1963年海外へ1970年サンフランシスコ響音楽監督就任まで
1963年(昭和38年)28歳
・1月15日<小澤征爾の音楽を聴く会>で日本フィルを指揮
開催発起人には、山本健吉・中島健蔵・谷川俊太郎・浅利慶太・石原慎太郎・井上靖・大江健三郎・三島由紀夫・武満徹・團伊玖磨・黛敏郎・一柳慧等、音楽に関係のない人たちも大勢いた。演奏は日本フィルハーモニー交響楽団。ヨーロッパ行きで世話になった水野成夫が作ったオーケストラだった。
征爾は言う『苦境を支えてくれたこの人たちのことを、僕は一生忘れない』
1月16日の朝日新聞朝刊は三島由紀夫の「熱狂にこたえる道ー小澤征爾の音楽を聴いて」を寄稿し注目を集めた。
『最近、外来演奏家にもなれっこになり、ぜいたくになった聴衆が、こんなにも熱狂し、こんなにも興奮と感激のあらしをまきおこした音楽会はなかった。正に江戸っ子の判官びいきが、成人の日の日比谷公会堂に結集した感がある。~略~、日本的なしがらみの中でかつ生きつつ、西洋音楽へ夢を寄せてきた人々の、その夢が多少まちがっていても、小澤氏もまた、彼らの夢に雅量を持ち、この音楽という世界共通の言語にたずさわりながら、人の心という最も通じにくいものにも精通する、真の達人となる日を、私は祈っている。』
1月17日に音楽評論家/吉田秀和や黛敏郎等の仲介により、NHK副理事長の阿部真之助と小澤が会談し、NHKと和解成立したが、のちに小澤は胸中を『精神的には滅茶苦茶にやられた。泣いたし、悔しかった。苦境を支えてくれたこの人たちのことを、ぼくは一生忘れない』と述べている
さらに「あの時は『もう俺は日本で音楽をするのはやめよう』と思った」と語っている。
次にN響の指揮台に立つのは32年3ヶ月後、1995年1月のことであった。征爾は後年、N響とのトラブルが刺激になってよく勉強したとも述懐している。
・日本フィル首席指揮者就任。
・渡米
・4月サンフランシスコ交響楽団ジョセフ・クリップス の代役指揮を果たし成功を収めた
・7月コロンビア・アーティスト・マネジメントとマネジメント契約
・7月7日アメリカのTV番組「What’s My Line?」出演した。4人のパネリストがゲストの職業や有名人の場合は名前を当てる人気のゲーム番組「What’s My Line?」で、小澤征爾がボードの前に立った。通常、パネリストは有名人の名前を当てる際は目隠しをする。しかし、征爾のパネリストは目隠しをしていなかった。その時点ではまだ、征爾は比較的無名だと考えられていたようだ。
アメリカの最も著名な舞台のいくつかで指揮をし、カラヤンやバーンスタインのような巨匠に師事していたにもかかわらず、この認識の欠如は起った。征爾は25歳の若さで、現在のタングルウッド音楽センターで優秀な学生指揮者に与えられるクーセヴィツキー賞を受賞し、その1年後の1961年にカーネギーホールでアメリカでの指揮者としてデビューした。
パネリストには、ピーター、ポール&マリーやウディ・アレン等が並んで質問を英語でし、征爾は通訳なしで受け答えをしなければならず、時々詰まったときは司会者がアドバイスをした
↓ What’s My Line? – Seiji Ozawa (1963, TV Show)>
・7月9-10日ニューヨーク・フィルの公演を指揮
・7月16,18日〈ラヴィニア音楽祭〉に急遽出演し、シカゴ交響楽団を指揮
シカゴ交響楽団ラヴィニア音楽祭指揮者ジョルジュ・プレートルの急遽代役を依頼され、2公演の指揮で成功を収めた
急病のジョルジュ・プレートルの代役として、シカゴ交響楽団ラヴィニア音楽祭で直前に2公演の指揮出演を依頼され成功を収めた。2か月後には翌1964年の同音楽祭の音楽監督に任命された。これを機に1970年以降はラヴィニア音楽祭を中心に、オーケストラ・ホールも含めてシカゴ交響楽団に複数回客演した。
・半年ほどたった7月のある日、ウィルフォードから「すぐ来い」と電話がかかってきた。カーネギーホールの前にある事務所に行くと、シカゴ交響楽団ラヴィニア音楽会長のアール・ラドキンがいた。
ラヴィニア音楽祭でシカゴ交響楽団を振る予定だったジョルジュ・プレートルが肩を痛めたので、代わりに指揮をしろという。本番は数日後だ。
「ほかに誰もいないから、しょうがない」。英語はよく分からなかったが、ラドキンがそう話しているのは理解できた。プレートルの降板が決まり、困ったラドキンはウィルフォードに代役の手配を頼んだらしい。ところが推薦されたのはオザワという無名の日本人。
「日本人なんてやめてくれ」と何度も断ったが、ウィルフォードは引き下がらない。それで仕方なく承知した、そんな様子だった。
事情は何であれ、とにかく時間がない。2日後にはシカゴで練習が始まるのだ。曲目はグリーグのピアノ協奏曲、ドヴォルジャークの「新世界より」、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲など。だけど楽譜がない。レニー(レナード)・バーンスタインのスタジオに駆け込んだ。不在のレニーに代わって秘書のヘレンに鍵を開けてもらい、楽譜棚から借りてしゃかりきになって勉強した。
ラヴィニアで何とか無事2回の音楽会を終えた後、盛大なパーティーが開かれた。ラドキンが笑顔で何やら話しかけてくる。
「君にこの音楽祭をあげよう」そう言ったらしい。が、英語が聞き取れないのでよく確かめずにいた。
その後、オランダの音楽祭で指揮している時(レニーがくれた仕事だ)、ウィルフォードから電話がかかってきた。「何をしてるんだ? ラドキンが君をラヴィニアの音楽監督にすると言ったらしいじゃないか。記者発表があるから、すぐ戻って来い」。パーティーでそう言われていたのに、分かっていなかったのだ。情けない。ともあれ僕は翌1964年6月から、ラヴィニア音楽祭の音楽監督に就任することになった。』
この演奏会を聴いたシカゴ・トリビューンのトーマス・ウィリス は、小澤について『指揮棒と音楽のアイデアを手にすると、すぐに指揮者を操る。彼の指揮テクニックは、透明な身振りと人間的なコミュニケーションで楽譜をオーケストラの膝の上に置き、受け入れさせるという点で、師であるヘルベルト・フォン・カラヤンを彷彿とさせる』と評した。
わずか1か月後、1959年以来音楽監督を務めてきたワルター・ヘンドルの後任として、小澤が1964年シーズンからラヴィニア音楽祭の初代音楽監督兼常任指揮者となることが発表された。1964年6月16日の音楽監督としての初コンサートで、小澤はオーケストラを指揮してベートーヴェンの「 エグモント 序曲」、ジョン・ブラウニングとの共演によるバーバーのピアノ協奏曲、ベルリオーズの 幻想交響曲を指揮する。
・8月16日ボストン交響楽団客演指揮デビュー
・8月29‐9月22日<ニューヨーク・フィル米国内ツアー>に帯同しニューヨーク・フィルを指揮
29日(A・B)ハリウッド、9月5日デンバー、6日ミルウォーキー、8日(A・B)シカゴ、12日デトロイト、15日ピッツバーグ、16日フィラデルフィア、19日ペンシルベニア(レディング)、20日ボルチモア、22日ワシントン
・帰国
・翌年6月からボストン交響楽団ラヴィニア音楽祭音楽監督に任命される
・10月音楽部門のアドバイザーをやっている東京・日生劇場こけら落としに際して帰国。
・10月20日日生劇場でのベルリンドイツ・オペラ公演、ベートーヴェン:歌劇《フィデリオ》でカール・ベームの副指揮者を務めた
・11月10日日生劇場でベルリン・ドイツオペラ管弦楽団を指揮
↓
お座征爾物語 シリーズ12-1963年演奏会記録
1963年演奏会記録
1964年(昭和39年)29歳
・1月7日トロント交響楽団客演指揮者デビュー。マッシーホールの聴衆から十数分のカーテンコールを受けブラボーが続いた。
武満徹《弦楽のためのレクイエム》
プロコフィエフ《交響曲第5番》
チャイコフスキー《交響曲第5番》
・小澤は1965年9月から1969年6月まで同管弦楽団の4代目音楽監督を務めた間、210回のコンサートを指揮し、カナダ、米国、極東でオーケストラをツアーし、1968年にはメシアンの「トゥーランガリラ」を録音した。征爾は1970年から1996年まで客員指揮者としてトロント交響楽団に戻り、マッセイホール、オンタリオプレイス、ロイトムソンホールで22回のコンサートを指揮した。
・『若い指揮者がステージに登場したとき、その若さ、内気さ、そして華奢な体格に圧倒された。そして指揮台に上がり、魔法をかけた。バレエダンサーのような優雅さと、詩情と精密さを融合させたスティック奏法を持つ若者がそこにいた。そして、そこには熱気があった。TSO の音楽家たちは、何年も見せていなかったエネルギーと熱意で応えた。プロコフィエフとチャイコフスキーのどちらも、由緒あるマッシー ホールを揺さぶる興奮を生み出した。
こんなに活気に満ちた音楽作りを見るのはワクワクしました。小澤はトロントで旋風を巻き起こし、数か月後には爽快な幻想交響曲で第一印象を固めました。ほぼすぐに、彼はトロント交響楽団の音楽監督に就任しました。これが彼にとって初めてのオーケストラです。その後2年間、私は自分の仕事でトロントを離れるまで、できる限り小澤のコンサートに通いました。しかし、私は彼が年月とともに成長していくのを見るのが楽しく、できる限り彼のコンサートやオペラ公演を観るようにしていました。』
・一時帰国、アマチュアオーケストラの諏訪交響楽団を指揮
『1月半ば、夜遅くニューヨークから羽田に着き、川崎のおやじの家で数時間コタツで眠り、次の朝早く成城中学時代の恩師今井信雄先生と新宿で落合い、信州上諏訪まで1泊旅行した。今井先生にすすめられてこの夜、アマチュアオーケストラ、諏訪交響楽団を指揮することになっていた。会場にかけつけると、もう練習をやっていた。紹介され、ぼくはステージに立って《第五》の練習に入った。楽員は老若男女ごちゃまぜで、長野市その他からの応援も加えて50人くらいはいたろう。技術的には難があったが、その熱っぽい音楽への情熱にひきつけられて、ぼくもつい夢中になっちまった。2時間の予定が5時間にものびて、全員くたくたわずか1時間の休憩をおいて、すぐ演奏会に入ったわけだから、アメリカから飛んできて時差にやられているぼくなどは、口もきけんほどくたびれはてた。その熱っぽい音楽夜、ぼくは宿てうまい日本酒をのみなから、素人とやったこの音楽に大きな満足感を枝にことについて考えてみた。』
・2月日本フィル楽団参与に就任
・4月24日日本フィル 第83回東京定期演奏会を指揮
・5月15日日本フィル 第84回東京定期演奏会を指揮
・6月16日ー8月4日ラヴィニア音楽祭 初代音楽監督として指揮
6月16日,18日,30日,7月7日,21日,25日,28日,8月1日,4日
・6月シカゴ交響楽団(指揮者はジャン・マルティノン)によるラヴィニア音楽祭の指揮者が急病により辞退を受け急遽、ニューヨークにいた征爾が開催数日前に招聘され夏の間、シカゴ交響楽団のラヴィニア音楽祭音楽監督に就任(1968年まで)した。
音楽監督として音楽祭を成功に収め、小澤の名声は全米に知れ渡った。
『僕は64年6月、ラヴィニア音楽祭初代音楽監督に就任した。最初の年は指揮するたび、地元の有力紙「シカゴ・トリビューン」が僕のことを徹底的にやっつけた。「ラドキンはどうしてこんなのを雇ったのか」「シカゴ響のような偉大なオーケストラがなぜこんな指揮者の下で演奏しなければならないのか」。
中には人種差別めいた批評もあって、頭に来た。
その夏の最後の音楽会。演奏が終わり、舞台袖に下がった後、客席からの拍手で呼び戻された。舞台に出ていくと、トロンボーンも、ティンパニも、トランペットも、弦楽器もてんでばらばら、めちゃくちゃな音を鳴らし始める。何が何だか分からない。「シャワー」といって、僕への祝福だった。
「シカゴ・トリビューン」への抗議を込めたものらしい、と後で分かった。オーケストラが精いっぱい僕に味方してくれたのだ。「シャワー」を経験したのは生涯で後にも先にもこの1度きりだ。その年から69年まで、僕は毎夏ラヴィニアで指揮することになる。』
・シカゴ交響楽団とRCAレーベル、EMIレーベルに複数の録音
・8月4,5,6日ニューヨーク・フィルを指揮
・8月15,16日タングルウッドでボストン交響楽団デビュー
プログラムにはビゼー《ハ長調交響曲》、ヒンデミット《画家マティス》、ムソルグスキー《展覧会の絵》。彼は1965年、1966年、1967年の夏のシーズン中に再出演を果たした。
・9月8日日本フィル第88回東京定期演奏会を指揮
・9月から翌1965年4月までの間、バーンスタインの長期休暇によりニューヨーク・フィルの指揮者を務める
・10月8日-11月28日日本フィル第1回北米公演に小澤は現地で合流し指揮をした
リンカーン・センター(ニューヨーク)をはじめ、31都市で34公演のうち小澤は5公演を指揮した。
渡邉曉雄、奥田道昭、江藤俊哉のほか、アイザック・スターンも出演。ニューヨーク・タイムズは「世界に通じる専門家のグル一プ」と絶賛さる大成功を収めた。
のちに、征爾は日本フィルの(1968年8月19日-1972年6月)ミュージカル・アドバイザー兼首席指揮者として創設期の日本フィルに貢献する
・12月22,23,24日日本フィルを指揮
ベートーヴェン《交響曲第九番》
中沢 桂,木村宏子,宮原卓也,中山悌一と共演
↓
小澤征爾物語 シリーズ‐13‐1964年演奏会記録
1964年演奏会記録
1965年(昭和40年)30歳
・3月ロンドン響と録音
・3月18日ニューヨークフィル「学生コンサート」を指揮
https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/3eeb091d-33e8-4701-b461-c4bb411532f8-0.1/fullview#page/1/mode/2up
・3月19,20,21日ニューヨーク・フィルを指揮
https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/3eeb091d-33e8-4701-b461-c4bb411532f8-0.1/fullview#page/2/mode/2up
・3月29日ニューヨーク・フィル「年金基金慈善コンサート」を指揮
https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/d4ce467b-8607-4538-acfa-73bd7a637f64-0.1/fullview#page/1/mode/2up
・5月17,24日コロンビア室内管弦楽団を指揮して録音
・6月15日ー7月20日ラヴィニア音楽祭を指揮
6月15,17,19,20,22,27,29日7月1,3,4,11,15,18,20,31日
・6月23日シカゴ交響楽団を指揮して録音
・7月24,25日ボストン交響楽団を指揮
・8月17,18,20,21日ニューヨーク・フィルを指揮
https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/ca16f05d-17ad-44f4-a62b-d92f8d78af6b-0.1/fullview
https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/ca16f05d-17ad-44f4-a62b-d92f8d78af6b-0.1/fullview
https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/ca16f05d-17ad-44f4-a62b-d92f8d78af6b-0.1/fullview
・9月トロント交響楽団常任指揮者・音楽監督に就任(1965年9月-1969年6月)
この年、トロント交響楽団は、ワルター・サスキントンの後任として小澤征爾を同楽団史上四人目の音楽監督に任命し、大成功を収める。小澤は、生涯の師であるバーンスタインの下、ニューヨーク・フィルで二度目の副指揮者としての任期を終えたばかりだった。
・アメリカのオーケストラの音楽監督は、選曲から楽員人事指導から、楽団運営のすべてを管理し、管理者としての決定をやらねばならなかった。指揮や事前のスコアチェックからやるとなると、大変な激務である
(小澤は1965年9月から1969年6月まで同管弦楽団の4代目音楽監督を務めた間、210回のコンサートを指揮した。カナダ、米国、極東でオーケストラをツアーを行い、1968年にはメシアンの《トゥーランガリラ》を録音した。征爾は1970年から1996年まで客演指揮者としてトロント交響楽団に戻り、マッセイホール、オンタリオプレイス、ロイトムソンホールで22回のコンサートを指揮した。)
・『僕は9月、トロント交響楽団の音楽監督に就任した。僕がラヴィニア音楽祭で指揮するのを聴いたトロント響のマネージャー、ウォルター・ハンバーガーが僕のマネージャー、ロナルド・ウィルフォードに打診したのだ。だが障害があった。どうやらレニー(レナード)・バーンスタインが反対しているらしい。
「一緒に説得しよう」と言うウィルフォードと一緒にレニーの家へ行くと、やはりいい顔はしていない。
「セイジはニューヨークに居て、良いオーケストラだけ指揮するべきだ」という。その頃のトロント響は今ほど有名じゃなかった。「いや、今の僕にはレパートリーを作ることが必要なんだ」。僕には全然レパートリーが足りない。マーラーの交響曲全曲演奏もやってみたい。必死で頼んで、渋々OKしてもらえた。
トロント響での経験は思った以上に役立った。音楽監督はただ指揮するだけじゃなくて曲や客演指揮者の選定、人事までやる。楽員を辞めさせることだってある。オーケストラがどういうものだか分かって、すごく勉強になった。』
・小澤は1990年代にグローブ・アンド・メール紙にトロント交響楽団の演奏者数名で構成されていたCBCグループについて以下のように言及している『私が着任したのは、CBC交響楽団とトロント交響楽団が合併した直後でした。私にとっても演奏者にとってもすべて新鮮でした。』
・小澤とトロント交響楽団はこの年、カナダ代表としてコモンウェルス芸術祭にスコットランドのグラスゴー訪れ、また、トロント市庁舎新館のグランドオープンで演奏した。
・この年は、サスキントンがオーケストラとの10年間の付き合いを終えて辞任したとき、運勢はすでに好転し始めていたという。カナダ・オペラ・カンパニーとの新しい協力協定により、晩夏から初秋の雇用が決まり、この取り決めは、1976年まで続いた。小澤征爾が任命されると、購読料は劇的に増加したという。
・以下は、ポール・ロビンソン(By Paul Robinson)によるトロント交響楽団就任後の小澤征爾についてである。
『1965年、小澤はウォルター・サスキンドの後任としてトロント交響楽団の音楽監督に就任した。
当時、小澤は英語をほとんど話せなかったが、身振りやボディランゲージで非常に力強くコミュニケーションをとっていたため、ほとんど問題にはならなかった。
確かに、トロントでほとんどのレパートリーを学んでいたが、一生懸命に勉強し、習得も早かった。彼はマーラーの交響曲を学び始め、トロントで第4番と第9番を指揮した。
もちろん、後にマーラーの交響曲をすべて指揮することになる。また、メシアンの難解で有名な《トゥーランガリラ》も指揮し、トロント交響楽団と録音した。
同胞で同時代人であった武満徹の音楽を支持し、武満徹の作品を多くトロント交響楽団と録音した。トロントでは、チャールズ・アイヴズの悪魔のような交響曲第4番などとともに、ベルリオーズの主要作品のほとんどを初めて指揮した。ヴェルディの《リゴレット》をルイ・キリコを主役に迎えて初めてオペラ全曲を指揮した。
小澤氏は、ルービンシュタイン氏との食事ほどおいしい食事は食べたことがないと語った。(TSO 提供)
トロント滞在中、この若き指揮者はピアニストのアーサー・ルービンシュタインと親交を深めた。ルービンシュタインは小澤とトロント交響楽団の客人として頻繁に来ていた。ルービンシュタインは小澤をツアー指揮者に招いた。小澤は、ルービンシュタインと分かち合った食事ほどおいしいものは食べたことがなく、イタリア産ベルモット酒のプント・エ・メス・カルパノを紹介してもらったことを思い出す。
しかし、小澤がトロントに長く留まらないことは誰もが知っていた。彼はすぐにサンフランシスコ交響楽団に、そしてラヴィニアのシカゴ交響楽団に引き抜かれた。その後ボストン交響楽団に移り、1973年に音楽監督に就任した。彼が自分に課す要求と、演奏者のパフォーマンスに対する期待は、非常に高い。
すべてのコンサートは「イベント」であり、すべてのリハーサルは「ハプニング」である。彼のスティックのテクニックは、演奏者にとって夢のようである。彼は、明瞭でわかりやすいリズムを持つバレエダンサーである。彼の優雅さと華麗さは、それ自体が芸術作品である。彼は、スコアなしで完璧に指揮する。彼は、リハーサルで定められたキュー、拍子の変更、音楽の微妙なニュアンスを決して逃さない。完璧さと一貫性、そして彼の個人的な活力は、音楽における彼の特徴である。』
・9月23日-10月6日英連邦芸術祭にトロント交響楽団を率いて参加
23日グラスゴー、25日リヴァプール、27日ロンドン、29日カーディフ、10月1日ロンドン、3,4日パリ、6日リヨン
小澤征爾 トロント交響楽団
↓ 10月1日
モーツァルト:歌劇《後宮からの誘拐》序曲[00:10-]
チャイコフスキー《交響曲第5番》
小澤征爾 トロント交響楽団
1965年10月1日 ロンドン、ロイヤル・フェスティバルホール(プロムスより)
・11月1-4日トロント交響楽団を指揮
1日サドベリー、2日スー・セント・マリー、3日フォート・ウィリアム、4日ウィニペグ
・11月7日シカゴ交響楽団を指揮して録音
↓ 12月8日ロンドン交響楽団を指揮して録音
チャイコフスキー《ヴァイオリン協奏曲》
エリック・フリードマン(ヴァイオリン)
小澤征爾 ロンドン交響楽団
1965年12月8日ロンドン ウォルサムストウ・アセンブリー・ホールで録音(RCA)
・12月22,23,24日ベートーヴェン《第九》東京文化会館で日本フィルを指揮
・12月25日ベートーヴェン《第九》日本武道館で日本フィルを指揮
・小澤は両親をトロントに招んだ。父開作にとっては、昔の中国以来の海外であった。
・『しばらくして、おやじとおふくろをトロントに招待したら、出発前におやじがとんでもないことを言い出した。「ベトナム戦争はやめさせねばならん。二度と東洋人同士を戦わせてはいかん。アメリカにも行って、一番話が通じそうなロバート・ケネディに俺の意見を伝えたい」。相手は元アメリカ大統領、故ジョン・F・ケネディの弟で上院議員だ。会おうにもツテがない。
結局、僕の友人の浅利慶太さんが中曽根康弘さんを紹介してくれた。目黒の雅叙園で中曽根さん、浅利さん、僕とおやじで会い、中曽根さんに紹介状を書いてもらった。ケネディとワシントンで会う前の夜。僕たちが泊まっているホテルに先方の通訳の男性が来た。日本語がペラペラで、サンフランシスコ講和会議でも公式通訳を務めたという。その夜はホテルで酒を飲みながら、2時間ほどかけておやじの意見を聞いてくれた。おかげで実際にロバート・ケネディに会った時にはすんなり話が運んだ。おやじの主張は「日中戦争の経緯に照らしても、民衆を敵にしてしまったこの戦争は勝てない。アメリカは武力で勝とうとするのではなくて、発電や土木の技術とか、文明の面で優れているところを共産主義国に見せるべきだ」というものだった。15分か20分の約束だったのをケネディが倍くらいに延ばして、じっくり話を聞いてくれたのでおやじは大喜びだった。』
・母さくらは語る『征爾も初めて私たちを連れて来たので、みんなに紹介したかったんでしょうね。ある日私に、”家でパーティやっていいか"と征爾が言うので"いいわよ"と言うと、征爾はすぐに電話で三十人ほどに声をかけたら、全員が来るという返事。そこで私たち三人で買い物に行き、天ぷらの材料とかお酒などをいろいろ買ってきました。私が和服に割烹着をつけて天ぷらをあげてるところにお客さんがやってきて、"セイジのお母さん!"と派手に抱きついたり大変でした。征爾は一人でお客さんのお酒の注文やおかわりをサービスしてとてもうれしそうでした。』
・『トロントでの仕事はまずまずだったが、私生活は立ちゆかなくなっていた。結婚した江戸京子ちゃんはピアニスト。どちらかが音楽の勉強をしている時、もう一方は勉強に集中できない。「音楽家同士の結婚は難しい」と誰かに言われたことがあった。確かにその通りだった。海外に居る間はいつも別居。結婚当初からうまくいかなかった。最後にはうちのおやじと京子ちゃんのおやじの江戸英雄さん、仲人の井上靖さんの話し合いになった。そこに僕が呼び出されて、最終的に離婚が決まる。でも離婚後も江戸英雄さんは僕のことを「息子だ」と言って、亡くなるまでかわいがってくれ、京子ちゃんとも後に良い友人に戻れた。』
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1965年演奏会記録
1965年演奏会記録
1966年(昭和41年)31歳
・1月1日ロンドン交響楽団を指揮して録音
↓ チャイコフスキー《ヴァイオリン協奏曲》
エリック・フリードマン(ヴァイオリン)
小澤征爾 ロンドン交響楽団
・1月10-13日トロント交響楽団を指揮(4公演)
1月10日キングストン、11,12日モントリオール、13日オタワ
・3月28日-4月2日シカゴ交響楽団を指揮(4公演)
3月28日ミルウォーキー、3月31日,4月1,2日オーケストラ・ホール
・帰国
・4月20日日本フィル第119回東京定期演奏会を指揮
オネゲル《火刑台上のジャンヌ・ダルク》戸田敏子(アルト)他と共演
東京文化会館
・5月1,2,4日〈オーケストラル・スペース1966〉読売日本交響楽団を指揮(日生劇場)
オーケストラル・スペース1966〉の舞台が日生劇場となったのは、音楽祭企画者の武満徹と日生劇場音楽プロデューサー小澤征爾の盟友関係が理由と思われる。
『武満徹さんの曲「蝕(エクリプス)」を1966年、日生劇場で初めて聴いた時は寒気がするほど感動した。琵琶と尺八が語り合い、叫び合う。日本の「間」や東洋の静けさがあった。その後、アメリカに戻った僕はレニー(レナード) ・バーンスタインにいかにそれが素晴らしかったかを説いた。レニーはその頃ニューヨーク・フィルハーモニックの創立125周年を記念し、黛敏郎さんに曲を委嘱しようとしていたらしい。だが、僕の話を聞いて武満さんに決め、初演の指揮を僕に任せた。黛さんには悪いことをしたが、それで生まれたのが琵琶と尺八とオーケストラのための「ノヴェンバー・ステップス」だ。』
・6月7日オネゲル《火刑台上のジャンヌ・ダルク》ロンドン交響楽団と録音
・6月ウィーン響を指揮して、ウィーンおよびムジークフェラインにデビュー
・6月28日-8月13日ラヴィニア音楽祭シカゴ交響楽団を指揮
6月28日,30日,7月7日,10,24,26,28,31日,8月11日,13日
・7月22日ボストン交響楽団を指揮
↓ 7月26日ラヴィニア音楽祭シカゴ交響楽団
チャイコフスキー《イタリア奇想曲》
↓ 8月11日ラヴィニア音楽祭シカゴ交響楽団
36分33秒から小澤征爾指揮 – チャイコフスキー《 イタリア奇想曲》
00:00 – ラヴィニアの音
01:10 – ラヴィニア入門
02:16 – バック・ポーチ・マジョリティ(「Where Will You Be?」)
04:12 – バック・ポーチ・マジョリティ(「Second-Hand Man」)
06:51 – バック・ポーチ・マジョリティ(「This Train」)
08:47 – ラヴィニアの歴史(オペラ)
09:13 – ロバータ・ピーターズ・シカゴ交響楽団(モーツァルト:「Deh vieni non tardar」)
ヨーゼフ・クリップス(指揮)
12:32 – ラヴィニアの歴史(ジャズ)
14:27 – ラムゼイ・ルイス・トリオ
16:31 – ラムゼイ・ルイス・トリオ
17:57 – ラムゼイ・ルイス・トリオ
20:07 – ラムゼイ・ルイス・トリオ
25:13 – ナンシー・ウィルソン(「Getting to Know You」)
27:43 – ナンシー・ウィルソン(「モア」[モンド・ケーンのテーマ])
30:48 – ナンシー・ウィルソン(「アイヴ・ゴット・ユア・ナンバー」)
32:59 – ナンシー・ウィルソン(「ハウ・グラッド・アイ・アム」)
36:08 – ラヴィニアの歴史(シカゴ交響楽団)
36:33 – 小澤征爾 • シカゴ交響楽団:チャイコフスキー《 イタリア奇想曲》
53:30 – Credits
・8月8日ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮してデビュー
・8月24,25日ロンドン交響楽団を指揮して録音
・8月京子夫人(江戸)離婚
・9月21,22,23日ベルリン・フィル定期演奏会デビュー
・10月18日-11月4日トロント交響楽団を指揮
10月18日キッチナー,19日オタワ,31日ピーターボロ,11月2日イーストランシング,3日アナーバー,4日デトロイト
・11月13日モントリオール交響楽団を指揮して録音
・12月1,3日トロント交響楽団を指揮して録音(トロント、マッセイ・ホール)
・12月26日日本フィル第131回定期演奏会を指揮
・ある時、小澤征爾はインタビューに応え語っている『僕は、ちゃんと勉強して自分のやり方でやれば通るだろうという変な自信というか、斎藤(秀雄)先生に教わったことがポケットにあるんです。ベルリン・フィルに行っても、ウィーン・フィルに行っても、そのポケットから出して使えば通用すると思ってやってましたからね。それが、まあ、支えでもあったわけですよ。』
↓レスピーギ:交響詩「ローマの松」Ⅳ:アッピア街道の松
【指揮】小澤征爾 Seiji OZAWA. Canada Toronto Symphony
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1966年演奏会記録
1966年演奏会記録
1967年(昭和42年)32歳
・1月16-26日トロント交響楽団を率いてフロリダツアーを指揮
1月16,17日マイアミ,18日フォートローダーデール,19日ネイプルズ,20日フォートマイヤーズ,21日オカラ,23日オーランド,24日ジャクソンビル,25日クリアウォーター,26日セント・ピーターズバーグ
・2月3日フィラデルフィア管弦楽団を指揮
ドニゼッティ《アンナ・ボレーナ》より「アル・ドルチェ・ガイドミ」
ドニゼッティ《ロベルト・デヴリュー》より「ヴィヴィ・イングラート」
モンセラート・カバリエ
プッチーニ《トゥーランドット》より「誰も寝てはならぬ」17分46秒から
ジャンフランコ・チェッケレ
ヴェルディ《仮面舞踏会》より「永久に君を失えば」
ヴェルディ《アイーダ》より「さらばこの世よ涙の谷よ」
モンセラート・カバリエ、ジャンフランコ・チェッケーレ
小澤征爾 フィラデルフィア管弦楽団
・3月2日-5月6日トロント交響楽団を指揮
3月2日トロント,4月2日ワシントン,3日ウィルクス・バリ,4日ニューヨーク・ライ,5,6日ニューヨーク,5月5日オタワ,6日モントリオール
・3月2日トロントでトロント交響楽団を指揮、この演奏は後に CBC テレビで放送された。
https://acrobat.adobe.com/id/urn:aaid:sc:AP:7388c083-b72f-4a1d-b80c-10ab48522594?fbclid=IwY2xjawIoxj9leHRuA2FlbQIxMQABHRyenuZpHiFewxVGhlM58lajhsTILKSECKpDOQWTZvl-0dWXadqP-IGMag_aem_454F-iF_Vwya9ebJbW7pEA
・3月19日創設されたザルツブルク復活祭音楽祭でワーグナー:楽劇《ワルキューレ》でカラヤンのアシスタントを務めた。
この年、カラヤンは、ザルツブルク復活祭音楽祭を創設し、この音楽祭での演目はワーグナーの楽劇《ワルキューレ》であった。小澤征爾はカラヤンのアシスタントを務めオペラを勉強した。演奏ではベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が出演した。ベルリン・フィルは当時、コンサートのみで演奏していた。この音楽祭でオペラ管弦楽団としてその後名を馳せた。
・ザルツブルク復活祭音楽祭は、1957年よりカラヤンが芸術監督を務めていた夏のザルツブルク音楽祭を補完するものとして開催された。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は伝統的に夏の音楽祭の栄誉ある地位を占めており、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が初めてこの音楽祭で演奏したのは1957年で、カラヤンの招聘によるものであった。カラヤンが当初重点的に演奏したのはワーグナーの作品であったが、同時期に開催されていた近隣のバイロイト音楽祭との紳士協定により、夏のザルツブルクではこの作品は避けられていた。
・4月6日付けNYタイムズ紙記事から
『音楽:トロントから、小澤征爾がカーネギーホールでオーケストラを指揮』
『細身のバネのような体の小澤征爾氏が昨夜カーネギーホールで音楽監督をしているトロント交響楽団を指揮した。「the Inter- national Festival of Visiting」の一環として出演した。30歳の日本人指揮者は1965年に同楽団の指揮者となった。トロント交響楽団は、これまで主要なオーケストラの一つとはみなされておらず、地方のオーケストラという評判だった。ある意味では確かにその通りだ。ソロ演奏は必ずしも主要オーケストラのソリストに見られるような圧倒的な自信に満ちているわけではなく、アンサンブルも正確さの模範とはなっていない。しかし、ヴァイオリンは甘く澄んだ音色を奏で、オーケストラのメンバー全員が献身と情熱を込めて演奏している。
若く情熱的な小澤氏は、トロント交響楽団を最高の地位へと押し上げたと言える。彼は計り知れない才能の持ち主で、決断力のある指揮者であり、センスの鋭さと推進力のあるリズム感、そして計算されたショーマンシップとは対照的に、自然な演出力を備えています。
彼の指揮は生き生きとしており、彼が犯すミスは正しいミスだ。彼は時に無謀なところもあるが、それは用心深いよりはましだ。
プログラム後半はベルリオーズの《幻想交響曲》。楽曲はまとめるのが難しい作品であり、小澤氏も常に成功したわけではない。彼はほとんどの時間、リラックスすることなく常に緊張感を保ち、頻繁に訪れるクライマックスは壮大というよりは騒々しく聞こえがちだった。それでも、彼の指揮には力強さがあり、音楽に対する真の感覚が感じられた。欠点は未熟さというよりも、むしろ経験不足に起因すると言えるだろう。』1967年4月6日 ハロルド・C・ショーンバーグ著
ニューヨーク・タイムズ・アーカイブより要約
・6月27日-8月16日ラヴィニア音楽祭シカゴ交響楽団を指揮
6月27日,29日,7月1日,9日,13日,16日,30日,8月8日,10日,12日,15日
6月27日ラヴィニア音楽祭
グルック《オーリードのイフィジェニー》序曲
プロコフィエフ《ピアノ協奏曲第3番》
バイロン・ジャニス(ピアノ)
モーツァルト《交響曲第41番》ジュピター」
アルベルト・ヒナステラ《エスタンシア》バレエ組曲
小澤征爾 シカゴ交響楽団
↓ アルベルト・ヒナステラ バレエ組曲《エスタンシア》
ライヴ録音
・7月7,8日ニューヨーク・フィルを指揮
オネゲル《火刑台上のジャンヌ・ダルク》
ヴェラ・ゾリーナ(女優)
マイケル・ウェイガー(俳優)
リリアン・スーキス(ソプラノ)
小澤征爾 ニューヨーク・フィルハーモニック
フィルハーモニック ホール、マンハッタン
https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/cf98420a-f4e5-4c64-a92e-b2227fb7599d-0.1/fullview#page/1/mode/2up
・7月9日ラヴィニア音楽祭
バッハ《ブランデンブルク 協奏曲第6番》
ブロッホ《協奏曲グロッソ第1番》
マリー・ザウアー(ピアノ)
シモンズ《ジャズ五重奏団とオーケストラのための協奏曲》
ケニー・ソダーブロム・ジャズ五重奏団
ケニー・ソダーブロム(アルトサックス)
ジョン・アヴァント(トロンボーン)
Bobby Roberts,(guitar)
ハロルド・ジョーンズ(ドラム)
八代秋雄《チェロ協奏曲》
堤剛(チェロ)
小澤征爾 シカゴ交響楽団
・7月18日シカゴ交響楽団と録音
ムソルグスキー《展覧会の絵》ラヴェル編曲
ブリテン《青少年のための管弦楽入門》
小澤征爾 シカゴ交響楽団
↓ ムソルグスキー《展覧会の絵》キエフの大門
・7月22日タングルウッド音楽祭でボストン交響楽団を指揮
メンデルスゾーン《フィンガルの洞窟》序曲
武満徹《弦楽オーケストラのためのレクイエム》
ジェルジ・リゲティ《管弦楽のためのアトモスフェール》
ベルリオーズ《幻想交響曲》
小澤征爾 ボストン交響楽団
タングルウッド – シェッド
・8月サラトガ音楽祭
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「ペトルーシュカ」1947年版
小澤征爾 フィラデルフィア管弦楽団
ライブ録音
・8月1,3,5,6日ニューヨーク・フィルを指揮
ヴェルディ:オペラ《運命の力》序曲
バーンスタイン《交響曲第一番》「エレミア」
ベルリオーズ《幻想交響曲》作品14
ジェニー・トゥーレル(S.)
小澤征爾 ニューヨーク・フィルハーモニック
セントラル パーク シープ メドウ マンハッタン
https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/5fe27fc4-cedd-4d54-ad78-40408d3b48a6-0.1/fullview#page/1/mode/2up
・8月15日ラヴィニア音楽祭
シカゴ・ピカソの献呈式、
ガーシュイン《パリのアメリカ人》
バーンスタイン《キャンディード》序曲、
バーンスタイン《ウエストサイド物語》「シンフォニックダンス」から抜粋
小澤征爾 シカゴ交響楽団
シビックセンタープラザ(現リチャード・J・デイリーセンター)
・帰国
・9月7日民音定期演奏会で日本フィルを指揮
ベルリオーズ《幻想交響曲》ほか
小澤征爾 日本フィルハーモニー交響楽団
日比谷公会堂
↓ ベルリオーズ《幻想交響曲》第5楽章
https://youtu.be/eBLrVNJ2ZxM?si=fGWqN4qQ4JKZb2Ko
・9月28日-10月10月7日〈EXPO 67参加-100周年記念ツアー〉でトロント交響楽団を指揮
9月28日カークランドレイク,29日ヘイリーベリー,30日ノースベイ,10月2日ペンブルック,3日ベルビル,5日バリー,7日ウェランド
10月15日オンタリオ(ロンドン),24日オタワ,25日ハミルトン
・10月30日11月1-3日シカゴ交響楽団と録音
シェーンベルク《ピアノ協奏曲》ほか
ピーター・ゼルキン(ピアノ)
小澤征爾 シカゴ交響楽団
・11月9,10,11,13日「ニューヨーク・フィル創立125周年」で武満徹作品の初演指揮
武満徹《ノヴェンバー・ステップス》初演 「ニューヨーク・フィル創立125周年記念委嘱作品」
鶴田錦史(琵琶)
横山勝也(尺八)
小澤征爾 ニューヨーク・フィル
ニューヨーク・リンカーン・センター フィルハーモニック・ホール(デイヴィッド・ゲフィン・ホール)
・『ノベンバーステップス、武満は当初、山荘で聴こえる自然音から、《ウォーター・リング》(水輪=みなわ)という題を考えていた。ところが、アメリカ側から「それは風呂場の浴槽の泡のことだ』と指摘された。そこで、11段(11ステップス)構成なので《イレブン》としたが、これだと深夜のテレビ番組「11PM」を連想する……そこで、11月に初演されることから、《ノヴェンバー・ステップス》と決定した。当初は東洋と西洋の融合を考えていたが、無理にそうせず、東西の“出会い”や“拮抗”をそのまま描くような音楽となった。』
『これは、ただ楽譜通りに演奏すればいいという曲ではありません。武満作品は、風や川の自然音をそのまま音楽にしたようなところがある。琵琶・尺八パートは図形楽譜で書かれており、アドリブ的な要素も多い。それとオーケストラが合わせるのですから、並大抵の難しさではないのです。なのにニューヨーク・フィルは、リハーサルに2日しかとれないという』
『そこで小澤は、その前に尺八の横山勝也さん、琵琶の鶴田錦史さん、武満徹さんがカナダに来て、小澤が音楽監督しているトロント交響楽団で徹底的に練習した。自分たちが初演するわけではないのに、トロント交響楽団のマネージャー、ウォルター・ハンバーガーに、事前練習をさせてくれないかと相談すると、快くOKしてくれた。』
『トロント交響楽団にすればニューヨーク・フィル公演のための練習台にされるわけで、そこまでぼくに付き合う必要はないわけですが、大協力してくれたんです。ほんとに感動的でした。』
●資料出典(立花隆『武満徹・音楽創造への旅』より、文藝春秋刊、2016年)
・『トロント空港で、男装の鶴田錦史が女子トイレに入ってきたので大騒ぎになる椿事もあったが、練習は順調に進み、いよいよ一行はニューヨークに乗り込んだ。小澤は3人に「何があっても驚いちゃいけないよ」と予告していた。いったい、何が起きるというのか。』
『リハーサル初日、羽織袴の鶴田・横山両氏が入ってくると、団員たちが大笑いをはじめました。中には、舞台から客席に転げ落ちて笑うものもいたそうです。このとき武満さんは心底から怒って「ギャラもいらないから、キャンセルしたい」とまで言い出すのです。小澤さんはそれをなだめ、団員たちに武満作品の意義を熱心に解説しました。その間、鶴田・横山は、ひとことも発せず、瞑想して座していた。そして小澤は、琵琶・尺八のソロを聴かせたのです。団員たちはじっと聴き入り、最後にはブラボー!となった』
『ただ、それでも帰りに武満のもとへ来て「しょうがないから演奏するが、おれはこんな音楽は大嫌いだ」と言い捨てていく団員がいたという。』
『小澤・武満も必死だったが、鶴田・横山も命がけだった。11月のニューヨークは極端に乾燥している。湿気の多い日本の気候に合う木製の琵琶や尺八など、すぐに割れてしまう。横山は濡れタオルで尺八を包んで守った。鶴田に至っては、自然の湿気を求めて白菜を楽器ケースのなかに入れていた。ニ人は、そこまでして初演に臨んでいたのだ『』
横山の回想『初演が成功したら、私は死んでもいいと思っていました。神様が私の命を召すとおっしゃるならば、召されて結構ですから初演を成功させてくださいってね。初演前に四方拝ですよ。相談したわけでもないのに、鶴田さんも四方拝をしたそうです。鶴田さんもほんとうに命がけなんだなと思いました』
●資料出典『武満徹を語る15の証言』より、小学館刊、2007年
・11月9日『初演の日、静かなオーケストラパートの後、二人のカデンツァが始まった。小刻みに震える尺八に、切っ先鋭い琵琶、ニューヨーク・フィルの連中が息を詰めて耳を澄ませている。指揮台の僕も興奮が収まらない。最後の尺八の音が消えた後、客席から「ブラヴォー!」の歓声がわいた。大成功だった。』
この初演は大成功を収め、武満の名が世界に知られる契機となった。
小澤によると客席にはレナード・バーンスタインの他に、アーロン・コープランドやクシシュトフ・ペンデレツキらも同席していて、大絶賛してくれた。バーンスタインに至っては「何という強い生命の音楽だ」と泣き出し絶賛したという。
↓ 小澤征爾&小澤幹雄:対談「ノヴェンバー・ステップスについて」
翌日のニューヨーク・タイムズ紙も「タケミツは欧米の作曲家より洗練されている」「ツルタの琵琶は威厳がある。ヨコヤマの尺八は芳醇な音色で、NYフィルのフルート奏者も嫉妬したのでは」との好評を掲載した。
・小澤は語る『前年の1966年僕は、武満徹さんの《蝕(エクリプス)》を日生劇場で初めて聴いた時は寒気がするほど感動した。琵琶と尺八が語り合い、叫び合う。日本の「間」や東洋の静けさがあった。
その後、アメリカに戻った僕はバーンスタインにいかにそれが素晴らしかったかを説いた。
バーンスタインはニューヨーク・フィル創立125周年を記念し、黛敏郎さんに曲を委嘱しようとしていたらしい。だが、僕の話を聞いて武満さんに決め、初演の指揮を僕に任せた。黛さんには悪いことをしたが、それで生まれたのが琵琶と尺八とオーケストラのための《ノヴェンバー・ステップス》だ。
この曲は武満さんの傑作中の傑作だ。西洋と日本の音楽が一体になって、真の音楽を生み出している。ニューヨーク・フィルの練習では、聴き慣れない尺八の音に笑い出す楽員がいた。カーッと来て怒ったが、次第に全員が演奏に心を込めるようになった。横山さんと鶴田さんの真剣勝負に触れたからだと思う。
『演奏開始までは、なんとなくざわついていた客席も、音楽の美しさに引っ張られ、すぐに静まりかえった。終演後はブラボーの嵐となった。四人は何度もカーテンコールに呼び出される(横山はあまりの緊張と消耗で、血尿が出ていた)。
・「アメリカ人にとっては、初めて見る楽器、初めて聴く音色ですから、先入観なく接することができたのだと思います。しかし、やはり日本人には、違和感をおぼえるひともいたようです」
『そのひとりが、永六輔だった。』
武満の回想『彼はたまたまニューヨークに来ていて、聞きにきたらしいんです。その感想をどこかに書いていたんですが「気持ち悪かった」というんです。着物を着た人が燕尾服を着たオーケストラの前に出てきて、「ベーン」と音を出すのを聞いたら、気持ち悪くて鳥肌が立ったというようなことを書いていた。ぼくは自分でも、とんでもなく変なことをしてしまったのではないかと思っていたところだったので、その感じがよくわかるんです。』
●資料出典(武満徹・音楽創造の旅)より
鶴田錦史(1911~1995)は、旧名・鶴田菊枝。大正から昭和にかけて、琵琶の天才少女として大活躍した。一時は500人もの弟子をかかえ、結婚して子供もニ人もうけた。
尺八の横山勝也(1934~2010)は、映画「暗殺」で、武満と出会った。横山は、画面を観ながら、すべてを即興で演奏。武満は一発OKを出す。
・12月7-9日トロント交響楽団を指揮して録音
武満徹《ノヴェンバー・ステップス》
メシアン《トゥランガリラ交響曲》
小澤征爾 トロント交響楽団
《トゥランガリラ交響曲》は、メシアンたっての頼みだった。でも、長い難しい曲だから弾く方は大変だ。練習時間が長くなる分、報酬がかさむからオーケストラの経営にも負担がかかる。マネージャーのハンバーガーがよく承知してくれたと思う。
・トロントではピアニストのグレン・グールドとも親しくなり、共演しようという話になった。放送局で演奏し、録音もする計画だ。何度も打ち合わせして、ちょっと変わった良いプログラムができあがった。現代曲や、バッハのチェンバロ曲をピアノで弾くのとか。なのに直前になってグレンが「嫌だ」と言って立ち消えに。そのくせ、変わらず平気な顔で僕と酒を飲んでいる。変わった男だった』
・12月23日日本フィル第151回東京定期演奏会を指揮
ブラームス《交響曲第二番》
武満 徹《樹の曲》
エルガー《エニグマ》
日本フィルハーモニー交響楽団
東京文化会館
・12月26日日本フィル第131回東京定期演奏会を指揮
ベルリオーズ《レクイエム》
東京混声合唱団
東京放送合唱団
二期会合唱団
日本合唱協会
藤原歌劇団合唱部
日本フィルハーモニー交響楽団
東京文化会館
・12月28日 成城学園創立50周年記念音楽会で指揮
ハイドン《四季》
日本フィルハーモニー交響楽団
東京厚生年金会館
1967年 録音
↓ ベルリオーズ《幻想交響曲》Ⅰ. 「夢、情熱」
小澤征爾 トロント交響楽団
↓ ベルリオーズ《幻想交響曲》III. 「野の風景」
小澤征爾 トロント交響楽団
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1967年演奏会記録
1967年演奏会記録
1968年(昭和43年)33歳
・1月26日シンフォニーホールで初のボストン交響楽団を指揮してシンフォニーホール・デビュー。
1月27日ボストン,29日ハートフォード,31日ニューヨーク,2月1日ブルックリン,2月2日ニューヨーク,6‐7日ボストン
・1月26日
グルック《アウリスのイフィゲニア》序曲
編曲:リヒャルト・ワーグナー
バーンスタイン《交響曲第2番》「不安の時代」
高橋悠治(ピアノ)
オットー・ヨアヒム《オーケストラのためのコントラスト》
ラヴェル《ダフニスとクロエ》組曲第2番
小澤征爾 ボストン交響楽団
シンフォニーホール ボストン
・↓ オットー・ヨアヒム《オーケストラのためのコントラスト》
・3月25-28日トロント交響楽団を率いてミシガンツアー
3月25日ベイシティ,26日サギノー,27日フリント,28日アナーバー)
・4月29日シカゴ交響楽団を指揮
バーンスタイン《キャンディード》序曲
ブラームス《交響曲第1番》第4楽章
マスカーニ《カヴァレリア・ルスティカーナ》より
「ママも知るとおり」
グレース・バンブリー(ソプラノ)
ポンキエッリ《ジョコンダ》第4幕より「自殺」
グレース・バンブリー(ソプラノ)
小澤征爾 シカゴ交響楽団
オーケストラ・ホール
・6月12,13日ベルリン・フィルを指揮
ベートーヴェン《プロメテウスの創造物》序曲
モーツァルト《ピアノ協奏曲》K.503
ダニエル・バレンボイム(ピアノ)
マーラー《交響曲第1番》「巨人」
小澤征爾 ベルリンフィルハーモニー
ベルリン フィルハーモニーザール
・6月27日-8月10日ラヴィニア音楽祭シカゴ交響楽団を指揮
6月27日,29日,30日,7月2日,6日,7日,8月3日,4日,6日,8日(A・B)
6月27日ラヴィニア音楽祭
ワーグナー《ニュルンベルクのマイスタージンガー
へ》前奏曲
ベートーヴェン《交響曲第七番》
ベルリオーズ《ローマの謝肉祭》序曲
コープランド《荘厳な儀式のための序言》
マリアン・アンダーソン(語り)
ストラヴィンスキー《火の鳥》組曲
小澤征爾 シカゴ交響楽団
・7月1日シカゴ交響楽団と録音
ストラヴィンスキー《春の祭典》
小澤征爾 シカゴ交響楽団
・↓ ストラヴィンスキー《春の祭典》第1部:大地への崇拝(円形の踊り)
・7月26日ザルツブルク音楽祭:歌劇《ドン・ジョヴァンニ》でカラヤンのアシスタントを務め、シンフォニーとオペラは車の両輪、どちらも必要と助言をうけた。出演したミレッラ・フレーニからチャイコフスキーのオペラを指揮するよう勧められたという。
キャスト
ドン・ジョヴァンニ:ニコライ・ギャウロフ
ドナ・アンナ:グンドゥラ・ヤノヴィッツ
ドナ・エルビラ:テレサ・ザイリス・ガラ
ツェルリーナ:ミレッラ・フレーニ
ドン・オッタヴィオ:アルフレッド・クラウス
マセット: ロランド・パネライ
レポレロ:ゲラント・エヴァンス
騎士団長:マルティ・タルヴェラ
ウィーン国立歌劇場合唱団
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
小澤征爾 アシスタント
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
『僕が習った斎藤秀雄先生はオペラをまったくやらなかった。だから僕は一度も教わっていないし、オペラのオの字も知らなかった。』
・8月10日小澤征爾は、ラヴィニア音楽祭音楽監督退任を発表した
退任挨拶『ラヴィニアは私を音楽監督に招いてくれた最初の組織です。皆さんが私を信頼してくれなかったら、私は今頃キャリアを積んでいなかったと思います。シカゴ交響楽団は私が指揮した中で最も偉大なオーケストラの一つであり、ここで経験した音楽の栄光ほど素晴らしいものはありません』と語った。
退任時に名誉音楽監督に任命された。
彼は1968年シーズンまでラヴィニア音楽祭の音楽監督を務め、1969年シーズンには首席指揮者を務め、その後も定期的に客員指揮者として出演した。小澤が最後にこの音楽祭に出演したのは1985年7月14日で、モーツァルトの「ピアノと管弦楽のためのロンド ニ長調」と武満徹の「リヴァーラン」を指揮し、さらに ピーター・ゼルキン と 共演したほか、チャイコフスキーの「悲愴 」交響曲を演奏した。
・9月3日日本フィル第164回東京定期演奏会を指揮
ベートーヴェン《ピアノ協奏曲第三番》
松浦豊明(ピアノ)
ベートーヴェン《交響曲第四番》
ベートーヴェン《合唱幻想曲》
ソプラノ:佐野順子(S.)
ソプラノ:大川隆子(S.)
アルト:宮崎博子(A.)
テノール:唐津東流(T.)
テノール:山形忠顕(T.)
木村俊光(br.)
都民合唱団
三友合唱団
小澤征爾 日本フィルハーモニー
東京文化会館
・9月ロシア系 アメリカ人の入江美樹(日本のモデル、女優、ファッションデザイナー)と結婚して小澤ヴェラとなる。入江は結婚後はファッションデザイナーとして活動し、レディスブランド「ザ・ギンザ・バイ・ミズ・ヴェラ」などを手がける。
征爾との間に生まれた長女の小澤征良はエッセイスト、長男の小澤征悦は俳優となった。
・10月22-23日トロント交響楽団を指揮
ホアキン・ロドリゴ《アランフェス協奏曲》初演
ジュリアン・ブリーム(ギター)
小澤征爾指揮のトロント交響楽団により2回公演された。
マッセイ・ホール
・12月1-6日トロント交響楽団を指揮
1日ボストン,2日バーリントン,3-4日モントリオール、6日オタワ
・↓ メシアン《トゥランガリラ交響曲》
イヴォンヌ・ロリオ(ピアノ)
ジャンヌ・ロリオ(ピアノ)
トロント交響楽団
・メシアン《トゥーランガリラ交響曲》トロント交響楽団のアルバムがグラミー賞のクラシック部門「ベスト・オペラ・レコーディング」にノミネートされた。
・12月25日日本フィル第171回東京定期演奏会を指揮
ベートーヴェン《交響曲第九番》「合唱」
斎藤江美子(S.)
木村宏子(A.)
鈴木寛一(T.)
川村英司(Br.)
藤原歌劇団合唱部
東京混声合唱団
二期会合唱団
日本合唱協会
東京カンマー・コーア
小澤征爾 日本フィルハーモニー
東京文化会館
・↓ ロンドン交響楽団と録音
ホアキン・ロドリーゴ《アランフェス協奏曲》
ジュリアン・ブリーム(ギター)
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1968年演奏会記録
1968年演奏会記録
1969年(昭和44年)34歳
・2月13日-3月10日ニューヨーク・フィルの定期演奏会を四週間にわたり14公演を指揮した。
2月13,14,15,17,20,21,22,24,27日,3月1,3,6,7,10日
2月13日
ベルリオーズ《レクイエム》
レオポルド・シモノー(テノール)
The Collegiate Chorale(合唱)
小澤征爾 ニューヨーク・フィル
フィルハーモニック ホール、マンハッタン
https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/fa644f08-c8fe-4ff9-ad6c-f6e2c7e3dedb-0.1/fullview#page/1/mode/2up
・2月28日ニューヨーク・フィル学生コンサートを指揮
モーツァルト《交響曲第36番》「リンツ」
ヤニス・クセナキス《エオンタ》
バルトーク《管弦楽のための協奏曲》
高橋悠治(ピアノ)
小澤征爾 ニューヨーク・フィル
フィルハーモニック ホール、マンハッタン
https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/12b7ff75-5149-4009-909f-25e67ef4bf6e-0.1/fullview#page/1/mode/2up
・4月4日-23日トロント交響楽団日本ツアーを指揮
日程:4月14,15,16日大阪,18名古屋,19,20,21,23日東京
・4月14日 トロント交響楽団日本ツアー
モーッアルト《交響曲第36番》「リンツ」
ベルリオーズ《幻想交響曲》
小澤征爾 トロント交響楽団
大阪フェスティバルホール
・4月15日 トロント交響楽団日本ツアー
R・シュトラウス:交響詩《ドン・ファン》
フリードマン《タンジェンツ》
チャイコフスキー《交響曲第4番》ヘ短調
小澤征爾 トロント交響楽団
大阪フェスティバルホール
・4月16日 トロント交響楽団日本ツアー
プロコフィエフ《ロメオとジュリエット》より
武満徹《ノーヴェンバー・ステップス》
ベートーベン《交響曲第五番》
小澤征爾 トロント交響楽団
大阪フェスティバルホール
・4月18日 トロント交響楽団日本ツアー
ワーグナー《ニュルンベルクのマイスタージンガー》第1幕前奏曲
モーッアルト《交響曲第36番》「リンツ」
ベルリオーズ《幻想交響曲》
小澤征爾 トロント交響楽団
名古屋
・4月19日 トロント交響楽団日本ツアー
プロコフィエフ《ロメオとジュリエット》より
武満徹《ノーヴェンバー・ステップス》
ベートーベン《交響曲第五番》
小澤征爾 トロント交響楽団
東京文化会館
・4月20日 トロント交響楽団日本ツアー
R・シュトラウス交響詩《ドン・ファン》
フリードマン《タンジェンツ》
チャイコフスキー《交響曲第4番》
小澤征爾 トロント交響楽団
東京文化会館
・4月21日 トロント交響楽団日本ツアー
武満徹《グリーン》
ベートーベン《交響曲第五番》
チャイコフスキー《交響曲第5番》
小澤征爾 トロント交響楽団
日本武道館
・4月23日 トロント交響楽団日本ツアー
小澤征爾 トロント交響楽団
東京
・4月27日-5月1日月トロント交響楽団東部米国ツアーを指揮
4月27日ニューヨーク、28日ロングアイランド、29日フィラデルフィア、5月1日ニューヨーク
・5月21日日本フィル第180回東京定期演奏会を指揮
モーツァルトのオペラ《コジ・ファン・トゥッテ》 K.588 (演奏会形式)
ソプラノ:林 康子
メゾソプラノ:木村宏子
バリトン:平野忠彦
テノール:中村 健
ソプラノ:安田祥子
バス:佐藤征一郎
チェンバロ:小林道夫
東京混声合唱団
日本フィルハーモニー交響楽団
東京文化会館
・5月28日日本フィル第181回東京定期演奏会を指揮
マーラー《交響曲第1番》「巨人」
G. ガブリエリ《ピアノとフォルテのソナタ》
高橋悠治《オルフィカ》
小澤征爾 日本フィルハーモニー交響楽団
東京文化会館
・6月トロント交響楽団音楽監督退任。退任時に名誉音楽監督に任命された。
この年トロント響音楽監督最後の年度であった。征爾は桐朋の後輩秋山和慶をトロント響の副指揮者に呼んでいた。
小澤は、1964年同楽団に客演指揮で成功を収め、翌年音楽監督に就任。征爾の就任に伴い定期会員数も大幅に増え、1965年にはトロント市議会が助成金を37,500ドルから43,500ドルに引き上げ、CBCカナダ放送協会も放送料金を5,500ドル値上げするなど征爾の経済効果が出た。
・渡邊暁雄の後をうけ日本フィルの首席指揮者兼音楽アドヴァイザーに就任。
・6月シカゴ響と録音。
・ロンドンでニュー・フィルハーモニア管弦楽団の客演指揮。
・6月20,21日ベルリン・フィルを指揮者
ハイドン《交響曲第68番》
グラズノフ《ヴァイオリン協奏曲》
ミシェル・シュヴァルベ(ヴァイオリン)
武満徹《グリーン》ヨーロッパ初演
ヒナステラ:バレエ音楽《エスタンシア》より舞曲
小澤征爾 ベルリンフィルハーモニー
ベルリン フィルハーモニーザール
・6月26日-7月6日ラヴィニア音楽祭でシカゴ交響楽団を指揮
6月26,28,29日,7月3,5,6日
6月26日ラヴィニア音楽祭
ベートーヴェン《ピアノ協奏曲 (ヴァイオリン協奏曲より編曲)
ピーター ゼルキン(ピアノ)
バルトーク《管弦楽協奏曲》
小澤征爾 シカゴ交響楽団
ザルツブルク音楽祭にカラヤンの推薦を受けオペラ《コジ・ファン・トゥッテ》を指揮するために、ラヴィニア音楽祭の音楽監督ポストを返上したが六公演に登場した。1969-1970年首席指揮者に任命され、その後も客演した。としてその後の六公演に登場した。
・7月28日,8月6,11,17,22,26日ザルツブルク音楽祭オペラ・デビュー
モーツァルト:歌劇《コジ・ファン・トゥッテ》
小澤征爾 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
カラヤンの推薦だった。
・8月20日ー9月21日ニューヨーク・フィルのアメリカ横断ツアーで11都市で18公演を指揮した。
8月20日ニュー・ヘイブン、8月30,31日チェスターヒルズ、9月2,3日サンフランシスコ、4,6日ハリウッド、7日サンタバーバラ、9,10,11,13,14日アイオワ、16日ウィートン、18日マディソン、19日ミルウォーキー、20日イリノイ、21日アナーバー
8月20日 アメリカ横断ツアー
グリンカ《ルスランとリュドミラ》序曲
ベートーヴェン《ピアノ協奏曲第三番》
チャイコフスキー《交響曲第4番》
グラント・ヨハネセン(ピアノ)
小澤征爾 ニューヨーク・フィル
イェール ボウル、ニュー ヘブン、コネチカット州
https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/433440ce-12c4-43f8-95d7-faff875c4be4-0.1/fullview#page/1/mode/2up
↓ 8月30,31日 アメリカ横断ツアー 動画
《ビアノ協奏曲》第3番
アンドレ ワッツ ピアノ
小澤征爾 ニューヨーク・フィルハーモニック管弦楽団
↓ 9月20日 アメリカ横断ツアー 動画
ラフマニノフ《ピアノ協奏曲第3番》
アンドレ・ワッツ(ピアノ)
小澤征爾 ニューヨーク・フィルハーモニック管弦楽団
・9月23日ニューヨーク・フィルのシーズン・オープニング・ナイトを指揮し、その後六週間10月末まで同フィルを振り続けた。
・9月23,25,26,27,29日、10月2,3,4,6,9,10,11,13,16,17,18,20,23,27,30,31日
↓ 9月25日
シューマン「ピアノ協奏曲 イ短調 作品54」
アリシア・デ・ラローチャ(ピアノ)
小沢征爾 ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団
・10月24日ニューヨーク・フィル学生コンサート
メンデルスゾーン《交響曲第四番》「イタリア」
エドゥアール・ラロ《チェロ協奏曲》
ジェルジ・リゲティ《アトモスフェール》
スクリャービン《交響曲第五番》「プロメテウス-火の詩」
ローン・マンロー(チェロ)
ポール・ジェイコブス(ピアノ)
小澤征爾 ニューヨーク・フィル
フィルハーモニック ホール、マンハッタン
https://archives.nyphil.org/index.php/art
・11月クリーヴランド管弦楽団の定期演奏会で客演指揮。
・11月13日-25日ボストン交響楽団を客演指揮
11月13,14,15,18,20,21,22,25日
↓ 11月13日
カール・オルフ《カルミナ・ブラーナ》
・ボストン交響楽団と初録音RCAビクター・レーベル
オルフ《カルミナ・ブラーナ》
ストラヴィンスキー《「ペトルーシュカ》
ストラヴィンスキー《火の鳥組曲》
小澤征爾 ボストン交響楽団
シンフォニーホール
・帰国
・12月11日 日本フィル第190回東京定期演奏会 東京文化会館で指揮
武満 徹:《グリーン》
バルトーク《管弦楽のための協奏曲》 Sz.116
チャイコフスキー《交響曲第一番ト短調》 op.13 《冬の日の幻想》
・12月18日日本フィル第191回定期演奏会 東京文化会館で指揮
ベートーヴェン《ミサ・ソレムニス》
ソプラノ:伊藤京子
アルト:戸田敏子
テノール:藤沼昭彦
バリトン:芳野靖夫
東京混声合唱団,東京放送合唱団,二期会合唱団,日本合唱協会
・12月パリ管弦楽団の定期演奏会指揮デビュー
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1969年演奏会記録
1969年演奏会記録
1970年35歳
・1月16日日本フィル第192回東京定期演奏会 東京文化会館
バーンスタイン《チチェスター詩篇》 (日本初演)
バーンスタイン《交響曲第3番》「カディッシュ」(日本初演)ほか指揮
・1月27日日本フィル第193回東京定期演奏会 東京文化会館
ストラヴィンスキー:バレエ音楽《春の祭典》ほかを指揮
・小澤は1970年から1996年まで客演指揮者おしてトロント交響楽団に戻り、マッセイホール、オンタリプレイス、ロイトムソンホールで22回のコンサートを指揮した。
・<小澤征爾トロント交響楽団タイムライン>
〇1965年にサスキンドがオーケストラとの10年間の付き合いを終えて辞任したとき、運勢はすでに好転し始めていた。カナダ オペラ カンパニーとの新しい協力協定により、晩夏から初秋 の雇用が決まり、この取り決めは 1976年まで続いた。指揮者に小澤征爾 (1935年9月1日、日本人の両親のもと満州生まれ) が任命されると、購読料は劇的に増加した。1965年、トロント交響楽団は、ワルター・サスキンドの後任として小澤を同楽団史上4人目の音楽監督に任命し小澤征爾が第4代音楽監督に就任し、大成功を収めた。小澤は、生涯の師であるレナード・バーンスタインのもと、ニューヨーク・フィルハーモニックで2度目の副指揮者としての任期を終えたばかりだった。
『私が着任したのは、CBC交響楽団とトロント交響楽団が合併した直後でした。私にとっても演奏者にとっても、すべてが新鮮でした』と小澤は1990年代にグローブ・アンド・メール紙にトロント交響楽団の演奏者数名で構成されていたCBCグループについて言及している。
〇トロント交響楽団は1965年にカナダ代表としてコモンウェルス芸術祭にスコットランドのグラスゴーを訪れた指揮者就任当初のトロント市庁舎新館のグランドオープンで演奏は同組織の公共性を示す象徴となった。
〇日本の巨匠、小澤征爾がTSOを指揮し、短いながらも注目すべき在任期間を過ごした。その中には、1967年の画期的なメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」の録音も含まれる。アイヴズ(交響曲第4番)やメシアン(トゥーランガリラ交響曲)など、新しい作曲家の作品をトロントの聴衆に紹介する上で重要な役割を果たした。
〇小澤の在任中、トロントのオーケストラ音楽は新鮮な風合いを帯びた。ダイナミックなスタイルで、時には大胆なテイストの彼は、アイヴズ(交響曲第4番、難解な単独指揮者版)やメシアン(トゥーランガリラ、後に録音)などの作曲家の作品など、新しい作曲家の作品をトロントの聴衆に紹介する上で重要な役割を果たした。
〇1967年カナダ建国100周年では、創立100周年を記念して、オーケストラはオットー・ヨアヒムとルイジ・ノーノに特別に委嘱された曲を演奏した。小澤のトロント滞在は短かったが、オーケストラと聴衆に良い影響を与えた。
〇1967年9月30日EXPO 67参加-100周年記念ツアーを指揮した。
〇小澤は、その輝かしいキャリアの初期の、まだ形成期にあった時期にトロント交響楽団を指揮したが、彼の後継者は、並外れて幅広い経験を持つ著名なヨーロッパの指揮者であった。
〇1969年には小澤自身の母国である日本へのより広範囲なツアーが行われた。このツアーと、指揮者が日本の現代作品、特に武満徹の作品を重視したことから、トロントの音楽的嗜好、特に打楽器演奏と作曲に顕著な影響が見受けられる。
〇小澤とトロント交響楽団は、グラスゴーのコモンウェルス芸術祭でもカナダ代表として参加し、1967年にはモントリオールで開催されたエキスポ67の文化プログラムにも参加した。
〇1967年当時、国際舞台で活躍する非白人の音楽家はほとんどいなかった。批評家のハロルド・C・ショーンバーグは1967年の著書『偉大な指揮者』の中で、若い指揮者の地位の変化を指摘し、小澤とインド生まれのズービン・メータが「総合的に見て優れた才能として印象づけた」最初のアジア人指揮者であると書いている。
〇「トロントで指揮したすべてのレパートリーは、人生で初めてでした。チャイコフスキー、ベートーベン、マーラー、すべてです」と小澤は1996年にグローブ紙に語った。「観客は素晴らしく、忍耐強く、とても協力的でした。」
〇彼は1970年からサンフランシスコ交響楽団で同様の役職に就き、その後ボストンで最大の功績を残した。
・5月小澤は、タングルウッド音楽センター所長のギュンター・シュラーと総合顧問のレナード・バーンスタインとともに、ボストン交響楽団のバークシャー音楽祭(タングルウッド)芸術顧問に任命された(1970~2002年)。以降、ボストン交響楽団との親交が深まる。
・5月31日 ウィーン音楽祭週間
ゴットフリート・アイネム《ヴァイオリン協奏曲》
ルッジェーロ・リッチ(ヴァイオリン)
ブラームス《ヴァイオリン協奏曲交響曲第2番》
小澤征爾 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
ウィーン楽友協会
・6月4,5日ベルリン・フィル定期演奏会を指揮
・帰国
・6月11日日本フィル第202回定期演奏会を指揮
・6月17日日本フィル第203回東京定期演奏会 東京文化会館
マーラー《交響曲第八番》変ホ長調 「千人の交響曲」を指揮
・6月25,27,28日ラヴィニア音楽祭でシカゴ交響楽団を指揮
篠原 眞:オーケストラのための《ヴィジョンⅡ》 (日本フィル・シリーズ第22作)
ヤナーチェク《シンフォニエッタ》
ブルックナー《交響曲第四番》 変ホ長調 WAB104「ロマンティック」
・7月3-23日タングルウッド音楽祭でボストン交響楽団を指揮
7月3,4,11日2公演(夜のみ歌劇《コジ・ファン・トゥッテ》),12,16,17,18,22日2公演(夜のみベルリオーズ《レクイエム》),23日
・7月28日,8月7, 17,26日ザルツブルク音楽祭
モーツァルト:歌劇《コジ・ファン・トゥッテ》
小澤征爾 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
フェルゼンライトシューレ
・8月2日ザルツブルク音楽祭でベルリン・フィルを指揮
・8月31日‐9月10日ニューヨーク・フィルの大阪万博出演のためバーンスタインに同行し帰国
・8月31日ニューヨーク・フィル日本ツアー
メンデルスゾーン《交響曲第四番》op.90「イタリア」
武満徹《ノヴェンバー ステップス》No.1 鶴田錦史(琵琶)、横山 勝也(尺八)
ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲《展覧会の絵》等を指揮
フェスティバルホール、大阪
https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/c478ac5f-2a7c-42a6-959a-38393fa6d191-0.1/fullview#page/1/mode/2up
・9月8日ニューヨーク・フィル日本ツアー
メンデルスゾーン《交響曲第四番》op.90「イタリア」
武満徹《ノヴェンバー ステップス》No.1 鶴田錦史(琵琶)、横山 勝也(尺八)
ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲《展覧会の絵》等を指揮
東京文化会館
https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/c478ac5f-2a7c-42a6-959a-38393fa6d191-0.1/fullview#page/1/mode/2up
・9月10日ニューヨーク・フィル日本ツアー
メンデルスゾーン《交響曲第四番》op.90「イタリア」
武満徹《ノヴェンバー ステップス》No.1 鶴田錦史(琵琶)、横山 勝也(尺八)
ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲《展覧会の絵》等を指揮
富士学園ホール、札幌
https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/c478ac5f-2a7c-42a6-959a-38393fa6d191-0.1/fullview#page/1/mode/2up
・9月16-20日ニューヨーク・フィルを指揮
9月16,17日ノースカロライナ,18日アトランタ,19日サウスカロライナ,20日シャーロット
・10月6日ベルリン・フィルを指揮
・11月5-18日ボストン交響楽団を指揮
11月5,6,7,10,12,13,14,17,18日ボストン シンフォニーホール
・11月21日父小澤開作の急逝
小澤の招待で12月1日のサンフランシスコ交響楽団指揮者就任式とオープニングコンサートに夫婦揃って行く予定で渡航の準備をしていたが、自宅で心臓発作が起こり逝去。
墓地は東京都西多摩郡秋川の霊園。
・12月1日サンフランシスコ交響楽団指揮者・音楽監督就任(1970年12月~1976年)
小澤は1970年にサンフランシスコ交響楽団の首席指揮者に就任し1976年までその職を務めた。
1972年にはフィリップスと契約してレコードの録音を開始し、小澤とサンフランシスコ交響楽団は世界的に名を馳せるようになった。サンフランシスコ交響楽団はそれまでアルバムを録音したことがほとんどなかったため、小澤のレコード活動は同楽団にとって大きな飛躍の契機となった。また、1973年には小澤とサンフランシスコ交響楽団がヨーロッパ・ツアーを率いており、サンフランシスコでの時間は小澤自身とオーケストラの名声を世界に広める機会となった。しかし、1973年にボストン交響楽団の音楽監督に就任した後、1974年に日本人ファゴット奏者の採用をぐってオーケストラと対立することになる。
・12月2-31日サンフランシスコ交響楽団シーズン・オープニング・コンサートをウォー・メモリアル・オペラで指揮。
12月2,3,4,9,10,11,30,31日
↓
小澤征爾物語シリーズ‐1970年演奏会記録
1970年演奏会記録