生没年・出身地・歿地・墓地
モーリス・ラヴェル生誕 Joseph-Maurice Ravel
(1875年3月7日フランス南西部スペイン国境に近いピレネー(バスク)地方シブール村生)
(1937年12月28日パリに歿)
1.職業
フランスの作曲家
2.称号
3.経歴
父ジョセフはスイス出身の発明家兼実業家で母マリーはバスク人
音楽好きな父の影響を受け6才頃からピアノを習う
1882年アンソギースにピアノを学ぶ
1887年シャルル・ルネに作曲の基礎を学ぶ
1889年パリ音楽院予科に入りユジューヌ・アンティオームにピアノで学ぶ
1891年本科に進みシャルル・ド・ベリオにピアノを、エミール・ペサールに和声、アンドレ・ジェダルジュに対位法、ガブリエル・フォーレに作曲法等を師事
1893年頃ピアノ曲「グロテスクなセレナード」作曲
1895年ピアノ曲「古風なメヌエット」・「耳できく風景」の第一曲ハバネラ」作曲
1898年夢幻劇「シェエラザード」序曲作曲
1899年ピアノ曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」作曲(1910年管弦楽曲に編曲)
1901年カンタータ「ミルラ」でローマ大賞3位入賞(1902年、1903年は応募したが入賞ならず)。ピアノ曲「水の戯れ」作曲
1903年歌曲「シェエラザード」作曲、
1905年年齢制限のラストチャンスにローマ大賞への応募をしたが予選で落選となる。既に「亡き王女のためのパヴァーヌ」や「水の戯れ」等の作品を作曲しているラヴェルの予選落ちが大きな波紋を呼び、フォーレ、ロマン・ロラン、批評家らから、この時の本選通過6人全員がパリ音楽院作曲科教授でローマ大賞審査員のシャルル・ルヌヴーであったことから、コンクールの公平性を問われる抗議となり「ラヴェル事件」と発展する。パリ音楽院長が辞職に追い込まれ、後任院長になったフォーレはパリ音楽院の教育改革に乗り出すことになる
1908年父ジョセフの死
1912年ロシア・バレエ団のディアギレフから依頼のバレエ音楽「ダフニスとクロエ」作曲
1914年第一次大戦勃発により空軍に志願するが病弱を理由に不採用となるが、自動車輸送隊の運転手として参戦する
1916年健康優れず除隊
1917年母マリーの死
1921年からパリ郊外のモーフォール・ラモーリに転居し作曲に専念する
1928年アメリカから招かれ渡米、ボストン交響楽団を指揮するなど4カ月の演奏旅行をする。その後は指揮活動にも力を入れ始める。同年イギリスを訪れオックスフォード大学から名誉博士号を受ける
1928年フランスのバレエリーナ、イダ・ルビンシテインのためにバレエ音楽「ボレロ」作曲
1931年第一次大戦で右手を失ったピアニストのP・ヴィトゲンシュタインのために「左手のためのピアノ協奏曲」作曲。
1932年パリでタクシーに乗車中、交通事故に遭い脳に疾患を受け、やがて手指や言語に障害が出るようになる
1937年脳の手術を受けるが失敗する
同年12月生涯を閉じる。独身であったため、また弟にも子が無く、その死とともにラヴェル家は廃絶する
4.主な作品
オペラ「スペインの時(1幕)」・「子どもと魔法(2幕)」、ピアノ曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」・「水の戯れ」・「ソナチネ」・「鏡」・「夜のガスパール」・「ハイドンの名によるメヌエット」・「前奏曲イ短調」・「クープランの墓」・「パレード」、管弦楽曲「スペイン狂詩曲」・「シェエラザード序曲」、バレエ音楽「ラ・ヴァルス」・「マ・メール・ロワ」・「ボレロ」、「左手のためのピアノ協奏曲」、「ピアノ協奏曲ト長調」、管弦楽編曲「マ・メール・ロワ(編曲)」・「古風なメヌエット(編曲)」・「クープランの墓](編曲)」・「展覧会の絵」・「レ・シルフィード」・「牧人の午後への前奏曲」など
5.その他
6.初演
7.関連動画
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