<クラシックと大衆音楽に橋を架けた男>
山本直純
出身地・生没年
1932年12月16日 東京都五反田 至誠病院に生まれる
2002年6月18日 急性心不全のため歿。享年69歳
墓所 永峯山高福院(高野山真言宗) 東京都品川区上大崎2-13-36
戒名 秀慧院昊樂直純居士
1.職業
作曲家、指揮者、オズ・ミュージック代表取締役
2.楽歴
四歳から自由学園幼稚園の早期音楽教育のクラスに通う。
1947年斎藤秀雄が自由学園を借りて日曜日「指揮教室」が開講し指揮を斉藤秀雄に師事。
1948年家政学園で「子供のための音楽教室」が始まり指揮を斉藤秀雄に師事。
自由学園時代は齋藤秀雄に指揮法を学び、藝大在学中も継続。
1951年一浪し、渡辺浦人のアシスタントになり、テレビや映画業界の作曲や編曲の仕事を手伝うようになる。
1952年東京藝術大学音楽学部作曲科入学
1954年同大学指揮科に転科
1956年日本フィルポップス・オーケストラの指揮、編曲を担当
1958年東京藝術大学音楽学部指揮科卒業。日活はじめ各映画社の映画音楽を担当。
1966年フジTVドラマ「男はつらいよ」放送開始。主題歌および音楽を担当
1967年NHK公開音楽バラエティ「音楽の花ひらく」の音楽監督を中村八大と担当(紅いタキシード姿)
1969年放送「ドリフターズ・ショー(8時だョ!全員集合)」、映画「男はつらいよ」シリーズ音楽担当
8月<軽井沢音楽祭>スタート
1973年TBSテレビ番組「オーケストラがやって来た」の企画・音楽監督・総合司会を担当
1979年ボストン・ポップス・オーケストラを指揮。
1983年-1998年「1万人の第九コンサート」音楽監督・指揮を担当
新日本フィルハーモニー交響楽団を小澤征爾らと創立
交響楽振興財団を創立
新日本フィルハーモニー交響楽団顧問
師事:山本直忠・山田和雄・斉藤秀雄・池内友次郎、渡邉暁雄
【関係諸団体】
日本音楽著作権協会(JASRAC)
【受賞・受章歴】
1973年「芸術祭賞優秀賞」
1992年「東海テレビ芸能選奨」
2002年「日本レコード大賞(特別功労賞 第44回)」
3.プロフィール
名前:山本直純
職業:指揮者 作曲家
肩書:新日本フィルハーモニー交響楽団顧問、オズ・ミュージック代表取締役
別名:筆名=笑髭
生年月日:1932年12月16日
出生地:東京都
学歴:自由学園(幼稚園・初等科・中等科・高等科)1953年卒業
東京藝術大学音楽学部指揮科1958卒業
祖父:直良は軽井沢に三笠ホテルを建て経営した実業家。祖母:愛は小説家・有島武郎のすぐ下の妹にあたる。
父:直忠はライプチヒ音楽院出身の作曲家・指揮者。
母:浪江も現国立音楽大学ピアノ科出身のピアニスト。
叔父の山本直喜はパーカッション奏者。
甥の山本直親(山本直正の二男)はファゴット奏者。
妹はオルガン奏者の湯浅照子。
白樺派の小説家、有島武郎は大伯父に当たる。
妻:正美は東京藝術大学出身の作曲家。
長男は作曲家の山本純ノ介。
次男はチェリストの山本祐ノ介、その妻でピアニストの小山京子は山下洋輔の親戚という音楽一家である。
ナオズミは父の影響で早くから音楽に親しみ、自由学園で絶対音感教育を受け、斉藤秀雄に指揮法を学んだ。一浪ののち東京藝術大学音楽学部作曲科入学。三年次に指揮科に転じて渡辺暁雄に師事。
<岩城宏之、山本直純との出会い>
岩城『 昭和27年、ぼくは藝大のタイコの二年生だった。食堂で、仲間の女の子たちとボクは騒いでいた。”ハンペンみたいなのが来るわ”とぼくの隣の女の子がいった。もう一人の作曲科のブスが、こいつと顔なじみらしく、”オモシロイ男の子だから、紹介するわ”とそいつを呼びよせた。”イヨーッ”というのが、こいつの”はじめまして”のつもりらしかった。しかし、どうしてこんな土建屋みたいなのが藝術大学に入ってきたのだろうと、不思議な感じだった。生っちろい顔色からは、土建屋のドの字も感じられないのだが、足は長くなく、むしろ大変に短いという印象だ。その反対に胴が長く、すり切れた緑のネクタイを結びそこないみたいに首につけている。手が出ないようなダブダブの上着を着て、食堂の隅からこちらへ走ってきた姿は、オランウータンを想像させた。ぼくらの仲間全員に”イヨーッ”を何度も繰り返した。紹介したやつは、新しく入ってきたすごい才能の作曲科学生だ、といった。紹介したのが”これが打楽器科の岩城、こっちが作曲科の山本”といった。また、やつの”イヨーッ”が出た。大声にびっくりしてキョトンとしていたら、急に普通の声になった。”岩城サン、オレのことをナオズミっていってよ(以降本稿はナオズミと呼ぶ)。ナオは不正直のジキ、ズミは不純のジュンです”というのだ。これがナオズミとの出会いだった。』『一緒にキャッスルを出て上野の山を降り、喫茶店のはしごをした。”オレはな、十二歳のときに、名古屋で棒を振ったことがあるんだぜ。それからも方々でいっぱいやっちゃってるんで、なあ、どんな曲やっちゃったかなんて、覚えてねえのヨ。”、”オメエ、どんな風に音楽をやってきたんだ?”、と聞かれて、ぼくは一言も言えなかった。”ヨーヨー、オレの小学校三年のときの日記を、今度見せてやらぁ”、二、三日後、ナオズミは古ぼけたぶ厚い革表紙の日記帳を、持ってきた。「~ぼくはけふおとうさまにつれられて、やまだかずおせんせいのおうちにいきました。せんせいはベートーベンのだい一こうきょうきょくが、どうしてこのようなハーモニーではじまるかをおしえてくださいました。らいしゅうは だうにゅうぶぜんぶのことをおしえてくださるとおっしゃいました。そして、だいいちがくしょうのおしまいまで、ピアノでひけるようにしておいで、とおっしゃいました。~。参考になるものか。ぼくは打ちひしがれた。ナオズミは天才的な耳を持っていた。藝大に入る前、いや、もっと以前の十二歳のころから、たくさんの作曲をしていた。ピアノ協奏曲が弾けるぐらいの腕前である。しかし不思議なことに、藝大の入試を一度失敗している。彼には実は、重大な欠陥があった。どのような音も聞きわける耳を持っていながら、自分が思った音を、正しい音程で声に出せないのだ。つまり、知らない人から見れば、オンチなのである。それで、藝大入試のコールユーブンゲンや新曲のソルフェージのテストのとき、審査員たちが笑いころげたのだった。もちろん現在のナオズミは思った音程の音をちゃんとだせる。』要約:岩城宏之著「森のうた」5-23頁要約から
浪人中に父門下の作曲家・渡辺浦人に預けられて以来、放送を開始したばかりのテレビ放送の伴奏やレコードの録音、映画音楽の作曲などのアルバイトを開始、大学卒業後も多忙な日々を送った。
1967年NHKの「音楽の花ひらく」に出演し紅いタキシードを着た姿での指揮ぶりが評判を呼んだ。
1969年『8時だョ!全員集合』音楽を担当しTBS系列で放送が始まる。同年映画「男はつらいよ」映画音楽を担当。
1970年妻正美は美智子皇后妃が書かれた詞「ねむの木の子守歌」に曲をつけさせていただく。
<ナオズミと新日本フィルハーモニ交響楽団設立への関り合い>
1956年日本フィルは、文化放送が設立。楽団はフジテレビと文化放送の放送料によって運営されていた。常任指揮者は藝大の師:渡邊暁雄が務めていた。山本も日本フィルポップス・オーケストラの指揮をしていた。
1971年日本フィルに労組が結成され、文化放送・フジテレビを相手取った待遇改善要求の闘争が始まり、同年12月に日本音楽史上初めて賃上げ要求のストライキを行ったことをきっかけに、年末恒例の《第九》はストライキのため中止となった。これが機となって情勢は急坂を下るように悪化した。
1972年三月末を以てフジテレビと文化放送は日本フィルとの「雇用契約」を終了することになる。
六月に両社がオーケストラの解散と楽団員の全員解雇を通告をし、財団法人としての日本フィルは、その年の六月末を以て解散に追い込まれた。
当時首席指揮者だった小澤征爾は解散阻止のため昭和天皇への直訴までした。日本フィルは二つに分裂した。組合派の団員はとどまって自主的な演奏活動を行い、解雇を不当として裁判所に訴えた。そうして以後十二年間もの裁判闘争が続いた。
一方、ストライキに参加しなかった十数名を中心にナオズミは、小沢征爾に呼びかけ、小澤征爾とともに新日本フィルハーモニー交響楽団の設立に走り斉藤秀雄を顧問に、斉藤の指示で山本は指揮者団幹事に就任。指揮団には斎藤秀雄(顧問)、小澤征爾(首席)、山本直純(幹事)、手塚幸紀らが加わった。
1973年オーケストラの第一回演奏会を斎藤秀雄を指揮者に、ロシア帰りの佐藤陽子をソリストに迎えて開催された。ナオズミが陰で奔走して作り上げたのだった。新日本フィルハーモニ交響楽団(名付けはナオズミ)はスタートした。
ナオズミは楽団運営のための仕事探しから団員の生活費確保に奔走した。定期演奏会のほか、不動産会社のコマーシャルでは伊豆大室高原の空中からヘリコプターをとばしてオーケストラのを撮影した。
この年八月から新日本フィルハーモニ交響楽団出演の<軽井沢音楽祭>がスタートし、軽井沢プリンスホテルで開催された。
十月にはTBS「オーケストラがやって来た」を企画して音楽監督を務め新日本フィルハーモニ交響楽団が出演した。
「オーケストラがやって来た」では全国にある電電公社の局長が地域住民とのコミュニケーションを図るために、代理店を通じてコンサートを開催した。北は北海道から南は九州に至る日本全国を、オーケストラの団員たちは移動して演奏、放送された。このコンサートは地方に行くとどこでやっても子どもは騒いだり、泣いたりで大変だったようだ。ナオズミは苦労の連続だったが、大変な苦労のなか楽団運営のためナオズミが中心になり進めていった。
音楽関係者の間では「日本の音楽普及に最も貢献したひとり」として高く評価されている。
作品:札幌オリンピックの入場行進曲や国連委嘱曲の他、こどもの歌に《一年生になったら》《歌えバンバン》《こぶたぬきつねこ》などがある。 大河ドラマ『風と雲と虹と』、『武田信玄』や、テレビ放送音楽も多数作曲。映画音楽では、特に山田洋次が監督を務めた『男はつらいよ』 の主題歌が人気を博した。
<山本直純に対する賛辞>
斎藤秀雄【この楽譜の書き込み、僕も勉強になった。ありがとう】
小澤征爾【直純のほうがぼくより才能があった】
萩元晴彦【小澤さんは大衆を音楽化して、直純は音楽を大衆化した】
2002年6月18日にこの世を去った後も、ナオズミが作曲した作品は広く愛聴され続けている。
4.山本直純 歴史年譜
1932年
12月16日日本橋白木屋のそばの病院から移った後、五反田の至誠病院で指揮者である父直忠とピアニストである母浪江の間に長男として生まれた。退院して、両親が結婚以来住んでいた中野区千光前町の家で生活が始まる。
1934年1歳
そこから大田区洗足に移る。父直忠は新交響楽団の指揮をしていて、練習場が旗の台にあり近くて便利であったようだ。
母方の祖母が亡くなり、妹照子が生まれる
直忠は第一回日本音楽コンクール作曲部門の一位となる。
1935年2歳
父直忠は子どものオーケストラを編成し帝国ホテルでハイドン《おもちゃの交響曲》を演奏した。ヴァイオリには江藤俊哉や渡邊暁雄が加わっていた。
1936年3歳
祖父直良の野方の別荘に転居する。道のそばに畑があり、そこを通りながら ” 大きくなったらなにになりたい? ” と母に聞かれたナオズミは ” ボクはお百姓になりたい ” と言ったそうだ。ナオズミの答えは山本家や有島家一同を呆れさせ ” だめだね、この子は ” という話になったようだ。弟直喜が生まれる。
前年4月から自由学園では羽仁もと子がピアニスト園田清秀を指導者に迎えた。清秀は和音を把握し、絶対音高を聴き取ることがピアノ教育にとって重要であるという考えに基づき、和音の教育をピアノの早期教育へ取り入れた。自由学園ではそうした絶対音感早期教育実験が始まり、子どもたちに絶対音感を体得させるレッスンが行われていた。
ナオズミも三歳から自由学園幼稚園の絶対音感早期音楽教育のクラスに入り絶対音感を体得する。週二回通うため歩いて十五分ぐらいの場所の豊島区雑司が谷の鬼子母神前にまた引っ越す。この家から通うことになったが虚弱体質で通園も休みがちだった。
ナオズミと共に学んだ仲間には、羽仁協子(5歳)や久山恵子(5歳)、林光(3歳)、三善晃などが一緒に早期教育を受けた。通称ピアノ学校と呼ばれた。(薗田清秀はその年の暮に没してしまう)。
こうしてナオズミは自由学園の絶対音早教育に学ぶなど、幼児期から父山本直忠、山田和男(一雄)らによって徹底した早期音楽英才教育を施された。
<三歳の頃お気に入りのテディベアを~山本直純著「紅いタキシード」より>
1937年4歳
その頃は祖母:愛の実家の有島家がある鎌倉に住んでいた。また父:直忠の兄:直光が鎌倉に住んでいて、仲の良い兄弟でもあった。祖母の発案で転地療養させた方がよいということで、ナオズミの両親一家は、直光伯父の隣に一軒借りて住むことになった。鎌倉の家は由比ヶ浜へ歩いて五、六分のところで、よく海辺で遊んだり、江の島の方へ行ったりした。やがて自由学園に通いはじめた。母に手を引かれ電車を何度も乗り継ぎ週二回通うのは、小さなナオズミには大変なことだった。ここで二番目の弟直親が生まれる。
<写真は1937年9月鎌倉のころ~山本直純著「紅いタキシード」より>
1938年5歳
自由学園幼児生活団幼稚園では、代々6歳組が伝書鳩の飼育をしている。世話をして鳩のことを身近に感じ、大事に育てているうちに生まれた言葉に、かつて山本直純氏が曲をつけて歌にした。さらに合奏が出来るように編曲をした。
この「はと」の歌と合奏は、今も幼児生活団幼稚園で演奏されている。
1939年6歳
自由学園初等部に進む。自由学園に登校するには鎌倉は無理だということになり、新宿区下落合に落ち着く。毎日の通学は西武池袋線の東長崎まで三十分歩くため、大変なので自転車で通った。そこから電車に乗って、現在のひばりヶ丘まで行った。体が弱く一年生の時は、一年の三分の二も欠席した。ここには六年間住み続け、自由学園に通った。
初等部では音楽教育を続けた。ナオズミはヴァイオリンを鷲見三郎に学び、またミッション系の学校でもありキリスト教の教えを学んだり、讃美歌を歌う時はピアノも弾いた。
<オーケストラがやって来>の番組プロデューサーだった萩元晴彦氏(当時TBS、後にテレビマンユニオンを創立)とは、自由学園初等部時代からの親友であった。
1941年8歳
小学校三年ごろから、既に絶対音感早期教育の意味合いからか指揮者の山田和男に、ベートヴェン交響曲第一番の出だしの和音など和声の音感の勉強をしていた。
『~ぼくはけふおとうさまにつれられて、やまだかずおせんせいのおうちにいきました。せんせいはベートーベンのだい一こうきょうきょくが、どうしてこのようなハーモニーではじまるかをおしえてくださいました。らいしゅうは だうにゅうぶぜんぶのことをおしえてくださるとおっしゃいました。そして、だいいちがくしょうのおしまいまで、ピアノでひけるようにしておいで、とおっしゃいました~』『』内、岩城宏之著「森のうた」から「山本直純、小学校三年生日記帳」
12月8日自由学園の全学園生徒300人でベートヴェン交響曲第九番を演奏した。指揮はこの頃自由学園に入り音楽を教えていた父:山本直忠だった。
第二次世界大戦勃発
1942年
弟:直重が生まれる。直重は生まれながらに腸に障害があり、頭の良い子どもであったが11歳で亡くなった。
1943年10歳
二女の美波が生まれる。戦争中でお手伝いの人もなく、兄弟はみんなで直重と美波の面倒をみながら学校へ通った。
ナオズミの場合、家にはいつも音楽があり、父直忠が家でコーラスを教えていたので家の中でいつも合唱したり、その伴奏を弾いたりしていた。
ナオズミは四手連弾曲《小ロンド》を作曲
1944年11歳
夏、父の弟:直武が東長崎駅の近くに住んでいた家が空き、通学に楽なようにと転居する。叔父の直武は画家で蘭村といった、家はその妻の実家であった。
ナオズミの母は大阪の実家に一歳の美波を見せるため無理な里帰りをした。その無理がたたって体調を崩した。八月風邪を引いた美波を聖母病院に連れて行ったが途中二人とも日射病にかかり、母は当時流行した日本脳炎に似た夏季脳炎という診断で床に臥した。
9月1日ナオズミは集団疎開のため西那須の馬事研究所に行くことになった。母の容体が悪く、荷物も間に合わず遅れて行くことになった。その日ナオズミが学校から帰ると、母は病院に入院し眠り続けていた。そして三日目の九月三日に帰らぬ人となった。
ナオズミは翌日弟や妹をピアノの周囲に集め、讃美歌を弾いてみんなで歌い、三十五歳の若さで逝った母を葬った。ピアニストだった母へのナオズミたち子どもたち兄弟妹がした最後の贈りものになった。
ナオズミは栃木の自由学園西那須野疎開学級へ向かった。渡辺浦人の長男岳夫が一緒だった。その後東京は次々空襲を受け、残された弟妹はたちは逃げまわる生活になり、父直忠は五人の子どもを連れ、ナオズミの疎開先に近い、東那須の農家を借りて野良仕事をやっていた。ナオズミも休みの日には西那須の学校から一キロを歩いて父や弟妹のいる農家に行って畑仕事手伝ったりした。
ナオズミはこの年の初等科6年生の時に、自由学園初等科の子どもたちと一緒にNHKスタジオに行き、ハイドン《おもちゃのマーチ》を指揮した。これは全国にラジオ放送された。
<山本直純著「オーケストラがやって来た」より>
1945年12歳
疎開先で卒業式がないまま、自由学園男子部(中等科)に進む。自由学園では全員が音楽教育を受け何かの楽器をやったり、指揮や編曲をしたりという経験を積む。
終戦後、東京の自由学園に戻る。今のひばりヶ丘にあるトーテム寮という男子部の寮に入った。中学一年から高校一年くらいまでそこで暮らす。父直忠や弟妹たちは、群馬県高崎市に移り、父は高崎市民オーケストラ(現群馬交響楽団)の基をつくりに従事、オーケストラの育成に励んでいた。やがて父も自由学園に戻り、男子部と小学部で音楽を教えた。斉藤秀雄は女子部で音楽を教え、自由学園にオーケストラを作り、指揮も教えていた。それが指揮教室になる。この年から斉藤秀雄に指揮を学び始める。週に一回日曜日にニ、三人教えていた。はじめて行ったときに、斉藤に「タタキをやれ」と言われ、それが空間の一点を打つことだと教えられる。一点に向かって加速していって一番早くなったところで点に達し、まただんだん原則していって速力が完全になくなったところで再び加速が始まり、点に向かって動く、これが円滑に運ばれたときに、はじめてタタキの手法というものがマスターできる。それをやってみろ、と言われた。それに一ヵ月も二ヶ月もかけるのだった。
中野区や大田区や豊島区などを転々として育つ。
自由学園時代の友の一人に渡辺岳夫がいる。
1948年15歳
父が森村りつ子と再婚する。
自由学園男子部高等科一年に進む。
指揮は自由学園を借りて毎週日曜に開かれていた齋藤秀雄の教室に通って指揮を学ぶ。それはやがて斉藤秀雄指揮教室となった。
斉藤教室に通い始めて一年くらいでAクラスになる。BやCクラスを教えるのはAクラスの生徒だった。同時期の同門に、羽仁恊子、久山恵子、小澤征爾、秋山和慶、飯守泰次郎、尾高忠明、ナオズミがメンバーだった。午前がチェロ、午後は指揮の学生が勉強し、終わると市ヶ谷の斉藤の自宅に行ってお茶を喫するのがナオズミの楽しみだった。
市ヶ谷では、家政学院の教室で日曜に開かれる子どものオーケストラ教室でソルフェージュを教えた。ナオズミは子どもたちの面倒をみながら懸命に指揮法を習った。「シャクイ」「ヒッカケ」「センニュウ」など、斉藤はさまざまな指揮用語でナオズミたちに指揮法を体感させた。レッスンは三人一組で二人がピアノの連弾でオーケストラ部分を弾き、一人が指揮をする。ナオズミは小澤征爾、秋山和慶と一緒にやっていた。
ある時、斉藤に東京フィルハーモニーが上野のタカラホテルで練習している所に連れて行かれ練習を見た。
この年、演奏会をやることになり初めてプロのオーケストラを相手に東京フィルハーモニーの棒を振って練習させてもらう。演奏会はいい結果を残せたが、練習時のリーダーシップの取り方、人格、人徳というものがないと人は簡単には動かないということを知った。
斎藤秀雄、ナオズミは、自由学園が4年に1度、外部のホールで開いている音楽会で指揮をしている。
小澤は後に、「自分は日本に留まって音楽の底辺を広げる。お前は世界の頂点を目指せ」とナオズミから告げられたことがあった、と語っている。
1951年18歳
弟:直聖が生まれる。
自由学園高等科卒業
東京藝術大学の入試に失敗した。変声期と受験の時期が重なり、勉強も練習もせずコールユンブンゲンくらいなら初見でいいやと思って出かけたようだ。昼に弁当を食べたすぐ直後に呼ばれて”〇番うたいなさい”といわれ、歌おうとしたがとたんに声が出なくなり、無理矢理歌った。藝大はコールユンブンゲンは60点以下はだめなのだ。ナオズミは自分が失敗するなんて思いもしなかったと言っている。絶対に入ると受験生の間で知れ渡っていたナオズミの失敗は大ニュースになった。ナオズミは自分は音痴ではないかと考えるようになってしまったという。
父直忠は落ちた息子を、自分の弟子である渡辺浦人の元に預けた。ナオズミは渡辺の仕事の手伝いのアルバイトを始めた。渡辺は小学校の音楽教師をしながら売れっ子の作曲家だった。ナオズミは渡辺の家に通い、作品のアシスタントを務めなた。オーケストラの棒を振ってオケの手伝いや渡辺の作曲したやらなければならないことを一晩中かかって全部やり遂げておく。テレビや映画業界の仕事を次第に覚えて行った。
池内友次郎に和声学の基礎を習いはじめる。
この年から一年間ナオズミは小澤征爾の家に週一度出かけて、成城学園高校一年生の小澤征爾に斉藤秀雄の指揮法の基本を教え始める。
小澤征爾が中学三年の時、小澤の母:さくらの書いた紹介状を持ち、斉藤秀雄のもとを訪れる。小澤はインタビュアーに語る『弟子入りを志願した時に、斉藤は”今手いっぱいで教えられないから、しばらく山本直純という人に教えてもらいなさい”と言われる。これが直純との出会いです。当時、直純さんはすでに斉藤先生に師事していて、いわば僕の兄弟子でした。週に一度家に来て、一年間指揮を教えてくれました。』斉藤指揮教室は、Aクラスの生徒がB、Cクラスの生徒の下練習を受け持っていたからそうなったようである。ナオズミは小澤に教えるに、「今日はこの曲をやろう」と言ってまず、二人でピアノを弾いて、互いに指揮をする。するとナオズミが「お前の問題点はここだな」とすぐに見抜いて、そこを重点的に練習する。大事なことしか教えないから、レッスン時間が短い。』世界の小澤に指揮を最初に教えたのは斉藤秀雄ではなくナオズミだった。柴田克彦著、「山本直純と小澤征爾」、29-30頁/「考える人」2014年秋号、新潮社、91頁「山本直純という音楽家-彼が目指した音楽家~インタビュー小澤征爾」
1952年19歳
ナオズミは以前、斉藤秀雄に桐朋に指揮科が出来るから入れと言われていた。一浪しておりこれ以上入学を遅らすことは出来ないと思い藝大を選ぶことになる。
小澤征爾は語る「斉藤先生が直純のレッスンの時に、彼の楽譜を見ながら指導していました。レッスン後、”この楽譜の書き込み、僕も勉強になった。ありがとう”と真剣に直純に礼を言っていたのです。そのくらい、斉藤先生が直純をすごく認めているということはみんなよくわかっていた。一番音楽的な信用があり、そして先生から音楽の才能に対する尊敬を受けていました」参考:「考える人」2014年秋号、新潮社、91頁「山本直純という音楽家-彼が目指した音楽家~インタビュー小澤征爾」より
東京藝術大学作曲科に入学、池内友次郎に師事。
池内に学びながらナオズミはいろんなオーケストラと自分の作品を演奏するために、放送局やスタジオを渡り歩き映画の撮影所などでも修行した。大学の講義はほとんど出なかった。同じクラスの女子に出席カードの記入と代返を頼んでいた。代返は一回いくらと値段があった。
藝大では1学年上級の打楽器科学生岩城宏之と知り合って意気投合し、岩城とともに本物のオーケストラを指揮したい一念で、学生たちに声をかけまくって学生オケをつくり、岩城と交代で指揮をするようになる。
渡辺のアシスタント仕事で放送局、スタジオ、映画の撮影所などに頻繁に出入りして活動した。
この年の夏休みに、楽理科に在学中の自由学園の先輩たちとみんなで山登りをする。日本アルプスの燕岳から槍ヶ岳へ縦走した。女性は弱いからとナオズミは岡本正美の荷物を持ってやった。槍ヶ岳頂上で日の出を拝み、帰りは槍沢を下り上高地へのルートだ。雪渓があり尻セードといって尻にビニールようなものを敷いて下まで滑り降りた。その先にはクレパスがあり水がゴーゴー流れる急流があった。落ちたら助からないとナオズミは思った。ナオズミがトップで尻セードで滑り降り、正美は最後になった。怯えているらしい正美が滑りはじめたのだが真っ逆さまに転げ落ちてしまった。みんなが手を出して受け止めようとしたが、止められずナオズミがクレパスの数メートル手前で体当たりして抱き止めた。ナオズミが救ったことが縁となり交際が始まる。美校の藤棚の下が正美との待ち合わせ場所であった。青山から西麻布に抜ける辺りに作曲科の篠原の家があり溜まり場でみんなが集まった。正美の家にもみんなと連れだって行った。新宿、渋谷、銀座辺りの喫茶店や中野のクラシックという店でコーヒーを飲みながら何時間もレコードを聴いたりして過ごした。この頃、演奏会は日比谷公会堂、第一生命ホール、帝国劇場、共立講堂ぐらいしかない時代だった。
1953年20歳
藝大二年の頃、NHKに続いて日本テレビが開局。その少し前から実験放送があり、ナオズミは友達や先輩と共にスタッフに加わって準備を始めていた。ナオズミは劇中で流れる音楽、いわゆる劇伴をさせられたり、体操の伴奏ピアノを担当した。これを週一回やらせてもらい、当時五、六千円もらったという。そうした縁で古川ロッパや森繁久彌などと知り合いとなる。ナオズミはN響の打楽器奏者で、コロムビアレコードの作曲家の二木他喜雄のアシスタントで雑用や編曲、指揮をやっていた。『ボクはアルバイトをしていたので、夜は稼ぎに稼ぎまくって、放送局や映画会社の録音やレコード会社のアレンジと飛び廻っていたので、いつも何万円ものお金を持っている学生だった。』『アシスタントはこんなことをもやった。越路吹雪さんや森繁久彌さんが先生の歌を歌われる。そういったときに、その歌のパートをボクが作ったり、その下練習をしたりする。ところが森繁先生はシャープもフラットもナチュラルもわからない。しかしボクからすれば、ペーペーの学生が大スターを稽古するのだから、大変なことなのだ。四苦八苦して森繁先生に歌を覚えていただく。勘のいい方だからすぐ覚える。でもへんなふうに覚えると、森繁さんの脳のなかにそれがプリントされてしまって、もうやり直すわけにはいかない。しょうがないから、全部のオーケストラのパートをそこで書き直す。で、今度は全然違う歌い方をしたり忘れていたりして、似ても似つかない曲になったりする。越路吹雪さんは主にシャンソンを歌うが、その伴奏やアレンジをボクがした。ボクは口移しでシャンソンのメロディーを越路さんに教えた。』要約:山本直純著「紅いタキシード」、発行東京書籍、刊行1999年、92-105頁
1955年22歳
『藝大の学生は、副科といって、専門以外の音楽科目をとるのが義務だった。渡邊暁雄先生の指揮の副科のクラスが募集された。新クラスの開設である。受講するためのテストが行われたのだ。先生はピアノの前に座り、ナオズミに声をかけた。” きみ、いまたたく和音の中の上から三番目の音の、五度下の音を声に出してごらん ”。和音なんていうものではない。指十本の全部を使った滅茶苦茶な不協和音だ。ナオズミは即座に アーッ” とダミ声をあげた。聞いているぼくにはまったくわからない。どうせ思った音程を声に出せないやつなのだ。デタラメに怒鳴っているのだろう。先生は指定した音、つまり上から三番目の音の五度下のキーを、ポーンと叩いた。ダミ声と同じ音だった。ゆっくりうなづいた先生は、” もう一度やってみようね ”とつぶやいた。多分、マグレと思ったのだろう。違う不協和音をたたいた。” 今度は、下から二番目の音の六度上をうたってごらん ”。 ” イーッ “。またポーンと試す。ぼくは自分がガタガタ震えているのも忘れて呆れかえった。こんなことをできるやつは、日本に何人といないだろう。完全無欠な絶対音感教育の、しかももともと天才的な感覚を持っている人間でなければありえない。テストをする先生自身、絶対にできないに決まっている。これは断言できる。” きみは完全な耳をしているね ”。次はぼくである。同じことをやられた。何もわからないのだ。十二分の一の確率を祈り” ヒーッ ” とやった。ポーン。” ちがうね ”。これでおしまいだった。』。
要約:岩城宏之著「森のうた」、発行朝日新聞社、刊行1987年、34-38頁
三年生終了後、作曲科から指揮科へ転科する。当時指揮科には三石精一がたった一人でいた。先生はクルト・ヴエス、金子登、山田一雄、渡邉曉雄と四人いた。三石が卒業すると学生が一人もいなくなる。その後四年間は廃科になってしまう。『そうすると大学も恰好がつかない上に、文部省令で先生方は必要なくなってしまう。それで転科を学生は勧められたがみんあ断って誰も行かない。そこえ渡邊暁雄先生と山田一雄先生がボクに声をかけてくださった』『ボクは指揮を教えていただいていた斉藤秀雄先生にお許しをいただいて、作曲科三年を終わってから、指揮科に転科したのだ』。指揮科では渡邊暁雄の門下になる。『演奏会にはボクも必ず先生にくっついて行った。先生はラモウ室内楽団とか、NHKサロン・オケストラといったところの棒も振られた。先生のアシスタントとしてオーケストラの下練習などをやらせていただいた』。
『大学では遠足があった。これは教授と学生の交流の場にもなっていた。ボクの場合は先生一人、学生一人だから、先生のご一家と一緒に遊びに行ったりしたことをよく思い出す。奥様ノブ子夫人は当時総理大臣の鳩山一郎さんの末娘だった。ボクが先生の教え子であったからこそ、家族と遊んでいただいたり、たくさんの交流をさせていただけたのだ。先生と弟子が、勉強の場だけでなく触れ合うことが出来ると、技術以上の大きなものを与えられることがある』。『たとえば、岩城君は近衛秀麿先生のところで、近衛交響楽団のティンパニーを担当していたので、ボクは遊びに行き、そこで打楽器をやらせてもらった。最初から指揮者になるため勉強したひとは小澤征爾君ぐらいじゃなかったか。他の人々は、何かの楽器を弾き、オーケストラで演奏したと思う』。
『学校はよくサボったが、藝大のオーケストラを指揮させてもらえるのが楽しみだった。軽井沢の渡邊暁雄先生の別荘をお借りして合宿し、日本では初演のストラヴィンスキー《兵士の物語》を勉強した。スコアから自分で写譜して楽譜を作り、ひと月ぐらい練習し、初演を大学の芸術祭でやることに決めた。《兵士の物語》は大盛況だった。500-600くらいしか入らない奏楽堂が大入り満員で、美校の向こうまで人がならんでいたほどの人気だった』。『ボクの家内となる正美は当時、長谷川良夫先生の許で作曲を勉強していた。しかし、そんな渦の中に誘い込むので”誰か悪いのがいるにちがいない。なんだ山本か”という話になったそうだ。ボクだけではないのだが、不良グループのようなのが出来てしまって、その中心にボクがいた、ということだろう』要約:山本直純著「紅いタキシード」、発行東京書籍、刊行1999年、75-81頁
藝大の芸術祭でストラヴィンスキーの《兵士の物語》を指揮。
1956年23歳
斎藤秀雄のレッスンはナオズミが東京藝術大学を卒業する時期まで続いた
ナオズミは正美の卒業式の日に声をかけてデートをした。その頃から二人は個人的な交際が始まった。
恩師渡邊暁雄が日本フィルハーモニー交響楽団の常任指揮者に就任、それと同時にナオズミは渡邊暁雄から日本フィル・ポップス・オーケストラをやれと言われ、任せられた。新日本フィルハーモニから十五、六人集めてオーケストラを作り、そのオーケストレーションのアレンジと指揮をするのが仕事であった。毎週録音し東急がスポンサーで、東急ゴールデン・コンサートという文か放送の番組で朝の音楽をやっていた。そんなことでナオズミは渡邊暁雄の自宅にはしじゅう出入りをしていた。
正美との交際は時には朝帰りもあったようだ。そうこうするうちナオズミは正美の妊娠を知る。
1957年24歳
3月10日渡辺浦人夫妻の仲人で岡本正美と結婚した。ナオズミの父、義母と岡本家は母と祖父が集まって結婚式を行った。
5月7披露宴を行った。正美の実家は「オリンピック」というレストランを経営していたので二階に三十人ほど招待して開いた。渡邊暁雄、池内友次郎、長谷川良夫ら恩師が列席した。友人は東中野の店を借り切って二次会に招きダンスパーティーで楽しんだ。二人は目白に六畳間を借りて新婚生活を始めた。がその後多摩川に転居する。
1958年25歳
2月4日長男:純之介が誕生。正美の両親が造作してくれた奥沢の家に移る。
藝大を卒業。指揮科卒業演奏の曲目はブラームス作曲「交響曲第一番」だった。
引き続きアシスタントの仕事が続いた。
映画「暗黒街の美女」の音楽を担当。
ドラマ「マンモスタワー」の音楽を担当。
TBSは石川プロデューサーをアメリカに派遣して、ハリウッドやディズニー・プロなど視察させアメリカ一周することになり、その同伴を募ったところナオズミが手を挙げ初のアメリカ行きとなった。
『ディズニーの場合、作曲家の部屋に行くとピアノはもちろん、ムヴィオラがあった。初めにリズムありき、それからメロディーありき、それにハーモニーがついて、効果音なり、雨の音なり何でもその後からついてくる。ディズニーが描こうととし、作ろうとしている映画の着眼点が何であるか、その心は何かということが誰でもわかるようになっている。大変勉強になった』
当初はナオズミも小澤らと同じように指揮者として世界で活躍することを夢見たこともあったようだが、大学指揮科在学中に眼を患い、視力の著しい低下や、弟や妹を養う必要もあり、大学在学中からテレビや映画の分野に積極的に進出し、やがてポピュラーからクラシックまで幅広く、レコードの録音、放送劇の伴奏、映画音楽の作曲活動を行うようになっていた。
写譜屋は一人では間に合わないから何人かで清書する。ナオズミはそういったことの采配をふるったり、難しい譜面は自分で書いたり、スコアをきちんと作ったり、現場で時には”それは曲想が違う”とディレクターの指示により書き直したり、アレグロの曲が合わなければアンダンテにするとか、メロディーが長調で具合が悪い場合は短調に直すとかやってのけていた。指揮は先生に任されたアシスタントであった。
映画は黄金期を迎え、日活には石原裕次郎、小林旭、宍戸錠、赤木圭一郎らがいた。ナオズミは彼等と一緒にずいぶん仕事をした。日活をメインに東宝、新東宝、大映、松竹と仕事をこなしていた。撮影中、次々に出演者が足りなくなり ”おい君やってくれ” とスタッフから言われいろんな役を割り振ったりした。『撮影所にムヴィオラという機械があって、これをぐるぐる手で回すとフィルムが見える。検尺といってフィルムの長さを1.5メートルが一秒、と割り出しながら、何も映っていないフィルムでタイミングをとって測るのだが、ただ白いフィルムに赤いデルマドという鉛筆のようなもので筋が引いてあるだけだ。その筋が長谷川一夫の顔であったり、景色であったりするわけだ。それを編集する人に、これは何、ここはどこと聞き、それを持ち帰って、今度は脚本と参照するのだ。すると脚本とは全然違うものが撮れていたりする。それに音楽をつけるので、何を書いていいやらまったくわからなくなる。仕方なく適当な曲を作り、管や弦で試したり、スローや速い音楽にしてみたりと工夫する』『一言でいって、カバン持ちでアシスタントという仕事は、雑用と編曲と指揮などだ。そういうことを十年ほどやっていた』要約:山本直純著「紅いタキシード」、発行東京書籍、刊行1999年、88-112頁
1960年27歳
アシスタント生活続いていたが、少しづつ自分の名前でできる仕事が回ってくるようになる。
赤木圭一郎主演の日活映画『拳銃無頼帖』シリーズの音楽を担当
日活映画『霧笛が俺を呼んでいる』の音楽を担当。
杉敬一:赤木圭一郎
浜崎守雄:葉山良二
美也子:芦川いづみ
ゆき子:吉永小百合
監督:山崎徳次郎
音楽:山本直純
↓ 1960年7月9日公開
1961年28歳
日本テレビで早朝に体操のピアノ弾きを担当する
ドラマ「青年の樹」の音楽を担当。(TBS)
1962年29歳
映画「恐怖の魔女」の音楽を担当。
↓ 山本直純/混声合唱《田園・わが愛》「1-8」作曲。
1963年
映画「殺人鬼の誘惑」の音楽を担当
1964年31歳
1月から始まったTBSのテレビドラマ「七人の孫」の音楽を担当。
東京オリンピック体操女子の床運動においてピアノ生伴奏を担当
「森繁の人生賛歌」主題歌
TBSドラマ「七人の孫」の音楽を担当。(1964年-1966年 TBS)
鈴木清順監督 映画「肉体の門」音楽を担当
1965年32歳
映画「兵隊やくざ」の音楽を担当。
映画「雪国」の映画音楽を担当
TVドラマ東芝日曜劇場「栄光の旗」(TBS)
海の底から/東京放送児童合唱団
この歌は、昭和40年に行なわれた海の歌の歌詞懸賞募集コンクール(日本海事広報協会主催、NHK及び運輸省後援)で
1等に入選し、運輸大臣賞をうけた新潟県新発田市の伊藤敬子(当時西新発田高校の三年生)さんの作詞に、審査員のひとりである作曲家山本直純氏が曲をつけた
1966年33歳
低視聴率の続くフジテレビのなか、同局の小林俊一プロデューサーは下町人情劇「男はつらいよ」を企画し、脚本を松竹の新進監督である山田洋次に、主題歌歌詞を星野哲郎に依頼した。星野は三日で詞を書き上げる。
” ドブに落ちても 根のあるヤツは、いつか蓮の花が咲く、意地は張っても 心の中じゃ、泣いているんだ 兄さんは、目方で男が売れるなら、こんな苦労も こんな苦労も かけまいに かけまいに ”
で知られる永遠のヒット曲となる「男はつらいよ」の主題歌。この曲づけと音楽の担当をクラシックのナオズミが指名された。ナオズミはオン・エアが追っておりステージのそばのピアノで一気に曲を書いた。作ったメロディーの方が余ってしまい、歌詞が足りない。それじゃ、終わりの方を繰り返しましょうということになってこの曲は生まれた。
「日立ドキュメンタリー すばらしい世界旅行」(~1990/日本テレビ系)のテーマ曲を書く。
特撮番組「マグマ大使」(フジテレビ系)音楽を担当。
映画「クレージー大作戦」の音楽を萩原哲晶と共作
TVドラマ「氷点」の音楽を担当。(NET)
TVドラマ「わが心のかもめ」の音楽を担当。(NHK)
TVドラマ「太陽の丘」の音楽を担当。(~1967年 NHK)
TVドラマ「嫌い!好き!!」の音楽を担当。(~1967年 日本テレビ)
《一年生になったら》作詞:まど・みちお、作曲:山本直純。
King Record Co.,Ltd.
1967年34歳
NHKTV番組「音楽の花ひらく」は、ディレクター末森憲彦、脚本・構成永六輔、音楽監督山本直純と中村八大、アレンジャー小野崎孝輔、南安雄、服部克久、司会三橋達也、歌とアシスタント佐良直美、オーケストラは旧日本フィルのメンバーと中村八大クインテットで始まった。この番組はNHKホールで毎週公開録画し放送された。ナオズミは番組側が作った赤いタキシードに黒い蝶ネクタイという指揮者姿で出演した。これがたちまち話題の番組となった。
紅いタキシードの髭の指揮者姿は、ユニークな指揮者として長く評判を呼び何かと重宝がられた。
新宿副都心でクレーンで釣り上げられた気球に乗って棒を振り回す髭の指揮者の撮影は、CMソング「大きいことはいいことだ」のキャッチコピーで知られるチョコレートのコマーシャルに使われた。こうしたパフォーマンスのナオズミは子どもたちのアイドルとなり巷を騒がせていた。
その頃のナオズミは朝に夕に映画音楽や劇伴のレコーディング、CMなどに引っ張りだこの売れっ子になっていた。
映画「殺しの烙印」の音楽を担当。
映画「七人の野獣シリーズ」の音楽を担当。
1968年
夏、映画「男はつらいよ」第一回作品が公開された。『ボクは小澤征爾君を誘って一緒に映画を見に行った。映画館を出ると小澤君は眼を真赤に泣き腫らしていた。” コイツ、マッサラな日本人なんだ ” と思った』
特撮番組「怪奇大作戦」(TBS系)の音楽を担当。
要約:山本直純著「紅いタキシード」、発行東京書籍、刊行1999年、119頁
1969年36歳
『8時だョ!全員集合』TBS系列で放送が始まる。この年10月4日から1971年3月27日、および同年10月2日から1985年9月28日までの2期にわたってTBS系列
で毎週土曜日の20:00-20:54に放送された番組の音楽を担当。
↓ 【8時だョ!全員集合2】ドリフの母ちゃん今日は良い子でいます?
映画「男はつらいよ」テーマソング、映画音楽を担当し以降46作まで一人で音楽を担当した。
第47~49作は息子の純ノ介と共同で担当した。
映画「クレージーのぶちゃむくれ大発見」の音楽を担当。※ラスト近くに大木広告社社長役で出演し、クレージーのメンバーと共に「大きいことはいいことだ」を歌う。
↓ 男はつらいよ/作詞者星野哲郎(1968年-1969年 フジテレビ)
甘柿しぶ柿つるし柿(1969年-1970年 TBS)
↓ 男はつらいよ 第一作 オープニング 2:57
1970年37歳
1月2日放送のNHK正月特番『うたえバンバン』のテーマソングを作曲する。
3月日本万国博覧会が大阪で開かれ、ナオズミは「住友こども館」「ガス・パビリオン」「政府館」などの音楽を担当した。
妻:正美が美智子皇后が書かれた《ねむの木の子守歌》に曲をつける。
この頃のナオズミ家は息子たちを育てるとき、朝から晩まで一日のスケジュールをみんな歌にして教えようとしていた。
朝、母親が「(^^♪起きましょ、起きましょ、さあ、さあ、朝だ・・起きたあ(^^♪」とか
ご挨拶「グッドモーニング おはよう〇〇ちゃん おはよう、ママおはよう・・(^^♪」詞は家族みんなで作り、曲は妻の正美がつけていたようだ。そんな歌は四十曲くらいあったという。
映画「日本一のヤクザ男」の音楽を担当。
映画「日本一のワルノリ男」の音楽を担当。
映画「ある兵士の賭け」の中でフォーリーブスが歌う劇中主題歌の作曲も担当。
テレビドラマ「ハレンチ学園」の音楽を担当。東京12チャンネル(現:テレビ東京)で放映された。
山本直純《歌えバンバン》作詞:阪田寛夫 作曲:山本直純
合唱:コマツHAPPYMELODY
1971年
10月3日の日曜日、東京・池袋東口の歩行者天国で開催された撮影現場
映画「百万人の大合唱」
近代放映株式会社が製作し1972年2月26日に公開された日本映画。昭和30年代に福島県郡山市で実際にあった音楽で暴力を追放する市民の活動を元にし、オールロケーションで制作された映画。
主題歌《生きているなら》山本直純 作曲・小谷夏 作詞
「このシーンのあらすじ~郡山市の高校教師・新田司(若林豪)や、レコード店の娘で音楽教室の先生でもある渡部昭子(酒井和歌子)らが作る市民音楽グループが、吉田たくろうを郡山市に招き音楽会を開催する。開会まぎわ、地元暴力団の橋本組から嫌がらせを受ける。研修会で東京へ行った新田は偶然、池袋の歩行者天国で指揮者の山本直純が、通行する市民らを巻き込んで合唱させているのを目撃して感激する。新田は山本に、ぜひ郡山市に来て市民による合唱会の指揮をしてもらえないかと頼み込み、快諾を得る。そして仲間たちとともにこの市民の合唱会を成功させて、音楽グループの赤字を挽回しよ
うと計画する。」
喜劇映画「猪突猛進せよ!!」の音楽を担当
映画「どうぶつ宝島」の音楽を担当。ムッツリ役で特別出演
喜劇映画「 女は男のふるさとヨ」の音楽を担当。
アニメ作品「新オバケのQ太郎」の音楽を担当。
TVドラマ「ワンパク番外地」の音楽を担当。(東京12チャンネル)
TVドラマ「天下御免」の音楽を担当。(~1972年 NHK)
<映画 百万人の大合唱>池袋東口ロケ写真、映画は翌年二月封切り
<映画 百万人の大合唱>ポスター
1972年39歳
ナオズミや首席指揮者小澤征爾が指揮していた日本フィルハーモニー交響楽団は、三月末を以てフジテレビと文化放送との「雇用契約」を終了することになる。
六月に両社がオーケストラの解散と楽団員の全員解雇を通告をし、財団法人としての日本フィルは、その年の六月末を以て解散に追い込まれた。
当時の首席指揮者だった小澤征爾は解散阻止のため昭和天皇への直訴までした。日本フィルは二つに分裂した。組合派の団員はとどまって自主的な演奏活動を行い、解雇を不当として裁判所に訴えた。そうして以後十二年間もの裁判闘争が続いた。
当時の事を小澤征爾は語る『新日本フィルを立ち上げるために、今じゃ信じられないけど、ぼくと直純の二人でお金を集めに行ったんです。ない知恵を絞って、佐藤栄作首相のお宅に直接行った。何であんなことやったんだかわからないんだけど、とにかく必死だったんだね。そうしたらなんと会ってくれた。しかもその場で自転車振興会と船舶振興会の両方に電話してくれて、あっという間に両方からお金が出ることが決まった。それが今の日本交響楽振興財団の出発なんです。そういうお金の集めも、彼はうまかった。佐藤さんの前でも、ぼくは何をしゃべっていいかわからないのに、直純は一生懸命しゃべっていて、すごいなと感心しながら見ていました』
一方、ストライキに参加しなかった十数名は山本と共に新しいオーケストラに参加した。また、山本直純が、小沢征爾に”どうする”と聞いた時、小澤が”誰々を押さえてくれ”と言われ、彼らも団員として新日本に参加した。山本は小澤征爾とともに新日本フィルハーモニー交響楽団の設立に走り斉藤秀雄を顧問に、斉藤の指示で山本は指揮者団幹事に、小澤征爾は首席指揮者に就任した。指揮団には斎藤秀雄(顧問)、小澤征爾(首席)、山本直純(幹事)、手塚幸紀がなった。始めてから三年くらいは、全員が月給五万円だった。みんなでいくつかの仕事をこなしてどうにか食いつないでいたという。
8月<軽井沢音楽祭>スタート。この年から14年間軽井沢プリンスホテルで開催されたもので、ナオズミをはじめとした新日本フィルハーモニー交響楽団による音楽祭。1972年から14年間にわたり、軽井沢プリンスホテルで開催。同祭ではさだまさしとの共演が人気の演目となった。
https://youtu.be/91MDQwGxY0I?si=p3TVwOMXol2YIAW9
9月15日小澤とともに新日本フィルハーモニー交響楽団を設立(設立1972年9月15日)、指揮者団幹事となる。
結成記念公演は水野成夫の追悼演奏会を兼ねこの日、東京文化会館小澤征爾指揮のもと開催された。
9月22日新日本フィルハーモニ交響楽団<第一回定期演奏会>が小澤征爾指揮、東京文化会館で行われた。
小澤征爾は語る『当時ぼくはバーンスタインの助手をしていましたが、彼がアメリカで「ヤング・ピープルズ・コンサート」というクラシック音楽を啓蒙する番組をやっていたんです。それにヒントを得た番組を日本でも直純が始めると聞いて大賛成して、協力を惜しみませんでした。それが「オーケストラがやって来た」です』参考:「考える人」2014年秋季号、新潮社、91-92頁引用
10月1日<オーケストラがやって来た>始まる。クラシック音楽を専門に取り扱った番組。
日本各地で番組の中継録画を行ったり、会場に来ている観客を一分間指揮者コーナーなどに参加させたりと、さまざまな形でクラシックの普及に努めていた。司会は、殆どの時期において企画原案・音楽監督担当者である山本直純が務めていた。1978年8月に山本が無免許運転騒動を起こし、TBSから番組降板を宣告されて一時番組を離れていた時期があったが(その間は主に石井眞木が代行)、一年後の1979年秋に復帰した。ただし復帰からの半年間は、石井と週交替で司会を務めていた。その後は、映画『大日本帝国』などの劇中音楽制作のために1982年4月から不定期出演となっていた時期を除き(その間は高島忠夫と交替で担当)、最終回までアグネス・チャンや大場久美子とともに司会を務めていた。
オープニングで演奏されていたテーマ音楽の原曲は、ヨハン・シュトラウス2世の「常動曲」(無窮動)。曲終盤のホルンが吹かれる箇所に入るとホルンが吹く「ドーミーレーファーミーソーレーー、ソーミーファーレーミードーレーー」のモチーフが番組タイトルのことばのリズムに似ていることから、その箇所に来ると指揮者が客席を向いて歌詞「オーケスートラーがーやーてーきたーー、オーケスートラーがーやーてーきたーー」をステージと客席とで一緒に合唱し番組が開始された。
番組には数多くの著名な音楽家たちが出演した。演奏は、主に新日本フィルハーモニー交響楽団が行っていた。番組の演出は、TBS出身の映画監督でオペラ演出やクラシック音楽関連のエッセイも多い実相寺昭雄がしばしば担当していた。
ナオズミは、クラシック初心者でも楽しんでもらえるように、ユーモアを交えた解説を展開したことで知られる。
11月新日本フィルハーモニ交響楽団<第三回定期演奏会>の指揮は斉藤秀雄に依頼してあったが、教育最優先と言って断り、斉藤秀雄がナオズミに言った”俺が信用できる奴は、今の日本にお前しかいない。最近の指揮ぶりは見ていないが、山本、お前はその気になれば出来る男だ!”と言ったことでナオズミの指揮により行われた。
12月の新日本フィルハーモニ交響楽団<第四回定期演奏会>は小澤征爾の指揮で開催された。
10月1日スタートの山本直純司会の<オーケストラがやって来た>は、毎週日曜の午後二時半から三時までTBS系列局で放送され、同番組は1983年3月27日まで続いた。
途中、1978年4月2日の日曜からは、放送時間が午前十一時から十一時半に変更され、1983年3月27日に番組が終了するまで、北は北海道、南は沖縄まで放送された。1978年8月に山本が無免許運転騒動を起こし、TBSから番組降板を宣告されて、一時番組を離れていた時期があったが(その間は主に石井眞木が代行)、1年後の1979年秋に復帰した。
喜劇映画「女売り出します」の音楽を担当。
1973年41歳
同年、芸術祭賞優秀賞を受賞。
アニメ作品「ゼロテスター」の音楽を担当。
TVドラマ「天下堂々」の音楽を担当。(~1974年 NHK)
TVドラマ「あんたがたどこさ」の音楽を担当。(~1975年 TBS)
1974年42歳
国連デーでの演奏作品を任され、オムニバス形式の三部作『天・地・人』を発表。「天」は安城慶、「地」は一柳慧、「人」を直純が作曲し、大好評となった。
映画「東京ド真ン中」の音楽を担当。
ナオズミ《オーケストラのための三つのスペース『天・地・人』より》「人 」
能楽: 野村万作
和太鼓: 天野宣と若連
管弦楽: 新日本フィルハーモニー交響楽団
指揮: 山本直純
1976年9月14日(火) 東京・日比谷公会堂で収録
1975年43歳
12月31日放送の「ゆく年くる年」(全民放局同時放送・幹事局は日本テレビ)と1987年3月31日放送の「国鉄最後の日」の関連特番(日本テレビ)では蒸気機関車の汽笛の音を用いて演奏する「蛍の光」で直純は指揮を務めた。2回とも京都市にある梅小路機関区で行われた。
<指揮・司会:山本直純:「オーケストラがやってきた」 >
1975年前後放送
1976年
TVNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」の音楽を担当。
1978年46歳
6月18日テレビ朝日で特別番組「棒振りたちの休日」(PM11:00~11:50)にナオズミが司会した。出演:朝比奈隆、渡辺暁雄、福田一雄、小林研一郎ほか。山田一雄がハープで《白鳥》を演奏した。
8月6日に起こした交通違反(註.1)活動自粛や降板を余儀なくされたりした。
スキャンダルなどでのマイナスイメージもあり、その多大な功績に比して世間から必ずしも高い評価を得られない一面もあった。
TVドラマ「愛と死をみつめて」の音楽を担当。(TBS)
<写真、山本直純著「オーケストラがやって来た」より>
(註.1)1978年8月6日に起こした交通違反スキャンダル〔妻正美と共に銀座の映画館で『男はつらいよ』を観て帰宅する途中、最初は正美が自動車を運転していたが、途中で正美の気分が悪くなったので山本が運転免許証失効中にも拘らずハンドルを握ったところ、たまたま自動車の無灯火の取締りをしていた警視庁三田警察署の警察官に職務質問を受けた。このとき山本が停車を拒んで逃げたため公務執行妨害罪と傷害罪に問われ、翌日に警視庁丸の内警察署に出頭した事件。同年8月10日に書類送検されると共に謝罪会見を行った。逃げようとしたとき警察官を引きずったか否かが問題になったが、最終的に山本の自動車からは警察官の手の跡が発見できず公務執行妨害と傷害罪では不起訴となった。ただし無免許と無灯火による道交法違反では東京簡裁に略式起訴され、1978年10月2日、罰金5万円の略式命令を受けた。この結果、『オーケストラがやって来た』は1年半の自粛を余儀なくされた。
資料/http://www.kotoba.ne.jp/word/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E7%9B%B4%E7%B4%94
1979年47歳
日本人として初めてボストン・ポップス・オーケストラを指揮。
繁松原千代繁はナオズミの指揮についてこう語っている『ナオズミさんは、斉藤メソードでいえば完璧ですよ。あの人はよく飛び上がって指揮していましたが、着地したときにオーケストラがちゃんと止まるには、棒がよほどしっかりしていないと。ある点を的確に叩いていないと、オーケストラは止まらないんです。それが傍目にはふざけているように見える。彼は不幸なことにずーっとそういうイメージがあって、どれくらい凄い人かというのは、ほとんど理解されていない』。同じようなことを小澤征爾はこう語っている『彼のあの大振りの指揮は、一見派手に見えるけど、実はオーソドックス。基本はぼくと同じ斉藤メソードなんです。あの大振りを直純さん以外の人がやってごらんなさい。ただのラジオ体操になってしまう。楽員にポイントをわかりやすく伝えるのが指揮だとしたら、彼の才能はものすごかった』参考:柴田克彦著、「山本直純と小澤征爾」28-29頁引用
3月25日NHK交響楽団とNHKホール、ライヴ録音
ブリテン《青少年のための管弦楽入門》
ルロイ・アンダーソン《トランペット吹きの子守歌》《フィドル・ファドル》《ラッパ吹きの休日》《シンコペーテッド・クロック》
レノン&マッカートニー《イエスタデイ/ヘイ・ジュード》
<軽井沢音楽祭>に復帰する
参考:柴田克彦、山本直純と小澤征爾、朝日新書、刊行2017年、29頁(引用)
1980年48歳
一年半の謹慎から復帰し新宿厚生年金会館ホールで行われた「オーケストラがやって来た」公開録画に出演し、復帰を望む聴衆の前に立った。
この頃ナオズミは団幹事として新日本フィルの楽団員たちの生活をどう食べさせていくか、四苦八苦していた。とにかくやらねばと、仕事探しに奔走していた。『団幹事となったボクは、オーケストラの仕事があまり食えないのに愕然とした。オーケストラはどんなにいっぱいになっても、二千五百人のホールぐらいしか音響効果で使えない。それで入場料が千円だったら二百五十万円。ホールに半分払って百二十五万円。ちょっと大きなオーケストラは百三十人いるから、ひとり一万円の収入にもならない。みんなで、いくつかの仕事をこなしてどうにか食いつないでいた』『オーケストラの魅力といったものをボクなりに本を書こうと思った。それが「オーケストラがやって来た」という本だ。それと同時にテレビ番組にすることを考え付いた。どんな番組にするかと考え、電電公社の専務理事をされてる遠藤正介(作家の遠藤周作の兄)に相談した。その肝いりで番組が実現した。どういう番組かというと、全国にある電電公社の』要約:山本直純著「紅いタキシード」、発行東京書籍、刊行1999年、135頁
ボストン・ポップス・オーケストラを指揮。
映画「二百三高地」の音楽監督・指揮を担当。
1981年
TVドラマ「関ヶ原」の音楽を担当。(TBS)
1982年
「8時だヨ!全員集合」
音楽:たかしまあきひこ/山本直純、青山勇
※【高島明彦は、1968年に東京藝術大学作曲科を卒業。山本直純門下生であり、ナオズミが音楽を担当していたTBSのバラエティ番組『8時だョ!全員集合』ではナオズミのアシスタントを務めていた。1970年代からは、山本から役目を引き継いで『全員集合』の音楽を担当した】
9月19日<オーケストラがやって来た>《新世界より》(前編)指揮:小澤征爾、司会:ナオズミ
9月26日<オーケストラがやって来た>《新世界より》(後編)指揮:小澤征爾、司会:ナオズミ
11月14日<オーケストラがやって来た>ゼルキンと小澤征爾が出演、司会:ナオズミ
11月21日<オーケストラがやって来た>《皇帝》ゼルキンと小澤の共演、司会:ナオズミ
1983年51歳
この年の3月27日放送分で<第544回~オーケストラがやって来た>は放送終了となった。
この番組に、小澤征爾は40回以上の出演を果たした。この他の出演者は、一柳慧、島田裕子、砂原美智子、岩城宏之、江藤俊哉、大橋国一、伊藤京子、海野義雄、佐藤陽子、今井信子、成田絵智子、田谷力三、五十嵐喜芳、アイザック・スターン、岡村喬生、秋山和慶、小泉和裕、江戸京子、森正、前橋汀子、中田喜直、堤剛、森下洋子、芥川也寸志、花房晴美、西村朗、安川加寿子、藤原真理、東敦子、山田一雄、石井眞木、井上道義、朝比奈隆(朝比奈のフルコース、コック姿で)、金洪才、山下和仁、外山雄三、堀米ゆづ子、山崎伸子、アレクシス・ワイセンベルク、イ・ムジチ合奏団、ピーター・ゼルキン、武満徹、大町陽一郎、大町陽一郎、上條恒彦、楠トシエ、小沢昭一、加山雄三、ミヤコ蝶々、小柳ルミ子、都はるみ、荻昌弘、布施明、雪村いづみ、服部良一、宮川泰、鰐淵晴子、手塚治虫、ニニ・ロッソ、R・グレイダーマン、アグネス・チャン、五木ひろし、柳家小三治、佐々木信也、梓みちよ、江夏豊、金沢明子、竹村健一、岩崎宏美、ガッツ石松、八代亜紀、大場久美子、中野良子、大竹しのぶ、菅原文太、山下洋輔、高島忠夫、うつみ宮土理、真理アンヌ、マリ・クリスティーヌ等がいる。
小澤征爾は語る『ぼくが海外にいる間は直純にはとくに連絡しませんでした。会うのは「オケが来た」に出演するとき。ぼくは帰国するたびに必ず出席するようにしていました。また、世界的に著名な演奏家に、来日する時に出演してくれないかとぼくから直接頼んでいた。アイザック・スターン、ルドルフ・ゼルキン、ピーター・ゼルキン、イツァーク・パールマン・・・』参考:「考える人」2014年秋季号、新潮社、92頁引用
3月20日<オーケストラがやって来た> 最後のブラームス 出演:小澤征爾、司会:ナオズミ
3月27日<オーケストラがやって来た~最終回>告別は別れの言葉ではなく~小澤征爾指揮で告別、司会:ナオズミ
12月4日<第1回サントリー1万人の第九> 司会:武田鉄矢/小池清、に出演 大阪城ホール
ゲスト:宝塚スター
ベートーヴェン《交響曲第九番》
指揮:山本直純
ソリスト:桶本栄(S.)、伊原直子(A.)、五十嵐喜芳(T.)、岡村喬生(Br.)
演奏:大阪フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団合唱団
合唱:1万人の[第九]特別合唱団
※大阪城ホールのこけら落としで「1万人の第九コンサート」を企画し、当時・毎日放送常務取締役の斎藤守慶営業本部長(後に社長・会長を歴任)とともに「サントリー1万人の第九」を開催した。当時・サントリーの佐治敬三社長の後押しもあり、ナオズミはスタートの1983年から1998年の第16回まで連続して構成・総監督・指揮を務めた。
※1983年に大阪城築城から400年を迎えることを記念し、大阪21世紀協会(現「関西・大阪21世紀協会)が中核事業として<大阪築城400年まつり>を企画。大阪城青屋門真向かいに建設された「大阪城ホール」のこけら落としの一環として企画され、当初は1回限りの単発イヴェントとして企画されていた。
TVドラマ「松本清張の連環」の音楽を担当。(ANB)
<山本直純【吹奏楽】シンフォニック・バラード全楽章>
演奏 からす川音楽集団
指揮 山本直純
1984年52歳
12月2日<第2回サントリー1万人の第九> 司会:遥くらら/高梨欣也、に出演
~喝采、リフレイン、’84~
合唱幻想曲《友よ 大阪の夜明けを見よう》作詞:藤本義一
指揮:山本直純
ソリスト:大倉由紀枝(S.)、藤川賀代子(A.)、林誠(T.)、岡村喬生(Br.)
演奏:大阪フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団
合唱団:1万人の[第九]特別合唱団、大阪フィルハーモニー合唱団、大阪音楽大学
TVドラマ「ロマンス」の音楽を担当。(NHK)
写真 ナオズミ、芥川也寸志
1985年53歳
4月よりNHKのFMラジオ公開収録番組「FMシンフォニー1コンサート」に東京発のパーソナリティとしてナオズミが出演した。全国の交響楽団・管弦楽団の演奏会の模様を録音で届ける番組。番組は基本的に東京から毎月2回程度、他は大阪、名古屋が毎月1回ずつのペースで製作し、各地で行われる公開録音やその地域の代表的なクラシック音楽団の演奏会の模様をライブ録音中継している。北海道地方では年数回「札響(札幌交響楽団)FMコンサート」に差し替え放送した。ナオズミの没後は、指揮者の現田茂夫が後任パーソナリティを務めた。
12月1日<第3回サントリー1万人の第九> 司会:紺野美沙子/高梨欣也、に出演
~歓喜は継承される―’85~
ゲスト:宝塚スタ
合唱幻想曲《友よ 大阪の夜明けを見よう》作詞:藤本義一
指揮:山本直純
ソリスト:常森寿子(S.)、荒田祐子(A.)、林誠(T.)、岡村喬生(Br.)
演奏:大阪フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団
合唱:1万人の[第九]特別合唱団、大阪フィルハーモニー合唱団、大阪音楽大学
映画「ビルマの竪琴」の音楽を担当。
<映画予告編「ビルマの竪琴」>
1986年54歳
12月7日<第4回サントリー1万人の第九> 司会:紺野美沙子/高村昭、に出演
~いま新たなる感動―’86~
合唱幻想曲《友よ 大阪の夜明けを見よう》作詞:藤本義一
指揮:山本直純
ソリスト:大倉由紀枝(S.)、藤川賀代子(A.)、林誠(T.)、岡村喬生(Br.)
演奏:大阪フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団
合唱:1万人の[第九]特別合唱団、大阪フィルハーモニー合唱団、大阪音楽大学
TVドラマ人間模様「シャツの店」の音楽を担当。(NHK)
1987年55歳
12月6日<第5回サントリー1万人の第九> 司会:神崎愛/平松邦夫、に出演
~’87―さぁ、クライマックスへ~
第一部 ベートーヴェン《交響曲第五番》「運命」第1楽章
第二部 ベートーヴェン《交響曲第九番》
指揮:山本直純
ソリスト:豊田喜代美(S.)、荒田祐子(A.)、林誠(T.)、岡村喬生(Br.)
演奏:大阪フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団
合唱:1万人の[第九]特別合唱団、大阪フィルハーモニー合唱団、大阪音楽大学
1988年56歳
12月4日<第6回サントリー1万人の第九> 司会:平松邦夫に出演
~テーマ’88―飛翔する歓喜~
ゲストウィーン室内合唱団
第一部 ウィーン室内合唱団による《アヴェ・ヴェルム・コルプス》《菩提樹》日本歌曲《ねむの木の子守唄》
第二部 ベートーヴェン《交響曲第九番》
指揮:山本直純 (S.)(A.)(T.)(Br.)
ソリスト:奈良ゆみ、藤川賀代子、林誠、岡村喬生
演奏:大阪フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団
合唱:1万人の[第九]特別合唱団、ウィーン室内合唱団、大阪フィルハーモニー合唱団、大阪音楽大学
NHK大河ドラマ「武田信玄」の音楽を担当。
山本直純(作曲,指揮) NHK交響楽団
晩年はアマチュアオーケストラのジュニア・フィルハーモニック・オーケストラの指導にも特に力を注いだ。岩城宏之とは無二の親友であった。
1989年57歳
3月26日<山本直純”クラシッククライマックス”>~きらめきオーケストラの名曲集Ⅱ~サントリーホール
指揮:山本直純 新星日本交響楽団
ヴァイオリン:佐藤慶子
オルガン:今井奈緒子
7月31日NHK交響楽団と、NHKホール、ライヴ録音
ジョン・ウィリアムズ《スター・ウォーズ》組曲(全3曲)
12月3日<第7回サントリー1万人の第九> 司会:平松邦夫に出演
~テーマ’89―歓喜のタクト、今高く~
ゲスト:ボン市フィルハーモニー合唱団/花博コンパニオン
第一部 ボン市フィルハーモニー合唱団《自然における神の栄光》「流浪の民」《花》(瀧廉太郎)《花のワルツ》
第二部 ベートーヴェン《交響曲第九番》
指揮:山本直純
ソリスト:奈良ゆみ(S.)、荒田祐子(A.)、若本明志(T.)、岡村喬生(Br.)
演奏:大阪フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団
合唱:1万人の[第九]特別合唱団、1万人の「第九」花の万博コンパニオン特別合唱団、大阪フィルハーモニー合唱団、大阪音楽大学
TVドラマ「奇兵隊」の音楽を担当。(日本テレビ)
1990年58歳
8月1日NHK交響楽団と、NHKホール、ライヴ録音
ガーシュウィン《パリのアメリカ人》
12月2日<第8回サントリー1万人の第九> 司会:平松邦夫に出演
~’90―響きあう自由と歓び~
第一部 ベルリン・バッハ合唱団《自然における神の栄光》《歌え 主のみ前に新しい歌を》《歌えバンバン》
第二部 ベートーヴェン《交響曲第九番》
指揮:山本直純
ソリスト:奈良ゆみ(S.)、藤川賀代子(A.)、若本明志(T.)、岡村喬生(Br.)
演奏:大阪フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団
合唱:1万人の[第九]特別合唱団、ベルリン・バッハ合唱団、大阪フィルハーモニー合唱団、大阪音楽大学
TVドラマ「花燃える日日 -野望の国・第二部-」の音楽を担当。(日本テレビ)
1991年59歳
7月31日NHK交響楽団と、NHKホール、ライヴ録音
バーンスタイン《ウエストサイド物語》{シンフォニック・ダンス」
ガーシュウィン《スワニー》
12月1日<第9回サントリー1万人の第九> 司会平松邦夫に出演
~響きあう、大いなる歓喜~
ゲスト:堀内孝雄
第一部 《フィガロの結婚》序曲』全国お国巡りメドレー《夢にふかれ-近畿21世紀への旅立ち》
第二部 ベートーヴェン《交響曲第九番》
指揮:山本直純
ソリスト:松本美和子(S.)、永井和子(A.)、鈴木寛一(T.)、木村俊光(Br.)
演奏:大阪フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団
合唱:1万人の[第九]特別合唱団、日本全国九ブロックの市民合唱団
1992年60歳
12月6日<第10回サントリー1万人の第九> 司会:平松邦夫/岩城潤子、に出演
~そして歓喜は響き、歴史となる~
第一部 《10周年記念祝典ファンファーレ》《トッカータとフーガ》《THE TENTH SYMPHONY》《我らの地球》《新・歌えバンバン》
第二部 ブラームスの《第一交響曲》の「終楽章」に「合唱」を付け、千人の合唱と共に演奏した
指揮:山本直純
ソリスト:松本美和子(S.)、田中淑恵(A.)、若本明志(T.)、多田羅迪夫(Br.)
演奏:大阪フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団
合唱:1万人の[第九]特別合唱団
※この年は、全スタンド席を合唱団で構成。360℃のサラウンドで響き渡る、祝祭の第九となった。
1993年61歳
12月5日<第11回サントリー1万人の第九> 司会:子守康範/岩城潤子、に出演
~響き会って、新楽章へ~
第一部 《チャイコフスキー作曲ファンファーレ》《大序曲1812年》《理想の大地》
第二部 ベートーヴェン《交響曲第九番》
指揮:山本直純
ソリスト:(S.)塩田美奈子、(A.)荒田祐子、(T.)五郎部俊朗、田中勉(Br.)
演奏:大阪フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団
合唱:1万人の[第九]特別合唱団、ありがとう合唱団司
1994年62歳
12月4日<第12回サントリー1万人の第九> 司会:平松邦夫/岩城潤子、に出演
~響け、ここより世界の空へ~
第一部 《ファンファーレ響け 世界の空へ!!》《80日間世界一周》
第二部 《友よ 大阪の夜明けをみよう》作詞:藤本義一
指揮:山本直純
ソリスト:井岡潤子(S.)、持木文子(A.)、角田和弘(T.)、三浦克次(Br.)
演奏:大阪フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団
合唱:1万人の[第九]特別合唱団、関西国際空港合唱団 あどラン合唱団 ありがとう合唱団
※開幕は山本直純の『ファンファーレ 響け、世界の空へ!!』。次に『80日間世界一周』。関西国際空港が開港。関西国際空港に初乗入した国々の客室乗務員も加わった。
1995年63歳
12月3日<第13回サントリー1万人の第九> 司会:高梨欣也/岩城潤子、に出演
~響きあって、あしたへ~
第一部 《鎮魂・復活・希》』バーバー《弦楽のためのアダージョ》マーラー《復活》
第二部 ベートーヴェン《交響曲第九番》
指揮:山本直純、朝比奈千足
ソリスト:塩田美奈子(S.)、伊原直子(A.)、若本明志(T.)、田島達也(Br.)
演奏:大阪フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団、神戸フィルハーモニック
合唱:1万人の「第九」特別合唱団、ブリスベンからの合唱団
※阪神・淡路大震災。地元の被災を前にコンサートを見送る声もあったが、被災地だからこそ立ち上がり、新たな出発の門出にしようとのコンセプトが決まり、開催。山本直純のアイデアによるオラトリオ『鎮魂・復活・希望』の後、朝比奈千足の指揮によりマーラー『復活』フィナーレを演奏。神戸フィルハーモニックや神戸市混声合唱団など、被災地からも大勢の人が参加。二元中継で神戸と大阪城ホールをつないだ。
1996年64歳
12月1日<第14回サントリー1万人の第九> 司会:馬野政行/岩城潤子、に出演
~響け、アジアの熱き心よ~
ゲスト:ディック・リー
第一部 ファンファーレ《黄金の響き》ボロディン《中央アジアの草原にて》アジアの各国メドレー なみはや 国体テーマソング《WE CAN CHANGE. THE WORLD ~いまこのとき~》
第二部 ベートーヴェン《交響曲第九番》
指揮:山本直純
ソリスト:陳素娥/中国(S.)、永田直美(A.)、チン・ヨン/マレーシア(T.)、金寛東/韓国(Br.)
演奏:大阪フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団
合唱:1万人の[第九]特別合唱団、アジアの留学生合唱団
※山本直純が作詞・編曲をしたボロディン作曲《中央アジアの草原にて》を合唱と管弦楽で歌った。さらに中国、マレーシア、韓国、日本の各ソリストが各国の名曲をメドレーでつなぎ、第一部ファイナルには「なみはや国体」のテーマソングを作詞作曲したシンガポール出身のビッグ・アーティスト、ディック・リーが登場。アジアからの留学生による合唱団もはじめての第九を歌った。
1997年65歳
12月7日<第15回サントリー1万人の第九> 司会:野村啓司/岩城潤子、に出演。
~時を重ね、未来に響く~
ゲスト:岩崎ひろみ(TV)
第一部 《FANTASIA》シューベルト歌曲集《カノン》《セレナーデ》《アヴェ・マリア》《菩提樹》
第二部 ベートーヴェン《交響曲第九番》
指揮:山本直純
ソリスト:中丸三千繪(S.)、菅有実子(A.)、田代誠(T.)、三原剛(Br.)
演奏:大阪フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団
合唱:1万人の[第九]特別合唱団、ウィーン少年合唱団(シューベルト組) 15回記念特別合唱団(15歳の少年少女で結成)
※《菩提樹》を1万人で合唱。テレビ放送では、女優・岩崎ひろみが第九にチャレンジする姿を追った。
1998年66歳
鹿児島県南種子町で開催された「トンミーフェスティバル」において作曲を手がけたことが縁となり、楽譜をはじめとした資料、楽器、生活家具などが同町へ寄贈され、南種子町郷土館内に「山本直純音楽記念室」が開設された。
12月6日<第16回サントリー1万人の第九> 司会:平松邦夫/岩城潤子、に出演
~魂が響く、時代が動く。~ベートーヴェンとガーシュインがここに出会う~
ゲスト:日野皓正&Hips Group、KONISHIKI
第一部 ガーシュウインメドレー《ラプソディ・イン・ブルー》《パリのアメリカ人》《サマータイム》《遥かなるスワニー河・ユーモレスク・スワニー》
第二部 ベートーヴェン《交響曲第九番》
指揮:山本直純
ソリスト:蒲原史子(S.)、森山京子(A.)、水口聡(T.)、三浦克次(Br.)
演奏:大阪フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団
合唱:1万人の[第九]特別合唱団
※ドヴォルザークの《ユーモレスク》に山本直純が雄大な詩をつけ、合唱した。元大関のKONISHIKIが第九合唱に挑戦、特大サイズのタキシード姿で出演。
この年は、ガーシュイン生誕100年。冬季オリンピック長野大会開催。フランスで行われたサッカー第16回ワールドカップ本大会が開催され日本が初出場した。
1999年67歳
妻の心臓発作を機にキリスト教(カトリック)に入信している。洗礼名はフランシスコといった。こどもさんびか改訂版に「せかいのこどもは」(作曲)を残している。
2002年70歳
6月18日急性心不全のため死去。享年69歳。
生涯で作曲した数は、4000曲以上。クラシックは言うに及ばず、映画、ドラマ、CM、バラエティー、童謡とその活躍は多岐にわたった。
音楽関係者の間では「日本の音楽普及に最も貢献したひとり」として高く評価されている。
没後の動き
2002年
7月22日NHK<音楽のすそ野を広げたい~山本直純さんの遺したもの~>
出演:岩城宏之(指揮者)
2012年
3月24日<直純さんがやって来た>第音楽会 司会:竹下景子 サントリーホール
曲目抜粋
山本直純「児童合唱メドレー」《一年生になったら》《こぶたぬきつねこ》《オーい海》ほか
山本直純 みみくり狂想曲《虫の四季》から《ほととぎすのワルツ》《虫のセレナーデ》
山本直純 ピアノ狂騒曲《ヘンペラー》
山本直純《交響譚詩》《シンフォニック・バラード》《田園・わが愛》作詞::寺山修司
指揮:秋山和慶、金洪才、山本祐ノ介 新日本フィルハーモニー交響楽団
歌:さだまさし、ピアノ:藤井一興、ものまね:江戸家猫八
合唱:栗友会合唱団、NHK東京児童合唱団
2014年
小澤征爾は語る『今でもそうかもしれないが、日本のオーケストラはまだ西洋音楽に何か型があると思っている。日本人は、外からはわかりにくい、内に秘められた意志や感情を大事にしますが、ベートーヴェンやモーツァルトだって同じこと。表面的に音を正しくきれいに出すだけが音楽ではない。それなのに、日本のオーケストラは、いまだにその段階から抜け出せていない。この殻を破るにはうんと時間がかかるでしょう。どれほど演奏がうまくても、音楽することが、その人に対してどういう意味があるのかわからないまま、ただ弾いてしまっている。譜面づらしか弾かない人の多いこと。それでいいなら、ぼくのやっているアカデミーも小澤塾も要りません。芝居だって、役者が台本をただ丸覚えして話すだけでは全然ダメでしょう。セリフを解釈して自分の言葉として話さなきゃ。それと同じです』『その人の芯は何なのかを意識して大事にしている人が、日本にはいなくなっちゃったのかな。いなくなっても、そのことの重大さに気づかないでいるのかな。山本直純さんはその危険性に当時から気がついていて、オーケストラに常に要求していた。彼が真に目指していたのは、日本人にとっての借りものではないクラシック音楽です。』『直純さんを知っている人が少なくなったけど、見てくれが悪いとか(笑)、だらしないとかでごまかされないで、彼が何をしたかったのか、芯がどうだったか見つけ出すということはとても大事です』
参考:「考える人」2014年秋季号、「山本直純という音楽家~彼が目指した真の音楽」インタビュアーに応える、92頁引用
2022年
8月6日下野竜也プレゼンツ!音楽の魅力発見プロジェクト 第9回
<讃・山本直純没後20年>「オーケストラがやっと来た」 会場:すみだトリフォニーホール 大ホール
山本直純《白銀の栄光(管弦楽版)》
山本直純《シンフォニック・バラード》ほか
指揮:下野竜也 新日本フィルハーモニー交響楽団
5.その他
1978年10月2日、道交法違反で罰金5万円の略式命令を受けた。妻正美と共に銀座の映画館で『男はつらいよ』を観て帰宅する途中、最初は正美が自動車を運転していたが、途中で正美の気分が悪くなったので山本が運転免許証失効中にも関わらずハンドルを握ったところ、たまたま自動車の無灯火の取締りをしていた警視庁三田警察署の警察官に職務質問を受けた。このとき山本が停車を拒んで逃げたため公務執行妨害罪と傷害罪に問われ、翌日に警視庁丸の内警察署に出頭した事件。同年8月10日に書類送検されると共に謝罪会見を行った。逃げようとしたとき警察官を引きずったか否かが問題になったが、最終的に山本の自動車からは警察官の手の跡が発見できず公務執行妨害と傷害罪では不起訴となった。ただし無免許と無灯火による道交法違反では東京簡裁に略式起訴され、1978年10月2日、罰金5万円の略式命令を受けた。この結果、『オーケストラがやって来た』は1年半の自粛を余儀なくされた。』
6.主な作品
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