生没年・出身地・歿地・墓地
レナード・バーンスタイン生誕
BERNSTEIN, Leonard
(1918年8月25日マサチューセッツ州ボストン近郊ローレンス生)
(1990年10月14日ニューヨークで没)
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1.職業
ユダヤ系アメリカの指揮者・作曲家・ピアニスト
2.称号
3.家系
バーンスタイン家 家系
曾祖父:ベザレルはロシア、ウクライナ、シェペトヴカから数マイル北のコヴィヒタ川の岸辺にあるクレッツの近くにあるベレスディヴという場所のユダヤ人強制集住地域(ゲットー村)に住んでいた
代々ユダヤ教のラビの家庭に生まれた敬虔なユダヤ教徒であった
彼はこの地域では名の知られた鍛冶屋だった。怪力の持ち主でドローシキという屋根なし軽馬車を持ち上げて車輪のひとつを取り外して地面に下ろすほどの怪力の持ち主であった。ウォッカをがぶ飲みする職人として遠くまで名を知られていた。子供は4人にいたが、彼は若くして世を去った
祖父:ユーデルはベレスディヴのユダヤ人強制集住地域(ゲット=村)に生まれた
律法学者で代々ユダヤ教のラビの家庭に育ち敬虔なユダヤ教徒で信心深くシナゴーグでのタルムードを読み、祈りを捧げて暮らしていた
祖母:ダイナはマラマッド出身の働き者の農婦で、夫がシナゴーグにいる間、畑を耕し、家事、乳しぼり、ローソク作りなどをして家族を養っていた
父:シュムエルは1892年にベレスディヴのユダヤ人強制集住地域(ゲットー村)の正統派ハシディズムの代々ユダヤ教のラビの家庭に生まれた
本名は:シュムエル・ヨゼフ=ベン・ユーダSumuel Yosey ben Yehudaという
シュムエルは、ロシアのウクライナで代々ユダヤ教のラビの家庭に生まれた敬虔なユダヤ教徒で、宗教の初等学校に通い、さらに上級学校に進学してトーラーとタルムードを学んだ
1908年シュムエル16才の時に、村を抜け出し反ユダヤ主義が高まるロシアをユダヤ人虐殺にあうか、暴虐なツァーリの軍隊に徴兵されるかという運命から一文なしで逃れた
両親は息子が父の跡を継いで宗教学者になることを望んでいたが、何の前触れもなく密かにロシアを出奔したことに失望した
コネチカット州ハートフォードに住む叔父のハーシェル・マラマッドが旅費を支援してくれたので、現ポーランドのグダンスクのユナイテッド・ヘブライ・チャリティの仲介により、英国リバプール発ニューヨーク行きの船でニューヨークに着いた
シュムエルはエリス島の移民局員からヒントを得てサミュエル・ジョゼフ・バーンスタインSumuel Joseph Bernsteinと改称した
合衆国で床屋を営む叔父のハリー・レヴィー(本名:ハルシェル・マルマード)が保証金25ドルを当局に収めてくれた
ロワー・マンハッタンのファルトン・フィッシュ・マーケットでサムは魚をおろして切り身にする職をみつけて働いた
4年後、サムはコネチカット州ハートフォードに移り住んで叔父の理髪店で働くようになった
叔父の紹介でボストンのファンケル&スミスの在庫管理事務員に転職する
そこはニュー・イングランド地区の理髪店とカツラ店に卸しをする商社であった
ボストン支店の開設に伴い引っ越した
レズニック家 家系
祖父:サミュエル・レズニックは1893年アメリカにわたり、アメリカン・ウールン社で毛糸染めの経験工として働いていた
祖母:パール・レズニックはローレンスの家の一階の表側の部屋を食料品の小売り商売をしていた
母:ジェニー・レズニックは1898年ウクライナ北西部の町シェペトヴカに生まれた
1896年7才の時に兄妹、従兄弟と共に母パール・レズニックに連れられて、シェペトヴカからポーランドを抜け、ラトビアのリガ港からニューヨークにやってきた
エリス島の移民局員からジェニーという名前を付けられた
ジェニー・レズニックは12才の時に羊毛工場に勤めはじめた
1917年25才、サムは、アメリカ市民権を得た
週給15ドルのサブマネージャーに昇進した
一次大戦に徴兵されたが目が悪いという理由で除隊となり数日後に帰ってきた
サムは交際していたジェニー・レズニックと、除隊後の10月28日に小さなシナゴーグで挙式を済ませ、じぇにーの母親が準備していた自宅で披露宴を行った
サムはボストン郊外のマタバンに小さなアパートを借り新婚生活を始めた
ジェニーはレナードを身ごもり妊娠期間の最後の数週間を、マサチューセッツ州ボストン近郊ローレンスの実家で過ごしていた
1918年26才、レナードが生まれた
1920年28才、ボストン事務所のマネージャーに昇進した
1923年31才、独立し「サミュエル・バーンスタイン・ヘアー・カンパニー」を設立した
シャリー・アンが生まれた
1927年35才、パーマネント器具の独占販売権を得て一躍財産家になり、事業は成功し頻繁に家を借り替えたり、ニュートンに家を購入したりして家族は引っ越しを繰り返していた
ハシッド派のサムは住んでいたロクスベリー地区のシナゴーグのミシュカン・テフィラ教会に家族を連れて行った
サムは事業で成功し、二軒の家だけでなく、二台の自家用車を所有していた。長年にわたって何人ものメイドを雇っていたし、一時は執事兼運転手まで抱えるほど裕福であった
サムは息子レナードの音楽家への進路に猛反対した父親であった。反対する大きな理由はあった。サムの故国ウクライナのユダヤ人社会で音楽家といえば、クレスメルと呼ばれる放浪の芸人であった
彼らはユダヤ教の結婚式などで音楽を演奏し、わずかの金などをもらい、一夜の宿を与えられる存在でしかなかったからだ
サムは苦労して築いた美容器具販売業の後継者として、レナードに期待を寄せていた
母:ジェニーは1889年に生まれた。1896年7才の時に兄妹、従兄弟と共に母パール・レズニックに連れられて、ウクライナ北西部の町シェペトヴカからポーランドを抜け、ラトビアのリガ港からニューヨークにやってきた。エリス島の移民局員からジェニーという名前を付けられた。彼女の父はアメリカン・ウールン社で毛糸染めの熟練工として働いていた。レズニック家はマサチューセッツ州ローレンスに家を建て、母は一階の表側の部屋を食料品店にして小売り商売をはじめた。ジェニー・レズニック12才から羊毛工場に勤めた
1932年40才、バートンが生まれた
4.レナード・バーンスタイン経歴
1918年8月25日午後1時ごろ、レナード・バーンスタインは、父:サミュエル・ヨゼフ・バーンスタインと母:ジェニー・バーンスタインとの間に、ウクライナ系ユダヤ人移民の2世として、マサチューセッツ州ボストン近郊ローレンスのローレン総合病院で生まれた
出産を控えジェニーの母の住む家に里帰りしていたジェニーは産気づき、母の電話で呼ばれたかかりつけの医師の車でローレン総合病院に運ばれた
ジェニーの母親パールはジェニーの兄と同じように母方の祖父にちなんでルイスと名付けるよう主張し、戸籍登録された
両親ともこれが気に入らず、はじめからレナード(Leonard)という名前が気に入っていたのでそう呼んでいた
1923年『5才になって幼稚園に通うようになって、自分のことを先生は「ルイス・バーンスタインお立ちなさい」と言った。家に帰って母に尋ねたところ本当の名前はルイスなのだと打ち明けられた』と語っている
1934年16才になり自動車の運転免許証の申請をした機会に、ルイスからレナードへ正式に改名している
家庭には音楽的な環境は全くなかったというが、幼少の頃からいろいろな友達の家でピアノを聴かせてもらったり、家で母親のビクトローラでユダヤ聖歌やポピュラーソング、オペラのアリア抜粋などのSPレコードを、かけてくれるようせがんでいたらしい。
レナード・バーンスタイン(以降バーンスタインと呼ぶ)は両親に連れられて通ったシナゴーグのミシュカン・テフィラ会堂にはオルガン、合唱隊がありテノール歌手のイザドア・グリックシュタインや作曲家のサロモン・ブラスラフスキーが指揮をし、マーラーやシュ-ベルト等々の曲が使われ、会堂が唯一の音楽環境にあったが、バーンスタインには楽器の演奏を学ぼうという意欲がなかった
1924年6才から通ったロクスベリーの名門ウィリアム・ロイド・ギャリソン・スクールでは、教師が歌い方と音符の読み方の基礎を教えていた。ラジオから最新のヒット曲やコマーシャルソング等を聴いていた。影響を受けた音楽といえば、ミシュカン・テフィラ教会で毎週聴いたオルガン、合唱やカントールによるユダヤ音楽であった。
1928年10才、叔母がボストン地区からブルックリンに引っ越すことになり、バーンスタイン家にソファとアップライトピアノをくれたのをきっかけに、友達に教わり独学でピアノを弾きはじめる。 父の許しを得、初めてピアノを近所に住むフリーダ・カップFrieda Karpという女の子が1時間1ドルで雇われてレッスンをしてくれた。バーンスタインの習得力は異常な速さで進みショパンを弾くようになった。ラジオから聴こえる音楽の再現法を研究し初歩的な和声を自分で見つけたりした
1929年11才、ウィリアム・ロイド・ギャリソン・スクールを卒業し、1635年に創立され合衆国最古で有名なボストン・ラテン・スクール七学年に入学した。卒業生には、ベンジャミン・フランクリン、ジョン・F・ケネディ等々名高い政治家や高名な著述家がいた
父親は堅実な経営者であったので株式投資をしなかったので、この年の多くの企業を倒産に追い込んだ恐慌を生き残った
1930年12才、スーザン・ウィリアムズSusan Williamsにピアノのレッスンを受ける。1時間3ドルであったが父は息子に、自分が成し得なかったあらゆる機会を惜しみなく与えるつもりでいた。バーンスタインの学業は常に成績優秀であった
父親のサムはバーンスタインがいつか自分の会社の跡を継いでくれるものと期待していた。後にヘアー・カンパニーを経営していた父親の強い反対を押し切って、プロの音楽家の道を志すことになる
シド・レイミンSid Raminに出会いピアノ教師としてレイミンにレッスンをはじめた。後の《ウエスト・サイド物語》の編曲者のひとりとなる
後に「サミュエル・バーンスタイン・ヘアー・カンパニー」を経営していたた父親の強い反対を押し切って、プロの音楽家の道を志した。
1931年13才、ニューイングランド音楽院(~35年まで)に通いピアノをスーザン・ウイリアムズを選んだの失敗だった。、翌年ヘレン・コーツにピアノを習い始める。
1932年14才、著名なピアノ教師ハインリッヒ・ゲブハルトと助手のヘレン・コーツに学ぶ。この頃煙草をおぼえたらしい。連弾用に編曲した歌謡曲やジャズを弾いたりガーシュウィンの《ラプソディー・イン・ブルー》を一緒に勉強していた
1933年15才、ボストン音楽コンクールでピアノ部門第2位
1934年16才、ボストン・パブリック・スクール・オーケストラ演奏会でグリーグのピアノ協奏曲の第一楽章を演奏
1935年17才夏、市民ホールを借りて友人等とオペラ《ミカド》をダイジェスト化したオペラの作曲・演出を担当し上演
同年ボストン・ラテン学校を卒業
ハーバード大学の音楽専攻課程に入学、和声学をエドワード・バレンタイン、管弦楽法をエドワード・バーリンガム・ヒル、対位法をアーサー・ティルマン・メリット、ウォルター・ピストン、作曲をウォルター・ピストンに学ぶ
在学中に初の作品《クラス・ソング》を作曲する
オペラやコンサートを頻繁に聴く
1937年19才、ケンブリッジのサンダース劇場でマサチューセッツ州立交響楽団とラヴェルのピアノ協奏曲を演奏し、地元紙から高い評価を受ける
友人のパーティに招ねかれそこでディミトリ・ミトロプーロス、作曲家アーロン・コープランドと出会い、大きな影響を受ける。
ラヴェルの協奏曲で、コンサート・ピアニストとしてデビュー
1938年20才、自作を交えたピアノ・リサイタルを開催
1939年21才、アリストファドラの《鳥》の付随音楽を作曲しコンサートで指揮する
同年ハーバード大学を卒業
カーティス音楽院に入る。ピアノをイザベラ・ヴェンジェロヴァ、指揮法をフリッツ・ライナー、セルゲイ・クーセヴィッキーに、作曲法をランドル・トンプソン等に師事
1940年22才、フリッツ・ライナーの薦めでクーセヴィツキーが創設したタングルウッド音楽センターの指揮講座を受講し、クーセヴィツキーの指揮テクニックの基本、音楽表現法の秘訣等を習得する
1941年23才、カーティス音楽院卒業しクーセヴィツキーの助手を務める
タングルウッド音楽祭コンクールで優勝
1942年24才、《交響曲第1番》「エレミア」作曲
1943年25才8月、コープランドとロイ・ハリスの推薦でロジンスキーに会い、指名を受けニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の副指揮者に採用される
11月14日、カーネギーホールでの演奏会でブルーノ・ワルターが風邪を引き指揮ができなくなり、かけつけたワルターのアドヴァイスを得て、シューマン《マンフレッド》序曲、R.シュトラウス《ドン・キホーテ》等の指揮代役を見事に務め演奏会は大成功を収めセンセーショナルなデビューを飾る
5つの子供の歌「私は音楽が嫌い」作曲
《交響曲第1番》「エレミア(1942年作曲)」がニューヨーク音楽批評家サークル賞受賞
1944年26才、1月28日ピッツバーグ交響楽団を自ら指揮して《交響曲第1番》「エレミア」初演。
4月バレエ《ファンシー・フリー》初演を指揮
12月28日ミュージカル《オン・ザ・タウン》ブロードウェイのアデルフィ劇場マックス・ゴバーマン指揮でで初演。(日本初演は2014年9月青山劇場とオリックス劇場
映画《踊る大紐育》は、このミュージカルをMGMがジーン・ケリー監督の映画化1949年12月8日公開。出演ジーン・ケリー、フランク・シナトラなど)
1945年27才、ニューヨーク・シティ交響楽団音楽監督に就任(~1948年まで)
国内主要オーケストラを客演指揮
最初のレコード録音を行う(セントルイス_交響楽団を指揮した交響曲第1番《エレミア》ほか)
1946年28才、ヨーロッパを初訪問し、プラハ国際音楽祭でチェコ・フィルを指揮してヨーロッパデビューを果たす
ロンドン・フィル、チェコ・フィルを指揮
テルアヴィヴ(Tel Aviv)でパレスチナ交響楽団を指揮
バレエ《ファクシミル》初演
1947年29才、パレスチナ・フィル(現イスラエル・フィル)を初めて指揮
イスラエル・フィル指揮者就任しその後、桂冠指揮者就任以後、終生親密な関係を築く(~1990年まで)
1948年30才、ヨーロッパ演奏旅行でミュンヘン、ミラノ、ブタペスト、ウィーン(ウィーン交響楽団を指揮)、パリ、スケヴェニンゲンで行われた
ローマでチェチーリア音楽院管弦楽団を指揮。カラヤンと初めて会う
9月半ばに米国を発ち、イスラエルを訪問した。10月2日から12月1日まで40回の演奏会を開き、イスラエル・フィルを指揮者してイェルサレム、テルアヴィヴ、ハイファで演奏、さらに有志の楽員35人とネゲヴ砂漠を横断しベールシェバの町で、この町はじまって以来最初の演奏会を開催しモーツァルト、ベートーヴェン、ガーシュウィンの《ラプソディー・イン・ブルー》を指揮と独奏をした。テルアヴィヴの最後の演奏会でマーラー《復活》を指揮
1949年31才、メシアンの《トゥランガリラ交響曲》をボストンで世界初演指揮
4月9日クーセヴィツキーに捧げられた、ピアノと管弦楽のための《交響曲第2番》「不安の時代)」は、クーセヴィツキーの指揮、バーンスタインのソロ・ピアノパートで、ボストン交響楽団により初演された
「不安の時代は」完成までにタオス、フィラデルフィア、マサチューセッツ、リッチモンド、テルアビブ、機内、ホテルロビー、ボストン等で書き続けられ2年かかった
1950年32才、ニューヨーク・フィルとの初録音(交響曲第2番「不安の時代」)。ブロードウエイ・ミュージカル「ピーターパン」初演
1951年33才、バークシャー音楽センター指揮科とオーケストラの主任教授に就任(~1955年まで)
6月タングルウッド管弦楽団指揮者就任
ブランダイス大学指揮科主任教授就任(1956年まで)
9月チリ出身の女優でピアニストのフェリシア・モンテアレグレと結婚
イスラエル・フィル初の国外ツアーとなった北米公演を成功に導く
1952年34才、6月ブランディス大学で一幕オペラ《タヒチの騒動》を指揮して初演。このオペラはのちに改訂され1983年オペラ《静かな場所》」となる
長女ジェイミー誕生
1953年35才、1月ブロードウェイ・ミュージカル《ワンダフル・タウン》初演
9月5日エレアザル・デ・カルヴァリョの招きでブラジル交響楽団を指揮し演奏
12月マリア・カラスの求めで、バーンスタインはアメリカ人指揮者として初めてミラノ・スカラ座の客演指揮に招かれケルビーニのオペラ《メデア》を指揮した
1954年36才、9月《ヴァイオリン独奏、弦楽、ハープと打楽器のためのセレナード(プラトンの<饗宴>による)》ヴァイオリン=アイザック・スターン、バーンスタイン指揮でヴェネツィアで初演
マーロン・ブランド主演の映画「波止場」映画音楽担当が公開
CBSテレビで「オムニバス」の放映を開始
11月18日、バーンスタインはCBSのテレビ・ドキュメンタリー・シリーズ「オムニバス」に出演し、ベートーヴェンの《交響曲第5番》の解説を行った。これが一連の教育番組『青少年コンサート』(Young People’s Concert)の出発点となる
1955年37才、11月付随音《ラーク》初演
音楽担当の映画《波止場》アカデミードラマ・コメディ作曲賞にノミネートされた
長男アレクサンダー誕生
1956年38才、4月CBSテレビと契約。
ミュージカル《キャンディード》初演
1957年39才、10月ニューヨーク・フィルの首席指揮者に、音楽監督であったミトロプーロスと共同就任。ミュージカル《キャンディード》初演。(序曲が有名でテレビ朝日「題名のない音楽会」で佐渡裕が司会に就任した2008年4月~2015年9月まで番組テーマ曲として使われていた。またこの劇中の「Glitter and Be Gay」はコロラトゥーロ・ソプラノに超絶技巧を要求する曲として知られている。初演時は興行成果が悪く短期間で上演を打ち切られ、1989年の改訂版がある。)
8月20年日ミュージカル《ウエストサイド物語》ワシントンD.C.でトライアウト(試験興行)として初演し、9月26日マンハッタンのウィンター・ガーデン・シアターでブロードウェイ初演したがキャストのほとんどは無名の新人であった
(ウエスト・サイド物語はロバート・ワイズ監督で1961年映画化され公開、出演ナタリー・ウッド、リチャード・ベイマー、ジョージ・チャキリス、リタ・モレノなど。)
1958年40才、1月「音楽って何?」でニューヨーク・フィル「ヤング・ピープルズ・コンサート」を担当し、脚本、司会、指揮のすべてを手がけ1973年まで続ける。1962年から始まったテレビ中継でも人気を集める(~1970年まで
アメリカ人指揮者としては史上初めてニューヨーク・フィル音楽監督就任(~1969年まで)。10月2日最初のコンサートはアイヴズ《交響曲第2番》とベートーヴェン《交響曲第7番》
1959年41才、マネジメント会社「アンバーソン」設立
8月ニューヨーク・フィルを率いてヨーローッパ、ソ連演奏ツアーでモスクワ公演を行い、ショスタコーヴィチの《交響曲第5番》の演奏が、来場していた作曲者から絶賛される
1960年42才、8月ニューヨーク・フィルを率いてバンクーバー、コロンビア、ホノルル、西ベルリン各都市に7週間の演奏ツアー
マーラーの生誕100年に際し、マーラー・フェスティヴァルを開催
1961年43才、1月ケネディ大統領就任式のための《ファンファーレ》初演。4月5日ニューヨーク・フィルと副指揮者小澤征爾を伴い来日
し東京文化会館の杮落とし公演を行う
1962年44才、4月1日ブルックナー《交響曲第9番》を、カーネギー・ホールでニューヨーク・フィルを指揮して演奏
9月23日リンカーン・センター内フィルハーモニック・ホールのこけら落とし公演が開催され、バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル以下、アイリーン・ファーレル(S.)他11名の独唱者と3つの合唱団(ニューヨーク・スコラ・カントルム、ジュリアード・コーラス、コロンバス少年合唱団)が出演。会場にはジャクリーヌ・ケネディ臨席のもと、ベートーヴェン《ミサ・ソレムニス-グローリア》、マーラー《交響曲第8番-第1部「来たれ、創造主なる聖霊よ」》、ヴォーン=ウィリアムズ《音楽へのセレナード》、コープランド管弦楽のための《コノテーション》は世界初演等の演奏があった
次女ニーナ誕生
1963年45才、12月10日テル・アヴィヴで、《交響曲第3番》「 カディッシュ」(聖なるものの意)」をイスラエルでソプラノ独唱ジェニー・トゥーレル、イスラエル女優ハンナ・ローヴィナの語りで、イスラエル・フィルにより世界初演された
この楽曲は、前月の11月23日にアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが暗殺されたことを受け「レクイエム」として捧げられた
1964年46才、3月メトロポリタン歌劇場でヴェルディのオペラ《ファルスタッフ》指揮してデビュー
1965年47才、7月合唱曲《チチェスター詩篇》初演
1966年48才、バーンスタインは初めてウィーン・フィルハーモニーの客演指揮に招かれ、ウィーン国立歌劇場でオペラ《ファルスタッフ》を指揮してデビューした
ウィーン・フィルと初の録音を行う。ウィーン・フィルとの良好な関係は終生にわたって続いた
ハーバード大学の「マン・オブ・ザ・イヤ-」に選ばれる
1968年50才、ウィーン国立歌劇場のリヒャルト.シュトラウス《ばらの騎士》で成功を収め、ウィーン・フィルとの結び付きが強まる
ケネディ大統領追悼式でマーラーの交響曲第5番から「アダージェット」を指揮
エジソンクラシック音楽賞を受賞
1969年51才、1月25日、27日ブルックナー《交響曲第9番》をニューヨーク・フィルハーモニック・ホールでニューヨーク・フィルを指揮して演奏
2月4日ブルックナー《交響曲第9番》ノーヴァク版をニューヨーク・フィルを指揮してニューヨーク・フィルハーモニック・ホールでセッション録音(CD:No.SRCR8999)
2月5日ブルックナー《交響曲第9番》ノーヴァク版をニューヨーク・フィルハーモニック・ホールでニューヨーク・フィルを指揮して演奏
5月17日 マーラーの《交響曲第3番》の指揮を最後に、ニューヨーク・フィル音楽監督退任し、終身桂冠指揮者の称号を受ける。バーンスタインがニューヨーク・フィル常任指揮者のポスト辞任を希望した理由は「作曲の時間を取るため」だった
以後、ヨーロッパを中心に活躍。ウィーン・フィル、イスラエル・フィルのほか、コンセルトヘボウ管、バイエルン放送響、フランス国立管などに客演を続け、圧倒的な人気を博する
1970年52才、大阪万博に参加、ニューヨーク・フィルとの二度目の日本ツアーを行う
メトロポリタン歌劇場で《カヴァレリア・ルスティカーナ》指揮
アン・デア・ウィーン劇場で、ベートーヴェン生誕200年を記念して《フィデリオ》上演
タングルウッドの音楽アドヴァイサー就任(~1974年まで)
1971年53才、2月ウィーン・フィルとドイツ、イタリア演奏ツアー
ワシントンのケネディ・センターのオープニングで《歌手と演奏家、踊り手のためのミサ曲》世界初演
1972年54才、ビゼーのオペラ《カルメン》をメトで指揮、同曲をドイツ・グラモフォンでの初の録音を行う(マリリン・ホーン主演/メトロポリタン歌劇場のビゼー《カルメン》)
1973年55才、ハーバード大学客員教授となり公開講座「エリオット・ノートン講座」第1回を行う
1974年56才、ニューヨーク・フィルを率いてニュージランド、オーストラリア、日本(三度目)で演奏ツアー
バレエ《ディバック》作曲
1975年57才、ウィーン・フィルを指揮してザルツブルク音楽祭に初出演
ニューヨーク・フィルを主体にした最初のマーラー交響曲全集を完成
1976年58才、3月27日、30日ブルックナー《交響曲第6番》(ノヴァーク版)を、エイヴリー・フィッシャー・ホールにてニューヨーク・フィルを指揮して演奏(CD:3月27日NYPHIL:NYP2011ライブ録音)
インディアナ州バトラー大学で初の「バーンスタイン音楽祭」開催される
オーストリア、オシアッハで第一回「バーンスタイン・フェスチバル」開催
ミュージカル「ペンシルヴァニア通り1600番地」初演、7日で打ち切り、失敗に終わる。
1977年59才、カーター大統領の就任式で合唱曲《ソングフェスト-6人の歌手とオーケストラのためのアメリカの詩による連作》を指揮して初演
イスラエル・フィルを指揮してグラモフォンに自身の3つの交響曲を録音
政治的序曲《スラヴァ》作曲
1978年60才、6月16日、妻フェリシア・モンテ・アグレレが癌で亡くなる
1979年61才、10月4日・5日にベルリン・フィルと1度限りの共演が行われた。曲目は、マーラーの《交響曲第9番》(1992年に、バーンスタインの没後放送用のライブ録音音源から商品としてリリースされた)。これをバーンスタインの代表作とする熱心な聴き手も今なお多い
ドイツ・グラモフォンに録音したウィーン・フィルとのベートーヴェンの交響曲全集完成
ニューヨーク・フィルとの4度目の日本ツアーを行う
1980年62才、ケネディセンタ-より名誉勲章授与
《オーケストラのためのディヴェルティメン》」作曲、初演
1981年63才、アメリカン・アカデミー・オブ・アーツアンド・レターズの会員に選ばれゴールドメダルを授与された
ピアノ曲《タッチズ》、《コラール、8つの変奏とフーガ》作曲
ミュンヘンでワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》を録音
1982年64才、ロスアンジェルス・フィル芸術監督就任
1983年65才、ローマ法王ヨハネ・パオロ二世よりヴァチカン勲章授与された
歌劇「静かな場所」、ヒューストン歌劇場で初演(ジョン・ド・メイン指揮)
1984年66才、2月ウィーン市より名誉リングを贈られる
《ウェスト・サイド・ストーリー》キリ・テ・カナワ、ホセ・カレーラスを主役に配したドイツ・グラモフォンとの全曲盤を録音
1985年67才、1985年5~6月、マーラー《交響曲第9番》をロイヤル・コンセルトヘボウ管と(ライヴ録音)
5月21日と23日ウィーン国立歌劇場のコンサートでウィーン・フィルを指揮してワーグナーの《ジークフリート》と《ワルキューレ》のそれぞれ第三幕を演奏した
8月6日夜、原爆投下40周年の「広島平和コンサート」でベートーヴェンの序曲《レオノーレ》第3番、自身の《交響曲第3番》「カディッシュ」からインヴォケーション(祈り)、ディンートーラー、スケルツォを広島市中区郵便貯金会館ホールにおいて、ヨーロピアン・コミュニティ・ユース・オーケストラ(ECYO)演奏とバーバラ・ヘンドリックス(S.)、語り:マイケル・ウェーガー、合唱:ウィーン・ジュネス・クワイヤー、京都エコー、大阪少年少女合唱団を指揮
9月3日イスラエル・フィルを率いて来日し、大阪・フェスティバルホールにおいて、マーラー《交響曲第9番》を演奏。
8日と12日は東京NHKホールにおいて、マーラー《交響曲第9番》演奏した。全9公演のうち、マーラーの《交響曲第9番》を演奏したのは4公演であった
マーラー《交響曲第8番》、《交響曲第10番》を除く2度目のマーラーの交響曲全集を、ウィーン・フィル、ニューヨーク・フィル、コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮して完成(後に、1970年代録音の《交響曲第8番》、《交響曲第10番》を加えた全集としてリリースされた)
1986年68才、4月ウィーン国立歌劇場でバーンスタインのオペラ《静かな場所》が上演された。5月ロンドンで初の「バービカン・バーンスタイン・フェスティバル」開催され、 エリザベス二世とフィリップ公が臨席されたコンサートを指揮した
6月にはパリでフランソワ・ミッテラン大統領からレジョン・ドヌール勲章を授与された
1987年69才、北ドイツで1986年に創設され毎年開催される「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン音楽祭」この年にバーンスタインによって設立された「オーケストラ・アカデミー」には、選びぬかれた実力派若手音楽家が集まった。「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン祝祭管弦楽団」は、このアカデミーのメンバーから構成されている
ロンドン交響楽団総裁就任(1990年まで)
ドイツで最も権威のあるジーメンス賞という音楽賞を受けた
1988年70才、4月5日カラヤン宛にバースデー・カードを送る
秋、ウィーンで佐渡裕とともに終演直後の舞台裏にカラヤンを訪ね対面
タングルウッド音楽祭で70歳記念祝賀コンサート。
1989年71才、7月16日パリの演奏会でカラヤンの訃報ニュースに接し、カラヤンのために2分間の黙禱を捧げている
9月16日ウィーン・フィルのカラヤン追悼演奏会を指揮。東西ベルリンでベートーヴェン《交響曲第2番》指揮
ロンドン_交響楽団と《キャンディード》全曲を演奏&録音
12月ベルリンの壁崩壊を受けて、東西ドイツ、アメリカ、ソ連、フランス、イギリスの混成メンバーによるオーケストラを指揮し、ベートーヴェンの《第九》を演奏。「歓喜の歌」の「Freude」を「Freiheit(自由)」に変えて話題を呼ぶ。
1990年72才、2&3月ブルックナー《交響曲第9番》 ニ短調 WAB 109(1894年初稿・ノヴァーク版)ウイーン・フィルを指揮してウィーン、ムジークフェラインザールで演奏(収録)
6月来日し札幌にパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)創設し後進の育成にも力を入れようとしていた。同フェスティヴァル管弦楽団を指揮。
この頃既にバーンスタインは病に冒されていた
8月ロンドン交響楽団を指揮して日本公演を行うも、体調悪化のため途中で帰国
同年8月19日のタングルウッド音楽祭における、ボストン交響楽団との演奏が生涯最後の指揮舞台となった
10月9日指揮活動からの引退を表明
10月14日引退して5日後に肺癌のためニューヨーク市内の自宅で逝去した
10月16日火曜日午前11時からセントラル・パーク・ウエスト「ダコタ・ハウス」二階23号室のリビングと書斎を葬儀場にして、正統派ユダヤ教ラビの祈りで厳かに葬儀がはじめられた。式場にはボストンから飛行機でやってきた92才の母親ジェニーが車いすに乗り娘シャーリー(バーンスタインの妹)が付き添っていた。レナードの弟バートン、彼の二番目の妻ジェインと二人の子供カレンとマイケルがバーンスタインの三人の子供ニーナ、アレクサンダー、ジェイミー、ジェイミーの夫デイヴィット・トーマスと娘フランキーが付き添っていた。ルーカス・フォス、アイザック・スターン等大勢の音楽関係者の姿があった
会葬者につづいて遺族の人々が哀悼の意を述べた。母と妹は悲しみのあまり人々の前で話すことはできなかった
棺はダコタ・ハウスから出、向かい側の歩道に集まった群衆に見送られ霊柩車に運び込まれた
会葬者たちの車はブルックリンにあるグリーンウッド墓地まで、警察による護衛とサイレンを鳴らし交通規制のなかを車列を連ね、秋晴れの好天に恵まれたなか墓地に着いた
カディッシュ(ユダヤ教の祈り)を唱和し、スコップによる棺への土かけの儀式を行った。バーンスタインは12年前に亡くなった妻フェリシアの隣に永遠の眠りについた
高松宮殿下記念世界文化賞受賞
4.主な作品
《交響曲第1番》「エレミア」1942年
《交響曲第2番》「不安の時代」(ピアノと管弦楽のための)(1947年-1949年/1965年改訂)
《交響曲第3番》「カディッシュ」(管弦楽、混声合唱、少年合唱、話者とソプラノ独唱のための)(1963年/1977年改訂)
バレエ《ファンシー・フリー》1944年
ミュージカル『オン・ザ・タウン』(1944年初演)
ミュージカル『ワンダフル・タウン』(1953年初演)
ミュージカル『ウエスト・サイド物語』(1957年初演)
ミュージカル『キャンディード』(1956年初演/1989年最終改訂)
オペラ『タヒチ島の騒動』(1952年)
この作品は後年に大幅な拡大改訂が施され、オペラ『静かな場所』となった。(1983年)
クラリネット・ソナタ(1942年)
5つの子供の歌『私は音楽が嫌い』 (1943年)
合唱曲『チチェスター詩篇』 (1965年)
歌手と演奏家、踊り手のためのミサ曲 (1971年)
合唱曲『ソングフェスト』 (1977年)
前奏曲、フーガとリフ (1949年/1952年改訂)
映画『波止場』の音楽 (1954年)
セレナード (1954年)
バレエ『ディバック』(1974年)
政治的序曲『スラヴァ!』(1977年)
オーケストラのためのディヴェルティメント(1980年)
ハリル (Halil) (1981年)
ピアノ曲『タッチズ』(コラール、8つの変奏とフーガ)(1981年)
アリアとバルカロール(メゾ・ソプラノ、バリトンと4手ピアノのための)(1988年)
<著書>
《音楽のよろこび(The Joy of Music, 1959年)》 吉田秀和訳、音楽之友社、1966年、のち新版
《青少年コンサート(1962年)
《音楽鑑賞の新しい試み》岡野弁訳、全音楽譜出版社、1976年
《音楽の無限の多様性( 1966年)》
《バーンスタイン音楽を語る》岡野弁訳、全音楽譜出版社、1972年、新版1990年、1998年
《答えのない質問(1976年)》 和田旦訳、みすず書房、1978年、新版1991年
《発見( 1982年)》
《バーンスタイン わが音楽的人生》岡野弁訳、作品社、2012年
5.その他
<受賞>
1951年アメリカ芸術科学アカデミー会員
1958年Ditson指揮者賞を受賞
1965年Sonning Award(デンマーク)
1968年にエジソンクラシック音楽賞を受賞
1980年ジョージピーボディメダル–ジョンズホプキンス大学から授与
1986年レジオン・ドヌール指揮官章を授与
1987年エルンスト・フォン・シーメンス音楽賞を受賞
1987年王立フィルハーモニー協会ゴールドメダル(英国)を授与
1987年エドワード・マクダウェル・メダルを授与
1989年ナイト・グランド・クロス勲章(イタリア)を授与
子供向けベストアルバムのグラミー賞を受賞
最優秀オーケストラ演奏賞グラミー賞を受賞
最高の合唱パフォーマンスでグラミー賞を受賞
ベストオペラレコーディンググラミー賞を受賞
クラシックボーカルベストパフォーマンスでグラミー賞を受賞
最優秀インストゥルメンタルソリストパフォーマンスのグラミー賞を受賞
最優秀クラシック現代作曲賞グラミー賞を受賞
ベストクラシックアルバムのグラミー賞を受賞
グラミー生涯功労賞を受賞
トニー賞最優秀ミュージカル賞を受賞
トニー特別賞を受賞
日本芸術協会生涯功労賞を受賞
蓄音機の殿堂入り
<レコーディング>
1976年3月27日ブルックナー《交響曲第6番》(ノヴァーク版)を、エイヴリー・フィッシャー・ホールにてニューヨーク・フィルを指揮して演奏(CD:3月27日NYPHIL:NYP2011ライブ録音)
1990年2&3月ブルックナー《交響曲第9番》 ニ短調 WAB 109(1894年初稿・ノヴァーク版)ウイーン・フィルを指揮してウィーン、ムジークフェラインザールで演奏(収録)
6.初演
1944年1月28日《交響曲第1番》「エレミア」
4月18日バレエ《ファンシー・フリー》
12月28日ミュージカル《オン・ザ・タウン》
1949年11月メシアンの交響曲《トゥランガリーラ》ボストンで世界初演を客演指揮
4月8日《交響曲第2番》「不安の時代」
1950年ミュージカル《ピーターパン》
1952年6月一幕オペラ《タヒチの騒動》(1983年改訂されオペラ《静かな場所》)
1953年1月ミュージカル《ワンダフル・タウン》
1956年ミュージカル《キャンディード》
1957年ミュージカル《ウエスト・サイド物語》
7.関連動画
ウィリアム・シューマン《アメリカ祝典序曲》
海外デビュー、プラハでチェコ・フィル管弦楽団を指揮
1946年5月15日ウィリアム・シューマンの「アメリカ映画祭の序曲」
バーンスタイン《交響曲第2番》「不安の時代」
バーンスタイン / ロンドン交響楽団
クリスチャン・ツィマーマン(Pf.)
1986年5月、ロンドン
Bernstein: Symphony No. 2: The Age of Anxiety
Bernstein / London Symphony Orchestra / Zimerman(Pf.)
バーンスタイン《交響曲第1番》「エレミヤ」<映像なし>
フランス国立放送管弦楽団
Leonard Bernstein《Symphonie n° 1》 「Jeremiah」
Marc Sbar / Orchestre National de l’ORTF
バーンスタイン《交響曲第3番》「カディッシュ」1985年8月11日
バーバラ・ヘンドリックス(S.) / マイケル・ウェイガー(語り)
ウィーナー少年合唱団 / ニーレジュハーザ少年合唱団
EUユース管弦楽団
バーンスタイン指揮 / ウィーン国立歌劇場
Leonard Bernstein《Symphony #3》「Kaddish」
European Community Youth Orchestra, conducted by Leonard Bernstein
soloists: Barbara Hendricks and Michael Wager
Wiener Jeunesse Choir and Nyiregyhaza Boy’s Choir
Recording made at the 11th August 1985 in the Vienna Staatsoper.
バーンスタイン《「ウエスト・サイド・物語」からシンフォニック・ダンス》 1985年9月7日
バーンスタイン指揮 / イスラエル・フィル
大阪・シンフォニーホール
Israel Philharmonic Orchestra
Recorded live at The Symphony Hall, Osaka, 7 September 1985
バーンスタイン《セレナーデ》2009年6月5日
スヴェトリン・ルセフ(Vn.)
チョン・ミョンフン指揮 / フランス放送フィルハーモニー管弦楽団
Bernstein: Serenade for violin solo and Orchestra
vetlin Roussev, violin
Muyng-Whun Chung, conductor
Orchestre Philharmonique de Radio-France
June 5th, 2009. Salle Pleyel
ガーシュウィン《ラプソディー・イン・ブルー》1976年
バーンスタイン(Pf.) / ニューヨーク・フィル
ローヤル アルバート ホール
George Gershwin – Rhapsody in Blue
New York Philharmonic
at the Royal Albert Hall in 1976
青少年コンサート
From the Young People’s Concert : Young Performers No. 3
Mozart モーツァルト: Marriage of Figaro Overture
Seiji Ozawa 小澤 征爾, conductor
New York Philharmonic
ニューヨーク・フィルハーモニック
Beethoven – String Quartet No. 14 in C♯ minor (Bernstein)
Bernstein in Vienna: Beethoven Piano Concerto No. 1 in C Major (1970)
ベートーベン 《交響曲第5番》1976年10月17日
バーンスタイン指揮 / バイエルン放送交響楽団
ミュンヘン
Beethoven Symphony No.5 in C minor, Op. 67
Bavarian Radio Symphony Orchestra
Amnesty International Concert @München, 1976.10.17
ブルックナー《交響曲第6番》《交響曲第9番》音源のみ2曲入り
《交響曲第6番》(ノヴァーク版)を、エイヴリー・フィッシャー・ホールにてニューヨーク・フィルを指揮して演奏(CD:1976年3月27日NYPHIL:NYP2011ライブ録音)
《交響曲第9番》 ニ短調 WAB 109 (1894年初稿・ノヴァーク版) バーンスタイン指揮 / ウイーン・フィル
1990年2&3月ウィーン、ムジークフェラインザール(収録)
Symphonynenn No 6 in A Major (Nowak edition) by Anton BrucknerYork Philharmonic Leonard Bernstein.(56分30秒)
Anton Bruckner Symphony No 9 in D minor Vienna Philharmonic Orchestra Leonard Bernstein.
ブラームス《交響曲第1番》
バーンスタイン指揮 / ウイーン・フィル
Brahms Symphony No. 1
Vienna Philharmonic Orchestra
マーラー《交響曲第6番》
バーンスタイン指揮 / ウイーン・フィル
Gustav Mahler:Symphony No 6 in A minor, Tragic
Wiener Philharmoniker
GUSTAV MAHLER SYMPHONY NR 9 Bernstein
シューマン《交響曲第1番》変ロ長調作品38「春」<映像なし>
バーンスタイン指揮 / ニューヨーク・フィルハーモニック
録音:1960年10月31日 マンハッタン・センター (ニューヨーク)
シューマン《交響曲第3番》変ホ長調作品97「ライン」<映像なし>
バーンスタイン指揮 / ニューヨーク・フィルハーモニック
録音:1960年10月17日 マンハッタン・センター (ニューヨーク)
シベリウス《交響曲第5番)
バーンスタイン指揮 / ウイーン・フィル
Sibelius, Symphonie Nr 5 Es Dur op 82
Wiener Philharmoniker
Bach’s Keyboard Concerto No 1 in D minor (BWV 1052)
Glenn Gould,
青少年コンサート
Leonard Bernstein presents 7-year-old Yo-Yo Ma’s high-profile debut for President John F. Kennedy
バーンスタイン指揮・解説