の費用をウィーン市が出すことを決めた。
14日聖カール教会(カールキルヒェ)で盛大に葬儀が執り行われた。
会場ではフェルディナント・レーヴェが管弦合奏用に編曲した《交響曲第7番》のアダージョがハンス・リヒター指揮により演奏された。
葬儀にはブラームスとヴォルフが駆けつけた。ヴォルフは合唱連盟のメンバーとして認められず入場できなかった。
ブラームスは遅れてきて、係の人が会場内に招き入れようとしたが、首を振って応じようとせずドアのところに立ち止まり去っていったという。
ブルックナーの遺言に従い、亡骸はウィーン西駅発の列車に乗せられ、ザンクト・フローリアン修道院教会の地下墓所の、大オルガン「ブルックナー・オルガン」の真下に安置された。
16日死亡証明書が作成された。
財産は:現在の通貨でいうと200万シリング(日本円で約1億1千4百万円)に相当。16800フローリン(日本円で約95万円相当)は現金であった。
遺品は:二個の懐中時計、金色の煙草入れ、皇帝フランツ・ヨーゼフの騎士十字勲章ミニチュア、金のネクタイピン、エメラルドのついた金の指環(博士号のしるし)、振り子時計、ザンクト・フローリアン修道院の裁判所書記官フランツ・ザイラーから遺言で譲られたピアノ、真鍮のベット等々であった。
遺言書に記されたオリジナル手稿譜は、ウィーンのオーストリア王室図書館(現国立図書館)に遺贈され、それ以外は友人、支持者に渡された。
作品の出版権は遺族に残された。
貴重な資料である「キッツラー学習帳」は今日、ミュンヘンのトラウドル・クレス夫人の所有となっている。1955年に初めてその内容が明らかにされた。

1974年
3月オーストリア、リンツのドナウ河畔に「ブルックナーハウス」ができた。杮落としにはカラヤン指揮の、ウイーン・フィルハーモニーがブルックナーの《交響曲第7番》を演奏した。ここでは毎年初秋にブルックナー音楽祭が開催されるようになっている。

6.作 品Produkt

《パンジェ・リングァ》 ハ長調 WAB31 混声4部合唱 1835年第1稿、1891年改訂
《ミサ曲》ハ長調 WAB25 ハ長調 1842年
《リベラ・メ(主よ、われを解き放ちたまえ)》ヘ長調  WAB21 四部合唱  1843年頃 第1作
《ターフェルリート》 変ニ長調 WAB.86 男声4部合唱 1843年 1893年改訂WAB.59の改作
《主よ、ヒソプもて我に注ぎたまえ》WAB4. 混声四部合唱 1843~44年
《キリストは従順であられた》WAB11 混声四部合唱 1844年 第3作
《聖木曜日のためのコラール・ミサ曲》WAB 混声四部合唱 1844年 第1作 「キリストは従順であられた」
カンタータ《忘れな草》WAB.93  S、A、T、Bs、混声8部合唱 1845年 3稿あり
《タントゥム・エルゴ》 ニ長調 WAB32 混声4部合唱 1845年ころ
《タントゥム・エルゴ》イ長調 WAB43 混声4部合唱 1845~46年 
《四つのタントゥム・エルゴ》WAB41 混声4部合唱 1846第1稿、1888年改訂(第2稿)
《タントゥム・エルゴ》イ長調 WAB42 混声5部合唱 1846年
コラール《主よ、われ汝に捧げん》WAB12 混声四部合唱 1847年ころ
《最後の夜に》WAB17 独唱とオルガンと混声四部合唱 1848年、2版あり
《レクイエム》WAB39 ニ短調 混声4部合唱 1848-49年第1稿、1892年改訂
カンタータ《諦め》WAB14 混声4部合唱 1851年
《詩篇第114番》ト長調 WAB36 混声5部合唱 1852年
独唱と混声四部合唱と小規模管弦楽のための《マニフィカト》変ロ長調 WAB24 1852年
《死者のための歌》変ホ長調 WAB47 混声4部合唱 1852年
《死者のための歌》ヘ長調 WAB48 混声4部合唱 1852年
《詩篇第22番》 変ホ長調 WAB34 混声4部合唱 1852年ころ
《リベラ・メ (主よ、われを解き放ちたまえ)》ヘ短調 WAB22 混声五部合唱 1854年 第2作
《ミサ・ソレムニス》 変ロ短調 WAB29 1854年
《タントゥム・エルゴ》変ロ長調 WAB44 混声4部合唱 1854年頃
《アヴェ・マリア》 ヘ長調 WAB5. 四部合唱 1856年
《詩篇第146番》イ長調 WAB37 1860頃
《乙女らは王の御前に導かれ》WAB1 混声4部合唱 1861年
祝祭カンタータ《主を讃えよ》ニ長調 WAB16 男声合唱 1862年
《詩篇第112番》変ロ長調 WAB35 混声8部合唱 1863年
《ミサ曲第1番》 ニ短調 WAB26 1864年第1稿、 1876年改訂(第2稿)、1881年-82年改訂(第3稿)
《婚礼の歌》ヘ長調 WAB49 男声4部合唱 1865年
《ミサ曲第2番》 ホ短調 WAB27 1866年第1稿、 1876年改訂(第2稿)、1882年改訂(第3稿)
2つの《主よ、ヒソプもて我に注ぎたまえ》WAB3 四部合唱 1866~68年
《ミサ曲第3番》 ヘ短調 WAB28 1867~68年第1稿、 1876年改訂(第2稿)、1881年改訂(第3稿)
《パンジェ・リングァとタントゥム・エルゴ》WAB33 混声4部合唱 1868年
《聖守護天使に – すでに明るく星は昇り》WAB18 四部合唱 1868年
《聖歌の和声付け「私は、僕ダヴィデを見出し」》斉唱 WAB20 1868年 第2作
《この所は神により作られた(ロークス・イステ)》WAB23 混声四部合唱 1869年
《二つの心は出会い》WAB54 男声4部合唱 1878年
交唱《マリアよ、あなたはことごとく美しく》WAB46 混声4部合唱 1878年
昇階唱《正しい者の口は知恵を語り》WAB30 混声4部合唱 1879年
《テ・デウム》ハ長調 WAB45 混声4部合唱 1881年第1稿、1883~84年改訂
《来たれ、創造主なる聖霊よ》WAB50 独唱 1884年頃
《救い給え、御身の民よ》WAB40 混声4部合唱 1884年 
昇階唱《エサイの枝は芽を出し》WAB52 4部合唱 1885年
讃歌《王の御旗は翻る》WAB51 混声4部合唱 1892年
《詩篇第150番》ハ長調 WAB38 混声4部合唱 1892年
《アヴェ・マリア》 ヘ長調 WAB6. 混声七部合唱(無伴奏) 第2作
《アヴェ・マリア》 ヘ長調 WAB7. 第3作
《めでたし海の元后》WAB8. 独唱
《キリストは従順であられた》WAB10 混声8部合唱 第2作。「キリストはおのれを低くして」とも
四部合唱祝典歌《聖ヤコブは気高き家系より出でたもう》WAB15 
《オッフェルトリウム「私は、僕ダヴィデを見出し」》WAB19 混声四部合唱 第1作

<合唱曲>(世俗作品)
《祭典にて》WAB59 男声4部合唱 1843年
《祝典の歌》WAB67 男声4部合唱 1843年 (曲はWAB.59と同一)
《ドイツ祖国の歌》WAB.78 男声4部合唱 1845年頃
《セレナード》WAB.84 男声4部合唱 1846年頃
《教師の身分》WAB.77 男声4部合唱 1847年頃
《流れ星》WAB.85 男声4部合唱 1848年頃
《二つのモットー》WAB.83 男声4部合唱 1851年
《気高き心》WAB65 部合唱 1851年頃 第1作
《春の歌》WAB68 歌曲 T・pf 1851ころ
カンタータ《神父様、われらはあなたの気高き祭りを》WAB61 混声6部合唱 1852年 
《生誕》WAB69 男声4部合唱 1852年
《アルネートの墓の前で》 WAB53 男性4部合唱 1854年
《歓呼の歌声を高らかに響かせよ》WAB.76 男声4部合唱 1854年
《感謝の言葉をお受け下さい》WAB62 T・Bs・混声5部合唱 1855年
カンタータ《いざ友よ、楽器を手に》WAB60 男声4部合唱・管弦楽 1855年
《アマラントの森の歌》WAB58 歌曲 1858年
《俗謡》WAB.94 独唱・男声4部合唱 1861年
《君は花のごとく》WAB64 4部合唱 1861年 
《墓場にて》WAB2 男声4部 1861年
《夕べの空》WAB55 男声4部合唱 1861~62年 第1作
《気高き心》WAB66 男声4部合唱 1862年頃 第2作
《ゲルマン人の行進》WAB.70男声4部合唱・金管楽器 1863年
《秋の歌》WAB.73 男声4部合唱 1864年 
《真夜中に》WAB.89 男声4部合唱 1864年
《夕べの空》WAB56 男声4部合唱 1866年 第2作
《祖国の酒の歌》WAB.91 男声4部合唱 1866年
《おお、私が汝を幸せにできたなら – 祖国の歌》WAB.92 A、Br、男声4部 1866年
《秋の悲しみ》WAB.72 歌曲 T、pf 1868年頃 
《月に》WAB.75 歌曲 A、pf 1868年
《私の心と君の声》WAB.79 歌曲 T、pf 1868年
《2つのモットー》WAB.95 男声4部合唱 1868年 第1曲「女心」、第2曲「最高の讃美」
《真夜中に》WAB.80 男声4部合唱 1870年
《追悼》WAB.81 1877年
《慰めの音楽》WAB.88 男声4部合唱 1877年
《夕べの魔力》WAB57 独唱、男声4部合唱、女声ヨーデル 1878年
《雅歌》WAB.74 男声8部合唱 1876年第1稿、1879年改訂(第2稿,管弦楽伴奏版
《合唱団連合》WAB.82 男声4部合唱 1882年
《アンティフォナ「見よ大いなる司祭」》WAB13 七部合唱 1885年
《真夜中に》WAB.90 男声4部合唱 1886年 第2作WAB.89と同一
《夢と目覚め》WAB.87 男声4部合唱 1890年
《ドイツの歌》WAB63 男声4部合唱・brass 1892年
《ヘルゴラント》WAB.71 男声4部合唱 1893年

<管弦楽曲>
《行進曲ニ短調》WAB96 1862年              新全集
《管弦楽のための3つの小品》WAB97 1862年
《序曲ト短調》 WAB98 1862-63年
《交響曲ヘ短調》WAB99 作曲時期1863年1月~7月
タイトルページに自身の手書きで「習作」とした筆写譜は最終的にウィーン市立図書館に保存された。 オリジナル手稿譜は遺言書によりクレムミュンスター修道院のアルヒーフに所蔵された
現在、演奏で採り上げられることは極めて稀である。CD録音は複数存在するが、交響曲全集に収録されないことも多く、《交響曲第0番》は収録されていても《習作交響曲》は省かれている全集すらある。セルジュ・チェリビダッケ、オイゲン・ヨッフム、ギュンター・ヴァントなどはブルックナーの演奏を得意としながらも当曲の録音を残さなかった。11曲全てを録音した指揮者はゲンナジー・ロジェストヴェンスキー、エリアフ・インバル、ゲオルク・ティントナー、スタニスラス・スクロヴァチェフスキ、シモーネ・ヤング、マルクス・ボッシュ、ゲルト・シャラーなどである。
《交響曲第1番》ハ短調 WAB101 第一稿リンツ1865-66年、補筆修正1877年と84年、第二稿ウィーン1890-91年
《交響曲0番》ニ短調 WAB100 1869年
ブルックナーの交響曲「全曲」の演奏や録音では、この《交響曲0番》を必ずしも含むとは限らない。むしろ含まない例の方が多い(オイゲン・ヨッフムの新旧、ヘルベルト・フォン・カラヤンなど)。この作品を含めて「交響曲全集」を録音している指揮者としては、ゲオルク・ショルティ、エリアフ・インバル、ゲオルク・ティントナー、スタニスワフ・スクロヴァチェフスキ、ダニエル・バレンボイム、リッカルド・シャイーなどが挙げられる。
多くの録音はノヴァーク版によるが、フェルディナント・ライトナーのライヴ録音とヘンク・スプルイト、ベルナルト・ハイティンクのスタジオ録音は、ヴェス版を用いている。
《交響曲第2番》ハ短調 WAB102 第一稿1871-72年、第一稿補筆1873年と1876年、第二稿1877年、補筆(印刷稿)1892年
《交響曲第3番》ニ短調 WAB103「ワーグナー」、第一稿1872-73年、第二稿1874と1876年-78年、第三稿1887-89年
104. 《交響曲第4番》変ホ長調 WAB104「ロマンティック」、第一稿1874年、第二稿1878年-80年、演奏前の補筆1881と86年、最終稿1887-89年(楽譜出版、レーヴェの助言を採用)
《交響曲第5番》変ロ長調 WAB105 第一稿1875-76年、補筆1877年、1878-87年の間に一部手直し。
シャルクによる改訂版は1896年に出版され、ハース校訂による第一次全集が出版されるまではほとんど唯一のスコアとして演奏されていた。ハース版出版後も1950年代までは、アメリカを中心に、このシャルク版は演奏されていたが、1970年代以降ほとんど使われなくなった。 録音ではハンス・クナッパーツブッシュが指揮したものが有名である。
《交響曲第6番》イ長調 WAB106 1879-81年(楽譜は1899年弟子で写譜を担当していたシリル・ヒュナイスCYRIL HYNAISにより刊行された。多くの細部で違いが見つかっておりヒュナイス版といわれ、現在は使われていない)。
《交響曲第7番》ホ長調 WAB107 1881-83年
演奏または録音された歴史的な価値があるもの
オスカー・フリート指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団 (1924年 世界初録音)
ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮 スロヴェニア・フィルハーモニー管弦楽団 (1984年6月19-20日 マタチッチの最後の録音)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (1989年4月18-23日 カラヤンの最後の録音)
朝比奈隆指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団 (1975年10月12日 ブルックナーの墓所、聖フロリアン修道院での演奏)
《交響曲第8番》ハ短調 WAB108 第一稿1884-87年(1887年版)、第二稿1887年-90年(1890年版)
第3楽章の異稿(1888年ごろ改訂)については英国のダーモット・ゴールトとわが国のブルックナー研究家川﨑高伸、校訂版
(※内藤彰指揮、東京ニューシティ管弦楽団によって、2004年東京にて初演された)
《交響曲第9番》ニ短調 WAB109 第一~第三楽章1887-94年、第四楽章1894年5月24日~死去(未完成)、1895-96年(断片、ニ短調の第4楽章スケッチ)
《交響曲第9番》ニ短調 WAB109 フィナーレ(未完)1896年10月11日                新全集zuIX
レーヴェ版の録音は、ハンス・クナッパーツブッシュやフレデリック・チャールズ・アドラー(英語版)が録音に残した。 オーレル版の録音は、ジークムント・フォン・ハウゼッガーの指揮によりミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団が1938年にHMVにオーレル版の録音を残している。

<室内楽曲>
《ランシェ=カドリーユ》ハ長調 WAB120.1850年頃 
《シュタイエルマルク地方の踊り》WAB122.1850年頃 
《三つの小品》WAB124.1852-54年
《カドリーユ》ニ長調 WAB121.1854年頃
《ピアノ小品》変ホ長調 WAB119.1856年頃
《弦楽四重奏曲のためのスケルツォ》ト長調 1862年
《弦楽四重奏曲》ハ短調 WAB111.1862年                  新全集 XIII/1
《弦楽四重奏曲のためのロンド》ハ短調 1862年              新全集 XII/1
《秋の夕べの静かな思い》WAB123.1863年
《行進曲》変ホ長調 WAB116.1865年
《夕べの音楽》ホ短調 WAB110.vn、pf 1866年              新全集 XII/7  
《弦楽五重奏曲》ヘ長調 WAB112.1878-79年                新全集 XIII/2
《インテルメッツォ》ニ短調 WAB113.1879年  新全集 XIII/2 

<吹奏楽曲>
《エクアーレ》ハ短調 WAB114.1847年                   新全集 XXI
《行進曲》変ホ長調 WAB116.1865年                    新全集 XII/8

<ピアノ曲>
《ランシェ=カドリーユ》ハ長調WAB120.1850年頃             新全集XII/2
《シュタイアメルカー》ト長調WAB122.1850年頃              新全集XII/2
《三つの小品》ト長調、ト長調、ヘ長調WAB124.1853年、1854年、1855年   新全集XII/3
《カドリーユ》イ長調、ニ長調、イ長調、ヘ長調、ニ短調WAB121.1854年頃 新全集XII/3
《ワルツ》変ホ長調 1862年
《ワルツ》ハ長調 1862年
《マズルカ》イ短調 1862年
《メヌエット》ハ長調 1862年
《メヌエットとトリオ》ト長調 1862年
《行進曲》ニ短調 1862年
《アンダンテ》変ホ長調 1862年
《アンダンテ》ニ短調 1862年
《エチュード》ト長調 1862年
《半音階的エチュード》ヘ長調 1862年
《主題と変奏》ト長調 1862年
《ソナタ》ト長調 第一楽章 1862年                    新全集XII/2付録                    
《4つの幻想曲》ニ短調、ハ短調、ハ短調、ニ短調 1862年
《ピアノ曲》変ホ長調WAB119.1862年頃 新全集XII/2
《秋の夕べの静かな思い》嬰へ短調WAB123. 1863年             新全集XII/2
《思い出》変イ長調 WAB117.1868年頃 新全集XII/2
《幻想曲》ト長調 WAB118.1868年 新全集XII/2

<オルガン曲>
《四つの小前奏曲》変ホ長調 WAB128.1836年
《前奏曲》変ホ長調 WAB127.1837年頃 
《前奏曲》ニ短調 WAB130.1846年頃或いは 1852年頃 新全集XII/6
《前奏曲とフーガ ハ短調》WAB131.1847年 新全集XII/2
《後奏曲》ニ短調 WAB126.1852年頃 新全集XII/2 
《フーガ ニ短調》WAB125.1861年 新全集XII/2 
《前奏曲》ハ長調 WAB129.1884年 通称《ペルク前奏曲》 新全集XII/2

<紛失・断片・疑作>
《主よ、急ぎ来りてわれを助けたまえ》1835年 (スケッチの断片)
《サルヴェ・マリア》合唱曲 1844年 (紛失)
《キリエ》ト短調 1843-45年
《リタニア(連祷)》混声4部合唱 1844頃 (紛失)
《レクイエム》男声合唱 1845年 (紛失)
《イエスの御心の歌》混声合唱 1845年頃(疑作?)
《おお、愛しき幼子イエスよ》独唱、org 1845頃(疑作?)
《二重唱曲》ト長調 1845年頃
《リートのスケッチ》変イ長調 独唱、pf 1845頃「Mild wie Bäche, die durch Blumen wallen」
《キリエ》変ホ長調 1846年頃
《ジプシーの森の歌》1863年頃 (紛失)
《レクイエム》ニ短調WAB141. 1875年 (断片、18小節のみ)

<その他の曲>
《グローリアとクレドのないミサ曲》ニ短調 混声4部合唱 1844年 通称《クローンシュトルフ・ミサ曲》
《エクアーレ》ハ短調 1847年
《二つのモットー》男声4部合唱 1869年
《モットー ニ長調》男声4部合唱 1874年「Freier Sinn und froher Mut」

7.その他Andere


1841年10月~1843年1月ヴィントハウスの小学校 1年3か月教職に就いた(Vinthouse Elementary School 1 Jahr und 3 Monate Lehrberuf)
1843年1月~1845年9月クローンストレの小学校 2年8か月教職に就いた(Clonestre Grundschule 2 Jahre und 8 Monate unterrichtet)
1845年9月~1851年9月聖フローリアン修道院附属学校 6年1か月教職に就いた(St. Florian Klosterschule 6 Jahre und 1 Monat)
1868年10月~1891年1月ウィーン音楽院 22年3か月教職に就いた(Universität für Musik und darstellende Kunst in Wien 22 Jahre und 3 Monate)
1870年秋頃~1874年秋頃聖アンナ教員養成所 約4年間教職に就いた(Gegen Herbst bekam ich ungefähr 4 Jahre lang einen Lehrauftrag im St. Anne Teacher Training Center)
1875年12月~1894年11月ウィーン大学 19年教職に就いた(Universität Wien 19 Jahre Lehrberuf)

教え子Schüler
ヴラディーミル・ド・パハマン(ピアニスト)、グイード・アードラー(音楽史家)、フェリックス・モットル(指揮者)、フランツ・シャルク(指揮者)、フェルディナント・レーヴェ、アウグスト・ゲルレーリヒ(ピアニスト/ブルックナーの伝記作者)、ルードルフ・クシジャノフスキ(指揮者)、エミール・パウール(指揮者)、アルトゥ―ル・ニキシュ(指揮者)、フリートリヒ・クローゼ(作曲家)、カミロ・ホルン(作曲家)、ハンス・ロット(オルガニスト)、ヨーゼフ・フォクナー(ウィーン楽友協会音楽院教授)、ヨーゼフ・ペンバウア1世(教師、合唱指導者、作曲家)、ヨーゼフ・バイヤー(作曲家、指揮者)、チプリアン・ポルンベス(ルーマニアの作曲家)、エルンスト・デチャイ(評論家)、フランツ・シュミット(作曲家)、フリッツ・クライスラー(ヴァイオリニスト、作曲家)、フーゴ・ラインホルト(作曲家・ピアニスト)、ヨーゼフ・グルーバー(作曲家)、ヨーゼフ・シャルク、ヤン・ドロズドフスキ(音楽家)、ルドルフ・ディットリヒ(オルガニスト、ヴァイオリニスト、音楽教育者、作曲家,]東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)で音楽教師)、エマヌエル・モール(作曲家・ピアニスト・楽器発明家)、エミール・ジャック=ダルクローズ(作曲家・音楽教育家)、ハインリヒ・ラインハルト(オペレッタ作曲家)、ハインリヒ・シェンカー(音楽学者)、フランティシェク・ドルドラ(ヴァイオリニスト)、アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(作曲家・指揮者・音楽教師)、ジョセフ・ストランスキー(指揮者、作曲家、後に画商)

オルガニスト期間Organistenzeit
1848年~1855年12月聖フロリアン修道院大聖堂 7年オルガニストを務めた(St. Florian Abbey Cathedral 7 Jahre als Organist)
1856年1月~1970年7月リンツ大聖堂 14年6か月オルガニストを務めた(Linzer Dom 14 Jahre und 6 Monate als Organist)
1878年1月~1892年10月ウィーン宮廷礼拝堂 14年9か月オルガニストを務めた(Wiener Hofkapelle 14 Jahre und 9 Monate als Organist)

年金などPension etc.
1886年7月8日ウィーン、フランツ・ヨーゼフ勲章「騎士十字章」授与され300グルデンの年金支給決定された(Wien, Franz Josefs Medaille “Ritterkreuz” wurde verliehen und 300 Guldenrente beschlossen)。
1891年1月15日ウィーン楽友協会名誉会員として年額440グルデンを支給決定された(Als Ehrenmitglied des Wiener Musikvereins wurde beschlossen, 440 Gulden pro Jahr zu zahlen)。
1894年4月24日ウィーン大学名誉功労金年額1200グルデン支給決定された(Ehrendienst der Universität Wien 1200 Gulden Jährliche Zahlung entschieden)。
1894年11月6日文科教育庁名誉功労金年額600グルデン支給決定された(Das Ministerium für Bildung, Kultur, Sport, Wissenschaft und Technologie hat beschlossen, 600 Gulden pro Jahr zu zahlen)。

<ブルックナー交響曲の指揮者Bruckner Symphony Conductor>
ブルーノ・ワルター、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ヴォルフガング・サヴァリッシュ、ヘルベルト・フォン・カラヤン、カール・ベーム、フォルクマール・アンドレーエ、カール・シューリヒト、オットー・クレンペラー、オイゲン・ヨッフム、クルト・アイヒホルン、ギュンター・ヴァント、セルジュ・チェリビダッケ、カルロ・マリア・ジュリーニ、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー、ゲオルク・ティントナー、スタニスワフ・スクロヴァチェフスキ、ベルナルト・ハイティンク、ニコラウス・アーノンクール、エリアフ・インバル、オルテンス、ゲルミニ、朝比奈隆(Takashi Asahina,)、ゲルド・シャラー、マリス・イヴァルス・ゲオルグス・ヤンソンス、クルト・サンデリンク、ヘルベルト・ブロムシュテット、シモーネ・マーガレット・ヤング、ダニエル・バレンボイム、クルト・マズア

8.初演・試演Premiere / Testversion


《交響曲》へ短調 WAB99 第2楽章のみ1913年10月31日/フェルディナント・レーヴェ指揮/ウィーン・コンツェルト・フェライン、ウィーン、コンツェルトハウス大ホールにて。
《交響曲》ヘ短調 WAB99 第1、2、4楽章1923年3月18日/フランツ・モイスル指揮/クロスターノイブルク・フィル/クロスターノイブルクにて。
《交響曲》ヘ短調 WAB99 3楽章1924年10月12日/フランツ・モイスル指揮/クロスターノイブルク・フィル/クロスターノイブルクにて。
《交響曲》ヘ短調 WAB99 全曲1925年2月19日/フランツ・モイスル指揮/ベルリン・フィル/ベルリン・フィルハ-モニー・ザールにて。
《交響曲0番》ニ短調 WAB100 第3楽章、第4楽章のみ1924年5月17日/フランツ・モイスル指揮/クロスターノイブルク・フィル。

《交響曲第1番》ハ短調 WAB101 第一稿リンツ1868年5月9日/ブルックナー指揮/リンツ-レドゥテンザールにて。
《交響曲第1番》ハ短調 WAB101 第二稿ウィーン1891年12月13日/ハンス・リヒター指揮/ウィーン・フィル/ウイーン-ムジークフェラインザールにて。
《交響曲第2番》ハ短調 WAB102 第一稿(1873年補筆版)1873年10月26日/ブルックナー指揮/ウイーン・フィル/ウイーン万国博閉会式典のおいて。
《交響曲第2番》ハ短調 WAB102 第2稿(1876年補筆版)1876年2月20日/ブルックナー指揮/ウイーン・フィル/ウイーン-ムジークフェラインザールにて。
《交響曲第2番》ハ短調 WAB102 第2稿(印刷版)1894年11月25日/ハンス・リヒター指揮/ウイーン・フィル/ウイーン-ムジークフェラインザールにて。
《交響曲第2番》ハ短調 WAB102 第1稿キャラガン版1991年3月25~28日(CD収録)/クルト・アイヒホルン指揮/リンツ・ブルックナーは管弦楽団/、リンツにて。
《交響曲第3番》ニ短調 WAB103 第二稿(短縮)1877年12月16日/ブルックナー指揮/ウイーン・フィル/ウイーン-ムジークフェラインザールにて。
《交響曲第3番》ニ短調 WAB103 第三稿1890年12月21日/ハンス・リヒター指揮/ウイーン・フィル/ウイーン-ムジークフェラインザールにて。
《交響曲第3番》ニ短調 WAB103 第一稿1946年12月1日/ヨーゼフ・カイベルト指揮/ドレスデン国立管弦楽団/ドレスデンにて。
《交響曲第4番》変ホ長調 WAB104 第二稿1881年2月20日/ハンス・リヒター指揮/ウイーン・フィル/ウイーン-ムジークフェラインザールにて。
《交響曲第4番》変ホ長調 WAB104 第一稿(スケルツォ楽章のみ)1909年12月12日/アウグスト・ゲレリヒ指揮/リンツにて。
《交響曲第4番》変ホ長調 WAB104 第一稿(全曲)1975年9月20日/クルト・ヴェス指揮/ミュンヘン・フィル/リンツ-ブルックナー・ハウスにて。
《交響曲第4番》変ホ長調 WAB104 第三稿レーヴェ改訂版1888年1月22日/ハンス・リヒター指揮/ウイーン・フィル/ウイーン-ムジークフェラインザールにて。
《交響曲第5番》変ロ長調 WAB105 1887年4月20日シャルク編曲をヨーゼフ・シャルクとフランツ・ツォトマンの二人による2台のピアノで演奏。
《交響曲第5番》変ロ長調 WAB105 シャルク版1894年4月8日/フランツ・シャルク指揮/グラーツ市立公園劇場にて。
《交響曲第5番》変ロ長調 WAB105 ハース版1935年10月20日/ジークムント・フォン・ハウゼッガー指揮/ミュンヘン・フィル/ミュンヘンにて。
《交響曲第6番》イ長調 WAB106 中間の二つの楽章のみ1883年2月11日/ヴィルヘルム・ヤーン指揮/ウィーン・フィル/ウイーン-ムジークフェラインザールにて。
《交響曲第6番》イ長調 WAB106 マーラー版1899年2月26日/グスタフ・マーラー指揮/ウィーン・フィル/ウイーン-ムジークフェラインザールにて。
《交響曲第6番》イ長調 WAB106 完全全曲1901年3月14日/『カール・ポーリヒ指揮』/シュトゥットガルト宮廷楽団/シュトゥットガルト宮廷劇場にて。 
《交響曲第6番》イ長調 WAB106 川﨑高伸校訂版2014年2月22日/内藤彰指揮/東京ニューシティ管弦楽団/東京芸術劇場。
《交響曲第7番》ホ長調 WAB107 全曲ピアノ連弾1884年2月27日/ワーグナー協会演奏会/ヨーゼフ・シャルクとフェルディナント・レーヴェ/ベーゼンドルファー・ザーにて。
《交響曲第7番》ホ長調 WAB107 1884年12月30日/アルトゥール・ニキシュ指揮/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団/ライプツィヒ市立劇場にて。
《交響曲第7番》ホ長調 WAB107 ウィーン初演1886年3月21日/ハンス・リヒター指揮/ウイーン・フィル/ウィーンにて。
《交響曲第7番》ホ長調 WAB107 川﨑高伸校訂版2012年11月2日/内藤彰指揮/東京ニューシティ管弦楽団/東京芸術劇場にて。
《交響曲第8番》ハ短調 WAB108 1892年初版(第2稿)1892年12月18日/ハンス・リヒター指揮/ウイーン・フィル/ウイーン-ムジークフェラインザールにて。
《交響曲第8番》ハ短調 WAB108 1890年第2稿に第一稿を混入したハース版全曲1939年ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮/ハンブルクにて。
《交響曲第8番》ハ短調 WAB108 1887年第1稿第一楽章のみ1954年5月2日オイゲン・ヨッフム指揮/ミュンヘンにて。
《交響曲第8番》ハ短調 WAB108 1887年第1稿全曲1973年9月2日ハンス=フーベルト・シェンンツェラー指揮/BBC交響楽団/ロンドンにて。
《交響曲第9番》ニ短調 WAB109 レーヴェ改訂版1903年2月21日指揮フェルディナント・レーヴェ/ウィーン演奏連盟管弦楽団/ウイーン-ムジークフェラインザールにて…
《交響曲第9番》ニ短調 WAB109第一~第三楽章原典版1932年4月2日ジークムント・フォン・ハウゼッガー指揮/ミュンヘン・フィル/ミュンヘンにて。

9. IBG国際ブルックナー協会と版問題IBG International Bruckner Society und Edition Issues


1. ブルックナーは17才の1841年から70才になった1894年までの間中、オルガニスト職と教師生活が生計維持の支えであった。この時代に彼と同じような運命を辿った大作曲家は皆無だ。彼は作品を務めの合間に創作した。後世に残された版問題も、ある部分こうした事情が絡んでいると考えられる。作品がはじめから成功を収めていたなら版問題はもっと変わったものになっていたかもしれない。多くの場合作曲に集中できなかったこうした環境が後々、ブルックナー自身が改訂や補筆を加えていったことで一つの作品に何種類の版が残されたとも言える。また、彼の友人や弟子の提案で多くの変更が加えられたことによる複数の版もそうした事情が存在したと思われなくもない。
Bruckners Lebensunterhalt wurde durch seine Karriere als Organist und sein Lehrleben von 1841, als er 17 Jahre alt war, bis 1894, als er 70 Jahre alt war, unterstützt. Kein bedeutender Komponist hatte in dieser Zeit das gleiche Schicksal wie er. Er schuf die Arbeit zwischen seinen Pflichten. Es wird angenommen, dass diese Umstände teilweise mit den in der Nachwelt zurückgebliebenen Editionsproblemen zusammenhängen. Wenn die Arbeit von Anfang an erfolgreich gewesen wäre, wäre die Ausgabe der Ausgabe möglicherweise ungewöhnlicher gewesen. Man kann sagen, dass Bruckner selbst dieses Umfeld später überarbeitete und ergänzte, was ihn oft daran hinderte, sich auf die Komposition zu konzentrieren, und mehrere Ausgaben in einem Werk hinterließ. Es ist auch möglich, dass dies in mehreren Ausgaben geschah, wobei viele Änderungen auf Vorschlag seiner Freunde und Schüler vorgenommen wurden.

2. ブルックナーの遺言書=遺贈稿の部分Bruckners Testament = Teil des Nachlasses
『Ich vermach dieI Originalmanuscripte meiner nachbeseichneten Compositionen:der Sinfonien bisher acht an der Zahl, die neunte wind, so Gott will, bald vollendet werden, – der 3 grossen Messen, des Quintetts, des Te Deums, das 150 psalms und des Chorwerkes Helgoland-der Kais. und Kōnigl. Hofbibliothek in Wien und ersuche die k.u.k. Direction der genannten Stelle, fūr die IAufbewahrung dieser Kanuscripte gūtigst Sorge tragen Zu wollen,』以下略.

※Anton Bruckner wollen 10,11,1893『Anton Bruckner und die Nachwelt: Zur Rezeptionsgeschichte …』最終アクセス2020年3月18日
編者訳:<ブルックナー遺贈稿の部分>『 私は以下の作品のオリジナル手稿譜を遺贈します:交響曲これまでに8つを数え、神が望まれるならば、第9番は間もなく完成します。3つの大《ミサ曲》、《弦楽五重奏曲》、《テ・デウム》、《詩篇150番》、合唱曲《ヘルゴランド》、以上の作品のオリジナル手稿譜をウィーンのオーストリア帝室図書館に遺贈します。そしてオーストリア=ハンガリー帝国帝室並びに王室の上記指定された機関で管理することを求めます。これらオリジナル手稿譜について保管に寛大な配慮を賜られるよう依頼します。 』以下略
<オリジナル手稿譜Originalmanuskript>
Mus.Hs.19.473:第1交響曲Erste Symphonie『ヴィーン稿Wiener Manuskript』
Mus.Hs.19.474:第2交響曲Zweite Symphonie『第1稿』
Mus.Hs.19.475:第3交響曲Dritte Symphonie『第2稿』(フィナーレのみ、のちに国立図書館は全曲を取得した)
Mus.Hs.19.476:第4交響曲『第2稿』
Mus.Hs.19.477:第5交響曲『第2稿』(第1稿は筆写譜としても存在しない)
Mus.Hs.19.478:第6交響曲 唯一の自筆稿
Mus.Hs.19.479:第7交響曲 唯一の自筆稿、印刷用原稿として使われたため他人の書き込み多数
Mus.Hs.19.480:第8交響曲 第1,2,4楽章は『第2稿』、第3楽章のみ『第1稿』
Mus.Hs.19.481:第9交響曲 完成された1~3楽章のみ
Mus.Hs.19.482:弦楽5重奏曲ヘ長調Streichquintett in F-Dur
Mus.Hs.19.483:ミサ曲第1番ニ短調Messe Nr. 1 d-Moll
Mus.Hs.19.484:詩篇第150番Psalm 150
Mus.Hs.19.485:ヘルゴラント Helgoland
Mus.Hs.19.486:テデウム Te deum
(Mus.Hs.とはムジーク・ハンドシュリフト)
<遺贈稿>はブルックナー研究家:川﨑高伸氏のアドバイスと好意による

3. 国際ブルックナー協会の使命
The International Bruckner Society (German Internationale Bruckner-Gesellschaft) was an organization which began its existence in 1927 in Leipzig and was officially founded in 1929 in Vienna. Its main purpose since then has been to publish editions of the music of Anton Bruckner. Most of Bruckner’s music had been published during the composer’s lifetime or shortly after his death, but often in versions that incorporated numerous changes suggested by his friends and students. In the case of Bruckner’s unfinished Ninth Symphony, Bruckner student Ferdinand Loewe made several unauthorized changes even after Bruckner’s death. The mission of the International Bruckner Society was to publish versions of Bruckner’s works based directly on the original manuscripts, which the composer had bequeathed to the Austrian National Library.
編者訳並びに加筆:『 国際ブルックナー協会は、ライプツィヒで1927年に設立され、1929年にウィーンで公式に設立された組織です。 それ以降の主な目的は、アントン・ブルックナーの音楽のエディションを出版することでした。 ブルックナーの音楽のほとんどは、作曲家の生涯または彼の死の直後に公開されていましたが、多くの場合、友人や弟子によって提案された多数の変更を組み込んだバージョンで公開されていました。 ブルックナーの未完成の《第九交響曲》の場合、ブルックナーの弟子フェルディナント・レーヴェは、ブルックナーの死後もいくつかの無許可の変更を加えました。ブルックナーは、オリジナル手稿譜を帝国王室図書館(現在のオーストリア国立図書館)に委ねたとき、彼は「遺言」に従って彼の音楽を私たちに遺贈しました。それが後世に引き継がれることを望んだ。 国際ブルックナー協会の使命は、作曲家がオーストリア国立図書館に遺贈したオリジナル手稿譜に直接基づいてブルックナーの作品のバージョンを公開することです 』。
The Society hired Robert Haas as General Editor, with Alfred Orel as his assistant. The first publication was Orel’s critical edition of the Ninth Symphony, published in 1934 but premiered two years earlier in 1932 in a concert by Siegmund von Hausegger conducting the Munich Philharmonic Orchestra. and its success provided much impetus for a complete critical edition of Bruckner’s work.
編者訳と加筆:1933年、フィルザー出版社が倒産した時点で、国際ブルックナー協会は、特にブルックナー・コンプリート・エディションを出版するために、1932年設立したMusikwissenschaftlicher Verlag(MWV;文字通り「音楽学出版社」)が版権の譲渡を受けた。『 オーストリア国立図書館音楽資料部長であるロバート・ハースが編集者に任命され、アルフレッド・オーレルが共同編集者に任命された。 1934年アルフレッド・オーレル(Alfred Orel)は第9交響曲のクリティカル・エディションとそのフィナーレのスケッチの重要版を刊行した。このクリティカル・エディションが、1932年にジークムント・フォン・ハウゼガーを指揮のミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団演奏で初演されている。 そしてその成功は、ブルックナーの作品の完全な重要版への大きな推進力となった 』。1937年11月オーレルが辞任し、レオポルド・ノヴァークが共同編集者として任命された。

4. 国際ブルックナー協会による原典版作業Urtextarbeitとは、弟子たちの関与した加筆部分を明確にし、ブルックナー本来の楽譜に戻す作業であるといわれている。
原典版作業を中心となって進めたのがローベルト・ハースRobert Haas(1930~1945年)、レオポルド・ノヴァークLeopold Nowak,(1946~1989年)、ヘルベルト・フォッグ(1989~2001年)等である。

4-1. 当初ハース(Robert Haas)は、ウィーンのオーストリア帝室図書館音楽資料部長をしていた。 ノヴァーク(Leopold Nowak)はここで、ハースを補佐して「ブルックナー全集)」の助手をしていた。
ハースは、1930年代のブルックナーのオリジナル手稿譜に基づいて、最初の自筆譜=オリジナルこそが真のブルックナーの作品であるとした。「理想的な」版と考えるものを作成するために遺贈稿にある書き込みの一部を削除し、ブルックナーが削除したものの一部を元に戻し、あるいは別のものに置き換えることや、異なる原稿を混ぜることをためらわなかった(作品を作曲家自身のスタイルに対応させるために)。また、後の書き込みや削除は無視すべきとして校訂し第三帝国(ナチス)に承認され、「原典版」として出版した。
これを「第一次全集版(旧全集)」または「ハース版」と称している。
戦後、ハースがナチス・ドイツの協力を受けていたため解任された。
1946年オーストリア国立図書館の音楽関係資料の収集責任者としてノヴァークが音楽資料部長に就任した。

4-2. オーストリア国立図書館音楽資料部長に就任したノヴァークは、いくつかの作品の原典版を国際ブルックナー協会のために校訂した。これを「第二次全集版(新全集)」または「ノヴァーク版」と称している。
彼は、自筆と印刷された楽譜資料に基づいてブルックナーの作品のいくつかの資料を出版し、違いを詳細に文書化することを自分の仕事と考えた。ノヴァークは書き込みや削除は本人が合意したのであれば基本良しとしたが、そのまま採用せず、さらに慎重に対応しながら校訂(第7のかっこ標記?)したとされている。

4-3. 国際ブルックナー協会(International Bruckner Society)」は、初版群に含まれる弟子たちの関与を明らかにし、それを削除し、本来の楽譜に戻すという研究者の機運から、1927年ライプツィヒに設立された。音楽学者マックス・アウアーMax Auerの提唱により、1929年ウィーンで正式に国際ブルックナー協会(Internationale Bruckner-Gesellschaft, 略称IBG)が創設された。
IBGの目的は、「 言語的および政治的障壁を克服し、ブルックナーの本質を広めることです。その目標は、あらゆる場所でのブルックナーのライフワークに対する理解を深め、その普遍的な普及と認識を確立することでした 」と述べている。
1930-1955年には、ドイツ、オーストリア、スイスのさまざまな都市で合計13の国際ブルックナーフェスティバルが開催された。
IBGの主な仕事は、ブルックナーがオーストリア帝室図書館に遺贈したオリジナル手稿譜に直接基づいて、オーストリア帝室図書館と国際ブルックナー協会の共同編纂事業としてブルックナーの作品のバージョンを公開することである。
1933年、フィルザー出版社が倒産した時点で、国際ブルックナー協会は、特にブルックナー・コンプリート・エディションを出版するために、1932年設立したMusikwissenschaftlicher Verlag(MWV「音楽楽出版社」)が版権の譲渡を受けた。
IBG-Mitteilungsblattは1971年から登場してる(1993年から主なタイトルの研究と報告がある)。
ナチス・ドイツの台頭により、1938年にオーストリアがドイツナチスに統合された直後、IBGは公的に解散し、1951年まではライプツィヒで活動を続けていた。
IBGによる原典版校訂作業を、当初ローベルト・ハースを編集主幹(1930–1944年)が、初期には音楽学者アルフレート・オーレルAlfred Orelが編集に加わり出版されていた。
後期にレオポルト・ノヴァークが校訂作業を共にした。この間、以下の楽譜が「原典版」と称して出版された。

4-4. ローベルト・ハースRobert Haas,編集主幹(1935~1944年)の校訂を「第1次全集版(旧全集)」または「ハース版」と称し、オーレルが校訂した楽曲については「オーレル版」と称している。
Chronologie der Bruckner-Gesamtausgabe 1934-1944 (Editionsleitung Robert Haas)
1934 9. Symphonie (Orel)
   Vier Orchesterstücke (Orel)
1935 1. Symphonie, Linzer und Wiener Fassung (Haas)
5. Symphonie (Haas)
6. Symphonie (Haas)
1936 4. Symphonie, 2. Fassung (Haas)
1938 2. Symphonie als Mischform aus 1. und 2. Fassung (Haas)
1939 8. Symphonie als Mischform aus 1. und 2. Fassung (Haas)
1940 Messe in e-Moll, 2. Fassung (Haas – Nowak)
1944 7. Symphonie (Haas)
Messe in f-Moll (Haas)
※引用(www.mwv.at/ 、Musikwissenschaftlichen Verlag – 国際ブルックナー協会によるスコアの出版元)
1934年 《交響曲第9番》アルフレッド・オーレル校訂
1934年 《4つの管弦楽小品》アルフレッド・オーレル校訂
1935年 《交響曲第1番》「リンツ版」および「ウィーン版」 ハース校訂
1935年 《交響曲第5番》ハース校訂(同年10月20日ミュンヘンでジークムント・ハウゼッガー指揮で演奏された)
1935年 《交響曲第6番》ハース校訂
1936年 《交響曲第4番》1878/80年稿 ハース校訂
1938年 《交響曲第2番》ハース校訂
1939年 《交響曲第8番》ハース校訂
1940年 《ミサ曲第2番》ホ短調 ハース及びノヴァーク校訂
1944年 《交響曲第7番》ハース校訂
1944年 《ミサ曲3番》へ短調 ハース校訂

4-5. 1951年、国際ブルックナー協会の活動拠点はウィーンに戻り、ハースが解任された後の作業は、レオポルド・ノヴァークが編集主幹(1951–1989年)に任命され再開された。
ノヴァークは、ハースが既に校訂した作品もすべて校訂をやりなおしを命じられ、あらためて出版した。
戦後最初の出版物はフリッツ・オーザー(Fritz Oeser)編集の《交響曲第3番》であった。以後複数の作品を発表した。
これらを「第2次全集版(新全集)」または「ノヴァーク版」と称している。
ノヴァーク版には、第一稿(N₁)、第二稿(N₂)、第三稿(N₃)と複数の稿が存在する。
このため、「ハース版」と「ノヴァーク版」の2種類の原典版が存在する。

4-6. 戦後就任したレオポルト・ノヴァークLeopold Nowak,編集主幹の校訂した「第2次全集版」(1951-1989年ノヴァーク版)は以下の通り。
Chronologie der Bruckner-Gesamtausgabe 1951 – 1989 (Editionsleitung Leopold Nowak)
1951 9. Symphonie (Nowak)
5. Symphonie (Nowak)
1952 6. Symphonie (Nowak)
1953 4. Symphonie, 2. Fassung (Nowak)
1. Symphonie, Linzer Fassung (Nowak)
1954 7. Symphonie (Nowak)
1955 8. Symphonie, 2. Fassung (Nowak)
Streichquartett c-Moll (Nowak)
1957Messe d-Moll (Nowak)
1959 3. Symphonie, 3. Fassung (Nowak)
Messe e-Moll, 2. Fassung (Nowak)
1960Messe f-Moll (Nowak)
1962 Te Deum (Nowak)
1963 Streichquintett mit Intermezzo (Nowak)
1964 Psalm 150 (Grasberger)
1965 2. Symphonie (Nowak)
1966 Requiem (Nowak)
1968 „Nullte” Symphonie (Nowak)
1972 8. Symphonie, 1. Fassung (Nowak)
1973 Studiensymphonie (Nowak)
1975 4. Symphonie, 1. Fassung (Nowak)
Missa solemnis in B (Nowak)
1977 Messe e-Moll, 1. Fassung (Nowak)
1979 3. Symphonie, 1. Fassung (Nowak)
1980 Adagio Nr. 2 zur 3. Symphonie (Nowak)
1. Symphonie, Wiener Fassung (Brosche)
1981 Finale 1878 zur 4. Symphonie (Nowak)
3. Symphonie, 2. Fassung (Nowak)
1984 Kleine Kirchenmusikwerke (Bauernfeind – Nowak)
1985 Rondo c-Moll für Streichquartett (Nowak)
1987 Kantaten und Chorwerke (Burkhart – Führer – Nowak)
1988 Werke für Klavier zu zwei Händen (Litschauer)
※引用(www.mwv.at/ 、Musikwissenschaftlichen Verlag – 国際ブルックナー協会によるスコアの出版元)
1951年<IX> 《交響曲第9番》ノヴァーク校訂
1951年<V> 《交響曲第5番》ノヴァーク校訂
1952年<VI> 《交響曲第6番》ノヴァーク校訂
1953年<IV/2> 《交響曲第4番》第二稿 ノヴァーク校訂
1953年<I/1> 《交響曲第1番》リンツ稿 ノヴァーク校訂
1954年<VII> 《交響曲第7番》ノヴァーク校訂
1955年<VIII/2> 《交響曲第8番》第二稿 ノヴァーク校訂
1955年 《弦楽四重奏曲》ハ短調 ノヴァーク校訂
1957年 《ミサ曲第1番》ニ短調 ノヴァーク校訂
1959年<III/3> 《交響曲第3番》第三稿 ノヴァーク校訂
1959年 《ミサ曲第2番》ホ短調 第二稿 ノヴァーク校訂
1960年<XVIII> 《ミサ曲第3番》ヘ短調 ノヴァーク校訂
1962年 《テ・デウム》ノヴァーク校訂
1963年<III/2> 《弦楽五重奏曲》ヘ長調(含むインテルメッツォ)ノヴァーク校訂
1964年 《詩編150》フランツ・グラスベルガー校訂 
1965年<II> 《交響曲第2番》ノヴァーク校訂
1966年 《レクイエム》ノヴァーク校訂
1968年<X> 《交響曲0番》ノヴァーク校訂
1972年<VIII/1> 《交響曲第8番》第一稿 ノヴァーク校訂
1973年<XI> 《交響曲》へ短調 ノヴァーク校訂
1975年<IV/1> 《交響曲第4番》第一稿 ノヴァーク校訂
1975年 《荘厳ミサ曲》ノヴァーク校訂
1977年 《ミサ曲第2番》ホ短調 第一稿 ノヴァーク校訂
1979年<III/1> 《交響曲第3番》第一稿 ノヴァーク校訂
1980年<zuIII/2> 《交響曲第3番》第二楽章アダージョ ノヴァーク校訂
1980年<I/2> 《交響曲第1番》ウィーン稿 ギュンター・ブローシェ校訂
1981年<zuIV/2> 《交響曲第4番》1878年のフィナーレ<フィナーレ2>ノヴァーク校訂
 《交響曲第3番》第二稿 ノヴァーク校訂
1984年 《小規模教会音楽作品》(混声合唱) ノヴァーク及びバウエルンファイント校訂
1985年 《弦楽四重奏曲》ロンド ハ短調 ノヴァーク校訂
1987年  Kantaten und Chorwerke (Burkhart – Führer – Nowak)
1988年  Werke für Klavier zu zwei Händen (Litschauer)

1989年ノヴァークは、健康上の理由で編集主幹を辞任した。

4-7. ノヴァーク以後は、フォッグが編集主幹に任命された。
1989年 国際ブルックナー協会校訂譜出版社のヘルベルト・フォッグ(Herbert Vogg)が編集主幹に就任し、ウィリアム・キャラガン(William Carragan)、ベンヤミン=グンナー・コールズ(Benjamin-Gunnar Cohrs)、ベンヤミン・コーストヴェット(Benjamin Korstvedt)ポール・ホークショウ(Paul Hawkshaw)や他のブルックナー研究者と協力して校訂譜を作成し続け、この作業は2001年に完了した。

キャラガン Carragan校訂、コールズCohrs校訂、コーストヴェットKorstvedt校訂、ホークショウHawkshaw校訂等々の新校訂譜が出版されている。
これらは「ノヴァーク版」とは称しないが「新全集版」に含まれる。

4-8.日本人ブルックナー研究家の発見ほか
※2003年《交響曲第8番》第三楽章<アダージョ2>、Gault=Kawasaki 校訂版。
この版は、大阪在住のブルックナー研究家、川﨑高伸TAKNOBU KAWASAKI,が1999年ウィーンのオーストリア国立図書館で《交響曲第8番》のアダージョに関するマイクロフィルムを閲覧中に「コピー」とだけで登録されている資料を見つけた。それまでに知られていた<アダージョ1>(第1稿)とも<アダージョ3>(第2稿)とも全く違う資料(Mus.Hs.34.614)であり、川崎はそれをコピーして持ち帰り、帰国後調査した結果、それは「ブルックナーの第2稿のオリジナル譜Mus.Hs.40.999(手書き筆写合成譜)が一旦完成した時点で筆写されたものであると判明し、校訂されたものであった。「オリジナル譜」の方は、その後さらに大々的に改訂されて現行の第2稿として現存する「アダージョ3」。
発見の報道は、2004年8月30日付け日本経済新聞朝刊文化欄に掲載された。
この版の世界初演は、2004年9月4日、内藤彰指揮、東京ニューシティ管弦楽団が池袋の東京芸術劇場で演奏さされた。CDとなっている(DCCA-0003デルタ・クラシックス)。また、シャラーSchallerもこれをCDとしている(Gerd Schaller Phiharmonie Festiva PH13027 Profil Medien Gmbh 2013)。
これは、単独楽章の異稿の通例で《交響曲第8番》<アダージョ2>と名付けられた。同資料に注目していたダーモット・ゴールトとの共著としてGault=Kawasaki Version名で、ゴールトがホームページ上で公表した。なお、全集版では《交響曲第8番》担当のホークショウが同曲の補完として出版する予定といわれている。
この項参考資料:※川崎高伸のブルックナー研究論文を下記に記す(川崎氏の好意と協力を受けた)。
1. 『ブルックナー「第8交響曲」アダージョの楽譜を探る』、芸術現代社 ⑴-1999年11月、その⑵2000年7月、そ⑶2004年
12月発行 。
2. 『国際ブルックナー協会全集版「第四交響曲」第3稿をめぐって』 (特集2 ブルックナー–版問題を探る) 、音楽現
代、2005年11月発行 。
3. 『ブルックナー/交響曲第3番』~新稿世界初演、音楽現代、2008年1月発行。
4. 『フルトヴェングラー・カラヤン・朝比奈隆のブルックナー演奏』、音楽現代、2008年12月発行。
5. 『ブルックナーの交響曲にとって「版」とはなにか?』、音楽現代、2009年8月発行。
6. 『フルトヴェングラーにみるブルックナー演奏再考』、音楽現代、2010年5月発行。
7. 『アントン・ブルックナー』(特集=作曲家の交響曲に至る道)、音楽現代、2014年6月発行。
8. 《第八交響曲》アダージョの五つの形-「アダージョ2」、http://www.cwo.zaq.ne.jp/kawasaki/MusicPot/8sy.adagiohtml 。

※近年、国際ブルックナー協会による全集版(原典版)による「無視」や「削除」を様々な理由から見直す動きが出ている。第三次批判全集版として「新アントン・ブルックナー全集」(Neue Anton Bruckner. Gesamtausgabe)の作業が開始された。

※かなりの数の指揮者(例えば:ヘルベルト・フォン・カラヤン、ギュンター・ヴァンド、ベルナルト・ハイティンク)がハース版を演奏している。ノヴァークの戦後版は、ハースの戦前版よりもはるかに演奏されている。

参考、出典、引用Referenzen, Quellen, Zitate:「ANTON BRUCKNER (1824 -1896) CRITICAL COMPLETE EDITION」。http://www.mwv.at/english/TextBruckner/BruckStart/BruckStart.htm、最終アクセス2020年2月5日。「ブルックナーの版問題」、https://ja.wikipedia.org/wiki/ブルックナーの版問題、最終アクセス2020年2月7日。「ブルックナー」、門馬直美著、春秋社、1999年発行。「クラシック作曲家辞典」、中河原理監修、フェニックス企画編 東京出版堂、平成4年発行。「ブルックナーの研究」、レオポルド・ノヴァーク著、樋口隆一訳、音楽之友社、2018年発行。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」 (2017/11/24 05:17 UTC 版)最終アクセス2020年2月5日 / 「Versions and editions of Bruckner’s symphonies」、https://en.wikipedia.org/wiki/Versions_and_editions_of_Bruckner%27s_symphonies、最終アクセス2020年2月9日。「ブルックナー(作曲家別・名曲解説ライブラリー)」、音楽之友社編、音楽之友社、2002年発行。「ブルックナー交響曲」ハンス=ヨアヒム・ヒンリヒセン著、高松祐介訳、春秋社、2018年発行。国際ブルックナー協会全集版「第四交響曲」第3稿をめぐって (特集2 ブルックナー–版問題を探る)、https://ci.nii.ac.jp/naid/40006987825。https://ci.nii.ac.jp/author?q=%E5%B7%9D%E5%B4%8E+%E9%AB%98%E4%BC%B8(www.mwv.at/ 。Musikwissenschaftlichen Verlag – 国際ブルックナー協会によるスコアの出版元)、最終アクセス2020年3月21。

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Recorded live on 16 May 1996 at Orchestra Hall, Chicago.
Takashi Asahina conducting the Chicago Symphony Orchestra.

ブルックナー《交響曲第五番》/ 朝比奈隆 指揮
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Takashi Asahina & Osaka Philharmonic Orchestra – 1998/7/16

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ベルリン・フィル
1942年10月25日27日ベルリン、ベルンブルガー、フィルハーモニー(ライブ)
Symphony n°5 (1878 ed. Haas 1935)
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Live recording, Berlin, 25/28.X.1942

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NDR交響楽団
1996年シュレースヴィヒ=ホルシュタイン音楽祭
Sinfonie Nr. 6 A-Dur
Günter Wand, / NDR Sinfonieorchester
Schleswig-Holstein Musik Festival, 1996

《交響曲第六番》 / クリストフ・エッシェンバッハ指揮
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《交響曲第六番》/ チェリビダッケ 指揮
ミュンヘン・フィル
Symphony No 6 Münchner Philharmoniker Celibidache
 

《交響曲第六番》と《交響曲第9番》/ バーンスタイン 指揮
Symphony No 6 in A Major (Nowak edition) by Anton Bruckner New York Philharmonic Leonard Bernstein.
Anton Bruckner Symphony No 9 in D minor Vienna Philharmonic Orchestra Leonard Bernstein.

《交響曲第七番/ オイゲン・ヨッフム 指揮
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
昭和女子大学 人見記念講堂 昭和61年9月17日
《Symphony No 7》 in E Major
Concertgebouw Orchestra
Eugen Jochum conductor
Showa Frauenuniversität Hitomi Memorial Hall Japan
17. September 1986

《交響曲第七番》第二楽章アダージョ / オイゲン・ヨッフム 指揮
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
『1月22日《交響曲第7番》第二楽章アダージョに着手。「ある日、家にもどる途中、大変悲しい気持ちに襲われた。ワーグナーはもう長く生きていられないのではないか、と私は考えていた。そのとき、嬰ハ短調のアダージョ(第7番第二楽章)の楽想が浮かんできたのだ」とフェリックス・モットルFelix Josef von Mottlに手紙を書いている。』と

《交響曲第七番》/ クラウディオ・アバド 指揮
ルツェルン祝祭管弦楽団
《Symphony No. 7》 Claudio Abbado
Lucerne Festival Orchestra

《交響曲第七番》/ チェリビダッケ 指揮
ミュンヘン・フィル
Symphony No 7 Münchner Philharmoniker Celibidache
 

《交響曲第七番》/ カール・ベーム 指揮
ベルリン・フィルハーモーニー
1977年3月24日
《Symphony No.7 》in E Major, WAB 107
Karl Böhm / Berliner Philharmoniker
3/24 1977 live Berlin

《交響曲第八番》/ ヘルベルト・フォン・カラヤン 指揮
ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
1979年06月04日 リンツ:ザンクト・フローリアン教会

《交響曲第八番》/ ヘルベルト・フォン・カラヤン 指揮
ウィーン・フィルハーモニー
1979年06月04日 リンツ:ザンクト・フローリアン教会

《交響曲第八番》ハーズ版/ 朝比奈隆 指揮
第243回定期演奏会
【朝比奈隆 指揮生活50周年記念】
大阪フィルハーモニー交響楽団
1989年9月8日 大阪・フェスティバルホール

《交響曲第八番》/ 朝比奈隆 指揮
NHK交響楽団
《Symphony No.8》
Asahina NHK Symphony Orchestra

《交響曲第八番》/ チェリビダッケ 指揮
ミュンヘン・フィル
Symphony No 8 Münchner Philharmoniker Celibidache
 

《交響曲第八番》「第三楽章アダージョ2」川崎高伸:校訂「1888年異版」/ ゲルト・シャラー 指揮
フィルハーモニー・フェスティヴァ
2012年7月バイエルン州 エーブラハ修道院教会 ライブ録音(世界初演)
(このCD、キャラガン校訂は、第一、第二、第四楽章はキャラガン、第三川崎校訂)
《Bruckner – Symphony No.8, Part 3 》III.Adagio. Variant of 1888 (Edition Carragan)
World Premiere Recording
Gerd Schaller1 / Philharmonie Festiva
Live-Recording: July 2012, Abteikirche Ebrach

《交響曲第9番》ニ短調 / カルロ・マリア・ジュリーニ 指揮
シュトゥットガルト放送交響楽団
Orquesta de la Radio de Stuttgart.
《Symphony No. 9》 in D minor
Carlo María Giulini,director.

《交響曲第9番》ニ短調 / クラウディオ・アバド 指揮
ベルリン・フィル
1997年5月17日 日本公演
《Symphony No. 9》 in D minor
I. Feierlich, Misterioso
II. Scherzo (bewegt, lebhaft)
III. Adagio (sehr langsam, feierlich)
Claudio Abbado, / Berliner Philharmoniker Orchester

ブルックナー:交響曲第9番 ニ短調 WAB109(原典版) 貴重な音源
朝比奈隆・指揮/シカゴ交響楽団
1996年10月24日、シカゴ、オーケストラホールでのライブ録音
《Symphony No. 9》 in D minor 
Recorded live on 24 October 1996 at Orchestra Hall, Chicago.
Takashi Asahina conducting the Chicago Symphony Orchestra.

交響曲第9番ニ短 / ヴォルフガング・サヴァリッシュ 指揮
ザルツブルク音楽祭
ウィーン・フィル
1983年8月10日

《交響曲第9番》/ フルトヴェングラー 指揮
ベルリン・フィル
1944年10月7日 ベートーヴェン・ホール
《Symphony No. 9 》
Berlin Philharmonic Orchestra conducted by Wilhelm Furtwängler
Recorded Beethovensaal, Berlin, 7th October, 1944

《ブルックナー 交響曲全集》/ オイゲン・ヨッフム 指揮
ベルリン・フィル
バイエルン放送交響楽団
《Symphonies 1,2,3,4,5,6,7,8,9 》(reference recording : Eugen Jochum)
《Symphony #1》 In C Minor *
Allegro (00:00)
Adagio (12:39)
Scherzo. Schnell (25:13)
Finale. Bewegt, feurig (34:08)

《Symphony # 2》 In C Minor **
Moderato (47:21)
Andante (1:05:16)
Scherzo. Mäßig schnell (1:19:20)
Finale. Mehr schnell (1:25:52)

《Symphony #3》 In D Minor **
Mehr langsam, Misterioso (1:39:10)
Adagio, bewegt, quasi Andante (1:59:14)
Ziemlich schnell (2:14:32)
Allegro (2:21:46)

《Symphony #4》 In E Flat ‘’Romantic’’ *
Bewegt, nicht zu schell (2:32:24)
Andante quasi Allegretto (2:50:03)
Scherzo. Bewegt (3:06:49)
Finale. Bewegt, doch nicht zu schnell (3:16:54)

《Symphony #5》 In B Flat **
Introduction. Adagio, Allegro (3:36:58)
Adagio. Sehr langsam (3:57:52)
Scherzo. Molto vivace – Schnell (4:17:15)
Finale. Adagio – Allegro moderato (4:29:50)

《Symphony #6》 In A **
Majestoso (4:53:49)
Adagio. Sehr feierlich (5:10:26)
Scherzo. Nicht schnell (5:27:40)
Finale. Bewegt, doch nicht zu schnell (5:35:35)

《Symphony #7》 In E *
Allegro moderato (5:48:54)
Adagio. Sehr feierlich und sehr langsam (6:09:33)
Scherzo. Sehr schnell (6:34:35)
Finale. Bewegt, doch nicht schnell (6:44:18)

《Symphony #8》 In C Minor *
Allegro moderato (6:56:50)
Scherzo. Allegro moderato (7:10:33)
Adagio. Feierlich langsam; doch nicht schleppend (7:24:35)
Finale. Feierlich, nicht schnell (7:51:17)

《Symphony #9》 In D Minor *
Feierlich, misterioso (8:11:06)
Scherzo. Bewegt, lebhaft (8:34:24)
Adagio. Langsam, feierlich… (8:44:13)

*Berliner Philharmoniker
**Symphonie-Orchester des Bayerischen Rundfunks
Eugen JOCHUM
Stéréo recordings in 1958,1964-67
Label : Deutsche Grammophon

《序曲ト短調》WAB 98 朝比奈隆 指揮
大阪フィルハーモニー管弦楽団
OVERTURE in G minor, WAB 98
TAKASHI ASAHINA, cond./Osaka Philharmonic Orchestra
Recording: Festival Hall, Osaka, 17 February 1989

《交響曲へ短調》WAB 99 / ウラディーミル・アシュケナージ 指揮
ベルリン・ドイツ交響楽団
Symphony Nº 00 in F minor ,WAB 99 “Study Symphony”
Deutsches Symphonie-Orchester Berlin
Vladimir Ashkenazy

《序曲ト短調》WAB 98 / マティアス・ギーゼン 指揮
聖フローリアン・アルトモンテ管弦楽団
2005年8月20日 聖フロリアン修道院
Anton Bruckner/G Moll Ouverture
Stift St. Florian/20. August 2005
Altomonte Orchester St. Florian
Leitung Matthias Giesen

《弦楽五重奏曲》ヘ長調
String Quintet in F major, HD live-recording
アリーナ・イブラギモヴァ(Vn.)、アミハイ・グロス(Va.)
アンヌ・ガステイネル(Vc.)、ギス・クレイマー(Va.)、リザ・フェルシュトマン(Vn.)

《ミサ・ソレムニス》WAB 29 / ユルゲン・ユルゲンス 指揮
イスラエル室内管弦楽団 1984年
Missa Solemnis in B-flat (WAB 29)
Cilla Grossmeyer,(S) / Mira Zakai,(A) / Wilfried Jochens,(T)
Assen Vassilev
Werner Kaufman, organ
Monteverdi Chor Hamburg
Conducted by Jürgen Jürgens / Israel Chamber Orchestra
1984

《レクイエム》/ マイヤ・ブレクサ 指揮
Requiem in d-Moll WAB39 / Conducted by Maija Breiksa
Gem. Chor Biberist
AdHoc Orchestra
Ilze Paegle(S) / Bernadeta Sonnleitner(A)
Matthias Müller(T)
Ralf Erns(B) / Conducted by

《テ デウム》/ ヘルベルト・フォン・カラヤン 指揮
ウイーン・フィル
《 Te Deum 》in C major.
Herbert von Karajan / Wiener Philharmoniker.
Anna Tomowa-Sintow; soprano.
Agnes Baltsa; mezzo-soprano.
David Rendall; tenor.
José Van Dam; bass-baritone.
Wiener Singverein — chorus master: Helmuth Froschauer.
Record at Vienna in 1978, Der Großer Saal des Wiener Musikvereins.

《ヘルゴラント》 WAB71 / バレンボイム 指揮
バレンボイム/シカゴ交響楽団/合唱団
Helgoland Cantata WAB71
Chicago Symphony and Choir / conducted by Daniel Barenboim

《ミサ曲第1番ニ短調》 WAB26 / ジョン・エリオット・ガーディナー 指揮
ルーシー・クロウ(S.) / ジェニファー・ジョンストン(Ms.)
トビー・スペンス(T.) / ギュンター・グロイスベック(B.)
バイエルン放送交響楽団
Mass No. 1 in D minor, WAB 26

《ミサ曲 第2番 ホ短調》 WAB 27 / ヘルムート・リリング 指揮
シュトゥットガルト・ゲヒンゲン聖歌隊
シュトゥットガルト・バッハ・コレギウム

《ミサ曲第3番》へ短調 WAB28 / ヘルベルト・ブロムシュテット 指揮
菅英三子(S.)/加納悦子(A.) ペーター・シュトラーカ(T.)
マーティン・スネル(B.) / 二期会合唱団
NHK交響楽団
2001.4.12 NHKホール

《ミサ曲第3番》へ短調 WAB28 / クリストフ・ゲケリッツ 指揮
アデリア・ザバロヴァ(S.) / ジュリアン・ブハーゲン(A.)
ユン・フェン・スー(T.) / マチェイ・コズロウスキ(Bs.)
アン・クリスティン・グリム(Vn.) / アレクサンダー・ヨルダノフスキー(Va.)
ロストック音楽/演劇大学管弦楽団および室内合唱団
シュヴェリン音楽高校の青少年合唱団
2015年1月26日 ニュルンベルグ カタリネンサール劇場 ライブ
Live-Mitschnitt vom 26.01.2015 aus dem Katharinensaal der HMT-Rostock
Adelya Zabarova, Sopran – Juliane Bookhagen, Alt
Yun-Feng Hsu, Tenor – Maciej Kozlowski, Bass
Violin-Solo: Anne-Kristin Grimm
Vioal-Solo: Aleksandar Jordanovski
Hochschul- und Kammerchor, Jugendchor des Musikgymnasiums Schwerin,
Hochschulorchester, Leitung: Prof.Christfried Göckeritz

《ミサ曲第3番》へ短調 WAB28 / ユージン・ヨッカム 指揮
マリア・スターダー(S.)/クラウディア・ヘルマン(A.)/エルンスト・ヘフリガー(T.)/キム・ボルグ(Bs.)
バイエルン放送合唱団 / バイエルン放送交響楽団
スタジオ録音、ミュンヘン 1962年7月

「ゲルマン人の行進」/ ロバート・シュワン 指揮
ロバーツ・ウェスリアン大学コーラス&ロバーツ・ウェスリアン大学ブラス・アンサンブル
Bruckner / “Germanenzug” WAB70
Jack Richardson (Tr)/Brian Clickner (Tr)
Jeffrey Stell (Br)/Allan Mosher (Bs)
Roberts Wesleyan College Choral/Roberts Wesleyan College Brass Ensemble
Robert Shewan(cond)

《アルネートの墓の前で》WAB 53 / ウカシュ・ボロヴィチ 指揮
Vor Arneths Grab, WAB 53
Artist: Detlef Reimers / Artist: Joost Swinkels
Choir: RIAS Kammerchor
Artist: Simen van Mechelen
Conductor: Łukasz Borowicz
Released on: 2019-11-15

《アヴェ・マリア》
ハインリッヒ・シュッツ / アンサンブル・ヴォルンバッハ+ VIA・NOVA・CHOIR

《この所は神により作られた(ロークス・イステ)》WAB23 混声四部合唱 / ヨハネス・クラインジュン 指揮
ミュンヘン合唱団
2011年2月6日ライブ録音、LMUルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン大講堂
《Locus iste》WAB23
Leitung: Johannes Kleinjung / UniversitätsChor München
Live-Aufzeichnung vom 6. Februar 2011, Große Aula der LMU München

昇階唱《正しい者の口は知恵を語り(Os justi)》WAB30 / ヨハネス・クラインジュン 指揮
ミュンヘン合唱団
2011年2月6日ライブ録音、LMUルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン大講堂
Leitung: Johannes Kleinjung / UniversitätsChor München
Live-Aufzeichnung vom 6. Februar 2011, Große Aula der LMU München》WAB30 

昇階唱《エサイの枝は芽を出し》WAB52 4部合唱 / ヨハネス・クライジュン 指揮
ミュンヘン合唱団
2011年2月6日 LMUルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン大講堂
《Virga Jesse》WAB52
Leitung: Johannes Kleinjung / UniversitätsChor München
Live-Aufzeichnung vom 6. Februar 2011, Große Aula der LMU München

ピアノ曲《思い出》WAB 117変イ長調
アンドレアス・フィッシャー(p)

Abendzauber for mixed choir and Alp horns

参考文献:参考・要約:「名曲辞典」、属啓成著、音楽之友社、昭和44年発行「ブルックナー」、門馬直美著、春秋社、1999年発行 / 「ブルックナー(作曲家別・名曲解説ライブラリー)」、音楽之友社編、音楽之友社、2002年発行 / 「クラシック作曲家辞典」、中河原理監修、フェニックス企画編 東京出版堂、平成4年発行 / 「音楽史(音楽講座)」、堀内敬三著 、音楽之友社、昭和31年「発行 / 「偉大なる作曲家のためのカルテ」、五島雄一郎著、 医療ジャーナル社、2012年発行 / 「西洋音楽の歴史」、高橋浩子編著、東京書籍、1996年発行 / 「ブルックナー交響曲」ハンス=ヨアヒム・ヒンリヒセン著、高松祐介訳、春秋社、2018年発行 / 「大作曲家の生涯」、ハロルド・C・ショーンバーグ著、亀井旭共訳、共同通信社、1984年発行 / 「<作曲家の生涯>ブルックナー」、土田英三郎著、新潮文庫、昭和63年発行 / 「<作曲家・人と作品シリーズ)ブルックナー」、根岸一美著、音楽之友社、2006年発行 / 「ブルックナーの研究」、レオポルド・ノヴァーク著、樋口隆一訳、音楽之友社、2018年発行 / 「Anton-Bruckner」、https://www.britannica.com/biography/Anton-Bruckner / 「Anton-Bruckner」、https://de.wikipedia.org/wiki/Anton_Bruckner / 「Deutsche Biographie 」、https://www.deutsche-biographie.de/sfz6007.html / https://www.wikiwand.com/en/Anton_Bruckner / 「Perspectives on Anton Bruckner(アントン・ブルックナーの展望)」、von Crawford Howie (Editor), Paul Hawkshaw (Contributor), Timothy Jackson (Contributor)、https://books.google.co.jp/books?id=BTQrDwAAQBAJ&pg=PA202&lpg=PA202&dq=Karl+Pohlig,%E3%80%80Stuttgart,&source=bl&ots=_ITFjRKlne&sig=ACfU3U0Rm3FdPgzoMT0Ryo3uvtU1J0frRg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjmsoKGqa_nAhXbad4KHTa-AhcQ6AEwA3oECAoQAQ#v=onepage&q=Karl%20Pohlig%2C%E3%80%80Stuttgart%2C&f=false、最終アクセス2020年2月1日 /  新交響楽団ホームページ」、http://www.shinkyo.com/concert/p226-2.html」、最終アクセス2020年2月1日 交響曲第6番 (ブルックナー)」、https://ja.wikipedia.org/wiki/交響曲第6番_(ブルックナー)、最終アクセス2020年2月1日 / 「Performance timings found in scores from Karl Grunsky's Nachlass (1871 - 1943)」、http://www.abruckner.com/Data/editorsnote/historic-recordings/Grunsky_Bruckner_Timings.htm、最終アクセス2020年2月1日 / 「Internationale Bruckner-Gesellschaft」、 https://de.wikipedia.org/wiki/Internationale_Bruckner-Gesellschaft、最終アクセス2020年2月9日 / Deutsche Biographie 、「Kitzler, Otto」、https://www.deutsche-biographie.de/sfz41222.html、最終アクセス2020年2月8日 / 「Volume 15, Issue 3 December 2018 , pp. 405-419 A Bequest and a Legacy: Editing Anton Bruckner’s Music in ‘Later Times’ Paul Hawkshaw DOI: https://doi.org/10.1017/S1479409818000307 Published online by Cambridge University Press: 26 June 2018」、 https://translate.google.co.jp/hl=ja#view=home&op=translate&sl=en&tl=ja&text=The%20present%20study%20has%20been%20prepared%20on%20the%20occasion%20of%20the%20publication%20of%20the%20New%20Anton%20Bruckner%20Collected%20Works%20Edition%E2%80%99s%20first%20volume%2C%20Thomas%20R%C3%B6der%E2%80%99s%20score%20of%20the%20Linz%20version%20of%20the%20First%20Symphony.%20The%20article%20re-evaluates%20a%20fundamental%20precept%20of%20the%20old%20Gesamtausgabe%20of%20Robert%20Haas%20and%20Leopold%20Nowak%20%E2%80%93%20the%20supremacy%20of%20the%20readings%20in%20Bruckner%E2%80%99s%20autograph%20manuscripts%20over%20those%20in%20his%20first%20prints.%20It%20begins%20with%20a%20brief%20history%20of%20the%20%E2%80%9CBruckner-Streit%E2%80%9D%20of%20the%201930s%20and%2040s%20and%20a%20summary%20of%20more%20recent%20challenges%20to%20the%20Haas-Nowak%20policy.%20An%20overview%20of%20the%20composer%E2%80%99s%20relationship%20with%20the%20brothers%20Franz%20and%20Josef%20Schalk%2C%20who%20were%20responsible%20for%20the%20production%20of%20many%20of%20his%20early%20editions%2C%20demonstrates%20that%20they%20worked%20closely%20with%20him%20at%20first%2C%20but%20began%20to%20make%20alterations%20without%20consulting%20him%20towards%20the%20end%20of%20the%201880s.%20Distinguishing%20Bruckner%20from%20his%20editors%20in%20the%20Third%2C%20Fourth%20and%20Eighth%20Symphonies%20is%20difficult%2C%20if%20not%20impossible.%20From%20an%20editorial%20perspective%2C%20it%20is%20pointless%20because%2C%20in%20these%20scores%2C%20the%20composer%20accepted%20their%20suggestions%20and%20made%20them%20his%20own.%20Later%20publications%20are%20a%20different%20matter.%20The%20discussion%20leads%20inevitably%20to%20a%20re-examination%20of%20a%20clause%20in%20Bruckner%E2%80%99s%20will%20which%20exercised%20a%20controlling%20influence%20over%20the%20old%20Gesamtausgabe%20and%20remains%20a%20seminal%20factor%20in%20any%20editorial%20considerations%20regarding%20Bruckner.%20The%20article%20demonstrates%20that%20the%20composer%20never%20intended%20his%20will%20to%20have%20a%20bearing%20on%20post-mortem%20editorial%20issues%20or%20to%20dictate%20the%20hierarchy%20of%20versions%20of%20his%20pieces.最終アクセス2020年3月8日 / 「Anton Bruckner, in search of the perfect score」、https://csosoundsandstories.org/anton-bruckner-in-search-of-the-perfect-score/ /