ブルックナー

ヨーゼフ・アントン・ブルックナー 生誕 
Joseph Anton Bruckner

4. September 1824 in Ansfelden, Oberösterreich
† 11. Oktober 1896 in Wien

(1824年9月4日オーストリア、リンツの郊外アンスフェルデン生まれ)
(1896年10月11日ウイーンで歿)

1.職 業


österreichischer Komponist der Romantik sowie Organist und Musikpädagoge

オーストリアの作曲家・オルガニスト・音楽教師

2.称 号


アンスフェルデン名誉市民
リンツ名誉市民
ウイーン大学名誉哲学博士
ウィーン楽友協会名誉会員
ウィーン・アカデミー・ワーグナー協会名誉会員
ウィーン男性合唱団連盟名誉会員
ワーグナー協会名誉会員
リーダーターフェル名誉団員

3.<概略 OUTLINE>


3-1.<概略:基礎教育・教員養成学校・Lesson>


1.1828年4才、父から音楽の手ほどきを受け、小型のヴァイオリンで聖歌を弾けるようになった。家にあるスピネット (小型のチェンバロの一種)に向かい和音のある演奏を楽しんだ

2. 1830年6才、小学校入学

3.1831年7才、父から歌、ピアノ、オルガン、ヴァイオリンのレッスンを受けた

4. 1835年11~13才、作曲家の従兄のJohann Baptist Weiß(ヴァイス)のもとに預けられ、通奏低音法に基づいたオルガン奏法と、和声など音楽理論の基礎を学んだ

5.1837年13~15才、ザンクト・フローリアン修道院付属学校で通奏低音と音楽理論を校長のミヒャエル・ボーグナーに、アントン・カッティンガーからオルガンとピアノを、マックス・グルーバーにヴァイオリン等の科目を勉強し、変声期の15才で修了した

6.1839年15才、ザンクト・フローリアン修道院長アルベートは、教師ゲオルク・シュタインマイヤーを学習指導につけリンツの教師養成学校の勉強続けさせた

7.1840年16才、リンツの初等教育課程教員養成学校に入り、10ヵ月の教育を受けた。 Durrnberger, Johann August (デュルンベルガー)の指導で和声、対位法や楽曲研究、バッハのフーガの技法を学んだ

8.リンツの初等教育課程教員養成学校の試験に合格し全課程を終えた

9.1843~46年19~22才、エンスの町の聖歌隊長レオポルド・エドラー・ツェネッティに週三回、ピアノ、オルガン、音楽理論のレッスンを受けた

10.1850年26才、中等学校の教員になるための補習課程として、リンツの実科中学で二年間、一般の教育を受けることになった

11.1855年31才、リンツで中等学校教師のための個人試験を受け、28日合格証書が授与された

12.1855~61年31~37才、ウィーン音楽院教授ジーモン・ゼヒターから和声法、対位法等々の指導を受けた

13.1861年37才からリンツ市立歌劇場の指揮者オットー・キッツラーに管弦楽法等の指導を受けた

14. 1863年39才、キッツラー後は友人でリンツ劇場の楽長イグナーツ・ドルンからレッスンを受けた

3-2.<初期概略 1824–1840,Outline>


1.1824年9月4日ヨーゼフ・アントン・ブルックナーは、午前4時頃上部オーストリアのオーバーエスターライヒ州アンスフェルデンAnsfeldenで生まれた

2.父アントンは学校長兼オルガニスト。ブルックナーは長男として生まれ、祖父と父親の名をとってヨーゼフ・アントン・ブルックナーと名付けられた。幼少の頃は家族の間ではトーネル(Tonerl)と呼ばれていた。下に、妹三人、ロザーリエ、ヨゼフィーネ、マリーア・アンナ、そして弟のイグナーツ(イグナーツは1913年80才まで生きた)がいた

3.父は村の学校長の仕事のほかカトリック教会のオルガニストで、聖歌隊の指揮やオルガンを弾く務めがあった。リンツ楽友協会の会員でありヴァイオリンも上手かった。幼少期のトーネルは、オルガンの椅子の父親の隣の席に座り、父の演奏するオルガンに耳を傾けて過ごしたようだ

4.母のテレーゼ(Therese)は美声の持ち主で歌唱の心得があった。日曜日の教会の礼拝にはトーネルを連れて行き、教会の聖歌隊メンバーとして歌っていた。家庭環境がこうした雰囲気もあり、トーネルは自然にミサ曲や宗教的音楽に慣れ親しむようになり、音楽を身近に感じながら育った。教会には小さな楽団があり、小作品が演奏されていた。音楽を生で聴きながら育ったトーネルは、幼少期は恵まれた音楽環境の中で過ごしていた。

5.13才の時、父が46才で歿し、母の計らいで聖フローリアン修道院の少年聖歌隊員となり、付属学校に入学した。オルガンをはじめとした音楽教育を受け、多くの音楽活動に参加した。少年ブルックナーは祖父や父と同じ教師になることを考え、1840年教員資格を取得し、16才で小学校助教員として社会人になった

3-3.<職歴概略Outline>


ブルックナーの最初の職業は作曲家ではなかった。1840年16才、祖父や父がそうであったように教員生活を選び、リンツの初等教育課程教員養成学校に入学した。1841年18才になったブルックナーは、北部ミュールハイテル地域、ヴィントハークの小さな村の小学校補助教員になった。その後1894年ウィーン大学の職を辞すまで53年間、教職に就いていた

1845年22才、聖フロ-リアン修道院付属学校の補助教員になる

1850年26才でフローリアン修道院の臨時オルガニストに任命される

1851年27才~1857年 33才、聖フロ-リアン修道院オルガニストに任命される

1855年31才、リンツで中等学校教員試験に合格し中等学校教員合格証書が授与された

1856年32才~1870年 46才、リンツ大聖堂オルガニストに就任する

1861年37才、ウィーン音楽院の和声学・対位法教師の地位を得ようと能力試験を楽友協会で受け合格する

1868年45才~1890年 66才、ウィーン音楽院教授に就任し通奏低音、対位法、オルガンを教えた

1870年46才~1874年 50才、ウィーン聖アンナ教員養成所でピアノ、オルガンと理論の教員となり兼務した

1875年51才~1894年 70才、ウィーン大学で和声学、対位法の講師となり講座を兼務した

1878年54才~1892年 68才、ウィーン宮廷礼拝堂専任オルガニストに就任する

3-4.<人柄概略 Persönlichkeit>


1.子供好きで小さな子供の合唱団員のためにポケットに菓子がいっぱいつまっていた
2.書棚には宗教書、音楽書のほかは興味のあったメキシコ、北極探検の本くらいしかなかった
3.ウィーンの住居は簡素であったがイギリス製の真鍮製のベットは当時としてモダンであった
4.家では夕方、大きなふた皿のスープを飲んでから作曲にかかった
5.しばしば夜の10~11時過ぎには友人や弟子とゆきつけのレストランで10杯をこえるビールを飲んだ
6.家で作曲するときは冷えたコーヒーをブラックのままで、がぶ飲みするのが習慣だった
7.レストランで好んで食べたのは、各種燻製と肉団子に野菜を添えたものとシチューと魚肉と卵のスクランブルであった
8.土地特有の家庭料理とヌードル・スープやチョコレート・スープも好んでいた
9.デザートは、リンゴ、桜桃入りケーキ、ミルク・ヌードル、スモモの練り物であった
10.上部オーストリア(アンスヘルデン、リンツ等ウィーンに出るまで住んでいた土地)に居る時は、ナシやリンゴの果実酒を愛飲していた
11.ビールはピルスナーを0.3㍑ジョッキで泡の入ったままのものを注文し、とまり木に陣取り十杯以上は普通だった
12.身長は170㎝くらいで太り気味、髪は黒っぽいブロンドで短め、のちに白髪。ひげはちょっぴりたくわえ「貴族のひげだ」と得意になっていた
13.スポーツは水泳もダイヴィングも得意で、ダンスもかなり上手かった
14.服装は自身「簡素、エレガント」と言っており気を使っていた、それに気心地のよさと活動の敏捷さを大切にしていた
15.服装はフィット感はなく、だぶだぶ気味の服で上衣もはめ、オルガン演奏と運動のために短いズボンを選んだ
16.靴は横側にゴムのある長めを愛用し靴箱には3-40足あった
17.つばの広いソフト帽と大きめの赤か青のハンカチを使い、汗を拭く、食事に使う、ケーキ用の清潔なナプキン用を持っていた
18.多くの点で、風習からずれていたが、けっして無頓着ということではなかったようだ

4.家系


ブルックナー家の先祖は14世紀に遡る。約400年にわたりリンツ近くで代々農業と手工業を生業にしていたようだ
先祖の一人と言われているイェルク・プルックナーJürg Pruckner(1400年頃の人物)という農民がリンツ東方のエートOed辺りにプルックホーフPruckhofと呼ばれる土地を持っていた。ブルックナーという姓の由来らしい

曾祖父:ヨーゼフ・プルックナー(1716頃~1775年)は、エート近くのピーラPyhraで生まれ、石職人のヤーコブ・ペルガーの娘マリア・テレジアと結婚後に家を持ち、一時採石所を経営し裕福になり、村の参事会員となり貴族階級と付き合うようになった。エートでは宿屋、樽や桶作り等の仕事をしていた。二人には9人の子供が生まれた

祖父:ヨーゼフ・プルックナー(1749~1831年)は、エートで生まれ父の仕事を継いだが16才の時に、教師となり各地を転勤した
1776年にオーバーエスターライヒのアンスフェルデンの小学校の校長に転任した
1777年8月、アンスフェルデンの前任校長セバスティアン・クレッツアーの娘フランツィスカ・クレッツァー(Franziska Kletzer,)と結婚
1823年校長を辞めて引退した。二人には12人の子供が生まれたが、何人かは夭折した

父:アントーン・プルックナー(1791~1837年)は十番目の子供として生まれた
1814年教師となり父ヨーゼフの助手を務めた
1823年引退した父のあとを継いで校長になった。シュタイヤー近郊ノイツォイクで地方公務員を務めながら宿屋を経営していたフェルディナント・ヘルムの娘テレーゼ・ヘルムTherese Helm(1801~1860年)と結婚し、11人の子供が生まれ、5人が成人した

5.ブルックナー年譜


.1824年9月4日ヨーゼフ・アントン・ブルックナーは、午前4時頃上部オーストリアのオーバーエスターライヒ州アンスフェルデンAnsfeldenで生まれた
父アントンは学校長兼オルガニスト。ブルックナーは長男として生まれ、祖父と父親の名をとってヨーゼフ・アントン・ブルックナーと名付けられた。幼少の頃は家族の間ではトーネル(Tonerl)と呼ばれていた。下に、妹三人、ロザーリエ、ヨゼフィーネ、マリーア・アンナ、そして弟のイグナーツ(イグナーツは1913年80才まで生きた)がいた
父は村の学校長の仕事のほかカトリック教会のオルガニストで、聖歌隊の指揮やオルガンを弾く務めがあった。リンツ楽友協会の会員でありヴァイオリンも上手かった。幼少期のトーネルは、オルガンの椅子の父親の隣の席に座り、父の演奏するオルガンに耳を傾けて過ごしたようだ
母のテレーゼ(Therese)は美声の持ち主で歌唱の心得があった。日曜日の教会の礼拝にはトーネルを連れて行き、教会の聖歌隊メンバーとして歌っていた。家庭環境がこうした雰囲気もあり、トーネルは自然にミサ曲や宗教的音楽に慣れ親しむようになり、音楽を身近に感じながら育った。教会には小さな楽団があり、小作品が演奏されていた。音楽を生で聴きながら育ったトーネルは、幼少期は恵まれた音楽環境の中で過ごしていた。

1828年4才、父から音楽の手ほどきを受け、小型のヴァイオリンで聖歌を弾けるようになった。やがて家にあるスピネット(小型のチェンバロの一種)に向かい和音のある演奏を楽しんだ

1830年6才、小学校入学

1831年7才、4月祖父ヨーゼフ歿。成績が良いため父の担任する上級クラスに進級し、放課後も父から歌のレッスン、ピアノ、オルガン、ヴァイオリンを学んだ

1833年9才、6月7日リンツで堅信式(信仰告白式)を受けた

1834年10才、この頃から時々父の代理として教会のオルガンを弾くようになった

1835年11才、息子の楽才に気付いていた父親の意思で音楽を勉強するため、春頃リンツ郊外のヘルシングHürschiing に住むトーネルの名付け親でもある、小学校教師の従兄のJohann Baptist Weiß(ヨハン・バプティスト・ヴァイス)のもとに預けられた。ヴァイスはオルガニスト・作曲家として知られていた。ここで1837年までの間、本格的な音楽教育を受けた。通奏低音法に基づいたオルガン奏法と、和声など音楽理論の基礎を本格的に学び、初等教育の基礎科目の勉強をした。教会ではハイドンのオラトリオやモーツァルトの宗教曲に触れる機会を得た
※作品:《パンジェ・リングァ/いざ歌え、わが舌よ》ハ長調(四声合唱曲)WAB31はこの頃の作と言われている
※WABとは、Werkverzeichnis Anton Brucknerアントン・ブルックナー作品目録の略。作品番号を付けなかったブルックナーの作品整理番号として使われている

strong>1836年12才、ヘルシングで勉強していた秋ごろ、父の病気のためアンスフェルデンに戻り、父の代理を務めた
作品:《パンジェ・リングァ》 ハ長調(混声四部合唱)WAB31。

1837年13才、6月7日父の46才の誕生日の日に呼吸不全で亡くなった
父の葬儀後直ぐに母テレーゼに連れられたブルックナーは、リンツ東南およそ15キロに位置するザンクト・フロ-リアンの修道院長ミヒャエル・アルネート(Michael Arneth)を訪れた
母テレーゼは少年聖歌隊員にしたいと相談した。ブルックナーは院長の計らいで修道院学校の給費制として預けられた。そこはローマ人の殉教者聖人フロリアンが埋葬された場所に建つバロック様式のカトリックの大修道院であり、フランツ・クサーヴァー・クリスマン製の大オルガンがあった(このオルガンはブルックナーが愛用したということで後に、「ブルックナー・オルガン」と呼ばれる)
母テレーゼは家財を整理して四人の子供を連れて、エーベルスブルクの安い家賃の家に移り、洗濯婦をしながら残る四人の子供の面倒を見ることにした
修道院の給費制となったブルックナーは寄宿生活をボーグナーの家ではじめた。8月27日付属小学校三学年に編入した。最初に、付属学校で音楽の基礎科目と一般教養の教育を受けた。通奏低音と音楽理論を校長で少年聖歌隊長のミヒャエル・ボーグナーに、声楽をフランツ・ラープから、フランル・グルーバーからヴァイオリンを、修道院オルガニストのアントン・カッティンガーAnton Kattinger,からオルガンとピアノ、和声を学んだ
作品:前奏曲 変ホ長調WAB127、四つの前奏曲 変ホ長調WAB128

1838年学校でオルガンの勉強に励み、即興演奏の練習に専念した

1939年15才、変声期を迎えた夏、修道院付属学校を修了した
その後もとどまり聖歌隊でヴァイオリンを弾いたり、カッティンガーのオルガン助手として修道院にとどまっていた
ブルックナーの進路希望は、父のような教員になりたいと知った修道院長アルベートは、教師ゲオルク・シュタインマイヤーを学習指導につけリンツの教員養成学校の勉強続けさせた

1840年16才、音楽を職業にしようと考えていなかったブルックナーは、寄宿していたボーグナーのところを去り、10月15日リンツの初等教育課程教員養成学校に入校し、10ヵ月の教育を受けることにした。そこは音楽の教育も重視していた
修道院の室内楽団の指揮者をしていた Durrnberger, Johann August (デュルンベルガー)の指導を受け、教材はデュルンベルガーが著した和声、対位法やバッハのフーガの技法やアルブレヒツベルガーのフーガも含まれていた
ブルックナー等の生徒たちは日曜日には近くのミノリーテン教会でハイドンやモーツァルトのミサを歌った
リンツではベートーヴェンの交響曲第四番やモーツァルト、ハイドン等のミサ曲を聴くことができた

1841年17才、7月30日ブルックナーは小学校の初等補助教員になるための試験を受けた
試験は二回あり、二回目の試験は終わり合格した。8月16日初等教員養成学校の全課程を終えた
母の住むエーベルスベルクに滞在後、ボヘミア国境に近く、フライシュタットから遠くない北部ミュールフィアテルの地域、ヴィントハークという貧しく荒れ果てた小さな村の、小学校(トリヴィアルシューレ=ラテン語学校)補助教員として10月3日に到着した
18才になった補助教員ブルックナーは、10月10日から生徒数60~80人の教壇に立った
小学校長のフックスの指示は、授業のほか、教会でオルガンを弾き、フックスの住居の家事や畑仕事に及んだ
ヴィントハークでは音楽好きの一家と出会い、楽団を結成してヴァイオリンを担当し、農民たちの結婚式や踊りの演奏をした。こうした素朴な農民たちの民族音楽にじかに接触する機会があったことは後々、ブルックナの創作に影響を与えることになってゆく
。以前からのバッハのフーガの技法の研究とヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーJohann Georg Albrechtsberger,(ベートーヴェンの師の一人)、マールプルクFriedrich W Marpurgのフーガの研究は続けられた。この地で、作曲とオルガン演奏に力を注ぎミサ曲ハ長調が作られた

1842年18才、ザンクト・フロリアンの修道院長のミヒャエル・アルネートが視察旅行の途次にヴィントハークに来た時、フックス校長はブルックナーについて不満を伝えた
作品:《ヴィントハーク・ミサ曲》ハ長調WAB25

1843年19才、ミヒャエル・アルネート修道院長は1月23日ブルックナーを、シュタイアとエンスの町近郊の小さな村、クローンストルフの学校に転任させた
そこの修道院にはザンクト・フローリアンにあるオルガンと同じクリスマン製のものがあった
着任後にブルックナーは昇給した。ザンクト・フロ-リアンに歩いて行ける距離にあったことでしばしば出かけた
エンスの町には面識のあった聖歌隊長の Leopold von Zenetti ツェネッティが住んでいたので、再会し音楽の指導を受けることになった。週に三回通いピアノ、オルガン、音楽理論を1846年まで受けることになる。教材はダニエル・ゴットロープ・テュルク(Daniel Gottlob Türk,)の「礼拝におけるオルガニストの役割(Von den wichtigsten Pflichten eines Organisten)」やバッハの《平均律クラヴィーア曲集》とコラールだった
ブルックナーは、親切なヨーゼフ・フェルダーマイヤーという農夫から古いスピネットを贈られ自分の教室に置いてバッハなどを演奏した。さらにシュタイアの修道士と親しくなりそこのクリスマン製のオルガンに触れるチャンスを与えられた
シュタイアでは忘れられない思い出もできた。フランスの将軍の娘カロリーネ・エバーシュタラーとの出会いであった。彼女はシューベルトが晩年にシュタイアに来ると二人で連弾を楽しんだという。そして今度は彼女はブルックナーを連弾に誘いシューベルトのときと同じ曲を懐かしんで演奏したという。クローンストルフでは男性合唱団を作り第1バスを歌い、9月19日に初演された《祝典にて》は最初の世俗合唱曲とされている
作品:《祝典にて》 変ニ長調(男性四部合唱)WAB59、《祝典の歌》ニ長調(男性四部合唱)WAB67、《ターフェルリート》変ニ長調(男性四部合唱)WAB86

1844年20才となり既に助教員を1年間務め、正教員の受験資格を満たしていたブルックナーは、来年教師認定試験の準備をはじめた
作品:《聖木曜日のための合唱ミサ曲》ヘ長調(混声四部合唱)WAB9、《リーベラ・メ》WAB21

1845年21才、5月末に三日間のリンツで正教員となるための試験を受け合格。29日の試験では対位法を豊かに取り入れたオルガンの即興演奏には恩師デュルンベルガーも驚嘆したという
8月19日正教員に認定された
9月23日クローンストルフを離任し、25日から聖フロ-リアン修道院付属学校の助教員となり1、2年のクラスと日曜日の補習、歌唱教員として何人かの歌のレッスンが課せられた。カッティンガーのオルガン助手を務めた
ブルックナーは再び校長のボーグナーの家に寄宿した。収入は年36グルデンもらえた
カッティンガーの指導で毎日二時間、オルガンの即興演奏とバッハの作品の演奏を行った。ブルックナーは最初の1年間はエンスのツェネッティのもとに出かけオルガンや理論の指導を受け、音楽を聴くためにリンツにもしばしば出かけた
作品:カンタータ《忘れな草》ニ長調(混声八部合唱)WAB93

1846年22才、
作品:四つの《タントゥム・エルゴ》(混声四部合唱)WAB41、《タントゥム・エルゴ》ニ長調WAB42

1847年23才、アンスフェルデンでつき合っていたフランツ・ザイラーが修道院にいて、ブルックナーにいろいろ便宜を計ってくれた。ザイラーはベーゼンドルファーのピアノを購入し、ブルックナーはこのピアノで即興演奏をすることを楽しみにしていた。リンツでメンデルスゾーンのオラトリオ《聖パウロ》を聴き感銘を受ける
作品:オルガンのための《前奏曲とフーガ》WAB131、《二つのエクアーレ》ハ短調WAB114/149、男声合唱曲《教師の身分》

1848年24才、3月カッティンガーはブルックナーのオルガン能力を証明する証明書を書いた
7月にはザイテンシュテッテンのオルガニスト、プファイファーもオルガン能力証明書を発行した
民衆が蜂起した「ウィーン三月革命」はザンクト・フローリアンにもおよび、ブルックナーは国民軍に入り軍事教練を受けた
9月15日修道院の裁判所書記官フランツ・ザイラーが没し、遺言書にベーゼンドルフ社のピアノをブルックナーに譲ると記されていた。このピアノによりブルックナーの数々の大曲は作られ、死の直前まで傍らにあった。ザンクト・フローリアン修道院の臨時オルガニストになる
作品:《流れ星》ヘ長調WAB85

1849年25才、3月14日ブルックナーは、ザイラーから遺言で贈られたピアノへの感謝の気持ちを込めて作曲した《レクイエム》ニ短調WAB39オーケストラ付きが完成。ザイラーの一周忌の9月15日に聖フローリアンで公開初演された
少年聖歌隊員たちの個人レッスンを始め収入も増え始めたた
秋ごろから上級教員を目指しリンツの下級実科学校に通い始めた
12月24日カッティンガーが聖フローリアン修道院を去った
※《レクイエム》ニ短調は1849年3月11日または14日に完成されたが、スケッチ程度のものが残ってしまっていた。これを1892年(あるいは94年)に完全なものに仕上げた

1850年26才、2月28日フローリアン修道院の臨時オルガニストに任命された。オルガニストとしての収入がもらえるようになった
下級実科学校の5月の試験はいずれも秀の評価であった
7月10日の朝、かっての恩師で作曲家、従兄のヴァイスは教会の基金の積立責者であったが、その金にかなりの額が紛失していることがわかり、警察官が捜査のためにヴァイスの住居に近づいたところ、ヴァイスは墓地に逃げ込み自殺してしうという事件が起こった。ブルックナーは大きな衝撃を受けた。
ブルックナーは、ザンクト・フローリアン修道院学校長の娘アロイジア・ボーグナーに歌曲《春の歌》、ピアノ曲《ランシェ・カドリーユ》《シュタイヤーマルクの人々》を献呈している。ブルックナーの初恋の相手だったかもしれない

1851年27才、9月13日フローリアン修道院長アルネートはブルックナーを修道院オルガニストに任命した
10月リンツの下級実科学校のすべての学業を合格し修了した
ブルックナーは美しい文字を書けたのでリンツの帝立地方裁判所の書記のアルバイトを始めた
作品:男声合唱曲《気高き心》WAB65、歌曲《春の歌》WAB68、ピアノのための舞曲《ランシエ=カドリーユ》ハ長調WAB120、《シュタイアメルカー》ト長調WAB122

1852年28才、初めてウィーンを訪れ、ウィーン宮廷楽長イグナーツ・アッスマイヤーに会った。アッスマイヤーはザルツブルクに生まれ、ミヒャエル・ハイドンに学び、ザルツブルクでオルガン奏者を務めたのちにウィーンに出て、シューベルトと交友を結び、アントニオ・サリエリの門下となった人だ
アッスマイヤーに《レクイエム》を見てもらったほかに、ウィーンの宮廷オルガン奏者で、ウィーン音楽院教授のジーモン・ゼヒターを紹介された
7月30日アッスマイヤーにトロンボーンのための《詩編114篇》WAB36を献呈した
8月15日独唱と混声四部合唱と小規模管弦楽のための《マニフィカト》変ロ長調WAB24を作曲し、聖フローリアン新任聖歌隊長イグナーツ・トラウミーラーに献呈した
9月27日聖フローリアンの聖職者エルンスト・マリネッリの作詞による、カンタータ《神父さま、我らはあなたの気高き祭りを》ニ長調WAB61が完成した。修道院長ミヒャエル・アルネートの命名祝日の9月29日に初演された
作品:男声合唱曲《気高き心》WAB65、歌曲《春の歌》WAB68、ピアノのための舞曲《ランシエ=カドリーユ》ハ長調WAB120、《シュタイアメルカー》ト長調WAB122、《マニフィカト>》WAB24「新約聖書ルカ伝第一章のマリアの讃歌を歌詞とする」

1953年29才、7月友人のシャールシュミットから「仕事を変えるとかの考えを捨てるべきで、自分の進路のために、メンデルスゾーンだけをみつめているのなら間違っている。メンデルスゾーンの源泉はバッハなのであって、バッハを徹底的に勉強すべきだ」という忠告を受けた。

1854年30才、3月24日少年時代から何くれとなく面倒をみてくれた恩師ザンクト・フローリアン修道院長ミヒャエル・アルネートが死んだ
3月28日のアルネートの埋葬式には、アダージョの五声部合唱曲《われを救いたまえ(リベラ・メ)》へ短調WAB22と、この時のために作曲した男声合唱と三本のトロンボーンのための《アルネートの墓の前で》へ短調WAB53の、この2曲とモーツァルトの《レクイエム》が演奏された
4月2日にはブルックナーのニ短調の《レクイエム》WAB39が演奏された
9月13日後任の修道院長フリードリヒ・テオフィール・マイヤーが着任
9月14日の就任式の祝賀のために混声合唱と二管編成の管弦楽とオルガンのための《ミサ・ソレムニス》変ロ短調WAB29が作られマイヤーに献呈され初演されたが、式後の宴席に招待されることがなかったことで分かるように、ブルックナーの評価は、従前同様にここでの音楽への関心の低さと、自分の生活の不満解消に彼が期待するようなことは起こらなかった
10月9日ウィーンで、オルガンの認定試験を受けた。試験委員はアッスマイヤー、ゼヒター、ゴットフリート・プライヤーだった。そのときに演奏した《二重フーガ》は高く評価され、「ブルックナーははかり知ることのできないほどに有能なオルガニストである」というアッスマイヤーの証書を受け取った
11月10日リンツの上級学校事務局に上級学校教員の試験を申請した
(注2.)《ミサ・ソレムニス》1930年旧全集のなかでハースによる校訂版が登場し翌年原典版として単独で刊行された。ブルックナーの新全集にはノヴァークによる1975年ノヴァーク版が収められているが、1977年に改訂されている

1855年31才、1月25~26日リンツで上級学校教員のための個人試験を受け、28日合格証書が授与された
4月プラハの作曲家でオルガニストのロベルト・フューラーがザンクト・フローリアンにやって来た
ブルックナーはフューラーに自作の《ミサ・ソレムニス》変ロ短調を見せ、オルガンの即興演奏を披露したところ、フューラーは推薦状を書き、ゼヒターに師事して和声と対位法を勉強するよう助言した
7月ウィーン音楽院教授ジーモン・ゼヒターを訪ね弟子入りを希望した。ゼヒターは《ミサ・ソレムニス》の楽譜を見て、その才能を高く評価し、とくにそこでのフーガの書法に感心し、ブルックナーを弟子にすることに決めた
ゼヒターは、1825年ウィーンの宮廷第一オルガニストになり、1851年から死ぬまで楽友協会の音楽院の教授の地位を務め、通奏低音と対位法を教えていた。ゼヒターを訪れたブルックナーは願いを受け入れられた
ゼヒターは他の門下と同じ、フランスのフィリップ・ラモーを底本にした自分で著した三巻からなる「作曲の基本」を使わせた。ゼヒターの教えは他の作曲家の研究も含んでいたがブルックは完全にマスターした。修了以降もブルックナーはゼヒターに教えを請い学んだ
11月9日リンツ大聖堂・市教区オルガニストのヴェンツェル・プラングフォーファーが死去した
13日リンツ大聖堂・市教区は空席を補充するため暫定オルガニストを決める予備試験が行われ、かっての師デュルンベルガーの勧めを受け二人で大聖堂に出かけた。試験の課題は、「与えられた主題による即興演奏とその終末のフーガ」で受験者はうまく弾きこなすことができなかった。ブルックナーはオルガンに向かい演奏を終わらせた。結果は第一位に選ばれた
12月8日大聖堂におけるマリアの受胎の祝日のミサでリンツにおける初めてのオルガンを弾いた。正式採用の選考会に田舎者のブルックナーは、都会での生活に申請を躊躇したが周囲の勧めもあり、またフローリアン修道院長のマイヤーがリンツに移っても2年間はオルガニストの身分を確保すると約束し、ブルックナーは願書を書いた
ザンクト・フローリアンのオルガニストを辞任して、12月23日聖フローリアンを出立し翌日リンツ入りし、メスナーホイゼルに宿した。妹のロザーリエがザンクト・フローリアン修道院ので庭師をしていたヨハン・ネポムク・ヒューバーと結婚。ヒューバーはブルックナーの結成した男性四重唱団の第2バスをしていたが1953年フェックラブルックの故郷に帰っていた

1856年32才、1月23日の試験に際し、ブルックナーは服装に拘らない人間で変人と思われていたが、友人たちから小綺麗な服装を心がけるよう忠告された。助言を守り試験にのぞんだ
1月25日リンツ大聖堂及び市教区オルガニスト採用のための、応募者四人に対する選考会が行われブルックナーは「稀にみる才能を発揮した」と評され。
4月25日大聖堂オルガニストの正式な辞令が交付され、給料総額448グルデンとリンツに無料で住まいを借りられた。リンツの務めは、大聖堂のほかに教区のオルガンを演奏することを義務付けられた。ピアノを習う弟子たちのレッスンやその他の音楽理論の指導も行った。これに伴い、恩師のゼヒターと文通し音楽理論の教えを受けた。さらにリンツの男声合唱団のリーダーターフェル「フロージン」のメンバーとして活動し、合唱団の文献担当から1860年には合唱団の指揮者に選ばれるようになる
ゼヒターは17冊におよぶ宿題のノートを送ってよこした。ブルックナーは年に二回ウィーンに出かけ6~7週間滞在し、その時はゼヒターから毎日レッスンを受けた
1858年からはゼヒターから毎年試験を受けなければならなかった。学びながらもブルックナーは作曲は続けていた
7月《アヴェ・マリア》を作曲し聖フローリアンの聖歌隊長のイグナーツ・トラウミーラーに献呈し、10月7日聖歌隊長指揮で初演された
9月6~9日ザルツブルクで開催されたモーツァルト生誕100年祭にリーダー・ターフェル「フロージン」と共に参加し、オルガン演奏も行った。ブルクハウゼンにはオルガン演奏で出かけた
リンツで知り合いができた、その後づっと親しく付き合うようになる、公務員のモーリッツ・マイフェルトと妻のピアニストのバルバラ夫人、声楽教師のアロイス・ヴァインヴルムと弟の作曲家で後のウィーン音楽大学学部長になるルドルフ、ヴァイオリン奏者のイグナーツ・ドルン等とはその後生涯の友人となった
この時は、評論家エドゥアルト・ハンスリックとも知り合いになった。その後リンツ大聖堂の司教フランツ・ルーディギーアとも親しくなった
作品:《アヴェ・マリア》ヘ長調WAB5

1857年33才、リンツでピアノのレッスンをはじめた

1858年34才、司教フランツ・ヨーゼフ・ルーディギーアの許可を得て1~2ヶ月間ウィーンに行くことが許され、ゼヒターのレッスンを受け7月10日、基本和声の試験が初めて行われた
7月12日ウィーンのピアリスト教会で通奏低音とオルガンの試験を受け、ゼヒターから「優れたオルガニスト」としての証明を得た。

1859年35才、ウィーンのゼヒターのもとで学び、厳格対位法試験が行われ合格

1860年36才、4月ゼヒターから対位法試験合格証明書を授与された。ゼヒターの上級の対位法試験に合格
11月7日リーダーターフェル「フロージン」の合唱団の指揮者に選ばれた
11月11日母テレーゼ・ヘルムが肺病で亡くなったと知らされる

1861年37才、2月13日からゼヒターのレッスンがはじまり、3月26日終わった。カノンとフーガの試験を合格し、ゼヒターのもとで6年間師事したすべてのレッスンは修了した
リンツでの友人イグナーツ・ドルン(リンツの劇場の楽長)の紹介でキッツラーを知り、次はオットー・キッツラーから楽式論と管弦楽法を学ぶ予定があった。ブルックナーは合唱祭に参加するため多くの都市を巡り、各地で称賛された
5月12日リーダーターフェルを中心とした合唱で《アヴェ・マリア》WAB6がリンツで初演された。
6月29~30日ニーダーエスターラーイヒのクレムスで開催された第一回ドイツ・オーストリア合唱祭にリーダーターフェルを率いて参加した
7月20~22日ニュルンベルクのドイツ合唱祭にリーダーターフェルを率いて参加し、絶賛された。後のウィーン楽友協会芸術監督・ウィーン宮廷歌劇場監督に就任するウィーン楽壇のヨハン・ヘルベックの注目を集め、知り合いとなり、やがて固い友情で結ばれるようになる。後にヘルベックは、ブルックナーのウィーンでの新しい職を探すことに尽力することになる
9月リーダーターフェル「フロージン」合唱団を退団
12月、ブルックナーの「キッツラー練習帳」によると、クリスマスの夜ごろからリンツ市立歌劇場の指揮者オットー・キッツラーに楽式論や管弦楽法等を学びはじめたことになる
キッツラーとの勉強の内容が「キッツラー練習帳」としてブルックナーが記録してゆくことになる。キッツラーの「音楽の回想」には、『フリートリヒ・リヒターの理論書を教材にベートーヴェンのソナタを研究させ、それを交響曲に広げるよう指導した。楽器用法ではアドルフ・ベルンハルト・マルクスの著「作曲法課程」第三巻を使い、古典派の大家の総譜を研究させた』と書いている。
ブルックナーは自分より10才若いキッツラーニ師事してベートーヴェンの研究や、リスト、ワーグナーのオーケストレーションを研究するため、あらためて総譜を根本から勉強することになった。二人は友情で結ばれ、ブルックナーがウィーンに定住してからは、キッツラーはいろいろな機会にブルックナーを訪れた
ブルックナーはザルツブルク大聖堂音楽協会のモーツァルテウムのポストを得ようと9月20~21日受験するが、徒労に終わり、ウィーン楽友協会音楽院の和声学・対位法の教授の地位を得ようとした
能力試験が11月19日に楽友協会で行われ、試験官には恩師ゼヒターを始め、音楽院長ヨーゼフ・ヘルメスベルガー、ヨハン・ヘルベック、恩師ジーモン・ゼヒター、ウィーン宮廷歌劇場(現・国立歌劇場)の指揮者オットー・デソフ、音楽院視学官のベッカーという面々だった。面接、書類審査、フーガの即興演奏の試験が行われた
21日ピアリスト教会で行われ、課題はゼヒターがその場で四小節の主題を提示し、ヘルベックがそれに四小節加え、デソフが「これは厳しい!」と唸る程だったが、ブルックナーは見事な即興演奏を繰り広げ、試験官達を圧倒。翌日審査委員により音楽院教師に推薦できる音楽家であると証明された。この出来事は「ウィーン新聞」でも報じられたが、ブルックナーが実際に音楽院のポストに就くのはこれより7年後の1968年のことになる
キッツラーのもとでのレッスンについて、クリスマス前までにはカデンツと転調などが「キッツラー練習帳」に記されている

1862年38才、4月25日新聖堂建築の定礎式用に作られた《祝祭カンタータ》ニ長調WAB16が5月1日にエンゲルベルト・ランツ指揮でフロージン等合唱団と軍楽隊により演奏された
6月キッツラーとのレッスンは主題と変奏、ロンド、ソナタ形式の練習と進んでいる。6月29日、《ピアノソナタ》ト短調第一楽章が作られている
8月7日《弦楽四重奏曲》ハ短調 WAB111完成。8月26日からオーケストラの習作を開始
10月12日《管弦楽のための行進曲》ニ短調WAB96完成、10月中旬~11月16日《三つの管弦楽曲》完成
11月18日《序曲ト短調》の作曲に着手

1863年39才、1月22日《序曲ト短調》完成
1月に入りキッツラーのもとで《交響曲へ短調》のスケッチはじまる
2月13日のキッツラー指揮による《タンホイザー》リンツ初演演奏会に先立って師弟で総譜を研究していた。ブルックナーはこの演奏を聴いて大きな感銘を受け、音響効果に影響されるようになった
キッツラーの指導でリストやワグナーのオーケストレーションを研究し、総譜を根本から勉強した。2月25日から交響曲の作曲に入り、5月26日《交響曲へ短調》ひととおり終了し7月に完成した
7月10日、キッツラーを招いた食事を最後に、キッツラーのレッスンが終了した。キッツラーはリンツを離れルーマニア西部地域のティミショアラへ去った
成果は326頁に及ぶ「キッツラー練習帳」で、1861年クリスマスの夜から1863年7月10日までの日付があり、課題練習とスケッチ、25曲の完成作品があった。管弦楽法の練習にはベートーヴェンの《悲愴ソナタ》第1楽章のオーケストラ編曲等々が含まれていた。今日「練習帳」はミュンヘンのトラウドル・クレス夫人の所有となっている。ブルックナーはリンツ劇場のヴァイオリン奏者イグナーツ・ドルンのレッスンを受けはじめた
9月末から10月初めに休暇をとりミュンヘンの第2回音楽祭を訪れ、音楽総監督フランツ・ラハナーに自作品をいくつか見せた。音楽祭にはクララ・シューマンもソリストとして訪れていた
リンツに戻り10月10日ピアノ曲《秋の夕べの静かな思い》WAB123を作曲。前年から初期の管弦楽曲として《序曲ト短調》WAB98、《交響曲 ヘ短調(第00番)》WAB99、《詩篇112番》WAB35、《ゲルマン人の行進》WAB70等を作曲並びに着手している。
ブルックナーが1863年39才になってから《交響曲へ短調》に着手するまで、今まで書かなかったことについては
地方に居てオーケストラに接することが少なかった
教会オルガニストとして宗教的な環境が長かった
シンフォニーを作曲するだけの知識がなかった
ゼヒターやキッツラーによる勉強の途中であった
ワーグナーの存在を知り管弦楽曲に目覚めた等々いろいろといわれている

1864年40才、5~6月ころから《ミサ曲第1番》ニ短調の作曲に入り、その年の9月29日には全曲書きあがった
11月20日リンツの旧聖堂でブルックナーの指揮で初演された。《ゲルマン人の行進》出版

1865年41才、1月《交響曲第1番》ハ短調WAB101に着手し、5月14日第一楽章書き上げる。第三楽章を5月25日にまとめた5月ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》初演に招待され書きかけの交響曲を持参してミュンヘンに行く。トリスタンの初演は2ヶ月延期され、ミュンヘンにに週間滞在しワーグナーに会ったり、同宿のロシアのピアニストのアントン・ルビンシテイン等を知り合いその伝手でハンス・フォン・ビューローに接近して面識を得、ハンス・フォン・ビューローに書きかけの交響曲第1番の草稿を見せたりして積極的に動いているが、ワーグナーには見せなかったようである
第一回上部オーストリア合唱祭に応募したブルックナーの《ゲルマン人の行進》は、6月5日リンツで自身の指揮でリーダーターフェルによって初演されたが第二位で終わった
6月19日ミュンヘンに向かい《トリスタンとイゾルデ》の初演を聴いた
6月25日ヴェルス合唱連盟創立祭でリーダーターフェルを指揮して《ゲルマン人の行進》等を演奏。8月6日オーバーエスターライヒ合唱同盟の創立祭がヴェルスで開催されリンツの歌手同盟を指揮した
8月25日ブタペストでのリストの《聖エリーザペト》初演演を聴きに行きリストに会っている
この年はウィーンにも行っている。リンツの楽長イグナーツ・ドルンの進歩的な作曲家と絶えず関係を保つように努力するべきだというアドバイスによるものであった

1866年42才、1月23日第三楽章完成。第二楽章を1月27日から4月14日までかかった。補筆し4月14日完成。《交響曲第1番》WAB101(リンツ版または第一稿といわれている)が完成
5月9日《交響曲第1番》を自身の指揮でリンツで初演された
ベートーヴェンの《交響曲第9番》を聴く
ブルックナーに大恋愛があった。リンツの肉屋の娘ヨゼフィーネ・ラング、20才年下の相手であった。8月16日付けのヨゼフィーネ宛ての手紙に「お願いがあるのですが、ご両親にお会いして婚約を許していただきたい」と書いて送った。家族とは親密になりヨゼフィーネの兄はブルックナーを誠実な男と評している。結局、年が違い過ぎることでヨゼフィーネに拒まれてしまう。ブルックナーは失恋後知り合った、ヘンリエッテ・ライターにも片思いで終わる
年末神経疾患に悩む。一番下の妹マリーア・アンナ(30才)が身の回りの世話をするようになる
11月25日《ミサ曲第二番》ホ短調WAB27完成
12月16日ウィーンに行きベルリオーズの指揮する《ファーストの劫罰》を聴き、ベルリオーズに会った。

1867年43才、2月10日ブルックナー《ミサ曲第一番》ニ短調がヨハン・ヘルベック指揮のウィーン宮廷管弦楽団によりウィーンで初めて演奏された。ブルックナーはウィーンに行きこの演奏会でオルガンを担当した
5月8日から8月8日までの間、健康上の理由でバート・クロイツェンのサナトリウムで精神的疾患の治療を受ける
退院後、ウィーン大学の和声と対位法の講師を志願し、同時にウィーン宮廷礼拝堂のオルガニストの職を求めたが実らなかった
9月10日恩師のゼヒターが亡くなった
9月14日ウィーン宮廷楽団から依頼されていた《ミサ曲第三番》へ短調WAB28の作曲を開始した

1868年44才、1月6日《ミサ曲第一番》ニ短調がリンツ大聖堂で演奏され大成功を収めた
1月17日リーダーターフェルの指揮者に再選出された知らせが届き復帰をする
5月9日《交響曲第1番》がリンツで初演された
5月12日ヘルベックが恩師ゼヒターの後任としてウィーン音楽院の教師申請をするよう話す
5月から7月にかけ軽度の精神分裂症を患う
6月21日のミュンヘンでの《ニュルンベルグのマイスタージンガー》の全曲公演を聴きに出かけた
ヘルベックの推薦で7月6日ウィーン音楽院の採用通知が届く
妹のナーニと共にウィーンに移住
8~9月バートクロイツェンで療養する
前年9月に着手した《ミサ曲》へ短調WAB28が9月9日に完成した
9月末ウィーン、ヴェーリング通りの家に移る
10月1日ウイーン音楽院(ウィーン楽友協会音楽院)教授に就任し通奏低音、対位法、オルガンを教えることになった。同時にウィーン宮廷楽団無給オルガン奏者となった。後のことになるが弟子に、ヴラディーミル・ド・パハマン(ピアニスト)、グイード・アードラー(音楽学者)、フェリックス・モットル(指揮者)、フランツ・シャルク(指揮者)、フェルディナント・レーヴェ、アウグスト・ゲルレーリヒ(ピアニスト/ブルックナーの伝記作者)、ルードルフ・クシジャフスキ(指揮者)、エミール・パウール(指揮者)、アルトゥ―ル・ニキシュ(指揮者)、フリートリヒ・クローゼ(作曲家)、カミロ・ホルン(作曲家)、ハンス・ロット(オルガニスト)等が育った
ウィーン、ヴェーリンガーシュトラッセ41番 Wien Währinger Strasse41に移転
文部省から交響曲作曲奨励金として500グルデン(フローリン)を受ける。

1869年45才、1月24日《交響曲第0番》ニ短調第一楽章ウィーンで着手
4月ウィーンからフランスへオルガン演奏旅行に行く。28~29日ナンシーの聖エブヴル教会Saint Epvreの新しいオルガン、メルキン&シュルツェの演奏でバッハの《平均律クラヴィーア曲集》第一巻の嬰ハ短調の《プレリュードとフーガ》と即興を演奏し、翌日ハイドンの《皇帝讃歌》をテーマの即興演奏をしてから5月パリに向かった。パリのノートルダム寺院の大オルガン演奏には、セザール・フランク、サンーサーンス、オーベール、グノー等の姿があり称讃された
6月9日リーダーターフェルの名誉団員に選出される
6月28日ころ《交響曲第0番》ニ短調第一楽章ウィーンで終了。7月16日《交響曲第0番》ニ短調第三楽章ウィーンで着手。8月19日《交響曲第0番》ニ短調第四楽章リンツで完了。8月21日《交響曲第0番》ニ短調第二楽章リンツで終了。8月25日《交響曲第0番》ニ短調第三楽章リンツで完成。9月12日《交響曲第0番》ニ短調第一楽章終了したと総譜に書き込む
9月29日リンツ大聖堂構内の広場で《ミサ曲》ホ短調WAB27をブルックナーの指揮で初演
10月29日宗教合唱曲《この所は神により作られた(ロークス・イステ)》WAB23をリンツ大聖堂指揮者ヨハン・ブルクシュタッラーにより、リンツの新大聖堂で初演された
生まれ故郷のアンスフェルデン名誉市民に選ばれる
《交響曲第0番》が完成し、ウイーン・フィル首席指揮者オットー・デッソフに草稿を見せたが「一体どこに主題があるのかね」と質問され、おじけついて作品を引っ込めてしまい、生存中に初演はされなかったといわれている

1870年46才、1月16日妹マリーア・アンナが肺結核で亡くなった。一人になったブルックナーは、ウィーン気質のカタリーナ・カッヘルマイヤーが家政婦に雇う。カタリーナは、ブルックナーが亡くなるまで世話をすることになる
7月18日リンツ大聖堂オルガニストを辞任した
文部省から交響曲作曲奨励金として400グルデン(フローリン)が加算された
この頃のブルックナーは本業のほかに、ウィーン聖アンナ教員養成所でピアノ、オルガンと理論のレッスンを受け持ち、また個人レッスンをはじめていた
11月独唱と男声合唱曲《真夜中に》WAB80第一稿完成

1871年47才、8月ロンドン万博準備に招かれロンドンに初めて行く。ロイヤル・アルバート・ホールに設置された新オルガン竣工披露リサイタルにオーストリアのオルガニストの一人として選ばれた。ブルックナーは五回のリサイタルに出演し演奏した。この時はバッハ、ヘンデル、メンデルスゾーンの作品演奏のあと、ヘンデルのメサイアから《ハレルヤ》、シューベルト《セレナーデ》、《ラインの守り》による即興演奏をした。ロンドンの新聞は好意的な記事を掲載した。ロンドンでは特別仕立てのバスに乗り、興味のあったロンドン塔見物に出かけた
気分よくウイーンに戻った彼に、聖アンナ教員養成所は、ブルックナーが教員志望の女性に「かわい子ちゃん」などと親しげに話しかけたということで懲戒処分問題に発展していた。決定にはブルックナーに不満であった。ブルックナーは女子学生クラスの指導を外され、減俸処分になる
10月11日《交響曲第2番》の作曲に着手

1872年48才、6月16日自作《ミサ曲ホ短調》の初演を指揮
7月8日《交響曲第2番》第一楽章書き上げた。7月18日《交響曲第2番》第三楽章終了。7月25日《交響曲第2番》第二楽章終了。9月11日《交響曲第2番》第一稿完成、この交響曲は、指揮者オットー・デッソフが初演を試みたがウイーン・フィルとのリハーサルで演奏不可能という楽員が出て初演を見送られた。ブルックナーは、この交響曲をウイーン・フィルに献呈しようとしたが冷遇され撤回してしまう。その後1884年フランツ・リストに献呈しようとしたが、リストがブタペストに旅行したときこの総譜を置き忘れるという失態を演じ、ブルックナーはリストへの献呈をやめる
秋ころから《交響曲第3番》作曲に着手
この年ウィーン楽友協会大ホールと附属音楽院でオルガン献納式があり《ミサ曲第3番》ヘ短調 WAB28とハイドン《皇帝讃歌》を演奏し、即興演奏も披露した。ブラームスはじめウィーンの著名な音楽家たちも聴きに来ていた

1873年49才、2月23日《交響曲第3番》第一楽章スケッチ終了。5月24日《交響曲第3番》第二楽章完成。7月27日《交響曲第3番》第三楽章完成
8月カールスバーにト保養に来ていた。マリエンバート近郊のバイロイトに行き、ワグナーを訪問したブルックナーは、《交響曲第2番》と作曲中の《交響曲第3番》の総譜をワグナーに見せた。ワーグナーは祝祭劇場の建設にあたりながら《ニーベルングの指環》の完成を急いでいて多忙だったが、ブルックナーの二曲の楽譜を子細に検討した。まだ第四楽章がスケッチのままの《交響曲第3番》の草稿に興味を示した。ブルックナーのこの曲の献呈をワーグナーは受諾する。バイロイト祝祭劇場の建設に関与していた画家のエルンスト・キーツによれば、ワグナーは《交響曲第3番》の総譜を読むのを楽しみにしていたという
10月26日ブルックナーの《交響曲第2番》は、ヘルベックの尽力でウィーン万博の行事の中でブルックナー指揮、ウィーン・フィルで初演された
12月末ころ《交響曲第3番》完成(ブルックナーはワグナー交響曲と呼んだが、ワグナー家ではブルックナーに「トランペットのブルックナー」というあだ名をつけたといわれている)
ワーグナー協会に入会
カールスバートの教会とマリーエンバートのオルガン演奏に訪れている

1874年50才、1月2日《交響曲第4番》第一楽章のスケッチ開始、1月24日にスケッチ終了。2月21までにオーケストレーションを済ませ、3月26日には細かい手直しを加えている
4月文科教育庁にウィーン大学に音楽理論講座を開設し専任ポストの要請の手紙を発送した。文科教育庁はウィーン大学に諮問し、学部長エードゥアルト・ジュースから見解を聞かれたハンスリックに、理由をつけられ「ブルックナー氏の請願の却下を提議する」と反対される
5月10日にウィーン大学に再度請願書を送ったが、ハンスリックり反対された。《交響曲第3番》筆写譜をワグナーに贈った。6月7日までに第二楽章のスケッチと作曲を終了。7月15日哲学部長に手紙を送り請願したが、10月31日教授会で反対多数により否決されてしまった。7月25日までに第三楽章スケッチと作曲を終了。8月12日には第四楽章のスケッチを終了。9月1日から全曲のオーケストレーションをと第一楽章の見直しをはじめている
11月22日第4楽章を総譜に仕上げ完成。第一稿である。(全曲の初演は死後、1901年3月14日シュトゥットガルトでヴィルヘルム・ポーリヒ指揮による宮廷管弦楽団が演奏した)。
秋ごろ聖アンナ教員養成所の職を失う

1875年51才、1月12日付けのモーリツ・マイフェルト宛ての手紙に自分がウィーンに出て来るべきではなかったと後悔し「私の人生は一切の喜びと楽しみを失いました」と書いている
2月13日付けのマイフェルト宛ての手紙には昨秋、聖アンナ教員養成所の職を失い年額1000グルデンの収入が減ったこと、作曲奨励金を得られないこと、「《交響曲第4番》を写譜してもらうお金もない」ことを嘆いている。その翌日14日からブルックナーは《交響曲第5番》第二楽章アダージョを書きはじめた。3月3日に第一楽章が書きはじめられた。4月17日~6月22日第三楽章が終了。翌日から第四楽章に入る
8月《交響曲第3番》の初演をヘルベックの働きかけでウイーン・フィル演奏で決まったが、リハーサル段階で楽員たちから演奏不可能と決めつけられて流れてしまった。秋ごろから《交響曲第3番》の改訂に入る
ヘルベックの推薦で6月10日、ウィーン宮廷楽団第二文書係と宮廷楽団少年聖歌隊の代理歌唱教師に宮廷長官から承認を受けた。年俸300グルデンを受給する
7月12日文化教育庁に対してウィーン大学に和声学と対位法の講座を開設するよう申請した。国会議員アウグスト・ゲレリヒの応援もあり、文科教育庁長官を動かしウィーン大学哲学部に働きかけられた
10月3日付けウイーン・フィルから《交響曲第2番》ハ短調 WAB102の献呈を受け入れる手紙が届く
11月8日付けでウィーン大学の教授会はブルックナーの申請に賛成した。和声学、対位法の無給講師となり12月から講座をはじめた
ザンクト・フローリアン修道院でマトイス・マウラッヒャー一世の再現したオルガン開きに出演している

1876年52才、2月20日ヘルベックの計らいで、ウィーン・ムジークフェライン大ホールの楽友協会演奏会で《交響曲第2番》の改訂版をブルックナーは指揮した。この時は各楽章のたびに拍手があり、終演後には大きな拍手が起こった。この後ブルックナーのウィーンにおける自作品の指揮演奏が多くなってゆく
4月24日ウィーン大学で講師就任講演を行った
5月16日《交響曲第5番》第四楽章終了
ワーグナーが建設を進めていたバイロイト祝祭劇場開場式が5月22日に終えてから、リハーサルが行われていた。ブルックナーは8月13日からのバイロイトで初の四部作《ニーベルングの指環》連続上演を聴きに出かけた
祭典にはサン=サーンスやチャイコフスキー、グリーグも招かれていた
秋ごろから《交響曲第3番》の改訂をはじめた
10月ウィーン、 オーパンリンク1-5 Wien Opernring1-5に移転 (ウィーン国立歌劇場の前)
ミサ曲、《交響曲第3番》、《交響曲第5番》の補筆

1877年53才、4月20日《交響曲第5番》のヨーゼフ・シャルク編曲の2台のピアノによる演奏をシャルクとフランツ・ツォットマンによりウィーンで初演された
4月28日《交響曲第3番》改訂作業終了
5月16日から《交響曲第5番》の見直しに入る。ブルックナーは《交響曲第3番》をパート譜に写し、ウィーンフィルに演奏を要請したが拒否される。ウィーン・フィルの指揮者ヨハン・ヘルベックがオーケストラの代表者を集めて特別会議を開き、この作品を1877年12月16日に演奏することの同意を取り付けることに成功した。ところが10月28日にヘルベックが急死し、ブルックナーは自身で演奏することを求められた
1877年12月16日、ついに彼がこの作品を指揮したときには、同時代の批評家達は何を表現しているか理解しなった。エドゥアルト・ハンスリックはこう書いている。「ブルックナー氏の巨人の様な大交響曲を理解できないことを謹んで告白しなければなりません。詩的な意図がよく分かりませんし――おそらくベートーヴェンの第9を意識し、ワーグナーの「ワルキューレ」と肩を並べようとしたのでしょうが、ワルキューレの乗る馬の群の蹄で踏みにじられて台無しにされていますね――純音楽的な構造も明瞭ではありません」人々もまたこの作品を十分受け入れなかった。楽章が終わるごとに聴衆が席を立ち、終演後まで残っていたのは少しの人だけだったと報じられた
17才のグスタフ・マーラーも最後に残ったなかの一人であった。初演は大失敗に終わった
ブルックナーは大いに落胆し理解や支持を示す友人や弟子の慰めの言葉も失意のブルックナーにはなんの役にも立たなかった。このパート譜はウィーン楽友協会に保管された。のちになってのことだが、パート譜が全部揃っていなかった。コントラバスを除き弦のものは無かった。オーボエの1番と2番の譜面も無かった。アダージョ楽章の一部には、1878年の初版印刷用の版下と同じ写譜屋の書いた楽譜が二つの個所に貼りつけられてあった
のちにノヴァークはブルックナーのこうした楽譜のあらゆる資料等を考証し推理を働かせ、ウィーンの国際ブルックナー協会の新ブルックナー全集の第三巻に収め1980年に初出版した。他に音楽学者フリッツ・エーザーによるエーザー版(1950年刊行)がある。
フェルディナント・レーヴェ、シャルク兄弟等のウイーンでの「ブルックナー・グループ」にフーゴ・ヴォルフが加わる
ブルックナー、マーラーと親しくなる
11月ウィーン、ヘスガッセ7番5階の住居 に移転 Wien Heßgasse7(現在のホテルドフランス ウィーン)

1878年54才、1月4日《交響曲第5番》新たにバス・テューバを加えた見直し作業完了
ウィーン宮廷礼拝堂の専任オルガニストに就任し、年俸800グルデンを支給されるようになった
1月18日から《交響曲第4番》の改訂作業に着手。6月25日までに第一楽章を改訂。7月31日までに第二楽章を改訂。第四楽章の大幅な改定にかかり9月30日に終了。第三楽章の改訂に着手し新しいスケルツォ楽章が作曲され11月中に終了「1878年稿」した
12月《弦楽五重奏曲》の作曲に着手

1879年55才、7月12日ヨーゼフ・ヘルメスベルガー(父)の依頼を受けていた《弦楽五重奏曲》ヘ長調WAB112完成。《交響曲第6番》第一楽章の作曲に着手している
11月《交響曲第4番》第四楽章の大幅な手を入れはじめた
12月21日弦楽四重奏にヴィオラを加えた《インテルメッツオ》ニ短調WAB113完成

1880年56才、8月13日休暇をとりウイーンを出発。ザンクト・フローリアンに着き、1週間逗留した
8月20日バイエルンのオーバーアマガウに行き、22日、23日名物の受難劇を見た。ミュンヘンに戻り、リンダウで乗船しボーデン湖を渡り、ロマンスホルンから鉄道でヴィンタートゥールを経てシャッフハウゼンに着いた
8~9月にかけチューリヒの大修道院大聖堂ではフリートリヒ・ハースが設置したもの、ジュネーブの教会ではフランス製、ローザンヌでは1773年製のスイス北部のユヒトラントのフライブルク聖堂のもので、これらのオルガンを演奏している。ジュネーヴ、シャモニーに行き、モンブランの麓で山々の景観を楽しんだ。ジュネーヴに戻り、9月5日サン・ピエール教会でオルガン演奏会に出てオルガンを弾いた
ローザンヌ、ベルン、ルツェルンを廻り各地で多くのオルガニストに接した。ザンクト・フローリアン、リンツを経てウィーンに戻る
9月27日《交響曲第6番》第一楽章終了。11月21日《交響曲第6番》第二楽章終了。12月17日《交響曲第6番》第三楽章書きはじめた
無給だった」ウィーン大学講師に300グルデンの年俸がついた
この年までに《交響曲第4番》の改作(1878/80年稿)が行われ、《交響曲第6番》に取り組む

1881年57才、1月17日《交響曲第6番》第三楽章終了
2月20日《交響曲第4番》がハンス・リヒターの指揮で初演され成功を収めた
5月3日《テ・デウム》のスケッチをはじめたが第一稿は未完成
6月28日《交響曲第6番》第三楽章スケッチ完了。9月3日《交響曲第6番》完成し、この曲をブルックナーの世話をしてくれていた「親切な家主}エルツェルト=ネーヴィン夫妻に捧げられた。
9月23日《交響曲第7番》第一楽章の作曲に着手した。この楽章の第一主題のチェロ主体の楽想を、ハンス・リヒターはブルックナーに聞いたところ「夢の中にイグナーツ・ドルンが口笛を吹いて”ブルックナーさんこのテーマで幸せをつかんでください”と言ったんです。そこで起きて書き記した」と答えたといわれている。
11月17日《弦楽五重奏曲》ヘ長調は、フランツ・シャルクの兄ヨーゼフ・シャルクの尽力で、ユリウス・ヴィングラーのヴィングラー四重奏団を中心とする人により初演されたが、第四楽章は演奏できなかった。理由は、ハンス・リヒターがロンドンで出版しようと楽譜を持って行ったが、旅先に忘れてしまったからである。楽譜はほどなく回収されのちにオーストリア国立図書館に保管された。
12月7日ウィーンで初めて独唱と男声合唱曲《真夜中に》WAB80がウィーンで演奏され好評を博した。この曲は、ブルックナーの死後の1903年にウィーンのドブリンガー社から出版され、以来ブルックナー合唱曲の中で、広く歌われるひとつになった
12月10日にカールスルーエでフェリックス・モットル指揮で《交響曲第4番》が上演された

1882年58才、7~8月バイロイトでの《パルジファル》初演を聴く。ワーグナーに会ったときにワーグナーは「ベートーヴェンという山に登って到着できるただひとりの人を知っている。それはブルックナーだ」と語ったという。バイロイトでは福音教会とかってのシトー教徒の修道院のオルガンを演奏している。ウィーンの帰途ザンクト・フローリアンに寄り、ここで《交響曲第7番》第三楽章を書き始め10月16日終えた。12月29日《交響曲第7番》第一楽章終了

1883年59才、1月22日《交響曲第7番》第二楽章アダージョのスケッチが完成。『「ある日、家にもどる途中、大変悲しい気持ちに襲われた。ワーグナーはもう長く生きていられないのではないか、と私は考えていた。そのとき、嬰ハ短調のアダージョ(第7番第二楽章)の楽想が浮かんできたのだ」とフェリックス・モットルFelix Josef von Mottlに手紙を書いている。第二楽章にはワーグナー・チューバ、テノールとバスが二本ずつ四本加えられている。練習記号Wのクライマックスは、シンバル、トライアングル、ティンパニーで強調されることになっていた。ブルックナーはこれらの打楽器を使用しないように指示したとの意見がある。ハースはこれらを使わないが、ノヴァークは使用している』
2月11日ワーグナーが死去したこの日、ウイーンのフィルハーモニー・コンサートでヴィルヘルム・ヤーンWilhelm Jahn,指揮で《交響曲第6番》が演奏されたが、長大なため身勝手な配慮で中間の第二楽章と第三楽章だけが演奏された(全曲は1899年2月26日39才のグスタフ・マーラー指揮で、同じフィルハーモニー・コンサートで演奏されたが、かなりカットして短縮し、楽器用法も変更して演奏した。完全な形での全曲初演は、1901年3月14日カール・ポーリヒKarl Pohlig指揮のシュトゥットガルト宮廷劇場でシュトゥットガルト宮廷楽団により演奏された。ブルックナーが他界後、5年が過ぎていた)
2月22日ルドルフ・ワインヴルムRudolf Weinwurm指揮で歌われた《真夜中に》第二稿WAB.80 男声4部合唱に、作曲者ブルックナーは盛大な祝福を受けた。この曲はブルックナーの合唱曲の中で、広く歌われているひとつになっている
4月21日《交響曲第7番》第二楽書き上げる
7月バイロイトでの《パルジファル》公演に行く
8月亡くなったワーグナーの墓参りをした。帰途、シュタイヤー、ザンクト・フローリアンに滞在し、クレムスミュンスターを訪れたりした
8月17日《交響曲第7番》第四楽章完成。3日点検し9月5日《交響曲第7番》を完成させた。ブルックナーは、のちにバイエルン国王ルートヴィヒ二世に捧げた
9月28日《テ・デウム》第二稿の総譜を書き上げた暮れころシャルクはライプツィヒにアルトゥール・ニキシュを訪ね《交響曲第7番》を紹介し、ニキシュと連弾した。このことがきっかけとなりブルックナーとニキシュの間で何回かの手紙のやり取りがあった
ウィーンの奉献教会で演奏会を開いた
クリスマスはザンクト・フローリアンで祝った
参考要約:門間直美著、「ブルックナー」、春秋社、1999年発行、156~157P

1884年60才1月22日ワーグナー協会の名誉会員に推挙された
2月27日ワーグナー協会開催の演奏会においてヨーゼフ・シャルクとフェルディナント・レーヴェによる《交響曲第7番》のピアノ連弾でベーゼンドルファー・ザールで演奏された
3月16日《テ・デウム》第二稿のオルガンのパート譜が完成した。プラハの復活祭でオルガン演奏をした
4月5日《弦楽五重奏曲》がベーゼンドルファーでアカデミー合唱協会の演奏会で全曲初演された
6~7月ころ《交響曲第8番》に着手
7~8月バイロイトでの《パルジファル》公演に出かけた
8月21日ハーモニウムのための《プレリュード》ハ長調WAB129がクレムスミュンスター修道院でブルックナー自身で初演された(この時はハーモニウムでなく大オルガンを演奏した)。ミュンヘンを経てザンクト・フローリアンに寄り、フェツクラブルックに妹のロザーリエを訪ねて、9月4日自分の60才の誕生日を妹と祝った
10月1日《交響曲第8番》第一楽章のスケッチが完了し、第三楽章アダージョに着手
11月9日宮廷礼拝堂ミサで《キリストは従順であられた》が初演された
12月30日《交響曲第7番》がライプツィヒでアルトゥール・ニキシュ指揮、ゲヴァントハウス管弦楽団により初演され大成功を収めた(この日を「ブルックナーの世界的名声の誕生の日(アウアー)」となった)。ブルックナーはハンブルクの知人に宛てた手紙で「終了後15分間拍手が続きました」と書いている。ブルックナーの名声が上がりはじめた。ブルックナーの交響曲が各地で演奏されるようになる
プラハのコンサートホール「ルドルフィヌムス」に設置されたオルガンを試奏し、シュトラホフのプレモンストラーテン修道院とヴァイツドムでオルガンを演奏している
《弦楽五重奏曲》ヘ長調WAB112の楽譜をアルベルト・グートマン出版社から出版された

1885年61才、1月8日《弦楽五重奏曲》ヘ長調の全曲初演は、ウィーン楽友協会ホールで作曲依頼者のヘルメスベルガー等のヘルメスベルガー四重奏団によって演奏された。各楽章ごとに拍手がブルックナーに向けられた。初演は大成功を収めた
1月27日ライプツィヒでザクセン王夫妻臨席の祝祭演奏会で《交響曲第7番》第二、第三楽章が演奏された
2月4日ブルックナー《交響曲第3番》は、オランダのハーグでヨハン・フェアフルスト指揮で演奏された。その他ブルックナーの交響曲に関心をみせる指揮者によってドレスデン、フランクフルト・アム・マイン、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場などで演奏された
2月16日《交響曲第8番》第三楽章アダージョのスケッチ終了
3月10日ミュンヘンへ行き、オデオンザールで開催された王立宮廷楽団演奏会でヘルマン・レーヴィ指揮で《交響曲第7番》が全曲演奏され大成功を収めた
この《交響曲第7番》はバイエルン国王ルートヴィヒ二世に献呈されレーヴィがひと役買った
3月11日ドイツの画家ヘルマン・フォン・カウルバッハのアトリエで肖像画を描かれた
3月31日ミュンヘンで《弦楽五重奏曲》をワルター弦楽四重奏楽団等によって演奏された
5月2日《テ・デウム》第二稿がブルックナーの指揮でウィーン・アカデミー・ワーグナー合唱団と2台のピアノ(シャルク編曲でシャルクとエルバン演奏)によりウィーンで初演された。《テ・デウム》の楽譜を出版
5月30日《交響曲第7番》第二楽章のみをカールスルーエで弟子であったフェリックス・モットル指揮により演奏された
7月26日《交響曲第8番》スケルツォのスケッチ終了し、終楽章のスケッチは7月27日からかかり8月16日に終わった。10月19日仕上げに入った
8月28日ウィーンのザンクト・アウグスティン教会で、ザンクト・フローリアンからの支援を受けオルガン即興演奏会を開催した。主題はワーグナーの《神々の黄昏》からのものと、《交響曲第8番》のスケッチからのものであった
9月3日無伴奏4部合唱曲昇階唱《エサイの枝は芽を出し》WAB52が完成した
10月13日のブルックナーが書いたウイーン・フィルへの手紙で《交響曲第7番》のウィーンでの演奏の申し出を断っている。ハンスリックとその一派を恐れ自分が破滅されることができる人ゆえに戦いたくないというのが理由らしい「ウイーンではハンスリックと一派がいるので・・」と結んでいる
10月19日~24日ころ《交響曲第8番》第二楽章が仕上がった。同年12月8日ウイーンの宮廷礼拝堂でブルックナーの指揮により初演された
12月5日アメリカ、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でウォルター・ダムロッシュ指揮によりブルックナーの《交響曲第3番》が演奏されたアメリカ初演であった
皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の臨席でウィーン、クロスターノイブルク修道院のオルガンと聖シュテファン教会の大オルガンと合唱オルガンを演奏している
この頃から、ブルックナーは病気が出はじめ、水腫に侵され心臓の働きも弱くなってきた。歩行やオルガン演奏に障害が出はじめるようになる
《交響曲第7番》楽譜をウイーンのアルベルト・グートマン社から自筆譜を印刷原稿として用い初出版された

1886年62才、1月10日ウィーンのムジークフェラインで《テ・デウム》を、ハンス・リヒター指揮のオーケストラで初演され、ハンスリックは好意的であった
2月7日《交響曲第8番》第一楽章完了。《真夜中に》WAB52第二稿が完成
3月21日《交響曲第7番》がハンス・リヒター指揮で初めてウィーンで演奏された。リヒターがブルックナーに第一楽章の聴衆はブルックナーに盛大な拍手をおくったが、ハンスリックは「不自然で大げさで病的であり退廃的」だと評した
4月にヘルマン・レーヴィがミュンヘンで《テ・デウム》を指揮したので、ブルックナーは出かけた
7月8日ブルックナーの「芸術と科学のための際立った業績」にフランツ・ヨーゼフ勲章の騎士十字章を授けられ、300グルデンの年金を受けられるようになった。ブルックナーはのちにこの皇帝に《交響曲第8番》を献呈した
ブルックナーは新しいオルガン演奏にプラハに出かけ、7~8月はバイロイトでの《トリスタンとイゾルデ》公演を聴きに行く
バイロイトの城内の教会で死去したリストのためのレクイエムを演奏した
指揮者レーヴィがバイエルンの貴族たちにブルックナーを紹介した中で、アメーリエ・マリーアという公爵夫人がいた。ブルックナーはアメーリエと知り合い、彼女の助力でウィーン皇帝フランツ・ヨーゼフ一世と親しくなった
7月31日リストが他界した。リストの娘コジマ・ワーグナーはブルックナ-を父リストの葬儀に招き、ブルックナーは式に参列してオルガンの即興演奏をした。葬儀のあとバイロイト祝祭劇場で《パルジファル》の上演に出向いた
作曲家フーゴ・ヴォルフと親しくなる
夏、アメリカに滞在しているアントン・ザイドルからの要請により《交響曲第4番》を小改訂して急送した
8月10日《交響曲第8番》完成。8月26日~9月4日《交響曲第8番》第三楽章完了
9月にミュンヘンにいるヘルマン・レヴィに宛てた手紙でブルックナーは「ザイドルがアメリカで出版社を探してくれると言っている」と書いている。(1940年代にニューヨークのコロムビア大学図書館から《交響曲第4番》楽譜資料を発見された)

1887年63才、4月22日《交響曲第8番》第四楽章完了。8月10日シュタイヤーで《交響曲第8番》第一稿が完成した。8月12日《交響曲第9番》第一楽章のスケッチに着手した。9月19日《交響曲第8番》第一稿写譜に「気に入って欲しい」と添え書きして、をヘルマン・レーヴィに送った。レーヴィからなかなか返事が来なかった
リンツの新大聖堂でオルガンの奉納式があり向かった
10月にブルックナーにレーヴィから「この曲について途方に暮れ、演奏する勇気が持てない」と伝えるメッセージを、ヨーゼフ・シャルクを通して、変更を求める内容の手紙が来た。さらにシャルクをはじめブルックナーに親しい友人たちからも改作を要求される。シャルクはブルックナーの強力な支持者で、演奏会のプログラムにブルックナーの芸術を紹介したりしてブルックナーの音楽の普及に努めており、ブルックナーはシャルクの活動をよく知っていただけに、信頼していたピアニストのシャルクからきつい苦言を言われたことは大きなショックだったようだ
10月7日ヘルマン・レーヴィはブルックナーに手紙を書き演奏困難であると伝えた
10月20日になりブルックナーはレーヴィにスコアの見直しを確約する手紙を送った。こんなことからブルックナーは創作に対し、自己批判的になっていった。こうしたことが重なり、神経衰弱気味になる。この頃のブルックナーは、ウィーンでまだ注目されるところまではいってなかった。ヘルマン・レーヴィから《交響曲第8番》を拒絶されたブルックナーは、《交響曲第9番》の作業を中断し、《交響曲第8番》第二稿にとりかかった。

1888年64才、1月22日ブルックナーだけの作品演奏会が開催され、《交響曲第4番》と《テ・デウム》をハンス・リヒター指揮、ウィーン・フィルによる演奏が大成功を収めた
4月13日キッツラーはブルックナーの《テ・デウム》をブルノで指揮することになり招待した
7月バイロイトでの《ニュルンベルグのマイスタージンガー》公演に出かけた
夏から翌年にかけて《交響曲第3番》第三稿といわれる改訂をはじめた。《交響曲第1番》の改訂、《交響曲第8番》の補筆も行われた完成した

1889年65才、1月4日《交響曲第9番》第二楽章スケルツォのスケッチに着手
3月《交響曲第8番》の改作作業に専念することにした。《交響曲第8番》第三楽章アダージョが3月4日から5月8日までの間に手直しされた
同じころ《交響曲第9番》第二楽章スケルツォのスケッチを4月4日に完了し、《交響曲第9番》の作曲を中断して、《交響曲第1番》《交響曲第3番》《交響曲第8番》の改作に取り組んでいたが《交響曲第8番》の改訂に専念
7月バイロイトでの《トリスタンとイゾルデ》、《ニュルンベルグのマイスタージンガー》公演に出かけた
7月31日《交響曲第8番》の終楽章の改訂が終了した。《交響曲第8番》第二楽章スケルツォは9月25日に完了した(全体の改作は翌年1月29日に終わるが、また手を加え2月10日に終わったが、2月29日に加筆し3月10日に完了した)
秋ごろ、友人たちの世話でウィーンのレストランでブラームスと会食する機会があった。堅苦しい雰囲気であったが、ブルックナーはメニューを丹念に見て「レバー団子のキャベツ添え」を注文、ブラームスも同じものを注文した。するとブルックナーが『このテーマに関しては意見の一致を見たようですな』こわばったムードは和らぎ、気分よく終わったが、音楽の話題だけはしなかった。ブラームスはブルックナーのブラームスに対するかっての不平の心情が振舞いにあらわれても、何事もないように、無礼ではなく終始丁重に対応していたといわれている。ただし、プライベート的にはブルックナーの交響曲を『交響的うわばみ』とか『にせものはすぐに忘れられてしまうだろう』と感想を口にしていたという。ブルックナーは『ブラームスの交響曲よりヨハン・シュトラウスの方がずっといい』と語っていたといわれている
ヨハン・シュトラウスはブルックナーの《交響曲第7番》初演を聴いて『大変感動した。わが生涯で最も強い印象を受けたひとつだ』という電報をブルックナーに打っている
《交響曲第3番》第三稿完了
《交響曲第4番》第3稿がウィーンのアルベルト・グートマン社から出版した。その総譜の初版楽譜のタイトルページには【アントン・ブルックナーの大オーケストラのための、交響曲第4番<ロマン的>変ホ長調】だった。
ワーグナー協会の名誉会員となる
オーストリアの実業家グループから助成金を受けはじめた

1890年66才、1月29日《交響曲第8番》の改作が終わるが2月10日終了、さらに手を加え2月28日に終了。更に手を加え完全なものにし3月10日に加筆完了した
3月《交響曲第8番》をオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世に「深甚の敬意をもって」献呈された
《交響曲第1番》の改訂に着手
4月プレスブルクでの《交響曲第7番》演奏に出かけた
7月31日ウィーン郊外のバート・イシュルで、オーストリア皇帝フランツ・サルヴァトールとマリー・ヴァレリーとの結婚式でオルガンを演奏した
12月10日《交響曲第4番》がミュンヘンにおいてフランツ・フィッシャーの指揮によってはじめて紹介された
12月21日《交響曲第3番》第三稿、ハンス・リヒター指揮、ウィーン・フィル演奏によりムジークフェラインで初演され大喝采を受けた
《交響曲第8番》第二稿完成
ブルックナーは慢性の喉頭カタルで体調を崩し、神経系統の方も悪くなり、秋にはウィーン音楽院の教授を辞職した
《交響曲第3番》第三稿の楽譜は、ブルックナーの弟子であった指揮者フランツ・シャルクの校閲により、オーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフ一世が印刷費を負担してレッティヒから出版された(ノヴァークはこの第三稿を根拠として1959年ノヴァーク第三版(N3)を刊行した)。
上部オーストリア州から謝礼金名目で年金400グルデンを受けはじめた
合唱団体のウィーン・アカデミー・ワーグナー連盟の名誉会員に選ばれる

1891年67才、1月ウィーン音楽院を辞任した
4月18日《交響曲第1番》の改訂版(ウィーン版)が完成し、ウィーン大学からの名誉哲学博士の称号を贈られたことへの感謝の意味を込めてウィーン大学に献呈された
5~6月ベルリンでの《テ・ッデウム》演奏に出かけ、ドレスデンに行った
7月ウイーン大学から音楽家として初めて名誉哲学博士の称号を受けた
友人で画家のヘルマン・フォン・カウルバッハブルックナーの肖像画を描いた
同月バイロイトでの《パルジファル》、《タンホイザー》公演に行く
夏、ザンクト・フローリアン、シュタイヤー、リンツ、クレムスミュンスター、フェッツクラブルックに出かけた
12月13日《交響曲第1番》(ウィーン版)はハンス・リヒター指揮のウイーン・フィル演奏によりムジークフェラインで初演された
5月のベルリン滞在中、カイザーホーフというホテルで部屋係のイーダ・ブーツと懇意になり、イーダもブルックナーと結婚してもいいと言い出した。彼女の両親にも会い、彼女と文通を重ね、1894年ブルックナーが再びベルリンを訪問したときはまだ、結婚を諦めていなかったが、翌年それを放棄してしまう。彼女がルター派信仰に厚くカトリックへの改宗を承諾しなかったからだ
ウィーン楽友協会名誉会員に選出された
ウィーン音楽院から年金が支給されはじめた

1892年68才、ワーグナーの墓参りをした
10月14日《交響曲第9番》第一楽章のスケッチ終了
12月18日《交響曲第8番》1890年版がハンス・リヒター指揮のウイーン・フィル演奏、ウィーン楽友協会ホールで初演され大成功を収めた。会場にはブラームスやヴォルフの顔があった
7月バイロイト音楽祭に出かけ、ワーグナーの墓参りをした
音楽と演劇の万国博に展示されたオルガンを演奏した
宮廷礼拝堂オルガニストを辞任

1893年69才、2月27日《交響曲第9番》第二楽章スケルツォを作曲
夏《ヘルゴラント》WAB.71 男声4部合唱を作曲
 健康状態が悪化。浮腫で足がはれ、胸水が溜まったため呼吸困難がおこった。安静、食事及び飲料水の制限、強心剤の投与で、暮れには回復する
キッツラーがブルノでブルックナーの《交響曲第4番》を指揮することになりブルックナーを招待したが病気であった
ブルックナーが以前、商人の娘ミンナ・ライシェルに好意を抱いていたが婚約を断られたことがあったが、この年二人の友情は復活した
11月10日遺言書を作成し、自筆の署名と三人の証人、フェルディナント・レーヴェ、シリル・ヒュナイス、テオドール・ライシュが署名があった。遺言書には、自分の埋葬場所の希望が書かれており、遺体を金属の棺に入れ、ザンクト・フローリアン修道院の大オルガンの下に埋めてほしいとあった。永年にわたって身辺の世話を焼いてくれたカタリーナ・カッヘルマイヤーには、自分が死ぬときまで面倒をみてくれた場合は、700グルデン贈るとあった。
《交響曲第1番》ウィーン稿出版
ウィーン男性合唱団連盟の名誉会員になる
遺言書作成

1894年70才、2月15日《交響曲第9番》第二楽章スケルツォ完成
4月9日《交響曲第5番》管弦楽はフランツ・シャルク指揮による演奏でグラーツ市立歌劇場で初演されたが、病身のブルックナーは聴くことをできなかった
6月ウイーン・アカデミー連盟の演奏会で二人の作品が演奏されるためヴォルフとともにベルリンに旅行した
10月31日《交響曲第9番》第三楽章アダージョを書き上げたが、完成は11月30日までかかって補筆した
12月胸水が再び溜り肋膜炎と診断される。医師五島雄一郎によれば、『この肋膜炎は現代の知識から考えると心不全のうっ血によっておこった胸水貯留であると考えられる』とその著書「偉大なる作曲家たちのカルテ」、医薬ジャーナル社、2012年発行に書いている
11月12日ウイーン大学で最後の講義を行い、ウイーン大学講師を辞任した
リンツ名誉市民となる

1895年71才、5月24日《交響曲第9番》第四楽章に着手しようとしていたと思われる。7月に入り足腰が弱くなり不自由になっていたので、4日18年間住んでいたヘスガッセの5階建ての住居から、皇帝より提供されたベルヴェデーレ宮殿の傍の管理人の建物に移る。衰弱が著しくなる
12月18日ブタペストで行われたフェルディナント・レーヴェ指揮演奏の2回目となるブルックナー《交響曲第5番》も聴きに行くことをできなかった

1896年72才、1月5日《交響曲第4番》をハンス・リヒター指揮を聴きに出かけた
1月12日病をおして椅子に乗せられて《テ・デウム》をリヒャルト・フォンベルガー指揮の演奏会を聴きに行った
3月25日キッツラーがブルックナーの《交響曲第2番》を指揮したがブルックナーは重病で臥していた
3月29日ハンス・リヒター指揮の演奏会に椅子に乗せられ聴きに行った
4月《交響曲第5番》の初版がウィーンのドブリンガー社から出版されたが全楽章にわたってフランツ・シャルクにより変更されたものであった
6月肺炎に罹患し、いったん回復した
10月10日医師ヴァイスマイヤーが往診した時は、変化を認められなかった。夜、祈りを捧げて床に就いた
10月11日この日は、気分よく朝食をすませ、午前中は《交響曲第9番》第四楽章の作曲にかかっていた
午後、0時半医師ゾルゴが往診
午後3時ごろカティにお茶を頼み、カップに口をつけベットに横になり大きく息を吸いこんでから息を引き取った
兆候はまったくみられなかったようだ。午後3時半ころであった
遺体は楽友協会ホール近くにあるカール教会に運ばれた
14日聖カール教会(カールスキルヒェ)で盛大に葬儀が執り行われた
会場ではフェルディナント・レーヴェが管弦合奏用に編曲した《交響曲第7番》のアダージョがハンス・リヒター指揮により演奏された
葬儀にはブラームスとヴォルフが駆けつけた。ヴォルフは合唱連盟のメンバーとして認められず入場できなかった
ブラームスは遅れてきて、係の人が会場内に招き入れようとしたが、首を振って応じようとせずドアのところに立ち止まり去っていったという
ブルックナーの遺言に従い、亡骸はウィーンに西駅発の列車に乗せられ、ザンクト・フローリアン修道院の大オルガン「ブルックナー・オルガン」の真下に安置された。16日死亡証明書が作成された
財産は:現在の通貨でいうと200万シリングに相当。16800フローリンは現金であった
遺品は:二個の懐中時計、金色の煙草入れ、皇帝フランツ・ヨーゼフの騎士十字勲章ミニチュア、金のネクタイピン、エメラルドのついた金の指環(博士号のしるし)、振り子時計、ザンクト・フローリアン修道院の裁判所書記官フランツ・ザイラーから遺言で譲られたピアノ、真鍮のベット等々であった
手書き楽譜の遺言書に記されたものは、ウィーンの宮廷図書館(現国立図書館)に移管され、それ以外は友人、支持者に渡された。
作品の出版権は遺族に残された
貴重な資料である「キッツラー学習帳」は今日、ミュンヘンのトラウドル・クレス夫人の所有となっている。1955年に初めてその内容が明らかにされた

1974年3月オーストリア、リンツのドナウ河畔に「ブルックナーハウス」ができた。杮落としにはカラヤン指揮の、ウイーン・フィルハーモニーがブルックナーの《交響曲第7番》を演奏した。ここでは毎年初秋にブルックナー音楽祭が開催されるようになっている

6.作 品

1.《乙女らは王の御前に導かれ》WAB1 混声4部合唱 1861年
2.《墓場にて》WAB2 男声4部 1861年
3.2つの《主よ、ヒソプもて我に注ぎたまえ》WAB3 四部合唱 1866~68年
4.《主よ、ヒソプもて我に注ぎたまえ》WAB4. 混声四部合唱 1843~44年
5.《アヴェ・マリア》 ヘ長調 WAB5. 四部合唱 1856年
6.《アヴェ・マリア》 ヘ長調 WAB6. 混声七部合唱(無伴奏) 第2作
7.《アヴェ・マリア》 ヘ長調 WAB7. 第3作
8.《めでたし海の元后》WAB8. 独唱
9.《聖木曜日のためのコラール・ミサ曲》WAB 混声四部合唱 1844年 第1作 「キリストは従順であられた」
10.《キリストは従順であられた》WAB10 混声8部合唱 第2作。「キリストはおのれを低くして」とも
11.《キリストは従順であられた》WAB11 混声四部合唱 1844年 第3作
12.コラール《主よ、われ汝に捧げん》WAB12 混声四部合唱 1847年ころ
13.《アンティフォナ「見よ大いなる司祭」》WAB13 七部合唱 1885年
14.カンタータ《諦め》WAB14 混声4部合唱 1851年
15.祝典歌《聖ヤコブは気高き家系より出でたもう》WAB15 四部合唱
16.祝祭カンタータ《主を讃えよ》ニ長調 WAB16 男声合唱 1862年
17.《最後の夜に》WAB17 独唱とオルガンと混声四部合唱 1848年、2版あり
18.《聖守護天使に – すでに明るく星は昇り》WAB18 四部合唱 1868年
19.《オッフェルトリウム「私は、僕ダヴィデを見出し」》WAB19 混声四部合唱 第1作
20.《聖歌の和声付け「私は、僕ダヴィデを見出し」》斉唱 WAB20 1868年 第2作
21.《リベラ・メ(主よ、われを解き放ちたまえ)》ヘ長調  WAB21 四部合唱  1843年頃 第1作
22.《リベラ・メ (主よ、われを解き放ちたまえ)》ヘ短調 WAB22 混声五部合唱 1854年 第2作
23.《この所は神により作られた(ロークス・イステ)》WAB23 混声四部合唱 1869年
24.独唱と混声四部合唱と小規模管弦楽のための《マニフィカト》変ロ長調 WAB24 1852年
25.《ミサ曲》ハ長調 WAB25 ハ長調 1842年
26.《ミサ曲第1番》 ニ短調 WAB26 1864年第1稿、 1876年改訂(第2稿)、1881年-82年改訂(第3稿)
27.《ミサ曲第2番》 ホ短調 WAB27 1866年第1稿、 1876年改訂(第2稿)、1882年改訂(第3稿)
28.《ミサ曲第3番》 ヘ短調 WAB28 1867~68年第1稿、 1876年改訂(第2稿)、1881年改訂(第3稿)
29.《ミサ・ソレムニス》 変ロ短調 WAB29 1854年
30.昇階唱《正しい者の口は知恵を語り》WAB30 混声4部合唱 1879年
31.《パンジェ・リングァ》 ハ長調 WAB31 混声4部合唱 1835年第1稿、1891年改訂
32.《タントゥム・エルゴ》 ニ長調 WAB32 混声4部合唱 1845年ころ
33.《パンジェ・リングァとタントゥム・エルゴ》WAB33 混声4部合唱 1868年
34.《詩篇第22番》 変ホ長調 WAB34 混声4部合唱 1852年ころ
35.《詩篇第112番》変ロ長調 WAB35 混声8部合唱 1863年 
36.《詩篇第114番》ト長調 WAB36 混声5部合唱 1852年
37.《詩篇第146番》イ長調 WAB37 1860頃
38.《詩篇第150番》ハ長調 WAB38 混声4部合唱 1892年
39.《レクイエム》WAB39 ニ短調 混声4部合唱 1848-49年第1稿、1892年改訂
40.《救い給え、御身の民よ》WAB40 混声4部合唱 1884年 
41.《四つのタントゥム・エルゴ》WAB41 混声4部合唱 1846第1稿、1888年改訂(第2稿)
42.《タントゥム・エルゴ》イ長調 WAB42 混声5部合唱 1846年
43.《タントゥム・エルゴ》イ長調 WAB43 混声4部合唱 1845~46年 
44.《タントゥム・エルゴ》変ロ長調 WAB44 混声4部合唱 1854頃
45.《テ・デウム》ハ長調 WAB45 混声4部合唱 1881第1稿、1883~84年改訂
46.交唱《マリアよ、あなたはことごとく美しく》WAB46 混声4部合唱 1878年
47.《死者のための歌》変ホ長調 WAB47 混声4部合唱 1852年
48.《死者のための歌》ヘ長調 WAB48 混声4部合唱 1852年
49.《婚礼の歌》ヘ長調 WAB49 男声4部合唱 1865年
50.《来たれ、創造主なる聖霊よ》WAB50 独唱 1884年頃
51.讃歌《王の御旗は翻る》WAB51 混声4部合唱 1892年
52.昇階唱《エサイの枝は芽を出し》WAB52 4部合唱 1885年
53.《アルネートの墓の前で》 WAB53 男性4部合唱 1854年
54.《二つの心は出会い》WAB54 男声4部合唱 1878年「

<合唱曲>(世俗作品)
55.《夕べの空》WAB55 男声4部合唱 1861~62年 第1作
56.《夕べの空》WAB56 男声4部合唱 1866年 第2作
57.《夕べの魔力》WAB57 独唱、男声4部合唱、女声ヨーデル 1878年
58.《アマラントの森の歌》WAB58 歌曲 1858年
59.《祭典にて》WAB59 男声4部合唱 1843年
60.カンタータ《いざ友よ、楽器を手に》WAB60 男声4部合唱・管弦楽 1855年
61.カンタータ《神父様、われらはあなたの気高き祭りを》WAB61 混声6部合唱 1852年 
62.《感謝の言葉をお受け下さい》WAB62 T・Bs・混声5部合唱 1855年
63.《ドイツの歌》WAB63 男声4部合唱・brass 1892年
64.《君は花のごとく》WAB64 4部合唱 1861年 
65.《気高き心》WAB65 部合唱 1851年頃 第1作
66.《気高き心》WAB66 男声4部合唱 1862年頃 第2作
67.《祝典の歌》WAB67 男声4部合唱 1843年 (曲はWAB.59と同一)
68.《春の歌》WAB68 歌曲 T・pf 1851ころ
69.《生誕》WAB69 男声4部合唱 1852年
70.《ゲルマン人の行進》WAB.70 男声4部合唱・金管楽器 1863年
71.《ヘルゴラント》WAB.71 男声4部合唱 1893年 
72.《秋の悲しみ》WAB.72 歌曲 T、pf 1868年頃 
73.《秋の歌》WAB.73 男声4部合唱 1864年
74.《雅歌》WAB.74 男声8部合唱 1876年第1稿、1879年改訂(第2稿,管弦楽伴奏版)
75.《月に》WAB.75 歌曲 A、pf 1868年頃
76.《歓呼の歌声を高らかに響かせよ》WAB.76 男声4部合唱 1854年
77.《教師の身分》WAB.77 男声4部合唱 1847年頃
78.《ドイツ祖国の歌》WAB.78 男声4部合唱 1845年頃
79.《私の心と君の声》WAB.79 歌曲 T、pf 1868年
80.《真夜中に》WAB.80 男声4部合唱 1870年
81.《追悼》WAB.81 1877年
82.《合唱団連合》WAB.82 男声4部合唱 1882年
83.《二つのモットー》WAB.83 男声4部合唱 1851年
84.《セレナード》WAB.84 男声4部合唱 1846年頃
85.《流れ星》WAB.85 男声4部合唱 1848年頃
86.《ターフェルリート》 変ニ長調 WAB.86 男声4部合唱 1843年 1893年改訂WAB.59の改作
87.《夢と目覚め》WAB.87 男声4部合唱 1890年
88.《慰めの音楽》WAB.88 男声4部合唱 1877年
89.《真夜中に》WAB.89 男声4部合唱 1864年
90.《真夜中に》WAB.90 男声4部合唱 1886年 第2作WAB.89と同一
91.《祖国の酒の歌》WAB.91 男声4部合唱 1866年
92.《おお、私が汝を幸せにできたなら – 祖国の歌》WAB.92 A、Br、男声4部 1866年
93.カンタータ《忘れな草》WAB.93  S、A、T、Bs、混声8部合唱 1845年 3稿あり
94.《俗謡》WAB.94 独唱・男声4部合唱 1861年
95.《2つのモットー》WAB.95 男声4部合唱 1868年 第1曲「女心」、第2曲「最高の讃美」

<管弦楽曲>
96.《行進曲ニ短調》WAB96 1862年
97.《管弦楽のための3つの小品》WAB97 1862年
98.《序曲ト短調》 WAB98 1862-63年
《交響曲》ヘ短調 WAB99 1863年 習作『第00番』『習作交響曲』などの名称あり
《交響曲第0番》ニ短調 WAB100 第一稿1863-64年、改訂1869年、『第0番』はブルックナー自身による名称
《交響曲第1番》ハ短調 WAB101 第一稿リンツ1865-66年、補筆修正1877年と84年、第二稿ウィーン1890-91年
《交響曲第2番》ハ短調 WAB102 第一稿1871-72年、第一稿補筆1873年と1876年、第二稿1877年、補筆(印刷稿)1892年
《交響曲第3番》ニ短調 WAB103「ワーグナー」、第一稿1872-73年、第二稿1874と1876年-78年、第三稿1887-89年
《交響曲第4番》変ホ長調 WAB104「ロマンティック」、第一稿1874年、第二稿1878年-80年、演奏前の補筆1881と86年、最終稿1887-89年(楽譜出版、レーヴェの助言を採用)
《交響曲第5番》変ロ長調 WAB105 1875-76年、補筆1877年、1878-87年の間に一部手直し
《交響曲第6番》イ長調 WAB106 1879-81年(楽譜は1899年弟子で写譜を担当していたシリル・ヒュナイスCYRIL HYNAISにより刊行された。多くの細部で違いが見つかっておりヒュナイス版といわれ、現在は使われていない)
《交響曲第7番》ホ長調 WAB107 1881-83年
《交響曲第8番》短調 WAB108 第一稿1884-87年(1887年版)、第二稿1887年-90年(1890年版)
《交響曲第9番》ニ短調 WAB109 第一~第三楽章1887-94年、第四楽章18945月24日~死去(未完成)

<室内楽曲・吹奏楽曲>
WAB110.《夕べの音楽》ホ短調 vn、pf 1866年 
WAB111.《弦楽四重奏曲》ハ短調 1862年
WAB112.《弦楽五重奏曲》ヘ長調 1878-79年
WAB113.《間奏曲》ニ短調 1879年 
WAB114.《エクアーレ》ハ短調 1847年
WAB115.《アポロ行進曲》変ホ長調 1862年頃
WAB116.《行進曲》変ホ長調 1865年
<ピアノ曲>
WAB117.《思い出》変イ長調 1868年頃
WAB118.《幻想曲》ト長調 1868年
WAB119.《ピアノ小品》変ホ長調 1856年頃
WAB120.《ランシェ=カドリーユ》ハ長調 1850年頃 
WAB121.《カドリーユ》ニ長調 1854年頃
WAB122.《シュタイエルマルク地方の踊り》1850年頃 
WAB123.《秋の夕べの静かな思い》1863年 
WAB124.《三つの小品》1852-54年 

<オルガン曲>
WAB125.《フーガ ニ短調》1861年 
WAB126.《後奏曲》ニ短調 1852年頃 
WAB127.《前奏曲》変ホ長調 1837年頃 
WAB128.《四つの小前奏曲》変ホ長調 1836年
WAB129.《前奏曲》ハ長調 1884年 通称《ペルク前奏曲》
WAB130.《前奏曲》ニ短調 1846年頃或いは1852年頃
WAB131.《前奏曲とフーガ ハ短調》 1847年

<紛失・断片・疑作>
WAB132.《リタニア(連祷)》混声4部合唱 1844頃 (紛失)
WAB133.《レクイエム》男声合唱 1845年 (紛失)
WAB134.《サルヴェ・マリア》合唱曲 1844年 (紛失)
WAB135.《ジプシーの森の歌》1863年頃 (紛失)
WAB136.《主よ、急ぎ来りてわれを助けたまえ》1835年 (スケッチの断片)
WAB137.《二重唱曲》ト長調 1845年頃
WAB138.《リートのスケッチ》変イ長調 独唱、pf 1845頃「Mild wie Bäche, die durch Blumen wallen」
WAB139.《キリエ》変ホ長調 1846年頃
WAB140.《キリエ》ト短調 1843-45年
WAB141.《レクイエム》ニ短調 1875年 (断片、18小節のみ)
WAB142.《交響曲》変ロ長調 1869年 (スケッチの断片のみ)
WAB143.《交響曲第9番》1895-96年(断片、ニ短調の第4楽章スケッチ)
WAB144.《イエスの御心の歌》混声合唱 1845年頃(疑作?)
WAB145.《おお、愛しき幼子イエスよ》独唱、org 1845頃(疑作?)

<その他の曲>
WAB146.《グローリアとクレドのないミサ曲》ニ短調 混声4部合唱 1844年 通称《クローンシュトルフ・ミサ曲》
WAB147.《モットー ニ長調》男声4部合唱 1874年「Freier Sinn und froher Mut」
WAB148.《二つのモットー》男声4部合唱 1869年
WAB149.《エクアーレ》ハ短調 1847年

7.その他


1886年7月8日ウィーン、フランツ・ヨーゼフ勲章「騎士十字章」授与

8.初演

・試演など
《交響曲》へ短調 WAB99 第2楽章のみ1913年10月31日/フェルディナント・レーヴェ指揮/ウィーン・コンツェルト・フェライン、ウィーン、コンツェルトハウス大ホールにて
《交響曲》ヘ短調 WAB99 第1、2、4楽章1923年3月18日/フランツ・モイスル指揮/クロスターノイブルク・フィル/クロスターノイブルクにて
《交響曲》ヘ短調 WAB99 3楽章1924年10月12日/フランツ・モイスル指揮/クロスターノイブルク・フィル/クロスターノイブルクにて
《交響曲》ヘ短調 WAB99 全曲1925年2月19日/フランツ・モイスル指揮/ベルリン・フィル/ベルリン・フィルハ-モニー・ザールにて
《交響曲第0番》ニ短調 WAB100 第3楽章、第4楽章のみ1924年5月17日/フランツ・モイスル指揮/クロスターノイブルク・フィル
《交響曲第0番》ニ短調 WAB100 全曲み1924年10月月12日/フランツ・モイスル指揮/クロスターノイブルク・フィル
《交響曲第1番》ハ短調 WAB101 第一稿リンツ1868年5月9日/ブルックナー指揮/リンツ-レドゥテンザールにて
《交響曲第1番》ハ短調 WAB101 第二稿ウィーン1891年12月13日/ハンス・リヒター指揮/ウィーン・フィル/ウイーン-ムジークフェラインザールにて
《交響曲第2番》ハ短調 WAB102 第一稿(1873年補筆版)1873年10月26日/ブルックナー指揮/ウイーン・フィル/ウイーン万国博閉会式典のおいて
《交響曲第2番》ハ短調 WAB102 第一稿(1876年補筆版)1876年2月20日/ブルックナー指揮/ウイーン・フィル/ウイーン-ムジークフェラインザールにて
《交響曲第2番》ハ短調 WAB102 第一稿(印刷稿)1894年11月25日/ハンス・リヒター指揮/ウイーン・フィル/ウイーン-ムジークフェラインザールにて
《交響曲第2番》ハ短調 WAB102 キャラガン版1991年3月25~28日/クルト・アイヒホルン指揮/リンツ・ブルックナーは管弦楽団/、リンツにて
《交響曲第3番》ニ短調 WAB103 第二稿(短縮)1877年12月16日/ブルックナー指揮/ウイーン・フィル/ウイーン-ムジークフェラインザールにて
《交響曲第3番》ニ短調 WAB103 第三稿1890年12月21日/ハンス・リヒター指揮/ウイーン・フィル/ウイーン-ムジークフェラインザールにて
《交響曲第3番》ニ短調 WAB103 第一稿1946年12月1日/ヨーゼフ・カイベルト指揮/ドレスデン国立管弦楽団/ドレスデンにて
《交響曲第4番》変ホ長調 WAB104 第二稿1881年2月20日/ハンス・リヒター指揮/ウイーン・フィル/ウイーン-ムジークフェラインザールにて
《交響曲第4番》変ホ長調 WAB104 第一稿(スケルツォ楽章のみ)1909年12月12日/アウグスト・ゲレリヒ指揮/リンツにて
《交響曲第4番》変ホ長調 WAB104 第一稿(全曲)1975年9月20日/クルト・ヴェス指揮/ミュンヘン・フィル/リンツ-ブルックナー・ハウスにて
《交響曲第4番》変ホ長調 WAB104 第三稿レーヴェ改訂版1888年1月22日/ハンス・リヒター指揮/ウイーン・フィル/ウイーン-ムジークフェラインザールにて
《交響曲第5番》変ロ長調 WAB105 1887年4月20日シャルク編曲をヨーゼフ・シャルクとフランツ・ツォトマンの二人による2台のピアノで演奏
《交響曲第5番》変ロ長調 WAB105 シャルク版1894年4月8日/フランツ・シャルク指揮/グラーツ市立公園劇場にて
《交響曲第5番》変ロ長調 WAB105 ハース版1935年10月20日/ジークムント・フォン・ハウゼッガー指揮/ミュンヘン・フィル/ミュンヘンにて
《交響曲第6番》イ長調 WAB106 中間の二つの楽章のみ1883年2月11日/ヴィルヘルム・ヤーン指揮/ウィーン・フィル/ウイーン-ムジークフェラインザールにて
《交響曲第6番》イ長調 WAB106 マーラー版1899年2月26日/グスタフ・マーラー指揮/ウィーン・フィル/ウイーン-ムジークフェラインザールにて
《交響曲第6番》イ長調 WAB106 完全全曲1901年3月14日/『カール・ポーリヒ指揮』/シュトゥットガルト宮廷楽団/シュトゥットガルト宮廷劇場にて 
《交響曲第6番》イ長調 WAB106 川﨑高伸校訂版2014年2月22日/内藤彰指揮/東京ニューシティ管弦楽団/東京芸術劇場
《交響曲第7番》ホ長調 WAB107 全曲ピアノ連弾1884年2月27日/ワーグナー協会演奏会/ヨーゼフ・シャルクとフェルディナント・レーヴェ/ベーゼンドルファー・ザーにて
《交響曲第7番》ホ長調 WAB107 1884年12月30日/アルトゥール・ヌキシュ指揮/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団/ライプツィヒ市立劇場にて
《交響曲第7番》ホ長調 WAB107 ウィーン初演1886年3月21日/ハンス・リヒター指揮/ウイーン・フィル/ウィーンにて
《交響曲第7番》ホ長調 WAB107 川﨑高伸校訂版2012年11月2日/内藤彰指揮/東京ニューシティ管弦楽団/東京芸術劇場にて
《交響曲第8番》ハ短調 WAB108 1890年版1892年12月18日/ハンス・リヒター指揮/ウイーン・フィル/ウイーン-ムジークフェラインザールにて
《交響曲第8番》ハ短調 WAB108 1890年最終稿に第一稿を混入して全曲1939年ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮/ハンブルクにて
《交響曲第8番》ハ短調 WAB108 1887年版第一楽章のみ1954年5月2日オイゲン・ヨッフム指揮/ミュンヘンにて
《交響曲第8番》ハ短調 WAB108 1887年版全曲1973年9月2日ハンス=フーベルト・シェンンツェラー指揮/BBC交響楽団/ロンドンにて
《交響曲第9番》ニ短調 WAB109 レーヴェ改訂版1903年2月21日指揮フェルディナント・レーヴェ/ウィーン演奏連盟管弦楽団/ウイーン-ムジークフェラインザールにて
《交響曲第9番》ニ短調 WAB109第一~第三楽章原典版1932年4月2日ジークムント・フォン・ハウゼッガー指揮/ミュンヘン・フィル/ミュンヘンにて

9. IBG国際ブルックナー協会と版問題

1.ブルックナーはオルガニスト職と永い教師生活が生計維持の支えであった。作品がはじめから成功を収めていたなら版問題はもっと変わったものになっていたかもしれない。多くの場合、ブルックナー自身が改訂や補筆を加えていったことで一つの作品に何種類の版が残された。また、彼の友人や弟子の提案で多くの変更が加えられたことによる複数の版も存在している

2.ブルックナーは自筆譜をウィーンの宮廷図書館(現オーストリア国立図書館)に委ねたとき、彼は「最後の意志と遺言に従って」自分のオリジナル作品が伝えられることを望んだ形で、彼の作品を後世に遺贈したといわれている
2-2.ブルックナーの自筆譜は一部を除き、現オーストリア国立図書館音楽部門に所蔵されている
2-3.ブルックナー作品の出版に対する責任はオーストリア国立図書館にある
2-4.IBG国際ブルックナー協会の主な仕事は、現在もオーストリア国立図書館と連携したブルックナーの作品の出版であり、ブルックナーがウィーンの宮廷図書館に遺贈したオリジナルのスコア(自筆譜)に直接基づくブルックナーの作品の「 版 」を公開することにあるとしている

3. IBG国際ブルックナー協会による原典版作業とは弟子たちの関与した加筆部分を明確にし、ブルックナー本来の楽譜に戻す作業であるといわれている
原典版作業を中心となって進めたのがローベルト・ハース、レオポルド・ノヴァーク、ヘルベルト・フォッグ等である

⑴.当初ハース(Robert Haas)は、ウィーンの宮廷図書館音楽部門長をしていた。 ノヴァーク(Leopold Nowak)はここで、ハースを補佐して「ブルックナー全集)」の助手をしていた
ハースは、最初の自筆譜=オリジナルこそが真のブルックナーの作品であるとし、「理想的な」版と考えるものを作成するために異なる版を混ぜることをためらわなかった(たとえ作品が作曲家自身のスタイルに対応していなくても)また、後の書き込みや削除は無視すべきとして校訂し、「原典版」として出版したとされている
これを「旧全集版」または「ハース版」と称している
ハースがナチス・ドイツの協力を受けていたため戦後ハースは辞任した。1946年オーストリア国立図書館の音楽関係資料の収集責任者としてノヴァークが音楽部門長に就任した

⑵.ノヴァークはいくつかの作品の原典版を国際ブルックナー協会のために校訂した。それらは現在では「ブルックナー新全集版:ノヴァーク版」として知られている
彼は、自筆と印刷された楽譜に基づいてブルックナーの作品のさまざまな版を復元し、違いを詳細に文書化することを自分の仕事と考えた。ノヴァークは書き込みや削除は本人が合意したのであれば基本良しとしたが、そのまま採用せずさらに慎重に対応しながら校訂したとされている
現在もブルックナー研究者の間では、ハース版、ノヴァーク版ともいろいろな見方をされており、研究が続けられている

⑶.「IBG国際ブルックナー協会(International Bruckner Society)」は、初版群に含まれる弟子たちの関与を明らかにし、それを排除し、本来の楽譜に戻すという研究者の機運から、1927年ライプツィヒに設立され、音楽学者マックス・アウアーMax Auerの提唱により、1929年ウィーンで正式に国際ブルックナー協会(Internationale Bruckner-Gesellschaft, 略称IBG)が創設された
IBGの目的は、「 言語的および政治的障壁を克服し、ブルックナーの本質を広めることです。その目標は、あらゆる場所でのブルックナーのライフワークに対する理解を深め、その普遍的な普及と認識を確立することでした 」と述べている
1930-1955年には、ドイツ、オーストリア、スイスのさまざまな都市で合計13の国際ブルックナーフェスティバルが開催された。1933年には、協会校訂譜の出版社も設立された(Musikwissenschaftlicher Verlag 、略称MWV、日本語名「音楽学出版」)。
IBGの主な仕事は、現在もオーストリア国立図書館と連携したブルックナーの作品の出版である
IBG-Mitteilungsblattは1971年から登場してる(1993年から主なタイトルの研究と報告がある)
ナチス・ドイツの台頭により、1938年にオーストリアが併合された直後、IBGは公的に解散し、1951年まではライプツィヒで活動を続けていた
IBGによる原典版校訂作業を、当初ローベルト・ハースを編集主幹(1930–1944年)に、初期には音楽学者アルフレート・オーレルAlfred Orelを助手に雇い出版されていた
後期にレオポルト・ノヴァークが校訂作業を共にした。この間、以下の楽譜が「原典版」と称して出版された。

⑷.ローベルト・ハース編集主幹(1935~1944年)の校訂を「第1次全集版(旧全集)」または「ハース版」と称し、オーレルが校訂した楽曲については「オーレル版」と称している
1930年 《レクイエム》ハース校訂
1930年 《荘厳ミサ曲》ハース校訂
1934年 《交響曲第9番》アルフレッド・オーレル校訂
1934年 《4つの管弦楽小品》アルフレッド・オーレル校訂
1935年 《交響曲第1番》「リンツ版」および「ウィーン版」 ハース校訂
1935年 《交響曲第5番》ハース校訂(同年10月20日ミュンヘンでジークムント・ハウゼッガー指揮で演奏された)
1935年 《交響曲第6番》ハース校訂
1936年 《交響曲第4番》1878/80年稿 ハース校訂
1938年 《交響曲第2番》ハース校訂
1939年 《交響曲第8番》ハース校訂
1940年 《ミサ曲第2番》ホ短調 ハース及びノヴァーク校訂
1944年 《交響曲第7番》ハース校訂
1944年 《ミサ曲3番》へ短調 ハース校訂

⑸.1951年活動拠点はウィーンに戻り、ハースが辞任した後の作業は、レオポルド・ノヴァークが編集主幹(1951–1989年)となり再開された
ノヴァークは、ハースが既に校訂した作品もすべて校訂をやりなおし、あらためて出版した
戦後最初の出版物はフリッツ・オーザー(Fritz Oeser)編集の《交響曲第3番》であった。以後複数の作品を発表した
これらを「第2次全集版(新全集)」または「ノヴァーク版」と称している
ノヴァーク版には、第一稿(N₁)、第二稿(N₂)、第三稿(N₃)と複数の稿が存在する
このため、「ハース版」と「ノヴァーク版」の2種類の原典版が存在する

⑹戦後就任したレオポルト・ノヴァーク編集主幹の校訂を「第2次全集版」(1951-1989年ノヴァーク版)と称している
1951年 《交響曲第9番》ノヴァーク校訂
1951年 《交響曲第5番》ノヴァーク校訂
1952年 《交響曲第6番》ノヴァーク校訂
1953年 《交響曲第4番》第二稿 ノヴァーク校訂
1953年 《交響曲第1番》リンツ稿 ノヴァーク校訂
1954年 《交響曲第7番》ノヴァーク校訂
1955年 《交響曲第8番》第二稿 ノヴァーク校訂
1955年 《弦楽四重奏曲》ハ短調 ノヴァーク校訂
1957年 《ミサ曲第1番》ニ短調 ノヴァーク校訂
1959年 《交響曲第3番》第三稿 ノヴァーク校訂
1959年 《ミサ曲第2番》ホ短調 第二稿 ノヴァーク校訂
1960年 《ミサ曲第3番》ヘ短調 ノヴァーク校訂
1962年 《テ・デウム》ノヴァーク校訂
1963年 《インテルメッツォ》ノヴァーク校訂
1964年 《詩編150》フランツ・グラスベルガー校訂 
1965年 《交響曲第2番》ノヴァーク校訂
1966年 《レクイエム》ノヴァーク校訂
1968年 《交響曲第0番》ノヴァーク校訂
1972年 《交響曲第8番》第一稿 ノヴァーク校訂
1973年 《交響曲》へ短調 ノヴァーク校訂
1975年 《交響曲第4番》第一稿 ノヴァーク校訂
1975年 《荘厳ミサ曲》ノヴァーク校訂
1977年 《ミサ曲第2番》ホ短調 第一稿 ノヴァーク校訂
1979年 《交響曲第3番》第一稿 ノヴァーク校訂
1980年 《交響曲第3番》第二楽章アダージョ ノヴァーク校訂
1980年 《交響曲第1番》ウィーン稿 ギュンター・ブローシェ校訂
1981年 《交響曲第4番》最終稿(1878年版)Finale (1878 version) of Symphony No. 4 ノヴァーク校訂
1979年 《交響曲第3番》第二稿 ノヴァーク校訂
1984年 《小規模教会音楽作品》(混声合唱) ノヴァーク及びバウエルンファイント校訂
1985年 《弦楽四重奏曲》ロンド ハ短調 ノヴァーク校訂
1987年 《Cantatas and choral works with orchestra》 Edited by Franz Burkhart, Rudolf H. Führer and Leopold Nowak.
1988年 《Solo piano music》 Edited by Walburga Litschauer
1989年ノヴァークは、健康上の理由で編集主幹を辞任した

⑺.ノヴァーク辞任後は、IBG国際ブルックナー協会校訂譜の出版社MWV「音楽学出版」のヘルベルト・フォッグ(Herbert Vogg)が編集主幹に就任し、ウィリアム・キャラガン(William Carragan)、ベンヤミン=グンナー・コールズ(Benjamin-Gunnar Cohrs)、ベンヤミン・コーストヴェット(Benjamin Korstvedt)ポール・ホークショウ(Paul Hawkshaw)や他のブルックナー研究者と協力して引き継がれ、キャラガン校訂、コールズ校訂、コーストヴェット校訂等々の新校訂譜が出版された
これらは「ノヴァーク版」とは称しないが「新全集版」に含まれる

⑻.その他
※2003年《交響曲第8番》第三楽章アダージョ「1888年異版」日本のブルックナー研究家、川﨑高伸校訂版がある(英国北アイルランドのブルックナー研究家ダーモット・ゴールトDermot Gaultの発見した1887年初稿完成直後~1892年初稿出版直前までにアダージョ₁からアダージョ₃に数度にわたる改訂後)を基にしたかは(問合わせ中)で不明、ウィーンの国立図書館所蔵の筆写譜をもとにしたようだ)。これはComplete Critical Editionには含まれていない
※近年、国際ブルックナー協会による全集版(原典版)による「無視」や「排除」を様々な理由から見直す動きが出ている。第三次批判全集版として「新アントン・ブルックナー全集」(Neue Anton Bruckner. Gesamtausgabe)の作業が開始された
2016年《交響曲第1番》「リンツ稿」トーマス・レーダー校訂が出版されている
※かなりの数の指揮者(例:ヘルベルト・フォン・カラヤン、ギュンター・ヴァンド、ベルナルト・ハイティンク)がハースを好んだとしても、ノヴァークの戦後版は、ハースの戦前版よりもはるかに演奏されている
※川崎 高伸 CiNii収録論文
ブルックナー「第8交響曲」アダージョの楽譜を探る (1999)
ブルックナーの「第八交響曲」アダージョの楽譜を探る(その3)(特別寄稿) (2004)
国際ブルックナー協会全集版「第四交響曲」第3稿をめぐって (特集2 ブルックナー–版問題を探る) (2005)
※ブルックナー自身による《交響曲第8番》のアダージョ楽章の別稿が、日本人ブルックナー研究家の川崎高伸氏により1999年に発見され、当時新聞各紙でその貴重性の大発見に大きく取り上げられたと報道されたようだ(未確認)。尚、第三楽章の異稿は2004年内藤彰指揮の東京ニューシティ管弦楽団演奏により東京で初演された

参考、出典:「ANTON BRUCKNER (1824 -1896) CRITICAL COMPLETE EDITION」、http://www.mwv.at/english/TextBruckner/BruckStart/BruckStart.htm、最終アクセス2020年2月5日、「ブルックナーの版問題」、https://ja.wikipedia.org/wiki/ブルックナーの版問題、最終アクセス2020年2月7日、「ブルックナー」、門馬直美著、春秋社、1999年発行 / 「クラシック作曲家辞典」、中河原理監修、フェニックス企画編 東京出版堂、平成4年発行 / 「ブルックナーの研究」、レオポルド・ノヴァーク著、樋口隆一訳、音楽之友社、2018年発行 / フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」 (2017/11/24 05:17 UTC 版)最終アクセス2020年2月5日 / 「Versions and editions of Bruckner’s symphonies」、https://en.wikipedia.org/wiki/Versions_and_editions_of_Bruckner%27s_symphonies、最終アクセス2020年2月9日 /  「ブルックナー(作曲家別・名曲解説ライブラリー)」、音楽之友社編、音楽之友社、2002年発行 / 「ブルックナー交響曲」ハンス=ヨアヒム・ヒンリヒセン著、高松祐介訳、春秋社、2018年発行、 / 国際ブルックナー協会全集版「第四交響曲」第3稿をめぐって (特集2 ブルックナー–版問題を探る)、https://ci.nii.ac.jp/naid/40006987825
、https://ci.nii.ac.jp/author?q=%E5%B7%9D%E5%B4%8E+%E9%AB%98%E4%BC%B8

※用語解説:加筆=書き加えること。 変更=変え改めること。 修整=ととのえなおすこと。 校訂=出版物の文字や文句の訂正。 

10.関連動画

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《ブルックナー 交響曲第7番》
Symphony No. 7 in E Major, WAB 107: I. Allegro moderato

《ブルックナー 交響曲全集》 オイゲン・ヨッフム指揮
ベルリン・フィル
バイエルン放送交響楽団
《Symphonies 1,2,3,4,5,6,7,8,9 》(reference recording : Eugen Jochum)
⑴《Symphony #1》 In C Minor *
Allegro (00:00)
Adagio (12:39)
Scherzo. Schnell (25:13)
Finale. Bewegt, feurig (34:08)

⑵《Symphony # 2》 In C Minor **
Moderato (47:21)
Andante (1:05:16)
Scherzo. Mäßig schnell (1:19:20)
Finale. Mehr schnell (1:25:52)

⑶《Symphony #3》 In D Minor **
Mehr langsam, Misterioso (1:39:10)
Adagio, bewegt, quasi Andante (1:59:14)
Ziemlich schnell (2:14:32)
Allegro (2:21:46)

⑷《Symphony #4》 In E Flat ‘’Romantic’’ *
Bewegt, nicht zu schell (2:32:24)
Andante quasi Allegretto (2:50:03)
Scherzo. Bewegt (3:06:49)
Finale. Bewegt, doch nicht zu schnell (3:16:54)

⑸《Symphony #5》 In B Flat **
Introduction. Adagio, Allegro (3:36:58)
Adagio. Sehr langsam (3:57:52)
Scherzo. Molto vivace – Schnell (4:17:15)
Finale. Adagio – Allegro moderato (4:29:50)

⑹《Symphony #6》 In A **
Majestoso (4:53:49)
Adagio. Sehr feierlich (5:10:26)
Scherzo. Nicht schnell (5:27:40)
Finale. Bewegt, doch nicht zu schnell (5:35:35)

⑺《Symphony #7》 In E *
Allegro moderato (5:48:54)
Adagio. Sehr feierlich und sehr langsam (6:09:33)
Scherzo. Sehr schnell (6:34:35)
Finale. Bewegt, doch nicht schnell (6:44:18)

⑻《Symphony #8》 In C Minor *
Allegro moderato (6:56:50)
Scherzo. Allegro moderato (7:10:33)
Adagio. Feierlich langsam; doch nicht schleppend (7:24:35)
Finale. Feierlich, nicht schnell (7:51:17)

⑼《Symphony #9》 In D Minor *
Feierlich, misterioso (8:11:06)
Scherzo. Bewegt, lebhaft (8:34:24)
Adagio. Langsam, feierlich… (8:44:13)

*Berliner Philharmoniker
**Symphonie-Orchester des Bayerischen Rundfunks
Eugen JOCHUM
Stéréo recordings in 1958,1964-67
Label : Deutsche Grammophon

《テ デウム》
ヘルベルト・フォン・カラヤン / ウイーン・フィル
《 Te Deum 》in C major.
Herbert von Karajan / Wiener Philharmoniker.
Anna Tomowa-Sintow; soprano.
Agnes Baltsa; mezzo-soprano.
David Rendall; tenor.
José Van Dam; bass-baritone.
Wiener Singverein — chorus master: Helmuth Froschauer.
Record at Vienna in 1978, Der Großer Saal des Wiener Musikvereins.

《交響曲第1番》リンツ版 パーヴォ・ヤルヴィ指揮
フランクフルト放送交響楽団
アルテ・オーパー フランクフルト(旧オペラ座)2013年2月7日
《Symphony No 2》(Linzer Fassung)
Paavo Järvi, / hr-Sinfonieorchester (Frankfurt Radio Symphony Orchestra) ∙
Alte Oper Frankfurt, 7. Februar 2013 ∙

《交響曲第2番》 オッコ・カム指揮
フィンランド放送交響楽団
《Symphony No 2》 in C minor
Okko Kamu / Finnish Radio Symphony Orchestra

《交響曲第2番》 ケース・バケルス指揮
フランダース交響楽団
ソロヴァイオリン:リザ・フェルシュトマン
ベルギー ブルージュ、コンサート ホール 2015年2月10日
《Symphony No. 2》
Kees Bakels / Symfonieorkest Vlaanderen
Soloist. Liza Ferschtman
10/02/2015 – Concertgebouw Brugge

《交響曲第3番》1889版 ギュンター・ヴァンド指揮
NDR交響楽団
《Sinfonie Nr.3》 d-moll (Fassung 1889)
Günter Wand, Dirigent / NDR Sinfonieorchester
Schleswig-Holstein Musik Festival, 1992

《交響曲第3番》 パーヴォ・ヤルヴィ指揮
<ラインガウ音楽祭>ヴィースバーデン クアハウス 2013年8月21日
hr交響楽団(元フランクフルト放送交響楽団)
Rheingau Musik Festival 2013 ∙
Paavo Järvi, / hr-Sinfonieorchester (Frankfurt Radio Symphony Orchestra)
Wiesbaden, Kurhaus, 21. August 2013 ∙

《交響曲第3番》第3稿改訂版1890年 朝比奈隆指揮
新日本フィル
1996年12月12日 東京文化会館

《交響曲第4番》 スタニスワフ・スクロヴァツェフスキ
ガリシア交響楽団
2014年3月21日にスペイン ア・コルーニャのオペラ ハウス
《Sinfonía nº 4》 en mi bemol mayor, “Romántica”
Orquesta Sinfónica de Galicia
Stanislaw Skrowaczewski, director
Grabación realizada el 21 de marzo de 2014 en el Palacio de la Ópera de A Coruña.

《交響曲第4番》 朝比奈隆指揮
NHK交響楽団
2000年11月3日 東京 ライブ
Symphony No.4 “Romantic”
Asahina NHK Symphony Orchestra
2000.11.3 Tokyo. Japan Live

《交響曲第4番》 クラウディオ・アバド指揮
ウイーン・フィル
《Symphony Nr 4 Es Dur ‘Romantische’》
Claudio Abbado, / Wiener Philharmoniker

《交響曲第4番》 ヘルベルト・ブロムシュテット
ドレスデン・シュターツカペレ
2017年7月2日
Symphony No. 4 Herbert Blomstedt
Herbert Blomstedt / Staatskapelle Dresden
Semperoper, 2 July 2017

《交響曲第4番》 エリアフ・インバル指揮
フランクフルト放送交響楽団(現hr交響楽団)
Eliahu Inbal, / Frankfurt Radio Symphony
Alte Oper Frankfurt, 25. November 2016 ∙

《交響曲第4番》 チェリビダッケ指揮
ミュンヘン・フィル
Symphony No 4 Münchner Philharmoniker Celibidache
 

《交響曲第5番》  朝比奈隆指揮
大阪フィル ブルックナー
1998/7/16

《交響曲第5番》ヘルベルト・ブロムシュテット指揮
NDRエルプフィルハーモニー
《Symphony No. 5》
Herbert Blomstedt / NDR Elbphilharmonie Orchester
Elbphilharmonie, 9 June 2017

《交響曲第5番》変ロ長調ハーズ版ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮音源のみ
ベルリン・フィル
1942年10月25日27日ベルリン、ベルンブルガー、フィルハーモニー(ライブ)
Symphony n°5 (1878 ed. Haas 1935)
Wilhelm Furtwängler / Berliner Philharmoniker
Live recording, Berlin, 25/28.X.1942

《交響曲第6番》ギュンター・ヴァンド指揮
NDR交響楽団
1996年シュレースヴィヒ=ホルシュタイン音楽祭
Sinfonie Nr. 6 A-Dur
Günter Wand, / NDR Sinfonieorchester
Schleswig-Holstein Musik Festival, 1996

《交響曲第6番》クリストフ・エッシェンバッハ指揮
ラインガウ音楽祭オープニングコンサート
フランクフルト放送交響楽団
2016年6月19日 エーベルバッハ修道院
《hr-Sinfonieorchester》
Christoph Eschenbach, / Frankfurt Radio Symphony Orchestra
Rheingau Musik Festival 2016 ∙
Eröffnungskonzert ∙
Kloster Eberbach, 19. Juni 2016 ∙

《交響曲第6番》 チェリビダッケ指揮
ミュンヘン・フィル
Symphony No 6 Münchner Philharmoniker Celibidache
 

《交響曲第7番》 オイゲン・ヨッフム
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
《Symphony No 7》 in E Major
Concertgebouw Orchestra
Eugen Jochum conductor

《交響曲第7番》第二楽章アダージョ オイゲン・ヨッフム
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
『1月22日《交響曲第7番》第三楽章アダージョに着手。「ある日、家にもどる途中、大変悲しい気持ちに襲われた。ワーグナーはもう長く生きていられないのではないか、と私は考えていた。そのとき、嬰ハ短調のアダージョ(第7番第二楽章)の楽想が浮かんできたのだ」とフェリックス・モットルFelix Josef von Mottlに手紙を書いている。』と

《交響曲第7番》 小澤征爾
サイトウキネンオーケストラ
2003年9月10日松本文化会館 2003 Live
Seiji Ozawa / Saito Kinen Orchestra
2003.9.10 Matumoto Bunka Kaikan.Nagano. Japan

《交響曲第7番》 朝比奈隆指揮
新日本フィル
1992年

《交響曲第7番》 尾高忠明
NHK交響楽団 
2010年5月14日

《交響曲第7番》 クラウディオ・アバド指揮
ルツェルン祝祭管弦楽団
《Symphony No. 7》 Claudio Abbado
Lucerne Festival Orchestra

《交響曲第7番》 ベルナルト・ハイティンク指揮
ウイーン・フィル
1997年10月18日 東京 ライブ
《Symphony No.7》
Bernard Haitink / Wiener Philharmoniker
1997.10.18 Tokyo. Japan Live

《交響曲第7番》 チェリビダッケ指揮
ミュンヘン・フィル
Symphony No 7 Münchner Philharmoniker Celibidache
 

《交響曲第7番》 カール・ベーム指揮 音声のみ
ベルリン・フィルハーモーニー
1977年3月24日
《Symphony No. 7 》in E Major, WAB 107
Karl Böhm / Berliner Philharmoniker
3/24 1977 live Berlin

《交響曲第8番》 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ウィーン・フィルハーモニー
1979年06月04日 リンツ:ザンクト・フローリアン教会

《交響曲第8番》ハーズ版 朝比奈隆指揮
第243回定期演奏会
【朝比奈隆 指揮生活50周年記念】
大阪フィルハーモニー交響楽団
1989年9月8日 大阪・フェスティバルホール

《交響曲第8番》 朝比奈隆指揮
NHK交響楽団
《Symphony No.8》
Asahina NHK Symphony Orchestra

《交響曲第8番》 チェリビダッケ指揮
ミュンヘン・フィル
Symphony No 8 Münchner Philharmoniker Celibidache
 

《交響曲第9番》ニ短調 ギュンター・ヴァンド/strong>
日本公演
NDR Sinfonieorchester Hamburg
旧称は、ハンブルク北ドイツ放送交響楽団
2000年11月14日東京オペラシティ・コンサートホール ライブ  
Günter Wand
NDR Sinfonieorchester Hamburg
2000.11.14 Tokyo. Japan Live

《交響曲第9番》ニ短調 カルロ・マリア・ジュリーニ
シュトゥットガルト放送交響楽団
Orquesta de la Radio de Stuttgart.
《Symphony No. 9》 in D minor
Carlo María Giulini,director.

《交響曲第9番》ニ短調 クラウディオ・アバド
ベルリン・フィル
1997年5月17日 日本公演
《Symphony No. 9》 in D minor
I. Feierlich, Misterioso
II. Scherzo (bewegt, lebhaft)
III. Adagio (sehr langsam, feierlich)
Claudio Abbado, / Berliner Philharmoniker Orchester

《交響曲第9番》 バーンスタイン指揮
ウィーン・フィル
Symphony No 9 Vienna Philharmonic Orchestra Bernstein
 

 

交響曲第9番ニ短調 ヴォルフガング・サヴァリッシュ
ザルツブルク音楽祭
ウィーン・フィル
1983年8月10日

《交響曲第9番》 ヘルベルト・フォン・カラヤン
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
Berliner Philharmoniker
1975年9月13~16日 ベルリン・フィルハーモニーザール セッション録音
《Symphonie Nr.9》 d-moll (Originalfassung) 原典版

《交響曲第9番》フルトヴェングラー 映像なし
ベルリン・フィル
1944年10月7日 ベートーヴェン・ホール
《Symphony No. 9 》
Berlin Philharmonic Orchestra conducted by Wilhelm Furtwängler
Recorded Beethovensaal, Berlin, 7th October, 1944

《ミサ曲第3番》へ短調 WAB28
アデリア・ザバロヴァ(S.) / ジュリアン・ブハーゲン(A.
ユン・フェン・スー(T.) / マチェイ・コズロウスキ(Bs.)
アン・クリスティン・グリム(Vn.) / アレクサンダー・ヨルダノフスキー(Va.)
クリストフ・ゲケリッツ / ロストック音楽/演劇大学管弦楽団および室内合唱団
シュヴェリン音楽高校の青少年合唱団
2015年1月26日 ニュルンベルグ カタリネンサール劇場 ライブ
Live-Mitschnitt vom 26.01.2015 aus dem Katharinensaal der HMT-Rostock
Adelya Zabarova, Sopran – Juliane Bookhagen, Alt
Yun-Feng Hsu, Tenor – Maciej Kozlowski, Bass
Violin-Solo: Anne-Kristin Grimm
Vioal-Solo: Aleksandar Jordanovski
Hochschul- und Kammerchor, Jugendchor des Musikgymnasiums Schwerin,
Hochschulorchester, Leitung: Prof.Christfried Göckeritz

《キリストは従順であられた》WAB11 混声四部合唱
《Christus factus est》WAB11 聖トーマス教会のモテット(経文歌)
指揮者:ファビアンエンダース / ライプツィヒ トーマス教会少年合唱団
2011年6月24日
Motette in der Thomaskirche, 24.6. 2011, Thomanerchor Leipzig,
Dirigent: Fabian Enders

《アヴェ・マリア》
指揮:ヨハネス・クラインジュン / ミュンヘン合唱団
2011年2月6日ライブ録音、LMUルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン大講堂

《この所は神により作られた(ロークス・イステ)》WAB23 混声四部合唱
指揮:ヨハネス・クラインジュン / ミュンヘン合唱団
2011年2月6日ライブ録音、LMUルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン大講堂
《Locus iste》WAB23
Leitung: Johannes Kleinjung / UniversitätsChor München
Live-Aufzeichnung vom 6. Februar 2011, Große Aula der LMU München

昇階唱《正しい者の口は知恵を語り(Os justi)》WAB30
指揮:ヨハネス・クラインジュン / ミュンヘン合唱団
2011年2月6日ライブ録音、LMUルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン大講堂
Leitung: Johannes Kleinjung / UniversitätsChor München
Live-Aufzeichnung vom 6. Februar 2011, Große Aula der LMU München》WAB30 

昇階唱《エサイの枝は芽を出し》WAB52 4部合唱
ヨハネス・クライジュン / ミュンヘン合唱団
2011年2月6日 LMUルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン大講堂
《Virga Jesse》WAB52
Leitung: Johannes Kleinjung / UniversitätsChor München
Live-Aufzeichnung vom 6. Februar 2011, Große Aula der LMU München

《弦楽五重奏曲》ヘ長調
String Quintet in F major, HD live-recording
アリーナ・イブラギモヴァ(Vn.)、アミハイ・グロス(Va.)
アンヌ・ガステイネル(Vc.)、ギス・クレイマー(Va.)、リザ・フェルシュトマン(Vn.)

ピアノ曲《思い出》WAB 117変イ長調
アンドレアス・フィッシャー(p)

《交響曲第8番》 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
1979年06月04日 リンツ:ザンクト・フローリアン教会

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