
1643年「イタリア、バロックの作曲家・歌手」
アレッサンドロ・ストラデッラAlessandro・Stradella
合奏協奏曲、様式の創始者と言われている
彼はフリーランスの作曲家として華々しいキャリアを築き、依頼を受けて作曲したり、著名な詩人と共同で作曲したりして、さまざまなジャンルで300以上の作品を生み出した。
1643年7月3日にボローニャで生れ
1643年8月1日にボローニャで、ネピ(ヴィテルボ県)出身の貴族マルカントニオ・ストラデッラ(1579-1649)と、オルヴィエート出身の2番目の妻ヴィットリア・バルトリの間に生まれ、1643年8月1日にボローニャでアントニオ・アレッサンドロ・ボンコンパーニョ・ストラデッラとして洗礼を受けた。代理の代父はウーゴ・ボンコンパーニ公爵で、彼は1642年6月7日に彼の父をヴィニョーラの副侯爵に任命していた。一家はネピに住んでいたが、ヴィニョーラを攻撃する教皇軍から逃れるため、一時的にボローニャに滞在していた。
1682年2月25日ジェノヴァで暗殺。ジェノヴァの最も貴族的教会の一つといわれているサンタ・マリア・デッレ・ヴィーニュに埋葬
・先祖はイタリア、ルニギァーナ王朝の頃から戦争で戦ったトスカーナ地方マッサ・カララ州フィヴィッツァーノ城地域、高貴の出身の家系といわれている。叔父アレッシオ・ストラデッラAlessio Stradellaは作曲家で、1575年ストリとネピの司教に任命されたときにストラデッラの家族は移動してネピに移住したようだ。
父カヴァリエ・マルカントニオ・ストラデッラはメディチ家ピサの軍事施設でトスカーナ大公のセントステファノ騎士団の騎士であった。母ヴィットリア・バルトリはオルヴィエート家の出で、二番目の妻にあたる。1642⁻43年までヴィニョーラの知事・副総督としてボンコンパーニ王子に仕えていたが、カストロ戦争でローマ法王軍に包囲され城を摂取され、ヴィニョーラの城からエメリア・ロマーニャ、セッラマッツオーニのモンフェスティーノ城に退いたが、1643年トスカーナ宮廷から解雇されてしまい失職。一家はモンフェシュチノに移る。
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1648年父の死
1652~1660年母、弟ステファノとローマ、イッポリト・ランテ・ロヴェール公爵宮殿に移り住む。
1655年聖マルセロ・デル・クロシフィッソ大聖堂の歌手として在籍した記録が残されている。
彼はローマで教育を受け、24歳にして作曲家として名を馳せていた。
1658スウェーデンのクリスティーナ女王(ローマ駐在)の宮廷で歌手になる。王室に出入りし、そこで仕えていたカルロ・アンプロジオ・ロナテイと知り会う。この頃には舞台作品、モテット等々を書いている。宮廷や貴族のパトロンに属していなく委嘱曲であった。ローマではプレイボーイといわれ女性との不注意の関係が街の有力者間で問題となり始める。
1663年音楽的技量に感銘を受けたクリスティーナ女王から作曲の依頼を受ける
1664年以前にステフブルダー・パドレ・フランチェスコに音楽を学んだとされている。
1667年3月11日オラトリオ「Arciconfraternite del SS Crocifisso」初演
1667年にはサン・マルチェッロの十字架兄弟会のためにラテン語のオラトリオを作曲し、翌年にはロッサノ公女オリンピア・アルドブランディーニ・パンフィーリのためにセレナータ「ラ・キルケ」を作曲した。
1668年コミック・オペラ「Girello」作曲。 5月16日レオポルド・メディチ枢機卿のために「Serenata Se desio curioso」作曲しフラスカーティ宮殿で初演
1669年友人のアボット・アントニオ・スフォルツァとアンプロジオ・ロナティ等と共謀してローマカトリック教会の資金を横領しようとして失敗、ローマを離れる。
1670年ローマのトルノーナ劇場で上演される作品のためにローマに戻る。 1670年舞台作品「イ・ビアンテ」をクレマン10世を称えて作曲。 11月27日後援者のフラビオ・チギ枢機卿に多額の資金援助を申し込む
1670年代初頭には、貴族の私設劇場で上演されるオペラもいくつか作曲した。
ストラデッラは放蕩な生活を送るようになった。カルロ・アンブロージョ・ロナーティと共にローマ・カトリック教会から金を横領しようとしたが、発覚した。彼は街から逃亡し、安全だと確信したずっと後になってようやく戻ってきた。数々の軽率な女性関係は街の有力者たちの敵となり、彼はローマを永久に去らざるを得なくなった。
1671年ジェノヴァ皇太子の結婚を祝うために「カンタータ・ラヴァヴィオ・アル・デブロギュント」作曲
1671年から72年にかけて、トルディノーナ劇場でフランチェスコ・カヴァッリの2作品とアントニオ・チェスティの2作品のオペラの上演に協力し、プロローグ、インターメディオ、新しいアリアを作曲した。
1672年2月エシディオ・コロンナとタルキニア・アルテイエリの結婚を祝うために「ラ・ラウリンダ」作曲
1674年8月ガスパーレ・アルティエリ殿下から「セレンディ・イル・デュエッロ」に作曲を依頼され、クリスティーナ女王からはBaldiniの詩に「セレナータ・イル・ダーモネ」を作曲を依頼される
1675年1月28日修道院長アンジェリカ・ランテのためにモテット「Pugna」を作曲し聖ドミニコ・エ・シスト教会で初演
1676年6月14日アンナ・アルティエリの結婚式を祝うために「カンタータ・エコ・アモーレ・シャルテッロ・リスプレンテ」作曲。 10月友人のジョヴァンニ・パティスタ・バルビオーと一緒に、アルデラーノ・チボー枢機卿の親戚による陰謀に巻き込まれ投獄されたが解放される
1677年2月アルデラーノ・チボー枢機卿の怒りをかいローマを離れヴェネツィアに向かう。ヴェネツィアでポロ・ミシエルとギロラモ兄弟にオペラの作曲を頼まれる。そこに有力な貴族アルヴィーゼ・コンタリーニが自分の愛人アグネーゼ・ヴァン・ユーフェレの音楽教師にと依頼され雇われる。ところが間もなく女性との間に関係が生まれ、6月二人はトリノへ駆け落ちしサヴォイの公爵夫人ジョヴァンニ・ド・ヌムールの摂政の保護を受ける。アグネーゼは結婚準備のため修道院に入った。ひと月もしない内にコンタリーニがトリノに着き、コンタリーニは二人が結婚するよう大司教に訴え、ストラデッラは結婚に同意する契約書に署名。10月2日二人は結婚する。10月10日の夜、暗殺者として雇われた二人にストラデッラは襲われ負傷する。トリノの裁判所はネムールのマリア・ジョヴァンナが暗殺者に雇われた疑いがあると推定したが、暗殺者はフランス大使館に亡命。11月コンタリーニと和解する。サボイの摂政からルイ14世への苦情となり暗殺者グループは裁判となる。
1677年、彼はヴェネツィアに行き、そこで有力貴族アルヴィーゼ・コンタリーニに雇われ、彼の愛人アニェーゼ・ヴァン・ウッフェレの音楽教師となった。彼女とストラデッラは不倫関係になり、ヴェネツィアからトリノへ逃亡し、サヴォワの摂政マリー・ジャンヌ・バプティスト・ド・サヴォワ=ヌムールに保護された。
コンタリーニは後を追い、大司教にウッフェレとストラデッラは結婚するか、ウッフェレが修道女になるかのどちらかを選ばなければならないと指示した。
彼女は後者を選び、10月に二人は結婚した。しかし、ストラデッラが契約書に署名して修道院を出たところ、10月10日に雇われ暗殺者2人に背後から襲われ、路上に放置された時には死んだと思われていた。彼は生き延び、2人の暗殺者はフランス大使に庇護を求めた。コンタリーニが襲撃者を雇ったことが知られるようになり、サヴォイアの摂政がルイ14世に苦情を申し立て、この件は両国の宮廷間の交渉の対象となった。
1678年、ストラデッラはジェノヴァに逃れ、そこでロナーティと再会した。彼はファルコーネ劇場で上演されるオペラや地元の貴族のための音楽を作曲して報酬を得た。
1678年ジェノヴァに単身到着したが妻のユーフェレには知らされていなかったようだ。ジェノヴァでファルコーネ劇場のオーケストラを担当。ある貴族のグループはストラデッラに住まいと、食事、召使いを提供することに同意する。同年のシーズンはオペラ「La torza dell’amor paterno」とオペラ「Le gare dell’amor eroico」、コミック・オペラ「イル・トレスポロ・ツトー」を作曲し上演。
1681年ローマへ戻るための接触を計っていたようだ。5月「Il moro per amore」作曲。6月「リ・バルチェッリオ」をカルロ・スピノーラとパオラ・ブリニョールの結婚式を記念して作曲。夏にはジェノヴァの貴族から依頼されたオペレッタ「別荘と海で行う6人のキャラクターの岬と剣」を作曲
1682年2月25日ストラデッラと姉との音楽レッスンを行った関係を疑ったジェノヴァの貴族、ジオバン・バテイスタ・ロメリーニ家の貴族が暗殺者を雇い命令で3人の暗殺者が、ジェノヴァのバンチ広場でストラデッラを刺殺する。犯人の正体は結局分からなかった。ストラデッラの殺害者に関する別の報告には、「ストラデッラはジェノヴァで、妹を誘惑したロメッリーニという名の3人の兄弟によって殺害された」とある。
ストラデッラはサンタ・マリア・デッレ・ヴィーニェに埋葬された。
主な作品
歌劇『La Doriclea』(1672)、歌劇『Amare e Fingere』(1676)、歌劇『La forza dell’amor paterno』(1678)、歌劇『Il Trespolo tutore』(1679)、歌劇『Le gare dell’amor eroico』(1679)、歌劇『Moro per amore』(1681)、歌劇『La Rosaura』(premiered 1688)、歌劇『Il Corispero』
オラトリオ『Santa Editta, vergine e monaca, regina d’Inghilterra』(Rome c. 1672–73)、オラトリオ『Ester liberatrice del popolo ebreo』(Rome c 1673)、オラトリオ『San Giovanni Battista』(Rome, 1675)、オラトリオ『Susanna』(Modena, 1681)、オラトリオ『San Giovanni Chrisostomo』、オラトリオ『Santa Pelagia』
セレナータ『La Circe』(1668)、『La Circe』(second version)、『Il Duello』(“Vola, vola, in alti petti”) (1674)、『Lo schiavo liberato』(1674)、『La forza delle stelle or Il Damone(“Or che il mondo ristaura”)』(1677)、『Il Barcheggio』(1681)